ボブ・ディラン
2020年12月05日
インドのボブ・ディラン Susmit Boseの50年
今年で活動50年を迎えたインドの伝説的アーバン・フォークシンガー、Susmit Boseが、キャリアを網羅したコンピレーション・アルバム"Then & Now"を発表した。
(インドでは、ボブ・ディランのような英語のポピュラー・ミュージック的なフォーク音楽を、ローカルの民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ)
これが大変素晴らしくて、先日からヘビーローテーション中なのだが、この作品の魅力をどう伝えたものか、正直ちょっと迷ってしまっている。
このアルバムは、1978年にリリースされた彼のファーストアルバム"Train to Calcutta"と、活動を再開した2006年以降の楽曲をバランスよく収めたものだ。
収録されているほとんどの曲は、ギターの弾き語りにハーモニカという初期ディラン・スタイルのシンプルなフォークソングで、そこに目立った個性や派手さがあるわけではない。
それでも、彼の歌声とメロディー、ギターのアルペジオや古い録音のノイズまでもが、なんとも心地よく、愛おしいのだ。
飲食店に例えると、目立って美味しい名物メニューがあるわけではないが、そこで過ごす時間そのものに価値があるような、落ち着く老舗の居酒屋や喫茶店といった趣きだ。
1950年、Susmit Boseは、デリーに暮らすベンガル系の古典音楽一家に生まれた。
父は北インド古典ヒンドゥスターニー音楽のミュージシャンで、All India Radioのディレクターを務めていた。
幼い頃のSusmitも、将来は古典音楽の道に進み、いつの日かPundit(師匠)と呼ばれることを夢見ていたという。
ところが、14歳のときに聞いた、アメリカのフォーク歌手ピート・シーガーが、彼の夢を変えてしまった。
そして、まもなくして知ったボブ・ディランの音楽が彼の人生を決定づける。
彼は保守的な父に隠れてギターを練習し、やがて自作の曲を作り始めた。
欧米ではベトナム反戦運動、そしてヒッピームーブメントの時代。
インド国内でも、ウエスト・ベンガル州で発生したナクサライト運動(毛沢東主義を掲げるラディカルな革命運動で、テロリズム的な暴力闘争に発展した)など、社会運動のうねりが起きていた。
インドの60〜70年代ロックシーンを扱った"India Psychedelic: the story of rocking generation in India"という本の中で、Susmitはこう語っている。
「私は60年代と70年代、つまり分断の時代に育ったんだ。人類にとって恥ずべきベトナム戦争もあった。私は欧米の人たちと同じように、平和や普遍性や精神性について歌う必要があると感じていた。世界は一つで、調和しているという感覚さ」
デリーでも、繁華街コンノート・プレイスのディスコ'The Celler'で、アーバン・フォークを歌う人なら誰もが出演できる「フォーク・イヴニング」が行われ、人気イベントとなっていた。
デリー大学のキャンパス、公園、さらにはカルカッタの音楽シーンの中心だったレストラン'Trincas'など、Susmitは歌えるところならどこにでも出向いて歌った。
英語の新しい音楽をこころよく思わない父に勘当され、しばらくネパールのカトマンドゥで過ごしたこともあったという。
だが、1971年に彼がリリースした最初の曲、"Winter Baby"がラジオから流れ、高く評価されるようになると、父は抱きしめて迎え入れてくれたそうだ。
インドの国営放送Doordarshanの依頼で、"We Shall Overcome"(勝利を我等に)のヒンディー語版"Hum Honge Kamyab"を録音し、ときの首相インディラ・ガーンディーの前でパフォーマンスしたこともあったという。
当時の欧米の社会運動を象徴するこの曲が、インドでは国営放送によって制作され、強権的な政策で知られたインディラ・ガーンディーの前で歌われたというのは皮肉だが、詩人のGirija Kumar Mathurが訳したこの曲は、政府に反対する人々にも支持され、今もインドで愛されている。
それでも、時代の流れは彼に味方しなかった。
インドのライブスポットは、過激化する社会運動を警戒し、反体制的な傾向のあるミュージシャンの出演を渋るようになっていた。
また、夜間外出禁止令もミュージシャンたちの活動の幅を狭めることとなった。
Susmitも、自作のアーバン・フォークではなく、派手な衣装を着て他の歌手のヒットソングやポピュラーソングを歌わなければならなかったという。
1978年にようやくファースト・アルバム"Train To Calcutta"を発表。
The WIREの記事によると、この作品はインド人歌手による最初の英語で歌われたアルバムとのことである。
だが、彼がメッセージを届けたいと思っていた大衆は、英語ではなく、ヒンディー語の歌を聴きたがっていた。
Susmitは、それでも英語で歌った理由について、こんなふうに語っている。
「私が育った時代、英語はエンパワーメントの言語であり、文化だった。私の家は伝統的な家庭だったけれど、イングリッシュ・ミディアム(英語で教育する学校)で育った自分にとって、英語で歌うのは自然なことだった。『英語だからダメだ』なんていうのはヒンドゥー・ナショナリズム的なレトリックさ。英語を受容することは、寛容なインドの美点でもあるんだ…」
しかし、この時代にインドで活動していた多くのロックミュージシャン同様、Susmitも生きるために音楽以外の仕事に時間を取られていったようである。
その後、20世紀中に彼がリリースしたのは、ネルソン・マンデラをテーマにした1990年の作品"Man of Conscience"のみとなっている。
70年代にインドで活躍した「早すぎたロックミュージシャンたち」は、そのほとんどが生活のために音楽活動をあきらめ、また夢を追い続ける数少ない人々は、海外に活路を求めた。
だが、Susmitはインド国内で音楽活動を決してあきらめなかった。
2006年に久しぶりにリリースしたアルバム"Public Issue"が批評家から高い評価を受けると、再び音楽活動を活発化させてゆく。
2007年には早くも次作"Be the Change"をリリース。
