イスラーム嫌悪

2020年06月26日

強烈な社会派無神論ブラックメタル/グラインドコア! Heathen Beastで学ぶ現代インドの政治と社会



コルカタ出身のブラックメタル/グラインドコアバンド、Heathen Beastが新しいアルバムをリリースした。
このニューアルバム"The Revolution Will Not Be Televised, But Heard"がすさまじい。
彼らはギター/ヴォーカルのCarvaka、ベースのSamkhya、ドラムスのMimamsaの3人からなるバンドなのだが、あまりにも激しすぎるその主張のために、本名やメンバー写真を公開せずに活動しているという穏やかでないバンドなのだ。
heathen_beast
(3人組のはずなのにアーティスト写真には4人の男のシルエットが写っているが、あまり気にしないようにしよう)

彼らの音楽について説明するには、まず彼らが演奏しているブラックメタルとグラインドコアというジャンルの説明が必要だろう。
ブラック・メタルというのは、ヘヴィメタルが元来持っていた、悪魔崇拝(サタニズム)的な要素をマジで取り入れた音楽のことだ。
もともとは、キリスト教的な道徳観への反抗の象徴だったサタニズムを純化させ、ヘヴィメタルの持つ地下宗教的な雰囲気を、過剰なまでに先鋭化させたジャンルがブラックメタルである。
一方のグラインドコアは、社会への不満がモチベーションになっているパンクロックをルーツに持つ。
グラインドコアは、パンクのサウンド面の激しさを強調した「ハードコア・パンク」の破壊衝動的な要素を、極限まで突き詰めたジャンルと言っていい。

どちらも極端にノイジーなサウンドに超高速なビート、そして絶叫するヴォーカルという点では共通しているが、そのルーツは、構築主義的なメタルとニヒリズム的なパンクという、全く異なるものなのだ。
今回紹介するHeathen Beastのサウンドは、その両方を標榜しているバンドで、彼らの音楽性は、ブラックメタルとグラインドコアを合わせた'Blackend Glind'と表現されることもあるようだ。

Heathen Beastのメンバーは、それぞれが無神論者であることを明言している。
「無宗教」(特定の信仰を選ばない)ではなく、神の存在そのものを明確に否定するという姿勢は、ヒンドゥーにしろイスラームにしろ、(シク教にしろ、ジャイナ教にしろ、キリスト教にしろ…以下続く)信仰が文化やコミュニティーの基盤となっているインド社会では、非常にラディカルなことである。
インドでは、「信仰」は、コミュニティーを結びつけ救いを与えてくれる反面、強すぎる絆や保守的な規範意識が、個人の意思の否定したり、差別的・排他的な感情を駆り立てたりするという負の側面も持っている。
インドで無神論を選ぶということは、単なる内面の問題ではなく、「信仰」に基づくコミュニティーで成り立っているインド社会を否定するという、非常に社会的(かつパンクロック的)な行為でもあるのだ。

彼らが宗教を否定するブラックメタルであると同時に、パンクロックを突き詰めたグラインドコアでもあるという所以である。

"The Revolution Will Not Be Televised, But Heard"には全部で12曲が収録されているが、このトラックリストがまたすさまじい。

1. Fuck C.A.A
2. Fuck N.P.R & N.R.C
3. Fuck Modi-Shah
4. Fuck The B.J.P
5. Fuck Your Self Proclaimed Godmen
6. Fuck Your Police Brutality
7. Fuck The R.S.S
8. Fuck You Godi Media
9. Fuck Your Whatsapp University
10. Fuck Your Hindu Rashtra
11. Fuck The Economy (Modi Already Has)
12. Fuck The Congress

と、すがすがしいほどにFワードが並んでいる。
彼らがfuckと叫んでいる対象をひとつひとつ見てゆくと、現代インドの政治や社会が抱えている課題を、とてもよく理解することができる。
というわけで、今回は、彼らのニューアルバムのタイトルを1曲ずつ紹介しながら、インドの政治と社会についてお勉強してみたい。

1曲めは、Fuck CAA.

