GullyBoy

2019年10月21日

『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Doori Poem"(へだたり/詩)、"Doori"(へだたり)by麻田豊、餡子、Natsume


麻田豊先生、餡子さんの両名による『ガリーボーイ』劇中ラップの翻訳、今回は"Doori"(へだたり)と、サウンドトラックではそのイントロ的に使われていた楽曲"Doori Poem"(へだたり/詩)をお届けします。

"Doori Poem"は、ゾーヤー・アクタル監督の父で、詩人・作詞家・脚本家として70年代からヒンディー語映画界で活躍してきたジャーヴェード・アクタルによる詩を主演のランヴィールが朗読したもの。

"Doori"のリリックはなんとジャーヴェード・アクタルとラッパーのDivineの共作!
アクタル一家のファミリービジネスであるボリウッドと、ジャーヴェードが継承している伝統的な詩の文化、そしてヒップホップという新しいカルチャーががっぷり四つで組み合った、この映画ならではの作品ということになる。
主人公ムラードが作った曲という設定のこの曲でラップしているのは、もちろんランヴィール本人。
ランヴィールはこの映画でラッパーとしての才能も披露も存分にしている。

トラックは2曲ともインド系イギリス人のRishi Richが手がけている。
Rishi Richはインド系ディアスポラで発展したダンスミュージック、いわゆるDesi Music(バングラー・ビート、エイジアン・アンダーグラウンドやインド系R&Bなど)で頭角を現し、その後数多くのインド映画の音楽を手がけているプロデューサーだ。

それではまず"Doori Poem"(へだたり/詩)、続いて"Doori"(へだたり)を紹介します!
 
DooriPoem



Doori1

Doori2

餡子さんのコメント
・Doori Poem
格差は格差のまま、決して溝が埋まらないインドの現実がよくわかるリリックです。

・Doori
Doori Poemからもう一歩進んで、格差社会を受け入れず足掻こうとする力強さがプラスされています。このリリックには母が登場し、インド人男性の母に対する愛情の大きさが感じられます。
この2曲は『ガリーボーイ』のなかでも特にヘヴィなテーマを扱った楽曲だ。
主人公のムラドは、怪我をした父に代わって裕福な家庭の運転手を務めることになり、圧倒的な貧富の差を目の当たりにする。
ピカピカの新車に乗り、英語で日常会話をして、海外留学の話題を話す一家。
"Doori Poem"では、ムラードとは全く異なる裕福な世界に暮らす勤務先の一家の娘との心の隔たりが、そして"Doori"では、不条理なまでの格差への絶望と苛立ちがテーマになっている。

これは餡子さんが今年の5月にムンバイで撮影した写真。
建設中の高層ビルから、海上にかかる橋シーリンクを挟んで、反対側にはスラム街が広がる。
Mumbai1

Mumbai2

Mumbai3
(写真提供:餡子さん)
まさに「右を見れば 今にも空に届きそうな高層ビル/左を見れば腹を空かして路上で寝ている子どもたち」というリリックどおりの現実がここにある。

この映画の深いところは、スラムに暮らす主人公と富裕層の人々を、単純な貧富=幸福・不幸という対立軸として描いてはいないことだ。
ムラードの家からは比べようもないくらい裕福な一家の、彼と同じくらいの年頃の娘も、決して手放しで幸福そうには見えない。
家族とは生き方を巡って口論をしているし、金持ちが集まるパーティーから泣きながら帰ってくることもある。
ここには豊かか貧しいかという対立に加えて、幸福か不幸か、自由か不自由かという対立軸が並行して描かれている。

貧しい家庭に生まれ、封建的な父のもとで暮らすムラードは、貧しく、不幸で、不自由だ。
だが、金持ち一家の娘も、裕福ではあるが、必ずしも幸福ではなく、それに不自由なようでもある。
彼の兄貴分的なラッパーのシェールは、裕福ではないものの、自由で充実した生き方をしているように見える。
トラックメーカーのスカイは、裕福で、そして自由な精神を持っている。

ないないづくしのムラードも、ガールフレンドのサフィーナといるときは、幸福を感じることができる。
医者の家庭に生まれたサフィーナは、そこそこに裕福だが、やはり不自由な暮らしを強いられている。
だが、彼女も恋人のムラードといるときだけは、自由と幸福を感じることかできるのだ。

"Doori"では、ムラードが抱える様々な苦悩が、ラップのリリックとして吐き出されることで昇華される。
この楽曲を通して、ヒップホップが越えようのない壁や格差を超えることができる、精神の自由の象徴であることが示唆されている。
二人でいる時間だけが、自由で幸福だったムラードとサフィーナだが、ムラードはラップという新しい自由の象徴を手に入れる。
そのことが、二人の関係に微妙な影響を及ぼしてゆく…。

続いては、ムラードがMCシェールと共演する"Mere Gully Mein"です!
しばしお待ちを! 



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2019年10月20日

『ガリーボーイ』ラップ翻訳 "Sher Aaya Sher"(獅子が来た獅子が)by麻田豊、餡子、Natsume


それではさっそく麻田豊先生、餡子さん、Natsumeさんによる『ガリーボーイ』劇中のラップのリリック翻訳を紹介します!

まずは、主人公ムラードの兄貴分にあたるMCシェールのテーマ曲的な楽曲"Sher Aaya Sher"から!
この曲は、ムンバイの老舗レゲエ/ヒップホップバンドBombay BassmentのMajor Cによるトラックに、MCシェールのモデルであるDivineがリリックを書いてラップしたもの。
この曲以外でも劇中のMCシェールのラップは全てDivineが吹き替えている。
普通のインド映画の場合、俳優の口パクに合わせて歌う歌手のことをプレイバックシンガーと言うけど、この場合はプレイバックラッパー?


SherAyeSher1

SherAyeSher2

餡子さんからのコメント
シェールの兄貴の男前っぷりに惚れます。ムラドがシェールについていこうと思ったのも納得の格好良さです!

このシーンの舞台となっているのは、主人公ムラードが通うカレッジのフェスティバル。
こうしたカレッジ・フェスティバルは、以前からインドのインディーミュージシャンたちの発表の場となっている。

このシーンを見る限り、ムラードはアメリカのヒップホップに憧れて、自らリリック(ひょっとしたらラップを前提としていない「詩」だった?)を書いてはいたものの、シェールのライブを見るまでは、ローカルのヒップホップシーンのことは全く知らなかった様子。
それだけインドのヒップホップシーンはアンダーグラウンドなものだったということなのだろう。
地元ラッパーの熱いステージを見たムラードにとって、ヒップホップ/ラップは単なる憧れの対象から、手がとどくリアルな存在に変わってゆく。

「ここにはラップはない/お前の幻想を追い払ってやる/女も車もなければ、俺たちの住み処は分離されている/このリアルなラップの魂を/お前の魂の中で」というリリックは、彼らのラップがこれまでのインドで一般的だった、女や車のことばかりを扱うボリウッド的エンターテインメント・ラップとは一線を画すリアルなものだということを宣言するもの。
続くラインは映画のストーリーを見れば分かる通り、女性シンガーに野次を飛ばした観客に対する強烈な一撃だ。

シッダーント・チャトゥルヴェーディ演じるMCシェールの「頼れるワイルドな兄貴」っぷりは、まさにモデルとなったDivineのイメージと重なる。
Divine本人も、自分の半生をラップした楽曲で、自身をライオン(Sher)に例えた楽曲"Jungli Sher"を発表しており、MCシェールという名前はここから取られたのだろう。

この曲は2016年のリリースで、"Mere Gully Mein"と同じSez on the Beatによるプロデュース。

続いては、"Doori Poem"と"Doori"をお届けします!
しばしのお待ちを!

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Sher画像



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『ガリーボーイ』ラップ翻訳(by麻田豊先生、餡子さん、Natsumeさん) イントロダクション!


お伝えしていた通り、今回からインド初の本格的ヒップホップ映画『ガリーボーイ』のリリックの日本語訳をお届けします。
これは、インド映画ファンの餡子さん、東京外国語大学で長く教鞭を取られてきたウルドゥー語学文学、インド・イスラーム文化研究の麻田豊先生による翻訳に、Natsumeさんが日本語表現のブラッシュアップへの協力をおこなったもの。
ありがたいことに、翻訳の成果を私のブログでの発表することをご提案いただき、喜んで場所を提供させてもらうことにしました。

餡子さんはこれまでに数百本のインド映画を見てきたそうですが、『ガリーボーイ』には特別な魅力を感じ、日本公開が決まる前から、「ラップのリリックの翻訳」に取り組んだとのこと。
「ムンバイのヒップホップシーン」という、日本ではこれまで全く紹介されてこなかったけどじつはものすごく熱い題材を扱ったこの映画には、「彼らが表現していることを、できる限り理解したい!」と思わせるだけの魅力があるのだと改めて感じさせられます。

スラングやムンバイ特有の表現が多く使われ、ヒンディー語圏でも別の地域の人であれば理解が困難な部分もあるというラップのリリックを、専門家が監修した翻訳で味わえるというのはかなりありがたいこと。
私のように、インドの現代文化に大きな興味を持ちつつも、時間の都合や怠慢(私の場合はこれ)などの理由により、言語の習得には二の足を踏んでいる人も多いと思います。

映画鑑賞前に読むも良し、映画鑑賞後に改めて味わうも良し。
映画のなかで重要な位置付けをされている楽曲から、挿入歌的に扱われている楽曲まで、全てにリアルなメッセージがあり、読んでいただければ、インドのヒップホップの表現の広さと深さが理解できるはず。

