RanveerSingh

2020年02月22日

祝『ガリーボーイ』フィルムフェア賞13冠達成!! そして『WALKING MAN』とのシンクロニシティーを考える




日本でDVDが発売されたばかりの『ガリーボーイ』が、ヒンディー語映画界最高の賞であり、ボリウッドのアカデミー賞とも呼ばれているフィルムフェア賞(Filmfare Awards)で主要部門の総ナメにして、13冠を達成した。

その内訳は以下の通り。
  • 作品賞
  • 監督賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)
  • 主演男優賞 ランヴィール・シン(Ranveer Singh)
  • 主演女優賞 アーリヤー・バット(Alia Bhatt) 
  • 助演男優賞 シッダーント・チャトゥルヴェーディ(Soddhant Chaturvedi)
  • 助演女優賞 アムリター・スバーシュ(Amruta Subhash)
  • 最優秀脚本賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)、リーマー・カーグティー(Reema Kagti)
  • 最優秀ダイアローグ賞 ヴィジャイ・マウリヤ(Vijay Maurya)
  • 最優秀音楽監督賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)、アンクル・テワリ(Ankur Tewari)
  • 最優秀作詞家賞 "Apna Time Aayega" ディヴァイン(Divine)、アンクル・テワリ(Ankur Tewari)
  • 最優秀美術賞 スザンヌ・カプラン・マーワンジー Suzanne Caplan Merwanji
  • 最優秀撮影賞 ジェイ・オーザ(Jay Oza)
  • 最優秀バックグラウンド・スコア賞 カーシュ・カーレイ(Karsh Kale)
今年のフィルムフェア賞は、まさに『ガリーボーイ』のためにあったと言って良いだろう。
ここまでの高い評価を得た『ガリーボーイ』だが、じつは興行成績に関しては2019年に公開されたヒンディー語映画のうち、8位に甘んじている。
『ガリーボーイ』はインド国内で14億ルピー、世界で24億ルピーと、十分にヒット作品と呼べるだけの数字を叩き出しているが、興行成績1位の"War"(国内32億ルピー、世界48億ルピー)と比べると、その売り上げは
半分程度でしかない。(出典はBollywood Hungama "Bollywood Top Grossers Worldwide"
これは、大都市ムンバイのストリートヒップホップという斬新なテーマが、必ずしもすべての層に受け入れられたわけではないということを意味している。

それにもかかわらず、『ガリーボーイ』がここまで圧倒的な評価を得られたのは、スラム生まれのラップという新しくて熱いカルチャーをボリウッドに導入して素晴らしい作品に仕上げた制作陣の手腕、そしてそれに見事に応えた役者たちの熱演によるものだ。
この革新的な映画のストーリーは、じつは、親子の葛藤、夢と現実の相克、身分違いの恋、サクセスストーリーといった、ボリウッドの王道とも言えるモチーフで構成されている。
だが、そうしたクラシックな要素と、新しいカルチャー、新しいヒーロー像、新しい女性像がとてもバランスよく配置されており、王道でありながらも革新的な、奇跡のような作品となったのだ。
今後ボリウッドの歴史に永く名を残すことになるであろう『ガリーボーイ』を称えるのと同時に、もう一本紹介したい映画がある。

同じく2019年に公開された国産ヒップホップ映画『WALKING MAN』である。
(この映画のDVDは4月24日発売予定)
この『WALKING MAN』と『ガリーボーイ』には、シンクロニシティーとも言える共通点が数多くあり、同じ時代に極東アジアと南アジアで作られた、よく似た質感を持つヒップホップ映画について、きちんと何か書き残しておくべきではないかと思っているのだ。
WALKINGMAN

『ガリーボーイ』は、実在のラッパーNaezyとDivineをモデルに制作された映画であり、ニューヨークのラッパー、Nasがエグゼクティブプロデューサーとして名を連ねている。
一方の『WALKING MAN』はラッパーANARCHYの初監督作品だ。
ANARCHYは京都市向島の市営団地に生まれ、彫師の父との父子家庭で育ち、喧嘩に明け暮れる少年時代を過ごした。
15歳でラッパーとしての活動を開始。暴走族の総長を務めたり、少年院で1年を過ごすなど波乱に満ちた青春を過ごしたのち、2006年に25歳でファーストアルバム"Rob The World"を発表する。
自身の生い立ちや経験をベースにした力強いラップで話題と支持を集め、私、軽刈田も、インドの音楽シーンにはまる前、彼の音楽を聴いて強い衝撃を受けたものだった。

この2本の映画の共通点を探すとしたら、ストーリー以前に、実際のラッパーが作品に深く携わっているということがまず挙げられるだろう。
(『ガリーボーイ』のNasは、制作に関わったわけではなく、実際には完成した映画を見てエグゼクティブ・プロデューサーに名乗り出たということらしいが、名を連ねることを許可したということは、この映画のリアルさを認めたということだと理解して良いだろう)
つまり、この2作品は「本物が作った(あるいは本物がモチーフになった)映画」なのだ。 

実在のラッパーをモチーフにした映画と言えば、ヒップホップの本場アメリカではN.W.A.の軌跡を描いた『ストレイト・アウタ・コンプトン』と、エミネムの半生をもとに本人が主演した『8マイル』がまず挙げられるが、『ガリーボーイ』と『WALKING MAN』には、この2作品とは大きく異なる共通点がある。
それは、『〜コンプトン』と『8マイル』の主人公たちが物語の最初からすでにラッパーだったのに対して、『ガリーボーイ』『WALKING MAN』の主人公は、映画の冒頭では都市の下流に生きる単なる若者であり、ストーリーの中でヒップホップに出会い、ラップに目覚めてゆくということである。
『ガリーボーイ』のムラドは、Nasに憧れつつも、自分がラッパーになろうとは考えておらず、地元にヒップホップシーンがあることも知らなかったという設定だし、『WALKING MAN』のアトムに至っては、ヒップホップファンですらない。

つまり、アメリカの2作品が「ラッパーたちのサクセスストーリー」であるのに対して、日印の2本は、「声を上げる手段を持たない若者が、ヒップホップと出会い、ラッパーになるまで」を描いた映画なのだ。
『ガリーボーイ』も『WALKING MAN』も、日印のシーンを代表するラッパーが関わっていながらも、ヒップホップファンのみを対象にした映画ではなく、ラッパーとしての第一歩にフォーカスすることで、ヒップホップの精神を、万人に向けて分かりやすく提示した作品なのである。
アメリカと日印のヒップホップの定着度の違いと言ってしまえばそれまでだが、コアなファン層以外もターゲットとしたことで、より作品のテーマが結晶化され、理解しやすくなっているとも言えるだろう。
そのテーマとは何か。

『WALKING MAN』の舞台は、川崎の工業地帯だ。
貧しい母子家庭で妹と暮らしながら廃品回収業で生計を立てる寡黙な青年アトム(野村周平)は、母の急病をきっかけに、母の収入は絶たれ、治療費が必要なのに公的なサービスも受けられないという八方塞がりの窮地に陥る。
この最悪の状態から、アトムはラップとの出会いによって、自分のコトバと自信を手にして変わってゆく、というのが『WALKING MAN』のあらすじである。

一方で、『ガリーボーイ』の主人公ムラドは、ムンバイのスラム街ダラヴィに暮らしている。
カレッジの音楽祭に出演していたラッパーとの出会いから、自身もラッパーとなったムラドは、怪我をした父に代わって裕福な家庭の運転手として働くことになる。
ムラドはそこで圧倒的な貧富の差を目のあたりにして、ラッパーとしての表現を深化させてゆく。

親の怪我や病気による窮状、そこからのヒップホップによる「救い」といったストーリーもよく似ているが、ここで注目したいのは、この2作品の主人公のキャラクターである。
ヒップホップ映画の主人公であれば、ふつうはささくれ立った「怒れる若者」タイプか、もしくはファンキーでポジティブなキャラクターを設定しそうなものだが、この2作品の主人公は、いずれも内省的で、生まれ持ったスター性などまるでない性格づけがされている。
『ガリーボーイ』のムラドは、仲間が自動車泥棒をする場面で怖気付いたり、自分のリリックをラップしてみろと言われて緊張してしまうような性格だし、『WALKING MAN』のアトムは、「吃音」という大きなハンデを持ち、自分の感情を素直に出すことすらできないという設定だ。
こうした主人公たちの「不器用さ」は、ヒップホップの本質のひとつである「抑圧された、声なき者たちの声」という部分を象徴したものと理解することができるだろう。
(マーケティング的に見れば、こうした主人公の性格づけは、バッドボーイ的なヒップホップファン以外にも共感を得やすくするための設定とも取ることもできるし、『ガリーボーイ』に関しては、ムラドのモデルになったNaezyも実際にシャイで内向的な青年のようである) 
彼らが内向的で、社会からの疎外感を感じているからこそ、自分の言葉で自身を堂々とレペゼンするヒップホップが彼らの救いとして大きな意味を持ち、また彼らがラッパーとしての一歩を踏み出すことが、人間的な成長として描けるのだ。

ムラドとアトムの成長を描く手段として、ラップバトルが使われているのも印象的だ。
フリースタイルに臨んだ2人が、どう挫折し、どう乗り越えるか、という展開は、『8マイル』の影響はあるにしても、あまりにも似通っている。
彼らがラップバトルで勝利するために戦うべきは、じつは対戦相手ではなく、自分自身の中にある。
自分の弱点を認め、その上で自分自身を誇り、自分の言葉で表現することが、結果的にオーディエンスの心を動かすという展開は、ヒップホップの意義を見事に表したものである。

他にも、家族との葛藤(ムラドは父との、アトムは妹との確執がある)、主人公に協力する兄貴的な人物の存在(ムラドにはMCシェール、アトムには山本)など、この2つの映画の共通点はまだまだある。

制作された国や時期を考えれば、この2つの作品が影響を与え合う可能性はまったく無いにもかかわらず、これだけの一致があるということは、はたして偶然なのだろうか。
従来のタフでワイルド、言葉巧みで男性的なラッパー像からは大きく異なるムラドとアトムというキャラクターは、いったい何を表しているのだろうか。
私は、ここにこそヒップホップというアートの本質と、その今日的な意味が描かれているのではないかと思う。
ヒップホップ、すなわち、ラップ、B-ボーイング(ブレイクダンス)、DJ(ヒューマンビートボックスのような広義のビートメイキングを含む)、グラフィティアートは、スキルとセンスさえあれば、体一つでいくらでもクールネスを体現できるアートフォームであり、ハンデを魅力に変えることができる魔法なのだ。
内省的なムラドとアトムは、自信すら持てないほどに抑圧された若者の象徴だ。
ヒップホップはそうした者たちにこそ大きな意味を持ち、また彼らこそが最良の表現者になれる。
こうした、いわば、「希望としてのヒップホップ」を描いたのが、『ガリーボーイ』であり『WALKING MAN』なのである。
その希望の普遍性を表すためには、主人公は従来のラッパー像とは異なる「弱い」人間である必要があったし、家族との葛藤を抱えた「居場所のない」若者である必要があったのだ。

この作品の核は階級差別に対する闘いです。インドだけに限りません。私達は抑圧を無くし、人が自分を表現できる能力を磨き、自分に自信を持って、夢を追いかけることができる世界にしていかなければならないと思います」
これは、『ガリーボーイ』のゾーヤー・アクタル監督の言葉だ。 
ムラドとアトムのハードな環境の背景には、世界中で広がる一方の格差社会があるということも、もちろんこのシンクロニシティの理由のひとつである。
今更かもしれないが、この2作品のシンクロニシティに触れて、ヒップホップはもはやアメリカの黒人文化という段階を完全に脱したということを実感した。
ヒップホップは、その故郷アメリカを遠く離れ、日本でもインドでも、単なるパーティーミュージックでも外国文化への憧れでもなく、抑圧された者たちの言葉を乗せた、リアルでローカルな文化となったのだ。
この「ローカル化」は、逆説的に、ヒップホップのグローバル化でもあり、その日本とインドにおける2019年のマイルストーンとしてこの2本の映画を位置付けることもできるだろう。

共通点だけでなく、この2作品の異なる点にも注目してみたい。
それは家族やコミュニティーとの「繋がり」の描かれ方だ。
『ガリーボーイ』では、家族やコミュニティーは、自由を縛る保守的な価値観とつながったものとして描かれ、「絆」がすなわち主人公を苦しめるくびきとして描かれている。
一方で、『WALKING MAN』のアトムは、吃音というハンデを持ち、また誰からの援助も得られない極貧の母子家庭に暮らしているという設定だ。
つまり、逆に「絆の不在」「疎外感」が彼を苦しめているのである。
絆による不自由と、絆の不在による疎外感。
この2作品が乗り越えるべき壁として描いたテーマは、そのままインドと日本の社会を象徴しているように思えるのだが、いかがだろうか。

それから個人的に衝撃だったのが、ムンバイのスラムに暮らすムラドがスマホを持ち、大学に通う学生だったのに対して、川崎のアトムは(おそらくは)大学に通うことなく場末の廃品回収業者で働いており、スマホを持つことを「目標」としているということだ。
ダラヴィはムンバイのスラムのなかでは比較的「恵まれた」環境のようだし(あくまでもより劣悪なスラムとの比較の話だが)、住む場所すらなく路上で暮らす人々や、電気や水道すらない農村部の人々と比べれば、インド社会の最底辺とは言えないということには留意すべきだが、それでも、ムンバイのスラムの「あたりまえ」が日本の若者の憧れとして描かれているという事実はショックだった。
日本が落ちぶれたのか、インドが成長著しいのか、おそらくはその両方なのだろうが、この言いようもない衝撃を、ヒップホップ映画からの「お前の足元のリアルをきちんと見ろ!」というメッセージとして受け取った次第である。

最後に、もう一つ気になった点である、「吃音とラップの親和性」についても触れておきたい。
すでに書いた通り、『WALKING MAN』のアトムは吃音者という設定だが、実際に日本には達磨という吃音のラッパーがいるし、インドにもTienasという吃音者ラッパーがいる。
映画のなかで、アトムが通行者を数えるカウンターでリズムを刻みながら、吃ることなく言葉を発する場面が出てくるが、実際にこうした吃音の克服法があるのだろうか。
あまり興味本位で考えるべきではないかもしれないが、「吃音」という「声を持てぬもの」を象徴するようなハンデを抱えたラッパーが日印それぞれに存在しているということも(他の国にもいるのかもしれない)、また意味深い共通点であるように感じられる。

基本的にはインドのカルチャーを紹介するというスタンスで書いているブログなので、『WALKING MAN』のことは公開時には紹介しなかったのだが、『ガリーボーイ』と合わせて見ることで、現代社会とヒップホップの現在地をより的確に感じることができる、粗削りだが良い作品である。
ヒップホップや音楽に心を動かされたことがある、すべての人にお勧めしたい2本だ。


もう十分に長くなったが、最後の最後に、似たテーマを扱った、ムンバイと日本のヒップホップの曲を並べて紹介したい。

まずは、『ガリーボーイ』の中から、大都市ムンバイの格差をテーマにした"Doori"、そして日本からは『WALKING MAN』の監督を務めたANARCHYの"Fate".




