バングラ・ビート

2021年02月09日

インド・ヒップホップ夜明け前(その3)Mafia Mundeerの物語・後編

(シリーズ第1回)


(シリーズ第2回)


デリーの地でヒップホップ・ユニットMafia Mundeerとして活動を始めたYo Yo Honey Singh, Badshah, Raftaar, Ikka, Lil Goluの5人。
彼らの活動形態は、Mafia Mundeerの名義でユニットとして活動するのではなく、メンバー同士がときに共演しながら、ソロとして個々の名義で楽曲をリリースするというものだった。

当時のMafia Mundeerで中心的な役割を担っていたのは、イギリスへの音楽留学経験を持ち、野心にあふれていたYo Yo Honey Singhだったと考えて間違いないだろう。

2010年を過ぎた頃から、Honey Singhがまずスターダムへの階段を登り始める。
流行に目ざといボリウッドが、最新の映画音楽として国産のヒップホップに目をつけたのだ。
時代の空気と彼の強烈な上昇志向が見事に噛み合い、彼は立て続けに人気映画の楽曲を手掛けて急速に知名度を上げてゆく。

2012年、ディーピカー・パードゥコーン主演の映画"Cocktail"に"Angreji Beat"を提供。
2013年には、アクシャイ・クマール主演の"Boss"に"Party All Night"を、そして日本でも公開されたシャー・ルク・カーン主演の"Chennai Express"に、タミルのスーパースター、ラジニカーント(映画には出演していない)に捧げた"Lungi Dance"を提供した。
アメリカや日本のヒップホップを基準に聴くと、どの曲も絶妙にダサく感じられるかもしれないが、インドの一般大衆が考える都会の退廃的なナイトライフのイメージに、Honey Singhがぴったりハマったのだろう。
アメリカ的なヒップホップを追求するのではなく、在外パンジャーブ人のバングラー・ビートやデシ・ヒップホップを国内向けに翻案した彼の音楽は、インド的ラップの大衆化に大きな役割を果たした。

ヒップホップにありがちな、リリックが女性への暴力を肯定的に描いているという批判もあったが(とくに、デリーの女子大生がフリースタイルラップでHoney Singhを痛烈に批判した"Open Letter To Honey Singh"は大きな話題となった)、彼の快進撃は止まらなかった。

前述の3作品はいずれもヒンディー語映画(いわゆるボリウッド作品)だが、よりローカルなパンジャービー語映画では、2012年に"Mizra"への出演を果たし、2013年の"Tu Mera 22 Main Tera 22"では主役の一人に抜擢されるなど、Honey Singhは銀幕にも進出する。
 

映画音楽のみならず、ソロ作品やプロデュースでもHoney Singhはヒットを連発した。
2011年にソロ作"Brown Rang"をヒットさせると、2012年にはパンジャービー系イギリス人シンガーJaz Dhamiやパンジャービー系カナダ人のJazzy Bとのコラボレーションをリリースして成功を収めた。
だが、良いことばかりは続かない。

急速な成功による他のメンバーとの格差が、彼と仲間との間に亀裂を生じさせてしまったのだ。
Honey SinghがMafia Mundeerの中心的存在であり、最も早く、最も大きな成功を手にしたことは疑うべくも無いのだが、彼の成功は、実際は彼の力だけによるものではなかった。

実は、この時期のHoney Singhのヒット曲"Brown Rang"はBadshahによって、"Dope Shope"は、Raftaarによって書かれたものだったのだ。
しかし、Honey Singhは、これらの楽曲の本来のソングライターに適切なクレジットを与えなかった。
"Brown Rang"を書いたBadshahは、どうせ大して売れないだろうと考えていたが、予想に反して曲は大ヒット。
クレジットを要求したBadshahをHoney Singhがはねつけたことで、彼らの関係は修復できないほどに悪化してしまった。
また、Raftaarに対しては、彼がレコーディングした曲にHoney Singhがヴォーカルをオーバーダビングして自分の曲にしてしまったという。

