DubSharma
2026年06月04日
『わたしの聖なるインド』は今見るべき映画!
『わたしの聖なるインド』は、今見るべき映画だ。
6月6日(土)から全国で順次上映開始。
6月14日(日)渋谷のユーロスペースでの上映後には、不肖軽刈田が25分ほどトークを行います。
上映開始時刻は決まり次第あらためて告知します。

このドキュメンタリー映画を簡単に紹介するとすれば、「ヒンドゥー・ナショナリズムが台頭し、 マイノリティであるムスリムが排除されつつあるインドの首都デリーで、座り込みを通して抵抗するムスリムの女性たちを描いたドキュメンタリー」ということになる。
こう言ってはなんだが、そう聞いても、自分には関係のない映画だと思う人がほとんどだろう。
ところが、イスラム教とかヒンドゥー教とかインドとか、そういう固有名詞を省いてこの映画を見れば、そこには、国家の概念と政権与党とが同一視され、それに反対すれば、国賊あつかいされてしまうという、日本を含めて世界中の多くの国で現在進行形で起きている状況が映し出されている。
この映画が扱うテーマは、むしろ普遍的とも言えるものだ。
内容に深く触れてしまうと興を削ぐことにもなってしまうだろうから、まず、この映画の背景となるインドという国の成り立ちを簡単におさらいしたい。
1947年、イギリス領だった南アジア一帯は、インドとパキスタンという2カ国へと「分離独立」した(現在のバングラデシュも当時は「東パキスタン」としてパキスタンの一部だった)。
イスラム教にもとづく統治を国是とするパキスタンに対して、8割をヒンドゥー教徒が占めるインドは、特定の宗教を国教としない「世俗主義」の国家として誕生した。
その決断は、宗教やカーストや地域による分断を推し進めたイギリス時代の悪しき分割統治への反省から生まれたものだった。
どんな国や社会にも、見えない差別や排除があるが、インドにも、事実としてコミュニティの分断やカーストによる差別、宗教マイノリティに対する偏見は今日にいたるまで存在している。
それでも、たてまえとしては、平等を掲げる。
そうして独立したのが、インドだった。
何が言いたいのかというと、この映画のなかで、ムスリムに対する差別的な政策に対して座り込みを続ける女性たちは、ラディカルな左派ではなく、インドが本来持っていた、「平等の原則」を守ろうとしている人々だということだ。
彼女たちの中心は、ジャミア・ミリア・イスラミア大学での抗議運動に対して行われた暴力的な弾圧によって、子どもたちを傷つけられた母親たちだ。
このジャミア・ミリア・イスラミア大学、名前だけ聞くと、なにかイスラム教の保守的な神学でも教えているかのような印象を持ってしまうかもしれないが、じつはれっきとしたインドの国立大学で、マスメディアや建築、工学、法律などの分野で高い評価を得ている優秀な大学だ。
(ちなみに国際的な高等教育機関のランキングでは、日本の筑波大、千葉大、広島大、立命館大、東京理科大と同等の評価を得ている)
[このあたりからだんだん映画の内容にも触れてゆくので、鑑賞前に読みたくないという方はまたのちほど]
20世紀末から政治の世界で台頭してきたヒンドゥーナショナリズムは、この国の伝統である世俗主義を無視して、インドは多数派であるヒンドゥー教徒の国であるという考え方を推し進めてきた。
「死んでも構わない」とすら誓って抗議する彼女たちが守ろうとしているのは、インドという国が本来持っていた信念だ。
マジョリティからは、「反インド」と見なされている彼女たちは、そのイメージに反して、活動のあらゆる場面で、インド国旗や、ガーンディー、ネルー、チャンドラ・ボースといった独立運動の英雄の写真を掲げている。
この3人は、いずれもヒンドゥー教徒である。
彼女たちの主張は、特定の信仰ではなく、インドという国が独立以来、守り抜いてきた信念にもとづくものだということが分かる。
どこの国でも、マイノリティの権利を主張すると、「反国家」だとか「売国」だとかいう批判を浴びせられがちだが、ほんとうの愛国者は誰なのかということを考えさせられる。
印象的なのは、命懸けの覚悟をしている彼女たちの様子が、大真面目でありつつも、どこか軽やかで、楽しげでもあるということだ。
映画のなかに出てくる男性たちが、「差別的な政策は、イスラムの信仰に対する攻撃であるか、普遍的人権の問題であるか」などと議論して、険悪な空気になっているのとは対照的だ。
彼女たちは、「ふだんは女性だけで夜間に外出なんかできないから」と、デモという行為をちゃっかり楽しんでいる。
これは女性の不自由さの裏返しではあるのだが、どんな状況でも謳歌してしまおうという気概がたのもしい。
そして、彼女たちは、抗議運動のほとんどの場面で、歌っているか、コール&レスポンスを叫んでいる。
太鼓の躍動するリズムに乗せられた叫びは、まるで野外フェスのようだ。
肉体化された言葉とリズムが力強く結びついている彼女たちの声を聞くと、スクリーンのこちら側にいる私たちも、気分が上がる。
彼女たちが歌っているのは、いつもこのブログで扱っているロックやヒップホップなどではなく、もっとローカルな旋律の曲だ。
西洋社会ではカウンターカルチャーとしての意味を持つヒップホップやレゲエは、インドでは「舶来のオシャレな音楽」であり、お金持ちやインテリ、つまり搾取する側の音楽でもある。
これは現時点でインドのインディペンデント音楽のひとつの限界として、意識しておくべきポイントだろう。
そのかわり、社会運動が根付いたインドには、こういうときに歌う自分たちの歌が、ちゃんと存在しているのだ。
あらためて見てみると、予告編でも彼女たちはほとんどずっと歌っているか、コール&レスポンスをしている。
この映画が秀逸なのは、単にインド社会の一側面を切り取っているだけではなく、監督自身の内面を深く掘り下げて作られていることだ。
