NRI
2020年01月11日
タイガー・ジェット・シン伝説その2 猛虎襲来!来日、そして最凶のヒールへ
(前回の記事はこちら)
プロレスラーとしてのキャリアをあきらめ、故郷のパンジャーブで農家として新婚生活を始めたシンに、トロントの古巣メイプルリーフ・レスリングから再び声がかかった。
もう一度、リングに上がってほしいというのだ。
プロレスラーとしてのキャリアをあきらめ、故郷のパンジャーブで農家として新婚生活を始めたシンに、トロントの古巣メイプルリーフ・レスリングから再び声がかかった。
もう一度、リングに上がってほしいというのだ。
それには、こんな背景があった。
シンがリングを去った後、北米では、「アラビアの怪人」ことザ・シークがリングを荒らしまくっていた。
シンがリングを去った後、北米では、「アラビアの怪人」ことザ・シークがリングを荒らしまくっていた。
シークはアラビア人というギミック(じつはレバノン系アメリカ人)で火炎殺法をあやつる怪奇派レスラー。
従来のプロレスのセオリーを無視した暴走ファイトで一世を風靡し、そのすさまじい人気は国境を越えてカナダにも及んだ。
そのシークがトロントにやってくることになったのだ。
メイプルリーフ・レスリングのフランク・タネイは、アクの強いシークに対抗できるレスラーとして、シンのカムバックを画策した。
プロレスラーの夢を捨てていなかったシンはこのオファーを受け、新婚の妻を連れて再びカナダへと渡る。
果たして、1971年のトロントで、シーク対シンはドル箱マッチとなった。
彼らの金網マッチに人々は熱狂し、それまで良くて3,500人の観客しか入らなかったメイプルリーフ・ガーデンには、20,000人もの観客が押し寄せるようになった。
ちなみに、「ザ・シーク」というリングネームは、カタカナで書くとシンが信仰する「シク教(Sikh, Sikhism。 シーク教と表記することもある)」とよく似ているが、アルファベットで書くと'The Sheikh'であり、アラビア語で「部族の長老、首長」を意味する「シャイフ」という言葉の英語表記である。
彼らの金網マッチに人々は熱狂し、それまで良くて3,500人の観客しか入らなかったメイプルリーフ・ガーデンには、20,000人もの観客が押し寄せるようになった。
ちなみに、「ザ・シーク」というリングネームは、カタカナで書くとシンが信仰する「シク教(Sikh, Sikhism。 シーク教と表記することもある)」とよく似ているが、アルファベットで書くと'The Sheikh'であり、アラビア語で「部族の長老、首長」を意味する「シャイフ」という言葉の英語表記である。
それにしても、この時代のカナダで、アラビア人対インド人の試合がメインというのもすごい話だ。
シンはシークとの戦いで株を上げ、大いに稼いでキャデラックを乗り回すまでになった。
地元トロントでシンがヒール(悪役)からベビーフェイス(善玉)にターンしたのもこの頃だろう。
地元トロントでシンがヒール(悪役)からベビーフェイス(善玉)にターンしたのもこの頃だろう。
それには、ザ・シークという最強の悪役がいたということだけでなく、おそらくカナダ社会の変化が関係している。
20世紀前半、パンジャーブ系を中心とした多くの南アジア系移民が、アジア極東地域から太平洋を渡ってカナダ西岸の街バンクーバーに移り住んだ。
シンの家族が当初バンクーバーを目指したのも、この街にすでにパンジャーブ系コミュニティーの基盤があったことが理由だろう。
1960年代以降になると、南アジア系住民の第二波がカナダに到達する。
20世紀前半、パンジャーブ系を中心とした多くの南アジア系移民が、アジア極東地域から太平洋を渡ってカナダ西岸の街バンクーバーに移り住んだ。
シンの家族が当初バンクーバーを目指したのも、この街にすでにパンジャーブ系コミュニティーの基盤があったことが理由だろう。
1960年代以降になると、南アジア系住民の第二波がカナダに到達する。
今度は東部に位置するカナダ最大の都市トロントに、アフリカやカリブ諸国に移住していたインド系住民たちがやってきたのだ。
多民族国家であるアメリカやカナダのプロレスは、ベビーフェイスとヒールの戦いであると同時に、各コミュニティーの代表の戦いでもある。
1960〜70年代のWWWF(現WWE。ニューヨークを拠点としている)でブルーノ・サンマルチノが絶対的なスターだったのは、ニューヨークのイタリア系移民の多さと無関係ではない。
インド人をはじめとする南アジア系住民が増えてきたトロントには、インド系のシンが外国人ヒールではなく、ベビーフェイスとして活躍する素地が出来ていたのだろう。
(その後もトロントの南アジア系社会は成長を続け、郊外を含めると、今ではトロントにはバンクーバーを上回る約100万人の南アジア系住民が暮らしている)
しかしシンは、北米マット界の辺境であるトロントでの成功では飽き足らなかった。
カナダのローカルスターに過ぎなかった彼は、さらなる成功を夢見て世界を転戦する。
オーストラリア、シンガポール、ブラジル、香港などのリングに立ち、そして1973年5月、ついに運命の国、日本へとやってくる。
シンの来日には、新日本プロレスと近しいある貿易商が関わっていたようだ。
香港でシンのファイトを見た彼は、新日の関係者にシンの写真を見せた。
ターバン姿でナイフをくわえ、目をひんむいたシンの写真を見たアントニオ猪木は、この世界的には無名なレスラーを招聘しようと決断する。
当時、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに主要な外国人レスラーの招聘ルートを抑えられていた新日本プロレスは、インパクトのある外国人レスラーがなんとしても必要だったのだ。
ところで、シク教徒の男性には、教義によって身につけることになっている「5つのK」がある(今日では日常的にこの全てを守っているシク教徒は少ないが)。
Kesh(髪を伸ばし切らないこと)、Khanga(小さな木製の櫛)、Kara(右腕にはめる鉄の腕輪)、Kachera(ゆったりした短パンのような下着)、そして、自身と正義を守るための短剣、Kirpan(キルパーン)だ。
シンが写真でくわえていたのは、このキルパーンだった。
アントニオ猪木は、この写真を見て、ナイフをサーベルに変えることを提案する。
レスラーとしての成功を夢見ていたシンは、シク教徒のシンボルとの決別を意味するこの提案を快諾。
日本では、伝統を保持するインド系コミュニティの代表としてではなく、狂気の外国人レスラーとして暴れまわることを、当初から決意していたのだろう。
入場時に振り回し、試合では凶器として使用する、シンのトレードマークとも言えるあのサーベルはこうして誕生した。
1973年5月3日、タイガー・ジェット・シン、初来日。
その2ヶ月前には、のちにWWEでTiger Ali Singhとして活躍する長男Gurjitが生まれたばかりだった。
幼い我が子と妻をカナダに残して極東の地を踏んだシンの心情はいかばかりだっただろうか。
