ダリット
2022年05月28日
北チェンナイはタミルのブロンクスかニューオーリンズか Casteless Collectiveの熱すぎるリズムそしてメッセージ
「カースト」のことを書くのはいろいろな意味で気が重いのだが、今回は、インドが持つ最大の負の遺産であるカースト制度に真っ向からプロテストを訴えているバンド、その名もCasteless Collectiveを紹介したい。
カーストについて語るのは非常にやっかいだ。
カーストがどのような意味を持つかは、その人が暮らしている環境やコミュニティによって大きく異なるからだ。
海外や都市部で「先進的な」暮らしをしているインド人のなかには「カースト差別はすでに過去のもの」という意見を持つ人もいる。
私は1990年代にすでにそういう意見の人に会ったことがあるのだが、その人はインドの印象を良くしたいとかではなく、心からそう思っているふうだった。
彼にとっては、それが「真実」だったのだろう。
だが、インドの田舎や保守的なエリアに生まれた人にとっては、カーストの影響を受けずに育つことは難しい。(その結果が差別意識であれ、問題意識であれ)
日本人には理解が難しい「カースト差別」をごく単純に説明すると、伝統的な世襲制職業コミュニティ(「ジャーティ」と呼ばれる)の「清浄」と「ケガレ」の感覚に基づく差別と言えるだろうか。
カーストの階層のなかでは、司祭階級にルーツを持つバラモン(ブラーミン)がもっとも清浄であるとされ、死(葬儀、と畜など)や汚れ(清掃、洗濯など)を扱う者たちは、カースト枠外の最下層の存在とされてきた。
最下層とされた人々は、ケガレが移るという理由で、カースト内の人々と触れたり、食事をともにしたり、視界に入ることすら禁じられ、長い間、非人間的な差別を受けてきた。(「不可触民」と呼ばれて蔑視されてきた彼らは、今では「抑圧されたもの」を意味する「ダリット」と称されることが多い)
今なお深刻なカースト差別の最悪な形のひとつが「名誉殺人」だ。
これは、低カーストの男性と交際している高位カーストの女性が「一族の名誉を守るため」という理由で親族から殺されてしまうという恐ろしい犯罪で、池亀彩著『インド残酷物語 世界一たくましい民』によると、2014〜16年の3年間で、タミル・ナードゥ州だけで92件もの名誉殺人が起きているという。
その被害者の8割がカースト・ヒンドゥー(ダリット以外のヒンドゥー教徒)の女性で、残りの2割は相手のダリットの男性だ。
これはあくまでも氷山の一角で、同じ時期に発生した名誉殺人の疑いのある不審死まで含めると、タミルナードゥ州内だけでも174件にものぼる。
インド全体で考えれば、この数字は何倍にも膨れ上がるはずだ。
ビリー・ホリデイの『奇妙な果実(A Strange Fruits)』は、リンチを受けて殺され、木に吊るされた黒人のことを歌った曲だが、インドではいまだに同じようなことが行われているのだ。
私がインドの社会や音楽シーンに興味を持ち続ける大きな理由のひとつは、こうした差別や格差に対して、音楽がどんな役割を果たせるか見届けたいという思いがあるからだ。
20世紀前半から、アメリカの黒人たちは、独自の文化をルーツとした素晴らしい音楽を生み出し、差別や過酷な環境に生きる彼ら自身をエンパワーしてきた。
ブルース、ソウル、ファンク、そしてヒップホップ。
1960年代の公民権運動から2010年代のブラック・ライヴス・マターまで、その音楽が社会のなかで大きな役割を担ってきたことは衆知のとおりだ。
泥水から美しい花を咲かせるように、彼らの音楽はその普遍的な魅力で、今日のポピュラーミュージックの礎となってきた。
いまも苛烈な差別が続くインドでも、音楽は社会の中で大きな役割を持つことができるのではないか?
あるいは、過酷な環境のなかから、新たに力と普遍的魅力を持った音楽が生まれてくるのではないか?
カーストに起因する問題が全て音楽で解決すると考えるとしたら、それはあまりにも能天気すぎるが、このブログでも何度も書いているように、実際にインドでもすでに音楽によるエンパワーメントは始まっている。
前置きが長くなったが、今回紹介するCasteless Collectiveはまさにその好例だ。
インド南部、タミルナードゥ州の州都チェンナイで結成されたCasteless Collecriveは、メンバー全員がダリット出身。
このバンドは、同じくダリット出身の映画監督Pa. Ranjitが設立したニーラム文化センター(Neelam Panpaatu Maiyam)に集まる若者たちによって、2017年に結成された。
(Pa.Ranjitがメガホンを取り、タミル映画界のスーパースター、ラジニカーントが主演した映画"Kaala"については、この記事で詳しく紹介している。格差や差別やナショナリズムへの抗議と怒りに満ちた素晴らしい作品だ)
Casteless Collectiveは12〜19人のメンバーで構成されたバンドだ(記事や媒体により人数の表記が異なっている)。
その中には、ドラムやギター、男女のヴォーカルやラッパーといった馴染みのあるパートに加えて、ガーナ(Gaana)と呼ばれるタミルの伝統音楽のミュージシャンたちも含まれている。
Casteless Collectiveは、ファンクやブルースとガーナをかけ合わせたフュージョン・ロックバンドなのだ。
「ガーナ」とは、もともと彼らが拠点とする北チェンナイの葬儀でダリットたちが演奏する音楽だった。
(北インドのヒンディー語などの言語では、'Gaana'は歌全般を意味する言葉だが、少なくとも北チェンナイのタミル語では、Gaanaというとこの葬送にルーツをもつ音楽を指すようだ)
2022.7.6追記:タミル文化に詳しい方から、「ガーナ」は必ずしも葬儀で演奏される音楽でも被差別階級の音楽でもなく、ストリートミュージック全般を指すのではないか、というご指摘をいただいた。私は南インドの文化にはまったく詳しくないので、これはおそらく私に誤解があり、その方の指摘が正しいものと思う。北チェンナイ発祥の「ガーナ」は、その発端には被差別階級や葬儀との関連があったかもしれないが、少なくとも現在はそうしたテーマとは関係なく親しまれている音楽であるようだ。私が書いた内容は、間違いではなくても、例えば、現代のポップミュージックを紹介するときに「R&Bは過酷な黒人差別の中から生まれた音楽だ」と書くくらいに唐突だった可能性がある。ただ、以下のVICE Asiaのインタビューを見れば分かる通り、Casteless Collectiveの音楽を紹介する文脈では、ガーナはやはり被差別の苦しみから生まれた音楽と理解して間違いなさそうなので、こうした現状をふまえた上で記事を読んでもらえるとありがたいです。