シュプレヒ・コールのようなイントロと、ひたすら街頭デモの様子を映した映像から、彼らの社会派っぷりが分かるミュージックビデオだ。
CAA(Citizenship Amendment Act)すなわち「修正市民権法」とは、昨年12月11日に可決された法案のこと。
この法令は、インドに近隣諸国から移住してきたマイノリティーの人々に対して、適切に市民権をあたえるためのものとされているが、その対象からムスリムを除外していることから、インドの国是である政教分離に違反した差別的な法案だとして、大きな反対運動が巻き起こった。
いつもこのブログで紹介しているインディーミュージシャンたちも、そのほとんどがソーシャルメディア上でこの法案に反対する声明を出していたことは記憶に新しい。

2曲めは、Fuck NPR&NRC.

NPRとはNational Population Register(全国国民登録)、NRCとはNational Register of Citizen(国民登録制度)のことだ。
いずれも不法移民の取り締まりなどを目的として、インドの居住者全員を登録するという制度だが、これまで戸籍制度が整備されていなかったインドでは、国籍を証明する書類の不備などを理由にマイノリティーの人々が意図的に社会から排除されてしまうのではないか、という懸念が広がっている。
Heathen Beastはこれらの制度に強烈に異議を唱えているというわけだ。

3曲めは、Fuck Modi-Shah.

Modiはもちろんモディ首相のこと、Shahはモディ内閣で内務大臣を務めるアミット・シャーのことだ。
シャーは、モディ同様にヒンドゥー至上主義団体RSSの出身で、上記のCAA(修正市民権法)導入を主導した中心人物。
これは、Heathen Beastからの現政権の中枢に対する強烈な糾弾なのである。

さて、律儀に1曲ずつ聴いてくれた方はそろそろお気付きのことと思うが、彼らの音楽は全曲「こんな感じ」だ。
その硬派な姿勢はともかく、曲を聴くのはしんどい、という人は、ひとまず解説だけ読んでいただいて、曲を聴くのは体力があるときにしてもらっても、もちろん構わないです。


4曲めは、"Fuck The B.J.P."

BJPとは日本語で「インド人民党」と訳されるBharatiya Janata Partyのこと。
BJPは一般的にヒンドゥー至上主義政党と言われている。
インドは人口の8割がヒンドゥー教を信仰しているが、政教分離を国是としており、政治と宗教との間には一線を画してきた。
ところが、後述のRSSなどのヒンドゥー至上主義団体を支持母体とするBJPは、これまでに述べてきたようなヒンドゥー至上主義的・イスラーム嫌悪的な傾向が強いと指摘されている。
リベラルな思想を持つミュージシャンの中にも、その政策を激しく批判している者は多い。
例えば、以前特集したレゲエ・アーティストのDelhi Sultanateもその一人で、彼はサウンドシステムを用いて自由のためのメッセージを広めるという活動を繰り広げている。
その(ある意味ドン・キホーテ的でもある)活動の様子はこちらの記事からどうぞ。



5曲めの"Fuck Your Self Proclaimed Godmen"は、インドに多くいる「自称、神の化身」「自称、聖人」を糾弾するもの。

彼らが、本来の宗教者の役割として人々を精神的に導くだけでなく、宗教間の嫌悪や対立を煽ったり、高額な献金を募ったり、現世での不幸の原因をカルマ(前世からの因縁)によるものとしていることに対する批判だと理解して良いだろう。

6曲めの"Fuck Your Police Brutality"は文字通り、警察による理不尽な暴力行為を糾弾するもの。

歌詞を読めば、警察の暴力がマイノリティーであるムスリムや、抗議運動を繰り広げている人々に向けられているということがよく分かるはずだ。
昨今話題になっているBlack Lives Matter同様に、インドでもマイノリティーは偏見に基づく公権力の暴力の犠牲になりがちなのだ。


7曲めは"Fuck The R.S.S."

