在外インド人

2020年08月14日

『カセットテープ・ダイアリーズ』(原題"Blinded by The Light")は今見るべき作品


グリンダ・チャーダ(Gurinder Chadha)監督、ヴィヴェイク・カルラ(Viveik Kalra)主演の映画、『カセットテープ・ダイアリーズ(原題"Blinded by The Light")』を見に行った。(以下、人名・役名の表記は劇中とパンフレットのものを使う)


この映画は、1980年代のイギリス、ルートンの街を舞台に、パキスタン系移民2世の若者ジャベド(Javed)が、郊外の労働者階級の疎外感、親子の対立、移民への差別などに向き合いながら、ブルース・スプリングスティーンの音楽との出会いにより大きく成長してゆく姿を描いたもの。
英ガーディアン紙のジャーナリスト、サルフラズ・マンスール(Sarfraz Manzoor)の自伝がもとになっており、昨年のサンダンス映画祭で絶賛された作品という触れ込みだ。

7月3日の公開からすでに1ヶ月以上が経ち、映画の内容も、こう言ってはなんだがあまり日本で受けそうなものではないため、案の定というか劇場はかなり空いていた。
コロナウイルスが気になる人も是非見に行ってみてはいかがでしょう。


原題の"Blinded By The Light"はスプリングスティーンのファースト・アルバムの1曲目のタイトル。
不思議な邦題は、ジャベドが10歳からずっと日記に詩を書いていたということと、大学で出会った同郷の友人(インドとパキスタンにまたがるパンジャーブにルーツを持つシク教徒)ループスに借りたカセットテープでスプリングスティーンを知ったということから付けられたものだろう。
劇中にはスプリングスティーン以外にも当時の音楽がふんだんに登場するから、「カセットテープ」という言葉にノスタルジーを感じる80年代の洋楽ファンが見れば、ファッションなども含めてかなり楽しめるはずだ。

とはいっても、これは単なる懐古趣味の作品ではない。
この映画が扱っているテーマは、極めて現代的かつ普遍的で、娯楽作品としてもよくできているので、スプリングスティーンにもイギリスの南アジア系移民にも80年代カルチャーにも興味がない人でも、全く問題なく楽しめる。
私もスプリングスティーンの音楽は代表曲くらいしか知らなかったのだが、この映画を通して、彼が一貫して労働者階級や焦燥感を抱える郊外の人間を代表してきたということがよく理解できた(映画で見た限りの印象なので、違ったらごめんなさい)。

映画前半のテーマは、郊外の保守的な社会に生まれた主人公の焦燥感だ。
この「保守的」にはふたつの意味がある。
ひとつめはパキスタンからの移民であるジャベドの父親が、家父長制度に基づいた伝統的な価値観を強く持っており、自由に夢を見ることすらできないということ(つまり、移民家庭のなかの保守性)。
そしてふたつめは、彼らの周辺に、移民排斥の動きが描かれているということだ(英国社会の保守性)。
後者については、サッチャー首相の新自由主義政策によって階級間の分断が強まり、労働者層の不満が移民たちに向けられたことが背景となっている。
面白みのない郊外の街で、将来に希望を持てずに暮らす無力感や焦燥感が強く描かれるこの映画の前半を見ながら、最近読んだこの記事のことがずっと頭に浮かんでいた。

この文章は長崎県の高校生の山辺鈴さんが書いたもの。
(この記事には出てこないが、彼女はインドのマハーラーシュトラ州のナーシクという中規模都市に1年間留学しており、その間にスラムの子ども達が主役になるファッションショーを企画・実行するなど、とても意欲的な活動をしている。なんて書くと、冷笑的に「意識高い系」と呼ばれるような人をイメージするかもしれないが、身の回りから世界まで、ここまで相対化して考えられる/書ける人は世代を問わず本当に希有だと思う。ぜひ読んでみてください。)
主人公は、この記事にあるような「見えない分断」の疎外された側にいる。

何が言いたいのかというと、この映画のテーマは、場所も時代も問わず、とても普遍的なものだということだ。
現代イギリスのブレグジットと関連付けて見ることもできる作品だが、都市と地方の格差、疎外される移民たち、新自由主義的な価値観のもとで暴力的に右傾化する社会など、今日の日本とも共通したテーマが描かれている。
考えてみれば、「80年代イギリスのパキスタン系移民が、当時ですらすでに時代遅れだったブルース・スプリングスティーンの音楽で自己を確立する」という、あまりにも特殊なストーリーが高く評価されているという時点で、そこに普遍的な意味が無いわけがないのだ。

ところで、ルートンという街は、長崎のような首都から遠く離れた土地だと思って見ていたのだが、実際はロンドンから50kmほどの「郊外」だという。
個人的な話になるが、これは自分が生まれた千葉の街と同じような首都との距離感で、都会ではないが田舎というほどでもない、これといった希望も刺激もないがm若者はとりあえず薄っぺらい流行を追っている、みたいな雰囲気は、そういえば思い当たるところがかなりあった。

後半は、古い価値観に生きる父親と、自分の夢に生きたいジャベドの確執と断絶という、インド映画の定番とも言えるテーマに焦点が当てられる。
この映画はイギリスで制作されたものだが、原作、監督はいずれも南アジア系だ。
このテーマは海外の南アジア系コミュニティーでも同様に大きな意味を持っているのだ。(グリンダ・チャーダ監督による『ベッカムに恋して(原題"Bend It Like Beckham")』でも同じテーマが扱われていた)

この映画にツッコミを入れるとしたら、恋愛、差別、夢、親子の確執などのあらゆる課題が全てスプリングスティーンで解決されてしまうということ。
いくらなんでもそれは無茶な話だと思ったが、原作者のマンズールはスプリングスティーンの熱狂的なファンで、実際に150回もライブを見に行って「最前列で盛り上がっている南アジア系のファン」として本人にも認識されるほどだというから、これは事実に基づいた描写なのだろう。
ちなみにチャーダ監督もディランやスプリングスティーンのファンだという。

イギリスやアメリカの音楽が南アジアの若者たちの希望になるというストーリーは、最近では映画『ガリーボーイ』でも描かれていたし、古くは60年代のインドの一部の若者たちにも起きていたことだ。
 
 
それだけ普遍的なテーマであり、またポピュラーミュージックの本質的な部分を描いているということなのだろう。
音楽に励まされるというテーマの南アジア系作品では、インド東部とバングラデシュにまたがるベンガル地方の大詩人タゴールが約100年前に作った歌を扱ったドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』も記憶に新しい。



『カセットテープ・ダイアリーズ』は、南アジアカルチャー好きとしての見どころも盛り沢山だ。
主人公の友人ループスが、黒いターバンの下から柄付きの赤いバンダナ風の下地をチラ見せしている80年代風UKシク教徒ファッションも素敵だし、とあるシーンで描かれる黎明期のバングラー・ビート/エイジアン・アンダーグラウンドのクラブイベント(夜出掛けられない保守的な南アジア系の若者たちのために、昼間に行われている!)の様子も興味深い。


この記事(↑)で取り上げたさらに以前にあたる、80年代のUKエイジアン・カルチャーの様子はかなり新鮮だった。
クラブイベントのシーンで流れるこの曲は、まさに映画の舞台となった88年のヒット曲らしい。

イギリスに渡った南アジア系移民たちが、自身のルーツを大切にしつつも、欧米の音楽を導入した新しいサウンドを作り出し、やがてそれが本国インドにも還元されていったというのは、いつもこのブログで書いている通りだ。

インド映画へのオマージュのようなミュージカル・シーンもさまざまな場面で楽しめる(もちろんスプリングスティーンの曲で踊る)。
音楽の面では、スプリングスティーンをはじめとする80年代の曲が主役ともいえる映画だが、それ以外のオリジナル・スコアを手掛けているのはあのA.R.ラフマーン。
とはいえ、今回は主役をスプリングスティーンに譲り、裏方的な役割に徹している。

個人的には、成功を求めて祖国を捨てて渡英したものの、差別や偏見を恐れて、伝統を守りつつも目立たないように生きる父親の姿に、謎のインド人占い師ヨギ・シンのコミュニティー(かなり早い時期にイギリスに渡った保守的なシク教徒のグループ)を思い出した。

ちなみにグリンダ・チャーダ監督も、ケニア出身のシク教徒なので、この記事(↑)のなかにある「南アジアからアフリカに渡り、さらにそこからイギリスに渡った移民」にあたる(かつてイギリス領だったアフリカ諸国には、労働者として多くの南アジア出身者が渡航していた)。


と、かなり微妙な時期ではありますが映画『カセットテープ・ダイアリーズ』を紹介させていただきました。
さっきも書いたけど、映画館はかなり空いているはずなので、興味のある人は往復の感染対策を万全にしたうえで、見に行くべし。



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goshimasayama18 at 13:58|PermalinkComments(0)

2020年05月01日

ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その1)

前回の記事で、山田真美さんの著書『インド大魔法団』『マンゴーの木』で紹介されているインドのマジシャン事情に触れつつ、世界中を流浪する謎の占い師「ヨギ・シン」を、詐欺師扱いされる存在からその伝統に値するリスペクトを受けられる存在にしたいという内容を書いた。
その気持ちに嘘偽りはない。
だが、ヨギ・シンの調査にあたって、それにも増して私の原動力になっていたのは、もっと単純な、本能的とも言える好奇心だ。
あらゆる情報がインターネット検索で分かってしまうこの時代に、こんなに不思議な存在が謎のままでいるということは、ほとんど奇跡であると言っていい。
「彼らは何者なのか」
「彼らはどこから来たのか」
「彼らはいつ頃からいるのか」
「彼らはどんなトリックを使っているのか」
「彼らは何人くらいいるのか」
ヨギ・シンにまつわる全ての謎の答えが知りたかった。

いくつかの謎については、これまでの調査でかなりのことが分かっていた。
彼らが使う「読心術」のトリックは、ちょっとした心理(メンタリズム)的な技法と、以前「ヨギ・トリック」として紹介したあるマジックの技術を使うことで、ほぼ説明することができそうである。
彼らの正体については、大谷幸三氏の著書『インド通』に登場する、シク教徒のなかでも低い身分とされる占い師カーストの人々だということで間違いないだろう。




では、その占い師のカーストは、何という名前なのだろう。
彼らはインドからどのように世界中に広まったのか。
そして、世界中で何人くらいが占い師として活動しているのだろうか。
こうした疑問の答えは、依然として謎のままだった。
私は、彼らの正体をより詳しく探るべく、ほとんど手がかりのないまま、シク教徒の占い師カーストについての調査にとりかかった。

ところで、「シク教徒のカースト」というのは、矛盾した表現だ。
シク教は、カースト制度そのものを否定しているからだ。
16世紀にヒンドゥーとイスラームの影響を受けて成立したシク教は、この2つの信仰が儀式や戒律を重視し過ぎたために形骸化していることを批判し、宗教や神の名はさまざまでも信仰の本質はひとつであるという教えを説いた。
ごく単純に言えば、ヴィシュヌもアッラーも同じ神の異名であり、信仰の前に人々の貴賎はないというのがシク教の思想である。
シク教徒の男性全員がSingh(ライオンを意味する)という名を名乗るのは、悪しき伝統であるカースト制度を否定し、出自による差別をなくすためだ。
シク教の聖地であるアムリトサルの黄金寺院では、宗教や身分にかかわらず、あらゆる人々に分け隔てなく無料で食事が振舞われているが、これもヒンドゥー教徒が自分より低いカーストの者と食事をともにしないことへの批判という意味を持っている。(黄金寺院で毎日提供される10万食もの食事の調理、給仕、後片付けなどの様子は、ドキュメンタリー映画『聖者たちの食卓〔原題"Himself He Cooks"〕』で見ることができる。)

形骸化した既存の宗教への批判から生まれたシク教だが、ほかのあらゆる宗教と同様に、時代とともに様式化してしまった部分もある。
例えば、彼らのシンボルとも言える、男性がターバンを着用する習慣もそのひとつと言えるだろう。
そして、シク教徒たちもまた、インドの他の宗教同様、この土地に深く根付いたカーストという宿痾から逃れることはできなかった。
誰とでも食卓を囲む彼らにも、血縁や地縁でつながった職業コミュニティー間の上下関係、すなわち事実上のカースト制度が存在している。
ヒンドゥー的な浄穢の概念は捨て去ることができても、家柄や職業の貴賤という感覚からは逃れられなかったのだ。
結果として、路上での占いを生業とするコミュニティーに所属する人々は、シク教徒の社会のなかでも、低い身分に位置付けられることになった。

そこまでは分かっていたのだが、シク教徒の辻占コミュニティーについての情報は、なかなか見つけることができなかった。
興味本位のブログ記事や、詐欺への注意を喚起する記事は見つけられても、彼らの正体に関する情報は、英語でも日本語でも、ネット上のどこにも書かれていないようだった。
ところが、なんとなく読み始めたシク教の概説書に、思いがけずヒントになりそうな記述を見つけることができたのだ。
それは、あるイギリス人の研究者が書いた本だった。
その本のなかの、イギリス本国に渡ったパンジャーブ系移民について書かれた部分に、こんな記述を見つけたのだ。

「…第一次世界大戦から1950年代の間にイギリスに移住したシク教徒の大部分は、(引用者注:それ以前に英国に渡っていた王族やその従者に比べて)はるかに恵まれない身分の出身だった。インドでは'B'というカーストとして知られている彼らは、他の人々からは、地位の低い路上の占い師と見なされていた。イギリスに渡った'B'の家族の多くが、現在はパキスタン領であるシアルコット地区の出身である。」
(引用者訳。この本には具体的なカースト名が書かれていたのだが、後述の理由により、彼らの集団の名前や、参考にした未邦訳の書籍名については、今は明かさないことにする)

この「低い身分の路上の占い師」である'B'という集団こそが、ヨギ・シンなのだろうか。
文章は続く。

「'B'のシク教徒の先駆者たちは、ロンドンや、ブリストル、カーディフ、グラスゴー、ポーツマス、サウサンプトン、スウォンジーなどの港町や、バーミンガム、エディンバラ、マンチェスター、ノッティンガムなどの内陸部に定住した。彼らはまず家庭訪問のセールスマンになり、やがて小売商、不動産賃貸業などに就くようになった。より最近の世代では、さらに幅広い仕事についている。'B'たちは、他のシク教徒たちが手放してしまった習慣や、他のシク教徒たちに馴染みのない習慣を保持していた。」

シク教徒のなかでもとくに保守的な集団だというから、今では違う職に就いている彼らのなかに、きっとあの占い師たちもいるのではないだろうか。
彼らのコミュニティーの名前が分かれば、あとは簡単に情報が集まるだろうと思ったが、そうはいかなかった。
'B'という単語を使ってググっても、彼らが行うという「占い」に関する情報はほとんど得られないのだ。
それでもなんとかネット上で得られた情報や、探し当てた文献から得た情報(そのなかには、前述の本の著者の方に特別に送っていただいた論文も含まれている)を総合すると、以下のようになる。