2008年にはバウルのミュージシャンとのコラボレーションによる実験的作品"Song of the Eternal Universe"、2009年には北東部のミュージシャンたちと共演した"Rock for Life"といった意欲作を次々と発表する。
(いかにもベンガル人らしく、Susmitは自身のルーツとして、欧米のフォークミュージックだけではなく、バウルの歌やタゴールの詩、またガーンディーの思想も挙げている)
彼のキャリアを網羅した"Then & Now"のリリースのきっかけとなったのは、昨年公開されたコルカタのミュージシャンたちのボブ・ディランへの憧れを描いたドキュメンタリー映画"If Not for You"だった。
ファーストアルバムの"Train to Calcutta"は5,000枚のみプレスされ、Susmitの手元には一枚も残っていなかった。
だが、この映画の監督Jaimin Rajaniはなんとかしてアルバムの所有者を探し出し、その音源を使って今回の"Then & Now"のリリースに漕ぎつけたという。
"Train to Calcutta"は、知る人ぞ知る名盤として、海外では10万円近い値がつけられていたが、彼のおかげで誰もが手軽に聴けるようになったのだ。
Susmitが音楽を始めた頃とは違い、今ではインターネットで多くの人々が欧米の音楽に触れることができるようになった。
インドの若者たちが自らの主張や社会へのメッセージを音楽に乗せて訴えることも決して珍しくはなくなった。
ただし、今となってはその音楽は、アーバン・フォークではなくヒップホップであることがほとんどだが…。
今では時代遅れとも言えるシンプルな形式のフォークにこだわり続けることについて、Susmitはこう語っている。
「自分はウディ・ガスリーやピート・シーガーやボブ・ディランの『ガラナ』を引き継いでいるのさ。
シンプルであることにフォークの精神があるんだ」
「ガラナ」とは、インドの古典音楽の流派を表す言葉だ。
かつて古典音楽の大家になることを目指していたSusmitは、50年にわたる音楽活動を経て、今ではディラン・ガラナの名演奏家になったと言えるだろう。
彼が憧れたピート・シーガーとは、のちに文通を通して知己を得て、ニューヨークのハドソン川でセッションしたこともあったという。
二人がウディ・ガスリーの"This Land is Your Land"(『我が祖国』)を演奏した時、Susmitは'From California to New York island'という歌詞を'From Gulf of Cambay to the Brahmaputra'と歌ったという。
Cambayはインド西部グジャラート州の地名、Brahmaputraはインド北東部を流れる川の名前である。
驚くピートに、Susmitはこう言った。
「ウディ・ガスリーはアメリカのためだけにこの曲を書いたわけじゃないだろう?」
Susmitにとって、アーバン・フォークは、国籍に関係なく20世紀の世界が共有した、普遍的な「古典音楽」だったのかもしれない。
ディランがノーベル文学賞を受賞し、フォーク・ミュージックが持つ価値が改めて世界に知れ渡った今、ディラン・ガラナの大家として、Susmitの音楽は、それこそ国籍を問わずもっと評価されても良いのではないだろうか。
参考サイト:
https://www.nationalheraldindia.com/interview/interview-susmit-bose-the-rebel-musician-with-a-difference
https://scroll.in/article/977684/in-then-now-susmit-boses-social-blues-create-a-time-warp-to-reach-the-counterculture-years
https://thewire.in/the-arts/susmit-bose-train-to-calcutta-protest-music
https://www.thehindu.com/entertainment/music/the-songs-that-bind/article23821610.ece
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(インドでは、ボブ・ディランのような英語のポピュラー・ミュージック的なフォーク音楽を、ローカルの民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ)
これが大変素晴らしくて、先日からヘビーローテーション中なのだが、この作品の魅力をどう伝えたものか、正直ちょっと迷ってしまっている。
このアルバムは、1978年にリリースされた彼のファーストアルバム"Train to Calcutta"と、活動を再開した2006年以降の楽曲をバランスよく収めたものだ。
収録されているほとんどの曲は、ギターの弾き語りにハーモニカという初期ディラン・スタイルのシンプルなフォークソングで、そこに目立った個性や派手さがあるわけではない。
それでも、彼の歌声とメロディー、ギターのアルペジオや古い録音のノイズまでもが、なんとも心地よく、愛おしいのだ。
飲食店に例えると、目立って美味しい名物メニューがあるわけではないが、そこで過ごす時間そのものに価値があるような、落ち着く老舗の居酒屋や喫茶店といった趣きだ。
1950年、Susmit Boseは、デリーに暮らすベンガル系の古典音楽一家に生まれた。
父は北インド古典ヒンドゥスターニー音楽のミュージシャンで、All India Radioのディレクターを務めていた。
幼い頃のSusmitも、将来は古典音楽の道に進み、いつの日かPundit(師匠)と呼ばれることを夢見ていたという。
ところが、14歳のときに聞いた、アメリカのフォーク歌手ピート・シーガーが、彼の夢を変えてしまった。
そして、まもなくして知ったボブ・ディランの音楽が彼の人生を決定づける。
彼は保守的な父に隠れてギターを練習し、やがて自作の曲を作り始めた。
欧米ではベトナム反戦運動、そしてヒッピームーブメントの時代。
インド国内でも、ウエスト・ベンガル州で発生したナクサライト運動(毛沢東主義を掲げるラディカルな革命運動で、テロリズム的な暴力闘争に発展した)など、社会運動のうねりが起きていた。
