2021年03月03日
続・タイガー・ジェット・シン伝説 「ヒンズー・ハリケーン」の謎をさぐる
(タイガー・ジェット・シンの半生と、その知られざる本当の人柄については、この全3回のシリーズをお読みください)
タイガー・ジェット・シン財団が行った東日本大震災への支援に対して、在トロント総領事から表彰が贈られたというニュースが大きく報じられた。
NHKの報道によると、今回の受賞を受けて、シンは「津波の被害について聞いたときは胸が張り裂ける思いでした。49年間もの時間を過ごした日本の子どもたちのために、とにかく何かしなければと思いました。近いうちにまた日本を訪れたいです」と語り、被災者支援のために、さらに20,000カナダドル(約170万円)の寄付を行うという。
「インドの狂虎」としてリング内外で暴れ回ったシンがじつは極めて紳士的な人物であり、実業家としても成功しているという事実は、プロレスファンにはよく知られている。
タイガー・ジェット・シン財団のYouTubeチャンネルでは、シンが震災直後の2011年4月に行った支援活動の様子を見ることができる。
プロレスファンとしても、日本人としても目頭が熱くなることを抑えられない映像だ。
それでも、彼はこれまで「狂気のヒール(悪役レスラー)」のイメージを頑なに守り、日本ではこうした側面を一切アピールしてこなかった。
マスコミに対して「ヒールのイメージを損なうことは書くな」と念を押していたという話も聞いたことがある。
シンは明確な引退宣言やセレモニーこそ行っていないものの、すでに76歳。
レスラーとしてはもう10年以上リングに上がっていない。
今回の受賞に対するあたたかいコメントは、ついに日本でもヒールであることから引退したという意味なのだろうか。
彼の素晴らしい人間性が広く知られることはうれしいが、やはりプロレスファンとしては一抹の寂しさも感じてしまう…。
数々の伝説に彩られた「プロレスラー、タイガー・ジェット・シン」ではなく、一人のインド系移民としてのジャグジット・シン・ハンス(シンの本名)のリアルな半生については、以前の3回にわたる特集記事で詳しく紹介した。
それでも彼のキャリアには、謎に包まれた部分がいくつも存在している。
とくに、彼のキャリア初期には、未解明なところが少なくない。
今回は、そのうち2つの謎に焦点をあてて検証してみたい。
その謎というのは、
- シンのプロレスラーとしてのデビューは、カナダ(1965年)ではなく、シンガポールだという説があるが、どちらが正しいのか?
- シンはデビュー当時「ヒンズー・ハリケーン」と名乗っていたという説があるが、それは本当なのか?本当だとしたら、いつ、どこで名乗っていたのか?
というものである。
ひとつずつ検証してみよう。
「シンガポールデビュー説」の真偽
「タイガー・ジェット・シン、シンガポールデビュー説」は、例えば以下のようなサイトで見ることができる。
- シンが日本で最後に参戦していた(2009年まで)団体「ハッスル」のウェブサイトでは、シンのプロフィールはこのように紹介されている。(http://www.hustlehustle.com/free/fighters/?id=1093611933)「兵役を終えたあと、インドでグレート・ガマ流のインド・レスリングを身に付けてシンガポールでプロレス入り、その後、カナダで本格的なプロレスを身に付けて来日!! 新日本プロレスでアントニオ猪木を相手に壮絶な死闘を繰り広げた。サーベル片手に上田馬之助と共に大暴れして日本中を恐怖のドン底に叩き落とした。ハッスルのリングでも、いまだ狂乱ぶりは健在だ。」
- 日本語版Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/タイガー・ジェット・シン)には「1964年にシンガポールでデビューし、その後カナダに渡ったという説があるが定かではない」という記載がある(2021年2月現在)。
- ルチャ・リブレ系の情報サイトLuchawikiでは、デビューの時期・場所は「1965年 シンガポール」と紹介されている。(http://www.luchawiki.com/index.php/Tiger_Jeet_Singh)
だが、シンが1944年生まれであることはあらゆる情報源で一致しており、また彼が17歳で(15歳説もある)カナダのバンクーバーに渡ったということも議論の余地がないようだ。
いくら屈強なシンとはいえ、さすがに10代なかばで兵役を終えたとは考えられず、カナダ移住前にシンガポールでデビューしていた可能性はまずないと考えるのが妥当だ。
おそらくだが、これはヒールとして活躍している日本で、カナダでのベビーフェイス(善玉レスラー)時代の経歴をカモフラージュするために用意された偽の経歴ではないだろうか。
