リリック翻訳
2019年10月20日
『ガリーボーイ』ラップ翻訳 "Sher Aaya Sher"(獅子が来た獅子が)by麻田豊、餡子、Natsume
それではさっそく麻田豊先生、餡子さん、Natsumeさんによる『ガリーボーイ』劇中のラップのリリック翻訳を紹介します!
まずは、主人公ムラードの兄貴分にあたるMCシェールのテーマ曲的な楽曲"Sher Aaya Sher"から!
この曲は、ムンバイの老舗レゲエ/ヒップホップバンドBombay BassmentのMajor Cによるトラックに、MCシェールのモデルであるDivineがリリックを書いてラップしたもの。
この曲以外でも劇中のMCシェールのラップは全てDivineが吹き替えている。
普通のインド映画の場合、俳優の口パクに合わせて歌う歌手のことをプレイバックシンガーと言うけど、この場合はプレイバックラッパー?


餡子さんからのコメント
このシーンの舞台となっているのは、主人公ムラードが通うカレッジのフェスティバル。
こうしたカレッジ・フェスティバルは、以前からインドのインディーミュージシャンたちの発表の場となっている。
このシーンを見る限り、ムラードはアメリカのヒップホップに憧れて、自らリリック(ひょっとしたらラップを前提としていない「詩」だった?)を書いてはいたものの、シェールのライブを見るまでは、ローカルのヒップホップシーンのことは全く知らなかった様子。
それだけインドのヒップホップシーンはアンダーグラウンドなものだったということなのだろう。
地元ラッパーの熱いステージを見たムラードにとって、ヒップホップ/ラップは単なる憧れの対象から、手がとどくリアルな存在に変わってゆく。
「ここにはラップはない/お前の幻想を追い払ってやる/女も車もなければ、俺たちの住み処は分離されている/このリアルなラップの魂を/お前の魂の中で」というリリックは、彼らのラップがこれまでのインドで一般的だった、女や車のことばかりを扱うボリウッド的エンターテインメント・ラップとは一線を画すリアルなものだということを宣言するもの。
続くラインは映画のストーリーを見れば分かる通り、女性シンガーに野次を飛ばした観客に対する強烈な一撃だ。
シッダーント・チャトゥルヴェーディ演じるMCシェールの「頼れるワイルドな兄貴」っぷりは、まさにモデルとなったDivineのイメージと重なる。
Divine本人も、自分の半生をラップした楽曲で、自身をライオン(Sher)に例えた楽曲"Jungli Sher"を発表しており、MCシェールという名前はここから取られたのだろう。
この曲は2016年のリリースで、"Mere Gully Mein"と同じSez on the Beatによるプロデュース。
続いては、"Doori Poem"と"Doori"をお届けします!
しばしのお待ちを!
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餡子さんからのコメント
シェールの兄貴の男前っぷりに惚れます。ムラドがシェールについていこうと思ったのも納得の格好良さです!
このシーンの舞台となっているのは、主人公ムラードが通うカレッジのフェスティバル。
こうしたカレッジ・フェスティバルは、以前からインドのインディーミュージシャンたちの発表の場となっている。
このシーンを見る限り、ムラードはアメリカのヒップホップに憧れて、自らリリック(ひょっとしたらラップを前提としていない「詩」だった?)を書いてはいたものの、シェールのライブを見るまでは、ローカルのヒップホップシーンのことは全く知らなかった様子。
それだけインドのヒップホップシーンはアンダーグラウンドなものだったということなのだろう。
地元ラッパーの熱いステージを見たムラードにとって、ヒップホップ/ラップは単なる憧れの対象から、手がとどくリアルな存在に変わってゆく。
「ここにはラップはない/お前の幻想を追い払ってやる/女も車もなければ、俺たちの住み処は分離されている/このリアルなラップの魂を/お前の魂の中で」というリリックは、彼らのラップがこれまでのインドで一般的だった、女や車のことばかりを扱うボリウッド的エンターテインメント・ラップとは一線を画すリアルなものだということを宣言するもの。
続くラインは映画のストーリーを見れば分かる通り、女性シンガーに野次を飛ばした観客に対する強烈な一撃だ。
シッダーント・チャトゥルヴェーディ演じるMCシェールの「頼れるワイルドな兄貴」っぷりは、まさにモデルとなったDivineのイメージと重なる。
Divine本人も、自分の半生をラップした楽曲で、自身をライオン(Sher)に例えた楽曲"Jungli Sher"を発表しており、MCシェールという名前はここから取られたのだろう。
この曲は2016年のリリースで、"Mere Gully Mein"と同じSez on the Beatによるプロデュース。
続いては、"Doori Poem"と"Doori"をお届けします!
