PanjabiMC

2022年07月20日

辺境ヒップホップ研究会で吠える(黎明期 パーティーラップとストリートラップ)

さる7月17日(日)大阪の国立民族学博物館で行われた「辺境ヒップホップ 研究会」に参加してきました。
この研究会は、『ヒップホップ・モンゴリア』の著者で同博物館准教授の島村一平さんの呼びかけによって行われたもの。
『ヒップホップ・モンゴリア』は大きな衝撃を受けた本だったので、その著者の方に招かれて、以前から「ここ天国じゃん」と思っていた場所(みんぱく)で行われる研究会に参加できるっていうのは、自分にとってこの上ない僥倖。
当日は滲み出るドヤ顔をマスクで隠しつつ、本物の研究者の先生方の中に野良犬ブロガーを混ぜていただいた意気(粋)に応えるべく、俺がインドのヒップホップについて面白いと思う部分をほぼ全部乗せで吠えてまいりました。(というのは嘘で、普通に喋ってきました)
そのときに話した内容を、mottainaiのでダイジェストにしてみなさんにお届けします。

当日時間の都合で紹介できなかった部分も入れます&過去に書いた関連記事のリンクなんかもつけてみました。

研究会では、島村先生のモンゴルのヒップホップの発表と、同志社大学グローバル地域文化学部助教の中野幸男先生の発表もあって、これが超絶面白かったのだけど、この研究会の成果は後日なんらかの形でみなさんにお届けできる予定もあるみたいなので、みなさん期待して待っていてください。
(モンゴルについては『ヒップホップ・モンゴリア』をまず読むべし)

というわけで、以下、私が喋った内容です。



インドのヒップホップについて語るなら、この曲から始めるのが最適だろう、と個人的には思っている。

1975年に英コヴェントリーで生まれたインド系イギリス人Panjabi MCが2003年にリリースしたこの曲は、Jay-Zによってリミックスされ、UKのR&Bチャートで1位、USではビルボードのダンス系チャートで3位になるという世界的ヒットとなった。
インドのヒップホップが、在外インド人たちから始まったということは、覚えておくべきポイントだろう。
この時期、Panjabi MCのルーツであるインド北西部パンジャーブ地方の伝統音楽バングラーとヒップホップを融合した音楽は世界を席巻し、Missy ElliotteやBlack Eyed Peas, Chemical Brothersらが自身の作品にそのテイストを流用している。
後者2つはバングラーというよりは映画音楽だが、とにかく、2000年代前半は、インド風味がポピュラー音楽に使われる時代だった。
(そのさらに前に、1992年にヴァニラ・アイスの"Ice Ice Baby"をパクったBaba Sehgalの"Thanda Thanda Pani"や、1994年にA.R.Rahmanが映画音楽として発表した"Pettai Rap"という曲があるのだが、これらに関してはオーパーツというか、あくまでも単発的な例外として、触れないことにする)
バングラー・ラップは、世界的にはこの時期にだけ注目を集めた一発屋的ジャンルでしかなかったが、インド国内に逆輸入されると、「外来の新しいパーティー・ミュージック」としてEDMやラテンポップと融合して独自の進化を遂げた。
ボリウッド映画のサウンドトラックにもたびたび取り上げられ、今日に至るまで人気ジャンルとなっている。

そのインド産パンジャービー系パーティーラップを代表するアーティストが、Yo Yo Honey SinghとBadshahだ。

2013年にボリウッド映画"Boss"の挿入歌として作成されたこの曲は、YouTubeで1億3,000万再生。

Honey Singhが率いるMafia Mundeerというユニットの一員だったBadshah(しかし喧嘩別れ)が2015年にリリースした"DJ Waley Babu"の再生回数は4億1,000万回を超えている。
 

金、女、酒、車、パーティー!って感じのとにかく派手な世界観だった彼らは、最近ではストリート系ラップの台頭に影響されたのか、よりリアルっぽさ重視の芸風にシフトしてきているようだ。







当たり前だが、インド人がいつも陽気に踊りまくる音楽(ステレオタイプなボリウッド的な)を聴いているわけではない。
長らく映画音楽の独占状態だったインドだが、2010年代に入るとインターネットが普及しはじめ、これまでインドに存在しなかったタイプの音楽を、ネットさえあれば誰でも聴けるようになった。
そこでヒップホップに出会ったインドの若者たちは、自分たちなりのストリート・ラップを始めるようになる。(不思議なことに、この時代のインドのラッパーたちは、同時代ではなく90年代のUSのラッパーの影響が強い)
ムンバイでは、ストリートラッパーのDIVINEを中心に、ヒンディー語で「路地」を意味するGullyという語を冠した「ガリーラップ」というムーブメントが勃興する。






ガリーラップを代表するアーティストの一人、Naezyは、ムンバイの下町エリアのKurla East地区の出身(かつては、ラッパーとして「盛る」ためか、スラム出身と紹介されることも多かった)。
いずれにしても庶民的な家庭に生まれた彼は、スタジオに入ったりビート制作を依頼したりする余裕はなかったようで、父親に買ってもらったiPadでビートをダウンロードし、iPadにマイクをつないで録音し、iPadを使って近所でミュージックビデオを撮影して、iPadからYouTubeにアップした。

この「身近にあるものを使って音楽を作ってしまおう」という姿勢は、レコードプレイヤー2台を使ってビートメイキングを始めたブロンクスのヒップホップ・オリジネイターにも通じるものだろう。
このミュージックビデオは、映画監督Zoya Akhtarの目に留まり、2019年にはNaezyとDIVINEをモデルにしたボリウッド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』が制作された。
これが大ヒットを記録して、映画賞も総ナメ。
インドの大衆に、パーティーラップではないストリート発のヒップホップが広く知られることとなった。