シンは、カナダでのインタビューで、「カナダのテレビでプロレスというものを初めて見た」と語っている。
だが、日本で怪奇派レスラーとして活動するには「カナダでフレッド・アトキンス(あのジャイアント馬場のプロレスの師でもある)にレスリングを学んだ」という経歴は少々インパクトが弱い。
そこで、「グレート・ガマ流のインド・レスリングを身につけてアジアのリングでデビューした」というミステリアスな来歴を日本向けに用意した可能性はありそうだ。
2番目の日本版Wikipediaの情報だが、こちらも真実であるとは考えにくい。
日本、アメリカ、メキシコのプロレスのデータを網羅したwww.wrestlingdata.comによると、シンのカナダでのデビューは1965年9月16日、トロントのメイプルリーフ・アリーナだったとされている。
対戦相手や試合時間まで記録されたこのサイトの情報は信頼度が高いと考えてよいだろう。
だとすると、1964年当時、シンはフレッド・アトキンスのもとに弟子入りする前後だったはずで、いくらなんでもデビュー前のまだ半人前のレスラーが海外遠征をしたという可能性は極めて低い。
同様に、Luchawikiの情報も、おそらくはシンが日本向けに伝えた偽の経歴と、カナダでのデビュー年が混同されたものだと考えられる。
しかしながら、プロレスの世界に「絶対」はあり得ない。
もしかしたら、このシンガポール・デビュー説が真実である可能性もなくはないのだが、それはこのあと「ヒンズー・ハリケーン」説と合わせて検証してみたい。
シンは「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームを名乗っていたのか?
シンがデビュー当時名乗っていたとされる「ヒンズー・ハリケーン」という怪しげなリングネームについては、以下のようなサイトで確認できる。
- 日本語版Wikipediaに、「新日本プロレスに参戦する前に「ヒンズー・ハリケーン」のリングネームを使用した時もある」との記載がある。(https://ja.wikipedia.org/wiki/タイガー・ジェット・シン)
- 昭和のプロレスの情報を網羅したいくつかの日本のサイトで、デビュー当時、または来日前に「ヒンズー・ハリケーン」と名乗っていたという記載が確認できる。例えば、「ミック博士のプロレス研究室」(http://www.showapuroresu.com/bio/ta/tiger_jeet_singh.htm)「レスラーノート プロレスラー選手名鑑」(https://pinoko-kuro.ssl-lolipop.jp/pro/w422.htm)、「プロレス爆裂地帯」(https://white.ap.teacup.com/corona/86.html)など。
- スペイン語のルチャ・リブレ系のプロレス情報サイトに、「タイガー・ジェット・シンが'Hindu Hurricane'というリングネームを名乗っていた」という記述が見られるものがある。例えば、Luchawiki(http://www.luchawiki.com/index.php/Tiger_Jeet_Singh)、¿Quien es Quien? Lucha Libre(http://quienesquienluchalibre.blogspot.com/2016/02/tiger-jeet-singh.html).
「ヒンズー・ハリケーン」の「ヒンズー」はヒンドゥー教(Hindu)のカナ表記だろうが、シン自体はヒンドゥー教徒ではなくシク教徒である。
とはいえ、ギミックのためにレスラーの国籍やプロフィールを偽ることは日常茶飯事のプロレス界では、シク教徒がインドを代表する宗教であるヒンドゥーのリングネームを名乗ったとしても不思議ではない。
だが、どうしても引っかかるのは、この「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームについての記述があるのは、日本語とスペイン語のウェブサイトだけだということである。
前述のwww.wrestlingdata.comを含めて、英語の情報にはHindu Hurricaneの記述はいっさいなく、Wikipediaでも日本語以外(英語、ポルトガル語、ポーランド語、アラビア語)ではこのリングネームに関する記載はない。
マニアックさでは日本に勝るとも劣らない英語圏のファンが把握していないということは、少なくとも、アメリカやカナダのリングでシンがこのリングネームを使ったことはなかったのではないか。
そう考えると、この「ヒンズー・ハリケーン」も、シンが怪奇派ヒールレスラーとしてのキャラクターのために作りあげた架空の存在ように思えてくる。
日本向けに創作されたプロフィールがスペイン語圏にも伝わった一方で、アメリカやカナダのマット界の一次資料へのアクセスが容易な英語圏では、根拠のない「シン=ヒンズー・ハリケーン説」は広まらなかった。
