Padmaavat

2019年06月20日

『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(前編)

(注:記事の性質上、映画のネタバレを含みます。未見でネタバレを望まない方は、ここでお引き返しください)

全国で公開中の歴史大作映画『パドマーワト 女神の誕生』(サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督)。
その美学とヒロイズムに貫かれた圧倒的な世界観については、以前このブログでも書いた通りだ。
「史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)」



「究極の映像美」という明確な売りがある映画とはいえ、その絢爛な舞台はヴェルサイユ宮殿ではなくラージャスターンのチットールガル城砦だ。
日本では、ほとんどの人が、「何それ?どこ?」という状況なわけで、日本の映画ファンが「インドの歴史大作」というなじみのないジャンルのこの作品をどう受け入れるのか興味があったので、映画を見た方がTwitterでつぶやく感想をたまにチェックしていた。
予想通り、「ディーピカーが神々しいほど美しかった!」とか「ランヴィールの狂いっぷりがすごかった!」とか「めくるめく映像美の酔いしれた!」といった、美や演技に関するものがほとんどだったのだが(『北斗の拳』を連想したアホーは私くらいだったようだ)、そのなかにいくつか気になるものがあった。

曰く、「冒頭に『サティ(夫に死なれた未亡人の焼身自殺)を推奨するものではない』とか言っておきながら、思いっきり殉死を美化してるのはいかがなものか」とか、「インドとパキスタン、ヒンドゥーとイスラームの対立が激化しているこのご時世に、アラーウッディーンを肉をむさぼりハーレムに女をはべらせるステレオタイプな悪役スルターンとして描くのはよろしくない」とか「バジュランギおじさんの爪の垢を煎じて飲ませるべき」といったもの。
「原作が古典なんだからしょうがないじゃん」とも思ったのだが、こういった感想はだいたいインドに詳しい方が書いているので「いくらスーフィー(イスラームの神秘主義者)の叙事詩が原作とはいえ」とあらかじめ断っていたりして、ぐうの音も出ない。
要は、インド社会の中でマイノリティーであったり弱者であったりするムスリムや女性に対しての配慮に欠ける、ヒンドゥーナショナリズム的で保守反動的な映画だという、実にまっとうな批判なわけだ。

確かに、こうした視点は重要である。
実際にこの映画はマレーシアでは「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったというし、インドでは公開前に「ヒンドゥーの王妃とイスラームのスルターンのラブシーンがある」という噂が立ち、逆にヒンドゥー至上主義者から反対運動が起きている。
『パドマーワト』はインドでもほかの国でも、宗教的なバックグラウンドと結びつけて捉えられており、日本のファンだけ能天気にそのへんの事情に無頓着というのも、あんまりよろしくないような気がする。

この問題についての私のスタンスを明確にしておくと、「古典が原作であり、過去が舞台である以上、現代の価値観と合わない部分があるのは仕方ない」というものだ。
インドの歴史において、かつては侵略者だったムスリムが、現在はマイノリティーであるというねじれた現実がある以上、こうした議論が避けられないのは致し方ないことだ。
映画を制作するうえで、必要以上に「ポリティカル・コレクトネス」にとらわれないバンサーリー監督の姿勢は、むしろ健全であるとも感じた。

それに、このストーリーの主人公は実質、ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンで、確かにステレオタイプな暴君として描かれているかもしれないが、それでもその描かれ方は、率直に言って非常にカリスマ的で「かっこいい」ものだ。
彼は『北斗の拳』のラオウや、『スターウォーズ』のダースベイダーのような、強さと誇りを併せ持った「愛すべき悪役」として描かれている。
ストーリー上、悪役として描かなければならないという前提のもとでは、最良の描かれ方をしているのではないだろうか。
この映画のなかでは、ことさらに宗教の違いが強調されているわけではなく、国と国、王と王との戦いがテーマであり、今回はその中の敵役がイスラームだった、ということだと解釈している。

とはいえ、これはヒンドゥーもイスラームもほとんど存在しない極東の島国での感想。
インドの現在の状況を踏まえた上で、「ナショナリズム的で反動的」という批判が的を射たものなのかどうか、できる範囲で確かめてみたいと思う。
そのためには、「ムスリムやインドの女性が、この映画をどう感じたのか」「この映画によって、イスラーム嫌悪や、女性蔑視的な風潮が強まったのか」を調べるしかない。
私にできるのはネットを使って調べることくらいだが、そんなわけで、今回は、インドを中心に、こうした観点から書かれているインドのメディアのレビューを紹介したいと思います。

