Pakshee

2020年09月22日

ロック好きにお勧めしたいインド風ロック特集!Advaita, Sabculture, Pakshee


今から20年以上前、バックパッカーとして初めてインドを訪れたとき、自分はロック好きの19歳だった。
1ヶ月後、初めての海外一人旅から帰ってきた頃には、すっかりインドにかぶれてしまい、インドとロックが融合したような音楽はないものか、と探し回ったものだった。

ところが、これがなかなか見つからない。
Big Brother and Holding Co.とかJefferson Airplaneみたいに、ヒッピー・ムーブメントの流れでインドっぽい格好をしている60年代のサンフランシスコあたりのバンドはいるんだけど、彼らは別に音がインドっぽいわけではない。
イギリスに目を向ければ、ジョージ・ハリスンがラヴィ・シャンカルに弟子入りしたり、ストーンズがシタールを導入したりもしていたけれど、インドという濃すぎる原液の上澄みのような感じがして、あまり夢中になれなかった。
当時(90年台後半)、リアルタイムでは、インドかぶれバンドのクーラ・シェイカーが流行っていて("Tattva"とか"Govinda"とか、いかにもなタイトルの曲をやっていた)、結構好きだったけど、結局のところ彼らも「欧米人から見たインド」の域を超えているようには思えなかったんだな。

ロックのエナジーとインド音楽の深遠を、もっとうまく融合する方法があるんじゃないかと思って、当時の私はどこか満たされない気持ちを抱えていた。

欧米にいなければ、インドにいいロックバンドはいないものか…と思ってみたものの、インターネットも一般的ではなかった当時、インドのロックを探す方法もなく、次のインド渡航時にやっと見つけたと思ったら800ルピー騙し取られた!なんていうこともあった。(こちらを参照)

その後、ネットの普及などによってさまざまな情報が入手できるようになって、本場インドの「いかにもインドっぽいロック」もいろいろ見つけることができた。
インドでは、古典音楽と西洋のロックが融合した音楽を「フュージョン・ロック」と呼ぶ。
日本でフュージョンと言えば、1980年代頃に流行ったジャズとロックが融合したような音楽を指すが、インドでフュージョンと言うと、それは古典音楽と現代音楽の融合のことなのだ。

ところが、このフュージョン・ロックがまたくせもので、インド(南アジア)の要素は異常に濃いのにロックの部分が雑でダサかったり、インドっぽいのは確かなんだけど、独特すぎてロック的感覚からすると違和感が大きかったり、なかなか納得できるものは見当たらないのである。
それも当然で、彼らはべつに日本や欧米のロックファンのために曲を作っているわけではなく、あくまでローカルのリスナー向けに曲を作っているのだ。
当時の私は、本格的インドカレーにボンカレーやククレカレーの味を求めていたようなものだったのだろう。

それでも、フュージョン・ロックを聴き込むうちに、欧米のロックに馴染んだ耳にも、素直にかっこよく思えるバンドを何組か見つけることができた。
というわけで、今回はフュージョン・ロックの中でも、一般的なロックファンにも聴きやすいものを選んでお届けしたいと思います。


まずはじめに紹介したいのが、2004年にデリーで結成されたAdvaita.
バンド名の意味は「不二一元論」。
正直何だかよく分からないが、インドかぶれの心をぐっとつかむ哲学的なバンド名ではある。

サーランギー(北インドの擦弦楽器)の響きに導かれて始まる"Dust"は2012年にリリースされた彼らのセカンド・アルバム"The Silent Sea"のオープニングナンバー。

曲が始まってみれば意外にも普通のロックで、間奏部分で再び導入されるサーランギーも、舌に馴染んだ和風カレーにアクセントとして加えられた本格的インドスパイスといった風情だ。

Bol(古典音楽の口で取るリズム)のイントロが印象的な"Mo Funk"は、うってかわって古典音楽風のヴォーカルだが、そこまで癖が強くないのが聴きやすさのポイントか。