手違いで早く日本に着いてしまったシンは、新日本プロレスに翌日の川崎大会に招待された。
客席から見るだけだったはずのシンだが、何を思ったか山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合に乱入すると、小鉄をめった打ちにしてしまう。
突然現れたターバン姿のガイジンレスラーの凶行は、強烈なインパクトを残した。
客席から見るだけだったはずのシンだが、何を思ったか山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合に乱入すると、小鉄をめった打ちにしてしまう。
突然現れたターバン姿のガイジンレスラーの凶行は、強烈なインパクトを残した。
ここからのプロレス史的なシンの活躍については、すでにさまざまな形で書かれているので、簡単に紹介するに留めよう。
シンは新日本のリングで、水を得た魚のように暴れ回り、あっという間に人気悪役レスラーとなった。
凶器攻撃、試合展開を度外視した暴走ファイト、そして、シンそのものから滲み出る本物の狂気を感じさせる怪しさは、観客の目を釘付けにした。
凶器攻撃、試合展開を度外視した暴走ファイト、そして、シンそのものから滲み出る本物の狂気を感じさせる怪しさは、観客の目を釘付けにした。
シンが日本で見せた無軌道なファイトスタイルは、間違いなくカナダで肌を合わせたザ・シークから学んだものだ。(ちなみにシンもシーク譲りの火炎殺法を使っている)
そして、同年11月、あの、あまりにも有名な猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件が起こる。
「リアル」なものとして警察も出動する騒ぎになったこの騒動は、今日ではプロレス的なストーリーライン上の出来事されているが、この時代に、リングも会場も飛び出して、家族をも巻き込んだ後年のWWE的演出の原点とも言えるアングルを仕掛けた発想は、天才的だった。
この騒動に、当事者であり新日本プロレスの経営者でもあった猪木が深く関わっていたことは間違いないだろう。
このたった3年後には、天才猪木は逆の方向に振り切れ、後の総合格闘技の原点とも言えるモハメド・アリとの異種格闘技戦を行う。
アントニオ猪木もまた、狂気とも言える才覚の人だった。
その後、猪木とシンとの遺恨マッチは新日本プロレスに多くのファンを呼び込むことになる。
猪木、シン、そして観客の興奮と熱狂は1974年6月26日の大阪府立体育館で頂点に達し、伝説となっている猪木によるシンの「腕折り事件」を迎える。
この一連の猪木-シンの抗争は、当時全日本プロレスに大きく水を開けられていた新日本プロレスに莫大な利益をもたらした。猪木、シン、そして観客の興奮と熱狂は1974年6月26日の大阪府立体育館で頂点に達し、伝説となっている猪木によるシンの「腕折り事件」を迎える。
来日時に週給3,000ドルだったシンの報酬は、最終的には週給8,000ドルにまで上がったという。
シンの日本での成功にはいくつかの理由がある。
ひとつには、ポケットの中にたった6ドルを握りしめてカナダに渡ったシンの、強烈なハングリー精神が挙げられる。
日本はアメリカ、メキシコと並ぶプロレス大国であり、当時はファンたちがプロレスを"リアルなもの"として熱狂していた時代である。
生まれたばかりの子と妻をカナダに残して来日したシンは、なんとしてもここ日本で強烈な爪痕を残したいと感じていたはずだ。
この想いが、前述の理由から有力な外国人レスラーが招聘できなかった新日本プロレスの思惑と合致した。
シンにとって幸運だったのは、そこにアントニオ猪木というもう一人の「狂気」を宿した天才がいたということだ。
シンの狂気を感じさせる暴走ファイトと、感情をむき出しにしてそれを受け止める猪木との化学反応は、相乗効果となって観客たちを興奮の坩堝へと誘った。
猪木、そして新日本プロレスは、シンの演出の面でも完璧だった。
シク教徒のシンボルだった短剣をよりインパクトの強いサーベルに持ち替えさせ、「伊勢丹前襲撃事件」、さらには「招待していないのに勝手に参戦している」という斬新なアングルを用意して、シンの「狂気のヒール」というイメージを確固たるものにしていった。
とはいえ、シンは単なるキワモノのヒールではなかった。
彼の狂乱のファイトのベースにはフレッド・アトキンスに鍛えられた確かなプロレス技術があり、猪木もその実力には一目置いていたという。
緩急のあるファイトが、単なる怪奇派にとどまらない試合の流れを作り出していたのだ。
また、今ではファンに広く知られているが、素顔のシンは実に誠実で紳士的な男だった。
ミスター高橋の著書によると、1973年の5月3日に初来日したシンは、スーツ姿で空港に現れ、名刺を差し出して高橋を驚かせた。
そんな挨拶をした外国人レスラーは他に誰もいなかったからだ。
スポンサーに招待されたバーベキューで、火力が強まり汗ばんでも、シンは「社長、ジャケットを脱いでもよろしいでしょうか」とわざわざ断りを入れるほど、気配りのできる人物だった。
猪木によるシンの「腕折り」はプロレス的なストーリーの中でのこと(実際に骨折したわけではない)だったのだが、律儀なシンはその後しばらく腕に包帯を巻いて過ごし、そのために腕がかぶれてしまっても、包帯を巻き続けていたという。
シンのあまりにも誠実な性格は、やはり誇り高きシク教徒の軍人だった父、そして伝統的なインド女性だった母親からの影響によるものだろう。
彼の「狂気」「暴走」は、こうした「生真面目さ」に裏打ちされたものだったのだ。
バス移動中のサービスエリアでファンに声をかけられたシンが、ヒールのキャラクターを崩さないために襲いかかるふりをしたところ、そのファンに足があたってファンが転んでしまったことがあったという。
出発したバスの中で、シンはファンのことをいつまでも心配していたそうだ。
プロレスがリアルで、それゆえの熱狂を生み出していた70年代日本で、シンはついに稀代のヒールとして開花した。
「インドの狂虎 」の伝説はまだまだ終わらない。
(つづきはこちら)
参考文献:
ミスター高橋「悪役レスラーのやさしい素顔」ほか
--------------------------------------
凡平自選の2018年のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
凡平自選の2019年のおすすめ記事はこちらから!
ジャンル別記事一覧!
参考文献:
ミスター高橋「悪役レスラーのやさしい素顔」ほか
--------------------------------------
「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
更新情報や小ネタはTwitter, Facebookで!
凡平自選の2018年のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
凡平自選の2019年のおすすめ記事はこちらから!
ジャンル別記事一覧!
