Sanam

2020年12月23日

2020年度版 インドのクリスマスソング特集! 古代アラム語で歌われるクリスマスキャロルからバングラーまで



2年前に、インド北東部ナガランド州のクリスマスソングに関する記事を書いた。
典型的な「インド人」とは異なる、モンゴロイド系の民族が多く暮らすインド北東部は、他の南アジアとは異なりヒンドゥー/イスラーム文化の影響が少なく、19世紀以降の宣教によって、今では多くの住民がキリスト教を信仰している。
ナガランドは人口の9割がクリスチャンであり、地元の伝統と西洋のポップミュージックやキリスト教信仰を融合したユニークなクリスマスソングが存在しているのだ。
 
(詳細はこちらの記事で↑)
今回は、ナガランド以外に視野を広げて、あらためてインドのクリスマスソングを調べたので、紹介してみます。
今年リリースされた曲でとくに印象に残ったのはこの2曲。

まず紹介するのは、インドを代表するEDM系プロデューサーからアコースティックなシンガーソングライターへの転身を遂げたZaedenが、女性シンガーNatania Lalwaniをフィーチャーしてリリースした"For Christmas".

シャッフル気味のアコースティックギターに、ファルセットボイスで歌われるポップなメロディー。
インディー音楽とはいえ、とうとう典型的なクリスマスのポップチューンがインドでも作られるようになったと思うと感慨深い。
途中からレゲエっぽいリズムが入ってくる展開も洒落ている。

インドでは、近年の経済成長や海外文化の流入に伴い、都市部を中心に「欧米的なオシャレなイベント」としてのクリスマスが根付きつつある。(一方で、既存の宗教の原理主義的な信奉者や偏狭なナショナリズムの支持者からは反発もあるわけだが)
イエス・キリストの誕生日やサンタクロースがやってくる日としてのクリスマスではなく、愛する人と過ごす日としてのクリスマスが描かれたこの曲は、都市部の現代的な若者たちのクリスマスのイメージを踏襲したものと見てよいだろう。


続いて紹介するのは、人口の75%がキリスト教を信仰するインド北東部メガラヤ州の州都シロンからの1曲。
Shillong Chamber Choirが今年リリースしたクリスマスアルバム"Come Home Christmas"に収録された"Go Tell It On The Mountain"だ。

Shillong Chamber Choirは、2001年に結成された室内合唱団で、人気テレビ番組'India's Got Talent'での優勝(2001年)を含め、国内外で多くの賞に輝いている。
地元の民謡っぽい旋律に続いて、ファンキーにアレンジされた賛美歌/ゴスペルの"Go Tell It On The Mountain"が英語で歌われるが、途中で歌が耳慣れない言語に変わることに気がつくはずだ。
これはなんとイエス・キリストが話していたと言われる「古代アラム語」だそうで、「マルチリンガルなクリスマス・アルバム」として制作された今作に合わせて、今ではほとんど話者のいないこの言語を「救い主が生まれたことを世界に告げよ」と歌うこの曲に採用したとのこと。
多言語社会のインドでは、複数の言語で歌われる曲も珍しくはないが、賛美歌に古代アラム語を持ってくるというのは、クリスチャンの多い北東部ならではの発想だろう。

この"We The Kings"では、ウルドゥー語とペルシア語が採用されている。

非常に美しいミュージックビデオは、イスラエルのサンドアーティストIlana Yahavによるもの。
正直に言うと、私は普段合唱団が歌うような音楽は全く聴かないのだが、このアルバム"Come Home Christmas"に関しては、ファンキーにアレンジされたゴスペルから荘厳な賛美歌まで、さまざまな言語の美しい響きとともに、なんの違和感もなくポップミュージックとして楽しむことができた。
非常にユニークな、長く聴くことのできるクリスマス・アルバムだ。


今年のリリースではないものの、インドならではの面白いクリスマスソングを他にも見つけることができたので、合わせて紹介します。

ムンバイのポップバンドSanamは、いくつかのクリスマスソングをカバーして発表している。
彼らは古いボリウッド映画の曲を現代的にカバーし、YouTubeから人気が出たバンド。
彼らは映画音楽のみならず、100年前のベンガルの詩人タゴールの作った歌などもカバーしており、近代化著しいインドで、歌を通して古き良きものと現代を繋ぐ役割を担っているのだろう。
そんな彼らがカバーしたクリスマスソングは、ポップスではなく、伝統的な聖歌/賛美歌だ。