映画『ガリーボーイ』では、よりヒップホップ的な成り上がりストーリーを強調するためだろうか、主人公の地元は『スラムドッグ$ミリオネア』と同じスラム街のダラヴィに変えられていた。
実際、ダラヴィはブレイクダンスやビートボックスのフリースクールまで存在するムンバイのヒップホップの一大中心地で、MC AltafやDopeadeliczなど、多くのラッパーを輩出している。
インドのスラム街のヒップホップというと、最下層の人々がラップをやっているように思われるかもしれないが、実態はすこし異なるようだ。
上記の"Yeh Mera Bombay"や"Aafat!"がリリースもしくは制作された2013年当時、インドのインターネット普及率は15%(大都市ムンバイではもっと高かっただろうが)。
DIVINEやNaezyを始めとする初期のストリートラッパーたちは、英語でUSのヒップホップを聴いて理解できていたわけだが、インドでは英語を流暢に操ることができる人々は、人口の10%程度という説もある(これもやはりムンバイではもっと高いはずではあるが)。

つまり、彼らがそれなりに恵まれた環境にいたことは間違いなく、それにある程度の教養を持ち合わせている層だったのだ。
(ガリーボーイの主人公も、スラムの住人とはいえ、スマホを持ち、英語で授業が行われるカレッジに通っていた)
インドでは、都市部であっても住む家すらなく路上で暮らす人々もいるし、地方で電気も水道もインターネットもなく暮らしている人々が大勢いる。
ガリーのラッパーたちが直面する格差や苦悩を軽視するつもりはないが、この時期のインドのヒップホップは、そこまで「持たざる者たちの音楽」ではなかったと言って良いだろう。
インド都市部の貧困の象徴として扱われることが多いダラヴィだが、ムンバイの中では最大ではあるものの、「わりと程度が多く、支援されることが多い」スラムだという話も聞いたことがある。
(繰り返すが、だからといって彼らが感じているであろう疎外感や衛生環境の悪さなどを軽んじる意図はない)





こうしたインターネット経由で経由でUSのラッパーたちから影響を受けたシーンは、ムンバイだけではなく各都市で同時多発的に発生し、様々な言語のシーンが花開くこととなった。

ああっ、まだ最初のほうなのに、もうこんなに長くなってしまった。
ひとまず今回はこのへんにして、全3回くらいで書くことにします。



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goshimasayama18 at 22:07|PermalinkComments(0)

2021年06月13日

バングラー・ギャングスタ・ヒップホップの現在形 Sidhu Moose Wala(その1)



これまでも何度か書いてきた通り、インドの「ヒップホップ」には大きく分けて2つの成り立ちがある。


インドにおけるヒップホップ第一波は、1990年代に欧米(おもにイギリス)経由で流入してきた「バングラー・ビート」だった。
このムーブメントの主役は、インド系移民、そのなかでもとくに、シク教徒などのパンジャーブ人(パンジャービー)たちだ。
彼らは、もともとパンジャーブ(インド北西部からパキスタン東部にわたる地域)の民謡/ダンス音楽だった「バングラー」をヒップホップやクラブミュージックと融合させ、「バングラー・ビート」 という独自の音楽を作り上げた。
バングラー・ビートはインド国内に逆輸入され、またたく間に大人気となった。

(そのあたりの詳細は、この記事から続く全3回のシリーズで)

インドだけではない。
この時代、バングラーは世界を席巻していた。
2003年には、Jay-ZがリミックスしたPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"(Beware of the Boys)が、UKのR&Bチャートで1位、USのダンスチャートで3位になるという快挙を達成する。
世界的に見れば、バングラーはこの時代に一瞬だけ注目を浴びた「一発屋ジャンル」ということになるだろう。

だが、インド国内ではその後もモダン・バングラーの勢いは止まらなかった。
パンジャーブ系のメンバーを中心にデリーで結成されたMafia Mundeer (インドの音楽シーンを牽引するYo Yo Honey Singh, Badshah, Raftaarなどが在籍していたユニット)らが人気を博し、バングラー・ラップは今日に至るまで人気ジャンルであり続けている。
こうした「バングラー系ヒップホップ」に「物言い」をつけるとしたら、「ヒップホップと言われているけど、音楽的には全然ヒップホップじゃない」ということ、そして「コマーシャルな音楽で、ストリートの精神がない」ということになるだろう。 

「音楽的には全然ヒップホップでない」とは、どういうことか。
これは説明するよりも、聴いてもらったほうが早いだろう。
例えば、さきほど話題に出たPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"はこんな感じ。


バングラー・ビートは、間違いなくヒップホップの影響を受けたジャンルであり、それまでにインドに存在していたどんなジャンルよりもヒップホップ的ではあるが、お聴きいただいて分かる通り、決して「ヒップホップ」ではない。
(正確に言うと、Panjabi MCはこれよりも早い時期にはよりヒップホップ的なサウンドを志していたが、ある時期からよりバングラ―的なスタイルへと大きく舵を切った。また、同じ時期にイギリスで活躍していたRDBのように、よりヒップホップに近い音楽性のグループも存在している。)

その後もバングラー系「ヒップホップ」は独自の進化を遂げるが、音楽的にはむしろEDMやラテン的なリズムに接近しており、やはりヒップホップと呼んでいいものかどうか、微妙な状態が続いている。(最近になってRaftaarやBadshahがヒップホップ回帰的な音楽性を打ち出しているのは面白い現象)
例えば、インド国内のバングラー・ラップの代表格、Yo Yo Honey Singhが昨年リリースした"Loka"はこんな感じである。

