Natsume
2019年11月04日
帰ってきたガリーボーイ歌詞翻訳!"Train Song" by麻田豊、餡子、Natsume
『ガリーボーイ』リリック翻訳シリーズの番外編、いわばアンコールも(たぶん)今回でラスト!
麻田先生、餡子さん、Natsumeさん、本当にお疲れ様でした!
打ち上げどこかでやりましょう(業務連絡)。
最後に紹介するのは、"Train Song".
今回もラップではなく、『ガリーボーイ』のサウンドトラックのなかでは珍しい普通に歌われている曲なのだけど、この曲が素晴らしい名曲!
私も大いに気に入っています。
歌は英語とヒンディー語のパートに分かれていて、英語部分を歌っているのはタブラプレイヤー/エレクトロニカ・アーティストとしても知られるインド系イギリス人のKarsh Kale、ヒンディー語部分は南インド出身で、さまざまな言語の映画音楽の歌手としても知られるRaghu Dixit.
英語部分の作詞はKarsh Kaleを中心にしたメンバーで行われているようで、ヒンディー語部分の作詞は、前回紹介した"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)でも作詞を手がけたジャーヴェード・アフタル。
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麻田先生、餡子さん、Natsumeさん、本当にお疲れ様でした!
打ち上げどこかでやりましょう(業務連絡)。
最後に紹介するのは、"Train Song".
今回もラップではなく、『ガリーボーイ』のサウンドトラックのなかでは珍しい普通に歌われている曲なのだけど、この曲が素晴らしい名曲!
私も大いに気に入っています。
歌は英語とヒンディー語のパートに分かれていて、英語部分を歌っているのはタブラプレイヤー/エレクトロニカ・アーティストとしても知られるインド系イギリス人のKarsh Kale、ヒンディー語部分は南インド出身で、さまざまな言語の映画音楽の歌手としても知られるRaghu Dixit.
英語部分の作詞はKarsh Kaleを中心にしたメンバーで行われているようで、ヒンディー語部分の作詞は、前回紹介した"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)でも作詞を手がけたジャーヴェード・アフタル。
ゾーヤー・アフタル監督の父親であり、ボリウッドの脚本家/作詞家、ウルドゥー詩人として伝説的な人物である彼が、ここでも活躍している。
作曲はデリーを中心に活動を続けるエレクトロニカ・デュオのMidival PunditzとKarsh Kaleの共作。
Midival PunditzとKarshはいずれも2000年前後から活動するベテランで、いわばインド系クラブミュージックのパイオニアだ。
ヒップホップにこだわった映画のなかで、ここだけジャンルも国籍も超えた(そして、しっかりアフタル・ファミリーの大御所ジャーヴェードも入った)大物のコラボレーションを持って来るあたり、非常に面白いバランス感覚だと言える。
餡子さんのコメント:
格差社会への憤りや、自分自身を誇る血圧高めのラップが多い『ガリーボーイ』のサウンドトラックのなかで、この曲の開放感は独特の輝きを放っている。
この曲に絡めて『ガリーボーイ』のもう一つのテーマを紹介するとすれば、それは「調和と融合」ということになるかもしれない。
この「調和と融合」は、ヒップホップに代表される、実際のインドのインディーミュージックシーンを理解する上でも重要なキーワードだ。
スラム出身の青年のリリックと、富裕層出身でアメリカの名門大学で音楽を学んだビートメーカーのトラックの融合。
アメリカから来たラップと、インドの伝統的なリズムやポエトリーの融合。
Midival PunditzとKarshはいずれも2000年前後から活動するベテランで、いわばインド系クラブミュージックのパイオニアだ。
ヒップホップにこだわった映画のなかで、ここだけジャンルも国籍も超えた(そして、しっかりアフタル・ファミリーの大御所ジャーヴェードも入った)大物のコラボレーションを持って来るあたり、非常に面白いバランス感覚だと言える。
餡子さんのコメント:
ヒンディー語パートと英語パートに分かれている歌で、ヒンディー語パートはムラドのこれまでの話と、今回の成功を讃える内容になっています。
英語の部分は歌だけ聞くとハテナ?ですが、エンディングの場面で駅でサフィーナと会うときに流れるのでその情景を表してるのだと思います。Natsumeさんの考察で「心臓」は体の左側にあるから「左側の出口」というのは心臓とリンクしているのでは、という解釈をしました。今回の歌詞の翻訳のためカラーチー在住の麻田先生の知人の方にもご協力いただきました!
格差社会への憤りや、自分自身を誇る血圧高めのラップが多い『ガリーボーイ』のサウンドトラックのなかで、この曲の開放感は独特の輝きを放っている。
詩的なメタファーに満ちた歌詞も印象的で、ヒンディー語部分はじつにヒンディー語的な、英語部分は非常に英語的な歌い回しになっており、それがごく自然に融合しているのも面白い。
英語、ヒンディー語それぞれのフォークっぽいメロディーラインに続いて、スケールの大きいコーラスに続く展開は、何度聴いても心地よい爽快感がある。
この"Train Song"は、短い曲ながら、大御所ウルドゥー詩人、在外インド系ミュージシャン、国内クラブミュージックのパイオニア、映画音楽界の人気シンガーという様々な才能が有機的に絡み合いながらそれぞれの良さを活かしあっている、まさに現代のインドの音楽シーンを象徴する名曲と言ってよいだろう。
"Train Song"にはヒップホップ的な要素は皆無だが、この曲の背景には、ヒップホップに憧れるスラムの青年がラッパーになって留学帰りのプロデューサーと出会い、自分の言葉(ヒンディー/ウルドゥー語)でNasのオープニング・アクトを目指すというこの映画のストーリーと地続きの、グローバル化しながらも独自性を失わず、むしろその輝きを増してゆく現代インドの音楽シーンの面白さが詰まっているのだ。
この曲に絡めて『ガリーボーイ』のもう一つのテーマを紹介するとすれば、それは「調和と融合」ということになるかもしれない。
この「調和と融合」は、ヒップホップに代表される、実際のインドのインディーミュージックシーンを理解する上でも重要なキーワードだ。
スラム出身の青年のリリックと、富裕層出身でアメリカの名門大学で音楽を学んだビートメーカーのトラックの融合。
アメリカから来たラップと、インドの伝統的なリズムやポエトリーの融合。
ムスリムのラッパーとヒンドゥーのラッパー(MCシェールのモデルとなったDivineはクリスチャンだが)のコラボレーション。
映画のなかで起きるこういった出来事は、全て実際の音楽シーンでも実現していることだ。
そもそも、宗教の垣根を越えた詩人や音楽家の庇護や共演は、インドでは何百年も前の王朝時代からあたり前のように行われていた。
現実世界ではコミュニティの分断と対立のニュースばかりが報じられるなか、インドの音楽シーンのこうした美徳は、ますますその価値を増しているようにも思える。
『ガリーボーイ』で提示されたような、さまざまな魅力に満ちた実際のインドの音楽シーンについて、これからもこのブログで積極的に紹介してゆきたいと思います!
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2019年11月02日
帰ってきた『ガリーボーイ』歌詞翻訳!"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)by 麻田豊、餡子、Natsume
先日まで集中連載していた、インド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』のラップのリリック翻訳シリーズ。
大好評にお応えして、このプロジェクトを進めている餡子さん、麻田先生、Natsumeさんによるチームから新たに届いた翻訳を紹介します!