'B'に伝わる伝承によると、改宗以前の彼らはヒンドゥーのバラモンであり、神を讃える詩人だったという。
'B'の祖先はもともとスリランカに住んでおり、その地でシク教の開祖ナーナクと出会った彼らは、シク教の歴史のごく初期に、その教えに帰依した。
改宗後、シク教の拠点であるパンジャーブに移り住んだ'B'の人々は、シクの聖歌を歌うことを特別に許された宗教音楽家になった。
彼らが作った神を讃える歌は、シク教の聖典にも収められている。
インドでは、低いカーストとみなされているコミュニティーが「かつては高位カーストだった」と主張することはよくあるため、こうした伝承がどの程度真実なのかは判断が難しいが、'B'の人々は、今でも彼らこそがシク教の中心的な存在であるという誇りを持っているという。
いずれにしても、彼らはその後の時代の流れの中で、低い身分の存在になっていった。
音楽家であり、吟遊詩人だった彼らは、その土地を持たない生き方ゆえに、貧困に陥り、やがて蔑視される存在になってしまったのだろうか。
少なくとも20世紀の初め頃には、'B'は路上での占いや行商を生業としていた。
彼らの22の氏族のうち13氏族が現パキスタン領であるシアルコット地区を拠点としていたという。

シク教徒の海外への進出は、イギリス統治時代に始まった。
19世紀に王族やその従者がイギリスに移住して以来、多くのシク教徒が、軍人や警官、あるいはプランテーションや工場の労働者として、英本国や世界中のイギリス領へと向かった。
彼らの中でもっとも多かったのが、「土地を所有する農民」カーストであるJatだった。
'B'の人々のイギリスへの移住は、おもに第一次世界大戦期から1950年代ごろに行われている。
とくに、Jatの移住が一段落いた1950年代に、なお不足していた単純労働力を補うために渡英したのが、職人カーストのRamgarhia、ダリット(「不可触民」として差別されてきた人々)のValmiki、そして'B'といった低いカーストと見なされている人々だった。
もともと流浪の民だった'B'は、海外移住に対する抵抗も少なかったようだ。
彼らの主な居住地(シアルコットなど)が、1946年の印パ分離独立によって、イスラームを国教とするパキスタン領になってしまったこともシク教徒の海外移住を後押しした。
シク教徒のほとんどが暮らしていたパンジャーブ地方は、分離独立によって印パ両国に分割され、パキスタン領に住んでいたシク教徒たちは、その多くが世俗国家であるインドや海外へと移住することを選んだのだ。
逆にインドからパキスタンに移動したムスリムたちも多く、その混乱の中で両国で数百万人にも及ぶ犠牲者が出たといわれている。
印パの分離独立にともない、これ以前に移住していた'B'の人々は、帰る故郷を失い、イギリスへの定住を選ばざるを得なくなった。
 
1950年代にイギリスに渡った'B'のなかには、占いを生業とするものがとくに多かったが、彼らの多くは渡英とともにその伝統的な職業を捨て、セールスマンや小売商となった。
彼らは、サウサンプトン、リバプール、グラスゴー、カーディフといった港町でユダヤ人やアイルランド人が経営していた商店を引き継いだり、ハイドパークなどの公園で小間物や衣類、布地などを商ったりして生計を立てた。
また、シンガポールやマレーシア、カナダ、アメリカ(とくにニューヨーク)に移住した者も多く、行商人としてフランス、イタリア、スイス、日本、ニュージーランドやインドシナなどを訪れる者もいたという。

1960年の時点で、イギリスには16,000人ほどのシク教徒がいたが、その後もイギリスのシク教徒は増え続けた。
先に移住していた男性の結婚相手として女性が移住したり、アフリカやカリブ海地域に移住していた移民が、より良い条件を求めてイギリスにやってきたりしたことも、その原因だった。
インドから血縁や地縁を利用して新たに移住する者たちも後を立たなかった。
1960年代以降、インディラ・ガーンディー首相が始めた「緑の革命」(コメや小麦の高収量品種への転換、灌漑設備の整備、化学肥料の導入などを指す)によって、彼らのパンジャーブ州の基幹産業である農業は大きく発展した。
しかし、この成功体験は、人々に「努力して働けば、その分豊かになれる」という意識をもたらし、皮肉にも海外移住の追い風になってしまったという。
今では海外移住者がインド経済に果たす役割は非常に大きくなり、世界銀行によると、2010年にはパンジャーブ州のGDPのうち、じつに10%が海外からの送金によって賄われている(インド全体でも、この年のGDPの5%が海外からの送金によるものだった)。
経済的な野心から違法な手段で海外に渡る者も多く、世界中で15,000人ものパンジャーブ人が不法滞在を理由に拘束されているという。

現在、イギリスには約100万人ものインド系住民が住んでおり、英国における最大のマイノリティーを形成しているが、そのうち45%がパンジャービー系の人々で、その3分の2がシク教徒である。
つまり、イギリスに暮らすインド系住民のうち、約30%がシク教徒なのだ。
インドにおけるシク教徒の人口の2%に満たないことを考えると、これはかなり高い割合ということになる。
その人数の多さゆえか、イギリスのシク教コミュニティーは、決して一枚岩ではなく、それぞれのカーストによって個別のグループを作る傾向があるそうだ。
例えば、彼らの祈りの場である寺院〔グルドワーラー〕もカーストによるサブグループごとに、別々に建てられている。
'B'の人たちは、とくに保守的な傾向が強いことで知られている。
'B'の男性は、他のコミュニティーと比べてターバンを着用する割合が高く、また女子教育を重視しない傾向や、早期に結婚する傾向があると言われている。
参照した文献によると、少なくとも20世紀の間は、'B'の女性は十代後半で結婚することが多く、また女性は年上の男性の前では顔を隠す習慣が守られていたとある。
彼らにとってこうした「保守性」は、特別なことではなく、シク教徒としてのあるべき形なのだと解釈されていた。


長くなったが、これまでに'B'について調べたことをまとめると、このようになる。
世界中に出没している「ヨギ・シン」が'B'の一員だとすれば(それはほぼ間違いのないことのように思える)、例えばこんな仮説が立てられるのではないだろうか。

(つづく)



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2020年01月21日

T.J.シン伝説 番外編(日本のリングを彩ったインド系プロレスラーたち)

前回まで、伝説のヒール(悪役)レスラー、タイガー・ジェット・シン(Tiget Jeet Singh)の半生を振り返る連載企画をお届けした。
ジェット・シンについて調べた過程で気がついたのだが、じつは日本のリングで活躍したインド人レスラーはジェット・シンだけではなく、意外にもかなり大勢いたようなのだ(「活躍した」とまで言えるのはジェット・シンだけだったかもしれないが)。
そのほとんどがジェット・シン同様にパンジャーブ出身のシク教徒だった。
その理由を挙げるとするならば、クシュティにルーツを持つパンジャーブのレスリング文化の豊かさと、戦士としての誇りを持つシク文化、そして20世紀初頭から積極的に移民として海外に進出していた彼らのもの怖じしない性格ということになるだろう。

裸一貫で海を渡り、その肉体と技術のみを頼りに生きてきた彼らの姿は、世界中の都市で目撃されている謎の占い師、ヨギ・シンとも重なって見える。
今回は、日本のリングを彩った、ほとんど人々の記憶にも残っていないインド系レスラーたちの情報をまとめてお届けします。


タイガー・ジェット・シン以前
おそらく最初に日本の地を踏んだインド人レスラーは、海外ではTiger Joginder Singhのリングネームで知られたタイガー・ジョギンダーと、「インドの英雄」ダラ・シン(Dara Singh Randhwa)だろう。

Joginder_Singh
タイガー・ジョギンダーことTiger Joginder Singh(画像出典:https://www.wikiwand.com/en/Tiger_Joginder_Singh

タイガー・ジョギンダーは、1955年に行われた「アジア選手権大会」で、キングコングとのタッグで力道山&ハロルド坂田組を破り「日本最古の王座」であるアジアタッグの初代王者に輝いたレスラーだ。
パンジャーブ出身のジョギンダーだが、この「アジア選手権大会」のシングル部門には、なぜかマレーシア代表として参加していたようで(ちなみにインド代表はダラ・シン)、レスラーの国籍ギミックは今でも珍しくないとはいえ、当時のマット界はかなりおおらか(適当ともいう)だったのだろう。
ちなみに当時のアジアタッグ王座は、タイトルマッチで移動する形式ではなく、アジア選手権大会に優勝したタッグに与えられる称号のようなものだったらしく、ジョギンダー&キングコング組は防衛戦を行わないまま、1960年に第2回アジアタッグ王座決定トーナメントで優勝したフランク・バロア&ダン・ミラー組が第2代王者として認定されている。
来日前のジョギンダーは、シンガポールや米国のマットでキャリアを築いていたようで、来日前後にはインドのリング(プロレスかクシュティかは不明)でダラ・シンらと闘っていたという記録が残っている。
1960年代以降は恵まれた体格を生かしてインドで映画俳優としても活躍した。
ちなみにタッグパートナーだったキングコングもなにかと南アジアと縁が深く、wikipediaの情報によると、彼は1937年にインドのボンベイ(現ムンバイ)でレスラーとしてデビューしたとのこと。
ハンガリー出身者がインドでデビューするとは謎すぎるキャリアだが、どうやら独立前のインドには、南アジアの伝統的なレスリングであるクシュティとは別に、植民地の支配者たちの娯楽として行われていたレスリングがあったらしい。
「キングコング」という見も蓋もないリングネームも、当時のインド映画でキングコング役を演じたことからつけられたものだそうだ。
ラホール(現パキスタン領)で行われたキングコング対ダラ・シンとの一戦には、20万人もの観衆が集まったというから、当時の南アジアのレスリング文化は相当なものだったようだ。

タイガー・ジョギンダーと同じく55年のアジア選手権大会シリーズで来日したダラ・シン(Dara Singh.本名Deedar Singh Randhawa)は、日本での目立ったタイトル獲得歴こそないものの、500戦無敗という伝説を持ち、レスラーとしての格はジョギンダーよりもずっと上だった。
なにしろ、あのタイガー・ジェット・シンにレスラーになることを決意させた人なのだから、当時のインドでは相当なヒーローだったのだろう。
1928年生まれのダラ・シンは、1947年にシンガポールに渡り、工場で働きながらレスリングジムに通って、レスラーとしてのキャリアをスタートさせたらしい。
1954年にはインドのレスリング(クシュティ)トーナメントRustam-e-Hindに出場し、決勝でジョギンダーを破って優勝しているが、デビュー前後の経歴は不明で、500戦無敗と言われるエピソードの真偽ははっきりしない。
ひょっとしたらこれもインドという未知の土地から来たレスラーにハクをつけるための演出だったのかもしれないが、実際にインドでかなり尊敬を集めていたレスラーことは間違いないようだ。
各種媒体によると、日本では当時の外国人レスラーには珍しい正統派のファイトスタイルで、力道山のライバルとして活躍したらしい。
ちなみに1955年の来日時には、パキスタン代表のサイド・サイプシャー(英語表記不明)なるレスラーとタッグを組んでいたようだが、このムスリムっぽい名前のレスラーについては詳しく分からずじまいだった。
darasingh
ダラ・シン(画像出典:https://wrestlingtv.in/dara-singh-tributes-pour-in-from-bollywood-wrestling-world-on-91st-birth-anniversary/
その後、ダラ・シンは1967年にも来日しているが、このときのダラ・シンと1955年のダラ・シンが同一人物であるかどうかについては諸説あり、このあたりの謎も昭和のプロレスならではの怪しい魅力に満ちている。
(別人説についてはこちらの記事に詳しい「ダラ・シンの謎」
ダラ・シンは50年代からプロレスと並行してスタントマンや俳優としても活躍しており、武勇の猿神ハヌマーン役などを務めて人気を博した。
その後、2000年からはインドの上院議員も務めているというから、ドウェイン・ジョンソン(ザ・ロック)や馳浩の大先輩のような存在と言えるかもしれない。
2018年にはWWE殿堂入りを果たすなど、その実績は世界的にも高く評価されている。
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映画『ラーマーヤナ(Ramayan)』でハヌマーンを演じたダラ・シン(画像出典:https://www.cinetalkers.com/dara-singhs-photos-were-found-in-temples-as-hanuman-people-started-worshiping-as-god/


67年の来日時にダラ・シンのタッグパートナーを務めていたのが、サーダラ・シン
ダラ・シンの実の弟である。
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サーダラ・シン(画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Randhawa_(wrestler)
彼の名前をサー・ダラ・シンと表記している記事も見かけるが、いちレスラーの彼がSirの称号を持っているはずもなく、英語表記はSardara Singh(本名Sardara Singh Randhawa)。よりインド風に書くならサルダーラ・シンということになるだろう。(それを言ったら、ジョギンダーもジョギンダルと書くべきだが)
彼も兄を追って1952年にシンガポールに渡り、海外ではファミリーネームのRandhawaというリングネームで活動していたようだ。
日本のリングでは、すでに全盛期を過ぎていたダラ・シンともども大きなインパクトを残すことはできず、たった一度の来日で終わってしまった。
60年代から兄同様に映画にも出演していたものの、俳優としても大成した兄と違い、端役ばかりだったようだ。

ところで、ジェット・シン以前に来日したインド系レスラーの経歴を見ると、シンガポールからのルートで来日したと思われる例が多いことに気がつく。
あのジェット・シンも、カナダに渡る前にシンガポールでデビューしていたという説もあり、1960年代頃までのインド系レスラーの活躍の場としてシンガポールは相当重要な地だったようだ。


1959年の日本プロレス第1回ワールドタッグリーグ戦で来日したのが、「インドの巨人」とも「パンジャブの虎」とも異名を取った198センチの巨漢レスラー、ターロック・シン(Tarlok Singh)。
真偽不明ながらインドレスリングの王者という経歴の持ち主で、実際に1953年にはパキスタンのカラチでアクラム・ペールワンの兄アスラムと戦ったという記録が残っているが、日本のリングでは活躍できず、彼もたった1回のみの来日となってしまった。
日本では印象に残らなかったターロックだが、帰国後のエピソードが強烈だ。
なんと、「象狩り」に行ったまま行方不明となってしまい、足が不自由になった状態で発見され、その後は乞食同然となって暮らしたという。
いくらなんでもこれは嘘だと思うが(象狩りというのは聞いたことがない)、来日前の演出のためのホラ話ではなく、後日談までこの怪しさ、昭和のプロレスならではである。

1971年に自費で来日(!)し、ジャイアント馬場への挑戦を表明したのが「インドの飛鳥」ことアジェット・シン(英語表記はArjit Singhで、本来はアルジットと読むべきだろう)と「インドの蛇男」ことナランジャン・シン(Naranjan Singh)。
アジェットはダラ・シンの弟という触れ込みだったようだが、これが事実なのかどうかは分からない。 
しかし馬場には一切相手にされず、結局国際プロレスのリングに上がったものの、思うように活躍できず来日はこの1回限りとなったようだ。
それにしても「インドの飛鳥」だというのにアジェット・シンの得意技はブロックバスターだったみたいだし、「インドの蛇男」に関してはもはや意味が分からない(得意技は地味なチンロック)。
見世物的なインパクトを狙ったのだろうが、あまりにも適当なネーミングは面白くももの悲しい。
この二人は来日前はイギリスやシンガポールでキャリアを積んでいたようだ。
ところで、この頃来日したインド系レスラーは、インド・ヘビー級チャンピオンなる実態不明の肩書きを名乗っていることが多かったようである。
おそらくはハクをつけるためのハッタリだと思われるが(Rustam-e-Hindというクシュティ/ペールワニの王座は存在するようだが、これも認定団体や歴代王者等が不明の謎の称号)この二人に関しては「インド洋タッグチャンピオン」というさらに正体不明な肩書きを引っ提げていた。


