落語
2019年01月01日
解題 新作落語「ガネーシャ」
改めまして、新年あけましておめでとうございます。
ちょうど1年ほど前、何をトチ狂ったか、インド神話を落語にしてみよう!という訳のわからないアイデアが降って湧いてきて、この「ガネーシャ」を一気に書き上げました。
(新作落語「ガネーシャ」へのリンクはこちら)
書いてはみたものの、いつもインドのロックだのヒップホップだのと書いているのに急に「新作落語」っていうのもちょっと唐突すぎるよなあ、というあたり前すぎることに気づいたのですが、やはりせっかく考えたものを出さずにいるというのは宿便のような快からぬ感覚があり、「正月に出すんならいいか」というわけのわからぬ理由にかこつけて、1年近くのお蔵入り期間を経てようやくアップしてみた次第です。
落語の筋書きとしても実に拙く、また神話の紹介としても不出来なことこの上ない(この下ないと言うべきか)この「ガネーシャ」ですが、恥ずかしながら出来の悪い子ほど可愛いというような気持ちでいるのもまた確かでして、蛇足どころかムカデにさらに足を加えるような無粋の極みではございますが、噺のはしばしに出てくるインド特有の事柄について、少しばかし解説をしたためましたので、ぜひこちらもお読みいただけましたら幸いでございます。
読んだけどつまらなかった、という方については、別に解説を読んだところで笑えてくるものでもないんですけど、お時間がございましたらどうかお読みください。
七福神:めでたい七福神のうちインド由来の神様は3人。
大黒天は「マハーカーラ」というシヴァの別名が元になっている。
この噺でも分かる通りシヴァはけっこうワイルドな神様だけど、大黒天になると福の神ってことになる。
毘沙門天は「クベーラ」という今のインドではマイナーな神様が原型。
「クベーラ」は富と財宝の神だったが、これは逆に毘沙門天になると武神になるのが面白い。
弁財天のルーツは学問と芸術の神「サラスヴァティー」で、インドでも今も広く信仰されている。
サラスヴァティーが持っているのは、琵琶の原型になったヴィーナというインドの楽器。
(画像出展:Wikipedia)
インドの神様の数:日本よりさらにスケールが大きくて、八百万どころか3,300万の神様がいることになっています。もちろん、本当にそんなにいるわけではなくて、「とにかくたくさんいる」ということの比喩表現なんでしょうけど、「ひょっとしたら本当にそれくらいいるかも」と思わせる何かがあります、インドには。
印度・天竺:落語の舞台となった江戸時代後期のインドは、地域にもよるけどイスラーム王朝のムガル帝国かイギリス統治時代だった。日本における天竺のイメージは仏教の故郷だが、当時仏教はすでにインドでは衰退して久しく、現代同様、大多数がヒンドゥー教を信仰していた。
ちなみにインドの仏教王朝といえば11世紀ごろまで栄えていたガンダーラ王朝が有名だが、ガンダーラの所在地は、現在のインド領の北西にあたるパキスタンやアフガニスタンのあたりだ。
クリシュナ:マハーバーラタに登場する英雄神。プレイボーイのイケメンで笛を持った姿で描かれる(確かに牛若丸的要素が強い)。その後、ヴィシュヌ神の化身の一つという扱いになり、現在もインド各地で高い人気を誇る。
(画像出展:Wikipedia)
サラスヴァティー:上記の「七福神」の欄を参照。
シヴァ:破壊と再生を司る神。ナタラージャと呼ばれる踊りの神でもある。
パールヴァティー:シヴァの妻の女神。金色の肌の美人とされる。
パールヴァティーとシヴァ。三又の鉾があり、首のコブラ、第三の目、ロングヘアーなどの特徴が伺える。頭部には女神ガンガーがガンジス河を口から吹いているのが分かる。手前にあるシヴァのシンボルのリンガ(男根)はインドの寺院でよく見かけられる。
インドの神様についてはまともに説明するとめちゃくちゃ長くなり、またそこまでの知識もないので各自調べて見てください。
ホーリー:春の訪れを祝って色のついた粉や水をぶっかけあう祭り。最近では都市部で音楽フェス化したイベントも見られる。
バラタナティヤム:インドで最古の伝統をもつと言われている南インドの舞踊。
芝浜:芝の魚屋を主人公にした落語。酒好きで借金まみれの主人公が改心して働く人情噺。「また夢になるといけねえ」は、使用人を雇うほどになり借金も返済した大晦日の夜、妻にひさしぶりの酒を勧められたあとに呟く有名なセリフ。
昨年末に見た蜃気楼龍玉師匠のが良かった。
サードゥー:ヒンドゥーの修行者。家と俗世を捨て、最低限のものだけを持って(ほとんど裸の人も!)ほどこしを受けながら放浪して修行する。
悟ったような人も俗物もいて、尊敬されていたり軽蔑されていたりする。
パールヴァティーが怒ったら:パールヴァティーは優しい女神とされているが、別神格としてライオンにまたがり10本の手に武器をの手にした女神ドゥルガー、殺戮を好む戦いの女神カーリーの姿をとることもある。
カーリーは色黒で生首でできたネックレスをし、切り落とした悪鬼アスラの首を手に夫シヴァを踏みつけている姿で描かれる。
元犬:人間になった犬が主人公の落語。当代だと隅田川馬石師匠のがかわいくて面白い。
粗忽長屋:行き倒れを見つけた粗忽者が、「同じ長屋の兄弟分に違いない、死んだことを本人に伝えないと」とわけのわからないことを言い出し、言われた本人も信じてしまうシュールでぶっとんだ落語。
当代だと桃月庵白酒師匠のが爆笑。
例に挙げた落語家が偶然だけど全員五街道雲助一門になってしまいました。
次回からはまたいつものブログに戻ります!