続いてはリアルにダラヴィ出身で、『ガリーボーイ』にもカメオ出演していたMC Altafの"Code Mumbai 17"(17はダラヴィのピンコード)と、横浜代表Ozrosaurusの"AREA AREA".
オジロの地元レペゼンソングなら横浜の市外局番を冠した"Rolling 045"なんだけど、この2曲はビートの感じが似ていて自分がDJだったら繋げてみたい。



地元レペゼンソングでもう1組。
『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなったDivineのデビュー曲"Yeh Mera Bombay"(これが俺のボンベイ)。ムンバイの下町を仲間と練り歩きながら、ヒップホップなんて関係なさそうなオッサンとオバハンも巻き込むミュージックビデオに地元愛を感じる。
日本からは当然、SHINGO★西成の"大阪UP"でしょう。



最後にオールドスクールなビートでB-Boysをテーマにした楽曲。
インドからはMumbai's Finestの"Beast Mode". これはダンス、グラフィティ・アート、ビート・ボクシング、BMX、スケボーなどの要素を含むムンバイのBeast Mode Crewのテーマ曲のようだ。
となると日本からは
Rhymesterのクラシック"B-Boyイズム"で迎え撃つことになるでしょう。
ちなみにB-Boyという言葉は、日本だと「ヒップホップ好き」という意味で使われるけど、本来はブレイクダンサーという意味。踊れないのに海外でうっかり言わないよう注意。



それでは今日はこのへんで!

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goshimasayama18 at 17:09|PermalinkComments(0)

2019年10月19日

Gully Boy -Indian HipHop Night- でこんな話をしてきました!

10月15日に、ディスクユニオン新宿のスペースduesにて、"Gully Boy -Indian HipHop Night"に出演してきました。
このイベントは、インド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』(18日から公開中!)の楽曲や、映画の舞台となったムンバイのヒップホップシーンを紹介するというもの。

不肖軽刈田、今回は日本におけるワールドミュージックの批評/紹介の第一人者で、クラブDJ、ラジオDJとしても活躍されているサラーム海上さん(昨今は中東料理研究もすごい!)、ムンバイで古典舞踊カタックのダンサーとしてする活動かたわらシンガーとして現地のラッパーと楽曲をリリースした経験を持つSarah Hirokoさんという超強力なお二人とともに、思う存分語らせてもらいました。

会場はなんと満員札止め!
ほとんどの方に立ち見でご覧いただき、なんだか申し訳なかったですが、大勢の方にお越しいただけて本当に感謝です。
今回は、お越しいただけなかった方のために、ここで改めて当日プレイした曲を紹介しつつ、お話しした内容や、準備していたけど時間の都合で話せなかった内容を紹介したいと思います!


いちばん初めに紹介したのは『ガリーボーイ』を象徴するこの曲、"Apna Time Aayega"
 
まずHirokoさんから、曲のタイトル"Apna Time Aayega"の意味「俺の時代が来る」について説明。
映画の舞台となったのはムンバイ最大のスラム、ダラヴィ。
貧困や抑圧のなかで暮らしていた若者たちは、ヒップホップに出会ったことで、自分たちの気持ちをリリックに乗せて、音楽として発信できるようになった。
まだまだ音楽だけで生きてゆくのは難しい。
それでも、差別され、見下されてきた彼らが、ラップを通してリアルな感情を世の中に発表できるようになったことは大きな変化だ。
ラップのスキルとセンスさえあれば、賞賛され、憧れられることすらあるようになったこの現在こそ、彼らが「俺の時代が来ている!」と胸を張って言える状況なのだ。
ヒップホップは、スラムの若者たちにとってただの音楽以上の大きな意味を持っている。

ダラヴィでヒップホップの人気が高まってきたのは2010年頃から。
スマホの普及により、スラムの若者たちもインターネット経由で気軽に海外の音楽が聴けるようになった。
アメリカのヒップホップに出会った彼らは、自分たちと同じように差別や貧困のもとで生きるラッパーたちのクールな表現に憧れと親近感を感じ、そして自らもラップやブレイクダンスを始めた。

こうしたストリートから生まれた、インドではまだ新しいカルチャーを扱った映画が、この『ガリーボーイ』というわけだ。
ヒップホップというと、アメリカの黒人文化(もしくは不良文化)という印象が強いかもしれないが、その本質は抑圧された若者たちが自分自身やコミュニティの誇りを取り戻し、自分のコトバを発信するという、とても普遍的なものだ。

『ガリーボーイ』が公開されると、それまでアンダーグラウンドな存在だったインドのストリートラッパーたちは、爆発的な注目を集めるようになった。
"Apna Time Aayega"「俺の時代が来ている」という言葉は、映画の主人公ムラドだけでなく、インドのストリートラッパー一人一人の言葉にもなったのだ。


続いて紹介したのは"Asli HipHop".

タイトルの意味は「リアルなヒップホップ」。
ラップにおいて重要なのは、スキル、言葉のセンス、そして自分自身に正直であること。
楽器もお金も必要のないヒップホップは、スラムの若者たちにぴったりの表現方法だった。
サビでは、「インドにリアルなヒップホップを届けるぜ」という言葉が繰り返される。

ここで、Hirokoさんにムンバイから持って来てもらったムンバイのラッパーたちの写真、そして、ラッパーやトラックメーカーたちからのビデオメッセージが披露された。
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ラッパーたちの背後に、いかにもヒップホップらしいグラフィティも見ることができる。
ラップ、ブレイクダンス、グラフィティ、DJというヒップホップを構成する4つのアートフォームのうち、唯一インドのシーンで広く普及しなかったのがDJだ。
高価なターンテーブルや、インドでは一般的に普及していないレコード盤を必要とするDJの代わりに、インドのシーンで発展したのが、この"Asli Hip Hop"でも聴くことができるヒューマンビートボックスだ。
ダラヴィには、なんと放課後に無料でビートボクシングを教えるスクールもあるという。

現地のアーティストからのビデオメッセージでは、『ガリーボーイ』を通してインドのヒップホップが日本に広まることを喜ぶ声だけでなく、ヒンディー語のラップや、トラックメーカーのKaran Kanchanによる日本文化への愛などが披露された。(彼は吉田兄弟、和楽器バンド、Daoko、Babymetalらの日本のアーティストのファンだとのことで、彼は自身の名義ではJ-Trapなる日本風のトラップミュージックを作っている)

ところで、この"Asli Hip Hop"が「リアルな」ヒップホップであることを強調していることには理由がある。
ストリート発のヒップホップがインドに生まれる前から、流行に目ざとい映画音楽にはラップが導入されていた。
パンジャーブ州の伝統音楽「バングラー」に現代的なダンスビートを融合させた「バングラー・ビート」は、21世紀のインドの音楽シーンのメインストリームとなり、ラップ風ヴォーカルと融合して量産された。

というわけで、続いて紹介したのは、ストリートの「リアルなヒップホップ」ではないインドのエンターテインメント・ラップミュージック。
今回サラームさんに選曲していただいたのは、2016年に公開された映画"Baar Baar Dekho"から"Kala Chashma"


印象的な高音部のフレーズはバングラーで使われるトゥンビという伝統楽器によるもの。
歌っているのは、ボリウッド系パンジャービーラッパーの代表格のBadshahだ。
彼やYo Yo Honey Singhらのボリウッド・ラッパーたちは、ストリート系ラッパーたちから、無内容で享楽的な姿勢を批判されることも多く、最近は『ガリーボーイ』にも出演しているストリート・ラッパーEmiway BantaiとボリウッドラッパーRaftaarの間の「ビーフ」(ラップを通じてのお互いへの批判合戦)も話題となった。
ここでサラームさんから、「インドには様々なリズムがあるが、現代的なダンスミュージックの四つ打ちと合うのはバングラーだけ」というコメント。
DJでもあるサラームさんならではのこの指摘には大いに唸らされた。
とにかく、これがインドのストリートラップ誕生以前のラップミュージックというわけ。

続いて、典型的ボリウッドラップをもう1曲。

2005年の映画"Bluffmaster"から、"Right Here, Right Now".
サラームさんから、90年代のアメリカのヒップホップのビデオのインド風翻案であると紹介があったが、確かにそんな感じ!

ラップしているのはボリウッドの伝説的名優アミターブ・バッチャンの息子で同じく俳優のアビシェーク・バッチャン。
『ガリーボーイ』のランヴィール・シン同様に俳優自身がラップしている珍しいパターンで、ラップはヘタウマだがさすがに良い声をしている。
本来、こうしたヒップホップ特有の「金・女・パーティー!」といった世界観は、貧しい出自のラッパーたちが、音楽を通して成り上がったことを誇って始まったものだが、ラップしているアビシェークは二世俳優。
「お前は生まれた時から金持ちだろうが!」とつっこみたくなるが、 これも民衆の憧れとしてのボリウッド的な表現のひとつではある。
インドのストリート出身のラッパーたちは、リリックやビデオでもリアルさにこだわっており、こうした享楽的なボリウッドラップとは対照的な姿勢を見せている。
『ガリーボーイ』のなかにも、ムラドがボリウッド風の派手なラップはヒップホップではないと否定する場面が出てくるが、その背景にはこうした対照的な2つのラップシーンの存在があるのだ。


『ガリーボーイ』には、主人公たちのモデルとなったラッパーが存在する。
主人公ムラドのモデルとなったのはNaezy, ムラドの兄貴分MCシェールのモデルとなったのがDivineだ。
NaezyとDivineが共演した楽曲で、ガリーラップのクラシック"Mere Gully Mein"は、ガリーボーイでもリメイクされ大々的にフィーチャーされている。
 
ランヴィールはNaezyのパートをほぼ完コピ。
シッダーント・チャトゥルヴェーディ演じるMCシェールのラップはDivine本人が吹き替えている。

ここでHirokoさんから、ラップで使われるヒンディー語には、スラングやマラーティー語(ムンバイがあるマハーラーシュトラ州の言語)などの別の言語も使われており、さらにはフロウを心地よくするための文法破格も頻繁に行われているという説明。
映画に使われた楽曲のリリックについては、このブログで次号から麻田豊さん、餡子さん、ナツメさんの3人が手がけた邦訳を掲載する予定なのでお楽しみに!

映画のタイトルにも使われている"Gully"という単語は、スラムにあるような細い路地を表す言葉で、"Mere Gully Mein"は「俺の路地で」という意味だ。
この"Gully"は、Divineが英語の「ストリート」と同じような意味合いで多用したことで、インドのヒップホップシーンでよく使われるようになった。


ムラドのモデルとなったNaezyが注目を集めるきっかけとなった曲が、この2014年にリリースされた"Aafat!"だ。

シンプルなビートだが、言葉がわからなくても確かなスキルとフロウのセンスが感じられる一曲。
彼はこの曲を、家族からプレゼントされたiPadだけで作り上げた。
iPadでビートをダウンロードし、そこにラップを乗せ、さらには近所でこのミュージックビデオを撮影してYouTubeにアップすると、「凄いラッパーがいる」とたちまち話題になった。
(『ガリーボーイ』にもこのエピソードから着想を得たと思われるシーンがある)

ゾーヤー・アクタル監督は、このビデオで彼のことを知り、会いにいったところ、少し話を聞くだけの予定がすっかり話し込んでしまい、この映画を作るインスピレーションを受けたというから、この"Aafat!"がなければ、『ガリーボーイ』という映画もなかったかもしれない。

Naezyが初めてラップに出会ったのはSean Paulのダンスホールレゲエだったそうだ。
真似してラップをしてみたところ、思いのほか上手くでき、友達や女の子たちにも注目を浴びることができて、ラップに興味を持ったという。
出身は、実際はダラヴィではなくKurla Eastという地区の、やはりスラムのような一角だった。("Aafat!"のミュージックビデオを見れば雰囲気が分かるだろう)
10代のころの彼は、悪友たちと盗みや破壊行為を繰り返す不良少年で、あるときとうとう留置所に入れられることになってしまった。
父親は海外に出稼ぎ中。
取り乱した母親を見た彼は、こんな生活をしていてはいずれ取り返しのつかないことになってしまうと悟る。
それ以来、彼は部屋にこもって自分のリリックを書き始めるようになった。
ラッパーNaezyの誕生だ。

ミュージックビデオではいかにもラッパー然としたNaezyだが、サングラスをかけているのは目を見られるのが恥ずかしいからだそうで、素顔はシャイで内省的な青年なのだ。
『ガリーボーイ』でランヴィール・シンが演じたムラドは、ラッパーにしてはかなり内気なキャラクターだが、これはモデルとなったNaezyのこうした性格を反映したものと思われる。
(ヒップホップが一般的でないインドでギャングスタ的なラッパー像を演じても支持が得られないということもあると思うが)

続いて同じくNaezyか今年8月にリリースした"Rukta Nah".