goshimasayama18 at 19:49|Permalink│Comments(0)
2020年01月08日
タイガー・ジェット・シン伝説その1 パンジャーブの虎、カナダに渡る。そして虎たちの系譜
ジャグジート・シン・ハンス(Jagjeet Singh Hans)という名前を聞いて、ピンとくる人はほとんどいないだろう。
だが、ある世代の日本人にとって、彼はもっともよく知られているインド人であり、そしてもっとも恐れられたインド人でもあるはずだ。
彼のもうひとつの名前は、タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh)。
インドの狂虎。
稀代の悪役レスラー。
彼のリングネームは、本来であれば「ジート・シン」とカナ表記すべきなのだろうが、それを「ジェット・シン」としたことで、彼の狂乱のファイトの勢いが伝わってくるような響きになった。
誰かは知らないが、彼の名前を最初に訳した人に敬意を表したい。
新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃事件や、試合での流血ファイト、凶器攻撃など、リング内外での彼の暴れっぷりについては、プロレスファンによく知られている。
また、もう少し熱心なファンなら、素顔の彼がじつは非常に紳士的な人物だと聞いたことがある人も多いはずだ。
彼が現在暮らしているカナダには、その名前が冠された小学校があるという話も、ファンの間では有名である。
しかし、プロレス不毛の地であるインド出身の彼が、なぜ、どうやってプロレスラーになったのか。
本来は紳士であるはずの彼は、どうして稀代の悪役レスラーとなったのか。
そして、カナダでは地元の名士だという彼の本当の素顔はどのようなものなのか。
この「日本で最もよく知られているインド人」について、我々が知らないことはあまりにも多い。
今回から数回に分けて、タイガー・ジェット・シンの半生を振り返り、そのインド人としてのルーツを探る企画をお届けします。
(インド・パンジャーブ州の位置。https://ja.wikipedia.org/wiki/パンジャーブ州_(インド)より)
1944年4月3日、ジャグジート・シン・ハンスは、パンジャーブ地方のシク教徒の家庭に生まれた。
彼のリングネームは、本来であれば「ジート・シン」とカナ表記すべきなのだろうが、それを「ジェット・シン」としたことで、彼の狂乱のファイトの勢いが伝わってくるような響きになった。
誰かは知らないが、彼の名前を最初に訳した人に敬意を表したい。
新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃事件や、試合での流血ファイト、凶器攻撃など、リング内外での彼の暴れっぷりについては、プロレスファンによく知られている。
また、もう少し熱心なファンなら、素顔の彼がじつは非常に紳士的な人物だと聞いたことがある人も多いはずだ。
彼が現在暮らしているカナダには、その名前が冠された小学校があるという話も、ファンの間では有名である。
しかし、プロレス不毛の地であるインド出身の彼が、なぜ、どうやってプロレスラーになったのか。
本来は紳士であるはずの彼は、どうして稀代の悪役レスラーとなったのか。
そして、カナダでは地元の名士だという彼の本当の素顔はどのようなものなのか。
この「日本で最もよく知られているインド人」について、我々が知らないことはあまりにも多い。
今回から数回に分けて、タイガー・ジェット・シンの半生を振り返り、そのインド人としてのルーツを探る企画をお届けします。
(インド・パンジャーブ州の位置。https://ja.wikipedia.org/wiki/パンジャーブ州_(インド)より)
1944年4月3日、ジャグジート・シン・ハンスは、パンジャーブ地方のシク教徒の家庭に生まれた。
「シク教」は、15世紀にパンジャーブで生まれた宗教で、男性の信徒がターバンを巻くことでよく知られている。
シク教徒は、インド全体の人口の2パーセントほどに過ぎないマイノリティだが、早くから海外に出た人たちが多かったため、インド人といえばターバンというイメージが世界中で定着してしまった。
ジャグジートの出生地は、現在のインド領パンジャーブ州の中央に位置する、ルディヤーナー郡のスジャプルという村だ。
「現在のインド領」とことわったのは、彼が生まれた当時、インドという国家はまだ存在しておらず、南アジア一帯がイギリスの支配下だったからだ。
1947年、彼が3歳のときに、インドとパキスタンはイギリスからの独立を果たし、故郷のパンジャーブ地方は2つの国に分断されることになった。
この印パ分離独立にともない、パンジャーブ一帯は大混乱となった。
1970年(1967年8月という説もある)、パンジャーブに戻った彼は、一般的なインド人と同様に、お見合いをして、地元のスポーツ選手だった女性と結婚する。
この「シン」たちは、いずれもパンジャーブ出身のシク教徒のレスラーだ。
パンジャーブ出身の格闘家の歴史は古い。
さらに時代を遡ると、1878年生まれのグレート・ガマ(Great Gama)という格闘家がいる。
気になるのは、クシュティ(ペールワニ)が、純粋に勝ち負けを競うスポーツとしての格闘技なのか、プロレスのようにエンターテインメント(興行)としての要素もあるものなのか、ということだ。
調べて見たのところ、インドには全国クシュティ協会のような組織があるわけではなく、クシュティは基本的には道場や村落単位で行われているようだ。
'Rustam-e-Hind'という「インド・チャンピオン」の称号もあるそうだが、どんな大会が開かれ、どんな団体が認定しているのかについては全く情報がなかった。
YouTubeで検索して見ても、地方の屋外会場で行われている動画ばかりがヒットする。
その試合はむしろ非常に地味で、エンターテインメントからはほど遠く、純粋に強さを競うものであるように見える。
近年ではクシュティの競技人口も大きく減っているようで、今後、ミステリアスな「クシュティ出身の強豪」という触れ込みのプロレスラーが登場することは、もう無いのかもしれない。
話をタイガー・ジェット・シンに戻す。
家庭を持ったシンが、故郷パンジャーブで平穏な暮らしをすることを、レスリングの神は許さなかった。
トロントのメイプルリーフ・レスリングから、シンに再び声がかかったのだ。
シンがいない間に北米全土で大人気となったヒールレスラー、ザ・シークに対抗できる人材として、ターバン姿でラフファイトを繰り広げていた彼に、白羽の矢が立った。
ダラ・シンのように強くなりたい。
プロレスで富と成功を手に入れたい。
シンは、新婚の妻を連れ、カナダに戻ることを決意する。
シンのプロレスラーとしての旅は始まったばかりだ。
「現在のインド領」とことわったのは、彼が生まれた当時、インドという国家はまだ存在しておらず、南アジア一帯がイギリスの支配下だったからだ。
1947年、彼が3歳のときに、インドとパキスタンはイギリスからの独立を果たし、故郷のパンジャーブ地方は2つの国に分断されることになった。
この印パ分離独立にともない、パンジャーブ一帯は大混乱となった。
イスラーム国家となったパキスタンを脱出してインド領内を目指すヒンドゥー教徒・シク教徒と、インドからパキスタンを目指すイスラーム教徒がパニック状態となり、混乱のなかで起きた暴力行為による犠牲者数は、数百万人に上るとも言われている。
この悲劇がシンの一家にどのような影響を与えたかは、分からない。
いずれにしても分離独立にともなうパンジャーブの混乱は、この地域に暮らす人々の海外移住に拍車をかけることになった。
この頃、クシュティの英雄だったダラ・シン(後述)の試合を見たことが、後の彼の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
(余談だが、カール・ゴッチによって日本のプロレス界に取り入れられた棍棒を使ったトレーニング方法の「コシティ」は、インド〜西アジア発祥のトレーニングで、その語源はクシュティに由来する)
ジャグジートが17歳のときに、彼の一家はバンクーバーに移住することになる(15歳説もある)。
20世紀初頭から、カナダ西岸ブリティッシュ・コロンビア州の州都バンクーバーには、太平洋を渡った多くのシク教徒が工場労働者として移住していた。
この悲劇がシンの一家にどのような影響を与えたかは、分からない。
いずれにしても分離独立にともなうパンジャーブの混乱は、この地域に暮らす人々の海外移住に拍車をかけることになった。
シンの父は軍人、母は伝統的な専業主婦だった。
シク教徒は古来、勇猛な戦士として知られており、今日でも軍隊に所属する者が多い。
ジャグジート少年も、誇り高き軍人の息子として、厳しく育てられたはずだ。
彼の紳士的な性格や、後年慈善事業に積極的に取り組む姿勢は、こうした家庭環境からの影響が大きいのだろう。