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
ちょうど1年ほど前、何をトチ狂ったか、インド神話を落語にしてみよう!という訳のわからないアイデアが降って湧いてきて、この「ガネーシャ」を一気に書き上げました。
(新作落語「ガネーシャ」へのリンクはこちら)
書いてはみたものの、いつもインドのロックだのヒップホップだのと書いているのに急に「新作落語」っていうのもちょっと唐突すぎるよなあ、というあたり前すぎることに気づいたのですが、やはりせっかく考えたものを出さずにいるというのは宿便のような快からぬ感覚があり、「正月に出すんならいいか」というわけのわからぬ理由にかこつけて、1年近くのお蔵入り期間を経てようやくアップしてみた次第です。
落語の筋書きとしても実に拙く、また神話の紹介としても不出来なことこの上ない(この下ないと言うべきか)この「ガネーシャ」ですが、恥ずかしながら出来の悪い子ほど可愛いというような気持ちでいるのもまた確かでして、蛇足どころかムカデにさらに足を加えるような無粋の極みではございますが、噺のはしばしに出てくるインド特有の事柄について、少しばかし解説をしたためましたので、ぜひこちらもお読みいただけましたら幸いでございます。
読んだけどつまらなかった、という方については、別に解説を読んだところで笑えてくるものでもないんですけど、お時間がございましたらどうかお読みください。
七福神:めでたい七福神のうちインド由来の神様は3人。
大黒天は「マハーカーラ」というシヴァの別名が元になっている。
この噺でも分かる通りシヴァはけっこうワイルドな神様だけど、大黒天になると福の神ってことになる。
毘沙門天は「クベーラ」という今のインドではマイナーな神様が原型。
「クベーラ」は富と財宝の神だったが、これは逆に毘沙門天になると武神になるのが面白い。
弁財天のルーツは学問と芸術の神「サラスヴァティー」で、インドでも今も広く信仰されている。
サラスヴァティーが持っているのは、琵琶の原型になったヴィーナというインドの楽器。
(画像出展:Wikipedia)
インドの神様の数:日本よりさらにスケールが大きくて、八百万どころか3,300万の神様がいることになっています。もちろん、本当にそんなにいるわけではなくて、「とにかくたくさんいる」ということの比喩表現なんでしょうけど、「ひょっとしたら本当にそれくらいいるかも」と思わせる何かがあります、インドには。
印度・天竺:落語の舞台となった江戸時代後期のインドは、地域にもよるけどイスラーム王朝のムガル帝国かイギリス統治時代だった。日本における天竺のイメージは仏教の故郷だが、当時仏教はすでにインドでは衰退して久しく、現代同様、大多数がヒンドゥー教を信仰していた。
ちなみにインドの仏教王朝といえば11世紀ごろまで栄えていたガンダーラ王朝が有名だが、ガンダーラの所在地は、現在のインド領の北西にあたるパキスタンやアフガニスタンのあたりだ。
クリシュナ:マハーバーラタに登場する英雄神。プレイボーイのイケメンで笛を持った姿で描かれる(確かに牛若丸的要素が強い)。その後、ヴィシュヌ神の化身の一つという扱いになり、現在もインド各地で高い人気を誇る。
(画像出展:Wikipedia)
サラスヴァティー:上記の「七福神」の欄を参照。
シヴァ:破壊と再生を司る神。ナタラージャと呼ばれる踊りの神でもある。
パールヴァティー:シヴァの妻の女神。金色の肌の美人とされる。
パールヴァティーとシヴァ。三又の鉾があり、首のコブラ、第三の目、ロングヘアーなどの特徴が伺える。頭部には女神ガンガーがガンジス河を口から吹いているのが分かる。手前にあるシヴァのシンボルのリンガ(男根)はインドの寺院でよく見かけられる。
インドの神様についてはまともに説明するとめちゃくちゃ長くなり、またそこまでの知識もないので各自調べて見てください。
ホーリー:春の訪れを祝って色のついた粉や水をぶっかけあう祭り。最近では都市部で音楽フェス化したイベントも見られる。
バラタナティヤム:インドで最古の伝統をもつと言われている南インドの舞踊。
芝浜:芝の魚屋を主人公にした落語。酒好きで借金まみれの主人公が改心して働く人情噺。「また夢になるといけねえ」は、使用人を雇うほどになり借金も返済した大晦日の夜、妻にひさしぶりの酒を勧められたあとに呟く有名なセリフ。
昨年末に見た蜃気楼龍玉師匠のが良かった。
サードゥー:ヒンドゥーの修行者。家と俗世を捨て、最低限のものだけを持って(ほとんど裸の人も!)ほどこしを受けながら放浪して修行する。
悟ったような人も俗物もいて、尊敬されていたり軽蔑されていたりする。
パールヴァティーが怒ったら:パールヴァティーは優しい女神とされているが、別神格としてライオンにまたがり10本の手に武器をの手にした女神ドゥルガー、殺戮を好む戦いの女神カーリーの姿をとることもある。
カーリーは色黒で生首でできたネックレスをし、切り落とした悪鬼アスラの首を手に夫シヴァを踏みつけている姿で描かれる。
元犬:人間になった犬が主人公の落語。当代だと隅田川馬石師匠のがかわいくて面白い。
粗忽長屋:行き倒れを見つけた粗忽者が、「同じ長屋の兄弟分に違いない、死んだことを本人に伝えないと」とわけのわからないことを言い出し、言われた本人も信じてしまうシュールでぶっとんだ落語。
当代だと桃月庵白酒師匠のが爆笑。
例に挙げた落語家が偶然だけど全員五街道雲助一門になってしまいました。
次回からはまたいつものブログに戻ります!