インドの60〜70年代ロックシーンを扱った"India Psychedelic: the story of rocking generation in India"という本の中で、Susmitはこう語っている。
「私は60年代と70年代、つまり分断の時代に育ったんだ。人類にとって恥ずべきベトナム戦争もあった。私は欧米の人たちと同じように、平和や普遍性や精神性について歌う必要があると感じていた。世界は一つで、調和しているという感覚さ」
デリーでも、繁華街コンノート・プレイスのディスコ'The Celler'で、アーバン・フォークを歌う人なら誰もが出演できる「フォーク・イヴニング」が行われ、人気イベントとなっていた。
デリー大学のキャンパス、公園、さらにはカルカッタの音楽シーンの中心だったレストラン'Trincas'など、Susmitは歌えるところならどこにでも出向いて歌った。
英語の新しい音楽をこころよく思わない父に勘当され、しばらくネパールのカトマンドゥで過ごしたこともあったという。
だが、1971年に彼がリリースした最初の曲、"Winter Baby"がラジオから流れ、高く評価されるようになると、父は抱きしめて迎え入れてくれたそうだ。
インドの国営放送Doordarshanの依頼で、"We Shall Overcome"(勝利を我等に)のヒンディー語版"Hum Honge Kamyab"を録音し、ときの首相インディラ・ガーンディーの前でパフォーマンスしたこともあったという。
当時の欧米の社会運動を象徴するこの曲が、インドでは国営放送によって制作され、強権的な政策で知られたインディラ・ガーンディーの前で歌われたというのは皮肉だが、詩人のGirija Kumar Mathurが訳したこの曲は、政府に反対する人々にも支持され、今もインドで愛されている。
それでも、時代の流れは彼に味方しなかった。
インドのライブスポットは、過激化する社会運動を警戒し、反体制的な傾向のあるミュージシャンの出演を渋るようになっていた。
また、夜間外出禁止令もミュージシャンたちの活動の幅を狭めることとなった。
Susmitも、自作のアーバン・フォークではなく、派手な衣装を着て他の歌手のヒットソングやポピュラーソングを歌わなければならなかったという。
1978年にようやくファースト・アルバム"Train To Calcutta"を発表。
The WIREの記事によると、この作品はインド人歌手による最初の英語で歌われたアルバムとのことである。
だが、彼がメッセージを届けたいと思っていた大衆は、英語ではなく、ヒンディー語の歌を聴きたがっていた。
Susmitは、それでも英語で歌った理由について、こんなふうに語っている。
「私が育った時代、英語はエンパワーメントの言語であり、文化だった。私の家は伝統的な家庭だったけれど、イングリッシュ・ミディアム(英語で教育する学校)で育った自分にとって、英語で歌うのは自然なことだった。『英語だからダメだ』なんていうのはヒンドゥー・ナショナリズム的なレトリックさ。英語を受容することは、寛容なインドの美点でもあるんだ…」
しかし、この時代にインドで活動していた多くのロックミュージシャン同様、Susmitも生きるために音楽以外の仕事に時間を取られていったようである。
その後、20世紀中に彼がリリースしたのは、ネルソン・マンデラをテーマにした1990年の作品"Man of Conscience"のみとなっている。
70年代にインドで活躍した「早すぎたロックミュージシャンたち」は、そのほとんどが生活のために音楽活動をあきらめ、また夢を追い続ける数少ない人々は、海外に活路を求めた。
だが、Susmitはインド国内で音楽活動を決してあきらめなかった。
2006年に久しぶりにリリースしたアルバム"Public Issue"が批評家から高い評価を受けると、再び音楽活動を活発化させてゆく。
2007年には早くも次作"Be the Change"をリリース。
2008年にはバウルのミュージシャンとのコラボレーションによる実験的作品"Song of the Eternal Universe"、2009年には北東部のミュージシャンたちと共演した"Rock for Life"といった意欲作を次々と発表する。
(いかにもベンガル人らしく、Susmitは自身のルーツとして、欧米のフォークミュージックだけではなく、バウルの歌やタゴールの詩、またガーンディーの思想も挙げている)
彼のキャリアを網羅した"Then & Now"のリリースのきっかけとなったのは、昨年公開されたコルカタのミュージシャンたちのボブ・ディランへの憧れを描いたドキュメンタリー映画"If Not for You"だった。
ファーストアルバムの"Train to Calcutta"は5,000枚のみプレスされ、Susmitの手元には一枚も残っていなかった。
だが、この映画の監督Jaimin Rajaniはなんとかしてアルバムの所有者を探し出し、その音源を使って今回の"Then & Now"のリリースに漕ぎつけたという。
"Train to Calcutta"は、知る人ぞ知る名盤として、海外では10万円近い値がつけられていたが、彼のおかげで誰もが手軽に聴けるようになったのだ。
Susmitが音楽を始めた頃とは違い、今ではインターネットで多くの人々が欧米の音楽に触れることができるようになった。
インドの若者たちが自らの主張や社会へのメッセージを音楽に乗せて訴えることも決して珍しくはなくなった。
ただし、今となってはその音楽は、アーバン・フォークではなくヒップホップであることがほとんどだが…。
今では時代遅れとも言えるシンプルな形式のフォークにこだわり続けることについて、Susmitはこう語っている。
「自分はウディ・ガスリーやピート・シーガーやボブ・ディランの『ガラナ』を引き継いでいるのさ。
シンプルであることにフォークの精神があるんだ」
「ガラナ」とは、インドの古典音楽の流派を表す言葉だ。
かつて古典音楽の大家になることを目指していたSusmitは、50年にわたる音楽活動を経て、今ではディラン・ガラナの名演奏家になったと言えるだろう。
彼が憧れたピート・シーガーとは、のちに文通を通して知己を得て、ニューヨークのハドソン川でセッションしたこともあったという。
二人がウディ・ガスリーの"This Land is Your Land"(『我が祖国』)を演奏した時、Susmitは'From California to New York island'という歌詞を'From Gulf of Cambay to the Brahmaputra'と歌ったという。
