IndiPop
2024年02月06日
Indi-Popの時代! 90年代インドの音楽シーン
今さら言うのもなんだが、このブログでは主にインドのインディペンデント音楽を紹介している。
この「インディペンデント(インディーズ)」という言葉、じつはインドでは、日本や他の国とは違う意味を持っている。
日本や欧米では、インディーズという言葉は、大手のレコード会社ではなくて、より小規模なコアなジャンルを扱うレーベルや、そこに所属しているアーティスト、そして彼らの非商業主義的な姿勢のことを指す。
今では個人でも音楽を流通させることができる時代なので、レーベルや事務所に所属せず、完全に「インディペンデント」で制作・発信・プロモーションを行っているアーティストも珍しくない(これは今ではインドも同じ)。
では、インドにおける「インディペンデント」とは、他にどんな意味があるのか。
それはずばり、「ポピュラー音楽の主流である映画音楽から独立している」という意味である。
長い間ヒット曲といえば映画音楽(ミュージカルシーンのための挿入歌)が独占していたインドの音楽シーンを中世ヨーロッパ風に言うならば「音楽は映画の婢女(はしため)」。
音楽は、映画を効果的に盛り上げるため、そして映画をプロモーションするためだけに作られ、使われてきた。
だから、こうした構図の外側で、映画のためではなく純粋に音楽そのものとして作られた楽曲は、インドでは十分に「インディペンデント」と呼ぶに値するし、実際にそう呼ばれてきたのである。
そんなの誰が決めたんだと聞かれたら困るが、私がチェックしているインドの音楽メディアでは、インディペンデントという用語はこのように使われていることが多いように思う。
最近ではこうした構造は変わりつつあり、2022年4月にインドのビジネスメディアMintに掲載された記事によると、その前の3年間でインドのレーベルがリリースした曲のうち、非映画音楽が占める割合は、5〜10%から30%にまで拡大したという。
その話はまた別の機会にするとして、今回は30年ほど遡って、インドでインディペンデントな音楽が注目され始めた時代に注目してみたい。
映画音楽以外のポピュラー音楽が少しずつ目立つようになってきたのは1990年代のこと。
この時代、映画から独立した音楽は、インディポップ(Indi-Pop)と呼ばれていた。
お気づきの通り、この呼称は、Indian popとIndipendent popのダブルミーニングになっている。
Indi-Popという言葉が最初に使われたのは1981年で、最初にそう呼ばれたのはインド系シンガーSheila Chandraを中心としたイギリスのバンドMonsoonだった。
(今回の記事の趣旨から外れるので詳述はしないが、彼らはワールドミュージック的なアレンジでビートルズの"Tomorrow Never Knows"をカバーするなど結構面白い音楽をやっているので、興味がある人はチェックしてみてほしい)
しかしこのIndi-Popという言葉が広く使われるようになるには、90年代の到来を待たなければならなかった。
「Indi-Pop」と検索すると、90年代の音楽を扱った記事やプレイリストばかり出てきて、ほかの時代の音楽はほとんど見当たらない。
Indi-Popと呼ばれるのは、90年代から00年代前半という限られた時代のポップミュージックだけなのである。
例えば、インディポップの女王(Queen of Indipop)と呼ばれていたAlisha Chinaiの"Made In India"という曲は、1995年の作品。
Alisha Chinai "Made In India"
日本人にとっては「インディペンデント」ではなく「インディアン」のほうが強く感じられるのがIndi-Popである。
発売元は大手のグラモフォン(現Saregama)で、つまり映画音楽からは独立しているものの、Indi-Popは本来の意味のインディーズというわけではなかった。
それでも、当時のインドでは映画と関係のないところでこういうキャッチーなポップスが作られること自体が斬新でクールだったのだろう。
この曲の人気は根強く、カリフォルニアのインド系ラッパー/シンガーRaja Kumariが2022年にリリースした同名曲でコーラス部分を引用している。
Raja Kumari "Made in India"
Raja Kumari版のミュージックビデオは、80年代から活躍している大女優Madhuri Dixitが出演したことでも話題を集めた。
Alisha Chinaiが歌ったオリジナルバージョンを作曲・プロデュースしたのはBidduという人物だ。
10代の頃ベンガルールでTrojansというビートグループ(60年代のインドではロックバンドをこう呼んでいた)を組んでいた彼は、その後イギリスに渡って音楽プロデューサーとしての地位を確立。