今回紹介する楽曲は、"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)。
ところで、今回は記事のタイトルが「ラップ翻訳」ではなく、「歌詞翻訳」となっていることに注目。
そう、今回紹介する曲はラップではない。
この"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)は、イギリス生まれのインド系プロデューサー、Rishi Richが作ったトラックに乗せて、主演のランヴィール・シンが、ゾーヤー・アフタル監督の父でもあるジャーヴェード・アフタルによる詩を朗読したもので、そういう意味では「歌詞」と呼ぶのも厳密には違うかもしれない。
(あえて言えば、ポエトリー・リーディングやSlamと呼ばれるジャンルに近いか。なお、監督らのAkhtarという苗字については、映画のパンフレットをはじめ「アクタル」と記載されているものが多いが、今回は翻訳に携わった麻田先生にならって「アフタル」に統一する)
餡子さんによるコメント:
このリリックのシーンは、ムラドが電車に揺られている中周りにぼんやりと死んだ目をしたサラリーマンたちが映されて、「レールの上に載せられた人生」で「たった一本の道」を歩むしかない…という状況があらわされてますね。
この曲の作詞をしたジャーヴェード・アフタルは、ウルドゥー語詩人であると同時にヒンディー語映画の作詞家・脚本家としても長く活躍し、インド政府からパドマー・シュリー、パドマー・ブーシャンという2つの称号を受勲している伝説的な人物だ。
(北インドで広く話されるヒンディー語と、パキスタンの公用語で北インドのムスリムにも話者が多いウルドゥー語は、文字が異なり、語彙にも違いがあるが、言語的には非常に近く、会話においては相互の意思疎通が可能なことが多い)
無理やり日本に例えれば、倉本聰と谷川俊太郎と阿久悠を、足して割らずに数倍にしたくらいの人物ということになるかもしれない。
ちなみにジャーヴェードの父も映画音楽の作詞でも活躍した詩人で、さらに祖父も詩人である。
ゾーヤー監督は、母が女優/脚本家のハニー・イラーニー(ただしゾーヤーが6歳のときに両親は別居し、やがて離婚。ジャーヴェードは女優のシャバーナー・アーズミーと再婚した)、弟がこの映画でも共同製作を努めたファルハーン・アフタルという生粋のボリウッド一家の出身で、映画製作を「ファミリー・ビジネス」と呼んではばからない。
これまで紹介してきたように、『ガリーボーイ』は、インド社会の中で抑圧されてきたスラムの若者が、アメリカの黒人文化であるヒップホップに影響を受け、ストリートラップ(ガリーラップ)によって成長・成功してゆく作品であるが、アフタル・ファミリーそして監督の父ジャーヴェード・アフタルという補助線を引くとまた違う背景が見えてくる。
すなわち、伝統的なヒンディー/ウルドゥーの詩からヒップホップという新しいポエトリー文化への連続性である。
(ウルドゥー語学文学の研究者である麻田先生は早くからこの指摘をしていたが、さすがの視点!)
(ウルドゥー語学文学の研究者である麻田先生は早くからこの指摘をしていたが、さすがの視点!)
ゾーヤー・アフタル監督は、主人公ムラードのモデルとなったNaezyのラップを初めて聴いたときの印象として、「これまでインドでこんなふうにリアルな表現をする音楽を聴いたことがなかった」という趣旨の発言をしていたが、これは映像作家としてだけではなく、詩に造詣が深いアフタル・ファミリーの一員としての感想でもあったはずだ。
この『ガリーボーイ』では、"Doori Poem"(へだたり/詩)でもジャーヴェード・アフタルが作詞を担当し、"Doori"ではなんとラッパーのDivineとリリックの共作までしている。
さらに言えば、Naezyはラッパーであることを、父に「非イスラーム的である」と咎められ、一時期活動を休止していたが、今では「ラップはイスラーム文化の伝統的な"詩"と同じようなものである」という理解が得られ、活動を再開している。
インドは今でも若者が恋人に詩を送るような、ポエトリー文化の盛んな国。
インドのヒップホップカルチャーには、おそらくだがこうした詩作文化の伝統も、大きく影響しているのではないだろうか。
それにしても、国家から叙勲されるような大詩人がヒップホップ映画に参加し、ラッパーと共作すらしてしまうボリウッドの懐の深さには恐れ入るしかない。
そういえば、映画のテーマとなっている親子の確執や身分違いの恋、現実と夢との相克といった題材も、決して目新しいものではなく、インド映画の伝統とも言えるものである。
『ガリーボーイ』はヒップホップというインドにおける新しい文化を扱った映画でありながら、アフタル・ファミリーというボリウッドの伝統を担ってきた一家の、正統な系譜に連なる作品でもあるのだ。
この『ガリーボーイ』では、"Doori Poem"(へだたり/詩)でもジャーヴェード・アフタルが作詞を担当し、"Doori"ではなんとラッパーのDivineとリリックの共作までしている。
さらに言えば、Naezyはラッパーであることを、父に「非イスラーム的である」と咎められ、一時期活動を休止していたが、今では「ラップはイスラーム文化の伝統的な"詩"と同じようなものである」という理解が得られ、活動を再開している。
インドは今でも若者が恋人に詩を送るような、ポエトリー文化の盛んな国。
インドのヒップホップカルチャーには、おそらくだがこうした詩作文化の伝統も、大きく影響しているのではないだろうか。
それにしても、国家から叙勲されるような大詩人がヒップホップ映画に参加し、ラッパーと共作すらしてしまうボリウッドの懐の深さには恐れ入るしかない。
そういえば、映画のテーマとなっている親子の確執や身分違いの恋、現実と夢との相克といった題材も、決して目新しいものではなく、インド映画の伝統とも言えるものである。
『ガリーボーイ』はヒップホップというインドにおける新しい文化を扱った映画でありながら、アフタル・ファミリーというボリウッドの伝統を担ってきた一家の、正統な系譜に連なる作品でもあるのだ。
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2019年10月25日
『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Asli Hip Hop"(リアルなヒップホップ)by麻田豊、餡子、Natsume
いよいよ大詰めを迎えてまいりました、麻田先生、餡子さん、Natsumeさんによる『ガリーボーイ』リリック翻訳。
今回紹介するのは"Asli Hip Hop"(リアルなヒップホップ)。
ラッパーとして成長したムラードが、ヒューマン・ビートボックスに載せて、ガリー育ちの魂を聴かせてくれる曲だ。
ラッパーとして成長したムラードが、ヒューマン・ビートボックスに載せて、ガリー育ちの魂を聴かせてくれる曲だ。
餡子さんのコメント:
このラップの中でも母親への愛が語られていて、インドらしさを感じます。テンポがスローだからか、正しい文法でリリックが書かれていて比較的訳しやすいです。
ラップはもちろんランヴィール本人。リリックは若干20歳のラッパーSpitfireが書いている。
ビートボックスは、ラッパー、ダンサー、グラフィティアーティストを含むムンバイのクルーBombay LokalのD-CypherとBeat Raw.
インドのストリート(ガリー)ヒップホップシーンでは、ターンテーブルやレコード盤が必要なDJの代わりにビートボクシングが非常に盛んで、ダラヴィでは放課後にビートボクシング教室まで開かれているという。
インドのストリート(ガリー)ヒップホップシーンでは、ターンテーブルやレコード盤が必要なDJの代わりにビートボクシングが非常に盛んで、ダラヴィでは放課後にビートボクシング教室まで開かれているという。
リアルな雰囲気のアドリブを入れているのは実際のムンバイのシーンのMCたちだ。
リリックは解説する必要がないくらい明確で力強い。
餡子さんの指摘通り「母親への愛と感謝」が入っているのもいかにもインド的だ。
「ヒップホップこそが俺の宗教/どんなカーストにも属さない」という部分もとてもインドっぽいフレーズだ。
ムラードはムスリムとしての信仰も大事にしているが、その信仰は彼に安らぎを与えるだけではなく、彼を縛りつける不自由さとも結びついている。
見下され、抑圧される原因となっているカーストについては言わずもがなだ。
ムラードにとって、いや、実際のムンバイのスラムの若者達にとって、ヒップホップは、既存の宗教やコミュニティとは関係なく、自分を誇り、仲間とつながることができる手段なのだ。
今やヒップホップはアメリカの黒人文化という枠組みを大きく超え、こういった現象は世界中の都市で起きている。
『ガリーボーイ』はインドにおける都市の若者文化のグローバル化と、ヒップホップのローカル化を同時に感じることができる作品でもある。今やヒップホップはアメリカの黒人文化という枠組みを大きく超え、こういった現象は世界中の都市で起きている。
既に何度も書いてきたことだが、"Asli Hip Hop"が「リアルな(asli)」ヒップホップと強調しているのは、インドにはメインストリームのパーティー音楽として「リアルでないヒップホップ」が既に高い人気を得ていたからだ。
『ガリーボーイ』の中で「リアルなヒップホップ」の対極にあるパーティーラップとして使われているのが、この"Goriye".
意図に反して、これはこれで結構かっこよく仕上がっている。
もっとEDM系のダサいバングラ系ラップはいくらでもあるように思うが、そこは日本人とインド人の感じ方の違いかもしれない。
次回はこのリリック翻訳シリーズのいよいよ(ひとまずの)最終回!
もちろん、『ガリーボーイ』を象徴する曲、"Apna Time Aayega"(俺の時代がやって来る)です!
乞うご期待!
