2025年09月25日

2025年秋〜冬 インドのフェス情報!


2026年の1月24-25日に行われるLollapalooza India、2025年11月22日-23日に行われるRolling Loud Indiaのラインナップが相次いで発表された。
会場はどちらもムンバイで、Rolling Loudのほうは正確にはムンバイの20キロほど東に位置するナヴィ・ムンバイで開催される。
どちらも発表されたのは結構前なのだが、忙しさにかまけて記事にするのが遅くなってしまった。
これがかなり面白い顔ぶれだったので、あらためてここに書いてみたい。


LollaIndia2026

先に発表されたLollapalooza IndiaのヘッドライナーはLinkin ParkとPlayboi Carti.
Linkin Parkは30代くらいのインドの洋楽ファンにはかなり人気があるようで、私の記憶だと、キャリア10年以上のインドのラッパーには、ヒップホップではなくLinkin Parkでラップに目覚めたという人が結構いたりする。
Linkin Parkは言うまでもなく2000年代を代表するロックバンドだが、インドでの公演は初めて。
これは絶対に盛り上がるだろう。

Playboi Cartiはアトランタ出身のラッパーで、2010年代終盤以降のUSヒップホップのサウンド、雰囲気、ファッションなどを決定づけた一人。
インドのヒップホップは多様化、ローカル化がかなり進んでいて、Playboi Cartiのような新しいタイプのUSヒップホップのファンがどれくらいいるのか想像がつかないが、英語による教育が盛んで、ネイティブ同様に英語を理解する人が多いインド(とくにムンバイ)には、英語でラップを聴いて理解して楽しめるヒップホップファンも多い。
ジャンルもスタイルも時代背景もまったく異なる二人のヘッドライナーがどんなパフォーマンスにムンバイのオーディエンスがどんな反応を見せるのか、かなり興味深いところだ。

日本人として気になるのはセカンド・ヘッドライナー扱いで藤井風の名前が挙がっていること!
藤井風はヨーロッパツアーを成功させるなど、海外での評価も非常に高い。
インドでの彼の知名度は、さすがにヘッドライナーの2組には及ばないだろうが、彼とインドには特別な関係がある。
Lollapalooza Indiaの公式インスタグラムでの彼の紹介がとても面白かった。

スクリーンショット 2025-08-31 21.17.30

ジャズ、ファンク、ソウル、エレクトロニックの影響をブレンドした彼のサウンドは遊び心があり、深い。(中略)彼の歌詞は仏教とインド哲学の不二一元論(Advaita Vedanta)がもとになっている。彼の「Grace」のミュージックビデオはインドで撮影され、彼がインド文化への深いインスピレーションを受け、リスペクトを示していることが伺える。彼の哲学的かつ深く人間的な音楽へのアプローチは、全てのパフォーマンスを愛、慈悲、絆を祝福するスピリチュアルな体験のように感じられる。(後略)


一時期、藤井風の歌詞に、サイババの思想からの影響が見られるということが、日本で否定的に報じられたことがあった。
日本では「うさんくさい」と捉えられがちなスピリチュアル志向だが、ビートルズの例を出すまでもなく、海外ではオルタナティブな精神性はポピュラー音楽の一要素として長く存在している。
またインドの音楽文化には、神への思慕を男女の恋愛感情に例えて歌う伝統があり、つまり欧米よりもさらに古い時代から、スピリチュアルな要素がポップカルチャー的に生活に息づいていた国だと考えることもできそうだ。


また昨今のインドでは、「生きがい」や「一期一会」のような日本の伝統的精神性への興味も高まっている(スペイン人作家エクトル・ガルシアの著書による影響が大きい)。
そうした文化的背景のなかで、藤井風のスピリチュアリティがインド文化の影響を受けているというのは興味を惹くポイントだろう。
ところ変わればアーティストのどの部分が魅力になりうるかも大きく変わるというのがじつに面白いと感じた次第である


インド系のアーティストでは/インド系イギリス人のガラージ、ダブステップDJのSammy Virjiがもっと大きい扱いだが、音楽性にインドの要素のない彼は、日本人から見たスティーヴ・アオキみたいな感じというか、「同じルーツであることが誇らしい洋楽枠」といったところだろう。

純粋な国内組ではBloodywoodがもっとも扱いが大きい。
フジロックをはじめ数々の海外のフェスで話題をさらってきた彼らの実力と人気を考えれば納得だ。
昨今は映画音楽でも活躍しているエレクトロニカ・アーティストのOAFF x Savera、UKのタブラ奏者/エレクトロニカ融合の第一人者でもあるKarsh Kale(やはり映画音楽もいくつか手掛けている)から、チェンナイのオルタナティブポップ・アーティストSunflower Tape Machine、ナガランドのロックバンドTrance Effectまで、インド系アーティストも幅広い地域、ジャンルから選出されていて、かなり見応えがありそうだ。