私の蛇足はこのへんにして、今回はイントロダクションとして翻訳に携わった3名からのコメントを紹介します!
まずは、麻田豊先生から!
僕の中での『ガリーボーイ(Gully Boy)』騒動は今年の新年早々に始まった。まず1月2日、最初のポスターが、翌3日には予告編が発表された。そして4日、教え子の社会学者、栗田知宏君からこんなメッセージが届いた。「日本で一般公開された場合、絶対に僕が解説を書きたい作品があり、誰かに取られる前に動かなければと思っている」と。すぐに『ガリーボーイ』のことだと察しがついた。彼の博士論文の主題が「ブリティッシュ・エイジアンの音楽の社会学」だったからである。しかし、この映画が日本で公開されるかどうか見当もつかないので、僕としては「まずはインドで観てこないことには始まらないではないか」と助言するとともに、会うべき人物としてBollywood Hungamaのファリードゥーン・シャハリヤール(Faridoon Shahryar)君を紹介した。インドでの公開日2月14日に合わせて栗田君はムンバイーへ飛び、ラッパーDivineの地元JB Nagarの映画館で封切り初日の初回を観てきた。気合が入った行動だ。
東京でも予期しなかった動きがあった。南インドの人たちが運営するSpace Boxなる会社から2月6日、キネカ大森ほか3か所で『ガリーボーイ』を自主上映するとの案内メールが届いたのだ。これには驚いた。インド往復のチケットを手配済みの栗田君はこれを知って脱力感を味わったという。僕自身ラップとは全くと言っていいほど縁がなかったので、別に観る必要もないだろうと思っていたのだが、「ボリウッド初のヒップホップ映画であるので必見」との栗田君からの強い勧めもあり、はたして面白いと感じるかどうか半信半疑のまま2月17日、キネカ大森へ観に出かけた。
ところがストーリーがなかなかよかったのだ。社会的階級差や親世代と子世代の考え方・生き方・価値観のギャップに苛立ち悩みつつ、スラムに住む主人公のムスリム大学生ムラード(Murad)がラップを通じて抑圧された感情を爆発させ解放されるストーリー。「使用人の息子は使用人にしかなれないのだ」とか、「お前の教育に大金を投資したのに、ラップにうつつを抜かすとは何事だ!」といった親世代の忠告や叱責に若者世代が反発するのはどこの世界でも同じ。ムラードの恋人サフィーナ(Safina)も医師を目指して勉学中。保守的な母親が科す禁止事項に表面的には耐えつつ、ムラードと秘密裡に恋愛している。単なる不良少年少女ではないのがいい。青春映画でもある。
さて、肝心のラップだが、僕を含めたラップ門外漢にも分かるように、主人公がラッパーになっていく過程が巧妙に組み立てられている。普通のインド人にとってもラップはまだまだ知られていないのだから。「ラップはリズムと詩だ」との台詞が胸に突き刺さる。ラップの真髄はたしかに韻を踏んだ詩なのだ。半世紀もウルドゥー語と文学を学んできた僕としては当然、リリックの言語とその内容に興味をそそられた。早口言葉のように韻を踏みながら畳みかける言葉の連続であるヒンディー/ウルドゥーのリリックの中身はきっと面白いはずだ。それにサントラ盤の情報を見ていたら、ゾーヤー・アフタル(Zoya Akhtar)監督の父親で高名な詩人であり作詞家のジャーヴェード・アフタル(Javed Akhtar)氏の名前が4曲でクレジットされているではないか(Doori Poem, Doori, Train Song, Ek Hee Raasta)。古典詩、映画ソングの歌詞、ラップのリリックがジャーヴェード氏の中では問題なくつながっているようである。それなら、この僕が日本語訳に挑戦するしかないではないか。
そんなことをあれこれ考えていたら、リリックを日本語に訳してツイッター上で発表する人が現れた。その人が「餡子」嬢である(@tsubuan_no)。
何と最初の訳を2月13日に発表している。3月以降、次々に15曲を訳しているではないか。また、3月には栗田君を介して、インドのラップやロック紹介の第一人者である軽刈田凡平君とも知り合い、4月上旬にはジプシー音楽や世界のラップ事情に詳しい音楽評論家、関口義人氏を含めた4人が有楽町で「ヒップホップ歓談会」なる飲み会に集合した。その後しばらく中断した後、6月半ばに栗田君から『ガリーボーイ』日本公開決定の知らせが入った。彼の願いは叶い、解説を書くことになったとのこと。僕も僕なりにリリックの訳を本格的に始めようと、7月9日、僕より一歩先を行っている餡子嬢に初めて連絡を取った。なんでも彼女はスカイプを使ったヒンディー語講座での学習歴わずか2年だという。なのに難解なラップのリリックに挑戦するとは大した度胸ではないか。きちんとした翻訳になっているわけではなく、辞書とネットを駆使して何とか日本語に移し替えた粗削りな訳で、まだまだ改良の余地ありと僕は判断したが、僕より先に中途半端ながらも試訳を公開しているのを知った以上、彼女を無視して僕ひとりで訳すことは道義上できないことだった。『ガリーボーイ』に人一倍心酔している餡子嬢のウルドゥー色が強いリリックの翻訳に挑戦した心意気は大いに称賛されてしかるべきだと、僕はただただ感じ入った。やる気がある人は伸ばしてやらなければならない。彼女のヒンディー語の上達にも益するだろうと思い、彼女の試訳を添削しつつ僕自身の訳を提示し、それを互いにチェックし合う方法を採ることにした。ところが翻訳作業を始めたものの、ムンバイー訛りのヒンディー/ウルドゥー(Bombay Hindi とかMumbaiya slangとかタポーリーTaporiなどと称される)がいかに曲者であることかも分かってきた。詳細は以下を参照のこと。
要するにスラングあり文法破格ありで、外国人として学んできた標準ヒンディー/ウルドゥーの知識では歯が立たないわけだ。しかし、いい時代になったもので、ネット上に公開されているリリックやその英訳の助けも借りながら、何とか翻訳できたわけである。さらに日本語の表現チェックをしてもらうべく、ヒンディー/ウルドゥーを解さない「Natsume」さんに協力を仰いだ。そうそう、8月末には栗田・軽刈田・麻田が餡子嬢と初顔合わせした。字幕では字数制限により正確な内容を伝えられるはずもないので、各リリックが伝えようとしている内容を皆さんに提示したいというのが我々の本音でもある。勝手に私的に始めた「Gully Boyリリック日本語訳プロジェクト」の成果として、映画の中でも重要な位置を占めている8曲(選曲は餡子嬢)のできる限り原語に即した日本語訳を10月18日の一般公開日に合わせて公表できることになった次第である。一昨日の10月15日に開催された「ガリーボーイ公開記念 GullyBoy – Indian Hip Hop Night」で軽刈田君がトークデビューを果たしたことは、じつにめでたいことだった(餡子嬢とNatsumeさん初対面の場でもあった)。その軽刈田君のブログに我々の成果を掲載してもらえることになった幸運をかみしめている。3人を代表して、感謝の言葉を述べたい。(2019.10.17 麻田豊 記)

麻田先生ありがとうございます!
続いて、餡子さんからのコメント。
これまで様々なインド映画を見てきましたが、自主上映会でGully Boyを鑑賞し、さまざまな葛藤の中人生を切り開こうとする情熱(Junoon)、映画を強く彩る地元のラッパー達の曲の荒々しい情熱に稲妻を打たれたようなはじめての衝撃を受けました。彼らのリリックを理解したいと強く感じ、取り憑かれたようにGully Boyのラップの翻訳をひたすら続けました。
ヒンディー映画にハマってヒンディー語の文法を学び終わったところだったので、訳せるかも!?と勢いで翻訳を始めたものの、ヒンディーラップはリズムに乗せるため冗長な部分は省略されている箇所が多々あり、スラングありと、ヒンディー初心者にとってはかなり難しかったです。
暗中模索で翻訳していたところ、インドイスラーム文化研究者の麻田先生に声をかけていただき、より正確に、洗練されたリリックに昇華することができました!Apna Time Aayega!
ムンバイのラッパーたちの情熱が、餡子さんの情熱を呼び起こした様子が伝わってきます。
そしてNatsumeさんからのコメントです。
『Gully Boy』の JukeBox をイヤホンをつけて大音量で聴く。ラップなどまともに聴いたことも無く、Hip Hop に関心すらなかったのに、今や愛聴盤だ。
最初に耳にしたとき、言葉は分からないが、巻き舌が入った破裂音が心地よく、ハードな叫びの中に柔軟性があって美しくさえ思えるリズムとメロディに魅了された。
原語の響きと韻を踏んだビートを耳で愉しみながら、ふと思った。
はて、何を歌っているのだろう? 

そう思った矢先に「ちょっと読んでみて」と麻田先生から送られてきた「Asli Hip Hop」の詩の日本語訳。
訳だけできちんと意味が通じるか、かみ砕いてみて分からないところは指摘して欲しいとの要請を頂き、恐れながらと言いつつ、原文を知らないがゆえに勝手自由に読んでみる。

意欲を持って翻訳に挑む餡子さん、その意欲をかって共同翻訳を申し出られた麻田先生。そんな(必然的な?)出会いから生まれたこの企画。
お二人がまずは原文に忠実に、かつ深く掘り下げて搾り上げた日本語訳を、ネットで見つけた英訳を参照しながら、更にイメージを膨らませていく。これは予想以上に愉しい作業だった。

例えば、語るように詠まれる「DOORI POEM」から「DOORI」。続けて聴き込みながら詩を読んでいると、涙が出てくる。
この現実、揺るぎようのない「DOORI へだたり」に対して、何ともし難いもどかしさと諦念を抱きつつも、魂からの声を上げ続ける、それが人の心を揺さぶらないはずがない。
もちろん、私にはインドの格差や貧困を共感できるほどの経験も無いし、現実も知らない。それでも、置かれた環境を、この現状を、何とか抜けだし打破しようと勢い溢れる表現アート「ラップ」に、感動する。

実は私は今現在、映画『Gully Boy』をまだ観ていない。先に路地裏をちょっぴり覗いてから映画を観てみたら、さてどうだろう!と楽しみだ。

一般公開は 2019 年 10 月 18 日。Check it Out!

    2019.10.15 natsume

それでは『ガリーボーイ』のラップ翻訳をお楽しみください!
まずは、主人公ムラドの頼れる兄貴分、MCシェールのテーマ曲とも言える"Sher Aaya Sher"からです!




餡子さん麻田先生Natsumeさん
左から、餡子さん、麻田先生、Natsumeさん。10月15日の"Gully Boy -Indian HipHop Night"にて。



追記:日本公開された映画の登場人物を表記する場合、いつもは映画で使われた表記に統一していますが、このリリック翻訳シリーズの記事では、麻田先生からのご提案で、原音に近いものにしています(例:ムラド→ムラード)。


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2019年10月19日

Gully Boy -Indian HipHop Night- でこんな話をしてきました!

10月15日に、ディスクユニオン新宿のスペースduesにて、"Gully Boy -Indian HipHop Night"に出演してきました。
このイベントは、インド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』(18日から公開中!)の楽曲や、映画の舞台となったムンバイのヒップホップシーンを紹介するというもの。

不肖軽刈田、今回は日本におけるワールドミュージックの批評/紹介の第一人者で、クラブDJ、ラジオDJとしても活躍されているサラーム海上さん(昨今は中東料理研究もすごい!)、ムンバイで古典舞踊カタックのダンサーとしてする活動かたわらシンガーとして現地のラッパーと楽曲をリリースした経験を持つSarah Hirokoさんという超強力なお二人とともに、思う存分語らせてもらいました。

会場はなんと満員札止め!
ほとんどの方に立ち見でご覧いただき、なんだか申し訳なかったですが、大勢の方にお越しいただけて本当に感謝です。
今回は、お越しいただけなかった方のために、ここで改めて当日プレイした曲を紹介しつつ、お話しした内容や、準備していたけど時間の都合で話せなかった内容を紹介したいと思います!


いちばん初めに紹介したのは『ガリーボーイ』を象徴するこの曲、"Apna Time Aayega"
 
まずHirokoさんから、曲のタイトル"Apna Time Aayega"の意味「俺の時代が来る」について説明。
映画の舞台となったのはムンバイ最大のスラム、ダラヴィ。
貧困や抑圧のなかで暮らしていた若者たちは、ヒップホップに出会ったことで、自分たちの気持ちをリリックに乗せて、音楽として発信できるようになった。
まだまだ音楽だけで生きてゆくのは難しい。
それでも、差別され、見下されてきた彼らが、ラップを通してリアルな感情を世の中に発表できるようになったことは大きな変化だ。
ラップのスキルとセンスさえあれば、賞賛され、憧れられることすらあるようになったこの現在こそ、彼らが「俺の時代が来ている!」と胸を張って言える状況なのだ。
ヒップホップは、スラムの若者たちにとってただの音楽以上の大きな意味を持っている。

ダラヴィでヒップホップの人気が高まってきたのは2010年頃から。
スマホの普及により、スラムの若者たちもインターネット経由で気軽に海外の音楽が聴けるようになった。
アメリカのヒップホップに出会った彼らは、自分たちと同じように差別や貧困のもとで生きるラッパーたちのクールな表現に憧れと親近感を感じ、そして自らもラップやブレイクダンスを始めた。

こうしたストリートから生まれた、インドではまだ新しいカルチャーを扱った映画が、この『ガリーボーイ』というわけだ。
ヒップホップというと、アメリカの黒人文化(もしくは不良文化)という印象が強いかもしれないが、その本質は抑圧された若者たちが自分自身やコミュニティの誇りを取り戻し、自分のコトバを発信するという、とても普遍的なものだ。

『ガリーボーイ』が公開されると、それまでアンダーグラウンドな存在だったインドのストリートラッパーたちは、爆発的な注目を集めるようになった。
"Apna Time Aayega"「俺の時代が来ている」という言葉は、映画の主人公ムラドだけでなく、インドのストリートラッパー一人一人の言葉にもなったのだ。


続いて紹介したのは"Asli HipHop".