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『ガリーボーイ』の中で「リアルなヒップホップ」の対極にあるパーティーラップとして使われているのが、この"Goriye".
意図に反して、これはこれで結構かっこよく仕上がっている。
もっとEDM系のダサいバングラ系ラップはいくらでもあるように思うが、そこは日本人とインド人の感じ方の違いかもしれない。
次回はこのリリック翻訳シリーズのいよいよ(ひとまずの)最終回!
もちろん、『ガリーボーイ』を象徴する曲、"Apna Time Aayega"(俺の時代がやって来る)です!
乞うご期待!
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2019年10月24日
『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Azadi"(自由)by麻田豊、餡子、Natsume
麻田豊、餡子、Natsume(敬称略)による『ガリーボーイ』リリック翻訳第5弾!
前回紹介した恋に悩むラブソングの"Kab Se Kab Tak"からうって変わって、今回はこの映画の中でも、とくに政治的・社会的なトラック"Azadi"を紹介!
餡子さんからのコメント:
Divineは何度も紹介している通り『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなったムンバイのラッパーで、Dub Sharmaはインド北部チャンディーガルのエレクトロニックミュージック・アーティスト/ラッパーだ。
この強烈な政治的ナンバーは、実は映画のストーリーの中で不可欠な使われ方をしているわけではない。
むしろ、どちらかというとBGM的な扱いだ。
(一応、格差による不条理とそれに抗う姿勢が示される場面ではあるが)
であるならば、他の曲と同じようなスラムをレペゼンするラップでも、いっそのことインストゥルメンタルでも良いはずだ。
それでもあえてこの曲を採用したのは、ゾーヤー・アクタル監督が、この映画を通して、ヒップホップがストリートをレペゼンするだけではなく、政治や社会の構造的な問題にも鋭く物申すジャンルであることを伝えたかったからだろう。
ラップというよりもシュプレヒコールのようなコーラスは、じつはもともと実際のデモで使われたものがもの。
デリーの名門大学JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)で行われた学生運動のリーダー、Kanhaiya Kumarによるコール&レスポンスがこの曲の原型だ。
凄まじい熱気!
この動画のタイトルに、"Lal-Salaam Song"とあるが、この'Lal-Salaam'は、「赤色万歳!」を意味する、共産主義にシンパシーを持つものの合言葉。
この言葉は、以前紹介したデリーを拠点に活動するスカバンド"Ska Vengers"の中心人物Delhi Sultanate aka Taru Dalmiaも、自身のサウンドシステムでのパフォーマンスで使用している。
彼が'Lal Salaam'といっしょに、反カースト/平等主義の合言葉'Jai Bhim'を叫んでいることにも注目。
この言葉は、最下層の被差別階級から身を起こし、インドの初代法務大臣にまで登りつめたビームラーオ・アンベードカルを称える言葉で、彼はカーストの軛から逃れるために、同じ身分の50万人もの同志たちとヒンドゥーから仏教へと集団改修したことでも知られている。
リンクした記事で紹介した動画でも、DJブースから、ヒンドゥー・ナショナリズムや企業のルールからの自由を求めて、"A-za-di"のコール&レスポンスをするTaruの姿を見ることができる。
彼もまた、政治や社会構造の矛盾に鋭く批判を突きつけるアーティストなのだ。
先ほど紹介したJNUでのKanhaiya Kumarによるアジテーションは、Dub Sharmaによってリミックスされてダンストラックとなっており、このバージョンが『ガリーボーイ』で使われたラップの原曲となっている。
反ヒンドゥーナショナリズム、反差別、反暴力などあらゆるデモの様子が収められたこのミュージックビデオもインドの民衆のエネルギーが伝わってくる。
("Azadi"の原曲の調査は餡子さんによるもの。"India91"に登場するラッパーの全員解明もそうだが、餡子さんの調査力、凄すぎ!)
ちなみに'Azadi'という単語は、今インドでもっとも勢いのあるデリーのアンダーグラウンド・ヒップホップレーベルの名称にも使われている。
『ガリーボーイ』のなかでは、他にも"Jingostan"が、かなり政治的な楽曲だ。
'Jingostan'は、自国の利益のためなら他国に対して武力も辞さない強圧的な姿勢を表す'jingoism'に、国を表す'stan'をつけた造語で、続けて叫ばれる'Zindabad'は「万歳!」のようなかけ声だ。
つまり、この曲は覇権主義的な国家を皮肉った内容なのである。
この曲も、'Jingostan Zindabad'の掛け声がまるでデモか集会のような雰囲気を醸し出しており、いわゆるヒップホップ的(現代アメリカ黒人文化的)というよりは、かなりインド的な雰囲気が感じられる。
そして、この曲も決してストーリーの中で不可欠な位置付けで使われているわけではないのだ。
BGM的な部分にこうした政治的な楽曲が選ばれているという事実から、ゾーヤー監督がこの映画を通して伝えようとしたもう一つのメッセージを感じることができる。
つまり「ヒップホップは、インドの伝統とも言える社会運動・政治運動とも極めて親和性が高いもので、こうした部分にもインドのヒップホップの個性と存在意義がある」という主張である。
これまでに、このブログではインドのヒップホップのルーツとして、「アフリカ系アメリカ人によるオリジナル・ヒップホップ」に加えて、「古典音楽などの独自のリズム。とくに口で複雑なリズムを表現するBolやKonnakkol」を挙げていたが、ひょっとしたら3つめのルーツとして「デモ更新のアジテーション演説」を挙げても良いのかもしれない。
確かに、多くの人々の心を掴む演説をするには、リズム感やキャッチーな言葉のセンスが欠かせないはずで、そこにはラップと相通じる部分があるはずだ。
『ガリーボーイ』そのものは、社会格差や差別の問題を扱いながらも、ラッパーの青年のサクセスストーリーという、斬新だが親しみやすいテーマの映画に仕上がっている。
同じくダラヴィを舞台にしたタミル映画『カーラ』(こちらもヒップホップがサウンドトラックに使われている)のように、スラムを潰そうとする悪徳政治家などが出てくるわけではない。
だが、その根底には、ゾーヤー・アクタル監督の、いびつな社会構造への強烈な異議申し立てがあるのではないだろうか。
そして、こうした問題意識があるからこそ、ガリーのラッパーたちと共鳴し合い、ボリウッドの歴史に残るであろう作品が作れたのではないかとも感じる。
今回もついつい長くなってしまいました。
"Azadi"のリリックの翻訳を読んでこんなことを考えた次第です。
このリリック紹介もいよいよ大詰め、次回はインドにリアルなヒップホップを届ける決意表明とも言える"Asli HipHop"です!
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前回紹介した恋に悩むラブソングの"Kab Se Kab Tak"からうって変わって、今回はこの映画の中でも、とくに政治的・社会的なトラック"Azadi"を紹介!
餡子さんからのコメント:
アーザーディー!の掛け声がアツイ!ぜひリミックス原曲の力強いデモを聞いてください。まるでPublic Enemyを思わせるような政治的アジテーションのこの曲は、リリックもトラックも、そしてラップもDivineとDub Sharmaによるもの。
Divineは何度も紹介している通り『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなったムンバイのラッパーで、Dub Sharmaはインド北部チャンディーガルのエレクトロニックミュージック・アーティスト/ラッパーだ。
この強烈な政治的ナンバーは、実は映画のストーリーの中で不可欠な使われ方をしているわけではない。
むしろ、どちらかというとBGM的な扱いだ。
(一応、格差による不条理とそれに抗う姿勢が示される場面ではあるが)
であるならば、他の曲と同じようなスラムをレペゼンするラップでも、いっそのことインストゥルメンタルでも良いはずだ。
それでもあえてこの曲を採用したのは、ゾーヤー・アクタル監督が、この映画を通して、ヒップホップがストリートをレペゼンするだけではなく、政治や社会の構造的な問題にも鋭く物申すジャンルであることを伝えたかったからだろう。
ラップというよりもシュプレヒコールのようなコーラスは、じつはもともと実際のデモで使われたものがもの。
デリーの名門大学JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)で行われた学生運動のリーダー、Kanhaiya Kumarによるコール&レスポンスがこの曲の原型だ。
凄まじい熱気!