この曲は、18〜19世期の南インドの詩人Muthuswami Dikshitarの宗教詩がもとになっているとのこと。
やはりよく分からないが、「インドっぽい深遠さ」幻想をしっかり満たしてくれていてポイント高い。
謎の荷物を運ぶ男をワンショットで撮影したミュージックビデオは…衝撃の結末!(謎すぎて)

2009年リリースの"Grounded in Space"の収録曲、"Gates of Dawn"は、おごそかなタンプーラのイントロに続いて、Nirvana的なメロディーがインド風サウンドに乗せて歌われる。
(そういえば、Nirvanaというバンド名も「涅槃」を意味するサンスクリット語だ)。


彼らは8人のメンバーからなる大所帯バンドで、ロック・スタイルとヒンドゥスターニー・スタイルの2人のヴォーカリストと、ギター、ドラム、キーボード、ベース、タブラ、サーランギーのプレイヤーがいる。
8人がそれぞれ異なる音楽的バックグラウンドを持っているとのことで、曲によってインド古典にもロックにも自在に変化するサウンドはまさに「不二一元論」というバンド名にふさわしい。
近年はロック色の薄いアンビエント/ニューエイジ的な方向性に進んでしまっているようなのが少し残念だ。


最近のバンドでは、同じくニューデリーのバンドSabcultureがロックとインド音楽の心地よい融合を聴かせてくれている。

彼らは、以前は在籍していたカレッジの学校の名前を取ってHansRaj Projektを名乗っていたが、卒業にともなって改名。
2018年にデビューアルバムをリリースした。

彼らもやはり古典音楽とロックスタイルの2人のヴォーカリストを擁していて、このアコースティックバラード"Cycle Song"では、二人のヴォーカルのコール&レスポンスのようなアレンジが印象的だ。


ここまで聴いてきて分かる通り、フュージョン・ロックは、古典音楽風のヴォーカルが入ると、インドらしさが急増する。
より本格的なフュージョンになるのと同時に、ロックファンには少しとっつきにくくなってしまう気もするのだが、古典音楽のヴォーカルを活かしながらも、タイトなロックサウンドとの絶妙な融合を聴かせてくれるバンドがPaksheeだ。
Paksheeの場合、ロック風と古典風ではなく、二人の異なる古典音楽、つまり、北インドのヒンドゥスターニー音楽(彼は北インドからインド中部で広く話されているヒンディー語で歌う)と、南インドのカルナーティック音楽のヴォーカリスト(彼は南インド・ケーララ州の言語であるマラヤーラム語で歌う)が在籍していて、しかも英語のラップまでこなすというユニークさだ。

ジャズやファンクの要素のあるタイトな演奏も心地よく、彼らはフュージョンの新しいスタイルを確立したと言って良いだろう。
彼らについては、過去に特集記事を書いているので、興味のある方はこちらも参照してほしい。


今回紹介したバンドは、あくまでフュージョン・ロックの導入編。
もっと「濃い」バンドや、大胆すぎて真面目なんだかイロモノなんだか分からないバンドもたくさんいて、それぞれに良さがあるのだが、それは改めて紹介することとして、今日のところはこのへんで!

参考サイト:
https://en.wikipedia.org/wiki/Advaita_(band)
https://dailyjag.com/featured/an-interview-with-advaita-an-emerging-eclectic-fusion-band-from-india/




--------------------------------------
「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」

更新情報や小ネタはTwitter, Facebookで!


軽刈田 凡平のプロフィールこちらから

凡平自選の2018年のおすすめ記事はこちらからどうぞ! 
凡平自選の2019年のおすすめ記事はこちらから

ジャンル別記事一覧!


goshimasayama18 at 21:43|PermalinkComments(0)

2019年05月24日

混ぜたがるインド人、分けたがる日本人  古典音楽とポピュラーミュージックの話

『喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの[日本体験記]』という本がある(文春文庫)。
M.K.シャルマなる人物が書いた本を、インドに関する著書で有名な山田和氏が翻訳したものだ。
山田氏は、デリーの小さな書店で「日本の思い出」と題されたヒンディー語の私家版と思しき本を見つけて購入し、その後、奇遇にもその本の著者のシャルマ氏と知り合うこととなった。(曰く「9億5000万分の1の偶然」)。
この奇縁から、山田氏がシャルマ氏にヒンディー語から英語への翻訳を依頼し、それを山田氏がさらに日本語に訳して出版されたのが、この本というわけだ。

