Shahid

2019年04月25日

史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)

6月7日に待望の日本公開が決まったインド映画『パドマーワト 女神の誕生』(原題"Padmaavat"、ヒンディー語。配給Spacebox)の試写を、インド・イスラーム研究者の麻田豊先生と鑑賞するという素晴らしい機会をいただいた。
この作品はインド映画史上最高額の制作費をかけた超大作で、昨年インド国内で大ヒットを記録したもの。
これがまた最高だったので、今回は音楽を離れて、この映画の話題を書いてみたいと思います。

予告編はこちら

この『パドマーワト 女神の誕生』は、16世紀のラクナウ(現ウッタル・プラデーシュ州の州都)地方のスーフィー(「イスラーム神秘主義者」と訳される)詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤシーによる叙事詩を映画化したもの。
原作となった叙事詩は、13世紀から14世紀 にかけてのインド北部の史実を題材としたもので、今日でもインドで親しまれている物語だというから、さしずめ日本でいう「平家物語」とか「忠臣蔵」のようなものなのだろう。

この映画は当初インドで2017年12月に公開される予定だったが、ヒンドゥー至上主義団体からの抗議のために1ヶ月以上公開が延期され(わりとよくあることではあるが)、またマレーシアでは逆に「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったといういわくつきの作品だ。 
『女神の誕生』という邦題のサブタイトルや、「その"美"は、やがて伝説になる」というキャッチコピーは、バーフバリ以降急増している女性ファンを意識したものと思われるが、とことんこだわったというふれこみの映像美にも増して印象に残ったのは、愛や義や野望に忠実に生きる登場人物の苛烈で劇画的なかっこよすぎる生き様だった。


あらすじをごく簡単に説明してみる。
義を重んじるメーワール王国の王ラタン・シンは、シンガラ国(現スリランカ)出身の絶世の美女パドマーワティと恋に落ち、妃とした。
同じ頃、ハルジー朝では己の野望のためには手段を選ばない暴君アラーウッディーンが、国王である叔父を亡き者にしてスルターンの座につく。
パドマーワティの美貌の噂を聞いたアラーウッディーンは、王妃を我がものにすべくメーワール王国に攻め入るが、強固なチットール城に阻まれて退却を余儀なくされる。
だが、和睦を持ちかけると見せかけて奸計を仕掛けたアラーウッディーンは、国王ラタン・シンを捕らえ、デリーの居城に幽閉してしまう。
アラーウッディーンはラタン・シンの身柄と引き換えにパドマーワティをデリーに誘い出そうとする。
しかしパドマーワティの決意と機知、そしてアラーウッディーンの第一王妃メヘルニサーの計らいによって、ラタン・シンはデリー脱出に成功する。
だがこれでアラーウッディーンが諦めるはずもなく、ハルジー朝は秘密兵器を携えて再度のメーワールを侵攻する…。


ヒンドゥーのメーワール王国とイスラームのハルジー朝の戦いの物語ではあるのだが、物語の主眼は宗教同士の戦いではなく、劇画的なまでにキャラが立った人間群像の生き様だ。
戦いの場においてさえ信義を優先させる高潔なラージプート(インド北西部の砂漠地帯ラージャスターンの戦士)の王ラタン・シンと、より強大な権力を目指し、欲しいものは全て手に入れようとする暴虐なスルターンのアラーウッディーン。
対照的でありながらも、愚かしいまでに己の誇りのために生きる二人の王に対し、后であるパドマーワティーとメヘルニサーは、国の平和のために知恵と愛で難局に立ち向かう。
あまりにも熱く激しく、そして悲しい物語は、まるであの『北斗の拳』のような印象を受けた。

強大な力を持ち手段を選ばないアラーウッディーンは気持ちいいほどのラオウっぷりだし、美しさと優しさと強さを兼ね備え、強い男たちを虜にするパドマーワティーはユリアを彷彿とさせる。
ラタン・シンとアラーウッディーンが宮中で対峙するシーンでは、宿敵同士であるはずの二人から、王としての誇りを持った者同士の不思議な「絆」さえ感じられ、さしずめ往年の週刊少年ジャンプのごとく「強敵」と書いて「友」と読みたくなってしまった。
(『北斗の拳』をご存知ない方はごめんなさい。世紀末の暗殺拳をテーマにした武論尊原作の名作マンガがあって、今40代くらいの男性は夢中になって読んだものなのです)