Cambayはインド西部グジャラート州の地名、Brahmaputraはインド北東部を流れる川の名前である。
驚くピートに、Susmitはこう言った。
「ウディ・ガスリーはアメリカのためだけにこの曲を書いたわけじゃないだろう?」
Susmitにとって、アーバン・フォークは、国籍に関係なく20世紀の世界が共有した、普遍的な「古典音楽」だったのかもしれない。
ディランがノーベル文学賞を受賞し、フォーク・ミュージックが持つ価値が改めて世界に知れ渡った今、ディラン・ガラナの大家として、Susmitの音楽は、それこそ国籍を問わずもっと評価されても良いのではないだろうか。
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goshimasayama18 at 21:10|Permalink│Comments(0)
2020年04月05日
ベンガルの漂泊の歌い人、バウルとボブ・ディラン
映画『タゴール・ソングス』を見て以来、すっかりベンガルにはまっている。
改めて説明すると、「ベンガル」とはインド東部のウエスト・ベンガル州とバングラデシュを合わせた、ベンガル語が話されている地域のことである。
(画像出典:映画『タゴール・ソングス』公式サイトhttp://tagore-songs.com)
ベンガルの音楽文化を語るうえで、避けて通れないのが「バウル(Baul)」だ。
バウルは、インド領ウエストベンガルにもバングラデシュにも存在する漂泊の「歌い人」である。
バウルはUNESCOによって世界文化遺産にも認定されているが、彼らを的確に定義するのは難しい。
「吟遊詩人」「神秘的詩人」「芸術的修行者」などと言われることもあるようだが、研究者によっても、また個々のバウルによってもその解釈は異なるようだ。
バウルの特徴として、概ね共通認識となっている点を挙げるとすれば、こんなところだろうか。
「吟遊詩人」「神秘的詩人」「芸術的修行者」などと言われることもあるようだが、研究者によっても、また個々のバウルによってもその解釈は異なるようだ。
バウルの特徴として、概ね共通認識となっている点を挙げるとすれば、こんなところだろうか。
- バウルは、俗世を捨てた放浪の行者である。
- バウルは宗教やカーストにとらわれない存在である。バウルになる前、ヒンドゥーを信仰していた者もムスリムだった者もいる。バウルの思想は、特定の宗教を拠り所にしていない。また、上位のカーストでも、最下位のカーストでも、バウルになってしまえば関係ない。男のバウルだけではなく、女のバウル(バウリニ)もいる。
- バウルは世襲ではない。バウルの家に生まれたからといって子がバウルになるのではないし、バウルの家に生まれなくてもバウルになれる。
- バウルは師匠のもとで修行する。弟子入りや出家に似た儀式を経て、バウルとなる。
- バウルはマドゥコリと呼ばれる托鉢で生活する。
- バウルは「歌い人」として認識されることが多いが、その修行は歌だけに限らない。ヨーガのような精神的な修行も求められる(むしろ、精神的な修練がバウルの本質だとする見方も多い)。
- 最近は、俗世を捨てず週末だけバウルの修行をする者や、修行はあまりせずにバウルの歌を歌う者もいる。彼らをバウルと考えて良いかどうかは意見が分かれる。
ベンガル語の「バウル」という言葉は、もともと「狂気」という意味を持っているという。
世俗の生活や世間の常識から自由になり、一心に己の信仰(特定の宗教に寄らない彼らの生き方を信仰と呼ぶのは少し違和感があるが)を追求して生きる人々が、バウルなのである。
世俗の生活や世間の常識から自由になり、一心に己の信仰(特定の宗教に寄らない彼らの生き方を信仰と呼ぶのは少し違和感があるが)を追求して生きる人々が、バウルなのである。
バウルは彼らの間に伝わる伝統的な歌も歌うし、自作の歌も歌う。
彼らの歌には深い意味が込められているが、その歌詞の意味は、バウル以外には容易には分からないような比喩的な表現がされているという。
彼らの歌には深い意味が込められているが、その歌詞の意味は、バウル以外には容易には分からないような比喩的な表現がされているという。
バウルについて日本や欧米で紹介するときに、必ずと言っていいほど言及されるフレーズがある。
それは「バウルはボブ・ディランにも影響を与えた」というものだ。
確かに孤高の歌い人のイメージを持つボブ・ディランとバウルのイメージは重なるが、もしこの話が本当だとしたら、ディランは、いったいどこでこのベンガルの修行者と出会ったのだろうか。
ディランの音楽には、ビートルズやストーンズのようにインドの楽器を導入した曲があるわけではないし、彼がインドから思想的な影響を受けているという話も聞いたことがない。
はたして、ディランはいつ、どこでバウルに出会い、どのような影響を受けたのだろうか。
調べてみると、話は1967年のコルカタにさかのぼるようだ。
当時コルカタのカーリーガート付近に住んでいたあるバウルのもとに、コルカタきっての高級ホテルであるオベロイ・グランドの使者がやってきた。
どうしても彼の歌を聴きたいという客が宿泊しているのだという。
このバウルの名前はプルナ・ダシュ・バウル(Purna Das Baul)。
父も妻も弟も息子もバウルという、生粋のバウル文化の中で生きてきた男だ。
調べてみると、話は1967年のコルカタにさかのぼるようだ。
当時コルカタのカーリーガート付近に住んでいたあるバウルのもとに、コルカタきっての高級ホテルであるオベロイ・グランドの使者がやってきた。
どうしても彼の歌を聴きたいという客が宿泊しているのだという。
このバウルの名前はプルナ・ダシュ・バウル(Purna Das Baul)。
父も妻も弟も息子もバウルという、生粋のバウル文化の中で生きてきた男だ。
オベロイ・グランドで彼を待っていたのは、アルバート・グロスマン(Albert Grossman)というアメリカ人だった。
当時、ジャニス・ジョプリンやボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーらのマネージャーを務めていた人物だ。
当時、ジャニス・ジョプリンやボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーらのマネージャーを務めていた人物だ。