この動画のタイトルに、"Lal-Salaam Song"とあるが、この'Lal-Salaam'は、「赤色万歳!」を意味する、共産主義にシンパシーを持つものの合言葉。
この言葉は、以前紹介したデリーを拠点に活動するスカバンド"Ska Vengers"の中心人物Delhi Sultanate aka Taru Dalmiaも、自身のサウンドシステムでのパフォーマンスで使用している。
彼が'Lal Salaam'といっしょに、反カースト/平等主義の合言葉'Jai Bhim'を叫んでいることにも注目。
この言葉は、最下層の被差別階級から身を起こし、インドの初代法務大臣にまで登りつめたビームラーオ・アンベードカルを称える言葉で、彼はカーストの軛から逃れるために、同じ身分の50万人もの同志たちとヒンドゥーから仏教へと集団改修したことでも知られている。
リンクした記事で紹介した動画でも、DJブースから、ヒンドゥー・ナショナリズムや企業のルールからの自由を求めて、"A-za-di"のコール&レスポンスをするTaruの姿を見ることができる。
彼もまた、政治や社会構造の矛盾に鋭く批判を突きつけるアーティストなのだ。
先ほど紹介したJNUでのKanhaiya Kumarによるアジテーションは、Dub Sharmaによってリミックスされてダンストラックとなっており、このバージョンが『ガリーボーイ』で使われたラップの原曲となっている。
反ヒンドゥーナショナリズム、反差別、反暴力などあらゆるデモの様子が収められたこのミュージックビデオもインドの民衆のエネルギーが伝わってくる。
("Azadi"の原曲の調査は餡子さんによるもの。"India91"に登場するラッパーの全員解明もそうだが、餡子さんの調査力、凄すぎ!)
ちなみに'Azadi'という単語は、今インドでもっとも勢いのあるデリーのアンダーグラウンド・ヒップホップレーベルの名称にも使われている。
『ガリーボーイ』のなかでは、他にも"Jingostan"が、かなり政治的な楽曲だ。
'Jingostan'は、自国の利益のためなら他国に対して武力も辞さない強圧的な姿勢を表す'jingoism'に、国を表す'stan'をつけた造語で、続けて叫ばれる'Zindabad'は「万歳!」のようなかけ声だ。
つまり、この曲は覇権主義的な国家を皮肉った内容なのである。
この曲も、'Jingostan Zindabad'の掛け声がまるでデモか集会のような雰囲気を醸し出しており、いわゆるヒップホップ的(現代アメリカ黒人文化的)というよりは、かなりインド的な雰囲気が感じられる。
そして、この曲も決してストーリーの中で不可欠な位置付けで使われているわけではないのだ。
BGM的な部分にこうした政治的な楽曲が選ばれているという事実から、ゾーヤー監督がこの映画を通して伝えようとしたもう一つのメッセージを感じることができる。
つまり「ヒップホップは、インドの伝統とも言える社会運動・政治運動とも極めて親和性が高いもので、こうした部分にもインドのヒップホップの個性と存在意義がある」という主張である。
これまでに、このブログではインドのヒップホップのルーツとして、「アフリカ系アメリカ人によるオリジナル・ヒップホップ」に加えて、「古典音楽などの独自のリズム。とくに口で複雑なリズムを表現するBolやKonnakkol」を挙げていたが、ひょっとしたら3つめのルーツとして「デモ更新のアジテーション演説」を挙げても良いのかもしれない。
確かに、多くの人々の心を掴む演説をするには、リズム感やキャッチーな言葉のセンスが欠かせないはずで、そこにはラップと相通じる部分があるはずだ。
『ガリーボーイ』そのものは、社会格差や差別の問題を扱いながらも、ラッパーの青年のサクセスストーリーという、斬新だが親しみやすいテーマの映画に仕上がっている。
同じくダラヴィを舞台にしたタミル映画『カーラ』(こちらもヒップホップがサウンドトラックに使われている)のように、スラムを潰そうとする悪徳政治家などが出てくるわけではない。
だが、その根底には、ゾーヤー・アクタル監督の、いびつな社会構造への強烈な異議申し立てがあるのではないだろうか。
そして、こうした問題意識があるからこそ、ガリーのラッパーたちと共鳴し合い、ボリウッドの歴史に残るであろう作品が作れたのではないかとも感じる。
今回もついつい長くなってしまいました。
"Azadi"のリリックの翻訳を読んでこんなことを考えた次第です。
このリリック紹介もいよいよ大詰め、次回はインドにリアルなヒップホップを届ける決意表明とも言える"Asli HipHop"です!
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2019年10月23日
『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Kab Se Kab Tak"(いつからいつまで)by麻田豊、餡子、Natsume
大好評の『ガリーボーイ』ラップのリリック翻訳シリーズ、今回は主人公ムラードの不安な恋心を綴った曲、"Kab Se Kab Tak"を紹介。
厳しいスラムの環境や、社会の格差をラップした曲が多いこの映画の中では異色のラブソングだ。
この曲でラップを聴かせているのは(劇中でムラードがラップしているという設定なので)例によって主演のランヴィール。
女性ヴォーカルはカシミール出身のシンガーソングライター/プレイバックシンガーのVibha Saraf.
リリックは映画にカメオ出演もしているラッパーのKaam Bhari、楽曲はインド系イギリス人のタブラ奏者で、映画音楽も多数手がけているKarsh Kaleが担当した。
作詞と作曲の両方に、この映画の音楽スーパーバイザーを務めたシンガーソングライターのAnkur Tewariの名前がクレジットされている。
アコースティックでメロウな曲調だが、R&Bっぽく仕上げずに、最近のボリウッドでよくあるバラード風にまとめたのは、一般的なインド人の音楽の嗜好を考慮してのことだろう。
ヒップホップと大衆性を両立させた見事なバランス感覚だ。
(今回は、若干ネタバレ的なことを書くので、未見でネタバレが嫌な方は、リリックまで読んだらお引き返しを)
餡子さんからのコメント:
この歌は映画本編で最後まで流して欲しかったです。そうすればもっとムラードのサフィーナに対する想いがわかったのに。前半の彼女、君はスカイ、後半の君はサフィーナを指していると解釈しています。
kab seは彼女とか君とか俺とかたくさん代名詞が出てきて、誰を指しているのか?
サフィーナだけじゃないような、と考えてました。
劇中では途中までのレコーディングしか描かれませんでしたが、この曲を最後まで歌い切ったとき、スカイは「ムラドはサフィーナなしに生きられないんだな」と思ったでしょうね、その様子をちょっと見てみたかったです。
餡子さんの解釈になるほどと唸りました。
ムラードは、彼に想いを寄せるスカイの気持ちを、なかなかうまく受け止めることができない。
理由の一つは、長くつきあってきたサフィーナへの愛情。
もう一つの理由は、豪邸に暮らし、アメリカに音楽留学できるほどに裕福なスカイが、なぜ貧しい彼に愛情を示すのか、全く分からないからだ。
ムラードやシェールにとっては、お金にならない音楽を学ぶために留学することも、音楽だけを教える大学が存在するということも、想像もつかないことだった。
古い価値観に縛られないスカイは、生まれや階級に関係なく、ムラードの才能に魅力を感じて彼に惹かれた。
だが、ムラードは、自分のことを完全に使用人(運転手)としてしか見なさない勤務先の裕福な一家と同じ階層にいるはずのスカイが、彼に恋愛感情を持つということが理解できない。
高級ホテルのようなスカイの家(ムラードは高級ホテルがどんな場所かも知らないかもしれないが)の洗面所で、ムラードがきれいに畳まれた真っ白なタオルに戸惑うシーンが印象的だ。
乗り越えるべき壁は、世間だけではなく、自分の中にもあるのだ。
ムラードが手に入れる自由は、貧困や偏見や束縛からの自由だけではなく、これまでの自分自身からの自由でもある。
恋に揺れるムラードは、結局は「自分がいちばん自分自身でいられる」相手を選ぶ。
この選択は、「自分が自分自身であることを誇る」ヒップホップの思想と、どこかつながっているはずだ。
物語の後半に向けて、ストーリーは加速してゆく。
次のリリック紹介は"Azadi".
お楽しみに!
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恋に揺れるムラードは、結局は「自分がいちばん自分自身でいられる」相手を選ぶ。
この選択は、「自分が自分自身であることを誇る」ヒップホップの思想と、どこかつながっているはずだ。
物語の後半に向けて、ストーリーは加速してゆく。
次のリリック紹介は"Azadi".