ノウシーン・ハーン監督は、イスラム教徒としてのアイデンティティを意識せず、ごく「世俗的」に生きてきたという。
それはインド社会に内在しているイスラムへの偏見を避ける生き方でもあったのだが、その彼女が、こうした映画を通して告発せざるを得ないほどに、いまのインドの状況は悪化しているのだ。
この映画が「描いていない部分」で気になったのは、ヒンドゥーナショナリズムに走る側の「理屈」だ。
おそらくだが、カメラの前で差別と偏見を隠そうともしない彼らの多くは、家庭では親孝行で、家族や仲間を愛する情に厚い人々であるはずだ。
彼らを、偏狭で差別主義的と捉えるだけでは分かり得ない何かがきっとあると思うのだが、それはいったいなんなのか。
恐怖心なのか、差別感情への罪悪感に対する開き直りなのか、おそらく、簡単には言語化できないなにかがあるはずだ。
最後にこの映画とは直接関係のない音楽の話を。
映画のなかで「Azadi!」(自由を!)というチャントが巻き起こるシーンがある(予告編でも出てくる)。
この「自由を!」「〇〇からの〜」「自由を!」というコール&レスポンスは、古くからインドの市民運動で広く使われてきたものだ。
2016年にデリーのジャワハルラール・ネルー大学で起きた大規模な学生運動のシュプレヒ・コールは、音楽プロデューサーのDub Sharmaによってサンプリングされ、エレクトロ・ヒップホップの楽曲として生まれ変わった。
その曲をもとにアレンジされ、DIVINEが参加したバージョンは、映画『ガリー・ボーイ』のサウンドトラックにも採用されている。
いまでもこの曲は、インドで市民運動が巻き起こるたびにバイラルとなっている。
インドにおけるレベル・ミュージック(抵抗の音楽)としてのインディペンデント音楽については、6月20日発売の著書『新しいインド音楽の世界 混沌と刺激のサウンドを求めて』でも書いています。
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goshimasayama18 at 19:30|Permalink│Comments(0)
2019年10月24日
『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Azadi"(自由)by麻田豊、餡子、Natsume
麻田豊、餡子、Natsume(敬称略)による『ガリーボーイ』リリック翻訳第5弾!
前回紹介した恋に悩むラブソングの"Kab Se Kab Tak"からうって変わって、今回はこの映画の中でも、とくに政治的・社会的なトラック"Azadi"を紹介!




餡子さんからのコメント:
Divineは何度も紹介している通り『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなったムンバイのラッパーで、Dub Sharmaはインド北部チャンディーガルのエレクトロニックミュージック・アーティスト/ラッパーだ。
この強烈な政治的ナンバーは、実は映画のストーリーの中で不可欠な使われ方をしているわけではない。
むしろ、どちらかというとBGM的な扱いだ。
(一応、格差による不条理とそれに抗う姿勢が示される場面ではあるが)
であるならば、他の曲と同じようなスラムをレペゼンするラップでも、いっそのことインストゥルメンタルでも良いはずだ。
それでもあえてこの曲を採用したのは、ゾーヤー・アクタル監督が、この映画を通して、ヒップホップがストリートをレペゼンするだけではなく、政治や社会の構造的な問題にも鋭く物申すジャンルであることを伝えたかったからだろう。
ラップというよりもシュプレヒコールのようなコーラスは、じつはもともと実際のデモで使われたものがもの。
デリーの名門大学JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)で行われた学生運動のリーダー、Kanhaiya Kumarによるコール&レスポンスがこの曲の原型だ。
凄まじい熱気!
この動画のタイトルに、"Lal-Salaam Song"とあるが、この'Lal-Salaam'は、「赤色万歳!」を意味する、共産主義にシンパシーを持つものの合言葉。
この言葉は、以前紹介したデリーを拠点に活動するスカバンド"Ska Vengers"の中心人物Delhi Sultanate aka Taru Dalmiaも、自身のサウンドシステムでのパフォーマンスで使用している。
彼が'Lal Salaam'といっしょに、反カースト/平等主義の合言葉'Jai Bhim'を叫んでいることにも注目。
この言葉は、最下層の被差別階級から身を起こし、インドの初代法務大臣にまで登りつめたビームラーオ・アンベードカルを称える言葉で、彼はカーストの軛から逃れるために、同じ身分の50万人もの同志たちとヒンドゥーから仏教へと集団改修したことでも知られている。
リンクした記事で紹介した動画でも、DJブースから、ヒンドゥー・ナショナリズムや企業のルールからの自由を求めて、"A-za-di"のコール&レスポンスをするTaruの姿を見ることができる。
彼もまた、政治や社会構造の矛盾に鋭く批判を突きつけるアーティストなのだ。
先ほど紹介したJNUでのKanhaiya Kumarによるアジテーションは、Dub Sharmaによってリミックスされてダンストラックとなっており、このバージョンが『ガリーボーイ』で使われたラップの原曲となっている。
反ヒンドゥーナショナリズム、反差別、反暴力などあらゆるデモの様子が収められたこのミュージックビデオもインドの民衆のエネルギーが伝わってくる。
("Azadi"の原曲の調査は餡子さんによるもの。"India91"に登場するラッパーの全員解明もそうだが、餡子さんの調査力、凄すぎ!)