こうしたトラブルから、まずRaftaarが、次にBadshahがMafia Mundeerを脱退する。
Honey SinghはMafia Mundeerの新しいメンバーとして、AlfaazとJ-Starを加入させるが、以降、Mafia Mundeerというユニット名を聞くことはめっきり少なくなった。
それでも傍若無人にポピュラー音楽シーンの最前線を突っ走っていたHoney Singhは、2014年に突然シーンから姿を消してしまう。 
後に分かったことだが、彼はこのとき、重度のアルコール依存症と双極性障害に悩まされていたのだ。
リハビリのためのシーンからの離脱は18カ月にも及んだ。

Honey Singhが不在の間に、今度はBadshahがソロアーティストとしての成功をつかむ。
2015年の"DJ Waley Babu"が人気を博し、さらにボリウッドにも進出を果たす。
映画"Humpty Sharma Ki Dulhan"で使用された"Saturday Saturday"や、大ヒットした"Kapoor & Sons"でフィーチャーされた"Kar Gayi Chull"が高く評価され、新しいスターとしての地位を不動のものにしたのだ。
Honey Singhは、自分が不在の間に成功を収めたかつての仲間を素直に祝福することができなかった。
リハビリからの復帰作となる主演映画"Zorawar"の記者会見で、彼は「ロールスロイスを運転したことはあるか?ロールスロイスはタタの'ナノ'とは違う」と、自身を超高級車のロールスロイスに、Badshahを「世界一安い車」と言われたインド製の車に例えてこき下ろしてしまう。
ソーシャルメディア上でもお互いに激しい批判を繰り広げた彼らは、2012年以降、いまだに口も聞いていないと言われている。

そのHoney Singhの復帰第一作の映画"Zorawar"の挿入歌"Superman".
この時期、BadshahもHoney SinghもEDMバングラーとでも呼べるようなスタイルを標榜していた。

Honey SinghとBadshahに少し遅れて、Raftaarも人気を獲得してゆく。
彼は2013年にリリースした"WTF Mixtape"でよりヒップホップ的な方法論を提示し、コアなファンの支持を集めることに成功。
さらには、90年代から活躍するイギリスのバングラーユニットRDBのManj Musikとの共演など、独自路線を歩んでゆく。

"WTF Mixtape"からの"FU - (For You)".Manj Musikをフィーチャーして2014年に発表された"Swag Mera Desi"のリリックには、Honey Singhを批判したラインが含まれているとも言われている。
だが、Honey Singhは、Raftaarの成功も快く思わなかったようだ。
かつて自らがMafia Mundeerに誘ったRaftaarのことを「そんなやつは知らない」「一度しか会ったことがない」と切り捨ててしまう。
しかしRaftaarは抗争の加熱を望んでいなかったようで、多少の皮肉を込めつつも、Honey Singhを憎んでいるわけでは無いことを表明している。

「おそらく彼は急な成功でエゴが強くなりすぎて、自分がどこから来たのか、誰も彼を信じていなかった時に誰がそばにいたのかを忘れてしまったのだろう」
「俺に取ってMafia Mundeerはすごく思い出深いし、今でも彼をブラザーだと思っているよ」 
「俺は他人の成功で不安になったりはしないね。音楽は愛やブラザーフッドやポジティヴィティの普遍的な源なんだ。憎しみや嫉妬の余地なんて無いんだよ」

