インド映画
2025年08月06日
パヤル・カパーリヤー監督の原点『何も知らない夜』は今見るべき作品
7月25日から公開されている昨年のカンヌ映画祭のグランプリ受賞作『私たちが光と想うすべて』の評判がとても良いようだ。
『私たちが光と想うすべて』を気に入った人にぜひ見てもらいたいのが、同作のパヤル・カパーリヤー監督の初長編ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』だ。
カンヌ映画祭での「ルイユ・ドール」(最優秀ドキュメンタリー賞、2021年)や山形国際ドキュメンタリー映画祭での「ロバート&フランシス・フラハティ賞」(大賞、2024年)など、今作もさまざまな映画祭で高い評価を受けた作品である。
公開は8月8日から。
詳細は公式サイトで確認してほしい。
『何も知らない夜』は純粋な意味でのドキュメンタリーではない。
パヤル・カパーリヤー監督が友人たちと撮りためた映像や、インターネット上のニュース動画などを編集し、そこに「L」という架空の女子学生の独白を加えてストーリーを浮かび上がらせる今作は、フィクションとドキュメンタリーのちょうど中間に位置するようなスタイルの映画だ。
この設定だけ聞くと、なんだか映画学校の課題制作のように感じられるかもしれないが、静謐な映像美と編集がすばらしく、逆にこの作り方でこんなに明確な主題と緊張感のあるストーリーを持った映画が作れるのかと感心してしまった。
国立の映画学校「インド映画研究所(FTII)」の一室で、女子学生の「L」が、引き離された恋人に向けて綴った手紙が見つかった、というのがこの映画の導入部分だ。
物語としてのこの映画は、楽しげなダンスパーティーに向かう彼女が、恋人と会えない孤独や憂鬱を抱えている…というところから始まる。
普遍的な青春物語のように思えるが、この映画の背景には、いまだに続くカースト差別や、ナショナリズム(インドのマジョリティであるヒンドゥー教徒による宗教ナショナリズム)が台頭し寛容さを失う社会など、現代のインドが抱える社会問題が描かれている。
…こんなふうに紹介すると、まるでインド特有の事象を扱った地味な社会派映画のような印象になってしまうが、そう考えて自分には関係なさそうだと敬遠してしまうのは非常にもったいない(まあ地味な映画ではあるのは確かだけれど)。
優れた映画がいつもそうであるように、この作品は私の物語でもあり、あなたの物語でもある。
『私たちが光と想うすべて』をすでに観た人には、パヤル・カパーリヤー監督の虚構と現実を織り交ぜたストーリーテリングの巧みさについては説明するまでもないだろう。
『何も知らない夜』でも、『私たちが光と想うすべて』と同様に、私たちは現代インドの日常のなかに放り込まれ、登場人物たちの人生/生活を、観賞するというよりも、体験させられる。
「L」を通して、私たちは、特定の思想にもとづく国家権力が表現や学問の領域にまで支配の手を伸ばそうとしていたり、そうした空気の中でマイノリティが疎外され続けている現代のインドを体験する。
この映画の描かれていることは、日本を含めた世界中で現在進行形で起きていることとまったく変わらないということに気づくはずだ。
日本と異なるのは、そうした状況に対して、学生たちが積極的に行動を起こしているところだが、権力者がただ自由を求めている人々に対して「彼らは精神疾患が疑われる。彼らは反ヒンドゥーだ」と抑圧的な物言いをする場面なんて、どこの国でもまったく同じなのだなあとむしろ感動してしまうくらいだ。
為政者が差別に抗議して亡くなった学生を、「インドの子ども」と呼んで美談として納めようとするニュース映像も出てくるが、この全体主義を感傷で覆い隠したような疑似家族的な国家観も、私たちには見覚えがあるものだ。
「L」の手紙で語られる「映画編集者の私は時を繋がずにはいられない」という独白は、監督の映画作りにかける思いを吐露したものだろう。
それに続く「どの写真も現れたときと同じ速度で消えてゆく」という言葉からは、新しい報道とともに忘れられてしまう小さなニュースや、その渦中にいる市井の人々を、いなかったことにせずに丁寧に描くという監督の決意を感じた。
「L」に象徴されるような、無名の、そして無数の人々は、確かに存在している。
彼女たちの存在や、彼女たちが感じていた感情をもっとも効果的に伝えることができるのは、劇映画でもドキュメンタリーでもなく、その間にあるこの形式なのかもしれない。
独特のざらっとした映像は、今作ではモノクロームが中心。
観ているうちに50年前の8ミリ映像かなにかのような気がしてしまうが、登場人物がスマホを持っていたりすると、現代の話であることを思い出してどきっとする。
監督曰く、こうした映像は「私たちの多くが周囲の状況に対応することを余儀なくされている 『現在』 へのノスタルジー」であり「より公平で平等な社会のために闘うという、若くて良心的でロマンティックな考えへのノスタルジー」だそうだが、現代を相対化して見るような効果が感じられて、とても良かった。
社会的なテーマを扱ったドキュメンタリー的な映画でありつつも、「ジャーナリストの作品」ではなく、「芸術的な映画監督の作品」になっているところが、この映画の力強さにつながっている。
『私たちが光と想うすべて』の主要な登場人物が、映画の舞台であるムンバイから遠く離れたケーララ州の人物であったように、『何も知らない夜』の「L」も、FTIIがあるプネー(ムンバイと同じマハーラーシュトラ州にある都市)ではなく、インド東部の西ベンガル州の言語のベンガル語を母語としているという設定だ。
ベンガルはアジア人最初のノーベル賞受賞者である詩人のタゴールや、インド芸術映画の巨匠サタジット・レイを生んだことでも知られ、ケーララ州と並んで、インドのなかでも文化・芸術の香り高い土地でもある。
西ベンガル州は社会運動が活発な土地でもあるため、映画作りを学び、社会に声を上げることにも積極的な「L」のキャラクターにも、こうした地域性が反映されているのかもしれない。
ここから先は蛇足になるが、映画の中で説明されない背景を少しだけ説明すると、たびたび名前が出てくる「アンベードカル博士」は、カーストの枠外に位置付けられた被差別階級から身を起こし、インド憲法の草案の起草にかかわり、のちに法務大臣まで務めたビームラーオ・アンベードカルのこと。
彼の人生はカースト差別との戦いでもあった。
カーストによる差別はヒンドゥー教の穢れの思想にもとづくものであるため、彼は晩年に被差別階級の人々とともに仏教への集団改宗を行った。
こうした功績から、彼は今でもインドでは被抑圧者の抵抗のシンボルとして尊敬を集めている。
最後にもうひとつだけ。
この映画とも関連したテーマで、インディペンデント音楽を扱った25分のドキュメンタリー作品がYouTubeでも観られるので紹介したい。
デリーのレゲエDJのTaru Dalmiaがレゲエやスカといったジャマイカ音楽を使ってナショナリズムと対峙する様子を追った"India's Reggae Resistance: Defending Dissent Under Modi"というAl Jazeeraが制作した2017年の映像作品だ。
どちらかというと「静かに燃えさかる炎」といった趣きの『何も知らない夜』に対して、レベルミュージックを使った運動は対照的な動的なイメージがある。
レゲエというインドの大衆の好みからは遠いスタイルで活動する彼には、いくぶんドン・キホーテ的な印象も受けるが、映画や音楽といったカルチャーが、インドの地で、自由を守るための声を上げつづけているのを見ると、いつも勇気づけられる。
こうした表現者の「矜持」を感じさせてくれる作品を、これからも作りつづけられるインドであってほしい。
最後の最後に補足というか、蛇足の蛇足。
現代のカースト差別の根底には、伝統的な「穢れ」の概念にもとづくものだけではなく、被差別カーストに公立学校や公務員などの一定の採用枠(留保制度=reservationと呼ぶ)が設けられていることなどに対するマジョリティからの反発も存在している。
「あいつらが優遇されているせいで俺たちが我慢を強いられている」みたいな、どこかで聞いたことがあるような理屈が存在しているのだ。
また、いわゆるヒンドゥー・ナショナリズムの信奉者が必ずしもカースト差別を肯定しているというわけではなく、むしろ「同じヒンドゥーの仲間」としてヒンドゥー教内での序列であるカースト差別に反対し、彼らを包摂しようという動きもある。
それ自体は良いことなのだが、その一方でイスラームなどの別の宗教を排斥していたりするので根が深い問題だ。
このあたりは、少し古い本だが、中島岳志著の『ヒンドゥー・ナショナリズム: 印パ緊張の背景』(2002年、中公新書ラクレ)に詳しい。
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goshimasayama18 at 12:07|Permalink│Comments(0)
2025年07月29日
『私たちが光と想うすべて』とTopsheの音楽についても改めて紹介しておきたい
光栄なことに、『私たちが光と想うすべて』のパンフレットに寄稿する機会をいただいた。
でも、パンフレットを読むのは劇場で映画を見終わった人だけだろうから、このブログでも改めて簡単に紹介しておきたい。
今では色々なタイプのインド映画が日本で公開されているが、この作品はどの映画にも似ていない。
そして、たいへん素晴らしい。
パヤル・カパーリヤー監督の作品がカンヌ映画祭のグランプリ(最高賞パルムドールに次ぐ評価)を獲得したというニュースを聞いたのは、去年の5月のことだったと思う。
その時はまだ、『私たちが光と想うすべて』という、直訳ながらセンスの良いタイトルもなく、原題の『All We Imagine As Light』で認識していた。
近年のインドでは、いわゆる「歌って踊るマサラムービー」的な映画だけではなく、海外の映画祭で高く評価されるようなタイプの良作もたくさん作られている。
だから正直、インド映画がカンヌ初めて受賞したという知らせを聞いても、そんなに興奮もしなかったし、驚きもしなかった。
驚いたのはその後。
コルカタのシンガーソングライター、Topsheのインスタグラムを見ていたときだった。
彼はセンスの良いインディーポップを作っているのだが、インドでもほぼ無名な、知る人ぞ知る存在だ。
おそらく彼の活動拠点がインドの「公用語」であるヒンディー語圏のムンバイやデリーではなく、ベンガル語圏のコルカタであることが影響しているのだと思うが、彼の知名度は、作品のクオリティと比較して驚くほど低い。
彼が2019年にリリースしたEP"Never A Romantic"なんて、CDの時代だったら、タワレコの洋楽コーナーで10枚入りの試聴機の7番目くらいにずっと入っていそうな(伝わるかなあ、この感じ)、良い味のある作品なのに。
ともかく、そのTopsheが、「自分が音楽を手がけた映画がカンヌでグランプリを取ってうれしい」と投稿していたのだから驚いた。
自分が推していた無名なミュージシャンが、カンヌでグランプリを撮るような才能のある映画監督に起用され、広く知られるようになるというのは、他人事とはいえうれしいことだ。
カパーリヤー監督がTopsheを起用した理由が、Topsheがじつは彼女の片腕とも言える撮影監督の弟だったからという身も蓋もない話を聴いたときは、驚いたというよりも力が抜けた。
縁故採用だったのかよ。
それでも、この作品でTopsheが果たした役割は、ちょっとすごいものがある。
ふだんTopsheが書いているのは、ギター主体のヴィンテージなポップスに美しいハーモニーを乗せた曲だったり、どこか懐かしい感じのシンセポップだったりする。
英語詞なので洋楽風なのだが、どこか無国籍で、都市に暮らす空虚さや憂鬱を感じさせられる音楽だ。
(Topsheの音楽が気になった方はこちらからどうぞ)
ところが、この映画のために彼が書いたのは、いつものスタイルとはまったく違うタイプの曲で、アコースティックギターに哀愁のある口笛が乗っていたり、アンビエントっぽかったりする。
いかにもサウンドトラックっぽいというか、言ってしまえばかなり地味な曲だ。
サントラだけ聴いた時にはちょっと微妙な気分になったものだが、エンドロールまで見れば、この作品で彼がすごくいい仕事をしたということがわかるはずだ。
都会に暮らす、ある種の諦念と希望、さりげない喜びや矜持。人生を祝福したくなる瞬間。
Topsheの音楽がもともと持っていた繊細な感覚が、カパーリヤー監督の世界観と見事に共鳴している。
パンフレットに書いたのでここでは繰り返さないが、Topshe以外の選曲のセンスもすばらしい。
Spotifyに各種サブスクにプレイリストがあるので(たぶん他のサブスクにも)、興味を持った方は調べてみてください。
パンフに書いた以外で、ごく短いシーンに使われている楽曲も、ウクライナのlo-fi/アンビエント系アーティストだったり、アルゼンチンの電子音楽ユニットだったりと、多様なルーツを持った音楽を、現代の普遍的な都市生活者の情感へと昇華するセンスが素晴らしい。
音楽の話ばかりしていてもしょうがないので、映画のあらすじを紹介する。
ケーララ出身のプラバとアヌは、大都市ムンバイで看護師として働き、ルームメイトとして同居している。
真面目な性格のプラバは既婚者だが、夫はドイツに出稼ぎに出たままずっと連絡がない。
奔放なアヌにはムスリムの恋人がいるが、ヒンドゥー教徒の彼女の両親が交際を認めてくれるはずもなく、その存在を隠して暮らしている。