20世期初頭に南インド各地から仕事を求めてチェンナイ北部にやってきたダリットたちが生み出したガーナは、葬送音楽らしからぬ派手なパーカッションとリズミカルな歌が特徴の音楽だ。
1980年代頃からポップスとしても消費されはじめ、今ではポピュラー音楽のメインストリームである映画音楽にも使われるようになった。
まるでニューオーリンズのジャズ葬から生まれたセカンドラインのようなエピソードだ。
このニューオーリンズのような音楽文化を生んだ北チェンナイは、南インド各地から来た貧しい労働者が数多く暮らす地域でもあり、「治安が悪く犯罪が多発」というヒップホップ発祥の地、ニューヨークのブロンクスみたいなイメージを持たれている場所でもある。
(ニューオーリンズで黒人たちの葬送のための音楽として生まれたセカンドラインは、ジャズやファンクのいちジャンルとなり、ポップミュージックにも導入さている。ヒップホップ創成期のブロンクスはカリブ地域から渡った黒人やヒスパニック系の移民が多く暮らす犯罪多発地域だった)
こうした文化的背景のせいか、Casteless Collectiveの音楽は、音楽性のみならず、その精神性においても、アメリカのブラックミュージックのような力強いメッセージを持った非常に面白いフュージョンになっているのだ。
「北チェンナイ」を意味する"Vada Chennai"は、地元をレペゼンしつつ抑圧に対する怒りを訴える、彼らの醍醐味が存分に味わえる曲だ。
本当のチェンナイ北部を知っているのか?
奴らは美しいものを全て破壊し、真実を埋めてしまった
俺たちは奴らに奪われた土地を取り戻す必要がある
さあ、戦おう、第二の独立のために
1947年にイギリスからの独立を果たしてから75年の歳月が過ぎたが、ダリットの人々にとっては、自身の尊厳を取り戻す本当の意味での「独立」はいまだに達成されていないと訴えることからこの曲は始まる。
このいかにもインドらしい(そしてタミルらしい)プロテスト音楽を奏でる彼らのことを手っ取り早く彼らを知るには、Vice Asiaが作ったこのドキュメンタリーが最適だ。
彼らの言葉に耳を傾ければ、その思想と理想が理解できるだろう。
「Casteless Collectiveのサウンドはチェンナイの土壌から生まれた音だ。チェンナイの血と汗なんだ。Casteless Collectiveは、人々が抱えている問題や苦労や必要なものを伝え、平等をもたらすために存在している。大事なのはカーストに関する全ての考えを根絶すること。カーストのない社会にすることだよ。それがCasteless Collectiveなんだ」
インドには、明確に思想を表明しているインディーミュージシャンも少なくないが(例えばSka VengersのTaru Dalmia)、考えてみれば彼らほどその思想を直接的にバンド名に冠したアーティストは他に思いつかない。
彼らのソウルミュージックでもある「ガーナ」について語っている内容も興味深い。
「ガーナは俺たちの心の痛みから生まれる音楽だ。ガーナのミュージシャンたちは長い間搾取されてきた。ガーナは理論的なものじゃないから、学ぶことはできない。フィーリングなんだ」
「ガーナはブルースみたいなものだ。タミルのブルースさ。ヒップホップが持つ痛みと同じようなところから生まれた。ヒップホップとガーナを融合させるのは難しかったけど、メンバーのArivuはラップもできて、ガーナ音楽も歌えたのさ」
やはりというべきか、彼らとガーナの関係は、アフリカ系アメリカ人と黒人音楽の関係になぞらえて理解することができるもののようだ。
ブルースのように、やるせない境遇の憂鬱をぶっとばすためのものであり、ヒップホップのようにそこにメッセージを乗せて伝えることもできる。
彼らがアメリカの音楽に影響を受けていることも確かだろうが、似たような環境で生まれた音楽であるがゆえのシンクロニシティーがあるのだろう。
ちなみにアメリカ合衆国におけるアフリカ系市民の割合は12.6%だそうだが、インドのダリットの割合は16.6%とされている。
とくに地方においては、インターネットや電力へのアクセスすらままならないダリットも多く、根深い社会構造的な問題からそのエンパワーメントは容易ではないが、人口規模を考えれば、彼らの生み出すブルース/ヒップホップ的な音楽がインドで大きなうねりを生み出すことも夢ではないのかもしれない。
今度は、ラッパーであるArivuの言葉に注目してみよう。
「祖父たちがよく話していたよ。俺たちには土地なんてなかったんだ。人の家に表玄関から入ることも許されなかったし、コップから水を飲むことも許されなかった。何千年もそんなことが続いているんだ。俺は大学で勉強して、カーストの抑圧がいかに大きいものかを学んだ。今でも差別は続いている。ここじゃ人々は土地なんてもっていない。手でゴミを拾っている人たちの子供は、同じ仕事をするしかない。カーストは目に見えないかもしれない。居心地の良い場所でこの話を聞いている人は、きっと先祖が土地持ちかなんかで、いろんな人を抑圧してきたんだろうよ。私立の学校やインターナショナル・スクールに行ってる奴らが『カーストなんてもうない』なんて言うのは馬鹿げているよ」
冒頭に書いたように、カーストをめぐる状況はインドでもさまざまだが、チェンナイ北部のダリット出身である彼のこの発言には痛みをともなうリアリティがある。
「俺はストリートのリアルを伝えるアーティストになりたかった。俺は大学に入ってから、詩を書くようになった。歌を通して、自分の痛みを表現したかったんだ。そうしたら友達が『まるでラップみたいだな。続けたらラッパーになれるよ』と言ってくれた。ラップシーンに入ってから、ラップの歴史を知ったよ。抑圧に対する声だということをね。そのことを知ってすごく嬉しかった。よし、ラップを通して俺たちの生活を伝えてみよう、って思った」
ヒップホップというカルチャー、ラップというアートフォームの普遍性を感じるエピソードだ。
彼らのこうした主張は、その楽曲に色濃く反映されている。
"Jaibhim Anthem"は、ダリット解放運動の活動家であり、インド憲法を起草した法学者・政治家でもあるビームラーオ・アンベードカル(1891−1956)を称える歌。
俺の話をちゃんと聞けばわかるはずさ
この国はカーストの偏見に溢れている
俺たちは学校にも入れてもらえないし、寺院も魂を救ってくれない
道路も歩けないし、殺されることだってある
何千年もこんなことが続いてきた
変わったというけれど、だれが保証してくれるんだ?