タイトルの意味は「リアルなヒップホップ」。
ラップにおいて重要なのは、スキル、言葉のセンス、そして自分自身に正直であること。
楽器もお金も必要のないヒップホップは、スラムの若者たちにぴったりの表現方法だった。
サビでは、「インドにリアルなヒップホップを届けるぜ」という言葉が繰り返される。

ここで、Hirokoさんにムンバイから持って来てもらったムンバイのラッパーたちの写真、そして、ラッパーやトラックメーカーたちからのビデオメッセージが披露された。
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ラッパーたちの背後に、いかにもヒップホップらしいグラフィティも見ることができる。
ラップ、ブレイクダンス、グラフィティ、DJというヒップホップを構成する4つのアートフォームのうち、唯一インドのシーンで広く普及しなかったのがDJだ。
高価なターンテーブルや、インドでは一般的に普及していないレコード盤を必要とするDJの代わりに、インドのシーンで発展したのが、この"Asli Hip Hop"でも聴くことができるヒューマンビートボックスだ。
ダラヴィには、なんと放課後に無料でビートボクシングを教えるスクールもあるという。

現地のアーティストからのビデオメッセージでは、『ガリーボーイ』を通してインドのヒップホップが日本に広まることを喜ぶ声だけでなく、ヒンディー語のラップや、トラックメーカーのKaran Kanchanによる日本文化への愛などが披露された。(彼は吉田兄弟、和楽器バンド、Daoko、Babymetalらの日本のアーティストのファンだとのことで、彼は自身の名義ではJ-Trapなる日本風のトラップミュージックを作っている)

ところで、この"Asli Hip Hop"が「リアルな」ヒップホップであることを強調していることには理由がある。
ストリート発のヒップホップがインドに生まれる前から、流行に目ざとい映画音楽にはラップが導入されていた。
パンジャーブ州の伝統音楽「バングラー」に現代的なダンスビートを融合させた「バングラー・ビート」は、21世紀のインドの音楽シーンのメインストリームとなり、ラップ風ヴォーカルと融合して量産された。

というわけで、続いて紹介したのは、ストリートの「リアルなヒップホップ」ではないインドのエンターテインメント・ラップミュージック。
今回サラームさんに選曲していただいたのは、2016年に公開された映画"Baar Baar Dekho"から"Kala Chashma"


印象的な高音部のフレーズはバングラーで使われるトゥンビという伝統楽器によるもの。
歌っているのは、ボリウッド系パンジャービーラッパーの代表格のBadshahだ。
彼やYo Yo Honey Singhらのボリウッド・ラッパーたちは、ストリート系ラッパーたちから、無内容で享楽的な姿勢を批判されることも多く、最近は『ガリーボーイ』にも出演しているストリート・ラッパーEmiway BantaiとボリウッドラッパーRaftaarの間の「ビーフ」(ラップを通じてのお互いへの批判合戦)も話題となった。
ここでサラームさんから、「インドには様々なリズムがあるが、現代的なダンスミュージックの四つ打ちと合うのはバングラーだけ」というコメント。
DJでもあるサラームさんならではのこの指摘には大いに唸らされた。
とにかく、これがインドのストリートラップ誕生以前のラップミュージックというわけ。

続いて、典型的ボリウッドラップをもう1曲。

2005年の映画"Bluffmaster"から、"Right Here, Right Now".
サラームさんから、90年代のアメリカのヒップホップのビデオのインド風翻案であると紹介があったが、確かにそんな感じ!

ラップしているのはボリウッドの伝説的名優アミターブ・バッチャンの息子で同じく俳優のアビシェーク・バッチャン。
『ガリーボーイ』のランヴィール・シン同様に俳優自身がラップしている珍しいパターンで、ラップはヘタウマだがさすがに良い声をしている。
本来、こうしたヒップホップ特有の「金・女・パーティー!」といった世界観は、貧しい出自のラッパーたちが、音楽を通して成り上がったことを誇って始まったものだが、ラップしているアビシェークは二世俳優。
「お前は生まれた時から金持ちだろうが!」とつっこみたくなるが、 これも民衆の憧れとしてのボリウッド的な表現のひとつではある。
インドのストリート出身のラッパーたちは、リリックやビデオでもリアルさにこだわっており、こうした享楽的なボリウッドラップとは対照的な姿勢を見せている。
『ガリーボーイ』のなかにも、ムラドがボリウッド風の派手なラップはヒップホップではないと否定する場面が出てくるが、その背景にはこうした対照的な2つのラップシーンの存在があるのだ。


『ガリーボーイ』には、主人公たちのモデルとなったラッパーが存在する。
主人公ムラドのモデルとなったのはNaezy, ムラドの兄貴分MCシェールのモデルとなったのがDivineだ。
NaezyとDivineが共演した楽曲で、ガリーラップのクラシック"Mere Gully Mein"は、ガリーボーイでもリメイクされ大々的にフィーチャーされている。
 
ランヴィールはNaezyのパートをほぼ完コピ。
シッダーント・チャトゥルヴェーディ演じるMCシェールのラップはDivine本人が吹き替えている。

ここでHirokoさんから、ラップで使われるヒンディー語には、スラングやマラーティー語(ムンバイがあるマハーラーシュトラ州の言語)などの別の言語も使われており、さらにはフロウを心地よくするための文法破格も頻繁に行われているという説明。
映画に使われた楽曲のリリックについては、このブログで次号から麻田豊さん、餡子さん、ナツメさんの3人が手がけた邦訳を掲載する予定なのでお楽しみに!

映画のタイトルにも使われている"Gully"という単語は、スラムにあるような細い路地を表す言葉で、"Mere Gully Mein"は「俺の路地で」という意味だ。
この"Gully"は、Divineが英語の「ストリート」と同じような意味合いで多用したことで、インドのヒップホップシーンでよく使われるようになった。


ムラドのモデルとなったNaezyが注目を集めるきっかけとなった曲が、この2014年にリリースされた"Aafat!"だ。

シンプルなビートだが、言葉がわからなくても確かなスキルとフロウのセンスが感じられる一曲。
彼はこの曲を、家族からプレゼントされたiPadだけで作り上げた。
iPadでビートをダウンロードし、そこにラップを乗せ、さらには近所でこのミュージックビデオを撮影してYouTubeにアップすると、「凄いラッパーがいる」とたちまち話題になった。
(『ガリーボーイ』にもこのエピソードから着想を得たと思われるシーンがある)

ゾーヤー・アクタル監督は、このビデオで彼のことを知り、会いにいったところ、少し話を聞くだけの予定がすっかり話し込んでしまい、この映画を作るインスピレーションを受けたというから、この"Aafat!"がなければ、『ガリーボーイ』という映画もなかったかもしれない。

Naezyが初めてラップに出会ったのはSean Paulのダンスホールレゲエだったそうだ。
真似してラップをしてみたところ、思いのほか上手くでき、友達や女の子たちにも注目を浴びることができて、ラップに興味を持ったという。
出身は、実際はダラヴィではなくKurla Eastという地区の、やはりスラムのような一角だった。("Aafat!"のミュージックビデオを見れば雰囲気が分かるだろう)
10代のころの彼は、悪友たちと盗みや破壊行為を繰り返す不良少年で、あるときとうとう留置所に入れられることになってしまった。
父親は海外に出稼ぎ中。
取り乱した母親を見た彼は、こんな生活をしていてはいずれ取り返しのつかないことになってしまうと悟る。
それ以来、彼は部屋にこもって自分のリリックを書き始めるようになった。
ラッパーNaezyの誕生だ。

ミュージックビデオではいかにもラッパー然としたNaezyだが、サングラスをかけているのは目を見られるのが恥ずかしいからだそうで、素顔はシャイで内省的な青年なのだ。
『ガリーボーイ』でランヴィール・シンが演じたムラドは、ラッパーにしてはかなり内気なキャラクターだが、これはモデルとなったNaezyのこうした性格を反映したものと思われる。
(ヒップホップが一般的でないインドでギャングスタ的なラッパー像を演じても支持が得られないということもあると思うが)

続いて同じくNaezyか今年8月にリリースした"Rukta Nah".

プロデュースは、ビデオメッセージも寄せてくれたKaran Kanchan.
この曲では、世界的なトレンドを意識してトラップっぽいサウンドを聴かせてくれている。
じつはNaezyは、ちょうど『ガリーボーイ』製作中の2018年の一年間、音楽活動を休止していた。
彼はムスリムの家族のもとに生まれており、父親がラップは「非イスラーム的である」と判断したためだ。
映画のモデルになるほどの人気ラッパーでも、まだまだ家族や伝統やコミュニティの価値観との葛藤に悩む実態があるのだ。
今では、父親も「ラップはイスラームの伝統的な詩と通じるもの」という理解を示すようになり、無事音楽活動を続けることができるようになったという。
Naezy自身も、この曲ではサングラスを外した姿でラップを披露し、パフォーマーとしての成長を見せてくれている。


続いてはMCシェールのモデルになったインドのヒップホップ界の兄貴的存在、Divineを紹介!
2013年にリリースされた楽曲"Yeh Mera Bombay".
初期ガリーラップのアンセムだ。

Divineも実際はダラヴィの出身ではないのだが、彼の地元Andheri East地区のJ.B. Nagarという地区も、スラムというかかなり下町っぽい場所のようだ。
「これが俺のボンベイ」という意味のこの曲のビデオに出てくるのは、高層ビルでも高級住宅街でもなく、リクシャーワーラー(三輪タクシーの運転手)や路上の床屋、荷車を引く労働者たちのようなガリーに生きる人々。
まさに、地元をレペゼンするヒップホップなのである。

Divineの本名はVivian Fernandes.
映画のMCシェール(本名Srikanth)は名前からするとヒンドゥーという設定のようだが、モデルとなったDivineはクリスチャンだ。
彼は母子家庭で育った不良少年だったが、教会では敬虔に祈ることからDivineというラッパーネームを名乗ることになった。
友人がニューヨーク出身のラッパー50CentのTシャツを着ていたことからヒップホップに興味を持った彼は、インターネットで調べて、アメリカのラッパーたちが自分と同じような環境に生まれ育ったことを知り、自身もラッパーを志す。
映画を見れば、Divineの持つ兄貴っぽい雰囲気を、シッダーント・チャトゥルヴェーディがかなりリアルに再現していることが分かるだろう。

映画でのムラド(ムスリム)とシェール(ヒンドゥー)のコラボレーションのように、インドのヒップホップシーンでは様々なバックグラウンドのアーティストによる共演がごくふつうに行われている。
Divine曰く「Gullyは特別な場所。ヒンドゥーもムスリムもクリスチャンもいるが、Gullyこそがみんなが信じている宗教だ。国は豊かになっても俺たちの生活は変わらない。だからこそ俺たちの声を聞いてほしい」
ヒップホップこそがその声となったのだ。


Divineの"Yeh Mera Bombay"でもインドっぽいトラックが使われていたが、インドのヒップホップでは、古典音楽や古典のリズムとの融合が頻繁に行われている。
『ガリーボーイ』のサウンドトラックでは、この"India 91"がまさにそうした楽曲にあたる。

"91"はインドを表す国番号だ。

この曲のもとになったのは、南インドの伝統音楽カルナーティックのパーカッショニストであるViveick RajagopalanとラップユニットのSwadesiが共演した"Ta Dhom"というプロジェクトだ。

サラームさんからの紹介によると、ViveickがSwadesiのラッパーたちに古典のリズムを教えたところ、彼らもこの古くて(ヒップホップにとっては)新しいリズムに非常に興味を持ち、このプロジェクトに発展したとのこと。

"India 91"のミュージックビデオにはムンバイを中心とする実際のラッパーたちがカメオ出演しているが、餡子さんが登場する全ラッパーを調べ上げて紹介したこの記事「India 91 ラッパーを探せ!」は圧巻!
ヒンディー、マラーティー、グジャラーティー、パンジャービーという4つの言語でラップされるこの曲は、古典から現代までという縦軸と、地域や言語という横軸の二つの意味でインドの多様性を象徴する一曲だ。


続いて古典のリズムとラップの融合をもう1曲。
プネー出身だが現在はイギリスで活躍するパーカッショニストSarathy Korwarの"Mumbay".
この曲にもSwadesiのMC Mawaliが参加している。

インドの古典音楽には5拍子などの奇数拍のものもあり、この楽曲は7拍子の古典のリズムにジャズとラップを融合したもの。
冒頭に"Apna Time Aayega"のTシャツも登場する。
彼のように海外に拠点を移して活躍するアーティストが、インドのシーンの発展に刺激を受けて母国のラッパーたちと共演する機会も増えてきている。
(Sarathy Korwarについてはこちらの記事で詳しく紹介している。「Sarathy Korwarの"More Arriving"はとんでもない傑作なのかもしれない」

