演歌

2020年11月29日

ゴアを拠点に活躍する多才すぎる日本人アーティストNoriko Shaktiに注目!

いつものようにRolling Stone Indiaのウェブサイトをチェックしていたら、いきなり日本人女性らしき名前が飛び込んできたので驚いた。
彼女の名前はNoriko Shakti.
 
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現在、ゴアを拠点に音楽活動をしている彼女は、日本でダンスミュージック制作とDJのスキルを得たのち、ヨーロッパで楽曲をリリースし、さらにコルカタでタブラを習得してバウルとの共演もしているという、多彩すぎる経歴の持ち主だ。

Rolling Stone Indiaで紹介されていたEP "Within the Time and Place"の収録曲、"CovidWar"がまた強烈だった。


トランシーなオープニングに続いて、銃撃音をサンプリングしたヘヴィなビートにインドや和の要素が絡むサウンドはユニークかつクール。
ミュージックビデオでは、コロナウイルス禍のためか、ダンサーたちが自宅と思われる場所で踊っているが、それが高揚感のあるサウンドとあいまって、日常から異次元に脱出していくような不思議な感覚をかきたてる。
他のEP収録曲も、モッドなジャズナンバーあり、インド古典音楽あり、アンビエントありと、じつにバラエティーに富んでいる。

異色の経歴、不思議なミュージックビデオ、そしてEPの多彩なサウンド、何から何まで気になることが多すぎる!
というわけで、現在もゴアで暮らしている彼女に、さっそくZoomでのインタビューを申し込んでみた。 



電子音楽からタブラ、そしてコルカタ留学へ

ーダンスミュージックからタブラまで、いろいろな音楽をされているようですが、まずはNorikoさんの音楽遍歴を教えてください。

Noriko Shakti(以下NS):「小さい頃からピアノを習ったり、合唱団に入ったりと音楽に親しんでいましたが、東京の一般的なサラリーマン家庭で育ちました。中学・高校の頃、当時流行っていたメロコアやパンクを友達の影響で聴くようになって、だんだんライブハウスやクラブに行くようになったんです。
高校2年のときにフジロックに行って、世界にはこんなにいろんな音楽があるんだなあーと素直に感動してしまって…。バイト代でターンテーブルを買って、音楽をやっている先輩の影響でシーケンサーを触ったり、DJをしたりするようになりました。当時は、Aphex Twinとかの電子音楽が好きだったんですが、同時にレゲエなどライブミュージックも好きでした。
ちょうどDiwali RiddimとかSean Paulとかのダンスホールが流行っていた時期で、そこからファンデーション、ラバーズロックやダブも聴くようになって、渋いなあーなんて思ってました(笑)」

DJとしての道を歩み始めた彼女は、新宿GARAM、新宿ドゥースラー、吉祥寺の4th Floorやスターパインズカフェ、Warp、恵比寿みるく、渋谷Moduleなどでプレイするようになる。
いくつかのコンピレーション・アルバムに楽曲を提供したのもこの頃だ。

NS「ずっとDJや打ち込みの音楽をやっていたんですけど、20代になってから、電子音楽の限界を感じたというか、アナログ楽器もできたほうがいいと感じるようになって、パーカッションの演奏をきちんと学んでみたいと思い始めたんです。
その頃ヨガにもはまっていて、呼吸とか瞑想とかそういう世界も探求するようになっていたのですけど、『インドって面白い』と思った頃に、ちょうどタブラというものがあると知って(笑)」

ータブラという楽器のことはどうやって知ったんですか?

NS「Talvin Singhなど、UKのアーティストが作るミクスチャー音楽に触れていたので、タブラを知ってはいました。UKの音楽シーンの移民カルチャーに惹かれていたのと、世界一難しいと言われる楽器に挑戦してみたいと思って、インド大使館のタブラ教室でインド人の先生に習い始めました。
もともとピアノや音楽制作の経験があったので、その先生から、ハルモニウムの伴奏を頼まれたり、一緒にステージで共演したりするようになりました。代々木公園で行われている『ナマステ・インディア』(インド文化の一大イベント)で一緒に演奏したこともあります。
そのうち先生から、『君は音楽をやったほうがいい。タブラでも声楽でもインドに行って勉強したほうがいい』って言われるようになり、『面白そう!行ってみようかな』って(笑)。
で、奨学金のテストを受けてインドに来たって感じですね」

ー簡単に言いますけど、すごいですね(笑)

NS「コルカタのRabindra Bharati大学に行くことになったんですが、コルカタに行ってびっくりしました。ヨガにはまってたときに1回だけ南インドを旅行したことはあったんですけど、北インドは初めてで、相当カオスだったので(笑)。
バンコクからコルカタ行きの飛行機に乗る時点から、誰もちゃんと並ばない(笑)」

ー(笑)結局、そのコルカタに長くいることになったんですよね。

NS「途中で日本に帰ってきたり、台湾にアーティスト・イン・レジデンスで行ってたりもしたんですが、コルカタには足掛け5年くらいはいました。イヤだったらすぐ帰ってくればいいや、くらいの気持ちでいたのですが、タブラが面白かったし、音楽好きのインド人の気質もすごく合ったので」

ー「大学でタブラを学ぶ」っていうのはどんな感じなんですか?

NS「セオリーと実技の授業がありました。ほとんどの同級生が古典音楽一家の出身だったので、ついて行くのに必死で勉強しました。インドでは古典音楽は子供の頃から習うのが普通なので。
他にも、インド音楽の歴史とか、アコースティックス(音響学)とか、内耳の構造みたいな授業もありました。ベンガル語も分からなかったし、ずっと日本で育った程度の英語力しかなかったのに、急に大学院の修士課程に入ってしまったので、英語もベンガル語もほぼ独学で必死に学びました」

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(当時の授業の様子。どちらもNoriko Shaktiさん提供)

ーどなたか一人の師匠について学ぶというわけではないのですね。

NS「技術的な部分はいろんな人に習いました。
最近はインドの古典音楽も、日本でよく言われているように、ひとりの師匠のもとで一生を捧げて修行するというよりも、『この人にこれを習いたい』って思ったら教えてもらいに行ったり、古典シーンで活躍している先輩のところに遊びに行ったときに教えてもらったりしました。
出し惜しみなくカジュアルに教えてもらえましたね。
修士、博士論文はリサーチ、英語での文章力が必須になります」


彼女の話を聞いていると、西洋も東洋も、現代音楽も古典音楽も関係なく、自然体で夢中になれる音楽を追求しているのだなあ、という印象を受ける。
東京のクラブでのDJから、コルカタの大学での修行まで、ジャンルも場所も関係なく音楽に向き合ってきたのだろう。
電子音楽からインドの伝統楽器タブラにつながったNoriko Shaktiの音楽遍歴は、さらなる展開を見せる。



シャンティニケタンのフェスティバルでのDJ、そしてゴアでのバウルとの共演!

