SusmitBose

2020年12月05日

インドのボブ・ディラン Susmit Boseの50年

今年で活動50年を迎えたインドの伝説的アーバン・フォークシンガー、Susmit Boseが、キャリアを網羅したコンピレーション・アルバム"Then & Now"を発表した。
(インドでは、ボブ・ディランのような英語のポピュラー・ミュージック的なフォーク音楽を、ローカルの民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ)

これが大変素晴らしくて、先日からヘビーローテーション中なのだが、この作品の魅力をどう伝えたものか、正直ちょっと迷ってしまっている。
このアルバムは、1978年にリリースされた彼のファーストアルバム"Train to Calcutta"と、活動を再開した2006年以降の楽曲をバランスよく収めたものだ。
収録されているほとんどの曲は、ギターの弾き語りにハーモニカという初期ディラン・スタイルのシンプルなフォークソングで、そこに目立った個性や派手さがあるわけではない。
それでも、彼の歌声とメロディー、ギターのアルペジオや古い録音のノイズまでもが、なんとも心地よく、愛おしいのだ。
飲食店に例えると、目立って美味しい名物メニューがあるわけではないが、そこで過ごす時間そのものに価値があるような、落ち着く老舗の居酒屋や喫茶店といった趣きだ。




1950年、Susmit Boseは、デリーに暮らすベンガル系の古典音楽一家に生まれた。 
父は北インド古典ヒンドゥスターニー音楽のミュージシャンで、All India Radioのディレクターを務めていた。
幼い頃のSusmitも、将来は古典音楽の道に進み、いつの日かPundit(師匠)と呼ばれることを夢見ていたという。
ところが、14歳のときに聞いた、アメリカのフォーク歌手ピート・シーガーが、彼の夢を変えてしまった。
そして、まもなくして知ったボブ・ディランの音楽が彼の人生を決定づける。

彼は保守的な父に隠れてギターを練習し、やがて自作の曲を作り始めた。
欧米ではベトナム反戦運動、そしてヒッピームーブメントの時代。
インド国内でも、ウエスト・ベンガル州で発生したナクサライト運動(毛沢東主義を掲げるラディカルな革命運動で、テロリズム的な暴力闘争に発展した)など、社会運動のうねりが起きていた。

インドの60〜70年代ロックシーンを扱った"India Psychedelic: the story of rocking generation in India"という本の中で、Susmitはこう語っている。
「私は60年代と70年代、つまり分断の時代に育ったんだ。人類にとって恥ずべきベトナム戦争もあった。私は欧米の人たちと同じように、平和や普遍性や精神性について歌う必要があると感じていた。世界は一つで、調和しているという感覚さ」

デリーでも、繁華街コンノート・プレイスのディスコ'The Celler'で、アーバン・フォークを歌う人なら誰もが出演できる「フォーク・イヴニング」が行われ、人気イベントとなっていた。

デリー大学のキャンパス、公園、さらにはカルカッタの音楽シーンの中心だったレストラン'Trincas'など、Susmitは歌えるところならどこにでも出向いて歌った。
英語の新しい音楽をこころよく思わない父に勘当され、しばらくネパールのカトマンドゥで過ごしたこともあったという。
だが、1971年に彼がリリースした最初の曲、"Winter Baby"がラジオから流れ、高く評価されるようになると、父は抱きしめて迎え入れてくれたそうだ。

 

インドの国営放送Doordarshanの依頼で、"We Shall Overcome"(勝利を我等に)のヒンディー語版"Hum Honge Kamyab"を録音し、ときの首相インディラ・ガーンディーの前でパフォーマンスしたこともあったという。
当時の欧米の社会運動を象徴するこの曲が、インドでは国営放送によって制作され、強権的な政策で知られたインディラ・ガーンディーの前で歌われたというのは皮肉だが、詩人のGirija Kumar Mathurが訳したこの曲は、政府に反対する人々にも支持され、今もインドで愛されている。