ちなみに'Azadi'という単語は、今インドでもっとも勢いのあるデリーのアンダーグラウンド・ヒップホップレーベルの名称にも使われている。
『ガリーボーイ』のなかでは、他にも"Jingostan"が、かなり政治的な楽曲だ。
'Jingostan'は、自国の利益のためなら他国に対して武力も辞さない強圧的な姿勢を表す'jingoism'に、国を表す'stan'をつけた造語で、続けて叫ばれる'Zindabad'は「万歳!」のようなかけ声だ。
つまり、この曲は覇権主義的な国家を皮肉った内容なのである。
この曲も、'Jingostan Zindabad'の掛け声がまるでデモか集会のような雰囲気を醸し出しており、いわゆるヒップホップ的(現代アメリカ黒人文化的)というよりは、かなりインド的な雰囲気が感じられる。
そして、この曲も決してストーリーの中で不可欠な位置付けで使われているわけではないのだ。
BGM的な部分にこうした政治的な楽曲が選ばれているという事実から、ゾーヤー監督がこの映画を通して伝えようとしたもう一つのメッセージを感じることができる。
つまり「ヒップホップは、インドの伝統とも言える社会運動・政治運動とも極めて親和性が高いもので、こうした部分にもインドのヒップホップの個性と存在意義がある」という主張である。
これまでに、このブログではインドのヒップホップのルーツとして、「アフリカ系アメリカ人によるオリジナル・ヒップホップ」に加えて、「古典音楽などの独自のリズム。とくに口で複雑なリズムを表現するBolやKonnakkol」を挙げていたが、ひょっとしたら3つめのルーツとして「デモ更新のアジテーション演説」を挙げても良いのかもしれない。
確かに、多くの人々の心を掴む演説をするには、リズム感やキャッチーな言葉のセンスが欠かせないはずで、そこにはラップと相通じる部分があるはずだ。
『ガリーボーイ』そのものは、社会格差や差別の問題を扱いながらも、ラッパーの青年のサクセスストーリーという、斬新だが親しみやすいテーマの映画に仕上がっている。
同じくダラヴィを舞台にしたタミル映画『カーラ』(こちらもヒップホップがサウンドトラックに使われている)のように、スラムを潰そうとする悪徳政治家などが出てくるわけではない。
だが、その根底には、ゾーヤー・アクタル監督の、いびつな社会構造への強烈な異議申し立てがあるのではないだろうか。
そして、こうした問題意識があるからこそ、ガリーのラッパーたちと共鳴し合い、ボリウッドの歴史に残るであろう作品が作れたのではないかとも感じる。
今回もついつい長くなってしまいました。
"Azadi"のリリックの翻訳を読んでこんなことを考えた次第です。
このリリック紹介もいよいよ大詰め、次回はインドにリアルなヒップホップを届ける決意表明とも言える"Asli HipHop"です!
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前回紹介した恋に悩むラブソングの"Kab Se Kab Tak"からうって変わって、今回はこの映画の中でも、とくに政治的・社会的なトラック"Azadi"を紹介!




餡子さんからのコメント:
アーザーディー!の掛け声がアツイ!ぜひリミックス原曲の力強いデモを聞いてください。まるでPublic Enemyを思わせるような政治的アジテーションのこの曲は、リリックもトラックも、そしてラップもDivineとDub Sharmaによるもの。
Divineは何度も紹介している通り『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなったムンバイのラッパーで、Dub Sharmaはインド北部チャンディーガルのエレクトロニックミュージック・アーティスト/ラッパーだ。
この強烈な政治的ナンバーは、実は映画のストーリーの中で不可欠な使われ方をしているわけではない。
むしろ、どちらかというとBGM的な扱いだ。
(一応、格差による不条理とそれに抗う姿勢が示される場面ではあるが)
であるならば、他の曲と同じようなスラムをレペゼンするラップでも、いっそのことインストゥルメンタルでも良いはずだ。
それでもあえてこの曲を採用したのは、ゾーヤー・アクタル監督が、この映画を通して、ヒップホップがストリートをレペゼンするだけではなく、政治や社会の構造的な問題にも鋭く物申すジャンルであることを伝えたかったからだろう。
ラップというよりもシュプレヒコールのようなコーラスは、じつはもともと実際のデモで使われたものがもの。
デリーの名門大学JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)で行われた学生運動のリーダー、Kanhaiya Kumarによるコール&レスポンスがこの曲の原型だ。
凄まじい熱気!
この動画のタイトルに、"Lal-Salaam Song"とあるが、この'Lal-Salaam'は、「赤色万歳!」を意味する、共産主義にシンパシーを持つものの合言葉。
この言葉は、以前紹介したデリーを拠点に活動するスカバンド"Ska Vengers"の中心人物Delhi Sultanate aka Taru Dalmiaも、自身のサウンドシステムでのパフォーマンスで使用している。
彼が'Lal Salaam'といっしょに、反カースト/平等主義の合言葉'Jai Bhim'を叫んでいることにも注目。
この言葉は、最下層の被差別階級から身を起こし、インドの初代法務大臣にまで登りつめたビームラーオ・アンベードカルを称える言葉で、彼はカーストの軛から逃れるために、同じ身分の50万人もの同志たちとヒンドゥーから仏教へと集団改修したことでも知られている。
リンクした記事で紹介した動画でも、DJブースから、ヒンドゥー・ナショナリズムや企業のルールからの自由を求めて、"A-za-di"のコール&レスポンスをするTaruの姿を見ることができる。
彼もまた、政治や社会構造の矛盾に鋭く批判を突きつけるアーティストなのだ。
先ほど紹介したJNUでのKanhaiya Kumarによるアジテーションは、Dub Sharmaによってリミックスされてダンストラックとなっており、このバージョンが『ガリーボーイ』で使われたラップの原曲となっている。
反ヒンドゥーナショナリズム、反差別、反暴力などあらゆるデモの様子が収められたこのミュージックビデオもインドの民衆のエネルギーが伝わってくる。
("Azadi"の原曲の調査は餡子さんによるもの。"India91"に登場するラッパーの全員解明もそうだが、餡子さんの調査力、凄すぎ!)