インドの古典叙事詩が持つロマンと日本の少年マンガ的なヒロイズムに共通点があるというのは面白い発見だった。
普遍的な人の心を惹きつける物語の要素というものは時代や場所が変わってもあまり変わらないものなのかもしれない。

とにかく、荒唐無稽なまでのキャラクターを凄まじい迫力と美しさで演じきった俳優たちの演技が大変すばらしく、ものすごいテンションで観客を映画の世界に引き込んでゆく。
じつは、物語が転がり始めるまでの序盤は若干退屈な印象を受けていたのだが、後半の怒涛の展開、そして美しくも激しい圧巻のラストシーンを見終わってみれば、呆然とするほどの満足感にしばらく席を立てないほどだった。

アラーウッディーン役のランヴィール・シンは "Gully Boy"(こちらに詳述)の繊細な主人公役とはうってかわって、狂気に満ちたアンチヒーローを鬼気迫るほどに演じきっている(制作は『パドマーワト』のほうが先)。狂気的な野望の持ち主でありながら、夜空の下で詩を吟じたりもする姿は憎たらしいほどにかっこいい。
絶世の美女パドマーワティを演じるディーピカー・パードゥコーンは外見的な美しさはもとより、内面の美しさ、強さ、誇り高さまでも感じさせる演技で、絢爛な衣装やセットの中でもひときわ美しく輝いている。かなり保守的なものになりかねない役柄を、強い意志と機知とたくましさをもった女性として描いたのは、彼女の演技に加えてサンジャイ・リーラ・バンサーリー監督の手腕でもあるのだろう。
高潔なラージプートの王、ラタン・シンを演じたシャーヒド・カプールも義と誇りに生きる男の強さと悲しさを完璧に表現し、ランヴィールとの素晴らしい対比を見せている。

己のプライドに生きる男たちと同様に、いやそれ以上に強烈な印象を残すのが誇り高き王宮の女性たちだ。
美しく、賢く、強い意志を持った女性たちが、悲劇的なストーリーの中で見せる気高さは何にもまして際立っており、「ラージプートの男たちが強いのは、強い母がいるからですね」という台詞がとくに印象に残った。
また詩人や宦官の奴隷、王に忠誠を誓う戦士といった脇役たちもそれぞれキャラが立っていて、ストーリーに花を添えている。

「究極の映像美」というふれこみに違わず、もちろん映像も素晴らしい。
20年前に訪れたラージャスターンでは、乾燥した大地に映える極彩色の民族衣装が印象的だったので、映像美と聞いてめくるめく色の洪水を想像していたのだが、予想に反してこの映画の基調となるのはセピア色を基調とした深みのある映像。
広大な砂漠や壮麗な王宮、絢爛な衣装を落ち着いた色調で描いた映像は、この壮大な歴史ドラマにふさわしい重厚さを演出している。

以下、映画を見るときにぜひ注目して欲しい部分。
(ほとんどが麻田先生の受け売りですが…)

・制作途中に数々の抗議や脅迫を受けた映画というだけのこともあって、冒頭に長々とした免責事項の説明がある。曰く、「この映画の地名、言語、文化、思想、伝統、衣装…等はフィクションであり、いかなる信仰や文化も軽んじる意図はない。サティ(インドの法律で禁止されている寡婦の殉死の習慣)を推奨するものではない。動物が出てくるシーンにはCGが使われ、実際の動物は大切に扱われた」云々。ちなみに制作中には前述の反対の声もあったというものの、映画が公開になると評価はほぼ賛辞ばかりになったらしい。

・映画の中で詩人として言及されるアミール・フスローは13世紀〜14世紀にかけて活躍したスーフィーの詩人、音楽家で、カッワーリーの創始者、タブラの発明者でもあり、北インドの古典音楽であるヒンドゥスターニー音楽の基礎を築いた人物である。

・アラーウッディーンが叔父から贈られた従者カフールは、字幕では「贈りもの」としか書かれていないが、実際は当時のイスラーム王宮に多数いた宦官の奴隷という設定である。その後のアラーウッディーンへの同性愛を思わせる場面は、こうした設定が背景となっている。

・戦闘シーンではメーワール王国の太陽の旗とハルジー朝の三日月の旗が対照的だが、実際にメーワールの紋章は太陽とラージプート戦士の顔を象ったもので、三日月はイスラームの象徴である。

・この映画にも『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で見られたような、ムスリムがヒンドゥーに対してヒンドゥー式のあいさつ(お礼)の仕草(両手を合わせる)をし、それに対してヒンドゥーがイスラーム式に「神のご加護を」と言う場面がある。女たちによるこのシーンは、男たちの戦いを描いた映画のなかで非常に印象的なものになっている。

・パドマーワティだけが、鼻の中央にもピアスをしていたが、何か意味があるのだろうか。王妃という地位を表すもの?

