2021年03月
2021年03月28日
300回記念!諸先輩を讃える。
このブログ『アッチャー・インディア 読んだり聴いたり考えたり』も今回でちょうど300本目の記事となる。
いつもご愛読いただいている方も、最近このブログを見つけてくれた方も、みなさんありがとうございます。
始めた頃は300回も続くとは思わなかったなあ。
当初は音楽ネタがどこまで続くか分からなかったので、どう転んでもいいように、音楽っぽい言葉を入れずに『アッチャー・インディア』っていうタイトルを付けたんだった。(「アッチャー」はヒンディー語でgoodという意味で、あいづち的に使われることも多い)
これまで3年とちょっと、タイガー・ジェット・シンや謎の占い師ヨギ・シンの話題にたびたび脱線しながらも、なんとか音楽の話題を中心にここまで続けてこれたのは、ひとえに読者みなさんと、そして何よりもつねに面白い音楽と話題を提供してくれているインドのミュージシャンたちのおかげ。
あらためて感謝とリスペクトを捧げます。
今ではイベントをやらせてもらったり、たまに雑誌や映画のパンフに書かせてもらったりもしていますが、今回は、私がインドの音楽シーンの面白さを発信するずっと前からこの世界に注目していた人たちを紹介して、彼らにも最大級のリスペクトを捧げたいと思います。
最初に紹介するのは、Indian Music Catalogというウェブサイトを2014年から主宰されていたnaokiさん。
このIndian Music Catalogこそ、日本におけるインドのインディー音楽紹介系ウェブサイトの草分けだと言える。(このサイトと私のブログ以外、ほとんど分ける草生えてないけど)
naokiさんはデリーに住んでいた経験があるとのことで、現地で実際に見たアーティストについての記事などもあり、情報は早く、センスは良く、音楽の知識は豊富で、記事の分量も長すぎず読みやすい。
私がブログを始めようと思い立った時、当然、Indian Music Catalogのことは気になっていた。
その時点で、オシャレなインド音楽に関しては、ほとんど全てnaokiさんによって紹介され尽くしていたと言っても過言ではない。
このアッチャー・インディアを書くにあたり、欧米のポピュラー音楽的なセンスの良さよりも「インドらしさ」のあるアーティストを中心に紹介したり、記事の切り口を「音楽と社会」にしたりしたのは、先行するIndian Music Catalogとの差別化を図りたかったという理由も大きかった。
ブログを始めた当初は、しゅっとしたnaokiさんの文章との違いを際立たせるために、意味もなく落語っぽい語り口で書いたりもしていた(さすがに馬鹿馬鹿しくなってすぐやめたけど)。
日本では無名なインドのアーティストを扱うにあたって、naokiさんが掘り出したネタを横取りするようなことはしたくなかったから、Indian Music Catalogで紹介されたアーティストは、アッチャー・インディアではできるだけ取り上げないようにしていたし、書くとしても違う視点で書くようにしていた。
naokiさんもたびたび記事に書いている通り、インドのインディー音楽というのは、日本人にとってかなりニッチなジャンルだ。
似たようなテーマのブログを始めるにあたり、一言挨拶しようかとも思ったのだけど、いきなりわけのわからない奴から連絡が来たら快く思われないかもしれないという不安もあって、活動が軌道に乗ってから改めて連絡しようと先延ばしにしていた。
その後、Indian Music Catalogの更新は2018年を最後に途絶えてしまい、改めてコンタクトするのも微妙な感じになってしまったので、ずっと不義理なままになってしまっている。
naokiさんがもしまだインドの音楽に興味を持たれているようだったら、ぜひご挨拶したいと思っているのだが、確認するすべもないので、サイトが更新されていないか、今でもたまにチェックしている。(naokiさんの記事も楽しみだし)
次に紹介したいのは、社会学者の栗田知宏さん。
栗田さんのことを最初に知ったのは『南アジア系社会の周辺化された人々 下からの創発的実践』という本を読んだときのこと。
栗田さんはこの本の中で「ブリティッシュ・エイジアン音楽の諸実践における『代表性』と周縁化──サブ・エスニシティの観点から」という論文を書いているのだが、これを読んでぶったまげた。
この論文のなかで、栗田さんは、UKの南アジア系音楽シーンについて、北インドのパンジャーブ人の音楽「バングラー」がコミュニティの代表性を獲得しているがゆえに、南インドやベンガル系の人々が周縁化してしまっている状況を、現地でのミュージシャンやDJへのインタビューを交えて著している。
これがめちゃくちゃ面白かった。
正直に言うと、ブログを始めた当初、映画音楽以外のインド系のポピュラー音楽に興味を持っている人なんてまずいないだろうから、多少テキトーでも明らかな間違いじゃなければ書いちゃっていいか、みたいな思い上がった気持ちも少しあった。
ところが、アーティストたちの中にどっぷり入っているホンモノの研究者がいて、しかも書いているものは学術的な文章なのに読みやすく、面白いのだ。
率直に、やばい、と感じた。
これはいいかげんなことを書くわけにはいかないな、と思ったのだ。
栗田さんとは、その後ナガランドのドキュメンタリー映画『あまねき旋律』のイベントのときに知り合うことができ、以降も何度かお会いしている。
(コロナ禍以降、なかなかお会いする機会がないのが残念だ)
栗田さんの知識や感性には常に刺激を受けていて、話すたびに、段違いの「知的な基礎体力」みたいなものを感じている。
映画『ガリーボーイ』のパンフレットで栗田さんの文章を読まれた方も多いと思うが、栗田ファンからすると、あれは一般の映画ファン向けにかなりライトに書かれたものだった(それでも十分面白かったし、商業映画だから仕方のないことなのだが)。
栗田さんの研究されてきたことを、いつかまとめて読んでみたいと気長に待っている。
最後に紹介するのは、お会いしたことがなく、そして今後もお会いすることができない方だ。
その人の名前は、野上郁哉さん。
彼は、東京外国語大学の大学院に在籍していた2008年に『国境知らずの音楽雑誌 Oar』を創刊し編集長を務めていた人物で、コアな音楽好きならこの雑誌を覚えている人もいるかもしれない。
創刊後、1年に1号のペースで『Oar』を出版していたのだが、第3号を出したのち、野上さんは交通事故に遭い、24歳の若さで亡くなってしまった。
彼が『Oar』を作っていた頃、私は転職したり二人目の子供が生まれたりして、南アジアや音楽の世界から離れていたので、リアルタイムでは彼のことを知ることができなかった。
野上さんのことは、栗田さんを介して知り合った、東京外語大学でウルドゥー語/ウルドゥー文学の教鞭をとっていた麻田豊先生から伺った。
『Oar』を初めて読んだのも、麻田先生に貸してもらってからのことだ。
第1号の特集は「未知なる音楽を求めて ーインド・ネパールを旅するー」、第2号は「恍惚と陶酔 ーパキスタン音楽の旅」、第3号は「玉樹チベット族自治州と中国アンダーグラウンド・ミュージックの旅」、そして第4号は彼の没後に発売され、追悼号となったようだ。
この『Oar』、率直に言うと、文章も構成も荒削りな部分はある。
それでも、学生でありつつ、未知の音楽を紹介しようと雑誌を創刊した彼の情熱が純化したような内容に、リスペクトしか感じようがなかった。
彼はもともとロック好きだったらしく、創刊号にはインドのロックバンドの先駆的存在であるIndian Oceanの来日公演の詳報なども掲載されている。
インドのロックやインディー音楽の隆盛がもう5年ほど早ければ、それは確実に野上さんのアンテナに引っかかっていたはずだ。
彼がお気に入りとして挙げていた南アジア音楽以外のアルバムにも、私と趣味が重なるものが多く、もし会うことができたら、きっと盛り上がっただろう。
だが、もし彼が存命でも、やはり親しく話すような機会はなかったかもしれない。
彼がこの情熱を持って南アジアの音楽を掘り進めていたら、おそらく私は発信する側ではなく、野上さんが発信する情報を享受する側にいただろうからだ。
ヒンディー/ウルドゥーやパンジャービー語の語学力をはじめ、きちんとした地域研究のベースがある野上さんの情報発信が軌道に乗っていれば、私は自らインドの音楽のブログを立ち上げようと思うこともなかったかもしれない。
『Oar』とは別に、彼のブログを冊子(というにはずいぶん立派なものだが)にしたものも読ませていただいたのだが、これにもやられてしまった。
好奇心と探究心の赴くままに、音楽を聴き、本を読み、研究し、文章を書き…という彼のバイタリティあふれる存在感が伝わってきて、なんとも表現し難い刺激を受けた。
会ったことのない故人に勝手に自分の気持ちを乗せるのも失礼だと思うので、書き方が難しいのだが、文章の向こう側にある彼の存在から、なにかこうビシッとしたものを受け取らせてもらった。
それは確実に、今の自分に影響を与えている。
もちろん、南アジアの音楽シーンに早い段階から注目していたのはこの3人だけでなく、他にもたくさんの人たちがいる。
こないだのSTRAIGHT OUTTA INDIAで共演したHirokoさんは現地で古典舞踊のカタック・ダンスを学びながら現地のラッパーやミュージシャンと交流していたし(その後の彼らとの共演は以前記事にした通り)、同イベントのマネジメントからパキスタン編の紹介まで大活躍してくれたちゃいろさんはインド/パキスタン地域の音楽への目配りがとても広くて深い(コンゴの音楽にも詳しい)。
音楽評論の分野では、『ガリーボーイ』公開時のイベントで共演させてもらったサラーム海上さんが著書『プラネット・インディア』でインドのエレクトロニック系インディーミュージック創成期を取材して書いているし、アイドルカルチャーへの造詣も深いライターの鈴木妄想さんはインドのヒップホップにかなり早い段階から注目していた。
ロックに関して言えば、秋葉原のCLUB GOODMANで開催したIndian Rock Nightで共演したマサラワーラーの鹿島さんが南インドを中心にかなりいろいろなバンドを掘っていて、レアなCDも所有している。
先日インタビューさせてもらったNoriko Shaktiさんはタブラプレイヤーでありつつ、インドのクラブミュージックシーンでも活躍しているのは、記事に書いたとおりだ。
(うっかり名前を挙げるのを忘れてしまっている人もいると思うので、あとでこっそり追記するかもしれない。それから私の知らないところにも、この分野に早い段階から興味を持っていた人はきっといるはずだ)
というわけで、今回はキリのいい300本目の記事ということで、これまでなかなか触れる機会のなかった、南アジア系インディー音楽の分野で活躍されている諸先輩について書かせてもらいました。
自分は現地に住んだ経験もアカデミックなバックグラウンドもないけれど、これからも先人たちにリスペクトの気持ちを持ちつつ、自分なりのやり方で自分のやりたいことをとことんやったろう、と思っています。
次回から通常運転に戻ります!