二人が働く病院の食堂に務めるパルバティは、高層ビル建築のために、住居からの立ち退きを迫られ、とうとう故郷の村に帰ることになる。
プラバとアヌは、パルバティの故郷の海辺の村まで彼女を見送りに行く。
そこは喧騒と混沌のムンバイとはまったく異なる、ゆっくりとした時間が流れる場所だった。
プラバもアヌも、村で過ごす時間のなかで、自分の人生を取り戻してゆく…。
こうして書くと、ものすごく地味な印象を受けるかもしれないが、ストーリーだけを追えば、まあ派手な映画ではないのは確かだ。
派手な映画には表現のできない、私たちの人生にもっと近くて、愛おしい感覚が、『私たちが光と想うすべて』には結晶のように込められている。
興奮や高揚感ではなく、悲しみとか喜びとかいう名前をつけることがぎりぎりできないような感情をなぞりながら、一瞬も退屈させずに観る者をストーリーに惹きつけてゆく手腕が素晴らしい。
冒頭に貼った予告編でも伝わったと思うが、湿気を含んだモンスーンのムンバイの空気感を伝える色彩と、独特のざらっとした質感の映像もいいし、音の使い方もすごくいい。
この映画に出てくるムンバイは、高層ビル街でも高級住宅街でもなく、混沌に満ちた下町なのだけど、その雑踏の喧騒に、本当にその場にいるかのようなリアリティが感じられる。
映画の一部を切り取ったこの動画を見てもらえれば、その感覚が伝わるものと思う。
ストーリーの背景には、家庭や社会のなかで押し付けられた役割が、いまだに女性の自由や幸福を奪っているというテーマがある。
ただ、それが遠い国の物語ではなく、自分自身にも見に覚えがある感情として伝わってくる。
出稼ぎの夫が帰らないとか、恋人と宗教が違うとかいった悩みは、ほとんどの日本人にはまったく馴染みのない世界の話だろう。
それでも、人間が心の奥底で感じる孤独とか憂鬱というのは、そんなに変わらない。
ここまで書いてきた魅力だけで、この映画は十分に見る価値があるのだけど、さらに言うと、この映画はそれだけじゃない。
先ほどあらすじに書いた先の部分で、監督の映画作家としての凄みが、一気に出てくる。
「自分の人生の伏線は自分で回収する」ということなのか、マジック・リアリズムなのか、よく分からないのだけど、すごく痺れる展開がある。
これ以上言葉を重ねるのも野暮な気がするので、ここから先は、どうか映画館で味わってみてください。
映画の背景の説明ももう少しだけ。
この映画は、ムンバイが舞台ではあるものの、登場人物のほとんどがケーララ出身者で、同州のマラヤーラム語を話しているという点が独特だ。
プラバ、アヌ、プラバに密かに想いを寄せるマノージ先生、アヌの恋人のシアーズがマラヤーラム語話者だ。
自分はてっきりパヤル・カパーリヤー監督もケーララの人だと思っていたのだが、彼女はムンバイ育ちだという。
自分の母語でない言語で映画を作ろうと思い立つのも、それでカンヌのグランプリを受賞してしまうのもすごい。ケーララ州は小さな州だが教育レベルが高いことで知られている。
マラヤーラム語映画といえば、近年では破茶滅茶ながらも哲学的でアートっぽさもある『ジャッリカットゥ 牛の怒り』とか、社会派の『グレート・インディアン・キッチン』が日本でも公開されている。
そういう流れがあったので、てっきりこの映画もマラヤーラム語ネイティブによる作品だと思っていた。
映画の冒頭に出てくるタイトルも英語とマラヤーラム語だったし。
この作品を見たケーララの人がどう感じたのか、気になるところではある。
このへんの背景は知らなくても十分に楽しむことができるのだけど、知っておくとまた感じ方が変わってくると思うので、一応書いておいた。
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goshimasayama18 at 00:03|Permalink│Comments(4)
2024年09月15日
映画『ポライト・ソサエティ』の痛快さと絶妙なセンスについて書く
これから映画『ポライト・ソサエティ』について書くにあたって、この批評的な文章が、かなり蛇足というか無粋なものになるということをあらかじめことわっておく。
『ポライト・ソサエティ』はいろんな側面から「語れる」要素のある作品なのだが、アクション・コメディであるこの映画に対しては、監督や俳優の出自よりも、面白くて痛快でブッ飛んでいて斬新な部分にフォーカスしたほうがが正しいような気がするし、あるいは斜に構えた女の子の映画として、『ゴースト・ワールド』や『ブックスマート』の系譜につらなる作品として論じた方が良いのかなあ、とも思う。
でもそれは私以外に適任な人がいるはずなので、無粋は承知でひとまず軽刈田凡平として書きたくなってしまったことをここに書いておく。
この映画の監督はパキスタン系イギリス人のニダ・マンズールなので、「国籍」で言えば『ポライト・ソサエティ』はイギリス映画ということになる。
だが、監督や主要キャストを軒並み南アジア系(主にパキスタン系)イギリス人が務めたこの作品は、しいて言うならディアスポラ映画ということになるだろうか。
あえてこう書いたのは、この作品が普遍的なエンタメを目指しながらも、彼女たちのルーツを大きくフィーチャーし、それがかなり面白い効果を発揮しているからだ。
「映画の文法」としては、南アジア的な部分はほとんどないし、かといってマジョリティ中心に作られたイギリス映画でもありえない。
例えるなら、南アジアのスパイスが効いたイギリス料理。
そもそもイギリス料理が美味しそうではないので、これでは面白く感じられないかもしれないけど、あえて料理に例えるなら、こういう表現になるだろうか。
とにかく、非常にユニークで面白い映画なのだが、一般の映画好きとインド映画ファンのエアポケット的なところにはまってしまっているのか、そこまで大きな話題にならないまま上映終了になるところも出てきてしまっているようで、それがもったいないのでこうして紹介を書いている。
(以下、斜体の部分はパンフレットに掲載されていたインタビューから抜粋したコメント)
本作を作りたかった理由はたくさんありますが、一番は南アジア系の10代の女の子がアクションヒーローになるのを見たかったからです。私は子供の頃からアクション映画のスペクタクルが大好きでしたが、一方で、どこか取り残されたような気持ちを抱いていました。南アジア系のキャラクターは、たとえ登場しても権力者やテロリストの役だったり、白人の主人公のただの友達役だったり…。欠点もあって、面白くて、クールな南アジア系の女の子をメインに据えることこそ、私がこの映画に懸けるすべてでした。(ニダ・マンズール監督)
この作品のあらすじをごく簡単に紹介すると、
「スタントウーマンを夢見る高校生リアは、アートスクールに通う姉リーナが芸術の道をあきらめ、金持ちのイケメンと結婚すると聞き、ショックを受ける。結婚を破談にするため、友人の協力を得てありとあらゆる手を尽くそうとするなかで、新郎一家の秘密を知ってしまう」
という話。
ストーリーの背景には世代間の価値観の違いや「家父長制に立ち向かう」といった南アジアの映画に通底するテーマがあるものの、社会的かつシリアスな要素は前面に出さず、あくまでもエンタメに振り切っていて、軽やかなコメディに仕上げている。
主人公の姉は親に無理やり結婚させられるわけではないし(むしろ自分から望んでいる)、女性vs家父長制という構図はあくまでも後景に見え隠れする、くらいの匙加減だ。
この映画では男性の存在感は奇妙なほどに薄くて、姉の婚約相手以外、ひたすら姉妹と女友達と母親たちで物語が展開してゆく。
そこに、唐突に荒唐無稽なカンフー的バトルシーンが差し込まれる。
そのほぼ全てが「女vs女」なのだが、これは別に「女の敵は女」みたいなことじゃなくて、いろんな立場や考え方の女性たちが(とくに、移民かつ女性という二重にマイノリティである女性たちが)おのれの望みを果たすため暴れ回るというという構造自体によって、シスターフッドを表している。
「インパクトは重要、セクシーさは不要」をモットーに、これ以上ないほど考え抜きました。映画の中で描かれる女性は未だに超セクシーか、そうでなければ超フェミニストだったりすることが多くて(中略)、でも女性らしさを表現する方法はもっと多様ですよね。(衣装:P.C.ウィリアムズ)
シスターフッドという言葉を男性の自分が使うとちょっと借り物みたいな気持ちになってしまうのだけど、女性だけが共感できて男性が疎外感を感じるような映画ではないということはちゃんと言っておきたい。
もっと男がたくさん出てきたり、南アジア系以外の人たちが前面に出てきてしまっては、この絶妙な爽快感は生まれ得なかった。
前述の衣装担当P.C.ウィリアムズの言葉は、とくにこだわったという高校の制服についてのコメントだが、この感覚は映画全体を通じてずっと流れている。
女性たちはセクシー要員でも主張を伝えるためのアイコンでもなく、ただそれぞれの個性のもと暴れ回る。
女性たちはセクシー要員でも主張を伝えるためのアイコンでもなく、ただそれぞれの個性のもと暴れ回る。
展開的にはかなり力技なところもあって、そこは賛否が分かれるかもしれないが、これはたぶんそういうことを評すべき映画ではない。
実は個人的に、こういう映画が私の幼い頃に存在していたらと思う気持ちがあります。私が生まれ育った国のテレビの画面では、私のような見た目の人を観ることができなかった。もし、自分がこういう映画に若い頃に出会えていたら、もっと若いうちから自信を持てたり、違うことは違うと言える女性になれていたと思います。 (主演:プリヤ・カンサラ)
それから、これはいくら特筆してもしすぎることはないと思うのだけど、主演のプリヤ・カンサラがすごく良かった。
きっと彼女はこの後もアクションやコメディや、いろいろな映画で活躍することと思うが、この映画を超えるインパクトを得ることは難しいのではないか、と本気で思ってしまうくらい、役にはまっていた。
「I am the fury」(私は怒りそのもの)という決め台詞がたくさん出てくるのだが、彼女がなんで怒っているのか、じつはよく分からない。
「抑圧された女性たちの怒り」というメッセージもあるのだろうけど、若者が持つ理由のない怒りの戯画的な表現にもなっているような気がする。
コメディエンヌ的なのだが、すっとしたプライドも感じられて卑屈ではない。
反対に凛としたアクションにも、コメディの軽やかさがずっと持続している。
とても良かった。
あと、この映画の衣装やダンスシーンなど、「ボリウッド・リスペクト」として紹介されている部分も多いんだけど、私はむしろ「ボリウッド・サンプリング」と呼びたい。
ソウルクラシックをサンプリングしたヒップホップの曲が、元ネタとは全く違う曲になっているように、衣装やダンスはボリウッドをもとにしていても、質感としてはまったく別のものになっているからだ。
南アジア系の登場人物たちは、南アジアのイスラーム文化を守りながらも、生活様式や価値観に完全に現代イギリスに適応しているように見える。
その彼女たちが、伝統的な衣装に身を包んだり、過去の映画に使われたダンスを踊ったりするとき、ルーツを誇りつつも、そこには微妙な距離感があって、インド国内の映画が過去作にオマージュを捧げるのとは全然違う雰囲気がある。
自然体でもありつつ、少し演じているような感じというか。
そのちょっとした距離感に、すごく今日的なリアルさがあって良い。
日本で言うと、最近リリースされたラッパー千葉雄喜(元Kohh)の“Jameson Ginger”(まさかのムード歌謡)に似た感触を感じた。
このへんの感覚がいつも紹介しているインド本国のインディーミュージシャンが伝統的な要素を取り入れるときにすごく近いような気がして、それもたぶんこの映画に惹かれた理由だと思う。
軽刈田のブログを面白いと思ってくれている方がいたら、『ポライト・ソサエティ』は間違いなく楽しめるはずだ。
それから全編を通して、音楽も素晴らしく良かった。
インド系オーストラリア人を中心に結成され、レトロでモンドなインド歌謡を追求したBombay Royaleを中心に、Dope Saint Jude(南アフリカのフィメールラッパー)、Chemical Brothersから、Shirelles(オールディーズ)、浅川マキ(!)、古いボリウッドまで、東西新旧を問わず映画のテーマに沿ったセンスの良い曲を集め、かつ自分たちのルーツも客観視しつつ大事にしている。
やっぱりこのあたりの感覚はインドのインディーズシーンと非常に近い。
そういうわけで、上映が終わる前にぜひ見ることをおすすめしたい映画です。
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goshimasayama18 at 17:09|Permalink│Comments(0)
2024年09月01日
映画音楽に進出するインディーアーティストたち
もうこのブログに100回くらい書いてきたことだけど、インドでは長らく映画音楽がポピュラー音楽シーンを独占していた。
いつも記事にしているインディペンデント系の音楽シーンが発展してきたのは、インターネットが普及した以降のここ10年ほどに過ぎない。
インドの音楽シーンでは、映画のための音楽を専門に手掛ける作曲家・作詞家・プレイバックシンガーと、自分たちの表現を追求するインディーズのアーティストは別々の世界に暮らしていて、前者の市場のほうがずっと大きく、大きなお金が動いている、というのがちょっと前までの常識だった。
ところが、ここ5年ほどの間に、状況はかなり変化してきている。
インドではいまやヒップホップが映画音楽を超えて、もっとも人気があるジャンルなのだという説まであるという。
