2020年07月19日
よみがえる"India Psychedelic" インドの60年代ロック事情! 知られざる'Indian Summer of Love'
先日取り寄せた本、"India Psychedelic: the story of rocking generation"(Sidharth Bhatia著)がめっぽう面白かった。
この本は、知られざる1960年代のインドのロックシーンについて、ジャーナリストである著者が当事者たちに丁寧に取材して書かれたもの。
「60年代のインドのロック」なんていうと、自分みたいな一部のマニア向けの本だと思うかもしれないが(まあそうなんだけど)、この本は当時の若者たちの息遣いがとてもリアルに描かれていて、普遍的な青春群像としてもすごく面白かった。
1947年の独立から10年以上が経過し、中国やパキスタンとの国境紛争や食糧危機、深刻な貧困などの問題を抱える一方で、当時のインドでは、独立期を知らない都市部の若者が、新しい価値観を持ち始めていた。
彼らの中には、先進国の若者たちと同様に、この時代に生まれた新しい音楽に夢中になった者たちがいた。
「新しい音楽」とは、インドのかつての宗主国であるイギリスから世界に衝撃を与えたビートルズ、そしてそれに続いて登場したアメリカやイギリスのロックバンドたちのことだ。
インターネットも衛星放送もない時代(地上波のテレビ放送さえ、インドでは1965年になってようやくデリーで始まった)、インドにいた数少ない洋楽好きの若者たちは、古典音楽ばかりの国営放送ではなく、海を渡って届くRadio CeylonやBBCにラジオの周波数を合わせていた。
1962年、ビートルズのデビュー曲"Love Me Do"が海を越えた電波に乗ってラジオから流れると、彼らはこの新しい時代の音楽に夢中になった。
他のあらゆる国と同様に、インドにも「自分たちもバンドを組んでロックを演奏したい!」というティーンエイジャーたちが現れるのは必然だった。
バンガロール(現ベンガルール)ではTrojansが、ボンベイ(現ムンバイ)ではJetsが、マドラス(現チェンナイ)ではHellionsが、カルカッタ(現コルカタ)ではCavaliersが産声を上げ、多くの若者たちがそれに続いた。
この時代、日本でロックバンドを「グループ・サウンズ」と呼んでいたように、インドでも、この新しい音楽を演奏する若者たちに対する独自の呼称があり、彼らは「ビートグループ」と呼ばれていた。
ビートグループの若者たちは、楽器も音源も満足に入手できない当時のインドで、工夫と情熱で楽器や機材を入手し(あるいは自ら作成し)、見よう見まねで音楽活動を始めた。
当時のインドはソビエト寄りの外交政策を取っており、西側諸国の物資を手に入れることは難しかった時代である。
洋楽を聞くためのレコードの入手すら、欧米に親戚か知人でもいない限り、極めて困難だった。
つまり、ビートグループを始められるのは、ごく一部の恵まれた階層だけだったのだ。
労働者階級の音楽として誕生したロックは、インドでは「富裕層の音楽」だったわけだが、彼らが退屈な日常に飽き飽きしていたという点は、世界中の他の国とまったく同じだった。
ロックは、インドでも保守的な社会への反抗の象徴だったのだ。
初期ビートグループの多くは、欧米文化と親和性の高いアングロ・インディアン(イギリス人の血を引くインド人)やゴア出身者によって構成されていたが、やがて都市部に暮らすアッパーミドルのヒンドゥーやムスリム、シク教徒のなかにも、ビートグループを始める若者たちが現れるようになる。
彼らのほとんどは音源を残すことなく消滅してしまったが、彼らの中には、その後、国際的なキャリアを築いた者たちもいた。
Trojansの中心メンバーだったBidduは、バンド解散後にイギリスに渡ると、1974年に大ヒットしたディスコ・ソング"Kung-Fu Fighting"を手がけ、その後も長くダンスミュージックのプロデューサーとして活動した。
意外なところでは、日本の沢田研二や中森明菜の楽曲も手がけている。
彼のことはいずれまた詳しく書いてみたい。
Bidduが1967年にイギリスでリリースしたシングル
ムンバイ出身の女性シンガーAsha Puthliは、保守的でチャンスの少ないインドに見切りをつけ、アメリカに渡って、ジャズ/ソウルシンガーとして活動するようになる。
やがて、フリージャズの名サックス奏者のOrnette Colemanらと共演。
当時のインド人女性としては非常にラディカルな生き方を貫いた彼女の音楽は、のちにJay-Zや50centにサンプリングされ、今もカルト的な評価を得ている。
Asha Puthliが1974年にアメリカでリリースしたアルバムジャケット
