2025年08月06日
パヤル・カパーリヤー監督の原点『何も知らない夜』は今見るべき作品
7月25日から公開されている昨年のカンヌ映画祭のグランプリ受賞作『私たちが光と想うすべて』の評判がとても良いようだ。
『私たちが光と想うすべて』を気に入った人にぜひ見てもらいたいのが、同作のパヤル・カパーリヤー監督の初長編ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』だ。
カンヌ映画祭での「ルイユ・ドール」(最優秀ドキュメンタリー賞、2021年)や山形国際ドキュメンタリー映画祭での「ロバート&フランシス・フラハティ賞」(大賞、2024年)など、今作もさまざまな映画祭で高い評価を受けた作品である。
公開は8月8日から。
詳細は公式サイトで確認してほしい。
『何も知らない夜』は純粋な意味でのドキュメンタリーではない。
パヤル・カパーリヤー監督が友人たちと撮りためた映像や、インターネット上のニュース動画などを編集し、そこに「L」という架空の女子学生の独白を加えてストーリーを浮かび上がらせる今作は、フィクションとドキュメンタリーのちょうど中間に位置するようなスタイルの映画だ。
この設定だけ聞くと、なんだか映画学校の課題制作のように感じられるかもしれないが、静謐な映像美と編集がすばらしく、逆にこの作り方でこんなに明確な主題と緊張感のあるストーリーを持った映画が作れるのかと感心してしまった。
国立の映画学校「インド映画研究所(FTII)」の一室で、女子学生の「L」が、引き離された恋人に向けて綴った手紙が見つかった、というのがこの映画の導入部分だ。
物語としてのこの映画は、楽しげなダンスパーティーに向かう彼女が、恋人と会えない孤独や憂鬱を抱えている…というところから始まる。
普遍的な青春物語のように思えるが、この映画の背景には、いまだに続くカースト差別や、ナショナリズム(インドのマジョリティであるヒンドゥー教徒による宗教ナショナリズム)が台頭し寛容さを失う社会など、現代のインドが抱える社会問題が描かれている。
…こんなふうに紹介すると、まるでインド特有の事象を扱った地味な社会派映画のような印象になってしまうが、そう考えて自分には関係なさそうだと敬遠してしまうのは非常にもったいない(まあ地味な映画ではあるのは確かだけれど)。
優れた映画がいつもそうであるように、この作品は私の物語でもあり、あなたの物語でもある。
『私たちが光と想うすべて』をすでに観た人には、パヤル・カパーリヤー監督の虚構と現実を織り交ぜたストーリーテリングの巧みさについては説明するまでもないだろう。
『何も知らない夜』でも、『私たちが光と想うすべて』と同様に、私たちは現代インドの日常のなかに放り込まれ、登場人物たちの人生/生活を、観賞するというよりも、体験させられる。
「L」を通して、私たちは、特定の思想にもとづく国家権力が表現や学問の領域にまで支配の手を伸ばそうとしていたり、そうした空気の中でマイノリティが疎外され続けている現代のインドを体験する。
この映画の描かれていることは、日本を含めた世界中で現在進行形で起きていることとまったく変わらないということに気づくはずだ。
日本と異なるのは、そうした状況に対して、学生たちが積極的に行動を起こしているところだが、権力者がただ自由を求めている人々に対して「彼らは精神疾患が疑われる。彼らは反ヒンドゥーだ」と抑圧的な物言いをする場面なんて、どこの国でもまったく同じなのだなあとむしろ感動してしまうくらいだ。
為政者が差別に抗議して亡くなった学生を、「インドの子ども」と呼んで美談として納めようとするニュース映像も出てくるが、この全体主義を感傷で覆い隠したような疑似家族的な国家観も、私たちには見覚えがあるものだ。
「L」の手紙で語られる「映画編集者の私は時を繋がずにはいられない」という独白は、監督の映画作りにかける思いを吐露したものだろう。
それに続く「どの写真も現れたときと同じ速度で消えてゆく」という言葉からは、新しい報道とともに忘れられてしまう小さなニュースや、その渦中にいる市井の人々を、いなかったことにせずに丁寧に描くという監督の決意を感じた。
「L」に象徴されるような、無名の、そして無数の人々は、確かに存在している。
彼女たちの存在や、彼女たちが感じていた感情をもっとも効果的に伝えることができるのは、劇映画でもドキュメンタリーでもなく、その間にあるこの形式なのかもしれない。