この曲をヒップホップとカテゴライズするのは無理があると思うかもしれないが、インド人に「インドのヒップホップに興味がある」と言ったら「Honey Singhとか?」と聞かれたことが実際にある。
インドでは、彼の音楽はヒップホップの範疇に入っていると考えて間違いないだろう。

もうひとつの批判である「バングラーは売れ線の音楽で、ストリートの精神がない」とはどういうことか。
1990年代〜2000年頃、まだインターネットが一般的ではなく、海外が今よりはるかに遠かった時代に、バングラー・ビートは、映画音楽などの商業音楽のプロデューサーたちによってインドに導入された。
つまり、インドでは、バングラー・ラップは日本で言うところの「歌謡曲」的なメインカルチャーの一部であり、ストリートから自発的に発生したムーブメントではなかったのだ。
インドでは、こうしてコマーシャルな形で入ってきたバングラー・ラップが、ヒップホップとして受け入れられていた。 
だが、インドにもヒップホップ・グローバリゼーションの波がやってくる。


2010年代の中頃にインドに登場したのが「ガリー・ラップ」だ。
彼らは、インターネットの発展によって出会った本場アメリカのヒップホップの影響を直接的に受けていることを特徴としている。
(狭義の「ガリー・ラップ」とは、映画『ガリーボーイ』のモデルになったNaezyやDIVINEなどムンバイのストリート・ラッパーたちによるムーブメントを指すが、ここでは便宜的に2010年代以降の、おもにUSのヒップホップに影響を受けたインド国内のヒップホップ・ムーブメント全体を表す言葉として使う)
ガリー・ラッパーたちは、アメリカのラッパーたちが、貧困や差別、格差や不正義といったインドとも共通するテーマを表現していることに刺激を受け、自分たちの言葉でラップを始めた。

彼らの多くが、それまでインドにほとんど存在しなかった英語ラップ的なフロウでラップし、これまでのバングラー・ヒップホップとは一線を画す音楽性を提示した。
また、(ボリウッド・ダンス的でない)ブレイクダンスや、グラフィティ、ヒューマン・ビートボックスといったヒップホップ・カルチャー全般も、スラムを含めた都市部のストリートで人気を集めるようになった。

ミュージックビデオの世界観も含めて、ガリーラップの象徴的な楽曲を挙げるとしたら、(たびたび紹介しているが)DIVINEの"Yeh Mera Bombay"、そしてDIVINEとNaezyが共演した"Mere Gully Mein"となるだろう。

映画『ガリーボーイ』でも使われたこの曲のビートは、USのヒップホップとはまた異なる感触だが、この時代のガリーラップに特有のものだ。

商業主義的かつリアルさに欠けたバングラー系のヒップホップは、ガリー系ラッパーにとっては「フェイク」だった。
映画『ガリーボーイ』の冒頭で、主人公が盗んだ車の中で流れたパンジャービー系の「ヒップホップ」に嫌悪を表すシーンには、こういう背景がある。
日本のストリート系ヒップホップの黎明期に、ハードコア寄りの姿勢を示していたラッパーが、一様に'J-Rap'としてカテゴライズされていたJ-Pop寄りのラッパーを叩いていた現象に近いとも言えるかもしれない。

さらに長くなるが、音楽性ではなく、スタイルというかアティテュードの話をするとまた面白い。

ガリー・ラップがヒップホップの社会的かつコンシャスな部分を踏襲しているとすれば、バングラー系ラップはヒップホップのパーティー的・ギャングスタ的な側面を踏襲していると言える。

二重にステレオタイプ的な表現をすることを許してもらえるならば、パンジャービー系ラッパーたちの価値観というのは、ヒップホップの露悪的な部分と親和性が高い。
すなわち、「金、オンナ、車(とくにランボルギーニが最高)、力、パーティー、バイオレンス」みたいな要素が、バングラー・ラップのミュージックビデオでは称揚されているのだ。

こうしたマチズモ的な価値観は、おそらく、ヒップホップの影響だけではなく、パンジャービー文化にもともと内包されていたものでもあるのだろう。
(念のためことわっておくと、パンジャーブ系ラッパーの多くが信仰しているシク教では、男女平等が教義とされており、「ギャングスタ」的な傾向は、宗教的な理由にもとづくものではない。また、ミュージックビデオなどで表される暴力性や物質主義的な要素を快く思わないパンジャービーたちも大勢いることは言うまでもない。ちなみに最近では、DIVINEやEmiway Bantaiといったガリー出身のラッパーたちも、スーパーカーや南国のリゾートが出てくる「成功者」のイメージのミュージックビデオを作るようになってきている)


まだ主役のSidhu Moose Walaが出てきていませんが、長くなりそうなので、2回に分けます!
(続き)


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goshimasayama18 at 23:20|PermalinkComments(0)

2021年02月13日

Netflix『ザ・ホワイトタイガー/The White Tiger』は21世紀インドの『罪と罰』!


※今回の記事は『ザ・ホワイトタイガー』のネタバレ的な内容を含みます。この映画は冒頭でクライマックスが暗示され、そこに至るまでの過程を楽しむタイプの作品ですが(かつ最も肝心な部分には触れないように書いたつもりですが)気になる方はここでお引き返しください。

Netflix制作の映画『ザ・ホワイトタイガー/The White Tiger』を見た。
原作は、マドラス(現チェンナイ)出身の作家兼ジャーナリストのAravind Adigaによる同名の小説。
一時期、インド系の作家が英語で書いた小説を読むことにはまっていたのだが、原作の小説はその頃に読んだ中でもとくに鮮烈な印象を受けた一冊だった。
Adigaはこのデビュー作で2008年のブッカー賞を受賞している。