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goshimasayama18 at 22:40|Permalink│Comments(0)
2019年10月22日
『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Mere Gully Mein"(俺の路地では)by麻田豊、餡子、Natsume
今回の『ガリーボーイ』劇中ラップのリリック翻訳紹介は、ムンバイのストリートヒップホップシーンを象徴する楽曲、"Mere Gully Mein"(俺の路地では)。
映画の中で、主人公のムラード(aka GullyBoy)が初めて出会ったリアルな地元ラッパー(兄貴分的な存在でもある)MCシェールと共演する曲で、映像はダラヴィでのミュージックビデオの撮影シーンという設定になっている。
それではさっそくミュージックビデオと翻訳をご覧いただきたい。
餡子さんのコメント
Shooterは子分、弟分といったスラングです。舎弟の訳を気に入っています。
この曲のオリジナルは、ムラードとMCシェールのモデルとなった実在のラッパー、NaezyとDivineが共演して2015年に発表したものだ。
ラップは、ムラードのパートは主演のランヴィール、MCシェールのパートはモデルとなったDivine自身が担当している。
餡子さんのコメントの通り、リリックにはムンバイならではのスラングが盛りだくさん。
翻訳にあたっては、ムンバイ在住のHirokoさんを介して、現地のラッパーたちにも協力してもらったそうだ。
『ガリーボーイ』には、ムンバイの実在のラッパーのトラックが何曲もアレンジされて使われているが、この"Mere Gully Mein"に関しては、冒頭のセリフがキャラクター名に置き換わっている以外、リリックはオリジナルのまま。
つまり、ランヴィールは天才ラッパーNaezyのフロウを完コピしたということだ。
このエピソードひとつとっても、彼がこの役柄にいかに全力で取り組んだか分かるだろう。
ゾーヤー・アクタル監督は、この映画のインスピレーションの源となったNaezyとDivineとに敬意を込めて、オリジナルのまま映画に使用したという。
こちらがそのオリジナルバージョン。
私が最初にこの曲のミュージックビデオをYouTubeで見た頃(2年ほど前)には、数十万回だった再生回数が、今では2,700万回を超えている。
『ガリーボーイ』という映画がローカルなヒップホップシーンに及ぼした影響の大きさが分かる。
映画バージョンだとボリウッドっぽかったダンスが、オリジナルではヒップホップなところにも注目。
リリックの内容は、「スラムの暮らしは貧乏だし犯罪や不正もあるが、ここが俺の生まれ育った場所だ」という、地元をレペゼンする内容。
どちらもムンバイのかなり下町っぽいエリア(スラムとまで言って良いかは分からない)だが、映画化にあたって設定がダラヴィに置き換えられたのは、やはりダラヴィがムンバイでもっとも有名なスラムであるからだろう。
ゾーヤー・アクタル監督は、この映画のインスピレーションの源となったNaezyとDivineとに敬意を込めて、オリジナルのまま映画に使用したという。
こちらがそのオリジナルバージョン。
私が最初にこの曲のミュージックビデオをYouTubeで見た頃(2年ほど前)には、数十万回だった再生回数が、今では2,700万回を超えている。
『ガリーボーイ』という映画がローカルなヒップホップシーンに及ぼした影響の大きさが分かる。
映画バージョンだとボリウッドっぽかったダンスが、オリジナルではヒップホップなところにも注目。
リリックの内容は、「スラムの暮らしは貧乏だし犯罪や不正もあるが、ここが俺の生まれ育った場所だ」という、地元をレペゼンする内容。
従来の価値観では恥ずべきものとされる自分のルーツを、ラップのスキルや言葉のセンスでかっこ良さに変えてしまうこの曲は、まさにヒップホップそのものだ。
Divineは路地を意味するヒンディー語の"Gully"という単語を、ヒップホップ的なリアルでクールな意味合いに置き換えて使用し、インドのストリートヒップホップを象徴する言葉に昇華させた。
なお、NaezyもDivineも実際はダラヴィ出身ではなく、NaezyはKurla East出身、DivineはAnderhi EastのJB Nagarの出身。Divineは路地を意味するヒンディー語の"Gully"という単語を、ヒップホップ的なリアルでクールな意味合いに置き換えて使用し、インドのストリートヒップホップを象徴する言葉に昇華させた。
どちらもムンバイのかなり下町っぽいエリア(スラムとまで言って良いかは分からない)だが、映画化にあたって設定がダラヴィに置き換えられたのは、やはりダラヴィがムンバイでもっとも有名なスラムであるからだろう。
印象的なトラックは、現在はデリーを中心に活躍しているSez on the Beatがプロデュースしたものだ。
現在は、よりトラップやチル寄りのトラックを作ることが多いSezだが、この曲のパーカッシブなビートはいかにもインド人好み。
サウンド的にも、ガリーの人々にとってのリアルなカッコよさのど真ん中なのだろう。
ちなみにNaezyは映画の中のムラードと同様にムスリムだが、DivineはMCシェールとは違ってクリスチャンである(映画の中のシェールはどうやらヒンドゥーという設定のようだ)。
最初のヴァースの「クリスチャンもヒンドゥーもムスリムも礼拝する/俺の路地では」という部分は、様々な宗教やルーツの人々が肩を寄せ合って生活するスラムの暮らしや、既存のコミュニティーの枠を越えた共演が盛んなヒップホップシーンのことを表しているものと思われる。
Divine曰く、「Gullyは特別な場所。ヒンドゥーもムスリムもクリスチャンもいるが、Gullyこそがみんなが信じている宗教だ。国は豊かになっても俺たちの生活は変わらない。だからこそ俺たちの声を聞いてほしい」とのことだ。
このミュージックビデオには、子どもたちや近所のおばさんなど、およそヒップホップのビデオには似合わない人々がたくさん出てくるが、彼らはラップ仲間や小さいコミュニティーだけでなく、自分たちが暮らす「ガリー」全体をレペゼンしているのだ。
ところで、この映画のなかで、もう1箇所、ゾーヤー・アクタル監督から、オリジナル・ガリーボーイズ(DivineとNaezyに代表される実際のガリーのラッパーたち)への敬意が表される場面がある。
名前こそ出ないが、Divine本人がカメオ出演しているシーンだ。
そのシーンで、ムラードはDivineに、ある言葉をかけるのだが、その言葉は、映画の登場人物ムラードとしての台詞ではなく、ヒップホップファンであったというゾーヤー監督やランヴィール・シン本人からの、オリジナル・ガリーボーイズへのメッセージに思えてならない。
2回目に見る方は是非注目してみてほしい。
個人的にもガリーボーイで最も好きなシーンのうちの一つだ。
現在は、よりトラップやチル寄りのトラックを作ることが多いSezだが、この曲のパーカッシブなビートはいかにもインド人好み。
サウンド的にも、ガリーの人々にとってのリアルなカッコよさのど真ん中なのだろう。
ちなみにNaezyは映画の中のムラードと同様にムスリムだが、DivineはMCシェールとは違ってクリスチャンである(映画の中のシェールはどうやらヒンドゥーという設定のようだ)。
最初のヴァースの「クリスチャンもヒンドゥーもムスリムも礼拝する/俺の路地では」という部分は、様々な宗教やルーツの人々が肩を寄せ合って生活するスラムの暮らしや、既存のコミュニティーの枠を越えた共演が盛んなヒップホップシーンのことを表しているものと思われる。
Divine曰く、「Gullyは特別な場所。ヒンドゥーもムスリムもクリスチャンもいるが、Gullyこそがみんなが信じている宗教だ。国は豊かになっても俺たちの生活は変わらない。だからこそ俺たちの声を聞いてほしい」とのことだ。
このミュージックビデオには、子どもたちや近所のおばさんなど、およそヒップホップのビデオには似合わない人々がたくさん出てくるが、彼らはラップ仲間や小さいコミュニティーだけでなく、自分たちが暮らす「ガリー」全体をレペゼンしているのだ。
ところで、この映画のなかで、もう1箇所、ゾーヤー・アクタル監督から、オリジナル・ガリーボーイズ(DivineとNaezyに代表される実際のガリーのラッパーたち)への敬意が表される場面がある。
名前こそ出ないが、Divine本人がカメオ出演しているシーンだ。
そのシーンで、ムラードはDivineに、ある言葉をかけるのだが、その言葉は、映画の登場人物ムラードとしての台詞ではなく、ヒップホップファンであったというゾーヤー監督やランヴィール・シン本人からの、オリジナル・ガリーボーイズへのメッセージに思えてならない。
2回目に見る方は是非注目してみてほしい。
個人的にもガリーボーイで最も好きなシーンのうちの一つだ。
(ヒント:そのシーンがあるのは最後のほうです)
追記:麻田豊先生からのご指摘があり、このリリック翻訳シリーズの記事では、登場人物などの表記を、映画の中の字幕よりも原音に近いものにしています(例:ムラド→ムラード)。
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追記:麻田豊先生からのご指摘があり、このリリック翻訳シリーズの記事では、登場人物などの表記を、映画の中の字幕よりも原音に近いものにしています(例:ムラド→ムラード)。
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goshimasayama18 at 21:30|Permalink│Comments(0)
2019年10月21日
『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Doori Poem"(へだたり/詩)、"Doori"(へだたり)by麻田豊、餡子、Natsume
麻田豊先生、餡子さんの両名による『ガリーボーイ』劇中ラップの翻訳、今回は"Doori"(へだたり)と、サウンドトラックではそのイントロ的に使われていた楽曲"Doori Poem"(へだたり/詩)をお届けします。
"Doori Poem"は、ゾーヤー・アクタル監督の父で、詩人・作詞家・脚本家として70年代からヒンディー語映画界で活躍してきたジャーヴェード・アクタルによる詩を主演のランヴィールが朗読したもの。
"Doori"のリリックはなんとジャーヴェード・アクタルとラッパーのDivineの共作!