 まずは、インドのニュースサイトScroll.inに掲載されたこの記事から。
"View from Pakistan: ‘Padmaavat’ puts together every stereotype of Muslims in India" 
(「パキスタンからの視点:「パドマーワト」はインドにおけるムスリムのステレオタイプの寄せ集め」)

パキスタン人の記者によるこの記事の冒頭では、パキスタンの教育では、南アジア地域の歴史のなかではヒンドゥー国家こそが暴君であって、イスラームの国家が人々を解放したと教えられていることが紹介されている。
そうした教育にもかかわらず、著者は、インド映画を見ることによって、ヒンドゥーの人々もまた自分たちと同じような良心のある人間だと知ったと述べている。
歴史教育や歴史の解釈は、ところ変われば真逆にすらなりうるもので、それでも人間の本質は地域や信仰によって変わるものではない、という「バジュランギおじさん」的な真理だ。
そのうえで、著者は、『パドマーワト』が美的な面では非常に優れていると認めるにしても、政治的な部分では人種差別的、性差別的、イスラーム嫌悪的だと指摘する。
この映画のなかのイスラームの描かれ方はあまりにもステレオタイプで、自分がかつてインド映画でヒンドゥー教徒を見て「彼らも同じ良心を持った人間」と感じたのとは真逆な、残虐な描かれ方をしている。
つまり、インドのヒンドゥーコミュニティに暮らす人々が、この映画を見ることによって、ムスリムに残虐な印象を持ちかねない、と危惧しているわけだ。
(著者は、「芸術は'ポリティカリー・コレクト'であるべきか」という論点にも触れており、必ずしもそうあるべきでないとしても目に余る、という意見なのだろう。) 
具体例として、ヒンドゥーの王ラタン・シンと王妃パドマーワティとの関係が愛に満ちたものとして描かれているのに対して、スルタンであるアラーウッディーンと彼の妻との関係は暴力的に描写されている点を挙げており、また夫への殉死であるジョウハルが解放の手段として描かれているなど、女性への重大な人権侵害を美化していると指摘している。
また、パドマーワティがラタン・シンの第二夫人だったという描写が欠けているという言及もあり、この記事は、『パドマーワト』におけるヒンドゥーとイスラームの描き方がフェアではないという批判なのである。