RSSとは民族義勇団と訳されるRashtriya Swayamsevak Sanghの略称だ。
1925年に医師のヘードゲワール(Keshav Baliram Hedgewar)によって設立されたRSSは、当初からヒンドゥー至上主義(インドはヒンドゥー教徒の国であるという主張)を掲げており、ヒンドゥーとムスリムの融和を掲げるガーンディーの暗殺を首謀したことで、一時期活動を禁止されていた歴史を持つ。
政権与党BJPの支持母体のひとつであり、その反イスラーム的な傾向が強いことが問題視されている。
(一方で、RSSは教育、就労支援、医療などの慈善活動も多く手掛けており、彼らが単なる排外主義団体ではないことは、中島岳志氏の『ヒンドゥー・ナショナリズム 印パ緊張の背景』に詳しい)

8曲めは"Fuck Your Godi Media".

Godi mediaというのは聞きなれない言葉だが、ヒンドゥー至上主義的、反イスラーム的(とくに反パキスタン)的な言説を流す傾向が高いメディアのことのようだ。

9曲めは"Fuck Your Whatsapp University".

また耳慣れない言葉が出てきたが、Whatsappは、インドで非常に普及しているメッセージ送受信や無料通話のできるスマートフォンアプリのこと(日本で言えばさしずめLINEだろう)で、4億人ものユーザーがいるという。
Whatsapp Universityというのは、Whatsappから流されてくる誤った情報やフェイクニュースのことを指す言葉のようだ。
こうした情報操作は、おもに現政権与党(つまりBJP)を賞賛するもの、与党に対立する組織や国家を非難するものが多いとされており、BJPは実際に900万人もの人員をWhatsappキャンペーンに動員していると報じられている。
一方で、野党も同じようなインターネットによる情報拡散要員を抱えているという指摘もあり、政権批判だけではなく、このような状況全体に対する問題視もされているという。
Whatsappが(誤った)知識や情報の伝達の場となっていることから'Whatsapp University'と呼ばれているようだが、ひょっとしたら客観的・批判的思考力を持たない卒業生を送り出し続けているインドの大学を揶揄しているという意味も含んでいるのかもしれない。

Godi MediaやWhatsapp UniversityはどちらもジャーナリストのRavish Kumarが提唱した用語である。
インドでは、政治的な主張をするジャーナリストの殺害がこれまでに何件も起こっており、彼もまた2015年から殺害をほのめかす脅迫を受けていることを明らかにしている。
暴力で言論や表現が弾圧されかねないこうした背景こそが、Heathen Beastが匿名でアルバムをリリースせざるを得ない事情なのである。

10曲めは"Fuck Your Hindu Rashtra".
'Hindu Rashtra'はヒンドゥー至上主義国家という意味のようだ。

11曲目は"Fuck The Economy (Modi Already Has)"
これはタイトルどおり、為政者と一部の人々にのみ富をもたらす資本主義経済を糾弾する曲。



そしてラストの12曲めは"Fuck the Congress".
ここで名指しされている"Congress"とは、なんと現最大野党である「国民会議派」のこと。

つまり、彼らは現政権与党BJPや、その背景にあるヒンドゥー至上主義的な傾向だけを糾弾しているわけではなく、インドの政治全般に対してことごとくNoを突きつけているのだ。
国民会議派は、インド独立運動で大きな役割を果たし、初代首相のネルーを輩出し、その後も長く政権を握った政党だが、独立以降、ネルーの娘であるインディラ・ガーンディーをはじめとする一族の人間がトップを取ることが多く、その血統主義は「ネルー・ガーンディー王朝」と呼ばれている。
政権与党時代から、インディラ時代の強権的な政治手法や大企業との結びつきを批判されることも多く、今日においても、ヒンドゥー至上主義的な与党のカウンターとして全面的に支持することができないという人は多いようだ。
昨今の国民会議派は、BJPの支持層を取り込むために、対外的にBJP以上にタカ派の方針を表明することもあり、そうした傾向に対する不満を訴えている可能性もあるのだが、何しろ歌詞が聞き取れないのでよく分からない。