RaftaarとHoney Singhの再共演はいまだに実現していないが、今ではお互いに激しく罵り合う状況ではなくなったようだ。


時期は不明だが、IkkaもおそらくはRaftaarやBadshahの脱退と近い時期に、Mafia Mundeerを離脱したようだ。
その後のIkkaは、いくつかの映画音楽などにも参加し、高いスキルを示していたものの、Honey SinghやBadshah、Raftaarほどにはセールス面での高い評価を得てはいなかった。
ところが、2019年にアメリカのラッパーNasのレーベル'Mass Appeal'のインド版として立ち上げられたMass Appeal Indiaの所属アーティストとして起用されると、レーベルメイトとなったムンバイのストリートラップの帝王DIVINEとの共演(前回の記事で紹介)や、旧友Raftaarとの久しぶりのコラボレーションなどで、本格派ラッパーとしての実力を見せつけた。
2020年にはMass Appeal Indiaからファーストアルバム"I"をリリースし、その評価を確実なものにしつつある。

その後の彼らの活躍についても触れておこう。
Honey Singhはバングラーラップとラテンポップを融合したような音楽性で大衆的な人気を維持し、今では「インドの音楽シーンで最も稼ぐ男」とまで言われている。
現時点での最新曲"Saiyaan Ji"は最近Honey Singhとの共演の多い女性シンガーNeha Kakkarをフィーチャーした現代的バングラーポップ。
この曲のリリックにもLil Goluの名前がクレジットされている。

BadshahもHoney Singh同様に、EDM/ラテン的なバングラーラップのスタイルで活動していたが、最近ではより本格的(つまり、アメリカ的)なヒップホップが徐々にインドにも根付いてきたことを意識してか、本来のヒップホップ的なビートの曲に取り組んだり、逆によりインド的な要素の強い曲をリリースしたりしている。

このミュージックビデオはデリーの近郊都市グルグラム(旧称グルガオン)出身のラッパーFotty Sevenが2020年にリリースした"Boht Tej"にゲスト参加したときのもの。
ビートにはなんと日本の『荒城の月』のメロディーが取り入れられている。

女性シンガーPayal Devと共演したこの"Genda Phool"はベンガル語の民謡を大胆にアレンジしたもので、スリランカ人女優ジャクリーン・フェルナンデスを起用したミュージックビデオは2020年3月にリリースされて以来、すでに7億回以上YouTubeで再生されている(2020年に世界で4番目に視聴されたミュージックビデオでもある)。
これまでの「酒・パーティー・女」的な世界観から離れて、ヒンドゥーの祭礼ドゥルガー・プージャー(とくにインド東部ベンガル地方で祝われる)をモチーフにしているのも興味深い。

「かつて両親に楽をさせるために、魂を売ってコマーシャルな曲をラップしたこともある。でも今ではそういう曲とは関連づけられたくないんだ」
こう語るRaftaarは、商業的な路線からは距離を置いて活動しているようだ。
コマーシャルなシーンの出身であることから、Emiway Bantaiらストリート系のラッパーからのディスも受けたが、デリーのベテランラッパーKR$NAと共演したり、自身のマラヤーリーとしてのルーツを扱ったアルバム"Mr. Nair"(Nairは彼の本名)をリリースしたりするなど、堅実な活動を続けている。
現時点での最新の楽曲"Black Sheep".
最近では仲間のラッパーたちと運営するKalamkaarレーベルがフランスの大手ディストリビューターと契約を結んだというニュースもあり、さらなる活躍が期待できそうだ。

Ikkaの現時点での最新のリリースは、フィーメイル・ラッパーRashmeet Kaurの楽曲にDeep Kalsiとともにゲスト参加したこの楽曲(全員パンジャービーのシンガー/ラッパー)
レゲエっぽいビートに乗せたバングラーポップのR&B風の解釈は、インドのポピュラー音楽のまた新しい可能性を期待させてくれる。


正直にいうと、Mafia Mundeerの元メンバーたち、とくにHoney SinghやBadshahに対しては、その商業的すぎる音楽性から、私もあまりいい印象を持ってなかった。
バングラー・ラップは垢抜けない音楽だと感じていたのだ。
だが、インドの音楽シーンを知ってゆくうちに、パンジャービーにとってのバングラーは、アメリカの黒人にとってのソウル・ミュージックのようなものであり、その現代的解釈は、商業主義の追求というよりも、ごく自然なものであると考えるようになった。
自らのルーツを意識しつつも、新しい音楽をためらわずに導入し、露悪的なまでに自由でワイルドに活動したという点で、彼らはまさしくパーティーミュージックとしてのヒップホップのインド的解釈を成し遂げたと言ってよいだろう。