おそらく彼らはクリスチャンではないと思われるが、彼らのクリスマスソングを聞くと、流行の消費主義的なイベントとしてのクリスマスではなく、信仰こそ違えど、我々よりも大きな存在に帰依する人々への共感とリスペクトが込められているように感じられる。
物質主義的な部分が強くなって来たとはいえ、インドは信仰の国だ。
サンタクロースやクリスマスケーキになじみのない人々も、偉大なGuru、イエス・キリストの生誕を祝う気持ちは十分に理解できるのだろう。

続いて、北インドのポピュラー音楽シーンのメインストリームであるバングラー(Bhangra)のクリスマスソングを探してみたところ、意外にも多くの動画がアップされているのを見つけてしまった。
バングラー・ユニットのGeeta Brothersは、その名も"Punjabi Christmas Album"というアルバムをリリースしている。

陽気な男たちが打ち鳴らすドール(Dhol. 両面太鼓)、コブシの聞いた歌い回し。
彼らはバングラーの故郷パンジャーブ州に住んでいるわけではなく、イギリスに暮らす移民たちらしい。
パンジャービー系の人々は、移民が多く、コミュニティーが世界中に広がっているからこそ、世界中の文化と伝統音楽の融合が行われているのだろう。

こちらはマレーシア、クアラルンプールのパンジャービー・コミュニティー。


クリスマスソングに合わせてバングラー・ダンスを踊りまくっている動画とか、クリスマスソングのバングラー・リミックスもかなりたくさんヒットする。





彼らがクリスチャンなのか、はたまたヒンドゥーやシクなのかは知る由もないが(ターバンを巻いている人たちはシク教徒のはず…)、なんとも陽気で楽しくて素晴らしいではないか。
「お祝いだ!太鼓叩いて踊ろうぜ」って感じのノリが最高だ。

クリスマスを信仰に基づいてお祝いする人も、パーティーとして楽しむだけの人も、今年は例年になく困難な状況を迎えているが、何はともあれ感謝の心を忘れずに、遠く離れた人々との繋がりも感じながら過ごすことができたら素晴らしいことだ。
みなさん、メリー・クリスマス。
素敵なクリスマスをお過ごしください。




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goshimasayama18 at 19:13|PermalinkComments(0)

2020年06月07日

6/7(日)『タゴール・ソングス』オンライントークご報告!

というわけで、先ほどポレポレ東中野さんで『タゴール・ソングス』佐々木監督とのトークイベントを行ってきました。
このご時世なので私、軽刈田はオンラインで画面上に登場してお話させてもらいました。
(まさか自分の人生で、映画館のスクリーンに映されることがあるとは思わなかった…)

トークのなかで紹介した曲の動画をご案内します。
まずは、タゴール・ソングのさまざまなカバーバージョンから。

最初に紹介するのは、ムンバイの4人組ポップロックバンド、Sanamが演奏する"Tumi Robe Nirobe".
この曲は、『タゴール・ソングス』の中では『あなたが居る』という翻訳で歌われている曲ですが、インドの極甘イケメン風バンドが演奏するとこんなふうになります。

SanamはYouTubeにアップした動画がきっかけで人気を得たという現代的なバンドですが、オリジナル曲だけでなく、懐メロのカバーにも積極的に取り組んでいます。
インド人の懐メロといえば、それは当然、往年の名作映画を彩った劇中歌。
そうした名曲を現代風にアップデートした彼らのカバーバージョンは、YouTubeで大人気となり、中には1億回を超える再生回数のものもあります。
そんな彼らは、映画音楽だけでなく、こうしてタゴール・ソングもカバーしているのです。
このことからも、大文学者タゴールが作った曲が、インドのエンターテインメントの王道である映画の名曲と同じように親しまれているということがよく分かります。
この"Tumi Robe Nirobe"は4,000万回を超える再生回数を叩き出して、まるで現代のヒットソングのよう。
彼らは他にも"Boro Asha Kore Easechi"や"Noy Noy Modhur Khela"といったタゴール・ソングをカバーしています。
興味のある方はYouTubeで検索してみてください。


続いて紹介したのは、バンガロールのフュージョンロックバンドSwarathmaが、ベンガルの放浪詩人「バウル」と共演した"Ekla Cholo Re".