…というわけで、Heathen Beastがその激しすぎるサウンドで、何に対して怒りをぶちまけているのかを、ざっと解説してみた。
彼らはコルカタ出身のバンドである。
彼らのこの真摯なまでの社会性は、独立運動の拠点のひとつであり、その後も(暴力的・非合法的なものを含めて)さまざまな社会運動の舞台となってきたコルカタの文化的風土と無縁ではないだろう。
独立闘争の英雄チャンドラ・ボースを生み、ナクサライトのような革命運動の発祥の地である西ベンガルでは、人々(とくに若者たち)はデモやフォークソングを通して、常に社会や政治に対して強烈な意義申し立てを行ってきた。

Heathen Beastは、単に現政権やヒンドゥー教を糾弾するだけのバンドではない。
今回のアルバムでは、ヒンドゥー・ナショナリズム的な政治を批判する傾向が強いが、彼らが2012年にリリースした"Bakras To The Slaughter"では、イスラーム教がヤギを犠牲とすることを激しく批判している。
何しろ彼らは、"Fuck All Religions Equally"という曲すら演奏しているほどなのだ。

彼らには珍しく、サウンド的にもタブラの音色などインドの要素が入った面白い曲だ。
こうした曲を聴けば、彼らの怒りが、迷信に基づいたものや、人間や生命の尊厳を脅かしたりするものであれば、あらゆる方向に向いているということが分かるだろう。

Heathen Beastの激しすぎる主張を批判することは簡単だろう。
批判ばかりで代案がないとか、彼らが糾弾している対象にも(差別や排外主義は論外としても)それなりの理由や言い分があるとか、そもそもこの音楽と歌い方じゃあ立派な主張もほとんど伝わらない、とか、ツッコミどころはいくらでもある。

それでも、彼らがこういう音楽を通して怒りを率直に表明しているということや、匿名とはいえこうしたことを表明できる社会であるということは、ものすごく真っ当で、正しいことだと思うのだ。
そもそも、ここまで政治や社会に対して直球で怒りをぶつけているパンクロックバンドなんて、いまどき世界中を探してもほとんどいないんじゃないだろうか?
こうした怒りの表明は、ヒップホップのようなより現代的な音楽ジャンルでも、もっとジャーナリスティックなやり方でも、より文学的な表現でもできるかもしれないが、やはりヘヴィメタルやパンクロックでしか表せない感覚というものは、確実に存在する。
ブラックメタルやハードコアのサブジャンルが細分化し、伝統芸能化、スポーツ化(単に暴れるためだけの激しい音楽となっている)してしまって久しいが、彼らのこの大真面目な姿勢に、私はちょっと感動してしまった。

Heathen Beastがテーマにしているのは、彼らがまさに今直面しているインド国内の問題だが、インド人のみならず、ミュージシャンが政治性を持つことを頑なに排除しようとする国の人(あと、そもそも政治性のある音楽を認めていない国の偉い人)も、彼らの音楽を聴いて姿勢を正してほしいと心から思う。

いや、彼らの音楽で姿勢を正すのは変だな。
モッシュするなりダイブするなり好きなように暴れて、それからじっくり考えてみてほしい。


Spirit of Punk Rock is STILL ALIVE in India!
Azadi! (Freedom!)