本格的な成功とほぼ同時に解散してしまったことで、今ではMafia Mundeerという名前を聞くことも少なくなってしまったが、4人の個性的な人気ラッパーの母体となったこのユニットは、インドの現代ポピュラーミュージックを語るうえで、決して無視できない存在なのだ。

ちなみにMafia Mundeerのもう一人のオリジナルメンバーであるLil Goluは、Honey Singhと楽曲を共作したりしている一方、IkkaをまじえてRaftaarとの再会を果たした様子。
Ikkaの"I"にも参加しており、元メンバー同士の抗争からは距離を置いて、全員と良好な関係を築きつつ活動を継続しているようだ。

いつの日か、彼らが再び何者でもなかったころの絆を取り戻して、その成功に至るストーリーをボリウッド映画にでもしてくれたらよいのに、と思っている。
その夢が実現するのはまだまだ先になりそうだが、それまでに彼らがどんな音楽を聴かせてくれるのか、激変するインドのヒップホップシーンでのパイオニアたちの活動に、これからも注目したい。




(参考サイト)
https://www.shoutlo.com/articles/top-facts-about-mafia-mundeer

http://www.desihiphop.com/mafia-mundeer-underground-raftaar-yo-yo-honey-singh-badshah-lil-golu-ikka/451958

https://www.hindustantimes.com/chandigarh/punjab-is-not-on-the-cards-anymore/story-Wqt6M1lpsARdwVk3TaSSCM.html

https://www.hindustantimes.com/music/honey-singh-might-call-him-a-nano-but-raftaar-still-thinks-he-is-his-bro/story-IKDAVHj7O14CAziUC8KLBK.html

https://www.hindustantimes.com/music/honey-singh-if-my-music-is-rolls-royce-badshah-is-nano/story-lWlU4baLG2poyzpOTZfDqK.html

https://timesofindia.indiatimes.com/city/kolkata/honey-badshah-and-i-still-love-each-other-raftaar/articleshow/58679645.cms

https://www.republicworld.com/entertainment-news/music/read-more-about-raftaars-first-rap-group-black-wall-street-desis.html



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2021年01月24日

インド・ヒップホップ夜明け前(その1)パンジャーブからUKへ、そしてデリーへの逆輸入


ムンバイのストリート・ラッパーをテーマにした映画『ガリー・ボーイ』の公開からもうすぐ2年。
今ではインド全土のあらゆる街にラッパーがいる時代になった。
ここであらためて確認しておきたいのは、インドでラップを最初にメジャーにしたのは、デリーのアーティストたちだったということだ。
とくに、デリー在住のパンジャーブ系シク教徒のアーティストたちが、今日流行しているメインストリームのエンターテインメントラップの確立に大きな役割を果たしたのだ。

今回は、そのあたりの話を書くことにしたいのだが、そのためには少し時代を遡らなければならない。
(何度も書いている話なので、ご存知の方は飛ばしてください)

「シク教」は、男性がターバンを巻くことで知られるインド北西部パンジャーブ地方発祥の宗教だ。
勇猛な戦士として知られるシク教徒たちは、イギリス統治時代に重用され、当時イギリスの植民地だった世界中の土地に渡っていた。
シク教徒の人口はインド全体の2%にも満たないが、彼らが早くから世界に進出していたために、「インド人といえばターバン」という印象が根付いたのだろう。
現在でも、イギリスで暮らす南アジア系住民のうち、シク教徒の割合は3割にものぼる。
1947年、インド・パキスタンがイギリスから分離独立すると、シク教徒たちの故郷であるパンジャーブ地方は、両国に分断されてしまう。
パキスタン側に暮らしていた多くのシク教徒たちは、イスラームを国教とするパキスタンを逃れ、インドの首都デリーに移り住んだ。
こうした理由から、デリーには故郷を失った多くのパンジャーブ系(ヒンドゥー教徒を含む)住民が暮らしている。