アクタル一家のファミリービジネスであるボリウッドと、ジャーヴェードが継承している伝統的な詩の文化、そしてヒップホップという新しいカルチャーががっぷり四つで組み合った、この映画ならではの作品ということになる。
主人公ムラードが作った曲という設定のこの曲でラップしているのは、もちろんランヴィール本人。
ランヴィールはこの映画でラッパーとしての才能も披露も存分にしている。
トラックは2曲ともインド系イギリス人のRishi Richが手がけている。
Rishi Richはインド系ディアスポラで発展したダンスミュージック、いわゆるDesi Music(バングラー・ビート、エイジアン・アンダーグラウンドやインド系R&Bなど)で頭角を現し、その後数多くのインド映画の音楽を手がけているプロデューサーだ。
それではまず"Doori Poem"(へだたり/詩)、続いて"Doori"(へだたり)を紹介します!
餡子さんのコメント
これは餡子さんが今年の5月にムンバイで撮影した写真。
建設中の高層ビルから、海上にかかる橋シーリンクを挟んで、反対側にはスラム街が広がる。
(写真提供:餡子さん)
まさに「右を見れば 今にも空に届きそうな高層ビル/左を見れば腹を空かして路上で寝ている子どもたち」というリリックどおりの現実がここにある。
"Doori"では、ムラードが抱える様々な苦悩が、ラップのリリックとして吐き出されることで昇華される。
この楽曲を通して、ヒップホップが越えようのない壁や格差を超えることができる、精神の自由の象徴であることが示唆されている。
トラックは2曲ともインド系イギリス人のRishi Richが手がけている。
Rishi Richはインド系ディアスポラで発展したダンスミュージック、いわゆるDesi Music(バングラー・ビート、エイジアン・アンダーグラウンドやインド系R&Bなど)で頭角を現し、その後数多くのインド映画の音楽を手がけているプロデューサーだ。
それではまず"Doori Poem"(へだたり/詩)、続いて"Doori"(へだたり)を紹介します!
餡子さんのコメント
この2曲は『ガリーボーイ』のなかでも特にヘヴィなテーマを扱った楽曲だ。・Doori Poem
格差は格差のまま、決して溝が埋まらないインドの現実がよくわかるリリックです。
・Doori
Doori Poemからもう一歩進んで、格差社会を受け入れず足掻こうとする力強さがプラスされています。このリリックには母が登場し、インド人男性の母に対する愛情の大きさが感じられます。
主人公のムラドは、怪我をした父に代わって裕福な家庭の運転手を務めることになり、圧倒的な貧富の差を目の当たりにする。
ピカピカの新車に乗り、英語で日常会話をして、海外留学の話題を話す一家。
"Doori Poem"では、ムラードとは全く異なる裕福な世界に暮らす勤務先の一家の娘との心の隔たりが、そして"Doori"では、不条理なまでの格差への絶望と苛立ちがテーマになっている。
これは餡子さんが今年の5月にムンバイで撮影した写真。
建設中の高層ビルから、海上にかかる橋シーリンクを挟んで、反対側にはスラム街が広がる。
(写真提供:餡子さん)
まさに「右を見れば 今にも空に届きそうな高層ビル/左を見れば腹を空かして路上で寝ている子どもたち」というリリックどおりの現実がここにある。
この映画の深いところは、スラムに暮らす主人公と富裕層の人々を、単純な貧富=幸福・不幸という対立軸として描いてはいないことだ。
ムラードの家からは比べようもないくらい裕福な一家の、彼と同じくらいの年頃の娘も、決して手放しで幸福そうには見えない。
家族とは生き方を巡って口論をしているし、金持ちが集まるパーティーから泣きながら帰ってくることもある。
ここには豊かか貧しいかという対立に加えて、幸福か不幸か、自由か不自由かという対立軸が並行して描かれている。
貧しい家庭に生まれ、封建的な父のもとで暮らすムラードは、貧しく、不幸で、不自由だ。
だが、金持ち一家の娘も、裕福ではあるが、必ずしも幸福ではなく、それに不自由なようでもある。
彼の兄貴分的なラッパーのシェールは、裕福ではないものの、自由で充実した生き方をしているように見える。
トラックメーカーのスカイは、裕福で、そして自由な精神を持っている。
ないないづくしのムラードも、ガールフレンドのサフィーナといるときは、幸福を感じることができる。
医者の家庭に生まれたサフィーナは、そこそこに裕福だが、やはり不自由な暮らしを強いられている。
ムラードの家からは比べようもないくらい裕福な一家の、彼と同じくらいの年頃の娘も、決して手放しで幸福そうには見えない。
家族とは生き方を巡って口論をしているし、金持ちが集まるパーティーから泣きながら帰ってくることもある。
ここには豊かか貧しいかという対立に加えて、幸福か不幸か、自由か不自由かという対立軸が並行して描かれている。
貧しい家庭に生まれ、封建的な父のもとで暮らすムラードは、貧しく、不幸で、不自由だ。
だが、金持ち一家の娘も、裕福ではあるが、必ずしも幸福ではなく、それに不自由なようでもある。
彼の兄貴分的なラッパーのシェールは、裕福ではないものの、自由で充実した生き方をしているように見える。
トラックメーカーのスカイは、裕福で、そして自由な精神を持っている。
ないないづくしのムラードも、ガールフレンドのサフィーナといるときは、幸福を感じることができる。
医者の家庭に生まれたサフィーナは、そこそこに裕福だが、やはり不自由な暮らしを強いられている。
だが、彼女も恋人のムラードといるときだけは、自由と幸福を感じることかできるのだ。
"Doori"では、ムラードが抱える様々な苦悩が、ラップのリリックとして吐き出されることで昇華される。
この楽曲を通して、ヒップホップが越えようのない壁や格差を超えることができる、精神の自由の象徴であることが示唆されている。
二人でいる時間だけが、自由で幸福だったムラードとサフィーナだが、ムラードはラップという新しい自由の象徴を手に入れる。
そのことが、二人の関係に微妙な影響を及ぼしてゆく…。
続いては、ムラードがMCシェールと共演する"Mere Gully Mein"です!
しばしお待ちを!
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続いては、ムラードがMCシェールと共演する"Mere Gully Mein"です!
しばしお待ちを!
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goshimasayama18 at 21:21|Permalink│Comments(0)
2019年10月20日
『ガリーボーイ』ラップ翻訳 "Sher Aaya Sher"(獅子が来た獅子が)by麻田豊、餡子、Natsume
それではさっそく麻田豊先生、餡子さん、Natsumeさんによる『ガリーボーイ』劇中のラップのリリック翻訳を紹介します!
まずは、主人公ムラードの兄貴分にあたるMCシェールのテーマ曲的な楽曲"Sher Aaya Sher"から!
この曲は、ムンバイの老舗レゲエ/ヒップホップバンドBombay BassmentのMajor Cによるトラックに、MCシェールのモデルであるDivineがリリックを書いてラップしたもの。
この曲以外でも劇中のMCシェールのラップは全てDivineが吹き替えている。
普通のインド映画の場合、俳優の口パクに合わせて歌う歌手のことをプレイバックシンガーと言うけど、この場合はプレイバックラッパー?