しばしのお待ちを!
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goshimasayama18 at 15:31|Permalink│Comments(0)
『ガリーボーイ』ラップ翻訳(by麻田豊先生、餡子さん、Natsumeさん) イントロダクション!
お伝えしていた通り、今回からインド初の本格的ヒップホップ映画『ガリーボーイ』のリリックの日本語訳をお届けします。
これは、インド映画ファンの餡子さん、東京外国語大学で長く教鞭を取られてきたウルドゥー語学文学、インド・イスラーム文化研究の麻田豊先生による翻訳に、Natsumeさんが日本語表現のブラッシュアップへの協力をおこなったもの。
ありがたいことに、翻訳の成果を私のブログでの発表することをご提案いただき、喜んで場所を提供させてもらうことにしました。
餡子さんはこれまでに数百本のインド映画を見てきたそうですが、『ガリーボーイ』には特別な魅力を感じ、日本公開が決まる前から、「ラップのリリックの翻訳」に取り組んだとのこと。
「ムンバイのヒップホップシーン」という、日本ではこれまで全く紹介されてこなかったけどじつはものすごく熱い題材を扱ったこの映画には、「彼らが表現していることを、できる限り理解したい!」と思わせるだけの魅力があるのだと改めて感じさせられます。
スラングやムンバイ特有の表現が多く使われ、ヒンディー語圏でも別の地域の人であれば理解が困難な部分もあるというラップのリリックを、専門家が監修した翻訳で味わえるというのはかなりありがたいこと。
私のように、インドの現代文化に大きな興味を持ちつつも、時間の都合や怠慢(私の場合はこれ)などの理由により、言語の習得には二の足を踏んでいる人も多いと思います。
映画鑑賞前に読むも良し、映画鑑賞後に改めて味わうも良し。
映画のなかで重要な位置付けをされている楽曲から、挿入歌的に扱われている楽曲まで、全てにリアルなメッセージがあり、読んでいただければ、インドのヒップホップの表現の広さと深さが理解できるはず。
私の蛇足はこのへんにして、今回はイントロダクションとして翻訳に携わった3名からのコメントを紹介します!
まずは、麻田豊先生から!
映画のなかで重要な位置付けをされている楽曲から、挿入歌的に扱われている楽曲まで、全てにリアルなメッセージがあり、読んでいただければ、インドのヒップホップの表現の広さと深さが理解できるはず。
私の蛇足はこのへんにして、今回はイントロダクションとして翻訳に携わった3名からのコメントを紹介します!
まずは、麻田豊先生から!
僕の中での『ガリーボーイ(Gully Boy)』騒動は今年の新年早々に始まった。まず1月2日、最初のポスターが、翌3日には予告編が発表された。そして4日、教え子の社会学者、栗田知宏君からこんなメッセージが届いた。「日本で一般公開された場合、絶対に僕が解説を書きたい作品があり、誰かに取られる前に動かなければと思っている」と。すぐに『ガリーボーイ』のことだと察しがついた。彼の博士論文の主題が「ブリティッシュ・エイジアンの音楽の社会学」だったからである。しかし、この映画が日本で公開されるかどうか見当もつかないので、僕としては「まずはインドで観てこないことには始まらないではないか」と助言するとともに、会うべき人物としてBollywood Hungamaのファリードゥーン・シャハリヤール(Faridoon Shahryar)君を紹介した。インドでの公開日2月14日に合わせて栗田君はムンバイーへ飛び、ラッパーDivineの地元JB Nagarの映画館で封切り初日の初回を観てきた。気合が入った行動だ。東京でも予期しなかった動きがあった。南インドの人たちが運営するSpace Boxなる会社から2月6日、キネカ大森ほか3か所で『ガリーボーイ』を自主上映するとの案内メールが届いたのだ。これには驚いた。インド往復のチケットを手配済みの栗田君はこれを知って脱力感を味わったという。僕自身ラップとは全くと言っていいほど縁がなかったので、別に観る必要もないだろうと思っていたのだが、「ボリウッド初のヒップホップ映画であるので必見」との栗田君からの強い勧めもあり、はたして面白いと感じるかどうか半信半疑のまま2月17日、キネカ大森へ観に出かけた。ところがストーリーがなかなかよかったのだ。社会的階級差や親世代と子世代の考え方・生き方・価値観のギャップに苛立ち悩みつつ、スラムに住む主人公のムスリム大学生ムラード(Murad)がラップを通じて抑圧された感情を爆発させ解放されるストーリー。「使用人の息子は使用人にしかなれないのだ」とか、「お前の教育に大金を投資したのに、ラップにうつつを抜かすとは何事だ!」といった親世代の忠告や叱責に若者世代が反発するのはどこの世界でも同じ。