ーコルカタでは、DJをやったり、クラブシーンに顔を出したりしてたんですか?

NS「コルカタにはいちおう小さいクラブがあったり、シンセとか打ち込みで曲を作るアーティストたちがいたりもします。
あと、シャンティニケタンの野外フェスでDJをしたりもしました。パールヴァティ・バウルさんが歌って、その同じステージでDJをしました。
ただ、タブラの勉強がめちゃくちゃ大変なんで、電子音楽はしばらくお休みしてました」

「バウル」とは、ベンガル地方、つまりインドの西ベンガル州とバングラデシュに何百年も前から存在する、修行者であり世捨て人でもある、不思議な吟遊詩人だ。
かつては賎民のような存在だったとも言われているが、その詩世界や生き方はタゴールやボブ・ディランにも影響を与えたとして、20世紀以降、急速に評価を高めており、今ではUNESCOの無形文化遺産にも登録されている。

 

それにしても、ベンガルの伝統を担うバウルとDJが同じステージでプレイするとは…。
この想像を超えるイベントは、"Route2"というフェスティバルで、極めてオルタナティブかつジャンルの垣根を超えたイベントだったようだ。
ここで名前の挙がったパールバティ・バウル(Parvathy Baul)は、世界的にも著名な女性のバウルで、日本公演の経験もある。
他にも、ラージャスターンのフォークミュージシャンや、マニプル州のImphal Talkies、コルカタのHybrid Protokolらが出演したこのフェスで、彼女はレゲエや電子音楽をプレイして大いに盛り上げたという。


ーずっとコルカタに住んでいたNorikoさんが、どういうきっかけでゴアで暮らすことになったんですか?

NS「本当に偶然でした。ゴアには以前にも2回来たことがあったんですが、観光地としか思っていなくて、数日しか滞在しなかったんです。
去年の12月にコルカタで博士論文を提出し終わったあと、結果が出るまで待たされることになって、その間ずっとコルカタにいるのもなあ…と思っていたら、以前デリーで会ったバウル・シンガーの友人が、今ゴアにいるから一緒に演奏しようよ、と誘ってくれたんです。
それでゴアに行くことにして、結局ゴアで20回くらいそのバウルのおじさんといっしょに演奏しました。
ツーリストとしてでなく、演奏者としてゴアで過ごすのは初めてだったので、楽しかったです。
ゴアにいるうちに、今度は、モールチャン(口琴)の奏者の人に『アルバムをプロデュースしてほしい』と依頼されて、クラブミュージックにモールチャンをフィーチャーした曲を作ったり。
そんなこんなでゴアの滞在が伸びているうちにコロナが起こって、ロックダウンになってしまって。
最初はバウルのおじさんと、一緒に演奏していたシタールプレイヤーと、3人で住居をシェアして暮らしてたんですが、今は家を借りてパートナーと住んでいます。あと近所の犬と(笑)」 

このインタビューの最中、Norikoさんの部屋の中を我がもの顔でうろうろしている犬がいたので、てっきり飼い犬なのだと思っていたのだが、そうではなく勝手に入ってきた近所の犬だそうで、いかにもおおらかなゴアらしい暮らしをしているようだ。

ーゴアではどんな場所で演奏しているんですか?

NS「ライブミュージックの場合は、カフェとかレストランですね。あとバーとか。ゴアにはいわゆるライブハウスはあんまりないんです。
バウルのおじさんとシタールプレイヤーと一緒に住んでいたときは、めちゃくちゃギグがたくさんあったので、ひたすら演奏と練習、っていう暮らしをしていました。」

ーゴアと古典音楽のイメージがあんまり重ならないんですが、ゴアにも古典音楽の演奏をしている人はけっこういるんですか?(ゴアといえば、かつては欧米のヒッピー系ツーリストたちによるサイケデリック・トランスの一大拠点だった街であり、今でもダンスミュージックのイメージが強い)

NS「少ないけど少しはいますね。
あとKarsh Kale(インド系イギリス人のタブラ奏者/エレクトロニカ・ミュージシャンで、最近ではボリウッド音楽なども手がけている)もゴアに住んでますよ!
他にもゴアにスタジオを構えているプロデューサーは結構います」

ーその一緒に演奏していたというバウルの方は、どんな方なんでしょう?
じつは今、日本ではちょっとしたベンガル文化のブームが来てるんです。ドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』がロングラン上映されていたり、川内有緒さんの『バウルを探して 完全版』が発売になったり、バウルという存在が気になっているという人も増えていると思います。あとベンガル料理のお店も増えてきています」

NS「えー!そうなんですか?日本帰らなきゃ(笑)
バウルの話はすごく面白いんですよ。大学で研究もしていたので、バウルについての記事を学術誌に書いたこともあるんです。
バウルのルーツは、実はラージャスターンにもあるんです。ラージャスターンからヨーロッパ方面に行った人たちがジプシーになり、東に行った人たちのなかには、現在のバウルになった人たちに合流した人もいたようです。
もちろん、バウルの起源はミステリアスで、スーフィー、ヒンドゥー、イスラームといったいろんな文化を取り入れて出来上がったのですが。
ダンスのフォームにはスーフィーの影響がありますね。
本来は定住しないで一生旅をしていないとバウルとは言えないってことになっているんですけど、今のバウルは家を持ったり、結婚したり、外国人の彼女作ったり(笑)、いろんな人がいます。
私の友人は、ウエストベンガル出身なんですけど、祖先はアクバル帝の時代にラージャスターンからベンガルに移住してきたそうです。
彼もバウルなのでいろんなところを旅していて、若いときにはデリーでパフォーマンスをする機会が多かったようで、デリーにパトロンがいるみたいです。
彼とはデリーで音楽家の友達のつながりで知り合いました。
バウルは彼らが旅をしてゆく中で作り上げられていったカルチャーなので、バウルの家に生まれなくても、彼らのコミュニティーに入ってバウルになることはできます。
そうやっていろんなカルチャーを吸収してバウルという存在ができています。
楽器も、ラージャスターンのマンガニヤールのひとたちが使うものとベンガルのバウルが使うものは、名前は違うんですけどほぼ一緒だったりして、すごく面白いです」 

バウルの起源は不明だが、15世紀にベンガル語の文献に初めて登場するとされている。
バウルはカーストや血縁に基づく存在ではないため、ラージャスターンから来た人々がそこに内包されている可能性もあるのだ。南アジア文化の流動性や多様性を考えるうえで、かなり興味深い話ではある

ーバウルというと、ベンガル地方で、近隣の村々を回ってマドゥコリ(ごく簡単に言うと、演奏と托鉢)をして生活しているというイメージでしたけど、今ではインドじゅうを回っているバウルもいるということですか?