タイガー・ジェット・シン以後
1973年のジェット・シンの来日、そして大ブレイク以降、これまでのシンガポール経由ではなく、カナダや南アフリカから来日するインド系レスラーたちが増えた。
どうやら、カナダでキャリアを積み、南アのブッカーとしても力を持っていたジェット・シンが、自ら連れてきたレスラーが多いようなのだ。
これ以降も記憶や記録に残るほどのインド系レスラーはほぼいないのだが、成功を独り占めせず、少しでも多くの同郷のレスラーにもチャンスを与えようとするジェット・シンの器の大きさが分かるというものだ。

1975年に来日したファザール・シン(Farthel Singh)は、ジェット・シンの実弟というギミックで、「インドの狂虎」ジェット・シンに対して「インドの猛豹」というニックネームがつけられていた。
しかしリングでは良いところを見せることができず、この1回きりの来日に終わってしまった。
あまりのふがいなさに、猪木に「二度と新日のリングに上げない」とまで言われたという情報もある。
もともとはデトロイトやモントリオールを拠点としていたようで(シンのテリトリーとも近い)、売り出し方ともども、ジェット・シンの手引きによる来日と見て間違いないだろう。

1976年に初来日した「インドの若虎」(やはりジェット・シンを意識したニックネームだろう)ガマ・シン(Gama Singh)は、さえないレスラーが多いインド系には珍しく、その後も77年、79年と三度に渡って新日本プロレスに招聘されている。
リングネームの「ガマ」は、20世紀前半に活躍したパキスタン出身の伝説的な格闘家であるグレート・ガマから取ったものだろう。
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ガマ・シン(画像出典:https://prowrestling.fandom.com/wiki/Gama_Singh
彼はパンジャーブ出身ながら、カリブ海のバハマ育ちで、ジェット・シン特集の第2回目で書いた1960年以降にアフリカやカリブからカナダに渡ったインド系移民ということになる。
カナダに渡ったのちにカルガリーで多くの地元タイトルを獲得し、南アフリカでも人気を誇ったようだ。
彼が何度も招聘されるほどに活躍できたのは、ひとえに早い時期からアメリカ式のプロレスに親しんでいたからではないだろうか。
彼はWWEで大活躍しているジンダー・マハルの伯父にあたり、実の息子もガマ・シンJr.の名前でプロレスラーとして活動している。

数多くの南アジア系泡沫レスラーのなかでも、とりわけ悲劇的なのがゴーディ・シンだ。(Gurdaye Singh. 彼もまたカナ表記が微妙。インド系レスラーのリングネームは英語読みからマイナーチェンジすべし、というルールでもあるのだろうか)
76年に行われた新日本プロレスのアジアリーグ戦に、ガマ・シンらと同時に来日。
もともとはカナダのバンクーバーを拠点としていたレスラーだったようだ。
パキスタンのラホール出身という肩書きになっているが、これが事実なのか、このリーグ戦に「パキスタン代表」として参戦するためのギミックなのかは不明(ジェット・シンとガマ・シンがインド代表)。
このシリーズには、ジェット・シン、ガマ・シン、ゴーディ・シンと、3人の「シン」が参戦していたことになる。
ちなみにゴーディ・シンのタッグパートナーだったマジット・アクラ(Majid Ackra)は、南アジアに縁もゆかりもないニュージーランドの先住民マオリの血を引くレスラーで、本名は ジョン・ダ・シルバという(John Walter da Silva. ファミリーネームがポルトガル語っぽいのが少々気になる)。
マオリの戦士をパキスタン人に仕立ててしまうのだから、あいかわらず昭和のプロレスはおおらかである。
ゴーディ・シンの悲劇が始まるのは巡業後だ。
しょっぱいながらもシリーズを終え、生まれて初めて見る大金を抱えてバンクーバーに帰ると、なんとゴーディの家は火事で全焼しており、さらにその1週間後には妻が交通事故で亡くなってしまう。
10歳の一人娘はそのショックで葬儀の最中に突然笑い始め、精神病院に入院。
何もかも失ったゴーディは、遠洋漁業の漁師として再起を図ることにしたというが、その後の彼がどうなったかは、誰も分からないという。 

翌1977年に新日本プロレスに来日したのが「インドの白虎」ことタルバー・シン(Dalibar Singh. 本来ならダリバール・シンと表記すべきだが、もう何も言うまい)。
イギリスや南アフリカで活躍していたというから、やはり南アに強いジェット・シンのルートでの来日と思われる。
DalibarSingh
タルバー・シン(画像出典:https://www.youtube.com/watch?v=ysXdS6kjAc4
イギリスではTiger Dalibar Singhの名前で活躍していたらしく、どうやらパンジャーブ系のレスラーにタイガーというリングネームをつけるのは、欧米では定番のようである。
もともとはイギリスのアマレスで名を上げた選手で、少し間を置いて83年にも新日マットに上がったのち、インド系のレスラーには珍しく85年には旧UWFにも招聘されている。
今ではジェット・シンの会社で働いているという情報もあるが、真偽は不明。

タルバー・シンと同じく77年に新日に初来日したのがモハン・シン(Mohan Singh)。ニックネームは「インドの魔術師」。
クシュティの実力者でダラ・シンからインド王座を奪ったとのふれこみだったが、インドから出たことがなかったようで、日本のリングでは活躍できず、その後の経歴も不明である。

ジェット・シン以降、ここまでが新日本プロレスに来日したレスラーたちである。
誰一人としてジェット・シンに並ぶインパクトを与えたレスラーはいなかったが(リアルタイムのファンによるブログを読むと、みんな「しょっぱかった」ようだ)、凶暴なジェット・シンのもと、インド系の謎のレスラーたちが一人また一人とやって来るというコンセプト自体は悪くなく、彼らを「シン軍団」と読んでいる記事も見かける。
当時からその呼称があったかどうかは不明なので、ここから先は完全に妄想だが、次から次へと正体不明のレスラーが増殖する(シン軍団の場合は、増殖するのではなく入れ替わり立ち替わりやってくるわけだが)というアイデアは、のちに一斉を風靡した「マシン軍団」を彷彿とさせる。
ひょっとしたら、マシン軍団のアイデアや名称は、「シン軍団」から着想を得た部分もあるのかなあ、なんて思ったりもして。

これ以降、そもそも良い人材がいなかったためか、ジェット・シンが新日ナンバーワン外国人レスラーの座から陥落したためか(あるいは、新日にアメリカとのルートができ、得体の知れないインド系に頼らなくてもよくなったのかもしれないが)、インド系レスラーの来日はぱったりと止む。
81年のジェット・シン全日移籍後も、アメリカマットとの豊富なコネクションを持つ全日本プロレスにシン軍団はお呼びでなかったらしく、全日に招聘されたインド系のレスラーは85年のダシュラン・シン(ダシラン・シンとも。英語表記はDashran Singh)のみのようである。
しかしこのダシュランも、あまりにもふがいないファイトで2試合のみで帰国してしまう。

1987年には、226cmもの身長を誇るパキスタンの自称空手チャンピオン、ラジャ・ライオン(Raja Lion)がジャイアント馬場の生涯唯一の異種格闘技戦(!)のために来日する。
試合前に「馬場は小さい」という歴史に残る言葉を発し(馬場は209cm)、話題になったそうだが、このラジャ・ライオン、試合ではまるで強さを見せられず、ヨロヨロとリング上を動き回ると、全盛期を過ぎていた馬場にあっさりと敗れている
彼はこれまでのインド系レスラー/格闘家の中でも輪をかけて酷く、素人目にも格闘技経験が無いのが解るほどで、「その後カレー屋の店長をしていたのを見た」という真偽不明の噂が広まるなど、別の意味で記憶に残る人物だった大槻ケンヂがよくネタにしていた)。
これに懲りたのか、その後、インド系レスラー不在の時代が長く続く。

久しぶりにやってきたインド系レスラーは、ジャイアント・シンことダリップ・シン(本名Dalip Singh Rana)。
Giant Singh
ジャイアント・シン(画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ダリップ・シン

2001年、迷走していた時期の新日本プロレスに蝶野が呼び寄せた巨漢レスラー2人組のうちの1人で、216cmもの長身を誇る、その名の通りの「巨人」だった(もう1人はブラジル出身のジャイアント・シルバ)。
しかしながら、見た目のインパクトに反して不器用なファイトが続き、シルバとの仲間割れや一騎打ちなど、それなりに話題になりそうなことをしていたのだが、正直あまり記憶に残っていない。
当時の専門誌に「ラテン系の陽気なシルバとインド出身で真面目なシンの確執」と説得力があるんだかないんだか分からない記事が書かれていたのをうっすらと覚えているくらいの印象である。
インドで警察官、ボディビルダーとして活躍してミスターインドにも輝いたのち、レスラーを目指してアメリカに渡り、マイナーな団体をいくつか渡り歩いたのちの来日だった。
クシュティではなくボディビル出身で、プロレスが完全にエンターテイメントと化した時代に海を渡ったジャイアント・シンは、新しい時代のインド系レスラーと言って良いだろう。
ちなみに彼はパンジャーブ系ではあるものの、シク教徒ではなくヒンドゥー教徒のようである。

相方のジャイアント・シルバはその後総合格闘技に転向(ぱっとしなかったが)。
ジャイアント・シンはこのまま消えてしまうのかと思われたが、2006年にWWE入りすると、グレート・カリ(Great Khali)のリングネームで猛烈にプッシュされ、WWEヘビー級王座を獲得するなど大活躍。
これは急速な成長を続ける(そしてプロレスファンが非常に多い)インド市場を見越した抜擢だろうが、いずれにしても南アジア系では初の快挙となった。
2015年にはパンジャーブにCWE(Continental Wrestling Entertainment)なる団体(プロレス学校も兼ねているようだ)を設立し、母国のプロレス文化普及に務めている。


…と、こうしてまとめて書かなければ、よっぽどコアなファン以外からは忘れられてしまいそうなインド系レスラーたちを紹介してみた。
改めて感じるのは、ジェット・シンはインド系レスラーの中では本当に別格だったんだなあ、ということだ。
鬼気迫る狂気を完璧に表現し、リング外でも徹底して凶悪ヒールのイメージを形成する自己プロデュース能力、リングでのテクニック、チャンスを独り占めせず同郷の仲間たちにも与える器の大きさ、そしてプロレス以外でも事業を営み成功させる経営能力と、全てにおいて桁外れの才能の持ち主だったことがはっきりと分かる。

インドでのクシュティ人気の低下や、これまでのクシュティ出身者がしょっぱかったせいだと思うが、昨今ではクシュティ出身のプロレスラーが全くいなくなってしまったのは、なんだか少し寂しいような気がしないでもない。
「寝技がなく、相手の背中を地面につけたら勝ち」というクシュティのルールで育った選手では、現代的なプロレスにはもはや対応できないのだろう。


ふと気づいたのだが、このクシュティのルールで育った選手が活躍できそうな格闘技があるとしたら、それは相撲ではないだろうか。
クシュティはインドの都市部では廃れてしまったが、地方ではまだまだ盛んなようで、きっとハングリー精神の旺盛な選手がたくさんいるのではないかと思う。
シク教徒は食のタブーのない人もいるので(個人や宗派による)、ちゃんこを食べることにも抵抗は少ないだろう。
ハワイ勢、モンゴル勢に続いて、インドの力士が活躍する時代が来たら面白いなあ、なんて思っている次第である。

だんだん何を書いているか分からなくなって来たので、今回はここまで。

今回の記事を書くにあたり、プロレスライターのミック博士が書いている「ミック博士の昭和プロレス研究室(http://www.showapuroresu.com)」から非常に多くの情報をいただいた。
っていうか、懐かしい名前がたくさん出てきて、ブログを書く作業が進まないっていったらなかった。
歴史に埋もれてしまいそうなレスラーたちを記録していただいたことに改めて感謝しつつ、タイガー・ジェット・シンを巡る連載を終わります。




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goshimasayama18 at 23:18|PermalinkComments(0)

2020年01月14日

タイガー・ジェット・シン伝説その3 全てを手に入れた男

その1の記事はこちら


その2の記事はこちら


猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件、腕折り事件といったスキャンダラスな話題に満ちたアントニオ猪木とタイガー・ジェット・シンの抗争は、新日本プロレスに(もちろん、シンにも)巨万の富をもたらした。
シンはその狂気を感じさせる独特のファイトスタイルで、新日ナンバーワン外国人レスラーの座を確かなものとした。

しかし、シンと新日本プロレスとの蜜月にも終わりがやってくる。
1977年、カウボーイ・スタイルのアメリカ人レスラー、スタン・ハンセンが新日に初参戦する。
ハンセンは、必殺技の「ウエスタン・ラリアート」でブルーノ・サンマルチノの首をへし折ったというふれこみだったが、それは実は後付けで、その実態は下手なボディスラムでサンマルチノの首を負傷させてしまった不器用なレスラーに過ぎなかった。
しかし、ハンセンはシンの暴走ファイトを参考に「ブレーキの壊れたダンプカー」と称されるスタイルを確立すると、みるみるうちに人気レスラーとなり、ついにはシンから新日ナンバーワン外国人の座を奪うまでになる。
ハンセンのトレードマークであるブルロープを振り回し、観客を蹴散らしながら入場するのは、サーベルを振り回して入場するシンの影響だと言われている。
シンがザ・シークのスタイルを取り入れて日本でトップを取ったように、ハンセンはシンのスタイルを取り入れ、そのお手本を上回る人気を得たのだ。
(それでも、ハンセンはシンに対する尊敬の気持ちを持ち続けており、二人はけっして不仲ではなかった)

さらに、1981年には新日本プロレスが全日本プロレスからアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜くという事件が発生。
ブッチャーはシンと同様に反則ファイトや凶器攻撃を得意とする怪奇派の人気ヒールレスラーだ。
シンは来日前からブッチャーと面識があったが、もともとウマが合わず、さらには自分と似たキャラクターのレスラーを引き抜いた新日フロント陣への不満も募っていった。
一方、ブッチャーを引き抜かれた全日本プロレスは、報復として新日からのシン、ハンセンの引き抜きを画策する。
シンとハンセンはそれに応じて全日本プロレスへの移籍を決意、新日本と全日本の興行戦争はますます加熱してゆく。
正直に告白すると、私がタイガー・ジェット・シンを記憶しているのはこの頃からだ。
全日本プロレスでのシンは、ハンセンやブルーザー・ブロディよりも格下の扱いであり、そのヒールぶりは狂気というよりは伝統芸能、様式美の域に達していたが、それでもなおサーベルを振り回して入場する彼の姿は、子供心にインパクトを残すには十分なものだった。

ところで、地元トロントでは事業家としても知られるシンは、現役時代からレスラーとしてだけではなく、ブッカーとしても活躍していた。
とくに、100万人を超えるインド系住民が暮らしている南アフリカには多くのレスラーを派遣していたようだ。
1987年、ある悲劇が起きる。
シンは全日本プロレスに南アフリカへの選手派遣を依頼し、ジャイアント馬場は要請に応えて、当時若手有望株だったハル薗田を遠征させることにした。
新婚だった薗田のハネムーン兼ねたものにしてやろうと思っていたのだ。
ところが、南アフリカ行きの飛行機が墜落し、薗田夫妻は帰らぬ人となってしまう。
このとき、シンは狂人ヒールというキャラクターを捨て去り、スーツ姿でマスコミの前に現れて深い悔恨の意を伝え、ファンを驚かせた。
シンの本当の人柄が伝わるエピソードだが、これはあくまでも非常事態に見せた例外的な対応だ。
シンは自身のキャラクターを守ることを強く意識しており、とくにヒールとして活躍していた日本では、自分からその素顔をメディアに見せることは決してなかった。(そして、今日まで、その信念は揺らいでいない)
一方で、ベビーフェイス(善玉レスラー)として活躍していたカナダでは、事業家や慈善活動家としての一面も隠さずにメディアに語っており、こうしたキャラクターの使い分けは、シンの高いプロ意識によるものと言えるだろう。
全日本プロレスでのシンは、元横綱の輪島大士のデビュー戦の相手を務めたり、新日から復帰したブッチャーと不仲を乗り越えて「最凶悪タッグ」を結成したりするなど話題を振りまいたが、その活躍は新日のトップヒール時代とは比べるべくもなかった。
だが、シンの伝説はこのままでは終わらない。