いつもご愛読いただいている方も、最近このブログを見つけてくれた方も、みなさんありがとうございます。
始めた頃は300回も続くとは思わなかったなあ。
当初は音楽ネタがどこまで続くか分からなかったので、どう転んでもいいように、音楽っぽい言葉を入れずに『アッチャー・インディア』っていうタイトルを付けたんだった。(「アッチャー」はヒンディー語でgoodという意味で、あいづち的に使われることも多い)
これまで3年とちょっと、タイガー・ジェット・シンや謎の占い師ヨギ・シンの話題にたびたび脱線しながらも、なんとか音楽の話題を中心にここまで続けてこれたのは、ひとえに読者みなさんと、そして何よりもつねに面白い音楽と話題を提供してくれているインドのミュージシャンたちのおかげ。
あらためて感謝とリスペクトを捧げます。
今ではイベントをやらせてもらったり、たまに雑誌や映画のパンフに書かせてもらったりもしていますが、今回は、私がインドの音楽シーンの面白さを発信するずっと前からこの世界に注目していた人たちを紹介して、彼らにも最大級のリスペクトを捧げたいと思います。
最初に紹介するのは、Indian Music Catalogというウェブサイトを2014年から主宰されていたnaokiさん。
このIndian Music Catalogこそ、日本におけるインドのインディー音楽紹介系ウェブサイトの草分けだと言える。(このサイトと私のブログ以外、ほとんど分ける草生えてないけど)
naokiさんはデリーに住んでいた経験があるとのことで、現地で実際に見たアーティストについての記事などもあり、情報は早く、センスは良く、音楽の知識は豊富で、記事の分量も長すぎず読みやすい。
私がブログを始めようと思い立った時、当然、Indian Music Catalogのことは気になっていた。
その時点で、オシャレなインド音楽に関しては、ほとんど全てnaokiさんによって紹介され尽くしていたと言っても過言ではない。
このアッチャー・インディアを書くにあたり、欧米のポピュラー音楽的なセンスの良さよりも「インドらしさ」のあるアーティストを中心に紹介したり、記事の切り口を「音楽と社会」にしたりしたのは、先行するIndian Music Catalogとの差別化を図りたかったという理由も大きかった。
ブログを始めた当初は、しゅっとしたnaokiさんの文章との違いを際立たせるために、意味もなく落語っぽい語り口で書いたりもしていた(さすがに馬鹿馬鹿しくなってすぐやめたけど)。
日本では無名なインドのアーティストを扱うにあたって、naokiさんが掘り出したネタを横取りするようなことはしたくなかったから、Indian Music Catalogで紹介されたアーティストは、アッチャー・インディアではできるだけ取り上げないようにしていたし、書くとしても違う視点で書くようにしていた。
naokiさんもたびたび記事に書いている通り、インドのインディー音楽というのは、日本人にとってかなりニッチなジャンルだ。
似たようなテーマのブログを始めるにあたり、一言挨拶しようかとも思ったのだけど、いきなりわけのわからない奴から連絡が来たら快く思われないかもしれないという不安もあって、活動が軌道に乗ってから改めて連絡しようと先延ばしにしていた。
その後、Indian Music Catalogの更新は2018年を最後に途絶えてしまい、改めてコンタクトするのも微妙な感じになってしまったので、ずっと不義理なままになってしまっている。
naokiさんがもしまだインドの音楽に興味を持たれているようだったら、ぜひご挨拶したいと思っているのだが、確認するすべもないので、サイトが更新されていないか、今でもたまにチェックしている。(naokiさんの記事も楽しみだし)
次に紹介したいのは、社会学者の栗田知宏さん。
栗田さんのことを最初に知ったのは『南アジア系社会の周辺化された人々 下からの創発的実践』という本を読んだときのこと。
栗田さんはこの本の中で「ブリティッシュ・エイジアン音楽の諸実践における『代表性』と周縁化──サブ・エスニシティの観点から」という論文を書いているのだが、これを読んでぶったまげた。
この論文のなかで、栗田さんは、UKの南アジア系音楽シーンについて、北インドのパンジャーブ人の音楽「バングラー」がコミュニティの代表性を獲得しているがゆえに、南インドやベンガル系の人々が周縁化してしまっている状況を、現地でのミュージシャンやDJへのインタビューを交えて著している。
これがめちゃくちゃ面白かった。
正直に言うと、ブログを始めた当初、映画音楽以外のインド系のポピュラー音楽に興味を持っている人なんてまずいないだろうから、多少テキトーでも明らかな間違いじゃなければ書いちゃっていいか、みたいな思い上がった気持ちも少しあった。
ところが、アーティストたちの中にどっぷり入っているホンモノの研究者がいて、しかも書いているものは学術的な文章なのに読みやすく、面白いのだ。
率直に、やばい、と感じた。
これはいいかげんなことを書くわけにはいかないな、と思ったのだ。
栗田さんとは、その後ナガランドのドキュメンタリー映画『あまねき旋律』のイベントのときに知り合うことができ、以降も何度かお会いしている。
(コロナ禍以降、なかなかお会いする機会がないのが残念だ)
栗田さんの知識や感性には常に刺激を受けていて、話すたびに、段違いの「知的な基礎体力」みたいなものを感じている。
映画『ガリーボーイ』のパンフレットで栗田さんの文章を読まれた方も多いと思うが、栗田ファンからすると、あれは一般の映画ファン向けにかなりライトに書かれたものだった(それでも十分面白かったし、商業映画だから仕方のないことなのだが)。
栗田さんの研究されてきたことを、いつかまとめて読んでみたいと気長に待っている。
最後に紹介するのは、お会いしたことがなく、そして今後もお会いすることができない方だ。
その人の名前は、野上郁哉さん。
彼は、東京外国語大学の大学院に在籍していた2008年に『国境知らずの音楽雑誌 Oar』を創刊し編集長を務めていた人物で、コアな音楽好きならこの雑誌を覚えている人もいるかもしれない。
創刊後、1年に1号のペースで『Oar』を出版していたのだが、第3号を出したのち、野上さんは交通事故に遭い、24歳の若さで亡くなってしまった。
彼が『Oar』を作っていた頃、私は転職したり二人目の子供が生まれたりして、南アジアや音楽の世界から離れていたので、リアルタイムでは彼のことを知ることができなかった。
野上さんのことは、栗田さんを介して知り合った、東京外語大学でウルドゥー語/ウルドゥー文学の教鞭をとっていた麻田豊先生から伺った。
『Oar』を初めて読んだのも、麻田先生に貸してもらってからのことだ。
第1号の特集は「未知なる音楽を求めて ーインド・ネパールを旅するー」、第2号は「恍惚と陶酔 ーパキスタン音楽の旅」、第3号は「玉樹チベット族自治州と中国アンダーグラウンド・ミュージックの旅」、そして第4号は彼の没後に発売され、追悼号となったようだ。
この『Oar』、率直に言うと、文章も構成も荒削りな部分はある。
それでも、学生でありつつ、未知の音楽を紹介しようと雑誌を創刊した彼の情熱が純化したような内容に、リスペクトしか感じようがなかった。
彼はもともとロック好きだったらしく、創刊号にはインドのロックバンドの先駆的存在であるIndian Oceanの来日公演の詳報なども掲載されている。
インドのロックやインディー音楽の隆盛がもう5年ほど早ければ、それは確実に野上さんのアンテナに引っかかっていたはずだ。
彼がお気に入りとして挙げていた南アジア音楽以外のアルバムにも、私と趣味が重なるものが多く、もし会うことができたら、きっと盛り上がっただろう。
だが、もし彼が存命でも、やはり親しく話すような機会はなかったかもしれない。
彼がこの情熱を持って南アジアの音楽を掘り進めていたら、おそらく私は発信する側ではなく、野上さんが発信する情報を享受する側にいただろうからだ。
ヒンディー/ウルドゥーやパンジャービー語の語学力をはじめ、きちんとした地域研究のベースがある野上さんの情報発信が軌道に乗っていれば、私は自らインドの音楽のブログを立ち上げようと思うこともなかったかもしれない。
『Oar』とは別に、彼のブログを冊子(というにはずいぶん立派なものだが)にしたものも読ませていただいたのだが、これにもやられてしまった。
好奇心と探究心の赴くままに、音楽を聴き、本を読み、研究し、文章を書き…という彼のバイタリティあふれる存在感が伝わってきて、なんとも表現し難い刺激を受けた。
会ったことのない故人に勝手に自分の気持ちを乗せるのも失礼だと思うので、書き方が難しいのだが、文章の向こう側にある彼の存在から、なにかこうビシッとしたものを受け取らせてもらった。
それは確実に、今の自分に影響を与えている。
もちろん、南アジアの音楽シーンに早い段階から注目していたのはこの3人だけでなく、他にもたくさんの人たちがいる。
こないだのSTRAIGHT OUTTA INDIAで共演したHirokoさんは現地で古典舞踊のカタック・ダンスを学びながら現地のラッパーやミュージシャンと交流していたし(その後の彼らとの共演は以前記事にした通り)、同イベントのマネジメントからパキスタン編の紹介まで大活躍してくれたちゃいろさんはインド/パキスタン地域の音楽への目配りがとても広くて深い(コンゴの音楽にも詳しい)。
音楽評論の分野では、『ガリーボーイ』公開時のイベントで共演させてもらったサラーム海上さんが著書『プラネット・インディア』でインドのエレクトロニック系インディーミュージック創成期を取材して書いているし、アイドルカルチャーへの造詣も深いライターの鈴木妄想さんはインドのヒップホップにかなり早い段階から注目していた。
ロックに関して言えば、秋葉原のCLUB GOODMANで開催したIndian Rock Nightで共演したマサラワーラーの鹿島さんが南インドを中心にかなりいろいろなバンドを掘っていて、レアなCDも所有している。
先日インタビューさせてもらったNoriko Shaktiさんはタブラプレイヤーでありつつ、インドのクラブミュージックシーンでも活躍しているのは、記事に書いたとおりだ。
(うっかり名前を挙げるのを忘れてしまっている人もいると思うので、あとでこっそり追記するかもしれない。それから私の知らないところにも、この分野に早い段階から興味を持っていた人はきっといるはずだ)
というわけで、今回はキリのいい300本目の記事ということで、これまでなかなか触れる機会のなかった、南アジア系インディー音楽の分野で活躍されている諸先輩について書かせてもらいました。
自分は現地に住んだ経験もアカデミックなバックグラウンドもないけれど、これからも先人たちにリスペクトの気持ちを持ちつつ、自分なりのやり方で自分のやりたいことをとことんやったろう、と思っています。
次回から通常運転に戻ります!
2021年03月15日
ヒップホップで食べ歩くインドの旅
インドのヒップホップを聴いていて、気がついたことがある。
それは、「インドのラッパーは、やたらと地元の食べ物のことを扱う」ということだ。
ヒップホップにはレペゼンというカルチャーがあり、生まれ育った街やストリート、そして仲間たちを誇り、自慢するのが流儀とされているが、普通、食べ物はあんまり出てこない。
日本のヒップホップで例えるなら、愛知県出身のAK-69が味噌煮込みうどんやきしめんのことをラップしたり、横浜出身のMACCHO(OZROSAURUS)が崎陽軒のシウマイや家系ラーメンについてラップしたりするなんてことはまずないだろう。
本場アメリカでも、ニューヨークのJay-ZやNASとシカゴのカニエ・ウエストやコモンが「俺の街のピザのほうがうまい」とビーフを繰り広げるなんてことはありえないわけだが(当たり前だ)、インドのラッパーたちは、やたらと地元の食べ物のことをラップし、ミュージックビデオに登場させるのである。
まずは、私がこれまで見てきたなかでの「ベスト食べ歩きビデオ」に認定できる作品、ベンガルールのラッパーNEX(2021.12.15追記。このブログの記事を書いた時はNEXというアーティスト名だったのだが、のちにPasha Bhaiに改名したようだ)の"Kumbhakarna"のミュージックビデオを見てほしい。
ソフトウェア企業のビルが立ち並ぶ国際都市としてのベンガルールではなく、庶民が集う飲食街を活写した映像は、インドの下町の食レポとしても十分に楽しめる。
ケバブ系の焼き物や、よくわからない炒め物、揚げ物などの屋台から始まり、味のあるカフェでタバコを燻らせながらチャイを飲む。
撮影場所はストリートフードの店が軒を連ねるShivaj Nagarという場所。
Twitterでこの曲を紹介したところ、なんと近所に住んでいるという方からリアクションがあった。
「ゴキブリと猫とネズミだらけだけど旨い」
…なかなかに気合の入ったエリアだ。
牛肉料理をふんだんに提供しているということ、イスラームの装束に身を包んだ人の姿が多く見られることから、この地域自体もムスリムが多く暮らす場所のようである。食べ物屋以外にも、雑貨屋や生地屋など、下町のリアルな空気感がびんびん伝わってくる。
このNEX、よほどストリートフードが好きなようで、この'Eid Ka Chaand'では、牛の足を調理しているシーンから始まる。
Shivaj Nagar情報を教えてくれたBari Bari Bari Kosambariさんに伺ったところ、牛の足の煮込み「ビーフ・パヤ」の仕込みではないかとのこと。
ビーフ・パヤは「まだ日の出ぬ内から仕込んで市場の人が朝に食べる定番というイメージ」だそうで、こちらもリアルな地元感がたまらない。
3:20頃からは、今度は鶏肉を調理している様子が映される。
2本とも南アジアのイスラーム庶民の肉食文化の豊かさが感じられ、つい食べ物にばかり目が行ってしまうが、どちらもビートもラップもかなりかっこいい。
NEX, 今後もミュージックビデオともども注目のラッパーだ。
次の食べ歩きの舞台はハイデラーバード。
映画『バーフバリ』で有名になったテルグー語圏の中心都市で、インド料理好きにはビリヤニ(ビリヤーニー)の街として知られている。
この街のラッパーのミュージックビデオに登場するのももちろんビリヤニだ。
まず紹介するのは、Nawab Gangという地元のクルーから、AsurA, Lil Gunda, P$Ychloneの3人による"Flirt With Hyd".
いかにもハイデラーバードらしいイスラーム建築が目立つ街並みを練り歩き、リクシャーにハコ乗りしながらラップするビデオは地元感覚満載!
撮影場所にヒップホップっぽいアメリカ的な「ストリート」ではなく、本当の意味で地元をレペゼンする場所を選ぶインドのラッパーたちのセンスにはいつもながら敬服する。
2:00過ぎからはピザ・ドーサ、2:30過ぎからはニハーリー(肉の煮込み)といったストリートフードの屋台が映され、3:10には満を持してビリヤニが登場!
一瞬だが、リリックでも確かに「チキン・ビリヤーニー、マトン・ナハーリー(ニハーリー)」と言っている。
彼らのユニット名の'Nawab'はかつて南アジアを支配していたイスラーム王朝の「太守」を意味する言葉だ。
ムガール帝国、ニザーム王国といったイスラーム王朝の都市だったこの街にふさわしい名前で、ロゴマークはムンバイのDIVINEのGully Gangを意識しているようでもある。
ハイデラーバードからビリヤニ・ラップをもう1曲。
Ruhaan Arshadというラッパーの"Miya Bhai Hyderabad".