「インドじゅうのフェスティバルやイベントに呼ばれているバウルもいます。そういう意味では、他のジャンルのミュージシャンと変わらないところもありますね」

バウルという存在は、本来はアーティスト/表現者であるというよりも、修行者/求道者であり、その歌は『俗世』を離れ真理を追求する生き方と不可分なものだ。
現代化が進む南アジア社会のなかで、こうした強烈な魅力を持つバウルの文化は、よりいっそう憧れられ、引用される対象にもなっている。
以前も紹介したように、インドでは多くのインディー・ミュージシャンがバウルとのコラボレーションを行っており、現代のカウンターカルチャーの中でも大きな存在感を放っている。


ーゴアは20年前に一度行ったことがあるだけなんですが、今のゴアはどんな感じですか?
当時は欧米人たちのトランス一色でした。Norikoさんはトランスからゴアに惹かれたわけではないんですよね。まあ、当時のトランスってかなり独特な音楽ではありましたが…(笑)。

NS「トランスは、それこそ学生の頃とか流行っていたんですけど、やっぱり独特な感じでしたよね。私はあんまりハマらなかったです。
アンジュナ・ビーチのあたりは今でもPsy-Tranceとか、テクノが多いです。
アランボール・ビーチのほうに行くと、多国籍なライブミュージックが多くなりますね。
ゴアにはロシア人とイスラエル人が多くて、彼らはトランスが好きだったり、中東系の人たちも多いんですが、彼らはウードとか自分たちの民族楽器を持ってきて演奏したりしています。
Goa Sunsplashというレゲエのフェスもあります。Reggae  Rajahsの人たちが主催していて、彼らはデリーのバンドですが、メンバーの一人はゴアを拠点に活動しているようです。ゴアはムンバイが近いから、ムンバイから来る人たちも多いです」



ー20年前は欧米のツーリストやアーティストがトランスのシーンを作っている印象でしたが、今ではインド人がシーンの中心になっているんですか?

NS「インド人が多いと思います。バンガロールやムンバイからゴアに移住して音楽活動している人も多いですし。外国人もいますけど、インド人のほうが多いですね。
外国人は冬のシーズンしか来ないし、今年の場合は、コロナの影響でもう外国人が来られないので、観光客はインド人ばっかりです。去年までは外国人の演奏者もけっこういたんですけど。
コロナの影響でEDM系フェスティバルのSunburnも中止になっちゃいましたね」

ゴアのシーンからバウルの起源まで、話は尽きないが、ここで、彼女が8月31日にリリースしたEP"Within the Time and Place"に話題を移そう。
冒頭で紹介した多彩すぎるサウンドや、不思議なミュージックビデオは、いったいどうやって作られたものなのだろうか。


EP "Within The Time and Place"の楽曲と背景

ーニューEPの"Within The Time and Place"の話を聞かせてください。収録曲のジャンルがすごくバラエティーに富んでいますよね。

NS「ムンバイ在住のダンサーの原田優子さんからお誘いを受けて、1ヶ月弱で全て作りました。もともと作っていた曲もありましたが、このEPについては、ディレクターのAshley Loboがぐいぐい引っ張ってくれたところもあります。
1曲目はCovidWarはもともと持っていた曲だったんですが、この激しい曲に合わせて、今の状況や葛藤を表したりしよう、ということで採用になりました」

"Within The Time and Place"は、日本とインドのアーティストがオンラインで舞台作品を作り、配信するというプロジェクト"WITHIN"のために作られた音楽作品だったものだという。
この作品は、ムンバイ在住のコンテンポラリーダンサー原田優子さんが国際交流基金ニューデリー日本文化センターに働きかけて制作されたものだ。
インドでは、コロナウイルス禍の急速な拡大によるロックダウンによって、全ての表現活動やエンターテインメントの灯が消えた。
このオンライン作品は、「今こそ、原始祈りであった『踊り』を通して表現をすべき時だ」という思いのもとに作られている。


NS「インドのロックダウンは3月25日から始まって、最初は週末だけの予定だったんですがどんどん伸びていきました。5月の初めごろに、ムンバイに住んでいるダンサーの原田優子さんから電話がかかってきたのですが、ムンバイのロックダウンは本当に外に出られないみたいで大変そうでした。
優子さんはムンバイのAshley Loboのダンスカンパニー(Danceworx)でずっとダンスを教えている方なんですが、彼女がAshleyとか国際交流基金に声をかけたり、Ashleyの弟子のプロデューサー(Shohini Dutta)を連れてきてくれたりして、このプロジェクトが始まりました。
もう一人のダンサーは、愛智伸江さん。
ダンサーの場合、ダンスできる場所がないと、本当にどうしようもない状況になってしまうと思うんですけど、それでも踊り続けるしかないんじゃないか、っていうのを二人で話し合っていたそうです。もともと二人ともバレエ留学していたり、広く活躍されている方々です」

ー収録曲について教えてください。もとからあった曲が多いのでしょうか。

NS「2曲目の"Those Days"はAshleyのアイディアですね。
彼はすごくアーティスティックな人で、私たちアーティストの個人的な部分をすごく大事にするんです。『君が人生で初めて触った楽器は何?』とか、『いちばん好きだった音楽は何?』とかそういう質問をされて、最初に触ったのはピアノで、ジャズも好きだし、クラシックも好きだし…って話をしていたら、『ドローイングのシーンに合わせて、速いテンポのジャズを作ったらどうかな』みたいなことを言われて。
私はずっとエレクトロニカとか電子音楽だったので、はじめてああいうタイプの曲を作りました。ピアノで曲を作ることになるとは思わなかったです(笑)

3曲目の"Summer Reminiscing"はブレイクビーツっぽい曲。
以前作った曲を聴かせたときに、チルアウトな雰囲気で上がりもせず下がりもせず、Zen (禅)な雰囲気の曲もいいね、っていう話になったんです。それだったらブレイクビーツの曲を作ろう、と思って、最初はBonoboをイメージして、そこから作った曲です。