参考記事:
日印ハーフのラッパーBig Dealも、インタビューで「ヒップホップはインドでボリウッド以上に人気のあるジャンルになっている」と熱く語っていた。
まあこれはかなり贔屓目に見た意見かもしれないが、ヒップホップを含めたインディーズ勢が急速な成長を遂げ、インドのポピュラーミュージックシーンで存在感を強めているのは間違いない。
それを象徴する事象として、ここ数年の間に、インディーズのミュージシャンが映画音楽に起用される例が多くなってきた。
その背景には、インディーズミュージシャンのレベルの向上と、とくに都市部の若者の音楽の好みが、これまで以上に多様化してきたという理由がありそうだ。
私の知る限りでは、映画音楽に進出したインディーミュージシャンでもっとも「化けた」のは、OAFF名義でムンバイ在住の電子ポップアーティストKabeer Kathpaliaだ。
以前は渋めのエレクトロニック音楽を作っていたOAFFは、2022年にAmazon Primeが制作した映画"Gehraiyaan"に起用されると、一気に映画音楽家として注目を集めるようになった。
OAFF, Savera "Doobey"
歌っているのはLothikaというシンガー。
作詞は映画専門の作詞家であるKausar Munirが手掛けているという点では、インド映画マナーに則った楽曲と言える。
この曲のSpotifyでの再生回数は1億回以上。
タイトルトラックの"Gehraiyaan Title Track"にいたっては、3億回以上再生されている。
映画の主演は人気女優ディーピカー・パードゥコーンと『ガリーボーイ』の助演で注目を集めたシッダーント・チャトゥルヴェーディ。
監督は"Kapoor and Sons"(2016年。邦題『カプール家の家族写真』)らを手がけたシャクン・バトラー(Shakun Batra)が務めている。
OAFFは2023年のNetflix制作による映画"Kho Gaye Hum Kahan"にも関わっているのだが、この作品はさらに多くのインディーズアーティストが起用されていて、サントラにはプロデューサーのKaran KanchanやラッパーのYashrajも参加。
以前インタビューで「あらゆるスタイルに挑戦したい」と言っていたKaran Kanchanが、ここでは古典音楽出身でボリウッド映画での歌唱も多いRashmeet Kaurと組んで、見事にフィルミーポップ風のサウンドに挑戦している。
Karan Kanchan, Rashmeet Kaur, Yashraj "Ishq Nachaawe"
この映画の監督は『ガリーボーイ』や『人生は二度とない(Zindagi Na Milegi Dobara)』のゾーヤー・アクタルで、主演はまたしてもシッダーント・チャトゥルヴェーディ。
(ところで、人物名にカナ表記とアルファベット表記が混じっているが、これは検索しても日本語で情報がなさそうな人はアルファベット表記で、ある程度情報が得られそうな人はカナ表記にしているからです)
音楽のセレクトから監督・主演まで、いかにも都市部のミドルクラスをターゲットにした陣容だ。
ムンバイのメタルバンドPentagramの出身のVishal Dadlani(ボリウッドの作曲家コンビVishal-Shekharの一人)のように、インディーズから映画音楽に転身した例もあり、OAFFが今後どういう活動をしてゆくのか、気になるところではある。
もうちょっと前の作品だと、シンガーソングライターのPrateek Kuhadの名曲"Kasoor"のアコースティックバージョンがNetflix映画の『ダマカ テロ独占生中継(Dhamaka)』(2021)で使われていたのが記憶に残っている。
Prateek Kuhad "Kasoor (Acoustic)"
これは映画のために書き下ろされたのではなく、既存の曲が映画に使われたという珍しい例。
ここまで読んで気づいた方もいるかと思うが、インディーミュージシャンの起用はNetflixとかAmazon Primeとかの配信系の映画が多い。
インディーズ勢の音楽性が配信作品の客層の好みと合致しているからだろう。
ヒップホップに関して言うと、ここ数年の間に、Honey SinghとかBadshahじゃなくてストリート系のラッパーが映画音楽に起用される例も見られるようになってきて、いちばん驚いたのは、この"Farrey"という2023年の学園もの映画にMC STANが参加していたこと。
"ABCD(Anybody Can Dance)"や"A Flying Jatt"(『フライング・ジャット』)の映画音楽を手がけたSachin-Jigarによる曲でラップを披露している。
MC Stan, Sachin-Jigar & Maanuni Desai "Farrey Title Track"
おそらくインド初のエモ系、マンブル系ラッパーとしてシーンに登場したMC STANは、映画音楽からはいちばん遠いところにいると思ったのだが、実はあんまりこだわりがなかったようだ。
セルアウトとかそういう批判がないのかは不明。
ラップ部分のリリックのみSTAN本人が手がけている。
映画にはサルマン・カーンの姪のAlizeh Agunihotriが主演。サントラには他にBadshahが参加したいつもの感じのパーティーチューンなんかも収められている。
ストリート系のラッパーが映画音楽に参加した例としては(ヒップホップ映画の『ガリーボーイ』(2019)は別にして)、さかのぼればDIVINEとインドのベースミュージックの第一人者であるNucleyaが起用された"Mukkabaaz"(2018)や、もっと前にはベンガルールのBrodha VとSmokey the Ghostが参加していた 『チェンナイ・エクスプレス』(2013)もあった。
いずれも各ラッパーのソロ作品に比べるとかなり映画に寄せた音楽性で、アーティストの個性を全面に出した起用というよりは、楽曲の中のラップ要員としての起用という印象が強い。
「映画のための音楽」と個人の作家性が極めて強いヒップホップはあんまり相性が良くなさそうだが、このあたりの関係が今後どうなってゆくかはちょっと気になるところだ。
ここまでヒンディー語のいわゆるボリウッド映画について述べてきたが、南インドはまた状況が違っていて、タミルあたりだとArivuなんてもう映画の曲ばっかりだし、最近注目のラッパーPaal Dabbaもかなり映画の曲を手がけている。
Paal Dabba & Dacalty "Makkamishi"
2024年の映画"Brother"の曲。
濃いめの映像、3連のリズムとパーカッション使いがこれぞタミルという感じだ。
Arivu "Arakkonam Style"
こちらもまたタミルっぽさとヒップホップの理想的な融合と言えるビート、ラップ、メロディー。
映画"Blue Star"(2024)には、自身もダリット(カーストの枠外に位置付けられてきた被差別民)出身で、ダリット映画を手がけてきたことでも知られるパー・ランジット(Pa. Ranjith)が制作に名を連ねている。
Arivuはもともと彼が召集した音楽ユニット、その名もCasteless Collectiveの一員でもあり、ランジットは『カーラ 黒い砦の闘い』(2018年。"Kaala")でもラップを大幅にフィーチャーしていた。
タミル人に関しては、メジャー(映画)とインディーズ音楽の垣根がそもそもあんまりなく、2つのシーンがタミルであることの誇りで繋がっているような印象を受ける。
タミルのベテランヒップホップデュオHip Hop Tamizha(まんま「タミルのヒップホップ」という意味)なんて映画音楽を手掛けるだけじゃなくてメンバーのAdhiが映画の主演までしているし。
Hip Hop Tamizha "Vengamavan"
これは2019年の"Natpe Thunai"という映画の曲。
この頃は、いかにもタミル映画の曲にラップが入っている、という印象だったけど、最近の映画の曲になるとかなりヒップホップ色が強くなってきている。
Hip Hop Tamizha "Unakaaga"
これはAdhiが主演だけでなく監督も務めた"Kadaisi Ulaga Por"という今年公開された映画の曲。
今後、タミルの映画音楽がどれくらい洋楽的なヒップホップに寄って来るのかはちょっと注目したいポイントである。
南インド方面で驚いたのは、アーメダーバード出身のポストロックバンドAswekeepsearchingが、今年(2024年の)公開の"Footage"という映画のサウンドトラックを全て手掛けているということ。
予告編ではかなり大きく彼らの名前が取り上げられていてびっくりした。
映像的なポストロックは確かに映画音楽にぴったりだが、エンタメ的な派手さとは離れた音楽であるためか、インドで映画音楽に使用された例は聞いたことがない。
ケーララ州のマラヤーラム語映画で、この独特のセンスはいかにもといった感じ。
サントラはすでにサブスクでリリースされていて、予告編の曲は弾き語り風だが、他の曲では彼ららしいダイナミズムに溢れたサウンドを楽しむことができる。
2017年リリースの"Zia"に収録されていたこの曲も映画で使用されているようだ。
Aswekeepsearching "Kalga"
ここまで紹介した曲が、ほとんど「インディー系のアーティストが映画のためのサントラを制作」とか、「映画のサントラにインディー系のアーティストが起用」だったのに対して、このケースはAswekeepsearchingの音楽のスタイルを映画に寄せることなく映画音楽として成立させていて、他の例とは違うタイプの起用方法だと言えそうだ。
そういえばマラヤーラム語映画では、以前"S Durga"(2018)という映画でもスラッシュメタルバンドのChaosが起用された例があったが、こういう傾向が今後他の言語の映画にも広がってゆくのかどうか、興味深いところではある。
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goshimasayama18 at 17:18|Permalink│Comments(0)
2023年03月20日
インド映画音楽いろいろ!(2023年度版)
Radikoのタイムフリーで聞ける期間も終わった頃なので、こないだのJ-WAVEの'SONAR MUSIC'のインド映画音楽特集で紹介した音楽を改め紹介しておきます。
最初に自分の立ち位置をはっきりさせておくと、私はインドのインディー音楽シーンを追いかけている人間なので、メインストリームである娯楽映画に対しては、そのエンタメとしての途方もないパワーに敬意を抱きつつも、なんつうか、ちょっとアンビバレンツな感情を抱いていた。
音楽は映画の奴隷じゃねえぞ、みたいなね。
(注:インド映画というカルチャーをディスるつもりは全くないです。「ミュージシャンが自主的に表現しているものこそが音楽」という先入観に囚われた人間の断末魔として捉えてください)
とはいえ、インディー文化を語るにはメインストリームも知っておかないといけない、と思ってチェックしてみると、映画音楽には、欧米のトレンドを躊躇なく取り入れて、見事にインディアナイズした面白くてかっこいい曲がたくさんある。
さすが巨大産業。
そもそも、誰もが表現者になれるこのご時世、メジャーな枠組みのなかで真摯な表現を追求している人もいれば、完全にインディペンデントでもマーケティング的にバズりを狙っている人もいるのはあたり前な話で、メインストリームとかインディペンデントとか分けて考えること自体が無意味なのかもしれない。
たぶん、自分は「どこで誰かどんな音を鳴らしているか」にこだわり過ぎていたのだ。
単純に音としてカッコいいものを味わうことを忘れていたのかもしれない。
というわけで、だいたい2000年以降のインド映画の音楽からピックアップしたカッコよかったり面白かったりする曲を紹介してみます。
諸般の事情でオンエアすることができなかった曲もたくさんあるので、それはまた別の機会に紹介したい(本当はサウスの曲をもっと入れたかった)。
後半が最近の曲になっています。
映画:『ガリーボーイ』("Gully Boy"/2018年/ヒンディー語)
曲名:"Mere Gully Mein"
このブログで何度も書いている通り、『ガリーボーイ』のこの曲は「映画のために作られた専門の作曲家/作詞家による曲」ではなく、映画のモデルとなったラッパーのDIVINEとNaezyのオリジナル曲。
ストリートラッパーの曲がほぼそのままの形でボリウッド映画に起用されるというのは、前列のない事件だった。
この映画バージョンでは、オリジナル音源で主人公ムラドのモデルNaezyがラップしていたパートを主役を務めたランヴィール・シン自らがラップしている。
相棒のMCシェールのパートは、モデルとなったDIVINEのラップにシッダーント・チャトゥルヴェーディがリップシンク。
アメリカで生まれたヒップホップという文化がインドの階級社会の中でどんな意味を持ち得るのか、それを大衆娯楽であるボリウッドの中で、それをどう表現できるのかという点に果敢に挑んだ意欲作だ。
映画:『カーラ 黒い砦の闘い』("Kaara"/2018年/タミル語)
曲名:"Semma Weightu"
『ガリーボーイ』と同じ年に公開されたタミル語作品で、舞台も同じムンバイのスラム街ダラヴィ。
主演はタミル映画の「スーパースター」ラジニカーントで、監督は自らもダリット(被差別階級)出身のPa. Ranjith.