プルナがバウルの歌を披露すると、グロスマンはすっかり夢中になり、彼にアメリカをツアーしないかと持ちかけてきた。
この頃のアメリカでは、激化するベトナム戦争への反発から、若者達の間でカウンターカルチャーとしてヒッピームーブメントが巻き起こっていた。
彼らは過度な物質主義に偏った西洋文明への反発から、東洋、とくにインドの文化に接近していった。
シタール奏者のラヴィ・シャンカルがビートルズ(とくにジョージ・ハリスン)に多大な影響を与え、有名なウッドストック・フェスティバルに出演したのもこの頃だ。
精神的な要素を重視するインド文化は、その是非はともかく、マリファナやLSDで新しい意識を覚醒させようというヒッピー文化との親和性も高かった。
俗世を捨てた行者であり、歌い人であるバウルが受け入れられる土壌が、確かに当時のアメリカにはあったのだ。
この頃のアメリカでは、激化するベトナム戦争への反発から、若者達の間でカウンターカルチャーとしてヒッピームーブメントが巻き起こっていた。
彼らは過度な物質主義に偏った西洋文明への反発から、東洋、とくにインドの文化に接近していった。
シタール奏者のラヴィ・シャンカルがビートルズ(とくにジョージ・ハリスン)に多大な影響を与え、有名なウッドストック・フェスティバルに出演したのもこの頃だ。
精神的な要素を重視するインド文化は、その是非はともかく、マリファナやLSDで新しい意識を覚醒させようというヒッピー文化との親和性も高かった。
俗世を捨てた行者であり、歌い人であるバウルが受け入れられる土壌が、確かに当時のアメリカにはあったのだ。
プルナ・ダシュ・バウルはグロスマンの提案を承諾し、弟のラクスマン・ダシュ・バウルを含むバウルの楽団を結成して、アメリカ各地で公演を行うことになった。
ボブ・ディランがバウルに初めて出会ったのは、どうやらこの時のようだ。
バウルの楽団は、当時ディランがニューヨークに所有していたビッグ・ピンクと呼ばれる住居兼スタジオでも演奏を行った。
その様子はディランとともにプレイしていたザ・バンドのガース・ハドソン(Garth Hudson)によってプロデュースされ、"Bengali Bauls at Big Pink"というタイトルで音源化されている。
ディランは確かにバウルに感銘を受けたのだろう。
プルナとラクスマンの兄弟は、ディランが67年末に発表したアルバム"John Wesley Harding"のジャケットにも登場している。
(ディランの左右にいるのがバウルの兄弟)
とはいえ、その後のディランの音楽にバウル音楽の要素が見られるわけではない。
バウルの楽団は、当時ディランがニューヨークに所有していたビッグ・ピンクと呼ばれる住居兼スタジオでも演奏を行った。
その様子はディランとともにプレイしていたザ・バンドのガース・ハドソン(Garth Hudson)によってプロデュースされ、"Bengali Bauls at Big Pink"というタイトルで音源化されている。
ディランは確かにバウルに感銘を受けたのだろう。
プルナとラクスマンの兄弟は、ディランが67年末に発表したアルバム"John Wesley Harding"のジャケットにも登場している。
(ディランの左右にいるのがバウルの兄弟)
とはいえ、その後のディランの音楽にバウル音楽の要素が見られるわけではない。
ディランがバウルの何に影響されているのかと言えば、それは彼らの生き方や、音楽や詩に向き合う姿勢ということになるだろう。
プルナ・ダシュ・バウルに、ディランはこう語ったという。
プルナ・ダシュ・バウルに、ディランはこう語ったという。
「俺たちはどちらもルーツの音楽を歌っている。俺たちの目的は同じなんだ。俺たちは人々のために歌ってる。音楽を通して物語や愛を伝えているんだ。君がベンガルのバウルなら、俺はアメリカのバウルさ」
新しいサウンドを模索していたビートルズやサイケデリック・ロックのバンドたちが、インド古典楽器の瞑想的な響きを導入したのに対して、歌詞(ことば)を伝えることを重視したディランが、詩人であり行者でもあるバウルに惹かれたというのは興味深い。
新しいサウンドを模索していたビートルズやサイケデリック・ロックのバンドたちが、インド古典楽器の瞑想的な響きを導入したのに対して、歌詞(ことば)を伝えることを重視したディランが、詩人であり行者でもあるバウルに惹かれたというのは興味深い。
西洋文化に代わるものとして、インドのメインストリーム的な伝統文化への接近を試みた当時の多くの人々とは異なり、ディランはベンガルの「伝統的アウトサイダー」に共感したのだ。
こうして始まった彼らの親交は途切れることなく続き、1990年にはプルナの息子の結婚式のために、ディランはプライベートでコルカタを訪れたという。
ここでもう一度時計の針を1967年に戻したい。
そもそもの話になるが、アルバート・グロスマンは、いったいどこでバウルのことを知ったのだろうか。
こうして始まった彼らの親交は途切れることなく続き、1990年にはプルナの息子の結婚式のために、ディランはプライベートでコルカタを訪れたという。
ここでもう一度時計の針を1967年に戻したい。
そもそもの話になるが、アルバート・グロスマンは、いったいどこでバウルのことを知ったのだろうか。
当時のアメリカでバウルが広く知られていたとも思えないし、流浪の歌い人であるバウルがグロスマンの行動半径にいたとも考えにくい。
おそらくだが、グロスマンは親交のあったビート詩人のアレン・ギンズバーグを通してバウルのことを知ったのではないだろうか。
ギンズバーグは、ヒップームーブメントから20年ほどさかのぼる1940年代末にニューヨークで勃興したビート文学(ビートジェネレーション、ビートニク)を代表する作家の一人だ。
ビート文学の作家たちは、自由な精神性、ドラッグの使用、東洋思想への傾倒などを特徴としており、ヒッピーたちにも大きな影響を与えた。
50年代にインドを訪れたことがあるギンズバーグは、コルカタに長く滞在してベンガルの詩人たちとの交友を深めたという。
ギンズバーグはそこでバウルの文化にも触れたようで、とくに2000曲ものバウル・ソングを作ったと言われる19世紀の伝説的なバウル、ラロン・シャーに大きな影響を受けたと言われている。
グロスマンがギンズバーグから、この街に暮らすプルナ・ダシュ・バウルについて聞いていたとしても、不思議ではない。