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goshimasayama18 at 22:01|Permalink│Comments(0)
お正月記念! 新作落語「ガネーシャ」
新年早々大勢のお運び、ありがたく御礼申し上げます。
どうか一席、お付き合いください。
アタクシなんかの若い頃はと申しますと、自分探しなんて言って海外に放浪の旅に出るような連中が大勢ございました。
タイだのインドだのに貧乏旅行しに行って、髭剃り持って行きゃいいのに無精髭生やしたりして、汚い格好して安宿に泊まって、道ばたで売ってるもの食って腹こわしたりなんかして、何しに旅行に行ってんだかまるで訳が分からない連中でございます。
そんでもって帰ってきて「人生観が変わった」なんて言ったりするんですけど、たいていの連中は2、3ヶ月もするとそんなこと忘れてバイトだ合コンだってまた夢中になるわけですな。
ところがたまにずっとこじらせてる奴がいたりなんかしまして、そういうのが私みたいにこういうブログをやっていたりするわけでございます。
正月ってんで初詣なんかに行かれた方も多いと思うんですが、ここ日本は八百万の神の国なんて申しまして、もういろいろなところに神社仏閣ってものがあるんですなあ。
でもその八百万の神々っていうのがみんな日本の神様かっていうと、そういうわけでもないんですね。
例えば七福神ってえのがございますが、この中で日本生まれの神様というのは恵比寿さまだけなんだそうでございます。
福禄寿とか寿老人っていうのはもともと中国の道教の神様で、大黒天や毘沙門天、弁財天っていうのは遠くインドからやってきた神様なんだそうでございます。
バンドでギター弾いてる甥っ子がいるんですけども、昨日その甥っ子が、
「おじさん、俺、ギターがうまくなるように、初詣で七福神の神様にお祈りしてきたんだよ」って言うんです。
「ギターの上達ってえことは、やっぱり芸能の神様の、琵琶持ってる弁天様にお詣りしてきたのかい?」って聞いたら、
「違うよ。琵琶じゃなくてギターなんだから、弁天様じゃなくて布袋だよ」
なんて言ってました。
ギターだけに、布袋。
ちょっと古いですかね。
…分かってない方が半分くらいいるみたいですけど、続けますね。
先ほど毘沙門天や弁財天っていうのはもともとインドの神様だって話をしましたけれども、インドってえ国も八百万と申しますか、大勢の神様がいる国でございます。
おなじみの長屋の住人がそんなインドに旅行に行って、向こうの寺院を詣でていろんな神様を見て帰ってきたなんていいますと、噺のほうの幕開けでございます。
「こんちわーご隠居」
「おお、八つぁんか。よく来てくれた。久しぶりだね。しばらく見なかったけど、どこか行っていたのかい」
「ええ、ちょっと印度のほうに出かけてやして」
「印度ってえと、天竺か。それはまたずいぶん遠くまで出かけてたんだね」
「ええ、それで、今日はご隠居に印度の土産を持ってきたんすけどね」
「おお、それはどうもありがとう。茶でも入れるから、まあお上がりなさい。
それでいったい何を買ってきてくれたんだい」
「いやね、印度といったらお釈迦様の古里なわけですからね、なんかありがたいご利益があるもんでも買ってこようと思ったんですよ」
「お前にしては気が効くじゃないか」
「印度のお寺の門前に行くってえと、ずらーっと土産物屋が並んでて、いろんな神様仏様の絵やら像やらが売られてたんですけどね、いやあ、印度ってのはずいぶんいろんな神様がいるんですねえ。牛若丸みたいに笛吹いてるやつだとか、弁天様みたいに琵琶持ってるやつだとか」
「それはクリシュナにサラスヴァティのことだな。それで、お前はいったい何を買ってきてくれたんだい?」
「いやね、せっかくだから、ご隠居をびっくりさせようと思って、そのいろいろある神様の像の中で、いちばんおかしな格好したやつを買ってきたんですよ」
「ほう、なんだい」
「見て驚かないでくださいよ、ほら、これ。
ね、すごいでしょ、手が4本生えてて、こーんな太鼓腹で、顔はってえと、こーんなに大きくて、そんで鼻がこーんなに長い、象の顔がついた神様の絵」
「ほーう。これはこれはいいものを買ってきてくれたな」
「ところでご隠居、この変てこな神様、いったいなんなんですかね」
「自分が持ってきた土産のことを渡す相手に聞くやつがいるか。まあいい、せっかくだから聞かせてやろう。この神様はガネーシャといってだな、シヴァ神の息子だ」
「千葉真一の息子ってえと、新田真剣佑、ですか」
「何を言っておるのだ。千葉真一じゃなくて、シヴァ神だ。シヴァっていうのは、印度の破壊と創造の神様だよ」
「へえ、それでその騒々しい神様の息子の頭がどういうわけで象になってるんです」