餡子さんからのコメント
このシーンの舞台となっているのは、主人公ムラードが通うカレッジのフェスティバル。
こうしたカレッジ・フェスティバルは、以前からインドのインディーミュージシャンたちの発表の場となっている。
このシーンを見る限り、ムラードはアメリカのヒップホップに憧れて、自らリリック(ひょっとしたらラップを前提としていない「詩」だった?)を書いてはいたものの、シェールのライブを見るまでは、ローカルのヒップホップシーンのことは全く知らなかった様子。
それだけインドのヒップホップシーンはアンダーグラウンドなものだったということなのだろう。
地元ラッパーの熱いステージを見たムラードにとって、ヒップホップ/ラップは単なる憧れの対象から、手がとどくリアルな存在に変わってゆく。
「ここにはラップはない/お前の幻想を追い払ってやる/女も車もなければ、俺たちの住み処は分離されている/このリアルなラップの魂を/お前の魂の中で」というリリックは、彼らのラップがこれまでのインドで一般的だった、女や車のことばかりを扱うボリウッド的エンターテインメント・ラップとは一線を画すリアルなものだということを宣言するもの。
続くラインは映画のストーリーを見れば分かる通り、女性シンガーに野次を飛ばした観客に対する強烈な一撃だ。
シッダーント・チャトゥルヴェーディ演じるMCシェールの「頼れるワイルドな兄貴」っぷりは、まさにモデルとなったDivineのイメージと重なる。
Divine本人も、自分の半生をラップした楽曲で、自身をライオン(Sher)に例えた楽曲"Jungli Sher"を発表しており、MCシェールという名前はここから取られたのだろう。
この曲は2016年のリリースで、"Mere Gully Mein"と同じSez on the Beatによるプロデュース。
続いては、"Doori Poem"と"Doori"をお届けします!
しばしのお待ちを!
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餡子さんからのコメント
シェールの兄貴の男前っぷりに惚れます。ムラドがシェールについていこうと思ったのも納得の格好良さです!
このシーンの舞台となっているのは、主人公ムラードが通うカレッジのフェスティバル。
こうしたカレッジ・フェスティバルは、以前からインドのインディーミュージシャンたちの発表の場となっている。
このシーンを見る限り、ムラードはアメリカのヒップホップに憧れて、自らリリック(ひょっとしたらラップを前提としていない「詩」だった?)を書いてはいたものの、シェールのライブを見るまでは、ローカルのヒップホップシーンのことは全く知らなかった様子。
それだけインドのヒップホップシーンはアンダーグラウンドなものだったということなのだろう。
地元ラッパーの熱いステージを見たムラードにとって、ヒップホップ/ラップは単なる憧れの対象から、手がとどくリアルな存在に変わってゆく。
「ここにはラップはない/お前の幻想を追い払ってやる/女も車もなければ、俺たちの住み処は分離されている/このリアルなラップの魂を/お前の魂の中で」というリリックは、彼らのラップがこれまでのインドで一般的だった、女や車のことばかりを扱うボリウッド的エンターテインメント・ラップとは一線を画すリアルなものだということを宣言するもの。
続くラインは映画のストーリーを見れば分かる通り、女性シンガーに野次を飛ばした観客に対する強烈な一撃だ。
シッダーント・チャトゥルヴェーディ演じるMCシェールの「頼れるワイルドな兄貴」っぷりは、まさにモデルとなったDivineのイメージと重なる。
Divine本人も、自分の半生をラップした楽曲で、自身をライオン(Sher)に例えた楽曲"Jungli Sher"を発表しており、MCシェールという名前はここから取られたのだろう。
この曲は2016年のリリースで、"Mere Gully Mein"と同じSez on the Beatによるプロデュース。
続いては、"Doori Poem"と"Doori"をお届けします!
しばしのお待ちを!
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『ガリーボーイ』ラップ翻訳(by麻田豊先生、餡子さん、Natsumeさん) イントロダクション!
お伝えしていた通り、今回からインド初の本格的ヒップホップ映画『ガリーボーイ』のリリックの日本語訳をお届けします。
これは、インド映画ファンの餡子さん、東京外国語大学で長く教鞭を取られてきたウルドゥー語学文学、インド・イスラーム文化研究の麻田豊先生による翻訳に、Natsumeさんが日本語表現のブラッシュアップへの協力をおこなったもの。
ありがたいことに、翻訳の成果を私のブログでの発表することをご提案いただき、喜んで場所を提供させてもらうことにしました。
餡子さんはこれまでに数百本のインド映画を見てきたそうですが、『ガリーボーイ』には特別な魅力を感じ、日本公開が決まる前から、「ラップのリリックの翻訳」に取り組んだとのこと。
「ムンバイのヒップホップシーン」という、日本ではこれまで全く紹介されてこなかったけどじつはものすごく熱い題材を扱ったこの映画には、「彼らが表現していることを、できる限り理解したい!」と思わせるだけの魅力があるのだと改めて感じさせられます。
スラングやムンバイ特有の表現が多く使われ、ヒンディー語圏でも別の地域の人であれば理解が困難な部分もあるというラップのリリックを、専門家が監修した翻訳で味わえるというのはかなりありがたいこと。
私のように、インドの現代文化に大きな興味を持ちつつも、時間の都合や怠慢(私の場合はこれ)などの理由により、言語の習得には二の足を踏んでいる人も多いと思います。
映画鑑賞前に読むも良し、映画鑑賞後に改めて味わうも良し。
映画のなかで重要な位置付けをされている楽曲から、挿入歌的に扱われている楽曲まで、全てにリアルなメッセージがあり、読んでいただければ、インドのヒップホップの表現の広さと深さが理解できるはず。
私の蛇足はこのへんにして、今回はイントロダクションとして翻訳に携わった3名からのコメントを紹介します!
まずは、麻田豊先生から!
映画のなかで重要な位置付けをされている楽曲から、挿入歌的に扱われている楽曲まで、全てにリアルなメッセージがあり、読んでいただければ、インドのヒップホップの表現の広さと深さが理解できるはず。
私の蛇足はこのへんにして、今回はイントロダクションとして翻訳に携わった3名からのコメントを紹介します!
まずは、麻田豊先生から!
