インドの小説

2018年01月03日

インドと落語!インドの下町は江戸の長屋か

新年明けましておめでとうございます。
新年ってことでなんかめでたい感じの話題で書きたいな、と思ったので、今回のテーマは「インドと落語」!

唐突で申し訳ない。
あたくし、実は落語も好きなんですが、インドへの旅の経験とインドの小説をいくつか読んでみた結果、インドの生活ってどうやら相当落語っぽいところがあるぞ、と気がついた次第なのです。
というわけで、お年玉代わりにみなさんにこの発見を勝手にお裾分けさせてもらいます。
いらねえよ、とか言わないでおつきあいくださいませ。

まずは、インドの社会そのものが相当落語っぽいぞ、という話から。
インドの場合、そもそも貧しい庶民は長屋暮らしなわけで、そこに落語に欠かせない大家と店子の関係ってのがある。
インドの小説なんかを読むってえと、インドの大家はたいがい落語の「大工調べ」みたいな、義理も人情もない容赦ない悪役タイプと決まってるみたいなんですが。

それから貧富の差から奉公人制度(召使い、サーバントといったほうが良いのかな。最近じゃサーバントという言葉も前近代的ということであまりインドでも使わないようでもあるが)というのも今に至るまで残っていて、これまた落語的な社会制度が今日でも生きていると言える。

さらに、歴史的に生活の基盤となってきた「ジャーティ」(世襲的な生業による共同体。共同体ごとに貴賎の差もあり、いわゆる実質的な「カースト」)ってえのに基づいた「家業」があって、子が親のあとを継いで、徒弟制があって…というのも、今となってはだいぶ変わってきているけど、落語の世界(江戸〜明治)を思わせるところがあるってわけです。

あとはインドというのが一つの国でありながら、地理的、文化的に非常に広大だというのも、古い時代を彷彿とさせるところがある。
デリーとムンバイじゃ言葉も文化もだいぶ違って、江戸と上方みたいなものなのかもしれないし、いまでも大都会を離れると田舎はとことん田舎ってのも落語っぽい。
日本だと、違う街から出てきたら全然勝手がわからないとか、絵に描いたような「いなか者」ってもうフィクションに近いような気がするけど、インドだとまだまだリアリティーがある。

役人がいばってるのも封建社会の江戸時代っぽいような気もするし、道端のチャイ屋さんに若い衆がたむろしてたり、おかみさんたちが井戸端会議してたり、なんかあるとすぐ大勢寄ってたかって議論が始まったりするところとかも、いちいち落語っぽいよなあーと思うわけであります。
神頼みもみんな好きだしね。

あとインドって、街中の店だと定価制度じゃなくて、交渉して値段決めるでしょ。あのへんもすごく落語っぽいと思う。
落語でいうと例えば「壺算」。
水甕を買いに行くのに、高く売りつけられないように買い物上手の仲間を連れて行って甕屋と価格交渉するって筋なんだけど「大勢並ぶ甕屋の中でうちを選んでくれたんですから、勉強して3円50銭でいかがでしょう」ってところから始まるやり取りなんか、ものすごくインド的。
交渉して値切るのもそうだし、インドも、古い街だと生地屋なら生地屋、金物屋なら金物屋、って、同じ商売の店がまとまって並んでる。
ああ、あれって江戸と同じなんだなあって思う。
モノが水瓶ってのも、インドの田舎だとまだまだ現役だしね。

他の噺でも、例えば「猫の皿」のなんとかして値打ち物の皿を手に入れようっていうやり取りとか、「時そば」のしょうもないペテンとか、「インドっぽいなあ〜」って感じてしまう。
こんなふうに、インドは現代日本と比べて、ずいぶんと落語的っていうか、江戸的な世界だなあって思うんです。
古典落語って、今の日本だと、ある程度時代背景とか当時の社会のことを知らないと理解が難しい部分があったりするけど、インドだったらほとんど説明不要で通じるんじゃないかしら。
それだけ古い時代が残ってるとも言えるわけだけど。

英語で落語ができる噺家さんは何人かいるんだけど、インドでやるんだったら「進歩・教養・上流」の象徴である英語よりも、地元の言葉のヒンディー語とかベンガル語とかでやったらすごくはまりそう。
次に、インドの小説の中に出てくるエピソードで、「落語っぽいなあ」と感じたところをいくつかご紹介。(ちょっと長くなりますがご勘弁を)

例えばロヒントン・ミストリーの「A Fine Balance」(超名作なのに残念ながら未邦訳)は、仕立屋として暮らす未亡人のところに、彼女の友人の息子である学生(彼らはパールシーと呼ばれるゾロアスター教徒)と、故あって故郷から逃げてきたヒンドゥーの叔父・甥の二人組が住み込みの職人として働くっていう話。
この学生と甥っ子が、同世代同士、打ち解けて仲良くなってゆくところなんか、落語の若旦那と奉公人(出入りの商人も可)のやりとりみたいな面白みがある。
女主人(未亡人)の不在中に、2人で端切れでできた生理用品を「何だろこれ?」って投げあって大騒ぎして遊んでたら、気づかないうちに女主人が帰って大目玉を食らう、なんてシーンは、すごく落語的。

他にも、
「それを固くするために手でこする。それを中に入れるためになめる。何をしようとしてるか分かるかい」
「何って、そりゃセックスだろ」
「針に糸を入れるとこだよ」 なんていう小咄も出てくる。

スラムドッグ$ミリオネアの原作、ヴィカス・スワループの「ぼくと1ルピーの神様」(原題:Q&A)の中の武勲をたてた法螺吹き話をする元軍人のシーク教徒のじいさんの話なんかも落語っぽい。
悲劇的なエピソードではあるのだけど、長屋の仲間に「戦争の英雄だった」って話してたのが全部ホラだった、っていうしょうもない感じも非常に落語を感じる。
そもそも「ぼくと1ルピーの神様」自体が人情噺みたいなストーリーだし。

アラヴィンド・アディガの「グローバリズム出づる処の殺人者より」(原題:A White Tiger)っていう小説でも、主人公の貧しい運転手が、奉公先の奥さんが酒に酔って起こしたひき逃げ事故の身代わりに出頭することになって、
「刑務所に入ったらきっと他の受刑者にオカマを掘られるよなあ。そうだ、俺HIV持ちです、って言えばオカマ掘られないで済むかもしれない。でもそんなこと言ったらそういうのに慣れてると思われて余計オカマ掘られちゃうかもしれないなあ」
なんて悩むシーンが出てくるんだけど、この救いようの無さの中にどうしようもなく可笑しみが出てきてしまうあたりも、すごく落語っぽさを感じた。

面白いのが、ここで挙げた落語を感じる小説って、全部、貧しい層が主人公の話だったり、昔の話だったりすること。
イギリス出身でアメリカ国籍のインド系作家で、世界的に高い評価を得ているジュンパ・ラヒリとか、インド国内で大人気の、都会の中の上くらいの階級のトレンディドラマ的小説を書いているChetan Bhagatの小説なんかだと、いくら舞台がインドでも落語っぽい部分って見当たらないんだよなあ。

って、こんな発見を面白いって思ってるのは自分一人のような気もしないでも無いのですが、まあいいや、これにて新年の挨拶に代えさせて頂きたく候。
なんの画像もリンクもないのもさみしいので、写真はずいぶん若いころにインドのジャマー・マスジッドで撮った1枚。

今年もよろしくおねげえしやす。 
デリーにて若い頃
 


goshimasayama18 at 15:20|PermalinkComments(0)