チャイから始まり、ニハーリー(0:45頃)、そしてビリヤニは1:58頃に登場。(そのすぐ後にはケバブも出てくる)
これまでのミュージックビデオとはうってかわって、陽気な地元の兄ちゃんたちが盛り上がってるって感じの垢抜けない映像がほほえましい。
タイトルの'miya bhai'は'my brother'という意味の仲間に呼びかけるスラングらしい。(ウルドゥー語。ここまで紹介したラッパーが使用している言語は、よく分からんけどおそらくデカン高原一帯のムスリムに話されているデカン・ウルドゥーと思われる)
「みーや、みーや、みーやばーい」というサビが印象に残るこの曲は、2018年にリリースされて以来、なんと4億4000回以上も再生されている。
ハイデラーバードの人口が700万人弱であることを考えると、異常なまでの愛されっぷりだ。
たしかに耳の残る曲ではあるが、インド人の心を掴む特別な何かが込められているのだろうか…。
続いては、インド東岸、オディシャ州の海辺の町プリー。
これまでもたびたび紹介している日印ハーフのラッパーBig Dealによる世界初のオディア語(オディシャ州の言語)ラップ"Mu Heli Odia".
内陸部のベンガルールやハイデラーバードとはぐっと異なる、ひなびた海辺の街ならではの風景が楽しめる。
また、近くにジャガンナート寺院という大きなヒンドゥー寺院があるからか、サドゥー(ヒンドゥーの世捨て人的な行者)の姿が目立つのも印象的だ。
注目してほしいのは、2:20過ぎからの'Let 'em know that Rosogolla is from Odisha'(Rosogollaはオディシャで生まれたものだとやつらに分らせてやれ)という英語字幕で表されているリリック。
ここでRosogolla(おそらくオディア語の表記)と呼ばれているのは、ヒンディー語ではラスグッラー(Rasgulla)として知られている牛乳と小麦粉と砂糖で作られた甘いお菓子のこと。
初めてこのミュージックビデオを見た時から「地元の菓子をラップで自慢するなんて、いかにもインドらしいなあ」と思っていたのだが、小林真樹さんの『食べ歩くインド 北・東編』を読んで、ここには単なる郷土自慢以上の意味が込められていることに気づいた。
このラスグッラーの発祥をめぐって、オディシャ州とウエストベンガル州との間で裁判になるほどの論争があったというのだ。
ラスグッラーは一般的にはウエストベンガル州コルカタのKC Dasという菓子店によって有名になったとされているが、オディシャ州側は、もともとはプリーのジャガンナート寺院の供物として作られていたものだと主張(古くは15世紀の文献にRasagolaという菓子の記述があるという)。
ウエストベンガル側も、今日のラスグッラーは19世紀にDasが改良して普及したものだと主張し、一歩も譲らなかった。
結果、2017年にラスグッラーはウエストベンガル州に帰属する(ただし、オディシャ州でも製造方法や独自の特徴を明記すればラスグッラーの名称を使用可能とする)という判決が下されたという。
この曲がリリースされたのはその判決が出る直前で、つまりBig Dealはこのリリックを通じてラスグッラーの正統なルーツを主張していたのだ。
これに対してコルカタのラッパーが「ラスグッラーは俺たちのものだ」とアンサーしたりするとなお面白かったのだが、今のところそうした動きはない模様。
コルカタ愛の強いCizzyあたりに、ぜひ仕掛けてもらいたいものである。
続いては、インド西部に足を延ばし、タール砂漠が広がるラージャスターン州を食べ歩こう。
こちらも以前紹介したことがある曲だが、青く塗られた石造りの家が立ち並ぶ「ブルーシティ」ことジョードプルのラップユニットJ19 Squadによる"Mharo Jodhpur".
1:00頃に出てくる料理に注目。
真ん中に置かれたボール状の食べ物が置かれたターリーは、ダール・バーティーと呼ばれるもので、チャパティと同じ生地を団子状にして加熱したバーティーと豆カレーのダールを合わせたもの(リリックでも確かに「ダール・バーティー」とラップしている)。
この地方を代表する料理で、「食べ歩くインド 北・東編」によると、大量の乾燥牛糞を燃やした中にバーティーの生地を投入してローストし、灰や土で蓋をして焼き上げ、最後にギー(精製した発酵バター)をくぐらせて作るこの地方独特の食べ物だという。
その後に出てくるのはミルチ・バダと呼ばれるジョードプル名物のストリートフードで、青唐辛子とジャガイモやカリフラワーをスパイスやバターを合わせた生地でくるんで揚げたものだ。
J19 Squadは他のミュージックビデオでは銃をぶっぱなしたりしているかなりコワモテな連中だが、やはり地元の食べ物には人一倍の誇りを持っているのだろう。
探せばまだまだありそうだが、今回の食べ歩きの旅はここまで。
地域や食文化はさまざまだが、いずれの楽曲からも、「これが俺たちの血や肉を作っているんだ」という誇りと自負が感じられるのがお分かりいただけただろう。
他にも、ヒップホップではないが、ケーララ州には地元の名物料理の名前を冠したAvialというバンドもいるし、とにかくインドのミュージシャンの地元料理愛には驚かされるばかり。
コロナ禍でなかなか旅に出られない状況が続くけれど、また面白い食べ歩きミュージックビデオがあったら紹介してみたい。
ところで、今回の記事を書くにあたって、どんなにタイトルを考えても、小林真樹さんの名著「食べ歩くインド」(旅行人)に似てしまって仕方なかったので、この際リスペクトを込めて、思いっきりパクらせていただきました。
南アジアの食文化を、ここまで広く、深く、そして面白く紹介した本は世界中を探しても他にないはず。
ジャンルは違えどインドのカルチャーを掘る者としても、大いに刺激をいただいた一冊です。
未読の方は、ぜひ。
ジャンル別記事一覧!
それは、「インドのラッパーは、やたらと地元の食べ物のことを扱う」ということだ。
ヒップホップにはレペゼンというカルチャーがあり、生まれ育った街やストリート、そして仲間たちを誇り、自慢するのが流儀とされているが、普通、食べ物はあんまり出てこない。
日本のヒップホップで例えるなら、愛知県出身のAK-69が味噌煮込みうどんやきしめんのことをラップしたり、横浜出身のMACCHO(OZROSAURUS)が崎陽軒のシウマイや家系ラーメンについてラップしたりするなんてことはまずないだろう。
本場アメリカでも、ニューヨークのJay-ZやNASとシカゴのカニエ・ウエストやコモンが「俺の街のピザのほうがうまい」とビーフを繰り広げるなんてことはありえないわけだが(当たり前だ)、インドのラッパーたちは、やたらと地元の食べ物のことをラップし、ミュージックビデオに登場させるのである。
まずは、私がこれまで見てきたなかでの「ベスト食べ歩きビデオ」に認定できる作品、ベンガルールのラッパーNEX(2021.12.15追記。このブログの記事を書いた時はNEXというアーティスト名だったのだが、のちにPasha Bhaiに改名したようだ)の"Kumbhakarna"のミュージックビデオを見てほしい。
ソフトウェア企業のビルが立ち並ぶ国際都市としてのベンガルールではなく、庶民が集う飲食街を活写した映像は、インドの下町の食レポとしても十分に楽しめる。
ケバブ系の焼き物や、よくわからない炒め物、揚げ物などの屋台から始まり、味のあるカフェでタバコを燻らせながらチャイを飲む。
撮影場所はストリートフードの店が軒を連ねるShivaj Nagarという場所。
Twitterでこの曲を紹介したところ、なんと近所に住んでいるという方からリアクションがあった。
あら!プロモに出てくるShivaji Nagarはうちから歩いていける距離でSavera CafeもHamza Hotelも何度か行ったことある。辺りの屋台料理はインドだけど牛肉がほとんどで、マトンパヤはゴキブリと猫とネズミだらけだけど旨い。 ヤバい空気がたっぷりで最高。Makkah cafeはRichmond townな。ノンベジ。 https://t.co/vMP2XVSQIX
— Bari Bari Bari Kosambari (@nekoyamashingo) March 11, 2021
「ゴキブリと猫とネズミだらけだけど旨い」
…なかなかに気合の入ったエリアだ。
牛肉料理をふんだんに提供しているということ、イスラームの装束に身を包んだ人の姿が多く見られることから、この地域自体もムスリムが多く暮らす場所のようである。
このNEX、よほどストリートフードが好きなようで、この'Eid Ka Chaand'では、牛の足を調理しているシーンから始まる。
Shivaj Nagar情報を教えてくれたBari Bari Bari Kosambariさんに伺ったところ、牛の足の煮込み「ビーフ・パヤ」の仕込みではないかとのこと。
ビーフ・パヤは「まだ日の出ぬ内から仕込んで市場の人が朝に食べる定番というイメージ」だそうで、こちらもリアルな地元感がたまらない。
3:20頃からは、今度は鶏肉を調理している様子が映される。
2本とも南アジアのイスラーム庶民の肉食文化の豊かさが感じられ、つい食べ物にばかり目が行ってしまうが、どちらもビートもラップもかなりかっこいい。
NEX, 今後もミュージックビデオともども注目のラッパーだ。
次の食べ歩きの舞台はハイデラーバード。
映画『バーフバリ』で有名になったテルグー語圏の中心都市で、インド料理好きにはビリヤニ(ビリヤーニー)の街として知られている。
この街のラッパーのミュージックビデオに登場するのももちろんビリヤニだ。
まず紹介するのは、Nawab Gangという地元のクルーから、AsurA, Lil Gunda, P$Ychloneの3人による"Flirt With Hyd".
いかにもハイデラーバードらしいイスラーム建築が目立つ街並みを練り歩き、リクシャーにハコ乗りしながらラップするビデオは地元感覚満載!
撮影場所にヒップホップっぽいアメリカ的な「ストリート」ではなく、本当の意味で地元をレペゼンする場所を選ぶインドのラッパーたちのセンスにはいつもながら敬服する。
2:00過ぎからはピザ・ドーサ、2:30過ぎからはニハーリー(肉の煮込み)といったストリートフードの屋台が映され、3:10には満を持してビリヤニが登場!
一瞬だが、リリックでも確かに「チキン・ビリヤーニー、マトン・ナハーリー(ニハーリー)」と言っている。
彼らのユニット名の'Nawab'はかつて南アジアを支配していたイスラーム王朝の「太守」を意味する言葉だ。
ムガール帝国、ニザーム王国といったイスラーム王朝の都市だったこの街にふさわしい名前で、ロゴマークはムンバイのDIVINEのGully Gangを意識しているようでもある。
ハイデラーバードからビリヤニ・ラップをもう1曲。
Ruhaan Arshadというラッパーの"Miya Bhai Hyderabad".
チャイから始まり、ニハーリー(0:45頃)、そしてビリヤニは1:58頃に登場。(そのすぐ後にはケバブも出てくる)
これまでのミュージックビデオとはうってかわって、陽気な地元の兄ちゃんたちが盛り上がってるって感じの垢抜けない映像がほほえましい。
タイトルの'miya bhai'は'my brother'という意味の仲間に呼びかけるスラングらしい。(ウルドゥー語。ここまで紹介したラッパーが使用している言語は、よく分からんけどおそらくデカン高原一帯のムスリムに話されているデカン・ウルドゥーと思われる)
「みーや、みーや、みーやばーい」というサビが印象に残るこの曲は、2018年にリリースされて以来、なんと4億4000回以上も再生されている。
ハイデラーバードの人口が700万人弱であることを考えると、異常なまでの愛されっぷりだ。
たしかに耳の残る曲ではあるが、インド人の心を掴む特別な何かが込められているのだろうか…。
続いては、インド東岸、オディシャ州の海辺の町プリー。
これまでもたびたび紹介している日印ハーフのラッパーBig Dealによる世界初のオディア語(オディシャ州の言語)ラップ"Mu Heli Odia".
内陸部のベンガルールやハイデラーバードとはぐっと異なる、ひなびた海辺の街ならではの風景が楽しめる。
また、近くにジャガンナート寺院という大きなヒンドゥー寺院があるからか、サドゥー(ヒンドゥーの世捨て人的な行者)の姿が目立つのも印象的だ。
注目してほしいのは、2:20過ぎからの'Let 'em know that Rosogolla is from Odisha'(Rosogollaはオディシャで生まれたものだとやつらに分らせてやれ)という英語字幕で表されているリリック。
ここでRosogolla(おそらくオディア語の表記)と呼ばれているのは、ヒンディー語ではラスグッラー(Rasgulla)として知られている牛乳と小麦粉と砂糖で作られた甘いお菓子のこと。
初めてこのミュージックビデオを見た時から「地元の菓子をラップで自慢するなんて、いかにもインドらしいなあ」と思っていたのだが、小林真樹さんの『食べ歩くインド 北・東編』を読んで、ここには単なる郷土自慢以上の意味が込められていることに気づいた。
このラスグッラーの発祥をめぐって、オディシャ州とウエストベンガル州との間で裁判になるほどの論争があったというのだ。
ラスグッラーは一般的にはウエストベンガル州コルカタのKC Dasという菓子店によって有名になったとされているが、オディシャ州側は、もともとはプリーのジャガンナート寺院の供物として作られていたものだと主張(古くは15世紀の文献にRasagolaという菓子の記述があるという)。
ウエストベンガル側も、今日のラスグッラーは19世紀にDasが改良して普及したものだと主張し、一歩も譲らなかった。
結果、2017年にラスグッラーはウエストベンガル州に帰属する(ただし、オディシャ州でも製造方法や独自の特徴を明記すればラスグッラーの名称を使用可能とする)という判決が下されたという。
この曲がリリースされたのはその判決が出る直前で、つまりBig Dealはこのリリックを通じてラスグッラーの正統なルーツを主張していたのだ。
これに対してコルカタのラッパーが「ラスグッラーは俺たちのものだ」とアンサーしたりするとなお面白かったのだが、今のところそうした動きはない模様。
コルカタ愛の強いCizzyあたりに、ぜひ仕掛けてもらいたいものである。
続いては、インド西部に足を延ばし、タール砂漠が広がるラージャスターン州を食べ歩こう。
こちらも以前紹介したことがある曲だが、青く塗られた石造りの家が立ち並ぶ「ブルーシティ」ことジョードプルのラップユニットJ19 Squadによる"Mharo Jodhpur".