ちなみに'Azadi'という単語は、今インドでもっとも勢いのあるデリーのアンダーグラウンド・ヒップホップレーベルの名称にも使われている。
『ガリーボーイ』のなかでは、他にも"Jingostan"が、かなり政治的な楽曲だ。
'Jingostan'は、自国の利益のためなら他国に対して武力も辞さない強圧的な姿勢を表す'jingoism'に、国を表す'stan'をつけた造語で、続けて叫ばれる'Zindabad'は「万歳!」のようなかけ声だ。
つまり、この曲は覇権主義的な国家を皮肉った内容なのである。
この曲も、'Jingostan Zindabad'の掛け声がまるでデモか集会のような雰囲気を醸し出しており、いわゆるヒップホップ的(現代アメリカ黒人文化的)というよりは、かなりインド的な雰囲気が感じられる。
そして、この曲も決してストーリーの中で不可欠な位置付けで使われているわけではないのだ。
BGM的な部分にこうした政治的な楽曲が選ばれているという事実から、ゾーヤー監督がこの映画を通して伝えようとしたもう一つのメッセージを感じることができる。
つまり「ヒップホップは、インドの伝統とも言える社会運動・政治運動とも極めて親和性が高いもので、こうした部分にもインドのヒップホップの個性と存在意義がある」という主張である。
これまでに、このブログではインドのヒップホップのルーツとして、「アフリカ系アメリカ人によるオリジナル・ヒップホップ」に加えて、「古典音楽などの独自のリズム。とくに口で複雑なリズムを表現するBolやKonnakkol」を挙げていたが、ひょっとしたら3つめのルーツとして「デモ更新のアジテーション演説」を挙げても良いのかもしれない。
確かに、多くの人々の心を掴む演説をするには、リズム感やキャッチーな言葉のセンスが欠かせないはずで、そこにはラップと相通じる部分があるはずだ。
『ガリーボーイ』そのものは、社会格差や差別の問題を扱いながらも、ラッパーの青年のサクセスストーリーという、斬新だが親しみやすいテーマの映画に仕上がっている。
同じくダラヴィを舞台にしたタミル映画『カーラ』(こちらもヒップホップがサウンドトラックに使われている)のように、スラムを潰そうとする悪徳政治家などが出てくるわけではない。
だが、その根底には、ゾーヤー・アクタル監督の、いびつな社会構造への強烈な異議申し立てがあるのではないだろうか。
そして、こうした問題意識があるからこそ、ガリーのラッパーたちと共鳴し合い、ボリウッドの歴史に残るであろう作品が作れたのではないかとも感じる。
今回もついつい長くなってしまいました。
"Azadi"のリリックの翻訳を読んでこんなことを考えた次第です。
このリリック紹介もいよいよ大詰め、次回はインドにリアルなヒップホップを届ける決意表明とも言える"Asli HipHop"です!
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goshimasayama18 at 23:43|Permalink│Comments(0)
2019年02月17日
映画"Gully Boy"あらすじ、見どころ、楽曲紹介&トリビア
映画"Gully Boy"のレビューを書いてみたのだけど(リンクはこちら)、あらすじについては映画を観るまで知りたくない、という人もいると思うので、レビューとは別にこちらの記事に書くことにします。
あらすじと言っても、全てを書いてしまっているわけではなく、ちょうど映画のパンフレットに書いてあるくらいの感じにしたつもりです。
見どころ、楽曲紹介とトリビアも書いてあるので、映画を観終わってから読んでも「あのシーンにはああいう背景があったのか」と楽しめるものと思います。
あらすじは読みたくないけど見どころとか楽曲紹介とかトリビアだけ読みたい、という人は、一度記事の一番下までスクロールしていただいて、そこから少しだけ上に戻ってみてください。
多めの改行がしてあるので、あらすじを読まずに済むようになっています。
'Gully Boy'の見どころ!
映画に使われた楽曲たちをいくつか紹介!
傷ついた心と母親への愛、そしてインドに本物のヒップホップを届けるぜ!という気持ちをラップする"Asli Hip Hop"はアンダーグラウンドシーンのラッパーSpitfireによるもので、ラップしているのは主演のRanveer自身。
映画の中ではラップバトルのシーンに使われていた。
インド人の母親への愛情表現はいつもストレートだが、ラップバトルでお母さんへの愛情をラップするというのはちょっと面白い。
アメリカだと相手の母親をけなすというのは聞いたことがあるけど。
「俺たちの時代が来る」とラップする"Apna Time Aayega".