全盛期を過ぎたかに見えたシンだが、新日本プロレスの古参ファンたちは、彼のことを忘れてはいなかった。
1990年9月30日、新日本プロレスのアントニオ猪木デビュー30周年興行。
シンは、この記念すべき試合の猪木のタッグパートナーに、ファン投票によって選ばれたのだ(対戦相手はビッグバン・ベイダー、アニマル浜口)。
日本では極悪ヒールとして活躍してきたシンだが、日本マット界の最大のカリスマである猪木のプロレス人生で最も重要なレスラーとして選ばれたことに対しては、万感の思いがあったようだ。
横浜アリーナに集まった18,000人(超満員札止め)の大観衆が見守るなか、シンは、いつものような狂乱ファイトを封印し、多少のラフさを残しながらも、猪木を立てる役割に終始する。
彼の本当の人柄が現れた日本では稀有な試合で、機会があればぜひ見てみることをお勧めする。

生まれ故郷のインドを離れ、居を構えたカナダからも遠く離れた日本で、彼は生まれ持った真面目さを捨て、いや、その真面目さゆえに、「インドの狂虎」として暴れまわり、恐れられた。
カナダに妻子を残し、本来の性格とは正反対の悪役を完璧に演じることで、彼は成功を手にした。
日本のプロレス界の絶対的ヒーローである猪木と初めて同じコーナーに立ち、割れんばかりの歓声(罵声や恐怖の叫びでなく)を浴びたシンの思いはいかばかりだっただろうか。
それにしてもこの試合、「教祖としての猪木」への観客の盛り上がりが凄まじい。
全盛期はとうに過ぎているにもかかわらず、動きや表情の一つ一つで観客を魅了してゆく猪木の格闘アーティストぶりは素晴らしく、シンからタッチされた直後にベイダーに腕折りを仕掛ける場面なんかは天才的な発想だ。(猪木がかつて、死闘の末にシンの腕を折ったとされる伝説の試合のオマージュになっており、またほぼ全ての観客がそれを理解しているのも凄い)

話をシンに戻す。
猪木30周年記念試合をきっかけに新日本プロレスに復帰したシンは、馳浩と巌流島で戦うなど、一定の話題を振りまくが、やはり全盛期ほどの活躍はできず、1992年にふたたび新日を離れることになる。

しかし、これでもまだ終わらないのが、シンの凄いところだ。

これ以降、シンはFMW、NOW、IWAジャパンといった、いわゆるインディー団体への来日を繰り返し、まだまだ健在であることをアピールしてゆく。
これらの団体では、もちろんシンはトップ外国人レスラーであり、サーベルを手に存分に暴れまわってその力を誇示した。
ちなみに、「日本のプロレス報道のクオリティ・ペーパー」である東京スポーツは、この頃からシンのリングネームの表記を、より本来の発音に近い「タイガー・ジット・シン」と記載するようになった。
本人の意向もあったようだが、一般のファンや他のマスコミには浸透せず、私もそんなことはまったく知らなかった。
ちょうどこの時期、私はプロレスから遠ざかっていたので、たまに東スポ紙上で「ジット・シン」がインディー団体に上がっているという記事を見るたびに、超大物レスラーであるシンとマイナーな団体とが結びつかず、「これは本物のシンなのか、それともシンによく似たパロディ・レスラーなのか」と悩んだものだった。

さらに時は流れる。
2005年、タイガー・ジェット・シンの姿は、まだ日本のリングの上にあった。
「ハッスル」というかなりエンターテインメント色の強いプロレス興行ではあったが、60歳のシンの鍛え上げられた肉体はリアルだった。
トレーニングではベンチプレスを軽々と持ち上げ、全盛期と同様にサーベルを振り回し、観客を恐怖に陥れながら入場すると、リングでは凶器攻撃でオリンピック柔道銀メダリストの小川直也を徹底的に痛めつけた。
この光景は、このシリーズを書くにあたってかなり参考にした"Tiger!"というドキュメンタリー番組(2005年、カナダ制作)の一場面である。
あくまで画面からの印象だが、このときのシンのコンディションは、体重が増加し思うように動けなかった全日時代よりもむしろ良かったのではないかと思えるくらいだ。
このドキュメンタリーのなかで、シンは自らの言葉で半生を語っている。
試合での年齢を感じさせない狂乱のファイトとは対象的に、広大な敷地の豪邸で穏やかにインタビューに答える様子は、成功者としての貫禄にあふれ、人々に慕われ、尊敬されている様子が伝わってくる。

結局のところ、この男は何者なのだろうか。


シンの半生を振り返る。
彼は「すべてを手に入れた男」だ。
力、富、尊敬、家族、地位、名誉。
およそ人間が手に入れたいと願うもので、彼が手に入れられなかったものはない。
しかも、彼が手にしたもののうち、親から授かったものは、恵まれた肉体(彼の身長は191㎝)と、その誠実な人柄だけであり、それ以外の全ては、彼が努力によって手に入れたものなのだ。

「力」については言うまでもないだろう。
インドで身につけたクシュティ、フレッド・アトキンス仕込みのプロレスの技術、ザ・シークから学んだ暴走ファイト、そして、60歳を過ぎてなおリングで大暴れできるほどにストイックに鍛え上げられた肉体。
自身をどう見せるかというプロデュース能力を含めて、こうした全てが彼にリングでの成功をもたらした。
そこには、自分のキャラクターとスタイルへの強烈なプライドもあった。
稀代の悪役として新日本プロレスで暴れ回っていた頃、新日ストロング・スタイルの創始者であり、「神様」とも称されたカール・ゴッチは、シンのスタイルを快く思っていなかったそうだ。
だが、シンはゴッチと一触即発の状況になっても、一歩も引かなかったという。
自身が新日立て直しの最大の立役者であるという自負が、そうさせたのだろう。
一方で、シンはいわゆる「ストロング・スタイル」の日本のプロレスのスタイルに強い思い入れを持っていたようで、地元のメディアに対して「現在のWWE的なプロレスはフェイク。自分が日本でしていたのは本物の戦いだった」という趣旨のことを語っている。
シンの強烈なハングリー精神とプライドは、より「リアル」を重んじる日本のリングだからこそら華開いたのだ。

「富」については、彼の現在の暮らしぶりを見れば何の説明もいらないはずだ。
リムジンで移動し、誕生日をクルーザーで祝う彼は、成功におぼれ身を持ち崩す者も多いレスラーの中では、極めて堅実に成功している例と言えるだろう。
シンは、カナダでは日本で稼いだ金をもとに事業に成功した実業家としても知られている。
彼はホテル、不動産、土地開発を手がける経営者でもあり、今では800エーカーの敷地に立つ豪邸に住んでいる。

「尊敬」に関しては、これまで述べてきた通りだ。
日本でのシンは、ヒールとしての悪名から転じて、やがて誰からも愛される存在となった。
カナダのメディアは、「日本ではシンは神のように扱われている。妊婦がシンのもとにやってきて、彼のように強い子どもが生まれるように、お腹をさわってほしいとお願いしに来ることもある」と驚きをもって伝えている。
うれしいことに、シン自身も地元メディアに日本のファンへの感謝を常に語っており、最も印象的な試合として、アメリカでも有名なアンドレ・ザ・ジャイアントやザ・シークとの対戦ではなく、猪木戦や輪島戦を挙げている。
地元カナダでも彼は名士として知られているが、やはり日本での知名度と存在感は格別であり、シンもその事実を誇らしく思ってくれているようだ。

彼の「家族」について見てみると、今では幸せに孫たちに囲まれて暮らしているものの、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
シン夫妻には3人の息子がいる。
妻は結婚早々に故郷のパンジャーブを離れてカナダに引っ越すことになり、巡業で家を空けがちな夫がいない寂しさに耐えなければならなかった。
当時は英語も満足に話すことができず、孤独感のなかで子供たちを育てざるを得なかったという。
インターネットのない時代に、いつ命にかかわるケガをするか分からない仕事をしている夫を、慣れない異国の地で待って暮らすのはさぞ心細かったことだろう。
だが、子供たちは立派に育った。
長男のGurjitはTiger Ali SinghのリングネームでWWEなどで活躍し、タイガー・ジェット・シンJr.の名前で来日して親子タッグも組んだこともある(彼のリングネームは、自身のヒーローである父とモハメド・アリの名前を合体したものだ。彼は今ではケガを理由にプロレスを引退して、父の名を冠した財団の仕事をしている)
他の息子たちも、ホテルを経営するなど、さまざまな分野で活躍しているようだ。

日本ではなく、カナダにおける「名誉」や「尊敬」については、少し説明が必要だろう。
シンは、プロレスや事業で稼いだお金を、決して自分や家族のためだけには使わなかった。
彼は、「タイガー・ジェット・シン財団」を作り、ドラッグ対策、健康増進、奨学金などの形で社会貢献をしてきた。
2010年には、そうした活動を称えて、彼が暮らしているオンタリオ州ミルトンの公立学校に、Tiger Jeet Singh Public Schoolの名前がつけられることになった。
カナダで初めてシク教徒の名前がつけられた学校であり、そしておそらく世界初のプロレスラーの名前を冠した学校でもある。
命名にあたって、「暴力的なプロレスラーの名前を学校につけるのはいかがなものか?」という意見もあったようだが、彼が地域をより良いものにしたロールモデルであるという理由で、シンの名前が採用されることになったという。
2012年には、こうした活動を称えられ、財団の仕事をしている息子のGurjitとともに、英国王室からダイヤモンド・ジュビリー勲章を授与された。
日本人としては、2011年の東日本大震災に対して、彼の財団が日本支援のためのキャンペーンをしてくれたことも忘れずに覚えておくべきだろう。

1971年に、インドからたった6ドルを握りしめて海を渡ってきた少年が、ここまでの成功を収めるとは、いったい誰が想像しただろうか。
だが、彼の絶え間ない努力と誠実さを考えれば、彼が手にした成功は全く不思議ではないのだ。
今後、もし「尊敬する人は誰か?」と聞かれたら、私は即座に「タイガー・ジェット・シン」と答えることにしたい。


さて、その後のシンは、明確な引退宣言をしないまま、セミリタイア状態が続いている。
どうやら2009年にハッスルのリングに上がったのが、現役レスラーとしての最後の姿になったようだ。
いくら頑健な肉体を誇るシンとはいえ、もう75歳であり、これからリングの上で戦うことはないだろう。
引退試合は難しいかもしれないが、せめて引退セレモニーくらいはしてほしいというのがせめてもの願いである。
シンがプロレスのリングを離れて10年以上が経過した。
かつてシンが活躍した新日本プロレスは、当時の猪木体制から完全に決別しており、また全日本プロレスもシンが来日した馬場時代とは全く別の体制となっている。
現在の日本のプロレス界でシンの功績が振り返られることはほとんどない。
だが、シンの居場所がオールドファンの心の中だけというのはあまりにも寂しい。
そして、現役を退いた今だからこそ、シンに、日本のファンに向けてありのままの人生を語ってもらえないだろうか。
彼はヒールとしてのキャラクターを貫きたいのかもしれないが、ぜひシン自身の言葉で、彼の哲学を、努力を、大切にしているものを聞いてみたい。
彼の人生から我々が学べることは、あまりにも多いのだから。



参考サイト:


カナダでやはりインド系の映像プロデューサーLalita Krishaが作成したドキュメンタリー"Tiger!"では、日本では決して見せないシンの素顔を見ることができる。







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goshimasayama18 at 19:37|PermalinkComments(0)

2020年01月11日

タイガー・ジェット・シン伝説その2 猛虎襲来!来日、そして最凶のヒールへ

(前回の記事はこちら)


プロレスラーとしてのキャリアをあきらめ、故郷のパンジャーブで農家として新婚生活を始めたシンに、トロントの古巣メイプルリーフ・レスリングから再び声がかかった。
もう一度、リングに上がってほしいというのだ。
それには、こんな背景があった。

シンがリングを去った後、北米では、「アラビアの怪人」ことザ・シークがリングを荒らしまくっていた。
シークはアラビア人というギミック(じつはレバノン系アメリカ人)で火炎殺法をあやつる怪奇派レスラー。
従来のプロレスのセオリーを無視した暴走ファイトで一世を風靡し、そのすさまじい人気は国境を越えてカナダにも及んだ。
そのシークがトロントにやってくることになったのだ。
メイプルリーフ・レスリングのフランク・タネイは、アクの強いシークに対抗できるレスラーとして、シンのカムバックを画策した。
 
プロレスラーの夢を捨てていなかったシンはこのオファーを受け、新婚の妻を連れて再びカナダへと渡る。
果たして、1971年のトロントで、シーク対シンはドル箱マッチとなった。
彼らの金網マッチに人々は熱狂し、それまで良くて3,500人の観客しか入らなかったメイプルリーフ・ガーデンには、20,000人もの観客が押し寄せるようになった。

ちなみに、「ザ・シーク」というリングネームは、カタカナで書くとシンが信仰する「シク教(Sikh, Sikhism。 シーク教と表記することもある)」とよく似ているが、アルファベットで書くと'The Sheikh'であり、アラビア語で「部族の長老、首長」を意味する「シャイフ」という言葉の英語表記である。
それにしても、この時代のカナダで、アラビア人対インド人の試合がメインというのもすごい話だ。
シンはシークとの戦いで株を上げ、大いに稼いでキャデラックを乗り回すまでになった。
地元トロントでシンがヒール(悪役)からベビーフェイス(善玉)にターンしたのもこの頃だろう。
それには、ザ・シークという最強の悪役がいたということだけでなく、おそらくカナダ社会の変化が関係している。

20世紀前半、パンジャーブ系を中心とした多くの南アジア系移民が、アジア極東地域から太平洋を渡ってカナダ西岸の街バンクーバーに移り住んだ。
シンの家族が当初バンクーバーを目指したのも、この街にすでにパンジャーブ系コミュニティーの基盤があったことが理由だろう。
1960年代以降になると、南アジア系住民の第二波がカナダに到達する。
今度は東部に位置するカナダ最大の都市トロントに、アフリカやカリブ諸国に移住していたインド系住民たちがやってきたのだ。

多民族国家であるアメリカやカナダのプロレスは、ベビーフェイスとヒールの戦いであると同時に、各コミュニティーの代表の戦いでもある。
1960〜70年代のWWWF(現WWE。ニューヨークを拠点としている)でブルーノ・サンマルチノが絶対的なスターだったのは、ニューヨークのイタリア系移民の多さと無関係ではない。
インド人をはじめとする南アジア系住民が増えてきたトロントには、インド系のシンが外国人ヒールではなく、ベビーフェイスとして活躍する素地が出来ていたのだろう。
(その後もトロントの南アジア系社会は成長を続け、郊外を含めると、今ではトロントにはバンクーバーを上回る約100万人の南アジア系住民が暮らしている)