参考サイト:
https://thoseonceloyal.wordpress.com/2020/05/27/review-heathen-beast-the-revolution-will-not-be-televised-but-it-will-be-heard/ 

https://en.wikipedia.org/wiki/Citizenship_(Amendment)_Act,_2019

https://www.news18.com/news/india/what-is-npr-is-it-linked-to-nrc-all-you-need-to-know-about-the-exercise-2461799.html 

https://cyberblogindia.in/the-great-indian-whatsapp-university/



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goshimasayama18 at 17:25|PermalinkComments(0)

2019年06月20日

『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(前編)

(注:記事の性質上、映画のネタバレを含みます。未見でネタバレを望まない方は、ここでお引き返しください)

全国で公開中の歴史大作映画『パドマーワト 女神の誕生』(サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督)。
その美学とヒロイズムに貫かれた圧倒的な世界観については、以前このブログでも書いた通りだ。
「史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)」



「究極の映像美」という明確な売りがある映画とはいえ、その絢爛な舞台はヴェルサイユ宮殿ではなくラージャスターンのチットールガル城砦だ。
日本では、ほとんどの人が、「何それ?どこ?」という状況なわけで、日本の映画ファンが「インドの歴史大作」というなじみのないジャンルのこの作品をどう受け入れるのか興味があったので、映画を見た方がTwitterでつぶやく感想をたまにチェックしていた。
予想通り、「ディーピカーが神々しいほど美しかった!」とか「ランヴィールの狂いっぷりがすごかった!」とか「めくるめく映像美の酔いしれた!」といった、美や演技に関するものがほとんどだったのだが(『北斗の拳』を連想したアホーは私くらいだったようだ)、そのなかにいくつか気になるものがあった。

曰く、「冒頭に『サティ(夫に死なれた未亡人の焼身自殺)を推奨するものではない』とか言っておきながら、思いっきり殉死を美化してるのはいかがなものか」とか、「インドとパキスタン、ヒンドゥーとイスラームの対立が激化しているこのご時世に、アラーウッディーンを肉をむさぼりハーレムに女をはべらせるステレオタイプな悪役スルターンとして描くのはよろしくない」とか「バジュランギおじさんの爪の垢を煎じて飲ませるべき」といったもの。
「原作が古典なんだからしょうがないじゃん」とも思ったのだが、こういった感想はだいたいインドに詳しい方が書いているので「いくらスーフィー(イスラームの神秘主義者)の叙事詩が原作とはいえ」とあらかじめ断っていたりして、ぐうの音も出ない。
要は、インド社会の中でマイノリティーであったり弱者であったりするムスリムや女性に対しての配慮に欠ける、ヒンドゥーナショナリズム的で保守反動的な映画だという、実にまっとうな批判なわけだ。

確かに、こうした視点は重要である。
実際にこの映画はマレーシアでは「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったというし、インドでは公開前に「ヒンドゥーの王妃とイスラームのスルターンのラブシーンがある」という噂が立ち、逆にヒンドゥー至上主義者から反対運動が起きている。
『パドマーワト』はインドでもほかの国でも、宗教的なバックグラウンドと結びつけて捉えられており、日本のファンだけ能天気にそのへんの事情に無頓着というのも、あんまりよろしくないような気がする。

この問題についての私のスタンスを明確にしておくと、「古典が原作であり、過去が舞台である以上、現代の価値観と合わない部分があるのは仕方ない」というものだ。
インドの歴史において、かつては侵略者だったムスリムが、現在はマイノリティーであるというねじれた現実がある以上、こうした議論が避けられないのは致し方ないことだ。
映画を制作するうえで、必要以上に「ポリティカル・コレクトネス」にとらわれないバンサーリー監督の姿勢は、むしろ健全であるとも感じた。