Rolling Loud Indiaのラインナップも非常に興味深い。
RollingLoudIndiaLineup


2日間で2人ずつヘッドライナー扱いになっているのは、UKドリルという枠を超えてイギリスを代表する存在であるCentral Cee, 2010年代を象徴するUSラッパーのひとりWiz Khalifa、ヒューストン出身のDon Toliver.
ここまではいいとして、インドからパンジャービー・ラッパーのKaran Aujlaの名前がここに入っていることにびっくりした!
もちろん彼はインド国内のみならず、欧米やオセアニアでも大規模会場でのツアーを成功させる「国際的スター」だが、彼の国際的な人気は世界中に散らばったパンジャーブ人をはじめとする南アジア系住民によって支えられている面も否定できない。
「ベンガルール生まれテキサス育ちのケーララ人」で昨年"BIg Dawgs"を世界的にヒットさせたHanumankindを含めて、セカンドヘッドライナーまでのアーティストが全て「英語ラップ」のアーティストであることを考えると、いくら大スターだとはいっても、パンジャービー・ラップの彼がヘッドライナーとして扱われているのは意外な気がする。
昨年末のムンバイ滞在時にオージュラのコンサートを見に行ったが、客層はUSのヒップホップを聴いているようなファンとは異なり、インド国内(あるいは在外インド系を含む)のヒップホップやポップスを聴いている層が多かった印象だ。

パンジャービー系ラッパーは「インド系社会でのみヒップホップとして扱われる」という不思議な位置付けのジャンルで、たとえば香港発のアジア全域のヒップホップを扱うメディア「LiFTED ASIA」では取り上げられていなかったりもする。
(ちなみにパンジャービー・ラッパーでは初日にGrinder Gillも出演)
Yo Yo Honey SinghやBadshahのようなメインストリーム系パンジャービー・ラップではなく、カナダを拠点に逆輸入での人気を獲得したKaran Aujlaがここにラインナップされているというのがまた興味深いところではある。



他にインド系のアーティストでは、パンジャーブ系カナダ人だが、ローカル色を出さずに完全に北米ヒップホップシーンに溶け込んでいるNavは別にして、マラーティー・ラップのSambata、チェンナイのArivu、北東部からフィメール・ラッパーのMeba OfiliaとReble、タミル系シンガポール人のYung Rajaなど、幅広く選ばれている。

気になるのは、ラインナップされているのがインド系ラッパーとUS、UK、カナダのラッパーのみであるということ。
同じRolling Loudでも、タイで開催されているRolling Loud Thailandでは日本や韓国、インドなど、他のアジア諸国のラッパーが出演していたが、インドでは自国と英語圏のラッパーのみ。
このあたりは、ヒップホップファンがどの地域の音楽を好んで聴いているかと関係しているのだろう。

アジア全域のヒップホップが盛り上がってほしい一方で、リリックという要素が非常に大きいラップでは、言語の壁がそのまま人気の限界にもなりうる。
この点をヒップホップというジャンルがどう乗り越えてゆけるのか、あるいは乗り越えられないのか。

もうひとつ気になるのが、Rolling Loud Indiaの出演者が全体として非常に「新しい」ということ。
5年~10年前にインドのラッパーのインタビューを読むと、Eminemや50Centや2PacやNasといったラッパーの名前が挙がっていた印象が強いが、今回のラインナップは海外勢でも軒並み2015年以降の人気アーティストのみで組み上げられている。
いちばんキャリアが長いのが2010年ごろから活躍しているWiz Khalifaか。
「イマのヒップホップ」に特化しているという点では、YzerrのForce Festivalに近い。

インド国内のアーティストでは、前述のHanumankindを別枠として考えれば、DIVINEが特別扱いで最後に大きくクレジットされているが、彼もラップのスタイル的には古い世代になる。
レジェンド枠ということなのだろうか。
今回のラインナップに合いそうなのは、インド国内だとSeedhe Maut、MC STAN、Dhanji、あるいはポップなTsumyokiとかChaar Diwaariあたりだと個人的には思う。
他にも例えば…といろいろ言いたくなってしまうが、脳内フェスのラインナップを考え始めるときりがないのでやめておく。

集客や盛り上がりなど、どのような雰囲気になるのだろうか。
できれば現地で体験してみたいんだけどなあ。

ここにきて、インドではNH7 WeekenderとかVH1 Supersonic、Magnetic Fieldsのようなもともとあった国内資本のフェスは実質的に休止中?で、LollapaloozaやRolling Loudといったアメリカ発祥のフェスが大規模に行われるという状況になってきた。
それだけエンタメの本場であるアメリカがインドの市場に注目しているということでもあるのだろうが、今後、インドのフェス事情はどうなってゆくのだろうか。


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2025年08月15日

パンジャービー・ヒップホップと「放送禁止用語」をめぐる話題



Karan Aujlaが8月1日にニューアルバム"P-Pop Culture"からの先行シングルとなる新曲をリリースした。
プロデュースはパンジャービー音楽会でもっとも勢いのあるプロデューサーのIkky.
これが音楽的にも映像的にも、パンジャーブのかっこよさが、王道のブーンバップのビートと融合した非常にかっこいい仕上がりになっている。

Karan Aujla "Gabhru!"
 