日本人のインド体験記は数多く出版されているが、インド人による日本体験記は珍しい。
シャルマ氏は、90年代初期の日本に滞在した経験をもとに、持ち前の好奇心と分析力を活かして、日印の文化の相違や、虚飾に走りがちな日本人の姿を、ときにユーモラスに、ときに鋭く指摘している。
全体を通して面白いエピソードには事欠かない本書だが、とくに印象に残っているのは、シャルマ氏が日本人の同僚とインド料理店を訪れた時の顛末だ。

私は料理同士をミックスさせ、捏ねると美味しくなると、何度もアドヴァイスをしたのだが、誰も実行しようとしなかった。混ぜると何を食べているのかわからなくなる、美味そうでない、生理的に受けつけない、というのが彼らの返事だった。
その態度があまりにも頑ななので、私は彼らが「生(き)(本来のままで混じり気のないこと)」と呼んで重視する純粋性、単一性への信仰、つまり「混ぜることを良しとしない価値観」がそこに介在していることに気づいたのである。
インドでは、スパイスの使い方がそうであるように、混ぜることを愛する。

(同書「インド人は混ぜ、日本人は並べる」の章より)

その後、シャルマ氏は「日本食も混ぜた方が美味しくなると思うか」という質問に「そう思う」と本音で答えた結果、「それは犬猫の食べ物」と言われてしまったという。
インド人は様々な要素を混ぜ合わせることを豊穣の象徴として良しとし、日本人はそれぞれの要素の純粋性を尊重するという、食を通した比較文化論である。

なぜ唐突にこんな話をしたかというと、インドの音楽シーンにも、私はこれと全く同じような印象を受けているからだ。
彼ら(インド人)は、とにかくよく混ぜる。
何を混ぜるのか?
それは、彼らの豊かな文化的遺産である古典音楽と、欧米のポピュラーミュージックを混ぜるということである。
それも、奇を衒ったり、ウケを狙っているふうでもなく、まるで「俺たちにとっては普通のことだし、こうしたほうが俺たちらしくてかっこいいだろ」と言うがごとく、インドのミュージシャン達は、ごく自然に、時間も場所も超越して音楽を混ぜてしまうのだ。
日本では「フュージョン」と言うと、ジャズとロックとイージーリスニングの中間のような音楽を指すことが多いが、インドで「フュージョン」と言った場合、それはおもに伝統音楽と現代音楽の融合を意味する。

その一例が、前回紹介した「シタールメタル」だ。
古典音楽一家に生まれ育ったRishabh Seenは、シタールとプログレッシブ・メタルの融合に本気で取り組んでいる。

ヒップホップの世界でも、Bandish ProjektやRaja Kumariが古典音楽のリズムをラップに導入したり、Brodha Vがヒンドゥーの讃歌を取り入れたり、そして多くのラッパーがトラックに伝統音楽をサンプリングしたりと、様々なフュージョンが試みられている。


Bandish ProjektもRaja Kumariも、インド伝統の口で取るリズム(北インドではBol, 南インドではKonnakolという)からラップに展開してゆく楽曲の後半が聴きどころだ。

Eminemっぽいフロウを聴かせるBrodha Vの"Aatma Raama"はサビでラーマ神を讃える歌へとつながってゆく。

 Divineのトラックは、実際はテレビ番組のテーマ曲の一部だそうだが、伝統音楽っぽい笛の音色をBeastie Boysの"Sure Shot"みたいな雰囲気で使っている!
Divineはムンバイを、Big Dealはオディシャ州をそれぞれレペゼンするという内容の曲。トラックもテーマに合わせてルーツ色が強いものを選んでいるのだろうか。

伝統音楽との融合はヒップホップだけの話ではない。
Anand Bhaskar CollectiveやPaksheeといったロックバンドは、ヒンドゥスターニーやカルナーティックの古典声楽を、あたり前のようにロックの伴奏に乗せている。


タミルナードゥ州のプログレッシブメタルバンドAgamは、演奏もヴォーカルもカルナーティック音楽の影響を強く感じる音楽性だ。

例を挙げてゆくときりがないので、そろそろ終わりにするが、エレクトロニック・ミュージックの分野では、Nucleyaがひと昔前のボリウッド風の歌唱をトラップと融合させているし、古典音楽のミュージシャンたちも、ラテンポップスの大ヒット曲"Despacito"を伝統スタイルで見事にカバーしている。(しかも、彼らが使っている楽器のうちひとつはiPadだ!)