僕の中での『ガリーボーイ(Gully Boy)』騒動は今年の新年早々に始まった。まず1月2日、最初のポスターが、翌3日には予告編が発表された。そして4日、教え子の社会学者、栗田知宏君からこんなメッセージが届いた。「日本で一般公開された場合、絶対に僕が解説を書きたい作品があり、誰かに取られる前に動かなければと思っている」と。すぐに『ガリーボーイ』のことだと察しがついた。彼の博士論文の主題が「ブリティッシュ・エイジアンの音楽の社会学」だったからである。しかし、この映画が日本で公開されるかどうか見当もつかないので、僕としては「まずはインドで観てこないことには始まらないではないか」と助言するとともに、会うべき人物としてBollywood Hungamaのファリードゥーン・シャハリヤール(Faridoon Shahryar)君を紹介した。インドでの公開日2月14日に合わせて栗田君はムンバイーへ飛び、ラッパーDivineの地元JB Nagarの映画館で封切り初日の初回を観てきた。気合が入った行動だ。東京でも予期しなかった動きがあった。南インドの人たちが運営するSpace Boxなる会社から2月6日、キネカ大森ほか3か所で『ガリーボーイ』を自主上映するとの案内メールが届いたのだ。これには驚いた。インド往復のチケットを手配済みの栗田君はこれを知って脱力感を味わったという。僕自身ラップとは全くと言っていいほど縁がなかったので、別に観る必要もないだろうと思っていたのだが、「ボリウッド初のヒップホップ映画であるので必見」との栗田君からの強い勧めもあり、はたして面白いと感じるかどうか半信半疑のまま2月17日、キネカ大森へ観に出かけた。ところがストーリーがなかなかよかったのだ。社会的階級差や親世代と子世代の考え方・生き方・価値観のギャップに苛立ち悩みつつ、スラムに住む主人公のムスリム大学生ムラード(Murad)がラップを通じて抑圧された感情を爆発させ解放されるストーリー。「使用人の息子は使用人にしかなれないのだ」とか、「お前の教育に大金を投資したのに、ラップにうつつを抜かすとは何事だ!」といった親世代の忠告や叱責に若者世代が反発するのはどこの世界でも同じ。ムラードの恋人サフィーナ(Safina)も医師を目指して勉学中。保守的な母親が科す禁止事項に表面的には耐えつつ、ムラードと秘密裡に恋愛している。単なる不良少年少女ではないのがいい。青春映画でもある。さて、肝心のラップだが、僕を含めたラップ門外漢にも分かるように、主人公がラッパーになっていく過程が巧妙に組み立てられている。普通のインド人にとってもラップはまだまだ知られていないのだから。「ラップはリズムと詩だ」との台詞が胸に突き刺さる。ラップの真髄はたしかに韻を踏んだ詩なのだ。半世紀もウルドゥー語と文学を学んできた僕としては当然、リリックの言語とその内容に興味をそそられた。早口言葉のように韻を踏みながら畳みかける言葉の連続であるヒンディー/ウルドゥーのリリックの中身はきっと面白いはずだ。それにサントラ盤の情報を見ていたら、ゾーヤー・アフタル(Zoya Akhtar)監督の父親で高名な詩人であり作詞家のジャーヴェード・アフタル(Javed Akhtar)氏の名前が4曲でクレジットされているではないか(Doori Poem, Doori, Train Song, Ek Hee Raasta)。古典詩、映画ソングの歌詞、ラップのリリックがジャーヴェード氏の中では問題なくつながっているようである。それなら、この僕が日本語訳に挑戦するしかないではないか。そんなことをあれこれ考えていたら、リリックを日本語に訳してツイッター上で発表する人が現れた。その人が「餡子」嬢である(@tsubuan_no)。何と最初の訳を2月13日に発表している。3月以降、次々に15曲を訳しているではないか。また、3月には栗田君を介して、インドのラップやロック紹介の第一人者である軽刈田凡平君とも知り合い、4月上旬にはジプシー音楽や世界のラップ事情に詳しい音楽評論家、関口義人氏を含めた4人が有楽町で「ヒップホップ歓談会」なる飲み会に集合した。その後しばらく中断した後、6月半ばに栗田君から『ガリーボーイ』日本公開決定の知らせが入った。彼の願いは叶い、解説を書くことになったとのこと。僕も僕なりにリリックの訳を本格的に始めようと、7月9日、僕より一歩先を行っている餡子嬢に初めて連絡を取った。なんでも彼女はスカイプを使ったヒンディー語講座での学習歴わずか2年だという。なのに難解なラップのリリックに挑戦するとは大した度胸ではないか。きちんとした翻訳になっているわけではなく、辞書とネットを駆使して何とか日本語に移し替えた粗削りな訳で、まだまだ改良の余地ありと僕は判断したが、僕より先に中途半端ながらも試訳を公開しているのを知った以上、彼女を無視して僕ひとりで訳すことは道義上できないことだった。『ガリーボーイ』に人一倍心酔している餡子嬢のウルドゥー色が強いリリックの翻訳に挑戦した心意気は大いに称賛されてしかるべきだと、僕はただただ感じ入った。やる気がある人は伸ばしてやらなければならない。彼女のヒンディー語の上達にも益するだろうと思い、彼女の試訳を添削しつつ僕自身の訳を提示し、それを互いにチェックし合う方法を採ることにした。ところが翻訳作業を始めたものの、ムンバイー訛りのヒンディー/ウルドゥー(Bombay Hindi とかMumbaiya slangとかタポーリーTaporiなどと称される)がいかに曲者であることかも分かってきた。詳細は以下を参照のこと。要するにスラングあり文法破格ありで、外国人として学んできた標準ヒンディー/ウルドゥーの知識では歯が立たないわけだ。しかし、いい時代になったもので、ネット上に公開されているリリックやその英訳の助けも借りながら、何とか翻訳できたわけである。さらに日本語の表現チェックをしてもらうべく、ヒンディー/ウルドゥーを解さない「Natsume」さんに協力を仰いだ。そうそう、8月末には栗田・軽刈田・麻田が餡子嬢と初顔合わせした。字幕では字数制限により正確な内容を伝えられるはずもないので、各リリックが伝えようとしている内容を皆さんに提示したいというのが我々の本音でもある。勝手に私的に始めた「Gully Boyリリック日本語訳プロジェクト」の成果として、映画の中でも重要な位置を占めている8曲(選曲は餡子嬢)のできる限り原語に即した日本語訳を10月18日の一般公開日に合わせて公表できることになった次第である。一昨日の10月15日に開催された「ガリーボーイ公開記念 GullyBoy – Indian Hip Hop Night」で軽刈田君がトークデビューを果たしたことは、じつにめでたいことだった(餡子嬢とNatsumeさん初対面の場でもあった)。その軽刈田君のブログに我々の成果を掲載してもらえることになった幸運をかみしめている。3人を代表して、感謝の言葉を述べたい。(2019.10.17 麻田豊 記)
麻田先生ありがとうございます!
続いて、餡子さんからのコメント。
ムンバイのラッパーたちの情熱が、餡子さんの情熱を呼び起こした様子が伝わってきます。これまで様々なインド映画を見てきましたが、自主上映会でGully Boyを鑑賞し、さまざまな葛藤の中人生を切り開こうとする情熱(Junoon)、映画を強く彩る地元のラッパー達の曲の荒々しい情熱に稲妻を打たれたようなはじめての衝撃を受けました。彼らのリリックを理解したいと強く感じ、取り憑かれたようにGully Boyのラップの翻訳をひたすら続けました。ヒンディー映画にハマってヒンディー語の文法を学び終わったところだったので、訳せるかも!?と勢いで翻訳を始めたものの、ヒンディーラップはリズムに乗せるため冗長な部分は省略されている箇所が多々あり、スラングありと、ヒンディー初心者にとってはかなり難しかったです。暗中模索で翻訳していたところ、インドイスラーム文化研究者の麻田先生に声をかけていただき、より正確に、洗練されたリリックに昇華することができました!Apna Time Aayega!
そしてNatsumeさんからのコメントです。
『Gully Boy』の JukeBox をイヤホンをつけて大音量で聴く。ラップなどまともに聴いたことも無く、Hip Hop に関心すらなかったのに、今や愛聴盤だ。最初に耳にしたとき、言葉は分からないが、巻き舌が入った破裂音が心地よく、ハードな叫びの中に柔軟性があって美しくさえ思えるリズムとメロディに魅了された。原語の響きと韻を踏んだビートを耳で愉しみながら、ふと思った。はて、何を歌っているのだろう?そう思った矢先に「ちょっと読んでみて」と麻田先生から送られてきた「Asli Hip Hop」の詩の日本語訳。訳だけできちんと意味が通じるか、かみ砕いてみて分からないところは指摘して欲しいとの要請を頂き、恐れながらと言いつつ、原文を知らないがゆえに勝手自由に読んでみる。意欲を持って翻訳に挑む餡子さん、その意欲をかって共同翻訳を申し出られた麻田先生。そんな(必然的な?)出会いから生まれたこの企画。お二人がまずは原文に忠実に、かつ深く掘り下げて搾り上げた日本語訳を、ネットで見つけた英訳を参照しながら、更にイメージを膨らませていく。これは予想以上に愉しい作業だった。例えば、語るように詠まれる「DOORI POEM」から「DOORI」。続けて聴き込みながら詩を読んでいると、涙が出てくる。この現実、揺るぎようのない「DOORI へだたり」に対して、何ともし難いもどかしさと諦念を抱きつつも、魂からの声を上げ続ける、それが人の心を揺さぶらないはずがない。もちろん、私にはインドの格差や貧困を共感できるほどの経験も無いし、現実も知らない。それでも、置かれた環境を、この現状を、何とか抜けだし打破しようと勢い溢れる表現アート「ラップ」に、感動する。実は私は今現在、映画『Gully Boy』をまだ観ていない。先に路地裏をちょっぴり覗いてから映画を観てみたら、さてどうだろう!と楽しみだ。一般公開は 2019 年 10 月 18 日。Check it Out!2019.10.15 natsume
それでは『ガリーボーイ』のラップ翻訳をお楽しみください!
まずは、主人公ムラドの頼れる兄貴分、MCシェールのテーマ曲とも言える"Sher Aaya Sher"からです!
左から、餡子さん、麻田先生、Natsumeさん。10月15日の"Gully Boy -Indian HipHop Night"にて。
追記:日本公開された映画の登場人物を表記する場合、いつもは映画で使われた表記に統一していますが、このリリック翻訳シリーズの記事では、麻田先生からのご提案で、原音に近いものにしています(例:ムラド→ムラード)。
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goshimasayama18 at 15:18|Permalink│Comments(0)