4曲目の"Tensei Taal (Reincarnation)"は絶対タブラを演奏するシーンをやってくれ、と言われて作った曲です。
インドの古典楽器であるタブラをずっとやってきましたが、タブラのビートとかインドの古典音楽のビートって、輪廻のリズムと言われたりするんですよね。
どんなに最悪な状況でも、命は繰り返していくっていうことを思い浮かべて作りました。
『タール』('Taal'=インド古典音楽におけるリズムの概念)って、死と生がいっしょになっているというか、始まりと終わりが同じところに来るっていうのがインド音楽のいちばんの特徴だと思うんです。そんなイメージを持ちながら、すごく短時間で作りました。
このプロジェクトでやるんだったら、ハードなイメージで、シタール使って、タブラがメインになるシンプルな感じにしようと思って、ばーっと自分でタブラを叩いて、ほぼ一発取りで作ってます。
ちょっと電子音楽っぽいシンセとか少しだけ入れていますけど、ほとんどシタールとタブラとベルだけですね

最後の"Within the Time and Place"は、フィナーレで希望を感じさせる音がいいねっていうアイデアをもらって作りました。
最初はもう少し別のイメージで作ってたんですけど、もうちょっとオーガニックな響きがいいなあ、ということでああいう感じになりました」

ーオンライン舞台作品のための音源をリリースしたきっかけは?

NS「パートナーや周りの声を受けて、という形です。
ダンスプロジェクトにテクニカルディレクターとして関わったManuも、助言やインドの音楽シーンの人たちをつなげてくれるなど動いてくれました。彼はMidival Punditzのマネージャーでもあるんです。
自分でミックス、マスターしてリリースしたら、Rolling Stone Indiaや、新聞などのメディアから反響をいただけました」

ーこれからの活動について教えてください。
これまで、DJとしてレゲエをプレイしたり、クラブミュージックを作ったりという活動と、タブラ・プレイヤーとしての活動をしてきたわけですが、今後はそれぞれの分野で別々に活動してゆくのでしょうか?
それとも、電子音楽/ダンスミュージックとインド古典を融合したりすることもあるのでしょうか?

NS「コロナウイルス禍の状況ですが、シンガーとのデュオでのギグや、アートフェスティバルへの出演が決まっています。今作ってる曲のなかには、自分でタブラを叩いてる曲もありますよ。
ダンスミュージックのなかでタブラを使ったり、シタールとかサロードとか、タンプーラのドローン音を使ったりというのは、UKの音楽ではこれまでにわりとあるんですよね。そういった曲も、今後作ってゆくと思います。
リリースの予定としては、地元ゴアのクラブをスポンサーにして、レコード盤を出します。
次のシングルはちゃんとしたミュージックビデオも作って、YouTubeやその他プラットフォームよりリリースします!
他には、ボリウッドシンガーのプロデュースや、映画の音楽などもやってます。
あと、また別の話なのですが、日本の演歌って、インド古典のラーガの音階に沿った曲がめっちゃいっぱいあるんですよ」

ーえ!演歌ですか?僕もパンジャービーとか北インド音楽の節回しって、すごく演歌っぽいなあと思っていたんです。

NS「あれは演歌なんですよ。インドの(笑)。
ラーガ、つまりインドの古典音楽のスケール(音階)を考えると、インドから中央アジア、中国、韓国、日本といろいろな地域に流入しています。
例えば日本の声明はマントラがもとになっていますし、雅楽にもインドの音楽や舞いの影響があって、その時代から日本はかなりインド文化に影響を受けているんです。演歌というのも、いってしまえばセミ・クラシカルですよね。セミ・クラシカルである演歌の響きやスケールはインドのラーガに置き換えられるというのを、ずっと私も思っていて。
そういう意味では、ずっと好きだったレゲエもジャマイカの演歌ですからね、言ってみれば(笑)。
日本の演歌をエレクトロニカとインド古典でカバーしたプロジェクトをやろうと思っています」

ーそれ、めちゃくちゃ面白そうです。
それこそ、インドの演歌みたいなバングラーは、いろいろな新しい音楽と融合していますけど、日本の演歌は誰もやっていないじゃないですか。
誰かそういうことをやらないかなあ、と思っていたので、すごく楽しみです。

NS「曲がたまったらまとめて出そうと思っていて、今は美空ひばりの曲をエレクトロニカと私のタブラとオートチューンで面白いサウンドにしてゆくというアイデアを考えてます」

まさか、かねてから提唱していた「北インド音楽=演歌説」にこんなところから共感してくれる人が現れるとは。
しかも、彼女の頭の中には、かなり具体的なサウンドのビジョンがあるようだ。
これはなんとも楽しみだ。 


ー先日boxout fm(デリーのレゲエバンドReggae Rajahsのメンバーが運営しているオンライン放送局)から配信されたミックスを聴かせてもらったんですが、テクノ、ドラムンベース、レゲエとさまざまなジャンルをプレイしていますが、それでもどこか一貫性を感じるサウンドが印象的でした。
何か音響的な部分へのこだわりがあるのでしょうか?
インドの古典音楽も音の響きをすごく大事にするジャンルですよね。

NS「うーん…。こだわりですか。
昔はダブステップとかブレイクコアみたいな、ノイジーで低音が効いたうるさい感じの音が大好きだったんですが、現在はもっとファンクショナルな音楽がやりたいなあと思うようになりました。
何というか、踊れるし、チルできる、みたいな二面性というか…レゲエもそういう音楽だと思ってるんですけど、リスニングミュージックとしても良いし、フィジカルにも聴ける音楽でもあるし、そういうものに憧れがあります。インド古典もそうだと思います。よく聴いてみるとすごく複雑なことをしていたりもするけど、理論を知らない外国人が聴いても、ノルことができるし。
そういう音の二面性みたいなものに惹かれている部分があると思います」 


音楽遍歴からコルカタでの留学生活、日本とインドでの音楽活動やバウルの話題にもおよぶ、盛り沢山のインタビューだった。
それにしても、幼少期のピアノからクラブDJを経て、タブラにたどり着いた彼女の次なる目的地が、まさか「演歌」だとは思いもしなかった。
制作中のデモ音楽を聴かせてもらったのだが、エレクトロニカ風かつインド風に再構築された演歌も、タブラやバーンスリーを使ったドラムンベース風フュージョンも、いずれもインド的な要素と電子音楽が見事に融合した、完成が非常に楽しみなサウンドだった。
DJであり、電子音楽アーティストであり、そしてタブラ奏者でもあるという稀有な個性に、期待は募るばかりだ。


Noriko Shaktiホームページ


EP "Within the Time and Place"はこちらから


Noriko Shakti YouTubeチャンネルはこちらから


Boxout FMで披露したミックスの模様はこちらから!