「まあ少し長い話になるが聞きなさい。シヴァにはパールヴァティーというおかみさんがいた。神様というのもなかなか大変なもので、このシヴァ、おのれの力を高めるために、三七、21年の修行に出ることとした」
「21年!そんなに出かけてたらおかみさんがおばあさんになっちゃいますよ」
「神様にしてみたら、それくらいの時間は大したことじゃないんだよ」
「へえ、ウルトラマンも40000歳だっていいますからね」
「柳家喬太郎の新作落語みたいなことを言っていないで、黙って聞きなさい」
(以下、シヴァ家の物語。地の文はご隠居の語り)
「おーい、パールヴァティ、パールヴァティや、いないのか。パールヴァティやーい。うちの女房、名前が長くっていけねえや。おーい、パー子。パー子やーい」
「あたしならここにいますよ。何だいおまえさん、ひとのことパー子パー子って。うちは林家だってのかい?おまえさんが私のことパー子って呼ぶんなら、私はおまえさんのこと「ぺー」って呼びますよ」
「よしてくれよ。ホーリーじゃあるまいし、ピンク色の服なんか着ちゃいないんだから。それよりな、俺、ちょっくらアメリカまで修行に行ってくることにしたから、留守はよろしくたのむ」
「修行ってまた唐突だねえ。いったいなんの修行なの」
「踊りの稽古」
シヴァってえのは踊りの神様でもあるからな。
「踊りの稽古って、デカン高原の師匠んとこじゃ駄目なのかい」
「師匠んとこじゃバラタナティヤムしか教えてくれねえからよ。そんなんじゃ最近の若い連中は誰も俺のこと信心してくれないんだよ。見たかい、最近の若い連中ときたら映画なんかでも洋風の踊りばっかり踊りやがって。そんなわけでちょっくらニューヨークまでヒップホップ習いに行ってくらあ。そんじゃ」
ってんでシヴァ、飛び出して行ってしまった。
「まったく、あの人ったらいっつも唐突なんだから」
さて一人で留守番をすることになったパールヴァティ、何をするにも一人じゃあ手が足りないし話し相手もいない。女の一人暮らしは物騒だってんで、風呂に入ったときに自分の体から出た垢で子どもをこしらえることにした。
垢から子どもを作るっていうのは変に聞こえるかもしれないが、パールヴァティはシヴァのおかみさん。女神様だからそんなことは朝飯前だ。
自分の垢をこねてこねて、かわいい男の子赤ん坊を作り出した。
八つぁん「これが本当の垢ちゃんってやつですね」
余計なことは言わなくてよい。
「まあ、かわいい男の子。名前は何にしようかしら。そうだ、ガネーシャがいいわね。ガネ坊、これからあんたのことガネ坊って呼ぶわよ」
「ぼくのこと作ってくれてありがとう、おっかさん」
さすが神様の子ども、生まれてすぐに口を聞いた。
八つぁん「ガネーシャ様ってえのは、生まれた時は象の頭じゃなかったんですかい?」
そうだ。かわいい男の子だった。
このガネ坊、シヴァがいない間にどんどん大きくなっていった。
さすがは神様の子どもだ。たいそう賢く育っていった。
それから大きくなるってえと、若いうちから商売の才覚もあったようで、ずいぶんな人気者になった。
ただ、甘いもの好きなのだけが欠点で、たいそう腹の出た若者に育っていったんじゃ。
そうこうしているうちに三七21年が経って、シヴァがニューヨークから帰ってきた。すっかり本場のダンサー気取りで、髪はコーンロウに編み込んで、アディダスのジャージにぶっとい金のネックレス。馬鹿でかいラジカセをかついで帰ってきたんだ。
八つぁん:「ずいぶん古いタイプのヒップホップですね」
なにしろずいぶん昔の神話だからな。
シヴァが久しぶりに自分の家に帰ってきたってえと、
「ただいまー。おーい、帰ったぞー。ただいまー」
家の前にいたのはあのガネ坊だ。
「どなたですか」
「どなたですかってことがあるかい。ここは俺んちだ。誰だおめえは。」
「俺んちって言ったっておじさん。ここはおいらとおっかさんが二人で住んでる家だ。おじさんみたいないい年こいたラッパーかぶれが来るとこじゃないよ」
「何をぬかしやがる、恵比寿様みたいな腹しやがってこん畜生」
「だいたいおじさん、そんなサイズの合わないジャージ着て、そんな頭して、ラッパーじゃなくてラジカセ盗んできたサードゥー崩れの乞食だろう。なんもやらないよ」
「なんだとこの野郎。この髪型はコーンロウってんだ。だまってきいてりゃ言いたいこといいやがって。俺を誰だと思ってやがる。この家の主人のシヴァ様だぞ」
「おっかさんに聞いたけどシヴァさまってのはそんなだらしない格好してないよ。そんな安っぽいネックレスじゃなくて首にはコブラ巻いてて、頭っからガンジス河のみずがぴゅーって出てて、三つ又の鉾持ってるはずだよ」
「首のコブラはだな、ニューヨークじゃ流行らないからゴールドのチェーンに変えちまった。頭のガンジス河はアメリカに持ってっちまったらインドが干上がっちまうから、ヒマラヤのほうに置いてきた。三つ又の鉾はだな、空港でぶっそうだからって取り上げられちまったんだよ」