タイトルの'Gabhru'はパンジャーブの田舎のスラングで「超かっこいい奴」みたいな意味で、若い男性に対して使われる言葉らしい。
今では国際的な大スターである(おもにパンジャービー・ディアスポラでの限定的な人気とはいえ)Karan Aujlaが、国際性や都会らしさを全面に押し出すのではなく、ローカルなスラングをタイトルに使い、故郷の村に帰ってくるという内容のミュージックビデオを出すというのは胸アツだ。

アルバムタイトルのP-Popというのがまた意味深だ。
インドのポップ(I-Pop)ではなく、パンジャーブのPを使っているということに、「俺はどんなに有名になっても地元を忘れないぜ」というパンジャービーの誇りを感じる。

少し前にはKratexが「M-House」と称してマラーティー語ハウスを作っていたが、やはりインドのアーティストにとって、帰属意識があるのは州や言語圏であって、インドという国ではないのだろう。

ところで、このミュージックビデオが公開された時、曲のタイトルは単なる"Gabhru!"ではなく、"MF Gabhru!"だった。
MFは言うまでもなく英語の'motherfxxking'の略で、「マジでやべえ」みたいな意味のスラングだ。
つまり、「マジでやばいくらい超かっこいい奴」というのがもとのタイトルだったわけだ。
ところが、この曲のタイトルが、ほどなくして"Gabhru!"に改められてしまった。

8月14日現在では、YouTubeや各種サブスク上でのタイトルは、全て"Gabhru!"に改められているようだ。
今のところ、YouTubeで見られるミュージックビデオでは、壁に書かれた'MF Gabhru!'という元のタイトルや、'I'm a motherfxxking gabhru!'と連呼するサビはそのままになっているようだ。
ところが、Spotifyでこの曲を聴くとサビの'MF'の部分が削除されており、そうすると不自然になってしまうので、'I'm a, I'm a, I'm a gabhru!」と繰り返すという、かなりマヌケというか不自然な処理がされている。

この変更の背景には、パンジャーブ州女性委員会によって、この歌詞が「女性に対する猥褻で侮辱的な表現」と断じられ、Karan Aujlaに出頭命令が下されたことがあるようだ。
ちなみにYo Yo Honey Singhの"Millionaire"という曲も、同時に同様の批判を受けている。

Yo Yo Honey Singh "Millionaire"


ほぼ1年前にリリースしたこの曲が、Karan Aujlaの新曲のリリースのタイミングで批判されるというのは完全なとばっちりだが、この曲は今の所YouTubeだけでなく、Spotifyでも'I'm a motherfxxking millionaire'という歌詞をそのまま聴くことができる。
Honey Singhはキャリア15年ほどのベテランなので、たとえば十代のファンは今はそんなにいないだろうから、悪影響もそんなにない、という判断なのだろうか。
それとも彼が言うことを聞いてないないだけなのか。

パンジャーブ州女性委員会(Punjab State Women's Commission)は、「このような言葉を使う者は容認できない。だから二人に出頭を要請した。これらの歌は発禁とする。歌手というのは社会の声だ。彼らは母親をとても愛していると歌っているのに、一方でこれらの曲では母親に対する侮辱的な言葉を使っている」というコメントを出している。
委員会はAujlaとHoney Singhにこうした歌詞が悪影響になると伝え、彼らは今後慎重になると回答したそうだが、果たしてどうなるだろう。

言うまでもなく、'motherfxxking'や'motherfxxker'という言い回しに「母親をファックする」という文字通りの意味があるわけではないので、彼らが母親への愛情を表すことと、こういうスラングを使うことは両立しうる。
彼らがこうした言葉を使うのは、例えば英語圏のヒップホップを基準にすればまったく違和感がないことだ。

一方で、インドのように保守的な価値観がまだ根強い国で、女性たちがこういう表現を批判するというのも理解できる。
インドの音楽シーンでは、Sidhu Moose Walaらの銃などに関する暴力表現に関しては比較的寛容(というか、禁止されたりはしない)なようだが、性表現に関してはまだまだ慎重な傾向がある。
インドではひどい性暴力のニュースも多いので、当然といえば当然のことだ。

パンジャーブで生まれ育ち、カナダでラッパー/シンガーとしてのキャリアを重ねてきた彼にしてみれば、今回の件は、単にふだん使っているような、ごく自然な表現を通して自分のプライドを表現したものなのだろう。
そこに女性蔑視の意図があったとは思わないが、こういうスラングを無意識に使うこと自体が差別的だと言われてしまうと、リアルなスラングと社会的規範のどちらを優先すべきか、悩ましい問題であるように思う。



ちなみにインドには英語のmotherfxxkerと同じ意味のmadarchodというスラングがある。
また「姉妹をファックする奴」という意味のbehenchodとか、英語の「Bワード」を意味するrandiというスラングもちゃんと(?)ある。
こうした表現は、ヒンディー語やベンガル語などの複数の言語に存在しているようだ。
メジャーアーティストは当然こういった単語をタイトルに使うことはないが、アンダーグラウンドではもちろん使われている。

Seabanksss "Kay Bagtho Badarchod"


この曲をやっているSeabanksssという人は完全にアンダーグラウンド(無名)なラッパーだが、マラーティー語ラッパーのSambataを彷彿とさせるふてぶてしいラップはなかなかかっこいい。
彼のインスタグラムのアカウントの紹介欄にはただ一言'SEX!'、YouTubeチャンネルには'SEXX IS DEATH'と書かれている。
お前はアホな中学生男子か!とツッコミたくなるが、アンダーグラウンドにこういう馬鹿で過激なアーティストがいるのはいいことだと思う。