歴史を振り返ってみれば、誰が俺たちのストーリーを変えてくれたか分かるだろう
ジャイ・ビーム 声を挙げよう カーストなんていらない 喜びの声を
アンベードカルは晩年に50万人のダリットたちを率いて、カースト差別の根源であるヒンドゥー教と訣別し、仏教徒に改修した、インドにおける仏教復興運動の祖でもある。
こうした経緯から平等主義に比重を置くことが多い彼らは、新仏教(Neo-Buddhist)と呼ばれることも多いが、この名称は結局彼らの出自に注目したものだとして、必ずしも歓迎されている呼び方ではない。
「ジャイ・ビーム」の叫びは、現代まで続くダリット解放運動の父であるアンベードカルへの共感とリスペクトを表す合言葉であり、平等や権利を訴える場面で広く使われている。
(前述の映画"Kaala"やSka VengersのTaru Dalmiaを取り上げたドキュメンタリーでもこの言葉を唱えるシーンがある。詳しくはリンク先の記事を参照)
長い間被差別階級に甘んじてきたダリットたちは、公立学校への入学や公務員への就職の際に、一定の枠が与えられている。
こうしたクォータ制度(インドではreservation=留保制度と呼ばれることが多い)に対する彼らのステートメントがこの曲だ。
お前らの先祖は俺たちの先祖を虐げてきた
だから俺たちにクォータ制度が割り当てられているんだろ?
欲しいものをいつも手に入れてきたからって威張るなよ
俺たちは先祖とは違う、俺たちはもうおとなしくしないからな
(冒頭の部分。原語はタミル語)
ヘヴィロック的なサウンドに乗せて歌われるメッセージはまるでボブ・マーリーのような熱いプロテストだ。
留保制度は様々な問題をはらんでいて、この制度で高等教育に進学したダリットの学生が学業についていけずドロップアウトしてしまうこともあり、また上位カーストの学生が逆差別だと抗議の自殺をするなど、けっして万能の解決策ではない。
だが、それでもこの制度がインド社会の歴史的負債とも言える格差是正に大きな役割を果たしてきたことは間違いない。
そうした批判もふまえた上での主張が、この"Quota"だというわけだ。
Arivuはソロのラッパーとしてもバンドと同様のメッセージを発信している。
ビートメーカーのofROとタッグを組んだ"Anti Indian"もまた強烈な一曲。
なんだって?俺がアンチ・インディアンだっていうのか?
なんだって?俺はただタミル人として投票しているだけ
俺はあんたみたいなただの人間さ
なのに俺の夢も希望も潰されてしまった
目を閉じて俺の話を聞いてくれ
おまえは俺の土地を滅ぼし 俺の家を燃やそうとした
おまえは俺たちの森に戦争を持ち込んだ
歴史は偽りに満ちている
おまえは俺を生贄にして 俺の国を滅ぼした 数十万もの人々だ
それでも俺はおまえたちと一緒になった
俺の夢をおまえが叶えてくれることを望んでいた
俺はひとつになることを望んだが おまえは俺たちの分断が続くことを望んでいる
言語や宗教や人種や生まれによる分断のことさ
教育で分断し 見えない線で分断し 肌の色で分断する
俺の土地は自分の血で血まみれだ
この戦いは俺たちの世代でもまだ続いている
おまえに俺の痛みは分からない
"Anti Indian"は、日本で言うと「反日」とか「売国」に近いようなニュアンスの言葉だと考えてよいだろう。
チェンナイに暮らす彼らは、カースト差別とは別に、北インドの南インドの構造的格差の当事者でもある。
インドという国は、伝統的に首都デリーを中心とした北インドのヒンディー語圏のアーリアの人々が支配的であり、彼らとは全く別の言語体系・人種的ルーツを持つドラヴィダ系の南インド人はなにかと低く見られがちだ。
こうした状況のなかで、チェンナイを州都とするタミルナードゥ州は、とくに自らの文化への誇りが強い土地であり、北インド的な価値観の押し付けに対する強い対抗意識を持っている。
だが、タミル的なアイデンティティというのものも一枚岩ではなく、例えばそれはタミルの中の上位カーストの価値観に依拠していることもあるから一筋縄ではいかない。
例えば、カースト・ヒンドゥーのタミル人たちは、自分たちの牛を誇りとして大切にする文化を持っているが(たとえばこの記事を参照「タミルのラッパーのミュージックビデオがほぼインド映画だった話 Hiphop Tamizhaとタミルの牛追い祭り」)、ダリットたちにとって牛は貴重な食材のひとつである。
"Anti Indian"のミュージックビデオで、Arivuはライブの途中で曲を止めて、観客にこう語りかける。
「曲を止めてすまない。ちょっと言いたいことがある。
俺たちがタミル人でもインド人(ここでは北インド出身者のことか)でもマラヤーリー(タミルナードゥ州の西隣ケーララ州にルーツを持つ人々)でも関係ない。俺たちは人間だ。
ただの人間、それだけだ。
最後に残るのは人間愛(humanity)だ。人間であること(humanity)だけが永遠なんだ。
俺たちはひとつだ。人間であるってことは、俺たちを結びつける力なんだ」
このメッセージのあまりの誠実さに、正直、書いていてちょっと背筋が伸びた。
社会的、政治的であることから全く逃げずに、こんなにも真摯な姿勢を貫いているアーティストは世界的に見ても稀有な存在だろう。
Arivuはラッパーとしての技量も非常に高く、この"Kallamouni"の2:10からの凄まじい勢いの鬼気迫るラップを聴いてみてほしい。