「そんな適当なこと言って、だまされないよ。おじさんはどう見たって偽物だよ。このラッパーかぶれの乞食野郎、とっとと失せろ!」
「この野郎、喧嘩売ってんのか」
「喧嘩売ったっておじさん買う金もないだろう。ほら、1ルピー恵んでやるから帰った帰った」
「この野郎、ぶっ殺されてえか」
「やれるものならやってみなよ。この乞食じじい」
「何を」
と言うが早いか、短気なシヴァ、刀を抜いてガネ坊の首を一刀のもとに切り落とした。
おい八つぁん、八つぁん。聞いてるのか。
あきれたね、人に話をさせておいて、欠伸なんかして。眠くなってきたんならちょいとそこに横になって構わないから、昼寝でもしたらどうだ。
八つぁん:「よそう。夢になっちゃいけねえ」
何を言っているんだ
八つぁん:「これがほんとのシヴァ浜」
またくだらないことを言って
八つぁん:「ふあー。それで、シヴァの野郎、ガネ坊の首ちょん切っちゃって、どうなったんですか」
(再びシヴァの物語)
「ただいまー。おーい。パールヴァティやーい」
「あらあなたお帰りなさい。ま!どうしたのそんな部屋着みたいな格好でサードゥーみたいな頭にして。ニューヨークでいけない薬でもやりすぎたのかい」
「これだから田舎者はいけねえや。向こうじゃこれが流行ってるんだよ」
「あんた、そこでガネ坊に合わなかったかい?」
「ガネ坊って、誰のことだ」
「あんたが出かけてからこさえたあたしの子どもだよ。賢くって評判なんだから」
「子どもっておめえ、誰とこさえたんだ」
「変なこと考えるんじゃないよ。あたしが自分の垢から作ったんだよ。あたしの子どもってことはあんたの子ども。あたしたち二人の子どもだよ」
「それで、ガネ坊ってのはどんな子どもなんだい」
「とっても賢くて、いろんなところに奉公に行かせたんだけど、商売の才能もとってもあるみたいなのよ。まるまる太ってとってもかわいいんだから。さっきまで家の前にいたはずだけど」
「…いけねえ!」
さあ、自分が叩っ切ったのが自分とパールヴァティの子どもと知ったシヴァは真っ青だ。パールヴァティはガネ坊を呼びに表に飛び出していった。
「ガネ坊、ガネ坊。おとっつぁんが帰ってきたわよー。(ガラガラガラ)
そこには首がちょん切れたガネ坊のかばねがある。
キャー!あんた、これ一体、どうなってるの、ガネ坊が、ガネ坊が!」
「パー子、すまねえ。本当にすまねえ。おいら、自分の子どもだなんて知らずに、妙なやつが家からでてきて『ここはお前の家じゃねえ』なんて言うから、知らねえで叩っ切っちまった」
「あんた一体どうしてくれるんだい。幸いまだ心臓は動いてるよ。なんでもいいから、はやく頭をくっつけて、ガネ坊を生き返らせておくれ」
「生き返らせてくれって言ったって、そりゃいくら何でも無理だよ」
「あんた、あたしの子どもをこんな風にして、私を怒らせたらどうなるか分かってるのかい?またいつぞやみたいに踏んづけてやる!」
「分かった分かった。どうにかするから。えーと、えーと。そうだ、通りがかったやつの頭をちょん切って、ガネ坊の体にくっつければいいんだ。
…って言ったって、そのへん歩いてるカタギの首ちょん切ったら俺がお縄だしなあ。ぶっ殺しても良さそうな墨入ったヤクザもんなんてそうそう歩いてないし、ガネ坊の顔がヤクザもんになっちまっても困るしなあ。
あ、犬が来た!犬の首切ってくっつけようか。あーでも犬の脳みそじゃさすがにまずいよなあ。元犬みたいになっちまう。
あ、向こうから来たのは象だ!象なら賢いし、愛嬌もあるし、いいんじゃねえか。
よし、ちょうどこっちに来た。御免!」
ってえと、バサッと象の首を一刀の元に切り落とした。
さあシヴァ、切り落とした象の首をえいやっと持ち上げると、まだ暖かいガネ坊の体にくっつけた。
「えいっ…!生き返れ!そらっ…!」
するとさすがは神様。シヴァの祈りが通じて、象の頭になっちまったガネ坊が目を開けたんだよ。
「あれ?ここは?うーん…
あ!乞食のおじさん!人の首、切りやがったな!」
「すまねえガネ坊、許しておくれ。俺はお前のおとっつぁんだよ。修行に出かけててお前が生まれたことなんてさっぱり知らなかった。お前の首は切り落としちまったけど、立派な象の頭をつけておいてやったから」
「まだふざけたこと言ってやがる」
「本当だよガネ坊。この人はあんたのおとっつぁん。ちょっとおかしなところもあるけど、正真正銘のシヴァさまだよ」
というわけで、見事息を吹き返したガネーシャ。頭は象の形になったものの、今まで通り秀才で商売の才能もあり、今でも学問と商売の神様として崇められているってえ話だ。
これがお前が買ってきてくれたガネーシャの神話ってわけだ。
「でもご隠居、それちょっとおかしくないですか?