ちなみに日本でも2009年に文藝春秋から『グローバリズム出づる処の殺人者より』というタイトルで邦訳が出版されている。
この奇妙な邦題は、この作品のテーマを端的に表したキャッチコピーとしてはなかなかよくできていると思うのだが、あまりにも唐突な印象だからか、あまり評判がよろしくないようだ。

原作の小説は、「主人公がベンガルール(旧称バンガロール)を訪問した当時の中国首相・温家宝に宛てて書いた書簡」という一風変わった形式になっており、映画でも、原作の印象的な文章が、主人公のモノローグとしてそのまま活かされている。
(ちなみに実際に温家宝がベンガルールを訪問したのは2005年だが、映画版では2010年という設定に変更されている)
「『世界最大の民主主義国』でありながらも機会の平等には程遠いインドの成り上がり起業家から、共産党一党体制のもと躍進を遂げた中国首相への親書」というユニークな設定によって、この作品は現代社会への皮肉と洞察にあふれたものになっている。

監督は、これまでも社会派の作品で数多くの映画賞を受賞しているイラン系アメリカ人のラミン・バーラニ(Ramin Bahrani)。
主演はこの作品で初めての大役に抜擢された26歳のアダーシュ・ゴーラヴ(Adarsh Gourav)。
主人公が奉公人として仕える夫婦役を『ストゥリー 女に呪われた町/Stree』『クイーン 旅立つわたしのハネムーン/Queen』のラージクマール・ラオ(Rajkumar Rao)と、最近はハリウッド作品での活躍も目立つプリヤンカー・チョープラ・ジョナス(Priyanka Chopra Jonas)が演じている。
インド人作家のブッカー賞受賞小説を、アメリカ資本のNetflixがイラン系の監督を起用して製作したこの映画そのものが、作品のテーマである「グローバリゼーション」を体現しているとも言えるだろう。

物語のあらすじは、田舎(原作ではビハール州ガヤー地区であることが言及される)の貧しい家庭に生まれた若者バルラム(Balram)が、中央政界ともパイプを持つ地主の息子アショク(Ashok)の愛車ミツビシ・パジェロ(原作ではホンダ・シティ)の運転手となり、最終的にはベンガルールで起業家として成功を手に入れるまでの数奇な運命を描いたもの。

こう書くとシンプルなサクセス・ストーリーのようだが、登場人物の背景がなかなか複雑で、それがこの作品に不思議なリアリティーと緊張感を与えている。
主人公のバルラムは、一世代に一頭しか現れない天才「ホワイトタイガー」と称されるほどの明晰な頭脳を持ちながらも、貧しさゆえにチャンスを手に入れることができず、富める者に仕える仕事しか選べない境遇の若者だ。
バルラムのキャラクターは「貧乏だけどまっすぐな努力家」といった単純なものではなく、自身に染みこんだ奴隷根性に葛藤し、一族の中で絶対的な発言力を持つ祖母に人生を決められてしまう不条理に抵抗するという、知性ゆえの屈折を感じさせるものだ。
バルラムが仕える地主一家の息子アショクと妻のピンキーは、アメリカ帰りの先進的な考えの持ち主で、とくにピンキーは、女性や使用人を見下すインドの階級制度に反発し、夫の家族にも物怖じせずに意見する新しいタイプのインド女性として描かれている(保守的でムスリム嫌いのヒンドゥー教徒一家の中で、彼女だけがクリスチャンだ)。

バルラムは、故郷のラクスマンガル(Laxmangarh)では階級制度の染み付いた村落社会と家族のくびきに苦しめられ、奉公先一家の暮らす地方都市ダンバード(Dhanbad)では封建的な主従関係への服従を強いられる。
理解のあるアショク夫妻と引っ越した大都会デリーで、バルラムはようやく幸福に暮らせるかに思えるのだが、そうならないところにこの物語のリアリズムがある。

先進的なアショクは、保守的な彼の家族とは違い、決して使用人を暴力的に支配するわけではなく、バルラムにも気さくに接してくれる。
だが、バルラムとアショクの間には主人と使用人という決して越えられない一線がある。
アショクはバルラムに対して「友人のように接してくれ」と言う一方で、ありあまる富を自らの一族の安寧のためにだけ使い、使用人のバルラムにはごくわずかな金額しか分け与えない。
これは、先進国の富める人々が、人道的な価値観を主張し、途上国の人々に同情を示しつつも、彼らを安い労働力として使い、自分と同等のチャンスを与えようとしないことによく似た構図である。
アショク夫妻が引っ越すデリー(原作ではグルガオン)の高層マンションの豪華な部屋と、バルラムら使用人が暮らす地下の居住スペースの強烈な格差が印象的だ。
彼らの内面に目を向ければ、搾取する側には無自覚な冷酷さがあり、搾取される側には変わらない現実へのあきらめがある。

旧弊な農村社会であるラクスマンガル、貧富や階級の差が主従関係となる地方都市社会のダンバード、そしてポストモダン的な大都市のデリーと物語の舞台が変わっても、自らの立場を決して変えることができないということに、バルラム否応なしに気づかされる。
やがて彼は、この圧倒的な格差を乗り越えるためには、自分の中の意識を変えるだけではなく、倫理すら無視せざるを得ないという結論に達してゆく。
なぜなら、彼を支配する連中は、自分の身を守るためならば、倫理を曲げることも、使用人を使い捨てることも厭わないのだから。
物語の導入部で、バルラムがじつは指名手配されていることが明かされるのだが、その原因となった彼の行動こそが、この物語のクライマックスだ。

ここから物語は、さながら21世紀のインド版『罪と罰』と言えるような展開を見せるのだが、しかしバルラムには「罪」の意識はほとんどなく、また「罰」を受けることもない。
(すっかり彼の心から離れてしまった故郷の家族が悲惨な末路を迎えたことが示唆され、それが「罰」と言えなくもないのだが、原作では、彼が自身の「行為」を全く後悔していないことが明記されている)