「バウル」とは、ベンガル地方(インドの西ベンガル州およびバングラデシュ)に何百年も前から存在している行者とも詩人とも言える人たちのことです。
ヒンドゥーやイスラームの信仰を超えた存在である彼らは、タゴールにも大きな影響を与えていると言われていますが、ここでは逆にそのバウルがタゴール作の歌"Ekla Chalo Re"(映画の中でも何度も登場している『ひとりで進め』)を歌っています。
歌っているのはLakhan Das Baul.
映画にも同名のバウルが登場しますが、このLakhanは映画に出てきたのとは別の人物です。

ここまで紹介した2組は、ベンガルではなく、それぞれインド西部のムンバイと南部のバンガロールのバンド(Lakhan Das Baulはベンガルのバウルですが)、つまり、ベンガル語を母語としない人たちです。
映画では、タゴールがベンガルの人々にいかに身近に愛されているかが綴られていましたが、ベンガル以外の人々にとっても、タゴールは深く敬愛されているのでしょう。
アカペラ・グループのPenn Masalaが、インドの各言語を代表する名曲をメドレーにした動画があるのですが、その動画でも、ほとんどの言語の曲が映画音楽だったのに対して、ベンガル語からはタゴール・ソング(この"Ekla Chalo Re")が選ばれていました。

(グジャラーティー、ヒンディーに続いてベンガル語で歌われる2曲めが"Ekla Chalo Re".一瞬ですが)


同じ"Ekla Cholo Re"をコルカタのロックバンドOporinotoが壮大なアレンジでカバーしているのがこちら。

同じ『ひとりで歩け』でもアレンジ次第でいろんな印象になるということが分かります。
タゴール・ソングは、このように様々な現代的なアレンジがされている一方で、正統派の歌い方というものがはっきりと確立されている音楽でもあります。
映画の中で、オミテーシュさんとプリタさんの師弟が歌っているのが正統派のタゴール・ソングです。
ベンガルには、新しいアレンジが施されたタゴール・ソングは邪道と考え、正統派の歌のみを愛してやまないリスナーもたくさんいます。
このへんは、歌舞伎や落語のような日本の古典芸能にも近い感覚かもしれません。

ところで、これを言ってはおしまいなんですが、ベンガル語が全くわからない我々にとって、ここまで紹介してきたカバーバージョンは、あまり魅力的に響かなかったのではないでしょうか。
それはなぜかと言うと、「歌詞がわからないから」ということに尽きると思います。
そもそもロックのアレンジと、4拍子ではなく、とらえどころのないタゴール・ソングのメロディーの相性があんまりよくないということもあるのですが、その最大の原因は、タゴール・ソングのなによりの魅力である歌詞が伝わってこない事でしょう。
何が歌われているか分からないと、タゴール・ソングの良さは、ほとんど伝わらないのではないでしょうか。
仮に、タゴール・ソングのCDを買ってきて、歌詞の対訳を読みながら聴いたとしても、歌われているのがどの部分の歌詞なのかが分からないと、やっぱり良さはあまり伝わらないはずです。
その点、歌にあわせて字幕を出すことのできる「映画」という表現方法は、我々のようにベンガル語が分からない人々にタゴール・ソングを紹介するのにはぴったりです。
歌を聴きながら歌詞を読むことで、たとえば「ひとりで歩け」という歌詞が、メロディーによって、寂しげに聞こえたり、奮い立たせるように聞こえたりすることが分かります。
そういう意味でも、映画という形でタゴール・ソングを紹介してくれた佐々木監督の発想は素晴らしかったと言えるでしょう。

これはタゴール・ソングではありませんが、"Ekla Cholo Re"というタイトルを借用したラップの曲。
映画の中にもバングラデシュのラッパーが出てきましたが、南アジアではここ最近ヒップホップの人気が非常に高まっており、どこの街にもラッパーがいて、その街のリアルな様子をラップしています。
これはUndergrount AuthorityというコルカタのラップメタルバンドのヴォーカリストであるEPRというラッパーのソロ作品で、厳しい生活を余儀なくされ、死を選ぶしか道のない農村の人々の辛さを訴えた曲です。


こちらもタゴールとは直接関係ありませんが、Purna Das Baulというバウルがボブ・ディランをカバーした楽曲で、"Mr. Tambourine Man".