こう考えるとつじつまが合う。
だが、さらに調査を続けてゆくと、シン来日前に、日本のプロレス誌に「まだ見ぬ強豪」として「ヒンズー・ハリケーン」というレスラーが掲載されていたという情報にたどり着いた。
たとえば、このブログではワニにヘッドロックを決める(なんだそれ)タイガー・ジェット・シンらしき男に「ヒンズ・ハリケーン」のキャプションが付けられた記事が紹介されている。
「ヒンズー・ハリケーン」はやはり実在していたようなのだ。
他のウェブサイトの情報も総合すると、どうやら「ヒンズー・ハリケーン」の名前が掲載されていたのは、1969年から1970年にかけての「月刊ゴング」だったようだ。
シンの初来日は1973年であり、さすがにこの時期から日本向けに怪奇派ヒールとしてのキャラクター作りがされていたとは考えにくい。
前述のwww.wrestlingdata.comでは、1969年3月から1970年の11月までのシンの試合の記録がすっぽりと抜けている。
とすると、この時期、シンは記録の残っていない東南アジア(香港、シンガポール)かオセアニアのリングで戦っていた可能性が高い。
シンガポールはカナダ同様にインド系移民の多い国だが、パンジャーブ系よりも南インドのタミル系の移民が多く暮らしている(シンガポールのインド系住民の約半数がタミル人)。
シク教は北インドのパンジャーブ地方発祥の宗教なので、南インドにルーツを持つタミル人には馴染みがない。
賢いシンが、この地で戦うときに、いかにもパンジャーブのシク教徒らしいJeet Singhではなく、Hindu Hurricaneというリングネームを選んだとしても不思議ではない。
シンの新日本プロレスへの来日は、香港で彼のファイトを見た貿易商が猪木に推薦したことだと言われている。
「ヒンズー・ハリケーン」は、シンの東南アジア限定のリングネームだったとすれば、地理的に近い日本にのみその情報が伝わり、英語圏では全く知られていないということも説明できる。
シンが信仰するパンジャーブ地方発祥の宗教、シク教徒は、コミュニティの高い結束力を持つことで知られている。
シンは後に、やはりインド系移民の多い南アフリカのプロレス界のブッカーとして活躍することになるが、こうしたリング外での活躍の裏には、世界中に広がるシク・コミュニティのネットワークがあったはずだ。
この時期のオセアニア、シンガポール、香港(いずれもインド系移民の多い土地だ)などへの遠征も、そのネットワークを利用して行われたに違いない。
そう考えると、シンがカナダでデビューする前にシンガポールでデビューしていた可能性も、否定できないのだ。
シンが故郷のパンジャーブでクシュティ(インド式レスリング)のトレーニングをしていたことは間違いなく、北米ほどレスリングのレベルの高くないシンガポールに何かの用事で立ち寄った際に(それは、カナダに渡る道中のことだったかもしれないし、いったんカナダに渡ったあとの1964年、あるいは65年だったかもしれない)、リングに上がったということも考えられる。
シンガポールデビュー説も、デマだと一蹴することはできない何かがあるのだ。
さらに深まる謎
これで、シンの初期のキャリアに関する謎に一通りの答えらしきものを出すことができた。
そう思っていた矢先に、再び興味深い情報を入手してしまった。
この記事を仕上げるにあたって、神田の古本屋で、「これが猛虎タイガー・ジェット・シンの意外な正体!」という特集が掲載された「月刊ゴング」1976年9月号を購入したのが運の尽きだった。
そこに書かれていたのは、これまでの考察とは全く異なるシンのプロフィールだった。
この記事が描かれた当時、タイガー・ジェット・シンは新日本プロレスに早くも7度目の来日中だった。
「アジア・リーグ戦」に出場し、8月5日には蔵前国技館でアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級タイトルに挑戦しようという、脂の乗りきった時期である。
この特集では、アメリカのWrestling Revue誌の1968年1月号に「アール・ダーネル」なる記者が書いた5ページにわたる「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事を引用する形でシンのプロフィールを紹介している。
「ダーネル記者によれば、シンは1967年11月末に突如、カナダのマットに出現した。この時、シンは25歳というから現在は34歳ということになる。
シンがいきなり登場したのはカナダのトロントのメープルリーフ・ガーデン。以来、現在までシンはホーム・リングを変えていない(このへんはインドレスラーの堅実さだ)。」
のっけからフレッド・アトキンスのもとで修行し1965年にデビューしたという「正史」とは異なる記述で始まっていて驚くが、著者はWrestling Revueの記事をさらに引用して続ける。