ビートグループ出身者でもっとも成功を収めたのは、ボンベイから250キロほど離れた避暑地Panchiganiのハイスクール・バンド、HecticsのメンバーだったFarrokh Bulsaraだろう。
パールシー(ペルシアからインドに渡って来たゾロアスター教徒)の家庭に生まれた彼は、Hecticsのメンバーとして活動したのち、家族とともにイギリスに渡った。
Farroukhは英語風に名前を改め、イギリス人たちとバンドを結成すると、その天才的なヴォーカルパフォーマンスとソングライティングで、ロックの歴史に不朽の名を残した。
みなさんご存じの、クイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーのことだ。
彼が在籍していたHecticsも、数枚の写真を残すのみで、音源は残されていない。
ピアノに向かっているのが、若き日のフレディ・マーキュリーことFarroukh Bulsara
話を60年代のインドに戻そう。
インド各地の大都市には、文化や流行の中心となる繁華街がある。
ロックは、インドでも保守的な社会への反抗の象徴だったのだ。
初期ビートグループの多くは、欧米文化と親和性の高いアングロ・インディアン(イギリス人の血を引くインド人)やゴア出身者によって構成されていたが、やがて都市部に暮らすアッパーミドルのヒンドゥーやムスリム、シク教徒のなかにも、ビートグループを始める若者たちが現れるようになる。
彼らのほとんどは音源を残すことなく消滅してしまったが、彼らの中には、その後、国際的なキャリアを築いた者たちもいた。
Trojansの中心メンバーだったBidduは、バンド解散後にイギリスに渡ると、1974年に大ヒットしたディスコ・ソング"Kung-Fu Fighting"を手がけ、その後も長くダンスミュージックのプロデューサーとして活動した。
意外なところでは、日本の沢田研二や中森明菜の楽曲も手がけている。
彼のことはいずれまた詳しく書いてみたい。
Bidduが1967年にイギリスでリリースしたシングル
ムンバイ出身の女性シンガーAsha Puthliは、保守的でチャンスの少ないインドに見切りをつけ、アメリカに渡って、ジャズ/ソウルシンガーとして活動するようになる。
やがて、フリージャズの名サックス奏者のOrnette Colemanらと共演。
当時のインド人女性としては非常にラディカルな生き方を貫いた彼女の音楽は、のちにJay-Zや50centにサンプリングされ、今もカルト的な評価を得ている。
Asha Puthliが1974年にアメリカでリリースしたアルバムジャケット
ビートグループ出身者でもっとも成功を収めたのは、ボンベイから250キロほど離れた避暑地Panchiganiのハイスクール・バンド、HecticsのメンバーだったFarrokh Bulsaraだろう。
パールシー(ペルシアからインドに渡って来たゾロアスター教徒)の家庭に生まれた彼は、Hecticsのメンバーとして活動したのち、家族とともにイギリスに渡った。
Farroukhは英語風に名前を改め、イギリス人たちとバンドを結成すると、その天才的なヴォーカルパフォーマンスとソングライティングで、ロックの歴史に不朽の名を残した。
みなさんご存じの、クイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーのことだ。
彼が在籍していたHecticsも、数枚の写真を残すのみで、音源は残されていない。
ピアノに向かっているのが、若き日のフレディ・マーキュリーことFarroukh Bulsara
話を60年代のインドに戻そう。
インド各地の大都市には、文化や流行の中心となる繁華街がある。
ボンベイならチャーチゲート地区、カルカッタならパーク・ストリート、バンガロールならばブリゲイド・ロード。
今なお賑わうこれらの盛り場が、ビートグループたちの活動の場だった。
当時、人気レストランはバンドの生演奏を売りにしており、ホテルのバンケットホールでも生演奏の夕べが催されていた。
かつてはムーディーなジャズが流れていた場所にビートグループが出演するようになると、レストランやホテルには流行に敏感な若者たちが詰めかけるようになった。
この頃のアーティストの音源や動画は非常に少ないのだが、いくつか紹介できるものを貼り付けたい。
アングロ・インディアンのジャズ・シンガー、Pam Crainは、1956年にパーク・ストリートにオープンしたClub MocamboやBlue Fox Restaurantといった伝説的なレストランに出演し、ビートグループ前夜のカルカッタで「パーク・ストリートの女王」と呼ばれていた。