プロデュースは、ビデオメッセージも寄せてくれたKaran Kanchan.
この曲では、世界的なトレンドを意識してトラップっぽいサウンドを聴かせてくれている。
じつはNaezyは、ちょうど『ガリーボーイ』製作中の2018年の一年間、音楽活動を休止していた。
彼はムスリムの家族のもとに生まれており、父親がラップは「非イスラーム的である」と判断したためだ。
映画のモデルになるほどの人気ラッパーでも、まだまだ家族や伝統やコミュニティの価値観との葛藤に悩む実態があるのだ。
今では、父親も「ラップはイスラームの伝統的な詩と通じるもの」という理解を示すようになり、無事音楽活動を続けることができるようになったという。
Naezy自身も、この曲ではサングラスを外した姿でラップを披露し、パフォーマーとしての成長を見せてくれている。


続いてはMCシェールのモデルになったインドのヒップホップ界の兄貴的存在、Divineを紹介!
2013年にリリースされた楽曲"Yeh Mera Bombay".
初期ガリーラップのアンセムだ。

Divineも実際はダラヴィの出身ではないのだが、彼の地元Andheri East地区のJ.B. Nagarという地区も、スラムというかかなり下町っぽい場所のようだ。
「これが俺のボンベイ」という意味のこの曲のビデオに出てくるのは、高層ビルでも高級住宅街でもなく、リクシャーワーラー(三輪タクシーの運転手)や路上の床屋、荷車を引く労働者たちのようなガリーに生きる人々。
まさに、地元をレペゼンするヒップホップなのである。

Divineの本名はVivian Fernandes.
映画のMCシェール(本名Srikanth)は名前からするとヒンドゥーという設定のようだが、モデルとなったDivineはクリスチャンだ。
彼は母子家庭で育った不良少年だったが、教会では敬虔に祈ることからDivineというラッパーネームを名乗ることになった。
友人がニューヨーク出身のラッパー50CentのTシャツを着ていたことからヒップホップに興味を持った彼は、インターネットで調べて、アメリカのラッパーたちが自分と同じような環境に生まれ育ったことを知り、自身もラッパーを志す。
映画を見れば、Divineの持つ兄貴っぽい雰囲気を、シッダーント・チャトゥルヴェーディがかなりリアルに再現していることが分かるだろう。

映画でのムラド(ムスリム)とシェール(ヒンドゥー)のコラボレーションのように、インドのヒップホップシーンでは様々なバックグラウンドのアーティストによる共演がごくふつうに行われている。
Divine曰く「Gullyは特別な場所。ヒンドゥーもムスリムもクリスチャンもいるが、Gullyこそがみんなが信じている宗教だ。国は豊かになっても俺たちの生活は変わらない。だからこそ俺たちの声を聞いてほしい」
ヒップホップこそがその声となったのだ。


Divineの"Yeh Mera Bombay"でもインドっぽいトラックが使われていたが、インドのヒップホップでは、古典音楽や古典のリズムとの融合が頻繁に行われている。
『ガリーボーイ』のサウンドトラックでは、この"India 91"がまさにそうした楽曲にあたる。

"91"はインドを表す国番号だ。

この曲のもとになったのは、南インドの伝統音楽カルナーティックのパーカッショニストであるViveick RajagopalanとラップユニットのSwadesiが共演した"Ta Dhom"というプロジェクトだ。

サラームさんからの紹介によると、ViveickがSwadesiのラッパーたちに古典のリズムを教えたところ、彼らもこの古くて(ヒップホップにとっては)新しいリズムに非常に興味を持ち、このプロジェクトに発展したとのこと。

"India 91"のミュージックビデオにはムンバイを中心とする実際のラッパーたちがカメオ出演しているが、餡子さんが登場する全ラッパーを調べ上げて紹介したこの記事「India 91 ラッパーを探せ!」は圧巻!
ヒンディー、マラーティー、グジャラーティー、パンジャービーという4つの言語でラップされるこの曲は、古典から現代までという縦軸と、地域や言語という横軸の二つの意味でインドの多様性を象徴する一曲だ。


続いて古典のリズムとラップの融合をもう1曲。
プネー出身だが現在はイギリスで活躍するパーカッショニストSarathy Korwarの"Mumbay".
この曲にもSwadesiのMC Mawaliが参加している。

インドの古典音楽には5拍子などの奇数拍のものもあり、この楽曲は7拍子の古典のリズムにジャズとラップを融合したもの。
冒頭に"Apna Time Aayega"のTシャツも登場する。
彼のように海外に拠点を移して活躍するアーティストが、インドのシーンの発展に刺激を受けて母国のラッパーたちと共演する機会も増えてきている。
(Sarathy Korwarについてはこちらの記事で詳しく紹介している。「Sarathy Korwarの"More Arriving"はとんでもない傑作なのかもしれない」

北インドの古典音楽には、Bolという口でリズムを取るラップのような伝統があり(南インドにもよく似たKonnakkolというものがある)、ここでカタックダンサーでもあるHirokoさんがカタックのBolの実演を披露。
インド伝統文化の詩やリズムへのこだわり、そしてダンス好きで口が達者な国民性を考えると、インドにヒップホップが根づくのは必然のような気すらしてくる。
インドの古典のリズムとヒップホップの融合は、他にはインド系アメリカ人ラッパーのRaja Kumariなども取り組んでおり、インドのヒップホップの特徴のひとつになっている。
"India 91"がサウンドトラックに取り入れられたのは、そうした潮流への目配りを表していると言えるだろう。


続いては、Hirokoさんが地元ムンバイのラッパーたちと共演した『ミスティック情熱』を紹介。


インドのヒップホップシーンではまだ珍しいChill Hop/Jazzy HipHop的なビートに、ムンバイのラッパーIbexの日本語ラップ(!)とHirokoさんの歌をフィーチャーした唯一無二の楽曲。
アニメ『サムライチャンプルー』の音楽を手がけた故Nujabesを通してChill Hopのサウンドは世界中に広まり、このジャンルはアニメなどの日本のカルチャーとの親和性の高いものとして受け入れられている。
この曲でHirokoさんがコラボレーションしたラッパーのIbexやビートメーカーのKushmirも日本のアニメに大きく影響を受けているという。
Hirokoさんからはミュージックビデオ制作の苦労話など、インドでの音楽活動の興味深いエピソードを聞かせてもらうことができた。
(このコラボレーションについては、この記事で詳しく紹介している。「日本とインドのアーティストによる驚愕のコラボレーション "Mystic Jounetsu"って何だ?」


続いては、Hirokoさんがムンバイのスラムで子ども達への教育支援活動に協力しているという話題から、ダラヴィで無料のヒップホップダンス教室を開いているSlumgodsを紹介。
彼らはダラヴィが舞台となり世界的に大ヒットした映画"Slumdog Millionaire"のイメージに反発し、「俺たちは犬じゃない」とSlumgodsというクルーを結成、子ども達にダンスを通して自分たちへの誇りを持ってもらうための活動を続けている。


『ガリーボーイ』ではラップに焦点があてられているが、ダラヴィではヒップホップといえばダンスも広く受け入れられている。
ラップにしろダンスにしろ、体一つでクールな自己表現ができるヒップホップは、スラムで生きる人々にぴったりの表現手段なのだ。

続いてHirokoさんが支援活動を行うワダラ地区の子どもがラップするなんともかわいらしい映像が流された。
実際にこの街でHirokoさんたちが支援していた若者の一人は、つい先日ラップのミュージックビデオをリリース。この映像の1分20秒ぐらいからその楽曲が始まる。


Hirokoさんによると、ダラヴィはムンバイのスラムのなかでは、過酷な環境とはいえまだましなほうで(例えば識字率は7割ほどに達し、これはインドのスラムではもっとも高い)、他のスラムの人々はさらに厳しい生活を強いられている。
また、スラムにすら暮らせない路上生活者たちもおり、そうした暮らしを強いられた人たちが、ダラヴィのラッパーたちのように自分たちの誇りを取り戻せる日がいつか来るのだろうかと考えると、気が遠くなってくる。
いずれにしても、ダラヴィ以外のスラムでも、ヒップホップは希望の光になりつつあるようだ。


ここまで話して、時間が少々余ったので、ムンバイ以外の地区のラッパーの紹介ということで、デリーのPrabh Deepのミュージックビデオを流した。

彼は今インドで最も勢いのあるアンダーグラウンド・ヒップホップレーベル、Azadi Recordsを代表するラッパーで、この曲のトラックをプロデュースしたのは、かつて"Mere Gully Mein"を手がけたSez on the Beat.
ご覧の通りPrabh Deepはパンジャービーのシク教徒なのだが、このビデオを見たサラームさんから、「他のラッパーとは違うパンジャービーの声の出し方」というコメントがあり、さすがの指摘に大いに感心した。


というわけで、90分に及んだトークイベント"Gully Boy -Indian HipHop Night"は、この"Train Song"で締めて終了。

南インド出身のシンガー、Raghu Dixitとイギリス在住のタブラプレイヤーKarsh Kaleのコラボレーションで、ヒンディー語ヴォーカルがDixit、英語がKaleだ。

今回のイベントの模様は、近々HirokoさんのYoutubeチャンネルでも公開する予定なので、ぜひそちらもご覧ください。
そして何よりも、『ガリーボーイ』を未見の方はぜひご覧いただきたい。
いとうせいこう氏監修による字幕もジャパンプレミア上映時から大幅にパワーアップしているという話。

すでにこのブログでも何度も書いてきたとおり、『ガリーボーイ』は普遍的な魅力を持つ音楽映画、青春映画であると同時に、格差や伝統的価値観のなかで、夢や自由を追い求める若者の苦闘と葛藤の物語でもある。
そしてインド社会の抑圧された人々に、ヒップホップという希望の灯がともされた瞬間の記録としても、まさに歴史に残る映画と言えるだろう。
『ガリーボーイ』の続編の構想を知らせる報道もあったが、この映画によって注目を集めるようになったインドじゅうのガリーラッパーたちの活躍や、彼らによってさらに若い世代がヒップホップに希望を見出してゆくインドのヒップホップシーンの現状そのものが、この映画の続編なのである。

90分のイベントで話した内容と、伝えきれなかった内容をお届けしたが、インドのヒップホップで紹介したい曲やエピソードはまだまだたくさんあり、映画がヒットしたらぜひ第2弾のイベントがやってみたい!

お越しいただいた方、YouTubeのストリーミングでご覧いただいた方、そしてこのブログを読んでいただいた方、ありがとうございました!


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2019年09月07日

『ガリーボーイ』ジャパン・プレミア!&隠れた名シーン解説

かねてからお伝えしていた通り、9月5日に新宿ピカデリーで、ゾーヤー・アクタル監督と脚本のリーマー・カーグティーを迎えて、『ガリーボーイ』のジャパン・プレミア上映が行われた。

当日は580席のスクリーン1が大方埋まる盛況。
客層はヒップホップファンというよりはインド映画ファンが中心。
もっと音楽ファンにも注目してほしいのはやまやまだが、公開されれば遠からずそうなるだろう。

『ガリーボーイ』は、これまでに日本で大ヒットしたインド映画、すなわち、マサラ風エンターテインメントの『ムトゥ』や、神話的英雄譚の『バーフバリ』とは明らかに毛色が違う「ムンバイのリアルなヒップホップ映画」ということで、開始前の客席は、いつもとは異なる期待感と、静かな熱気に満ちていた(ように見えた。自分自身が静かな熱気に満ちていたので、まわりのことはあんまり分からないけど)。

そしていよいよ暗転、上映開始。
内容についてはこれまで何度も書いてきたので省くが、いとうせいこう氏監修の字幕は、日本語でも韻を踏んでいる部分もあり、映画字幕の文字数制限のなかでリリックの本質を伝える、非常に雰囲気のあるものだった。
試写会で見たときは、いとう氏の監修前の字幕だったのだが、さすがに良い仕事をしているなあ、と感心。
公開までに字幕はさらにブラッシュアップされるらしい。

そして上映終了後は、いよいよゾーヤー・アクタル監督と、脚本のリーマー・カーグティー氏が登場。
舞台挨拶で印象に残ったのは、Naezyとのエピソードだ。
監督曰く、Naezyが21歳のときに撮ったミュージックビデオを見て強い印象を受け、友人を介して会いに行ったところ、ちょっと挨拶するだけのはずが、3時間も話し込んでしまったとのこと。

監督が見たというミュージックビデオは、「iPadで撮影されたもの」と言っていたから、間違いなくこの"Aafat!"だろう。
NaezyがiPadでビートをダウンロードし、ラップを吹き込み、そして映像も撮影したというごく初期の作品だ。

シンプルなビートだけにNaezyのスキルの高さが感じられる。
インタビューでは言及がなかったが、実はゾーヤー監督自身もアメリカのヒップホップのファンだったらしい。
Naezyについて「フロウも歌詞も素晴らしい」と語っていたが、地元インドから、本場アメリカにも匹敵するスキルとアティテュードのラッパーが登場したという感激が、この映画を作る原動力になったのだろう。

初めて会ったときのNaezyはシャイで、ボリウッドのビッグネームである監督たちに緊張して、部屋の隅に引っ込んでしまうような人物だったという。
こうした一見不器用で情熱を内に秘めたNaezyの性格は、ムラドのキャラクターをかたち作るうえでも、影響があったに違いない。
その後、Naezyのライブでオープニングアクトを務めていたDIVINEとも知り合い、『ガリーボーイ』の制作に至るのだが、二人をモデルに映画を作ることを伝えた時も、Naezyは自分の半生が映画になることよりも、ヒップホップというカルチャーが広まることについて喜んでいたそうだ。
(DIVINEは、『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなった人物)

また、エグゼクティブ・プロデューサーとしてNasが名を連ねている理由は(実際は名誉職だと思うが)、ムンバイのラッパーたちがこぞって影響を受けたアーティストとして名前をあげたのが、Nasと2Pacであったためだという(2Pacは故人)。
インドのラッパーがいちばん影響を受けているのはEminemだと思っていたので、これはちょっと意外だった。