The Zeest Band "BC Sutta"


彼らはパキスタンのカラチのバンドらしく、behenchodという言葉はそのまま書くのが躊躇われるようで、タイトルは"BC Sutta"と綴られている。

2005年にリリースされたこの曲は、喫煙を咎められる状況をコミカルに歌ったものらしく、MTVやラジオなどのメジャーな媒体ではまったく取り上げられなかったものの、大学のキャンパスなどで爆発的に拡散され、インドとパキスタンの両国の若者たちの「カルト・アンセム」になったという。

政治や宗教では分かり合えなくても、こういうバカでくだらないことをお互い楽しめるというのは、なんと健全なことだろうか。
これこそサブカルチャー、カウンターカルチャーの正しいあり方だと、マジで思う。



【追記】
2025年8月16日 YouTube版のタイトルに「MF」が戻ってきて、「MF Gabhru!」になった。もちろん音源は「motherfxxkin'」入りのままだ。
2025年8月22日 ついにアルバム"P-Pop Culture"がリリースされた。そしてなんとSpotify版のタイトルと音源にも「motherfxxkin'」が戻ってきた!
結局この騒動はなんだったんだろうか…。




参考サイト:
https://timesofindia.indiatimes.com/city/chandigarh/singers-karan-aujla-honey-singh-fail-to-appear-before-women-panel-seek-15-days-time/articleshow/123244442.cms

https://timesofindia.indiatimes.com/city/chandigarh/singers-karan-aujla-honey-singh-fail-to-appear-before-women-panel-seek-15-days-time/articleshow/123244442.cms

https://www.vice.com/en/article/bc-sutta-song-zeest-pakistan-band-india-millennials-90s-nostalgia/

https://zeest.wordpress.com/bc-sutta/


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2025年08月06日

パヤル・カパーリヤー監督の原点『何も知らない夜』は今見るべき作品



7月25日から公開されている昨年のカンヌ映画祭のグランプリ受賞作『私たちが光と想うすべて』の評判がとても良いようだ。



『私たちが光と想うすべて』を気に入った人にぜひ見てもらいたいのが、同作のパヤル・カパーリヤー監督の初長編ドキュメンタリー映画『何も知らない夜』だ。
カンヌ映画祭での「ルイユ・ドール」(最優秀ドキュメンタリー賞、2021年)や山形国際ドキュメンタリー映画祭での「ロバート&フランシス・フラハティ賞」(大賞、2024年)など、今作もさまざまな映画祭で高い評価を受けた作品である。



公開は8月8日から。
詳細は公式サイトで確認してほしい。



『何も知らない夜』は純粋な意味でのドキュメンタリーではない。
パヤル・カパーリヤー監督が友人たちと撮りためた映像や、インターネット上のニュース動画などを編集し、そこに「L」という架空の女子学生の独白を加えてストーリーを浮かび上がらせる今作は、フィクションとドキュメンタリーのちょうど中間に位置するようなスタイルの映画だ。
この設定だけ聞くと、なんだか映画学校の課題制作のように感じられるかもしれないが、静謐な映像美と編集がすばらしく、逆にこの作り方でこんなに明確な主題と緊張感のあるストーリーを持った映画が作れるのかと感心してしまった。


国立の映画学校「インド映画研究所(FTII)」の一室で、女子学生の「L」が、引き離された恋人に向けて綴った手紙が見つかった、というのがこの映画の導入部分だ。
物語としてのこの映画は、楽しげなダンスパーティーに向かう彼女が、恋人と会えない孤独や憂鬱を抱えている…というところから始まる。
普遍的な青春物語のように思えるが、この映画の背景には、いまだに続くカースト差別や、ナショナリズム(インドのマジョリティであるヒンドゥー教徒による宗教ナショナリズム)が台頭し寛容さを失う社会など、現代のインドが抱える社会問題が描かれている。

…こんなふうに紹介すると、まるでインド特有の事象を扱った地味な社会派映画のような印象になってしまうが、そう考えて自分には関係なさそうだと敬遠してしまうのは非常にもったいない(まあ地味な映画ではあるのは確かだけれど)。
優れた映画がいつもそうであるように、この作品は私の物語でもあり、あなたの物語でもある。

『私たちが光と想うすべて』をすでに観た人には、パヤル・カパーリヤー監督の虚構と現実を織り交ぜたストーリーテリングの巧みさについては説明するまでもないだろう。
『何も知らない夜』でも、『私たちが光と想うすべて』と同様に、私たちは現代インドの日常のなかに放り込まれ、登場人物たちの人生/生活を、観賞するというよりも、体験させられる。

「L」を通して、私たちは、特定の思想にもとづく国家権力が表現や学問の領域にまで支配の手を伸ばそうとしていたり、そうした空気の中でマイノリティが疎外され続けている現代のインドを体験する。
この映画の描かれていることは、日本を含めた世界中で現在進行形で起きていることとまったく変わらないということに気づくはずだ。