それでも、時代の流れは彼に味方しなかった。
インドのライブスポットは、過激化する社会運動を警戒し、反体制的な傾向のあるミュージシャンの出演を渋るようになっていた。
また、夜間外出禁止令もミュージシャンたちの活動の幅を狭めることとなった。
Susmitも、自作のアーバン・フォークではなく、派手な衣装を着て他の歌手のヒットソングやポピュラーソングを歌わなければならなかったという。

1978年にようやくファースト・アルバム"Train To Calcutta"を発表。



The WIREの記事によると、この作品はインド人歌手による最初の英語で歌われたアルバムとのことである。
だが、彼がメッセージを届けたいと思っていた大衆は、英語ではなく、ヒンディー語の歌を聴きたがっていた。
Susmitは、それでも英語で歌った理由について、こんなふうに語っている。
「私が育った時代、英語はエンパワーメントの言語であり、文化だった。私の家は伝統的な家庭だったけれど、イングリッシュ・ミディアム(英語で教育する学校)で育った自分にとって、英語で歌うのは自然なことだった。『英語だからダメだ』なんていうのはヒンドゥー・ナショナリズム的なレトリックさ。英語を受容することは、寛容なインドの美点でもあるんだ…」

しかし、この時代にインドで活動していた多くのロックミュージシャン同様、Susmitも生きるために音楽以外の仕事に時間を取られていったようである。
その後、20世紀中に彼がリリースしたのは、ネルソン・マンデラをテーマにした1990年の作品"Man of Conscience"のみとなっている。

70年代にインドで活躍した「早すぎたロックミュージシャンたち」は、そのほとんどが生活のために音楽活動をあきらめ、また夢を追い続ける数少ない人々は、海外に活路を求めた。


だが、Susmitはインド国内で音楽活動を決してあきらめなかった。
2006年に久しぶりにリリースしたアルバム"Public Issue"が批評家から高い評価を受けると、再び音楽活動を活発化させてゆく。
2007年には早くも次作"Be the Change"をリリース。
2008年にはバウルのミュージシャンとのコラボレーションによる実験的作品"Song of the Eternal Universe"、2009年には北東部のミュージシャンたちと共演した"Rock for Life"といった意欲作を次々と発表する。
(いかにもベンガル人らしく、Susmitは自身のルーツとして、欧米のフォークミュージックだけではなく、バウルの歌やタゴールの詩、またガーンディーの思想も挙げている)



彼のキャリアを網羅した"Then & Now"のリリースのきっかけとなったのは、昨年公開されたコルカタのミュージシャンたちのボブ・ディランへの憧れを描いたドキュメンタリー映画"If Not for You"だった。



ファーストアルバムの"Train to Calcutta"は5,000枚のみプレスされ、Susmitの手元には一枚も残っていなかった。
だが、この映画の監督Jaimin Rajaniはなんとかしてアルバムの所有者を探し出し、その音源を使って今回の"Then & Now"のリリースに漕ぎつけたという。
"Train to Calcutta"は、知る人ぞ知る名盤として、海外では10万円近い値がつけられていたが、彼のおかげで誰もが手軽に聴けるようになったのだ。

Susmitが音楽を始めた頃とは違い、今ではインターネットで多くの人々が欧米の音楽に触れることができるようになった。
インドの若者たちが自らの主張や社会へのメッセージを音楽に乗せて訴えることも決して珍しくはなくなった。
ただし、今となってはその音楽は、アーバン・フォークではなくヒップホップであることがほとんどだが…。

今では時代遅れとも言えるシンプルな形式のフォークにこだわり続けることについて、Susmitはこう語っている。
「自分はウディ・ガスリーやピート・シーガーやボブ・ディランの『ガラナ』を引き継いでいるのさ。
シンプルであることにフォークの精神があるんだ」

「ガラナ」とは、インドの古典音楽の流派を表す言葉だ。
かつて古典音楽の大家になることを目指していたSusmitは、50年にわたる音楽活動を経て、今ではディラン・ガラナの名演奏家になったと言えるだろう。