キャスティングについての質問の回答も興味深かった。
ランヴィールを主役にした理由としては、生粋のムンバイ育ちでスラングにも詳しく、また彼がヒップホップの大ファンで、密かにラップをしていることを監督が知っていたからとのこと。
実際、ムラドについてはほとんどランヴィールを想定してシナリオを書いたようで、 ランヴィールも自身でラップを吹き込み「俺はこの役をやるために生まれてきた」とまで言っていたのだから、最高のはまり役と言えるだろう。
この映画の撮影現場は、40人もの実際のラッパーがいる環境だったそうだが、ランヴィールは彼らともすっかり打ち解けていた様子で、撮影中から彼らのSNSに頻繁に登場していた。
ムンバイで行われた公開記念コンサートでは、ランヴィールとMCシェール役のシッダーント・チャトゥルヴェーディが「オリジナル・ガリーボーイズ」のDIVINE, Naezyと息のあったパフォーマンスを見せている。


また、ランヴィールは、『ガリーボーイ』にもカメオ出演していたダラヴィ出身のラッパーMC Altafのミュージック・ビデオにも(画面の中から、ほんの少しだけだが)出演。 

国民的人気俳優が、インドでもよほどのローカル・ヒップホップファンでなければ知らないアンダーグラウンドラッパーのビデオに出演するのは、極めて異例のことだ。
ボリウッドの大スターと、ストリート・ラッパーという、エンターテインメント界の対極に位置するものたちが、ヒップホップという共通項で対等につながったのだ。

そう、『ガリーボーイ』の美しいところは、監督もランヴィールもシッダーントも、ヒップホップというカルチャーへの理解とリスペクトが深く、ヒップホップを深く、正しく伝えようという姿勢がぶれていないことだ。
これはボリウッド映画では珍しいことで、例えばロックをモチーフにしたインド映画はこれまでに何本かあるが、いずれもロックとは名ばかりで、単なるワイルドなイメージの材料として扱っているものがほとんどだった。
それに対して、『ガリーボーイ』は、製作者側からヒップホップへの愛に満ちている。

この作品に、裕福な家庭に育ち、アメリカの名門音楽大学バークリーに留学していたトラックメイカーの、スカイというキャラクターが出てくる。
スカイは、富裕層であるにもかかわらず、偏見を持たず、優れた才能の持ち主であれば、貧富や出自に関係なく賞賛し、厳しいスラムの現実を表現するラッパーたちをむしろリスペクトする姿勢の持ち主だ。
彼女は、インドの保守的な階級意識から自由であり、貧富の差などの社会問題への高い意識を持った存在として描かれている。
このスカイと同じような目線が、『ガリーボーイ』という映画全体を貫いている。
超ビッグなエンターテインメント産業であるボリウッドから、ムンバイのスラムで生まれたガリーラップへのリスペクトの気持ちが、どうしようもなく溢れているのだ。

今回のジャパンプレミアで『ガリーボーイ』を見た方に、2回目に鑑賞する時にぜひ注目してほしいシーンがある。 (映画の本筋に関係のない話だが、見るまで前情報を何も知りたくないという方はここでお引き返しを)

この映画には多くのラッパーがカメオ出演しているが、映画のなかに名前が出てこないラッパーたちも、極めて意味深い登場の仕方をしている。
映画を見た方は、後半のラップバトル第一回戦のシーンで、審査員席に座っていた身なりのいい3人の男女に気づいただろう。
彼らは、いずれもが、在外インド人社会の音楽シーンで活躍し、インドの音楽のトレンドにも影響を与えてきた成功者である。

ゴージャスな女性は、カリフォルニア出身の女性ラッパー、Raja Kumari.
本場の高いスキルを持ち、ソングライターとしてグラミー賞にノミネートされた経験もある彼女は、インド古典音楽のリズムをラップに導入したり、伝統的な装束をストリートファッションに落とし込んで着こなすなど、インドのルーツを意識したスタイルで活動している(Divineとも数曲で共演している)。

ターバンを巻いた男性はイギリス出身のシンガーManj Musik.
1997年にデビューした英国製バングラー音楽グループRDBの一員で、'Desi Music'と呼ばれる在外インド人のルーツに根ざした新しい音楽に、大きく貢献してきたミュージシャンだ。

もう一人の男性は、イギリス出身のBobby Friction.
BBC Asian Networkなどの司会者として活躍している人物で、在外インド系音楽を広く紹介し、シーンの発展に寄与してきた。

インド系音楽カルチャーの第一人者であり、富裕な海外在住の成功者としてインド国内にも影響を与えてきた彼らが、インドのストリートから生まれてきた音楽を、同じミュージシャンとしてリスペクトする。
貧富も出自も国籍も関係なく、同じルーツを持つ者同士で優れた音楽を認め合う。
ヒップホップで重要なのは、スキルと、リアルであることだけだからだ。
従来のインド映画であれば、審査員席には映画音楽界のビッグネームが座っていたはずだが、『ガリーボーイ』では、この3人が並んでいることに意味がある。
彼らが何者であるかは細かく明かされなくても(映画の進行上、必ずしも必要でないからだろう)このシーンには、製作者側のこうした意図が隠されているはずだ。

また、クライマックスのシーンにも仕掛けがある。
ステージの司会を務め、観客を盛り上げているのは、名前こそ出てこないが、リアル・ガリーボーイの一人で、ムンバイのヒップホップシーンの兄貴分的存在(そしてもちろんMCシェールのモデル)DIVINE本人である。
そして、ステージに上がるムラドが、DIVINEにある言葉をかける。
意識して見なければ、司会者に挨拶しているように見えるごく自然なシーンだが、このシーンには、ヒップホップをこよなく愛するランヴィールからガリーラップの創始者DIVINEへの、そして、ボリウッド一家に生まれたゾーヤー・アクタル監督から、ストリートで生まれたヒップホップカルチャーへの、心からの気持ちが込められているのだ。
正直言って、このシーンだけで感動をおさえることができなかった。

今回のジャパン・プレミアでは、最後にシッダーント、スカイ役のカルキ・ケクラン、そしてランヴィールからの日本のファンへのビデオメッセージが披露されるなど、非常に充実した内容だった。
SNSでの評判も非常に高く、正式公開に向けての期待はますます高まるばかりだ。

10月18日の公開に先駆けて行われる、10月15日のイベントもお見逃しなく!
日本におけるワールドミュージックの第一人者サラーム海上さん、ムンバイの在住のダンサー/シンガーで現地のラッパーとも共演経験のあるHiroko Sarahさん、そして私軽刈田が、映画の背景となったインドのヒップホップについて、思いっきり熱く語りまくります!
詳細はこちらのリンクから!




(審査員の一人としてカメオ出演しているRaja Kumariについては、こちらの記事で詳しく紹介している。彼女の音楽もとても面白いので、興味があったらぜひ読んでみてほしい。「逆輸入フィーメイル・ラッパーその1 Raja Kumari」「Raja Kumariがレペゼンするインド人としてのルーツ、そしてインド人女性であるということ」)
また、在外インド人の部分で、便宜的に「在外インド系」と書いたが、これはパキスタン系、バングラデシュ系など、南アジアの他の国にルーツを持つ人々も含んだ表現だと捉えてください。


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2019年07月01日

"Gully Boy(ガリーボーイ)"日本公開決定に勝手に寄せて



ボリウッド初のヒップホップ映画、"Gully Boy"の日本での公開が正式に決定した。
公開日は10月18日。
邦題はそのままカナ表記で『ガリーボーイ』となる。
この映画は、本国インドでは 2月に公開され、大ヒットを記録。
日本でも同時期に英語字幕での自主上映が行われ、熱狂的な支持を受けて正式公開が待たれていた。

…と、冷静に書いてしまったが、なにを隠そう、私も日本での正式公開を熱烈に待っていた一人だ。 
これまでずっとこの映画のタイトルを、原題の通り"Gully Boy"と書いてきたが、それを「ガリーボーイ」とカタカナ表記で書けるうれしさといったらない。
なんでかっていうと、果たしてこの映画が日本で正式に公開されるかどうか、正直結構不安だったからである。

『ガリーボーイ』は本当に素晴らしい映画だが、これまで日本でヒットしてきたインド映画のように、超人的な主人公が活躍する英雄譚でも、敬虔な信仰を持つ素朴な人たちの心温まるヒューマンドラマでも、恋愛もアクションもコメディーも出世物語も全て詰め込んだ何でもありのマサラ風エンターテインメントでもない。
ボリウッド(ムンバイで作られたヒンディー語映画)とはいえ、日本人が考えるインド映画のイメージとは大きく異なる作品なので、配給会社が二の足を踏んで、日本での公開に至らないのではないかと、心配していたのだ。
配給を決定してくれたTwinさん、どうもありがとう!

そう、率直に言って、『ガリーボーイ』は、既存の「インド映画」の枠の中で見るべき映画ではない。
もちろん生粋のインド映画ファンも必ず楽しめる作品だが、この映画は、できれば今までインド映画を敬遠してきた人にこそ見てほしい。
ヒップホップファンや音楽好きはもちろん、「ヒップホップって、川崎あたりのヤンキーがやってるやつでしょ」っていう程度の認識の人も、見てもらったら、ヒップホップがどう他のジャンルの音楽と違うのか、どんな特別な意味があるものなのかを、感動とともに理解できることと思う。
それから、代わり映えのしない毎日を鬱々と過ごしている人たち(私やあなただ)にも、是非見てもらいたい。
(押しつけがましいメッセージがある映画ではないからご安心を)

貧しい青年のサクセスストーリーや、身分違いの恋といった、インド映画にありがちな要素も確かにある。
だが、この映画は、インド庶民の夢と理想を詰め込んだファンタジーではなく、実在のラッパーとムンバイのヒップホップシーンがモデルとなった、かなりリアルに現代を描いた物語なのだ。
ゾーヤ・アクタル監督は、ムンバイのアンダーグラウンドなヒップホップシーンのリアルさと熱気に感銘を受けてこの映画の制作を決意したというし、大のヒップホップファンであった主演のランヴィール・シンは、「自分はこの役を演じるために生まれてきた」とまで語っている。
この作品は、ムンバイで何か新しいことが起こった瞬間を、映画という形にとじこめたものでもあるのだ。
製作陣と出演者の熱意が込められたストーリーをごく簡単に紹介しよう。
 
主人公のムラドは、ムンバイ最大のスラムである、ダラヴィに暮らす大学生。
アメリカのヒップホップスターに憧れながらも、殺伐とした家庭で希望の持てない日々を過ごしていた。
ある日、大学で行われていたライブで観客を熱狂させる地元のラッパーを見たムラドは、この街にアンダーグラウンドなヒップホップシーンがあることを知る。

インドでは、欧米や日本のように、ヒップホップがエンターテインメントとして大きな存在感を持っているわけではなく、一般的にはまだまだ知られていない。
インド初のリアルなヒップホップ映画でもあると同時に、大衆エンターテインメント映画でもあるこの作品は、まだまだインドでは知名度の低いヒップホップを紹介するため、ラップとはリズムに乗せた詩であること、自分の言葉を自分でラップして初めて意味を持つことなど、ラップの何たるかがさりげなく分かるような構成にもなっている。
ヒップホップに全く興味がない人も置いていかないようになっている良くできた演出だ。

ムラドは書きためていたリリックを持って、ラップバトルの場に向かう。
はじめは自分がラッパーになる気は無く、リリックを渡すだけのつもりだったが、「ヒップホップはリリックを自分でラップしてこそ意味があるもの」と言われ、ラッパーとしての一歩を踏み出すことになる。
彼がYoutubeにアップしたラップは好評を博し、先輩ラッパーや帰国子女のトラックメーカーの助けも得て、ムラドはラッパーとしての道を歩んでゆく。
貧困、音楽活動に反対する父、やきもち妬きの恋人との別れなど、ムラドはさまざまな苦境にさらされるが、やがて、ラッパーとしての名を大きく上げるチャンスに出会うことになる…。

映画のタイトルになっているガリー(Gully)は、ヒンディー語で「路地裏」のような細い通りを意味する言葉である。
登場人物のモデルの一人であり、今ではインドを代表するヒップホップアーティストとなったムンバイのラッパーDivineが「ストリート」の意味合いで使い始めた、インドのヒップホップカルチャーを象徴する言葉で、主人公のムラドは、まさにダラヴィの「ガリー」で生まれ育ったという設定だ。
この映画は、ムンバイの巨大スラムで淀んだ青春を過ごすストリートの若者が、ヒップホップと出会い、希望を見出してゆく物語でもある。

インドの社会は、あまりにも大きな格差が存在する、残酷なまでの「階級社会」だ。
ムンバイのような大都市では、大企業や政治に携わり、海外とのコネクションを持って富を独占する人々と、彼らに仕えることで生計を立てる人々との間に、あまりのも大きな格差がある。
「ガリー」に暮らすムラドは、言うまでもなく後者に属している。
ガリーに暮らす人間が少しでも生活を良くするためには、なんとかして教育を受け、少しでも良い仕事につき、必死で働くしかないが、どんなにがんばっても、富を独占する富裕層の生活には遠く及ばないことは目に見えている。
構造的に希望が持てない立場に追いやられてしまっているのだ。

「ガリー」の人々は、これまで自分たちの言葉を発信する手段を持たず、彼らの言葉を聞くものもいなかった。
だが、ヒップホップという枠組みの中では、ストリートという出自はむしろ本物の証明であり、そこに生きる者のリリックはリアルな言葉として、同じ立場のリスナーに支持されてゆく。
ヒップホップにおいては、虐げられ、搾取される者の言葉が価値を持ち、なおかつその言葉で「成り上がる」ことができるのだ。

ムンバイじゅうのアンダーグラウンドラッパー(ほぼ全員がカメオ出演!)とのラップバトルのシーンの審査員を務めるのは、海外のシーンで活躍する在外インド人のミュージシャンたちだ。

インド人によるヒップホップは、イギリスやアメリカにいる在外インド人によって始められ、本国では耳の早いおしゃれな若者たちによって、支持されてきた。
本来はストリートカルチャーであったヒップホップが、当初はハイソな舶来文化として定着してきたのだ(この図式は他の多くの国でも見られるものだと思う)。
この映画は、これまでアンダーグラウンドなヒップホップシーンを作ってきた富裕層出身者と、「ガリー」出身のムラドとの邂逅の物語でもある。
つまり、インドでヒップホップがリアルなものになる瞬間を描いた作品でもあるということだ。