 このPurna Das Baulはディランと親交があり、彼の音楽にも大きな影響を与えた人物です。
バウルはタゴールとボブ・ディランという二人のノーベル文学賞受賞者に影響を与えているということになるのです。



と、まあこんな感じでポップミュージックの視点から、タゴール・ソングとベンガルの音楽をほんの少し紹介させてもらいました。
本日は、30分という限られた時間のなかで、トークのみでのご案内でしたが、実際にみなさんを前に佐々木監督とトークしながらミュージックビデオをごらんいただくイベントの開催が決まりました!

6月20日(土)ポレポレ東中野1階の「space & cafe ポレポレ坐」にて、夕方〜夜にかけて開催予定です。
正式に決まり次第、改めてご案内します!

というわけで、本日はお越しいただいた方も、お読みいただいた方も、ありがとうございましたー!



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goshimasayama18 at 23:25|PermalinkComments(0)

2019年06月16日

ソーシャル・メディア時代のボリウッドの傑作!『シークレット・スーパースター』!

日本公開が決まった2017年の大ヒットヒンディー語映画『シークレット・スーパースター』がめっぽう面白かった。
主演は『ダンガル きっと、つよくなる』で子役を演じたザイラー・ワシーム(Zaira Wasim)。
主人公の母親役に『バジュランギおじさんと、小さな迷子』でも迷子の女の子の母を演じたメヘル・ヴィジュ(Meher Vij)。
アーミル・カーン(Aamir Khan)は物語の鍵を握るくせものの音楽プロデューサーを演じるとともに、製作とプロデュースにも名を連ねている。
監督・脚本は今作が監督デビューとなるアドヴェイト・チャンダン(Advait Chandan)。
ボリウッドの王道的なサクセス・ストーリーを、現代インドを舞台にしたみずみずしいエンターテインメントに仕上げている。
本国インド、そして中国での大ヒットを経て、いよいよ8月9日に日本公開となる。
(6月18日追記:日本版の予告編がついに解禁!新たに貼っておきます)


(オリジナルの予告編はこちら)
 

【あらすじ】(試写会でのパンフレットから抜粋)
インドに暮らすインシアは、両親と祖母、弟と暮らしている。
父親は、権威的で、母親に暴力をふるうこともしばしば。
インシアは、歌手を夢見てギターを弾き、自分で曲を作っていた。
父からは叶わない夢にうつつを抜かすなと厳しく歌を禁止されていたが、母はインシアを応援しており、ある日父親に内緒でノートパソコンを買い与える。
そこでインシアは、母の提案もあってブルカで顔を隠してYoutubeで自分の歌う姿をアップする。
するとその歌声はたちまちインド中で話題になり、新聞やTVまでもが、"シークレット・スーパースター"の話題で持ちきりとなる。
自分の歌声が響き、たくさんの人に聞いてもらっていることに喜びを感じるインシア。
しかし、父に隠れて歌を歌っていることがバレてしまい、投げやりになりノートパソコンを壊してしまう。
そんな時、有名ではあるが若干落ち目の音楽プロデューサー、シャクティが彼女を見つける。
インシアは学校にも親にも内緒で、彼女を支えてくれる友人チンタンの助けを得てシャクティに会いに行く。
最初にシャクティから渡された曲は全くインシアに合わない曲だった。
上手く歌うことのできないインシアをみて、プロデューサーたちはがっかりし、諦めかけていた時、インシアはシャクティの昔のバラードを歌いたいと願い出る。
そこで歌った彼女の歌声が全員の心を掴んだ。
しかし帰ってきた彼女には大きな障害が立ちはだかっていたのだった…。