彼は反カーストをテーマにしたフュージョンラップグループCasteless Collectiveの発起人でもある。
ダラヴィといえばヒップホップという共通認識があるのか、特段ヒップホップ要素のないこの作品でも、サウンドトラックはラップの曲が多く採用されていて、実際にダラヴィ出身のタミル系ラッパーがミュージカルシーンにも出演している。
タミル映画となると、同じダラヴィが舞台のラップでもボリウッド(ヒンディー語作品)と違って、映像も音楽もこんなに濃くなる。
映画:『君が気づいていなくても』"Jaane Tu Ya…Jaane Na"(2008年/ヒンディー語)
曲名:"Pappu Can't Dance"
映画音楽特集ということで、現代インド映画音楽の最大の偉人、A.R.ラフマーンの曲を何かひとつ紹介したいと思って選曲したのがこの曲。
ラフマーンといえば、1997年に日本で大ブームを巻き起こした『ムトゥ 踊るマハラジャ』の音楽を手掛けたタミル出身の音楽家で、ミック・ジャガー、ダミアン・マーリー、ジョス・ストーン、デイヴ・スチュアート(元Eurhythmics)と結成したプロジェクトSuperheavyを覚えている人もいるだろう。
ラフマーンはインド古典音楽から西洋クラシック、クラブミュージックまで幅広い音楽的素養のある人で、映画の内容によってその作風は千変万化する。
今回はとくにインドに興味のないリスナーの方にも面白いと思ってもらえそうな曲を選んでみた。
この曲は2008年の映画に使われた曲で、お聴きいただいて分かる通り、ビッグビート的なテクノサウンドをインド映画音楽に違和感なく導入した、彼の才能と大衆性が伝わる一曲だと思う。
2008年といえば、日本ではPerfumeの『ポリリズム』がヒットした頃で、J-Popにクラブミュージックを取り入れる方法論が提示された年でもあったわけだが、同じようなことがじつはインドでも起こっていたのだ。
ローカルな音楽シーンにクラブミュージック的な高揚感を導入する様式が確立する時代だったのか。
他の地域に関しては分からんけど。
この曲が使われた"Jaane Tu Ya...Jaane Na"は、今現在(2023年3月)Netflixで『君が気づいていなくても』という邦題で日本語字幕で見られるようなので、興味がある方はチェックしてみてください。
アーミル・カーンの甥のイムラーン・カーン主演のロマンチック・コメディとのこと。
映画:"Gangubai Kathiawadi"(2022年/ヒンディー語) 曲名:"Dholida"
番組後半からは、最近の映画の曲を厳選して紹介しています。
前半で紹介したのがヒップホップとかエレクトロニック系の曲ばかりだったので、オールドスクールなインドっぽい曲を紹介しようと思って選んだのがこの曲。
欧米のダンスミュージックを取り入れなくても、インドの伝統的なパーカッションと歌だけでこんなにかっこいいグルーヴが出せるということを示したかった。
インド音楽的には、ベースが入っているところとコーラスがハーモニーになっているところが現代的なアレンジと言えるだろうか。
インドの音楽にはもともと通奏低音や和声といった概念がなく、例えば90年代頃でも、伝統的なアレンジの映画音楽にはベースが入っていなかった。
映画はNetflix制作の"Gangbai Kathiawadi".
『RRR』や『ガリーボーイ』でもヒロインを務めていたアーリヤー・バットが実在したムンバイの娼館の女ボスを演じている。
映画としては、主人公を性産業で働く女性たちの権利のために立ち上がる存在として描いているところに現代的な味付けがあると言えるか。
Netflixの言語設定を英語にすると英語字幕で見ることができる。
映画:『ダマカ テロ独占生中継』(2021年/ヒンディー語) 曲名:"Kasoor (Acoustic)"
こちらもNetflix映画の曲で、この作品(『ダマカ テロ独占中継』)は日本語字幕で見ることができる。
面白いのは、この映画が韓国映画の『テロ、ライブ』という作品のリメイクだということ。
それが、海外資本によるネット配信作品として公開されるという、新しいタイプのインド映画だと言えるだろう。
この曲はインドのインディー音楽シーンで最高のシンガーソングライターと言っても過言ではないPrateek Kuhadの既発曲で、映画のために作られた曲ではなくて既存の曲が起用されたという点でも新しい。
"Kasoor"はこのブログでも何度も紹介してきた名曲中の名曲。
映画に使用されているのはそのアコースティックバージョンだ。
映画:"Pathaan"(2023年/ヒンディー語) 曲名:"Besharam Rang"
EDM的かつラテン的という近年のボリウッドのトレンドをばっちり取り入れた曲ということで選んだのがこの曲。
ヒンディー語の歌以外のトラック部分は、欧米のヒットチャートに入っていても全く違和感のない音作りで、そういう意味では日本よりも「進んでいる」とも言える。
ヨーロッパロケのミュージカルシーンも、ディーピカー・パードゥコーンが披露するヒップホップ的な挑発的セクシーさも、今のボリウッド現代劇を象徴しているかのようだ。
音楽を手掛けているのは2000年代以降のボリウッドに洋楽的な洗練を持ち込んだ二人組Vishal-Shekhar.
メンバーのVishal Dadlaniは1994年に結成されたインダストリアル・メタルバンドPentagramでのメンバーでもあった。
映画は今年1月に公開されたシャー・ルク・カーン4年ぶりの主演作である国際スパイ・アクション"Pathaan".
(3月27日追記:2月に公開、5年ぶりと書いてしまってましたが、コメント欄でご指摘いただいて修正しました)
日本公開が待たれる作品である
今回紹介できなかった曲は、また改めて書きたいと思ってます!
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goshimasayama18 at 23:32|Permalink│Comments(2)
2023年03月14日
スヌープ・ドッグ! カイリー・ミノーグ! Akon! Nas! 世界的スターを起用したボリウッド映画の曲を紹介
3月13日(月)のJ-WAVE 'SONAR MUSIC'「インド映画音楽特集」でいろいろ紹介してきました!
本当はもうちょっとヒンディー語(=ボリウッド)以外の曲ももっと紹介したかったのですが、オンエアするためのいろいろな条件が合わず、ちょっと偏っちゃったかな、とも思ってます。
サウスを期待していたみなさん、ゴメンネ。
あと、ラジオ映えする曲に絞って選曲したので「なんであの曲がないんだ!」とか「なんであの映画の話がないんだ!」という方も、ゴメンナサイ。
今回は番組では紹介しきれなかったテーマでお届けします。
いまや経済成長著しいインドのエンタメのメインストリームである映画のもつ資金力はすさまじく、インド最大の制作本数を誇るヒンディー語のエンタメ映画(いわゆるボリウッド)では、ミュージカルシーンに使われる楽曲に、世界的に有名なアメリカやイギリスのシンガー/ラッパーが起用されることもある。
というわけで、今回は、あっと驚くようなアーティストが参加したボリウッドの曲を紹介!
まずは、説明不要のウェストコーストの超大物ラッパー、Snoop Doggが起用された、2008年の映画"Singh is Kinng"のテーマ曲。
Snoop Dogg, RDB & Akshay Kumar "Singh is Kinng"
アクシャイ・クマール主演(彼の名前はこの曲にもクレジットされている)、カトリーナ・カイフがヒロインを務めたこの映画は、オーストラリアの裏社会で暗躍するシク教徒のマフィアのボスと、パンジャーブの田舎街に住む彼の純朴な弟との関係を軸にしたアクション・コメディということらしい。
監督は「コメディの帝王」と呼ばれているというアニース・アズミー。
映画の情報は、arukakatさんこと高倉嘉男に詳しく記載されている。
ターバン姿で知られるシク教徒は、イギリスやカナダ、アメリカへの移住者も多い。
彼らは'90年代に伝統音楽の「バングラー」とヒップホップを結びつけたスタイルを生み出し、それはやがてインドのメインストリーム・ラップの原型となった。
この曲でスヌープと共演しているのは、そうした英国産インド系ヒップホップのオリジネイターのひとつであるRDB.
楽曲制作もスヌープとRDBの共作で行われたようだ。
アッパーなビートとスヌープのレイドバックしたフロウが生むギャップが面白い。
曲はまあ、ラップとしてもバングラーとしても弱いが(そもそもバングラーではないし)、映画のラストとかに流れたらちょっと面白いかな、とは思う。
スヌープ起用の理由は今ひとつわからないが、彼のギャングスタ・ラッパーとしてのイメージがマフィアをテーマにしたこの映画とマッチしたからだろうか。
2008年といえば、インド国内のヒップホップシーンはまだ極めてアンダーグラウンドだった。
というか、この時期から活動していたラッパーはほとんどおらず、シーンと呼べるものが存在していたかどうかすら怪しい。
当然、ヒップホップ界のスーパースターであるスヌープの認知度もインドでは低かったはずで、そう考えると大金を投じて彼を起用する理由は見当たらないが、もしかしたら、海外在住のシク教徒のマーケットを見据えたものだったのかもしれない。
イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアには、合わせて200万人弱のシク教徒が在住している。
ちなみにRDBはシク教徒のホッケー選手を主人公としたカナダ映画"Break Away"でリュダクリスとも共演している。
ラップとヒンディーポップの融合という意味では"Singh is Kinng"と同じスタイルだが、インド映画とカナダ映画でのサウンドの違いを味わってみるのも一興。
Ludacris, RDB "Shera Di Kaum"
ちなみにこの映画には現在カナダ国籍を持っている前述のアクシャイ・クマールがプロデューサーとして名を連ねており、カメオ出演もしているとのこと。
この映画は"Speedy Singh"というタイトルでヒンディー語に吹き替えられてインドでも公開された。
続いては、2009年の映画"Blue"からの曲。
起用されているのは1980年台から活躍するイギリスの人気シンガー、カイリー・ミノーグ。
Kylie Minogue, Sonu Nigam "Chiggy Wiggy"
この映画はサンジャイ・ダット主演の海洋アクションで、共演にさっきの"Singh is Kinng"にも出演していたアクシャイ・クマールも名を連ねている。
監督はアントニー・デスーザという人で、当時としてはかなりの予算をかけて作られた作品のようだが、前述のarukakatさんによると、出来はイマイチだったようだ。
音楽を担当しているのは現代のインド映画音楽界の第一人者A.R.ラフマーン。
彼のポピュラー音楽作家としての力量を存分に感じることができる出来栄えだ。音楽を担当しているのは現代のインド映画音楽界の第一人者A.R.ラフマーン。
中盤以降にバングラー/ヒンディーポップ的なアレンジを入れてちゃんとインドの観客を喜ばせることを忘れないのもプロフェッショナル。
この曲におけるカイリー・ミノーグの起用理由は、おそらくカリブの海を舞台にした作品の雰囲気に合うこと、そして中産階級をターゲットにした映画としても適切な人選だからといったところだろう。
インド都市部の英語で教育を受けた人々は、いわゆる洋楽嗜好が強い。
また、'00年代初頭に再燃したカイリーの人気がちょっと落ち着いた時期で、オファーしやすかったということもあったかもしれない。
Akon(エイコン)が英語混じりのヒンディー語で歌うのは、シャー・ルク・カーン主演の2011年のSFアクション映画"Ra.One"の曲。
Akon, Vishal Dadlani, Shruti Pathak "Criminal"
arukakatさんによる映画情報はこちらからどうぞ。
Akon, Vishal Dadlani, Shruti Pathak "Criminal"
arukakatさんによる映画情報はこちらからどうぞ。
この映画の楽曲を手掛けているのは、Vishal-Shekhar.
英語ヴォーカルで歌うムンバイのヘヴィロックバンドPentagramのヴォーカリストVishal Dadlaniと、映画音楽作家のShekhar Ravjianiによるコンビで、この2人は2000年以降のボリウッド作品に洋楽的センスを持ち込んで人気を博している。
'00年代に"Locked Up"や"Lonely"などいくつものヒット曲をリリースし、レディ・ガガの才能を見出したことでも知られるAkonだが、この曲にはキツめのオートチューンがかかっているし、劇中のミュージカルシーン(ミュージックビデオ)では最初にちょっと出演しただけでシャー・ルクの口パクになってしまうというし、けっこうひどい扱いをされている。
Akon "Chammak Challo"
"Ra. One"ではこの曲もAkonが歌っているが、今度は映像にもいっさい登場せず、はっきりいってほとんどAkonの無駄遣いともいえる。
でもYouTubeのコメントを見る限り、彼が流暢なヒンディー語で歌っていることに対してインドのリスナーは概して好意的に受け止めているよう出し、まあいいのか(この曲にはタミル語も混じっているようで、タイトルはパンジャービー語で「セクシー・ガール」の意味とのこと)。
この映画にAkonが起用された理由はやはり謎だが、この映画をリリースした2011年当時、彼は少しずつ「往年の人気シンガー」になりつつあり、ここでも「知名度の割に起用しやすかった」という理由はあったものと思われる。
また、この映画がかなりハリウッドを意識した作風であったことから、もしかしたら世界市場を見据えての起用だったのかもしれない。
それはともかく、"Ra.One"のサウンドトラックでは、"Stand By Me"を引用した"Dildara"が白眉だった(この曲にはAkon不参加)。
Shafqat Amanat Ali "Dildaara"
そういえばボリウッドではロイ・オービソンの"Oh, Pretty Woman"を引用した曲もあった。
Shankar Mahadevan & Ravi 'Rags' Khote "Pretty Woman"
こちらは2003年に公開された、アメリカが舞台のヒット映画"Kal Ho Naa Ho"に使用された曲。
音楽を手掛けているのは90年代のボリウッドに洋楽的センスを持ち込んだトリオShankar-Ehsaan-Loy.