この曲はボリウッドに取り上げられにわかに注目を集めたアンダーグラウンド・ラップの象徴的な扱いをされていて、多くのラッパーがこの曲のタイトルに関連した発信をソーシャルメディア上でしている。
DivineとDub Sharmaによる楽曲をこれもRanveer自身がラップ。
ちなみにDivineの"Jungli Sher"もiPhoneで撮影されたミュージックビデオという触れ込みだが、これはメジャーのソニーからリリースされた楽曲なので、貧しさゆえというよりは話題作りという意味合いの強いものだろう。
映画の中でも、彼らが地元ダラヴィでミュージックビデオを撮影するシーンが出てくるが、この"Mere Gully Mein"はDivineとNaezyによるオリジナルにRanveerのパートを追加したもの。
と、いろいろと語らせてもらいました。
個人的に好きなのは、Muradが家の中でiPadでラップの練習をしていて「独り言はやめなさい。縁起が悪いから」と母親に言われるシーンと、家でステージでのパフォーマンスの練習をしていたところに父親が帰ってきて、あわてて何もしていない振りをするシーン。
世界中のラッパー志望の若者たちが共感できて笑えるすごく素敵なシーンだと思った。
いずれにしても、この映画でインドのヒップホップシーンがますます注目され、活性化することは間違いない。
そんな中で、Divineは自らのレーベル'Gully Gang Entertainment'を発足することをアナウンスした。
そこからいったいどんなアーティストが出て来るのか、本当に楽しみで仕方がない。
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
あらすじと言っても、全てを書いてしまっているわけではなく、ちょうど映画のパンフレットに書いてあるくらいの感じにしたつもりです。
見どころ、楽曲紹介とトリビアも書いてあるので、映画を観終わってから読んでも「あのシーンにはああいう背景があったのか」と楽しめるものと思います。
あらすじは読みたくないけど見どころとか楽曲紹介とかトリビアだけ読みたい、という人は、一度記事の一番下までスクロールしていただいて、そこから少しだけ上に戻ってみてください。
多めの改行がしてあるので、あらすじを読まずに済むようになっています。
前置きが長くなりましたが、あらすじはこの下から!
"Gully Boy"あらすじ
イスラム教徒の大学生Murad(Ranveer Singh)は、家族とともにインド最大のスラム、ダラヴィに暮らしている。
彼はときに悪友の起こす悪事に巻き込まれたりしながら、退屈で希望の持てない青春を過ごしていた。
"Gully Boy"あらすじ
イスラム教徒の大学生Murad(Ranveer Singh)は、家族とともにインド最大のスラム、ダラヴィに暮らしている。
彼はときに悪友の起こす悪事に巻き込まれたりしながら、退屈で希望の持てない青春を過ごしていた。
彼は一人になるとノートに自作のラップのリリックを書くほどのヒップホップファンだが、憧れのNas(アメリカのラッパー)はあまりにも遠い存在だ。
MuradにはSafeena(Alia Bhatt)という幼なじみの恋人がいるが、裕福で保守的な彼女の両親は、二人の交際を認めてくれるはずもなく、二人はお互いの家族に分からないように会わなければならなかった。
ある日、大学でのコンサートでMC Sher(ライオン)と名乗るラッパー(Siddhant Chaturvedi)のステージを見たMuradは大きな衝撃を受ける。
ムンバイにもアンダーグラウンドなヒップホップシーンがあることを知ったMuradは、ラップバトルの場を訪れ、Sherに「よかったら自分が書いたリリックをラップしてくれないか」と話しかけるが「ラップは自分自身の言葉で語るものだ」と返されてしまう。
自分がラッパーになる気は無かったMuradだったが、Sherにうながされ、彼は自作のリリックを初めて人前で披露することになるのだった。
MuradにはSafeena(Alia Bhatt)という幼なじみの恋人がいるが、裕福で保守的な彼女の両親は、二人の交際を認めてくれるはずもなく、二人はお互いの家族に分からないように会わなければならなかった。
ある日、大学でのコンサートでMC Sher(ライオン)と名乗るラッパー(Siddhant Chaturvedi)のステージを見たMuradは大きな衝撃を受ける。
ムンバイにもアンダーグラウンドなヒップホップシーンがあることを知ったMuradは、ラップバトルの場を訪れ、Sherに「よかったら自分が書いたリリックをラップしてくれないか」と話しかけるが「ラップは自分自身の言葉で語るものだ」と返されてしまう。
自分がラッパーになる気は無かったMuradだったが、Sherにうながされ、彼は自作のリリックを初めて人前で披露することになるのだった。
彼がYoutubeにアップした動画は、アメリカの名門音楽学校、バークリー出身の女性ビートメーカーSky(Kalki Koechlin)の目に留まり、Sherと彼女とMuradの3人での音楽活動が始まった。
本格的にラッパーとなったMuradは、スラムのストリート出身であることから、「ストリートの少年」を意味する'Gully Boy'と名乗ることになった。
ラッパーとしての活動を始めたMuradだが、そんな時に父が事故にあい、怪我のために働けなくなってしまう。
彼は父に代わって裕福な家族の運転手として働くことになるが、そこでスラムに暮らす自分との圧倒的な貧富の差を目の当たりにするのだった。
ラッパーとしての活動を始めたMuradだが、そんな時に父が事故にあい、怪我のために働けなくなってしまう。
彼は父に代わって裕福な家族の運転手として働くことになるが、そこでスラムに暮らす自分との圧倒的な貧富の差を目の当たりにするのだった。
Sherの励ましで、自分の見たこと、感じたことを率直にラップすることを決意したMuradは、格差やストリートでの生活をテーマにしたラップをレコーディングし、地元ダラヴィのストリートでミュージックビデオ撮影を決行。
その動画が高い評価を受け、Muradは人気ラッパーになってゆく。
しかし父は彼のラッパーとしての活動に大反対する。
「音楽などして何になるのか。お前にそんなことをさせるために教育に金を注ぎ込んできたわけではない」と父は激怒。
しかし父は彼のラッパーとしての活動に大反対する。
「音楽などして何になるのか。お前にそんなことをさせるために教育に金を注ぎ込んできたわけではない」と父は激怒。
ミュージックビデオの成功を祝うパーティーでは、嫉妬深いSafeenaがSkyとの関係を誤解してトラブルになり、そのことがきっかけでSafeenaとも別れてしまう。
家では父が母に暴力を振るい、Muradと母と弟は家を出て暮らすことになる。
途方にくれるMuradだったが、彼はアメリカの人気ラッパー、Nasのインド公演のオープニングアクトを決めるラップバトルが行われることを知り、この夢のような機会に応募することを決める。
なんとか大学を卒業したMuradは、叔父の会社で働くことになった。
貧しい生まれの彼にしては十分すぎるほどの境遇だ。
だがそこでは、ラップバトルに参加するための休みを取ることは許されず、「使用人の子はしょせん使用人」と屈辱的な言葉を浴びせられてしまう。
家では父が母に暴力を振るい、Muradと母と弟は家を出て暮らすことになる。
途方にくれるMuradだったが、彼はアメリカの人気ラッパー、Nasのインド公演のオープニングアクトを決めるラップバトルが行われることを知り、この夢のような機会に応募することを決める。
なんとか大学を卒業したMuradは、叔父の会社で働くことになった。
貧しい生まれの彼にしては十分すぎるほどの境遇だ。
だがそこでは、ラップバトルに参加するための休みを取ることは許されず、「使用人の子はしょせん使用人」と屈辱的な言葉を浴びせられてしまう。
Muradは夢を選ぶのか、安定した人生を選ぶのか…。
'Gully Boy'の見どころ!
