インド北東部アルナーチャル・プラデーシュ州で今起きていることバジュランギおじさん/ヒンドゥー・ナショナリズム/カシミール問題とラッパーMC Kash(前編)

2019年03月01日

早すぎたインド系ラッパーたち アジアのPublic Enemyとインドの吉幾三、他

先日の記事で、南アジア系移民たちによるDesi hiphopを起点としたインドのヒップホップシーンの歴史について書いてみたが、Desi hiphop以前にも南アジア系のラッパーがいなかったわけではない。

まずイギリスに目を向けると、パキスタン系イギリス人Aki Nawazを中心に1991年に結成されたFun-Da-Mentalというグループがいる。
彼らは1992年に"Janaam", "Gandhi's Revenge"の2枚のシングルをリリースしてシーンに登場した。
Desi hiphopの第一人者といわれるBohemiaのデビューが2002年だから、彼よりも10年も早かったということになる。

中心人物のAkiは、Fun-Da-Mental結成以前、のちのゴシックロックバンドThe Cult(念のため書くと、イアン・アストベリーのあのThe Cultだ!) の前身Southern Death Cultのドラマーを務めていたというから、Queenのフレディ・マーキュリーのように、南アジア系移民の中でも若い頃からロックに親しんだ暮らしを送っていたのだろう。
しかし、その後の活動は、南アジア系のルーツから距離を置いてブリティッシュ・ハードロックの道に進んだフレディとは大きく異なっている。

Fun-Da-Mentalは、アメリカの急進的な黒人運動ブラック・パンサーの影響を受けた反人種差別や、イスラームの擁護、反アメリカ主義をテーマにラップする非常に政治的・社会的なバンドで、そうした姿勢から、アメリカの政治的ヒップホップユニットになぞらえて、'Asian Public Enemy'とも呼ばれた。

1994年のファーストアルバムのタイトルトラック"Seize the Time".

今聴くとちょっととっちらかった印象だが、伝統音楽のサンプリングという後年の南アジア系ヒップホップのスタイルがこの時点ですでに確立されていることが分かる。

1998年にリリースされたアルバム"Erotic Terrorism"からの"Ja Sha Taan"はカッワーリーとヒップホップとロックの融合!貴重なライブ映像を見つけた。
 

彼らに続くUKの南アジア系政治的ラップ・バンドとしては、よりダンサブルで音楽的ミクスチャーを進めたAsian Dub Foundation(1995年デビュー)が日本でも人気だが、だんだんヒップホップから離れてくるので今回は割愛。
この系統のアーティストは、その強すぎる政治性からか、その後大きな潮流とはなっていないようだが、南アジア系の音楽と社会運動が結びついた初期の例としても大きな意味があるように思う。


さて、本国インドはどうかというと、こちらもまた強烈なアーティストがいる。
Fun-Da-Mentalよりもさらに早い1990年にデビューしたBaba Sehgal(本名Harjeet Singh Sehgal)は、ウッタル・プラデーシュ州ラクナウ出身の「インドで最初のラッパー」とも「最初のヒンディー・ラッパー」とも言われるアーティストだ。
インド本国でバングラー系ラップが流行しだすのが2010年頃からであることを考えると、いかに彼が早かったかが分かるだろう。

彼は在英インド系レゲエ・アーティストのApache Indianの影響で音楽活動を開始したというが、後進的というか保守的なウッタル・プラデーシュでどうやって海外の音楽に触れたのかとか、機材の使い方や音楽の作り方をどう学んだのかとか、そのキャリアの初期にはよくわからない部分が多い。
そもそも、Apache Indianに影響を受けて音楽を始めたと言っているのに、そのApache Indianと同じ年にデビューしているのも解せない。
名前を見ると彼もまたパンジャーブ系のようなので(Apache Indianもだ)、移民と本国とをつなぐパンジャーブ・コネクションがあって、彼に誰よりも早く最先端の音楽をもたらしたのだろうか。