ヒップホップは、ニューヨークのブロンクスで、カリブ地域から渡ってきたアフリカ系の黒人たちによって生み出された音楽だが、デリーに住むシク教徒たちも、同じように故郷から切り離された暮らす人々だった。
さらに言うと、パンジャービーたちの性格も、彼らがインド最初のラッパーになる条件を満たしていたのかもしれない。
一般的に、パンジャーブ人は、ノリが良く、パーティーやダンス好きで、物質的な豊かさを誇示する傾向があり、自分たちのカルチャーへの高いプライドを持っていることで知られている。
ステレオタイプで書くことを許してもらえるならば、そもそもがものすごくヒップホップっぽい人たちだったのである。

パンジャーブの人々は、もともと、「バングラー」という強烈なリズムの伝統音楽を持っていた。


パンジャーブの収穫祭ヴァイサキ(Vaisakhi)で演奏されるバングラーは、両面太鼓ドール(Dhol)の強烈なリズムと一弦楽器トゥンビ(Tumbi)の印象的な高音のフレーズ、そしてコブシの効いた歌と両手を上げて踊るスタイルで知られるダンスミュージックだ。

インド独立後も、多くのパンジャーブ人たちが海外に暮らす同胞を頼って海外に渡っていった。
彼らは欧米のダンスミュージックと自分たちのバングラーを融合し、新しい音楽を作り始めていた。
ちょうどブロンクスの黒人たちが、故郷ジャマイカのレゲエのトースティングとポエトリーリーディングやアメリカのソウルのリズムを融合してヒップホップを生み出したように。

80年代のイギリスでは、Heera, Apna Sasngeet, The Sahotas, Malkit Singhといったアーティストたちが、新しいタイプのバングラー・ミュージックを次々に発表し、南アジア系移民のマーケットでヒットを飛ばしていた。


今聴くとさすがに垢抜けないが、ベースやリズムマシンを導入したバングラー・ビートは、当時としては新しかったのだろう。

UKのパンジャービーたちの快進撃は止まらない。
90年代に入ると、Bally Sagooが母国のボリウッド映画の音楽を現代的にリミックスし、RDB(Rhythm, Dhol, Bass)が本格的にヒップホップを導入する。
そして、1998年にリリースされたPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"は、2002年に在外インド人の枠を超えた世界的な大ヒットを記録するまでになる。




シク教徒は強い結束を持つことでも知られている。
海外の同胞たちが作り上げた最新のバングラー・ビートが、シク教徒が多く暮らすデリーに逆輸入されてくるのは必然だった。

21世期に入ると、Yo Yo Honey Singh, Badshah, Raftaar, Ikkaといった今もインドのメジャーシーンで活躍するラッパーたちがデリーで新しい音楽を作り始める。
彼らは、もともとMafia Mundeerという同じクルーに所属していたのだ。

(つづき) 



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2018年08月31日

インドのインディーズシーンの歴史その4 バングラ・ビートの時代!Apache Indian!