・サブタイトルに「女神の誕生」とあり「パドマーワティが女神のように崇拝されている」との説明があるが、物語の中でも現実世界でも、神々の一人として崇拝されているわけではない。パドマーワティの人気はあくまで伝説上の人物としての尊敬であり、信仰とは別のものだ。

・映画の中で「尊厳殉死」という漢字があてられている「ジョーハル」は、戦争に敗北した際に、女性たちが略奪や奴隷化を防ぐために集団で焼身自殺するというラージャスターンでかつて見られた風習である(井戸に飛び込んだりすることもある)。冒頭の免責事項にあるサティは、寡婦が夫の火葬の際に、夫の亡骸とともに焼身自殺する風習で、法律で禁止されているものの近年まで行われていたとされる。

・映画では悪役として描かれているハルジー朝だが、この「デリー諸王朝時代」はヒンドゥーとイスラームの習慣や文化が融合し、多様な文化が発展した時代でもある。この時代を多様性や寛容の象徴として'Delhi Sultanate'というアーティスト名にしたのが、デリーのスカバンドSka VengersのフロントマンTaru Dalmiaだ。彼は昨今の宗教的ナショナリズムに反対し、BFR Soundsystem名義で社会的な活動にも取り組んでいる。
「Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」

・サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督は音楽の才能にも恵まれており、この映画を彩る音楽も監督の手によるもの。インド古典音楽のエモーションとハリウッド的な壮大さが融合した楽曲が多く、作品をより魅力的なものにしている。とくに、物語の舞台となった北インド独特の力強いコブシの効いた古典ヴォーカル風の楽曲は必聴。

と、一度見た限りの印象(と麻田先生から教わった知識)ではあるが、ぜひこうした枝葉の部分にも注目して楽しんでいただきたい。


さすがに話題の大作というだけあって、昨年日本で英語字幕での自主上映が行われた時点でかなり詳しい紹介しを書いている方もたくさんいて、中でも充実しているのはポポッポーさんのブログ。
『ポポッポーのお気楽インド映画 【Padmaavat】』
史実や伝説との関係、上映反対運動のことまで詳しく書かれているのでぜひご一読を。


音楽ブログなので最後に音楽の話題を。
ラージャスターンの気高き戦士、ラージプートの誇りは現代にも受け継がれていて、ジョードプルのラッパーデュオ、J19 Squadは、以前このブログで行ったインタビューで、彼らのギャングスタ的なイメージについて、
「ラージャスターニーはとても慎ましくて親切だけど、もし誰かが楯突こうっていうんなら、痛い目に合わせることになるぜ。ラージプートの戦士のようにね」
と答えている。
 彼らの地元である砂漠の中のブルーシティ、ジョードプルの誇りをラップする"Mharo Jodhpur".
城に食べ物に美しい女性たち。地元の誇りがたくさん出てくる中、ラージプート・スタイルの口髭をぴんとはね上げた男たちも登場する。
これが問題のラージャスターニー・ギャングスタ・ヒップホップ。現代的なギャングスタにもラージプートのプライドが受け継がれているのだ。

地元のシンガーRapperiya Baalamと共演した"Raja"は、色鮮やかなターバンや民族衣装、ラクダに馬とラージャスターニーの誇りがいっぱい。

ラージャスターンのヒップホップについては何度か記事にしているので、ご興味があればこちらもお読みください。
「インドいち美しい砂漠の街のギャングスタラップ J19 Squad」
「忘れた頃にJ19 Squadから返事が来た(その1)」
「魅惑のラージャスターニー・ヒップホップの世界」

本日はここまで!
麻田先生、このたびは本当にありがとうございました!


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goshimasayama18 at 00:00|PermalinkComments(0)