しかしシンは、北米マット界の辺境であるトロントでの成功では飽き足らなかった。
カナダのローカルスターに過ぎなかった彼は、さらなる成功を夢見て世界を転戦する。
オーストラリア、シンガポール、ブラジル、香港などのリングに立ち、そして1973年5月、ついに運命の国、日本へとやってくる。

シンの来日には、新日本プロレスと近しいある貿易商が関わっていたようだ。
香港でシンのファイトを見た彼は、新日の関係者にシンの写真を見せた。
ターバン姿でナイフをくわえ、目をひんむいたシンの写真を見たアントニオ猪木は、この世界的には無名なレスラーを招聘しようと決断する。
当時、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに主要な外国人レスラーの招聘ルートを抑えられていた新日本プロレスは、インパクトのある外国人レスラーがなんとしても必要だったのだ。

ところで、シク教徒の男性には、教義によって身につけることになっている「5つのK」がある(今日では日常的にこの全てを守っているシク教徒は少ないが)。
Kesh(髪を伸ばし切らないこと)、Khanga(小さな木製の櫛)、Kara(右腕にはめる鉄の腕輪)、Kachera(ゆったりした短パンのような下着)、そして、自身と正義を守るための短剣、Kirpan(キルパーン)だ。
シンが写真でくわえていたのは、このキルパーンだった。
アントニオ猪木は、この写真を見て、ナイフをサーベルに変えることを提案する。
レスラーとしての成功を夢見ていたシンは、シク教徒のシンボルとの決別を意味するこの提案を快諾。
日本では、伝統を保持するインド系コミュニティの代表としてではなく、狂気の外国人レスラーとして暴れまわることを、当初から決意していたのだろう。
入場時に振り回し、試合では凶器として使用する、シンのトレードマークとも言えるあのサーベルはこうして誕生した。

1973年5月3日、タイガー・ジェット・シン、初来日。
その2ヶ月前には、のちにWWEでTiger Ali Singhとして活躍する長男Gurjitが生まれたばかりだった。
幼い我が子と妻をカナダに残して極東の地を踏んだシンの心情はいかばかりだっただろうか。 
手違いで早く日本に着いてしまったシンは、新日本プロレスに翌日の川崎大会に招待された。
客席から見るだけだったはずのシンだが、何を思ったか山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合に乱入すると、小鉄をめった打ちにしてしまう。
突然現れたターバン姿のガイジンレスラーの凶行は、強烈なインパクトを残した。
ここからのプロレス史的なシンの活躍については、すでにさまざまな形で書かれているので、簡単に紹介するに留めよう。
シンは新日本のリングで、水を得た魚のように暴れ回り、あっという間に人気悪役レスラーとなった。
凶器攻撃、試合展開を度外視した暴走ファイト、そして、シンそのものから滲み出る本物の狂気を感じさせる怪しさは、観客の目を釘付けにした。
シンが日本で見せた無軌道なファイトスタイルは、間違いなくカナダで肌を合わせたザ・シークから学んだものだ。(ちなみにシンもシーク譲りの火炎殺法を使っている)
 
そして、同年11月、あの、あまりにも有名な猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件が起こる。
「リアル」なものとして警察も出動する騒ぎになったこの騒動は、今日ではプロレス的なストーリーライン上の出来事されているが、この時代に、リングも会場も飛び出して、家族をも巻き込んだ後年のWWE的演出の原点とも言えるアングルを仕掛けた発想は、天才的だった。
この騒動に、当事者であり新日本プロレスの経営者でもあった猪木が深く関わっていたことは間違いないだろう。
このたった3年後には、天才猪木は逆の方向に振り切れ、後の総合格闘技の原点とも言えるモハメド・アリとの異種格闘技戦を行う。
アントニオ猪木もまた、狂気とも言える才覚の人だった。

その後、猪木とシンとの遺恨マッチは新日本プロレスに多くのファンを呼び込むことになる。
猪木、シン、そして観客の興奮と熱狂は1974年6月26日の大阪府立体育館で頂点に達し、伝説となっている猪木によるシンの「腕折り事件」を迎える。
この一連の猪木-シンの抗争は、当時全日本プロレスに大きく水を開けられていた新日本プロレスに莫大な利益をもたらした。
来日時に週給3,000ドルだったシンの報酬は、最終的には週給8,000ドルにまで上がったという。

シンの日本での成功にはいくつかの理由がある。
ひとつには、ポケットの中にたった6ドルを握りしめてカナダに渡ったシンの、強烈なハングリー精神が挙げられる。
日本はアメリカ、メキシコと並ぶプロレス大国であり、当時はファンたちがプロレスを"リアルなもの"として熱狂していた時代である。
生まれたばかりの子と妻をカナダに残して来日したシンは、なんとしてもここ日本で強烈な爪痕を残したいと感じていたはずだ。
この想いが、前述の理由から有力な外国人レスラーが招聘できなかった新日本プロレスの思惑と合致した。
シンにとって幸運だったのは、そこにアントニオ猪木というもう一人の「狂気」を宿した天才がいたということだ。
シンの狂気を感じさせる暴走ファイトと、感情をむき出しにしてそれを受け止める猪木との化学反応は、相乗効果となって観客たちを興奮の坩堝へと誘った。

TJシン2


猪木、そして新日本プロレスは、シンの演出の面でも完璧だった。
シク教徒のシンボルだった短剣をよりインパクトの強いサーベルに持ち替えさせ、「伊勢丹前襲撃事件」、さらには「招待していないのに勝手に参戦している」という斬新なアングルを用意して、シンの「狂気のヒール」というイメージを確固たるものにしていった。

とはいえ、シンは単なるキワモノのヒールではなかった。
彼の狂乱のファイトのベースにはフレッド・アトキンスに鍛えられた確かなプロレス技術があり、猪木もその実力には一目置いていたという。
緩急のあるファイトが、単なる怪奇派にとどまらない試合の流れを作り出していたのだ。

また、今ではファンに広く知られているが、素顔のシンは実に誠実で紳士的な男だった。
ミスター高橋の著書によると、1973年の5月3日に初来日したシンは、スーツ姿で空港に現れ、名刺を差し出して高橋を驚かせた。
そんな挨拶をした外国人レスラーは他に誰もいなかったからだ。
スポンサーに招待されたバーベキューで、火力が強まり汗ばんでも、シンは「社長、ジャケットを脱いでもよろしいでしょうか」とわざわざ断りを入れるほど、気配りのできる人物だった。
猪木によるシンの「腕折り」はプロレス的なストーリーの中でのこと(実際に骨折したわけではない)だったのだが、律儀なシンはその後しばらく腕に包帯を巻いて過ごし、そのために腕がかぶれてしまっても、包帯を巻き続けていたという。
シンのあまりにも誠実な性格は、やはり誇り高きシク教徒の軍人だった父、そして伝統的なインド女性だった母親からの影響によるものだろう。
彼の「狂気」「暴走」は、こうした「生真面目さ」に裏打ちされたものだったのだ。
バス移動中のサービスエリアでファンに声をかけられたシンが、ヒールのキャラクターを崩さないために襲いかかるふりをしたところ、そのファンに足があたってファンが転んでしまったことがあったという。
出発したバスの中で、シンはファンのことをいつまでも心配していたそうだ。

プロレスがリアルで、それゆえの熱狂を生み出していた70年代日本で、シンはついに稀代のヒールとして開花した。
「インドの狂虎 」の伝説はまだまだ終わらない。

(つづきはこちら)


参考文献:
ミスター高橋「悪役レスラーのやさしい素顔」ほか



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2020年01月08日

タイガー・ジェット・シン伝説その1 パンジャーブの虎、カナダに渡る。そして虎たちの系譜


ジャグジート・シン・ハンス(Jagjeet Singh Hans)という名前を聞いて、ピンとくる人はほとんどいないだろう。
だが、ある世代の日本人にとって、彼はもっともよく知られているインド人であり、そしてもっとも恐れられたインド人でもあるはずだ。
彼のもうひとつの名前は、タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh)。
インドの狂虎。
稀代の悪役レスラー。
彼のリングネームは、本来であれば「ジート・シン」とカナ表記すべきなのだろうが、それを「ジェット・シン」としたことで、彼の狂乱のファイトの勢いが伝わってくるような響きになった。
誰かは知らないが、彼の名前を最初に訳した人に敬意を表したい。

新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃事件や、試合での流血ファイト、凶器攻撃など、リング内外での彼の暴れっぷりについては、プロレスファンによく知られている。
また、もう少し熱心なファンなら、素顔の彼がじつは非常に紳士的な人物だと聞いたことがある人も多いはずだ。
彼が現在暮らしているカナダには、その名前が冠された小学校があるという話も、ファンの間では有名である。
しかし、プロレス不毛の地であるインド出身の彼が、なぜ、どうやってプロレスラーになったのか。
本来は紳士であるはずの彼は、どうして稀代の悪役レスラーとなったのか。
そして、カナダでは地元の名士だという彼の本当の素顔はどのようなものなのか。
この「日本で最もよく知られているインド人」について、我々が知らないことはあまりにも多い。
今回から数回に分けて、タイガー・ジェット・シンの半生を振り返り、そのインド人としてのルーツを探る企画をお届けします。

Punjab_in_India
(インド・パンジャーブ州の位置。https://ja.wikipedia.org/wiki/パンジャーブ州_(インド)より)


1944年4月3日、ジャグジート・シン・ハンスは、パンジャーブ地方のシク教徒の家庭に生まれた。
「シク教」は、15世紀にパンジャーブで生まれた宗教で、男性の信徒がターバンを巻くことでよく知られている。
シク教徒は、インド全体の人口の2パーセントほどに過ぎないマイノリティだが、早くから海外に出た人たちが多かったため、インド人といえばターバンというイメージが世界中で定着してしまった。
ジャグジートの出生地は、現在のインド領パンジャーブ州の中央に位置する、ルディヤーナー郡のスジャプルという村だ。
「現在のインド領」とことわったのは、彼が生まれた当時、インドという国家はまだ存在しておらず、南アジア一帯がイギリスの支配下だったからだ。
1947年、彼が3歳のときに、インドとパキスタンはイギリスからの独立を果たし、故郷のパンジャーブ地方は2つの国に分断されることになった。
この印パ分離独立にともない、パンジャーブ一帯は大混乱となった。
イスラーム国家となったパキスタンを脱出してインド領内を目指すヒンドゥー教徒・シク教徒と、インドからパキスタンを目指すイスラーム教徒がパニック状態となり、混乱のなかで起きた暴力行為による犠牲者数は、数百万人に上るとも言われている。
この悲劇がシンの一家にどのような影響を与えたかは、分からない。
いずれにしても分離独立にともなうパンジャーブの混乱は、この地域に暮らす人々の海外移住に拍車をかけることになった。

シンの父は軍人、母は伝統的な専業主婦だった。
シク教徒は古来、勇猛な戦士として知られており、今日でも軍隊に所属する者が多い。
ジャグジート少年も、誇り高き軍人の息子として、厳しく育てられたはずだ。
彼の紳士的な性格や、後年慈善事業に積極的に取り組む姿勢は、こうした家庭環境からの影響が大きいのだろう。
少年時代のジャグジートは、アカーラー(Akhara)と呼ばれる道場で、インド式レスリングのクシュティとカバディを習っていたという。
この頃、クシュティの英雄だったダラ・シン(後述)の試合を見たことが、後の彼の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
(余談だが、カール・ゴッチによって日本のプロレス界に取り入れられた棍棒を使ったトレーニング方法の「コシティ」は、インド〜西アジア発祥のトレーニングで、その語源はクシュティに由来する)

ジャグジートが17歳のときに、彼の一家はバンクーバーに移住することになる(15歳説もある)。
20世紀初頭から、カナダ西岸ブリティッシュ・コロンビア州の州都バンクーバーには、太平洋を渡った多くのシク教徒が工場労働者として移住していた。
彼らもそうした流れに乗って、より豊かな生活を求めて移民となったのだろう。
カナダに渡るジャグジートのポケットにはたったの6ドルしか無かったというから、まさに裸一貫での移住である。

バンクーバーに渡ったジャグジート少年は、英語が分からなかったので、早々に学校からドロップアウトし、学校に行くふりをして近所のジムに通うようになった。
インドでアカーラー(道場)に通っていた彼にとって、学校よりもジムのほうが馴染みやすかったのかもしれない。
トレーニングに打ち込んだ彼の体は、みるみる強く、大きくなってゆく。
この頃、テレビで初めてプロレスを見た彼は、「これなら自分にもできるはずだ」と思い立ち、レスラーになるため、カナダ東部のオンタリオ湖畔の街、トロントへと移り住むことを決意する。
彼の地元のバンクーバーは、のちにジン・キニスキーによってAll Starという団体が設立されるまで、プロレス不毛の地だったのだ。
東部のトロントには、小さいながらもプロレス団体がすでに存在していた。
念願は叶い、移住先のトロントで、ジャグジートはプロモーターのフランク・タネイ(Frank Tanney)によってプロレスラーとなることを認められた。
「ターバンを巻いたレスラー」という個性をタネイに評価されてのことだった。
徐々に多文化社会となってゆくカナダで、人種的多様性に着目したのは先見の明と言って良いだろう。

ジャグジートは、フレッド・アトキンス(Fred Atkins)のもとで厳しいトレーニングを積み、そのファイトスタイルの激しさから、Tiger Jeet Singhのリングネームを授かる。
アトキンスはジャイアント馬場の修行時代のコーチとしても知られる名レスラーで、彼もまたニュージーランド出身の移民だった。
 
ジャグジート改めタイガー・ジェット・シンは、1965年にデビューする。
21歳のときのことだった
シンは、きびしい練習の成果からめきめき頭角を現し、その年の暮れには、タッグマッチでメインイベントを任されるまでに成長した。
パートナーは日系人レスラーのプロフェッサー・ヒロ。
この頃から、 日本となにか縁があったのだろうか。
ちなみに、日本のファンには、「シンは地元カナダではベビーフェイス(正統派)のレスラー」と知られているが、この頃のシンは、まだ荒っぽいファイトを繰り広げるヒール(悪役)だった。
やがて彼は地元のメイプルリーフ・レスリングのUS王座につき、団体のメインコンテンダーとして活躍するようになる。
しかしトロントのレスリングマーケットは小さく、大入りでも3,500人程度しか入らない。
週にたった100ドルを稼ぐために、必死で戦う毎日が続いた。
豊かになるために訪れたカナダで、体を張った厳しい日々が続く。 
彼のレスリング人生の根底にあるのは、インド時代からこの時期までに培われたハングリー精神だろう。 
だが、苦労するジャグジートを見かねた父は、彼をインドに連れ戻してしまう。
さすがのシンも、軍人の父親には頭が上がらなかった。

1970年(1967年8月という説もある)、パンジャーブに戻った彼は、一般的なインド人と同様に、お見合いをして、地元のスポーツ選手だった女性と結婚する。
花嫁は、夫がしているという「レスリング」がどんなものだか知らなかったという。
シンの妻は、はじめは太った大男かと思って彼を怖がっていたが、会ってみると思いのほか紳士的な男性だったと語っている。
生まれ故郷のパンジャーブで、シンの新婚生活が始まった。
ここで彼のレスラーとしてのキャリアが終わってしまえば、タイガー・ジェット・シンはトロントの一部のファンにしか記憶されない存在になっていたはずだ。

