2026年06月

2026年06月04日

『わたしの聖なるインド』は今見るべき映画!


『わたしの聖なるインド』は、今見るべき映画だ。
6月6日(土)から全国で順次上映開始。
6月14日(日)渋谷のユーロスペースでの上映後には、不肖軽刈田が25分ほどトークを行います。
上映開始時刻は決まり次第あらためて告知します。


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このドキュメンタリー映画を簡単に紹介するとすれば、「ヒンドゥー・ナショナリズムが台頭し、 マイノリティであるムスリムが排除されつつあるインドの首都デリーで、座り込みを通して抵抗するムスリムの女性たちを描いたドキュメンタリー」ということになる。
こう言ってはなんだが、そう聞いても、自分には関係のない映画だと思う人がほとんどだろう。

ところが、イスラム教とかヒンドゥー教とかインドとか、そういう固有名詞を省いてこの映画を見れば、そこには、国家の概念と政権与党とが同一視され、それに反対すれば、国賊あつかいされてしまうという、日本を含めて世界中の多くの国で現在進行形で起きている状況が映し出されている。

この映画が扱うテーマは、むしろ普遍的とも言えるものだ。


内容に深く触れてしまうと興を削ぐことにもなってしまうだろうから、まず、この映画の背景となるインドという国の成り立ちを簡単におさらいしたい。
1947年、イギリス領だった南アジア一帯は、インドとパキスタンという2カ国へと「分離独立」した(現在のバングラデシュも当時は「東パキスタン」としてパキスタンの一部だった)。
イスラム教にもとづく統治を国是とするパキスタンに対して、8割をヒンドゥー教徒が占めるインドは、特定の宗教を国教としない「世俗主義」の国家として誕生した。
その決断は、宗教やカーストや地域による分断を推し進めたイギリス時代の悪しき分割統治への反省から生まれたものだった。

どんな国や社会にも、見えない差別や排除があるが、インドにも、事実としてコミュニティの分断やカーストによる差別、宗教マイノリティに対する偏見は今日にいたるまで存在している。
それでも、たてまえとしては、平等を掲げる。
そうして独立したのが、インドだった。

何が言いたいのかというと、この映画のなかで、ムスリムに対する差別的な政策に対して座り込みを続ける女性たちは、ラディカルな左派ではなく、インドが本来持っていた、「平等の原則」を守ろうとしている人々だということだ。

彼女たちの中心は、ジャミア・ミリア・イスラミア大学での抗議運動に対して行われた暴力的な弾圧によって、子どもたちを傷つけられた母親たちだ。
このジャミア・ミリア・イスラミア大学、名前だけ聞くと、なにかイスラム教の保守的な神学でも教えているかのような印象を持ってしまうかもしれないが、じつはれっきとしたインドの国立大学で、マスメディアや建築、工学、法律などの分野で高い評価を得ている優秀な大学だ。
(ちなみに国際的な高等教育機関のランキングでは、日本の筑波大、千葉大、広島大、立命館大、東京理科大と同等の評価を得ている)



[このあたりからだんだん映画の内容にも触れてゆくので、鑑賞前に読みたくないという方はまたのちほど]



20世紀末から政治の世界で台頭してきたヒンドゥーナショナリズムは、この国の伝統である世俗主義を無視して、インドは多数派であるヒンドゥー教徒の国であるという考え方を推し進めてきた。
「死んでも構わない」とすら誓って抗議する彼女たちが守ろうとしているのは、インドという国が本来持っていた信念だ。

マジョリティからは、「反インド」と見なされている彼女たちは、そのイメージに反して、活動のあらゆる場面で、インド国旗や、ガーンディー、ネルー、チャンドラ・ボースといった独立運動の英雄の写真を掲げている。
この3人は、いずれもヒンドゥー教徒である。
彼女たちの主張は、特定の信仰ではなく、インドという国が独立以来、守り抜いてきた信念にもとづくものだということが分かる。
どこの国でも、マイノリティの権利を主張すると、「反国家」だとか「売国」だとかいう批判を浴びせられがちだが、ほんとうの愛国者は誰なのかということを考えさせられる。