渡英後の仕事では、ジャマイカ人シンガーCarl Douglasのヒット曲"Kung Fu Fighting"(1974年)が有名だ。
この曲は世界中で1,100万枚を売り上げたそうだが、インド人がジャマイカ人シンガーをプロデュースしてエセ中国風のディスコ曲をヒットさせたというのだからわけが分からない。
Bidduは日本の歌謡界とも縁があって、1969年にはザ・タイガースの"Smile For Me"をプロデュース、(作詞作曲はビージーズのメンバー)、1988年には中森明菜の"Blonde"(Winston Selaなる人物との共作)を手がけている。
1970年代末以降はボリウッド映画にも参入し、90年代にはIndi-Popの代表的な作曲家として活躍した。
のちにプレイバックシンガーとして人気を博すShaanがSagarikaなる女性シンガーと1996年にリリースしたアルバム"Naujawan"もBidduによるプロデュースで、Sagarikaが歌うこの曲は、Winkみたいな人工的なポップネスが時代を感じさせる。
Shaan & Sagarika "Disco Deewane"
今ではプレイバックシンガーの印象が強いShaanはもともとIndi-Popシーン出身で、デビュー曲はやはりIndi-Popのシンガーとして活躍したShweta Shettyらと共演したこの曲だった。
Shweta Shetty, Style Bhai, Sagarika, Shaan, Babul Supriyo "Q Funk"
マイケル・ジャクソンみたいなイントロで始まるこの曲、今聴くとかっこよさとダサさのブレンドが絶妙。
Q-Funkというタイトルの意味は不明だが、この曲がリリースされた時期(1995年)を考えると、ジョージ・クリントン率いるP-Funkではなく、西海岸のヒップホップG-Funkからの命名だろうか。
Shweta Shettyの代表曲はこの"Johnny Joker"。
Shweta Shetty "Johnny Joker"
まったく知らない曲なのに妙になつかしいこの感覚は何なんだろうか。
外国人が日本のシティポップを聴いたときに感じるのはこういう気持ちなのかもしれない。
ちなみにこの曲もBidduのプロデュース。
何度かこのブログで紹介しているが、インドで最初のラップとされる1992年のこの曲も、Indi-Pop期のヒット曲だ。
Baba Sehgal "Thanda Thanda Pani"
QueenとDavid Bowieが共作した"Under Pressure"をそのままサンプリングしたVanilla Iceの"Ice Ice Baby"をさらにそのままパクるという驚異の孫引きパクりで、著作権的にはかなりグレー(ていうか一発アウト?)かもしれないが、ビートルズの時代から西洋のポピュラー音楽がインドの音楽を引用してきたことを考えれば、個人的には笑って済ませたい。
インド系ラップだと、他にUsherの"Yeah!"をパクった曲もあったりするのだが、その話はまたいずれ。
Indi-Popの時代には海外から逆輸入されたグループも活躍していた。
この時代の在外インド人シンガーではApache IndianやPanjabi MCが有名だが、Indi-Popという文脈では、インド人シンガーNeeraj Shridharを中心にスウェーデンで結成されたBombay Vikingを推したい。
Bombay Vikings "Kya Surat Hai"
この曲は1999年にリリースされた彼らのファーストアルバムからのヒット曲。
このアルバムは、往年のボリウッドのヒット曲にエレクトロ・ディスコ風のアレンジを施して人気を集めたという。
"Very"(1993年)時代のPet Shop Boysみたいなキラキラしたサウンドが高揚感とノスタルジーを同時にかきたてる。
Indi-Pop時代後期に特徴的だったのは、スパイスガールズとかバックストリートボーイズみたいなアイドルっぽい佇まいのグループもデビューしていたということ。
私の知る限り、この手のグループは今のインドには(少なくとも今日インディペンデント音楽として扱われるシーンには)存在していない。
Viva "Hum Naye Geet Sunayein"
A Band of Boys "Meri Neend"
どちらもオフィシャルチャンネルなのに映像が粗いのが気になるが(マスターデータ残ってないのか)、それは置いておいて。
Vivaの活動時期は2002年から2005年、A Band of Boysは2001年から2006年で、どちらも決して長く活躍したグループではないが、活動期間の短さにもかかわらず、当時の音楽シーンを振り返る記事で言及されることが多く、インド人の記憶に深く刻まれているようである。