結局のところ、この物語で「罪」の意識を感じざるを得ないのは、構造的に富める側にいる我々なのだ。
「俺がお前らと同じようにチャンスを手に入れるにはこうするしかなかった。それをお前は裁けるのか」
という問いが、少なくとも自分にとってのこの作品の後味の大部分を占めている。
とはいえ、この作品は決して重苦しい作品ではなく、現代社会の不条理を鮮やかに描き出したある種の爽快感を放っていて、この社会性と娯楽性の絶妙なバランスは、原作同様に高く評価されるべきだろう。
バルラムは、自らが罪と罰に苦悩するのではなく、その根源を見る者自身の問題として投げかける。
インドのラスコーリニコフは、なんともしぶとい。


バルラムは最終的に、グローバリゼーションの波に乗って発展著しいベンガルールで起業し、わずか数年の間に莫大な富を築く。
映画では詳述されていないが、彼が始めた事業は、コールセンターで働く人々の通勤車両のアウトソーシングである。
「コールセンター」は'00年代のインドの小説によく見られた舞台背景だ(Chetan Bhagatの"One Night @ Call Center"〔未邦訳〕, Vikas Swarup/ヴィカス・スワループの"Six Suspects"『6人の容疑者』など)。
この頃、欧米企業の本国向け電話対応窓口として、賃金が安く英語が話せる人材が豊富なインドに多くのコールセンターが開設された。
アメリカなどの本国の時間に合わせるために深夜勤務になるのが難点だが(そのために通勤の送迎が必要になる)、欧米企業にとっては安価に電話窓口を設けることができ、インド人にとっては英語力だけでそれなりに良い収入を得ることができる。
こうした需要と供給が一致して、コールセンターはインドの一大産業となった。
だが、コールセンターの仕事は、インド人であるというアイデンティティを無くして働くことを意味する。
コールセンターで働くインド人たちは、顧客にインド人であることを悟らせず、あたかも同じ国内のサービス員だと思わせるために、アメリカ風英語の研修を受け、'Happy Thanksgiving Day'のような季節の挨拶を覚え、名前まで英語風に変えさせられて(例えばVikramならVictor、NanditaならNancyのように)働くことになる。
ときにこちらがインド人であることに気づいた相手から差別的な言葉を受けることもあるし、インドより豊かなアメリカに暮らしているはずの顧客からの、あまりにも無知で非常識なクレームの対応をさせられることもある。
欧米的な豊かさへの憧れと、インド人としてのナショナリズムが交錯する場として、コールセンターはうってつけの舞台設定なのだ。

インド随一の国際都市ベンガルールで、ようやく自由と富を手に入れたバルラムが始めた事業が、こうしたグローバルな産業構造の象徴的な存在であるコールセンターに関わるものだったというのはなかなかに興味深いと思うのだが、考えすぎだろうか。

 
さらに蛇足になるが、以前から、インドの物語を「落語っぽい」と感じていたことについても少し書いておきたい。
奉公人と主人の関係、階級社会、長屋暮らし、貧富や学問の差といった要素がドラマにもおかしさにも通じるという点で、インドの物語には落語と共通する要素がそこかしこに散見される。
この作品でも「インターネットを知っているか?」というアショクに、バルラムが知ったかぶりして「村で何匹か飼ってます。今すぐ市場で買ってきましょうか」と答えるところなどはほとんど滑稽噺の世界だし、そもそも人間の業を描いた物語全体が、「鼠穴」のような重厚な噺のようでもある。
要は、インド社会に日本の江戸時代的な要素が残っているから落語っぽさが感じられるわけだが、その観点から見ると、この作品は「落語的」なインドから、グローバルなインドへの脱却を描いた作品としても見ることができる。
ものすごくどうでもいい分析だけど。


最後に、一応音楽ブログなので、音楽についても触れておきたい。
この作品のために書かれた主題歌"Jungle Mantra"を手掛けているのは、あの『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルににもなったムンバイの叩き上げラッパーDIVINEだ。

この曲では、アメリカの人気ラッパーVince Staples(インドでもエクスペリメンタルなラッパーのTre Essが影響を受けたアーティストとして名前挙げていた)との共演が実現している。
タイトル通りマントラを思わせるコーラスが印象的な曲で、世界配信される作品だけあって「インドっぽいラップでよろしく」という発注でもあったのだろうか。
ムンバイのストリートから成り上がり、Nasのレーベルと契約するまでになったDIVINEのサクセスストーリーは、まさにこの映画にぴったりの起用だ。
今度は世界配信される作品の主題歌での世界的ラッパーとの共演が実現したわけで、DIVINEはこの楽曲で主人公バルラムと同じような成功を手にしたと言えるだろう
ちなみに最近の作品を聴く限りでは、DIVINEも単なる華やかな成功だけでなく、内面の様々な葛藤を抱えている様子が見て取れる。




"Jungle Mantra"のビートメーカーはムンバイのKaran Kanchan.
彼は日本にも存在しないJ-Trapというジャンルを勝手に作ってしまうほどのジャパニーズ・カルチャー好きで、そのユニークなサウンドに以前から注目していたのだが、最近ではDIVINEやNaezyといった旧知のムンバイ勢のみならず、Seedhe MautらデリーのAzadi Records一派、R&BシンガーのRamya Pothuri、Mass Appeal IndiaのAarvuttiらに多彩なビートを提供し、インドのトップビートメーカーの一人に成長した。
Netflixがアメリカのビートメーカーに発注することもできただろうが、彼もまた大抜擢の起用と言える。