日本と異なるのは、そうした状況に対して、学生たちが積極的に行動を起こしているところだが、権力者がただ自由を求めている人々に対して「彼らは精神疾患が疑われる。彼らは反ヒンドゥーだ」と抑圧的な物言いをする場面なんて、どこの国でもまったく同じなのだなあとむしろ感動してしまうくらいだ。
為政者が差別に抗議して亡くなった学生を、「インドの子ども」と呼んで美談として納めようとするニュース映像も出てくるが、この全体主義を感傷で覆い隠したような疑似家族的な国家観も、私たちには見覚えがあるものだ。

「L」の手紙で語られる「映画編集者の私は時を繋がずにはいられない」という独白は、監督の映画作りにかける思いを吐露したものだろう。
それに続く「どの写真も現れたときと同じ速度で消えてゆく」という言葉からは、新しい報道とともに忘れられてしまう小さなニュースや、その渦中にいる市井の人々を、いなかったことにせずに丁寧に描くという監督の決意を感じた。
「L」に象徴されるような、無名の、そして無数の人々は、確かに存在している。
彼女たちの存在や、彼女たちが感じていた感情をもっとも効果的に伝えることができるのは、劇映画でもドキュメンタリーでもなく、その間にあるこの形式なのかもしれない。



独特のざらっとした映像は、今作ではモノクロームが中心。
観ているうちに50年前の8ミリ映像かなにかのような気がしてしまうが、登場人物がスマホを持っていたりすると、現代の話であることを思い出してどきっとする。
監督曰く、こうした映像は「私たちの多くが周囲の状況に対応することを余儀なくされている 『現在』 へのノスタルジー」であり「より公平で平等な社会のために闘うという、若くて良心的でロマンティックな考えへのノスタルジー」だそうだが、現代を相対化して見るような効果が感じられて、とても良かった。
社会的なテーマを扱ったドキュメンタリー的な映画でありつつも、「ジャーナリストの作品」ではなく、「芸術的な映画監督の作品」になっているところが、この映画の力強さにつながっている。

『私たちが光と想うすべて』の主要な登場人物が、映画の舞台であるムンバイから遠く離れたケーララ州の人物であったように、『何も知らない夜』の「L」も、FTIIがあるプネー(ムンバイと同じマハーラーシュトラ州にある都市)ではなく、インド東部の西ベンガル州の言語のベンガル語を母語としているという設定だ。
ベンガルはアジア人最初のノーベル賞受賞者である詩人のタゴールや、インド芸術映画の巨匠サタジット・レイを生んだことでも知られ、ケーララ州と並んで、インドのなかでも文化・芸術の香り高い土地でもある。
西ベンガル州は社会運動が活発な土地でもあるため、映画作りを学び、社会に声を上げることにも積極的な「L」のキャラクターにも、こうした地域性が反映されているのかもしれない。


ここから先は蛇足になるが、映画の中で説明されない背景を少しだけ説明すると、たびたび名前が出てくる「アンベードカル博士」は、カーストの枠外に位置付けられた被差別階級から身を起こし、インド憲法の草案の起草にかかわり、のちに法務大臣まで務めたビームラーオ・アンベードカルのこと。
彼の人生はカースト差別との戦いでもあった。
カーストによる差別はヒンドゥー教の穢れの思想にもとづくものであるため、彼は晩年に被差別階級の人々とともに仏教への集団改宗を行った。
こうした功績から、彼は今でもインドでは被抑圧者の抵抗のシンボルとして尊敬を集めている。



最後にもうひとつだけ。
この映画とも関連したテーマで、インディペンデント音楽を扱った25分のドキュメンタリー作品がYouTubeでも観られるので紹介したい。
デリーのレゲエDJのTaru Dalmiaがレゲエやスカといったジャマイカ音楽を使ってナショナリズムと対峙する様子を追った"India's Reggae Resistance: Defending Dissent Under Modi"というAl Jazeeraが制作した2017年の映像作品だ。



どちらかというと「静かに燃えさかる炎」といった趣きの『何も知らない夜』に対して、レベルミュージックを使った運動は対照的な動的なイメージがある。
レゲエというインドの大衆の好みからは遠いスタイルで活動する彼には、いくぶんドン・キホーテ的な印象も受けるが、映画や音楽といったカルチャーが、インドの地で、自由を守るための声を上げつづけているのを見ると、いつも勇気づけられる。
こうした表現者の「矜持」を感じさせてくれる作品を、これからも作りつづけられるインドであってほしい。




最後の最後に補足というか、蛇足の蛇足。
現代のカースト差別の根底には、伝統的な「穢れ」の概念にもとづくものだけではなく、被差別カーストに公立学校や公務員などの一定の採用枠(留保制度=reservationと呼ぶ)が設けられていることなどに対するマジョリティからの反発も存在している。
「あいつらが優遇されているせいで俺たちが我慢を強いられている」みたいな、どこかで聞いたことがあるような理屈が存在しているのだ。
また、いわゆるヒンドゥー・ナショナリズムの信奉者が必ずしもカースト差別を肯定しているというわけではなく、むしろ「同じヒンドゥーの仲間」としてヒンドゥー教内での序列であるカースト差別に反対し、彼らを包摂しようという動きもある。
それ自体は良いことなのだが、その一方でイスラームなどの別の宗教を排斥していたりするので根が深い問題だ。
このあたりは、少し古い本だが、中島岳志著の『ヒンドゥー・ナショナリズム: 印パ緊張の背景』(2002年、中公新書ラクレ)に詳しい。