インドのインディーズミュージック史を紐解くこの企画、第4回目にして、おそらく初めて多くの人が知っている名前が出てきたのではないだろうか。
そう、今回取り上げるのはApache Indian.
とくにアラフォー世代のみなさんにとっては懐かしい名前のはずだ。
VH1INDIAによるインドのインディー100曲
この例のリストで取り上げられているのは、「Boom 釈迦-楽!」というワケの分からない邦題で有名なあの曲ではなく、"Chok There"という曲。
それではどうぞお聴きください。


うわあ、懐かしい!
このバングラ・レゲエのリズムを聞くと90年代の空気が一気に蘇ってくる。
最初に断っておくと、自分はバングラには全く詳しくない。
90年代に一斉を風靡したバングラを網羅的に紹介できる人は他に適切な人がいるはずなので(サラーム海上さんとか)、今回はごく簡単な紹介に止めさせてもらいます。

Apache Indianはバーミンガム出身のパンジャーブ系のインド系イギリス人。
在外インド人と言っても、当然ながらその出身地域によって言語も文化も異なるわけだが、彼の場合、このパンジャーブ系であるということがとくに大きな意味を持っている(後ほど詳述)。

工業都市バーミンガムのアジア系と黒人が混住する地域で育った彼は、80年代から髪をドレッドにして地元のサウンドシステムでの活動を始めた。
やがて90年代に入ると、バングラとレゲエをミックスしたスタイルで名門Island Recordsと契約。
93年には世界的なヒットとなった"Boom shack-a-lak"をリリースした。
やっぱりこっちも懐かしい。バングラ・ラガ・ロックンロール。
 

ここで、「バングラ」の説明を改めて。
90年代、「バングラ・ビート」というジャンルがまずイギリスで人気になり、やがて世界的な盛り上がりを見せた。
カタカナで書くと同じなので、バングラという言葉からバングラデシュ(Bangladesh)を連想する人もいるかもしれないが、「バングラ(Bhangra)」は方角的には反対側のインド北西部、パキスタンとの国境に接したパンジャーブ州の伝統的なリズムだ。

パンジャーブ州は、ターバンとヒゲで有名なシク教の本拠地としても有名な土地で、印パ分離独立時に、両国に分割されてしまった経緯のある土地だ。地図上の赤いところ。
800px-Punjab_in_India_(disputed_hatched)
(画像出典:Wikipedia)

パンジャーブ州やシク教について詳しく書いていると、それだけで永遠に終わらなくなってしまうので割愛するとして、インドでは、パンジャーブ人は特に陽気で賑やか、率直な性格の人々という印象を持たれているようだ。
例えば、人気作家Chetan Bhagatの"2 states"という小説では、物静かで教養を重んじるタミル人の家庭に育った彼女と、やかましくて歯に衣着せぬ典型的パンジャーブ人の家庭に育った彼氏との結婚に至るまでの両家の葛藤が面白おかしく描かれている。ちなみに著者の自伝的な小説だそうだ。

インド各地に様々なリズムがあるのに、インド系移民の多いイギリスで、どうして90年代にブレイクしたのがこのバングラだったのか。
例えば南インドのカルナーティックのリズムでも良かったのではないかと思っていたのだが、その理由はおそらくはとてもシンプルなことだった。
イギリスに住んでいるインド系の人口150万人のうち、パンジャーブ系は70万人。じつに4割にものぼる。
本国インドでは、インド全体の人口約13億にたいして、パンジャーブ系の人口は約3,300万人、たったの2.5%にすぎないが、歴史的にイギリスには多くのパンジャビ(パンジャーブ人)たちが移住してきているのだ。
(インド国内でのパンジャーブ人の人口は、統計の取り方によって変わってきそうだが、それはひとまず置いておく)

そんなわけで、イギリスのインド系社会ではマジョリティーであるパンジャビのリズム、バングラはさまざまな音楽と結びついて独自の発展を遂げることとなった。
そもそものルーツである伝統的なバングラのリズムはこんな感じ。