ちょうどVishal-Shekharの一昔前に同じようなことをやった人たちと言えるが、Vishal-ShekharにしてもShankar-Ehsaan-Loyにしても、その気になればオールドスクール・ボリウッド的な楽曲を作ることもできるというのがやはり人気の秘密なのだろう。
もちろん、ラフマーンも然りである。
ちなみにShankar-Ehsaan-LoyのひとりLoy Mendonsaの息子Warren Mendonsaは、ピンク・フロイドのデイヴ・ギルモアみたいなスタイルのギタリストとして、映画音楽ではなくインディー音楽シーンで活躍している。
話がそれた。
洋楽を引用した曲の紹介じゃなくて、洋楽のスターが参加した曲の紹介をしていたんだった。
次はこれ。
Nasが起用された2018年のヒップホップ映画"Gully Boy"のエンディングテーマで、映画のモデルになったムンバイのラッパーたちとの共演。
Nas feat. DIVINE, Naezy, Ranveer Singh "NY se Mumbai"
劇中にこそ出演しないものの、この映画はムンバイで行われるNasのライブの前座を目指すラップバトルがクライマックスになっていて、Nasの名前は映画のエグゼクティブ・プロデューサーとしてもクレジットされている。
とはいっても、これは映画制作にはかかわっていない「名誉職」で、Nasは試写を見て感動して自らの名前をエグゼクティブ・プロデューサーとして冠することを申し出たという。
このエピソード、てっきり映画のプロモーションのために作られた話かと思っていたのだが、この曲はサントラには収録されておらず、少し遅れてリリースされているから、もしかしたら本当なのかもしれない。ビートを手掛けているのはトロントのインド系デュオXD Proとジャマイカ人のIll Wayno.
90年代のニューヨークの雰囲気と、ムンバイのガリーラップのノリを兼ね備えたいい感じのビートだと思う。
映画については、公開当時にかなり血圧高めの記事をたくさん書いたので繰り返さない。
今でも大好きな映画である。
余談となるが、ヒンディー語以外の言語の映画に海外の歌手を起用するだけの予算がないわけではなく、例えばヒンディー語映画に次ぐ制作本数を誇り、『バーフバリ』や『RRR』を生み出したテルグ語映画でも、その気になれば世界的に有名な(かつての)人気シンガーを起用することも可能だろう。
おそらくだが、ヒンディー語(ボリウッド)映画以外でこうした傾向が見られない理由は、海外在住のインド系住民や、あわよくば外国人にも売り込もうという意識の強いボリウッドと、ローカル色を重視するサウスの映画の傾向の違いなのではないかと思う。
しかし映画には詳しくないので、実際のところはよく分からない。
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2023年01月21日
『エンドロールのつづき』パン・ナリン監督インタビュー 光の根っこにあるもの
今回は、前回紹介した『エンドロールのつづき』のパン・ナリン監督のインタビューをお届けする。
インタビューという性格上、一部、作品の内容に触れているところがあるので、ネタバレ厳禁派で未見の方は鑑賞後に読むことをおすすめするが、いずれにしても、この魅力的な映画の背景にあるものが分かる貴重な内容であることは間違いない。
それではさっそく、パン・ナリン監督が描いた、「映画の光」の光源を探ってみよう。

この作品のなかで、映画を「光」として描いていることがとても印象的でした。そこにどのような意味を込めたのでしょうか?
「私は映像作家として成長してゆくなかで、光と時間という2つの要素が、物語を伝える上でとても大事だと気づきました。
そのときに、私の子供時代や、住んでいた村のとなり街の映画館で映写技師をしていた友人の思い出をもとに、何かできるかもしれないと考えたのです。
この『光と時間』という発想はとても大事なことだと思ったので、私は主人公の少年に、時間を意味するサマイという名前をつけました。
彼はストーリーを語るための『光』に夢中になります。
私の考えでは、光と時間こそが、映画をマジカルにするのです。
さまざまな映像技術がありますが、35ミリフィルム(1909年に定められた映画フィルムの国際規格)、サイレント、セルロイドフィルム、デジタルと時代が変わっても、そこにはいつも光と時間がありました。
伝える方法が変わって、ヴァーチャル・リアリティーや3Dや、もしかしてホログラムになったとしても、本質は常に光と時間なのです。
これは『映画を祝福する映画』です。
でもこのメインテーマを、前面に押し出すのではなく、もっとあたたかみがあって、心がこもった方法で、直接的にではなく、哲学的かつ詩的に光と時間を表現しようとしました。」
自然の緑や、チャイ売りの小屋の青、カラフルな衣装など、たくさんの色が印象に残っています。
ラストのシーンでも描いているように、優れた映画や映画監督には印象的な「色」があると思いますが、色彩の面でとくに意識したことはありますか?
「そうですね、この映画の色彩については、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』に少し似ています。
『ボレロ』は、一つの楽器から始まって、曲が進むにつれて、打楽器や管楽器が加わってクレッシェンドしてゆきます。
有機的で王道の話の進め方ですね。
映画の序盤に出てくる色は、サマイが暮らす世界、すなわちお母さんのスパイスや、遊びに使っている色ガラスや、そして彼の周囲にある自然の緑だけでした。
そして彼は『光』(映画のことと思われる)を見つけます。その色は、彼の夢の一部となり、彼は映画に夢中になります。
物語がクライマックスに向かうにつれて、彼はギャラクシー座で多くの映画を見てゆきますが、"Jodhaa Akbar"(劇中でサマイが見る2008年公開のヒンディー語史劇映画)のような映画はとてもカラフルです。
ご存じのようにインドの映画はとてもカラフルなのです。
映画の最後に差し掛かると、そうした色は祝福へと変わります。
あらゆる色を、キューブリックやアントニオーニといった巨匠たちと調和させようとしたのです。」
実際に監督は幼い頃に駅でお父さんとチャイを売っていたそうですが、この映画はリアルに少年時代を描いたものと考えて良いのでしょうか? Googleで監督が働いていたというキジャディヤ・ジャンクション(Khijadiya Junction)駅を調べてみたところ、映画に出てきたチャララ(Chalala)駅にそっくりで驚きました。
「その通り。なるべくリアルに近づけました(笑)。
私の父は、実際にキジャディヤ・ジャンクション駅でチャイ屋をやっていました。今では電化された新しい広軌の鉄道が走るようになって、その駅はもう使われていません。
そこに住んでいた人たちもほとんどが別の場所に引っ越して、数軒残っている家も廃墟のようになってしまいました。
だから、私はそんなに遠くない場所で、撮影のために別のよく似た駅を見つけなければなりませんでした。
村の中心じゃなくて、野原の真ん中にぽつんと駅だけがあるような場所です。
何か所かロケーションを探してみたのですが、チャララ駅はキジャディヤ・ジャンクションと同じ路線にあって、走っている車両も、機関車以外はまったく同じような感じだったのです。
父は結局、2010年頃までチャイ屋をやっていました。
その頃は私のきょうだいの生活も安定していたので、『もうのんびりしたら?』と勧めたのですが、父は『友達もいるし、これが自分の世界で、この仕事が好きだから』と言っていました。
お金のためじゃなくて、それが父の生き方だったんです。」
映画のように、実際に野生のライオンが出てくるような場所だったのでしょうか?
「(笑)そこはインドライオンの最後の生息地であるギル国立公園(野生生物保護区。Gir National Park)の中で、ライオンだけじゃなくてヒョウもチーターも住んでいて、映画に出てきた鳥もリスもいます。
撮影中に3、4回くらい、ライオンが駅にやってくることがありました。
それも1匹じゃなくて、10匹くらい来るんです。
駅長が言うには、電車が出ていくと人もほとんどいなくなるし、線路の上には草が生えていないから虫がいなくて、彼らのお気に入りの場所なんだそうです。
線路の上にいる野生のライオンを見るとは思わなかったですね(笑)」
映写技師のファザルのキャラクターについて教えてください。監督が子どもの頃に、実際に彼のような人がいたのでしょうか?
「私の人生にもファザルがいました。
彼の名前はモハメドと言います。預言者モハメドみたいに(笑)。
彼と出会ったのは、本当に映画と同じような感じでした。弁当を交換する代わりに、タダで映画を見せてくれたんです。
映画の中に出てくるいくつかのセリフは、実際に彼が言っていたものです。
彼はいつも『未来はストーリーを伝える人のものだ』と言っていました。
『世界を見てみろ。政治家は嘘をついて俺たちに投票させる。テレビの広告屋は俺たちに商品を買わせる』とね。
そういう商品を買って、持っていたりすると、『そんなものはクソだよ』なんて言っていました。
彼は『政治家や金持ちや広告屋みたいな嘘つきが人生をメチャクチャにして、手に負えないものにしてしまう』と言っていましたが、広い視点で見れば、これは今でも真実ですよね。
彼は14歳からずっと、朝の9時から夜中の1時まで、映写室で過ごしていたんです。
そこは彼のオアシスでした。
そこで働いて、楽しんで、スピリチュアルな時間も楽しい時間も過ごしていました。
彼がそこで持っていなかったのは、おいしい食べ物だけでした。料理上手だった母の料理があれば、彼は大満足でしたよ。
私たちはそんなふうに友達になったんです。」
サマイが通うギャラクシー座のオーナーが「近頃うちでやるような映画じゃ、大金を稼ぐのはとても無理だ」というセリフがありましたが、ギャラクシー座は古い映画を上映する、いわゆる名画座のような場所という設定なのでしょうか?
「新作を上映する映画館でした。
でも、当時のインドでは、6ヶ月前の映画をずっと上映しているなんてこともありました。インドでは、ロングラン上映のことを、25週続くとシルバージュビリー、50週続くとゴールデンジュビリー、75週続くとプラチナムジュビリーと呼ぶんです(笑)。そんなふうに、ずっと上映され続けている映画もありました。
朝方や日曜日には、それ以外の旧作が上映されることもありましたね。
映画に登場するギャラクシー座は、本当に私が初めて映画を見た場所なんです。
もう取り壊されてしまったと思い込んでいたのですが、撮影場所を探していたときに、まだ建物が残っていることを知りました。映画館としては25年前に役割を終えて、今ではサトウキビの倉庫として使われていました。
サトウキビをどかしてみると、木の座席も、座席番号も残ったままだったので、そこで撮影することにしました。
ここ以上にふさわしい場所はないですから。」
映写機が溶かされて、あるものになるシーンがありますね。
これはグローバリゼーションを表しているのでしょうか?
(実際は、映画の内容に沿って具体的に質問したが、未見の方もいると思うので、ここでは伏せる)
「ええ。グローバリゼーションと同時に、過剰消費に至る物質主義の欲望を表しています。
世界中でのあらゆる人たちが必要とされる以上のものを作り出している一方で、リサイクルをしよう、というジレンマもあります。素材を再び活かすことは、地球環境のためにも良いことですから。
インドではリサイクルはとても大きなビジネスになっています。新聞、プラスチック、金属などあらゆるものがリサイクルされていて、フィルムや映写機もそこから逃れることはできません。
銀塩フィルムの時代には、フィルムから銀がリサイクルされていました。
技術が変わって銀塩が使われなくなってからは、バングルやブレスレットが作られるようになったんです。
フィルムが姿を変えるシーンは象徴的なシーンかと思ったのですが、実際にフィルムからバングルが作られていたのですね。
「ええ。2012年ごろまで、実際にフィルムからバングルが作られていました。
知っての通り、インドでは年間2,000本くらいの映画が制作されます。ヒット作ともなれば3,000ものスクリーンで上映されるので、3,000本のフィルムが作られるというわけです。
でもムンバイみたいな不動産価格が高い街では、(保管にも費用がかかるので)誰もそれを保存しません。
リサイクルがとても盛んなので、1、2本のネガを残して、上映が終わったらフィルムはスクラップ業者に売られてしまいます。2013年ごろからデジタル化されてゆくわけですが。
映画に出てきたバングル工場は本物の工場で、実際に2012年ごろまで材料としてフィルムが使われていました。
もちろん、映画の中では詩的なメタファーとして扱ったのですが」
インドの映画は日本でもますます人気になってきていますが、最近のエンターテインメント映画ではナショナリズム的な傾向が強まっているという印象を受けることがあります。一方で、この映画では、むしろ映画を通して世代や信仰や文化を超えて人々が繋がれることが描かれていると感じました。
最近のインドの映画界について、どのようにお考えですか?