この音源は、やはりカルカッタを拠点に活動していたサックス奏者Braz Gonsalvezとの共演した1970年のもの。
"The King of Rock'n'Roll of India"、「ボンベイのエルヴィス」ことIqbal Singhは、ビートグループの少し前の時代に活躍した歌手で、これは映画"Ek Phool Char Kante"の一幕。
ターバンにスーツでツイストしまくる姿に強烈な違和感を感じるが、目を閉じて聴くと、彼のヴォーカルはとてもうまくエルヴィスの特徴をとらえている。
当時のレストランの雰囲気がよく分かる映像だ。
インドで最初のオリジナル・ロックソングとされるカルカッタのThe Cavalliersの"Love is a Mango"は、シタールを導入したインドらしいサウンド。
インドのロックバンドが、その最初期から古典音楽とのフュージョンを行っていたことが分かる貴重な一曲だ。
カルカッタは、イギリス支配時代の首都だったことから、アングロ・インディアンが多く暮らしており、当時のインドで西洋文化の受け入れが最も進んでいた街でもあった。
マドラス(現チェンナイ)のThe Mustangsは、ベンチャーズ・スタイルのギターインストゥルメンタル。
今以上に保守的で、カルナーティック音楽一色だったマドラスにも、ロックに夢中となった大学生たちがいたのだ。
ボンベイのThe Savagesが1968年にリリースした"Pain"と"Girl Next Door".
彼らは前年に行われたSound Trophy Contestで優勝した副賞として、スタジオでのレコーディングの権利を獲得してこの2曲を録音した。
2曲目の"Girl Next Door"でヴォーカルを取っているのは前述のAsha Puthli.
この後、彼女はシンガポールに渡り、現地のバンドThe Surfersとの音源を残したのち、ボンベイ時代に知り合ったアメリカ人モダンダンサーMartha Grahamを頼ってニューヨークに渡る。
アンディ・ウォーホルや現地のジャズミュージシャンと知り合った彼女が、現在でもカルトクラシックとされる音源を残したことは前述の通りだ。
だが、ほとんどのミュージシャンにとって、アメリカやイギリスはあまりにも遠い場所だった。
彼らの多くは、インド国内でその長くはない活動期間を終えることになるが、それはもう少し先の話。
60年代の後半に入ると、若者たちから始まったビートグループのムーブメントは、大人たちにも注目されるようになった。
Imperial Tobaccoは、若者向けの新しいメンソールタバコ'Simla'のプロモーションの一環として、インドじゅうのビートグループを集めたイベントを行った。
1970年と71年に行われたSimla Beat Contestのコンピレーション盤に収められている音源は、演奏もいまいちで音質も悪く、しかもオリジナル曲ですらないものがほとんどだが、当時のインドの若者たちが限られた環境のなかで必死に取り組んだ成果だと思いながら聴くと、胸に熱いものがこみ上げてくる。
ボンベイのVelvette Foggは、ドアーズのようなキーボードが入ったサイケデリックなサウンドでCreamの"I'm So Glad"をカバー。
このブログでもたびたび取り上げている通り、インドのなかでもロック人気のとくに高いインド北東部のバンドも、当時から存在感を発揮していた。
Fentonesは、「インドのロックの首都」と呼ばれている北東部メガラヤ州シロンの出身。
ここでは、イギリスのバンドChristieが1970年にリリースした"Until The Dawn"をカバーしている。
享楽的でサイケデリックなロックだけでなく、ボブ・ディランらの影響を受けた、社会的なテーマを歌うフォークシンガーも登場する。
1970年代以降、インドでは、都市部と農村の格差や、社会の不正義に対する問題意識が強くなり、デリーのSt.StephensやカルカッタのPresidency、ボンベイのElphinstoneのような名門大学では、学生運動が活発化していた。
毛沢東主義に基づき、暴力すら厭わずに社会の解放を目指す「ナクサライト運動」が西ベンガル州で産声を上げたのもこの頃だ。
こうした風潮が、産声をあげたばかりのロックシーンにも影響を与えたのだ。
「初めてディランを聴いたとき、自分の人生ですべきことが決まったんだ」と語るデリーのSusmit Boseは、「インドのボブ・ディラン」とも「インドのキャット・スティーヴンス」とも呼ばれているフォークシンガーだ。
彼が1978年にリリースしたアルバム"Train To Calcutta"に収録された"Rain Child".