それに、このストーリーの主人公は実質、ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンで、確かにステレオタイプな暴君として描かれているかもしれないが、それでもその描かれ方は、率直に言って非常にカリスマ的で「かっこいい」ものだ。
彼は『北斗の拳』のラオウや、『スターウォーズ』のダースベイダーのような、強さと誇りを併せ持った「愛すべき悪役」として描かれている。
ストーリー上、悪役として描かなければならないという前提のもとでは、最良の描かれ方をしているのではないだろうか。
この映画のなかでは、ことさらに宗教の違いが強調されているわけではなく、国と国、王と王との戦いがテーマであり、今回はその中の敵役がイスラームだった、ということだと解釈している。

とはいえ、これはヒンドゥーもイスラームもほとんど存在しない極東の島国での感想。
インドの現在の状況を踏まえた上で、「ナショナリズム的で反動的」という批判が的を射たものなのかどうか、できる範囲で確かめてみたいと思う。
そのためには、「ムスリムやインドの女性が、この映画をどう感じたのか」「この映画によって、イスラーム嫌悪や、女性蔑視的な風潮が強まったのか」を調べるしかない。
私にできるのはネットを使って調べることくらいだが、そんなわけで、今回は、インドを中心に、こうした観点から書かれているインドのメディアのレビューを紹介したいと思います。

 まずは、インドのニュースサイトScroll.inに掲載されたこの記事から。
"View from Pakistan: ‘Padmaavat’ puts together every stereotype of Muslims in India" 
(「パキスタンからの視点:「パドマーワト」はインドにおけるムスリムのステレオタイプの寄せ集め」)

パキスタン人の記者によるこの記事の冒頭では、パキスタンの教育では、南アジア地域の歴史のなかではヒンドゥー国家こそが暴君であって、イスラームの国家が人々を解放したと教えられていることが紹介されている。
そうした教育にもかかわらず、著者は、インド映画を見ることによって、ヒンドゥーの人々もまた自分たちと同じような良心のある人間だと知ったと述べている。
歴史教育や歴史の解釈は、ところ変われば真逆にすらなりうるもので、それでも人間の本質は地域や信仰によって変わるものではない、という「バジュランギおじさん」的な真理だ。
そのうえで、著者は、『パドマーワト』が美的な面では非常に優れていると認めるにしても、政治的な部分では人種差別的、性差別的、イスラーム嫌悪的だと指摘する。
この映画のなかのイスラームの描かれ方はあまりにもステレオタイプで、自分がかつてインド映画でヒンドゥー教徒を見て「彼らも同じ良心を持った人間」と感じたのとは真逆な、残虐な描かれ方をしている。
つまり、インドのヒンドゥーコミュニティに暮らす人々が、この映画を見ることによって、ムスリムに残虐な印象を持ちかねない、と危惧しているわけだ。
(著者は、「芸術は'ポリティカリー・コレクト'であるべきか」という論点にも触れており、必ずしもそうあるべきでないとしても目に余る、という意見なのだろう。) 
具体例として、ヒンドゥーの王ラタン・シンと王妃パドマーワティとの関係が愛に満ちたものとして描かれているのに対して、スルタンであるアラーウッディーンと彼の妻との関係は暴力的に描写されている点を挙げており、また夫への殉死であるジョウハルが解放の手段として描かれているなど、女性への重大な人権侵害を美化していると指摘している。
また、パドマーワティがラタン・シンの第二夫人だったという描写が欠けているという言及もあり、この記事は、『パドマーワト』におけるヒンドゥーとイスラームの描き方がフェアではないという批判なのである。