Casteless Collectiveのメンバーたちも語っているように、これまで、ダリット自身が主人公となって、自分たちを虐げてきた人々や制度を公然と批判できる音楽は彼らのコミュニティに存在しなかった。
音楽的にも文化的にも自らのルーツを誇りつつ、強烈なプロテストを繰り広げる彼らは、遠く日本から見ていても胸がすくようなすがすがしさと熱さがある。
北チェンナイのダリット・コミュニティから生まれた彼らの音楽が、その熱さと真摯さで、ファンクやヒップホップのように、より多くの人をエンパワーすることも、決して夢ではないと信じている。
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goshimasayama18 at 20:20|Permalink│Comments(0)
2020年06月11日
インドに共鳴する#BlackLivesMatter ダリットやカシミール、少数民族をめぐる運動
今さら言うまでもないことだが、米ミネアポリスでアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドさんが警察官の過剰な暴力によって命を落としたことに端を発する抗議運動が、世界中に広がっている。
この運動は、もはや個別の事件への抗議運動ではなく、社会構造に組み込まれた差別や格差全体に対する抗議であるとか、過激な反ファシスト活動家たちが暴力的な行動を引き起こしているとか、いや、じつは暴力行為の引き金を引いているのは彼らを装った白人至上主義団体だ、とか、さまざまな議論が行われているが、すでに詳しく報じている媒体も多いので、ここでは割愛する。
アフリカ系アメリカ人のみならず、多くの人種や国籍の人々が、SNS上で#BlackLivesMatterというハッシュタグを使い、軽視される黒人の命を大切にするよう訴えていることも周知の通りだ。
この 'Black Lives Matter'(BLM)は、2013年に黒人少年が白人自警団員に射殺された事件をきっかけに生まれスローガンで、その後も同様の事件が起こるたびに、'BLM'ムーブメントは大きなうねりを巻き起こしており、インドでも、多くの著名人がBLMへの共感を表明している。
それにともなってソーシャルメディア上で目につくようになってきたのが、#DalitLivesMatterというハッシュタグだ。
ダリット(Dalit. ダリトとも)とは、南アジアでカースト制度の最下層の抑圧された人々のこと。
動物の死体の処理や、皮革工芸、清掃、洗濯など「汚れ」を扱う仕事を生業としてきた彼らの存在は、カースト制度の枠外に位置付けられた「アウトカースト」と呼ばれたり、触れたり視界に入ったりするだけで汚れるとされて'Untouchable'(「不可触民」と訳される)と呼ばれるなど、激しい差別の対象となってきた。
インドの憲法はカースト制度もそれに基づく差別も禁じているが、今日に至るまで、苛烈なカースト差別に起因する殺人や暴力はあとを絶たない。
ソーシャルメディア上では、#DalitLivesMatterのハッシュタグとともに、実際に起きたダリット迫害事件のニュースがシェアされたり、「インドのセレブリティーはBLMに対する共感を表明するなら、自国内の差別問題にも真摯に取り組むべきだ」という痛烈な意見が述べられたり、さまざまな情報発信が行われている。
ダリットに対する差別反対と地位向上を訴えているオディシャ州出身のラッパーのSumeet Blueも、#DalitLivesMatterを使用している一人だ。
彼はソーシャルメディアを通じて、ネパールのダリットが石を投げられて殺されたことや、貧しさゆえにオンライン授業にアクセスできなかったケーララ州のダリットの少女が自ら命を絶ったことなど、厳しい現実を発信し続けている。
彼のリリックのテーマもまたダリットの地位向上であり、この"Blue Suit Man"では、「ダリット解放運動の父」アンベードカル博士をラップで讃えている。
アンベードカルはダリットとして様々な差別を受けながら、猛勉強をして大学に進み、ヴァドーダラー君主による奨学金を得てコロンビア大学に留学し、のちにインド憲法を起草して初代法務大臣も務めた人物である。
晩年、彼はヒンドゥー教こそがカースト制度の根源であるという考えから、50万人もの同朋とともに仏教に改宗し、ダリット解放とインドにおける仏教復興運動の両方で大きな役割を果たした。
彼は青いスーツを好んで着用していたことで知られ、今日では青はダリット解放運動を象徴する色となっている。(これとは別に、青は空や海のように境界がないことを表しているという説も聞いたことがある)
インド各地に目を向けると、ヒップホップとタミルの伝統音楽を融合したCasteless Collectiveや、自らの出自である皮革工芸カーストの名を冠したチャマール・ポップ(Chamar Pop)を歌う女性シンガーGinni Mahiなどが、音楽を通して反カーストやダリットの地位向上のためのメッセージを発信しつづけている。
ダリット以外のインドの人々にも、BLMムーブメントは影響を与えている。
#KashmiriLivesMatterは、長く独立運動や反政府運動が続き、それに対する苛烈な弾圧で罪のない人々の自由や命が奪われ続けているカシミールへの共感を表明するハッシュタグだ。