主題歌以外に、劇中で使われている音楽もなかなか興味深い。
原作では、アショクが車の中で聴く音楽として、StingとEnyaのCDが登場する。
いかにもインテリのインド人が聴きそうな趣味ながら、ちょっと古臭いなあ思っていたら、映画版ではGorillazに変えられていた。
海外帰りの現代的なセンスのインド人の趣味として考えると、なかなかいいところを突いているように思う。
またピンキーの誕生日パーティーの帰り道、車の中でへべれけになりながら盛り上がるときにかかっているのは、Punjabi MCの"Mundian To Bach Ke"のJay-Zによるリミックスで、いかにもこういう場面で彼らが聴きそうな選曲だなあ、とまた唸らされた。
他にも、インド系カナダ人シンガーのRaghavなど、なかなかツボを押さえた音楽が効果的に使われているので、ぜひそのあたりも注目してほしい。
予告編で流れるQueenの"I Want To Break Free"は、本編では使われていないが、この作品のテーマを見事に表した楽曲ではある。


最後に蛇足の蛇足。
Wikipediaの情報によると、主演のアダーシュは小さい頃から古典音楽に親しみ、俳優としてのキャリアを本格的に始める前には、SteepskyやOak Islandというプログレッシヴメタルバンドでヴォーカリストを努めていたこともあるらしい。
Oak Island · 03 Half A Clock

一時期はバンドとともにアメリカ進出を考えるほど本格的に音楽のキャリアを追求していたそうで、今後、俳優だけでなくシンガーとして活躍する姿も見られるかもしれない。

長くなりましたが今回はこの辺で。



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goshimasayama18 at 21:29|PermalinkComments(0)

2021年01月24日

インド・ヒップホップ夜明け前(その1)パンジャーブからUKへ、そしてデリーへの逆輸入


ムンバイのストリート・ラッパーをテーマにした映画『ガリー・ボーイ』の公開からもうすぐ2年。
今ではインド全土のあらゆる街にラッパーがいる時代になった。
ここであらためて確認しておきたいのは、インドでラップを最初にメジャーにしたのは、デリーのアーティストたちだったということだ。
とくに、デリー在住のパンジャーブ系シク教徒のアーティストたちが、今日流行しているメインストリームのエンターテインメントラップの確立に大きな役割を果たしたのだ。

今回は、そのあたりの話を書くことにしたいのだが、そのためには少し時代を遡らなければならない。
(何度も書いている話なので、ご存知の方は飛ばしてください)

「シク教」は、男性がターバンを巻くことで知られるインド北西部パンジャーブ地方発祥の宗教だ。
勇猛な戦士として知られるシク教徒たちは、イギリス統治時代に重用され、当時イギリスの植民地だった世界中の土地に渡っていた。
シク教徒の人口はインド全体の2%にも満たないが、彼らが早くから世界に進出していたために、「インド人といえばターバン」という印象が根付いたのだろう。
現在でも、イギリスで暮らす南アジア系住民のうち、シク教徒の割合は3割にものぼる。
1947年、インド・パキスタンがイギリスから分離独立すると、シク教徒たちの故郷であるパンジャーブ地方は、両国に分断されてしまう。
パキスタン側に暮らしていた多くのシク教徒たちは、イスラームを国教とするパキスタンを逃れ、インドの首都デリーに移り住んだ。
こうした理由から、デリーには故郷を失った多くのパンジャーブ系(ヒンドゥー教徒を含む)住民が暮らしている。

ヒップホップは、ニューヨークのブロンクスで、カリブ地域から渡ってきたアフリカ系の黒人たちによって生み出された音楽だが、デリーに住むシク教徒たちも、同じように故郷から切り離された暮らす人々だった。
さらに言うと、パンジャービーたちの性格も、彼らがインド最初のラッパーになる条件を満たしていたのかもしれない。
一般的に、パンジャーブ人は、ノリが良く、パーティーやダンス好きで、物質的な豊かさを誇示する傾向があり、自分たちのカルチャーへの高いプライドを持っていることで知られている。
ステレオタイプで書くことを許してもらえるならば、そもそもがものすごくヒップホップっぽい人たちだったのである。

パンジャーブの人々は、もともと、「バングラー」という強烈なリズムの伝統音楽を持っていた。


パンジャーブの収穫祭ヴァイサキ(Vaisakhi)で演奏されるバングラーは、両面太鼓ドール(Dhol)の強烈なリズムと一弦楽器トゥンビ(Tumbi)の印象的な高音のフレーズ、そしてコブシの効いた歌と両手を上げて踊るスタイルで知られるダンスミュージックだ。

インド独立後も、多くのパンジャーブ人たちが海外に暮らす同胞を頼って海外に渡っていった。
彼らは欧米のダンスミュージックと自分たちのバングラーを融合し、新しい音楽を作り始めていた。
ちょうどブロンクスの黒人たちが、故郷ジャマイカのレゲエのトースティングとポエトリーリーディングやアメリカのソウルのリズムを融合してヒップホップを生み出したように。

80年代のイギリスでは、Heera, Apna Sasngeet, The Sahotas, Malkit Singhといったアーティストたちが、新しいタイプのバングラー・ミュージックを次々に発表し、南アジア系移民のマーケットでヒットを飛ばしていた。


今聴くとさすがに垢抜けないが、ベースやリズムマシンを導入したバングラー・ビートは、当時としては新しかったのだろう。

UKのパンジャービーたちの快進撃は止まらない。
90年代に入ると、Bally Sagooが母国のボリウッド映画の音楽を現代的にリミックスし、RDB(Rhythm, Dhol, Bass)が本格的にヒップホップを導入する。
そして、1998年にリリースされたPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"は、2002年に在外インド人の枠を超えた世界的な大ヒットを記録するまでになる。




シク教徒は強い結束を持つことでも知られている。
海外の同胞たちが作り上げた最新のバングラー・ビートが、シク教徒が多く暮らすデリーに逆輸入されてくるのは必然だった。

21世期に入ると、Yo Yo Honey Singh, Badshah, Raftaar, Ikkaといった今もインドのメジャーシーンで活躍するラッパーたちがデリーで新しい音楽を作り始める。
彼らは、もともとMafia Mundeerという同じクルーに所属していたのだ。

(つづき) 



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goshimasayama18 at 20:15|PermalinkComments(0)

2019年06月12日

私的大発見!インドと吉幾三、そして北インド言語と演歌、レゲエの関係とは?