VivaのメンバーだったAnushka Manchandaは、今ではKiss Nukaという名前でクラブミュージックのアーティストとして活躍している。
A Band of Boysは2018年に再結成を果たしたようだ。
ここまで紹介した楽曲を聴いて分かる通り、Indi-Popは「Indi」と言っているものの、いわゆるインディーズ的な通好みだったり実験的だったりする作風なわけではなく、音楽的にはほとんど王道のポップスである。
今回の記事では、今聴いてぎりぎりカッコいいと思えなくもない曲を集めたつもりだが、他にはインド演歌みたいな曲も結構多くて、Indi-Popは当時のインドの西洋的ポピュラー音楽受容の限界を感じさせられるジャンルでもある。
正直に言うと、2024年に外国人が聴くには、「当時のインドではこれが斬新でクールだったはず」という想像力のスパイスを効かせる必要があるかもしれない。
90年代のインドは今日まで続く経済成長の初期段階で、都市部の中産階級がようやくケーブルテレビや衛星放送で多様な音楽に触れられるようになった時代だ。
どこか垢抜けなくて、しかし根拠のない希望に満ちあふれたサウンドは、ちょうど日本の70年代や80年代のように、インドでもこの時代にしか作ることができないものだったのだろう。
最近のインドでは、日本におけるシティポップリバイバルのように、この頃を懐古する動きが出始めている。
前述のRaja KumariによるAlisha Chinaiの"Made In India"の引用や、Karan Kanchanがプロデュースした曲(DIVINEの"Baazigar")に1992年の同名映画のタイトル曲をサンプリングされている例がそれにあたる。
過去の名曲をLo-Fi処理してノスタルジーをブーストしたリミックスも人気があるようだし、ミュージックビデオではアナログ風に加工された映像がトレンドになっている。
今ではインドでも、インディペンデントという言葉の使われ方はすっかり世界標準になってしまったが、Indi-Popが現代の音楽シーンでかっこよく生まれ変わる可能性はまだまだありそうだ。
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この「インディペンデント(インディーズ)」という言葉、じつはインドでは、日本や他の国とは違う意味を持っている。
日本や欧米では、インディーズという言葉は、大手のレコード会社ではなくて、より小規模なコアなジャンルを扱うレーベルや、そこに所属しているアーティスト、そして彼らの非商業主義的な姿勢のことを指す。
今では個人でも音楽を流通させることができる時代なので、レーベルや事務所に所属せず、完全に「インディペンデント」で制作・発信・プロモーションを行っているアーティストも珍しくない(これは今ではインドも同じ)。
では、インドにおける「インディペンデント」とは、他にどんな意味があるのか。
それはずばり、「ポピュラー音楽の主流である映画音楽から独立している」という意味である。
長い間ヒット曲といえば映画音楽(ミュージカルシーンのための挿入歌)が独占していたインドの音楽シーンを中世ヨーロッパ風に言うならば「音楽は映画の婢女(はしため)」。
音楽は、映画を効果的に盛り上げるため、そして映画をプロモーションするためだけに作られ、使われてきた。
だから、こうした構図の外側で、映画のためではなく純粋に音楽そのものとして作られた楽曲は、インドでは十分に「インディペンデント」と呼ぶに値するし、実際にそう呼ばれてきたのである。
そんなの誰が決めたんだと聞かれたら困るが、私がチェックしているインドの音楽メディアでは、インディペンデントという用語はこのように使われていることが多いように思う。
最近ではこうした構造は変わりつつあり、2022年4月にインドのビジネスメディアMintに掲載された記事によると、その前の3年間でインドのレーベルがリリースした曲のうち、非映画音楽が占める割合は、5〜10%から30%にまで拡大したという。
その話はまた別の機会にするとして、今回は30年ほど遡って、インドでインディペンデントな音楽が注目され始めた時代に注目してみたい。
映画音楽以外のポピュラー音楽が少しずつ目立つようになってきたのは1990年代のこと。
この時代、映画から独立した音楽は、インディポップ(Indi-Pop)と呼ばれていた。
お気づきの通り、この呼称は、Indian popとIndipendent popのダブルミーニングになっている。
Indi-Popという言葉が最初に使われたのは1981年で、最初にそう呼ばれたのはインド系シンガーSheila Chandraを中心としたイギリスのバンドMonsoonだった。