1:00頃に出てくる料理に注目。
真ん中に置かれたボール状の食べ物が置かれたターリーは、ダール・バーティーと呼ばれるもので、チャパティと同じ生地を団子状にして加熱したバーティーと豆カレーのダールを合わせたもの(リリックでも確かに「ダール・バーティー」とラップしている)。
この地方を代表する料理で、「食べ歩くインド 北・東編」によると、大量の乾燥牛糞を燃やした中にバーティーの生地を投入してローストし、灰や土で蓋をして焼き上げ、最後にギー(精製した発酵バター)をくぐらせて作るこの地方独特の食べ物だという。
その後に出てくるのはミルチ・バダと呼ばれるジョードプル名物のストリートフードで、青唐辛子とジャガイモやカリフラワーをスパイスやバターを合わせた生地でくるんで揚げたものだ。
J19 Squadは他のミュージックビデオでは銃をぶっぱなしたりしているかなりコワモテな連中だが、やはり地元の食べ物には人一倍の誇りを持っているのだろう。
探せばまだまだありそうだが、今回の食べ歩きの旅はここまで。
地域や食文化はさまざまだが、いずれの楽曲からも、「これが俺たちの血や肉を作っているんだ」という誇りと自負が感じられるのがお分かりいただけただろう。
他にも、ヒップホップではないが、ケーララ州には地元の名物料理の名前を冠したAvialというバンドもいるし、とにかくインドのミュージシャンの地元料理愛には驚かされるばかり。
コロナ禍でなかなか旅に出られない状況が続くけれど、また面白い食べ歩きミュージックビデオがあったら紹介してみたい。
ところで、今回の記事を書くにあたって、どんなにタイトルを考えても、小林真樹さんの名著「食べ歩くインド」(旅行人)に似てしまって仕方なかったので、この際リスペクトを込めて、思いっきりパクらせていただきました。
南アジアの食文化を、ここまで広く、深く、そして面白く紹介した本は世界中を探しても他にないはず。
ジャンルは違えどインドのカルチャーを掘る者としても、大いに刺激をいただいた一冊です。
未読の方は、ぜひ。
ジャンル別記事一覧!
2021年03月07日
人気ラッパーEmiway Bantaiとインドのヒップホップの'beef'の話
今回は、インドのヒップホップ界の「ビーフ」の話。
インドのラッパーのビーフに関する記事を最初に見つけた時、私はてっきり、神聖視されている牛の肉を食べたラッパーがヒンドゥー・ナショナリストに襲撃されたとか、そういうニュースかと思ってしまった。
(インドのラッパーにはムスリムやクリスチャンも多いし、そういうことが起きそうな状況が今のインドにはある)
よく読んだら、そうではなくて、あのラッパー同士のディスりあいのほうのビーフだった。
そう、ヒップホップが急速に一般化したインドでも、ビーフは起こっている。
口が達者で議論好きなインド人がラッパーになれば、ビーフが起こらないわけがないのだ。
今回の主役は、インドのヒップホップ界にビーフを定着させた第一人者にして人気ラッパーのEmiway Bantai.
ボリウッドのヒップホップ映画『ガリーボーイ』にカメオ出演していたのを覚えている人もいるだろう。
ビーフで名を挙げたガリー(ストリート)・ラッパーというイメージからは想像しづらいかもしれないが、最近のEmiwayはかなりコマーシャルな路線に転換していて、昨年リリースされた"Firse Machayenge"はYouTubeで3億5000回以上も再生されている。
Emiwayはかなり器用なラッパーで、この曲のようなコマーシャル(チャラい)路線からアグレッシブなストリート・ラップまで、曲ごとに巧みにスタイルを使い分けているのだが、まずは彼のこれまでの人生、そしてビーフの戦歴を振り返ってみよう。
Emiway BantaiことBilal Shaikhは1995年、ベンガルールのムスリムのミドルクラス家庭に生まれた。
やがて家族とムンバイに移り住んだBilal少年は、10年生(高校1年)までは成績優秀で医者を目指していたという。
ところが、Eminemの音楽と出会ったことで運命が変わってしまう。
ヒップホップにはまって11年生では見事に落ちこぼれ、趣味で撮影していたたラップビデオの反応良かったという理由で、本気でラッパーを目指すようになったという。
ここまで、なんだか両親を心配させてしまいそうな経歴である。
彼のラッパー ネームの'Emiway'は敬愛するEminemとLil Wayneの名前を組み合わせたもので、Bantaiは'brother'のような意味で使われるムンバイのストリートのスラングだ。
だが、彼は真剣だった。
2013年に英語でラップした"Glint Lock" (feat. Minta)でデビューし(といっても、個人で撮った動画をYouTubeにアップしただけのようだが)、家族のサポートは受けずにHard Rock Cafeで働きながらラッパーとしての活動を続けた。
彼もまた、この時代のインドの多くのインディー・ラッパー同様に英語でラップを始め、やがて北インドのメジャー言語であるヒンディー語へと転向する。
彼の初のヒンディー語ラップは2014年リリースの"Aur Bantai".
この時期の彼の曲やスキルはまだ拙く、改めて紹介するほどのレベルでないものが多いが、逆にいうとそれだけ彼が成長したということ。
今でもYouTubeで手作り感満載の初期のミュージックビデオが見られるので、興味のある人は見てみてください。
公式チャンネルにあえてこの頃の作品を残しているEmiwayも潔くてイイ。
その後、持ち前のセンスを開花させた彼は徐々に人気を獲得し、2016年には、この"Aisa Kuch Shot Nahi Hai"でRadio City Freedom Awardを受賞。
受賞式の会場は、彼がかつて働いていたHard Rock Cafeだった。
ここからEmiwayの快進撃が始まる。
2017年にはデリーの人気ラッパーRaftaarとのコラボレーション"#Sadak"をリリース。
(Raftaarとその仲間たちの紆余曲折については、この記事で紹介しています)
二人の自在なフロウと高いスキルが充分に味わえるこの曲でEmiwayはさらに名声を高め、冒頭部分で聴かれる「まるめなー」('Maloom hai na'=「分かってるな」といった意味)というフレーズは、その後の彼の決め台詞となってゆく。
だが、ボリウッドなどのメインストリームでも活躍しているRaftaarが「彼みたいなラッパーが大金を稼ぐのは無理だろう」という発言したことにEmiwayが反応し、二人の間のビーフが勃発。
Emiwayは2018年10月に、Raftaarに向けたdiss-song "Samajh Mein Aaya Kya"をリリースする。
彼のステージネームのルーツであるEminemを思わせる、怒りと苛立ちのこもったフロウが圧巻だ。
Emiwayは、最初のヴァースでRaftaarの発言を痛烈に批判。
ここにインドで最初の、そして最も注目を集めたdiss-warが幕を開けた。
特筆すべきなのは、この曲でEmiwayは、Raftaarだけでなく、ムンバイのストリート・ヒップホップシーンの兄貴分的存在のDIVINEと、プネー出身の新進ラッパー MC STANをも強烈にディスっているということ。
DIVINEに関しては、Emiwayに対して「YouTubeの再生回数を稼ぐのは、SpotifyやGaanaのストリーミング再生されるより簡単なことだ」と発言したことが気に入らなかった様子。
EmiwayはDIVINEに「インドのすべてのラッパーはYouTubeからキャリアをスタートさせている。YouTubeが必要ないっていうなら自分の動画をYouTubeから削除したらどうだ」と反論し、この曲の2番のヴァースでは、ストリート育ちを自認するDIVINEがメジャーレーベルであるソニーミュージックのバックアップを受けていることをバカにして、自分は完全にインディペンデントであることを誇示している。
3番目のヴァースで標的にしているMC STANに対しては、小バカにしたような物真似まで披露していて完全におちょくっている。
MC STANはUSでいうとマンブルラップ以下の世代のような、インドでは新しいタイプのラッパー。
ここ数年で、Emiway同様に敵を作りながらもめきめきと評価を上げている大注目のアーティストで、近いうちに詳しく紹介しようと思っている。
(MC STANについてはこの記事でも紹介しています)
MC STANとの間に何があったのかは分からないが、とにかくEmiwayは、共演したメインストリームラッパー(Raftaar)からストリートシーンの大御所(DIVINE)、そして若手(MC STAN)まで、全方位的にディスを撃ちまくっているわけだ。
話をRaftaarとのビーフに戻すと、この曲を受けてRaftaarはレスポンスとして"Sheikh Chilli"を発表。
「俺は真実を語っただけ/お前は注目を集めたいだけのただのガキ/俺がデリーでホテルから食事からスタジオまで、全て世話してやったことを忘れたのか?/それが今度はdiss-songか/ムスリムなら嘘はつくな/お前がやってることはDIVINEとNaezyがしたことをなぞっているだけ」
と手厳しくEmiwayをこきおろした。
それに対してEmiwayは"Giraftaar"をリリース。
「メインストリームにセルアウトしたRaftaarはアンダーグラウンドじゃ何の存在感もない」とレスポンス。
これに対するRaftaarのレスポンスはなく(通常の楽曲リリースに戻った模様)、またEmiwayも『ガリーボーイ』への出演や、久しぶりに英語でラップした"Freeverse Feast(Daawat)"がMTV Europe Music AwardsでBest India Actを獲得するなど大きく評価を上げ、二人のビーフはどうやら小康状態となっている模様。
MTV EMAを受賞した"Freeverse Feast(Daawat)"は、いつの間にか英語ラップのスキルも上げていたEmiwayのマシンガンラップが圧巻。
いずれにしても、EmiwayはRaftaarとのビーフで知名度を上げ、話題性だけではなく高いスキルをも示して人気アーティストの仲間入りを遂げたというわけだ。
(もちろんそこには彼のスキルだけではなく、コマーシャルな楽曲のセンスもあったことは言うまでもない)
ビーフ当時は生意気な若造のEmiwayよりもRaftaarやDIVINEを支持する声のほうが多かったようだが、今ではすっかり彼らと肩を並べる人気ラッパーとなった。
ところで、"Samajh Mein Aaya Kya"のセカンドヴァースで攻撃されたDIVINEも黙ってはいなかった。
Emiwayが"Hard"で再びYouTubeの再生回数をテーマにした攻撃的なリリックを披露すると、これをさらなる自分へのdissと捉えたDIVINEは、反撃を開始する。
長くなるので詳細は省くが、これに対してDIVINEは"Chabi Wala Bandar"と"Such Bol Patta"の2曲のdiss-trackで応酬。
Emiwayも"Gully Ka Kutta"でリアクションする。
Diss-songのときのEmiwayは本当にアグレッシブでかっこいい。
この曲でもEmiwayは高いラップスキルを存分に発揮していて、一本調子なフロウの多いDIVINEを徹底的にやりこめようとしているかのようだ。
その後、二人は直接話し合って誤解が解け、このビーフは終了。
じつはEmiwayの"Hard"はDIVINEではなくデリーのベテランストリートラッパーKR$NAに向けられたものだったのだが、DIVINEが自分のことだと勘違いして応戦してしまったというのが真相だったらしい。
これはDIVINEがちょっとかっこわるかった。
ちなみにEmiwayがKR$NAを"Hard"でディスったのは、どうやらこの曲で喧嘩を売られたことに対するリアクションだったようだ。
この曲でKR$NA はのっけからEmiwayを名指しすると、彼の決め台詞の「まるめなー」もパクって(1:02くらいのところ)挑発している。
どうやらKR$NAは、Emiwayがリリックの中で「俺こそがmotherclutching(聞いたことがない単語だがmotherfxxkingのインド的言い換え?)ビーフラッパー/インドをレペゼンする唯一の男」とか「俺は小さく見えても超ハード、止められる奴がいるならかかってきな」と表明しているのに対して挑戦したということのようだ。
KR$NAはRaftaarとの交友もあるようなので、Emiwayとのビーフは望むところだったのだろう。
いずれにしても、ビーフによってインドのヒップホップ界がいっそう盛り上がっていることは間違い無いだろう。
Raftaarは、Hindustan Timesのインタビューでビーフについて端的にこう語っている。
(Emiwayとの確執について聞かれて)
「これはヒップホップのdiss-warというもので、お互いを批判するラップを出しあうのさ。ラッパーならよくあることで、俺たちは詩人(poet)なんだ。考えてみなよ。彼と俺との間に問題があるからって、ストリートで殴り合ってたら野蛮人と同じだろ。俺たちは詩人だから代わりに言葉を使う。(中略)(このビーフで)彼の人気が出たんじゃないかな。もししなかったら、彼のことなんて誰も知らなかったと思う。才能がある人なら誰だって、俺との戦いを通して有名になってもいい。これはフェアなんだ。神様がそういうふうに取り計らっているのさ」
EmiwayがRaftaarにビーフを仕掛けて知名度を獲得したように、今度はKR$NAが盟友Raftaarの敵役でもあり、勢いに乗っているEmiwayに挑んで存在感を高めようとしているのかもしれない。
(実際、KR$NAはずっとデリーを拠点に活動しているようなので、ムンバイのEmiwayに喧嘩を売って話題作りをするはプロモーション的にも理にかなっているように思う。)
つまり、人気スターも続々登場しているとはいえ、まだまだメインストリームにはほど遠いインドのヒップホップ界のアーティストたちにとって、ビーフは手軽に注目を集め、スキルとセンスを示すことができる手段になっているのだ。
幸いというか、Raftaarが語ったようなフェアな精神がインドのヒップホップ界には生きていて、ラッパー同士のビーフが暴力的な抗争に発展するようなことは知る限りでは起きていない。
今回の記事の主人公であるEmiwayは、いろんなラッパーとのビーフに励む一方、楽曲のリリースも多作で、ますます評価と知名度を上げているようだ。
1月末にリリースされた英語とヒンディーのバイリンガルの"What Can I Do"は英語字幕もついていて、自身が得意とするビーフ関するリリックも入っている。
冒頭から「まるめなー」も健在。
現時点での最新の楽曲は2月28日にリリースされた"No Love".