きっかけは、インド人の友人のこのツイートだった。

 
 Perfumeファンの彼が、彼女たちのSpending All My Timeと吉幾三の「俺ら東京さ行くだ」のマッシュアップを聴いて「これ原曲なに?インドの曲じゃないみたいだけど、すごくインドっぽい」とつぶやいていたのを読んで、思わず感動してしまった。

なんで吉幾三なんか(失礼)で感動しているかというと、私はかねがね、ある種のインドの歌について「まるで吉幾三みたいだ!」と思っていたからなのだ。
例えば、インド最初のラッパーであるBaba Sehgalのこの曲。

思いの外かっこいいイントロに「どこが吉幾三?」と思った方も、歌が始まった瞬間にずっこけたはずだ。
これ、完全に幾三だろう。
現在はすっかり洗練されてきたインドのヒップホップだが、始まった当時は完全に吉幾三だったのだ。
(詳しくはこちらに書いています。「早すぎたインド系ラッパーたち アジアのPublic Enemyとインドの吉幾三、他」
インドのヒップホップ史において、最初のラッパーがこのBaba Sehgalだということは、日本の音楽史上最初のラップのヒット曲が吉幾三「俺ら東京さ行くだ」であったことと同じくらい、無かったことにしたい歴史だろう。

吉幾三っぽく聞こえる楽曲はこれだけにとどまらない。
Jay Zによるリミックスが世界的に大ヒットしたPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"も、冷静に聴くとかなりの幾三っぷりである。

そう、インドの音楽、とくに、ここに紹介したような90年代頃のラップ調のバングラーに関しては、じつはかなり吉幾三っぽく聞こえるものが多いのである。
私がそれらの音楽を「吉幾三っぽいなあ」と思っていたところに、インド人の友人が吉幾三を聴いて「なんだかインドの音楽みたい」とつぶやいたのだから、これに感動しないわけがないだろう。

バングラーは、インド北西部、パンジャーブ州が発祥の音楽だ。
パンジャーブ州からは、イギリスに移民として渡った人々が多く、伝統音楽だったバングラーはそこで当時最先端のダンスミュージックと融合し、インドに逆輸入されて、インド全体で大人気となった。
我々にとっては吉幾三っぽく聴こえる音楽だが、当時のインドでは、伝統と最先端の理想的な融合だったのだろう。

さて、ここでもうひとつの大発見をしてしまった。
吉幾三といえば演歌歌手だが、インドと演歌といえば、まっ先に思い浮かぶのが、チャダ。

インドの知識がある方はきっともうお気づきだと思うが、ターバン姿が印象的なチャダは、シク教徒だ。
そして、シク教のルーツは、パンジャーブ州。
そう、彼もまた、出身こそニューデリーだが、パンジャーブの人なのである。
チャダことSarbjit Singh Chadhaは、16歳でミカンの栽培技術を学ぶために来日し、日本で耳にした演歌に惚れ込んで演歌歌手になったという。

パンジャーブの音楽と演歌が似ていると発見して驚いていたら、なんとパンジャーブの人間がとっくの昔に演歌歌手になっていた!
パンジャーブと日本、バングラーと演歌。
お互いに何も文化的な影響を及ぼしていないはずなのに、この不思議な相似はいったい何なのだろうか。

外国人演歌歌手としては、米国系黒人であるジェロも有名だが、彼の場合、幼い頃から母方の祖母に演歌を聴かされて育ったというバックグラウンドがある。
それに対して、16歳で来日するまで演歌を聴いたこともなかったはずのチャダが、演歌の独特の歌い回しに魅力を感じ、そしてそれを(北島三郎への師事があったにせよ)完璧にマスターしているということは、やはりパンジャーブの音楽文化と演歌には、相通じる何かがあるのだ。

さらに、Youtubeで関連動画を探していたら、この5月に行われた「マハトマ・ガンディー生誕150周年記念 インド祭in十日町」で吉幾三の「酒よ」を歌うチャダを発見!

吉幾三、バングラー、パンジャーブ、演歌。
これで全てが繋がった!
酒など決して口にしないであろうガンディーが、自身の生誕150年祭で歌われる「酒よ」を聴いてどう思うのか分からないが、インド国旗に描かれた法輪のごとく、とにかくこれでパンジャーブ文化と吉幾三がひとつの円環となったのである。(自分でも何を言っているのかよくわからないが)

ここで改めて注目したいのは、吉幾三とバングラーの、メロディーや発声方法ではなく、歌の節回しだ。
みなさんも、「俺ら東京さ行くだ」の、東北訛りをカリカチュアしたような歌い回しと、バングラーの歌い回しの、微妙に音程を外したり、うわずらせたりする部分がとてもよく似ているということに気がついただろう。
北インドの言語であるヒンディー語やパンジャービー語は、歌ではなく会話でも、その言語の響きそのものが、東北弁や茨城弁っぽく聞こえることがある。
こうした言語固有のイントネーションそのものが、歌われる音楽を田舎くさい(失礼)演歌っぽく聴こえさせているのではないだろうか。