カシミール出身のラッパーAhmerは、自由を求める政治的/社会的な主張を発信しているレゲエアーティストのDelhi Sultanateとコラボレーションした新曲"Zor"を6月9日にリリースした。
(ただし、彼らが#KashmiriLivesMatterのハッシュタグを使用していることは確認できなかった。彼の曲を聴けば、同じテーマを扱っていることは分かるのだが)。
カシミール地方は、昨年、中央政府によって自治権を持った州から直轄領へと変更になったばかりであり、その反対運動を抑えるために、外出禁止やインターネットの遮断といった事実上の戒厳令下に置かれていた。
こうした状況のもとで、圧制に反発し、カシミール人を鼓舞する楽曲をリリースするということは、かなり勇気のいる行動だと思うが、なんとしても訴えたい現実があるのだろう。
カシミールのラッパーによる意見表明は今回が初めてではない。
同じくカシミール出身のラッパーMC Kashは、2010年に、抑圧され続けるカシミールの現状に抗議する"I Protest"をリリースしている。
この曲のタイトルは、大きな共感を呼び起こし、ハッシュタグ'#IProtest'として、インド社会を中心に広く拡散し、カシミールの住民への弾圧に反対する人々の合い言葉となった。
Delhi SultanateやMC Kashについては、以前こちらの記事で詳しく紹介している。
#DalitLivesMatterや#KashmiriLivesMatterは、BLMに比べれば、大きな盛り上がりになっているとは言えないかも知れないが、社会構造の中で抑圧された人々をめぐる運動が国境を超えてインスパイアされているということを示す象徴的な事例と言うことができるだろう。
マイノリティの権利獲得/地位向上のための運動としての歴史が長いアフリカ系アメリカ人のムーブメントは、訴求力の高い彼らの音楽とともに、様々なマイノリティ運動に活力を与えているのだ。
もうひとつ事例を紹介したい。
2017年に米ラッパーのJoyner Lucasが発表した"I'm not Racist"は、今回のBLMムーブメントとともに再び注目されている楽曲だが、白人による無理解に基づく偏見と、それに対する黒人からの言い分というこの曲の構成を、インドに置き換えて「リメイク」したラッパーがいる。
まずは、オリジナル版を見てみよう。
オディシャ州出身の日印ハーフのラッパー、Big Dealは、その東アジア人的な見た目を理由に幼少期に差別を受けた経験を持っており、そのことから、彼によく似た外見を持ち、マイノリティーとして差別の対象となっているインド北東部の人々の心情に寄り添った楽曲を発表している。
インドのメインランド(アーリア系やドラヴィダ系の人種がマジョリティであるインド主要部)の人々から「お前は本当にインド人なのか?」と蔑まれるインド北東部出身者の状況をラップした"Are You Indian"がその曲である。
さまざまな人々がリップシンクしているが、"I'm Not Racist"同様に、実際は全てのヴァースをBig Dealがラップしている。
この曲の前半では、メインランドの典型的インド人から、北東部出身者の見た目や習慣に関する偏見に基づいた差別的な非難が繰り広げられる。
後半のヴァースでは、それに対して、北東部出身者から、彼らも同じインド人であること、彼らの中にも多様性があるということ、マイノリティーとして抑圧されてきたこと、差別的な考えはインド独立前のイギリス人と同様で恥ずべきものであることなどという反論が行われる。
リリックの詳細はこちらの記事に詳しく訳してあるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
Big Dealはつい先日も、コロナウイルスの発生源とされる中国人に似た見た目の北東部出身者がコロナ呼ばわりされることに抗議する曲をリリースしており、さながら北東部の人々の心情をラップで代弁するスポークスマンのような役割を果たしている。
#DalitLivesMatterや#KashmiriLivesMatter(インドに限ったものではないが、#MuslimLivesMatterというものもある)は、#BlackLivesMatterが黒人の命だけを特別扱いするものだとして起こった#AllLivesMatter(黒人の置かれた状況を無視した話題のすり替えであり、マジョリティである白人の特権性に無自覚な表現だと批判された)とは全く異なるものだ。
インドにおけるこうしたムーブメントは、BLMのスローガンである'None of us are free, until all of us are free'をローカライズしたものだと言うことができるろう。
オリジナルのBLMをリスペクト、サポートするだけではなく、インドの社会問題にも想いを寄せるとともに、日本を含めた世界中に様々な形で存在している差別や偏見についても、改めて考えるきっかけとしたい。
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goshimasayama18 at 19:42|Permalink│Comments(0)
2019年01月30日
ケーララのブラックメタルバンド"Willuwandi"が叫ぶ「アンチ・カースト」!