共演しているLokaはラッパー以外にモデルや俳優もこなす人物のようだ。
お聴きの通りこちらはかなりコマーシャルな路線。
この曲のプロデュースはNRI(在外インド人)のAAKASHが手掛けている。
硬派路線のDIVINEや、メインストリーム路線だった頃からの反動で急速にストリート路線に振り戻しつつあるRaftaarと違い、Emiwayは天性の「センスの良いチャラ」さみたいなものがあって、それがボリウッド系の売れ線ラップとも違う、彼の独特の魅力になっている。
多くのラッパーが、有名になるにつれて、リアルなストリート路線と派手なエンターテインメント路線の間で右往左往しているのに対して、Emiwayはどんなときも自然体でいるように見える。
彼はいまだに大手のレーベルやプロダクションには所属しておらず、完全にインディペンデントなチームで活動しているようで、そのせいか大手メディアにもほとんど掲載されないし、情報発信はもっぱらSNSやYouTubeなどで自ら行なっているようだ。
(再生回数億超えのラッパーなのに、2021年3月7日現在、いまだにWikipediaの項目すら作られていない!)
こうした彼のスタンスは、まさにインドの新世代を代表するアーティストにふさわしいと言ってよいだろう。
スキルとセンスと軽さを兼ね備えたEmiway Bantaiの快進撃は、まだまだ終わりそうもない。
(参考サイト)
https://wikibio.in/emiway-bantai-rapper/
https://genius.com/Emiway-bantai-samajh-mein-aaya-kya-lyrics
https://www.quora.com/Why-did-Divine-diss-Emiway-Bantai
https://www.hotfridaytalks.com/music/emiways-spits-fire-in-his-new-diss-track-samajh-mein-aaya-kya/
https://www.indilyrics.in/2018/10/sheikh-chilli-raftaar-song-lyrics-english-translation-real-meaning.html
https://www.hindustantimes.com/music/raftaar-on-diss-war-with-emiway-he-is-a-misguided-kid-i-am-the-mature-one/story-vu2MIDfWPCDCzZZ0GJWOGK.html
https://www.quora.com/Why-did-Krsna-diss-Emiway-Do-you-think-what-he-said-about-him-in-the-diss-is-correct
ジャンル別記事一覧!
インドのラッパーのビーフに関する記事を最初に見つけた時、私はてっきり、神聖視されている牛の肉を食べたラッパーがヒンドゥー・ナショナリストに襲撃されたとか、そういうニュースかと思ってしまった。
(インドのラッパーにはムスリムやクリスチャンも多いし、そういうことが起きそうな状況が今のインドにはある)
よく読んだら、そうではなくて、あのラッパー同士のディスりあいのほうのビーフだった。
そう、ヒップホップが急速に一般化したインドでも、ビーフは起こっている。
口が達者で議論好きなインド人がラッパーになれば、ビーフが起こらないわけがないのだ。
今回の主役は、インドのヒップホップ界にビーフを定着させた第一人者にして人気ラッパーのEmiway Bantai.
ボリウッドのヒップホップ映画『ガリーボーイ』にカメオ出演していたのを覚えている人もいるだろう。
ビーフで名を挙げたガリー(ストリート)・ラッパーというイメージからは想像しづらいかもしれないが、最近のEmiwayはかなりコマーシャルな路線に転換していて、昨年リリースされた"Firse Machayenge"はYouTubeで3億5000回以上も再生されている。
Emiwayはかなり器用なラッパーで、この曲のようなコマーシャル(チャラい)路線からアグレッシブなストリート・ラップまで、曲ごとに巧みにスタイルを使い分けているのだが、まずは彼のこれまでの人生、そしてビーフの戦歴を振り返ってみよう。
Emiway BantaiことBilal Shaikhは1995年、ベンガルールのムスリムのミドルクラス家庭に生まれた。
やがて家族とムンバイに移り住んだBilal少年は、10年生(高校1年)までは成績優秀で医者を目指していたという。
ところが、Eminemの音楽と出会ったことで運命が変わってしまう。
ヒップホップにはまって11年生では見事に落ちこぼれ、趣味で撮影していたたラップビデオの反応良かったという理由で、本気でラッパーを目指すようになったという。
ここまで、なんだか両親を心配させてしまいそうな経歴である。
彼のラッパー ネームの'Emiway'は敬愛するEminemとLil Wayneの名前を組み合わせたもので、Bantaiは'brother'のような意味で使われるムンバイのストリートのスラングだ。
だが、彼は真剣だった。
2013年に英語でラップした"Glint Lock" (feat. Minta)でデビューし(といっても、個人で撮った動画をYouTubeにアップしただけのようだが)、家族のサポートは受けずにHard Rock Cafeで働きながらラッパーとしての活動を続けた。
彼もまた、この時代のインドの多くのインディー・ラッパー同様に英語でラップを始め、やがて北インドのメジャー言語であるヒンディー語へと転向する。
彼の初のヒンディー語ラップは2014年リリースの"Aur Bantai".
この時期の彼の曲やスキルはまだ拙く、改めて紹介するほどのレベルでないものが多いが、逆にいうとそれだけ彼が成長したということ。
今でもYouTubeで手作り感満載の初期のミュージックビデオが見られるので、興味のある人は見てみてください。
公式チャンネルにあえてこの頃の作品を残しているEmiwayも潔くてイイ。
その後、持ち前のセンスを開花させた彼は徐々に人気を獲得し、2016年には、この"Aisa Kuch Shot Nahi Hai"でRadio City Freedom Awardを受賞。
受賞式の会場は、彼がかつて働いていたHard Rock Cafeだった。
ここからEmiwayの快進撃が始まる。
2017年にはデリーの人気ラッパーRaftaarとのコラボレーション"#Sadak"をリリース。
(Raftaarとその仲間たちの紆余曲折については、この記事で紹介しています)
二人の自在なフロウと高いスキルが充分に味わえるこの曲でEmiwayはさらに名声を高め、冒頭部分で聴かれる「まるめなー」('Maloom hai na'=「分かってるな」といった意味)というフレーズは、その後の彼の決め台詞となってゆく。
だが、ボリウッドなどのメインストリームでも活躍しているRaftaarが「彼みたいなラッパーが大金を稼ぐのは無理だろう」という発言したことにEmiwayが反応し、二人の間のビーフが勃発。
Emiwayは2018年10月に、Raftaarに向けたdiss-song "Samajh Mein Aaya Kya"をリリースする。
彼のステージネームのルーツであるEminemを思わせる、怒りと苛立ちのこもったフロウが圧巻だ。
Emiwayは、最初のヴァースでRaftaarの発言を痛烈に批判。
ここにインドで最初の、そして最も注目を集めたdiss-warが幕を開けた。
特筆すべきなのは、この曲でEmiwayは、Raftaarだけでなく、ムンバイのストリート・ヒップホップシーンの兄貴分的存在のDIVINEと、プネー出身の新進ラッパー MC STANをも強烈にディスっているということ。
DIVINEに関しては、Emiwayに対して「YouTubeの再生回数を稼ぐのは、SpotifyやGaanaのストリーミング再生されるより簡単なことだ」と発言したことが気に入らなかった様子。
EmiwayはDIVINEに「インドのすべてのラッパーはYouTubeからキャリアをスタートさせている。YouTubeが必要ないっていうなら自分の動画をYouTubeから削除したらどうだ」と反論し、この曲の2番のヴァースでは、ストリート育ちを自認するDIVINEがメジャーレーベルであるソニーミュージックのバックアップを受けていることをバカにして、自分は完全にインディペンデントであることを誇示している。
3番目のヴァースで標的にしているMC STANに対しては、小バカにしたような物真似まで披露していて完全におちょくっている。
MC STANはUSでいうとマンブルラップ以下の世代のような、インドでは新しいタイプのラッパー。
ここ数年で、Emiway同様に敵を作りながらもめきめきと評価を上げている大注目のアーティストで、近いうちに詳しく紹介しようと思っている。
(MC STANについてはこの記事でも紹介しています)
MC STANとの間に何があったのかは分からないが、とにかくEmiwayは、共演したメインストリームラッパー(Raftaar)からストリートシーンの大御所(DIVINE)、そして若手(MC STAN)まで、全方位的にディスを撃ちまくっているわけだ。
話をRaftaarとのビーフに戻すと、この曲を受けてRaftaarはレスポンスとして"Sheikh Chilli"を発表。
「俺は真実を語っただけ/お前は注目を集めたいだけのただのガキ/俺がデリーでホテルから食事からスタジオまで、全て世話してやったことを忘れたのか?/それが今度はdiss-songか/ムスリムなら嘘はつくな/お前がやってることはDIVINEとNaezyがしたことをなぞっているだけ」
と手厳しくEmiwayをこきおろした。
それに対してEmiwayは"Giraftaar"をリリース。
「メインストリームにセルアウトしたRaftaarはアンダーグラウンドじゃ何の存在感もない」とレスポンス。
これに対するRaftaarのレスポンスはなく(通常の楽曲リリースに戻った模様)、またEmiwayも『ガリーボーイ』への出演や、久しぶりに英語でラップした"Freeverse Feast(Daawat)"がMTV Europe Music AwardsでBest India Actを獲得するなど大きく評価を上げ、二人のビーフはどうやら小康状態となっている模様。
MTV EMAを受賞した"Freeverse Feast(Daawat)"は、いつの間にか英語ラップのスキルも上げていたEmiwayのマシンガンラップが圧巻。
いずれにしても、EmiwayはRaftaarとのビーフで知名度を上げ、話題性だけではなく高いスキルをも示して人気アーティストの仲間入りを遂げたというわけだ。
(もちろんそこには彼のスキルだけではなく、コマーシャルな楽曲のセンスもあったことは言うまでもない)
ビーフ当時は生意気な若造のEmiwayよりもRaftaarやDIVINEを支持する声のほうが多かったようだが、今ではすっかり彼らと肩を並べる人気ラッパーとなった。
ところで、"Samajh Mein Aaya Kya"のセカンドヴァースで攻撃されたDIVINEも黙ってはいなかった。
Emiwayが"Hard"で再びYouTubeの再生回数をテーマにした攻撃的なリリックを披露すると、これをさらなる自分へのdissと捉えたDIVINEは、反撃を開始する。
長くなるので詳細は省くが、これに対してDIVINEは"Chabi Wala Bandar"と"Such Bol Patta"の2曲のdiss-trackで応酬。
Emiwayも"Gully Ka Kutta"でリアクションする。
Diss-songのときのEmiwayは本当にアグレッシブでかっこいい。
この曲でもEmiwayは高いラップスキルを存分に発揮していて、一本調子なフロウの多いDIVINEを徹底的にやりこめようとしているかのようだ。
その後、二人は直接話し合って誤解が解け、このビーフは終了。
じつはEmiwayの"Hard"はDIVINEではなくデリーのベテランストリートラッパーKR$NAに向けられたものだったのだが、DIVINEが自分のことだと勘違いして応戦してしまったというのが真相だったらしい。
これはDIVINEがちょっとかっこわるかった。
ちなみにEmiwayがKR$NAを"Hard"でディスったのは、どうやらこの曲で喧嘩を売られたことに対するリアクションだったようだ。
この曲でKR$NA はのっけからEmiwayを名指しすると、彼の決め台詞の「まるめなー」もパクって(1:02くらいのところ)挑発している。
どうやらKR$NAは、Emiwayがリリックの中で「俺こそがmotherclutching(聞いたことがない単語だがmotherfxxkingのインド的言い換え?)ビーフラッパー/インドをレペゼンする唯一の男」とか「俺は小さく見えても超ハード、止められる奴がいるならかかってきな」と表明しているのに対して挑戦したということのようだ。
KR$NAはRaftaarとの交友もあるようなので、Emiwayとのビーフは望むところだったのだろう。
いずれにしても、ビーフによってインドのヒップホップ界がいっそう盛り上がっていることは間違い無いだろう。
Raftaarは、Hindustan Timesのインタビューでビーフについて端的にこう語っている。
(Emiwayとの確執について聞かれて)
「これはヒップホップのdiss-warというもので、お互いを批判するラップを出しあうのさ。ラッパーならよくあることで、俺たちは詩人(poet)なんだ。考えてみなよ。彼と俺との間に問題があるからって、ストリートで殴り合ってたら野蛮人と同じだろ。俺たちは詩人だから代わりに言葉を使う。(中略)(このビーフで)彼の人気が出たんじゃないかな。もししなかったら、彼のことなんて誰も知らなかったと思う。才能がある人なら誰だって、俺との戦いを通して有名になってもいい。これはフェアなんだ。神様がそういうふうに取り計らっているのさ」
EmiwayがRaftaarにビーフを仕掛けて知名度を獲得したように、今度はKR$NAが盟友Raftaarの敵役でもあり、勢いに乗っているEmiwayに挑んで存在感を高めようとしているのかもしれない。
(実際、KR$NAはずっとデリーを拠点に活動しているようなので、ムンバイのEmiwayに喧嘩を売って話題作りをするはプロモーション的にも理にかなっているように思う。)
つまり、人気スターも続々登場しているとはいえ、まだまだメインストリームにはほど遠いインドのヒップホップ界のアーティストたちにとって、ビーフは手軽に注目を集め、スキルとセンスを示すことができる手段になっているのだ。
幸いというか、Raftaarが語ったようなフェアな精神がインドのヒップホップ界には生きていて、ラッパー同士のビーフが暴力的な抗争に発展するようなことは知る限りでは起きていない。
今回の記事の主人公であるEmiwayは、いろんなラッパーとのビーフに励む一方、楽曲のリリースも多作で、ますます評価と知名度を上げているようだ。
1月末にリリースされた英語とヒンディーのバイリンガルの"What Can I Do"は英語字幕もついていて、自身が得意とするビーフ関するリリックも入っている。
冒頭から「まるめなー」も健在。
現時点での最新の楽曲は2月28日にリリースされた"No Love".