まったくなんという発想の自由さなんだろう。
異質なものを混ぜることに対する、驚くべき躊躇の無さだ。

翻って、我が国日本はどうかと考えると、我々日本人は、混ぜない。
最新の流行音楽に雅楽や純邦楽の要素を取り入れるなんてまずないし、ロックバンドが演歌や民謡の歌手をヴォーカリストに採用するなんてこともありそうにない(例外的なものを除いて)。
そう、日本は「分けたがる」のだ。
純邦楽は日本の伝統かもしれないけど、ロックやヒップホップとは絶対に相容れないもの。
民謡や演歌の歌い方は、今日の流行音楽に取り入れたら滑稽なもの。
素材の純粋さを活かす日本文化は、混ぜないで、分けることでそれぞれの良さを際立たせる。

いったいなぜ、日本人とインド人でこんなにも自国の伝統と西洋の流行音楽に対する接し方が違うのか。
なぜインド人は、何のためらいもなく古典音楽と最新の流行音楽を混ぜることができるのか。
その理由は、インドの地理的、歴史的な背景に求めることができるように思う。

よく言われるように、インドは非常に多くの文化や民族が混在している国で、公用語の数だけでも18言語とも22言語とも言われている(実際に話されている言語の数は、その何倍、何十倍になる)。
現在のインドは、もともとひとつの国や文化圏ではなく、異なる文化を持つたくさんの藩王国や民族、部族の集まりだった。
彼らは移動や貿易や侵略を通して、互いに影響を与えあってきた歴史を持つ。
11世紀以降本格的にインドに進入してきたイスラーム王朝もまた、インド文化に大きな影響を与えた。
かつての王侯たちは、異なる信仰の音楽家や芸術家たちをも庇護して文化の発展を支えていたし、イスラームのスーフィズムとヒンドゥーのバクティズムのように、異なる信仰のもとに共通点のある思想が生まれたこともあった。
インドの歴史は多様性のもとに育まれている。
こうした異文化どうしの交流と影響の上に成り立っているのが、インドの芸術であり、音楽なのだ。

また、スペインやポルトガルなどの貿易拠点となったり、イギリス支配下の時代を経験したことの影響も大きいだろう。
インド人は、かなり昔から南アジアの中だけでなく、東(インド)と西(ヨーロッパ) の文化もミックスしてきたのだ。
音楽においても東西文化の融合はかなり早い段階から行われていて、ヨーロッパ発祥のハルモニウム(手漕ぎオルガン)は今ではほとんど北インドやパキスタン音楽でしか使われていないし、南インドでは西洋のバイオリンがそっくりそのまま古典音楽を演奏する楽器として使われている。
 

彼らの音楽的フュージョンは、一朝一夕に成し遂げられたものではないのである。
彼らはスパイス同様、音楽的要素も混ぜることでもっと良くなるという思想を持っているに違いない。
そもそも例に上げているスパイスにしても、インド原産のものばかりではない。
例えば今ではインド料理の基本調味料のひとつとなっている唐辛子は、大航海時代にヨーロッパ人によってインドにもたらされたものだ。
古いものも、新しいものも、自国のものも、他所から来たものも、混ぜ合わせながら、より良いものを作ってきたという歴史。
その上に、今日の豊かで面白いフュージョン音楽文化が花開いている。
長く鎖国が続いた日本の歴史とは非常に対照的である。