「かれは、インドのパンジャプ(原文ママ。以下同)の名家の出身で父はサルタンであった。かれには、父からパンジャプ地方に4000エーカーという想像もつかないような広大な土地が残されており、かれがレスリングという格闘技に必要以上に興味さえ持たなければ、かれはサルタンのプリンスとして多くの召使いにかしずかれる身分であった。
ところが、かれは少年時代から恐ろしく強かった。十四歳の時に父のサルタンと一緒に象にのって虎狩りに行き、この貴族の息子は、槍を使って虎を仕止めるという凄いことをやってのけた。
インドにはインド・レスリング(軽刈田註:クシュティのことか?)という古来からの格闘技があり、これは、かれが生まれたパンジャブ地方で最も盛んに行われており、かれは少年時代からそのチャンピオンであった。
インドには様々な種族がいるが、かれはその中で最も勇猛で戦闘の精神に富んでいるといわれるシーク族であり、彼の父のサルタンは、その族長でもある」
虎狩りに関する記述はエキゾチックな個性を際立たせるための罪のない創作だろうが、それ以外もシク教徒を「シーク族」と表していたり、イスラームの王である「サルタン(スルターン)」という言葉が使われたりと全体的に滅茶苦茶な文章である。
ゴングの記者もそこには気づいていたようで、このあと「サルタンというのはトルコ・ペルシア(イラン)の土侯のことでインドではサルタンとはいわない」と冷静に突っ込みを入れている。
(ちなみにシンの父親は実際には軍人で、少佐まで務めた人物であることが分かっている)
シンのプロレス入りの経緯に関しても、さらに不思議な記述が続く。
「シンはインドのデリー大学で電子工学を学び、父のサルタンの命でカナダのモントリオールにあるマックギル大学(原文ママ。マギル大学と表記されることの多いMcGill Universityだろう)に留学してきたのだ。それは1963年の夏である。シンはマックギル大学で弱電の勉強をして1967年に卒業している。だが、シンはこの大学時代にレスリングをやり、プロレスリングという闘争の世界があることを知った。
かれはモントリオールの試合場で知り合ったフレッド・アトキンスにすすめられて、試しにプロレスをやってみることになった。…」
Wrestling Revueの記事によると、シンは、「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームでデビューしたが、初戦ではアフリカ系アメリカ人レスラーのスウィート・ダディ・シキ(Sweet Daddy Siki)と戦って敗戦。
だが、「15キロのオモリのついた鉄のヘッドギアをつけ、10キロのオモリのついた足カセをはめて運動」し、「インドではプールの中に泥と油を入れて、その中でレスリングの練習をし」ていたというシンは、名伯楽フレッド・アトキンスのもとで、遠からぬうちに世界的レスラーになるだろう、と評価されている。
年号や大学名が明記された学歴は妙にリアリティがあるが、これはシンがインタビューで語っていた「6ドルだけをポケットに入れてインドから海を渡ってきた」という経歴とは全く異なる。
おそらくだが、これは「トロントでのベビーフェイス・レスラーとしてのシン」の創作されたプロフィールではないだろうか。
シンをプロレスラーとしてスカウトしたフランク・タニーは、今後カナダで増え続けるであろう南アジア系移民のマーケットを意識していたという。
シンを売り出してゆくにあたって、「出稼ぎ移民の息子」よりも「名家出身のエリートにして、レスリングの天才」という肩書きのほうが人気が出ると考えたとしても、不思議ではない。
ちなみにwww.wrestlingdata.comの記録によると、シンのデビューは1967年ではなく、「正史」同様に1965年。
場所こそ同じトロントのメイプルリーフ・ガーデンだが、Jeet Singhのリングネームで9月16日にStamford Murphyというオーストラリア出身のレスラーと対戦し、4分12秒で勝利したことになっている。
だが、何よりも気になるのは、この記事のタイトルにも使われている「ヒンズー・ハリケーン」である。
この記事には、「ダーネル記者によればシンはこの第一戦でヒンズー・ハリケーンを名乗ってデビューした」とはっきりと書かれている。
シンは、英語での記録にはいっさい残されていない「ヒンズー・ハリケーン」という名前を本当に使っていたのだろうか。
その答えには、以下の3つの可能性があるように思う。
どこの馬の骨かもわからないインド系レスラーだったシンは、トロントでめきめきと頭角を現してきた。
地域ごとに様々なプロモーターや団体が林立していた当時、トロントは北米のマット界では辺境の地だったはずだ。