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2025年07月29日

『私たちが光と想うすべて』とTopsheの音楽についても改めて紹介しておきたい



光栄なことに、『私たちが光と想うすべて』のパンフレットに寄稿する機会をいただいた。
でも、パンフレットを読むのは劇場で映画を見終わった人だけだろうから、このブログでも改めて簡単に紹介しておきたい。

今では色々なタイプのインド映画が日本で公開されているが、この作品はどの映画にも似ていない。
そして、たいへん素晴らしい。



パヤル・カパーリヤー監督の作品がカンヌ映画祭のグランプリ(最高賞パルムドールに次ぐ評価)を獲得したというニュースを聞いたのは、去年の5月のことだったと思う。
その時はまだ、『私たちが光と想うすべて』という、直訳ながらセンスの良いタイトルもなく、原題の『All We Imagine As Light』で認識していた。

近年のインドでは、いわゆる「歌って踊るマサラムービー」的な映画だけではなく、海外の映画祭で高く評価されるようなタイプの良作もたくさん作られている。
だから正直、インド映画がカンヌ初めて受賞したという知らせを聞いても、そんなに興奮もしなかったし、驚きもしなかった。

驚いたのはその後。
コルカタのシンガーソングライター、Topsheのインスタグラムを見ていたときだった。
彼はセンスの良いインディーポップを作っているのだが、インドでもほぼ無名な、知る人ぞ知る存在だ。
おそらく彼の活動拠点がインドの「公用語」であるヒンディー語圏のムンバイやデリーではなく、ベンガル語圏のコルカタであることが影響しているのだと思うが、彼の知名度は、作品のクオリティと比較して驚くほど低い。
彼が2019年にリリースしたEP"Never A Romantic"なんて、CDの時代だったら、タワレコの洋楽コーナーで10枚入りの試聴機の7番目くらいにずっと入っていそうな(伝わるかなあ、この感じ)、良い味のある作品なのに。

ともかく、そのTopsheが、「自分が音楽を手がけた映画がカンヌでグランプリを取ってうれしい」と投稿していたのだから驚いた。
自分が推していた無名なミュージシャンが、カンヌでグランプリを撮るような才能のある映画監督に起用され、広く知られるようになるというのは、他人事とはいえうれしいことだ。

カパーリヤー監督がTopsheを起用した理由が、Topsheがじつは彼女の片腕とも言える撮影監督の弟だったからという身も蓋もない話を聴いたときは、驚いたというよりも力が抜けた。
縁故採用だったのかよ。
それでも、この作品でTopsheが果たした役割は、ちょっとすごいものがある。

ふだんTopsheが書いているのは、ギター主体のヴィンテージなポップスに美しいハーモニーを乗せた曲だったり、どこか懐かしい感じのシンセポップだったりする。
英語詞なので洋楽風なのだが、どこか無国籍で、都市に暮らす空虚さや憂鬱を感じさせられる音楽だ。

(Topsheの音楽が気になった方はこちらからどうぞ)

ところが、この映画のために彼が書いたのは、いつものスタイルとはまったく違うタイプの曲で、アコースティックギターに哀愁のある口笛が乗っていたり、アンビエントっぽかったりする。
いかにもサウンドトラックっぽいというか、言ってしまえばかなり地味な曲だ。
サントラだけ聴いた時にはちょっと微妙な気分になったものだが、エンドロールまで見れば、この作品で彼がすごくいい仕事をしたということがわかるはずだ。

都会に暮らす、ある種の諦念と希望、さりげない喜びや矜持。人生を祝福したくなる瞬間。
Topsheの音楽がもともと持っていた繊細な感覚が、カパーリヤー監督の世界観と見事に共鳴している。
パンフレットに書いたのでここでは繰り返さないが、Topshe以外の選曲のセンスもすばらしい。
Spotifyに各種サブスクにプレイリストがあるので(たぶん他のサブスクにも)、興味を持った方は調べてみてください。
パンフに書いた以外で、ごく短いシーンに使われている楽曲も、ウクライナのlo-fi/アンビエント系アーティストだったり、アルゼンチンの電子音楽ユニットだったりと、多様なルーツを持った音楽を、現代の普遍的な都市生活者の情感へと昇華するセンスが素晴らしい。


音楽の話ばかりしていてもしょうがないので、映画のあらすじを紹介する。

ケーララ出身のプラバとアヌは、大都市ムンバイで看護師として働き、ルームメイトとして同居している。
真面目な性格のプラバは既婚者だが、夫はドイツに出稼ぎに出たままずっと連絡がない。
奔放なアヌにはムスリムの恋人がいるが、ヒンドゥー教徒の彼女の両親が交際を認めてくれるはずもなく、その存在を隠して暮らしている。
二人が働く病院の食堂に務めるパルバティは、高層ビル建築のために、住居からの立ち退きを迫られ、とうとう故郷の村に帰ることになる。
プラバとアヌは、パルバティの故郷の海辺の村まで彼女を見送りに行く。
そこは喧騒と混沌のムンバイとはまったく異なる、ゆっくりとした時間が流れる場所だった。
プラバもアヌも、村で過ごす時間のなかで、自分の人生を取り戻してゆく…。


