エンドロールのつづき

2023年01月21日

『エンドロールのつづき』パン・ナリン監督インタビュー 光の根っこにあるもの

今回は、前回紹介した『エンドロールのつづき』のパン・ナリン監督のインタビューをお届けする。
インタビューという性格上、一部、作品の内容に触れているところがあるので、ネタバレ厳禁派で未見の方は鑑賞後に読むことをおすすめするが、いずれにしても、この魅力的な映画の背景にあるものが分かる貴重な内容であることは間違いない。

それではさっそく、パン・ナリン監督が描いた、「映画の光」の光源を探ってみよう。

main_endroll



この作品のなかで、映画を「光」として描いていることがとても印象的でした。そこにどのような意味を込めたのでしょうか?

「私は映像作家として成長してゆくなかで、光と時間という2つの要素が、物語を伝える上でとても大事だと気づきました。
そのときに、私の子供時代や、住んでいた村のとなり街の映画館で映写技師をしていた友人の思い出をもとに、何かできるかもしれないと考えたのです。
この『光と時間』という発想はとても大事なことだと思ったので、私は主人公の少年に、時間を意味するサマイという名前をつけました。
彼はストーリーを語るための『光』に夢中になります。
私の考えでは、光と時間こそが、映画をマジカルにするのです。
さまざまな映像技術がありますが、35ミリフィルム(1909年に定められた映画フィルムの国際規格)、サイレント、セルロイドフィルム、デジタルと時代が変わっても、そこにはいつも光と時間がありました。
伝える方法が変わって、ヴァーチャル・リアリティーや3Dや、もしかしてホログラムになったとしても、本質は常に光と時間なのです。
これは『映画を祝福する映画』です。
でもこのメインテーマを、前面に押し出すのではなく、もっとあたたかみがあって、心がこもった方法で、直接的にではなく、哲学的かつ詩的に光と時間を表現しようとしました。」



自然の緑や、チャイ売りの小屋の青、カラフルな衣装など、たくさんの色が印象に残っています。
ラストのシーンでも描いているように、優れた映画や映画監督には印象的な「色」があると思いますが、色彩の面でとくに意識したことはありますか?

「そうですね、この映画の色彩については、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』に少し似ています。
『ボレロ』は、一つの楽器から始まって、曲が進むにつれて、打楽器や管楽器が加わってクレッシェンドしてゆきます。
有機的で王道の話の進め方ですね。 
映画の序盤に出てくる色は、サマイが暮らす世界、すなわちお母さんのスパイスや、遊びに使っている色ガラスや、そして彼の周囲にある自然の緑だけでした。
そして彼は『光』(映画のことと思われる)を見つけます。その色は、彼の夢の一部となり、彼は映画に夢中になります。
物語がクライマックスに向かうにつれて、彼はギャラクシー座で多くの映画を見てゆきますが、"Jodhaa Akbar"(劇中でサマイが見る2008年公開のヒンディー語史劇映画)のような映画はとてもカラフルです。
ご存じのようにインドの映画はとてもカラフルなのです。
映画の最後に差し掛かると、そうした色は祝福へと変わります。
あらゆる色を、キューブリックやアントニオーニといった巨匠たちと調和させようとしたのです。」

 
実際に監督は幼い頃に駅でお父さんとチャイを売っていたそうですが、この映画はリアルに少年時代を描いたものと考えて良いのでしょうか? Googleで監督が働いていたというキジャディヤ・ジャンクション(Khijadiya Junction)駅を調べてみたところ、映画に出てきたチャララ(Chalala)駅にそっくりで驚きました。