少年時代のジャグジートは、アカーラー(Akhara)と呼ばれる道場で、インド式レスリングのクシュティとカバディを習っていたという。ジャグジート少年も、誇り高き軍人の息子として、厳しく育てられたはずだ。
彼の紳士的な性格や、後年慈善事業に積極的に取り組む姿勢は、こうした家庭環境からの影響が大きいのだろう。
この頃、クシュティの英雄だったダラ・シン(後述)の試合を見たことが、後の彼の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
(余談だが、カール・ゴッチによって日本のプロレス界に取り入れられた棍棒を使ったトレーニング方法の「コシティ」は、インド〜西アジア発祥のトレーニングで、その語源はクシュティに由来する)
ジャグジートが17歳のときに、彼の一家はバンクーバーに移住することになる(15歳説もある)。
20世紀初頭から、カナダ西岸ブリティッシュ・コロンビア州の州都バンクーバーには、太平洋を渡った多くのシク教徒が工場労働者として移住していた。
彼らもそうした流れに乗って、より豊かな生活を求めて移民となったのだろう。
カナダに渡るジャグジートのポケットにはたったの6ドルしか無かったというから、まさに裸一貫での移住である。
バンクーバーに渡ったジャグジート少年は、英語が分からなかったので、早々に学校からドロップアウトし、学校に行くふりをして近所のジムに通うようになった。
インドでアカーラー(道場)に通っていた彼にとって、学校よりもジムのほうが馴染みやすかったのかもしれない。
トレーニングに打ち込んだ彼の体は、みるみる強く、大きくなってゆく。
この頃、テレビで初めてプロレスを見た彼は、「これなら自分にもできるはずだ」と思い立ち、レスラーになるため、カナダ東部のオンタリオ湖畔の街、トロントへと移り住むことを決意する。
彼の地元のバンクーバーは、のちにジン・キニスキーによってAll Starという団体が設立されるまで、プロレス不毛の地だったのだ。
東部のトロントには、小さいながらもプロレス団体がすでに存在していた。
念願は叶い、移住先のトロントで、ジャグジートはプロモーターのフランク・タネイ(Frank Tanney)によってプロレスラーとなることを認められた。
カナダに渡るジャグジートのポケットにはたったの6ドルしか無かったというから、まさに裸一貫での移住である。
バンクーバーに渡ったジャグジート少年は、英語が分からなかったので、早々に学校からドロップアウトし、学校に行くふりをして近所のジムに通うようになった。
インドでアカーラー(道場)に通っていた彼にとって、学校よりもジムのほうが馴染みやすかったのかもしれない。
トレーニングに打ち込んだ彼の体は、みるみる強く、大きくなってゆく。
この頃、テレビで初めてプロレスを見た彼は、「これなら自分にもできるはずだ」と思い立ち、レスラーになるため、カナダ東部のオンタリオ湖畔の街、トロントへと移り住むことを決意する。
彼の地元のバンクーバーは、のちにジン・キニスキーによってAll Starという団体が設立されるまで、プロレス不毛の地だったのだ。
東部のトロントには、小さいながらもプロレス団体がすでに存在していた。
念願は叶い、移住先のトロントで、ジャグジートはプロモーターのフランク・タネイ(Frank Tanney)によってプロレスラーとなることを認められた。
「ターバンを巻いたレスラー」という個性をタネイに評価されてのことだった。
徐々に多文化社会となってゆくカナダで、人種的多様性に着目したのは先見の明と言って良いだろう。
ジャグジートは、フレッド・アトキンス(Fred Atkins)のもとで厳しいトレーニングを積み、そのファイトスタイルの激しさから、Tiger Jeet Singhのリングネームを授かる。
ジャグジートは、フレッド・アトキンス(Fred Atkins)のもとで厳しいトレーニングを積み、そのファイトスタイルの激しさから、Tiger Jeet Singhのリングネームを授かる。
アトキンスはジャイアント馬場の修行時代のコーチとしても知られる名レスラーで、彼もまたニュージーランド出身の移民だった。
ジャグジート改めタイガー・ジェット・シンは、1965年にデビューする。
21歳のときのことだった。
シンは、きびしい練習の成果からめきめき頭角を現し、その年の暮れには、タッグマッチでメインイベントを任されるまでに成長した。
やがて彼は地元のメイプルリーフ・レスリングのUS王座につき、団体のメインコンテンダーとして活躍するようになる。
パートナーは日系人レスラーのプロフェッサー・ヒロ。
この頃から、 日本となにか縁があったのだろうか。
ちなみに、日本のファンには、「シンは地元カナダではベビーフェイス(正統派)のレスラー」と知られているが、この頃のシンは、まだ荒っぽいファイトを繰り広げるヒール(悪役)だった。この頃から、 日本となにか縁があったのだろうか。
やがて彼は地元のメイプルリーフ・レスリングのUS王座につき、団体のメインコンテンダーとして活躍するようになる。
しかしトロントのレスリングマーケットは小さく、大入りでも3,500人程度しか入らない。
週にたった100ドルを稼ぐために、必死で戦う毎日が続いた。
豊かになるために訪れたカナダで、体を張った厳しい日々が続く。
彼のレスリング人生の根底にあるのは、インド時代からこの時期までに培われたハングリー精神だろう。
豊かになるために訪れたカナダで、体を張った厳しい日々が続く。
彼のレスリング人生の根底にあるのは、インド時代からこの時期までに培われたハングリー精神だろう。
だが、苦労するジャグジートを見かねた父は、彼をインドに連れ戻してしまう。
さすがのシンも、軍人の父親には頭が上がらなかった。
1970年(1967年8月という説もある)、パンジャーブに戻った彼は、一般的なインド人と同様に、お見合いをして、地元のスポーツ選手だった女性と結婚する。
花嫁は、夫がしているという「レスリング」がどんなものだか知らなかったという。
シンの妻は、はじめは太った大男かと思って彼を怖がっていたが、会ってみると思いのほか紳士的な男性だったと語っている。
生まれ故郷のパンジャーブで、シンの新婚生活が始まった。
ここで彼のレスラーとしてのキャリアが終わってしまえば、タイガー・ジェット・シンはトロントの一部のファンにしか記憶されない存在になっていたはずだ。
ところで、「タイガー」と異名をつけられたインド系のレスラーは彼が最初ではない。
「虎」はインド人レスラーの典型的なイメージだったのだろう。
1930年代から60年代に世界中を転戦して活躍したDaula Singhは、Tiger Daulaのリングネームを名乗り、真偽のほどは不明だが、インディア・チャンピオンなる肩書きを引っさげていたようだ。
また、1919年生まれのJoginder Singhも、Tiger Joginder Singhというリングネームを使っていた。
彼の活躍の場は、シンガポール、米国を経て日本にも及び、1955年には「タイガー・ジョギンダー」の名で力道山・ハロルド坂田組を破って日本最古のベルトであるアジアタッグの初代チャンピオンにも輝いている(パートナーはキングコング)。
生まれ故郷のパンジャーブで、シンの新婚生活が始まった。
ここで彼のレスラーとしてのキャリアが終わってしまえば、タイガー・ジェット・シンはトロントの一部のファンにしか記憶されない存在になっていたはずだ。
ところで、「タイガー」と異名をつけられたインド系のレスラーは彼が最初ではない。
「虎」はインド人レスラーの典型的なイメージだったのだろう。
1930年代から60年代に世界中を転戦して活躍したDaula Singhは、Tiger Daulaのリングネームを名乗り、真偽のほどは不明だが、インディア・チャンピオンなる肩書きを引っさげていたようだ。
また、1919年生まれのJoginder Singhも、Tiger Joginder Singhというリングネームを使っていた。
彼の活躍の場は、シンガポール、米国を経て日本にも及び、1955年には「タイガー・ジョギンダー」の名で力道山・ハロルド坂田組を破って日本最古のベルトであるアジアタッグの初代チャンピオンにも輝いている(パートナーはキングコング)。
Tiger Joginder Singhを1954年にインドで破ったのが、Dara Singh(ダラ・シン)。
500戦無敗という伝説を誇り、少年時代のジャグジートにレスラーになるきっかけを与えた人物だ。
彼は力道山時代に来日した数少ないクリーンなファイトをする外国人としても知られ、1968年には母国インドであのルー・テーズを破って、世界チャンピオンにも輝いている(調べたが、この王座がどこの団体が認定したものかは分からなかった)。
500戦無敗という伝説を誇り、少年時代のジャグジートにレスラーになるきっかけを与えた人物だ。
彼は力道山時代に来日した数少ないクリーンなファイトをする外国人としても知られ、1968年には母国インドであのルー・テーズを破って、世界チャンピオンにも輝いている(調べたが、この王座がどこの団体が認定したものかは分からなかった)。