(今回の記事の趣旨から外れるので詳述はしないが、彼らはワールドミュージック的なアレンジでビートルズの"Tomorrow Never Knows"をカバーするなど結構面白い音楽をやっているので、興味がある人はチェックしてみてほしい)
しかしこのIndi-Popという言葉が広く使われるようになるには、90年代の到来を待たなければならなかった。
「Indi-Pop」と検索すると、90年代の音楽を扱った記事やプレイリストばかり出てきて、ほかの時代の音楽はほとんど見当たらない。
Indi-Popと呼ばれるのは、90年代から00年代前半という限られた時代のポップミュージックだけなのである。
例えば、インディポップの女王(Queen of Indipop)と呼ばれていたAlisha Chinaiの"Made In India"という曲は、1995年の作品。
Alisha Chinai "Made In India"
日本人にとっては「インディペンデント」ではなく「インディアン」のほうが強く感じられるのがIndi-Popである。
発売元は大手のグラモフォン(現Saregama)で、つまり映画音楽からは独立しているものの、Indi-Popは本来の意味のインディーズというわけではなかった。
それでも、当時のインドでは映画と関係のないところでこういうキャッチーなポップスが作られること自体が斬新でクールだったのだろう。
この曲の人気は根強く、カリフォルニアのインド系ラッパー/シンガーRaja Kumariが2022年にリリースした同名曲でコーラス部分を引用している。
Raja Kumari "Made in India"
Raja Kumari版のミュージックビデオは、80年代から活躍している大女優Madhuri Dixitが出演したことでも話題を集めた。
Alisha Chinaiが歌ったオリジナルバージョンを作曲・プロデュースしたのはBidduという人物だ。
10代の頃ベンガルールでTrojansというビートグループ(60年代のインドではロックバンドをこう呼んでいた)を組んでいた彼は、その後イギリスに渡って音楽プロデューサーとしての地位を確立。
渡英後の仕事では、ジャマイカ人シンガーCarl Douglasのヒット曲"Kung Fu Fighting"(1974年)が有名だ。
この曲は世界中で1,100万枚を売り上げたそうだが、インド人がジャマイカ人シンガーをプロデュースしてエセ中国風のディスコ曲をヒットさせたというのだからわけが分からない。
Bidduは日本の歌謡界とも縁があって、1969年にはザ・タイガースの"Smile For Me"をプロデュース、(作詞作曲はビージーズのメンバー)、1988年には中森明菜の"Blonde"(Winston Selaなる人物との共作)を手がけている。
1970年代末以降はボリウッド映画にも参入し、90年代にはIndi-Popの代表的な作曲家として活躍した。
のちにプレイバックシンガーとして人気を博すShaanがSagarikaなる女性シンガーと1996年にリリースしたアルバム"Naujawan"もBidduによるプロデュースで、Sagarikaが歌うこの曲は、Winkみたいな人工的なポップネスが時代を感じさせる。
Shaan & Sagarika "Disco Deewane"
今ではプレイバックシンガーの印象が強いShaanはもともとIndi-Popシーン出身で、デビュー曲はやはりIndi-Popのシンガーとして活躍したShweta Shettyらと共演したこの曲だった。
Shweta Shetty, Style Bhai, Sagarika, Shaan, Babul Supriyo "Q Funk"
マイケル・ジャクソンみたいなイントロで始まるこの曲、今聴くとかっこよさとダサさのブレンドが絶妙。
Q-Funkというタイトルの意味は不明だが、この曲がリリースされた時期(1995年)を考えると、ジョージ・クリントン率いるP-Funkではなく、西海岸のヒップホップG-Funkからの命名だろうか。
Shweta Shettyの代表曲はこの"Johnny Joker"。
Shweta Shetty "Johnny Joker"
まったく知らない曲なのに妙になつかしいこの感覚は何なんだろうか。
外国人が日本のシティポップを聴いたときに感じるのはこういう気持ちなのかもしれない。
ちなみにこの曲もBidduのプロデュース。
何度かこのブログで紹介しているが、インドで最初のラップとされる1992年のこの曲も、Indi-Pop期のヒット曲だ。
Baba Sehgal "Thanda Thanda Pani"