とにかく、彼は大学卒業後、デリーで電気技師として働きながら本格的に音楽活動を始めた。
1990年にリリースした"Dilruba"、1991年にリリースした"Alibaba"が思うようにヒットしなかった彼は、一念発起してムンバイに拠点を移すと、1992年にリリースしたサードアルバムの"Thanda Thanda Pani"が大ヒット。
一躍スターとなった彼だが、当時はまだ電話のない家に住んでいたため、隣の通りのパーン(インドの噛みタバコ)ショップが連絡先で、電話が来ると店の子供が彼を呼びに来ていたという。
(もとの記事では"Gully"という言葉が使われていた。そういう意味では、彼は最初のHiphop Gully Boyと呼べるかもしれない。いずれにしてもインドのヒップホップはムンバイのGullyで生まれたのだ)

"Thanda Thanda Pani"から、'Cool Cool Water'という意味のタイトルトラック。

Queen & David Bowieの"Under Pressure"をサンプリングしたVanila Iceの"Ice Ice Baby"をさらにパクったというなんだかすごい楽曲。
このアルバムの売上枚数については、記事によって3万枚から50万枚までかなり開きがあるが、とにかく当時の大ヒットとなったことは間違いないようだ。

同じアルバムから"Dil Dhadke".

当時のインドにしてはえらくかっこいいトラックが始まったと思ったら、曲が始まった途端に吉幾三みたいな感じでずっこける。

いろんな記事を読むと、どうも彼は今のインドのオシャレな音楽ファンからは、古いというかダサいというか、あまり好意的に受け止められていないようで、このブログで連載している「インドのインディー音楽史」にも入っていないし、まさに日本のラップ史における吉幾三の「おら東京さ行くだ」的な存在なのかもしれない。

その後、映画音楽を含めた何枚かのアルバムをリリースした後にヒンディー語圏の音楽シーンから姿を消した彼は、南インド(テルグ語)映画のプレイバックシンガーに活動の場を移した。

すっかり過去の人となっていた彼は、2015年に自身のYoutubeチャンネルを開設してカムバックすると、この"Going To The Gym"が久しぶりのヒットとなり、フェスティバル等にも出演するようになる。

ちょっと松平健にも似ているような気がするが、ちょうどマツケンサンバのように、彼の音楽をキッチュなものとして楽しめる土壌がインドにできてきた、といったところだろうか。

(Baba Sehgalの半生については主にこれらのサイトを参考にしました。
http://www.vervemagazine.in/people/mapping-the-unique-trajectory-of-baba-sehgals-success
https://www.indiatoday.in/magazine/society-the-arts/story/19921130-thanda-thanda-pani-hots-up-the-hindi-rap-scene-767167-2012-12-21

 
映画音楽の分野では、A.R.Rahmanが1994年のタミル語映画"Kadhalan"のために作った"Pettai Rap"あたりがインドで最初のラップ・ソングということになりそうだ。

こちらもインド音楽の要素を取り入れたオールドスクール風の曲で、これはこれで結構かっこよく、さすがRahmanといった出来栄え。
バンガロールのラッパー、Brodha Vが初めて聴いたラップとして挙げているこの曲は、世界初のタミル語ラップでもあるかもしれない。
まさか当時はインド各地にストリートラップシーンができ、ボリウッドスター主演のヒップホップ映画が大ヒットする時代が来るとは誰も思っていなかったことだろう。

インドではちょうど昨日、世界最大手の音楽ストリーミングサービスSpotifyが使用できるようになり、音楽メディアはその話題で持ちきりだ。
よりいっそう世界の音楽にアクセスしやすくなったインド。
きっともう5年、10年したらシーンの様相もまたすっかり変わっているのだろうなあ。
ますます楽しみになってきた。

それでは今回はこのへんで!


--------------------------------------
「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」

更新情報や小ネタはTwitter, Facebookで!


凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ! 

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
インド北東部アルナーチャル・プラデーシュ州で今起きていることバジュランギおじさん/ヒンドゥー・ナショナリズム/カシミール問題とラッパーMC Kash(前編)