参考サイト:







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goshimasayama18 at 20:16|PermalinkComments(0)

2020年10月18日

どうして誰もバングラー演歌をやらないのか

(最初に断っておくと、今回の記事は完全にたわごとです)

先日来、このブログの記事を書くためにパンジャービー/バングラー系の音楽を聴きまくっているうちに、自分の心と体に思いもよらない変化が起こった。

なんと、演歌が聴きたくなったのである。
自分はこれまで、インドの音楽にはまる前を含めても、ロックとか、いわゆる洋楽的なジャンルの音楽ばかり聴いてきた人間であり、失礼ながら、これまでの人生で一度たりとも演歌を聴きたいと思ったことはなかった。

ところが、パンジャーブ系の音楽をひたすら聴いているうちに、同じようにコブシの効いた日本の演歌(というか吉幾三)が、無性に聴きたくなってしまったのだ。

まさか自分がSpotifyで「吉幾三」を検索する日が来るとは思わなかった。
吉幾三から始まって、北島三郎、細川たかし、五木ひろし、氷川きよし、石川さゆり、都はるみ、etc...知っている名前を次々と入力して、演歌を聴きあさってみた。
聴けば聴くほど、「演歌は日本のバングラーであり、バングラーはインドの演歌だ」という確信は強くなっていった。

そして、演歌とバングラーを交互に聴いているうちに、自分の中に、とても素晴らしいアイデアが浮かんできたのだ。
それは、「バングラー演歌」というジャンルを作ったら、ものすごい金脈になるのではないか、ということだ。


演歌とバングラー/パンジャービー・ポップの歌い回しは、本当によく似ている。
例えば、この曲を聴いてみてほしい。

(参考楽曲:Aatish "Jannat")
念のために言っておくと、演歌っぽいパンジャービーの曲を何曲も探してこの曲を見つけたわけではない。
YouTubeで適当に検索した3曲目がこれである。

2曲目に行き当たったこの曲もかなり演歌っぽかった。
歌い回しだけでなく、イントロのガットギターのトレモロ奏法など、バングラー/パンジャービー歌謡は演歌っぽい要素には事欠かないのだ。


次に、演歌がいかにバングラーっぽいかを聴いてみよう。
この曲を演歌に含めて良いかどうかは意見が分かれると思うが、当人の意志とはまったく関係のないところで、最近のパンジャービー・ポップスの主流であるバングラーラップと演歌を繋ぐミッシングリンクとなっているのは間違いないだろう。



演歌とバングラーの共通点はサウンド面だけではない。
演歌の美学として、紅白歌合戦における北島三郎の「まつり」の演出や、小林幸子の巨大衣装など、祝祭性や過剰さを良しとする考え方がある。
こうした傾向は、パンジャービー・ポップスが持つボリウッド的な華やかさともバッチリはまるはずだ。

というか、こうして見てみると、演歌ってじつはかなりインドっぽいのではないだろうか。
この演出もダンサーも増し増しにしてゆく感覚は、ほとんどボリウッド映画のミュージカルシーンだ。

こんな感じのドール(Dhol)のビートや…


こんな感じのバングラー・ダンスは、

演歌が持つ祝祭感覚とぴったりだ。

「バングラー演歌」という発想が荒唐無稽だと思っていたあなたも、「ひょっとしたら…」と思い始めてきたのではないだろうか。

想像してみてほしい。
和太鼓の代わりにドール(Dhol)が打ち鳴らされる中、パンジャーブの民族衣装の大量のダンサーを引き連れて歌い上げる演歌歌手を。
そこには、マツケンサンバ的な、ミスマッチなのになぜか違和感がないという、不思議な説得力と恍惚感が生まれるはずだ。
そんな曲がヒットすれば、日本の景気も少しは良くなるだろう。

本場のバングラー歌手と共演したりすれば、日本だけではなくインドでも大ヒット間違いなしだ。
粋に着物を着こなした演歌歌手と、ターバン姿に伝統衣装のバングラー歌手の共演なんて、考えただけで心が躍る。
もちろん、バックには着物姿の踊り手とサリーのダンサーたち、そしてフンドシをしめた和太鼓の集団と、パンジャービーのドール奏者たちが華を添えるのだ。

演出のパターンは無限にある。
演歌のジャンルのひとつに「任侠もの」というのがあるが、こんな感じのパンジャービー・マフィア・スタイルと、着流し姿の古式ゆかしい任侠スタイルの共演なんかも見てみたい。

昨今、反社会勢力を扱った芸能への風当たりは強くなるばかりだが、これくらい荒唐無稽なら、馬鹿馬鹿しくて誰も文句は言わないだろう。

もちろん艶やかな女性歌手の共演も素晴らしいものになるはずだ。
日本からは、石川さゆりや丘みどりあたりに出てもらえれば、パンジャービー美人の歌手とならんでも、美しさでも歌唱力でも引けを取らないだろう。

演歌とバングラーのもうひとつの共通点といえば、どちらもラテン音楽への接近が見られることだ。
演歌では、こんなふうに唐突にラテンの要素が導入されることがたびたびある。


純烈、これまでノーチェックだったがこうやって見てみるとかなりボリウッドっぽいな…。

一方のバングラー/パンジャービー勢も、よりモダンな方向性ではあるが、最近こんなふうにラテン要素の導入が目立っている。

若手演歌歌手なら、これくらい現代的なバングラーの要素を取り入れてみても良いだろう。

演歌がバングラーを取り入れるメリットは、一時のブームには終わらない。
バングラーは、これまで何度も書いてきた通り、伝統音楽でありながら、ヒップホップやEDMなど新しいジャンルを貪欲に吸収し、今でも北インドのメインストリームを占めている。
一方、我が国の演歌は、サウンド面の刷新がなかなか進まず(ビジュアル的には、ホストっぽくなったりとそれなりの進化を遂げているようなのだが)、リスナーの高齢化が著しく、ジャンルとしての衰退に歯止めがかからない状態だ。

ところが、演歌はバングラーを経由することで、ヒップホップやEDMのような若い世代の音楽と、ごく自然に融合できるのだ。

例えば、こんなアレンジの演歌があってもいいじゃないか。
演歌がこれくらい斬新な音楽性を示すことができれば話題になること間違いなしだし、若い世代や新しい音楽に敏感な層も飛びついてくるだろう。
バングラーとの融合は、演歌にとって起死回生のカンフル剤となる可能性があるのだ。

と、バングラーと演歌を巡る妄想は膨らむばかりだ。
この記事が演歌関係者(もしくはバングラー関係者)の目に留まることを祈っている。
バングラー演歌、いいと思うんだけどなあ…。

演歌関係者のみなさん、ぜひこのアイデアを実現させてみませんか?