「その通り。なるべくリアルに近づけました(笑)。
私の父は、実際にキジャディヤ・ジャンクション駅でチャイ屋をやっていました。今では電化された新しい広軌の鉄道が走るようになって、その駅はもう使われていません。
そこに住んでいた人たちもほとんどが別の場所に引っ越して、数軒残っている家も廃墟のようになってしまいました。
だから、私はそんなに遠くない場所で、撮影のために別のよく似た駅を見つけなければなりませんでした。
村の中心じゃなくて、野原の真ん中にぽつんと駅だけがあるような場所です。
何か所かロケーションを探してみたのですが、チャララ駅はキジャディヤ・ジャンクションと同じ路線にあって、走っている車両も、機関車以外はまったく同じような感じだったのです。
父は結局、2010年頃までチャイ屋をやっていました。
その頃は私のきょうだいの生活も安定していたので、『もうのんびりしたら?』と勧めたのですが、父は『友達もいるし、これが自分の世界で、この仕事が好きだから』と言っていました。
お金のためじゃなくて、それが父の生き方だったんです。」


映画のように、実際に野生のライオンが出てくるような場所だったのでしょうか?


「(笑)そこはインドライオンの最後の生息地であるギル国立公園(野生生物保護区。Gir National Park)の中で、ライオンだけじゃなくてヒョウもチーターも住んでいて、映画に出てきた鳥もリスもいます。
撮影中に3、4回くらい、ライオンが駅にやってくることがありました。
それも1匹じゃなくて、10匹くらい来るんです。
駅長が言うには、電車が出ていくと人もほとんどいなくなるし、線路の上には草が生えていないから虫がいなくて、彼らのお気に入りの場所なんだそうです。
線路の上にいる野生のライオンを見るとは思わなかったですね(笑)」


映写技師のファザルのキャラクターについて教えてください。監督が子どもの頃に、実際に彼のような人がいたのでしょうか?

「私の人生にもファザルがいました。
彼の名前はモハメドと言います。預言者モハメドみたいに(笑)。
彼と出会ったのは、本当に映画と同じような感じでした。弁当を交換する代わりに、タダで映画を見せてくれたんです。
映画の中に出てくるいくつかのセリフは、実際に彼が言っていたものです。
彼はいつも『未来はストーリーを伝える人のものだ』と言っていました。
『世界を見てみろ。政治家は嘘をついて俺たちに投票させる。テレビの広告屋は俺たちに商品を買わせる』とね。
そういう商品を買って、持っていたりすると、『そんなものはクソだよ』なんて言っていました。
彼は『政治家や金持ちや広告屋みたいな嘘つきが人生をメチャクチャにして、手に負えないものにしてしまう』と言っていましたが、広い視点で見れば、これは今でも真実ですよね。
彼は14歳からずっと、朝の9時から夜中の1時まで、映写室で過ごしていたんです。
そこは彼のオアシスでした。
そこで働いて、楽しんで、スピリチュアルな時間も楽しい時間も過ごしていました。
彼がそこで持っていなかったのは、おいしい食べ物だけでした。料理上手だった母の料理があれば、彼は大満足でしたよ。
私たちはそんなふうに友達になったんです。」


サマイが通うギャラクシー座のオーナーが「近頃うちでやるような映画じゃ、大金を稼ぐのはとても無理だ」というセリフがありましたが、ギャラクシー座は古い映画を上映する、いわゆる名画座のような場所という設定なのでしょうか?

「新作を上映する映画館でした。
でも、当時のインドでは、6ヶ月前の映画をずっと上映しているなんてこともありました。インドでは、ロングラン上映のことを、25週続くとシルバージュビリー、50週続くとゴールデンジュビリー、75週続くとプラチナムジュビリーと呼ぶんです(笑)。そんなふうに、ずっと上映され続けている映画もありました。
朝方や日曜日には、それ以外の旧作が上映されることもありましたね。
映画に登場するギャラクシー座は、本当に私が初めて映画を見た場所なんです。
もう取り壊されてしまったと思い込んでいたのですが、撮影場所を探していたときに、まだ建物が残っていることを知りました。映画館としては25年前に役割を終えて、今ではサトウキビの倉庫として使われていました。
サトウキビをどかしてみると、木の座席も、座席番号も残ったままだったので、そこで撮影することにしました。
ここ以上にふさわしい場所はないですから。」