以前特集したケーララの音楽シーンのなかで、また面白いバンドを見つけた。
2009年に結成された同州の都市コチのブラックメタルバンド"Willuwandi"だ。
前にも説明したが、ブラックメタルはヘヴィーメタルをさらに過激にした音楽だ。
ヴォーカルはもはや音程を放棄してひたすら絶叫し、ドラムはブラストビートと呼ばれるやけっぱち的な高速のリズムを叩き、ギターはそれにあわせて不穏なメロディーを奏でるという、大衆性皆無なヘヴィーメタル界の極北ともいえるジャンルだ。
音楽性よりもさらに特異なのはその思想で、ブラックメタルはヘヴィーメタルが演出として取り入れていたオカルトや悪魔崇拝に本気 (マジ)で傾倒することを趣旨とし、なかには教会に放火したり殺人を犯すようなとんでもない連中もいるのだ。
最近はブラックメタラーによる凶悪犯罪のニュースはあまり聞かなくなったし、さすがに馬鹿らしくなったのか、悪魔崇拝をテーマにしたバンドも減っているようだが、今でも多くのブラックメタルミュージシャンが反キリスト教、反宗教のスタンスを表明している。
今回紹介するこのWilluwandi、歴史的にクリスチャンの多いケーララ州でアンチキリスト的な音楽とはおだやかでないが、彼らはいったいどんなことをアピールしているバンドなのか。
インドのなかでは教育がゆきとどき、貧富の差も少ないとされるケーララで、彼らはいったい何を主張しているのだろうか。
これがそのWilluwandiのアーティスト写真。
禍々しくも馬鹿馬鹿しい、ブラックメタル特有の白塗りのメイクは「コープスペイント」と呼ばれ、死体を模したものとされる。
どうして死体を模したメイクで反宗教を歌わなければいけないのかよく分からないかもしれないが、とにかくブラックメタルとはそういうものなのだ。
彼らの音楽性も正統派のブラックメタルのそれだ。
ブラックメタルをよく知らない人からしたら、何が正統派なのか分からないかもしれないが、まあこういうのが正統派なわけである。
(どうでもいいが、テレキャスターでブラックメタルを演奏するバンドを見たのは初めてかもしれない)
彼らのバンド名のWilluwandiとは、ケーララ州の言語マラヤーラム語で「牛車」を意味する言葉だ。
なぜブラックメタルバンドの名前が「牛車」なのかというと、それには少し長い説明が必要となる。
まず最初に「カースト制度」から話を始めることになるのだが、この浄・不浄の概念をもとにした身分制度は、インドの歴史の中で、いつ始まったか分からないほどの大昔から続いてきた。
司祭階級であったブラーミン(バラモン)を最も清浄な存在とし、以下、武士階級(クシャトリヤ)、商人階級(ヴァイシャ)、職人階級(シュードラ)と続くこの4つの階級を、ヴァルナ(四姓制度)と呼ぶ。
この4つの身分の下に、さらに最下層の身分として「アウトカースト」や「不可触民(英語でUntouchable)」と呼ばれる被差別階級が存在している。
汚れを扱うとされる仕事(屠畜、皮革加工、掃除夫、洗濯屋など)を生業としていた人々などがこれにあたり、今日では「抑圧された者」を意味する「ダリット(Dalit)」という名称で呼ばれることが多い。
彼らは共同体の井戸の使用や寺院への立ち入りを禁じられ、カーストヒンドゥーと同じ場所にいることや、ブラーミンの視界に入ることすら禁じられるなどの激しい差別を受け、虐げられてきた。
もちろん現在のインドではこうした差別は憲法で禁止されており、今日では彼らは法のもとで指定カースト(Scheduled Caste)と位置づけられ、進学や就職で一定の優遇枠を維持されるなど保護の対象となっている。
じつは、Willuwandiは、メンバー全員がこのダリット出身のバンド。
そう、彼らは、あの過激な音楽で、この伝統的な身分制度や、その基盤となった宗教に基づく社会制度への反対を訴えているというわけなのだ。
先ほど紹介した"Black God"も、曲の内容はダリットから身を起こし、コロンビア大学への留学を経てインドの憲法を起草した、初代法務大臣にまで登りつめた英雄的人物ビームラーオ・アンベードカル博士を讃えるものだという。
オカルティックなメイクをして悪魔主義的な音楽を演奏してるが、彼らはRage Against The Machineに影響を受けた、極めて真面目な社会派バンドなのである。
せっかくの社会派の歌詞も、あんな歌い方じゃあ何を言っているか分からないじゃないか、という至極まっとうな意見もあるかもしれないが、それはひとまず置いておく。
バンドの創立者でギター&ヴォーカルのSethuは語る。
「インドは俺たちの土地でもある。俺たちはそれを取り戻したいんだ。俺たちの最大の夢は、NagpurのDeeksha Bhoomiで演奏することさ」
カースト制度による差別の由来は諸説あるが、インドにもともと住んでいた色黒のドラヴィダ人をペルシア方面から侵入した色白のアーリア人が支配する過程で生み出されたものだという説がある。
彼らが代弁する「抑圧されたもの」はダリットに限らない。
「俺たちのバンドは闘争そのものだ。ダリットや他のマイノリティー、最近じゃムスリムたちもひどい差別を受けている」
とSethuは語る。
今回紹介した曲からも分かる通り、彼らはインドに蔓延するヒンドゥー至上主義的な空気に異議を唱えているのだ。
とはいえ、彼らは信仰としてのイスラム教や仏教に肩入れしているというわけではない。
「俺たちの音楽はどんな宗教とも関係ない。人々に、自分の神は自分自身なんだと伝えることを目的にしているんだ」とは、宗教を否定するブラックメタルミュージシャンらしい言葉だ。
それにしても、この思想も主義主張も、極めてノイジーな演奏と絶叫ではなかなか社会に伝わらないのではないかと心配になってしまうが(余計なお世話か)、彼らの活動を見ていると「誰が、どんなことを、どんな方法で主張しても構わない」という表現の自由の本質を感じさせられるのもまた確かだ。
それに、長年にわたり被抑圧者として虐げられてきた彼らの絶望や憤りは、このブラックメタルというジャンルこそふさわしいようにも感じる。
今回紹介したWilluwandiは、これまでに紹介してきたアーティストのなかでも極めてマイナーかつローカルで異色な存在だが、富裕層やエリートが多いインドのインディーミュージックシーンで、抑圧された者たちの怒りや苦痛を代弁するという、非常に「ロック的に正しい」姿勢に感銘を受け、紹介してみた次第です。
最後はこの言葉で締めくくりたい。
Jai Bhim!
