TaruDalmia

2019年09月10日

ダラヴィが舞台のタミル映画"Kaala"の音楽はヒップホップ!そしてアンチ・カーストあれこれ!


先日の『ガリーボーイ』ジャパン・プレミアの興奮も醒めやらぬ10月8日、大型台風が接近する中、キネカ大森で開催中のIndian Movie Week(IMW)に、タミル映画"Kaala"(『カーラ 黒い砦の闘い』という邦題がつけられている)を見に行ってきた。

この映画は、『ガリーボーイ』の舞台にもなったムンバイ最大のスラム「ダラヴィ」に君臨するタミル人のボス「カーラ」が、スラムの再開発計画を進めるナショナリズム政治家と戦う物語だ。
ムンバイが位置するマハーラーシュトラ州はマラーティー語が公用語だが、ダラヴィには南部タミルナードゥ州からの移住者が多く暮らしていて、7万人の人口のうち約3分の1がタミル語を話しているという統計もある。
映画に出てくる政党は、地元の有力政党「シヴ・セーナー」や、ヒンドゥー・ナショナリズム政党と言われるモディ首相の「インド人民党」のような実在の政党がモデルになっているようだ。
シヴ・セーナーはヒンドゥー至上主義だけでなく、マラーティー・ナショナリズム(マハーラーシュートラの人々のナショナリズム)の政党と言われており、実際に南インドからの移住者やムスリムを排斥する傾向にある。
ダラヴィでは人口の3割がムスリムであり(ムンバイ全体では13%)、 6%ほどのクリスチャンも暮らしているから、当然、こうしたナショナリズム的な思潮とは対立することになる。
つまり、この映画はナショナリズムを標榜する支配者(「ピュアなムンバイ」を標榜している)と、多様性のある大衆の対決を描いた、世界的に見てもなかなかにタイムリーなテーマの作品というわけだ。

主演はタミル映画界の「スーパースター」ラジニカーント。
メインの客層が映画の舞台ムンバイから離れたタミルナードゥ州(タミル語を公用語とする)の人々だとはいえ、ここまで現実をリアルに反映した映画を、当代一の人気俳優を主演に制作できるというのはけっこう凄いことだ。
監督はPa Ranjithで、公開は『ガリーボーイ』より8ヶ月ほど早い2018年6月だった。

音楽ブログであるこの「アッチャー・インディア」として注目したいのは、なんといってもこの映画で使われている楽曲だ。
この映画のサウンドトラックには、「ダラヴィのスヌープ」(見た目で分かるはず)ことStony Psykoを擁するヒップホップユニットDopeadeliczが大々的に参加している。

90年代のプリンスを彷彿とさせるファンキーかつド派手な"Semma Weightu"は、いかにもタミル映画らしいケレン味たっぷりの映像とラッパーたちのストリート感覚が不思議と融合。


(どういうわけか素晴らしいミュージックビデオがYouTubeから削除されてしまっていたので、音源だけ貼り付けておく)
 
最初のヴァースのリリックは、主人公を称えるいかにも映画音楽的なものだが、2番では「ナマスカール(ヒンドゥーの挨拶)、サラーム(ムスリムの挨拶)と言葉は違っても…」と宗教を超えた団結を歌った内容で、実際に多宗教が共存するダラヴィのヒップホップシーンを思わせるところがある。

こちらはガリー感覚満載のビデオ"Theruvilakku".
タミル語のリズムに引っ張られているヒップホップビートがヒンディーラップとはまた違う独特な感じ。


いずれにしても、スラム出身のラッパーが文字通りのスーパースターの映画にフィーチャーされるというのはとんでもない大出世と言える。
Dopeadeliczのメンバーは、ミュージカルシーン以外でも、端役としてセリフも与えられており、もしヒップホップに理解のない身内がいたとしても、これで確実に黙らせることができたはずだ。

それにしても、ダラヴィが舞台となった映画のサウンドトラックに、地元のストリートラッパーが起用されたというのは意義深いことだ。
インド社会に、「ヒップホップは社会的メッセージを伝える音楽」そして、「ダラヴィの音楽といえばヒップホップ」という認識が浸透してきているからこそのことだろう。
実際、この映画のなかでも、ヒップホップ的なファッションをした若者が多く描かれており、抗議運動のシーンでもブレイクダンサーが登場するなど、ヒップホップカルチャーの普及を感じさせられる場面が多かった。