シヴァはガネーシャの体に、象の頭をくっつけたんですよねえ?」
「そうだ。」
「そしたら、脳みそはガネーシャじゃなくて象なんだから、神様なのは体だけで、考えてることは象ってことになるんじゃないですかねえ」
「そんなこと言ってもしょうがないだろう。こういう神話なんだから」
「だっておかしいじゃないですか。普通、首と胴体がちょん切られたらですよ、誰だって首のほうが大事だと思うでしょう。将門公だって、切られた首が恨めしやーって飛んでったってんですから。首切られて胴体のほうに心が残ってるなんて話、聞いたことがない」
「まあそれはそうだが、これは印度のお話だから日本とはちょっと違うんだろう」
「まだそのへんに人間のガネーシャの首と、象の体が転がってるわけですよねえ。あっしが思うに、シヴァの野郎、せっかくだから人間の首と象の体もくっつけたんじゃないですかねえ。
そんで、ガネ坊のやつ、『あれ?何だ?体が象になってる。向こうにいるのは象の頭で、体はおいらだ。入れ替わってる!しかもあいつの方がガネーシャってことは、俺はいったい誰なんだろう?』って、『君の名は』か『粗忽長屋』みたいなことになっちまったんじゃないですかねえ」
「なに馬鹿なことを言っているのだ」
「そんでこう言ったんじゃないですかね。いくら頭がもとのままでも、体が象じゃあ、しょうがねえしゃ」
「くだらないことを言うでない。でもお土産買ってきてくれてありがとうよ。ガネーシャさまは新しいことを始めるときにお祈りをするとご利益があると言われている。一年の始まりにはぴったりじゃ」
「へえ、そいつは良かった。それにしてもご隠居、よくこんな日本じゃあ見たこともないような神様のこと知ってますね」
「それがそうでもない。このガネーシャはここ日本でも祀られておる」
「へえ!そうなんですか?それは知りませんでした」
「浅草に、待乳山聖天さまというお寺があるだろう。あのお寺に祀られている聖天さまというのは、インドから伝わってきたこのガネーシャのことなんじゃよ。もっとも、ここ日本では、ヒンドゥー教ではなく仏教の神様ということになっているがな」
「さすがご隠居、なんでも知っているんですね。でも、遠く離れたここ日本でもお祀りされてるって聞いたら、インドのガネーシャさまもうれしいでしょうね」
「そうだな。ガネーシャも鼻が高いだろうな」
「それは違いますご隠居。ガネーシャは鼻が高いんじゃなくて、鼻が長いんでさ」
(ガネーシャの象頭の由来の神話は諸説あり、その中の一つをもとに適当に創作したものです。悪しからず。解説はこちら)
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2018年01月03日
インドと落語!インドの下町は江戸の長屋か
新年明けましておめでとうございます。
新年ってことでなんかめでたい感じの話題で書きたいな、と思ったので、今回のテーマは「インドと落語」!
唐突で申し訳ない。
あたくし、実は落語も好きなんですが、インドへの旅の経験とインドの小説をいくつか読んでみた結果、インドの生活ってどうやら相当落語っぽいところがあるぞ、と気がついた次第なのです。
というわけで、お年玉代わりにみなさんにこの発見を勝手にお裾分けさせてもらいます。
いらねえよ、とか言わないでおつきあいくださいませ。
まずは、インドの社会そのものが相当落語っぽいぞ、という話から。
インドの場合、そもそも貧しい庶民は長屋暮らしなわけで、そこに落語に欠かせない大家と店子の関係ってのがある。
インドの小説なんかを読むってえと、インドの大家はたいがい落語の「大工調べ」みたいな、義理も人情もない容赦ない悪役タイプと決まってるみたいなんですが。
それから貧富の差から奉公人制度(召使い、サーバントといったほうが良いのかな。最近じゃサーバントという言葉も前近代的ということであまりインドでも使わないようでもあるが)というのも今に至るまで残っていて、これまた落語的な社会制度が今日でも生きていると言える。
さらに、歴史的に生活の基盤となってきた「ジャーティ」(世襲的な生業による共同体。共同体ごとに貴賎の差もあり、いわゆる実質的な「カースト」)ってえのに基づいた「家業」があって、子が親のあとを継いで、徒弟制があって…というのも、今となってはだいぶ変わってきているけど、落語の世界(江戸〜明治)を思わせるところがあるってわけです。
あとはインドというのが一つの国でありながら、地理的、文化的に非常に広大だというのも、古い時代を彷彿とさせるところがある。
デリーとムンバイじゃ言葉も文化もだいぶ違って、江戸と上方みたいなものなのかもしれないし、いまでも大都会を離れると田舎はとことん田舎ってのも落語っぽい。
日本だと、違う街から出てきたら全然勝手がわからないとか、絵に描いたような「いなか者」ってもうフィクションに近いような気がするけど、インドだとまだまだリアリティーがある。
役人がいばってるのも封建社会の江戸時代っぽいような気もするし、道端のチャイ屋さんに若い衆がたむろしてたり、おかみさんたちが井戸端会議してたり、なんかあるとすぐ大勢寄ってたかって議論が始まったりするところとかも、いちいち落語っぽいよなあーと思うわけであります。
神頼みもみんな好きだしね。
あとインドって、街中の店だと定価制度じゃなくて、交渉して値段決めるでしょ。あのへんもすごく落語っぽいと思う。
落語でいうと例えば「壺算」。
水甕を買いに行くのに、高く売りつけられないように買い物上手の仲間を連れて行って甕屋と価格交渉するって筋なんだけど「大勢並ぶ甕屋の中でうちを選んでくれたんですから、勉強して3円50銭でいかがでしょう」ってところから始まるやり取りなんか、ものすごくインド的。