この「シン」たちは、いずれもパンジャーブ出身のシク教徒のレスラーだ。
今もパンジャーブにはシク教徒が多く、世界中のシク教徒の6割以上がこの地に暮らしている。
「シン」はシク教徒の男性全員が名乗る名前で、「ライオン」を意味している。
つまり、タイガー・ジェット・シンという名前には、虎とライオンが入っているのだ。
「シン」はシク教徒の男性全員が名乗る名前で、「ライオン」を意味している。
つまり、タイガー・ジェット・シンという名前には、虎とライオンが入っているのだ。
パンジャーブ出身の格闘家の歴史は古い。
さらに時代を遡ると、1878年生まれのグレート・ガマ(Great Gama)という格闘家がいる。
本名(Ghulam Mohammad Baksh Butt)を見る限り、彼はシクではなくムスリムのようだが、彼もまた、英領時代のパンジャーブ地方の生まれである。
彼はイギリスや英領時代のインドで数多くの強豪と戦い、52年に渡るキャリアで、5,000試合無敗という伝説も残っている英雄だ。グレート・ガマはペールワニ(Pehlwani)と呼ばれるインド式レスリングの絶対王者だった。
昭和のプロレスに興味がある人であれば、ペールワニという言葉を聞いて、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行ったパキスタンの格闘家、アクラム・ペールワンを思い出す人も多いだろう。
グレート・ガマは、このアクラム・ペールワンの叔父にあたる。
昭和のプロレスに興味がある人であれば、ペールワニという言葉を聞いて、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行ったパキスタンの格闘家、アクラム・ペールワンを思い出す人も多いだろう。
グレート・ガマは、このアクラム・ペールワンの叔父にあたる。
猪木ファンの間では、「ペールワン」とは最強の男にのみ許される称号だという説が有名だが、実際は、「ペールワニのレスラー」という程度の意味である。
ちなみにかのブルース・リーはグレート・ガマのトレーニング方法を参考にしていたというから、グレート・ガマがいなかったらインドで今も大人気のブルース・リーは存在しなかったかもしれない。
ペールワニおそるべしである。
ちなみにかのブルース・リーはグレート・ガマのトレーニング方法を参考にしていたというから、グレート・ガマがいなかったらインドで今も大人気のブルース・リーは存在しなかったかもしれない。
ペールワニおそるべしである。
とにかく、「パンジャーブから世界的(プロ)レスラーになる」という道筋は、20世紀のごく初期から作られていたのだ。
彼らの共通点は、クシュティ、ペールワニの経験者であるということ。
調べてみると、どうやらクシュティとペールワニは同じ競技を指しているようだ。
ペールワニ(Pehlwani)はイスラーム式(ペルシア語由来)の呼び方であるため、ムスリムであるガマやアクラムは、クシュティではなくこの呼称を使っているのだろう。
ヒンドゥー教徒(インドの人口の8割を占める)にとってのクシュティには、ラーマ神に忠誠を誓う戦士として知られる猿神ハヌマーンへの帰依という要素が加わることがあるようだ。
また、ボリウッド映画のタイトルにもなった「ダンガル(Dangal)」という言葉も、同様の「南アジア式レスリング」を指している。
いずれにしても、パンジャーブはインド式のレスリングが盛んな土地柄だったのだろう。
そのなかから、グレート・ガマやダラ・シンのような英雄が誕生し、後続の若者たちも、富と成功を目指してレスラーを夢見るようになった。
彼らの共通点は、クシュティ、ペールワニの経験者であるということ。
調べてみると、どうやらクシュティとペールワニは同じ競技を指しているようだ。
ペールワニ(Pehlwani)はイスラーム式(ペルシア語由来)の呼び方であるため、ムスリムであるガマやアクラムは、クシュティではなくこの呼称を使っているのだろう。
ヒンドゥー教徒(インドの人口の8割を占める)にとってのクシュティには、ラーマ神に忠誠を誓う戦士として知られる猿神ハヌマーンへの帰依という要素が加わることがあるようだ。
また、ボリウッド映画のタイトルにもなった「ダンガル(Dangal)」という言葉も、同様の「南アジア式レスリング」を指している。
いずれにしても、パンジャーブはインド式のレスリングが盛んな土地柄だったのだろう。
そのなかから、グレート・ガマやダラ・シンのような英雄が誕生し、後続の若者たちも、富と成功を目指してレスラーを夢見るようになった。
おそらく、パンジャーブから次々とプロレスラーが誕生した理由は、こんなところではないだろうか。
日本からも、相撲出身の力道山や豊登、柔道出身の木村政彦や坂口征二など、ドメスティックな格闘技出身のプロレスラーが多く誕生した時代である。
もちろん、インドと日本だけではない。
本場アメリカのプロレスは、世界中の力自慢の移民たちがしのぎを削る場だった。
「鉄人」ルー・テーズはハンガリー系だし、「神様」カール・ゴッチはベルギー出身、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノはイタリア出身、「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスはメキシコ出身で、「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントはフランス出身だ。
インターネットも衛星放送も無かった時代、プロレスは、体一つで一攫千金を夢見る世界中の腕自慢や荒くれ者が集まる、まさに戦いのワンダーランドだったのだ。
日本からも、相撲出身の力道山や豊登、柔道出身の木村政彦や坂口征二など、ドメスティックな格闘技出身のプロレスラーが多く誕生した時代である。
もちろん、インドと日本だけではない。
本場アメリカのプロレスは、世界中の力自慢の移民たちがしのぎを削る場だった。
「鉄人」ルー・テーズはハンガリー系だし、「神様」カール・ゴッチはベルギー出身、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノはイタリア出身、「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスはメキシコ出身で、「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントはフランス出身だ。
インターネットも衛星放送も無かった時代、プロレスは、体一つで一攫千金を夢見る世界中の腕自慢や荒くれ者が集まる、まさに戦いのワンダーランドだったのだ。
気になるのは、クシュティ(ペールワニ)が、純粋に勝ち負けを競うスポーツとしての格闘技なのか、プロレスのようにエンターテインメント(興行)としての要素もあるものなのか、ということだ。
調べて見たのところ、インドには全国クシュティ協会のような組織があるわけではなく、クシュティは基本的には道場や村落単位で行われているようだ。
'Rustam-e-Hind'という「インド・チャンピオン」の称号もあるそうだが、どんな大会が開かれ、どんな団体が認定しているのかについては全く情報がなかった。
YouTubeで検索して見ても、地方の屋外会場で行われている動画ばかりがヒットする。
その試合はむしろ非常に地味で、エンターテインメントからはほど遠く、純粋に強さを競うものであるように見える。
近年ではクシュティの競技人口も大きく減っているようで、今後、ミステリアスな「クシュティ出身の強豪」という触れ込みのプロレスラーが登場することは、もう無いのかもしれない。
話をタイガー・ジェット・シンに戻す。
家庭を持ったシンが、故郷パンジャーブで平穏な暮らしをすることを、レスリングの神は許さなかった。
トロントのメイプルリーフ・レスリングから、シンに再び声がかかったのだ。
シンがいない間に北米全土で大人気となったヒールレスラー、ザ・シークに対抗できる人材として、ターバン姿でラフファイトを繰り広げていた彼に、白羽の矢が立った。
ダラ・シンのように強くなりたい。
プロレスで富と成功を手に入れたい。
シンは、新婚の妻を連れ、カナダに戻ることを決意する。
シンのプロレスラーとしての旅は始まったばかりだ。
そして、その伝説は、まだ始まってすらいない。
(続きはこちらから)
【参考サイト・参考映像】
https://www.bramptonguardian.com/news-story/6003647-the-tiger-with-a-heart-of-gold
https://web.archive.org/web/20090505075751/http://www.sceneandheard.ca/article.php?id=1080&morgue=1
ドキュメンタリー番組"Tiger!"