- この映画の中で、ヒップホップは、序盤では退屈で希望が持てない日常を忘れさせてくれるものとして、中盤では自分自身の言葉を語り誇りと自由を取り戻すためのものとして、終盤ではストリート出身のMuradが夢を叶えるための手段として描かれている。また、終盤のあるシーンで、Muradのラップが、Muradのためだけのものではなく、彼が暮らすダラヴィ17のコミュニティーの声を代弁するものであることが示唆される。Zoya Akhtar監督は、本当にヒップホップに対する正しい理解のもとでこの映画を作成したと思う。
- 映画の序盤、Muradは、「ヒップホップファンではあるが、ラッパーになる気はない若者」として描かれる。この映画は、そんな彼がラッパーになろうとする過程で、Sherからヒップホップの表現者としての精神を教わってゆくという構成になっている。まだこの手のヒップホップがアンダーグラウンドな存在であるインドで、観客に分かりやすくヒップホップ文化を伝えることができるよう、うまくできた構成だ。
- 映画の冒頭、悪友Moeenが車両強盗をするシーンで、盗んだ車の中でかかる曲は、典型的なインドの売れ線ヒップホップ。Muradがこの手のヒップホップを拒否するシーンを見せることで、彼がコマーシャルなものではなく、よりリアルなヒップホップを志向していることを暗示している。(MC Sherのステージを見るまで、Muradが地元のシーンを知らなかったようにも見えるので、「彼はアメリカのヒップホップに憧れてヒンディーでリリックを書いているがムンバイにヒップホップを実践している人がいるとは知らなかった」ということだろう)
- この映画のラップバトルのシーンが独特で、DJやビートに合わせるのではなく、トラック無しで1ターンずつラップしあうというもの。インドではこれが一般的なのだろうか。
- Muradのラップを高く評価して、トラックメーカーとして名乗り出たSkyと名乗る人物を、彼とSherは男性だと思っていたが、会ってみると正体はボストンの名門バークリーで学んだ女性だった。貧しいMuradとSherは、大学で音楽を学ぶということが想像できない。二人にとって、教育とは現実的な収入の良い仕事につくためのものでしかなく、音楽がキャリアになるとは考えたこともないからだ。インドの富裕層/エリート層のミュージシャンが、ヒップホップというカルチャーを通して、ストリート出身の二人と出会う象徴的なシーンだ。実際にバークリー出身のインド人女性ミュージシャンに、シンガーソングライターのSanjeeta Bhattacharyaや日本で活躍するジャズ/ソウルシンガーのTea(Trupti Pandkar)らがいる。
- Muradに惹かれてゆくSkyに、生まれ育った境遇があまりに違う彼は戸惑って「どうして僕のことなんかが好きなんだい?貧しい階級の出身なのに」と尋ねる。それに対してSkyは「あなたはアーティスト。どこから来たかなんて気にしない」と答える。ヒップホップという自由を希求する音楽に惹かれながらも、Muradもまた階級意識から自由になれていないということが分かる。
- 若者が主人公のインド映画では、たいてい親子の価値観の違いによる断絶が描かれるが、この映画もまた然り。Muradの親もSafeenaの親も厳格で保守的だが、それは子どもたちに安定した幸福な暮らしができるようになってもらうための愛情でもある。だが、若い世代にとっては安定よりも自由こそが幸福なのだ。
- ラップコンテストのシーンで審査員を務めている垢抜けた感じの人たちは、アメリカやイギリス生まれのインド系移民のミュージシャンたち。このブログでも取り上げたRaja Kumariの姿も見える。このシーンは、これまで海外のインド系移民や、裕福な層(この映画の中ではSky)を中心に作られてきたインドのインディーミュージックシーンに、いよいよ本物のストリート出身のアーティストが加わることになる瞬間を描いたものとして見ることもできる。
- ラップコンテスト予選のシーンは、最初のラップバトルのシーンと対になっている。ヒップホップにおいて大事なのはファッションではなく言葉の中身であることが示されるシーンだ。「インドで最初のヒップホップ映画」がヒップホップをファッションではなくよりリアルなものとして描いていることはきちんと覚えておきたい。
- 負傷した父に代わり、裕福な家庭の運転手として働くことになるMurad. 運転手は、貧しい生まれの者が決して手が届くことがない富裕層の世界に触れることができる象徴的な職業だ。金持ちの運転手を務める使用人の境遇については、アラヴィンド・アディガ(Aravind Adiga)の小説「グローバリズム出づる国の殺人者より」(原題"The White Tiger")に詳しい。
- ラップコンテストのシーンでは、実際にインドのアンダーグラウンドシーンで活躍するラッパーが何人もカメオ出演している。名前が出てきただけでも、Shah Rule, Emiway Bantai, Kaam Bhari, MC Todfod, Malic Sahab, Checkmate, Stony Psyko, Shaikspeare… 他にもいたかな。
- ステージに向かうMuradが神に祈りを捧げるシーンがある。また、成功を納めた彼をスラムの住人が老若男女も宗教の区別もなく祝福する場面もある。ムンバイのスラムで、ヒップホップが信仰やローカル社会と矛盾するアメリカの文化ではなく、生活に根ざしコミュニティーを代弁するものになっていることが分かるシーンだ。