QueenとDavid Bowieが共作した"Under Pressure"をそのままサンプリングしたVanilla Iceの"Ice Ice Baby"をさらにそのままパクるという驚異の孫引きパクりで、著作権的にはかなりグレー(ていうか一発アウト?)かもしれないが、ビートルズの時代から西洋のポピュラー音楽がインドの音楽を引用してきたことを考えれば、個人的には笑って済ませたい。
インド系ラップだと、他にUsherの"Yeah!"をパクった曲もあったりするのだが、その話はまたいずれ。
Indi-Popの時代には海外から逆輸入されたグループも活躍していた。
この時代の在外インド人シンガーではApache IndianやPanjabi MCが有名だが、Indi-Popという文脈では、インド人シンガーNeeraj Shridharを中心にスウェーデンで結成されたBombay Vikingを推したい。
Bombay Vikings "Kya Surat Hai"
この曲は1999年にリリースされた彼らのファーストアルバムからのヒット曲。
このアルバムは、往年のボリウッドのヒット曲にエレクトロ・ディスコ風のアレンジを施して人気を集めたという。
"Very"(1993年)時代のPet Shop Boysみたいなキラキラしたサウンドが高揚感とノスタルジーを同時にかきたてる。
Indi-Pop時代後期に特徴的だったのは、スパイスガールズとかバックストリートボーイズみたいなアイドルっぽい佇まいのグループもデビューしていたということ。
私の知る限り、この手のグループは今のインドには(少なくとも今日インディペンデント音楽として扱われるシーンには)存在していない。
Viva "Hum Naye Geet Sunayein"
A Band of Boys "Meri Neend"
どちらもオフィシャルチャンネルなのに映像が粗いのが気になるが(マスターデータ残ってないのか)、それは置いておいて。
Vivaの活動時期は2002年から2005年、A Band of Boysは2001年から2006年で、どちらも決して長く活躍したグループではないが、活動期間の短さにもかかわらず、当時の音楽シーンを振り返る記事で言及されることが多く、インド人の記憶に深く刻まれているようである。
VivaのメンバーだったAnushka Manchandaは、今ではKiss Nukaという名前でクラブミュージックのアーティストとして活躍している。
A Band of Boysは2018年に再結成を果たしたようだ。
ここまで紹介した楽曲を聴いて分かる通り、Indi-Popは「Indi」と言っているものの、いわゆるインディーズ的な通好みだったり実験的だったりする作風なわけではなく、音楽的にはほとんど王道のポップスである。
今回の記事では、今聴いてぎりぎりカッコいいと思えなくもない曲を集めたつもりだが、他にはインド演歌みたいな曲も結構多くて、Indi-Popは当時のインドの西洋的ポピュラー音楽受容の限界を感じさせられるジャンルでもある。
正直に言うと、2024年に外国人が聴くには、「当時のインドではこれが斬新でクールだったはず」という想像力のスパイスを効かせる必要があるかもしれない。
90年代のインドは今日まで続く経済成長の初期段階で、都市部の中産階級がようやくケーブルテレビや衛星放送で多様な音楽に触れられるようになった時代だ。
どこか垢抜けなくて、しかし根拠のない希望に満ちあふれたサウンドは、ちょうど日本の70年代や80年代のように、インドでもこの時代にしか作ることができないものだったのだろう。
最近のインドでは、日本におけるシティポップリバイバルのように、この頃を懐古する動きが出始めている。
前述のRaja KumariによるAlisha Chinaiの"Made In India"の引用や、Karan Kanchanがプロデュースした曲(DIVINEの"Baazigar")に1992年の同名映画のタイトル曲をサンプリングされている例がそれにあたる。
過去の名曲をLo-Fi処理してノスタルジーをブーストしたリミックスも人気があるようだし、ミュージックビデオではアナログ風に加工された映像がトレンドになっている。
今ではインドでも、インディペンデントという言葉の使われ方はすっかり世界標準になってしまったが、Indi-Popが現代の音楽シーンでかっこよく生まれ変わる可能性はまだまだありそうだ。
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goshimasayama18 at 22:29|Permalink│Comments(0)
2020年03月02日
インディアン・カウボーイ!インド人カントリー歌手Bobby Cashのビリヤニ・ウエスタン!