ところで、「タイガー」と異名をつけられたインド系のレスラーは彼が最初ではない。
「虎」はインド人レスラーの典型的なイメージだったのだろう。
1930年代から60年代に世界中を転戦して活躍したDaula Singhは、Tiger Daulaのリングネームを名乗り、真偽のほどは不明だが、インディア・チャンピオンなる肩書きを引っさげていたようだ。
また、1919年生まれのJoginder Singhも、Tiger Joginder Singhというリングネームを使っていた。
彼の活躍の場は、シンガポール、米国を経て日本にも及び、1955年には「タイガー・ジョギンダー」の名で力道山・ハロルド坂田組を破って日本最古のベルトであるアジアタッグの初代チャンピオンにも輝いている(パートナーはキングコング)。
Tiger Joginder Singhを1954年にインドで破ったのが、Dara Singh(ダラ・シン)。
500戦無敗という伝説を誇り、少年時代のジャグジートにレスラーになるきっかけを与えた人物だ。
彼は力道山時代に来日した数少ないクリーンなファイトをする外国人としても知られ、1968年には母国インドであのルー・テーズを破って、世界チャンピオンにも輝いている(調べたが、この王座がどこの団体が認定したものかは分からなかった)。

この「シン」たちは、いずれもパンジャーブ出身のシク教徒のレスラーだ。
今もパンジャーブにはシク教徒が多く、世界中のシク教徒の6割以上がこの地に暮らしている。
「シン」はシク教徒の男性全員が名乗る名前で、「ライオン」を意味している。
つまり、タイガー・ジェット・シンという名前には、虎とライオンが入っているのだ。

パンジャーブ出身の格闘家の歴史は古い。
さらに時代を遡ると、1878年生まれのグレート・ガマ(Great Gama)という格闘家がいる。
本名(Ghulam Mohammad Baksh Butt)を見る限り、彼はシクではなくムスリムのようだが、彼もまた、英領時代のパンジャーブ地方の生まれである。
彼はイギリスや英領時代のインドで数多くの強豪と戦い、52年に渡るキャリアで、5,000試合無敗という伝説も残っている英雄だ。
グレート・ガマはペールワニ(Pehlwani)と呼ばれるインド式レスリングの絶対王者だった。
昭和のプロレスに興味がある人であれば、ペールワニという言葉を聞いて、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行ったパキスタンの格闘家、アクラム・ペールワンを思い出す人も多いだろう。
グレート・ガマは、このアクラム・ペールワンの叔父にあたる。 
猪木ファンの間では、「ペールワン」とは最強の男にのみ許される称号だという説が有名だが、実際は、「ペールワニのレスラー」という程度の意味である。
ちなみにかのブルース・リーはグレート・ガマのトレーニング方法を参考にしていたというから、グレート・ガマがいなかったらインドで今も大人気のブルース・リーは存在しなかったかもしれない。
ペールワニおそるべしである。 
とにかく、「パンジャーブから世界的(プロ)レスラーになる」という道筋は、20世紀のごく初期から作られていたのだ。

彼らの共通点は、クシュティ、ペールワニの経験者であるということ。
調べてみると、どうやらクシュティとペールワニは同じ競技を指しているようだ。
ペールワニ(Pehlwani)はイスラーム式(ペルシア語由来)の呼び方であるため、ムスリムであるガマやアクラムは、クシュティではなくこの呼称を使っているのだろう。
ヒンドゥー教徒(インドの人口の8割を占める)にとってのクシュティには、ラーマ神に忠誠を誓う戦士として知られる猿神ハヌマーンへの帰依という要素が加わることがあるようだ。
また、ボリウッド映画のタイトルにもなった「ダンガル(Dangal)」という言葉も、同様の「南アジア式レスリング」を指している。

いずれにしても、パンジャーブはインド式のレスリングが盛んな土地柄だったのだろう。
そのなかから、グレート・ガマやダラ・シンのような英雄が誕生し、後続の若者たちも、富と成功を目指してレスラーを夢見るようになった。
おそらく、パンジャーブから次々とプロレスラーが誕生した理由は、こんなところではないだろうか。
日本からも、相撲出身の力道山や豊登、柔道出身の木村政彦や坂口征二など、ドメスティックな格闘技出身のプロレスラーが多く誕生した時代である。
もちろん、インドと日本だけではない。
本場アメリカのプロレスは、世界中の力自慢の移民たちがしのぎを削る場だった。
「鉄人」ルー・テーズはハンガリー系だし、「神様」カール・ゴッチはベルギー出身、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノはイタリア出身、「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスはメキシコ出身で、「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントはフランス出身だ。
インターネットも衛星放送も無かった時代、プロレスは、体一つで一攫千金を夢見る世界中の腕自慢や荒くれ者が集まる、まさに戦いのワンダーランドだったのだ。

気になるのは、クシュティ(ペールワニ)が、純粋に勝ち負けを競うスポーツとしての格闘技なのか、プロレスのようにエンターテインメント(興行)としての要素もあるものなのか、ということだ。
調べて見たのところ、インドには全国クシュティ協会のような組織があるわけではなく、クシュティは基本的には道場や村落単位で行われているようだ。
'Rustam-e-Hind'という「インド・チャンピオン」の称号もあるそうだが、どんな大会が開かれ、どんな団体が認定しているのかについては全く情報がなかった。
YouTubeで検索して見ても、地方の屋外会場で行われている動画ばかりがヒットする。
その試合はむしろ非常に地味で、エンターテインメントからはほど遠く、純粋に強さを競うものであるように見える。
近年ではクシュティの競技人口も大きく減っているようで、今後、ミステリアスな「クシュティ出身の強豪」という触れ込みのプロレスラーが登場することは、もう無いのかもしれない。

話をタイガー・ジェット・シンに戻す。
家庭を持ったシンが、故郷パンジャーブで平穏な暮らしをすることを、レスリングの神は許さなかった。
トロントのメイプルリーフ・レスリングから、シンに再び声がかかったのだ。
シンがいない間に北米全土で大人気となったヒールレスラー、ザ・シークに対抗できる人材として、ターバン姿でラフファイトを繰り広げていた彼に、白羽の矢が立った。
ダラ・シンのように強くなりたい。
プロレスで富と成功を手に入れたい。
シンは、新婚の妻を連れ、カナダに戻ることを決意する。

シンのプロレスラーとしての旅は始まったばかりだ。
そして、その伝説は、まだ始まってすらいない。

(続きはこちらから)


【参考サイト・参考映像】
https://www.bramptonguardian.com/news-story/6003647-the-tiger-with-a-heart-of-gold

https://web.archive.org/web/20090505075751/http://www.sceneandheard.ca/article.php?id=1080&morgue=1

ドキュメンタリー番組"Tiger!"
など



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2019年09月20日

『ガリーボーイ』がきっかけで生まれた傑作!新進プロデューサーAAKASHが作るインドのヒップホップの新潮流!



ムンバイのヒップホップシーンから、また新しい傑作アルバムが登場した。
プロデューサーのAAKASHが先日自身の名義でリリースしたデビュー作"Over Seas"は、MC Altaf, Dopeadelicz, Ace(Mumbai's Finest), Dee MCといったムンバイのヒップホップシーンを代表するラッパーたちをフィーチャーした意欲作だ。
これまでのインドのヒップホップとは異なるトラップ以降のトレンドを意識したサウンドは、グローバルな同時代性を感じさせる内容となっている。

AAKASH(本名:Aakash Ravikrishnan)は、クウェートで生まれ、米国インディアナ州の大学で音楽やパフォーミングアーツを学んだ、典型的なNRI(在外インド人)だ。
マルチプレイヤーでもあり、アメリカのドキュメンタリー番組のサウンドエンジニアとしてエミー賞(テレビ界の最高峰の賞)を受賞したことがあるというから、本場米国仕込みの実力派と呼べるだろう。
昨年アメリカからムンバイに移住してきた彼が最初にコラボレーションしたのは、まだ10代の若手ラッパーMC Altafと31歳の(ムンバイのシーンでは)ベテランのD'Evilだ。



ミュージックビデオの舞台は、インドでもヒップホップ・ブームと並行して人気が高まっているスニーカーショップ。
この"Wazan Hai"を皮切りに、AAKASHは次々とムンバイのラッパーたちとのコラボレーションを進めていった。

トラックもメロディックなフロウもインドらしからぬ"Obsession/Bliss"は14歳からラッパーとして活躍しているPoetik Justisとのコラボレーション。

ミュージックビデオはなぜか中国語の字幕付きだ。

米国からムンバイに移住してきたAAKASHは、映画『ガリーボーイ』を見て当地のヒップホップシーンのむき出しのパワーに触発され、インスタグラムを通じて地元のラッパーたちにコンタクトを取ったという。
『ガリーボーイ』にも、スラムのラッパーの才能に引き寄せられるアメリカ帰りのトラックメーカーが登場するが、それと全く同じようなエピソードだ。
そもそも『ガリーボーイ』自体が、ボリウッドの名門一家に生まれ、ニューヨークで映画製作を学んだゾーヤー・アクタル監督がムンバイのヒップホップシーンの熱気に魅了されて製作された映画である。
ムンバイのヒップホップシーンはものすごい求心力で世界中に拡散したインド系の才能を惹きつけているのだ。

ストリートヒップホップは、巨大なショービジネスの中で作られた映画音楽や高度に様式化された古典音楽とは違い、都市部の若者たちから自発的に誕生した、インドでは全く新しいタイプの音楽だ。
欧米では60年代のロック以降あたりまえだった「労働者階級が自分たちのリアルな気持ちを吐き出すことができる音楽」が、インドでは2010年代に入ってようやく誕生したわけだ。
欧米文化に慣れ親しんだ国際的なアーティストが、インドのヒップホップ誕生をもろ手を上げて歓迎するのは、むしろ当然のことなのだ。

Rolling Stone Indiaの特集記事でのAAKASHの言葉が、在外アーティストから見たインドのシーンを端的に表わしている。
「インドのヒップホップは現代のL.A.やアトランタやシカゴのヒップホップとは対照的に、よりオールドスクールでリアルなヒップホップの影響を受けているね」

MC Altafとのコラボレーションについてはこう語っている。
「彼は俺の音楽をチェックした後に、D'Evilとのレコーディングのために俺のホームスタジオまで来てくれたんだ。俺たちはいろんなビートを試してみたんだけど、その中のひとつを選んでその日のうちに仕上げたよ。それが"Wazan Hai"になった。この曲が、ムンバイで最高のヒップホップアーティストたちをフィーチャーした"Over Seas"というアルバムを作るきっかけになったんだ。これは、彼らにフレッシュな2019年や2020年のサウンドを提供して、世界にプロモートするためのアルバムだよ」

ヒップホップ(ラップ)は言葉の音楽だが、トラック/ビートもまた重要な要素である。
とくに世界的な市場で評価されるためには、サウンド的にも新しくクールであることが求められる。
これまで、インドのヒップホップは、オールドスクールヒップホップやインドの音楽文化の影響のもとでガラパゴス的な発展を遂げてきた。
このアルバムは、高いスキルとリアルなスピリットを持ったムンバイのラッパーたちに、現代的な最新のビートをぶつけてみるという、非常に野心的な試みでもあるのだ。

インドのローカル言語でラップされるこのアルバムは、先日紹介した英語ラッパーたちの作品と比べると、馴染みがない響きに少し戸惑うかもしれない。
だが、気にすることはない。
AAKASH自身もこう言っている。
「俺はヒンディー語で育ったわけじゃないから、ヒンディー語が本当に分からないんだ。だからレコーディングが終わって、彼らにヴァースの意味を聞くまで、誰が何を言っているのか全く分からなかったんだよ」
彼もまた、リリックの中身は分からなくても、シーンの熱気とラップのスキルやフロウのセンスに魅せられた一人なのだ。

AAKASHは、アメリカでヒップホップだけでなくメタル、ポップ、ジャズ、ロックなど様々な音楽の影響を受けており、この"Over Seas"にはジャズ、R&B、クラシックギター、フォーク、ボサノヴァの要素が込められているという。

Sid J & Bonz N Ribzをフィーチャーしたこの"Udh Chale"はBlink182のようなポップなパンクバンドの要素を取り入れているそうだ。
 

ダラヴィのラッパーDopeadeliczをフィーチャーしたトラップナンバー"Bounce"は、ヘヴィーなサウンドと緊張感で聴かせる一曲。


"Aadatein"は、いつもは歯切れのよいラップを聴かせるDee MCのメランコリックな新境地だ。


インドのヒップホップシーンには、この一年だけでも、才能豊かで、シーンを刷新するようなアーティストがあまりにも多く登場している。
もちろん今回紹介したAAKASHもその中の一人だ。
アンダーグラウンドで発展してきたヒップホップシーンは、『ガリーボーイ』という起爆装置によって、ものすごい勢いで進化と多様化を進めており、一年後がどうなっているか、全く想像がつかないほどだ。

AAKASHの次のアルバムはすでに完成しており、"Homecoming"というタイトルのジャズ・ヒップホップだという。
リリースは彼が米国に帰国した後になるそうだ。

今度はどんな新しいサウンドを聴かせてくれるのか、今から非常に楽しみである。


参考記事:
Rolling Stone India "Aakash Delivers a Cutting-Edge Debut Hip-Hop LP ‘Over Seas’"
The Indian Music Diaries "AAKASH Moved to Mumbai, and Made One of the Most Groundbreaking Indian Hip-Hop Albums"


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(2019.9.23加筆)

ムンバイ在住の友人がAAKASHに近しい人物から聞いた話によると、彼のインドへの帰国はトランプ大統領の排外的な移民政策によるものだったという。
まさかトランプの政策がインドのヒップホップシーンに影響を及ぼすとは思わなかった。
アメリカの移民排斥によって、最新のヒップホップサウンドがインドに持ち込まれることになったのだ。
これがまさにグローバリゼーションというやつだなあ、と非常に感慨深く感じた次第。
状況は不明だが、AAKASHは既報の通り再びアメリカに戻ることも考えているようだ。


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2019年02月24日

Desi Hip HopからGully Rapへ インドのヒップホップの歴史

今回は、ボリウッドの大スターであるRanveer Singh主演の映画"Gully Boy"を生み出すまでに至ったインドのヒップホップシーンの歴史を振り返ってみます。
(ムンバイのラッパー、DivineとNaezyをモデルにした映画"Gully Boy"についての記事はこちらから:
「ムンバイのヒップホップシーンをテーマにした映画が公開"Gully Boy"」
「映画"Gully Boy"のレビューと感想(ネタバレなし)」
「映画"Gully Boy"あらすじ、見どころ、楽曲紹介&トリビア」

在外インド人によるDesi hip hopの誕生から、インド都市部でのストリートラップの誕生まで、インドのヒップホップの歴史を、3つに区切って紹介!
(アーティスト名など、文字の色が変わっているところは、そのアーティストを紹介している記事へのリンクになっているのでよろしく)

【Desi Hip Hopのはじまり】(20世紀末〜2005年頃)

「インド系」のヒップホップは、総称して'desi hip hop'と呼ばれる。
'Desi'という接頭辞は、本来は南アジア系ディアスポラ(在外コミュニティー)を意味する言葉。
'Desi hip hop'という言葉は、もともとはイギリスやカナダなどで暮らす南アジア系(インドのみならず、パキスタン、バングラデシュなども含む)移民によるラップミュージックを指していたが、現在ではインド国内のヒップホップを含めた総称として使われることもある。
とにかく、この呼び名からも分かる通り、インドのヒップホップは、海外に暮らす移民たちによる、「在外南アジア系コミュニティーの音楽」として始まった。

