2022年05月28日
北チェンナイはタミルのブロンクスかニューオーリンズか Casteless Collectiveの熱すぎるリズムそしてメッセージ
「カースト」のことを書くのはいろいろな意味で気が重いのだが、今回は、インドが持つ最大の負の遺産であるカースト制度に真っ向からプロテストを訴えているバンド、その名もCasteless Collectiveを紹介したい。

カーストについて語るのは非常にやっかいだ。
カーストがどのような意味を持つかは、その人が暮らしている環境やコミュニティによって大きく異なるからだ。
海外や都市部で「先進的な」暮らしをしているインド人のなかには「カースト差別はすでに過去のもの」という意見を持つ人もいる。
私は1990年代にすでにそういう意見の人に会ったことがあるのだが、その人はインドの印象を良くしたいとかではなく、心からそう思っているふうだった。
彼にとっては、それが「真実」だったのだろう。
だが、インドの田舎や保守的なエリアに生まれた人にとっては、カーストの影響を受けずに育つことは難しい。(その結果が差別意識であれ、問題意識であれ)
日本人には理解が難しい「カースト差別」をごく単純に説明すると、伝統的な世襲制職業コミュニティ(「ジャーティ」と呼ばれる)の「清浄」と「ケガレ」の感覚に基づく差別と言えるだろうか。
カーストの階層のなかでは、司祭階級にルーツを持つバラモン(ブラーミン)がもっとも清浄であるとされ、死(葬儀、と畜など)や汚れ(清掃、洗濯など)を扱う者たちは、カースト枠外の最下層の存在とされてきた。
最下層とされた人々は、ケガレが移るという理由で、カースト内の人々と触れたり、食事をともにしたり、視界に入ることすら禁じられ、長い間、非人間的な差別を受けてきた。(「不可触民」と呼ばれて蔑視されてきた彼らは、今では「抑圧されたもの」を意味する「ダリット」と称されることが多い)
今なお深刻なカースト差別の最悪な形のひとつが「名誉殺人」だ。
これは、低カーストの男性と交際している高位カーストの女性が「一族の名誉を守るため」という理由で親族から殺されてしまうという恐ろしい犯罪で、池亀彩著『インド残酷物語 世界一たくましい民』によると、2014〜16年の3年間で、タミル・ナードゥ州だけで92件もの名誉殺人が起きているという。
その被害者の8割がカースト・ヒンドゥー(ダリット以外のヒンドゥー教徒)の女性で、残りの2割は相手のダリットの男性だ。
これはあくまでも氷山の一角で、同じ時期に発生した名誉殺人の疑いのある不審死まで含めると、タミルナードゥ州内だけでも174件にものぼる。
インド全体で考えれば、この数字は何倍にも膨れ上がるはずだ。
ビリー・ホリデイの『奇妙な果実(A Strange Fruits)』は、リンチを受けて殺され、木に吊るされた黒人のことを歌った曲だが、インドではいまだに同じようなことが行われているのだ。
私がインドの社会や音楽シーンに興味を持ち続ける大きな理由のひとつは、こうした差別や格差に対して、音楽がどんな役割を果たせるか見届けたいという思いがあるからだ。
20世紀前半から、アメリカの黒人たちは、独自の文化をルーツとした素晴らしい音楽を生み出し、差別や過酷な環境に生きる彼ら自身をエンパワーしてきた。
ブルース、ソウル、ファンク、そしてヒップホップ。
1960年代の公民権運動から2010年代のブラック・ライヴス・マターまで、その音楽が社会のなかで大きな役割を担ってきたことは衆知のとおりだ。
泥水から美しい花を咲かせるように、彼らの音楽はその普遍的な魅力で、今日のポピュラーミュージックの礎となってきた。
いまも苛烈な差別が続くインドでも、音楽は社会の中で大きな役割を持つことができるのではないか?
