私たちが光と想うすべて
2025年07月29日
『私たちが光と想うすべて』とTopsheの音楽についても改めて紹介しておきたい
光栄なことに、『私たちが光と想うすべて』のパンフレットに寄稿する機会をいただいた。
でも、パンフレットを読むのは劇場で映画を見終わった人だけだろうから、このブログでも改めて簡単に紹介しておきたい。
今では色々なタイプのインド映画が日本で公開されているが、この作品はどの映画にも似ていない。
そして、たいへん素晴らしい。
パヤル・カパーリヤー監督の作品がカンヌ映画祭のグランプリ(最高賞パルムドールに次ぐ評価)を獲得したというニュースを聞いたのは、去年の5月のことだったと思う。
その時はまだ、『私たちが光と想うすべて』という、直訳ながらセンスの良いタイトルもなく、原題の『All We Imagine As Light』で認識していた。
近年のインドでは、いわゆる「歌って踊るマサラムービー」的な映画だけではなく、海外の映画祭で高く評価されるようなタイプの良作もたくさん作られている。
だから正直、インド映画がカンヌ初めて受賞したという知らせを聞いても、そんなに興奮もしなかったし、驚きもしなかった。
驚いたのはその後。
コルカタのシンガーソングライター、Topsheのインスタグラムを見ていたときだった。
彼はセンスの良いインディーポップを作っているのだが、インドでもほぼ無名な、知る人ぞ知る存在だ。
おそらく彼の活動拠点がインドの「公用語」であるヒンディー語圏のムンバイやデリーではなく、ベンガル語圏のコルカタであることが影響しているのだと思うが、彼の知名度は、作品のクオリティと比較して驚くほど低い。
彼が2019年にリリースしたEP"Never A Romantic"なんて、CDの時代だったら、タワレコの洋楽コーナーで10枚入りの試聴機の7番目くらいにずっと入っていそうな(伝わるかなあ、この感じ)、良い味のある作品なのに。
ともかく、そのTopsheが、「自分が音楽を手がけた映画がカンヌでグランプリを取ってうれしい」と投稿していたのだから驚いた。
自分が推していた無名なミュージシャンが、カンヌでグランプリを撮るような才能のある映画監督に起用され、広く知られるようになるというのは、他人事とはいえうれしいことだ。
カパーリヤー監督がTopsheを起用した理由が、Topsheがじつは彼女の片腕とも言える撮影監督の弟だったからという身も蓋もない話を聴いたときは、驚いたというよりも力が抜けた。
縁故採用だったのかよ。
それでも、この作品でTopsheが果たした役割は、ちょっとすごいものがある。
ふだんTopsheが書いているのは、ギター主体のヴィンテージなポップスに美しいハーモニーを乗せた曲だったり、どこか懐かしい感じのシンセポップだったりする。
英語詞なので洋楽風なのだが、どこか無国籍で、都市に暮らす空虚さや憂鬱を感じさせられる音楽だ。
(Topsheの音楽が気になった方はこちらからどうぞ)
ところが、この映画のために彼が書いたのは、いつものスタイルとはまったく違うタイプの曲で、アコースティックギターに哀愁のある口笛が乗っていたり、アンビエントっぽかったりする。
いかにもサウンドトラックっぽいというか、言ってしまえばかなり地味な曲だ。
サントラだけ聴いた時にはちょっと微妙な気分になったものだが、エンドロールまで見れば、この作品で彼がすごくいい仕事をしたということがわかるはずだ。
都会に暮らす、ある種の諦念と希望、さりげない喜びや矜持。人生を祝福したくなる瞬間。
Topsheの音楽がもともと持っていた繊細な感覚が、カパーリヤー監督の世界観と見事に共鳴している。
パンフレットに書いたのでここでは繰り返さないが、Topshe以外の選曲のセンスもすばらしい。
Spotifyに各種サブスクにプレイリストがあるので(たぶん他のサブスクにも)、興味を持った方は調べてみてください。
パンフに書いた以外で、ごく短いシーンに使われている楽曲も、ウクライナのlo-fi/アンビエント系アーティストだったり、アルゼンチンの電子音楽ユニットだったりと、多様なルーツを持った音楽を、現代の普遍的な都市生活者の情感へと昇華するセンスが素晴らしい。
音楽の話ばかりしていてもしょうがないので、映画のあらすじを紹介する。