ちなみに普段のDopeadeliczのリリックのテーマのひとつは、大手資本の映画が絶対に扱わないであろう「大麻合法化」だったりする。

これはこれでヒップホップとしてはかなりクールな仕上がり。

この"Katravai Patravai"は、タミル版Rage Against The Machineと呼べそうな、ヘヴィロックとラップの融合。

この曲に参加しているYogi Bはマラヤーラム/タミル語でパフォームするマレーシア出身のラッパー(インドからの移民ということだろう)で、共演のRoshan Jamrockなる人物もマレーシアのヒップホップグループK-Town Clanのメンバーのようだ。
タミル系移民のネットワークだと思うが、興味深いコラボレーションではある。


また、この映画では、「ダリット」の権利回復というテーマも扱われている。
「ダリット」とはカースト制度の外側に位置づけられた被差別階級のこと。
ヒンドゥー教古来の価値観では「不可触民」と称されるほどに穢れた存在と見なされ、現在も様々な差別を受けている。
スラムの住民とダリットは必ずしも同一のものではないが、映画の冒頭で、ダリットの一つである洗濯屋カーストの「ドービー」が出てきたり、カーラの家で出された水に対立する政治家が口をつけないシーン(保守的なヒンドゥー教徒は、ダリットが提供した飲食物を穢れていると考えて摂取しない)が出てくるなど、カーストにもとづく階級意識が随所に登場する。
アジテーション演説で、「ジャイ・ビーム!」という掛け声(後述)が出てくるのも象徴的だ。

Pa Ranjith監督は、ダリット解放運動に非常に熱心であり、2018年にはカースト制度を否定する音楽グループ、その名もCasteless Collectiveを結成するなど、様々なスタイルでメッセージを発信し続けている。

このCasteless Collectiveはチェンナイで結成された19人組。
ガーナというタミルの伝統音楽とラップを融合した音楽性を特徴としており、いつか改めて紹介したいグループだ。

今回紹介した『カーラ』は、タミル映画特有のクドい演出も多く、そのわりにテーマは重いので、万人向けの映画ではないかもしれないが、インドのスラムや格差、階級意識などを知るのには非常に良い作品ではないかと思う。
いつもの過剰とも言えるアクション・シーンや、見得を切るシーンもふんだんに含まれているので、主演のラジニカーントのファンであれば、確実に楽しめる作品ではある。

ダラヴィのヒップホップシーンの宗教的多様性については、こちらの記事も是非読んでみてほしい。



また、『カーラ』の宗教的、社会的背景は、このIMW公式Twitterにとても詳しく解説されているので、興味のある方はこちらもどうぞ。(「タミル映画『カーラ』鑑賞に役立つ予備知識(ネタばれなし)」)

この映画の被差別民に関する描写については、インドの「改宗仏教徒」(ヒンドゥー社会での被差別的な立場から解放されるために仏教に改宗した人々)のリーダーとして活躍する佐々井秀嶺師のもとで、同じ志で活動している高山龍智師のTwitterが非常に参考になった。
曰く、"Katravai Patravai"のミュージックビデオにも出てくる青は改宗仏教徒の象徴の色であり、赤は抑圧された人々の拠り所のひとつである共産主義を象徴する色という意味があるそうだ(ちなみに主人公の息子の名前は「レーニン」)。


それで思い出したのが、ジャマイカン・ミュージックを武器に闘争活動を繰り広げているレゲエ・ミュージシャンのDelhi Sultanate.
彼もまた、オーディエンスへの挨拶に「ジャイ・ビーム!」「ラール・サラーム!」という言葉を取り入れている。

「ジャイ・ビーム」は不可触民抵抗運動の父であるアンベードカル博士を讃える平等主義者の挨拶であり、「ラール・サラーム!」は「赤色万歳」という意味の共産主義にシンパシーを持つ者の挨拶だ。
彼はスラムの出身ではなく、留学できるほどに裕福な家庭に育ったようだが、そうした階層のなかにも、社会格差や不正に対する高い問題意識を持った社会的アーティストがけっこういるというのが、インドの音楽シーンのまた素晴らしいところだ。