映写機が溶かされて、あるものになるシーンがありますね。
これはグローバリゼーションを表しているのでしょうか?
(実際は、映画の内容に沿って具体的に質問したが、未見の方もいると思うので、ここでは伏せる)

「ええ。グローバリゼーションと同時に、過剰消費に至る物質主義の欲望を表しています。
世界中でのあらゆる人たちが必要とされる以上のものを作り出している一方で、リサイクルをしよう、というジレンマもあります。素材を再び活かすことは、地球環境のためにも良いことですから。
インドではリサイクルはとても大きなビジネスになっています。新聞、プラスチック、金属などあらゆるものがリサイクルされていて、フィルムや映写機もそこから逃れることはできません。
銀塩フィルムの時代には、フィルムから銀がリサイクルされていました。
技術が変わって銀塩が使われなくなってからは、バングルやブレスレットが作られるようになったんです。


フィルムが姿を変えるシーンは象徴的なシーンかと思ったのですが、実際にフィルムからバングルが作られていたのですね。

「ええ。2012年ごろまで、実際にフィルムからバングルが作られていました。
知っての通り、インドでは年間2,000本くらいの映画が制作されます。ヒット作ともなれば3,000ものスクリーンで上映されるので、3,000本のフィルムが作られるというわけです。
でもムンバイみたいな不動産価格が高い街では、(保管にも費用がかかるので)誰もそれを保存しません。
リサイクルがとても盛んなので、1、2本のネガを残して、上映が終わったらフィルムはスクラップ業者に売られてしまいます。2013年ごろからデジタル化されてゆくわけですが。
映画に出てきたバングル工場は本物の工場で、実際に2012年ごろまで材料としてフィルムが使われていました。
もちろん、映画の中では詩的なメタファーとして扱ったのですが」


インドの映画は日本でもますます人気になってきていますが、最近のエンターテインメント映画ではナショナリズム的な傾向が強まっているという印象を受けることがあります。一方で、この映画では、むしろ映画を通して世代や信仰や文化を超えて人々が繋がれることが描かれていると感じました。
最近のインドの映画界について、どのようにお考えですか?

「今のインドの映画界は、映画監督でありストーリーテラーである私にとって、とても悲しい状況だと思っています。
あらゆる制作会社が、お金を稼ぐことばかりを考えています。
この国の政治的な空気が右翼的になり、右翼的な政府や政策が人気になると、政治家だけでなく、映画制作者がそれを取り上げるのです。
彼らは、愛国的な映画やプロパガンダ映画など、極めて右翼的な映画を作ることがあります。とくに、ここ2、3年はとても多くなっています。
悲しいことに、インドのような国では、エンターテインメントが現実社会に紛れ込んでしまっていて、そういった映画を現実だと思ってしまう人もいます。
西洋やアメリカとはまったく違うんです。
教育を受けた人であれば、映画を見て分析して『オーケー。これは架空の物語だね』と理解できます。
ドナルド・トランプであろうと、誰であろうと。
ところがインドでは、映画の中で起きたことを現実だと思いかねない人がとても多いんです。
これは本当に危険なことです。
ほとんどの映画制作者は責任を取ろうとしません。
ストーリーテラーであれば、それが真実であろうとエンターテイメントであろうと、なんらかの責任を取るべきです。
悲しいことに、こうした映画は成功していて、多くの興行収入をもたらしています。
それで、多くの制作会社がそういった映画を作るようになっています。
私は『悪魔は金儲けがうまい(devil makes good money)』ということを知っています。
つまり、彼らは、人々がヒンドゥー教に関するもの(ヒンドゥー至上主義/原理主義のことだろう)とか、インドがいかに偉大な国かとか、イギリスや他の圧制者といかに戦ったかとか、そういった映画が見たいだろうと計算しているわけです。
こういったテーマが常に取り上げられています。
個人的には、こうした現状はまったくいいとは思えませんね。」