あるいは、過酷な環境のなかから、新たに力と普遍的魅力を持った音楽が生まれてくるのではないか?
カーストに起因する問題が全て音楽で解決すると考えるとしたら、それはあまりにも能天気すぎるが、このブログでも何度も書いているように、実際にインドでもすでに音楽によるエンパワーメントは始まっている。
前置きが長くなったが、今回紹介するCasteless Collectiveはまさにその好例だ。
インド南部、タミルナードゥ州の州都チェンナイで結成されたCasteless Collecriveは、メンバー全員がダリット出身。
このバンドは、同じくダリット出身の映画監督Pa. Ranjitが設立したニーラム文化センター(Neelam Panpaatu Maiyam)に集まる若者たちによって、2017年に結成された。
(Pa.Ranjitがメガホンを取り、タミル映画界のスーパースター、ラジニカーントが主演した映画"Kaala"については、この記事で詳しく紹介している。格差や差別やナショナリズムへの抗議と怒りに満ちた素晴らしい作品だ)
Casteless Collectiveは12〜19人のメンバーで構成されたバンドだ(記事や媒体により人数の表記が異なっている)。
その中には、ドラムやギター、男女のヴォーカルやラッパーといった馴染みのあるパートに加えて、ガーナ(Gaana)と呼ばれるタミルの伝統音楽のミュージシャンたちも含まれている。
Casteless Collectiveは、ファンクやブルースとガーナをかけ合わせたフュージョン・ロックバンドなのだ。
「ガーナ」とは、もともと彼らが拠点とする北チェンナイの葬儀でダリットたちが演奏する音楽だった。
(北インドのヒンディー語などの言語では、'Gaana'は歌全般を意味する言葉だが、少なくとも北チェンナイのタミル語では、Gaanaというとこの葬送にルーツをもつ音楽を指すようだ)
2022.7.6追記:タミル文化に詳しい方から、「ガーナ」は必ずしも葬儀で演奏される音楽でも被差別階級の音楽でもなく、ストリートミュージック全般を指すのではないか、というご指摘をいただいた。私は南インドの文化にはまったく詳しくないので、これはおそらく私に誤解があり、その方の指摘が正しいものと思う。北チェンナイ発祥の「ガーナ」は、その発端には被差別階級や葬儀との関連があったかもしれないが、少なくとも現在はそうしたテーマとは関係なく親しまれている音楽であるようだ。私が書いた内容は、間違いではなくても、例えば、現代のポップミュージックを紹介するときに「R&Bは過酷な黒人差別の中から生まれた音楽だ」と書くくらいに唐突だった可能性がある。ただ、以下のVICE Asiaのインタビューを見れば分かる通り、Casteless Collectiveの音楽を紹介する文脈では、ガーナはやはり被差別の苦しみから生まれた音楽と理解して間違いなさそうなので、こうした現状をふまえた上で記事を読んでもらえるとありがたいです。
20世期初頭に南インド各地から仕事を求めてチェンナイ北部にやってきたダリットたちが生み出したガーナは、葬送音楽らしからぬ派手なパーカッションとリズミカルな歌が特徴の音楽だ。
1980年代頃からポップスとしても消費されはじめ、今ではポピュラー音楽のメインストリームである映画音楽にも使われるようになった。
まるでニューオーリンズのジャズ葬から生まれたセカンドラインのようなエピソードだ。
このニューオーリンズのような音楽文化を生んだ北チェンナイは、南インド各地から来た貧しい労働者が数多く暮らす地域でもあり、「治安が悪く犯罪が多発」というヒップホップ発祥の地、ニューヨークのブロンクスみたいなイメージを持たれている場所でもある。
(ニューオーリンズで黒人たちの葬送のための音楽として生まれたセカンドラインは、ジャズやファンクのいちジャンルとなり、ポップミュージックにも導入さている。ヒップホップ創成期のブロンクスはカリブ地域から渡った黒人やヒスパニック系の移民が多く暮らす犯罪多発地域だった)
こうした文化的背景のせいか、Casteless Collectiveの音楽は、音楽性のみならず、その精神性においても、アメリカのブラックミュージックのような力強いメッセージを持った非常に面白いフュージョンになっているのだ。
「北チェンナイ」を意味する"Vada Chennai"は、地元をレペゼンしつつ抑圧に対する怒りを訴える、彼らの醍醐味が存分に味わえる曲だ。
本当のチェンナイ北部を知っているのか?