(「ビームラーオ・アンベードカル万歳!」といった意味で、インドの平等主義者のかけ声として使われる言葉)
参考サイト:
Round Table India 'Willuwandi Band-A Musical Revolt From Kerala Against Brahminism'
Homegrown 'Meet The Black Metal Band From Kerala Fighting Against India's Casteism'
Financial Express: 'A different tune'
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
2009年に結成された同州の都市コチのブラックメタルバンド"Willuwandi"だ。
前にも説明したが、ブラックメタルはヘヴィーメタルをさらに過激にした音楽だ。
ヴォーカルはもはや音程を放棄してひたすら絶叫し、ドラムはブラストビートと呼ばれるやけっぱち的な高速のリズムを叩き、ギターはそれにあわせて不穏なメロディーを奏でるという、大衆性皆無なヘヴィーメタル界の極北ともいえるジャンルだ。
音楽性よりもさらに特異なのはその思想で、ブラックメタルはヘヴィーメタルが演出として取り入れていたオカルトや悪魔崇拝に本気 (マジ)で傾倒することを趣旨とし、なかには教会に放火したり殺人を犯すようなとんでもない連中もいるのだ。
最近はブラックメタラーによる凶悪犯罪のニュースはあまり聞かなくなったし、さすがに馬鹿らしくなったのか、悪魔崇拝をテーマにしたバンドも減っているようだが、今でも多くのブラックメタルミュージシャンが反キリスト教、反宗教のスタンスを表明している。
今回紹介するこのWilluwandi、歴史的にクリスチャンの多いケーララ州でアンチキリスト的な音楽とはおだやかでないが、彼らはいったいどんなことをアピールしているバンドなのか。
インドのなかでは教育がゆきとどき、貧富の差も少ないとされるケーララで、彼らはいったい何を主張しているのだろうか。
これがそのWilluwandiのアーティスト写真。
禍々しくも馬鹿馬鹿しい、ブラックメタル特有の白塗りのメイクは「コープスペイント」と呼ばれ、死体を模したものとされる。
どうして死体を模したメイクで反宗教を歌わなければいけないのかよく分からないかもしれないが、とにかくブラックメタルとはそういうものなのだ。
彼らの音楽性も正統派のブラックメタルのそれだ。
ブラックメタルをよく知らない人からしたら、何が正統派なのか分からないかもしれないが、まあこういうのが正統派なわけである。
(どうでもいいが、テレキャスターでブラックメタルを演奏するバンドを見たのは初めてかもしれない)
彼らのバンド名のWilluwandiとは、ケーララ州の言語マラヤーラム語で「牛車」を意味する言葉だ。
なぜブラックメタルバンドの名前が「牛車」なのかというと、それには少し長い説明が必要となる。
まず最初に「カースト制度」から話を始めることになるのだが、この浄・不浄の概念をもとにした身分制度は、インドの歴史の中で、いつ始まったか分からないほどの大昔から続いてきた。
司祭階級であったブラーミン(バラモン)を最も清浄な存在とし、以下、武士階級(クシャトリヤ)、商人階級(ヴァイシャ)、職人階級(シュードラ)と続くこの4つの階級を、ヴァルナ(四姓制度)と呼ぶ。
この4つの身分の下に、さらに最下層の身分として「アウトカースト」や「不可触民(英語でUntouchable)」と呼ばれる被差別階級が存在している。
汚れを扱うとされる仕事(屠畜、皮革加工、掃除夫、洗濯屋など)を生業としていた人々などがこれにあたり、今日では「抑圧された者」を意味する「ダリット(Dalit)」という名称で呼ばれることが多い。
彼らは共同体の井戸の使用や寺院への立ち入りを禁じられ、カーストヒンドゥーと同じ場所にいることや、ブラーミンの視界に入ることすら禁じられるなどの激しい差別を受け、虐げられてきた。
もちろん現在のインドではこうした差別は憲法で禁止されており、今日では彼らは法のもとで指定カースト(Scheduled Caste)と位置づけられ、進学や就職で一定の優遇枠を維持されるなど保護の対象となっている。
だが、長年の人々の心に染み付いた汚れの意識、差別意識は簡単にはぬぐえず、今なお差別感情に基づく暴力や殺人事件、嫌がらせの犠牲となるダリットは少なくない。
指定カーストとされる人々は、実にインドの人口の16.6%にものぼる。
指定カーストとされる人々は、実にインドの人口の16.6%にものぼる。
じつは、Willuwandiは、メンバー全員がこのダリット出身のバンド。
そう、彼らは、あの過激な音楽で、この伝統的な身分制度や、その基盤となった宗教に基づく社会制度への反対を訴えているというわけなのだ。
先ほど紹介した"Black God"も、曲の内容はダリットから身を起こし、コロンビア大学への留学を経てインドの憲法を起草した、初代法務大臣にまで登りつめた英雄的人物ビームラーオ・アンベードカル博士を讃えるものだという。
オカルティックなメイクをして悪魔主義的な音楽を演奏してるが、彼らはRage Against The Machineに影響を受けた、極めて真面目な社会派バンドなのである。
せっかくの社会派の歌詞も、あんな歌い方じゃあ何を言っているか分からないじゃないか、という至極まっとうな意見もあるかもしれないが、それはひとまず置いておく。
バンドの創立者でギター&ヴォーカルのSethuは語る。
「インドは俺たちの土地でもある。俺たちはそれを取り戻したいんだ。俺たちの最大の夢は、NagpurのDeeksha Bhoomiで演奏することさ」
カースト制度による差別の由来は諸説あるが、インドにもともと住んでいた色黒のドラヴィダ人をペルシア方面から侵入した色白のアーリア人が支配する過程で生み出されたものだという説がある。
(そのせいか、今もインドでは色白こそ美の条件とされ、ご存知のように美男美女の映画俳優にはかなり色白な人が多い)
「俺たちの土地を取り戻す」という言葉や、"Black God"の冒頭に出てきた"Real History of India is the war between Aryans and Dravids"というフレーズは、このことを念頭においているものと思われる。
Deeksha Bhoomiとは、アンベードカルがヒンドゥーの因習であるカーストのくびきから脱却すべく、60万人のダリットたちと仏教へ集団改修した聖地のこと。
こんな音楽を演奏されちゃあアンベードカルもさぞびっくりすると思うが、彼らはいたって真面目なのだ。
彼らのバンド名、Willuwandi(牛車)は地元ケララのダリット解放の英雄、Ayyakaliへのオマージュとしてつけられたものだ。