全編を通して印象に残ったのは、役者たちの演技の素晴らしさだ。
主演のザイラー・ワシームは、夢見る少女の素朴さ、夢に向かう力強さ、夢破れそうになる絶望や淡い恋への不器用さを見事に演じきっており、彼女に想いを寄せる同級生チンタン役のティルト・シャルマ(Tirth Sharma)とのかわいらしい恋模様も良いアクセントになっている。
ザイラー・ワシームは、インド映画の典型的なヒロイン女優とは違って絶世の美人タイプないが、平凡にも見える彼女がシーンによってこの上なくかわいらしく見えたり、頼もしく見えたり、時には孤高にすら見える名演を見せている。
カシミール出身のムスリムである彼女は、先日、自身の信仰生活を大事にするために女優業からの電撃引退を発表したばかり。
この稀有な女優の一世一代の名演技をぜひ目に焼きつけてほしい。
脇役陣も素晴らしく、娘のことを思いながらも運命に抗うことができない母親役のメヘル・ヴィジュも、鬼気迫る封建的な父親役を演じた父親役のラージ・アルジュン(Raj Arjun)も迫真の演技で、夢や恋を追う若い世代との対比が、物語にいっそうの深みを増している。
アーミル・カーンは、傲慢でいかがわしいが、音楽の才能を見抜くことに関しては天才的なプロデューサー役。
シリアスなストーリーの中で唯一のコミカルな役柄で、彼が登場するたびに映画の空気感が変わり、笑いが起きる存在感はさすがだ。
このあらすじに書かれていない細やかな伏線もすばらしく、150分の長丁場だが、誰もが飽きることなく楽しめて感動できる作品になっている。

インシアの歌を吹き替えたのは、2001年生まれのプレイバックシンガー、Meghna Mishra.
幼さと力強さを兼ね備えた歌声が印象的で、この映画でいくつもの映画賞・音楽賞に輝いた。

シャクティが提案した無内容でセクシーなダンスミュージックの代わりに歌うことを選んだのは、若き日のシャクティが作ったラブソング"Nachdi Phira".

曲調にも歌い方にもインドっぽい要素がほとんどないので、典型的なインド映画のミュージカルシーンが苦手な人にも違和感なく受け入れられるはずだ。
映画のストーリーにも見事にはまっており、映画のなかで見ると、この歌の魅力は何倍にも増して聴こえる。

古い価値観からの解放と夢や自由の追求、世代間の断絶というインドの娯楽作品の古典的なテーマがこの作品のタテ糸であるとすれば、ヨコ糸はインターネット時代に抑圧された立場の女の子がどう夢を実現させるかという現代性だ。
古典的な主題に、インターネットという現代的なツールを取り入れ、音楽を通して夢の実現を図るという構図は、今年本国で大ヒットしたヒップホップ映画"Gully Boy"とも対比できる。
「映画"Gully Boy"のレビューと感想」

どちらの作品も、主人公が自身の育った環境のなかで名乗ることになった「芸名」が映画のタイトルになっており、自分の音楽をようやく手に入れたPC("Gully Boy"の場合はiPad)を使ってYoutubeにアップすることで成功への道を歩んでゆく。
ムンバイのスラムを舞台にした"Gully Boy"とは、作品の質感こそ全く違うが、とてもよく似た構成なのだ。

PCを手に入れたインシアは、母と弟とともにネット上の音楽や映画を楽しみ、ともに踊り、新しいレシピの料理に挑戦する。
姿を隠して歌う動画をアップロードしたインシアの「大勢の人が歌を聴いてくれたわ!会ったこともない人たちよ!」 というセリフは、インターネット環境を手に入れることで、飛躍的に世界が広がり、自身の才能ひとつで経済的、地理的、社会的なさまざまなギャップを乗り越えて成功できる「インドの新しい夢」を象徴するものだ。

「親子の価値観の対立」は、インド映画で頻出するテーマだが、この作品でも大きな意味を持っている。
インシアのいちばんの理解者である母は、彼女が音楽を楽しむことを容認しているが、音楽が彼女のキャリアになるとまでは思っておらず、女性が従属的な立場で生きるしかないことを受け入れている(というか、他の生き方を知らない)。
古い価値観のなかで考えることをやめてしまった母の生き方は、才能と機知でチャンスをつかみ、現状を打開しようとするインシアとは見事に対照的だ。