北インドの古典音楽には、Bolという口でリズムを取るラップのような伝統があり(南インドにもよく似たKonnakkolというものがある)、ここでカタックダンサーでもあるHirokoさんがカタックのBolの実演を披露。
インド伝統文化の詩やリズムへのこだわり、そしてダンス好きで口が達者な国民性を考えると、インドにヒップホップが根づくのは必然のような気すらしてくる。
インドの古典のリズムとヒップホップの融合は、他にはインド系アメリカ人ラッパーのRaja Kumariなども取り組んでおり、インドのヒップホップの特徴のひとつになっている。
"India 91"がサウンドトラックに取り入れられたのは、そうした潮流への目配りを表していると言えるだろう。


続いては、Hirokoさんが地元ムンバイのラッパーたちと共演した『ミスティック情熱』を紹介。


インドのヒップホップシーンではまだ珍しいChill Hop/Jazzy HipHop的なビートに、ムンバイのラッパーIbexの日本語ラップ(!)とHirokoさんの歌をフィーチャーした唯一無二の楽曲。
アニメ『サムライチャンプルー』の音楽を手がけた故Nujabesを通してChill Hopのサウンドは世界中に広まり、このジャンルはアニメなどの日本のカルチャーとの親和性の高いものとして受け入れられている。
この曲でHirokoさんがコラボレーションしたラッパーのIbexやビートメーカーのKushmirも日本のアニメに大きく影響を受けているという。
Hirokoさんからはミュージックビデオ制作の苦労話など、インドでの音楽活動の興味深いエピソードを聞かせてもらうことができた。
(このコラボレーションについては、この記事で詳しく紹介している。「日本とインドのアーティストによる驚愕のコラボレーション "Mystic Jounetsu"って何だ?」


続いては、Hirokoさんがムンバイのスラムで子ども達への教育支援活動に協力しているという話題から、ダラヴィで無料のヒップホップダンス教室を開いているSlumgodsを紹介。
彼らはダラヴィが舞台となり世界的に大ヒットした映画"Slumdog Millionaire"のイメージに反発し、「俺たちは犬じゃない」とSlumgodsというクルーを結成、子ども達にダンスを通して自分たちへの誇りを持ってもらうための活動を続けている。


『ガリーボーイ』ではラップに焦点があてられているが、ダラヴィではヒップホップといえばダンスも広く受け入れられている。
ラップにしろダンスにしろ、体一つでクールな自己表現ができるヒップホップは、スラムで生きる人々にぴったりの表現手段なのだ。

続いてHirokoさんが支援活動を行うワダラ地区の子どもがラップするなんともかわいらしい映像が流された。
実際にこの街でHirokoさんたちが支援していた若者の一人は、つい先日ラップのミュージックビデオをリリース。この映像の1分20秒ぐらいからその楽曲が始まる。


Hirokoさんによると、ダラヴィはムンバイのスラムのなかでは、過酷な環境とはいえまだましなほうで(例えば識字率は7割ほどに達し、これはインドのスラムではもっとも高い)、他のスラムの人々はさらに厳しい生活を強いられている。
また、スラムにすら暮らせない路上生活者たちもおり、そうした暮らしを強いられた人たちが、ダラヴィのラッパーたちのように自分たちの誇りを取り戻せる日がいつか来るのだろうかと考えると、気が遠くなってくる。
いずれにしても、ダラヴィ以外のスラムでも、ヒップホップは希望の光になりつつあるようだ。


ここまで話して、時間が少々余ったので、ムンバイ以外の地区のラッパーの紹介ということで、デリーのPrabh Deepのミュージックビデオを流した。

彼は今インドで最も勢いのあるアンダーグラウンド・ヒップホップレーベル、Azadi Recordsを代表するラッパーで、この曲のトラックをプロデュースしたのは、かつて"Mere Gully Mein"を手がけたSez on the Beat.
ご覧の通りPrabh Deepはパンジャービーのシク教徒なのだが、このビデオを見たサラームさんから、「他のラッパーとは違うパンジャービーの声の出し方」というコメントがあり、さすがの指摘に大いに感心した。


というわけで、90分に及んだトークイベント"Gully Boy -Indian HipHop Night"は、この"Train Song"で締めて終了。

南インド出身のシンガー、Raghu Dixitとイギリス在住のタブラプレイヤーKarsh Kaleのコラボレーションで、ヒンディー語ヴォーカルがDixit、英語がKaleだ。

今回のイベントの模様は、近々HirokoさんのYoutubeチャンネルでも公開する予定なので、ぜひそちらもご覧ください。
そして何よりも、『ガリーボーイ』を未見の方はぜひご覧いただきたい。
いとうせいこう氏監修による字幕もジャパンプレミア上映時から大幅にパワーアップしているという話。

すでにこのブログでも何度も書いてきたとおり、『ガリーボーイ』は普遍的な魅力を持つ音楽映画、青春映画であると同時に、格差や伝統的価値観のなかで、夢や自由を追い求める若者の苦闘と葛藤の物語でもある。
そしてインド社会の抑圧された人々に、ヒップホップという希望の灯がともされた瞬間の記録としても、まさに歴史に残る映画と言えるだろう。
『ガリーボーイ』の続編の構想を知らせる報道もあったが、この映画によって注目を集めるようになったインドじゅうのガリーラッパーたちの活躍や、彼らによってさらに若い世代がヒップホップに希望を見出してゆくインドのヒップホップシーンの現状そのものが、この映画の続編なのである。

90分のイベントで話した内容と、伝えきれなかった内容をお届けしたが、インドのヒップホップで紹介したい曲やエピソードはまだまだたくさんあり、映画がヒットしたらぜひ第2弾のイベントがやってみたい!

お越しいただいた方、YouTubeのストリーミングでご覧いただいた方、そしてこのブログを読んでいただいた方、ありがとうございました!


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2019年09月07日

『ガリーボーイ』ジャパン・プレミア!&隠れた名シーン解説

かねてからお伝えしていた通り、9月5日に新宿ピカデリーで、ゾーヤー・アクタル監督と脚本のリーマー・カーグティーを迎えて、『ガリーボーイ』のジャパン・プレミア上映が行われた。

当日は580席のスクリーン1が大方埋まる盛況。
客層はヒップホップファンというよりはインド映画ファンが中心。
もっと音楽ファンにも注目してほしいのはやまやまだが、公開されれば遠からずそうなるだろう。

『ガリーボーイ』は、これまでに日本で大ヒットしたインド映画、すなわち、マサラ風エンターテインメントの『ムトゥ』や、神話的英雄譚の『バーフバリ』とは明らかに毛色が違う「ムンバイのリアルなヒップホップ映画」ということで、開始前の客席は、いつもとは異なる期待感と、静かな熱気に満ちていた(ように見えた。自分自身が静かな熱気に満ちていたので、まわりのことはあんまり分からないけど)。

そしていよいよ暗転、上映開始。
内容についてはこれまで何度も書いてきたので省くが、いとうせいこう氏監修の字幕は、日本語でも韻を踏んでいる部分もあり、映画字幕の文字数制限のなかでリリックの本質を伝える、非常に雰囲気のあるものだった。
試写会で見たときは、いとう氏の監修前の字幕だったのだが、さすがに良い仕事をしているなあ、と感心。
公開までに字幕はさらにブラッシュアップされるらしい。

そして上映終了後は、いよいよゾーヤー・アクタル監督と、脚本のリーマー・カーグティー氏が登場。
舞台挨拶で印象に残ったのは、Naezyとのエピソードだ。
監督曰く、Naezyが21歳のときに撮ったミュージックビデオを見て強い印象を受け、友人を介して会いに行ったところ、ちょっと挨拶するだけのはずが、3時間も話し込んでしまったとのこと。

監督が見たというミュージックビデオは、「iPadで撮影されたもの」と言っていたから、間違いなくこの"Aafat!"だろう。
NaezyがiPadでビートをダウンロードし、ラップを吹き込み、そして映像も撮影したというごく初期の作品だ。

シンプルなビートだけにNaezyのスキルの高さが感じられる。
インタビューでは言及がなかったが、実はゾーヤー監督自身もアメリカのヒップホップのファンだったらしい。
Naezyについて「フロウも歌詞も素晴らしい」と語っていたが、地元インドから、本場アメリカにも匹敵するスキルとアティテュードのラッパーが登場したという感激が、この映画を作る原動力になったのだろう。

初めて会ったときのNaezyはシャイで、ボリウッドのビッグネームである監督たちに緊張して、部屋の隅に引っ込んでしまうような人物だったという。
こうした一見不器用で情熱を内に秘めたNaezyの性格は、ムラドのキャラクターをかたち作るうえでも、影響があったに違いない。
その後、Naezyのライブでオープニングアクトを務めていたDIVINEとも知り合い、『ガリーボーイ』の制作に至るのだが、二人をモデルに映画を作ることを伝えた時も、Naezyは自分の半生が映画になることよりも、ヒップホップというカルチャーが広まることについて喜んでいたそうだ。
(DIVINEは、『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなった人物)

また、エグゼクティブ・プロデューサーとしてNasが名を連ねている理由は(実際は名誉職だと思うが)、ムンバイのラッパーたちがこぞって影響を受けたアーティストとして名前をあげたのが、Nasと2Pacであったためだという(2Pacは故人)。
インドのラッパーがいちばん影響を受けているのはEminemだと思っていたので、これはちょっと意外だった。

キャスティングについての質問の回答も興味深かった。
ランヴィールを主役にした理由としては、生粋のムンバイ育ちでスラングにも詳しく、また彼がヒップホップの大ファンで、密かにラップをしていることを監督が知っていたからとのこと。
実際、ムラドについてはほとんどランヴィールを想定してシナリオを書いたようで、 ランヴィールも自身でラップを吹き込み「俺はこの役をやるために生まれてきた」とまで言っていたのだから、最高のはまり役と言えるだろう。
この映画の撮影現場は、40人もの実際のラッパーがいる環境だったそうだが、ランヴィールは彼らともすっかり打ち解けていた様子で、撮影中から彼らのSNSに頻繁に登場していた。
ムンバイで行われた公開記念コンサートでは、ランヴィールとMCシェール役のシッダーント・チャトゥルヴェーディが「オリジナル・ガリーボーイズ」のDIVINE, Naezyと息のあったパフォーマンスを見せている。


また、ランヴィールは、『ガリーボーイ』にもカメオ出演していたダラヴィ出身のラッパーMC Altafのミュージック・ビデオにも(画面の中から、ほんの少しだけだが)出演。 

国民的人気俳優が、インドでもよほどのローカル・ヒップホップファンでなければ知らないアンダーグラウンドラッパーのビデオに出演するのは、極めて異例のことだ。
ボリウッドの大スターと、ストリート・ラッパーという、エンターテインメント界の対極に位置するものたちが、ヒップホップという共通項で対等につながったのだ。

そう、『ガリーボーイ』の美しいところは、監督もランヴィールもシッダーントも、ヒップホップというカルチャーへの理解とリスペクトが深く、ヒップホップを深く、正しく伝えようという姿勢がぶれていないことだ。
これはボリウッド映画では珍しいことで、例えばロックをモチーフにしたインド映画はこれまでに何本かあるが、いずれもロックとは名ばかりで、単なるワイルドなイメージの材料として扱っているものがほとんどだった。
それに対して、『ガリーボーイ』は、製作者側からヒップホップへの愛に満ちている。

この作品に、裕福な家庭に育ち、アメリカの名門音楽大学バークリーに留学していたトラックメイカーの、スカイというキャラクターが出てくる。
スカイは、富裕層であるにもかかわらず、偏見を持たず、優れた才能の持ち主であれば、貧富や出自に関係なく賞賛し、厳しいスラムの現実を表現するラッパーたちをむしろリスペクトする姿勢の持ち主だ。
彼女は、インドの保守的な階級意識から自由であり、貧富の差などの社会問題への高い意識を持った存在として描かれている。
このスカイと同じような目線が、『ガリーボーイ』という映画全体を貫いている。
超ビッグなエンターテインメント産業であるボリウッドから、ムンバイのスラムで生まれたガリーラップへのリスペクトの気持ちが、どうしようもなく溢れているのだ。

今回のジャパンプレミアで『ガリーボーイ』を見た方に、2回目に鑑賞する時にぜひ注目してほしいシーンがある。 (映画の本筋に関係のない話だが、見るまで前情報を何も知りたくないという方はここでお引き返しを)