- Muradがダラヴィのストリートで撮影した映像は評判を呼び、多くの支持を集めるが、それでも彼は音楽で生きてゆくという決心がなかなかつかず、父親も彼がラッパーとして生きてゆくことを認めようとしない。インドではCDやカセットテープが音楽流通の主体だった時代にインディーミュージックが栄えることはついになかった。インドで音楽で生計を立てるには、映画音楽などの商業音楽の道に進むか、厳しい修行を経て古典音楽のミュージシャンになる以外の道は、ほぼなかったのだ。インターネットを介して誰もが様々な音楽を享受/発信できる時代になって、初めてインドのインディーミュージックシーンが発展しはじめた。つまり、音楽は無料で聴くものであって、いくらそこで評判を得ても、音楽を売ってプロになるという道はいまだに整備されていないのだ。そういう現状を踏まえると、ストリートから音楽で成功したNaezyとDivine、そして映画の中のMuradの見え方がまた変わってくるのではないだろうか。
映画に使われた楽曲たちをいくつか紹介!
傷ついた心と母親への愛、そしてインドに本物のヒップホップを届けるぜ!という気持ちをラップする"Asli Hip Hop"はアンダーグラウンドシーンのラッパーSpitfireによるもので、ラップしているのは主演のRanveer自身。
映画の中ではラップバトルのシーンに使われていた。
インド人の母親への愛情表現はいつもストレートだが、ラップバトルでお母さんへの愛情をラップするというのはちょっと面白い。
アメリカだと相手の母親をけなすというのは聞いたことがあるけど。
「俺たちの時代が来る」とラップする"Apna Time Aayega".
この曲はボリウッドに取り上げられにわかに注目を集めたアンダーグラウンド・ラップの象徴的な扱いをされていて、多くのラッパーがこの曲のタイトルに関連した発信をソーシャルメディア上でしている。
DivineとDub Sharmaによる楽曲をこれもRanveer自身がラップ。
映画のなかのこの曲のシーンでは、涙が止まらなくなった。
Zoya Akhtar監督の父、Javed Akhtarによる詩をDivineがリライトした"Doori".
Zoya Akhtar監督の父、Javed Akhtarによる詩をDivineがリライトした"Doori".
映画の中ではこの曲でMuradの詩的センスが高く評価されることになる。
なぜこうも上手くいかないのか、なぜ富めるものと貧しいものがいるのか、といった内容を詩的に表現した曲で、これもRanveer.
彼は本当にラップをがんばっている。
「飢え、差別、不正義、政治の腐敗、格差からの自由を!」というテーマの曲。"Azadi"
Azadiは自由という意味。デリーの人気ヒップホップレーベルの名前にもなっている単語だ。
なぜこうも上手くいかないのか、なぜ富めるものと貧しいものがいるのか、といった内容を詩的に表現した曲で、これもRanveer.
彼は本当にラップをがんばっている。
「飢え、差別、不正義、政治の腐敗、格差からの自由を!」というテーマの曲。"Azadi"
Azadiは自由という意味。デリーの人気ヒップホップレーベルの名前にもなっている単語だ。
この曲の"A-Za-di!"というコーラスはデモ行進のシュプレヒコールを思わせるもので、この映画がヒップホップを社会運動的な側面を持つものとして描いていることがよくわかる楽曲。
パフォーマンスはDivineとDub Sharma.
"Azadi"のコール&レスポンスはインドのデモの定番で、音楽の場で使われている例としては、以前紹介したデリーの社会派レゲエ・アーティストのTaru Dalmiaの活動を追ったドキュメンタリー(「Ska Vengersの中心人物 Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」)の最後にも出てくる。
"Train Song"はカルナータカ州出身の人気フォーク(伝統音楽)系ポップ歌手Raghu Dixitと90年代から活躍する在英エレクトロニカ系アーティスト/タブラプレイヤーKarsh Kaleの共演で、プロデュースにはMidival Punditzの名も。
"India 91"は古典音楽カルナーティックのパーカッション奏者Viveick Rajagopalanのリズムに合わせてMC Altaf, MC TodFod, 100 RBH, Maharya & Noxious Dがラップする楽曲。
伝統のリズムとラップの融合という、インド特有のヒップホップ文化にもきちんと目配りがされていることがうれしかった。
元ネタは以前このブログでも紹介したRajagopalanとSwadesiのコラボレーションによる楽曲"Ta Dhom".(「インド古典音楽とラップ!インドのラップのもうひとつのルーツ」)
トリビア
最後に、映画の設定と実際のDivineとNaezyとで違うところや、トリビア的なものを挙げる。
これ以外にもたくさんあると思うけど、やはり監督Zoya Akhtarの言う通り、これは伝記映画ではなく、DivineとNaezyをモデルにアンダーグラウンド・ヒップホップシーンを描いたフィクション映画として楽しむべきものなのだろう。
パフォーマンスはDivineとDub Sharma.