この記事に対する読者の反応がまた面白かったので、いくつかを抜粋して紹介する。
https://scroll.in/article/866261/readers-comments-was-the-portrayal-of-allaudin-khilji-in-padmaavat-islamophobic
(「読者コメント:『パドマーワト』におけるアラーウッディーンの描き方はイスラム嫌悪的だったのか?」)
  • 実際のアラーウッディーンは、野蛮というほどではないにしても、いくつもの国の侵略者であることは事実で、自らが国王になるために叔父を殺した人物である(=残酷な描かれ方もそこまで批判されるべきものではない、ということだろう)。アラーウッディーンの最初の妻は、歴史上は傲慢な人物だったが、劇中ではパドマーワティとラタン・シンを救う優しい人物として描かれている(=イスラームを好意的に描いている部分もある)。パドマーワティは指揮官の反対にも関わらず、単身デリーに乗り込んだ聡明で強い女性として描かれており、劇中の時代背景の中で名誉を守るために死を選んだからといって、それを今日の価値観で女性差別的だと考えるのは未熟である。
  • 著者の分析は正確。この映画は非常に反動的だ。
  • 著者は(名誉を守るための自死である)ジョウハルと、(夫の火葬の火に飛び込んで死ぬ)サティは全く別のものだと認識すべきだ。パドマーワティは自身が性奴隷となることを避けるために、自由意志で死を選んだ。女性蔑視的なのは著者のほうである。
  • 著者は考え不足だ。アラーウッディーンはムスリムとしてではなく、一人の常軌を逸した男として描かれていたし、映画を観に行く人はみんなそのことを理解している。パキスタン人であることが記者の視点に影響したのかもしれない。
  • これはあくまでも映画であって、歴史ではない。それに映画はジョウハルを賛美してもいない。 それは夫が戦争で殺された場合、女性が自分自身を守るためには死ぬしかなかったということを示しているだけだ。 ムスリムの描写に関しては、宗教に関係なく単に支配者として描いているだけであり、その支配者の信仰がイスラームだったということにすぎない。 アラーウッディーンは現在のインドだけでなく、現在パキスタンに属している地域も侵略していた(=現在の印パの対立に関連づけて考えるのはおかしいということだろう)。
  • (前略)いずれにせよ、私は『パドマーワト』を見に行くことはない。パドマーワティがジョウハルを恐れる描き方ならば見にいったかもしれないが。サティ廃止後150年が経った今、それこそが望ましい描かれ方だ。
  • この記事の見解は面白かったけど、映画のネタバレを含んでいるということが冒頭で触れられていなかったことを指摘したい。作品のレビューにネタバレを含むのであれば、免責事項として最初に書いてもらえると助かる。(=『パドマーワト』は最初に免責事項としてフィクションである旨やサティを美化していないことに触れているのだから、そのように見るべきだという皮肉か)
  • どうして記者は、アラーウッディーンの描写がムスリムの王としてのものであり、冷酷な一個人として描かれているのではないと考えるのだろうか?映画のどこで宗教について言及されているのか?記者の豊かな想像力のせいで、このレビューは過剰なものになっている。
  • この記事は新しい視点に気づかせてくれた。私はインドの都市部で育った53歳のヒンドゥー教徒だが、自分のまわりには多くの「反イスラム・バイアス」がある。著者は、このようにすでに偏ってしまっている社会の中で、この映画が、とくに若者によって、どのように解釈されるおそれがあるか、そして監督がどのような描写の仕方を選んでいるのかについて、優れた指摘をしている。私も、非論理的な部分では、反イスラム・バイアスを持っていた(今も持っているかもしれない)ことを認めざるを得ない。しかしパキスタンのテレビ番組を見て、そこに住む人々も我々と変わらないということを理解することができた。たとえこうした点に気づくのがインドのコミュニティの10%だとしても、今後の印パ関係をより良くし、ムスリムの性格のステレオタイプな解釈をしなくて済むようにしてくれたことについて、記者に感謝したい。

記者に同意する意見もいくつかあるが、アラーウッディーンの描写はムスリムとしてではなく一人の暴君としてのものであり、ジョウハルについても当時の歴史の文脈ので捉えるべきだという反論が目立つ。
ちなみに、名前を見る限り、ほぼ全てがヒンドゥー教徒からのコメントのようだ。