シンをいよいよ全米のマーケットで売り出すにあたり、「移民の息子」ではつまらないし、エキゾチックさを前面に出した怪奇派のヒールでは、すでにザ・シークという圧倒的な存在がいる。
そこで、北米マット界では珍しいインド系レスラーをアピールするために「金のために戦う必要などないのに、類まれな才能を持て余してリングに身を投じたサルタンの御曹司」というストーリーが考えられた可能性は否定できない。
来日後にシンが「狂気のヒール」という徹底して「演じた」ことを考えれば、彼が自身のイメージ作りに手間とアイデアを惜しまないのは明白である。
(ちなみに1976年当時、すでに日本でもシンが裕福であることは知られていたようで、この記事でも、ゴングの記者によって「タイガー・ジェット・シンがシーク族の名門の出であり、パンジャプ地方に広大な土地を持つ財産家で、現在はトロントの郊外にお城のような豪邸を構えて貴族的生活をおくっていることは周知のこと」と書かれている。)
シンの「作られたプロフィール」はこれで終わりではない。
さらに異なる説を唱えているのは、1980年代の全日本プロレスでジャンボ鶴田とタッグを組み「五輪コンビ」として活躍していた谷津嘉章である。
谷津は、このYouTube動画の中で、シンにプロレス入りのきっかけを「地元のプロレス興行にエキシビジョンとして参加していたところを、たまたま見に来ていたフレッド・アトキンスにスカウトされた」と説明されたと語っている。
これまた「正史」とは異なるエピソードで、いくらなんでもフレッド・アトキンスがインドのパンジャーブまでプロレスを見に行くことはないと思うが、日本で「狂気のヒールレスラー」として活躍するうえでは、今度は「サルタンのエリート御曹司」ではイメージが合わないため、シンがとっさに苦し紛れに作り出したプロフィールなのかもしれない。
それにしても、レスラー仲間の谷津にまで、作られた来歴を語っているというところに、シンの並外れたプロ根性を感じる。そう考えると、この「ヒンズー・ハリケーン」も、シンが怪奇派ヒールレスラーとしてのキャラクターのために作りあげた架空の存在ように思えてくる。
日本向けに創作されたプロフィールがスペイン語圏にも伝わった一方で、アメリカやカナダのマット界の一次資料へのアクセスが容易な英語圏では、根拠のない「シン=ヒンズー・ハリケーン説」は広まらなかった。
こう考えるとつじつまが合う。
だが、さらに調査を続けてゆくと、シン来日前に、日本のプロレス誌に「まだ見ぬ強豪」として「ヒンズー・ハリケーン」というレスラーが掲載されていたという情報にたどり着いた。
たとえば、このブログではワニにヘッドロックを決める(なんだそれ)タイガー・ジェット・シンらしき男に「ヒンズ・ハリケーン」のキャプションが付けられた記事が紹介されている。
「ヒンズー・ハリケーン」はやはり実在していたようなのだ。
他のウェブサイトの情報も総合すると、どうやら「ヒンズー・ハリケーン」の名前が掲載されていたのは、1969年から1970年にかけての「月刊ゴング」だったようだ。
シンの初来日は1973年であり、さすがにこの時期から日本向けに怪奇派ヒールとしてのキャラクター作りがされていたとは考えにくい。
前述のwww.wrestlingdata.comでは、1969年3月から1970年の11月までのシンの試合の記録がすっぽりと抜けている。
とすると、この時期、シンは記録の残っていない東南アジア(香港、シンガポール)かオセアニアのリングで戦っていた可能性が高い。
シンガポールはカナダ同様にインド系移民の多い国だが、パンジャーブ系よりも南インドのタミル系の移民が多く暮らしている(シンガポールのインド系住民の約半数がタミル人)。
シク教は北インドのパンジャーブ地方発祥の宗教なので、南インドにルーツを持つタミル人には馴染みがない。
賢いシンが、この地で戦うときに、いかにもパンジャーブのシク教徒らしいJeet Singhではなく、Hindu Hurricaneというリングネームを選んだとしても不思議ではない。
シンの新日本プロレスへの来日は、香港で彼のファイトを見た貿易商が猪木に推薦したことだと言われている。
「ヒンズー・ハリケーン」は、シンの東南アジア限定のリングネームだったとすれば、地理的に近い日本にのみその情報が伝わり、英語圏では全く知られていないということも説明できる。
シンが信仰するパンジャーブ地方発祥の宗教、シク教徒は、コミュニティの高い結束力を持つことで知られている。
シンは後に、やはりインド系移民の多い南アフリカのプロレス界のブッカーとして活躍することになるが、こうしたリング外での活躍の裏には、世界中に広がるシク・コミュニティのネットワークがあったはずだ。
この時期のオセアニア、シンガポール、香港(いずれもインド系移民の多い土地だ)などへの遠征も、そのネットワークを利用して行われたに違いない。