Desi hip hop誕生前夜の90年代後半には、イギリスを中心に「バングラー・ブーム」が巻き起こっていた。
このパンジャーブ州発祥の強烈にシンプルでエスニックなリズムは、インド系移民からメインストリームにも飛び火し、そのブームはPanjabi MCが1998年にリリースした"Mundian To Bach Ke"が2003年には世界的なヒットとなるまでに拡大した。
同じく90年代には、タブラ奏者のTalvin SinghやAsian Dub Foundationのようなバンドによる「エイジアン・アンダーグラウンド」と呼ばれるムーブメントもイギリスで勃興。
南アジア系移民によるクラブミュージックとルーツ音楽の融合が本格的に始まり、インド系ヒップホップ誕生の期は十分に熟していたのだ。
こうした状況下で、同時代の欧米の音楽にも親しんだ移民の若者たちが、自分たちの言葉をラップに載せて吐き出すのは必然だった。

初期のdesi hip hopを代表するアーティストを一人挙げるとしたら、カリフォルニアのBohemiaということになるだろう。
Desi hip hopの創始者と言われるBohemiaは、1979年にパキスタンのカラチで生まれ、13歳のときに家族とともにカリフォルニアに移住してきた。
母の死をきっかけに高校をドロップアウトした彼は、南アジア系の仲間とバンドを組んで音楽を作り始める。
やがて彼は、故郷を持たずに放浪するボヘミアンの名を借りて、移民の青春や文化的衝突をリリックに乗せた世界最初のパンジャービー語ラッパーとなり、在外パンジャーブ系コミュニティーを中心に人気を博してゆく。
2002年に発表した彼のデビューアルバムは、地元カリフォルニアよりもインド系移民の多いイギリスで高く評価され、BBCラジオのトップ10にもランクインした。
彼は俳優Akshay Kumarとの親交でも知られ、'Chandni Chowk To China'や'Desi Boyz'といった彼の主演作品への楽曲提供も行なうなど、ボリウッドとヒップホップの橋渡しという意味でも大きな役割を果たした。
Desi hip hopのラッパーたちはアメリカやカナダからも登場したが、シーンの中心はインド系移民の多いイギリスで、マンチェスターのMetz and TrixやウエストヨークシャーのRDBら、多くのアーティストがこの時代から活躍している。

Desi hip hopは、その後も独自の進化を続け、Raxstar(ルートン〔英〕、2005年デビュー)、Shizzio(ロンドン。2006年デビュー)、Swami Baracus(ロンドン。2006年デビュー?)、J.Hind(カリフォルニア。2009年デビュー)ら、多彩なアーティストを輩出している。
2010年代に入ってからは、Desi hip hopという用語の古臭さを嫌い、Burban(Brown Urbanの略。Brownは南アジア系の意)というジャンル名を提唱するアーティストも出始め、Jay Sean(ロンドン。2014年デビュー)のように、音楽性からインドらしさを取り払って人種に関係なく受け入れられるアーティストが登場するなど、シーンは一層の多様化を見せている。


【インド製エンターテインメント・ラップの登場】
海外でのdesi hip hopの流行がインド本国にも伝わると、インドの一大エンターテインメント産業である映画音楽業界が放っておくはずがなかった。
Desi hip hopのアーティストは、イギリスのインド系移民の主流で、バングラーの故郷でもあるパンジャーブ系のラッパーが多かったが、その影響からか、この時期にインドで活躍しはじめたラッパーもパンジャーブ系が多かったのが特徴だ。

その代表格がYo Yo Honey Singhだ。
パンジャーブ州ホシアールプル出身の彼は、イギリス留学を経てデリーを拠点に音楽活動を開始。
Desi hip hopシーンの影響を受けた彼は、2006年にBadshah, Raftaarらとバングラー/ラップユニットMafia Mundeerを結成し、国産バングラー・ラップを作り始める(名義としては各メンバーの名前でリリースされている楽曲が多い)。
この新しいサウンドに流行に敏感なボリウッドが飛びつくと、当初はシンプルなものだった彼らの音楽性は、映画音楽に採用されるにしたがって、どんどん派手に、きらびやかになってゆく。Mafia Mundeer出身のアーティストでは、Honey Singh同様にゴージャスなサウンドが特徴のBadshah、よりヒップホップ色の強いサウンドのRaftaarらもヒット曲を量産し、インドのエンターテインメント・ラップの雛形を作り上げた。
インターネットの普及によりインド国内で多様な音楽が聴ける環境が整うと、ガラパゴス的だったインドの映画音楽は一気に発展し、派手なサウンドのバングラー・ラップはボリウッドでひんぱんに取り上げられるようになる。
また同じ時期には、おそらくはインド初のフィーメイルラッパーということになるであろうHard Kaur(彼女もイギリス育ち)も登場し、現在も映画音楽を中心に活躍している。

彼らのサウンドは、インドではヒップホップとして扱われることが多いが、その音楽性はむしろバングラー・ビートをEDM的に発展させた楽曲にラップを合わせたもの。
アーティストの名前を知らなくても、インド料理店などで流れているのを耳にしたことがある人も多いかもしれない。


【インドのストリートヒップホップ Gully Rapの台頭】(2010年頃〜)
インド社会にインターネットが完全に定着すると、それまで耳に入る音楽といえば国内の映画音楽ばかりだった状況が一変する。
エンターテインメント色の強いボリウッド・ラップとは一線を画するラッパーたちが次々と登場してきたのだ。
高価な楽器がなくても始められるラップがインドの若者たちに広まるのは当然のことだった。
それまで、映画音楽などのようにエンターテインメント産業によって制作され、提供されるのが常識だった音楽を、若者が自分で作って発信できる時代が訪れたのだ。
こうして、インドじゅうの大都市に、アンダーグラウンドなヒップホップ・シーンが誕生した。

ムンバイからは、ケニア出身のラッパーBob Omulo率いるバンドスタイルのBombay Bassment, Mumbai's Finest、そしてストリート出身のDivineやNaezyが登場。
Divineはヒンディー語で「裏路地」を意味するGullyという言葉を多用し、インド産ストリートラップの誕生を印象付けた。
ムンバイは他にもEmiway Bantai, Swadesi, Tienas, Dharavi United, Ibexら、多くのラッパーを輩出し、インドのアンダーグラウンド・ヒップホップの一大中心地となった。
英語、ヒンディー、マラーティーと多様性のある言語が使用されているのもムンバイのシーンの特徴だ。

首都デリーでは名トラックメーカーSez on the Beatを擁するAzadi Recordsが人気を集め、パンジャービーながらバングラではなくアンダーグラウンド・スタイルで人気を博しているPrabh DeepやSeedhe Mautらが台頭してきている。

デカン高原のITシティ、バンガロールでは、バッドボーイだった過去とヒンドゥーの信仰をテーマにしたBrodha Vや、出身地オディシャの誇りや日印ハーフであることで受けた差別の経験をラップするBig Dealらがこなれた英語のラップを聴かせる一方で、地元言語カンナダ語でラップするMC BijjuやGubbiら、よりローカル色の強いラッパーたちも活躍している。

南インドのタミル・ナードゥ州ではHip Hop TamizhaやMadurai Souljourが、ケーララ州ではStreet Academicsらがそれぞれの地元言語(タミル語、マラヤーラム語)で楽曲をリリースし、インド北東部でも、トリプラ州のBorkung Hrankhawl(BK)、メガラヤ州のKhasi Bloodz、アルナーチャル・プラデーシュ州のK4 Kekhoらがマイノリティーとしての民族の誇りや反差別をラップしている。

こうしたアーティストの特徴は、彼らの音楽的影響源がDesi Hiphopやいわゆるボリウッド・ラップではなく、EminemやKendrick Lamarらのアメリカのラッパーだということ。
よりシンプルなトラックにメッセージ性の強いリリックを乗せた彼らは、エンターテインメント色の強いボリウッド・ラップがすくいきれない若者たちの気持ちを代弁し、支持を集めてきた。

各地で同時多発的に勃興したムーブメントは少しずつ大波となってゆく。
ここにきて、アンダーグラウンドなものとされてきたGully Rapが"Gully Boy"としてボリウッドの大作映画に取り上げられるなど、インドのヒップホップシーンはよりボーダレス化、多様化が進み、ますます面白くなっている。
アンダーグラウンドシーン出身のラッパーがメジャーシーンである映画音楽の楽曲を手がけることも多くなってきた。
また、在外インド人系アーティストでは、カリフォルニア出身でソングライターとしてグラミー賞にもノミネートされたことがある米国籍のフィーメイル・ラッパーのRaja Kumariが、映画音楽からDivineとの共演まで、インド系ヒップホップシーンのあらゆる場面で活躍している。

当初、インドのストリート系ラップはアッパーな曲調が大半を占めていたが、昨今ではTre Ess, Tienas, Smokey The Ghost, Enkoreのようによりメロウでローファイ的なトラックの楽曲を発表するアーティストも増えてきた。
世界的なチルホップ、ローファイ・ヒップホップの流行に呼応した動きと見てよいだろう。
ムンバイのラッパーIbexが日本人アーティストのHiroko、トラックメーカーのKushmirとともに日本語のリリックを取り入れたチルホップ曲"Mystic Jounetsu"をリリースしたのも記憶に新しい。

"Gully Boy"のヒットで一気にメジャーシーンに躍り出て来たインドのヒップホップシーンは今後どのように発展し、変化してゆくのか、これからもますます注目してゆきたい。
(…といいつつ、あまりにもアーティストの数が増え続け、もはや追い続けることが不可能なレベルに入って来たとも思うのだけど)


今回の記事で紹介したラッパーたちの楽曲をいくつか紹介します。
かなりの量になるので、興味があるところだけでも聞いてみて。

Desi Hip Hop前夜に世界中でヒットしたPanjabi MCの"Mundian To Bach He"(1998年)

今にして思うとあのバングラ・ブームは何だったんだろう。
世界的なブームは一瞬だったけど、その後もインド国内のみならず在外インド人の間でもバングラは愛され続けており、インド系ヒップホップにも多大な影響を与えてきた。

Bohemiaのファースト・アルバム"Vich Pardesa de"(2002年)。

改めて聴いてみて、このあとにインドで流行するヒップホップと比較すると、オリジナルの(アメリカの黒人の)ヒップホップのヴァイブを一番持っているようにも感じる。

そのBohemiaが映画音楽を手がけるとこうなる"Chandni Chowk To China"(2009年)

その後のボリウッド・ラップとも異なる、これはこれで面白い音楽性。
Chandni Chowkはデリーの要塞遺跡ラール・キラーにつながる歴史ある繁華街の通りの名前だ。

Sunit & Raxstar "Keep It Undercover"(2005年)

トラックにインド音楽をサンプリングするのはその後のインド本国でのヒップホップでもよく見られる手法。

Shizzio FT Tigerstyle "I Swear"(2009年)

Shizzioは2010年代以降、新しいDesiミュージックとしてBurbanを提唱するアーティストの一人。

Swami Baracusは音楽的にはまったくインドらしさを感じさせないラッパー。 "The Recipe"(2011年)


Jay Sean "Down ft. Lil Wayne"(2009年)

かつてはもっとインド色の強い音楽性だったJay Seanは、無国籍な作風となったこの曲でビルボードチャートNo.1を達成。
インド系のアーティストとしては初の快挙。

Yo Yo Honey Singh ft. Bill Singh "Peshi"(2005年)

Yo Yo Honey Singhのデビュー曲はのちの音楽性よりもシンプルでバングラ色が濃厚!

最新の楽曲は昨今流行りのバングラのラテン的解釈
Yo Yo Honey Singh "Makhna"(2018年)


Badshah "Saturday Saturday"(2012年) 

典型的なボリウッド・パーティー・ラップ。
歌い始めのところで「食べやすい」と聞こえる空耳にも注目。

Raftaar x Brodha V "Naachne Ka Shaunq"

ボリウッド・ラップとストリートシーン出身のラッパーの共演例のひとつ。

Hard Kaur "Sherni"(2016年)

イギリス育ちのフィーメイル・ラッパーの草分けHard Kaur.
Raja Kumariもそうだが、こういうラッパー然とした佇まいはなかなかインド出身の女性には出せないのかもしれない。

Bombay Bassment "Hip Hop (Never Be the Same)"(2011年)

レゲエ的な曲を演奏することも多いBombay Bassmentはムンバイのシーンの初期から活動しているグループだ。ベースやドラムがいるというのも珍しい。

Mumbai's Finest "Beast Mode"(2016年)

オールドスクールな雰囲気満載のこの曲はダンスやスケボーも含めたムンバイのヒップホップシーンの元気の良さが伝わる楽曲。

Divine ft. Naezy "Mere Gully Mein"(2015年)

映画"Gully Boy"でも効果的に使われていた楽曲のDivineとNaezyによるオリジナル・バージョン。
映画公開以来Youtubeの再生回数もうなぎのぼりで、ボリウッドの力を思い知らされた。

"Suede Gully"(2017年)はDivine, Prabh Deep, Khasi Bloodz, Madurai Souljourとインド各地のシーンで活躍するストリートラッパーの共演。

Gullyという言葉がインドのヒップホップシーンで多様されていることが分かる。
ご覧の通りPumaのプロモーション的な意味合いが強い楽曲で、この頃からアンダーグラウンド・シーンに大手企業が注目してきていたことが分かる。

Street Academics "Vandi Puncture"(2012年)

ケララ州を代表するラッパーデュオStreet Academics.

Smokey the Ghost "Only My Name ft. Prabh Deep"(2017年)

 Sezプロデュースのこの曲はチルでジャジーな新しいタイプのインディアン・ヒップホップサウンド。

Tienas "18th Dec"(2018年)

ムンバイのTienasのこの曲はインドのヒップホップ界を牽引するデリーの新進レーベルAzadi Recordsからのリリース。

Raja Kumari "Karma"(2019年)

Raja Kumariはこの曲や先日紹介した"Shook"を含む5曲入りのアルバム"Bloodline"を2月22日にリリースしたばかり。
やはり唯一無二の存在感。

2019.3.7追記:このあとに書いた印パ対立の犠牲となってきた悲劇の地カシミールで自由を求めてラップするストリートラッパーMC Kashについてはこちらから。「カシミール問題とラッパーMC Kash

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goshimasayama18 at 19:13|PermalinkComments(0)

2019年02月10日

Raja Kumariがレペゼンするインド人としてのルーツ、そしてインド人女性であるということ

以前も紹介したアメリカ国籍のインド系女性ラッパー、Raja Kumariが昨年11月にリリースした楽曲"Shook"がかっこいい。
この曲は、今年前半にリリースが予定されているニューアルバム、"Blood Line"(血統)からの先行リリース。

以前の曲と比べてよりドスのきいた声で、ミッシー・エリオットのような凄みが出てきた。
イントロからサンプリングされている伝統音楽っぽい歌がインドっぽくないなあと思っていたら、どうやらスワヒリ語のチャントだとのこと。
つまりこの曲はアフリカ系アメリカ人が発明したヒップホップとそのルーツであるアフリカの音楽、そしてインド系アメリカ人である彼女とそのルーツであるインドの音楽(この曲ではちょっとだけど)が融合した非常に野心的な楽曲なのだ。

この曲のサウンドがとても気に入ってよく聴いていたのだけど、彼女のインタビューに基づいて歌詞を読んでみると、歌詞もまた非常に興味深いものだということがわかる。

最初のヴァースは'Diamond bindi shining with bangles out' と始まる。
「ビンディー」はヒンドゥーの女性が額につける飾りで、もともとは悟りとともに開かれるとされる第3の目を模したもの。
「バングル」は今ではすっかり一般的な単語になっているが、もともとはインド人女性がつけるインドの腕輪を指す言葉だ。
インド人女性としての誇りや美的感覚を自信を持って見せつけよう、というところからリリックは始まる。

この曲の最も重要なテーマはその後のラインに出てくる'Hindu guap'.
'guap'は現金を意味するスラングだが、彼女曰く「ヒンドゥー文化の豊かさに誇りを持とう」という意味を表す言葉だという。

つまりこの曲は、インド系アメリカ人として米国で育った彼女が自らのルーツをレペゼンするとともに、グローバル社会で生きるインド系の人々(とくに女性)に誇りを持つことを促すメッセージソングでもあるというわけだ。

Raja Kumari自身が歌詞の意味を説明したビデオ。


ニューヨークのメディア'The Knockturnal'のインタビューで、彼女は自らの半生とアメリカでインド系女性として生きる現実を語っている。
The Knockturnal 'Exclusive: Raja Kumari Talks New Single "Shook" Upcoming Album "Bloodline" & Musical Beginnings'

彼女の両親は1970年代にアメリカン・ドリームを夢見て渡米したインド人移民だ。
インド系移民の常として、彼女の両親は子どもたちの教育に力を注いだ。
Raja Kumariいわく、彼女の兄弟は典型的なインド人。
勉強の成果を生かして脳神経外科医や法律家として活躍しているという。
兄弟のなかで彼女だけが音楽の道に進んだが、両親はそんな彼女を幼い頃から応援し、優れた師匠のもとで古典舞踊を習わせた。
それが今の彼女の音楽の基礎になっているのだ。
古典舞踊を踊る少女時代の彼女をフィーチャーしたミュージックビデオ、"Believe in You". 