など
--------------------------------------
凡平自選の2018年のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
凡平自選の2019年のおすすめ記事はこちらから!
ジャンル別記事一覧!
【参考サイト・参考映像】
https://www.bramptonguardian.com/news-story/6003647-the-tiger-with-a-heart-of-gold
https://web.archive.org/web/20090505075751/http://www.sceneandheard.ca/article.php?id=1080&morgue=1
ドキュメンタリー番組"Tiger!"
など
--------------------------------------
「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
更新情報や小ネタはTwitter, Facebookで!
凡平自選の2018年のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
凡平自選の2019年のおすすめ記事はこちらから!
ジャンル別記事一覧!
goshimasayama18 at 19:59|Permalink│Comments(0)
2019年09月20日
『ガリーボーイ』がきっかけで生まれた傑作!新進プロデューサーAAKASHが作るインドのヒップホップの新潮流!
ムンバイのヒップホップシーンから、また新しい傑作アルバムが登場した。
プロデューサーのAAKASHが先日自身の名義でリリースしたデビュー作"Over Seas"は、MC Altaf, Dopeadelicz, Ace(Mumbai's Finest), Dee MCといったムンバイのヒップホップシーンを代表するラッパーたちをフィーチャーした意欲作だ。
これまでのインドのヒップホップとは異なるトラップ以降のトレンドを意識したサウンドは、グローバルな同時代性を感じさせる内容となっている。
AAKASH(本名:Aakash Ravikrishnan)は、クウェートで生まれ、米国インディアナ州の大学で音楽やパフォーミングアーツを学んだ、典型的なNRI(在外インド人)だ。
マルチプレイヤーでもあり、アメリカのドキュメンタリー番組のサウンドエンジニアとしてエミー賞(テレビ界の最高峰の賞)を受賞したことがあるというから、本場米国仕込みの実力派と呼べるだろう。
昨年アメリカからムンバイに移住してきた彼が最初にコラボレーションしたのは、まだ10代の若手ラッパーMC Altafと31歳の(ムンバイのシーンでは)ベテランのD'Evilだ。
ミュージックビデオの舞台は、インドでもヒップホップ・ブームと並行して人気が高まっているスニーカーショップ。
この"Wazan Hai"を皮切りに、AAKASHは次々とムンバイのラッパーたちとのコラボレーションを進めていった。
トラックもメロディックなフロウもインドらしからぬ"Obsession/Bliss"は14歳からラッパーとして活躍しているPoetik Justisとのコラボレーション。
ミュージックビデオはなぜか中国語の字幕付きだ。
米国からムンバイに移住してきたAAKASHは、映画『ガリーボーイ』を見て当地のヒップホップシーンのむき出しのパワーに触発され、インスタグラムを通じて地元のラッパーたちにコンタクトを取ったという。
ストリートヒップホップは、巨大なショービジネスの中で作られた映画音楽や高度に様式化された古典音楽とは違い、都市部の若者たちから自発的に誕生した、インドでは全く新しいタイプの音楽だ。
欧米では60年代のロック以降あたりまえだった「労働者階級が自分たちのリアルな気持ちを吐き出すことができる音楽」が、インドでは2010年代に入ってようやく誕生したわけだ。
欧米文化に慣れ親しんだ国際的なアーティストが、インドのヒップホップ誕生をもろ手を上げて歓迎するのは、むしろ当然のことなのだ。
Rolling Stone Indiaの特集記事でのAAKASHの言葉が、在外アーティストから見たインドのシーンを端的に表わしている。
「インドのヒップホップは現代のL.A.やアトランタやシカゴのヒップホップとは対照的に、よりオールドスクールでリアルなヒップホップの影響を受けているね」
MC Altafとのコラボレーションについてはこう語っている。
「彼は俺の音楽をチェックした後に、D'Evilとのレコーディングのために俺のホームスタジオまで来てくれたんだ。俺たちはいろんなビートを試してみたんだけど、その中のひとつを選んでその日のうちに仕上げたよ。それが"Wazan Hai"になった。この曲が、ムンバイで最高のヒップホップアーティストたちをフィーチャーした"Over Seas"というアルバムを作るきっかけになったんだ。これは、彼らにフレッシュな2019年や2020年のサウンドを提供して、世界にプロモートするためのアルバムだよ」
ヒップホップ(ラップ)は言葉の音楽だが、トラック/ビートもまた重要な要素である。
とくに世界的な市場で評価されるためには、サウンド的にも新しくクールであることが求められる。
これまで、インドのヒップホップは、オールドスクールヒップホップやインドの音楽文化の影響のもとでガラパゴス的な発展を遂げてきた。
インドのヒップホップシーンには、この一年だけでも、才能豊かで、シーンを刷新するようなアーティストがあまりにも多く登場している。
AAKASH(本名:Aakash Ravikrishnan)は、クウェートで生まれ、米国インディアナ州の大学で音楽やパフォーミングアーツを学んだ、典型的なNRI(在外インド人)だ。
マルチプレイヤーでもあり、アメリカのドキュメンタリー番組のサウンドエンジニアとしてエミー賞(テレビ界の最高峰の賞)を受賞したことがあるというから、本場米国仕込みの実力派と呼べるだろう。
昨年アメリカからムンバイに移住してきた彼が最初にコラボレーションしたのは、まだ10代の若手ラッパーMC Altafと31歳の(ムンバイのシーンでは)ベテランのD'Evilだ。
ミュージックビデオの舞台は、インドでもヒップホップ・ブームと並行して人気が高まっているスニーカーショップ。
この"Wazan Hai"を皮切りに、AAKASHは次々とムンバイのラッパーたちとのコラボレーションを進めていった。
トラックもメロディックなフロウもインドらしからぬ"Obsession/Bliss"は14歳からラッパーとして活躍しているPoetik Justisとのコラボレーション。
ミュージックビデオはなぜか中国語の字幕付きだ。
米国からムンバイに移住してきたAAKASHは、映画『ガリーボーイ』を見て当地のヒップホップシーンのむき出しのパワーに触発され、インスタグラムを通じて地元のラッパーたちにコンタクトを取ったという。
『ガリーボーイ』にも、スラムのラッパーの才能に引き寄せられるアメリカ帰りのトラックメーカーが登場するが、それと全く同じようなエピソードだ。
そもそも『ガリーボーイ』自体が、ボリウッドの名門一家に生まれ、ニューヨークで映画製作を学んだゾーヤー・アクタル監督がムンバイのヒップホップシーンの熱気に魅了されて製作された映画である。
ムンバイのヒップホップシーンはものすごい求心力で世界中に拡散したインド系の才能を惹きつけているのだ。
ストリートヒップホップは、巨大なショービジネスの中で作られた映画音楽や高度に様式化された古典音楽とは違い、都市部の若者たちから自発的に誕生した、インドでは全く新しいタイプの音楽だ。