この映画には多くのラッパーがカメオ出演しているが、映画のなかに名前が出てこないラッパーたちも、極めて意味深い登場の仕方をしている。
映画を見た方は、後半のラップバトル第一回戦のシーンで、審査員席に座っていた身なりのいい3人の男女に気づいただろう。
彼らは、いずれもが、在外インド人社会の音楽シーンで活躍し、インドの音楽のトレンドにも影響を与えてきた成功者である。

ゴージャスな女性は、カリフォルニア出身の女性ラッパー、Raja Kumari.
本場の高いスキルを持ち、ソングライターとしてグラミー賞にノミネートされた経験もある彼女は、インド古典音楽のリズムをラップに導入したり、伝統的な装束をストリートファッションに落とし込んで着こなすなど、インドのルーツを意識したスタイルで活動している(Divineとも数曲で共演している)。

ターバンを巻いた男性はイギリス出身のシンガーManj Musik.
1997年にデビューした英国製バングラー音楽グループRDBの一員で、'Desi Music'と呼ばれる在外インド人のルーツに根ざした新しい音楽に、大きく貢献してきたミュージシャンだ。

もう一人の男性は、イギリス出身のBobby Friction.
BBC Asian Networkなどの司会者として活躍している人物で、在外インド系音楽を広く紹介し、シーンの発展に寄与してきた。

インド系音楽カルチャーの第一人者であり、富裕な海外在住の成功者としてインド国内にも影響を与えてきた彼らが、インドのストリートから生まれてきた音楽を、同じミュージシャンとしてリスペクトする。
貧富も出自も国籍も関係なく、同じルーツを持つ者同士で優れた音楽を認め合う。
ヒップホップで重要なのは、スキルと、リアルであることだけだからだ。
従来のインド映画であれば、審査員席には映画音楽界のビッグネームが座っていたはずだが、『ガリーボーイ』では、この3人が並んでいることに意味がある。
彼らが何者であるかは細かく明かされなくても(映画の進行上、必ずしも必要でないからだろう)このシーンには、製作者側のこうした意図が隠されているはずだ。

また、クライマックスのシーンにも仕掛けがある。
ステージの司会を務め、観客を盛り上げているのは、名前こそ出てこないが、リアル・ガリーボーイの一人で、ムンバイのヒップホップシーンの兄貴分的存在(そしてもちろんMCシェールのモデル)DIVINE本人である。
そして、ステージに上がるムラドが、DIVINEにある言葉をかける。
意識して見なければ、司会者に挨拶しているように見えるごく自然なシーンだが、このシーンには、ヒップホップをこよなく愛するランヴィールからガリーラップの創始者DIVINEへの、そして、ボリウッド一家に生まれたゾーヤー・アクタル監督から、ストリートで生まれたヒップホップカルチャーへの、心からの気持ちが込められているのだ。
正直言って、このシーンだけで感動をおさえることができなかった。

今回のジャパン・プレミアでは、最後にシッダーント、スカイ役のカルキ・ケクラン、そしてランヴィールからの日本のファンへのビデオメッセージが披露されるなど、非常に充実した内容だった。
SNSでの評判も非常に高く、正式公開に向けての期待はますます高まるばかりだ。

10月18日の公開に先駆けて行われる、10月15日のイベントもお見逃しなく!
日本におけるワールドミュージックの第一人者サラーム海上さん、ムンバイの在住のダンサー/シンガーで現地のラッパーとも共演経験のあるHiroko Sarahさん、そして私軽刈田が、映画の背景となったインドのヒップホップについて、思いっきり熱く語りまくります!
詳細はこちらのリンクから!




(審査員の一人としてカメオ出演しているRaja Kumariについては、こちらの記事で詳しく紹介している。彼女の音楽もとても面白いので、興味があったらぜひ読んでみてほしい。「逆輸入フィーメイル・ラッパーその1 Raja Kumari」「Raja Kumariがレペゼンするインド人としてのルーツ、そしてインド人女性であるということ」)
また、在外インド人の部分で、便宜的に「在外インド系」と書いたが、これはパキスタン系、バングラデシュ系など、南アジアの他の国にルーツを持つ人々も含んだ表現だと捉えてください。


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2019年09月02日

ゾーヤー・アクタル監督来日!ジャパンプレミア直前、映画『ガリーボーイ』3つのキーワード


インド初の本格ヒップホップ映画『ガリーボーイ』のジャパンプレミア上映が、9月5日に新宿ピカデリーでゾーヤー・アクタル監督を迎えて行われる。
『ガリーボーイ』については、たびたびこのブログでも血圧高めの紹介とオススメをしてきたけど、いよいよ公開も近づいて来た今回は、見る前に、知っておくと良い3つのキーワードを説明します。
他の優れた映画と同様に、『ガリーボーイ』も、何も事前知識がなくても楽しめるのだけど、『8mile』を見る前に当時のデトロイトの社会状況を知っておいたほうが深く理解できるのと同じように、『バジュランギおじさんと小さな迷子』を見る前にインドとパキスタン、ヒンドゥーとムスリムの関係を知っておいたほうがより感動できるのと同じように、『ガリーボーイ』もまた、インドのヒップホップシーンや物語の舞台となるムンバイ最大のスラム、ダラヴィのことを知っていたほうがより深く楽しめる!
というわけで、さっそく始めたいと思います。


キーワードその1 "GULLY"
『ガリーボーイ』という映画のタイトルを聞いて、そもそも「ガリー(Gully)」って何ぞや?(ゾーヤー監督だけに)と思った方も多いはず。
この「ガリー」はヒンディー語で、細い路地のような通りを意味する言葉。
予告編に映るムンバイのスラム街の様子を見れば、その雰囲気がわかってもらえるはずだ。
主人公のムラドが暮らしているのは、ムンバイ最大のスラム、ダラヴィ。
ムラドがカレッジからダラヴィの家に帰るシーンでは、スラム街に入ると急に道幅が狭くなり、まさに「路地」としか呼びようのない狭小住宅の密集地区になっているのが分かる。
インドじゅうからやってきた貧しい移民たちによって形成されたダラヴィは、きちんとした都市計画がされているはずもなく、入り組んだ「ガリー」に並ぶ住居は極めて狭くて、衛生環境も悪い。
「ガリー」は、インドの都市の抑圧された者たちが暮らす場所であり、つまり「ガリーボーイ」は、そうした本来であれば決して誇れない出自であることをレペゼン(代表する、とひとまず訳してよいかな) する名前というわけだ。
アメリカや日本のヒップホップで近いニュアンスの言葉を探すなら、「ストリート」ということになるんだろうけど、幅の広い道を表すストリートに比べて、「ガリー」はごく狭い路地。
街角の道端(ストリート)にたむろしているのではなく、区画すらされていない路地裏に暮らしているのが「ガリーボーイ」ということになる。
つまり『ガリーボーイ』は発展途上国インドの大都市ムンバイの、「ストリート」よりもさらに過酷な環境に暮らす若者が、ラップでのし上がるストーリーというわけである。
この映画は、始まりから終わりまで全てムンバイが舞台になっており、薄暗い「ガリー」から、大富豪のパーティーやお洒落なクラブまで、大都市ムンバイの様々な顔が楽しめるのも魅力のひとつである。

ちなみにインドのヒップホップ界において、「ガリー」という言葉は、ムラドの兄貴分として登場するMC シェールのモデルとなったラッパーのDIVINEが多用したことで普及した言葉だ。
(彼が率いるクルーの名前も'Gully Gang'という)
DIVINEと、ムラドのモデルとなったNaezyが共演したこの"Mere Gully Mein"(「俺の路地で」)は、Naezyのパートを主演のランヴィール・シンが吹き替えて、「ガリーボーイ」のなかでも使われている。

こちらはオリジナルバージョン。
 

こちらが映画版。 

通常、インド映画のミュージカルシーンは専門のプレイバックシンガーによって歌われ、俳優は口パクなのが一般的だが、主演のランヴィールは、インドのヒップホップシーンへの強い共感から、ムラドのラップのパートを全て自分で吹き込んでいる。
相棒のMCシェール役のシッダーント・チャドルヴェーディのラップの吹き替えを行なっているのは、モデルとなったDIVINE本人だ。


キーワードその2 "ASLI"

劇中のサイファー(即興ラップ)のシーンでも効果的に使われているこの曲のタイトルは、"Asli Hip Hop".
この'Asli'は「リアルな、本物の」という意味のヒンディー語だ。
つまり、このAsli Hip Hopは、「インドにリアルなヒップホップを届けるぜ」という意気込みを歌った曲ということになる。
インドで最初のヒップホップ映画なのに、なぜわざわざ「リアルな」と言う必要があるのか。
それは、インドには「リアルでない」ヒップホップがすでにたくさんあるからである。
映画の冒頭で、ムラドの悪友モインが、車のなかで流れる曲を聞きながら「これがお前の好きなヒップホップってやつだろ?」と尋ねる場面がある。
ムラドは「こんなの本物のヒップホップじゃない」と答えるのだが、実はインドでは数年前から、映画音楽などで、商業的なラップミュージックが流行している。
モインは、ラップ・イコール・ヒップホップだと思って尋ねたわけだが、ムラドにとってはラッパーのリアルな自己表現こそがヒップホップと呼べるのであって、商業ベースで作られた音楽は、ラップではあっても決してヒップホップとは呼べない代物なのだ。
ちなみにそのシーンで流れるのがこの曲。
"Goriye" by Kaka Bhaniawala, Arjun Blitz & Desi Ma.
 
2009年に若くして亡くなったKaka Bhaniawalaのリミックスで、典型的なインドのパーティーラップだ。
この"Goriye"はホーンやパーカッションも小粋に、シーンの意図に反して、かなりかっこよく仕上がっているので、若干こうした意図が伝わりづらくなってしまっているのだが…。
派手なラブソングであるこの曲と、ムラドたちのリアルな生活を綴ったラップとを、ぜひ聴きくらべてみてほしい。

ちなみに実際のインドの音楽シーンで、ガリー系のラッパーからよくディスられている商業的なラップミュージックはこんな感じ。
 
"Goriye"を歌っていたKaka Bhaniawala同様、インド北西部パンジャーブ系のシンガー/ラッパーであるYo Yo Honey SinghやBadshahは、パンジャーブ州の伝統的リズムのバングラーにヒップホップやEDMを融合して人気を得ているのだが、その派手なスタイルは、なにかとリアルさを売りにしているラッパーの目の敵にされている。

ヒップホップとして「'Asli'(リアル)であること」は、『ガリーボーイ』のなかでも終始重要なテーマとして位置づけられている。
映画を見終われば、ラッパーに憧れる青年だったムラドが初めて本物のラッパーのMCシェールに出会うシーンから、クライマックスのラップバトルまで、「リアル」というキーワードがこの作品を貫いているということが分かるはずだ。
まだ本物のヒップホップが一般レベルで(つまり、商業的ボリウッド娯楽映画の観客には)根付いていないインドにおいて、『ガリーボーイ』がヒップホップを単なるパーティーミュージックや経済的成功の手段として描くのではなく、「リアル」なものとして描いたことは特筆に値する。


キーワードその3 "AZADI"
3つめのキーワードは、"Azadi".
「自由」を意味するヒンディー語だ。
この"Azadi"という言葉はデリーを拠点にしているインドの新進ヒップホップレーベルの名前にもなっており、 『ガリーボーイ』のなかでも同名の楽曲が使用されている。
「自由」はロックやヒップホップといった現代音楽の核心的なテーマであり、さらに言えばあらゆる音楽や芸術の根源となるものだ。

カーストや出自による差別がいまだに存在するインドの、さらにスラム街という、自由から程遠い場所に暮らすムラドが、いったいどうやって「自由」を獲得するのか。
もちろん、それはこの映画の主題である「ヒップホップ」によるわけだが、そのために大きな役割を果たすのが「インターネット」である。
1990年代以降の経済自由化、2000年以降のインターネットの普及にともなって、インドの社会は大きく転換した。
ヒップホップをはじめとするインディーミュージックがインドで本格的に発展するのは2010年以降だが、これはインターネットを通じて世界中の音楽をリアルタイムで聴くことができるようになり、また自分の作った音楽を世界中の発信できるようになったことの影響が非常に大きい。
映画の中でも、ムラドは恋人のサフィーナからプレゼントされたiPadを使ってラップをインターネットにアップロードし、成功のきっかけをつかむのだが、このエピソードはモデルとなったラッパー、Naezyの実話がもとになっている。
Naezyもまた、スラムと呼んでもいいような下町Kurla地区の出身の不良少年だったが、プレゼントされたiPadを使ってビートをダウンロードし、ラップを乗せ、ミュージックビデオまで撮影してインターネット上に公開したことで高い評価を得て、一躍人気ラッパーとなった。