アメリカの黒人の間で生まれたヒップホップという文化が、全く別の国、それも、貧富の差や与えられるチャンスの差が極端に大きいインドのような国で、どのような意味を持つことができるのか。
ヒップホップという文化の普遍的な価値を知ることができる映画である。

主人公ムラドのモデルになったラッパーNaezyは、iPadでビートをダウンロードし、そこにラップを乗せ、さらにiPadで近所で撮影したビデオをアップロードして、一躍インドのヒップホップ界の寵児となった。
(その後、この映画のモデルとなったことで一般的にも広く知られるようになり、さらにビッグな存在になった)
スタジオでレコーディングするお金はなくても、専門的な機材もコネクションもなくても、やり方次第で誰もが自分の表現を発信し、世に出ることができる。
たとえスラムで暮らしていても、インターネットというインフラさえあれば、工夫次第でいくらでもチャンスつかむことができる。 
これは、インドだけの物語でも、ヒップホップだけの物語でもなく、インターネット時代の普遍的なサクセス・ストーリーでもある。

「俺の時代がやってきた」とラップする、この映画を象徴する1曲。"Apna Time Aayega"


主人公のモデルとなったNaezyのアンダーグラウンドシーンでの成功を追ったドキュメンタリー。
ヒップホップ人気が沸騰する直前の、ムンバイのアンダーグラウンドシーンの雰囲気が感じられる映像だ。


最後にもう一度紹介する。
10月18日公開の、インドはムンバイの実在のストリートラッパーをモデルにした映画『ガリーボーイ』。
自分はたまたまインド好きの音楽好きということで、この映画に少し早く出会うことができたが、インドとか音楽とかに関係なく、できるだけ多くの人に見てほしい映画である。
あなたもぜひ。


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2019年05月11日

母に捧げるインドのヒップホップ/ギターインストゥルメンタル

明日は母の日。
インド人といえば、お母さん大好きな国民性で知られている。
いや、そりゃどこの国でも母親の大切さというのは変わらないのだけれども、当然ながら感謝や愛情の表し方というのは国によって随分違う。

音楽でもそうだ。
日本よりも感情表現がストレートな英語圏でも、ポップミュージックのテーマは基本的に男女間の恋愛で、お母さんへの愛を直接的に表現した曲っていうのはあんまり聞いたことがない。
ところが、お母さんへの愛情も照れることなくストレートに表すインドでは、母への感謝や愛を歌った楽曲というのがけっこうあるのだ。
というわけで、今回は母の日を前に、インドの「お母さんありがとう」ソングを紹介します!

まず最初に紹介するのは、日印ハーフのラッパー、Big Deal.
英語でラップすることも多い彼が、生まれ故郷オディシャ州の言語オリヤー語でラップしたこの"Bou"は、そのものずばり「母」という意味のタイトルだ。

字幕を読むと、献身的な母親の愛情への感謝を率直に言葉にしたリリックであることが分かる。
Big Dealは、オディシャ人としての誇りや少年時代に受けた差別などをリリックのテーマにすることが多いが、つねにポジティブでまっすぐなメッセージを発信しているところが大きな魅力だ。
この曲もそんな彼の面目躍如といったところ。
ちなみに彼自身のお母さんはモハンティ三千枝という名前で活躍している小説家でもある。


先日公開され大ヒットとなったヒップホップ映画"Gully Boy"の中にも、母の愛をラップしたリリックが出てくる。

主演のランヴィール・シン自身がラップしているこの"Asli Hip Hop" は、本物のヒップホップに生きる決意を歌った内容だが、その中にもこんな内容のリリックが混じっている。

俺を嫌うやつは百万といるが、俺には母さんの愛がある
母さんの笑顔の中に俺の勝利があるのさ どうして失うことができようか
(中略)
俺はパフォーマーで、俺はアートを作っている
これこそが俺の宗教で、他にアイデンティティーはないのさ
母さんが神で、俺が育ったストリートこそが愛なんだ

(歌詞はヒンディー語の英訳から訳したもの)

この曲は映画の中のラップバトルのシーンで出てくる曲。
英語のラップだと相手の母親を侮辱するというのは聞いたことがあるけど、ここではヒンディー語で逆に自分のお母さんへの愛情をラップしてるっていうのが面白い。
2番目の歌詞をよく読んでみると、彼の育ったストリートと母親を並べて、誇るべきルーツとしてラップしていることが分かる。
インドでは、インドという国そのものを"バーラト・マーター(Bharat Mata=母なるインド)"という女神として、無償の愛を捧げてくれる母になぞらえて表現する伝統がある。
Bharat-mata
('Bharat Mata' 画像出店Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Bharat_Mata)

バーラト・マーターはインドの国土を背景に獅子を従えた美しい女性として描かれる。
独立闘争のなかで生まれたという、インドのなかでは歴史の浅い女神ではあるが、聖地ヴァーラーナシーにはこの女神を祀った寺院もある。
国家や自身のルーツを理想の母親像に似せて誇る文化と、お母さんへの愛情のストレート過ぎる表現には何か関連があるのだろうか。


超絶技巧のフィンガースタイル・ギターの名手Manan Guptaも、インストゥルメンタルではあるが"Dear Mother"というタイトルの曲を発表している。

ものすごいアイディアとテクニックを詰め込んだこの楽曲のどこが「親愛なる母さん」なのかさっぱり分からないが、きっと彼のスキルと発想の全てを反映した楽曲を、最も尊敬するお母さんに捧げたということなのだろう。

ちなみに「お父さんソング」っていうのは全然聞いたことがない。
インドの映画でも小説でも、父親って古い価値観で男性主人公と対立する存在として描かれることが多いし、あんまり面と向かってありがとうって感じでもないのかな(逆に娘と父親の愛情というのはすごくストレートに表されることが多いようだけど)。

というわけで、母の日前日の今回は、インドの「お母さんソング」を特集してみました。

今回紹介したアーティストをこれまでに紹介した記事もぜひお読みください。
Big Dealに関する記事:
「レペゼンオディシャ、レペゼン福井、日印ハーフのラッパー Big Deal」
「律儀なBig Deal(ミニ・インタビュー)」
「"Gully Boy"と『あまねき旋律』をつなぐヒップホップ・アーティストたち」インド北東部版のJoyner Lucas"I'm not Racist"である"Are You Indian"は必聴!

Ranveer Singhの"Gully Boy"に関する記事:
「ムンバイのヒップホップシーンをテーマにした映画が公開!"Gully Boy"」
「映画"Gully Boy"のレビューと感想(ネタバレなし)」
「映画"Gully Boy"あらすじ、見どころ、楽曲紹介&トリビア」

Manan Guptaに関する記事:
「説明不要!新世代の天才!Rhythm Shaw他若き才能たち!」




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2019年04月25日

史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)

6月7日に待望の日本公開が決まったインド映画『パドマーワト 女神の誕生』(原題"Padmaavat"、ヒンディー語。配給Spacebox)の試写を、インド・イスラーム研究者の麻田豊先生と鑑賞するという素晴らしい機会をいただいた。
この作品はインド映画史上最高額の制作費をかけた超大作で、昨年インド国内で大ヒットを記録したもの。
これがまた最高だったので、今回は音楽を離れて、この映画の話題を書いてみたいと思います。

予告編はこちら

この『パドマーワト 女神の誕生』は、16世紀のラクナウ(現ウッタル・プラデーシュ州の州都)地方のスーフィー(「イスラーム神秘主義者」と訳される)詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤシーによる叙事詩を映画化したもの。
原作となった叙事詩は、13世紀から14世紀 にかけてのインド北部の史実を題材としたもので、今日でもインドで親しまれている物語だというから、さしずめ日本でいう「平家物語」とか「忠臣蔵」のようなものなのだろう。

この映画は当初インドで2017年12月に公開される予定だったが、ヒンドゥー至上主義団体からの抗議のために1ヶ月以上公開が延期され(わりとよくあることではあるが)、またマレーシアでは逆に「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったといういわくつきの作品だ。 
『女神の誕生』という邦題のサブタイトルや、「その"美"は、やがて伝説になる」というキャッチコピーは、バーフバリ以降急増している女性ファンを意識したものと思われるが、とことんこだわったというふれこみの映像美にも増して印象に残ったのは、愛や義や野望に忠実に生きる登場人物の苛烈で劇画的なかっこよすぎる生き様だった。


あらすじをごく簡単に説明してみる。
義を重んじるメーワール王国の王ラタン・シンは、シンガラ国(現スリランカ)出身の絶世の美女パドマーワティと恋に落ち、妃とした。
同じ頃、ハルジー朝では己の野望のためには手段を選ばない暴君アラーウッディーンが、国王である叔父を亡き者にしてスルターンの座につく。
パドマーワティの美貌の噂を聞いたアラーウッディーンは、王妃を我がものにすべくメーワール王国に攻め入るが、強固なチットール城に阻まれて退却を余儀なくされる。
だが、和睦を持ちかけると見せかけて奸計を仕掛けたアラーウッディーンは、国王ラタン・シンを捕らえ、デリーの居城に幽閉してしまう。
アラーウッディーンはラタン・シンの身柄と引き換えにパドマーワティをデリーに誘い出そうとする。
しかしパドマーワティの決意と機知、そしてアラーウッディーンの第一王妃メヘルニサーの計らいによって、ラタン・シンはデリー脱出に成功する。
だがこれでアラーウッディーンが諦めるはずもなく、ハルジー朝は秘密兵器を携えて再度のメーワールを侵攻する…。


ヒンドゥーのメーワール王国とイスラームのハルジー朝の戦いの物語ではあるのだが、物語の主眼は宗教同士の戦いではなく、劇画的なまでにキャラが立った人間群像の生き様だ。
戦いの場においてさえ信義を優先させる高潔なラージプート(インド北西部の砂漠地帯ラージャスターンの戦士)の王ラタン・シンと、より強大な権力を目指し、欲しいものは全て手に入れようとする暴虐なスルターンのアラーウッディーン。
対照的でありながらも、愚かしいまでに己の誇りのために生きる二人の王に対し、后であるパドマーワティーとメヘルニサーは、国の平和のために知恵と愛で難局に立ち向かう。
あまりにも熱く激しく、そして悲しい物語は、まるであの『北斗の拳』のような印象を受けた。

強大な力を持ち手段を選ばないアラーウッディーンは気持ちいいほどのラオウっぷりだし、美しさと優しさと強さを兼ね備え、強い男たちを虜にするパドマーワティーはユリアを彷彿とさせる。
ラタン・シンとアラーウッディーンが宮中で対峙するシーンでは、宿敵同士であるはずの二人から、王としての誇りを持った者同士の不思議な「絆」さえ感じられ、さしずめ往年の週刊少年ジャンプのごとく「強敵」と書いて「友」と読みたくなってしまった。
(『北斗の拳』をご存知ない方はごめんなさい。世紀末の暗殺拳をテーマにした武論尊原作の名作マンガがあって、今40代くらいの男性は夢中になって読んだものなのです)

インドの古典叙事詩が持つロマンと日本の少年マンガ的なヒロイズムに共通点があるというのは面白い発見だった。
普遍的な人の心を惹きつける物語の要素というものは時代や場所が変わってもあまり変わらないものなのかもしれない。

とにかく、荒唐無稽なまでのキャラクターを凄まじい迫力と美しさで演じきった俳優たちの演技が大変すばらしく、ものすごいテンションで観客を映画の世界に引き込んでゆく。
じつは、物語が転がり始めるまでの序盤は若干退屈な印象を受けていたのだが、後半の怒涛の展開、そして美しくも激しい圧巻のラストシーンを見終わってみれば、呆然とするほどの満足感にしばらく席を立てないほどだった。

アラーウッディーン役のランヴィール・シンは "Gully Boy"(こちらに詳述)の繊細な主人公役とはうってかわって、狂気に満ちたアンチヒーローを鬼気迫るほどに演じきっている(制作は『パドマーワト』のほうが先)。狂気的な野望の持ち主でありながら、夜空の下で詩を吟じたりもする姿は憎たらしいほどにかっこいい。
絶世の美女パドマーワティを演じるディーピカー・パードゥコーンは外見的な美しさはもとより、内面の美しさ、強さ、誇り高さまでも感じさせる演技で、絢爛な衣装やセットの中でもひときわ美しく輝いている。かなり保守的なものになりかねない役柄を、強い意志と機知とたくましさをもった女性として描いたのは、彼女の演技に加えてサンジャイ・リーラ・バンサーリー監督の手腕でもあるのだろう。
高潔なラージプートの王、ラタン・シンを演じたシャーヒド・カプールも義と誇りに生きる男の強さと悲しさを完璧に表現し、ランヴィールとの素晴らしい対比を見せている。

己のプライドに生きる男たちと同様に、いやそれ以上に強烈な印象を残すのが誇り高き王宮の女性たちだ。
美しく、賢く、強い意志を持った女性たちが、悲劇的なストーリーの中で見せる気高さは何にもまして際立っており、「ラージプートの男たちが強いのは、強い母がいるからですね」という台詞がとくに印象に残った。
また詩人や宦官の奴隷、王に忠誠を誓う戦士といった脇役たちもそれぞれキャラが立っていて、ストーリーに花を添えている。

「究極の映像美」というふれこみに違わず、もちろん映像も素晴らしい。
20年前に訪れたラージャスターンでは、乾燥した大地に映える極彩色の民族衣装が印象的だったので、映像美と聞いてめくるめく色の洪水を想像していたのだが、予想に反してこの映画の基調となるのはセピア色を基調とした深みのある映像。
広大な砂漠や壮麗な王宮、絢爛な衣装を落ち着いた色調で描いた映像は、この壮大な歴史ドラマにふさわしい重厚さを演出している。

以下、映画を見るときにぜひ注目して欲しい部分。
(ほとんどが麻田先生の受け売りですが…)

・制作途中に数々の抗議や脅迫を受けた映画というだけのこともあって、冒頭に長々とした免責事項の説明がある。曰く、「この映画の地名、言語、文化、思想、伝統、衣装…等はフィクションであり、いかなる信仰や文化も軽んじる意図はない。サティ(インドの法律で禁止されている寡婦の殉死の習慣)を推奨するものではない。動物が出てくるシーンにはCGが使われ、実際の動物は大切に扱われた」云々。ちなみに制作中には前述の反対の声もあったというものの、映画が公開になると評価はほぼ賛辞ばかりになったらしい。

・映画の中で詩人として言及されるアミール・フスローは13世紀〜14世紀にかけて活躍したスーフィーの詩人、音楽家で、カッワーリーの創始者、タブラの発明者でもあり、北インドの古典音楽であるヒンドゥスターニー音楽の基礎を築いた人物である。

・アラーウッディーンが叔父から贈られた従者カフールは、字幕では「贈りもの」としか書かれていないが、実際は当時のイスラーム王宮に多数いた宦官の奴隷という設定である。その後のアラーウッディーンへの同性愛を思わせる場面は、こうした設定が背景となっている。

・戦闘シーンではメーワール王国の太陽の旗とハルジー朝の三日月の旗が対照的だが、実際にメーワールの紋章は太陽とラージプート戦士の顔を象ったもので、三日月はイスラームの象徴である。

・この映画にも『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で見られたような、ムスリムがヒンドゥーに対してヒンドゥー式のあいさつ(お礼)の仕草(両手を合わせる)をし、それに対してヒンドゥーがイスラーム式に「神のご加護を」と言う場面がある。女たちによるこのシーンは、男たちの戦いを描いた映画のなかで非常に印象的なものになっている。

・パドマーワティだけが、鼻の中央にもピアスをしていたが、何か意味があるのだろうか。王妃という地位を表すもの?