交渉して値切るのもそうだし、インドも、古い街だと生地屋なら生地屋、金物屋なら金物屋、って、同じ商売の店がまとまって並んでる。
ああ、あれって江戸と同じなんだなあって思う。
モノが水瓶ってのも、インドの田舎だとまだまだ現役だしね。
他の噺でも、例えば「猫の皿」のなんとかして値打ち物の皿を手に入れようっていうやり取りとか、「時そば」のしょうもないペテンとか、「インドっぽいなあ〜」って感じてしまう。
こんなふうに、インドは現代日本と比べて、ずいぶんと落語的っていうか、江戸的な世界だなあって思うんです。
古典落語って、今の日本だと、ある程度時代背景とか当時の社会のことを知らないと理解が難しい部分があったりするけど、インドだったらほとんど説明不要で通じるんじゃないかしら。
それだけ古い時代が残ってるとも言えるわけだけど。
英語で落語ができる噺家さんは何人かいるんだけど、インドでやるんだったら「進歩・教養・上流」の象徴である英語よりも、地元の言葉のヒンディー語とかベンガル語とかでやったらすごくはまりそう。
次に、インドの小説の中に出てくるエピソードで、「落語っぽいなあ」と感じたところをいくつかご紹介。(ちょっと長くなりますがご勘弁を)
例えばロヒントン・ミストリーの「A Fine Balance」(超名作なのに残念ながら未邦訳)は、仕立屋として暮らす未亡人のところに、彼女の友人の息子である学生(彼らはパールシーと呼ばれるゾロアスター教徒)と、故あって故郷から逃げてきたヒンドゥーの叔父・甥の二人組が住み込みの職人として働くっていう話。
この学生と甥っ子が、同世代同士、打ち解けて仲良くなってゆくところなんか、落語の若旦那と奉公人(出入りの商人も可)のやりとりみたいな面白みがある。
女主人(未亡人)の不在中に、2人で端切れでできた生理用品を「何だろこれ?」って投げあって大騒ぎして遊んでたら、気づかないうちに女主人が帰って大目玉を食らう、なんてシーンは、すごく落語的。
他にも、
「それを固くするために手でこする。それを中に入れるためになめる。何をしようとしてるか分かるかい」
「何って、そりゃセックスだろ」
「針に糸を入れるとこだよ」 なんていう小咄も出てくる。
スラムドッグ$ミリオネアの原作、ヴィカス・スワループの「ぼくと1ルピーの神様」(原題:Q&A)の中の武勲をたてた法螺吹き話をする元軍人のシーク教徒のじいさんの話なんかも落語っぽい。
悲劇的なエピソードではあるのだけど、長屋の仲間に「戦争の英雄だった」って話してたのが全部ホラだった、っていうしょうもない感じも非常に落語を感じる。
そもそも「ぼくと1ルピーの神様」自体が人情噺みたいなストーリーだし。
アラヴィンド・アディガの「グローバリズム出づる処の殺人者より」(原題:A White Tiger)っていう小説でも、主人公の貧しい運転手が、奉公先の奥さんが酒に酔って起こしたひき逃げ事故の身代わりに出頭することになって、
「刑務所に入ったらきっと他の受刑者にオカマを掘られるよなあ。そうだ、俺HIV持ちです、って言えばオカマ掘られないで済むかもしれない。でもそんなこと言ったらそういうのに慣れてると思われて余計オカマ掘られちゃうかもしれないなあ」
なんて悩むシーンが出てくるんだけど、この救いようの無さの中にどうしようもなく可笑しみが出てきてしまうあたりも、すごく落語っぽさを感じた。
面白いのが、ここで挙げた落語を感じる小説って、全部、貧しい層が主人公の話だったり、昔の話だったりすること。
イギリス出身でアメリカ国籍のインド系作家で、世界的に高い評価を得ているジュンパ・ラヒリとか、インド国内で大人気の、都会の中の上くらいの階級のトレンディドラマ的小説を書いているChetan Bhagatの小説なんかだと、いくら舞台がインドでも落語っぽい部分って見当たらないんだよなあ。
って、こんな発見を面白いって思ってるのは自分一人のような気もしないでも無いのですが、まあいいや、これにて新年の挨拶に代えさせて頂きたく候。
なんの画像もリンクもないのもさみしいので、写真はずいぶん若いころにインドのジャマー・マスジッドで撮った1枚。
今年もよろしくおねげえしやす。
新年ってことでなんかめでたい感じの話題で書きたいな、と思ったので、今回のテーマは「インドと落語」!
唐突で申し訳ない。
あたくし、実は落語も好きなんですが、インドへの旅の経験とインドの小説をいくつか読んでみた結果、インドの生活ってどうやら相当落語っぽいところがあるぞ、と気がついた次第なのです。
というわけで、お年玉代わりにみなさんにこの発見を勝手にお裾分けさせてもらいます。
いらねえよ、とか言わないでおつきあいくださいませ。
まずは、インドの社会そのものが相当落語っぽいぞ、という話から。
インドの場合、そもそも貧しい庶民は長屋暮らしなわけで、そこに落語に欠かせない大家と店子の関係ってのがある。
インドの小説なんかを読むってえと、インドの大家はたいがい落語の「大工調べ」みたいな、義理も人情もない容赦ない悪役タイプと決まってるみたいなんですが。
それから貧富の差から奉公人制度(召使い、サーバントといったほうが良いのかな。最近じゃサーバントという言葉も前近代的ということであまりインドでも使わないようでもあるが)というのも今に至るまで残っていて、これまた落語的な社会制度が今日でも生きていると言える。
さらに、歴史的に生活の基盤となってきた「ジャーティ」(世襲的な生業による共同体。共同体ごとに貴賎の差もあり、いわゆる実質的な「カースト」)ってえのに基づいた「家業」があって、子が親のあとを継いで、徒弟制があって…というのも、今となってはだいぶ変わってきているけど、落語の世界(江戸〜明治)を思わせるところがあるってわけです。