予告編でも言われているように「使用人の子は使用人」として生きざるを得ないインド社会において、インターネットは自身のラップを発表するための手段として機能しており、高く評価されれば出自や階級のくびきから逃れられるという、希望の象徴になっている。
そういう意味では、この『ガリーボーイ』は、伝統社会と現代性を同時に描いた、極めて今日的な物語なのである。
スラムの若者や子どもたちが、ダンスやラップによって得る自尊心は、まさに精神の自由=Azadiそのものであり、これは映画の中だけの絵空事ではなく、実際のムンバイのスラムの状況がもとになっている。
この映画は、ヒップホップがスラムの希望となる瞬間を象徴的に描いた物語でもあるのだ。
(参考記事:「本物がここにある。スラム街のヒップホップシーン ダンス編
      「Real Gully Boys!! ムンバイ最大のスラム ダラヴィのヒップホップシーン その1

ちなみに、映画のなかで使われた楽曲"Azadi"は、飢えや差別や不平等からの自由を訴える楽曲。

サウンドトラックではDub SharmaとDIVINEによる共演となっているが、もともとは2016年にDub Sharmaがソロで発表していた楽曲で、さらにその元となったのは、デリーの名門大学ジャワハルラール・ネルー大学の学生デモのシュプレヒコールである。
(この情報はGully Boyの楽曲の翻訳に取り組んでいる餡子さんに教えていただいた。詳細はこちらから。餡子さんは、現在インド/イスラーム研究者の麻田豊先生と現在さらなる的確な翻訳に取り掛かっている)
ストーリーに大きな関わりを持つ楽曲ではないが、ゾーヤー・アクタル監督はこうした社会性の強いラップをサウンドトラックに入れることで、ヒップホップという音楽の持つ社会的側面を伝えようとしているのだろう。


というわけで、Gully, Asli, Azadiという3つのキーワードで、映画『ガリーボーイ』を紹介してみた。
お気付きの方もいるかもしれないけど、ヒップホップ映画ということで、Gully, Asli, Azadiと韻を踏んでみました。

この"Gully Boy"、今までのインド映画とは一味違う、音楽ファンやヒップホップファン、ハリウッド映画や欧米のミニシアター系作品好きにも確実に楽しんでもらえる映画だ。
私も非常に思い入れのある映画なので、一人でも多くのみなさんに見てもらえたらうれしいです。

そして!
映画公開に合わせて、あのサラーム海上さんと、ムンバイのラッパーと楽曲を発表したこともあるカタック・ダンサーのHiroko Sarahさんと、この私、軽刈田 凡平で、公開記念イベントを行います。
映画に使われた楽曲やいろんな曲をかけながら、映画の背景となったインドのヒップホップシーンを紹介する予定!
詳細はこちらから!


みなさんのご来場、お待ちしています!

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2019年07月18日

Real Gully Boys!! ムンバイ最大のスラム ダラヴィのヒップホップシーン その2

10月18日に公開予定のボリウッド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』の日本版予告編がついに解禁となった。 


前回の記事
で、『ガリーボーイ』の舞台になったダラヴィ出身の活躍めざましいヒップホップクルー、Slumgods, Dopeadelicz, 7BantaiZ, Enimiezらを紹介した。
彼ら以外にも、Dog'z, Bombay Mafia, Dharavi Rockerz, M Town Rockerzといったクルーが結成され、ダラヴィのヒップホップはまさに百花繚乱の時代を迎えた。
身体一つで喝采を浴びることができるブレイクダンス、そして高価な楽器や音楽知識がなくてもできるラップは、ダラヴィの住人にうってつけだった。
どんなにお金を持っていても、高い社会的地位にいても、ヒップホップカルチャーにおいては、スキルとセンスを自分で磨いて勝負するしかない。
「持たざるものの芸術」であるヒップホップは、ダラヴィの人々にプライドと自信を与えることができたのだ。
ヒップホップのもう一つの要素であるグラフィティも盛んになり、ダラヴィはまさにヒップホップタウンの様相を呈するようになった。

ヒップホップカルチャーの中で、唯一ダラヴィで発展しなかったのがDJingだろう。
DJという言葉の定義にもよるが、ターンテーブルにアナログレコードを乗せてプレイするクラシックなスタイルのDJ文化は、ついにインドには根付かなかった。
これは、高価な機材が必要だという経済的理由だけでなく、ヒップホップが流行した時代背景にもよるのだろう。
ダラヴィでヒップホップが人気を集め始めたのは2010年前後。
もはやレコードの時代でもCDの時代でもなく、インターネットで音楽を聴く時代になってからのことだった。

DJの代わりに発展したのが、ヒューマン・ビートボックスだ。
ダラヴィのヒップホップシーンを取り上げたこのドキュメンタリーでは、 1:38頃からビートボクサーたちが自慢のスキルを披露している。
(ダラヴィにはビートボクシングのレッスンまであるようだ)
 


やはりビートボックスから始まるVICE Asiaのこのドキュメンタリーでは、「ヒップホップは俺たちのためにあると感じる」と語るムンバイの若者たちのリアルな様子が見られる。
(出演しているラッパー達は、全員がダラヴィ出身ではない)

SlumgodsのPoetic Justiceや、Mumbai's FinestのAceら、初期から活動するムンバイのヒップホップアーティストたちが語るシーンの成り立ちは興味深い。
彼らの影響の源は、50CentやGameといったアメリカのアーティスト、そしてエミネム主演の映画"8Mile"であり、ダラヴィのラッパーたちがインド国内のバングラー系のラップとは全く異なるルーツを持っているということが分かる。
やがて、ラップバトルが行われるようになると、"8Mile"の世界に憧れていた若者たちが集まってくる。(このあたりは、映画『ガリーボーイ』のまんまだ)
だが、彼らはいつまでもアメリカの模倣のままではいなかった。
このドキュメンタリーによると、銃についてラップするようなアメリカのラッパーのワナビーは彼らの間では軽蔑され、リアルであることが評価される健全なシーンが、現在のダラヴィにはあるようだ。
やがて、Mumbai's Finestやその一員だったDivine、そしてNaezyらがムンバイのシーンをより大きなものにしてゆく。
ストリートのリアルを表現する「ガリーラップ」はますます人気になり、今ではコメディアンたちによるGari-Bというパロディまであるというのだから驚かされる。
そして、大きなレーベルや資本の後ろ盾なく、ただ「クールであること」「リアルであること」のみを目的としてヒップホップを続けていた彼らを、ついにボリウッドが発見する。
言うまでもなく、映画"Gully Boy"のことだ。
メインストリームの介入に懐疑的だったダラヴィのラッパーたちも、Zoya Akhtar監督や、主演のRanveer Singhの熱意に打たれ、心を開いてゆく。
この動画のなかでZoya Akhtarが語る「ヒップホップはインドの真実を語る最初の音楽ジャンル」という言葉が意味するところは大きい。
メジャーもインディーも関係なく、アーティストとして、よりリアルな表現を求める感覚が、ダラヴィと映画業界を結びつけたのだ。
同時に、このビデオでは、「ガリーラップ」の表面的なイメージが先行してしまうことへの危機感と、ラップだけでなくトラック(ビート)もさらに洗練され、さらなる優れた音楽が出てくるであろうことが語られている。


「ダラヴィはインドのゲットーさ」というセリフから始まるこの"Dharavi Hustle"は、ダラヴィのヒップホップシーンの多様性を伝える内容だ。
2016年に公開されたこの映像は、シーンが大きな注目を集め始めた時期の貴重な記録である。

「ダラヴィが特別なんじゃない。ここにいる人々が特別なんだ。ここにはたくさんの人種、宗教、文化がある」という言葉のとおり、多様なバックグラウンドの人々がヒップホップというカルチャーのもとに一つになっている様子がここでは見て取れる。
'Namaste, Namaskar, Vanakam, and Salaam Alaikum to all the people'という、いくぶん冗談じみたStony Psykoの挨拶が象徴的だ(NamasteとNamaskarはインドのさまざまな言語で、おもにヒンドゥーの人々が使う挨拶。Vanakamは南部のタミル語。Salaam Alaikumはムスリムの挨拶だ。ちなみにStony Psyko本人はクリスチャン)。
ここでも、アメリカのゲットーと同じような境遇に育ったダラヴィの人々が、ヒップホップのスタイルだけでなく、リアルであるべきという本質的な部分を自分たちのものにしていったことが語られている。


ダラヴィのヒップホップシーンを題材に撮影されたドキュメンタリーは本当にたくさんあって、この"Meet Some of the Rappers Who Inspired the Ranveer Singh's 'Gully Boy'"もまた興味深い内容。

「ヒップホップはヒンドゥーやイスラームやキリスト教のような、ひとつの文化なんだ」という言葉は、ヒップホップが宗教や文化の差異を超えたダラヴィの新しい価値観であり、また生きる指針でもあることを示している。
シーンの黎明期から、リリックに様々な言語が使われていることや、伝統的なリズム('taal')との融合にも触れられており、またダラヴィへの偏見や、口先ばかりで何もしない政治家の様子などもリアルに語られている。
ムスリムやクリスチャンの家庭でラッパーでいることについてのエピソードも興味深く、映画の舞台となったダラヴィがどんな場所か知るのにもぴったりの内容だ。

こちらは『ガリーボーイ』にも審査員役でカメオ出演していた、BBC Asian NetworkのBobby Frictionの番組で紹介されたダラヴィのラッパーたちによるサイファーの様子。

この動画に出演しているDharavi UnitedはDopeadelicz, 7 BantaiZ, Enimiezのメンバーたちによって結成されたユニットで、この名義での楽曲もリリースしている。

ここまで男性ラッパーばかりを紹介してきたが、女性ラッパーもちゃんといる。

このSumithra Shekarはタミル系のダリット(被差別民)のクリスチャンの家に生まれ、親族に反対されながらもラッパーとして活動している。
『ガリーボーイ』に描かれているような葛藤がここにもあるのだ。


いずれにしても、ダラヴィは、ニューヨークのブロンクスや、ロサンゼルスのコンプトンやワッツのように、リアルなヒップホップが息づく町となった。

今回はダラヴィについて特集したが、ムンバイの他のスラムでも、ヒップホップカルチャーは定着してきており、ムンバイのワダラ(Wadala)地区出身のラッパーWaseemも先日デビュー曲を発表したばかり。


彼は、以前このブログで紹介した、ムンバイのラッパーと共演した日本人ダンサー/シンガーのHirokoさんも協力している、この地域で子どもたちにダンスと音楽を教える活動を行っているNGO「光の教室」に通う生徒の一人。
父母が家を出ていってしまい、叔父のもとで育ったという彼は、ラップに出会ったことで人生でやるべきことが分かったという。
「みんなはラップを作るためにスタジオや機材が必要だというけど、僕に必要なのはこれだけさ」とスマートフォンを取り出す彼からは、iPadでレコーディングからミュージックビデオ撮影まで行ったNaezy同様、今ある環境で躊躇せずラップに取り組む心意気を感じる。

ダラヴィのヒップホップは、今ではバブルとも言えるほどの注目を集めているが、それでもなお尽きない魅力があり、かつ急速な拡大と発展を遂げている。
『ガリーボーイ』人気が一段落したあとに、どんな風景が広がっているのか。
今から非常に楽しみである。

「その1」「その2」を書くにあたって参考にしたサイト:


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2019年07月12日

Real Gully Boys!! ムンバイ最大のスラム ダラヴィのヒップホップシーン その1

10月に公開が決定した、ヒンディー語映画、『ガリーボーイ』。
このボリウッド初のヒップホップ映画の舞台は、ムンバイ最大のスラム、ダラヴィ(Dharavi)だ。
主人公ムラドのモデルとなった実在のラッパーNaezyの出身地は、じつはダラヴィではなくムンバイ東部のクルラ(Kurla)地区。(ここもかなりスラムっぽい土地のようだ)
映画化にあたってダラヴィが舞台に選ばれたのは、ここがあの『スラムドッグ・ミリオネア』で世界的に有名になったスラム地区で、「ガリーボーイ」(路地裏ボーイ)のイメージにぴったりだからという理由だけではない。