こうして書くと、ものすごく地味な印象を受けるかもしれないが、ストーリーだけを追えば、まあ派手な映画ではないのは確かだ。
派手な映画には表現のできない、私たちの人生にもっと近くて、愛おしい感覚が、『私たちが光と想うすべて』には結晶のように込められている。
興奮や高揚感ではなく、悲しみとか喜びとかいう名前をつけることがぎりぎりできないような感情をなぞりながら、一瞬も退屈させずに観る者をストーリーに惹きつけてゆく手腕が素晴らしい。


冒頭に貼った予告編でも伝わったと思うが、湿気を含んだモンスーンのムンバイの空気感を伝える色彩と、独特のざらっとした質感の映像もいいし、音の使い方もすごくいい。
この映画に出てくるムンバイは、高層ビル街でも高級住宅街でもなく、混沌に満ちた下町なのだけど、その雑踏の喧騒に、本当にその場にいるかのようなリアリティが感じられる。
映画の一部を切り取ったこの動画を見てもらえれば、その感覚が伝わるものと思う。


ストーリーの背景には、家庭や社会のなかで押し付けられた役割が、いまだに女性の自由や幸福を奪っているというテーマがある。
ただ、それが遠い国の物語ではなく、自分自身にも見に覚えがある感情として伝わってくる。

出稼ぎの夫が帰らないとか、恋人と宗教が違うとかいった悩みは、ほとんどの日本人にはまったく馴染みのない世界の話だろう。
それでも、人間が心の奥底で感じる孤独とか憂鬱というのは、そんなに変わらない。
ここまで書いてきた魅力だけで、この映画は十分に見る価値があるのだけど、さらに言うと、この映画はそれだけじゃない。

先ほどあらすじに書いた先の部分で、監督の映画作家としての凄みが、一気に出てくる。
「自分の人生の伏線は自分で回収する」ということなのか、マジック・リアリズムなのか、よく分からないのだけど、すごく痺れる展開がある。

これ以上言葉を重ねるのも野暮な気がするので、ここから先は、どうか映画館で味わってみてください。


映画の背景の説明ももう少しだけ。
この映画は、ムンバイが舞台ではあるものの、登場人物のほとんどがケーララ出身者で、同州のマラヤーラム語を話しているという点が独特だ。
プラバ、アヌ、プラバに密かに想いを寄せるマノージ先生、アヌの恋人のシアーズがマラヤーラム語話者だ。
自分はてっきりパヤル・カパーリヤー監督もケーララの人だと思っていたのだが、彼女はムンバイ育ちだという。
自分の母語でない言語で映画を作ろうと思い立つのも、それでカンヌのグランプリを受賞してしまうのもすごい。ケーララ州は小さな州だが教育レベルが高いことで知られている。
マラヤーラム語映画といえば、近年では破茶滅茶ながらも哲学的でアートっぽさもある『ジャッリカットゥ 牛の怒り』とか、社会派の『グレート・インディアン・キッチン』が日本でも公開されている。
そういう流れがあったので、てっきりこの映画もマラヤーラム語ネイティブによる作品だと思っていた。
映画の冒頭に出てくるタイトルも英語とマラヤーラム語だったし。
この作品を見たケーララの人がどう感じたのか、気になるところではある。

このへんの背景は知らなくても十分に楽しむことができるのだけど、知っておくとまた感じ方が変わってくると思うので、一応書いておいた。



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2025年07月09日

ひとひねりが面白いタミル映画『マーヴィーラン 伝説の勇者』


7月11日公開のタミル語映画『マーヴィーラン 伝説の勇者』の試写を見てきた。

 

タミル映画を見るのは久しぶりだったのだが、「そうそう!タミル映画ってこうじゃなきゃね」という王道の部分と、「そうひねって来たか」という意外性の部分がいい感じに融合していて、とても面白かった。
もちろん「タミル映画って何?」という人も、よくできたエンタメとして思いっきり楽しめるはずだ。

ストーリーを公式サイトから転載して紹介する。



新聞の長期連載漫画「マーヴィーラン」の作者であるサティヤ。気弱な彼は、ゴーストライターとしての立場に甘んじるばかりか、人一倍負けん気の強い母イーシュワリの起こす騒動を収めるのに必死の毎日。そんなある日、住居のある地域一帯が開発対象となり、立ち退きを余儀なくされてしまう。新たな住処として提供された新築の高層マンションに一時は浮かれる一家だったが、そこは恐ろしい手抜き工事の元に建てられた「欠陥住宅」だった!

人を人とも思わない悪徳政治家ジェヤコディ一派が仕切る新築マンションの増築と開発。やがて彼ら一味の魔の手がサティヤの年頃の妹ラージに迫り、彼は意を決して立ち向かうが、すげなく返り討ちに遭ってしまう。自らが描き続ける“マーヴィーラン=偉大なる勇者”との姿のギャップに、屋上から絶望の淵を覗き込んだその後ー奇跡的に生還したサティヤの耳元で、勇壮な「声」が鳴り響くようになる。その声はサティヤを「勇者」と呼び、ジェヤコディを「死神」と呼ぶのだった。「声」の通りに行動すると、ジェヤコディの悪辣な顔が暴かれていくが、波風を立てるのが大嫌いなサティヤは「勇者」の立場を放棄すべく必死の抵抗に打って出る。果たしてサティヤは、真の「マーヴィーラン」として、民衆を苦しめる巨悪に立ち向かうことができるのか!?