彼のような西洋風のフォークソングを、インドでは伝統的な民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ。
古典歌手の父を持つ彼は、親に隠れてギターを練習していたが、アーバンフォークを歌っていたことがばれて家を追い出されてしまったこともあるという。
メガラヤ州シロンのLou Majawもまた、「インドのボブ・ディラン」と呼ばれることの多いシンガーだ。
アメリカにはディランは一人しかいないが、言語も文化も多様なインドには、何人もディランがいるのだ。
彼は1972年に始めたディランの誕生日に行うメモリアルコンサートを、80歳近くなった今も変わらずに続けている。
ちなみに今年はコロナウイルスによるロックダウンでディランのバースデーコンサートを開催できなかったため、この動画をYouTubeに投稿していた。
60年代のカルカッタで活躍したバンドThe UrgeのサックスプレイヤーだったGautam Chattopadhyayは、ナクサライト運動に共鳴した活動をしていたため、仲間とともに2年間の州追放処分を受けたという経歴を持つ気骨のミュージシャンだ。
1975年にカルカッタに戻ると、ジャズやロックにベンガルのフォークミュージックを融合した音楽に乗せて文学的な歌詞を歌うMohineer Ghoraguliを結成。
彼らの音楽は少数のファン以外には見向きもされなかったが、90年代以降、ベンガル語ロックの先駆けとして再評価されている。
60年代から70年代にかけて、インドのロックミュージシャンたちは、お金のためではなく、音楽への純粋な愛情と表現衝動だけを拠り所にして音楽活動を行っていた。
その頃、インドではロックバンドが職業になる時代ではなかったのだ。(それは今もほとんど変わらないが)
学生時代が終わると音楽から離れてしまう者も多かったし、アングロ・インディアンや富裕層のなかには、より良いキャリアを目指して海外へと移住してしまう者も少なくなかった。
インドの時代背景も変わってゆく。
欧米では反体制の象徴だったロックも、社会運動の過激化に伴い、ファンの中心だった学生たちから、富裕層、すなわち「搾取する側の音楽」と見なされるようになってゆく。
やがて、世界中の音楽シーンで、ロックバンドが花形だった時代は終わりを告げ、ディスコミュージックの台頭が始まる。
踊りが大好きなインドのエンターテインメント産業(すなわち映画業界)も、ディスコを巧みにローカライズして人気を博してゆく。
インドの若者たちがロックから離れ、ディスコに夢中になってゆくのにそれほど時間はかからなかった。
こうして、「インディアン・サマー・オブ・ラブ」は終わりを告げた。
この時代の「ビートグループ」たちが、思い出以上の何かを、インドの音楽シーンに残したのかどうかは分からない。
インドのロックシーンが復活するのは、インドが経済開放路線に舵を切り、インターネットで海外の情報がリアルタイムで入手できるようになる90年代以降まで待たなければならなかった。
インドのインディー音楽が爆発的に広がるのは2010年代に入ってからだが、今日でも、音楽シーンの圧倒的主流である映画音楽と比べると、その売り上げ規模は少ない。
だが、1960年代のインドで、海の向こうからやってきたリズムとサウンドに夢中になり、そこに音楽以上のもの(例えば自由とか)を見出して、お金のためでも名誉のためでもなく、全てを打ち込んで演奏した若者たちがいたという事実は、まるでおとぎ話のように魅力的だ。
国も時代も違うはずなのに、なんというかこう、ぐっと来る。
この時代については、まだまだ調べ甲斐がありそうなので、そのうちまた何か書くつもりだ。
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当時、人気レストランはバンドの生演奏を売りにしており、ホテルのバンケットホールでも生演奏の夕べが催されていた。
かつてはムーディーなジャズが流れていた場所にビートグループが出演するようになると、レストランやホテルには流行に敏感な若者たちが詰めかけるようになった。
この頃のアーティストの音源や動画は非常に少ないのだが、いくつか紹介できるものを貼り付けたい。
アングロ・インディアンのジャズ・シンガー、Pam Crainは、1956年にパーク・ストリートにオープンしたClub MocamboやBlue Fox Restaurantといった伝説的なレストランに出演し、ビートグループ前夜のカルカッタで「パーク・ストリートの女王」と呼ばれていた。