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2019年06月12日

私的大発見!インドと吉幾三、そして北インド言語と演歌、レゲエの関係とは?

きっかけは、インド人の友人のこのツイートだった。

 
 Perfumeファンの彼が、彼女たちのSpending All My Timeと吉幾三の「俺ら東京さ行くだ」のマッシュアップを聴いて「これ原曲なに?インドの曲じゃないみたいだけど、すごくインドっぽい」とつぶやいていたのを読んで、思わず感動してしまった。

なんで吉幾三なんか(失礼)で感動しているかというと、私はかねがね、ある種のインドの歌について「まるで吉幾三みたいだ!」と思っていたからなのだ。
例えば、インド最初のラッパーであるBaba Sehgalのこの曲。

思いの外かっこいいイントロに「どこが吉幾三?」と思った方も、歌が始まった瞬間にずっこけたはずだ。
これ、完全に幾三だろう。
現在はすっかり洗練されてきたインドのヒップホップだが、始まった当時は完全に吉幾三だったのだ。
(詳しくはこちらに書いています。「早すぎたインド系ラッパーたち アジアのPublic Enemyとインドの吉幾三、他」
インドのヒップホップ史において、最初のラッパーがこのBaba Sehgalだということは、日本の音楽史上最初のラップのヒット曲が吉幾三「俺ら東京さ行くだ」であったことと同じくらい、無かったことにしたい歴史だろう。

吉幾三っぽく聞こえる楽曲はこれだけにとどまらない。
Jay Zによるリミックスが世界的に大ヒットしたPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"も、冷静に聴くとかなりの幾三っぷりである。

そう、インドの音楽、とくに、ここに紹介したような90年代頃のラップ調のバングラーに関しては、じつはかなり吉幾三っぽく聞こえるものが多いのである。
私がそれらの音楽を「吉幾三っぽいなあ」と思っていたところに、インド人の友人が吉幾三を聴いて「なんだかインドの音楽みたい」とつぶやいたのだから、これに感動しないわけがないだろう。

バングラーは、インド北西部、パンジャーブ州が発祥の音楽だ。
パンジャーブ州からは、イギリスに移民として渡った人々が多く、伝統音楽だったバングラーはそこで当時最先端のダンスミュージックと融合し、インドに逆輸入されて、インド全体で大人気となった。
我々にとっては吉幾三っぽく聴こえる音楽だが、当時のインドでは、伝統と最先端の理想的な融合だったのだろう。

さて、ここでもうひとつの大発見をしてしまった。
吉幾三といえば演歌歌手だが、インドと演歌といえば、まっ先に思い浮かぶのが、チャダ。

インドの知識がある方はきっともうお気づきだと思うが、ターバン姿が印象的なチャダは、シク教徒だ。
そして、シク教のルーツは、パンジャーブ州。
そう、彼もまた、出身こそニューデリーだが、パンジャーブの人なのである。
チャダことSarbjit Singh Chadhaは、16歳でミカンの栽培技術を学ぶために来日し、日本で耳にした演歌に惚れ込んで演歌歌手になったという。

パンジャーブの音楽と演歌が似ていると発見して驚いていたら、なんとパンジャーブの人間がとっくの昔に演歌歌手になっていた!
パンジャーブと日本、バングラーと演歌。
お互いに何も文化的な影響を及ぼしていないはずなのに、この不思議な相似はいったい何なのだろうか。

外国人演歌歌手としては、米国系黒人であるジェロも有名だが、彼の場合、幼い頃から母方の祖母に演歌を聴かされて育ったというバックグラウンドがある。
それに対して、16歳で来日するまで演歌を聴いたこともなかったはずのチャダが、演歌の独特の歌い回しに魅力を感じ、そしてそれを(北島三郎への師事があったにせよ)完璧にマスターしているということは、やはりパンジャーブの音楽文化と演歌には、相通じる何かがあるのだ。

さらに、Youtubeで関連動画を探していたら、この5月に行われた「マハトマ・ガンディー生誕150周年記念 インド祭in十日町」で吉幾三の「酒よ」を歌うチャダを発見!

吉幾三、バングラー、パンジャーブ、演歌。
これで全てが繋がった!
酒など決して口にしないであろうガンディーが、自身の生誕150年祭で歌われる「酒よ」を聴いてどう思うのか分からないが、インド国旗に描かれた法輪のごとく、とにかくこれでパンジャーブ文化と吉幾三がひとつの円環となったのである。(自分でも何を言っているのかよくわからないが)

ここで改めて注目したいのは、吉幾三とバングラーの、メロディーや発声方法ではなく、歌の節回しだ。
みなさんも、「俺ら東京さ行くだ」の、東北訛りをカリカチュアしたような歌い回しと、バングラーの歌い回しの、微妙に音程を外したり、うわずらせたりする部分がとてもよく似ているということに気がついただろう。
北インドの言語であるヒンディー語やパンジャービー語は、歌ではなく会話でも、その言語の響きそのものが、東北弁や茨城弁っぽく聞こえることがある。
こうした言語固有のイントネーションそのものが、歌われる音楽を田舎くさい(失礼)演歌っぽく聴こえさせているのではないだろうか。

同じ北インドの音楽でも、例えば古典音楽のヒンドゥスターニーの場合、インド独特の音階(ラーガ)や、技巧的な節回しが前面に出るため、決して演歌っぽくは聞こえないのだが、よりシンプルなスタイルであるバングラーとなると、ヒンディー語やパンジャービー語の語感が強く出てしまい、途端に演歌っぽくなってしまうのだ。

ここからは極めて個人的な話になるが、私は10代最後の歳にインドを一人旅して以来、インドという国やその文化に大いに興味を持ってきた。
であるにもかかわらず、他の多くのインド好きたちが惹かれているのに、私がいっこうに魅力を感じられなかったものがある。
それは何かと言うと、映画音楽だ。