日本の音楽シーンでは、ルーツであるはずの文化や伝統と、現代の流行との間に、深い断絶がある。
その断絶の起源が鎖国にあるのか、明治にあるのか、はたまた戦後にあるのかは分からないが、とにかく我々は長唄や民謡とヒップホップを混ぜようとしたりはしない。
というか、そもそも伝統音楽と流行音楽の両方を深く聴いているリスナー自体、ほとんどいないだろう。

日本人は、分ける。
インド人は、混ぜる。

と、ここまで書いて、ふと気がついたことがある。
スパイスや音楽については混ぜることが大好きなインド人も、なかなか混ぜたがらないものがある。
それは、彼らの「生活」そのものだ。
例えば、食。
スパイスについては混ぜることを良しとしている彼らも、食生活そのものに関しては、都市に住む一部の進歩的な人々以外、総じて保守的である。

牛を神聖視するヒンドゥーと、豚を穢れているとするムスリム、さらには人口の3割を占めるというベジタリアンなど、インドには多くの食に関するタブーがある。
それらは個人やコミュニティーのアイデンティティーと強く結びついており、気軽に変えられるものではない。
音楽に関する仕事をしていて、アメリカ留学経験も日本在住経験もあるとても都会的なインド人が、頑なにベジタリアンとしての食生活を守っている例を知っている。
その人は信仰心が強いタイプでは全くないが、生まれた頃からずっと食べていなかった肉を食べるということに、気持ち悪さのような感覚があるという。
(多様性の国インドにはいろんなタイプの人がいるので、あくまで一例。最近では逆にベジタリアン家庭に育っても、鶏肉くらいまでは好んで食べる若者もそれなりにいるようだ)
多くのインド人にとっては、小さな頃から食べ慣れた食生活を守ることが、何よりも安心できることなのだろう。

また、結婚についても同様に、インド人は混ぜたがらない。
ご存知のように、インドでは結婚相手を選ぶときに、自分と同等のコミュニティー(宗教、カースト、職業、経済や教育のレベルなど)から相手を選ぶことが多い。
保守的な地方では、カーストの低い相手との結婚を望む我が子を殺害する「名誉殺人」すら起こっている。(家族の血統が穢れることから名誉を守るという理屈だ)
 
一方、日本人は食のタブーのない人がほとんどだし、海外の珍しくて美味しい料理があると聞けば喜んで飛びつき、さらには日本風にアレンジしたりもする。
食に関して言えば、日本人は混ぜまくっている。
結婚に関しても、仮に「身分違いの恋」みたいなことになっても、せいぜい親や親族の強硬な反対に合うことがあるくらいで、殺されたりすることはまずない。
日々の暮らしに関わる部分では、日本人のほうが混ざることに対する躊躇が少なく、インド人のほうが分けたがっているというわけだ。
国や民族ごとに、人々が何を混ぜたがり、何を分けたがっているのかを考えると、いろいろなことが分かってくるような気もするが、話が大きくなり過ぎたのでこのへんでやめておく。


最後に、冒頭で紹介した山田和氏の「喪失の国、ニッポン〜」をもう一度紹介して終わりにする。
この本は、これまで読んだインド本の中で、確実にトップスリーには入る面白さで、唯一欠点があるとすれば、なんとも景気の悪いタイトルくらいだ。 
主人公のシャルマ氏は、花見の宴席を見て古代アラブの宴を思い起こし、「やっさん」というあだ名の同僚からペルシアの王ハッサンを想像してしまうぶっ飛びっぷりだし、後半では淡い恋のエピソードも楽しめる。 
実は、この本の内容は全て山田氏の創作なのではないかという疑惑もあるようなのだが(正直、私もちょっとそんな気がしている)、もしそうだとしても、それはそれで十分に面白い奇書なので、ご興味のある方はぜひご一読を!



インドのフュージョン音楽については、過去に何度か詳しく書いているので、興味がある方はこちらのリンクから!
混ぜるな危険!(ヘヴィーメタルとインド古典音楽を) インドで生まれた新ジャンル、シタール・メタルとは一体何なのか

「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」

更新情報や小ネタはTwitter, Facebookで!


凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ! 


goshimasayama18 at 21:49|PermalinkComments(0)

2018年08月29日

フュージョン音楽界の新星! Pakshee

「フュージョン」といえば、前世紀頃の日本では、ジャズとロックの融合的な音楽ジャンルを指していたものだが、インド音楽で「フュージョン」という場合、それは「古典と現代」が融合した音楽ジャンルのことを指す。

今回紹介するデリーのバンド、Paksheeは、北インドのヒンドゥスターニーと南インドのカルナーティックという異なるスタイルの古典声楽をベースに持つふたりのヴォーカリストと、ソウル、ファンク、ジャズの要素の強いバンドメンバーとの絶妙のアンサンブルを聴かせてくれるインド・フュージョンロック界の新星だ。
まだスタジオ音源のリリースは2曲に過ぎないが、そのサウンドからは限りない可能性を感じさせてくれる。

まずは、彼らのデビュー曲、"Raah Piya" を紹介しよう。
Rolling Stone India誌が選んだ2017年のインドのミュージックビデオ・ベスト10の第5位にランクインしたビデオでもある。

タイトなリズムに浮遊感のあるヴォーカルが心地良い。
古典風に歌ってたと思ったら、ジャジーなピアノソロに続いてラップが入ってぐっと曲調が変わり、さらに最後のヴァースでヴォーカリスト2人がメインのパートとインプロヴィゼーションに分かれて掛け合いを始める頃には、あなたにもインドのフュージョン・ロックの魅力が最大限に感じられるはずだ。
インド声楽は慣れないと少しつかみどころがなく感じるかもしれないが、はまってくると独特のヴォーカリゼーションがとても心地よく感じるようになってくる。

続いて、彼らの2本目のビデオ"Kosh".
楽曲もビデオもさらに洗練されてきた!

今度はギターのアルペジオやリズムがちょっとラテンっぽい感じも感じさせる楽曲だ。
スムースな曲調が一転するのが3:20頃からの間奏で、ギターのノイズをバックに緊張感あふれる怒涛のリズムに突入する。
ここからさらにジャズ色の濃いピアノソロを経てヴォーカルに戻ってくる展開は圧巻だ。

"Kosh"のビデオを制作したのはデリーの映像作家Mohit Kapil.
「なぜ愛すのか、誰を愛すのか、どう愛すのか」というテーマで作成された映像は、困難の中にいる人々を扱った3つの独立したストーリーから成り立っている。
仕事と育児に追われるシングルマザー、作品を作りのための意思疎通がうまくいかないダンサーと写真家、衰えや痴呆と否応なしに向き合わされる老夫婦。
それぞれが日常の苦しみのなかから喜びや希望を見出してゆく過程は、計算し尽くされた美しい色調や構成とあいまって、短編映画のような印象を残す。

このPaksheeでユニークなのは、2人いるヴォーカリストのうち、一人はヒンディー語で、もう一人はマラヤラム語(南部ケララ州の言語)で歌っているということ。
全く異なる言語体系の両方の言語が達者な人はインドでもそう多くないはずだが、こうした言語の使い分け方にも何かしらの意図がありそうで、ぜひ彼らに聞いてみたいところだ。

この曲では、2つの言語で、
「いったい誰がミツバチのために花を蜜で満たすのか。誰が花を咲かせるのか」
「蝶は繭から孵るとき、いったいどうやって育ったのか。誰が育て、羽に色をつけたのか」

といった、生命をめぐる哲学的とも言える歌詞が歌われている。
("Kosh"はヒンディー語で「繭」や「宝のありか(金庫)」という意味とのこと)

Paksheeのサウンドは、楽器は西洋風、歌はインド風という比較的わかりやすいフュージョンだが、ジャズやロック的なインストゥルメンタルと古典音楽風のヴォーカルが不可分に一体化していて、先日紹介したPineapple Express同様に、フュージョンロックの新世代と呼ぶにふさわしい音像を作り上げている。

インドの要素の入ったロック」は昔から欧米のアーティストも多く作っているけど、この本格的な古典ヴォーカルを生かしたサウンドは本場インドならでは。
演奏力も高く、大きな可能性を秘めている彼らが、インドの市場でどのように受け入れられるのか、はたまた海外でも高く評価される日が来るのか、非常に楽しみだ。
まあどっちにしろ、世間の評価に関係なく私は高く評価しますよ。ええ。