この音源は、やはりカルカッタを拠点に活動していたサックス奏者Braz Gonsalvezとの共演した1970年のもの。
"The King of Rock'n'Roll of India"、「ボンベイのエルヴィス」ことIqbal Singhは、ビートグループの少し前の時代に活躍した歌手で、これは映画"Ek Phool Char Kante"の一幕。
ターバンにスーツでツイストしまくる姿に強烈な違和感を感じるが、目を閉じて聴くと、彼のヴォーカルはとてもうまくエルヴィスの特徴をとらえている。
当時のレストランの雰囲気がよく分かる映像だ。
インドで最初のオリジナル・ロックソングとされるカルカッタのThe Cavalliersの"Love is a Mango"は、シタールを導入したインドらしいサウンド。
インドのロックバンドが、その最初期から古典音楽とのフュージョンを行っていたことが分かる貴重な一曲だ。
カルカッタは、イギリス支配時代の首都だったことから、アングロ・インディアンが多く暮らしており、当時のインドで西洋文化の受け入れが最も進んでいた街でもあった。
マドラス(現チェンナイ)のThe Mustangsは、ベンチャーズ・スタイルのギターインストゥルメンタル。
今以上に保守的で、カルナーティック音楽一色だったマドラスにも、ロックに夢中となった大学生たちがいたのだ。
ボンベイのThe Savagesが1968年にリリースした"Pain"と"Girl Next Door".
彼らは前年に行われたSound Trophy Contestで優勝した副賞として、スタジオでのレコーディングの権利を獲得してこの2曲を録音した。
2曲目の"Girl Next Door"でヴォーカルを取っているのは前述のAsha Puthli.
この後、彼女はシンガポールに渡り、現地のバンドThe Surfersとの音源を残したのち、ボンベイ時代に知り合ったアメリカ人モダンダンサーMartha Grahamを頼ってニューヨークに渡る。
アンディ・ウォーホルや現地のジャズミュージシャンと知り合った彼女が、現在でもカルトクラシックとされる音源を残したことは前述の通りだ。
だが、ほとんどのミュージシャンにとって、アメリカやイギリスはあまりにも遠い場所だった。
彼らの多くは、インド国内でその長くはない活動期間を終えることになるが、それはもう少し先の話。
60年代の後半に入ると、若者たちから始まったビートグループのムーブメントは、大人たちにも注目されるようになった。
Imperial Tobaccoは、若者向けの新しいメンソールタバコ'Simla'のプロモーションの一環として、インドじゅうのビートグループを集めたイベントを行った。
1970年と71年に行われたSimla Beat Contestのコンピレーション盤に収められている音源は、演奏もいまいちで音質も悪く、しかもオリジナル曲ですらないものがほとんどだが、当時のインドの若者たちが限られた環境のなかで必死に取り組んだ成果だと思いながら聴くと、胸に熱いものがこみ上げてくる。
ボンベイのVelvette Foggは、ドアーズのようなキーボードが入ったサイケデリックなサウンドでCreamの"I'm So Glad"をカバー。
このブログでもたびたび取り上げている通り、インドのなかでもロック人気のとくに高いインド北東部のバンドも、当時から存在感を発揮していた。
Fentonesは、「インドのロックの首都」と呼ばれている北東部メガラヤ州シロンの出身。
ここでは、イギリスのバンドChristieが1970年にリリースした"Until The Dawn"をカバーしている。
享楽的でサイケデリックなロックだけでなく、ボブ・ディランらの影響を受けた、社会的なテーマを歌うフォークシンガーも登場する。
1970年代以降、インドでは、都市部と農村の格差や、社会の不正義に対する問題意識が強くなり、デリーのSt.StephensやカルカッタのPresidency、ボンベイのElphinstoneのような名門大学では、学生運動が活発化していた。
毛沢東主義に基づき、暴力すら厭わずに社会の解放を目指す「ナクサライト運動」が西ベンガル州で産声を上げたのもこの頃だ。
こうした風潮が、産声をあげたばかりのロックシーンにも影響を与えたのだ。
「初めてディランを聴いたとき、自分の人生ですべきことが決まったんだ」と語るデリーのSusmit Boseは、「インドのボブ・ディラン」とも「インドのキャット・スティーヴンス」とも呼ばれているフォークシンガーだ。
彼が1978年にリリースしたアルバム"Train To Calcutta"に収録された"Rain Child".