・サブタイトルに「女神の誕生」とあり「パドマーワティが女神のように崇拝されている」との説明があるが、物語の中でも現実世界でも、神々の一人として崇拝されているわけではない。パドマーワティの人気はあくまで伝説上の人物としての尊敬であり、信仰とは別のものだ。

・映画の中で「尊厳殉死」という漢字があてられている「ジョーハル」は、戦争に敗北した際に、女性たちが略奪や奴隷化を防ぐために集団で焼身自殺するというラージャスターンでかつて見られた風習である(井戸に飛び込んだりすることもある)。冒頭の免責事項にあるサティは、寡婦が夫の火葬の際に、夫の亡骸とともに焼身自殺する風習で、法律で禁止されているものの近年まで行われていたとされる。

・映画では悪役として描かれているハルジー朝だが、この「デリー諸王朝時代」はヒンドゥーとイスラームの習慣や文化が融合し、多様な文化が発展した時代でもある。この時代を多様性や寛容の象徴として'Delhi Sultanate'というアーティスト名にしたのが、デリーのスカバンドSka VengersのフロントマンTaru Dalmiaだ。彼は昨今の宗教的ナショナリズムに反対し、BFR Soundsystem名義で社会的な活動にも取り組んでいる。
「Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」

・サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督は音楽の才能にも恵まれており、この映画を彩る音楽も監督の手によるもの。インド古典音楽のエモーションとハリウッド的な壮大さが融合した楽曲が多く、作品をより魅力的なものにしている。とくに、物語の舞台となった北インド独特の力強いコブシの効いた古典ヴォーカル風の楽曲は必聴。

と、一度見た限りの印象(と麻田先生から教わった知識)ではあるが、ぜひこうした枝葉の部分にも注目して楽しんでいただきたい。


さすがに話題の大作というだけあって、昨年日本で英語字幕での自主上映が行われた時点でかなり詳しい紹介しを書いている方もたくさんいて、中でも充実しているのはポポッポーさんのブログ。
『ポポッポーのお気楽インド映画 【Padmaavat】』
史実や伝説との関係、上映反対運動のことまで詳しく書かれているのでぜひご一読を。


音楽ブログなので最後に音楽の話題を。
ラージャスターンの気高き戦士、ラージプートの誇りは現代にも受け継がれていて、ジョードプルのラッパーデュオ、J19 Squadは、以前このブログで行ったインタビューで、彼らのギャングスタ的なイメージについて、
「ラージャスターニーはとても慎ましくて親切だけど、もし誰かが楯突こうっていうんなら、痛い目に合わせることになるぜ。ラージプートの戦士のようにね」
と答えている。
 彼らの地元である砂漠の中のブルーシティ、ジョードプルの誇りをラップする"Mharo Jodhpur".
城に食べ物に美しい女性たち。地元の誇りがたくさん出てくる中、ラージプート・スタイルの口髭をぴんとはね上げた男たちも登場する。
これが問題のラージャスターニー・ギャングスタ・ヒップホップ。現代的なギャングスタにもラージプートのプライドが受け継がれているのだ。

地元のシンガーRapperiya Baalamと共演した"Raja"は、色鮮やかなターバンや民族衣装、ラクダに馬とラージャスターニーの誇りがいっぱい。

ラージャスターンのヒップホップについては何度か記事にしているので、ご興味があればこちらもお読みください。
「インドいち美しい砂漠の街のギャングスタラップ J19 Squad」
「忘れた頃にJ19 Squadから返事が来た(その1)」
「魅惑のラージャスターニー・ヒップホップの世界」

本日はここまで!
麻田先生、このたびは本当にありがとうございました!


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2019年02月17日

映画"Gully Boy"のレビューと感想(ネタバレなし)

インドでもここ日本でも大注目の、ムンバイのヒップホップシーンを題材にした映画"Gully Boy"の自主上映会に行ってきました!(Spaceboxさん主催、@キネカ大森)

GullyBoy

あらすじは自分が見るまで知りたくないという人もいると思うので、別の記事にまとめてあります。
他に、ストーリーに関連した見どころやトリビアなんかも書いてあるので、そっちも読んでみたい方はこちらからどうぞ( "Gully Boy"あらすじ、見どころ、楽曲紹介&トリビア)。

じつは、感想を書くにあたって、「たぶんこんな感じだろうな」と思って書きかけていたものがあったのだけど、実際に映画を見てみたら、これがもう本当に素晴らしく、あまりにも感じたことや気づかされたことが多くかったので、事前に書いたものを全て消して今新たにこの文章を書いている。

Ranveer Singh演じる主人公は、ムスリムのラッパー、Murad.
以前も書いたように、この映画は実在のムンバイのラッパー、Divine(クリスチャン)Naezy(ムスリム)を題材にしたもので、MuradはNaezyをモデルにしたキャラクターということになるようだ。
てっきりDivineが主人公だと思っていたので、これにはけっこう驚いた。
どうやら映画の中でMuradの兄貴分にあたるMC Sher(Siddhant Chatruvedi)がDivineをモデルにしたキャラクター(ラップの吹き替えもDivine)にあたるらしい。
(DivineやNaezyについては、こちらの記事をどうぞ「ムンバイのヒップホップシーンをテーマにした映画が公開"Gully Boy"」) 

とはいえ、二人のキャラクター設定は実際のDivineとNaezyとは違うところが結構あるので、やはりZoya Aktar監督の言うとおり、これは伝記映画というよりも、彼らをモチーフにしたフィクションとして見るべき作品なのだろう。
(映画の冒頭には、きちんと'Original Gully Boys'としてDivineとNaezyの名前が出てくるのだが)

なんといってもこの映画でとにかく印象に残ったのは、Ranveerの演技の素晴らしさ!
予告編やポスターを見る限り、Ranveerの七三分けみたいな髪型や自信なさげな様子が、ラッパー役にしては違和感があるなあと感じていたのだけど、これが実はMuradの内面の繊細さや抑圧された状況を表す演出であって、そんな彼がラップを通して自信と自由と成功を手に入れてゆく過程が、じっくりと丁寧に描かれている。
実際のNaezyを撮影した"Mumbai 70"という短編ドキュメンタリーを見たことがあるが、この中でオフステージのNaezyが見せていたのと同様の繊細さがうまく再現されていた。



まだまだヒップホップが一般的でないインドで、兄貴肌でワイルドなイメージのDivineを主人公にしても共感は得られにくいだろうから、この設定は非常にうまくできているのではないだろうか。
吹き替え無しで臨んだラッパーとしてのパフォーマンスシーンももちろん圧巻で、Ranveerはこの映画でほんとうに良い仕事をしたと思う。

映画全体を見ても、貧しい生まれの青年のラッパーとしてのサクセスストーリーを軸に、恋愛、家族との葛藤、格差、貧しさゆえに手を染める悪事などの要素もうまく盛り込まれていて、単なる音楽映画でも青春映画でもない重厚な作品に仕上がっていた。
また映像がとても美しかったのも印象的だ。

ボリウッドにつきもののミュージカル/ダンスシーンのヒップホップへの翻案は、下手をするとかなりださいものになってしまうのでは、と心配していたのだけど、ミュージックビデオの撮影というとても自然な取り入れられ方をしていて、ストリート感覚とエンタメのバランスの良さに感心させられた。


また、ラップのリリックの内容に社会性が強いものが多かったという点も特筆したい。
いくつか紹介すると、「なぜこうも上手くいかないのか、なぜ富めるものと貧しいものがいるのか」というテーマの"Doori"はZoya Akhtar監督の父で、詩人/作詞家/脚本家としても著名なJaved Akhtarの詩をDivineがリライトしたもの。
 

"Azadi"は「飢え、差別、不正義、政治の腐敗、格差からの自由を!」というテーマの曲。
Azadiは自由という意味のヒンディー語で、デリーの人気ヒップホップレーベルの名前にもなっている単語だ。
この曲の"A-Za-di!"というコーラスはデモ行進のシュプレヒコールを思わせるもので、この映画がヒップホップを社会運動的な側面を持つものとして描いていることがよくわかる楽曲。
パフォーマンスはDivineとDub Sharma.

 

こうしたテーマは、じつはストリートの生活やそこに暮らす人々の心のうちを扱うことが多い実際のNaezyやDivineのリリックよりも、かなり具体的で政治的なものだ。
(ムンバイで政治的、社会的なテーマを扱うラッパーとしては、MC MawaliとMC TodfodのデュオであるSwadesiがいる)
インドで最初のストリートヒップホップを題材にした映画(それも大物俳優の出演した大作)が、娯楽的なサクセスストーリーだけではなく、こうしたラップが持つ社会的な意義をもテーマにしたということは、すごく重要なことだと思う。
ボリウッドが、ラップを単なるエンターテインメントでも成り上がりの手段でもなく、持たざるものが声を上げ、社会に対峙するための武器として描いたことはきちんと評価したい。

日本でヒップホップ映画を撮ると、どうしても『サイタマノラッパー』みたいに、「ヒップホップの美学と日本人のメンタリティーの間にあるギャップにフォーカスする」という視点になりがちだけど(それはそれで大好きだが)、映画の中のムンバイのラッパーたちは、自身のおかれた社会的状況や格差や不正義をストレートにラップし、喝采を浴びる。
これは国民性の違いと言ってしまえばそれまでだが、表現者がどれだけ社会の抑圧をリアルに感じているかということが大きく関係しているように思う。

抑圧された人間が、自分の心のうちを自分の言葉(ラップ)で表現することによって、いかに自由とプライドを取り戻せるのか。
ヒップホップでどんな夢が見られるのか。
個人のラップが、一人の人間だけでなく、彼がレペゼンするコミュニティーにとってどんな意味を持ちうるのか。

この映画で提示されたテーマは、インドのみならず、世界中の都市に暮らす人々やヒップホップファンにとってもリアルに感じることができるものだと思う。
つまり、この映画は、DVDになったときに、『バーフバリ』とか『ムトゥ』の隣ではなく、"8 Mile"とか、"Straight Outta Compton"の隣に並べてもまったく構わないということだ。
夢を追うミュージシャンのサクセスストーリー、もしくは実在のアーティストの脚色された伝記という括りで、『アリー スター誕生』とか、『ボヘミアン・ラプソディ』の隣にこの映画のDVDを並べたって構わない。
いや、むしろそうしてほしい。 
この傑作映画は、インド映画好きのためだけの映画ではまったくない。

また、この手のヒップホップがまだまだアンダーグラウンドであるインドの市場を考えてのことだと思うが、ストーリーの中で、ヒップホップ/ラップがどんなものなのかという説明もさりげなくされる構成になっているところにも感心した。
ヒップホップに興味のない人も置いていかないようになっているから、ヒップホップ映画ではなく、単に一人の人間の成長物語としても、社会的な映画として見ることもできるのだ。


個人的な話になるが、現代のインドの音楽に興味を持ったきっかけのひとつが、90年代にインドを旅したときに、「インド社会の中で抑圧された人たちが、アメリカの黒人のように音楽で主張をし始めたら、すごいことになるだろうなあ」という気持ちを抱いたことだった。
今、それがまさに実現していて、こうしてインドのエンターテインメント界の大本山であるボリウッド映画にまでなったということに、なんというかもう感慨無量だ。

インド映画について語る時、「インド社会は現実があまりにも厳しいから、現実にはありえないような夢物語が大衆に好まれる」という趣旨のことが言われがちだが、この映画に関しては夢物語でもなんでもなく、実際にストリートからのし上がったラッパーたちがモデルになっているのだ。
エミネム主演の"8 Mile"に似ている部分もあるが(とくにラップバトルのシーン)、"8 Mile"の背景として、音楽業界の発展したアメリカ社会では、ラッパーとして有名になることによって社会的・経済的な成功が得られるというコンセンサスがあった。
インドの場合、ストリート出身者がラップをしても、それでプロになって暮らしてゆけるなんて、かつては誰も思っていなかった。
"Gully Boy"は、すでに確立された形で夢を叶えた成功物語ではなくて、インドの常識を変えた「最初の一人」を象徴的に描いているというところにも大きな意味があるのだ。

そして、「インドにおけるストリートラッパー(=gully boy)のサクセスストーリー」という映画の物語とは別に、「ストリートラッパーの人生がスター俳優主演でボリウッドで映画化する」というこの映画そのものが、この映画のモデルになったNaezyやDivineにとっての最高のサクセスストーリーになっているわけで、この現実と映画がリアル絡み合った状況がインドのインディーミュージックファンにはもうたまらない。

この映画のテーマ曲"Apna Time Aayega"は「俺の時代がやって来る!」と宣言する楽曲。


この「俺の時代」とは、インドじゅうのアンダーグラウンドラッパーが注目される時代であり、声なき者たちの声をラップという形で社会に広く届けることができる時代であり、また抑圧された境遇に生まれた者がインディーミュージックに夢を持つことができる時代のことなのだ。

学生時代以降、あんまりインドに行けていないけど、ずっとインドを好きでいて良かった。
素直にそう思えた映画だった。
まだインターネットが一般的でない時代の、欧米や東アジアとは完全に別世界だったインドも懐かしいけど、新しいインドもやっぱり最高に面白い。
そのインドの中から、こうして普遍的な魅力をもった音楽映画が出てきたということが、とても感慨深かった。
でもほんと、そんな個人の感慨なんてどうでもいいくらいの歴史的な映画だった!