ケーララ出身のプラバとアヌは、大都市ムンバイで看護師として働き、ルームメイトとして同居している。
真面目な性格のプラバは既婚者だが、夫はドイツに出稼ぎに出たままずっと連絡がない。
奔放なアヌにはムスリムの恋人がいるが、ヒンドゥー教徒の彼女の両親が交際を認めてくれるはずもなく、その存在を隠して暮らしている。
二人が働く病院の食堂に務めるパルバティは、高層ビル建築のために、住居からの立ち退きを迫られ、とうとう故郷の村に帰ることになる。
プラバとアヌは、パルバティの故郷の海辺の村まで彼女を見送りに行く。
そこは喧騒と混沌のムンバイとはまったく異なる、ゆっくりとした時間が流れる場所だった。
プラバもアヌも、村で過ごす時間のなかで、自分の人生を取り戻してゆく…。
こうして書くと、ものすごく地味な印象を受けるかもしれないが、ストーリーだけを追えば、まあ派手な映画ではないのは確かだ。
派手な映画には表現のできない、私たちの人生にもっと近くて、愛おしい感覚が、『私たちが光と想うすべて』には結晶のように込められている。
興奮や高揚感ではなく、悲しみとか喜びとかいう名前をつけることがぎりぎりできないような感情をなぞりながら、一瞬も退屈させずに観る者をストーリーに惹きつけてゆく手腕が素晴らしい。
冒頭に貼った予告編でも伝わったと思うが、湿気を含んだモンスーンのムンバイの空気感を伝える色彩と、独特のざらっとした質感の映像もいいし、音の使い方もすごくいい。
この映画に出てくるムンバイは、高層ビル街でも高級住宅街でもなく、混沌に満ちた下町なのだけど、その雑踏の喧騒に、本当にその場にいるかのようなリアリティが感じられる。
映画の一部を切り取ったこの動画を見てもらえれば、その感覚が伝わるものと思う。
ストーリーの背景には、家庭や社会のなかで押し付けられた役割が、いまだに女性の自由や幸福を奪っているというテーマがある。
ただ、それが遠い国の物語ではなく、自分自身にも見に覚えがある感情として伝わってくる。
出稼ぎの夫が帰らないとか、恋人と宗教が違うとかいった悩みは、ほとんどの日本人にはまったく馴染みのない世界の話だろう。
それでも、人間が心の奥底で感じる孤独とか憂鬱というのは、そんなに変わらない。
ここまで書いてきた魅力だけで、この映画は十分に見る価値があるのだけど、さらに言うと、この映画はそれだけじゃない。
先ほどあらすじに書いた先の部分で、監督の映画作家としての凄みが、一気に出てくる。
「自分の人生の伏線は自分で回収する」ということなのか、マジック・リアリズムなのか、よく分からないのだけど、すごく痺れる展開がある。
これ以上言葉を重ねるのも野暮な気がするので、ここから先は、どうか映画館で味わってみてください。
映画の背景の説明ももう少しだけ。
この映画は、ムンバイが舞台ではあるものの、登場人物のほとんどがケーララ出身者で、同州のマラヤーラム語を話しているという点が独特だ。
プラバ、アヌ、プラバに密かに想いを寄せるマノージ先生、アヌの恋人のシアーズがマラヤーラム語話者だ。
自分はてっきりパヤル・カパーリヤー監督もケーララの人だと思っていたのだが、彼女はムンバイ育ちだという。
自分の母語でない言語で映画を作ろうと思い立つのも、それでカンヌのグランプリを受賞してしまうのもすごい。ケーララ州は小さな州だが教育レベルが高いことで知られている。
マラヤーラム語映画といえば、近年では破茶滅茶ながらも哲学的でアートっぽさもある『ジャッリカットゥ 牛の怒り』とか、社会派の『グレート・インディアン・キッチン』が日本でも公開されている。
そういう流れがあったので、てっきりこの映画もマラヤーラム語ネイティブによる作品だと思っていた。
映画の冒頭に出てくるタイトルも英語とマラヤーラム語だったし。
この作品を見たケーララの人がどう感じたのか、気になるところではある。
このへんの背景は知らなくても十分に楽しむことができるのだけど、知っておくとまた感じ方が変わってくると思うので、一応書いておいた。
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goshimasayama18 at 00:03|Permalink│Comments(4)