それでは今日はこのへんで! 

goshimasayama18 at 01:00|PermalinkComments(0)

2018年02月11日

欧米の「インド風ロック」と「インドのロック」の違い

さて、インドといえば60年代からロックに多大な影響を与えてきた国。
90年代、インドとロックが大好きな若者だったアタクシは、よく「インドに影響を受けたロック」を聴いていたものでございます。
でも、欧米人が演奏する「インド風ロック」は、本場のインドを知ってしまった身からすると、どこかやっぱり物足りなかった。

時は流れて2018年。
ここでも紹介しているように、インドにもロックバンド がたくさんいる時代になった。
その中にはインド音楽の要素が入ったバンドもたくさんいる。
ボンカレーしかなかった街にインド人が作る本格インドカレーのお店ができたようなものだ。
本場のインド風ロック!最高ではないか。
実際、素晴らしいバンドがたくさんいる。

で、インドのバンドをいろいろ聴いてみてあることに気がついた。

それはどういうことかというと、

「欧米のバンドがやっているインド風ロック」と「インドのバンドのインド風ロック」って、全然違う!

ということ。

それを今日はアタクシなりに説明したいと思います。
まあとにかく聴いてみてください。
まずは欧米のやつから行きますよ。「知ってるよ」って人は飛ばしてくれても大丈夫です。

やっぱりまずはビートルズから。
ジョンの曲でシタールが印象的なNorwegian Wood.

とりあえず手軽にインドっぽくするならシタール入れとくか、って感じだね。

同じくジョンで、サイケデリックなTommorow Never Knows.

ずっと同じ音程が続くドローン的な音を入れるのもインドっぽさを出すポイントの一つですな。
当時からインド風の要素とサイケデリックって、セットで出てくることが多かったよね。
ヨガとか瞑想とかドラッグとかで知覚の扉を開く、みたいな。

次。ビートルズでインドといえばジョージ。
シタールのラヴィ・シャンカールに弟子入りしたりもしてたよね。

おお、かなり本格的!ってか本格的すぎて普通のビートルズファンはこの曲好きじゃないと思う。
ドローン音にシタール、バイオリン的な楽器の漂うようなメロディーがヴォーカルとユニゾンと、インド要素満載!

ビートルズときたらストーンズ。「黒くぬれ!」(原題:Paint it, Black) 

全編にブライアン・ジョーンズのシタールだぜ!メロディーもそれっぽい感じにしてみたぜ!適当だけどな!俺たち不良だけどよ、インドっぽくしてみたぜ!って雰囲気だろうか。

時代は一気に90年代へ。久しぶりに出てきたインドかぶれバンド、Kula Shakerで "Tattva"をお聴きください。

Tattvaはサンスクリット語で「真理」とかそんな意味の言葉だったと思う。
同じフレーズを繰り返すマントラ的なAメロでインド的な要素を出した後で、ぐっとポップなBメロに続くところの解放感が素敵。
彼らのインドかぶれっぷりったるや相当なもので、実際にヒンドゥーの宗教歌のカヴァーとかもやっていたりする。


こうやって並べてみると、インドに影響を受けたロックって……もっとあるかと思ったけど、あんまりなかったな…。
60年代と90年代しか無いし、90年代はクーラシェイカーだけだし。
ヒッピームーブメントの頃からインド風ファッションを取り入れるミュージシャンも多かったから、実態以上にロックへのインドの影響って、大きく感じられるのかもしれない。
あと偶然だけど並べたバンドが全部イギリスのバンドだった。
ロックに豪快さとパーティーと反骨精神を求めるアメリカ人は、内省的なインド的要素と相性が良くないのかもしれないね。

はい、それじゃあ次は本場インドのバンドがインド音楽を取り入れた曲ってのを聴いてみてください!

以前紹介したことがあるAnand Bhaskar CollectiveさんのMalhar.