改めて、日本での一般公開が待たれる素晴らしい映画でした。
今度は日本語字幕でしっかりと見てみたい! 
本当はヒンディーやウルドゥーが分かったら何倍も楽しいのだろうけど。

多少ネタバレがあっても良いからもっと読みたい、という人はあらすじの記事も読んでみてください。


(関連記事「Desi Hip HopからGully Rapへ インドのヒップホップの歴史」

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goshimasayama18 at 18:13|PermalinkComments(0)

映画"Gully Boy"あらすじ、見どころ、楽曲紹介&トリビア

映画"Gully Boy"のレビューを書いてみたのだけど(リンクはこちら)、あらすじについては映画を観るまで知りたくない、という人もいると思うので、レビューとは別にこちらの記事に書くことにします。
あらすじと言っても、全てを書いてしまっているわけではなく、ちょうど映画のパンフレットに書いてあるくらいの感じにしたつもりです。
見どころ、楽曲紹介とトリビアも書いてあるので、映画を観終わってから読んでも「あのシーンにはああいう背景があったのか」と楽しめるものと思います。

あらすじは読みたくないけど見どころとか楽曲紹介とかトリビアだけ読みたい、という人は、一度記事の一番下までスクロールしていただいて、そこから少しだけ上に戻ってみてください。
多めの改行がしてあるので、あらすじを読まずに済むようになっています。

前置きが長くなりましたが、あらすじはこの下から!
























"Gully Boy"あらすじ

イスラム教徒の大学生Murad(Ranveer Singh)は、家族とともにインド最大のスラム、ダラヴィに暮らしている。
彼はときに悪友の起こす悪事に巻き込まれたりしながら、退屈で希望の持てない青春を過ごしていた。
彼は一人になるとノートに自作のラップのリリックを書くほどのヒップホップファンだが、憧れのNas(アメリカのラッパー)はあまりにも遠い存在だ。
MuradにはSafeena(Alia Bhatt)という幼なじみの恋人がいるが、裕福で保守的な彼女の両親は、二人の交際を認めてくれるはずもなく、二人はお互いの家族に分からないように会わなければならなかった。

ある日、大学でのコンサートでMC Sher(ライオン)と名乗るラッパー(Siddhant Chaturvedi)のステージを見たMuradは大きな衝撃を受ける。
ムンバイにもアンダーグラウンドなヒップホップシーンがあることを知ったMuradは、ラップバトルの場を訪れ、Sherに「よかったら自分が書いたリリックをラップしてくれないか」と話しかけるが「ラップは自分自身の言葉で語るものだ」と返されてしまう。
自分がラッパーになる気は無かったMuradだったが、Sherにうながされ、彼は自作のリリックを初めて人前で披露することになるのだった。

彼がYoutubeにアップした動画は、アメリカの名門音楽学校、バークリー出身の女性ビートメーカーSky(Kalki Koechlin)の目に留まり、Sherと彼女とMuradの3人での音楽活動が始まった。
本格的にラッパーとなったMuradは、スラムのストリート出身であることから、「ストリートの少年」を意味する'Gully Boy'と名乗ることになった。

ラッパーとしての活動を始めたMuradだが、そんな時に父が事故にあい、怪我のために働けなくなってしまう。
彼は父に代わって裕福な家族の運転手として働くことになるが、そこでスラムに暮らす自分との圧倒的な貧富の差を目の当たりにするのだった。
Sherの励ましで、自分の見たこと、感じたことを率直にラップすることを決意したMuradは、格差やストリートでの生活をテーマにしたラップをレコーディングし、地元ダラヴィのストリートでミュージックビデオ撮影を決行。
その動画が高い評価を受け、Muradは人気ラッパーになってゆく。
しかし父は彼のラッパーとしての活動に大反対する。
「音楽などして何になるのか。お前にそんなことをさせるために教育に金を注ぎ込んできたわけではない」と父は激怒。
ミュージックビデオの成功を祝うパーティーでは、嫉妬深いSafeenaがSkyとの関係を誤解してトラブルになり、そのことがきっかけでSafeenaとも別れてしまう。
家では父が母に暴力を振るい、Muradと母と弟は家を出て暮らすことになる。

途方にくれるMuradだったが、彼はアメリカの人気ラッパー、Nasのインド公演のオープニングアクトを決めるラップバトルが行われることを知り、この夢のような機会に応募することを決める。

なんとか大学を卒業したMuradは、叔父の会社で働くことになった。 
貧しい生まれの彼にしては十分すぎるほどの境遇だ。
だがそこでは、ラップバトルに参加するための休みを取ることは許されず、「使用人の子はしょせん使用人」と屈辱的な言葉を浴びせられてしまう。
Muradは夢を選ぶのか、安定した人生を選ぶのか…。



























'Gully Boy'の見どころ!
  • この映画の中で、ヒップホップは、序盤では退屈で希望が持てない日常を忘れさせてくれるものとして、中盤では自分自身の言葉を語り誇りと自由を取り戻すためのものとして、終盤ではストリート出身のMuradが夢を叶えるための手段として描かれている。また、終盤のあるシーンで、Muradのラップが、Muradのためだけのものではなく、彼が暮らすダラヴィ17のコミュニティーの声を代弁するものであることが示唆される。Zoya Akhtar監督は、本当にヒップホップに対する正しい理解のもとでこの映画を作成したと思う。
  • 映画の序盤、Muradは、「ヒップホップファンではあるが、ラッパーになる気はない若者」として描かれる。この映画は、そんな彼がラッパーになろうとする過程で、Sherからヒップホップの表現者としての精神を教わってゆくという構成になっている。まだこの手のヒップホップがアンダーグラウンドな存在であるインドで、観客に分かりやすくヒップホップ文化を伝えることができるよう、うまくできた構成だ。
  • 映画の冒頭、悪友Moeenが車両強盗をするシーンで、盗んだ車の中でかかる曲は、典型的なインドの売れ線ヒップホップ。Muradがこの手のヒップホップを拒否するシーンを見せることで、彼がコマーシャルなものではなく、よりリアルなヒップホップを志向していることを暗示している。(MC Sherのステージを見るまで、Muradが地元のシーンを知らなかったようにも見えるので、「彼はアメリカのヒップホップに憧れてヒンディーでリリックを書いているがムンバイにヒップホップを実践している人がいるとは知らなかった」ということだろう)
  • この映画のラップバトルのシーンが独特で、DJやビートに合わせるのではなく、トラック無しで1ターンずつラップしあうというもの。インドではこれが一般的なのだろうか。
  • Muradのラップを高く評価して、トラックメーカーとして名乗り出たSkyと名乗る人物を、彼とSherは男性だと思っていたが、会ってみると正体はボストンの名門バークリーで学んだ女性だった。貧しいMuradとSherは、大学で音楽を学ぶということが想像できない。二人にとって、教育とは現実的な収入の良い仕事につくためのものでしかなく、音楽がキャリアになるとは考えたこともないからだ。インドの富裕層/エリート層のミュージシャンが、ヒップホップというカルチャーを通して、ストリート出身の二人と出会う象徴的なシーンだ。実際にバークリー出身のインド人女性ミュージシャンに、シンガーソングライターのSanjeeta Bhattacharyaや日本で活躍するジャズ/ソウルシンガーのTea(Trupti Pandkar)らがいる。
  • Muradに惹かれてゆくSkyに、生まれ育った境遇があまりに違う彼は戸惑って「どうして僕のことなんかが好きなんだい?貧しい階級の出身なのに」と尋ねる。それに対してSkyは「あなたはアーティスト。どこから来たかなんて気にしない」と答える。ヒップホップという自由を希求する音楽に惹かれながらも、Muradもまた階級意識から自由になれていないということが分かる。
  • 若者が主人公のインド映画では、たいてい親子の価値観の違いによる断絶が描かれるが、この映画もまた然り。Muradの親もSafeenaの親も厳格で保守的だが、それは子どもたちに安定した幸福な暮らしができるようになってもらうための愛情でもある。だが、若い世代にとっては安定よりも自由こそが幸福なのだ。
  • ラップコンテストのシーンで審査員を務めている垢抜けた感じの人たちは、アメリカやイギリス生まれのインド系移民のミュージシャンたち。このブログでも取り上げたRaja Kumariの姿も見える。このシーンは、これまで海外のインド系移民や、裕福な層(この映画の中ではSky)を中心に作られてきたインドのインディーミュージックシーンに、いよいよ本物のストリート出身のアーティストが加わることになる瞬間を描いたものとして見ることもできる。
  • ラップコンテスト予選のシーンは、最初のラップバトルのシーンと対になっている。ヒップホップにおいて大事なのはファッションではなく言葉の中身であることが示されるシーンだ。「インドで最初のヒップホップ映画」がヒップホップをファッションではなくよりリアルなものとして描いていることはきちんと覚えておきたい。
  • 負傷した父に代わり、裕福な家庭の運転手として働くことになるMurad. 運転手は、貧しい生まれの者が決して手が届くことがない富裕層の世界に触れることができる象徴的な職業だ。金持ちの運転手を務める使用人の境遇については、アラヴィンド・アディガ(Aravind Adiga)の小説「グローバリズム出づる国の殺人者より」(原題"The White Tiger")に詳しい。
  • ラップコンテストのシーンでは、実際にインドのアンダーグラウンドシーンで活躍するラッパーが何人もカメオ出演している。名前が出てきただけでも、Shah Rule, Emiway Bantai, Kaam Bhari, MC Todfod, Malic Sahab, Checkmate, Stony Psyko, Shaikspeare… 他にもいたかな。
  • ステージに向かうMuradが神に祈りを捧げるシーンがある。また、成功を納めた彼をスラムの住人が老若男女も宗教の区別もなく祝福する場面もある。ムンバイのスラムで、ヒップホップが信仰やローカル社会と矛盾するアメリカの文化ではなく、生活に根ざしコミュニティーを代弁するものになっていることが分かるシーンだ。 
  • Muradがダラヴィのストリートで撮影した映像は評判を呼び、多くの支持を集めるが、それでも彼は音楽で生きてゆくという決心がなかなかつかず、父親も彼がラッパーとして生きてゆくことを認めようとしない。インドではCDやカセットテープが音楽流通の主体だった時代にインディーミュージックが栄えることはついになかった。インドで音楽で生計を立てるには、映画音楽などの商業音楽の道に進むか、厳しい修行を経て古典音楽のミュージシャンになる以外の道は、ほぼなかったのだ。インターネットを介して誰もが様々な音楽を享受/発信できる時代になって、初めてインドのインディーミュージックシーンが発展しはじめた。つまり、音楽は無料で聴くものであって、いくらそこで評判を得ても、音楽を売ってプロになるという道はいまだに整備されていないのだ。そういう現状を踏まえると、ストリートから音楽で成功したNaezyとDivine、そして映画の中のMuradの見え方がまた変わってくるのではないだろうか。






映画に使われた楽曲たちをいくつか紹介!

傷ついた心と母親への愛、そしてインドに本物のヒップホップを届けるぜ!という気持ちをラップする"Asli Hip Hop"はアンダーグラウンドシーンのラッパーSpitfireによるもので、ラップしているのは主演のRanveer自身。
映画の中ではラップバトルのシーンに使われていた。
インド人の母親への愛情表現はいつもストレートだが、ラップバトルでお母さんへの愛情をラップするというのはちょっと面白い。
アメリカだと相手の母親をけなすというのは聞いたことがあるけど。


「俺たちの時代が来る」とラップする"Apna Time Aayega".
この曲はボリウッドに取り上げられにわかに注目を集めたアンダーグラウンド・ラップの象徴的な扱いをされていて、多くのラッパーがこの曲のタイトルに関連した発信をソーシャルメディア上でしている。
DivineとDub Sharmaによる楽曲をこれもRanveer自身がラップ。
映画のなかのこの曲のシーンでは、涙が止まらなくなった。


Zoya Akhtar監督の父、Javed Akhtarによる詩をDivineがリライトした"Doori".
映画の中ではこの曲でMuradの詩的センスが高く評価されることになる。
なぜこうも上手くいかないのか、なぜ富めるものと貧しいものがいるのか、といった内容を詩的に表現した曲で、これもRanveer.
彼は本当にラップをがんばっている。


「飢え、差別、不正義、政治の腐敗、格差からの自由を!」というテーマの曲。"Azadi"
Azadiは自由という意味。デリーの人気ヒップホップレーベルの名前にもなっている単語だ。
この曲の"A-Za-di!"というコーラスはデモ行進のシュプレヒコールを思わせるもので、この映画がヒップホップを社会運動的な側面を持つものとして描いていることがよくわかる楽曲。
パフォーマンスはDivineとDub Sharma.