『カーラ』の中でもうひとつ印象的なのが、古典文学である「ラーマーヤナ」が、ヒンドゥーナショナリストがスラムの人々を弾圧するときの拠り所として扱われているということ。
タミル映画である『カーラ』では、ラーマーヤナで主人公ラーマ神に倒される悪魔ラーヴァナこそ、抑圧されたスラムの民、被差別民、そして北インドのアーリア人種から見下されがちな南インドのドラヴィダ人の象徴なのではないかというメタファーが登場する。
主人公が、「カーラ」(黒)は労働者の色だと語る場面があるが、ヒンドゥーでは忌むべき色とされる「黒」を、逆説的に抑圧された人々のプライドの象徴として描いているのだ。
 
そこで思い出したのが、タミルナードゥ州の隣に位置するケーララ州のブラックメタルバンド、Willuwandiだ。
彼らは、悪魔崇拝(サタニズム)や反宗教的な思想の音楽であるブラックメタルを演奏しているのだが、オカルト的な音楽性に反して、彼らの歌詞のテーマは、いたって真面目なカースト制度への抗議である。
以前彼らについての記事を書いたとき、なぜこんなに極端な音楽性(サウンドはうるさく、ヴォーカルは絶叫しているので歌詞が聞き取れない)で、政治的かつ社会的なメッセージを発信しているのか、大いに疑問に思ったものだった。
だが、もし彼らが『カーラ』と同じメタファーを込めてブラックメタルを演奏しているのだとすれば、全て合点がいく。
つまり、ブラックメタルの「黒」は抑圧された人々の象徴であり、一見悪趣味な悪魔崇拝は伝統的宗教的価値観の逆転を意味しており、宗教への反発はカースト制度のもととなったヒンドゥーの概念の拒絶を意味している、というわけだ。

この記事で紹介している"Black God"のミュージックビデオの冒頭にも、「インドの真実の歴史は、アーリア人とドラヴィダ人の闘争である」というメッセージが出てくるから、この憶測はあながち間違いではないだろう。

それにしても、まさかタミル映画のスーパースターのタミル映画を見たら、インドのブラックメタルの理解が深まるとは思わなかった。
インド、やはり深すぎる。


今回は(今回も?)盛りだくさんでした!
お読みいただきありがとうございます!
ではまた!


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goshimasayama18 at 21:08|PermalinkComments(0)

2019年03月27日

ヒンドゥー・ナショナリズムとインドの音楽シーン

先日、映画「バジュランギおじさんと小さな迷子」の話題と絡めてヒンドゥー・ナショナリズムの話を書いた。(「バジュランギおじさん/ヒンドゥー・ナショナリズム/カシミール問題とラッパーMC Kash(前編)」
ヒンドゥー・ナショナリズムは、「インドはヒンドゥーの土地である」という思想で、この思想のもとに教育や貧困支援などの慈善活動が行われている反面、ヒンドゥーの伝統に反するもの(例えば外来の宗教であるイスラームやキリスト教)をときに暴力的に排除しようとする側面があるとして問題視されている。
こうした運動は現代インドで無視できないほどの力を持っており、よく言われる例では現在の政権与党であるモディ首相の所属するBJP(インド人民党)は、ヒンドゥー・ナショナリズム団体RSS(民族義勇団)を母体とする政党だったりもする。

このブログで紹介しているようなロックやヒップホップ、エレクトロニックなどの音楽シーンでは、これらのジャンルがもともと自由や反権威を志向するものだということもあって、一般的にこうしたヒンドゥー至上主義的な動きに反対する傾向が強い。
その最もラディカルな例が以前紹介したデリーのレゲエバンドSka VengersのDelhi SultanateことTaru DalmiaのユニットBFR Soundsystemだろう。
彼はジャマイカン・ミュージックを闘争のための音楽と位置づけ、レゲエ未開の地インドでサウンドシステムを通してヒンドゥー・ナショナリズムや抑圧的な体制からの自由を訴えるという、なかばドン・キホーテ的な活動を繰り広げている。
(詳細は「Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」参照)

Ska Vengersの痛烈なモディ批判ソング"Modi, A Message for you".
Taruはこの曲を発表したことで殺害予告を受けたこともあるそうだが、命の危険を冒してまで、彼らは音楽を通してメッセージを発信しているのだ。