彼が憧れたピート・シーガーとは、のちに文通を通して知己を得て、ニューヨークのハドソン川でセッションしたこともあったという。
二人がウディ・ガスリーの"This Land is Your Land"(『我が祖国』)を演奏した時、Susmitは'From California to New York island'という歌詞を'From Gulf of Cambay to the Brahmaputra'と歌ったという。
Cambayはインド西部グジャラート州の地名、Brahmaputraはインド北東部を流れる川の名前である。
驚くピートに、Susmitはこう言った。
「ウディ・ガスリーはアメリカのためだけにこの曲を書いたわけじゃないだろう?」

Susmitにとって、アーバン・フォークは、国籍に関係なく20世紀の世界が共有した、普遍的な「古典音楽」だったのかもしれない。
ディランがノーベル文学賞を受賞し、フォーク・ミュージックが持つ価値が改めて世界に知れ渡った今、ディラン・ガラナの大家として、Susmitの音楽は、それこそ国籍を問わずもっと評価されても良いのではないだろうか。



参考サイト:
https://www.nationalheraldindia.com/interview/interview-susmit-bose-the-rebel-musician-with-a-difference

https://scroll.in/article/977684/in-then-now-susmit-boses-social-blues-create-a-time-warp-to-reach-the-counterculture-years

https://thewire.in/the-arts/susmit-bose-train-to-calcutta-protest-music


https://www.thehindu.com/entertainment/music/the-songs-that-bind/article23821610.ece
 



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goshimasayama18 at 21:10|PermalinkComments(0)

2020年07月19日

よみがえる"India Psychedelic" インドの60年代ロック事情! 知られざる'Indian Summer of Love'


先日取り寄せた本、"India Psychedelic: the story of rocking generation"(Sidharth Bhatia著)がめっぽう面白かった。
IndiaPsychedelic

この本は、知られざる1960年代のインドのロックシーンについて、ジャーナリストである著者が当事者たちに丁寧に取材して書かれたもの。
「60年代のインドのロック」なんていうと、自分みたいな一部のマニア向けの本だと思うかもしれないが(まあそうなんだけど)、この本は当時の若者たちの息遣いがとてもリアルに描かれていて、普遍的な青春群像としてもすごく面白かった。

1947年の独立から10年以上が経過し、中国やパキスタンとの国境紛争や食糧危機、深刻な貧困などの問題を抱える一方で、当時のインドでは、独立期を知らない都市部の若者が、新しい価値観を持ち始めていた。
彼らの中には、先進国の若者たちと同様に、この時代に生まれた新しい音楽に夢中になった者たちがいた。
「新しい音楽」とは、インドのかつての宗主国であるイギリスから世界に衝撃を与えたビートルズ、そしてそれに続いて登場したアメリカやイギリスのロックバンドたちのことだ。


インターネットも衛星放送もない時代(地上波のテレビ放送さえ、インドでは1965年になってようやくデリーで始まった)、インドにいた数少ない洋楽好きの若者たちは、古典音楽ばかりの国営放送ではなく、海を渡って届くRadio CeylonやBBCにラジオの周波数を合わせていた。
1962年、ビートルズのデビュー曲"Love Me Do"が海を越えた電波に乗ってラジオから流れると、彼らはこの新しい時代の音楽に夢中になった。
他のあらゆる国と同様に、インドにも「自分たちもバンドを組んでロックを演奏したい!」というティーンエイジャーたちが現れるのは必然だった。

バンガロール(現ベンガルール)ではTrojansが、ボンベイ(現ムンバイ)ではJetsが、マドラス(現チェンナイ)ではHellionsが、カルカッタ(現コルカタ)ではCavaliersが産声を上げ、多くの若者たちがそれに続いた。
この時代、日本でロックバンドを「グループ・サウンズ」と呼んでいたように、インドでも、この新しい音楽を演奏する若者たちに対する独自の呼称があり、彼らは「ビートグループ」と呼ばれていた。