「インディアン・カウボーイ」という言葉を聞いて、どんな人物を思い浮かべるだろうか?
おそらく、ほとんどの人が、頭に羽飾りをつけたアメリカ先住民のカウボーイを想像するのではないかと思う。
ひょっとしたら、1970年代のB級マカロニ・ウエスタンにそんな映画があったかもしれない。
ところが、今回紹介するインディアン・カウボーイの「インディアン」はアメリカ先住民ではない。
このインディアン・カウボーイは正真正銘のインド人。
なんと、インド生まれのカントリー歌手がいるのである。
この一度聞いたら忘れられない異名を持つ男の名前は、ボビー・キャッシュ。
百聞は一見に如かず。
さっそく彼の音楽を聴いてもらおう。
どうだろう。
私はカントリーというジャンルには全く詳しくないが、それでもこのサウンドを聞けば、彼が決してイロモノではない、本格派のカントリー・ミュージシャンであることが分かる。
それに彼のファッションがまた堂に入っている。
テンガロンハットにウエスタン風のシャツ。
あまりインドには売っていなさそうなデザインの衣装は、本場で仕入れたのか、それともインドで仕立てて作ってもらったのだろうか。
この突然変異的なアーティストは、いったいどのように誕生したのだろう。
ボビー・キャッシュことBal Kishoreは、1961年、ヒマラヤをのぞむウッタラカンド州の街、クレメントタウンに生まれた(インドの片田舎にこんな英語の名前の街があったということにも驚いた)。
Kishore一家には、カントリーの本場テネシー州のナッシュビルに移住した叔母がいて、幼い頃から毎月彼らに最新のカントリーのヒット曲を送ってくれていたという。
幼いBalは、叔母が送ってくれる音楽に夢中になった。
やがて、彼らは叔父が作ってくれたギターで姉妹や従兄弟たちと演奏を始めるようになる。
彼の従兄弟は、小さい頃にインドを訪れたビートルズが、ヨガの聖地リシケシュに行くために彼らの住んでいた街を通り過ぎたことをきっかけに、ロックに目覚めたのだそうだ。
彼らがこのかなり早い時代に欧米の音楽に夢中になった理由のひとつに、ナッシュビルの叔母の存在に加えて、Balの曽祖父の代に彼らがクリスチャンに改宗していたということが挙げられるだろう。
やがてBalは、父が彼をBabuと呼んでいたことから、名をBobbyと改め、キショール(Kishore)というファミリーネームを英語風にCashに変えて、英語風にBobby Cashという名前での音楽活動を始める。
みるみるうちにギターの腕を上げたボビーだったが、クレメント・タウンにはプロのミュージシャンとして活躍する場などない。
彼は音楽教室を開いたり、インド軍を相手に演奏したりして活動していた。
カントリーを一緒に演奏する仲間がいなかったことが、プラスに作用することもあった。
彼は、ベースラインをギターで再現する独特のプレイスタイルを編み出したのだ。
彼の生き方もまた、本場のカントリー歌手のようなところがある。
家族想いで律儀な男なのだろう。
ボビーは、1995年に父親が亡くなるまで、故郷のクレメントタウンで過ごしていた。
父の死後、ミュージシャンとしてのキャリアを本格的に追求すべく、彼は初めて首都デリーに出てくる。
だが、首都とはいえ、当時のデリーにも、やはりカントリー音楽の需要などなかった。
私が初めてインドを訪れたのは1997年のことだったが、デリーのカセットテープ屋(当時のインドでは、主要な音楽メディアはCDではなくカセットだった)のオヤジでもロックというジャンルを理解していなかったのを覚えている。
世界的にとっくに流行の過ぎ去った時代遅れのカントリーミュージックとなれば、知らないのはなおさらのことだろう。
仕方なく彼は、ヒンディー語のポップスのアルバムを発表する。
当時台頭してきていた、'Indi-Pop'と呼ばれる非映画音楽のポップミュージックを志したものだったが、ボビーはやはり、カントリー音楽への情熱を捨てきることはできなかった。