「今のインドの映画界は、映画監督でありストーリーテラーである私にとって、とても悲しい状況だと思っています。
あらゆる制作会社が、お金を稼ぐことばかりを考えています。
この国の政治的な空気が右翼的になり、右翼的な政府や政策が人気になると、政治家だけでなく、映画制作者がそれを取り上げるのです。
彼らは、愛国的な映画やプロパガンダ映画など、極めて右翼的な映画を作ることがあります。とくに、ここ2、3年はとても多くなっています。
悲しいことに、インドのような国では、エンターテインメントが現実社会に紛れ込んでしまっていて、そういった映画を現実だと思ってしまう人もいます。
西洋やアメリカとはまったく違うんです。
教育を受けた人であれば、映画を見て分析して『オーケー。これは架空の物語だね』と理解できます。
ドナルド・トランプであろうと、誰であろうと。
ところがインドでは、映画の中で起きたことを現実だと思いかねない人がとても多いんです。
これは本当に危険なことです。
ほとんどの映画制作者は責任を取ろうとしません。
ストーリーテラーであれば、それが真実であろうとエンターテイメントであろうと、なんらかの責任を取るべきです。
悲しいことに、こうした映画は成功していて、多くの興行収入をもたらしています。
それで、多くの制作会社がそういった映画を作るようになっています。
私は『悪魔は金儲けがうまい(devil makes good money)』ということを知っています。
つまり、彼らは、人々がヒンドゥー教に関するもの(ヒンドゥー至上主義/原理主義のことだろう)とか、インドがいかに偉大な国かとか、イギリスや他の圧制者といかに戦ったかとか、そういった映画が見たいだろうと計算しているわけです。
こういったテーマが常に取り上げられています。
個人的には、こうした現状はまったくいいとは思えませんね。」

2023年1月17日 松竹(株)会議室にて
最後の質問は、少しデリケートな話題かと思いつつも率直に聞いてみたのだが、映画作家としての戒めを躊躇なく語ってくれた。
この矜持は、幼い日の監督がギャラクシー座でファザルことモハメドから聞いた言葉から繋がっているように感じられて、パン・ナリン監督が成長したサマイに重なって見えた。
インタビューという性格上、一部、作品の内容に触れているところがあるので、ネタバレ厳禁派で未見の方は鑑賞後に読むことをおすすめするが、いずれにしても、この魅力的な映画の背景にあるものが分かる貴重な内容であることは間違いない。
それではさっそく、パン・ナリン監督が描いた、「映画の光」の光源を探ってみよう。

この作品のなかで、映画を「光」として描いていることがとても印象的でした。そこにどのような意味を込めたのでしょうか?
「私は映像作家として成長してゆくなかで、光と時間という2つの要素が、物語を伝える上でとても大事だと気づきました。
そのときに、私の子供時代や、住んでいた村のとなり街の映画館で映写技師をしていた友人の思い出をもとに、何かできるかもしれないと考えたのです。
この『光と時間』という発想はとても大事なことだと思ったので、私は主人公の少年に、時間を意味するサマイという名前をつけました。
彼はストーリーを語るための『光』に夢中になります。
私の考えでは、光と時間こそが、映画をマジカルにするのです。
さまざまな映像技術がありますが、35ミリフィルム(1909年に定められた映画フィルムの国際規格)、サイレント、セルロイドフィルム、デジタルと時代が変わっても、そこにはいつも光と時間がありました。
伝える方法が変わって、ヴァーチャル・リアリティーや3Dや、もしかしてホログラムになったとしても、本質は常に光と時間なのです。
これは『映画を祝福する映画』です。
でもこのメインテーマを、前面に押し出すのではなく、もっとあたたかみがあって、心がこもった方法で、直接的にではなく、哲学的かつ詩的に光と時間を表現しようとしました。」
自然の緑や、チャイ売りの小屋の青、カラフルな衣装など、たくさんの色が印象に残っています。
ラストのシーンでも描いているように、優れた映画や映画監督には印象的な「色」があると思いますが、色彩の面でとくに意識したことはありますか?
「そうですね、この映画の色彩については、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』に少し似ています。
『ボレロ』は、一つの楽器から始まって、曲が進むにつれて、打楽器や管楽器が加わってクレッシェンドしてゆきます。
有機的で王道の話の進め方ですね。
映画の序盤に出てくる色は、サマイが暮らす世界、すなわちお母さんのスパイスや、遊びに使っている色ガラスや、そして彼の周囲にある自然の緑だけでした。
そして彼は『光』(映画のことと思われる)を見つけます。その色は、彼の夢の一部となり、彼は映画に夢中になります。
物語がクライマックスに向かうにつれて、彼はギャラクシー座で多くの映画を見てゆきますが、"Jodhaa Akbar"(劇中でサマイが見る2008年公開のヒンディー語史劇映画)のような映画はとてもカラフルです。
ご存じのようにインドの映画はとてもカラフルなのです。
映画の最後に差し掛かると、そうした色は祝福へと変わります。
あらゆる色を、キューブリックやアントニオーニといった巨匠たちと調和させようとしたのです。」
実際に監督は幼い頃に駅でお父さんとチャイを売っていたそうですが、この映画はリアルに少年時代を描いたものと考えて良いのでしょうか? Googleで監督が働いていたというキジャディヤ・ジャンクション(Khijadiya Junction)駅を調べてみたところ、映画に出てきたチャララ(Chalala)駅にそっくりで驚きました。
「その通り。なるべくリアルに近づけました(笑)。
私の父は、実際にキジャディヤ・ジャンクション駅でチャイ屋をやっていました。今では電化された新しい広軌の鉄道が走るようになって、その駅はもう使われていません。
そこに住んでいた人たちもほとんどが別の場所に引っ越して、数軒残っている家も廃墟のようになってしまいました。
だから、私はそんなに遠くない場所で、撮影のために別のよく似た駅を見つけなければなりませんでした。
村の中心じゃなくて、野原の真ん中にぽつんと駅だけがあるような場所です。
何か所かロケーションを探してみたのですが、チャララ駅はキジャディヤ・ジャンクションと同じ路線にあって、走っている車両も、機関車以外はまったく同じような感じだったのです。
父は結局、2010年頃までチャイ屋をやっていました。
その頃は私のきょうだいの生活も安定していたので、『もうのんびりしたら?』と勧めたのですが、父は『友達もいるし、これが自分の世界で、この仕事が好きだから』と言っていました。
お金のためじゃなくて、それが父の生き方だったんです。」
映画のように、実際に野生のライオンが出てくるような場所だったのでしょうか?
「(笑)そこはインドライオンの最後の生息地であるギル国立公園(野生生物保護区。Gir National Park)の中で、ライオンだけじゃなくてヒョウもチーターも住んでいて、映画に出てきた鳥もリスもいます。
撮影中に3、4回くらい、ライオンが駅にやってくることがありました。
それも1匹じゃなくて、10匹くらい来るんです。
駅長が言うには、電車が出ていくと人もほとんどいなくなるし、線路の上には草が生えていないから虫がいなくて、彼らのお気に入りの場所なんだそうです。
線路の上にいる野生のライオンを見るとは思わなかったですね(笑)」
映写技師のファザルのキャラクターについて教えてください。監督が子どもの頃に、実際に彼のような人がいたのでしょうか?
「私の人生にもファザルがいました。
彼の名前はモハメドと言います。預言者モハメドみたいに(笑)。
彼と出会ったのは、本当に映画と同じような感じでした。弁当を交換する代わりに、タダで映画を見せてくれたんです。
映画の中に出てくるいくつかのセリフは、実際に彼が言っていたものです。
彼はいつも『未来はストーリーを伝える人のものだ』と言っていました。
『世界を見てみろ。政治家は嘘をついて俺たちに投票させる。テレビの広告屋は俺たちに商品を買わせる』とね。
そういう商品を買って、持っていたりすると、『そんなものはクソだよ』なんて言っていました。
彼は『政治家や金持ちや広告屋みたいな嘘つきが人生をメチャクチャにして、手に負えないものにしてしまう』と言っていましたが、広い視点で見れば、これは今でも真実ですよね。
彼は14歳からずっと、朝の9時から夜中の1時まで、映写室で過ごしていたんです。
そこは彼のオアシスでした。
そこで働いて、楽しんで、スピリチュアルな時間も楽しい時間も過ごしていました。
彼がそこで持っていなかったのは、おいしい食べ物だけでした。料理上手だった母の料理があれば、彼は大満足でしたよ。
私たちはそんなふうに友達になったんです。」
サマイが通うギャラクシー座のオーナーが「近頃うちでやるような映画じゃ、大金を稼ぐのはとても無理だ」というセリフがありましたが、ギャラクシー座は古い映画を上映する、いわゆる名画座のような場所という設定なのでしょうか?
「新作を上映する映画館でした。
でも、当時のインドでは、6ヶ月前の映画をずっと上映しているなんてこともありました。インドでは、ロングラン上映のことを、25週続くとシルバージュビリー、50週続くとゴールデンジュビリー、75週続くとプラチナムジュビリーと呼ぶんです(笑)。そんなふうに、ずっと上映され続けている映画もありました。
朝方や日曜日には、それ以外の旧作が上映されることもありましたね。
映画に登場するギャラクシー座は、本当に私が初めて映画を見た場所なんです。
もう取り壊されてしまったと思い込んでいたのですが、撮影場所を探していたときに、まだ建物が残っていることを知りました。映画館としては25年前に役割を終えて、今ではサトウキビの倉庫として使われていました。
サトウキビをどかしてみると、木の座席も、座席番号も残ったままだったので、そこで撮影することにしました。
ここ以上にふさわしい場所はないですから。」
映写機が溶かされて、あるものになるシーンがありますね。
これはグローバリゼーションを表しているのでしょうか?
(実際は、映画の内容に沿って具体的に質問したが、未見の方もいると思うので、ここでは伏せる)
「ええ。グローバリゼーションと同時に、過剰消費に至る物質主義の欲望を表しています。
世界中でのあらゆる人たちが必要とされる以上のものを作り出している一方で、リサイクルをしよう、というジレンマもあります。素材を再び活かすことは、地球環境のためにも良いことですから。
インドではリサイクルはとても大きなビジネスになっています。新聞、プラスチック、金属などあらゆるものがリサイクルされていて、フィルムや映写機もそこから逃れることはできません。
銀塩フィルムの時代には、フィルムから銀がリサイクルされていました。
技術が変わって銀塩が使われなくなってからは、バングルやブレスレットが作られるようになったんです。
フィルムが姿を変えるシーンは象徴的なシーンかと思ったのですが、実際にフィルムからバングルが作られていたのですね。
「ええ。2012年ごろまで、実際にフィルムからバングルが作られていました。
知っての通り、インドでは年間2,000本くらいの映画が制作されます。ヒット作ともなれば3,000ものスクリーンで上映されるので、3,000本のフィルムが作られるというわけです。
でもムンバイみたいな不動産価格が高い街では、(保管にも費用がかかるので)誰もそれを保存しません。
リサイクルがとても盛んなので、1、2本のネガを残して、上映が終わったらフィルムはスクラップ業者に売られてしまいます。2013年ごろからデジタル化されてゆくわけですが。
映画に出てきたバングル工場は本物の工場で、実際に2012年ごろまで材料としてフィルムが使われていました。
もちろん、映画の中では詩的なメタファーとして扱ったのですが」
インドの映画は日本でもますます人気になってきていますが、最近のエンターテインメント映画ではナショナリズム的な傾向が強まっているという印象を受けることがあります。一方で、この映画では、むしろ映画を通して世代や信仰や文化を超えて人々が繋がれることが描かれていると感じました。
最近のインドの映画界について、どのようにお考えですか?