ビートグループの若者たちは、楽器も音源も満足に入手できない当時のインドで、工夫と情熱で楽器や機材を入手し(あるいは自ら作成し)、見よう見まねで音楽活動を始めた。
当時のインドはソビエト寄りの外交政策を取っており、西側諸国の物資を手に入れることは難しかった時代である。
洋楽を聞くためのレコードの入手すら、欧米に親戚か知人でもいない限り、極めて困難だった。
つまり、ビートグループを始められるのは、ごく一部の恵まれた階層だけだったのだ。

労働者階級の音楽として誕生したロックは、インドでは「富裕層の音楽」だったわけだが、彼らが退屈な日常に飽き飽きしていたという点は、世界中の他の国とまったく同じだった。
ロックは、インドでも保守的な社会への反抗の象徴だったのだ。
初期ビートグループの多くは、欧米文化と親和性の高いアングロ・インディアン(イギリス人の血を引くインド人)やゴア出身者によって構成されていたが、やがて都市部に暮らすアッパーミドルのヒンドゥーやムスリム、シク教徒のなかにも、ビートグループを始める若者たちが現れるようになる。

彼らのほとんどは音源を残すことなく消滅してしまったが、彼らの中には、その後、国際的なキャリアを築いた者たちもいた。

Trojansの中心メンバーだったBidduは、バンド解散後にイギリスに渡ると、1974年に大ヒットしたディスコ・ソング"Kung-Fu Fighting"を手がけ、その後も長くダンスミュージックのプロデューサーとして活動した。
意外なところでは、日本の沢田研二や中森明菜の楽曲も手がけている。
彼のことはいずれまた詳しく書いてみたい。
Biddu
Bidduが1967年にイギリスでリリースしたシングル


ムンバイ出身の女性シンガーAsha Puthliは、保守的でチャンスの少ないインドに見切りをつけ、アメリカに渡って、ジャズ/ソウルシンガーとして活動するようになる。
やがて、フリージャズの名サックス奏者のOrnette Colemanらと共演。
当時のインド人女性としては非常にラディカルな生き方を貫いた彼女の音楽は、のちにJay-Zや50centにサンプリングされ、今もカルト的な評価を得ている。
AshaPuthuli
Asha Puthliが1974年にアメリカでリリースしたアルバムジャケット


ビートグループ出身者でもっとも成功を収めたのは、ボンベイから250キロほど離れた避暑地Panchiganiのハイスクール・バンド、HecticsのメンバーだったFarrokh Bulsaraだろう。
パールシー(ペルシアからインドに渡って来たゾロアスター教徒)の家庭に生まれた彼は、Hecticsのメンバーとして活動したのち、家族とともにイギリスに渡った。
Farroukhは英語風に名前を改め、イギリス人たちとバンドを結成すると、その天才的なヴォーカルパフォーマンスとソングライティングで、ロックの歴史に不朽の名を残した。

みなさんご存じの、クイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーのことだ。
彼が在籍していたHecticsも、数枚の写真を残すのみで、音源は残されていない。
Hectics
ピアノに向かっているのが、若き日のフレディ・マーキュリーことFarroukh Bulsara

話を60年代のインドに戻そう。
インド各地の大都市には、文化や流行の中心となる繁華街がある。
ボンベイならチャーチゲート地区、カルカッタならパーク・ストリート、バンガロールならばブリゲイド・ロード。
今なお賑わうこれらの盛り場が、ビートグループたちの活動の場だった。

当時、人気レストランはバンドの生演奏を売りにしており、ホテルのバンケットホールでも生演奏の夕べが催されていた。
かつてはムーディーなジャズが流れていた場所にビートグループが出演するようになると、レストランやホテルには流行に敏感な若者たちが詰めかけるようになった。

この頃のアーティストの音源や動画は非常に少ないのだが、いくつか紹介できるものを貼り付けたい。
アングロ・インディアンのジャズ・シンガー、Pam Crainは、1956年にパーク・ストリートにオープンしたClub MocamboやBlue Fox Restaurantといった伝説的なレストランに出演し、ビートグループ前夜のカルカッタで「パーク・ストリートの女王」と呼ばれていた。
この音源は、やはりカルカッタを拠点に活動していたサックス奏者Braz Gonsalvezとの共演した1970年のもの。