数枚のアルバムを発表した彼は、デリーの5つ星ホテル、オベロイで演奏するなどして、なんとかミュージシャンとしての活動を続けていた。
だが、そんな彼にも転機が訪れる。
オーストラリア人の映像プロデューサーが、オベロイで演奏している彼を見て、地元のカントリー音楽フェスに招待し、その様子を撮影することにしたのだ。
2003年1月、ボビーがオーストラリアのニューサウスウェールズで行われたTamworth Country Music Festivalに出演したのは、41歳になってからのことだった。
果たして、本格的カントリーミュージックを演奏するインド人のニュースは、またたく間に話題となった。
この時の様子は、地元のテレビ局によって"The Indian Cowboy...One in a Billion"というドキュメンタリー番組として放送されている。
ボビーの幸運は続く。
彼の演奏を聴いたオーストラリアの裕福な農家が、アルバム制作の話を持ちかけたのだ。
こうして、彼は2004年に、オーストラリアのレーベルから、最初のカントリーアルバム、"Cowboy at Heart"をリリースする。
"Cowboy at Heart"、なんともいいタイトルではないか。
アメリカから遠く離れたインドに生まれ、西部のカウボーイとして生きているわけではないけれど、カントリーミュージックを愛する俺の心はカウボーイなのさ。
そんなボビーの心意気が伝わってくるようなタイトルのこのアルバムは、オーストラリアのカントリー音楽チャートに入っただけでなく、本場アメリカでも高く評価され、ナッシュビルのカントリーミュージック協会のベスト海外アーティストにもノミネートされた。
受賞こそ逃したものの、ブロードウェイでのパフォーマンスはスタンディングオベーションで称えられたという。
その後、彼は家族と故郷クレメントタウンで暮らしながらも、カントリーミュージシャンとしてはオーストラリアを拠点に活動し、何枚かのアルバムを発表している。
それにしても、世界的にメインストリームであるEDMやヒップホップのミュージシャンがインドにもいるのは分かるけど、カントリーのような、アメリカの伝統芸能とも言えるジャンルにも優れたインド人ミュージシャンがいるということには驚かされる。
ボビー・キャッシュの音楽を初めて聴いたときのアメリカ人やオーストラリア人の驚きは、きっとチャダやジェロの演歌を聴いた時の日本人と同じようなものだっただろう。
カントリーはなんとなく保守的な人たちが聴く音楽という印象を持っていたが、
彼がヒンディー語で発表した楽曲のなかには聴くべきものが少ないが、なかにはタブラとカントリースタイルのギターが融合したこんな楽曲もある。
この歌はどうやらヒンディー語のゴスペルのようだ。
カントリー調の歌声にタブラを合わせた驚くべき音楽性は、マカロニ・ウエスタンならぬビリヤニ・ウエスタン!
彼のことを扱ったドキュメンタリー番組のタイトル"Indian Cowboy...One in a Billion"同様、インディアン・カウボーイはインド広しと言えども、10億に一人の存在だろう。
インターネットの普及でさまざまな音楽に触れる機会が爆発的に増えてきたインドで、これからも、びっくりするようなジャンル(例えば、タンゴとかケルト音楽とか)で素晴らしい才能が出てくることが、ひょっとしたら、あるのかもしれない。
最後に、ボビー・キャッシュが演奏するエルビス・プレスリーの名曲をお届けして、今回の記事を終わりにしたい。
追記:
ちなみに彼のことを教えてくれたのは、以前このブログでもインタビューをお届けした、ムンバイ在住のPerfumeファンのインド人、Stephenです。ありがとう!
それからコルカタには、こんな本格的なブルース・バンドがいます。
いやはやインドは広い!
さらに追記:この原稿を書いた後に思いついた「ビリヤニ・ウエスタン」という呼び方が気に入ったので、タイトルと本文をちょっと変えてみました。
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