より大衆的な音楽だからということもあるだろうが、他のインド古典音楽のように変拍子や複雑なリズムなどはなく、直線的な打楽器のビートはいわゆるアゲアゲ感がある。
このリズムがディスコやヒップホップ、ダンスホールレゲエなどと融合し、「バングラ・ビート」と呼ばれるスタイルが形成された。
バングラ・ビートは、はじめはインド系移民の間でのみ親しまれていたが、90年代に入ると徐々にその存在感を増し、Boom shack-a-lakがヒットした93年頃には世界的な注目を集めるに至ったというわけだ。
最終的には、パンジャーブ系のインド人が演奏していれば、もはやバングラの要素をほとんど残していなくてもバングラというジャンルとして扱われていたように記憶している。
いずれにしても、この「パンジャーブ系」であるということがバングラというジャンルの共通項であったわけだ。

もう一人、90年代のバングラの国際的スターを挙げるとしたら、Punjabi MCということになるだろう。
彼もまたパンジャービ系イギリス人で、よりプリミティブなバングラ・ビートの"Mundian To Bach Ke"は、1998年にUKのシングルチャートで5位、米ビルボードのダンスチャートで3位の大ヒットとなった。

当時、他のヒット曲に混じってこの曲がプレイされると、すごい違和感があったものだけど、理由はともかく世紀末の空気とこのインドのリズムが呼応した時代だったのだろう。
このバングラ、ぎゃくに言うとそれ以前もそれ以降も世界的には見向きもされないジャンルとも言えるかもしれないけど、とにかく90年代はバングラビートの時代だったというわけだ。

話を"Chok There"に戻します。
この曲がリリースされたのは、大ヒット曲"Boom shack-a-lak"に先立つ1991年。
世界的にはバングラ・ブームの創世記を担ったより重要な曲であるはずなのに、このVH1 Sound Nationが選んだインドのインディーズシーンを作った100曲リストでは、前回紹介したドイツローカルの一発屋であるNoble Savegesが1997年にリリースした曲よりも後にリストアップされている。
深読みかもしれないが、これはNoble Savegesが"I am a Indian"をインドで製作したことがより重要視されているのだろう。

Apache Indianもインド系社会特有のテーマについて、インドの言葉を交えて歌っているが、彼がブレイクした90年代前半は、インドにはまだ彼がレゲエビートを引っさげて凱旋帰国できるだけの音楽市場がおそらく整っていなかった。
それに、マーケット的に未開の地であるインドに行くには彼はあまりにも世界で売れすぎた。

Apache Indianも大ヒットから一段落した1996年に、遅ればせながらインドに一時帰国し、タミル語映画"Love Birds"に出演し楽曲も提供している。
楽曲的には当時のインドの映画音楽のアベレージから考えるととても垢抜けた曲なのだが、さすがにインドのメジャーシーンのど真ん中の映画音楽では、インディーズミュージックのリストに入れるわけにもいかないのだろう。
これがその曲で、タイトルは、インド人の口ぐせ"No Problem"



世界的なバングラブームは90年代に過ぎ去ってしまったが、バングラはもちろん今でもパンジャビ系の人々にとって身近なリズム。
最近ではEDMなどと融合し、独自の発展を遂げている。


ところで、Apache Indianというアーティスト名は、お気づきの通り、ネイティブ・アメリカンのほうのインディアンのアパッチ族を意識してつけられたものだが、前回紹介したNoble Savegesというユニット名も、アメリカ先住民を表す言葉だ。
どちらも意図的に「インディアン」という言葉の混同をしているわけだが、そこに単なる言葉遊び以上の意味があるのだろうか。少し気になるところではある。

90年代、インドの音楽シーンはまだ眠っていたけれど、国外では徐々にインド系ミュージシャンの活躍が目立ち始めてくる。
タブラ・エレクトロのTalvin Singh、インディー・ポップのCorner Shop、ミクスチャー的ダブ・バンドのAsian Dub Foundation等々、イギリスのインド系移民たちがシーンで評価され始めたのも90年代だ。
今回は、そんな時代に最も世界で受け入れられたインド系音楽、バングラを感じてもらえたらうれしいです。

次回は再びインドに舞台を移して、インドロック界の大御所バンドを紹介します。
では! 

goshimasayama18 at 11:35|PermalinkComments(0)