欧米では60年代のロック以降あたりまえだった「労働者階級が自分たちのリアルな気持ちを吐き出すことができる音楽」が、インドでは2010年代に入ってようやく誕生したわけだ。
欧米文化に慣れ親しんだ国際的なアーティストが、インドのヒップホップ誕生をもろ手を上げて歓迎するのは、むしろ当然のことなのだ。
Rolling Stone Indiaの特集記事でのAAKASHの言葉が、在外アーティストから見たインドのシーンを端的に表わしている。
「インドのヒップホップは現代のL.A.やアトランタやシカゴのヒップホップとは対照的に、よりオールドスクールでリアルなヒップホップの影響を受けているね」
MC Altafとのコラボレーションについてはこう語っている。
「彼は俺の音楽をチェックした後に、D'Evilとのレコーディングのために俺のホームスタジオまで来てくれたんだ。俺たちはいろんなビートを試してみたんだけど、その中のひとつを選んでその日のうちに仕上げたよ。それが"Wazan Hai"になった。この曲が、ムンバイで最高のヒップホップアーティストたちをフィーチャーした"Over Seas"というアルバムを作るきっかけになったんだ。これは、彼らにフレッシュな2019年や2020年のサウンドを提供して、世界にプロモートするためのアルバムだよ」
ヒップホップ(ラップ)は言葉の音楽だが、トラック/ビートもまた重要な要素である。
とくに世界的な市場で評価されるためには、サウンド的にも新しくクールであることが求められる。
これまで、インドのヒップホップは、オールドスクールヒップホップやインドの音楽文化の影響のもとでガラパゴス的な発展を遂げてきた。
このアルバムは、高いスキルとリアルなスピリットを持ったムンバイのラッパーたちに、現代的な最新のビートをぶつけてみるという、非常に野心的な試みでもあるのだ。
インドのローカル言語でラップされるこのアルバムは、先日紹介した英語ラッパーたちの作品と比べると、馴染みがない響きに少し戸惑うかもしれない。
だが、気にすることはない。
AAKASH自身もこう言っている。
「俺はヒンディー語で育ったわけじゃないから、ヒンディー語が本当に分からないんだ。だからレコーディングが終わって、彼らにヴァースの意味を聞くまで、誰が何を言っているのか全く分からなかったんだよ」
彼もまた、リリックの中身は分からなくても、シーンの熱気とラップのスキルやフロウのセンスに魅せられた一人なのだ。
AAKASHは、アメリカでヒップホップだけでなくメタル、ポップ、ジャズ、ロックなど様々な音楽の影響を受けており、この"Over Seas"にはジャズ、R&B、クラシックギター、フォーク、ボサノヴァの要素が込められているという。
Sid J & Bonz N Ribzをフィーチャーしたこの"Udh Chale"はBlink182のようなポップなパンクバンドの要素を取り入れているそうだ。
ダラヴィのラッパーDopeadeliczをフィーチャーしたトラップナンバー"Bounce"は、ヘヴィーなサウンドと緊張感で聴かせる一曲。
"Aadatein"は、いつもは歯切れのよいラップを聴かせるDee MCのメランコリックな新境地だ。
インドのローカル言語でラップされるこのアルバムは、先日紹介した英語ラッパーたちの作品と比べると、馴染みがない響きに少し戸惑うかもしれない。
だが、気にすることはない。
AAKASH自身もこう言っている。
「俺はヒンディー語で育ったわけじゃないから、ヒンディー語が本当に分からないんだ。だからレコーディングが終わって、彼らにヴァースの意味を聞くまで、誰が何を言っているのか全く分からなかったんだよ」
彼もまた、リリックの中身は分からなくても、シーンの熱気とラップのスキルやフロウのセンスに魅せられた一人なのだ。
AAKASHは、アメリカでヒップホップだけでなくメタル、ポップ、ジャズ、ロックなど様々な音楽の影響を受けており、この"Over Seas"にはジャズ、R&B、クラシックギター、フォーク、ボサノヴァの要素が込められているという。
Sid J & Bonz N Ribzをフィーチャーしたこの"Udh Chale"はBlink182のようなポップなパンクバンドの要素を取り入れているそうだ。
ダラヴィのラッパーDopeadeliczをフィーチャーしたトラップナンバー"Bounce"は、ヘヴィーなサウンドと緊張感で聴かせる一曲。
"Aadatein"は、いつもは歯切れのよいラップを聴かせるDee MCのメランコリックな新境地だ。
インドのヒップホップシーンには、この一年だけでも、才能豊かで、シーンを刷新するようなアーティストがあまりにも多く登場している。
もちろん今回紹介したAAKASHもその中の一人だ。
アンダーグラウンドで発展してきたヒップホップシーンは、『ガリーボーイ』という起爆装置によって、ものすごい勢いで進化と多様化を進めており、一年後がどうなっているか、全く想像がつかないほどだ。
AAKASHの次のアルバムはすでに完成しており、"Homecoming"というタイトルのジャズ・ヒップホップだという。
AAKASHの次のアルバムはすでに完成しており、"Homecoming"というタイトルのジャズ・ヒップホップだという。
リリースは彼が米国に帰国した後になるそうだ。
今度はどんな新しいサウンドを聴かせてくれるのか、今から非常に楽しみである。
参考記事:
Rolling Stone India "Aakash Delivers a Cutting-Edge Debut Hip-Hop LP ‘Over Seas’"
The Indian Music Diaries "AAKASH Moved to Mumbai, and Made One of the Most Groundbreaking Indian Hip-Hop Albums"
-------------------------------------
(2019.9.23加筆)
ムンバイ在住の友人がAAKASHに近しい人物から聞いた話によると、彼のインドへの帰国はトランプ大統領の排外的な移民政策によるものだったという。
まさかトランプの政策がインドのヒップホップシーンに影響を及ぼすとは思わなかった。
アメリカの移民排斥によって、最新のヒップホップサウンドがインドに持ち込まれることになったのだ。
これがまさにグローバリゼーションというやつだなあ、と非常に感慨深く感じた次第。
今度はどんな新しいサウンドを聴かせてくれるのか、今から非常に楽しみである。
参考記事:
Rolling Stone India "Aakash Delivers a Cutting-Edge Debut Hip-Hop LP ‘Over Seas’"
The Indian Music Diaries "AAKASH Moved to Mumbai, and Made One of the Most Groundbreaking Indian Hip-Hop Albums"
-------------------------------------
(2019.9.23加筆)
ムンバイ在住の友人がAAKASHに近しい人物から聞いた話によると、彼のインドへの帰国はトランプ大統領の排外的な移民政策によるものだったという。
まさかトランプの政策がインドのヒップホップシーンに影響を及ぼすとは思わなかった。
アメリカの移民排斥によって、最新のヒップホップサウンドがインドに持ち込まれることになったのだ。
これがまさにグローバリゼーションというやつだなあ、と非常に感慨深く感じた次第。
状況は不明だが、AAKASHは既報の通り再びアメリカに戻ることも考えているようだ。
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
ジャンル別記事一覧!