封建的な考えを持ち、家族を束縛し、ときに暴力すら振るう父親は、夢や自由を阻害する徹底的な悪役。
"Gully Boy"の主人公Muradの父親がそうであったように、インシアの父もまた、娘が音楽の道に進むことを認めない、古い価値観の象徴として描かれる。
だが、丁寧に映画を見てゆくと、彼もまた彼なりに家族を愛していることが示唆されている部分がある。
インシアの弟への接し方もそうだし、学校でも塾でも授業そっちのけで音楽のことばかり考えている娘に対して心配し厳しく接するのも、常軌を逸した怒り方さえ別にすれば、そこまでおかしなことではない。
暴力は論外としても、女の子の誕生を喜ばず、娘に良い結婚をさせるために、音楽に夢中になるよりも高い学歴を求める父の価値観もまた、彼だけの悪徳ではなく、彼が生きてきた時代や社会によって育まれたものなのだ。
保守的な価値観の中で生きてきて、家族のために遅くまで働いている父が、妻と子どもが自分とは違う価値観の中に生きるようになってしまったことに、孤独と焦燥のなかにいるであろうことは想像に難くない。
この映画では、分かりやすい「悪役」として描かれているが、新しい時代の考えについてゆけず、父もまた苦悩していることを丁寧に描けば、また別のインド社会の一面を表現することもできただろう。
(そこを描ききらなかったことで、娯楽作品としてのこの映画の価値が下がっているわけではないが)
映画のなかでは「束縛の象徴」として、逃避すべき存在として描かれているが、ここに描かれた「断絶」は、インド社会全体の断絶でもあり、逃避以外の解決策が提示されないのは、いささか絶望的でもある。

また、信じられないほどのYoutubeの再生回数を叩き出し、有名音楽プロデューサーやインドじゅうの人々から絶賛されるほどの才能を持っていないと、古い価値観の束縛から自由になれないのかと思うと、やはりこの映画で描かれたような「成功」は一般庶民からは遠い夢なのだろうな、と感じさせられたりもした。

この『シークレット・スーパースター』は、こんなふうに現実の社会問題を扱いながらも、優れたインドの現代劇がいつもそうであるように、爽快な娯楽作品として、非常に高い完成度を誇っている。
インドの社会問題と関連して、少しネガティブな感じのことを書いてしまったが、映画を娯楽として楽しむ上では全く気にしなくて良い視点なので、あしからず。

試写を見ていて、たくさんのインドのミュージシャンのことが頭に浮かんだので、そのうち何組かを紹介してみたい。

まず最初に紹介するのは、懐かしのボリウッド映画のヒットソングをロックアレンジでカバーし、Youtubeにアップしてスターとなったバンド、"Sanam".
これは1972年の映画"Mere Jeevan Saathi"からの楽曲"O Mere Dil Ke Chain".


今ではモルディブロケまで行うほどに成長し、この1970年の映画"The Train"のカバー曲"Gulabi Aankhen Jo Teri Dekhi"は1億ビューを超える視聴回数を叩き出している。

「Youtubeでスターダムにのし上がる」とか「無内容な最近のダンスミュージックよりも、昔の心のこもった音楽のほうが良い」というテーマは、まさに「シークレット・スーパースター」と重なるものだ。

ムンバイの女性ラッパー、Dee MCは、インド社会で抑圧されがちな女性のエンパワーメントをテーマにした楽曲を数多くリリースしている。

父親が海外に出稼ぎに出ていたために、家で気兼ねなくインターネットを使うことができ、ヒップホップに出会って、家族からの反対にもめげずにラッパーとなったという彼女は「ヒップホップ版インシア」だ。
この曲は、生理を不浄なものとされてきたインド女性の解放をラップする"No More Limits".
彼女については以前の記事「インド女性のエンパワーメントをラップするムンバイのフィーメイル・ラッパーDee MC」で詳しく紹介している。

映画の中に、お母さんの無償の愛を讃える歌、"Meri Pyaari Ammi"が出てくるが、家族への愛情をストレートに出すお国柄のインドでは、こうした「お母さんに捧げる歌」がたくさんある。

曲の冒頭で、鉛筆とゴムで即席のカポ(ギターのフレットを抑えるための器具)を作るところ、あり合わせのものでどうにかして音楽をしようとするインシアの一途さが伝わってくる、好きなシーンだ。
この曲を聴いて思い出したのは、女性シンガーAbhilasha Sinhaの"Mother".