ヒンドゥー・ナショナリズムについては、地域や所属するコミュニティーや個人の考え方によって、まったく捉えられ方が異なる。
たとえばムンバイのような先進的な大都市に暮らす人に話を聞くと、度を越したナショナリズム的な傾向があるのはごく一部であって、ほとんどの人は全くそんなこと考えずに生活しているよ、なんて言われたりもする。
(ムンバイはムンバイで、シヴ・セーナーという地域ナショナリズム政党が強い土地柄であるにもかかわらず、だ)
こんなふうに聞くと、なーんだ、ヒンドゥー・ナショナリズムなんて言っても、実際は一部の偏屈な連中が騒いでいるだけなんじゃないの?と言いたくなってしまうが、地方では、ナショナリズム的な傾向と伝統的な価値観が合わさって、なかなかに厳しい状況のようなのだ。

昨年8月に書かれたインドのカルチャー系ウェブサイトHomegrownの記事では、インド北部ウッタル・プラデーシュ州の街ジャーンシーの信じられない状況が報告されている。
Homegrown "Communal ‘Hate Songs’ Top The Playlists Of DJs In Jhansi"
さらにそのもとになった記事は、ThePrint "The Hindu & Muslim DJs behind India’s hate soundtrack"

この街では、なんとDJたちがヒンドゥー至上主義や反ムスリム、反リベラル的なリリックの楽曲を作り、大勢の人々が繰り出すラーマ神やガネーシャ神の祭礼の際に大音量でプレイして、住民たちが大盛り上がりで踊っているという。
「シヴァ神がカイラーシュ山からメッセージを送り、サフラン色(ヒンドゥー至上主義を象徴する色)の旗がパキスタンにもはためく」とか「インドに暮らしたければ"Jai Sri Ram"を唱えろ」とか「アヨーディヤーのバブリー・マスジッドを破壊した跡地にラーマ寺院を建てよう」なんていう狂信的で偏見に満ちた曲が流されているというのだ。
"Jai Sri Ram"というヒンドゥーの祈りの言葉は、映画「バジュランギおじさん」では印パ/ヒンドゥーとムスリムの相互理解の象徴として使われていたことを覚えている人も多いだろう。
その言葉が、ここではムスリムに対する踏み絵のような使われ方をしている。
アヨーディヤーというのはイスラーム教の歴史あるモスク、バブリー・マスジッドを狂信的なヒンドゥー教徒が破壊するという事件が起きた街の名前だ。
この事件は現代インドの宗教対立の大きな火種となっており、このリリックはムスリムに対する明白な挑発だ。(Ska vengersを紹介した記事でも少し触れている)

なんだか悲しい話だが、この問題を扱ったこの短いドキュメンタリー映像(6分弱)を見る限り、こうしたヘイト的な曲に合わせてダンスする人々の様子は、憎しみに燃えているというよりもむしろ無邪気に楽しんでいるようで、それがまた余計にやりきれない気持ちにさせられる。

これらのヘイトソングを作成しているDJ達(記事やビデオではDJと呼ばれているが、いわゆるトラックメイカーのことようだ)は、インタビューで「個人的にはムスリムのことを憎んではいない。でも求められた曲を作ることが俺たちの仕事で、こういう曲のほうが金になるんだ」と語っている。
彼らにこういう楽曲を発注して、行き過ぎたナショナリズムを煽動している黒幕がいるのだ。
DJたちもさすがに「モスクの前なんかでこういう曲をプレイするのは問題だね」という意識はあるようだが、保守的な田舎町で音楽で生計を立ててゆくために、てっとり早く金になるヘイト的な楽曲を作ることへのためらいは見られない。

偏見に満ちた思想が音楽を愛するアーティスト自身の主張ではないということに少しだけ救われるが、宗教的な祭礼において、祝福や神への献身よりもヘイトのほうに需要があるというのは、部外者ながらどう考えてもおかしいと感じざるを得ない。

このジャーンシー、私も20年ほど前に、バスの乗り継ぎのために降り立ったことがあるが、そのときはのどかでごく普通の小さな地方都市という以上の印象は感じなかった。
ところが、記事によるとこの地域はリンチや暴動、カーストやコミュニティーの違いによる暴力沙汰などが頻発しているとのことで、インドの保守的なエリアの暗部がさまざまな形で噴出しているようなのである。
地域や貧富による多様性と格差がすさまじいインドでは、ムンバイのような大都市の常識が地方ではまったく通じない。
インドの田舎には古き良き暮らしや伝統が残っている反面、旧弊な偏見が残り、コミュニティー同士が時代の変化のなかで対立を激化させているという部分もあるのだ。