--------------------------------------
「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
更新情報や小ネタはTwitter, Facebookで!
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
ジャンル別記事一覧!
goshimasayama18 at 23:10|Permalink│Comments(0)
2019年03月15日
インドのインディーズシーンの歴史その11 極上のフュージョン・アンビエント Karsh Kale
インドのインディーズシーンの歴史を彩った名曲をひたすら紹介するこの企画。
今回はとりあげるのはまた在外インド人アーティストによる作品で、Karsh Kaleが2001年に発表した'Anja'.
Karsh Kaleはイギリス出身のインド系タブラプレイヤー/エレクトロニカアーティストで、現在は米国籍を取得している。
彼自身はマラーティー系(ムンバイがあるマハーラーシュトラ州がルーツ)だが、この曲のヴォーカルはどうやらテルグ語(南部アーンドラ・プラデーシュ州の言語)らしく、テルグの民族音楽とのフュージョン(もしくはテルグ系シンガーのコラボレーション)ということのようだ。
Karsh Kaleは以前紹介したTalvin Singh同様、 90年代にイギリスを中心に勃興した「エイジアン・アンダーグラウンド」のシーンで頭角を現した。
このエイジアン・アンダーグラウンドはクラブミュージック(電子音楽)と南アジア(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ)の伝統音楽を融合したもので、当時、伝統音楽のルーツを持つ多くの移民アーティストが活躍していた。
Talvin Singhがよりドラムンベース的なアプローチだったのに対して、Karsh Kaleはどちらかというとアンビエントっぽい音楽性が特徴。
タブラ奏者には他ジャンルとの共演で名を上げたプレイヤーがとても多くて、タブラ界の最高峰Zakir HussainはGrateful DeadのドラマーMicky HartらとのDiga Rhythm Bandやジャズ・ギタリストJohn MclaughlinとのShaktiをやっているし、Trilok Gurtuもジャズ系のミュージシャンと共演して多くの作品を残している。
Bill Laswellによるタブラと電子音楽の融合プロジェクトであるTabla Beat Scienceにはここに名前を挙げたタブラプレイヤー全員が参加している。
Karsh Kaleの他の曲も紹介する。'Milan'
アンビエントから始まってストリングスも入って盛り上がる構成は映画音楽的でもあるが、Karshは実際に映画音楽のプロデュースなども手がけている。
先日公開になったGully Boyのサウンドトラックから、"Train Song".
デリー出身の国産エレクトロニカ・アーティストの先駆けMidival Punditzとの共作で、ヴォーカルは人気シンガーのRaghu Dixit.
次回のこの企画で紹介するシタール奏者のAnoushka ShankarとあのStingが共演した楽曲もある。
結果的に非常にイギリス的というか、ロンドン的な空気感のサウンドとなったと感じるが、いかがだろうか。
Karsh Kaleのサウンドを聴いていると、まるくて抜けのよいタブラの音色の心地よさが、音の気持ちよさを追求するアンビエント/エレクトロニカ的な音像に見事にはまっていることが分かる。
00年代初期の時代性を感じるサウンドではあるが、音楽としての質の高さ、心地良さは今聞いてもまったく色褪せていない。
現代では、インド本国にもアンビエント/エレクトロニカ系の優れたアーティストが非常にたくさんいるが、インド音楽と電子音楽の「音の心地良さ」を追究する姿勢には本質的な共通点があるのかもしれない。
今回はとりあげるのはまた在外インド人アーティストによる作品で、Karsh Kaleが2001年に発表した'Anja'.
Karsh Kaleはイギリス出身のインド系タブラプレイヤー/エレクトロニカアーティストで、現在は米国籍を取得している。
彼自身はマラーティー系(ムンバイがあるマハーラーシュトラ州がルーツ)だが、この曲のヴォーカルはどうやらテルグ語(南部アーンドラ・プラデーシュ州の言語)らしく、テルグの民族音楽とのフュージョン(もしくはテルグ系シンガーのコラボレーション)ということのようだ。
Karsh Kaleは以前紹介したTalvin Singh同様、 90年代にイギリスを中心に勃興した「エイジアン・アンダーグラウンド」のシーンで頭角を現した。
このエイジアン・アンダーグラウンドはクラブミュージック(電子音楽)と南アジア(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ)の伝統音楽を融合したもので、当時、伝統音楽のルーツを持つ多くの移民アーティストが活躍していた。
Talvin Singhがよりドラムンベース的なアプローチだったのに対して、Karsh Kaleはどちらかというとアンビエントっぽい音楽性が特徴。
当時、こういうインド音楽とアンビエントを融合したサウンドは、Buddha Barとかのチルアウト/エスニック系のコンピレーション盤で重宝されていた記憶がある。
タブラ奏者には他ジャンルとの共演で名を上げたプレイヤーがとても多くて、タブラ界の最高峰Zakir HussainはGrateful DeadのドラマーMicky HartらとのDiga Rhythm Bandやジャズ・ギタリストJohn MclaughlinとのShaktiをやっているし、Trilok Gurtuもジャズ系のミュージシャンと共演して多くの作品を残している。
Bill Laswellによるタブラと電子音楽の融合プロジェクトであるTabla Beat Scienceにはここに名前を挙げたタブラプレイヤー全員が参加している。
Karsh Kaleの他の曲も紹介する。'Milan'
アンビエントから始まってストリングスも入って盛り上がる構成は映画音楽的でもあるが、Karshは実際に映画音楽のプロデュースなども手がけている。
先日公開になったGully Boyのサウンドトラックから、"Train Song".
デリー出身の国産エレクトロニカ・アーティストの先駆けMidival Punditzとの共作で、ヴォーカルは人気シンガーのRaghu Dixit.
次回のこの企画で紹介するシタール奏者のAnoushka ShankarとあのStingが共演した楽曲もある。
結果的に非常にイギリス的というか、ロンドン的な空気感のサウンドとなったと感じるが、いかがだろうか。
Karsh Kaleのサウンドを聴いていると、まるくて抜けのよいタブラの音色の心地よさが、音の気持ちよさを追求するアンビエント/エレクトロニカ的な音像に見事にはまっていることが分かる。
00年代初期の時代性を感じるサウンドではあるが、音楽としての質の高さ、心地良さは今聞いてもまったく色褪せていない。
現代では、インド本国にもアンビエント/エレクトロニカ系の優れたアーティストが非常にたくさんいるが、インド音楽と電子音楽の「音の心地良さ」を追究する姿勢には本質的な共通点があるのかもしれない。
いずれにしても、今回紹介したKarsh Kaleは、インド系アンビエントミュージックのさきがけ的な存在と言うことができるのではないかな。
それでは、また!
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
--------------------------------------
「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
更新情報や小ネタはTwitter, Facebookで!
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
goshimasayama18 at 20:21|Permalink│Comments(0)