ところで、バウルの歌は、ベンガルが誇る大文学者タゴールにも多大な影響を与えていることが知られている。
というよりも、かつてはベンガルでも「奇妙な歌を歌う世捨て人」となかば蔑まれていたバウルは、タゴールが評価したことによって、その文化的価値が認められるようになったという。
タゴールが再評価し、ベンガルの詩人たちに受け継がれたバウルの文化が、ギンズバーグを介してボブ・ディランにまで繋がっているということになる。
アジア人で最初のノーベル賞受賞者タゴールと、シンガーソングライターとして初のノーベル賞受賞者であるボブ・ディランの両方にインスピレーションを与えたバウルの存在は、我々が考えるよりもずっと大きいのかもしれない。
ところで、ベンガル文化がニューヨークのカウンターカルチャーに及ぼした文化的な影響は、バウルからディランへの一方向だけのものではなかった。
ディランもまた、ベンガル、とくにコルカタの文化に大きな影響を与えているのだ。
2013年にリリースされた世界中のミュージシャンによるボブ・ディランのトリビュートアルバム"From Another World"では、プルナ・ダシュ・バウルは彼の代表曲のひとつ"Mr. Tambourine Man"を披露している。
歌詞もベンガル語に訳されており、言われなければオリジナルのバウル・ソングかと思ってしまうような出来栄えだ。
ベンガルにおけるディランの影響は彼のみにとどまらない。
コルカタのシンガーソングライターKabir Sumanはディランの代表曲"Blowin' in the Wind"(『風に吹かれて』)をベンガル語でカバーしている。
また別のシンガーによる『風に吹かれて』のカバーもある。
もはや完全にオリジナルなメロディーラインになってしまっているが、ディランがバウルの音楽性ではなく精神に影響されたように、この曲もディランが曲を通して伝えようとしたメッセージをカバーしているということなのだろう。
長きにわたりイギリスによるインド統治の中心地だったコルカタは、インドではかなり早くから英語のロックが受容されていた街だ。
ギンズバーグは、ヒップームーブメントから20年ほどさかのぼる1940年代末にニューヨークで勃興したビート文学(ビートジェネレーション、ビートニク)を代表する作家の一人だ。
ビート文学の作家たちは、自由な精神性、ドラッグの使用、東洋思想への傾倒などを特徴としており、ヒッピーたちにも大きな影響を与えた。
50年代にインドを訪れたことがあるギンズバーグは、コルカタに長く滞在してベンガルの詩人たちとの交友を深めたという。
ギンズバーグはそこでバウルの文化にも触れたようで、とくに2000曲ものバウル・ソングを作ったと言われる19世紀の伝説的なバウル、ラロン・シャーに大きな影響を受けたと言われている。
グロスマンがギンズバーグから、この街に暮らすプルナ・ダシュ・バウルについて聞いていたとしても、不思議ではない。
ところで、バウルの歌は、ベンガルが誇る大文学者タゴールにも多大な影響を与えていることが知られている。
というよりも、かつてはベンガルでも「奇妙な歌を歌う世捨て人」となかば蔑まれていたバウルは、タゴールが評価したことによって、その文化的価値が認められるようになったという。
タゴールが再評価し、ベンガルの詩人たちに受け継がれたバウルの文化が、ギンズバーグを介してボブ・ディランにまで繋がっているということになる。
アジア人で最初のノーベル賞受賞者タゴールと、シンガーソングライターとして初のノーベル賞受賞者であるボブ・ディランの両方にインスピレーションを与えたバウルの存在は、我々が考えるよりもずっと大きいのかもしれない。
ところで、ベンガル文化がニューヨークのカウンターカルチャーに及ぼした文化的な影響は、バウルからディランへの一方向だけのものではなかった。
ディランもまた、ベンガル、とくにコルカタの文化に大きな影響を与えているのだ。
2013年にリリースされた世界中のミュージシャンによるボブ・ディランのトリビュートアルバム"From Another World"では、プルナ・ダシュ・バウルは彼の代表曲のひとつ"Mr. Tambourine Man"を披露している。
歌詞もベンガル語に訳されており、言われなければオリジナルのバウル・ソングかと思ってしまうような出来栄えだ。
ベンガルにおけるディランの影響は彼のみにとどまらない。
コルカタのシンガーソングライターKabir Sumanはディランの代表曲"Blowin' in the Wind"(『風に吹かれて』)をベンガル語でカバーしている。
また別のシンガーによる『風に吹かれて』のカバーもある。
もはや完全にオリジナルなメロディーラインになってしまっているが、ディランがバウルの音楽性ではなく精神に影響されたように、この曲もディランが曲を通して伝えようとしたメッセージをカバーしているということなのだろう。
長きにわたりイギリスによるインド統治の中心地だったコルカタは、インドではかなり早くから英語のロックが受容されていた街だ。
とりわけディランは多くのミュージシャンたちに影響を与え、とくに詩人としてこの地で高く評価されているという。
ベンガルは、インド独立運動の中心地となった社会運動への意識の高い土地でもある。
そもそもこの地方がインドとバングラデシュの二つの国に分割されたのも、独立運動の勢いを削ぐために、イギリスがヒンドゥーとムスリムの居住地を分けて統治したことが原因だ。
ウエストベンガルは、インドのひとつの州となったのちも社会運動が活発で、長きにわたって共産党が州政権の座についていたことでも知られている。
1960年代のアメリカでプロテスト・フォークを代表する存在でもあったボブ・ディランが、こうした背景を持つこの地で高く評価されるのは当然と言えるだろう。
コルカタにはディランを讃えるこんなポエトリー・リーディングの音源まで存在している。
自らを「アメリカのバウル」と称したボブ・ディランと、そんなディランを詩人として讃えるコルカタの人たち。
そこには、何百年も前からアウトサイダーとして生きてきたバウルの文化と、20世紀のアメリカのカウンターカルチャーの旗手の心が重なって生まれた、美しい交流があったのだ。
参考サイト:
https://www.livemint.com/Leisure/qjaPL5lDYAtYJUrqeLdEkL/Bob-Dylan-and-the-Bauls.html