例えば、先日、「Aashiqui 2」という映画のDVDを見たのだが、インドでは大変高い評価を得たというその音楽を聴いても、私は「なんか演歌みたいだな」という以上の感想を抱くことができなかった。(ちなみにこの曲です)
 
メロディーラインのせいもあるが、ヒンディー語で西洋音階のシンプルな旋律を歌うと、その歌い回しのせいで、どうしても演歌っぽく聴こえてしまう。
何が言いたいかというと、若い頃ロック好きだった自分が、インドの映画音楽をどうも好きになれないのは、非ロック的な大仰なアレンジのせいだけではなく、どうやらこの「演歌っぽさ」にも理由があったようだということだ。
私なんかの世代のだと(40代)、ロック好きは深層心理に「演歌は旧弊な価値観を象徴する音楽で、自由を標榜するロックとは相容れないダサいもの!」みたいな意識がこびりついている。
その意識が、どことなく演歌っぽいボリウッド(ヒンディー語)映画音楽を敬遠させていたのだ。

ちなみに最近では、ロックなどのジャンルではヒンディー語であっても、英語的なメロディーや言葉の当て方が十分に確立され、演歌らしさを全く感じさせない楽曲がたくさんある。
例えば、ヒンディー語で歌うポストロックバンドAsweekeepsearchingの音楽を聴いて演歌っぽいと思う人はいないはずだ。

ここでさらに話が飛躍するのだが、ヒンディー語やパンジャービー語が持つ東北弁や茨城弁っぽさは、彼らが英語を話す時にも引き継がれる。
北インドの人々が話す英語は、やっぱり東北弁や茨城弁っぽく聞こえるのだ。

で、東北弁や茨城弁ぽい英語がどう聞こえるかというと、なんとジャマイカン訛りっぽくなるのである!
実際は、ジャマイカ人が話すいわゆる「パトワ語」とインド訛りの英語のイントネーションは全く異なるものなのだが、ネイティブ言語の訛りを色濃く残す北インド人の英語は、レゲエに乗せてラップするトースティング(っていうの?レゲエには詳しくないのだけど)に、結果的にそっくりなってしまっているのだ。

例えば、こちらも90年代に大ヒットしたインド系イギリス人のレゲエ歌手、Apache Indianの"Boom Shak-A-Lack".


最近の楽曲では、デリーのレゲエバンド、Reggae RajahsのメンバーGeneral Zoozによる"Industry".


どこまでがレゲエに寄せていて、どこまでがヒンディー訛りなのか分からないこのニュアンス、お分かり頂けるだろうか。

言語の特徴と音楽の話で言えば、もうひとつ気になっているのが、最近のヒンディー語/パンジャービー語のポップスが、現代のラテン音楽、具体的にはレゲトンに近づいてきているということ。
例えばこんな感じに。
パンジャービーの商業的バングララッパー、Yo Yo Honey Singhの"Makhna".

 
さらには、スペイン語を導入したこんな曲もある。Badal feat. Dr.Zeus, Raja Kumari "Vamos".

音楽やスタイルにおける現代インドとラテン系の相似については、かつてこちらの記事に書いたので、興味のある方はぜひご一読を。(「ソカ、レゲトン…、ラテン化するインドポップス」

レゲトンはスペイン語圏であるプエルトリコ発祥の音楽だが、ヒンディー語話者の英語の訛り方は、じつはスペイン語話者の訛りと瓜二つなんである。
「-er」や「-ar」で終わる単語の'r'をはっきりと発音するとか、sの子音から始まる単語を話すときに、頭にエがついてしまう(例えばスクール'school'がエスクール'eschool'になってしまう)など、特徴的なところがことごとく似ているのだ。
同じ傾向の英語の訛りを持つ二つの言語圏が、同じようなスタイルの音楽を好む傾向がある。
これは単なる偶然なのだろうか。

さて、レゲエやラテンに少し脱線したが、ここまでヒンディー語/パンジャービー語圏のバングラーが吉幾三的な演歌にそっくりという話を書いてきた。
これも以前書いたネタだが、もうちょっと歌謡曲テイストの演歌にそっくりなのが、ゴアの古いポップスだ。
「まるで日本! 演歌?歌謡曲? 驚愕のゴアのローカルミュージック!」


ゴアで話されているコンカニ語も、ヒンディー語やパンジャービー語と同じインド・アーリア語派の言語。
ひょっとしたら、北インド系の言語を話す地方に、まだ知らぬ演歌っぽい音楽が他にもあるのかもしれない。
もし時間とお金が無限にあるなら、インド中を放浪しながら地元の人に演歌を聞かせて、「これに似た音楽を知らないか」と尋ねて回るのも面白そうだ。
きっとまだ見ぬ「演歌っぽいインド音楽」が見つけられるに違いない。
(いったいそれに何の意味があるのか自分でも分からないが)

というわけで、今回は、音楽史的もしくは 言語学的な裏付けの一切ない、北インド諸語と演歌やレゲエの類似点についてのたわごとをお届けしました。



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goshimasayama18 at 22:58|PermalinkComments(0)

2018年12月10日

まるで日本! 演歌?歌謡曲? 驚愕のゴアのローカルミュージック!

4回連続となったインドの楽園、ゴアの音楽シーンを紹介するこの企画も今回で最終回!
欧米のヒッピーたちの聖地として栄えたゴアの音楽シーンは、トランスブームの終焉とドラッグ取り締まりの強化によって衰退するかに見えたが、経済成長を続けるインドの人々の音楽フェスの街として、往時を上回る盛り上がりを見せるようになった、というのが前回までのお話。

これまで紹介してきたゴアのシーンで鳴らされていたのは、いつもトランスにEDMにロックにレゲエという、欧米から来た流行の音楽だった。
それは欧米人からインド人の手に音楽を取り戻した今日でも変わらないし、そもそもゴアのフェスのオーガナイザーだって、地元ではなくムンバイやデリーやバンガロールの人たちだ。
そう、ゴアのシーンは、これまでずっと外部の人間によって作られてきたのだ。

それでは、そもそもゴアにはどんな音楽があったのだろうか。
インドの音楽に興味がある人ならば、インドには北のヒンドゥスターニー、南のカルナーティックという二大古典音楽があり、大衆音楽としては映画音楽が長く人気を博してきたことをご存知だろう。
だが、1961年までの長きにわたりポルトガルの支配下にあったゴアは、そうした文化や伝統とは異なる歴史を歩んできた。
カウンターカルチャーやポップカルチャーのメッカとして有名なゴアだが、そのローカル音楽に関しては、あたかもドーナツの中心の空洞のように、杳として未知のままなのだ。

そんなゴアのローカル音楽を教えてくれたのは、日本の音楽文化に造詣の深いインドの友人だった。
そして、初めて聴いたゴアのローカル音楽は、今までのゴアのイメージをぶち壊すに十分な、とんでもないインパクトのある代物だったのだ!