"The King of Rock'n'Roll of India"、「ボンベイのエルヴィス」ことIqbal Singhは、ビートグループの少し前の時代に活躍した歌手で、これは映画"Ek Phool Char Kante"の一幕。

ターバンにスーツでツイストしまくる姿に強烈な違和感を感じるが、目を閉じて聴くと、彼のヴォーカルはとてもうまくエルヴィスの特徴をとらえている。
当時のレストランの雰囲気がよく分かる映像だ。

インドで最初のオリジナル・ロックソングとされるカルカッタのThe Cavalliersの"Love is a Mango"は、シタールを導入したインドらしいサウンド。

インドのロックバンドが、その最初期から古典音楽とのフュージョンを行っていたことが分かる貴重な一曲だ。
カルカッタは、イギリス支配時代の首都だったことから、アングロ・インディアンが多く暮らしており、当時のインドで西洋文化の受け入れが最も進んでいた街でもあった。

マドラス(現チェンナイ)のThe Mustangsは、ベンチャーズ・スタイルのギターインストゥルメンタル。

今以上に保守的で、カルナーティック音楽一色だったマドラスにも、ロックに夢中となった大学生たちがいたのだ。

ボンベイのThe Savagesが1968年にリリースした"Pain"と"Girl Next Door".
彼らは前年に行われたSound Trophy Contestで優勝した副賞として、スタジオでのレコーディングの権利を獲得してこの2曲を録音した。

2曲目の"Girl Next Door"でヴォーカルを取っているのは前述のAsha Puthli.
この後、彼女はシンガポールに渡り、現地のバンドThe Surfersとの音源を残したのち、ボンベイ時代に知り合ったアメリカ人モダンダンサーMartha Grahamを頼ってニューヨークに渡る。
アンディ・ウォーホルや現地のジャズミュージシャンと知り合った彼女が、現在でもカルトクラシックとされる音源を残したことは前述の通りだ。
だが、ほとんどのミュージシャンにとって、アメリカやイギリスはあまりにも遠い場所だった。
彼らの多くは、インド国内でその長くはない活動期間を終えることになるが、それはもう少し先の話。


60年代の後半に入ると、若者たちから始まったビートグループのムーブメントは、大人たちにも注目されるようになった。
Imperial Tobaccoは、若者向けの新しいメンソールタバコ'Simla'のプロモーションの一環として、インドじゅうのビートグループを集めたイベントを行った。
1970年と71年に行われたSimla Beat Contestのコンピレーション盤に収められている音源は、演奏もいまいちで音質も悪く、しかもオリジナル曲ですらないものがほとんどだが、当時のインドの若者たちが限られた環境のなかで必死に取り組んだ成果だと思いながら聴くと、胸に熱いものがこみ上げてくる。

ボンベイのVelvette Foggは、ドアーズのようなキーボードが入ったサイケデリックなサウンドでCreamの"I'm So Glad"をカバー。


このブログでもたびたび取り上げている通り、インドのなかでもロック人気のとくに高いインド北東部のバンドも、当時から存在感を発揮していた。
Fentonesは、「インドのロックの首都」と呼ばれている北東部メガラヤ州シロンの出身。
ここでは、イギリスのバンドChristieが1970年にリリースした"Until The Dawn"をカバーしている。 



享楽的でサイケデリックなロックだけでなく、ボブ・ディランらの影響を受けた、社会的なテーマを歌うフォークシンガーも登場する。
1970年代以降、インドでは、都市部と農村の格差や、社会の不正義に対する問題意識が強くなり、デリーのSt.StephensやカルカッタのPresidency、ボンベイのElphinstoneのような名門大学では、学生運動が活発化していた。
毛沢東主義に基づき、暴力すら厭わずに社会の解放を目指す「ナクサライト運動」が西ベンガル州で産声を上げたのもこの頃だ。
こうした風潮が、産声をあげたばかりのロックシーンにも影響を与えたのだ。


「初めてディランを聴いたとき、自分の人生ですべきことが決まったんだ」と語るデリーのSusmit Boseは、「インドのボブ・ディラン」とも「インドのキャット・スティーヴンス」とも呼ばれているフォークシンガーだ。
彼が1978年にリリースしたアルバム"Train To Calcutta"に収録された"Rain Child".