奴らは美しいものを全て破壊し、真実を埋めてしまった
俺たちは奴らに奪われた土地を取り戻す必要がある
さあ、戦おう、第二の独立のために
1947年にイギリスからの独立を果たしてから75年の歳月が過ぎたが、ダリットの人々にとっては、自身の尊厳を取り戻す本当の意味での「独立」はいまだに達成されていないと訴えることからこの曲は始まる。
このいかにもインドらしい(そしてタミルらしい)プロテスト音楽を奏でる彼らのことを手っ取り早く彼らを知るには、Vice Asiaが作ったこのドキュメンタリーが最適だ。
彼らの言葉に耳を傾ければ、その思想と理想が理解できるだろう。
「Casteless Collectiveのサウンドはチェンナイの土壌から生まれた音だ。チェンナイの血と汗なんだ。Casteless Collectiveは、人々が抱えている問題や苦労や必要なものを伝え、平等をもたらすために存在している。大事なのはカーストに関する全ての考えを根絶すること。カーストのない社会にすることだよ。それがCasteless Collectiveなんだ」
インドには、明確に思想を表明しているインディーミュージシャンも少なくないが(例えばSka VengersのTaru Dalmia)、考えてみれば彼らほどその思想を直接的にバンド名に冠したアーティストは他に思いつかない。
彼らのソウルミュージックでもある「ガーナ」について語っている内容も興味深い。
「ガーナは俺たちの心の痛みから生まれる音楽だ。ガーナのミュージシャンたちは長い間搾取されてきた。ガーナは理論的なものじゃないから、学ぶことはできない。フィーリングなんだ」
「ガーナはブルースみたいなものだ。タミルのブルースさ。ヒップホップが持つ痛みと同じようなところから生まれた。ヒップホップとガーナを融合させるのは難しかったけど、メンバーのArivuはラップもできて、ガーナ音楽も歌えたのさ」
やはりというべきか、彼らとガーナの関係は、アフリカ系アメリカ人と黒人音楽の関係になぞらえて理解することができるもののようだ。
ブルースのように、やるせない境遇の憂鬱をぶっとばすためのものであり、ヒップホップのようにそこにメッセージを乗せて伝えることもできる。
彼らがアメリカの音楽に影響を受けていることも確かだろうが、似たような環境で生まれた音楽であるがゆえのシンクロニシティーがあるのだろう。
ちなみにアメリカ合衆国におけるアフリカ系市民の割合は12.6%だそうだが、インドのダリットの割合は16.6%とされている。
とくに地方においては、インターネットや電力へのアクセスすらままならないダリットも多く、根深い社会構造的な問題からそのエンパワーメントは容易ではないが、人口規模を考えれば、彼らの生み出すブルース/ヒップホップ的な音楽がインドで大きなうねりを生み出すことも夢ではないのかもしれない。
今度は、ラッパーであるArivuの言葉に注目してみよう。
「祖父たちがよく話していたよ。俺たちには土地なんてなかったんだ。人の家に表玄関から入ることも許されなかったし、コップから水を飲むことも許されなかった。何千年もそんなことが続いているんだ。俺は大学で勉強して、カーストの抑圧がいかに大きいものかを学んだ。今でも差別は続いている。ここじゃ人々は土地なんてもっていない。手でゴミを拾っている人たちの子供は、同じ仕事をするしかない。カーストは目に見えないかもしれない。居心地の良い場所でこの話を聞いている人は、きっと先祖が土地持ちかなんかで、いろんな人を抑圧してきたんだろうよ。私立の学校やインターナショナル・スクールに行ってる奴らが『カーストなんてもうない』なんて言うのは馬鹿げているよ」