それではさっそく聴いていただきましょう。
ゴアン・ポップスの名シンガー、Jose Rodで、'Tarvoti'
 
個人が適当に作ったみたいな手作り感あふれるビデオはひとまず置いておくとして…。

なんと、聴いてお分りいただけた通り、これ思いっきり演歌!
大げさなイントロといい、安っぽいストリングスの使い方といい。サビでラテンっぽくなる以外、思いっきり演歌じゃないですか。

偶然この曲だけ演歌っぽいのを持ってきたんだろうと思う人もいるかもしれないが、このJose Rodさん、他の曲もびっくりするほど演歌だ。例えばこの曲'Govai'.
 
目を細めて情感を込めて歌うところも、チープなミュージックビデオも、まさしく演歌そのもの!
日本を遠く離れたインドに、それもインドの中でも独自の文化を誇るゴアに、こんなにも日本の心を感じる音楽があったということに、ただただ驚くほかない。
このJose Rodさんは、1938年生まれの超ベテランシンガー。
当然ながらこれらの音楽がゴアの最新のヒットチューンというわけではなく、まさに日本の演歌のように、懐かしのメロディーということになるのだが、それにしたってこれは演歌に似すぎている。

疑り深いあなたは、たまたまこのJose Rodさんが演歌っぽいシンガーなだけでしょう、と思っているかもしれないが、さにあらず。
他の歌手もまた、驚くべきサウンドを聴かせてくれている。
例えば1970年代に活躍していた女性シンガーのLorna Cordeiroさんの歌を聴いてみましょう。
 
もろにド演歌なイントロに続いて、今度は60年代の歌謡曲のような軽快なサウンドが出てきた!
サザエさんのエンディングテーマのみたいな軽快なフルートの音色と、ラテンっぽいアレンジにホーンセクション。
演歌とは別の方向に懐かしいサウンドは、またしても日本の心を感じさせる。

続いては、1966年のゴアでのヒット映画、'Nirmon'のテーマ曲'Claudia'という曲。
 
今度は、少しハワイアンっぽいというか南国風のアレンジだが、これまた60年代あたりの日本の歌謡曲を思わせる。

これらの音楽は、ゴア地方で話されている言語「コンカニ語」で歌われている。
コンカニ語のネイティブ・スピーカーは230万人程度で、ヒンディー語やタミル語のようなインドのメジャーな言語と比較すると、話者数はかなり少ない言語ということになる。
だが、いったいどうしてこのコンカニ語の楽曲が、演歌や日本の歌謡曲のようなサウンドを持つことになったのだろうか。

「インドと演歌」と聞いてまっさきに思いつくのはチャダ。

1970年代から活躍するチャダだが、彼はその見た目からも分かる通り、パンジャーブ系のシク教徒(出身はデリー)だ。
彼の演歌との出会いは来日してからだというし、彼の地元はゴアとはあまりに遠い。
ここではあまり関係がなさそうだ。

では、コンカニ・ポップスと演歌の共通点はどこにあるのだろうか。
思うに、その理由のひとつは、ゴアがポルトガル領であったことにあるのではないか。
インドのなかにあって、キリスト教の影響が強く、インド文化(ヒンドゥー文化、イスラーム文化)の影響が薄いのがゴアの特徴だ。

なぜかは分からないが
(インド)ー(インド文化)+(ヨーロッパ文化)=ほぼ演歌
という方程式が成り立つようなのだ。
これはもう本当に不思議というほかない。

そういえば、ポルトガルの大衆伝統音楽である「ファド」も、演歌と似ていると言われることの多い音楽だ。

要するに、ゴアの人々が、インド音楽ではなく、西洋音楽の伝統のもと、素朴な情感を湛えた音楽を作ったら、ファド以上に演歌によく似たものになってしまった、ということなのだろうか。

ゴアは港町。
港町といえば演歌にもよく登場する舞台だが、港町が持つ哀愁や、海の男たちの悲しみが、人種を超えた潜在意識にある演歌のスイッチを入れてしまうのかもしれない、と言ったらこじつけが過ぎるか。

コンカニ・ポップスに日本の心を感じてしまうもうひとつの秘密は、楽曲のアレンジにある。
さきほど紹介したコンカニ・ポップスに特徴的なのは、インドよりもむしろラテンやハワイアンを思わせるアレンジだ。
ラテンとハワイアンといえば、60年代の日本の歌謡曲でも流行した音楽である。
こうした日本の懐メロと共通するサウンドの傾向を持っていることも、コンカニ・ポップスに「日本の心」を感じてしまう一因であるように感じる。
あるいは、単にこの時代の世界的なトレンドだったのかもしれないが。

とはいえ、1960年代の他の国の音楽を聴いても、異国情緒こそ感じても、こんなにド演歌な、超ドメスティックな懐かしさを感じることはない。
日本から遠く離れたインドの、それもゴアという一地方にだけ、こんなにも演歌ライクな音楽があったということに、何か音楽の神様の悪戯のようなものを感じないでもない。
さっぱりわけのわからない悪戯だけれども。

今度ゴアに行ったら、最新の音楽が流れるクラブやフェスだけでなく、こんな懐かしいメロディーが流れる酒場にもふらりと立ち寄ってみたい。
(キリスト教文化の強いゴアはインドでは珍しく飲酒に寛容な土地柄だ)
そんなおっさんめいた感傷に浸らせてくれる、コンカニ・ポップス。
今回はゴアのまた知られざる一面を紹介してみました。
また行きたいなあ、ゴア。

今回の記事を書くにあたって、古いコンカニポップスの情報について、ムンバイ在住の友人に多大な協力をしてもらった。
彼は私とは反対に、日本の音楽シーンに興味を持っているインド人で、とくにPerfumeの大ファンでもある。
彼はツイッターの@prfmindiaのアカウントで、PerfumeやJ-Pop、日印の文化について発信している。
興味があったらぜひフォローしてみて!

それでは!

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goshimasayama18 at 02:02|PermalinkComments(0)