そう考えると、シンがカナダでデビューする前にシンガポールでデビューしていた可能性も、否定できないのだ。
シンが故郷のパンジャーブでクシュティ(インド式レスリング)のトレーニングをしていたことは間違いなく、北米ほどレスリングのレベルの高くないシンガポールに何かの用事で立ち寄った際に(それは、カナダに渡る道中のことだったかもしれないし、いったんカナダに渡ったあとの1964年、あるいは65年だったかもしれない)、リングに上がったということも考えられる。
シンガポールデビュー説も、デマだと一蹴することはできない何かがあるのだ。
さらに深まる謎
これで、シンの初期のキャリアに関する謎に一通りの答えらしきものを出すことができた。
そう思っていた矢先に、再び興味深い情報を入手してしまった。
この記事を仕上げるにあたって、神田の古本屋で、「これが猛虎タイガー・ジェット・シンの意外な正体!」という特集が掲載された「月刊ゴング」1976年9月号を購入したのが運の尽きだった。
そこに書かれていたのは、これまでの考察とは全く異なるシンのプロフィールだった。
この記事が描かれた当時、タイガー・ジェット・シンは新日本プロレスに早くも7度目の来日中だった。
「アジア・リーグ戦」に出場し、8月5日には蔵前国技館でアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級タイトルに挑戦しようという、脂の乗りきった時期である。
この特集では、アメリカのWrestling Revue誌の1968年1月号に「アール・ダーネル」なる記者が書いた5ページにわたる「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事を引用する形でシンのプロフィールを紹介している。
「ダーネル記者によれば、シンは1967年11月末に突如、カナダのマットに出現した。この時、シンは25歳というから現在は34歳ということになる。
シンがいきなり登場したのはカナダのトロントのメープルリーフ・ガーデン。以来、現在までシンはホーム・リングを変えていない(このへんはインドレスラーの堅実さだ)。」
のっけからフレッド・アトキンスのもとで修行し1965年にデビューしたという「正史」とは異なる記述で始まっていて驚くが、著者はWrestling Revueの記事をさらに引用して続ける。
「かれは、インドのパンジャプ(原文ママ。以下同)の名家の出身で父はサルタンであった。かれには、父からパンジャプ地方に4000エーカーという想像もつかないような広大な土地が残されており、かれがレスリングという格闘技に必要以上に興味さえ持たなければ、かれはサルタンのプリンスとして多くの召使いにかしずかれる身分であった。
ところが、かれは少年時代から恐ろしく強かった。十四歳の時に父のサルタンと一緒に象にのって虎狩りに行き、この貴族の息子は、槍を使って虎を仕止めるという凄いことをやってのけた。
インドにはインド・レスリング(軽刈田註:クシュティのことか?)という古来からの格闘技があり、これは、かれが生まれたパンジャブ地方で最も盛んに行われており、かれは少年時代からそのチャンピオンであった。
インドには様々な種族がいるが、かれはその中で最も勇猛で戦闘の精神に富んでいるといわれるシーク族であり、彼の父のサルタンは、その族長でもある」
虎狩りに関する記述はエキゾチックな個性を際立たせるための罪のない創作だろうが、それ以外もシク教徒を「シーク族」と表していたり、イスラームの王である「サルタン(スルターン)」という言葉が使われたりと全体的に滅茶苦茶な文章である。
ゴングの記者もそこには気づいていたようで、このあと「サルタンというのはトルコ・ペルシア(イラン)の土侯のことでインドではサルタンとはいわない」と冷静に突っ込みを入れている。
(ちなみにシンの父親は実際には軍人で、少佐まで務めた人物であることが分かっている)
シンのプロレス入りの経緯に関しても、さらに不思議な記述が続く。
「シンはインドのデリー大学で電子工学を学び、父のサルタンの命でカナダのモントリオールにあるマックギル大学(原文ママ。マギル大学と表記されることの多いMcGill Universityだろう)に留学してきたのだ。それは1963年の夏である。シンはマックギル大学で弱電の勉強をして1967年に卒業している。だが、シンはこの大学時代にレスリングをやり、プロレスリングという闘争の世界があることを知った。
かれはモントリオールの試合場で知り合ったフレッド・アトキンスにすすめられて、試しにプロレスをやってみることになった。…」
Wrestling Revueの記事によると、シンは、「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームでデビューしたが、初戦ではアフリカ系アメリカ人レスラーのスウィート・ダディ・シキ(Sweet Daddy Siki)と戦って敗戦。