女優としての数々の受賞歴があり、サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督作品への出演歴もあるスワラ・バスカル(Swara Bhaskar)は、女性としての立場から、『パドマーワト』を批判している。
https://thewire.in/film/end-magnum-opus-i-felt-reduced-vagina
(‘At The End of Your Magnum Opus... I Felt Reduced to a Vagina – Only’ 「あなたの傑作は、結局のところ…女性器に矮小化されてしまっている…ただそれだけに」)

この批評で、バスカルは、バンサーリー監督への手紙の形式を取って、まず多くの反対運動にも関わらず、犠牲者を出さずに公開にこぎつけたこと、そして出演者のすばらしい演技に祝意をあらわしている。
そのうえで、この映画に登場する女性は、男性の「性の対象」でしかないという観点からの批判を繰り広げている。
彼女は、全ての女性には自分の人生を生きる権利があり、性的なだけの存在では決してなく、仮にレイプ被害にあったとしても人生は生きるに値することを強調している(つまり、女性が敵への服従よりも死を選ぶジョウハルの描写を批判しているわけだ)。
いくら冒頭で「サティを美化しているのではない」と宣言しても、都市部では女子学生が、農村部ではアウトカーストの女性がレイプされ、必死の抵抗にもかかわらず殺害されている現代のインドで、このような描き方をするべきではないと舌鋒鋭く主張している。
また、ジョウハルが決して遠い過去の話ではなく、印パ分離独立の際にも、女性が他宗教の男性からの性暴力から逃れるために行われており、決して大昔の歴史の一部として美化できるものではないとも述べた上で、それでも監督の表現の自由のためであれば、自分もともに戦うことを宣言して、手紙を結んでいる。


こうした批評を読むと、『パドマーワト』のムスリムや女性の描き方に対する意見の違いは、そもそもの視座が違いが理由となっていることが明らかになったと思う。
すなわち、批判的に見ている人たちは、この物語を現代の物語として見ており、アラーウッディーンの描写を残虐なムスリムのステレオタイプとして捉えている。
一方で、映画の描き方に問題がないと考えている人たちは、この物語を歴史を舞台にしたフィクションとして見ていて、アラーウッディーンの描写は宗教に関係のない暴君の典型だと捉えている。

客観的に見ると、アラーウッディーンがムスリムであったことは紛れのない歴史的な事実だが、バンサーリー監督は、この映画の中で信仰をことさらに強調する描き方をしないよう、気を配っているように思える。
強烈な悪役として描く以上、表現者としての配慮をしたのは確かだろう。
その配慮が十分であったのか、それとも、そもそもスルタンを暴君として描くこと自体、今日のインドではすべきでないのか、という問いとなると、もはや誰もが納得できる答えを出すことは不可能だ。

また、この視座の違いは、インド社会の中で弱者の地位に甘んじているムスリムや女性としての立場に基づくのか、それとも彼らの危機感の対象である、ヒンドゥーもしくは男性としての立場に基づくのか、という違いでもある。

マイノリティーからの「自分たちが脅かされるのではないか」という異議申し立てに対して、マジョリティーの側が「心配には及ばない」と答えているという図式である。
とはいえ、マイノリティー側は、直接的な影響ではなく、ムスリムや女性により抑圧的な「風潮」が静かに強まることに対して危惧を抱いているのだろうし、そういった風潮がこの映画のせいで強まったのかどうかということについては、これまた測りようがない。
(マイノリティーの危惧にはそれだけの理由があり、映画の評価とは別の部分で根本的な対策が必要であることは言うまでもないが)

それにしても、インドで、一本の映画に対して、メディア上でここまで健全な、成熟した議論が行われているということに、うらやましさすら覚えてしまうのは私だけではないだろう。
議論好きで理屈っぽいインド人の、最良の部分が出ている感じである。

次回、後編では、こう言ってはなんだが、さらに面白い『パドマーワト』批判と批評をお届けします。
歴史的な観点からの批判と、さらに心理学的な観点からの驚愕の映画分析!
乞うご期待!
(つづく) 


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