なんかイギリスのバンドと全然違うよね。とにかくこの歌!
演奏のコード感は逆にちょっとイギリスのツェッペリンっぽい感じもあるかな。

続いてはRolling Stone Indiaが選ぶ2017年のTop10ミュージックビデオにも選ばれていたニューデリーのバンド。
PakseeのRaah Piya.

これも全然違うぞ。
演奏部分はむしろファンク的にグルーヴしていて、でもまたしてもヴォーカルがどうしようもなくインド!
途中で唐突にラップするところもイカす。

どんどん行きましょう。インド風ロックというより、ロック風インド!AgamでMist of Capricorn(Manavyalakincharadate)。カッコの中の単語、南インドの言葉だと思うけど、長え!

エンヤっぽい感じで始まったと思ったら、歌い回しからエレキギターのフレーズまで、あらゆるところがインドだ。

…と、こんなふうに、イギリスのバンドとインドのバンド、インドっぽいロックをやるにしても、全然違った感じの出来になるのだから不思議。
インドっぽさの解釈、インドっぽさをどこで出すかがまるで違う。

イギリスのバンドとインドのバンド、それぞれがどの部分でインドっぽさを出そうとしているのか、まとめてみるとこんな感じになると思う。

 イギリスのバンドの中のインドっぽい要素
 ・シタールやタブラといった楽器の「音色」
 ・ずっと同じ音程が続くドローンノート
 ・マントラ的に繰り返したり、エスニックな旋律だったりするそれっぽいメロディーライン
 ・でも歌の発声自体はインドっぽくはなく、普通の英語のポップスやロックと同じように歌われる。

 イギリスのバンドがやるときのインドっぽい要素 
 ・とにかく歌い回し!
 南インドのカルナーティックや北インドのヒンドゥスターニー音楽に由来する独特に揺れて上下する音程。
 ・同様にギターやバイオリンといったリード楽器も、インド的な「音程の取り方、運び方」をする。
 ・でも演奏の核になるリズムや伴奏部分は、むしろ普通のロックだったりファンクだったりする(タブラやシタールといった記号的なインド楽器が使われることはない)。

と、こんな感じだ。
要は、イギリスのバンドが楽器の「音色」や「ドローン音」「メロディーライン」でインドを表現しているのに対して、インドのバンドは歌やリード楽器の「歌い回し・フレージング」でインド的な要素を出している。 

アタクシ、古典音楽には全然詳しくないのだけど、 どうもインドの古典音楽というのは、声楽がすべての基本となっていて、楽器の演奏も声楽を模したものとして表現されるという話を聞いたことがある。
ところが、そのインド古典声楽の歌い方は、ロックとも、西洋のいかなる音楽とも違う。
欧米人のロックミュージシャンがインド声楽を理解し、体得して表現するのは大変だ。
そもそも、それをやってしまうと、ロックの歌い方ではなくなってしまうし、そこまでインド音楽を本格的にやりたいわけでもないのだろう。

そこで、イギリスのバンドは、ロック的な楽曲に、声楽ではなく、インドの楽器の音色や、エスニックなメロディーラインを取り入れることでことでインドっぽさを演出することにした。
ありあわせの材料で作ったなんちゃってエスニック風料理に、インドのスパイスをふりかけてみました、みたいな感じと言えるかな。

いっぽう、インドのバンドたちは、ロックを演奏するのだから、基本編成はギター、ベース、ドラムス、キーボードといった王道の楽器で固めつつ、インドの要素を取り入れるために、インド音楽のすべての基本であるヴォーカルをまず取り入れることにした。
エレキギターなどのロックの楽器で本格的な古典音楽のフレーズを弾いて、さらにインドらしさを演出している人たちもいる。
(古典音楽の楽器でインドっぽいフレーズを弾いてしまうと、それはまんま古典音楽になってしまうので、インド人はやらないのだろう)
洋風の器に、本場のインド料理を盛りつけてみました、ってところかな。

とまあ、最近のインドの音楽をいろいろ聴いているうちに、こんなふうな違いを発見したって次第です。
だから何だよ、って言われても困るのだけどね。 

goshimasayama18 at 12:30|PermalinkComments(0)