https://www.thequint.com/lifestyle/art-and-culture/tagore-bob-dylan-allen-ginsberg-connection-with-bauls-of-bengal
https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta
https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta
https://www.thehindu.com/entertainment/music/a-documentary-tracks-kolkatas-long-lasting-love-affair-with-bob-dylan/article31110327.ece
参考文献:
村瀬 智『風狂のうたびと バウルの文化人類学的研究』東海大学出版部 2017年
川内 有緒『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』幻冬舎文庫 2015年
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ベンガルは、インド独立運動の中心地となった社会運動への意識の高い土地でもある。
そもそもこの地方がインドとバングラデシュの二つの国に分割されたのも、独立運動の勢いを削ぐために、イギリスがヒンドゥーとムスリムの居住地を分けて統治したことが原因だ。
ウエストベンガルは、インドのひとつの州となったのちも社会運動が活発で、長きにわたって共産党が州政権の座についていたことでも知られている。
1960年代のアメリカでプロテスト・フォークを代表する存在でもあったボブ・ディランが、こうした背景を持つこの地で高く評価されるのは当然と言えるだろう。
コルカタにはディランを讃えるこんなポエトリー・リーディングの音源まで存在している。
自らを「アメリカのバウル」と称したボブ・ディランと、そんなディランを詩人として讃えるコルカタの人たち。
そこには、何百年も前からアウトサイダーとして生きてきたバウルの文化と、20世紀のアメリカのカウンターカルチャーの旗手の心が重なって生まれた、美しい交流があったのだ。
参考サイト:
https://www.livemint.com/Leisure/qjaPL5lDYAtYJUrqeLdEkL/Bob-Dylan-and-the-Bauls.html
https://www.thequint.com/lifestyle/art-and-culture/tagore-bob-dylan-allen-ginsberg-connection-with-bauls-of-bengal
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https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta
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村瀬 智『風狂のうたびと バウルの文化人類学的研究』東海大学出版部 2017年
川内 有緒『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』幻冬舎文庫 2015年
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goshimasayama18 at 14:25|Permalink│Comments(3)
2019年10月06日
インド北東部にボブ・ディランがいた(その1)!マニプル州のImphal Talkies!
個人的な話になるが、ボブ・ディランのなかでいちばん好きな曲はこの"Don't Think Twice, It's Alright".
『くよくよするなよ』っていう素敵な放題もついている。
(この音源は本物。インドのボブ・ディランはこの後出てきます)
学生時代、就職を控えた最後の春休み、当面最後になるであろう1ヶ月単位でのインドの旅(そして実際、それ以来そんなに長くインドには行けていない)の終わり頃だったと記憶している。
あれはどの街に向かう鉄道だったろうか。
夕暮れに染まるインドの大地を眺めるともなく眺めつつ、CDウォークマンでこの曲を聴きながら、自分の人生はこれからどうなるんだろうか、なんてしみじみと考えたものだった。
就職先が古いタイプの日本企業で、最初の勤務地は出身地とは違う地方に配属になるというしきたりがあった。
1ヶ月後、自分はどこの街でどんな人とどんな仕事をしているのだろうか。
あと、この"Freewheelin' Bob Dylan"のジャケットのような、寄り添ってくれる彼女も欲しかった(ちなみにこの女性は、実際にディランがつきあっていた彼女)。
今にして思うと、めちゃくちゃ安っぽい感傷だが、きっとそんな感傷に浸りたい年頃だったんだろう。
ああ恥ずかしい。
そんな思い出話はさておき。
先日、「インド北東部にJ-Popバンドがいた!?」という記事をお届けした。
インド北東部は"7 Sisters States"と呼ばれる7つの州から構成され(さらにシッキム州を北東部に含めることもある)インドのマジョリティとは異なるモンゴロイド系の民族が暮らす地域だ。
この地域は、中国、ミャンマー、バングラデシュ、ブータンと入り組んだ国境を接する地政学上重要な地域であり、また多くの州で過激な独立運動が行われていたため、長らく外国人観光客の入域が制限されていた謎の多いエリアでもある。
その北東部に、「J-Popバンド」がいたというので、ずいぶんとびっくりしたものだった。
ところが、北東部の驚異はそれだけにとどまらない。
今度は、なんとインド北東部に「ボブ・ディラン」がいるのを見つけてしまったのだ。
「インドのボブ・ディラン」が発見されたのは、マニプル州の州都インパール。
第二次世界大戦中に、日本軍がイギリス軍による中国への補給路(いわゆる援蔣ルート)を遮断するために攻略を目指し、無謀な作戦により大勢の死者を出したあの「インパール作戦」の目的地だった街だ。
それではさっそく聴いていただこう。
インドのボブ・ディランこと、Imphal Talkiesの"Hey Juliet".