共演しているLokaはラッパー以外にモデルや俳優もこなす人物のようだ。
お聴きの通りこちらはかなりコマーシャルな路線。
この曲のプロデュースはNRI(在外インド人)のAAKASHが手掛けている。
硬派路線のDIVINEや、メインストリーム路線だった頃からの反動で急速にストリート路線に振り戻しつつあるRaftaarと違い、Emiwayは天性の「センスの良いチャラ」さみたいなものがあって、それがボリウッド系の売れ線ラップとも違う、彼の独特の魅力になっている。
多くのラッパーが、有名になるにつれて、リアルなストリート路線と派手なエンターテインメント路線の間で右往左往しているのに対して、Emiwayはどんなときも自然体でいるように見える。
彼はいまだに大手のレーベルやプロダクションには所属しておらず、完全にインディペンデントなチームで活動しているようで、そのせいか大手メディアにもほとんど掲載されないし、情報発信はもっぱらSNSやYouTubeなどで自ら行なっているようだ。
(再生回数億超えのラッパーなのに、2021年3月7日現在、いまだにWikipediaの項目すら作られていない!)
こうした彼のスタンスは、まさにインドの新世代を代表するアーティストにふさわしいと言ってよいだろう。
スキルとセンスと軽さを兼ね備えたEmiway Bantaiの快進撃は、まだまだ終わりそうもない。
(参考サイト)
https://wikibio.in/emiway-bantai-rapper/
https://genius.com/Emiway-bantai-samajh-mein-aaya-kya-lyrics
https://www.quora.com/Why-did-Divine-diss-Emiway-Bantai
https://www.hotfridaytalks.com/music/emiways-spits-fire-in-his-new-diss-track-samajh-mein-aaya-kya/
https://www.indilyrics.in/2018/10/sheikh-chilli-raftaar-song-lyrics-english-translation-real-meaning.html
https://www.hindustantimes.com/music/raftaar-on-diss-war-with-emiway-he-is-a-misguided-kid-i-am-the-mature-one/story-vu2MIDfWPCDCzZZ0GJWOGK.html
https://www.quora.com/Why-did-Krsna-diss-Emiway-Do-you-think-what-he-said-about-him-in-the-diss-is-correct
ジャンル別記事一覧!
2021年03月03日
続・タイガー・ジェット・シン伝説 「ヒンズー・ハリケーン」の謎をさぐる
(タイガー・ジェット・シンの半生と、その知られざる本当の人柄については、この全3回のシリーズをお読みください)
タイガー・ジェット・シン財団が行った東日本大震災への支援に対して、在トロント総領事から表彰が贈られたというニュースが大きく報じられた。
NHKの報道によると、今回の受賞を受けて、シンは「津波の被害について聞いたときは胸が張り裂ける思いでした。49年間もの時間を過ごした日本の子どもたちのために、とにかく何かしなければと思いました。近いうちにまた日本を訪れたいです」と語り、被災者支援のために、さらに20,000カナダドル(約170万円)の寄付を行うという。
「インドの狂虎」としてリング内外で暴れ回ったシンがじつは極めて紳士的な人物であり、実業家としても成功しているという事実は、プロレスファンにはよく知られている。
タイガー・ジェット・シン財団のYouTubeチャンネルでは、シンが震災直後の2011年4月に行った支援活動の様子を見ることができる。
プロレスファンとしても、日本人としても目頭が熱くなることを抑えられない映像だ。
それでも、彼はこれまで「狂気のヒール(悪役レスラー)」のイメージを頑なに守り、日本ではこうした側面を一切アピールしてこなかった。
マスコミに対して「ヒールのイメージを損なうことは書くな」と念を押していたという話も聞いたことがある。
シンは明確な引退宣言やセレモニーこそ行っていないものの、すでに76歳。
レスラーとしてはもう10年以上リングに上がっていない。
今回の受賞に対するあたたかいコメントは、ついに日本でもヒールであることから引退したという意味なのだろうか。
彼の素晴らしい人間性が広く知られることはうれしいが、やはりプロレスファンとしては一抹の寂しさも感じてしまう…。
数々の伝説に彩られた「プロレスラー、タイガー・ジェット・シン」ではなく、一人のインド系移民としてのジャグジット・シン・ハンス(シンの本名)のリアルな半生については、以前の3回にわたる特集記事で詳しく紹介した。
それでも彼のキャリアには、謎に包まれた部分がいくつも存在している。
とくに、彼のキャリア初期には、未解明なところが少なくない。
今回は、そのうち2つの謎に焦点をあてて検証してみたい。
その謎というのは、
- シンのプロレスラーとしてのデビューは、カナダ(1965年)ではなく、シンガポールだという説があるが、どちらが正しいのか?
- シンはデビュー当時「ヒンズー・ハリケーン」と名乗っていたという説があるが、それは本当なのか?本当だとしたら、いつ、どこで名乗っていたのか?
というものである。
ひとつずつ検証してみよう。
「シンガポールデビュー説」の真偽
「タイガー・ジェット・シン、シンガポールデビュー説」は、例えば以下のようなサイトで見ることができる。
- シンが日本で最後に参戦していた(2009年まで)団体「ハッスル」のウェブサイトでは、シンのプロフィールはこのように紹介されている。(http://www.hustlehustle.com/free/fighters/?id=1093611933)「兵役を終えたあと、インドでグレート・ガマ流のインド・レスリングを身に付けてシンガポールでプロレス入り、その後、カナダで本格的なプロレスを身に付けて来日!! 新日本プロレスでアントニオ猪木を相手に壮絶な死闘を繰り広げた。サーベル片手に上田馬之助と共に大暴れして日本中を恐怖のドン底に叩き落とした。ハッスルのリングでも、いまだ狂乱ぶりは健在だ。」
- 日本語版Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/タイガー・ジェット・シン)には「1964年にシンガポールでデビューし、その後カナダに渡ったという説があるが定かではない」という記載がある(2021年2月現在)。
- ルチャ・リブレ系の情報サイトLuchawikiでは、デビューの時期・場所は「1965年 シンガポール」と紹介されている。(http://www.luchawiki.com/index.php/Tiger_Jeet_Singh)
だが、シンが1944年生まれであることはあらゆる情報源で一致しており、また彼が17歳で(15歳説もある)カナダのバンクーバーに渡ったということも議論の余地がないようだ。
いくら屈強なシンとはいえ、さすがに10代なかばで兵役を終えたとは考えられず、カナダ移住前にシンガポールでデビューしていた可能性はまずないと考えるのが妥当だ。
おそらくだが、これはヒールとして活躍している日本で、カナダでのベビーフェイス(善玉レスラー)時代の経歴をカモフラージュするために用意された偽の経歴ではないだろうか。
シンは、カナダでのインタビューで、「カナダのテレビでプロレスというものを初めて見た」と語っている。
だが、日本で怪奇派レスラーとして活動するには「カナダでフレッド・アトキンス(あのジャイアント馬場のプロレスの師でもある)にレスリングを学んだ」という経歴は少々インパクトが弱い。
そこで、「グレート・ガマ流のインド・レスリングを身につけてアジアのリングでデビューした」というミステリアスな来歴を日本向けに用意した可能性はありそうだ。
2番目の日本版Wikipediaの情報だが、こちらも真実であるとは考えにくい。
日本、アメリカ、メキシコのプロレスのデータを網羅したwww.wrestlingdata.comによると、シンのカナダでのデビューは1965年9月16日、トロントのメイプルリーフ・アリーナだったとされている。
対戦相手や試合時間まで記録されたこのサイトの情報は信頼度が高いと考えてよいだろう。
だとすると、1964年当時、シンはフレッド・アトキンスのもとに弟子入りする前後だったはずで、いくらなんでもデビュー前のまだ半人前のレスラーが海外遠征をしたという可能性は極めて低い。
同様に、Luchawikiの情報も、おそらくはシンが日本向けに伝えた偽の経歴と、カナダでのデビュー年が混同されたものだと考えられる。
しかしながら、プロレスの世界に「絶対」はあり得ない。
もしかしたら、このシンガポール・デビュー説が真実である可能性もなくはないのだが、それはこのあと「ヒンズー・ハリケーン」説と合わせて検証してみたい。
シンは「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームを名乗っていたのか?
シンがデビュー当時名乗っていたとされる「ヒンズー・ハリケーン」という怪しげなリングネームについては、以下のようなサイトで確認できる。
- 日本語版Wikipediaに、「新日本プロレスに参戦する前に「ヒンズー・ハリケーン」のリングネームを使用した時もある」との記載がある。(https://ja.wikipedia.org/wiki/タイガー・ジェット・シン)
- 昭和のプロレスの情報を網羅したいくつかの日本のサイトで、デビュー当時、または来日前に「ヒンズー・ハリケーン」と名乗っていたという記載が確認できる。例えば、「ミック博士のプロレス研究室」(http://www.showapuroresu.com/bio/ta/tiger_jeet_singh.htm)「レスラーノート プロレスラー選手名鑑」(https://pinoko-kuro.ssl-lolipop.jp/pro/w422.htm)、「プロレス爆裂地帯」(https://white.ap.teacup.com/corona/86.html)など。
- スペイン語のルチャ・リブレ系のプロレス情報サイトに、「タイガー・ジェット・シンが'Hindu Hurricane'というリングネームを名乗っていた」という記述が見られるものがある。例えば、Luchawiki(http://www.luchawiki.com/index.php/Tiger_Jeet_Singh)、¿Quien es Quien? Lucha Libre(http://quienesquienluchalibre.blogspot.com/2016/02/tiger-jeet-singh.html).