独特のざらっとした映像は、今作ではモノクロームが中心。
観ているうちに50年前の8ミリ映像かなにかのような気がしてしまうが、登場人物がスマホを持っていたりすると、現代の話であることを思い出してどきっとする。
監督曰く、こうした映像は「私たちの多くが周囲の状況に対応することを余儀なくされている 『現在』 へのノスタルジー」であり「より公平で平等な社会のために闘うという、若くて良心的でロマンティックな考えへのノスタルジー」だそうだが、現代を相対化して見るような効果が感じられて、とても良かった。
社会的なテーマを扱ったドキュメンタリー的な映画でありつつも、「ジャーナリストの作品」ではなく、「芸術的な映画監督の作品」になっているところが、この映画の力強さにつながっている。
『私たちが光と想うすべて』の主要な登場人物が、映画の舞台であるムンバイから遠く離れたケーララ州の人物であったように、『何も知らない夜』の「L」も、FTIIがあるプネー(ムンバイと同じマハーラーシュトラ州にある都市)ではなく、インド東部の西ベンガル州の言語のベンガル語を母語としているという設定だ。
ベンガルはアジア人最初のノーベル賞受賞者である詩人のタゴールや、インド芸術映画の巨匠サタジット・レイを生んだことでも知られ、ケーララ州と並んで、インドのなかでも文化・芸術の香り高い土地でもある。
西ベンガル州は社会運動が活発な土地でもあるため、映画作りを学び、社会に声を上げることにも積極的な「L」のキャラクターにも、こうした地域性が反映されているのかもしれない。
ここから先は蛇足になるが、映画の中で説明されない背景を少しだけ説明すると、たびたび名前が出てくる「アンベードカル博士」は、カーストの枠外に位置付けられた被差別階級から身を起こし、インド憲法の草案の起草にかかわり、のちに法務大臣まで務めたビームラーオ・アンベードカルのこと。
彼の人生はカースト差別との戦いでもあった。
カーストによる差別はヒンドゥー教の穢れの思想にもとづくものであるため、彼は晩年に被差別階級の人々とともに仏教への集団改宗を行った。
こうした功績から、彼は今でもインドでは被抑圧者の抵抗のシンボルとして尊敬を集めている。
最後にもうひとつだけ。
この映画とも関連したテーマで、インディペンデント音楽を扱った25分のドキュメンタリー作品がYouTubeでも観られるので紹介したい。
デリーのレゲエDJのTaru Dalmiaがレゲエやスカといったジャマイカ音楽を使ってナショナリズムと対峙する様子を追った"India's Reggae Resistance: Defending Dissent Under Modi"というAl Jazeeraが制作した2017年の映像作品だ。
どちらかというと「静かに燃えさかる炎」といった趣きの『何も知らない夜』に対して、レベルミュージックを使った運動は対照的な動的なイメージがある。
レゲエというインドの大衆の好みからは遠いスタイルで活動する彼には、いくぶんドン・キホーテ的な印象も受けるが、映画や音楽といったカルチャーが、インドの地で、自由を守るための声を上げつづけているのを見ると、いつも勇気づけられる。
こうした表現者の「矜持」を感じさせてくれる作品を、これからも作りつづけられるインドであってほしい。
最後の最後に補足というか、蛇足の蛇足。
現代のカースト差別の根底には、伝統的な「穢れ」の概念にもとづくものだけではなく、被差別カーストに公立学校や公務員などの一定の採用枠(留保制度=reservationと呼ぶ)が設けられていることなどに対するマジョリティからの反発も存在している。
「あいつらが優遇されているせいで俺たちが我慢を強いられている」みたいな、どこかで聞いたことがあるような理屈が存在しているのだ。
また、いわゆるヒンドゥー・ナショナリズムの信奉者が必ずしもカースト差別を肯定しているというわけではなく、むしろ「同じヒンドゥーの仲間」としてヒンドゥー教内での序列であるカースト差別に反対し、彼らを包摂しようという動きもある。
それ自体は良いことなのだが、その一方でイスラームなどの別の宗教を排斥していたりするので根が深い問題だ。
このあたりは、少し古い本だが、中島岳志著の『ヒンドゥー・ナショナリズム: 印パ緊張の背景』(2002年、中公新書ラクレ)に詳しい。
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