どうだろう、この独特の節回しと、ヘタクソ、もとい味のあるハーモニカ、どう聴いても1960年代のボブ・ディランではないだろうか。
このサウンドにして、2013年にリリースされた楽曲だというからさらに驚きだ。
この曲は、「ロミオとジュリエット」をモチーフに、独立闘争とその弾圧によって殺伐としたインパールで、自由なアメリカに憧れる少女について歌った内容のようだ。
以前の記事でも紹介したとおり、インド北東部はなぜかいまだに80年代から90年代のメタルバンドが高い人気を誇る土地。
メタル以外でも、Bonny MとかBig Mountainみたいな懐かしのアーティストたちが北東部で開催されるフェスに呼ばれていたりする。
先日の渋谷系J-Popといい、北東部はどこか時空が歪んでいるのかもしれない。
(参考:「インド北東部のロック・フェスティバルは、懐かしのメタル天国だった!」) 彼らの"Hey Little Girl"という曲もかなりのディランっぷりなので、興味のある方はご一聴を。(YoutubeやSoundcloud上には無かったが、Spotifyでは聴ける。ちなみにこちらはなんと2017年の作品)
ディラン的なサウンドのなかで、彼らの個性と呼べる部分を挙げるとするならば、それはアルペジオの中に聴こえるシンプルで印象的なギターのフレーズだろう。
繰り返されるシンプルなメロディーは、この地方の伝統音楽によく似ており、彼らのルーツに根ざしたもののようだ。
それにしても、21世紀に入って20年が経とうとしている今、50年以上前のプロテスト・フォークのサウンドを再現するImphal Talkiesとはいったいどんなバンドなのだろうか。
Imphal Talkiesは、フロントマンでソングライターのAkhu Chingangbamを中心に2008年に結成された。
バンド名の由来は地元にあった映画館で、映画大国インドでは、同じように映画館の名前からとられた"◯◯ Talkies"というバンドが他にも何組か存在している。
よりロック色の強いサウンドを発表するときは、Imphal Talkies and Howlersという名前で活動しているようだ。
Akhuが扱う歌詞のテーマは、文学的・抽象的でもあったボブ・ディランに比べると、極めて政治的に明瞭なものだ。
例えば、それはインド北東部を苦しめ続けているAFSPA(Armed Force Special Power Act. 「軍事特別法」と訳されることがあるようだ)への抗議だ。
AFSPAは、加熱する独立運動を警戒したインド中央政府が、1958年にインド北東部やカシミールを対象地域として施行した法律だ。
宗教や民族や文化や言語の多様性を抱えるインドにとって、独立運動は不満を持つ他の地域にも飛び火しかねない見過ごせない問題だ。
このAFSPAは、独立運動を徹底的に弾圧するために、警察や治安部隊に令状なしの人々の拘束や殺傷、財産の破壊・収奪を認るものだった。
この法律のもと、インド北東部では多くの無辜の市民が中央政府側の弾圧の犠牲となった。
この法律のもと、インド北東部では多くの無辜の市民が中央政府側の弾圧の犠牲となった。
AFSPAは、過去に国連人権委員会や国際的な人権NGOであるヒューマン・ライツ・ウォッチから廃止を求められるなど、正当性に疑問が持たれている。
Imphal Talkiesの"AFSPA, Why Don't You Go Fuck Youself"は、この法案を率直に糾弾したものだ。
このビデオに出てくる新聞記事やニュース映像、そして激しい抗議運動を見れば、この法のもとでいかに北東部の人々がしいたげられてきたか、分かるだろう。
Imphal Talkiesの中心人物Akhuは、紛争が続くインパールの街で育ち、故郷を離れてデリーに進学したときに、はじめて平和な街の暮らしというものを知ったという。
だが、デリーでは、同時に北東部出身のマイノリティとしての差別や偏見にも直面することとなった。
こうした経験が、社会の矛盾や不条理に対する音楽を制作するきっかけになったそうだ。
これまで意図的にディラン的な楽曲ばかりを紹介してきたが、じつはこうしたスタイル以外の楽曲も多く、 インドの大統領プラナーブ・ムケルジーが2013年にインパールを訪問中に、バンドメンバーが警察から暴力を受けたことをきっかけに作られた曲"Mr. President is Coming"
紛争地で生まれた子どもたちに捧げられた"Lullaby"は、同じような環境で育った彼らならではの楽曲だ。
インド北東部が置かれた状況は、周縁部であるがゆえに、海外はもとより、インド国内でもあまり知られてはいない。
この地域の音楽シーンと合わせて、彼らが直面しているさまざまな問題も注目されてほしいと願うばかりである。
この地域の音楽シーンと合わせて、彼らが直面しているさまざまな問題も注目されてほしいと願うばかりである。
さて、そろそろこの記事はおしまいなわけだが、最後にさらなる衝撃的な事実をお伝えしたい。
じつは、一般的に「インドのボブ・ディラン」と呼ばれているのは、このImphal Talkiesではなく、別のアーティストなのだ。
インド北東部には、なんとImphal Talkiesよりもっと早く「インドのボブ・ディラン」と呼ばれたアーティストが存在している。
インド北東部には、なんとImphal Talkiesよりもっと早く「インドのボブ・ディラン」と呼ばれたアーティストが存在している。
彼の名は、Lou Majaw.
「インドのロックの首都」と呼ばれるメガラヤ州シロン出身のアーティストだ。
いわば、「元祖インドのボブ・ディラン」だ。
アメリカにはボブ・ディランは一人しかいないが、インド北東部にはディランはたくさんいるのである。
北東部のロックシーンで大きな役割を果たしてきた彼のことは、また改めて紹介したい。
それでは!
参考記事:The Hindu "I will make music till end of time, says 'Imphal Talkies and the Howlers' founder Akhu Chingangbam" MARCH 27, 2019
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goshimasayama18 at 23:00|Permalink│Comments(0)