上記のThe Printの記事によると、実際にウエストベンガル州やビハール州では、こうしたヘイトソングがモスクの近くでプレイされたことをきっかけとする衝突が発生しているという。
ふだんこのブログで紹介している都市部の開かれた音楽カルチャーと比較すると、とても信じられない話だが、残念ながらこれもまたインドの音楽シーンの一側面ということになるのだろう。

こうした排他的ヒンドゥー・ナショナリズムの音楽シーンへの影響は、じつは地方都市だけに限ったことではない。
マハーラーシュトラ州のプネーは多くの大学が集まる学園都市で、多数の有名外国人アーティストがライブを行うなど文化的に開かれた印象の土地だが、2018年にはヒンドゥー・ナショナリストたちがここで行われたSunburn Festival(以前紹介したアジア最大のエレクトロニック系音楽フェスだ)をテロの標的としたという疑いで逮捕されている。
(The New Indian Express "Suspected right-wing activists wanted to target Sunburn Festival in Pune: ATS"
この件で逮捕されたヒンドゥー右翼団体'Sanatan Sanstha'のメンバー5人は、ヒンドゥー教の伝統に反するという理由で、EDM系のフェスティバルであるSunburn Festivalや、大ヒット映画"Padmaavat"の上映館に爆発物を仕掛けることを計画していたという。


2018年のSunburn Festivalの様子


"Padmaavat"予告編。主演は"Gully Boy"のRanveer Singhで、彼の奥さんDeepika Padukoneも出演し、大ヒットを記録した映画だ。
こうして並べてみると、もう何がヒンドゥー至上主義者の逆鱗に触れるのか、全くもって分からなくなってくる。

"Padmaavat"に関して言うと、歴史映画のなかでのキャラクターや宗教の描き方についてヒンドゥー、イスラームそれぞれの宗教団体から抗議を受け、撮影の妨害なども行われていたということのようだ。
こうしたタイプの映画への反対運動は頻繁に行われていて、州によっては特定の映画の上映が禁止されてしまうといったことも起きている。

Sunburn Festivalに関しては言わずもがなで、享楽的なEDMに合わせて踊る人々は伝統を重んじるヒンドゥー至上主義者たちにとっては堕落以外の何ものでもないと映るのだろう。
資本主義・物質主義的な価値観の急速な浸透(インドは90年代初めごろまで社会主義的な経済政策をとっていた)に対する反発は、ヒンドゥー・ナショナリズム隆盛の原因のひとつだが、その矛先はこうして新しいタイプの音楽の流行にも向けられるようになった。

今更こんなことを大上段に構えて言うのもなんだが、音楽や芸術は人間の精神の自由を象徴するものだ。
音楽に合わせて肉体と精神を解放して生を祝福するという行為は、有史以前から人類が行ってきたことのはずなのに、自らの価値観に合わないからという理由でそれを(ときに暴力的に)潰そうとする人々がいる。
音楽が好きな人なら、「特定の価値観を持つ人たちが、音楽表現の場を、音楽を楽しむ場を、奪うなんてことがあってはならない」ということに同意してくれるだろう。

だが、我々もインドの過激な伝統主義者たちのニュースを人ごとだとは言っていられない。
ここ日本でも、アーティストの表現をサポートすべきレコード会社が、特定のアーティストが「容疑者」となったことで、彼が関わった作品の配信を停止したり、CDを店頭から回収したりなんていう馬鹿馬鹿しいことがあったばかりだ。

脅迫に屈したわけでもないのに、事なかれ主義の自粛こそが正義だと考え、とても音楽文化を扱う企業とは思えないような判断をしているということに、大げさに言えば危機感を覚える。
坂本龍一も言っていたが、いったい誰のための、何のための自粛なんだろうか。
しかも、同じ会社がオーバードーズで死んだジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、明らかにドラッグの影響を受けている(コカイン所持で逮捕されたこともある)ジョージ・クリントンの作品は平気で扱っているというから開いた口がふさがらない。
自粛したければ、個々のリスナーが聴かないことを選べば良いだけだ。