ムラードの恋人サフィーナ(Safina)も医師を目指して勉学中。保守的な母親が科す禁止事項に表面的には耐えつつ、ムラードと秘密裡に恋愛している。単なる不良少年少女ではないのがいい。青春映画でもある。さて、肝心のラップだが、僕を含めたラップ門外漢にも分かるように、主人公がラッパーになっていく過程が巧妙に組み立てられている。普通のインド人にとってもラップはまだまだ知られていないのだから。「ラップはリズムと詩だ」との台詞が胸に突き刺さる。ラップの真髄はたしかに韻を踏んだ詩なのだ。半世紀もウルドゥー語と文学を学んできた僕としては当然、リリックの言語とその内容に興味をそそられた。早口言葉のように韻を踏みながら畳みかける言葉の連続であるヒンディー/ウルドゥーのリリックの中身はきっと面白いはずだ。それにサントラ盤の情報を見ていたら、ゾーヤー・アフタル(Zoya Akhtar)監督の父親で高名な詩人であり作詞家のジャーヴェード・アフタル(Javed Akhtar)氏の名前が4曲でクレジットされているではないか(Doori Poem, Doori, Train Song, Ek Hee Raasta)。古典詩、映画ソングの歌詞、ラップのリリックがジャーヴェード氏の中では問題なくつながっているようである。それなら、この僕が日本語訳に挑戦するしかないではないか。そんなことをあれこれ考えていたら、リリックを日本語に訳してツイッター上で発表する人が現れた。その人が「餡子」嬢である(@tsubuan_no)。何と最初の訳を2月13日に発表している。3月以降、次々に15曲を訳しているではないか。また、3月には栗田君を介して、インドのラップやロック紹介の第一人者である軽刈田凡平君とも知り合い、4月上旬にはジプシー音楽や世界のラップ事情に詳しい音楽評論家、関口義人氏を含めた4人が有楽町で「ヒップホップ歓談会」なる飲み会に集合した。その後しばらく中断した後、6月半ばに栗田君から『ガリーボーイ』日本公開決定の知らせが入った。彼の願いは叶い、解説を書くことになったとのこと。僕も僕なりにリリックの訳を本格的に始めようと、7月9日、僕より一歩先を行っている餡子嬢に初めて連絡を取った。なんでも彼女はスカイプを使ったヒンディー語講座での学習歴わずか2年だという。なのに難解なラップのリリックに挑戦するとは大した度胸ではないか。きちんとした翻訳になっているわけではなく、辞書とネットを駆使して何とか日本語に移し替えた粗削りな訳で、まだまだ改良の余地ありと僕は判断したが、僕より先に中途半端ながらも試訳を公開しているのを知った以上、彼女を無視して僕ひとりで訳すことは道義上できないことだった。『ガリーボーイ』に人一倍心酔している餡子嬢のウルドゥー色が強いリリックの翻訳に挑戦した心意気は大いに称賛されてしかるべきだと、僕はただただ感じ入った。やる気がある人は伸ばしてやらなければならない。彼女のヒンディー語の上達にも益するだろうと思い、彼女の試訳を添削しつつ僕自身の訳を提示し、それを互いにチェックし合う方法を採ることにした。ところが翻訳作業を始めたものの、ムンバイー訛りのヒンディー/ウルドゥー(Bombay Hindi とかMumbaiya slangとかタポーリーTaporiなどと称される)がいかに曲者であることかも分かってきた。詳細は以下を参照のこと。要するにスラングあり文法破格ありで、外国人として学んできた標準ヒンディー/ウルドゥーの知識では歯が立たないわけだ。しかし、いい時代になったもので、ネット上に公開されているリリックやその英訳の助けも借りながら、何とか翻訳できたわけである。さらに日本語の表現チェックをしてもらうべく、ヒンディー/ウルドゥーを解さない「Natsume」さんに協力を仰いだ。そうそう、8月末には栗田・軽刈田・麻田が餡子嬢と初顔合わせした。字幕では字数制限により正確な内容を伝えられるはずもないので、各リリックが伝えようとしている内容を皆さんに提示したいというのが我々の本音でもある。勝手に私的に始めた「Gully Boyリリック日本語訳プロジェクト」の成果として、映画の中でも重要な位置を占めている8曲(選曲は餡子嬢)のできる限り原語に即した日本語訳を10月18日の一般公開日に合わせて公表できることになった次第である。一昨日の10月15日に開催された「ガリーボーイ公開記念 GullyBoy – Indian Hip Hop Night」で軽刈田君がトークデビューを果たしたことは、じつにめでたいことだった(餡子嬢とNatsumeさん初対面の場でもあった)。その軽刈田君のブログに我々の成果を掲載してもらえることになった幸運をかみしめている。3人を代表して、感謝の言葉を述べたい。(2019.10.17 麻田豊 記)
麻田先生ありがとうございます!