監督は、マドーン・アシュヴィン。
今作は彼にとって、2021年に制作された『マンデラ』(日本では映画祭イベントで上映)に続く2作目の長編映画となる。
カースト制度と政治の問題を扱った社会派コメディの前作で、彼は2022年に国家映画賞新人監督賞と脚本賞を受賞している。


主演はシヴァカールティケヤーン。
タミル映画の人気俳優の一人で、日本ではこれまでに『レモ』(2016年。原題『Remo』)や『私の夢、父の夢』(2018年。原題『Kanaa』)といった主演作が映画祭などで上映されている。

今作も社会派といえる一面のある映画だが、コミカルな要素で笑わせつつ、派手なアクションシーンで魅せるという点では王道のタミル風エンタメ作品と言える。
面白いのは主人公がまったくヒーローっぽいキャラクターではなく、いわゆるのび太くんタイプの気弱な男だということ。
この気弱な主人公のサティヤが、彼が書いているマンガの主人公「マーヴィーラン」に憑依されるという、言ってしまえばただそれだけの映画なのだが、この二人羽織的な設定をうまく使って、161分もの上映時間をテンポよく楽しませる製作陣の手腕には唸らされた。
いかにもタミル的なケレン味たっぷりな格闘シーンに、「自分の体が勝手に動く」ということによるメタな視点を取り入れ、お約束的になりがちなバトルをコミカルに仕立て上げたアクションシーンには思いっきり笑ってしまった。

この「マーヴィーラン」という作中のマンガの設定が、日本人にはちょっと分かりにくいので、触れておきたい。
良かれと思って説明してしまうと(ネタバレと思う人がいたら申し訳ない)、このマンガは「長年にわたっていろいろな作者が交代しながら新聞に描き継いできた作品」ということになっている。
日本でも『ゴルゴ13』みたいに、作者の死後にスタッフが描き続ける例はあるが、まったく関係ない人が設定やキャラクターを引き継いで同じ作品を続けてゆくというのは聞いたことがない。
鑑賞中、この部分にもやもやしていたので、試写後に字幕を手がけた藤井美佳さんに「そういうことですよね?」と確認したところ、その通りだとのこと。
サティヤは「マーヴィーラン」の最新の作者として、ひょんなことから「表舞台」に出ることになる(ここは映画でお楽しみに)。

この「マーヴィーラン」、長く続いているものの、あまり人気はなく、「真剣に読む人はほとんどいない、落ち目の新聞に惰性で続いている漫画」という設定が、この映画のいい味わいになっている。

再開発による立ち退きと代わりの住居の斡旋は、インドでは非常に切実で現実的なテーマだ。
昨年末に訪問したムンバイのダラヴィ地区では、まさに再開発計画が進行中だった。
『スラムドッグ$ミリオネア』や『ガリーボーイ』の舞台にもなったこの巨大スラムでは、証明書類を持っていない人も多く、誰にどう新しい住居を割り当てるのかというだけでも、解決に多大な時間と労力を要することになる。
プラスチックごみのリサイクルなど、スラムならではの産業に従事している人々の仕事どうなるのか、といった問題もあり、誰もが納得する解決策はまったく見えてこない。
まったく異なるジャンルの映画だが、7月25日公開の『私たちが光と想うすべて』でもこのテーマが扱われており、インドにおけるこの問題の身近さと普遍性を感じさせられた。
『マーヴィーラン』では、この庶民にとって深刻な問題を救うのが、正義漢でもスーパーヒーローでもなく、気弱な漫画家と、彼が描くあまり人気のないキャラクターだというのがいい。
このリアリティとユーモアとありえなさのバランスが、絶品なのだ。

個人的に興味深かったのは、サティヤに「ヒーローが降りてくる」という設定を、宗教的な神秘としてではなく、ポストモダン的というか、信仰や伝統文化とは切り離された、純粋な「ミラクル(奇跡というか不思議というか)」として描いているということ。
これはおそらくアシュヴィン監督が特定の信仰とは切り離されたものとして「マーヴィーラン」を描きたかったのだと思う。
宗教や地域や言語やコミュニティによる諍いが日常茶飯事のインドで、監督がこだわりたかった部分なのではないかと感じられたのだが、いかがだろうか。



音楽は、いかにもタミル!って感じの3連のリズムの応酬が楽しめる曲が多い。


この曲、音だけで聴くとトランスなのだけど、映像を見るとトランスっぽい印象は完全に消えちゃって、タミルの濃さに塗り潰されてしまうのが面白い。
タミル映画の曲はサブスクで聴いた時と映像で見た時の印象が全く違う(音楽的な要素が映像の濃さに負けている)ときが結構あって、それはそれで2度楽しめる感じがしてアリだなと思っている。

最近のアクション系タミル映画の曲は、「ヘヴィなギターのリフにタミル語のラップ風チャント」というスタイルが多い印象だったのだけど、『マーヴィーラン』はどういうわけかトランスっぽい曲が使われていて、この曲なんてJuno Reactorみたいにも聴こえる。


暑い夏にぴったりの映画です。
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goshimasayama18 at 20:30|PermalinkComments(0)