同じ北インドの音楽でも、例えば古典音楽のヒンドゥスターニーの場合、インド独特の音階(ラーガ)や、技巧的な節回しが前面に出るため、決して演歌っぽくは聞こえないのだが、よりシンプルなスタイルであるバングラーとなると、ヒンディー語やパンジャービー語の語感が強く出てしまい、途端に演歌っぽくなってしまうのだ。

ここからは極めて個人的な話になるが、私は10代最後の歳にインドを一人旅して以来、インドという国やその文化に大いに興味を持ってきた。
であるにもかかわらず、他の多くのインド好きたちが惹かれているのに、私がいっこうに魅力を感じられなかったものがある。
それは何かと言うと、映画音楽だ。

例えば、先日、「Aashiqui 2」という映画のDVDを見たのだが、インドでは大変高い評価を得たというその音楽を聴いても、私は「なんか演歌みたいだな」という以上の感想を抱くことができなかった。(ちなみにこの曲です)
 
メロディーラインのせいもあるが、ヒンディー語で西洋音階のシンプルな旋律を歌うと、その歌い回しのせいで、どうしても演歌っぽく聴こえてしまう。
何が言いたいかというと、若い頃ロック好きだった自分が、インドの映画音楽をどうも好きになれないのは、非ロック的な大仰なアレンジのせいだけではなく、どうやらこの「演歌っぽさ」にも理由があったようだということだ。
私なんかの世代のだと(40代)、ロック好きは深層心理に「演歌は旧弊な価値観を象徴する音楽で、自由を標榜するロックとは相容れないダサいもの!」みたいな意識がこびりついている。
その意識が、どことなく演歌っぽいボリウッド(ヒンディー語)映画音楽を敬遠させていたのだ。

ちなみに最近では、ロックなどのジャンルではヒンディー語であっても、英語的なメロディーや言葉の当て方が十分に確立され、演歌らしさを全く感じさせない楽曲がたくさんある。
例えば、ヒンディー語で歌うポストロックバンドAsweekeepsearchingの音楽を聴いて演歌っぽいと思う人はいないはずだ。

ここでさらに話が飛躍するのだが、ヒンディー語やパンジャービー語が持つ東北弁や茨城弁っぽさは、彼らが英語を話す時にも引き継がれる。
北インドの人々が話す英語は、やっぱり東北弁や茨城弁っぽく聞こえるのだ。

で、東北弁や茨城弁ぽい英語がどう聞こえるかというと、なんとジャマイカン訛りっぽくなるのである!
実際は、ジャマイカ人が話すいわゆる「パトワ語」とインド訛りの英語のイントネーションは全く異なるものなのだが、ネイティブ言語の訛りを色濃く残す北インド人の英語は、レゲエに乗せてラップするトースティング(っていうの?レゲエには詳しくないのだけど)に、結果的にそっくりなってしまっているのだ。

例えば、こちらも90年代に大ヒットしたインド系イギリス人のレゲエ歌手、Apache Indianの"Boom Shak-A-Lack".


最近の楽曲では、デリーのレゲエバンド、Reggae RajahsのメンバーGeneral Zoozによる"Industry".


どこまでがレゲエに寄せていて、どこまでがヒンディー訛りなのか分からないこのニュアンス、お分かり頂けるだろうか。

言語の特徴と音楽の話で言えば、もうひとつ気になっているのが、最近のヒンディー語/パンジャービー語のポップスが、現代のラテン音楽、具体的にはレゲトンに近づいてきているということ。
例えばこんな感じに。
パンジャービーの商業的バングララッパー、Yo Yo Honey Singhの"Makhna".

 
さらには、スペイン語を導入したこんな曲もある。Badal feat. Dr.Zeus, Raja Kumari "Vamos".

音楽やスタイルにおける現代インドとラテン系の相似については、かつてこちらの記事に書いたので、興味のある方はぜひご一読を。(「ソカ、レゲトン…、ラテン化するインドポップス」

レゲトンはスペイン語圏であるプエルトリコ発祥の音楽だが、ヒンディー語話者の英語の訛り方は、じつはスペイン語話者の訛りと瓜二つなんである。
「-er」や「-ar」で終わる単語の'r'をはっきりと発音するとか、sの子音から始まる単語を話すときに、頭にエがついてしまう(例えばスクール'school'がエスクール'eschool'になってしまう)など、特徴的なところがことごとく似ているのだ。
同じ傾向の英語の訛りを持つ二つの言語圏が、同じようなスタイルの音楽を好む傾向がある。
これは単なる偶然なのだろうか。

さて、レゲエやラテンに少し脱線したが、ここまでヒンディー語/パンジャービー語圏のバングラーが吉幾三的な演歌にそっくりという話を書いてきた。
これも以前書いたネタだが、もうちょっと歌謡曲テイストの演歌にそっくりなのが、ゴアの古いポップスだ。
「まるで日本! 演歌?歌謡曲? 驚愕のゴアのローカルミュージック!」


ゴアで話されているコンカニ語も、ヒンディー語やパンジャービー語と同じインド・アーリア語派の言語。
ひょっとしたら、北インド系の言語を話す地方に、まだ知らぬ演歌っぽい音楽が他にもあるのかもしれない。
もし時間とお金が無限にあるなら、インド中を放浪しながら地元の人に演歌を聞かせて、「これに似た音楽を知らないか」と尋ねて回るのも面白そうだ。
きっとまだ見ぬ「演歌っぽいインド音楽」が見つけられるに違いない。
(いったいそれに何の意味があるのか自分でも分からないが)

というわけで、今回は、音楽史的もしくは 言語学的な裏付けの一切ない、北インド諸語と演歌やレゲエの類似点についてのたわごとをお届けしました。



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goshimasayama18 at 22:58|PermalinkComments(0)