ダラヴィは、実際にムンバイの、いや、インドのヒップホップシーンを代表するアンダーグラウンドラッパーを数多く輩出している、ヒップホップが息づく街なのだ。
ここでいう「アンダーグラウンドラップ」とは、マニアックな音楽性のヒップホップという意味ではない。
映画音楽のような主流のエンターテインメントではなく、ストリートに生きる人々が自ら発信しているリアルなヒップホップという意味だ。
(インドのメインストリームヒップホップについてはここでは詳しく紹介しないが、興味があったらYo Yo Honey SinghやBadshahという名前を検索してみると雰囲気がわかるはずだ。)

ダラヴィのヒップホップは、'00年代後半、EminemやNas, 50Centなどのアメリカのラッパーに影響を受けた若者たちによって、いくつかのクルーが結成されたことで始まった。
'00年代後半のインドの音楽シーンは、在外インド人の音楽を逆輸入したバングラー風味のラップがようやく受け入れられてきた頃だ。
(インドのヒップホップの全般的な歴史については、こちらの記事にまとめてある。「Desi Hip HopからGully Rapへ インドのヒップホップの歴史」
当時、インドの音楽シーンでは、ポピュラー音楽といえば国内の映画音楽のことで、ロックやヒップホップなどのジャンルは極めてマイナーだった(今でもあまり変わっていないが)。
そんな時期に、経済的に恵まれていないダラヴィで、インド国内で流行っていたバングラー系ラップを差し置いて、アメリカのヒップホップが注目されていたというのは驚きに値する。

理由のひとつは、インターネットが普及し、海外の音楽に直接触れることができるようになったこと。 
また、教育が普及し、英語のラップのリリックが多少なりとも理解できるようになったことも影響しているだろう。
ダラヴィのラップにバングラーの影響が見られないことに関しては、この地域にバングラーのルーツであるパンジャーブ系の住民が少ないということとも関係がありそうだ。
バングラー系のラップは、どちらかというとパーティーミュージック的な傾向が強く、ストリート志向、社会派志向のダラヴィのラッパーたちとは相容れないものでもあったのだろう。

だが、ダラヴィの若者が(バングラー系ラップでなく)米国のヒップホップに惹かれた最大の理由は、何よりも、ヒップホップの本質である「ゲットーに暮らす被差別的な立場の人々の、反骨精神とプライドが込められた音楽」という部分が、彼らにとって非常にリアルなものであったからに違いない。
ダラヴィに住んでいるというだけで、人々から見下され、警察には疑われる屈辱的な立場。
過密で衛生状態が悪い住環境でのチャンスの少ない過酷な生活。
遠く離れたアメリカで、同じような立場に置かれた人々が起こした「クールな反逆」であるヒップホップに、インド最大の都市ムンバイのスラムに暮らす人々が共感するのは必然だった。
いずれにしても、ダラヴィでは、ヒップホップは'00年代後半から、インドの他の地域に先駆けて、若者たちの間に定着してゆくことになったのだ。

初期から活動しているダラヴィのヒップホップクルーのひとつが、Slumgodsだ。
2008年に結成された彼らは、同年に発表された映画『スラムドッグ・ミリオネア』によって、ダラヴィ=スラムドッグというイメージがつくことに反発し、'dog'の綴りを逆にしてSlumgodsという名前をつけた。
『スラムドッグ・ミリオネア』は、外交官であるエリート作家によって書かれた小説を、イギリス人監督が映画化したものだ。
よそ者によってつけられた「スラム=貧困」のイメージに対する反発は、ダラヴィのヒップホップの根幹にあるものだ。
「俺たちは犬畜生じゃない、神々だ」という、プライドと反骨精神。
Slumgodsの中心人物B-Boy Akkuは、ラップよりもブレイクダンスに重きを置いた活動を展開しており、とくに、スラムの子供達に自信と誇りを持たせるために、無料のダンス教室を開き、ダラヴィでのヒップホップ普及に大きな役割を果たした。

Akkuの活動については、以前この記事に詳しく書いたので、興味のある人はぜひ読んでほしい(「本物がここにある。スラム街のヒップホップシーン ダンス編」)。
彼らのように、ギャングスタ的な表現に終始するではなく、ヒップホップというアートフォームを通して、どのように地域に貢献できるかを真剣に考えているアーティストが多いのも、ダラヴィのシーンの特徴と言えるだろう。

Slumgodsと同時期に、OuTLawZ, Sout Dandy Squad, Street Bloodzといったクルーも結成され、さらにはDivineやNaezy, Mumbai's Finestといったムンバイの他の地区のラッパーたちの影響もあって、ダラヴィのヒップホップ人気はさらに高まってゆく。

この頃のクルーは、音源を残さずに解散してしまったものも多かったようだが、ヒップホップは確実にダラヴィに根づいていった。
ムンバイのヒップホップ黎明期のアンセムをいくつか紹介する。

シーンの兄貴的存在、Divineによる地元賛歌"Yeh Mera Bombay". 2013年リリース。


楽曲もビデオも、Naezyが父から貰ったiPadのみを使って制作された"Aafat!". 2014年リリース。


ブレイクダンスにスケボーも入ったMumbai's Finestの"Beast Mode"は、ムンバイのヒップホップ系ストリートカルチャーの勢いを感じられる楽曲。2016年リリース。


こうしたアーティストたちの存在が、ダラヴィのラッパーたちを勇気づけ、後押ししてゆく。

2012年に、元OutLawZのStonyPsykoことTony Sebastianを中心に結成されたDopeadeliczは、マリファナ合法化や、ムンバイ警察の腐敗をテーマにした楽曲を発表している。
"D Rise"
 
ダラヴィのシーンでは、はじめはアメリカのアーティストを模倣して英語でラップするラッパーが多かったが、やがて、「自分たちの言葉でラップする」というヒップホップの本質に立ち返り、ヒンディー語やマラーティー語、タミル語などの言語のラップが増えていった。
本場アメリカっぽく見えることよりも、自分の言葉でラップすることを選んだのだ。

大麻合法化をテーマにした楽曲に、インドの古典音楽の要素を取り入れた"Stay Dope Stay High".
Dopeadeliczもまた、英語から母語でのラップに徐々に舵を切ってゆく。

60年代に欧米のロックバンドがサイケデリックなサウンドとして取り入れたシタールの音色を、同じ文脈でインド人がヒップホップに取り入れている!
1:42からのシタールソロのドープなこと!
3:00からのbol(タブラ奏者が口で刻むリズム)もかっこいい。
ビデオはもろ90年頃のアメリカのヒップホップ。
前作から一気に垢抜けたこのビデオは、ボリウッドの大御所映画監督Shekhar Kapurと、インド音楽シーンの超大物A.R.Rahmanらによって立ち上げられたメディア企業Qyukiのサポートによって制作されたもの。
このQyukiはダラヴィのシーンを手厚く支援しており、前述のSlumgodsの活動もサポートしているようだ。

新曲はMost Wanted Recordsなるレーベルからリリース。

まるで短編映画のようなクオリティだ。

実際、彼らはメインストリームの映画業界からも注目されており、あのタミル映画界のスーパースター、ラジニカーント主演作品"Kaala"のサウンドトラックにも参加している。
(Stony Psykoらは『ガリーボーイ』にもラップバトルのシーンにカメオ出演を果たした)
映画"Kaala"から、"Semma Weightu".

Santhosh Narayananによる派手な楽曲は90年代のプリンスみたいな賑やかさ!
映画はラジニカーント演じるダラヴィのタミル人社会のボスと、再開発のための住民立退きを企てる政治家の抗争の物語。
実際、ダラヴィは住民の半分がタミル系である。


ムンバイのラッパーのリリックには、彼らが普段使っているなまの言葉が使われており、例えば彼らがよく使う'bantai'という言葉は、「ブラザー(bro.)」(血縁上の兄弟ではなく、 友達への呼びかけとしての)のような意味のムンバイ独特のヒンディーのスラングだ。
その'bantai'をアーティスト名に冠した7Bantaizは、ダラヴィ出身のFTII(Film and television Institution Inda)の学生によって2014年に結成された(結成当時の平均年齢は17歳!)。
ヒンディー語、タミル語、マラヤーラム語、英語でラップするマルチリンガルな、非常に「ダラヴィらしい」グループだ。

2018年発表の"Yedechaari".


同年発表の"Achanak Bhayanak"

いずれも強烈にダラヴィのストリートのヴァイブが伝わってくる楽曲だ。
彼らもまた、『ガリーボーイ』にカメオ出演している。


ダラヴィの若手ラッパーで、今もっとも勢いがあるのが、2015年に結成されたクルー、EnimiezのMC Altafだろう。
Enimiezは、MC Altaf, MC R1, MC Standleyの3人組で、体制への不満を訴える'Rage Rap'を標榜している。
ラップの言語はヒンディー語とカンナダ語。
メンバーの本名を見ると、どうやらそれぞれがムスリム、ヒンドゥー、クリスチャンと異なる信仰を持っているようで、言語(ルーツとなる地域)だけでなく、宗教の垣根も超えたユニットのようだ。
様々なコミュニティーが音楽によって繋がり、ヒップホップという新しい価値観のもとにシーンが形成されているというのも、ダラヴィの特徴と言えるだろう。

MC Altafは若干18歳の若手ラッパー。
Nasに憧れ、DopeadeliczのStony Psykoのライブパフォーマンスに衝撃を受けてヒップホップの道を志したという、『ガリーボーイ』を地でゆくような経歴の持ち主だ。
『ガリーボーイ』のなかでもパフォーマンスシーンがフィーチャーされており、その縁でミュージックビデオには主演のランヴィール・シンがカメオ出演している。
ニューヨーク出身でムンバイを拠点に活躍しているJay Killa(J Dillaではない)と共演した"Wassup".
ランヴィールのほかにも、Dopeadeliczや7BantaiZのメンバーも登場している(彼らはリップシンクで、実際にラップしているのは全てAltafとJay Killa)。


"Mumbai 17"はダラヴィのピンコード。
ダラヴィの街の雰囲気を強く感じられるトラックだ。

どうでもいいことだが、「クリケットの国」であるインド人のベースボールシャツ姿は非常に珍しい。
この曲のマスタリングは、なんとロンドンのアビーロード・スタジオで行われている。

同じくムンバイのラッパーD'Evilと共演した"Wazan Hai"はヒップホップファッションとともに人気が高まっているスニーカーショップで撮影されたもの。


こうしたアーティストたちの活躍により、今では「ダラヴィといえば貧困」ではなく、「ダラヴィといえばヒップホップ」というように、インドの中でもイメージが変わって来ているという。
「ラップやダンスによる成功」は、ダラヴィの若者や子どもたちが夢見ることができる実現可能な夢であり、何人もの先駆者たちによって、ヒップホップはインドでも、ゲットー(スラム)の住人たちの希望となったのだ。

今回は個別のアーティストやクルーに焦点をあてて紹介してみましたが、次回はシーンの全体像を見てゆきます!
今回はここまで!



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2019年07月01日

"Gully Boy(ガリーボーイ)"日本公開決定に勝手に寄せて



ボリウッド初のヒップホップ映画、"Gully Boy"の日本での公開が正式に決定した。
公開日は10月18日。
邦題はそのままカナ表記で『ガリーボーイ』となる。
この映画は、本国インドでは 2月に公開され、大ヒットを記録。
日本でも同時期に英語字幕での自主上映が行われ、熱狂的な支持を受けて正式公開が待たれていた。

…と、冷静に書いてしまったが、なにを隠そう、私も日本での正式公開を熱烈に待っていた一人だ。 
これまでずっとこの映画のタイトルを、原題の通り"Gully Boy"と書いてきたが、それを「ガリーボーイ」とカタカナ表記で書けるうれしさといったらない。
なんでかっていうと、果たしてこの映画が日本で正式に公開されるかどうか、正直結構不安だったからである。

『ガリーボーイ』は本当に素晴らしい映画だが、これまで日本でヒットしてきたインド映画のように、超人的な主人公が活躍する英雄譚でも、敬虔な信仰を持つ素朴な人たちの心温まるヒューマンドラマでも、恋愛もアクションもコメディーも出世物語も全て詰め込んだ何でもありのマサラ風エンターテインメントでもない。
ボリウッド(ムンバイで作られたヒンディー語映画)とはいえ、日本人が考えるインド映画のイメージとは大きく異なる作品なので、配給会社が二の足を踏んで、日本での公開に至らないのではないかと、心配していたのだ。
配給を決定してくれたTwinさん、どうもありがとう!