「今のインドの映画界は、映画監督でありストーリーテラーである私にとって、とても悲しい状況だと思っています。
あらゆる制作会社が、お金を稼ぐことばかりを考えています。
この国の政治的な空気が右翼的になり、右翼的な政府や政策が人気になると、政治家だけでなく、映画制作者がそれを取り上げるのです。
彼らは、愛国的な映画やプロパガンダ映画など、極めて右翼的な映画を作ることがあります。とくに、ここ2、3年はとても多くなっています。
悲しいことに、インドのような国では、エンターテインメントが現実社会に紛れ込んでしまっていて、そういった映画を現実だと思ってしまう人もいます。
西洋やアメリカとはまったく違うんです。
教育を受けた人であれば、映画を見て分析して『オーケー。これは架空の物語だね』と理解できます。
ドナルド・トランプであろうと、誰であろうと。
ところがインドでは、映画の中で起きたことを現実だと思いかねない人がとても多いんです。
これは本当に危険なことです。
ほとんどの映画制作者は責任を取ろうとしません。
ストーリーテラーであれば、それが真実であろうとエンターテイメントであろうと、なんらかの責任を取るべきです。
悲しいことに、こうした映画は成功していて、多くの興行収入をもたらしています。
それで、多くの制作会社がそういった映画を作るようになっています。
私は『悪魔は金儲けがうまい(devil makes good money)』ということを知っています。
つまり、彼らは、人々がヒンドゥー教に関するもの(ヒンドゥー至上主義/原理主義のことだろう)とか、インドがいかに偉大な国かとか、イギリスや他の圧制者といかに戦ったかとか、そういった映画が見たいだろうと計算しているわけです。
こういったテーマが常に取り上げられています。
個人的には、こうした現状はまったくいいとは思えませんね。」

2023年1月17日 松竹(株)会議室にて
最後の質問は、少しデリケートな話題かと思いつつも率直に聞いてみたのだが、映画作家としての戒めを躊躇なく語ってくれた。
この矜持は、幼い日の監督がギャラクシー座でファザルことモハメドから聞いた言葉から繋がっているように感じられて、パン・ナリン監督が成長したサマイに重なって見えた。
監督の話を聞いて驚いたのは、寓話的な表現に思えていたシーンや設定のかなりの部分が、監督の実体験に基づいているということ。
芸術を「個人的な体験を他者の感情を喚起する普遍的な表現に昇華すること」だと定義するならば、この映画はまさに一流の芸術作品だ。
パン・ナリン監督は、映画の本質を「光と時間」というレベルにまで解体し、自身の経験と組み合わせてこの素晴らしい作品を作り上げた。
『エンドロールのつづき』は、決して小難しい芸術映画でも、映画マニアだけが共感できる作品でもなく、誰もが感動できる傑作である。
映画というものが続く限り存在する「光と時間」への愛情に満ちたこの物語は、ものすごいスピードで世の中が変わってゆく今だからこそ、深く胸に沁みる。
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芸術を「個人的な体験を他者の感情を喚起する普遍的な表現に昇華すること」だと定義するならば、この映画はまさに一流の芸術作品だ。
パン・ナリン監督は、映画の本質を「光と時間」というレベルにまで解体し、自身の経験と組み合わせてこの素晴らしい作品を作り上げた。
『エンドロールのつづき』は、決して小難しい芸術映画でも、映画マニアだけが共感できる作品でもなく、誰もが感動できる傑作である。
映画というものが続く限り存在する「光と時間」への愛情に満ちたこの物語は、ものすごいスピードで世の中が変わってゆく今だからこそ、深く胸に沁みる。
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goshimasayama18 at 18:24|Permalink│Comments(0)
2023年01月14日
「光としての映画」への感動の讃歌 『エンドロールのつづき』
1月20日に公開になるインド映画『エンドロールのつづき』。
この映画の試写を見せてもらう機会があったのだが、これが本当に素晴らしかった。
これまで一度でも「映画っていいな」と思ったことがある人だったら、絶対に観たほうがいい。
上映前のざわめき、照明が落ちる時の胸の高鳴り、あっという間に感じられる上映時間が過ぎて、再び明かりがついた時の充足感。
映画にはじめて夢中になったときの感覚が蘇って、思わず熱いものが込み上げてきた。
「現代版『ニューシネマパラダイス』」という評判は、まったく誇張ではない。
この映画は、パン・ナリン監督の少年時代を描いた自伝的作品ということになっている。
主人公は、インドの田舎町(っていうか村)に暮らす少年サマイ。
カーストの最上位であるバラモンの家柄だが、サマイの父が騙されて一家は没落。
親子は小さな駅でチャイ売りをして生計を立てている。
ある日、家族と街に出たサマイは、ギャラクシー座という映画館で映画を見る。
固い座席に割れた音響のさびれた映画館だったが、映写機からスクリーンへと伸びる光の束のなかで、サマイは魔法のような時間を体験した。
このときから、彼は映画に夢中になる。
貧しさと厳格な家柄ゆえ、ふたたび映画館に行くことは許されなくても、映画への憧れは止まらない。
劇場の映写技師ファザルと親しくなった彼は、料理自慢の母がサマイのために作る弁当と引き換えに、映写室から映画を見せてもらうようになる。
サマイの映画への思いはどんどん大きくなってゆき、その後もいろいろなことが起きるのだが、ネタバレがいやな方もいると思うのでここでは割愛する。
単純にストーリーだけを見ても起伏に富んだ素晴らしい作品である。
だが、サマイ少年の思いをよそに、田舎町の映画館も、時代の流れと無縁ではいられなかった。
彼に夢を見させてくれた「フィルムと映写機」の時代の終わりが、静かに迫っていた…。
…というのが、『エンドロールの続き』の、まあ見る前に知っていておいて問題のない範囲のあらすじだ。
この映画の魅力は多岐にわたっているのだが、まず言えるのは、全てのシーンの映像が絵葉書になるレベルで美しいということ。
草原の淡い緑、主人公親子が働く駅のチャイ売り小屋や空の青、色鮮やかな衣装、そして映写機から伸びる啓示のような光。
仮に字幕なしで見たとしても(ちなみに手がかりなしのグジャラート語だ)、構図と色彩の美しさだけで十分に楽しめたはずだ。
予告編でもその素晴らしさは伝わると思うが、その柔らかな美しさは、スクリーンでは何倍にも映えて見える。
主人公サマイを演じているのは、3,000人の子どもの中からオーディションで選ばれたというバヴィン・ラバリ君。
バヴィン君は、サマイ同様にグジャラートの田舎で暮らしていた男の子なのだが、この彼の演技がすばらしい。
ラバリ君はこの映画の撮影まで、映画館に行ったことがなかった(!)とのこと。
松岡環さんの解説によると、劇中で上映されているのは90年代から00年代に撮られたヒンディー語映画だそうで、見たことのない作品ばかりだったが、彼の目の輝きを通して、初めて映画に夢中になった時の興奮がリアルに伝わってくる。
パン・ナリン監督は、この映画のなかで一貫して「映画とは光である」というメッセージを伝えている。
もちろん映画は映写機からの光に間違いないのだが、文字通りの意味だけではない。
暗闇の中で遠い場所の物語を見せてくれる映画は、サマイ君だけでなく、誰にとっても希望であり、夢であり、また人と人、文化と文化をつなぐ存在でもある。
パン・ナリン監督のスタイルは、サマイ少年が心躍らせたボリウッド・エンタメ的なものではなく、どちらかというと洋画的なセンスを感じさせるものだ。
インドは現在でも映画が娯楽の王道を担っているという奇跡のような国だが、この国で映画に夢中になる少年を、監督はいかにもインド的な方法では撮らない。
インドの大地の香りと欧米的な様式を混ぜ合わせて傑作を作り上げた監督の手法は、いつもこのブログで取り上げている、自身のルーツとロックやヒップホップを組み合わせてユニークな音楽を作っているインドのミュージシャンたちを想起させる。
映画にしろ音楽にしろ、ひとつの表現様式が国境を越えて、その土地の文化と融合し、新しい価値を持った芸術作品が生まれる。
グローバル化によって失われゆく伝統もあるが、それは必ずしも、ローカルがグローバルに溶けていってしまうことだけを意味しない。
そこに新しく生まれる文化もあるのだ。
この作品は、フィルムと映写機に象徴される一つの時代の終焉を描いたものだが、見終わった後に強く印象に残るのは、寂しさよりもむしろ希望である。
この映画は、映写機からフィルムを通して放たれる光に対する、レクイエムというよりも讃歌なのだ。
映写機の光が照らす道のりの先にあるのは、タイトルの通り『エンドロールつづき』。
それはすなわちサマイ少年の現在の姿であるナリン監督自身であり、映画の素晴らしさ知っている観客の我々である。
"The Last Film Show"という原題を『エンドロールのつづき』と翻訳したセンスは文学賞ものだ。
最後に、日本人にはちょっと分かりにくい部分の解説をしたい。
サマイ少年が仲良くなる映写技師のファザルはムスリムという設定である。
家庭という責任さえなければスーフィズム(行によって神との合一を目指す「イスラーム神秘主義」)の行者になりたいという、叶わない夢を持った青年だ。
信仰や世代や立場が違っても、映画という光を通して通じ合い、友情を育むことができる。
昨今のインド映画では、ナショナリズム(国家主義というよりも、ヒンドゥー・ナショナリズム)が強すぎて興醒めしてしまうことも多いのだが、この作品に込められたあたたかく静かなメッセージには胸に沁みた。
これもまた、映画が光である理由の一つである。
映画に感動したことがある、全ての人に見てほしい作品だ。
余談です。
個人的にはこの海外版の予告編のほうがグッと来る。
ストーリーをほぼ追った作りになっているので、ネタバレ厳禁派の人にはお勧めしないが、この作品の魅力がより感じられる動画になっているので、気にしない人(もしくは鑑賞後に反芻したい人)は是非。
そしてなんと、この映画を作ったパン・ナリン監督にインタビューをさせてもらえることになった!
次回はその模様をお届けしたい。
乞うご期待!
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goshimasayama18 at 16:25|Permalink│Comments(0)
2022年09月22日
早すぎたロックンロールのパイオニア ターバン姿の「インドのエルヴィス」 Iqbal Singh Sethi
インドの ポップミュージック史をひもといてゆくと、まるでオーパーツのような、その時代には存在しなかったはずの「早すぎる音楽」と出会うことがある。
欧米の流行をあまりにも早く導入したがゆえに、あとになって振り返ったときに「なぜこの時代にこんな音楽が?」と思ってしまうような曲のことだ。
ヒップホップ(風の音楽)で言えば、1992年のBaba Sehgalによるスマッシュヒット"Thanda Thanda Pani"や、1994年のタミル語映画"Khadalan"の劇中歌"Pettai Rap"がそれにあたる。
日本でいうと、吉幾三による『俺ら東京さ行ぐだ』(1984年)である。
最新の音楽を取り入れてみたものの、その珍奇さばかりを誇張したために、なんだかコミックソングみたいになってしまっているのも、これらの楽曲の共通点だ。
今回紹介するIqbal Singh Sethiの"Beautiful Baby of Broadway"も、インドのポピュラー音楽史のなかで、そんなオーパーツ的な輝きを放っている曲である。
最近では、サルマン・カーンの主演映画"Tubelight"(2017)でも使用されたこの曲は、もともと1960年のボリウッド映画、"Ek Phool Char Kante"(「ひとつの花、四つの棘」の意味)の挿入歌だった。
しかし、強烈な印象を残すターバン姿のロックンロール・シンガー、Iqbal Singh Sethiは、この1曲のみを残して、オーパーツを生み出した超古代文明のように、インドの音楽シーンから忽然と姿を消してしまう。
(今回、なんでかオーパーツとか超古代文明とか、やたらと「学研ムー」的な表現が多くなってしまっている。よくわからない人は適宜ググりつつ読んでください。わからないままでも何の問題もないですが)
ターバンとロックンロールというコミカルな組み合わせに反して、彼のエルヴィス・スタイルの歌唱、そしてツイストっぷりはかなり本格的だ。
当時インドには、ロックバンドなどまったく存在しなかったにもかかわらず、である。
早すぎたロックンロールを完璧に歌いこなし、踊りこなす彼は、いったい何者だったのだろうか?