彼のような西洋風のフォークソングを、インドでは伝統的な民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ。
古典歌手の父を持つ彼は、親に隠れてギターを練習していたが、アーバンフォークを歌っていたことがばれて家を追い出されてしまったこともあるという。

メガラヤ州シロンのLou Majawもまた、「インドのボブ・ディラン」と呼ばれることの多いシンガーだ。
アメリカにはディランは一人しかいないが、言語も文化も多様なインドには、何人もディランがいるのだ。
彼は1972年に始めたディランの誕生日に行うメモリアルコンサートを、80歳近くなった今も変わらずに続けている。

ちなみに今年はコロナウイルスによるロックダウンでディランのバースデーコンサートを開催できなかったため、この動画をYouTubeに投稿していた。

60年代のカルカッタで活躍したバンドThe UrgeのサックスプレイヤーだったGautam Chattopadhyayは、ナクサライト運動に共鳴した活動をしていたため、仲間とともに2年間の州追放処分を受けたという経歴を持つ気骨のミュージシャンだ。
1975年にカルカッタに戻ると、ジャズやロックにベンガルのフォークミュージックを融合した音楽に乗せて文学的な歌詞を歌うMohineer Ghoraguliを結成。

彼らの音楽は少数のファン以外には見向きもされなかったが、90年代以降、ベンガル語ロックの先駆けとして再評価されている。


60年代から70年代にかけて、インドのロックミュージシャンたちは、お金のためではなく、音楽への純粋な愛情と表現衝動だけを拠り所にして音楽活動を行っていた。
その頃、インドではロックバンドが職業になる時代ではなかったのだ。(それは今もほとんど変わらないが)
学生時代が終わると音楽から離れてしまう者も多かったし、アングロ・インディアンや富裕層のなかには、より良いキャリアを目指して海外へと移住してしまう者も少なくなかった。

インドの時代背景も変わってゆく。
欧米では反体制の象徴だったロックも、社会運動の過激化に伴い、ファンの中心だった学生たちから、富裕層、すなわち「搾取する側の音楽」と見なされるようになってゆく。

やがて、世界中の音楽シーンで、ロックバンドが花形だった時代は終わりを告げ、ディスコミュージックの台頭が始まる。
踊りが大好きなインドのエンターテインメント産業(すなわち映画業界)も、ディスコを巧みにローカライズして人気を博してゆく。
インドの若者たちがロックから離れ、ディスコに夢中になってゆくのにそれほど時間はかからなかった。

こうして、「インディアン・サマー・オブ・ラブ」は終わりを告げた。
この時代の「ビートグループ」たちが、思い出以上の何かを、インドの音楽シーンに残したのかどうかは分からない。
インドのロックシーンが復活するのは、インドが経済開放路線に舵を切り、インターネットで海外の情報がリアルタイムで入手できるようになる90年代以降まで待たなければならなかった。
インドのインディー音楽が爆発的に広がるのは2010年代に入ってからだが、今日でも、音楽シーンの圧倒的主流である映画音楽と比べると、その売り上げ規模は少ない。

だが、1960年代のインドで、海の向こうからやってきたリズムとサウンドに夢中になり、そこに音楽以上のもの(例えば自由とか)を見出して、お金のためでも名誉のためでもなく、全てを打ち込んで演奏した若者たちがいたという事実は、まるでおとぎ話のように魅力的だ。
国も時代も違うはずなのに、なんというかこう、ぐっと来る。

この時代については、まだまだ調べ甲斐がありそうなので、そのうちまた何か書くつもりだ。



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