話が大幅に逸れたけど、いろいろと考えせられるインドと、そして日本の状況について書かせてもらいました。
それぞれが、それぞれの好きな音楽を楽しむ。そんな当たり前のことができる世の中が日本に無いっていうのが情けないね。
インドじゃ命懸けで表現に向き合っているアーティストもいるというのに。

A-ZA-DI!! (Freedom)
それではまた。

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2018年06月03日

Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス

前回の記事で、デリーのスカ・バンドSka Vengersを紹介した。
彼らがレゲエやスカを単なるゴキゲンな音楽としてではなく、抑圧や専制に対する闘争の手段として捉え、 ヒンドゥー・ナショナリズムやインド社会の不正義と戦う姿勢を示していることは記事の通りだ。

Ska Vnegersの中心人物、Delhi SultanateことTaru Dalmiaは、バンド以外でもBFR(Bass Foundation Roots) Sound Systemという名義でジャマイカン・ミュージックを通した自由への抑圧に対する抗議行動を行っている。
アル・ジャジーラが製作した"India's Reggae Resistance: Defending Dissent Under Modi" はそんな彼の活動を追いかけたドキュメンタリーだ。



モディ政権後、ヒンドゥー原理主義が力を持ち言論の自由が脅かされつつあるインドで、Taruは音楽を通した闘争を始めるべく、クラウドファンディングで集めた資金でサウンドシステムを作り上げることにした。抗議活動の場で自由を求めるレゲエ・サウンドを鳴らすために。

サウンドシステムとは、ジャマイカで生まれた移動式の巨大なスピーカーとDJブースのこと。
クラブのような音楽を楽しむための場所がなかった時代に、音楽にあわせてラップや語りや歌を乗せるスタイルで、人々を踊らせ、音楽によるひとときの自由を提供するための手段として生まれた(やがて海を渡ってヒップホップやレイヴ・カルチャー誕生の揺籃ともなったのは、また別のお話)。

Taruにとってジャマイカン・ミュージックは自由のための闘争の手段。
「レゲエの本質に戻ってみると、サウンドシステムに行き着く。サウンドシステムは単なる積み重ねたスピーカーじゃない。音楽や自由を自分たちの手に取り戻し、ストリートに届ける手段なんだ」
彼の広い庭に巨大なスピーカーが組み上がる。
まったく歴史的、文化的背景の違うインドで、ジャマイカと同じようにレゲエを闘争の手段にしようとしている彼こそ、ヒンドゥー原理主義者ならぬレゲエ原理主義者なんじゃないか、という気がしないでもないが、彼はいたって真剣だ。

最初の活動の場は、デリーの名門大学JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)。
言論の自由を求める活動の中心地であり、Taruの出身大学でもある。
「同志よ!ジャイ・ビーム!ラール・サラーム!ジャマイカの奴隷農園の革命の歌を演奏する!」
「ジャイ・ビーム」とはインド憲法の起草者で、最下層の被差別階級出身の活動家、ビームラーオ・アンベードカルを讃える言葉。
カーストに基づく差別からの脱却のため、被差別階級の人々と集団で仏教に改宗した彼を讃えるこのフレーズは、改宗仏教徒など、旧弊な社会秩序に異を唱える人々の合言葉だ。
「ラール・サラーム(赤色万歳)」は、共産主義のシンボルカラーを讃える反資本主義者たちの合言葉。
Taruの言葉に活動家たちから歓声が上がるが、音楽をかけても人々は踊らない。
彼の思想には共鳴しても、レゲエなんて聴いたことがない彼らは、初めて耳にするリズムにどうして良いか分からずじっと座っているばかりだ。

すっかり盛り上がりに欠けたまま、やがて大学当局者に音を止めるように言われ、しぶしぶDJを止めるTaru.
すると当局の介入によって演奏を止められたことに抗議して、学生たちから自由を求めるコール&レスポンスが始まる。
皮肉なことに、音楽が止められたことで、抗議運動は初めて盛り上がりを見せたのだった。
やはりインドでレゲエを使った社会運動は無理があるのか。