かつて、彼らの土地では牛車を使うことができるのは豊かなカースト・ヒンドゥーに限られ、ダリットは彼らが乗る牛車が来ると道を譲らなければならなかった。
その状況に抗議すべく、Ayyakaliはダリットであるにも関わらず、自ら牛車を手に入れて市場などへ乗りつけることで、差別への反対を表明した。
彼の勇気ある行動のおかげで、20世紀初めごろまでには、地元のほとんどの道をダリットも使うことができるようになったという。
このWilluwandi(牛車)こそが高位カーストの無慈悲さへの抗議の象徴であり、社会運動を推進させるものとして、彼らは自らのバンドに命名しているのだ。
「俺たちの土地を取り戻す」という言葉や、"Black God"の冒頭に出てきた"Real History of India is the war between Aryans and Dravids"というフレーズは、このことを念頭においているものと思われる。
Deeksha Bhoomiとは、アンベードカルがヒンドゥーの因習であるカーストのくびきから脱却すべく、60万人のダリットたちと仏教へ集団改修した聖地のこと。
こんな音楽を演奏されちゃあアンベードカルもさぞびっくりすると思うが、彼らはいたって真面目なのだ。
彼らのバンド名、Willuwandi(牛車)は地元ケララのダリット解放の英雄、Ayyakaliへのオマージュとしてつけられたものだ。
かつて、彼らの土地では牛車を使うことができるのは豊かなカースト・ヒンドゥーに限られ、ダリットは彼らが乗る牛車が来ると道を譲らなければならなかった。
その状況に抗議すべく、Ayyakaliはダリットであるにも関わらず、自ら牛車を手に入れて市場などへ乗りつけることで、差別への反対を表明した。
彼の勇気ある行動のおかげで、20世紀初めごろまでには、地元のほとんどの道をダリットも使うことができるようになったという。
このWilluwandi(牛車)こそが高位カーストの無慈悲さへの抗議の象徴であり、社会運動を推進させるものとして、彼らは自らのバンドに命名しているのだ。
彼らのバンドのロゴには、'wagon of justice, freedom and enlightenment'(正義と自由と啓蒙の乗り物)とある。
Willuwandiの楽曲は、全てが差別や迫害に対する強烈なプロテストだ。
激しいアジテーションのあとに演奏されるこの曲"Eat Me Brother"はデリーの名門大学JNU(Jawaharlal Nehru University)で、ヒンドゥー原理主義団体に所属する学生たちとの口論の後、行方不明となったダリットの学生のことを歌ったもの。
Willuwandiの楽曲は、全てが差別や迫害に対する強烈なプロテストだ。
激しいアジテーションのあとに演奏されるこの曲"Eat Me Brother"はデリーの名門大学JNU(Jawaharlal Nehru University)で、ヒンドゥー原理主義団体に所属する学生たちとの口論の後、行方不明となったダリットの学生のことを歌ったもの。
この"From Shadows To Light"は、ハイデラバード大学の研究者として"Caste Is Not A Rumour"を著したのち、やはり同じヒンドゥー原理主義団体からの抗議を受け、自殺したダリットに捧げたものだ。
どこかの公民館のようなところで演奏する映像はあまりに粗く、もともとまっとうな音楽の形態から大きく逸脱した彼らの演奏を伝えるには不十分なものだが、その活動の雰囲気を味わうことは十分にできる。
過激なブラックメタルのライブ映像にいきなり子どもが出てきてびっくりするが、これも彼らの音楽が「既存の倫理や社会に反抗する若者たちのためだけの音楽」ではなく、「コミュニティーの怒りを代弁する音楽」であることの証と見ることができるだろう。
どこかの公民館のようなところで演奏する映像はあまりに粗く、もともとまっとうな音楽の形態から大きく逸脱した彼らの演奏を伝えるには不十分なものだが、その活動の雰囲気を味わうことは十分にできる。
過激なブラックメタルのライブ映像にいきなり子どもが出てきてびっくりするが、これも彼らの音楽が「既存の倫理や社会に反抗する若者たちのためだけの音楽」ではなく、「コミュニティーの怒りを代弁する音楽」であることの証と見ることができるだろう。
彼らが代弁する「抑圧されたもの」はダリットに限らない。
「俺たちのバンドは闘争そのものだ。ダリットや他のマイノリティー、最近じゃムスリムたちもひどい差別を受けている」
とSethuは語る。
今回紹介した曲からも分かる通り、彼らはインドに蔓延するヒンドゥー至上主義的な空気に異議を唱えているのだ。
とはいえ、彼らは信仰としてのイスラム教や仏教に肩入れしているというわけではない。
「俺たちの音楽はどんな宗教とも関係ない。人々に、自分の神は自分自身なんだと伝えることを目的にしているんだ」とは、宗教を否定するブラックメタルミュージシャンらしい言葉だ。
それにしても、この思想も主義主張も、極めてノイジーな演奏と絶叫ではなかなか社会に伝わらないのではないかと心配になってしまうが(余計なお世話か)、彼らの活動を見ていると「誰が、どんなことを、どんな方法で主張しても構わない」という表現の自由の本質を感じさせられるのもまた確かだ。
それに、長年にわたり被抑圧者として虐げられてきた彼らの絶望や憤りは、このブラックメタルというジャンルこそふさわしいようにも感じる。
今回紹介したWilluwandiは、これまでに紹介してきたアーティストのなかでも極めてマイナーかつローカルで異色な存在だが、富裕層やエリートが多いインドのインディーミュージックシーンで、抑圧された者たちの怒りや苦痛を代弁するという、非常に「ロック的に正しい」姿勢に感銘を受け、紹介してみた次第です。
最後はこの言葉で締めくくりたい。
Jai Bhim!
(「ビームラーオ・アンベードカル万歳!」といった意味で、インドの平等主義者のかけ声として使われる言葉)
参考サイト:
Round Table India 'Willuwandi Band-A Musical Revolt From Kerala Against Brahminism'
Homegrown 'Meet The Black Metal Band From Kerala Fighting Against India's Casteism'
Financial Express: 'A different tune'
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goshimasayama18 at 17:57|Permalink│Comments(0)