冒頭に書いたように、カーストをめぐる状況はインドでもさまざまだが、チェンナイ北部のダリット出身である彼のこの発言には痛みをともなうリアリティがある。
「俺はストリートのリアルを伝えるアーティストになりたかった。俺は大学に入ってから、詩を書くようになった。歌を通して、自分の痛みを表現したかったんだ。そうしたら友達が『まるでラップみたいだな。続けたらラッパーになれるよ』と言ってくれた。ラップシーンに入ってから、ラップの歴史を知ったよ。抑圧に対する声だということをね。そのことを知ってすごく嬉しかった。よし、ラップを通して俺たちの生活を伝えてみよう、って思った」
ヒップホップというカルチャー、ラップというアートフォームの普遍性を感じるエピソードだ。
彼らのこうした主張は、その楽曲に色濃く反映されている。
"Jaibhim Anthem"は、ダリット解放運動の活動家であり、インド憲法を起草した法学者・政治家でもあるビームラーオ・アンベードカル(1891−1956)を称える歌。
俺の話をちゃんと聞けばわかるはずさ
この国はカーストの偏見に溢れている
俺たちは学校にも入れてもらえないし、寺院も魂を救ってくれない
道路も歩けないし、殺されることだってある
何千年もこんなことが続いてきた
変わったというけれど、だれが保証してくれるんだ?
歴史を振り返ってみれば、誰が俺たちのストーリーを変えてくれたか分かるだろう
ジャイ・ビーム 声を挙げよう カーストなんていらない 喜びの声を
アンベードカルは晩年に50万人のダリットたちを率いて、カースト差別の根源であるヒンドゥー教と訣別し、仏教徒に改修した、インドにおける仏教復興運動の祖でもある。
こうした経緯から平等主義に比重を置くことが多い彼らは、新仏教(Neo-Buddhist)と呼ばれることも多いが、この名称は結局彼らの出自に注目したものだとして、必ずしも歓迎されている呼び方ではない。
「ジャイ・ビーム」の叫びは、現代まで続くダリット解放運動の父であるアンベードカルへの共感とリスペクトを表す合言葉であり、平等や権利を訴える場面で広く使われている。
(前述の映画"Kaala"やSka VengersのTaru Dalmiaを取り上げたドキュメンタリーでもこの言葉を唱えるシーンがある。詳しくはリンク先の記事を参照)
長い間被差別階級に甘んじてきたダリットたちは、公立学校への入学や公務員への就職の際に、一定の枠が与えられている。
こうしたクォータ制度(インドではreservation=留保制度と呼ばれることが多い)に対する彼らのステートメントがこの曲だ。
お前らの先祖は俺たちの先祖を虐げてきた
だから俺たちにクォータ制度が割り当てられているんだろ?
欲しいものをいつも手に入れてきたからって威張るなよ
俺たちは先祖とは違う、俺たちはもうおとなしくしないからな
(冒頭の部分。原語はタミル語)
ヘヴィロック的なサウンドに乗せて歌われるメッセージはまるでボブ・マーリーのような熱いプロテストだ。
留保制度は様々な問題をはらんでいて、この制度で高等教育に進学したダリットの学生が学業についていけずドロップアウトしてしまうこともあり、また上位カーストの学生が逆差別だと抗議の自殺をするなど、けっして万能の解決策ではない。
だが、それでもこの制度がインド社会の歴史的負債とも言える格差是正に大きな役割を果たしてきたことは間違いない。
そうした批判もふまえた上での主張が、この"Quota"だというわけだ。
Arivuはソロのラッパーとしてもバンドと同様のメッセージを発信している。
ビートメーカーのofROとタッグを組んだ"Anti Indian"もまた強烈な一曲。
なんだって?俺がアンチ・インディアンだっていうのか?