だが、「15キロのオモリのついた鉄のヘッドギアをつけ、10キロのオモリのついた足カセをはめて運動」し、「インドではプールの中に泥と油を入れて、その中でレスリングの練習をし」ていたというシンは、名伯楽フレッド・アトキンスのもとで、遠からぬうちに世界的レスラーになるだろう、と評価されている。
年号や大学名が明記された学歴は妙にリアリティがあるが、これはシンがインタビューで語っていた「6ドルだけをポケットに入れてインドから海を渡ってきた」という経歴とは全く異なる。
おそらくだが、これは「トロントでのベビーフェイス・レスラーとしてのシン」の創作されたプロフィールではないだろうか。
シンをプロレスラーとしてスカウトしたフランク・タニーは、今後カナダで増え続けるであろう南アジア系移民のマーケットを意識していたという。
シンを売り出してゆくにあたって、「出稼ぎ移民の息子」よりも「名家出身のエリートにして、レスリングの天才」という肩書きのほうが人気が出ると考えたとしても、不思議ではない。
ちなみにwww.wrestlingdata.comの記録によると、シンのデビューは1967年ではなく、「正史」同様に1965年。
場所こそ同じトロントのメイプルリーフ・ガーデンだが、Jeet Singhのリングネームで9月16日にStamford Murphyというオーストラリア出身のレスラーと対戦し、4分12秒で勝利したことになっている。
だが、何よりも気になるのは、この記事のタイトルにも使われている「ヒンズー・ハリケーン」である。
この記事には、「ダーネル記者によればシンはこの第一戦でヒンズー・ハリケーンを名乗ってデビューした」とはっきりと書かれている。
シンは、英語での記録にはいっさい残されていない「ヒンズー・ハリケーン」という名前を本当に使っていたのだろうか。
その答えには、以下の3つの可能性があるように思う。
- 仮説その1:「ヒンズー・ハリケーン」はリングネームではなく、シンのキャッチコピーであり、もとの記事で代名詞的に使われていたものを、ゴングの記者が誤訳してしまった。デビュー戦の記述以外でヒンズー・ハリケーンという言葉が使われているのは「ヒンズー・ハリケーンことタイガー・ジェット・シンは、(中略)フレッド・アトキンスの手で厳しく育てられており」「カナダのマットへ……まさにその仇名ヒンズー・ハリケーン(インドの台風)のように登場したのだ」という箇所のみであり、リングネームというよりはシンの「別名」のような印象を受ける。デビュー戦のところで「名乗って」と訳された部分も、正式なリングネームではなく、「あだ名/称号」のようなものだった可能性もあるだろう。そもそも「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事のタイトルも、リングネームというよりはキャッチコピーを思わせる。
- 仮説その2:実際にシンがHindu Hurricaneというリングネームを名乗っていた。しかしこのリングネームはすぐに変えられてしまい、記録上はJeet Singh,またはTiget Jeet Singhとなっている。来日前のシンは、チャンピオンベルト獲得歴があるとはいえ、トロントのローカル・レスラーにすぎなかったため、カナダやアメリカのプロレスファンも、その経歴を詳しく追っておらず、英語圏のウェブサイトにも掲載されていない。
- 仮説その3:アール・ダーネル記者とシンのいずれか、あるいは両方が共犯して、本来のプロフィールを隠し、新しいキャラクターを定着させるために、「ヒンズー・ハリケーン」なる架空のリングネームと、「サルタンの御曹司」というストーリーを作り上げた。
どこの馬の骨かもわからないインド系レスラーだったシンは、トロントでめきめきと頭角を現してきた。
地域ごとに様々なプロモーターや団体が林立していた当時、トロントは北米のマット界では辺境の地だったはずだ。
シンをいよいよ全米のマーケットで売り出すにあたり、「移民の息子」ではつまらないし、エキゾチックさを前面に出した怪奇派のヒールでは、すでにザ・シークという圧倒的な存在がいる。
そこで、北米マット界では珍しいインド系レスラーをアピールするために「金のために戦う必要などないのに、類まれな才能を持て余してリングに身を投じたサルタンの御曹司」というストーリーが考えられた可能性は否定できない。
来日後にシンが「狂気のヒール」という徹底して「演じた」ことを考えれば、彼が自身のイメージ作りに手間とアイデアを惜しまないのは明白である。
(ちなみに1976年当時、すでに日本でもシンが裕福であることは知られていたようで、この記事でも、ゴングの記者によって「タイガー・ジェット・シンがシーク族の名門の出であり、パンジャプ地方に広大な土地を持つ財産家で、現在はトロントの郊外にお城のような豪邸を構えて貴族的生活をおくっていることは周知のこと」と書かれている。)