"Azadi"のコール&レスポンスはインドのデモの定番で、音楽の場で使われている例としては、以前紹介したデリーの社会派レゲエ・アーティストのTaru Dalmiaの活動を追ったドキュメンタリー(「Ska Vengersの中心人物 Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」)の最後にも出てくる。

"Train Song"はカルナータカ州出身の人気フォーク(伝統音楽)系ポップ歌手Raghu Dixitと90年代から活躍する在英エレクトロニカ系アーティスト/タブラプレイヤーKarsh Kaleの共演で、プロデュースにはMidival Punditzの名も。


"India 91"は古典音楽カルナーティックのパーカッション奏者Viveick Rajagopalanのリズムに合わせてMC Altaf, MC TodFod, 100 RBH, Maharya & Noxious Dがラップする楽曲。
伝統のリズムとラップの融合という、インド特有のヒップホップ文化にもきちんと目配りがされていることがうれしかった。
元ネタは以前このブログでも紹介したRajagopalanとSwadesiのコラボレーションによる楽曲"Ta Dhom".(「インド古典音楽とラップ!インドのラップのもうひとつのルーツ」



トリビア

最後に、映画の設定と実際のDivineとNaezyとで違うところや、トリビア的なものを挙げる。
これ以外にもたくさんあると思うけど、やはり監督Zoya Akhtarの言う通り、これは伝記映画ではなく、DivineとNaezyをモデルにアンダーグラウンド・ヒップホップシーンを描いたフィクション映画として楽しむべきものなのだろう。

  • 映画の舞台は、『スラムドッグ・ミリオネア』と同じ「インド最大のスラム」ダラヴィになっていたが、Naezyが生まれ育った街はBombay70ことクルラ地区の出身で、Divineは西アンデーリー出身。いずれもスラムと呼ばれる土地ではある。
  • Divineをモデルにしたと思われるMC Sherは、映画ではどうやらヒンドゥーという設定のようだったが、実際のDivineはクリスチャンで、本名はVivian Fernandes. 不良少年だったが、教会では敬虔に祈りを捧げることから、Divineの名を名乗ることになった。
  • 映画ではMC Sherは母親がいない設定だったが、実際のDivineが育った環境はシングルマザーの家庭だった。実際はその母親も海外に出稼ぎに出ていたため、祖母のもとで育てられた。
  • Muradが暮らす家をスラム体験ツアーで欧米人ツーリストが訪れたときに、Muradがツーリストが着ているNasのTシャツに反応するシーンがあるが、実際のDivineがヒップホップに興味を持ったきっかけは、彼のクラスメートが50 CentのTシャツを着ていたことだった。
  • 映画では、MC SherがMuradに自分の言葉で自分でラップするように諭す存在として描かれているが、現実の世界でも、活動初期に英語でラップしていたDivineに対して、ヒンディー語でのラップを勧めたラッパーがいる。Camoflaugeの名でトロントでラッパーとして活動しているGangis Khanだ。
  • 最初のラップバトルで、Muradが着ていたニセモノのアディダスを馬鹿にされ、何も言い返せなくなってしまうシーンがあるが、実際にニセモノのアディダスをテーマにした曲をリリースしたムンバイのラッパーがいる。英語でラップするTienasが2017年に発表した"Fake Adiddas"がそれで「ニセモノのアディダスと安物の服にはもうウンザリ」という内容。
  •  
  • 映画ではMuradはSafeenaにプレゼントされたiPadを使って本格的にラップを始めるが、実際のNaezyは、父親にプレゼントされたiPadを使ってレコーディングし、ミュージックビデオを撮影してYoutubeにアップロードしたことが注目されるきっかけとなった。


ちなみにDivineの"Jungli Sher"もiPhoneで撮影されたミュージックビデオという触れ込みだが、これはメジャーのソニーからリリースされた楽曲なので、貧しさゆえというよりは話題作りという意味合いの強いものだろう。


映画の中でも、彼らが地元ダラヴィでミュージックビデオを撮影するシーンが出てくるが、この"Mere Gully Mein"はDivineとNaezyによるオリジナルにRanveerのパートを追加したもの。
 

  • 映画ではMuradが暮らすスラムの地区は「ダラヴィ17」と呼ばれ、Gully Boyはダラヴィ17をレペゼンするラッパーとしてラップコンテストに望むことになるが、Naezyが生まれ育ったクルラ地区のスラムのエリアコードは"Bombay 70"。彼をモチーフにした短編ドキュメンタリー映画のタイトルにもなった。
 

  • この映画のエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされている米ヒップホップ界の大スターNas(ナズ). パキスタンや北インドのムスリムの間で話されるウルドゥー語で'Naz'とは「あなたがどんなときも常に愛されていることを知ることで得られる安心感と自信」という意味の他の言語に訳せない言葉。単なる偶然だが、この映画のテーマを考えると暗示的ではある。この映画のためにNas, Divine, Naezy, Ranveer Singhがコラボした"NY Se Mumbai".
 

と、いろいろと語らせてもらいました。
個人的に好きなのは、Muradが家の中でiPadでラップの練習をしていて「独り言はやめなさい。縁起が悪いから」と母親に言われるシーンと、家でステージでのパフォーマンスの練習をしていたところに父親が帰ってきて、あわてて何もしていない振りをするシーン。
世界中のラッパー志望の若者たちが共感できて笑えるすごく素敵なシーンだと思った。


いずれにしても、この映画でインドのヒップホップシーンがますます注目され、活性化することは間違いない。
そんな中で、Divineは自らのレーベル'Gully Gang Entertainment'を発足することをアナウンスした。
そこからいったいどんなアーティストが出て来るのか、本当に楽しみで仕方がない。 


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goshimasayama18 at 18:13|PermalinkComments(0)

2019年02月04日

ムンバイのヒップホップシーンをテーマにした映画が公開!"Gully Boy"

1年ほど前にこのブログで紹介した、ムンバイを、いやインドを代表するラッパーDivineの半生をモデルにした映画が公開される。
タイトルは"Gully Boy".
GullyBoy

主演はランヴィール・シン(Ranveer Singh)。
マッチョなボディー(マッチョが多いインド人俳優のなかでも群を抜く)と甘いマスクで日本にも根強いファンがいる俳優だ。
インド映画好きにとっては、昨年"Om Shanti Om"等で有名なディーピカー・パドゥコーン(Deepika Padukone)との美男美女カップルの結婚式を覚えている人も多いことと思う。
Deepika_Ranveer_traditional
Deepika_Ranveer_Western
さすがに何着ても似合うね。

共演は英国籍インド人のアリア・バット(Alia Bhatt).
これまでベストセラー小説"2 States" の映画版のヒロインなどを務めており、歌手としても活動している。
監督はゾーヤ・アクタル(Zoya Akhtar).

タイトルの'Gully'という英単語を調べると「小峡谷」や「水路」という訳が出てきて「はて?」となるが、ヒンディーが分かる人に聞いてみたところ、これは実はヒンディー語で、「路地」というような意味とのこと。
さしずめ「ストリート」のニュアンスで捉えたらよいのだと思う(Divineのラップクルーの名前も'Gully Gang'だ)
予告編を見ると、スラムからヒップホップでのし上がってゆくという内容の映画のようだ。


Divineは以前の記事でも書いたとおり、ムンバイの貧しい地区で育ったクリスチャン。
初めは英語でラップしていたが、自分自身をより的確に表現するためにヒンディーでラップするようになったという。
クリスチャンはインド社会のなかでは少数派(人口の2%くらい)であるため、映画では主人公の背景がどのように描かれるのか(あるいは描かれないのか)気になるところだ。
あらためて代表曲を紹介すると、「これがオレのボンベイ(ムンバイの旧名)だぜ!」と宣言する"Yeh Mera Bombay".

ムンバイとはいってもそこは'Gully'出身のDivine.
このビデオには高層ビルもオシャレエリアも出てこず、出てくるのは屋台のオヤジやリクシャードライバーのオッサンばかり。
こんなふうに下町を練り歩いていた彼がボリウッド映画にまでなると思うと非常に感慨深い。

Divineと並んでこの映画のモデルとなったのは、同じくムンバイを代表するラッパーのNaezy.
彼の代表曲"Aafat!".
さびれた埠頭やトラック駐車場といった「大都会でない」ムンバイを映したビデオからは、彼がDivine同様にストリートに出自を持つラッパーであり、同時に確かなスキルを持っているということが分かるだろう。

このビデオではいかにもストリート系なコワモテのイメージだが、彼は敬虔なムスリムでもあり、不良少年からヒップホップで立ち直ったという経験を持つ。
彼の生き様を取り上げたこの短いドキュメンタリー(英語字幕付き)は2014年のムンバイフィルムフェスティバルで最優秀短編映画賞を受賞した。

白いムスリムの衣装に身を包んだ彼からは、ラッパーとしてパフォーマンスしているときとは全く異なる印象を受ける。
彼もまた貧しい地区に生まれ、盗みや暴力行為を繰り返す不良少年だったが、あるとき逮捕されたことをきっかけに誤った道にいることに気づき、部屋に籠ってリリックを書き始め、ラッパーとしてのキャリアをスタートさせた。
偶然聞いたショーン・ポールに憧れ、英語のラップを覚えてクラスメートや女の子の注目を集めていた彼は、こうした過ちを経て自分の言語で、自分の言葉をラップし始めるようになった。
彼が初めて書いたリリックはこんな感じだ。

たくさんの道が目の前にある / だがお前は多くの誘惑に溺れかけている
初めからやり直せたらと思っているが / 時間は過去に戻してはくれない
もしもまだ完全に溺れてしまっていないなら / しっかりするんだ
神様はお前のために何か考えてくれているはずだから


「これが俺のホームスタジオさ」と彼が見せるのは、父親からプレゼントしてもらったiPadだ。
スラムに暮らす家族のプレゼントがiPadというのにも驚かされるが、このiPadで、彼はビートをダウンロードし、ループさせ、彼のリリックを乗せて、ビデオクリップまで撮影した。
こうしてインターネットにアップした映像が先ほどの"Aafat!"で、1年間で10万ビューもの注目を集めることとなった(今では400万ビューにも達している)。

だが、彼の母親は、不良の道から更生したことを喜びながらも、彼のしていることを「イスラームでは認められていないことよ」とも言う。
「みんなはサングラスが似合っているというけれど、目を隠すためにしているのさ」と語る彼は、細やかな感性を持ち、音楽と家族との間で葛藤する若者でもあるのだ。
こうした繊細な部分が映画ではどのように描かれるのだろうか。

監督のZoya Akhtarは、インドではまだアンダーグラウンドな存在であるヒップホップシーンの熱さと魅力に触発されてこの映画を撮ったとのことで、この映画はDivineとNaezyの伝記ではなく、あくまで二人にインスパイアされた架空の物語だとしている。
彼らと同じムンバイ出身で、大のヒップホップファンで知られる主演のRanveer Singhは、この映画の主人公を演じることを熱望し、「俺はこの映画をやるために生まれてきた」とまで語っている。
インドの娯楽のメインストリームである洗練された映画業界に生きる彼から見て、初期衝動むき出しのムンバイのヒップホップシーンは逆にまぶしく映るのだろう。
映画のモデルとなったDivineは、監督やRanveerのヒップホップへの情熱に対して「(たとえこれが自分とNaezyの伝記でなくても)これは俺たちみんなの物語なんだ。 俺のメッセージがより多くの人たちに届く助けになるのであれば…」と映画への協力を決めた模様。

DivineとNaezyがコラボした、オリジナルの"Mere Gully Mein"

Ranveer Singhらによる"Gully Boy"バージョンの"Mere Gully Mein"

ストリートラッパー達がスラムを練り歩いて撮ったビデオを人気俳優がリメイクする日が来るとは、当時は誰も想像しなかっただろう。
ヒップホップ好きというだけあって、Ranveerのラップのスキルもなかなかのものだ。
ボリウッドスターが出演している注目作ということもあり、2019年の1月に公開されたこのビデオの再生回数は、さっそくオリジナルを超えてしまった(現時点で1,600万回ほど。オリジナルのミュージックビデオは2015年に公開され、約1,400万回)

一方で、この曲をめぐってちょっとしたトラブルも発生している。
このブログでも何度も紹介してきた鬼才トラックメーカーのSez On The Beatは、もともと彼がプロデュースした"Mere Gully Mein"の新しいバージョンが映画の中で無断で使われていたことに対して、Facebook上で抗議を表明した。
彼はこの映画でDivineとNaezyのために書いたオリジナル音源が使われると信じていたとして、インドのヒップホップを大きく変えたこの曲への敬意に欠く映画業界のやり方を非難していた。
しかし彼も映画でヒップホップシーンが取り上げられること自体には肯定的な意見を述べていて、どうやらこの問題は映画の製作者側がSezの名前をクレジットに入れ、しかるべき楽曲使用料を払うということで決着しそうな見通し。

映画のサウンドトラックは全曲がYoutubeで公開されているが、当然ながらほぼ全曲がラップというインド映画のサントラとしては異色の作品となっている。
 
参加しているミュージシャンも、Divineの他にDub Sharma、Midival Punditz、Bandish Projekt、Karsh Kaleとクラブよりの人脈が揃っており、ご覧いただいたとおり主演のRanveerもラップを披露している。
この映画はインドではまだまだストリートカルチャーだったヒップホップが、エンターテインメントのメインストリームに取り入れられる瞬間を切り取った記念碑的な作品と見ることもできるのだ。
 
インドの映画ファン/ヒップホップファンの間では、さっそくこの映画をEminemの自伝的映画"8 mile"と比較する向きもあるとのこと。
トップクラスの俳優を起用したこの映画で、インドでのヒップホップ人気の裾野はますます広がることだろう。
インドから、次はどんな面白いヒップホップーティストが登場するのだろう。

ボヘミアン・ラプソディーをはじめミュージシャンの人生を扱った映画の公開が続いていることもこの映画を後押しするかもしれない。
バーフバリ以降、日本ではインド映画の「絶叫上映」がよく開催されているが、日本人がスクリーンを前にDivineのラップを大音量で聴きながら熱狂する、みたいな日がくるのだろうか。
日本での公開が待たれるところだ。

今回の記事の参考にしたサイトはこちら
NDTB  '"Not A Biopic", Director Zoya Akhtar Explains What Ranveer Singh, Alia Bhatt's Gully Boy Is About'
Entertainment Times 'Ranveer Singh: I was born to do "Gully Boy"'

Filmfare.com 'Rapper Divine reacts to Gully Boy not being a biopic on him'
Rock Street Journal 'Sez On The Beat to get Credits & Royalties for Mere Gully Mein on Gully Boy'


熱いのはラッパーたちだけじゃない。ムンバイ最大のスラム、ダラヴィ地区のヒップホップダンサーをめぐるドキュメンタリーを紹介した記事はこちらから! 「本物がここにある。スラム街のヒップホップシーン ダンス編」



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