続いて、餡子さんからのコメント。
ムンバイのラッパーたちの情熱が、餡子さんの情熱を呼び起こした様子が伝わってきます。これまで様々なインド映画を見てきましたが、自主上映会でGully Boyを鑑賞し、さまざまな葛藤の中人生を切り開こうとする情熱(Junoon)、映画を強く彩る地元のラッパー達の曲の荒々しい情熱に稲妻を打たれたようなはじめての衝撃を受けました。彼らのリリックを理解したいと強く感じ、取り憑かれたようにGully Boyのラップの翻訳をひたすら続けました。ヒンディー映画にハマってヒンディー語の文法を学び終わったところだったので、訳せるかも!?と勢いで翻訳を始めたものの、ヒンディーラップはリズムに乗せるため冗長な部分は省略されている箇所が多々あり、スラングありと、ヒンディー初心者にとってはかなり難しかったです。暗中模索で翻訳していたところ、インドイスラーム文化研究者の麻田先生に声をかけていただき、より正確に、洗練されたリリックに昇華することができました!Apna Time Aayega!
そしてNatsumeさんからのコメントです。
『Gully Boy』の JukeBox をイヤホンをつけて大音量で聴く。ラップなどまともに聴いたことも無く、Hip Hop に関心すらなかったのに、今や愛聴盤だ。最初に耳にしたとき、言葉は分からないが、巻き舌が入った破裂音が心地よく、ハードな叫びの中に柔軟性があって美しくさえ思えるリズムとメロディに魅了された。原語の響きと韻を踏んだビートを耳で愉しみながら、ふと思った。はて、何を歌っているのだろう?そう思った矢先に「ちょっと読んでみて」と麻田先生から送られてきた「Asli Hip Hop」の詩の日本語訳。訳だけできちんと意味が通じるか、かみ砕いてみて分からないところは指摘して欲しいとの要請を頂き、恐れながらと言いつつ、原文を知らないがゆえに勝手自由に読んでみる。意欲を持って翻訳に挑む餡子さん、その意欲をかって共同翻訳を申し出られた麻田先生。そんな(必然的な?)出会いから生まれたこの企画。お二人がまずは原文に忠実に、かつ深く掘り下げて搾り上げた日本語訳を、ネットで見つけた英訳を参照しながら、更にイメージを膨らませていく。これは予想以上に愉しい作業だった。例えば、語るように詠まれる「DOORI POEM」から「DOORI」。続けて聴き込みながら詩を読んでいると、涙が出てくる。この現実、揺るぎようのない「DOORI へだたり」に対して、何ともし難いもどかしさと諦念を抱きつつも、魂からの声を上げ続ける、それが人の心を揺さぶらないはずがない。もちろん、私にはインドの格差や貧困を共感できるほどの経験も無いし、現実も知らない。それでも、置かれた環境を、この現状を、何とか抜けだし打破しようと勢い溢れる表現アート「ラップ」に、感動する。実は私は今現在、映画『Gully Boy』をまだ観ていない。先に路地裏をちょっぴり覗いてから映画を観てみたら、さてどうだろう!と楽しみだ。一般公開は 2019 年 10 月 18 日。Check it Out!2019.10.15 natsume
それでは『ガリーボーイ』のラップ翻訳をお楽しみください!
まずは、主人公ムラドの頼れる兄貴分、MCシェールのテーマ曲とも言える"Sher Aaya Sher"からです!

左から、餡子さん、麻田先生、Natsumeさん。10月15日の"Gully Boy -Indian HipHop Night"にて。
追記:日本公開された映画の登場人物を表記する場合、いつもは映画で使われた表記に統一していますが、このリリック翻訳シリーズの記事では、麻田先生からのご提案で、原音に近いものにしています(例:ムラド→ムラード)。
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「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
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goshimasayama18 at 15:18|Permalink│Comments(0)