"Azadi"のコール&レスポンスはインドのデモの定番で、音楽の場で使われている例としては、以前紹介したデリーの社会派レゲエ・アーティストのTaru Dalmiaの活動を追ったドキュメンタリー(「Ska Vengersの中心人物 Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」)の最後にも出てくる。
"Train Song"はカルナータカ州出身の人気フォーク(伝統音楽)系ポップ歌手Raghu Dixitと90年代から活躍する在英エレクトロニカ系アーティスト/タブラプレイヤーKarsh Kaleの共演で、プロデュースにはMidival Punditzの名も。
"India 91"は古典音楽カルナーティックのパーカッション奏者Viveick Rajagopalanのリズムに合わせてMC Altaf, MC TodFod, 100 RBH, Maharya & Noxious Dがラップする楽曲。
伝統のリズムとラップの融合という、インド特有のヒップホップ文化にもきちんと目配りがされていることがうれしかった。
元ネタは以前このブログでも紹介したRajagopalanとSwadesiのコラボレーションによる楽曲"Ta Dhom".(「インド古典音楽とラップ!インドのラップのもうひとつのルーツ」)
トリビア
最後に、映画の設定と実際のDivineとNaezyとで違うところや、トリビア的なものを挙げる。
これ以外にもたくさんあると思うけど、やはり監督Zoya Akhtarの言う通り、これは伝記映画ではなく、DivineとNaezyをモデルにアンダーグラウンド・ヒップホップシーンを描いたフィクション映画として楽しむべきものなのだろう。
- 映画の舞台は、『スラムドッグ・ミリオネア』と同じ「インド最大のスラム」ダラヴィになっていたが、Naezyが生まれ育った街はBombay70ことクルラ地区の出身で、Divineは西アンデーリー出身。いずれもスラムと呼ばれる土地ではある。
- Divineをモデルにしたと思われるMC Sherは、映画ではどうやらヒンドゥーという設定のようだったが、実際のDivineはクリスチャンで、本名はVivian Fernandes. 不良少年だったが、教会では敬虔に祈りを捧げることから、Divineの名を名乗ることになった。
- 映画ではMC Sherは母親がいない設定だったが、実際のDivineが育った環境はシングルマザーの家庭だった。実際はその母親も海外に出稼ぎに出ていたため、祖母のもとで育てられた。
- Muradが暮らす家をスラム体験ツアーで欧米人ツーリストが訪れたときに、Muradがツーリストが着ているNasのTシャツに反応するシーンがあるが、実際のDivineがヒップホップに興味を持ったきっかけは、彼のクラスメートが50 CentのTシャツを着ていたことだった。
- 映画では、MC SherがMuradに自分の言葉で自分でラップするように諭す存在として描かれているが、現実の世界でも、活動初期に英語でラップしていたDivineに対して、ヒンディー語でのラップを勧めたラッパーがいる。Camoflaugeの名でトロントでラッパーとして活動しているGangis Khanだ。
- 最初のラップバトルで、Muradが着ていたニセモノのアディダスを馬鹿にされ、何も言い返せなくなってしまうシーンがあるが、実際にニセモノのアディダスをテーマにした曲をリリースしたムンバイのラッパーがいる。英語でラップするTienasが2017年に発表した"Fake Adiddas"がそれで「ニセモノのアディダスと安物の服にはもうウンザリ」という内容。
- 映画ではMuradはSafeenaにプレゼントされたiPadを使って本格的にラップを始めるが、実際のNaezyは、父親にプレゼントされたiPadを使ってレコーディングし、ミュージックビデオを撮影してYoutubeにアップロードしたことが注目されるきっかけとなった。
ちなみにDivineの"Jungli Sher"もiPhoneで撮影されたミュージックビデオという触れ込みだが、これはメジャーのソニーからリリースされた楽曲なので、貧しさゆえというよりは話題作りという意味合いの強いものだろう。
映画の中でも、彼らが地元ダラヴィでミュージックビデオを撮影するシーンが出てくるが、この"Mere Gully Mein"はDivineとNaezyによるオリジナルにRanveerのパートを追加したもの。
- 映画ではMuradが暮らすスラムの地区は「ダラヴィ17」と呼ばれ、Gully Boyはダラヴィ17をレペゼンするラッパーとしてラップコンテストに望むことになるが、Naezyが生まれ育ったクルラ地区のスラムのエリアコードは"Bombay 70"。彼をモチーフにした短編ドキュメンタリー映画のタイトルにもなった。
- この映画のエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされている米ヒップホップ界の大スターNas(ナズ). パキスタンや北インドのムスリムの間で話されるウルドゥー語で'Naz'とは「あなたがどんなときも常に愛されていることを知ることで得られる安心感と自信」という意味の他の言語に訳せない言葉。単なる偶然だが、この映画のテーマを考えると暗示的ではある。この映画のためにNas, Divine, Naezy, Ranveer Singhがコラボした"NY Se Mumbai".
と、いろいろと語らせてもらいました。
個人的に好きなのは、Muradが家の中でiPadでラップの練習をしていて「独り言はやめなさい。縁起が悪いから」と母親に言われるシーンと、家でステージでのパフォーマンスの練習をしていたところに父親が帰ってきて、あわてて何もしていない振りをするシーン。
世界中のラッパー志望の若者たちが共感できて笑えるすごく素敵なシーンだと思った。
いずれにしても、この映画でインドのヒップホップシーンがますます注目され、活性化することは間違いない。
そんな中で、Divineは自らのレーベル'Gully Gang Entertainment'を発足することをアナウンスした。
そこからいったいどんなアーティストが出て来るのか、本当に楽しみで仕方がない。
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goshimasayama18 at 18:13|Permalink│Comments(0)