「ヒンズー・ハリケーン」の「ヒンズー」はヒンドゥー教(Hindu)のカナ表記だろうが、シン自体はヒンドゥー教徒ではなくシク教徒である。
とはいえ、ギミックのためにレスラーの国籍やプロフィールを偽ることは日常茶飯事のプロレス界では、シク教徒がインドを代表する宗教であるヒンドゥーのリングネームを名乗ったとしても不思議ではない。
だが、どうしても引っかかるのは、この「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームについての記述があるのは、日本語とスペイン語のウェブサイトだけだということである。
前述のwww.wrestlingdata.comを含めて、英語の情報にはHindu Hurricaneの記述はいっさいなく、Wikipediaでも日本語以外(英語、ポルトガル語、ポーランド語、アラビア語)ではこのリングネームに関する記載はない。
マニアックさでは日本に勝るとも劣らない英語圏のファンが把握していないということは、少なくとも、アメリカやカナダのリングでシンがこのリングネームを使ったことはなかったのではないか。
そう考えると、この「ヒンズー・ハリケーン」も、シンが怪奇派ヒールレスラーとしてのキャラクターのために作りあげた架空の存在ように思えてくる。
日本向けに創作されたプロフィールがスペイン語圏にも伝わった一方で、アメリカやカナダのマット界の一次資料へのアクセスが容易な英語圏では、根拠のない「シン=ヒンズー・ハリケーン説」は広まらなかった。
こう考えるとつじつまが合う。
だが、さらに調査を続けてゆくと、シン来日前に、日本のプロレス誌に「まだ見ぬ強豪」として「ヒンズー・ハリケーン」というレスラーが掲載されていたという情報にたどり着いた。
たとえば、このブログではワニにヘッドロックを決める(なんだそれ)タイガー・ジェット・シンらしき男に「ヒンズ・ハリケーン」のキャプションが付けられた記事が紹介されている。
「ヒンズー・ハリケーン」はやはり実在していたようなのだ。
他のウェブサイトの情報も総合すると、どうやら「ヒンズー・ハリケーン」の名前が掲載されていたのは、1969年から1970年にかけての「月刊ゴング」だったようだ。
シンの初来日は1973年であり、さすがにこの時期から日本向けに怪奇派ヒールとしてのキャラクター作りがされていたとは考えにくい。
前述のwww.wrestlingdata.comでは、1969年3月から1970年の11月までのシンの試合の記録がすっぽりと抜けている。
とすると、この時期、シンは記録の残っていない東南アジア(香港、シンガポール)かオセアニアのリングで戦っていた可能性が高い。
シンガポールはカナダ同様にインド系移民の多い国だが、パンジャーブ系よりも南インドのタミル系の移民が多く暮らしている(シンガポールのインド系住民の約半数がタミル人)。
シク教は北インドのパンジャーブ地方発祥の宗教なので、南インドにルーツを持つタミル人には馴染みがない。
賢いシンが、この地で戦うときに、いかにもパンジャーブのシク教徒らしいJeet Singhではなく、Hindu Hurricaneというリングネームを選んだとしても不思議ではない。
シンの新日本プロレスへの来日は、香港で彼のファイトを見た貿易商が猪木に推薦したことだと言われている。
「ヒンズー・ハリケーン」は、シンの東南アジア限定のリングネームだったとすれば、地理的に近い日本にのみその情報が伝わり、英語圏では全く知られていないということも説明できる。
シンが信仰するパンジャーブ地方発祥の宗教、シク教徒は、コミュニティの高い結束力を持つことで知られている。
シンは後に、やはりインド系移民の多い南アフリカのプロレス界のブッカーとして活躍することになるが、こうしたリング外での活躍の裏には、世界中に広がるシク・コミュニティのネットワークがあったはずだ。
この時期のオセアニア、シンガポール、香港(いずれもインド系移民の多い土地だ)などへの遠征も、そのネットワークを利用して行われたに違いない。
そう考えると、シンがカナダでデビューする前にシンガポールでデビューしていた可能性も、否定できないのだ。
シンが故郷のパンジャーブでクシュティ(インド式レスリング)のトレーニングをしていたことは間違いなく、北米ほどレスリングのレベルの高くないシンガポールに何かの用事で立ち寄った際に(それは、カナダに渡る道中のことだったかもしれないし、いったんカナダに渡ったあとの1964年、あるいは65年だったかもしれない)、リングに上がったということも考えられる。
シンガポールデビュー説も、デマだと一蹴することはできない何かがあるのだ。
さらに深まる謎
これで、シンの初期のキャリアに関する謎に一通りの答えらしきものを出すことができた。
そう思っていた矢先に、再び興味深い情報を入手してしまった。
この記事を仕上げるにあたって、神田の古本屋で、「これが猛虎タイガー・ジェット・シンの意外な正体!」という特集が掲載された「月刊ゴング」1976年9月号を購入したのが運の尽きだった。
そこに書かれていたのは、これまでの考察とは全く異なるシンのプロフィールだった。
この記事が描かれた当時、タイガー・ジェット・シンは新日本プロレスに早くも7度目の来日中だった。
「アジア・リーグ戦」に出場し、8月5日には蔵前国技館でアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級タイトルに挑戦しようという、脂の乗りきった時期である。
この特集では、アメリカのWrestling Revue誌の1968年1月号に「アール・ダーネル」なる記者が書いた5ページにわたる「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事を引用する形でシンのプロフィールを紹介している。
「ダーネル記者によれば、シンは1967年11月末に突如、カナダのマットに出現した。この時、シンは25歳というから現在は34歳ということになる。
シンがいきなり登場したのはカナダのトロントのメープルリーフ・ガーデン。以来、現在までシンはホーム・リングを変えていない(このへんはインドレスラーの堅実さだ)。」
のっけからフレッド・アトキンスのもとで修行し1965年にデビューしたという「正史」とは異なる記述で始まっていて驚くが、著者はWrestling Revueの記事をさらに引用して続ける。
「かれは、インドのパンジャプ(原文ママ。以下同)の名家の出身で父はサルタンであった。かれには、父からパンジャプ地方に4000エーカーという想像もつかないような広大な土地が残されており、かれがレスリングという格闘技に必要以上に興味さえ持たなければ、かれはサルタンのプリンスとして多くの召使いにかしずかれる身分であった。
ところが、かれは少年時代から恐ろしく強かった。十四歳の時に父のサルタンと一緒に象にのって虎狩りに行き、この貴族の息子は、槍を使って虎を仕止めるという凄いことをやってのけた。
インドにはインド・レスリング(軽刈田註:クシュティのことか?)という古来からの格闘技があり、これは、かれが生まれたパンジャブ地方で最も盛んに行われており、かれは少年時代からそのチャンピオンであった。
インドには様々な種族がいるが、かれはその中で最も勇猛で戦闘の精神に富んでいるといわれるシーク族であり、彼の父のサルタンは、その族長でもある」
虎狩りに関する記述はエキゾチックな個性を際立たせるための罪のない創作だろうが、それ以外もシク教徒を「シーク族」と表していたり、イスラームの王である「サルタン(スルターン)」という言葉が使われたりと全体的に滅茶苦茶な文章である。
ゴングの記者もそこには気づいていたようで、このあと「サルタンというのはトルコ・ペルシア(イラン)の土侯のことでインドではサルタンとはいわない」と冷静に突っ込みを入れている。
(ちなみにシンの父親は実際には軍人で、少佐まで務めた人物であることが分かっている)
シンのプロレス入りの経緯に関しても、さらに不思議な記述が続く。
「シンはインドのデリー大学で電子工学を学び、父のサルタンの命でカナダのモントリオールにあるマックギル大学(原文ママ。マギル大学と表記されることの多いMcGill Universityだろう)に留学してきたのだ。それは1963年の夏である。シンはマックギル大学で弱電の勉強をして1967年に卒業している。だが、シンはこの大学時代にレスリングをやり、プロレスリングという闘争の世界があることを知った。
かれはモントリオールの試合場で知り合ったフレッド・アトキンスにすすめられて、試しにプロレスをやってみることになった。…」
Wrestling Revueの記事によると、シンは、「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームでデビューしたが、初戦ではアフリカ系アメリカ人レスラーのスウィート・ダディ・シキ(Sweet Daddy Siki)と戦って敗戦。
だが、「15キロのオモリのついた鉄のヘッドギアをつけ、10キロのオモリのついた足カセをはめて運動」し、「インドではプールの中に泥と油を入れて、その中でレスリングの練習をし」ていたというシンは、名伯楽フレッド・アトキンスのもとで、遠からぬうちに世界的レスラーになるだろう、と評価されている。
年号や大学名が明記された学歴は妙にリアリティがあるが、これはシンがインタビューで語っていた「6ドルだけをポケットに入れてインドから海を渡ってきた」という経歴とは全く異なる。
おそらくだが、これは「トロントでのベビーフェイス・レスラーとしてのシン」の創作されたプロフィールではないだろうか。
シンをプロレスラーとしてスカウトしたフランク・タニーは、今後カナダで増え続けるであろう南アジア系移民のマーケットを意識していたという。
シンを売り出してゆくにあたって、「出稼ぎ移民の息子」よりも「名家出身のエリートにして、レスリングの天才」という肩書きのほうが人気が出ると考えたとしても、不思議ではない。
ちなみにwww.wrestlingdata.comの記録によると、シンのデビューは1967年ではなく、「正史」同様に1965年。
場所こそ同じトロントのメイプルリーフ・ガーデンだが、Jeet Singhのリングネームで9月16日にStamford Murphyというオーストラリア出身のレスラーと対戦し、4分12秒で勝利したことになっている。
だが、何よりも気になるのは、この記事のタイトルにも使われている「ヒンズー・ハリケーン」である。
この記事には、「ダーネル記者によればシンはこの第一戦でヒンズー・ハリケーンを名乗ってデビューした」とはっきりと書かれている。
シンは、英語での記録にはいっさい残されていない「ヒンズー・ハリケーン」という名前を本当に使っていたのだろうか。
その答えには、以下の3つの可能性があるように思う。
どこの馬の骨かもわからないインド系レスラーだったシンは、トロントでめきめきと頭角を現してきた。
地域ごとに様々なプロモーターや団体が林立していた当時、トロントは北米のマット界では辺境の地だったはずだ。
シンをいよいよ全米のマーケットで売り出すにあたり、「移民の息子」ではつまらないし、エキゾチックさを前面に出した怪奇派のヒールでは、すでにザ・シークという圧倒的な存在がいる。
そこで、北米マット界では珍しいインド系レスラーをアピールするために「金のために戦う必要などないのに、類まれな才能を持て余してリングに身を投じたサルタンの御曹司」というストーリーが考えられた可能性は否定できない。
来日後にシンが「狂気のヒール」という徹底して「演じた」ことを考えれば、彼が自身のイメージ作りに手間とアイデアを惜しまないのは明白である。
(ちなみに1976年当時、すでに日本でもシンが裕福であることは知られていたようで、この記事でも、ゴングの記者によって「タイガー・ジェット・シンがシーク族の名門の出であり、パンジャプ地方に広大な土地を持つ財産家で、現在はトロントの郊外にお城のような豪邸を構えて貴族的生活をおくっていることは周知のこと」と書かれている。)
シンの「作られたプロフィール」はこれで終わりではない。
さらに異なる説を唱えているのは、1980年代の全日本プロレスでジャンボ鶴田とタッグを組み「五輪コンビ」として活躍していた谷津嘉章である。
谷津は、このYouTube動画の中で、シンにプロレス入りのきっかけを「地元のプロレス興行にエキシビジョンとして参加していたところを、たまたま見に来ていたフレッド・アトキンスにスカウトされた」と説明されたと語っている。
これまた「正史」とは異なるエピソードで、いくらなんでもフレッド・アトキンスがインドのパンジャーブまでプロレスを見に行くことはないと思うが、日本で「狂気のヒールレスラー」として活躍するうえでは、今度は「サルタンのエリート御曹司」ではイメージが合わないため、シンがとっさに苦し紛れに作り出したプロフィールなのかもしれない。
それにしても、レスラー仲間の谷津にまで、作られた来歴を語っているというところに、シンの並外れたプロ根性を感じる。そう考えると、この「ヒンズー・ハリケーン」も、シンが怪奇派ヒールレスラーとしてのキャラクターのために作りあげた架空の存在ように思えてくる。
日本向けに創作されたプロフィールがスペイン語圏にも伝わった一方で、アメリカやカナダのマット界の一次資料へのアクセスが容易な英語圏では、根拠のない「シン=ヒンズー・ハリケーン説」は広まらなかった。
こう考えるとつじつまが合う。
だが、さらに調査を続けてゆくと、シン来日前に、日本のプロレス誌に「まだ見ぬ強豪」として「ヒンズー・ハリケーン」というレスラーが掲載されていたという情報にたどり着いた。
たとえば、このブログではワニにヘッドロックを決める(なんだそれ)タイガー・ジェット・シンらしき男に「ヒンズ・ハリケーン」のキャプションが付けられた記事が紹介されている。
「ヒンズー・ハリケーン」はやはり実在していたようなのだ。
他のウェブサイトの情報も総合すると、どうやら「ヒンズー・ハリケーン」の名前が掲載されていたのは、1969年から1970年にかけての「月刊ゴング」だったようだ。
シンの初来日は1973年であり、さすがにこの時期から日本向けに怪奇派ヒールとしてのキャラクター作りがされていたとは考えにくい。
前述のwww.wrestlingdata.comでは、1969年3月から1970年の11月までのシンの試合の記録がすっぽりと抜けている。
とすると、この時期、シンは記録の残っていない東南アジア(香港、シンガポール)かオセアニアのリングで戦っていた可能性が高い。
シンガポールはカナダ同様にインド系移民の多い国だが、パンジャーブ系よりも南インドのタミル系の移民が多く暮らしている(シンガポールのインド系住民の約半数がタミル人)。
シク教は北インドのパンジャーブ地方発祥の宗教なので、南インドにルーツを持つタミル人には馴染みがない。
賢いシンが、この地で戦うときに、いかにもパンジャーブのシク教徒らしいJeet Singhではなく、Hindu Hurricaneというリングネームを選んだとしても不思議ではない。