やがて古典舞踊ではなく、R&Bやヒップホップの道に進んだ彼女は、Iggy Azaleaに提供した曲でグラミー賞候補になったのち、音楽活動の場をインドにまで広げた。

カリフォルニアで生まれ育った彼女だが、それでもインドは居心地の良い場所だったという。
南アジアやインド文化がなかなか理解されにくいアメリカと比べ、インドでは自分のしていることがより受け入れられていると感じることができたからだ。
南アジアの女性にステレオタイプな保守的なイメージを持っている人々に対しても、彼女は戦ってゆく必要があると語っている。
こうした状況の中で、彼女は自身のルーツを、音楽とリリックを通して表現しようとしているのだ。
映画Bohemian Rhapsodyのなかで、インド系であるFreddie Marcuryが名前を変え、南アジア的な要素を排除しようとしている姿で描かれていたのとは対照的である。
(これはヒンドゥーであるKumariに対して、Freddieがパールシーであることも多少関係しているのかもしれないが)

そういえば、彼女がミュージックビデオで着ている衣装も、インド的な美意識をいかにヒップホップ的ファッションに落とし込むかということに挑戦しているように見える。




こうした背景を踏まえてDivineと共演した楽曲"Roots"を改めて聞くと、これまた非常に趣深い。
Raja Kumariは、ヒップホップアーティストという、インド人女性のステレオタイプからはみ出した生き方をしながらも、インド古典音楽やインドの伝統的なファッションの要素を取り入れ、米国社会のなかでインドの文化や宗教を誇らしげに掲げている。
つまり、彼女なりのやり方で、アメリカ社会では周辺化されてしまっているインドのルーツをレペゼンしているというわけだ。

先日紹介したDivineは、対照的だ。
巨大産業である映画音楽系シンガーや帰国子女・留学経験者ばかりだったインドのヒップホップ界で、ムンバイの貧民街出身のラッパーとして、本物のストリート(Gully)のラップを届けることで頭角を現してきた。
彼はインドの都市の中で周辺化されてしまっているスラム出身というルーツをレペゼンしているのだ。

Raja KumariとDivine.
この曲、"Roots"では、インド系ではあるが、性別も宗教も(Divineはクリスチャン)生まれ育ちも、まったく異なるルーツを持った二人がヒップホップという一点でつながり、コラボレーションしているというわけだ。
もちろん、この2つは矛盾しているわけではなく、いずれも本物のヒップホップのアティテュードと言えるものだろう。


Raja Kumariのニューアルバム'Bloodline'はアメリカで製作され、マイアミのDanja(Timbaland, Mriah Carey, Missy Elliott, Madonnaらとの仕事で知られる)、アトランタのSean Garrett(Beyonce, Nicky Minaj, Usher, Britney Spearsらとの仕事で知られる)ら、そうそうたる顔ぶれが参加したものになるようだ。
彼女はこのアルバムを、インドやディアスポラ向けのものではなく、より普遍的なものとして製作しているという。
"Shook"を聞く限り、内容も素晴らしいものになりそうで、期待しながらリリースを待ちたい。
それでは今日はこのへんで。



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goshimasayama18 at 20:46|PermalinkComments(0)

2018年11月13日

(100回記念企画)謎のインド人占い師 Yogi Singhの正体

前回のあらすじ:
1930年代を舞台にしたミャンマーの小説。
1990年代のバンコク、カオサン。
2010年代のロンドン。
あらゆる場所に出没する謎のインド人占い師の情報が、さまざまな国の本や新聞、そしてインターネットで報告されていた。
調べてみると、「彼」は他にもカナダやオーストラリアやマレーシアなど、世界中のあらゆる場所に出没しているようだ。
「彼」の手口は、手品のようなトリックを使って人の心の中を的中させては、金品を巻き上げるというもの。
時代や場所が変わっても、全く同じ手口が報告されていた。
シク教徒のようなターバンを巻いたいでたちで現れ、ときに「ヨギ・シン(Yogi Singh)」と名乗る「彼」。
まるでタイムトラベラーのような「彼」はいったい何者なのか。
複数のインド人に聞いても、その正体を知るものはいなかった。
「彼」の存在に気づいた世界中の人々が不思議に思っているが、誰もその答えは分からない。
私はシク教徒のなかに、そのような占いを生業にする集団がいるのではないかと考えたが…。


(続き)
「彼」の正体はひょんなことからあっけなく判明した。
大谷幸三氏の『インド通』という本(白水社)に、その正体が書かれていたのだ。
ノンフィクション作家で漫画原作者でもある大谷氏は、1960年代から70回以上もインドに通い、元マハラジャから軍の要人まで多彩な知己のいる、まさにインド通。
この本の「クトゥブの予言者」という章に、「彼」の正体と思われる答えが書かれていた。

このエピソードもまた、思い出話から始まる。
それは彼が2度目にインドを訪れた時の話。舞台はデリーだ。
大谷氏が郊外の遺跡「クトゥブ・ミーナール」を訪れた時のこと。
クトゥブ・ミーナールは、いまでは観光客で賑わう遺跡だが、当時は人気もまばらな場所だった。
そこで、大谷氏は予言者だという白髭に長髪姿の老人に声をかけられた。
老人は唐突に大谷氏の家の庭にある松の木の本数を的中させ驚かせると、こう不吉な予言を言い残した。
「お前は人生のうちに、三十二度インドへ帰ってくるであろう。このインドの天と地の間で、お前は名声と富を得るだろう。そして、三十二度目のインドで死ぬであろう」 

この謎の預言者が「彼」なのではない。
話は続く。

インドに魅せられた大谷氏は、予言通りにその後何度もインドを訪れることになる。
そこで出会ったインドの友人たちにあの占い師のことを伝えると、彼らは皆本気で心配した。
あの預言者はお金を要求しなかった。
金銭に執着しない聖者のような占い師は、詐欺師まがいではなく本物の予言者である可能性が高いからだ。
ある友人がその占い師の消息を探すと、彼はもう亡くなっているらしいことが判明する。
これは悪い知らせだ。
死んだ占い師の予言を覆すことはできない。
友人たちは、大谷氏に、一回のインド滞在をできるだけ長くして、三十一回目にインドを訪れたら二度と戻ってくるなと真剣に忠告した。
少なくとも当時のインド社会では、力のあるものによる予言は、極めてリアルなものと考えられていたのだ。

そんな中、ただ一人この予言を信じず、真っ向から否定する友人がいた。
彼の名前はハリ・シン。
占い師の家系に生まれた、シク教徒だ。
彼は、全ての占いは欺瞞であると言って憚らなかった。

彼のこの態度は、家族の生業と自分の運命に対する、複雑な気持ちによるものだった。
彼の父は高名な占い師だった。
それなのに、なぜ家族は裕福になれなかったのか。
未来を知る能力があるのに、なぜ幸せな未来を手に入れられなかったのか。
自分の境遇へのやるせない思いが、「占い」への疑念や憤りへと変わっていったのだ。
彼は、酒に酔うと、小さい頃に仕込まれた、相手が心に浮かべた数字や色を当てるトリックを、簡単なまやかしだと言って披露しては悪態をついた。
(しかし、この本に書かれているトリックでは、相手の母親や恋人のような固有名詞を当てることはほぼ不可能で、依然として謎は残るのだが)

インドでは辻占は低い身分の仕事とされる。
さきほど「金銭に執着しない占い師は詐欺師まがいではなく本物の予言者」と書いたが、これは「お金のために占いを行う辻占は詐欺師同然」ということの裏返しだ。
ハリ・シンの出自は、彼にとって誇らしいものではなく、憎むべきものだった。
彼は小さい頃に家を出て、占いではなく物売りをして生計を立てていたが、それでは食べてゆくことができず、皮肉にも彼もまた占い師になる道を選ぶことになる。
「逃れようとしても逃れられないのがジャーティだ」とブラーミン(バラモン)の男は言ったそうだ。

ハリ・シンは、インディラ・ガンディー首相暗殺事件に端を発するインド国内でのシク教徒弾圧を避け、子ども達の教育費や結婚資金を稼ぐため、オランダに渡ることを選んだ。
外国で占い師として稼いだお金を、インドに仕送りとして送るのだ。
字も書けないというハリ・シンが、占い師という職業でどうやって就労ビザを取ったのか、いまひとつよく分からないが、そこはインドのこと、裏金や人脈でどうにかなったのだろう。

もうお分かりだろう。
ハリ・シンもまた、世界中で例の占いをして日銭を稼ぐ、「彼」らのひとりだったのだ。
オランダにもまたひとり「ヨギ・シン」がいたということだ。

ミャンマー、タイ、オーストラリア、イギリス、カナダ、インドネシア。
世界中で「詐欺師に注意!」「不思議!わたしの街にも同じような人がいた!」と報告されている「彼」。
その一人は、自らの家業を憎みつつも、家族のために異国の地で辻占を続け、その稼ぎを故郷に仕送りをする男、ハリ・シンだった。
世界中のヨギ・シンに、きっとこんなふうにそれぞれの物語があるのだろう。
海外で必死で稼いだお金で、「彼」は娘たちの持参金を払い、立派な結婚式を挙げる。
息子たちに質の高い教育を受けさせ、優秀な大学に通わせる。
占い師ではなく、もっと別の「立派な」仕事に就かせるために。
そして、ヨギ・シンの子どもたちはエンジニアに、企業のマーケティング担当者に、どこかのいい家のお嫁さんになる。
医者や弁護士になる人もいるかもしれない。
ヨギ・シンの子どもたちは、もう誰もヨギ・シンにはならない。
誰よりも、ヨギ・シン自身がそれを望んでいるはずだ。
たとえ、成功した子どもたちに、家族代々の仕事を古臭いまやかしだと思われるとしても。

インドにおいて、正統な伝統に基づく占いは、社会や生活に深く溶け込んでいる。
どんなに時代が変化しても、インドから伝統的な占い師がいなくなることはないだろう。
ただ、世界中で報告されている「ヨギ・シン」スタイルの占い師に関してはどうだろう。
彼らの子どもたちが誰も後をつがなかったとき、この守るべき伝統とも考えられていない占い師たちは、歴史の波間に消えていってしまうのだろうか。
このまま「彼」の存在は、知る人ぞ知る、しかし世界中に知っている人がいる、マイナーな都市伝説のひとつになってゆくのだろうか。

2050年の「ヨギ・シン」を想像してみる。
先進国で誰にも相手にされなくなった「彼」は、ようやく経済成長の波に乗ることができたアフリカの小国に辿り着く。
いかにも成金といった風情の身なりのいい男に、ターバンを巻いたインド人が声をかける。
「あなたの好きな花を当ててみせよう」
誰も知らないが、実は彼こそは最後のヨギ・シンだった。
一族の結束はいまだに固いが、この占いのトリックができるのは彼が最後の一人だ。
仲間たちはみな、エンジニアやビジネスマンになり、少数の占い師の伝統を守っている者たちもコンピュータを駆使した新しい方法で占いを行っている。
「彼」もまた子どもたちを大学に行かせるために異国の地で辻占をしているが、子どもたちには後を継がせないつもりだ。
「彼」自身も知らないまま、ひとつの伝統と歴史がもうじき幕を降ろす。

あるいは、「彼」はデリーの郊外あたりに作られたテーマパーク「20世紀インド村」みたいなところで、「ガマの油売り」よろしく伝統芸能のひとつとしてその手口を披露しているかもしれない。
若者たちが物珍しげに眺めている後ろで、年老いたインド人は懐かしそうに彼を見つめている。
パフォーマンスを終えた「彼」に、「ずっと探していたんだ」と話しかける日本人がいたら、それはきっと私に違いない。

話を大谷氏の本に戻すと、このエピソードはまだ終わらない。
あの不気味な予言のことだ。
時は流れ、大谷氏に三十二回目のインド訪問がやってくる。
そこで虎狩りの取材に出かけた大谷氏はあの不吉な予言を思わせる、信じられない目に合うことになる。
詳細は省くが、この章では例のヨギ・シンの辻占以外にも、インドの占い事情が詳らかに紹介されていて、非常に興味深い内容だった。
インド社会のなかで、占いという超自然的な力がどんなふうに生きているのかを知りたい方には、ご一読をお勧めする。

子どもたちも皆結婚し、初老になったハリ・シンは、今となってはもう父を罵ることもなく、こう言っているという。
占い師は自分で自分を占うと、力を失うんだ、と。
彼は、思うようにならなかった運命を、諦めとともに受け入れたのか。
それとも、家族を養う糧を与えてくれた代々の家業を、誇りを持って認めることができたのだろうか。

それにしても、これはいったい何だったんだろう。
たまたま読んだ本と新聞で見つけた「彼」は、インターネットで世界中が繋がった時代ならではの都市伝説の主人公になっていた。
その「彼」の正体は、秘密結社ともカルト宗教とも関係のない、伝統的な生業を武器にグローバル社会の中で稼ぐことを選んだ、インドの伝統社会に基づく「ジャーティ」の構成員たちだった。

これが私がヨギ・シンについて知っていることのすべて。
日本から一歩も出ないまま、インドに関する不思議を見つけ、そしてその答えが分かってしまうというのも、時代なのかな、と思う。

「彼」の正体を知ってしまった今、もし「彼」に出会うことがあったら、いったいどんな言葉をかけられるだろうか。
「彼」に占ってほしいことは見つかるだろうか。
それでもやっぱり、会ってみたいとは思うけれども。 
(世界中での「彼 」の出没情報は、「Indian fortune teller」もしくは「Sikh fortune teller」で検索すると数多くヒットする。ご興味のある方はお試しを)


2019年11月18日追記:
この記事を書いてから1年、まさかここ日本を舞台に続編が書けるとは思ってもいなかった。
予想外の展開を見せる続編はこちらから。


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