そう、率直に言って、『ガリーボーイ』は、既存の「インド映画」の枠の中で見るべき映画ではない。
もちろん生粋のインド映画ファンも必ず楽しめる作品だが、この映画は、できれば今までインド映画を敬遠してきた人にこそ見てほしい。
ヒップホップファンや音楽好きはもちろん、「ヒップホップって、川崎あたりのヤンキーがやってるやつでしょ」っていう程度の認識の人も、見てもらったら、ヒップホップがどう他のジャンルの音楽と違うのか、どんな特別な意味があるものなのかを、感動とともに理解できることと思う。
それから、代わり映えのしない毎日を鬱々と過ごしている人たち(私やあなただ)にも、是非見てもらいたい。
(押しつけがましいメッセージがある映画ではないからご安心を)

貧しい青年のサクセスストーリーや、身分違いの恋といった、インド映画にありがちな要素も確かにある。
だが、この映画は、インド庶民の夢と理想を詰め込んだファンタジーではなく、実在のラッパーとムンバイのヒップホップシーンがモデルとなった、かなりリアルに現代を描いた物語なのだ。
ゾーヤ・アクタル監督は、ムンバイのアンダーグラウンドなヒップホップシーンのリアルさと熱気に感銘を受けてこの映画の制作を決意したというし、大のヒップホップファンであった主演のランヴィール・シンは、「自分はこの役を演じるために生まれてきた」とまで語っている。
この作品は、ムンバイで何か新しいことが起こった瞬間を、映画という形にとじこめたものでもあるのだ。
製作陣と出演者の熱意が込められたストーリーをごく簡単に紹介しよう。
 
主人公のムラドは、ムンバイ最大のスラムである、ダラヴィに暮らす大学生。
アメリカのヒップホップスターに憧れながらも、殺伐とした家庭で希望の持てない日々を過ごしていた。
ある日、大学で行われていたライブで観客を熱狂させる地元のラッパーを見たムラドは、この街にアンダーグラウンドなヒップホップシーンがあることを知る。

インドでは、欧米や日本のように、ヒップホップがエンターテインメントとして大きな存在感を持っているわけではなく、一般的にはまだまだ知られていない。
インド初のリアルなヒップホップ映画でもあると同時に、大衆エンターテインメント映画でもあるこの作品は、まだまだインドでは知名度の低いヒップホップを紹介するため、ラップとはリズムに乗せた詩であること、自分の言葉を自分でラップして初めて意味を持つことなど、ラップの何たるかがさりげなく分かるような構成にもなっている。
ヒップホップに全く興味がない人も置いていかないようになっている良くできた演出だ。

ムラドは書きためていたリリックを持って、ラップバトルの場に向かう。
はじめは自分がラッパーになる気は無く、リリックを渡すだけのつもりだったが、「ヒップホップはリリックを自分でラップしてこそ意味があるもの」と言われ、ラッパーとしての一歩を踏み出すことになる。
彼がYoutubeにアップしたラップは好評を博し、先輩ラッパーや帰国子女のトラックメーカーの助けも得て、ムラドはラッパーとしての道を歩んでゆく。
貧困、音楽活動に反対する父、やきもち妬きの恋人との別れなど、ムラドはさまざまな苦境にさらされるが、やがて、ラッパーとしての名を大きく上げるチャンスに出会うことになる…。

映画のタイトルになっているガリー(Gully)は、ヒンディー語で「路地裏」のような細い通りを意味する言葉である。
登場人物のモデルの一人であり、今ではインドを代表するヒップホップアーティストとなったムンバイのラッパーDivineが「ストリート」の意味合いで使い始めた、インドのヒップホップカルチャーを象徴する言葉で、主人公のムラドは、まさにダラヴィの「ガリー」で生まれ育ったという設定だ。
この映画は、ムンバイの巨大スラムで淀んだ青春を過ごすストリートの若者が、ヒップホップと出会い、希望を見出してゆく物語でもある。

インドの社会は、あまりにも大きな格差が存在する、残酷なまでの「階級社会」だ。
ムンバイのような大都市では、大企業や政治に携わり、海外とのコネクションを持って富を独占する人々と、彼らに仕えることで生計を立てる人々との間に、あまりのも大きな格差がある。
「ガリー」に暮らすムラドは、言うまでもなく後者に属している。
ガリーに暮らす人間が少しでも生活を良くするためには、なんとかして教育を受け、少しでも良い仕事につき、必死で働くしかないが、どんなにがんばっても、富を独占する富裕層の生活には遠く及ばないことは目に見えている。
構造的に希望が持てない立場に追いやられてしまっているのだ。

「ガリー」の人々は、これまで自分たちの言葉を発信する手段を持たず、彼らの言葉を聞くものもいなかった。
だが、ヒップホップという枠組みの中では、ストリートという出自はむしろ本物の証明であり、そこに生きる者のリリックはリアルな言葉として、同じ立場のリスナーに支持されてゆく。
ヒップホップにおいては、虐げられ、搾取される者の言葉が価値を持ち、なおかつその言葉で「成り上がる」ことができるのだ。

ムンバイじゅうのアンダーグラウンドラッパー(ほぼ全員がカメオ出演!)とのラップバトルのシーンの審査員を務めるのは、海外のシーンで活躍する在外インド人のミュージシャンたちだ。

インド人によるヒップホップは、イギリスやアメリカにいる在外インド人によって始められ、本国では耳の早いおしゃれな若者たちによって、支持されてきた。
本来はストリートカルチャーであったヒップホップが、当初はハイソな舶来文化として定着してきたのだ(この図式は他の多くの国でも見られるものだと思う)。
この映画は、これまでアンダーグラウンドなヒップホップシーンを作ってきた富裕層出身者と、「ガリー」出身のムラドとの邂逅の物語でもある。
つまり、インドでヒップホップがリアルなものになる瞬間を描いた作品でもあるということだ。

アメリカの黒人の間で生まれたヒップホップという文化が、全く別の国、それも、貧富の差や与えられるチャンスの差が極端に大きいインドのような国で、どのような意味を持つことができるのか。
ヒップホップという文化の普遍的な価値を知ることができる映画である。

主人公ムラドのモデルになったラッパーNaezyは、iPadでビートをダウンロードし、そこにラップを乗せ、さらにiPadで近所で撮影したビデオをアップロードして、一躍インドのヒップホップ界の寵児となった。
(その後、この映画のモデルとなったことで一般的にも広く知られるようになり、さらにビッグな存在になった)
スタジオでレコーディングするお金はなくても、専門的な機材もコネクションもなくても、やり方次第で誰もが自分の表現を発信し、世に出ることができる。
たとえスラムで暮らしていても、インターネットというインフラさえあれば、工夫次第でいくらでもチャンスつかむことができる。 
これは、インドだけの物語でも、ヒップホップだけの物語でもなく、インターネット時代の普遍的なサクセス・ストーリーでもある。

「俺の時代がやってきた」とラップする、この映画を象徴する1曲。"Apna Time Aayega"


主人公のモデルとなったNaezyのアンダーグラウンドシーンでの成功を追ったドキュメンタリー。
ヒップホップ人気が沸騰する直前の、ムンバイのアンダーグラウンドシーンの雰囲気が感じられる映像だ。


最後にもう一度紹介する。
10月18日公開の、インドはムンバイの実在のストリートラッパーをモデルにした映画『ガリーボーイ』。
自分はたまたまインド好きの音楽好きということで、この映画に少し早く出会うことができたが、インドとか音楽とかに関係なく、できるだけ多くの人に見てほしい映画である。
あなたもぜひ。


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2019年05月11日

母に捧げるインドのヒップホップ/ギターインストゥルメンタル

明日は母の日。
インド人といえば、お母さん大好きな国民性で知られている。
いや、そりゃどこの国でも母親の大切さというのは変わらないのだけれども、当然ながら感謝や愛情の表し方というのは国によって随分違う。

音楽でもそうだ。
日本よりも感情表現がストレートな英語圏でも、ポップミュージックのテーマは基本的に男女間の恋愛で、お母さんへの愛を直接的に表現した曲っていうのはあんまり聞いたことがない。
ところが、お母さんへの愛情も照れることなくストレートに表すインドでは、母への感謝や愛を歌った楽曲というのがけっこうあるのだ。
というわけで、今回は母の日を前に、インドの「お母さんありがとう」ソングを紹介します!

まず最初に紹介するのは、日印ハーフのラッパー、Big Deal.
英語でラップすることも多い彼が、生まれ故郷オディシャ州の言語オリヤー語でラップしたこの"Bou"は、そのものずばり「母」という意味のタイトルだ。

字幕を読むと、献身的な母親の愛情への感謝を率直に言葉にしたリリックであることが分かる。
Big Dealは、オディシャ人としての誇りや少年時代に受けた差別などをリリックのテーマにすることが多いが、つねにポジティブでまっすぐなメッセージを発信しているところが大きな魅力だ。
この曲もそんな彼の面目躍如といったところ。
ちなみに彼自身のお母さんはモハンティ三千枝という名前で活躍している小説家でもある。


先日公開され大ヒットとなったヒップホップ映画"Gully Boy"の中にも、母の愛をラップしたリリックが出てくる。

主演のランヴィール・シン自身がラップしているこの"Asli Hip Hop" は、本物のヒップホップに生きる決意を歌った内容だが、その中にもこんな内容のリリックが混じっている。

俺を嫌うやつは百万といるが、俺には母さんの愛がある
母さんの笑顔の中に俺の勝利があるのさ どうして失うことができようか
(中略)
俺はパフォーマーで、俺はアートを作っている
これこそが俺の宗教で、他にアイデンティティーはないのさ
母さんが神で、俺が育ったストリートこそが愛なんだ

(歌詞はヒンディー語の英訳から訳したもの)

この曲は映画の中のラップバトルのシーンで出てくる曲。
英語のラップだと相手の母親を侮辱するというのは聞いたことがあるけど、ここではヒンディー語で逆に自分のお母さんへの愛情をラップしてるっていうのが面白い。
2番目の歌詞をよく読んでみると、彼の育ったストリートと母親を並べて、誇るべきルーツとしてラップしていることが分かる。
インドでは、インドという国そのものを"バーラト・マーター(Bharat Mata=母なるインド)"という女神として、無償の愛を捧げてくれる母になぞらえて表現する伝統がある。
Bharat-mata
('Bharat Mata' 画像出店Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Bharat_Mata)

バーラト・マーターはインドの国土を背景に獅子を従えた美しい女性として描かれる。
独立闘争のなかで生まれたという、インドのなかでは歴史の浅い女神ではあるが、聖地ヴァーラーナシーにはこの女神を祀った寺院もある。
国家や自身のルーツを理想の母親像に似せて誇る文化と、お母さんへの愛情のストレート過ぎる表現には何か関連があるのだろうか。


超絶技巧のフィンガースタイル・ギターの名手Manan Guptaも、インストゥルメンタルではあるが"Dear Mother"というタイトルの曲を発表している。

ものすごいアイディアとテクニックを詰め込んだこの楽曲のどこが「親愛なる母さん」なのかさっぱり分からないが、きっと彼のスキルと発想の全てを反映した楽曲を、最も尊敬するお母さんに捧げたということなのだろう。

ちなみに「お父さんソング」っていうのは全然聞いたことがない。
インドの映画でも小説でも、父親って古い価値観で男性主人公と対立する存在として描かれることが多いし、あんまり面と向かってありがとうって感じでもないのかな(逆に娘と父親の愛情というのはすごくストレートに表されることが多いようだけど)。

というわけで、母の日前日の今回は、インドの「お母さんソング」を特集してみました。

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goshimasayama18 at 19:18|PermalinkComments(0)