それでもTaruはあきらめない。
次なる活動の場は幾多の大学を抱える街、プネーのFTII (Film and Television Institute of India)。
抗議行動をオーガナイズする学生組織とのミーティングで、Taruはこんなことを言われる。
「初めてレゲエを聞いたけど、僕たちの文化の中では共感を得にくいんじゃないかな。なんというか、エリートの音楽っていう感じがする。英語だし、ラップだから」
「欧米から来た音楽だからって、みんなエリートの音楽ってわけじゃない。ブロークンな英語で歌われている音楽なんだ」
Taruは反論するが、こう言われてしまう。
「僕たち活動家が理解できないっていうのに、どうやって一般の人々がそれを理解できるんだい?」
Taruの理想と現実の乖離を率直に指摘する言葉だ。

地元の人々に受け入れられるために、彼らの言語であるヒンディーやマラーティーをレゲエのリズムに乗せることにした。
レゲエをインドでの社会運動において意味あるものとするために、彼らの工夫は続く。
地元の社会派ラッパー、Swadesiにも声をかけた。
ジャマイカの大衆のための音楽が、少しずつインドの大衆のためのものに変わってゆく…。

憲法記念日。プネーで行われる野外コンサートの当日。
主宰者側はカシミール問題(パキスタンとの間の、ヒンドゥーとイスラムの宗教問題を含んだ領土問題)のようなデリケートな話題を持ち出し、当局に集会を潰されることを心配していた。
言論の自由を求める集まりであるにもかかわらず、だ。
「世界最大の民主主義国」インドの自由は微妙なバランスの上に成り立っている。

集まった人々に、Taruはこう語りかける。
「独立したはずのインドでも、最近じゃこんな雰囲気だ。でも、いつの日か正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると言えるようになろう。俺たちは団結している。もし体制側のスパイがいたとしたっていい。一緒に踊ろう」
Taruがプレイするジャマイカのリズムに、地元の活動家たちがスローガンの言葉を乗せて行く。
地元の言語を使ったラップや、苦労した選曲の甲斐あってか、デリーのときとは違って観客も大いに盛り上がっている。

最後の曲の前に、Taruは「俺たちが求めるものは?」と観客に問いかけた。
即座に「自由(Azadi)!」との答えが返ってくる。
RSS(ヒンドゥー至上主義組織)からの、モディ政権からの、ヒンドゥーナショナリズムからの、企業のルールからの自由。コール&レスポンスは熱気を帯びてくる。
最後の曲は60年代のジャマイカン・ナンバー、Toots & Maytalsの"54 46 Was My Number".
警察の横暴を批判するスカ・ソングだ。

彼の言葉に、サウンドに、集まった人々は心のままに踊り始める。
このシーンは圧巻だ。
インド人は総じて踊りが得意だが、スカのリズムに合わせて魂を解放して踊る彼らは、とても初めてジャマイカの音楽を聴いたようには見えない。
まるで生まれた時からスカやレゲエを聴いて育ったジャマイカンたちのように見える。
音楽が、レゲエミュージックが、束の間であっても変革を求めるインドの人々に精神の自由をもたらした瞬間だ。

この映像は、インドにおけるレベルミュージック(反抗の音楽)としてのレゲエのスタート地点であり、現時点での到達地点の記録でもある。 

名門大学出身で大きな庭のある家に住んでいる彼が、ジャマイカのゲットーで生まれた音楽を、全く文化の異なるインドで大衆革命の手段としようとすることに、いささかのドン・キホーテ的な滑稽さを感じるのも事実だ。
今後、レゲエがインドでのこうした活動の中で大きな意味を持つかと考えると、正直に言うとかなり難しいんじゃないかと思う。(この映像を見る限りだと、もっとインドの大衆の理解を得やすい音楽や伝達方法があるように感じる)

でもレゲエやパンクやヒップホップに夢中になったことがある人だったら、音楽とは単なる心地よいサウンドではなく、人々の意識や社会構造に大きく働きかけるものであることを知っているはず。
そして、サウンドそのものよりも、そうしたスピリットの部分にこそ、音楽の本質があることを分かっているはずだ。
音楽好きとしては、音楽の力を信じて愚直に活動を続ける彼に、なんというかこう、ぐっとくるのを禁じ得ない。
ヒップホップに比べると、まだまだインドではマイナーな感があるレゲエミュージックシーンだが、今後こうした社会的な意味のあるジャンルとして根づいてゆくのかどうか、これからもTaruの活動に注目してゆきたい。

goshimasayama18 at 17:59|PermalinkComments(2)