なんだって?俺はただタミル人として投票しているだけ
俺はあんたみたいなただの人間さ
なのに俺の夢も希望も潰されてしまった
目を閉じて俺の話を聞いてくれ
おまえは俺の土地を滅ぼし 俺の家を燃やそうとした
おまえは俺たちの森に戦争を持ち込んだ
歴史は偽りに満ちている
おまえは俺を生贄にして 俺の国を滅ぼした 数十万もの人々だ
それでも俺はおまえたちと一緒になった
俺の夢をおまえが叶えてくれることを望んでいた
俺はひとつになることを望んだが おまえは俺たちの分断が続くことを望んでいる
言語や宗教や人種や生まれによる分断のことさ
教育で分断し 見えない線で分断し 肌の色で分断する
俺の土地は自分の血で血まみれだ
この戦いは俺たちの世代でもまだ続いている
おまえに俺の痛みは分からない
"Anti Indian"は、日本で言うと「反日」とか「売国」に近いようなニュアンスの言葉だと考えてよいだろう。
チェンナイに暮らす彼らは、カースト差別とは別に、北インドの南インドの構造的格差の当事者でもある。
インドという国は、伝統的に首都デリーを中心とした北インドのヒンディー語圏のアーリアの人々が支配的であり、彼らとは全く別の言語体系・人種的ルーツを持つドラヴィダ系の南インド人はなにかと低く見られがちだ。
こうした状況のなかで、チェンナイを州都とするタミルナードゥ州は、とくに自らの文化への誇りが強い土地であり、北インド的な価値観の押し付けに対する強い対抗意識を持っている。
だが、タミル的なアイデンティティというのものも一枚岩ではなく、例えばそれはタミルの中の上位カーストの価値観に依拠していることもあるから一筋縄ではいかない。
例えば、カースト・ヒンドゥーのタミル人たちは、自分たちの牛を誇りとして大切にする文化を持っているが(たとえばこの記事を参照「タミルのラッパーのミュージックビデオがほぼインド映画だった話 Hiphop Tamizhaとタミルの牛追い祭り」)、ダリットたちにとって牛は貴重な食材のひとつである。
"Anti Indian"のミュージックビデオで、Arivuはライブの途中で曲を止めて、観客にこう語りかける。
「曲を止めてすまない。ちょっと言いたいことがある。
俺たちがタミル人でもインド人(ここでは北インド出身者のことか)でもマラヤーリー(タミルナードゥ州の西隣ケーララ州にルーツを持つ人々)でも関係ない。俺たちは人間だ。
ただの人間、それだけだ。
最後に残るのは人間愛(humanity)だ。人間であること(humanity)だけが永遠なんだ。
俺たちはひとつだ。人間であるってことは、俺たちを結びつける力なんだ」
このメッセージのあまりの誠実さに、正直、書いていてちょっと背筋が伸びた。
社会的、政治的であることから全く逃げずに、こんなにも真摯な姿勢を貫いているアーティストは世界的に見ても稀有な存在だろう。
Arivuはラッパーとしての技量も非常に高く、この"Kallamouni"の2:10からの凄まじい勢いの鬼気迫るラップを聴いてみてほしい。
Casteless Collectiveのメンバーたちも語っているように、これまで、ダリット自身が主人公となって、自分たちを虐げてきた人々や制度を公然と批判できる音楽は彼らのコミュニティに存在しなかった。
音楽的にも文化的にも自らのルーツを誇りつつ、強烈なプロテストを繰り広げる彼らは、遠く日本から見ていても胸がすくようなすがすがしさと熱さがある。
北チェンナイのダリット・コミュニティから生まれた彼らの音楽が、その熱さと真摯さで、ファンクやヒップホップのように、より多くの人をエンパワーすることも、決して夢ではないと信じている。
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「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
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