パン・ナリン監督
2023年1月17日 松竹(株)会議室にて


最後の質問は、少しデリケートな話題かと思いつつも率直に聞いてみたのだが、映画作家としての戒めを躊躇なく語ってくれた。
この矜持は、幼い日の監督がギャラクシー座でファザルことモハメドから聞いた言葉から繋がっているように感じられて、パン・ナリン監督が成長したサマイに重なって見えた。

監督の話を聞いて驚いたのは、寓話的な表現に思えていたシーンや設定のかなりの部分が、監督の実体験に基づいているということ。
芸術を「個人的な体験を他者の感情を喚起する普遍的な表現に昇華すること」だと定義するならば、この映画はまさに一流の芸術作品だ。
パン・ナリン監督は、映画の本質を「光と時間」というレベルにまで解体し、自身の経験と組み合わせてこの素晴らしい作品を作り上げた。
『エンドロールのつづき』は、決して小難しい芸術映画でも、映画マニアだけが共感できる作品でもなく、誰もが感動できる傑作である。
映画というものが続く限り存在する「光と時間」への愛情に満ちたこの物語は、ものすごいスピードで世の中が変わってゆく今だからこそ、深く胸に沁みる。



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2023年01月14日

「光としての映画」への感動の讃歌 『エンドロールのつづき』



1月20日に公開になるインド映画『エンドロールのつづき』。
この映画の試写を見せてもらう機会があったのだが、これが本当に素晴らしかった。



これまで一度でも「映画っていいな」と思ったことがある人だったら、絶対に観たほうがいい。
上映前のざわめき、照明が落ちる時の胸の高鳴り、あっという間に感じられる上映時間が過ぎて、再び明かりがついた時の充足感。
映画にはじめて夢中になったときの感覚が蘇って、思わず熱いものが込み上げてきた。
「現代版『ニューシネマパラダイス』」という評判は、まったく誇張ではない。

この映画は、パン・ナリン監督の少年時代を描いた自伝的作品ということになっている。
主人公は、インドの田舎町(っていうか村)に暮らす少年サマイ。
カーストの最上位であるバラモンの家柄だが、サマイの父が騙されて一家は没落。
親子は小さな駅でチャイ売りをして生計を立てている。

ある日、家族と街に出たサマイは、ギャラクシー座という映画館で映画を見る。
固い座席に割れた音響のさびれた映画館だったが、映写機からスクリーンへと伸びる光の束のなかで、サマイは魔法のような時間を体験した。
このときから、彼は映画に夢中になる。
貧しさと厳格な家柄ゆえ、ふたたび映画館に行くことは許されなくても、映画への憧れは止まらない。
劇場の映写技師ファザルと親しくなった彼は、料理自慢の母がサマイのために作る弁当と引き換えに、映写室から映画を見せてもらうようになる。

サマイの映画への思いはどんどん大きくなってゆき、その後もいろいろなことが起きるのだが、ネタバレがいやな方もいると思うのでここでは割愛する。
単純にストーリーだけを見ても起伏に富んだ素晴らしい作品である。
だが、サマイ少年の思いをよそに、田舎町の映画館も、時代の流れと無縁ではいられなかった。
彼に夢を見させてくれた「フィルムと映写機」の時代の終わりが、静かに迫っていた…。

…というのが、『エンドロールの続き』の、まあ見る前に知っていておいて問題のない範囲のあらすじだ。

この映画の魅力は多岐にわたっているのだが、まず言えるのは、全てのシーンの映像が絵葉書になるレベルで美しいということ。
草原の淡い緑、主人公親子が働く駅のチャイ売り小屋や空の青、色鮮やかな衣装、そして映写機から伸びる啓示のような光。
仮に字幕なしで見たとしても(ちなみに手がかりなしのグジャラート語だ)、構図と色彩の美しさだけで十分に楽しめたはずだ。
予告編でもその素晴らしさは伝わると思うが、その柔らかな美しさは、スクリーンでは何倍にも映えて見える。