印象的なのは、命懸けの覚悟をしている彼女たちの様子が、大真面目でありつつも、どこか軽やかで、楽しげでもあるということだ。
映画のなかに出てくる男性たちが、「差別的な政策は、イスラムの信仰に対する攻撃であるか、普遍的人権の問題であるか」などと議論して、険悪な空気になっているのとは対照的だ。
彼女たちは、「ふだんは女性だけで夜間に外出なんかできないから」と、デモという行為をちゃっかり楽しんでいる。
これは女性の不自由さの裏返しではあるのだが、どんな状況でも謳歌してしまおうという気概がたのもしい。

そして、彼女たちは、抗議運動のほとんどの場面で、歌っているか、コール&レスポンスを叫んでいる。
太鼓の躍動するリズムに乗せられた叫びは、まるで野外フェスのようだ。
肉体化された言葉とリズムが力強く結びついている彼女たちの声を聞くと、スクリーンのこちら側にいる私たちも、気分が上がる。

彼女たちが歌っているのは、いつもこのブログで扱っているロックやヒップホップなどではなく、もっとローカルな旋律の曲だ。
西洋社会ではカウンターカルチャーとしての意味を持つヒップホップやレゲエは、インドでは「舶来のオシャレな音楽」であり、お金持ちやインテリ、つまり搾取する側の音楽でもある。
これは現時点でインドのインディペンデント音楽のひとつの限界として、意識しておくべきポイントだろう。
そのかわり、社会運動が根付いたインドには、こういうときに歌う自分たちの歌が、ちゃんと存在しているのだ。

あらためて見てみると、予告編でも彼女たちはほとんどずっと歌っているか、コール&レスポンスをしている。





この映画が秀逸なのは、単にインド社会の一側面を切り取っているだけではなく、監督自身の内面を深く掘り下げて作られていることだ。

ノウシーン・ハーン監督は、イスラム教徒としてのアイデンティティを意識せず、ごく「世俗的」に生きてきたという。
それはインド社会に内在しているイスラムへの偏見を避ける生き方でもあったのだが、その彼女が、こうした映画を通して告発せざるを得ないほどに、いまのインドの状況は悪化しているのだ。


この映画が「描いていない部分」で気になったのは、ヒンドゥーナショナリズムに走る側の「理屈」だ。
おそらくだが、カメラの前で差別と偏見を隠そうともしない彼らの多くは、家庭では親孝行で、家族や仲間を愛する情に厚い人々であるはずだ。
彼らを、偏狭で差別主義的と捉えるだけでは分かり得ない何かがきっとあると思うのだが、それはいったいなんなのか。
恐怖心なのか、差別感情への罪悪感に対する開き直りなのか、おそらく、簡単には言語化できないなにかがあるはずだ。



最後にこの映画とは直接関係のない音楽の話を。
映画のなかで「Azadi!」(自由を!)というチャントが巻き起こるシーンがある(予告編でも出てくる)。
この「自由を!」「〇〇からの〜」「自由を!」というコール&レスポンスは、古くからインドの市民運動で広く使われてきたものだ。
2016年にデリーのジャワハルラール・ネルー大学で起きた大規模な学生運動のシュプレヒ・コールは、音楽プロデューサーのDub Sharmaによってサンプリングされ、エレクトロ・ヒップホップの楽曲として生まれ変わった。
その曲をもとにアレンジされ、DIVINEが参加したバージョンは、映画『ガリー・ボーイ』のサウンドトラックにも採用されている。
いまでもこの曲は、インドで市民運動が巻き起こるたびにバイラルとなっている。





インドにおけるレベル・ミュージック(抵抗の音楽)としてのインディペンデント音楽については、6月20日発売の著書『新しいインド音楽の世界 混沌と刺激のサウンドを求めて』でも書いています。






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