あとはインドというのが一つの国でありながら、地理的、文化的に非常に広大だというのも、古い時代を彷彿とさせるところがある。
デリーとムンバイじゃ言葉も文化もだいぶ違って、江戸と上方みたいなものなのかもしれないし、いまでも大都会を離れると田舎はとことん田舎ってのも落語っぽい。
日本だと、違う街から出てきたら全然勝手がわからないとか、絵に描いたような「いなか者」ってもうフィクションに近いような気がするけど、インドだとまだまだリアリティーがある。
役人がいばってるのも封建社会の江戸時代っぽいような気もするし、道端のチャイ屋さんに若い衆がたむろしてたり、おかみさんたちが井戸端会議してたり、なんかあるとすぐ大勢寄ってたかって議論が始まったりするところとかも、いちいち落語っぽいよなあーと思うわけであります。
神頼みもみんな好きだしね。
あとインドって、街中の店だと定価制度じゃなくて、交渉して値段決めるでしょ。あのへんもすごく落語っぽいと思う。
落語でいうと例えば「壺算」。
水甕を買いに行くのに、高く売りつけられないように買い物上手の仲間を連れて行って甕屋と価格交渉するって筋なんだけど「大勢並ぶ甕屋の中でうちを選んでくれたんですから、勉強して3円50銭でいかがでしょう」ってところから始まるやり取りなんか、ものすごくインド的。
交渉して値切るのもそうだし、インドも、古い街だと生地屋なら生地屋、金物屋なら金物屋、って、同じ商売の店がまとまって並んでる。
ああ、あれって江戸と同じなんだなあって思う。
モノが水瓶ってのも、インドの田舎だとまだまだ現役だしね。
他の噺でも、例えば「猫の皿」のなんとかして値打ち物の皿を手に入れようっていうやり取りとか、「時そば」のしょうもないペテンとか、「インドっぽいなあ〜」って感じてしまう。
こんなふうに、インドは現代日本と比べて、ずいぶんと落語的っていうか、江戸的な世界だなあって思うんです。
古典落語って、今の日本だと、ある程度時代背景とか当時の社会のことを知らないと理解が難しい部分があったりするけど、インドだったらほとんど説明不要で通じるんじゃないかしら。
それだけ古い時代が残ってるとも言えるわけだけど。
英語で落語ができる噺家さんは何人かいるんだけど、インドでやるんだったら「進歩・教養・上流」の象徴である英語よりも、地元の言葉のヒンディー語とかベンガル語とかでやったらすごくはまりそう。
次に、インドの小説の中に出てくるエピソードで、「落語っぽいなあ」と感じたところをいくつかご紹介。(ちょっと長くなりますがご勘弁を)
例えばロヒントン・ミストリーの「A Fine Balance」(超名作なのに残念ながら未邦訳)は、仕立屋として暮らす未亡人のところに、彼女の友人の息子である学生(彼らはパールシーと呼ばれるゾロアスター教徒)と、故あって故郷から逃げてきたヒンドゥーの叔父・甥の二人組が住み込みの職人として働くっていう話。
この学生と甥っ子が、同世代同士、打ち解けて仲良くなってゆくところなんか、落語の若旦那と奉公人(出入りの商人も可)のやりとりみたいな面白みがある。
女主人(未亡人)の不在中に、2人で端切れでできた生理用品を「何だろこれ?」って投げあって大騒ぎして遊んでたら、気づかないうちに女主人が帰って大目玉を食らう、なんてシーンは、すごく落語的。
他にも、
「それを固くするために手でこする。それを中に入れるためになめる。何をしようとしてるか分かるかい」
「何って、そりゃセックスだろ」
「針に糸を入れるとこだよ」 なんていう小咄も出てくる。
スラムドッグ$ミリオネアの原作、ヴィカス・スワループの「ぼくと1ルピーの神様」(原題:Q&A)の中の武勲をたてた法螺吹き話をする元軍人のシーク教徒のじいさんの話なんかも落語っぽい。
悲劇的なエピソードではあるのだけど、長屋の仲間に「戦争の英雄だった」って話してたのが全部ホラだった、っていうしょうもない感じも非常に落語を感じる。
そもそも「ぼくと1ルピーの神様」自体が人情噺みたいなストーリーだし。
アラヴィンド・アディガの「グローバリズム出づる処の殺人者より」(原題:A White Tiger)っていう小説でも、主人公の貧しい運転手が、奉公先の奥さんが酒に酔って起こしたひき逃げ事故の身代わりに出頭することになって、
「刑務所に入ったらきっと他の受刑者にオカマを掘られるよなあ。そうだ、俺HIV持ちです、って言えばオカマ掘られないで済むかもしれない。でもそんなこと言ったらそういうのに慣れてると思われて余計オカマ掘られちゃうかもしれないなあ」
なんて悩むシーンが出てくるんだけど、この救いようの無さの中にどうしようもなく可笑しみが出てきてしまうあたりも、すごく落語っぽさを感じた。
面白いのが、ここで挙げた落語を感じる小説って、全部、貧しい層が主人公の話だったり、昔の話だったりすること。
イギリス出身でアメリカ国籍のインド系作家で、世界的に高い評価を得ているジュンパ・ラヒリとか、インド国内で大人気の、都会の中の上くらいの階級のトレンディドラマ的小説を書いているChetan Bhagatの小説なんかだと、いくら舞台がインドでも落語っぽい部分って見当たらないんだよなあ。
って、こんな発見を面白いって思ってるのは自分一人のような気もしないでも無いのですが、まあいいや、これにて新年の挨拶に代えさせて頂きたく候。
なんの画像もリンクもないのもさみしいので、写真はずいぶん若いころにインドのジャマー・マスジッドで撮った1枚。
今年もよろしくおねげえしやす。
goshimasayama18 at 15:20|Permalink│Comments(0)