この曲は、かつてはKomorebiの名前で活動するエレクトロニカアーティストのTarana Marwahらとのトリオを結成していたAbhilashaのソロデビューシングルで、インドを遠く離れてニューヨークで暮らす彼女が故郷の母を思って作曲したもの。
(関連記事:「母に捧げるインドのヒップホップ/ギターインストゥルメンタル」

映画のなかでは、落ちぶれているが腕は確かなボリウッドの音楽プロデューサーのシャクティ・クマールがインシアの才能を評価してプロデュースを申し出るが、インディーミュージックの世界でも、若い才能をすでに世に出ているミュージシャンがサポートした事例がある。
ジャールカンドのラッパーTre Essと、ギタリストのThe Mellow Turtleがプロデュースしたのは、同郷の盲学校の生徒たち、Dheeraj & Subhashによる楽曲"Dil Aziz"だ。

歌っているDheerajは15歳、作曲したSubhashはまだ14歳。
幼さと深みの同居する歌声に、ふとインシア(というか、プレイバックシンガーのMeghna Mishra)を思い出した。
彼らもまたスターへの道を歩むことができるだろうか(ちなみに現時点でのYoutubeの再生回数は33万回)。


最後に、知らなくてもいいけど知っているとより楽しめる、私が気がついた『シークレット・スーパースター』の面白い部分をいくつか紹介します!

  • 「謝る」ことがテーマとなるシーンがあるが、そこで使われるのはヒンディー語ではなく、英語の「ソーリー」。「インドの言語では『ありがとう』『すみません』『ごめんなさい』がない」とよく言われるが(実際はあるが、ほぼ使われない)、それを象徴するシーンだ。
  • インシアが、アーミル・カーン演じるくせものプロデューサーのシャクティに「ダンスソングじゃないと映画がヒットしないんだ」と言われて「『愛するがゆえに』はバラードばかりでもヒットした」と言い返すシーンがある。シャクティの作った往年のバラードを見事に歌い上げたインシアに、シャクティは「スター誕生だ」と絶賛する。この『愛するがゆえに』は、日本でも公開されたボリウッド映画"Aashiqui 2"のことで、ストーリーはハリウッドの『スター誕生』のインド版リメイクだ。このセリフは訳者さんの粋な心遣いだろう。
  • その"Aashiqui 2"は2013年の大ヒット映画。ゴアのバーで歌っていた歌手志望の女の子を落ちぶれた人気歌手がスターに育て上げるストーリーは「シークレット・スーパースター」にも通じるものがある。だが、"Aashiqui 2"では主人公がスターになる手段としてSNSは出てこず(「スター誕生」という原作があるからかもしれないが)、主人公の歌い方もインシアのような素朴なものではなくて古典音楽をベースにした技巧的なもの。ここ数年のインドの社会や音楽の変化を感じることができる。
  • 物語のなかで「女の子の誕生自体が望まれていない」というインド社会の問題が示唆されるが、実際にインドでは女児は結婚するために高額の持参金が必要とされることから、違法な堕胎が数多く行われている。インドにおける男女別の出生数は、男子1,000人に対して女子は900人という数字からも、問題の深刻さが分かる。この映画の舞台となったグジャラート州では男子1,000人に対して女子は854人と、インドのなかでもとくに女子の出生数が少ない州のひとつだ。ちなみにインドのなかで女子の出生数がいちばん多いのは、進歩的な土地柄で知られるケーララ州で、それでも男子1,000人に対して女子967人。(参考:https://niti.gov.in/content/sex-ratio-females-1000-males
  • 歌手として紹介されるモナリ・タークル(Monali Thakur. 女優も務める)やシャーン(Shaan)は、実際のスター歌手のカメオ出演だ。
  • サウジアラビアへの引っ越しが、夢を失うことと同義に語られているのは、世俗国家であるインドと比べて、女性の自由が大きく制限されているからでもある。

と、いろいろと書かせてもらったが、適度な同時代性と社会性を孕みつつ、150分を飽きずに楽しませ、笑わせ、感動させてくれる『シークレット・スーパースター』は、優れたインド映画がいつもそうであるように、映画という娯楽の面白さがぎゅっと詰まった大傑作!
インドの社会背景を題材にしながらも、近年のインド映画のヒット作品『バーフバリ』や『バジュランギおじさん』と比べると、「インド臭さ」は少なく、インド映画ファン以外にも大いにアピールする内容だ。
ぜひみなさんお誘い合わせのうえご覧になることをお勧めします!

(2019.8.7追記 この映画のパンフレットで、映画の内容と関連して現代インドの音楽シーンを紹介するコラムを書かせてもらいました!映画だけでなく是非パンフレットもお楽しみください!他にも映画をさらに深く味わえる記事が盛りだくさんです!)

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