シンの新日本プロレスへの来日は、香港で彼のファイトを見た貿易商が猪木に推薦したことだと言われている。
「ヒンズー・ハリケーン」は、シンの東南アジア限定のリングネームだったとすれば、地理的に近い日本にのみその情報が伝わり、英語圏では全く知られていないということも説明できる。
シンが信仰するパンジャーブ地方発祥の宗教、シク教徒は、コミュニティの高い結束力を持つことで知られている。
シンは後に、やはりインド系移民の多い南アフリカのプロレス界のブッカーとして活躍することになるが、こうしたリング外での活躍の裏には、世界中に広がるシク・コミュニティのネットワークがあったはずだ。
この時期のオセアニア、シンガポール、香港(いずれもインド系移民の多い土地だ)などへの遠征も、そのネットワークを利用して行われたに違いない。
そう考えると、シンがカナダでデビューする前にシンガポールでデビューしていた可能性も、否定できないのだ。
シンが故郷のパンジャーブでクシュティ(インド式レスリング)のトレーニングをしていたことは間違いなく、北米ほどレスリングのレベルの高くないシンガポールに何かの用事で立ち寄った際に(それは、カナダに渡る道中のことだったかもしれないし、いったんカナダに渡ったあとの1964年、あるいは65年だったかもしれない)、リングに上がったということも考えられる。
シンガポールデビュー説も、デマだと一蹴することはできない何かがあるのだ。
さらに深まる謎
これで、シンの初期のキャリアに関する謎に一通りの答えらしきものを出すことができた。
そう思っていた矢先に、再び興味深い情報を入手してしまった。
この記事を仕上げるにあたって、神田の古本屋で、「これが猛虎タイガー・ジェット・シンの意外な正体!」という特集が掲載された「月刊ゴング」1976年9月号を購入したのが運の尽きだった。
そこに書かれていたのは、これまでの考察とは全く異なるシンのプロフィールだった。
この記事が描かれた当時、タイガー・ジェット・シンは新日本プロレスに早くも7度目の来日中だった。
「アジア・リーグ戦」に出場し、8月5日には蔵前国技館でアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級タイトルに挑戦しようという、脂の乗りきった時期である。
この特集では、アメリカのWrestling Revue誌の1968年1月号に「アール・ダーネル」なる記者が書いた5ページにわたる「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事を引用する形でシンのプロフィールを紹介している。
「ダーネル記者によれば、シンは1967年11月末に突如、カナダのマットに出現した。この時、シンは25歳というから現在は34歳ということになる。
シンがいきなり登場したのはカナダのトロントのメープルリーフ・ガーデン。以来、現在までシンはホーム・リングを変えていない(このへんはインドレスラーの堅実さだ)。」
のっけからフレッド・アトキンスのもとで修行し1965年にデビューしたという「正史」とは異なる記述で始まっていて驚くが、著者はWrestling Revueの記事をさらに引用して続ける。
「かれは、インドのパンジャプ(原文ママ。以下同)の名家の出身で父はサルタンであった。かれには、父からパンジャプ地方に4000エーカーという想像もつかないような広大な土地が残されており、かれがレスリングという格闘技に必要以上に興味さえ持たなければ、かれはサルタンのプリンスとして多くの召使いにかしずかれる身分であった。
ところが、かれは少年時代から恐ろしく強かった。十四歳の時に父のサルタンと一緒に象にのって虎狩りに行き、この貴族の息子は、槍を使って虎を仕止めるという凄いことをやってのけた。
インドにはインド・レスリング(軽刈田註:クシュティのことか?)という古来からの格闘技があり、これは、かれが生まれたパンジャブ地方で最も盛んに行われており、かれは少年時代からそのチャンピオンであった。
インドには様々な種族がいるが、かれはその中で最も勇猛で戦闘の精神に富んでいるといわれるシーク族であり、彼の父のサルタンは、その族長でもある」
虎狩りに関する記述はエキゾチックな個性を際立たせるための罪のない創作だろうが、それ以外もシク教徒を「シーク族」と表していたり、イスラームの王である「サルタン(スルターン)」という言葉が使われたりと全体的に滅茶苦茶な文章である。
ゴングの記者もそこには気づいていたようで、このあと「サルタンというのはトルコ・ペルシア(イラン)の土侯のことでインドではサルタンとはいわない」と冷静に突っ込みを入れている。
(ちなみにシンの父親は実際には軍人で、少佐まで務めた人物であることが分かっている)
シンのプロレス入りの経緯に関しても、さらに不思議な記述が続く。
「シンはインドのデリー大学で電子工学を学び、父のサルタンの命でカナダのモントリオールにあるマックギル大学(原文ママ。マギル大学と表記されることの多いMcGill Universityだろう)に留学してきたのだ。それは1963年の夏である。シンはマックギル大学で弱電の勉強をして1967年に卒業している。だが、シンはこの大学時代にレスリングをやり、プロレスリングという闘争の世界があることを知った。
かれはモントリオールの試合場で知り合ったフレッド・アトキンスにすすめられて、試しにプロレスをやってみることになった。…」
Wrestling Revueの記事によると、シンは、「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームでデビューしたが、初戦ではアフリカ系アメリカ人レスラーのスウィート・ダディ・シキ(Sweet Daddy Siki)と戦って敗戦。
だが、「15キロのオモリのついた鉄のヘッドギアをつけ、10キロのオモリのついた足カセをはめて運動」し、「インドではプールの中に泥と油を入れて、その中でレスリングの練習をし」ていたというシンは、名伯楽フレッド・アトキンスのもとで、遠からぬうちに世界的レスラーになるだろう、と評価されている。
年号や大学名が明記された学歴は妙にリアリティがあるが、これはシンがインタビューで語っていた「6ドルだけをポケットに入れてインドから海を渡ってきた」という経歴とは全く異なる。
おそらくだが、これは「トロントでのベビーフェイス・レスラーとしてのシン」の創作されたプロフィールではないだろうか。
シンをプロレスラーとしてスカウトしたフランク・タニーは、今後カナダで増え続けるであろう南アジア系移民のマーケットを意識していたという。
シンを売り出してゆくにあたって、「出稼ぎ移民の息子」よりも「名家出身のエリートにして、レスリングの天才」という肩書きのほうが人気が出ると考えたとしても、不思議ではない。
ちなみにwww.wrestlingdata.comの記録によると、シンのデビューは1967年ではなく、「正史」同様に1965年。
場所こそ同じトロントのメイプルリーフ・ガーデンだが、Jeet Singhのリングネームで9月16日にStamford Murphyというオーストラリア出身のレスラーと対戦し、4分12秒で勝利したことになっている。
だが、何よりも気になるのは、この記事のタイトルにも使われている「ヒンズー・ハリケーン」である。
この記事には、「ダーネル記者によればシンはこの第一戦でヒンズー・ハリケーンを名乗ってデビューした」とはっきりと書かれている。
シンは、英語での記録にはいっさい残されていない「ヒンズー・ハリケーン」という名前を本当に使っていたのだろうか。
その答えには、以下の3つの可能性があるように思う。
- 仮説その1:「ヒンズー・ハリケーン」はリングネームではなく、シンのキャッチコピーであり、もとの記事で代名詞的に使われていたものを、ゴングの記者が誤訳してしまった。デビュー戦の記述以外でヒンズー・ハリケーンという言葉が使われているのは「ヒンズー・ハリケーンことタイガー・ジェット・シンは、(中略)フレッド・アトキンスの手で厳しく育てられており」「カナダのマットへ……まさにその仇名ヒンズー・ハリケーン(インドの台風)のように登場したのだ」という箇所のみであり、リングネームというよりはシンの「別名」のような印象を受ける。デビュー戦のところで「名乗って」と訳された部分も、正式なリングネームではなく、「あだ名/称号」のようなものだった可能性もあるだろう。そもそも「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事のタイトルも、リングネームというよりはキャッチコピーを思わせる。
- 仮説その2:実際にシンがHindu Hurricaneというリングネームを名乗っていた。しかしこのリングネームはすぐに変えられてしまい、記録上はJeet Singh,またはTiget Jeet Singhとなっている。来日前のシンは、チャンピオンベルト獲得歴があるとはいえ、トロントのローカル・レスラーにすぎなかったため、カナダやアメリカのプロレスファンも、その経歴を詳しく追っておらず、英語圏のウェブサイトにも掲載されていない。
- 仮説その3:アール・ダーネル記者とシンのいずれか、あるいは両方が共犯して、本来のプロフィールを隠し、新しいキャラクターを定着させるために、「ヒンズー・ハリケーン」なる架空のリングネームと、「サルタンの御曹司」というストーリーを作り上げた。
どこの馬の骨かもわからないインド系レスラーだったシンは、トロントでめきめきと頭角を現してきた。
地域ごとに様々なプロモーターや団体が林立していた当時、トロントは北米のマット界では辺境の地だったはずだ。
シンをいよいよ全米のマーケットで売り出すにあたり、「移民の息子」ではつまらないし、エキゾチックさを前面に出した怪奇派のヒールでは、すでにザ・シークという圧倒的な存在がいる。
そこで、北米マット界では珍しいインド系レスラーをアピールするために「金のために戦う必要などないのに、類まれな才能を持て余してリングに身を投じたサルタンの御曹司」というストーリーが考えられた可能性は否定できない。
来日後にシンが「狂気のヒール」という徹底して「演じた」ことを考えれば、彼が自身のイメージ作りに手間とアイデアを惜しまないのは明白である。
(ちなみに1976年当時、すでに日本でもシンが裕福であることは知られていたようで、この記事でも、ゴングの記者によって「タイガー・ジェット・シンがシーク族の名門の出であり、パンジャプ地方に広大な土地を持つ財産家で、現在はトロントの郊外にお城のような豪邸を構えて貴族的生活をおくっていることは周知のこと」と書かれている。)
シンの「作られたプロフィール」はこれで終わりではない。
さらに異なる説を唱えているのは、1980年代の全日本プロレスでジャンボ鶴田とタッグを組み「五輪コンビ」として活躍していた谷津嘉章である。
谷津は、このYouTube動画の中で、シンにプロレス入りのきっかけを「地元のプロレス興行にエキシビジョンとして参加していたところを、たまたま見に来ていたフレッド・アトキンスにスカウトされた」と説明されたと語っている。
これまた「正史」とは異なるエピソードで、いくらなんでもフレッド・アトキンスがインドのパンジャーブまでプロレスを見に行くことはないと思うが、日本で「狂気のヒールレスラー」として活躍するうえでは、今度は「サルタンのエリート御曹司」ではイメージが合わないため、シンがとっさに苦し紛れに作り出したプロフィールなのかもしれない。
ここまでお読みいただければ、もうお分かりだろう。
シンは、その時々に応じて、自分をもっとも魅力的に輝かせるためのプロフィールをいくつも用意しているのだ。
一流のレスラーにとって、自分を演出する能力は必要不可欠なものだ。
ある時は、武勇の誉れ高きサルタンの御曹司。
ある時は、移民の立場から身を起こした苦労人の成功者。
そしてある時は、インドでフレッド・アトキンスにスカウトされたインド・レスリングの天才にして狂気のヒール・レスラー。
初来日直後のシンが、猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件などを通して、完璧な狂気を演出していたのは、彼の才能がもっともよく活かされた例だろう。
そう考えると、カナダのテレビ番組で語っていた「たった6ドルを握りしめて海を渡ったインド系移民」という、彼の「正史」すらも、本当かどうか疑わしくなる。
「貧しい移民が叶えたカナディアン・ドリーム」としては、あまりにも出来すぎたイメージだからだ。
実際、そのインタビューで「必死に戦っても月に100ドルしか稼げない状況を見た父親にパンジャーブに連れ戻され、地元で結婚生活を送っていた時期」とされる1969年から70年にかけても、シンはアジア各地を転戦していた可能性がある。
彼は、自分をどう見せれば、もっともアピールできるかが分かっているのだ。
間違えて欲しくないのは、私は何も「シンは経歴詐称ばかりしている疑わしい人物だ」と言いたいのではない。
彼が非の打ちどころのない紳士であることは多くの関係者が語っているし、東日本大震災の被災者支援や、彼が地元で行っているドラッグ依存症撲滅のための活動からも、彼が立派な人物であることは疑う余地がない。
私はシンの完璧なまでのプロ意識を称えたいのだ。
シンはかつて、本物の狂気を感じさせる極悪ヒールとして我々を怖がらせ、楽しませたが、その裏側には、かくも巧みな自己演出があったのである。
招待していないのに新日本プロレスに参戦していた狂気のヒールも、貧しさから努力で成り上がった移民の息子も、幼くして虎狩りを成功させたスルタンのエリート御曹司も、それぞれに魅力的なストーリーだし、またいかにも昭和のプロレスらしい虚構と現実が一体となったたまらない味わいがある。
結局、シンがどのようにしてプロレスに出会ったのか、いつ、どうやってデビューして、そして「ヒンズー・ハリケーン」とは何だったのか、調べれば調べるほど、謎は深まるばかりだった。
それでも、彼のプロレスラーとしての偉大さについては、これまで以上に理解できたつもりだ。
タイガー・ジェット・シン、それにしても、魅力の尽きない男である。
その他参考サイト:
https://www.nriinternet.com/NRIwrestling/CANADA/A_Z/T/Tiger_Jeet_Singh/Bio.htm
https://www.indiatoday.in/magazine/international/story/19920630-wrestling-pro-tiger-jeet-singh-hans-carves-out-twin-careers-and-an-expanding-empire-766517-2013-01-08
https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=4854
https://sites.google.com/site/wrestlingscout/profiles-by-country/profiles/tjsingh
ジャンル別記事一覧!