「インドのエルヴィス」こと、Iqbal Singh Sethiは、1934年の元日に、現在はパキスタン領であるパンジャーブ地方の街、ラーワルピンディーで生まれた。
プネーの学校を卒業後、若くして海軍に士官。
1953年には、インド海軍の軍艦乗組員として、英ポーツマスで行われたエリザベス女王の戴冠記念観艦式に参加した。
その時に出会ったというイギリス人のガールフレンドから、スイングに合わせて踊る「ジャイヴ」というダンスを教わると、踊り好きのパンジャービーの血のせいか、めきめきと上達。
イギリス滞在中に、ロックンロール・ダンスコンテスト(そういうものが当時あったらしい)で優勝するまでになったという。
帰国後に同郷の女性と結婚。
だが、イギリスでロックンロールに出会ってしまった彼が、一般的なインド人のよう(そのまま落ち着くことはなかった。
ボンベイ(現ムンバイ)のSalome Roy Kapur(現代のボリウッド俳優Aditya Roy Kapurの母)のもとで本格的に歌と踊りを習うと(これはおそらくインドの伝統的スタイルのものだろう)、海軍勤務のかたわら、芸能活動を開始する。
やがて彼は「シク教徒のエルヴィス」として、デリーやカルカッタのナイトクラブやレストランからも呼ばれ、もてはやされるようになったという。
こうした経歴をふまえると、上述の映画のワンシーンは、案外リアルなものだったのかもしれない。
インドでは真新しかった彼の歌とダンスは、海の向こうからやってきた刺激的な音楽に夢中になった上流階級の若者たちに、ばっちりはまったのだろう。
1960年には、ついに"Beautiful Baby of Broadway"で銀幕デビュー。
しかし、スターダムにのし上がったのも束の間、海軍当局から無断で映画に出演したことを問題視され、映画界を去るか、軍法会議かという究極の選択を迫られてしまう。
歌やダンスや映画を崇拝(worship)の対象と呼ぶほどに愛していたが、彼はそれにも増して軍人として国に尽くすことを義務だと感じていた。
Iqbalは、殺到する映画のオファーを断り、軍人として生きることを選んだのだ。
こうして「インドのエルヴィス」の短すぎるキャリアは、あっけなく幕を閉じた。
晩年のインタビューで、彼は「後悔はしていない。海軍は私に多くのものを与えてくれた。1953年のエリザベス女王の戴冠式に出席し、機関士としての訓練を受け、勲章も授与されたんだ」と語っている。
彼の人生のモットーは、「幸せであれ、楽しめ、決して振り返るな。空を見上げていたら転ぶこともあるが、足元を見ていれば前に進むことができる」。
常にポジティブでありつづけたIqbal Singh Sethiは、2021年11月27日、88歳でその生涯を終えた。
歌と踊りが得意で、パーティーライフを愛しつつも、実直な軍人として生きた彼は、パンジャーブ生まれのシク教徒の典型のような人物だったのかもしれない。
(一般的にパンジャーブ人は歌好き、踊り好き、パーティー好きと思われるふしがあり、またシク教徒の男性は戦士であるという教義を持つため、軍隊勤務者が多い)
ヒップホップ同様に、ロックンロールをインドに持ち込んだのもパンジャービーだったと思うと、それもまた感慨深い。
ちなみに、"Beautiful Baby of Broadway"は、当初"Bombshell Baby of Bombay"というタイトルだったそうだが、Bombshell(「爆弾」という意味とは別に「セクシーで魅力的な女性」という俗語でもある)という言葉が問題視されたのか、当局の許可が降りずに改題されたそうだ。
改めて考えてみると、この曲に関しては、インドのインディーミュージック史の「オーパーツ」と解釈するよりも、当時インドのみならず世界中で娯楽の王道だった、ミュージカル映画の潮流に位置付けて考えるほうが妥当なのかもしれない。
日本でも、ロックンロール(ロカビリー)は、1958年の美空ひばり主演のミュージカル時代劇『花笠若衆』でも取り上げられるなど、いわゆる「反骨精神を含んだ若者の音楽」的な解釈とは異なる扱われ方をしていた時代があった。
(趣旨から外れるのでここでは取り上げないが、美空ひばりの「ロカビリー剣法」という曲はなかなかイカすので、興味がある方はYouTubeで検索してみてください)
もうひとつ余談になるが、"Ek Phool Char Kante"には、同じくパンジャーブ出身のムスリムの歌手、Mohammed Rafiによる"O Meri Baby Doll"なるロックンロールナンバーも取り入れられている。
Mohammed Rafiは、Iqbalとは異なり、その後もプレイバックシンガーとしての活動を続けたものの、1980年に55歳の若さで生涯を終えた。
古き良きボリウッドの伝説的歌手として称される彼は、そのキャリアのなかで他にもロックンロールを歌っており、とくに"Gumnaam"(1965)で歌われた"Jaan Pehchan Ho"は、2001年のアメリカ映画『ゴーストワールド』(これもまた名作!)で取り上げられるなど、その後もたびたび注目されている。
(直接動画が貼り付けられなかったので、このリンクからどうぞ)
インドの原始インディー音楽とは異なる、王道エンタメ映画のなかでのロックンロールというのも、今後リサーチしてみたいテーマのひとつではある。
(参考サイト)
https://homegrown.co.in/article/805962/indias-elvis-presley-the-incredible-life-of-iqbal-singh-sethi
https://www.hindustantimes.com/chandigarh/a-sikh-rock-n-roller-from-60s-who-earned-sobriquet-indian-elvis/story-ByBe9NFOyZONECqBlc0OQL.html
https://upperstall.com/features/an-indian-elvis-in-bollywood/
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2021年10月15日
『ジャッリカットゥ 牛の怒り』について、もう1回だけ書いておきたい
10月10日(日)、水戸映画祭にて、山田タポシさんの司会のもと、安宅直子さんと『ジャッリカットゥ 牛の怒り』のトークセッションをしてきた。
以前も紹介した通り、この映画はインドの山あいのクリスチャン集落を舞台に、屠られようとしていた牛が暴走し、村の男たちをパニックに駆り立ててゆくというもの。(いろんな意味ですごい映画なのだが、ストーリー的にはただそれだけだ)
私はインド映画には相当疎いのだけど、映画をはじめとするインド事情にめちゃくちゃお詳しい安宅さん、タポシさんといっしょだったので、大船に乗った気持ちで「牛の迫力がすごかった」レベルのしょうもない感想を話させてもらった。
会場の水戸芸術館ACM劇場は音響がすばらしく、爆走する牛と終始絶叫している男どもの凄まじいパワーに圧倒されてしまって、それ以上の感想がほとんど出てこなかったのだ。
当日の安宅さんの説明にもあったとおり、インド映画には(他の国の映画と同様に) 娯楽映画と芸術映画があり、『ジャッリカットゥ』は芸術映画に分類される。
(ただし、この作品が単に高尚なだけの映画ではなく、狂気とも言えるエネルギーとサービス精神にあふれた映画であるということは強めに主張しておきたい)
『ジャッリカットゥ』はインド南部のケーララ州で作成された同州の言語マラヤーラム語の映画だ。
インド国内では比較的話者数の少ない言語(3,500万人くらい)であるうえに、マーケットの小さい芸術映画なので、日本で公開されるインド映画の中では低予算で作られた作品ということになるようだ。
低予算で作られたパニック映画といえば、アメリカで粗製濫造され、もはやひとつの文化にもなっているサメ映画が有名だ。
サメ映画界では、予算が少ないと、お金がかかるCGやアニマトロニクスがあまり使えないので、サメがテーマなのにサメがほとんど出てこないという笑い話がある。
唐突にこの話を思い出した私は、ふと『ジャッリカットゥ』の中で牛に登場するシーンはどれくらいあるのか、調べてみたくなった。
2回ほど鑑賞した印象では、全体の3分の2が牛の爆走シーンで、残り3分の1くらいが人間ドラマかな、と思っていた。
『ジャッリカットゥ』はインド映画にしては短い91分の作品である。
牛が爆走するシーンでも、牛ではなく群衆を映しているカットもあるわけだから、牛が映っているのは爆走シーンの半分、だいたい30分くらいかな、と予想していた。
ところが、いざ調べてみたら全然違った。
映画の中で、生きている牛のごく一部でもスクリーンに映っているシーンは、なんと合計でたったの5分半ほどしかなかったのである。
(生きている牛限定。牛肉は除く)
つまり、この映画の主役とも言える牛が登場するシーンは、映画全体のたったの6%ほどしかないのだ。
カット数で言うと、牛が登場するシーンはだいたい70カットくらい。
そのほとんどが、1秒から2秒のごく細かいカットである。
牛を追う、あるいは牛に追われるシーンでは、短いカットがテンポよく畳み掛けられ、じつは牛は一瞬しか映っていなくても、狂気に駆られた男たちの迫真の演技によって、そこにはいない牛の存在が感じられるのだ。
つまり、この映画は「牛がほとんど出てこないのに、強烈に牛の存在を感じさせる」という点でも、勢い任せのようでいて、すごく緻密に作られているのである。
しかも、この映画の魅力は切り替えの激しい暴走シーンだけではない。
怒号飛び交う短いカットと、森や月や落日を映した静かで長いカットの対比は、まるで自然/神の悠久の時間と、欲に囚われた人間社会の時間を表しているかのようで、緊張と緩和の独特なリズムを生み出している。
…とかなんとか、批評家気取りのたわごとは置いておくとして。
おそらくはこの『ジャッリカットゥ』も、撮影にあたって、その予算ゆえに、牛の登場シーンをふんだんには使えないという制約があったことだろう。
そこを独特なカット割りで工夫しつつ、強烈なリズム感や緊張感をも演出し、この超個性的な作品を、B級などではまったくない、文学的ですらある芸術映画に仕立て上げるとは、リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督、ただものではない。
時間があったら、様々な動物系パニック映画を見ながら(ゾンビ映画でもいいかもしれない)、人間を襲うキャラクターたちが映画の中でどれだけの時間登場しているのか、調べて比べてみるのも面白いかもしれない。(俺はやらないけど)
ふと調べてみたら、この手の映画の元祖にして本家とも言える『ジョーズ』 も、「サメはほとんど出てこない」らしい。
何が言いたいのかというと、インド映画は沼に例えられるマニアックなジャンルで、しかと海ほどの広さと深さのある世界ではあるけれど、たまにはこうしてインドという枠を取っ払って見てみるのもいいんじゃないか、ということだ。
とくに『ジャッリカットゥ』みたいな芸術映画はそういう見方をしてもいいタイプの作品だろう。
そういえば、水戸映画祭のバックステージでも、生活音がリズムを刻む演出が北野武の『座頭市』っぽかったという話をタポシさんとしたんだった。
とにかく、この『ジャッリカットゥ』、未見の方は、インド映画というジャンルに関係なく見てみてほしい。
DVD化や配信を待たず、映画館で見れば、なおさら狂気の世界に浸ることができる。
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以前も紹介した通り、この映画はインドの山あいのクリスチャン集落を舞台に、屠られようとしていた牛が暴走し、村の男たちをパニックに駆り立ててゆくというもの。(いろんな意味ですごい映画なのだが、ストーリー的にはただそれだけだ)
私はインド映画には相当疎いのだけど、映画をはじめとするインド事情にめちゃくちゃお詳しい安宅さん、タポシさんといっしょだったので、大船に乗った気持ちで「牛の迫力がすごかった」レベルのしょうもない感想を話させてもらった。
会場の水戸芸術館ACM劇場は音響がすばらしく、爆走する牛と終始絶叫している男どもの凄まじいパワーに圧倒されてしまって、それ以上の感想がほとんど出てこなかったのだ。
当日の安宅さんの説明にもあったとおり、インド映画には(他の国の映画と同様に) 娯楽映画と芸術映画があり、『ジャッリカットゥ』は芸術映画に分類される。
(ただし、この作品が単に高尚なだけの映画ではなく、狂気とも言えるエネルギーとサービス精神にあふれた映画であるということは強めに主張しておきたい)
『ジャッリカットゥ』はインド南部のケーララ州で作成された同州の言語マラヤーラム語の映画だ。
インド国内では比較的話者数の少ない言語(3,500万人くらい)であるうえに、マーケットの小さい芸術映画なので、日本で公開されるインド映画の中では低予算で作られた作品ということになるようだ。
低予算で作られたパニック映画といえば、アメリカで粗製濫造され、もはやひとつの文化にもなっているサメ映画が有名だ。
サメ映画界では、予算が少ないと、お金がかかるCGやアニマトロニクスがあまり使えないので、サメがテーマなのにサメがほとんど出てこないという笑い話がある。
唐突にこの話を思い出した私は、ふと『ジャッリカットゥ』の中で牛に登場するシーンはどれくらいあるのか、調べてみたくなった。
2回ほど鑑賞した印象では、全体の3分の2が牛の爆走シーンで、残り3分の1くらいが人間ドラマかな、と思っていた。
『ジャッリカットゥ』はインド映画にしては短い91分の作品である。
牛が爆走するシーンでも、牛ではなく群衆を映しているカットもあるわけだから、牛が映っているのは爆走シーンの半分、だいたい30分くらいかな、と予想していた。
ところが、いざ調べてみたら全然違った。
映画の中で、生きている牛のごく一部でもスクリーンに映っているシーンは、なんと合計でたったの5分半ほどしかなかったのである。
(生きている牛限定。牛肉は除く)
つまり、この映画の主役とも言える牛が登場するシーンは、映画全体のたったの6%ほどしかないのだ。
カット数で言うと、牛が登場するシーンはだいたい70カットくらい。
そのほとんどが、1秒から2秒のごく細かいカットである。
牛を追う、あるいは牛に追われるシーンでは、短いカットがテンポよく畳み掛けられ、じつは牛は一瞬しか映っていなくても、狂気に駆られた男たちの迫真の演技によって、そこにはいない牛の存在が感じられるのだ。
つまり、この映画は「牛がほとんど出てこないのに、強烈に牛の存在を感じさせる」という点でも、勢い任せのようでいて、すごく緻密に作られているのである。
しかも、この映画の魅力は切り替えの激しい暴走シーンだけではない。
怒号飛び交う短いカットと、森や月や落日を映した静かで長いカットの対比は、まるで自然/神の悠久の時間と、欲に囚われた人間社会の時間を表しているかのようで、緊張と緩和の独特なリズムを生み出している。
…とかなんとか、批評家気取りのたわごとは置いておくとして。
おそらくはこの『ジャッリカットゥ』も、撮影にあたって、その予算ゆえに、牛の登場シーンをふんだんには使えないという制約があったことだろう。
そこを独特なカット割りで工夫しつつ、強烈なリズム感や緊張感をも演出し、この超個性的な作品を、B級などではまったくない、文学的ですらある芸術映画に仕立て上げるとは、リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督、ただものではない。
時間があったら、様々な動物系パニック映画を見ながら(ゾンビ映画でもいいかもしれない)、人間を襲うキャラクターたちが映画の中でどれだけの時間登場しているのか、調べて比べてみるのも面白いかもしれない。(俺はやらないけど)
ふと調べてみたら、この手の映画の元祖にして本家とも言える『ジョーズ』 も、「サメはほとんど出てこない」らしい。
何が言いたいのかというと、インド映画は沼に例えられるマニアックなジャンルで、しかと海ほどの広さと深さのある世界ではあるけれど、たまにはこうしてインドという枠を取っ払って見てみるのもいいんじゃないか、ということだ。
とくに『ジャッリカットゥ』みたいな芸術映画はそういう見方をしてもいいタイプの作品だろう。
そういえば、水戸映画祭のバックステージでも、生活音がリズムを刻む演出が北野武の『座頭市』っぽかったという話をタポシさんとしたんだった。
とにかく、この『ジャッリカットゥ』、未見の方は、インド映画というジャンルに関係なく見てみてほしい。
DVD化や配信を待たず、映画館で見れば、なおさら狂気の世界に浸ることができる。
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