彼のような西洋風のフォークソングを、インドでは伝統的な民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ。
古典歌手の父を持つ彼は、親に隠れてギターを練習していたが、アーバンフォークを歌っていたことがばれて家を追い出されてしまったこともあるという。
メガラヤ州シロンのLou Majawもまた、「インドのボブ・ディラン」と呼ばれることの多いシンガーだ。
アメリカにはディランは一人しかいないが、言語も文化も多様なインドには、何人もディランがいるのだ。
彼は1972年に始めたディランの誕生日に行うメモリアルコンサートを、80歳近くなった今も変わらずに続けている。
ちなみに今年はコロナウイルスによるロックダウンでディランのバースデーコンサートを開催できなかったため、この動画をYouTubeに投稿していた。
60年代のカルカッタで活躍したバンドThe UrgeのサックスプレイヤーだったGautam Chattopadhyayは、ナクサライト運動に共鳴した活動をしていたため、仲間とともに2年間の州追放処分を受けたという経歴を持つ気骨のミュージシャンだ。
1975年にカルカッタに戻ると、ジャズやロックにベンガルのフォークミュージックを融合した音楽に乗せて文学的な歌詞を歌うMohineer Ghoraguliを結成。
彼らの音楽は少数のファン以外には見向きもされなかったが、90年代以降、ベンガル語ロックの先駆けとして再評価されている。
60年代から70年代にかけて、インドのロックミュージシャンたちは、お金のためではなく、音楽への純粋な愛情と表現衝動だけを拠り所にして音楽活動を行っていた。
その頃、インドではロックバンドが職業になる時代ではなかったのだ。(それは今もほとんど変わらないが)
学生時代が終わると音楽から離れてしまう者も多かったし、アングロ・インディアンや富裕層のなかには、より良いキャリアを目指して海外へと移住してしまう者も少なくなかった。
インドの時代背景も変わってゆく。
欧米では反体制の象徴だったロックも、社会運動の過激化に伴い、ファンの中心だった学生たちから、富裕層、すなわち「搾取する側の音楽」と見なされるようになってゆく。
やがて、世界中の音楽シーンで、ロックバンドが花形だった時代は終わりを告げ、ディスコミュージックの台頭が始まる。
踊りが大好きなインドのエンターテインメント産業(すなわち映画業界)も、ディスコを巧みにローカライズして人気を博してゆく。
インドの若者たちがロックから離れ、ディスコに夢中になってゆくのにそれほど時間はかからなかった。
こうして、「インディアン・サマー・オブ・ラブ」は終わりを告げた。
この時代の「ビートグループ」たちが、思い出以上の何かを、インドの音楽シーンに残したのかどうかは分からない。
インドのロックシーンが復活するのは、インドが経済開放路線に舵を切り、インターネットで海外の情報がリアルタイムで入手できるようになる90年代以降まで待たなければならなかった。
インドのインディー音楽が爆発的に広がるのは2010年代に入ってからだが、今日でも、音楽シーンの圧倒的主流である映画音楽と比べると、その売り上げ規模は少ない。
だが、1960年代のインドで、海の向こうからやってきたリズムとサウンドに夢中になり、そこに音楽以上のもの(例えば自由とか)を見出して、お金のためでも名誉のためでもなく、全てを打ち込んで演奏した若者たちがいたという事実は、まるでおとぎ話のように魅力的だ。
国も時代も違うはずなのに、なんというかこう、ぐっと来る。
この時代については、まだまだ調べ甲斐がありそうなので、そのうちまた何か書くつもりだ。
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