シンの「作られたプロフィール」はこれで終わりではない。
さらに異なる説を唱えているのは、1980年代の全日本プロレスでジャンボ鶴田とタッグを組み「五輪コンビ」として活躍していた谷津嘉章である。
谷津は、このYouTube動画の中で、シンにプロレス入りのきっかけを「地元のプロレス興行にエキシビジョンとして参加していたところを、たまたま見に来ていたフレッド・アトキンスにスカウトされた」と説明されたと語っている。
これまた「正史」とは異なるエピソードで、いくらなんでもフレッド・アトキンスがインドのパンジャーブまでプロレスを見に行くことはないと思うが、日本で「狂気のヒールレスラー」として活躍するうえでは、今度は「サルタンのエリート御曹司」ではイメージが合わないため、シンがとっさに苦し紛れに作り出したプロフィールなのかもしれない。
ここまでお読みいただければ、もうお分かりだろう。
シンは、その時々に応じて、自分をもっとも魅力的に輝かせるためのプロフィールをいくつも用意しているのだ。
一流のレスラーにとって、自分を演出する能力は必要不可欠なものだ。
ある時は、武勇の誉れ高きサルタンの御曹司。
ある時は、移民の立場から身を起こした苦労人の成功者。
そしてある時は、インドでフレッド・アトキンスにスカウトされたインド・レスリングの天才にして狂気のヒール・レスラー。
初来日直後のシンが、猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件などを通して、完璧な狂気を演出していたのは、彼の才能がもっともよく活かされた例だろう。
そう考えると、カナダのテレビ番組で語っていた「たった6ドルを握りしめて海を渡ったインド系移民」という、彼の「正史」すらも、本当かどうか疑わしくなる。
「貧しい移民が叶えたカナディアン・ドリーム」としては、あまりにも出来すぎたイメージだからだ。
実際、そのインタビューで「必死に戦っても月に100ドルしか稼げない状況を見た父親にパンジャーブに連れ戻され、地元で結婚生活を送っていた時期」とされる1969年から70年にかけても、シンはアジア各地を転戦していた可能性がある。
彼は、自分をどう見せれば、もっともアピールできるかが分かっているのだ。
間違えて欲しくないのは、私は何も「シンは経歴詐称ばかりしている疑わしい人物だ」と言いたいのではない。
彼が非の打ちどころのない紳士であることは多くの関係者が語っているし、東日本大震災の被災者支援や、彼が地元で行っているドラッグ依存症撲滅のための活動からも、彼が立派な人物であることは疑う余地がない。
私はシンの完璧なまでのプロ意識を称えたいのだ。
シンはかつて、本物の狂気を感じさせる極悪ヒールとして我々を怖がらせ、楽しませたが、その裏側には、かくも巧みな自己演出があったのである。
招待していないのに新日本プロレスに参戦していた狂気のヒールも、貧しさから努力で成り上がった移民の息子も、幼くして虎狩りを成功させたスルタンのエリート御曹司も、それぞれに魅力的なストーリーだし、またいかにも昭和のプロレスらしい虚構と現実が一体となったたまらない味わいがある。
結局、シンがどのようにしてプロレスに出会ったのか、いつ、どうやってデビューして、そして「ヒンズー・ハリケーン」とは何だったのか、調べれば調べるほど、謎は深まるばかりだった。
それでも、彼のプロレスラーとしての偉大さについては、これまで以上に理解できたつもりだ。
タイガー・ジェット・シン、それにしても、魅力の尽きない男である。
その他参考サイト:
https://www.nriinternet.com/NRIwrestling/CANADA/A_Z/T/Tiger_Jeet_Singh/Bio.htm
https://www.indiatoday.in/magazine/international/story/19920630-wrestling-pro-tiger-jeet-singh-hans-carves-out-twin-careers-and-an-expanding-empire-766517-2013-01-08
https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=4854
https://sites.google.com/site/wrestlingscout/profiles-by-country/profiles/tjsingh
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goshimasayama18 at 20:21│Comments(0)│プロレス