主人公サマイを演じているのは、3,000人の子どもの中からオーディションで選ばれたというバヴィン・ラバリ君。
バヴィン君は、サマイ同様にグジャラートの田舎で暮らしていた男の子なのだが、この彼の演技がすばらしい。
ラバリ君はこの映画の撮影まで、映画館に行ったことがなかった(!)とのこと。
松岡環さんの解説によると、劇中で上映されているのは90年代から00年代に撮られたヒンディー語映画だそうで、見たことのない作品ばかりだったが、彼の目の輝きを通して、初めて映画に夢中になった時の興奮がリアルに伝わってくる。


パン・ナリン監督は、この映画のなかで一貫して「映画とは光である」というメッセージを伝えている。
もちろん映画は映写機からの光に間違いないのだが、文字通りの意味だけではない。
暗闇の中で遠い場所の物語を見せてくれる映画は、サマイ君だけでなく、誰にとっても希望であり、夢であり、また人と人、文化と文化をつなぐ存在でもある。

パン・ナリン監督のスタイルは、サマイ少年が心躍らせたボリウッド・エンタメ的なものではなく、どちらかというと洋画的なセンスを感じさせるものだ。
インドは現在でも映画が娯楽の王道を担っているという奇跡のような国だが、この国で映画に夢中になる少年を、監督はいかにもインド的な方法では撮らない。

インドの大地の香りと欧米的な様式を混ぜ合わせて傑作を作り上げた監督の手法は、いつもこのブログで取り上げている、自身のルーツとロックやヒップホップを組み合わせてユニークな音楽を作っているインドのミュージシャンたちを想起させる。
映画にしろ音楽にしろ、ひとつの表現様式が国境を越えて、その土地の文化と融合し、新しい価値を持った芸術作品が生まれる。
グローバル化によって失われゆく伝統もあるが、それは必ずしも、ローカルがグローバルに溶けていってしまうことだけを意味しない。
そこに新しく生まれる文化もあるのだ。
この作品は、フィルムと映写機に象徴される一つの時代の終焉を描いたものだが、見終わった後に強く印象に残るのは、寂しさよりもむしろ希望である。
この映画は、映写機からフィルムを通して放たれる光に対する、レクイエムというよりも讃歌なのだ。

映写機の光が照らす道のりの先にあるのは、タイトルの通り『エンドロールつづき』。
それはすなわちサマイ少年の現在の姿であるナリン監督自身であり、映画の素晴らしさ知っている観客の我々である。
"The Last Film Show"という原題を『エンドロールのつづき』と翻訳したセンスは文学賞ものだ。


最後に、日本人にはちょっと分かりにくい部分の解説をしたい。
サマイ少年が仲良くなる映写技師のファザルはムスリムという設定である。
家庭という責任さえなければスーフィズム(行によって神との合一を目指す「イスラーム神秘主義」)の行者になりたいという、叶わない夢を持った青年だ。
信仰や世代や立場が違っても、映画という光を通して通じ合い、友情を育むことができる。
昨今のインド映画では、ナショナリズム(国家主義というよりも、ヒンドゥー・ナショナリズム)が強すぎて興醒めしてしまうことも多いのだが、この作品に込められたあたたかく静かなメッセージには胸に沁みた。

これもまた、映画が光である理由の一つである。
映画に感動したことがある、全ての人に見てほしい作品だ。



余談です。
個人的にはこの海外版の予告編のほうがグッと来る。
ストーリーをほぼ追った作りになっているので、ネタバレ厳禁派の人にはお勧めしないが、この作品の魅力がより感じられる動画になっているので、気にしない人(もしくは鑑賞後に反芻したい人)は是非。


そしてなんと、この映画を作ったパン・ナリン監督にインタビューをさせてもらえることになった!
次回はその模様をお届けしたい。
乞うご期待!



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