この記事に対する読者の反応がまた面白かったので、いくつかを抜粋して紹介する。
https://scroll.in/article/866261/readers-comments-was-the-portrayal-of-allaudin-khilji-in-padmaavat-islamophobic
(「読者コメント:『パドマーワト』におけるアラーウッディーンの描き方はイスラム嫌悪的だったのか?」)
  • 実際のアラーウッディーンは、野蛮というほどではないにしても、いくつもの国の侵略者であることは事実で、自らが国王になるために叔父を殺した人物である(=残酷な描かれ方もそこまで批判されるべきものではない、ということだろう)。アラーウッディーンの最初の妻は、歴史上は傲慢な人物だったが、劇中ではパドマーワティとラタン・シンを救う優しい人物として描かれている(=イスラームを好意的に描いている部分もある)。パドマーワティは指揮官の反対にも関わらず、単身デリーに乗り込んだ聡明で強い女性として描かれており、劇中の時代背景の中で名誉を守るために死を選んだからといって、それを今日の価値観で女性差別的だと考えるのは未熟である。
  • 著者の分析は正確。この映画は非常に反動的だ。
  • 著者は(名誉を守るための自死である)ジョウハルと、(夫の火葬の火に飛び込んで死ぬ)サティは全く別のものだと認識すべきだ。パドマーワティは自身が性奴隷となることを避けるために、自由意志で死を選んだ。女性蔑視的なのは著者のほうである。
  • 著者は考え不足だ。アラーウッディーンはムスリムとしてではなく、一人の常軌を逸した男として描かれていたし、映画を観に行く人はみんなそのことを理解している。パキスタン人であることが記者の視点に影響したのかもしれない。
  • これはあくまでも映画であって、歴史ではない。それに映画はジョウハルを賛美してもいない。 それは夫が戦争で殺された場合、女性が自分自身を守るためには死ぬしかなかったということを示しているだけだ。 ムスリムの描写に関しては、宗教に関係なく単に支配者として描いているだけであり、その支配者の信仰がイスラームだったということにすぎない。 アラーウッディーンは現在のインドだけでなく、現在パキスタンに属している地域も侵略していた(=現在の印パの対立に関連づけて考えるのはおかしいということだろう)。
  • (前略)いずれにせよ、私は『パドマーワト』を見に行くことはない。パドマーワティがジョウハルを恐れる描き方ならば見にいったかもしれないが。サティ廃止後150年が経った今、それこそが望ましい描かれ方だ。
  • この記事の見解は面白かったけど、映画のネタバレを含んでいるということが冒頭で触れられていなかったことを指摘したい。作品のレビューにネタバレを含むのであれば、免責事項として最初に書いてもらえると助かる。(=『パドマーワト』は最初に免責事項としてフィクションである旨やサティを美化していないことに触れているのだから、そのように見るべきだという皮肉か)
  • どうして記者は、アラーウッディーンの描写がムスリムの王としてのものであり、冷酷な一個人として描かれているのではないと考えるのだろうか?映画のどこで宗教について言及されているのか?記者の豊かな想像力のせいで、このレビューは過剰なものになっている。
  • この記事は新しい視点に気づかせてくれた。私はインドの都市部で育った53歳のヒンドゥー教徒だが、自分のまわりには多くの「反イスラム・バイアス」がある。著者は、このようにすでに偏ってしまっている社会の中で、この映画が、とくに若者によって、どのように解釈されるおそれがあるか、そして監督がどのような描写の仕方を選んでいるのかについて、優れた指摘をしている。私も、非論理的な部分では、反イスラム・バイアスを持っていた(今も持っているかもしれない)ことを認めざるを得ない。しかしパキスタンのテレビ番組を見て、そこに住む人々も我々と変わらないということを理解することができた。たとえこうした点に気づくのがインドのコミュニティの10%だとしても、今後の印パ関係をより良くし、ムスリムの性格のステレオタイプな解釈をしなくて済むようにしてくれたことについて、記者に感謝したい。

記者に同意する意見もいくつかあるが、アラーウッディーンの描写はムスリムとしてではなく一人の暴君としてのものであり、ジョウハルについても当時の歴史の文脈ので捉えるべきだという反論が目立つ。
ちなみに、名前を見る限り、ほぼ全てがヒンドゥー教徒からのコメントのようだ。


女優としての数々の受賞歴があり、サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督作品への出演歴もあるスワラ・バスカル(Swara Bhaskar)は、女性としての立場から、『パドマーワト』を批判している。
https://thewire.in/film/end-magnum-opus-i-felt-reduced-vagina
(‘At The End of Your Magnum Opus... I Felt Reduced to a Vagina – Only’ 「あなたの傑作は、結局のところ…女性器に矮小化されてしまっている…ただそれだけに」)

この批評で、バスカルは、バンサーリー監督への手紙の形式を取って、まず多くの反対運動にも関わらず、犠牲者を出さずに公開にこぎつけたこと、そして出演者のすばらしい演技に祝意をあらわしている。
そのうえで、この映画に登場する女性は、男性の「性の対象」でしかないという観点からの批判を繰り広げている。
彼女は、全ての女性には自分の人生を生きる権利があり、性的なだけの存在では決してなく、仮にレイプ被害にあったとしても人生は生きるに値することを強調している(つまり、女性が敵への服従よりも死を選ぶジョウハルの描写を批判しているわけだ)。
いくら冒頭で「サティを美化しているのではない」と宣言しても、都市部では女子学生が、農村部ではアウトカーストの女性がレイプされ、必死の抵抗にもかかわらず殺害されている現代のインドで、このような描き方をするべきではないと舌鋒鋭く主張している。
また、ジョウハルが決して遠い過去の話ではなく、印パ分離独立の際にも、女性が他宗教の男性からの性暴力から逃れるために行われており、決して大昔の歴史の一部として美化できるものではないとも述べた上で、それでも監督の表現の自由のためであれば、自分もともに戦うことを宣言して、手紙を結んでいる。


こうした批評を読むと、『パドマーワト』のムスリムや女性の描き方に対する意見の違いは、そもそもの視座が違いが理由となっていることが明らかになったと思う。
すなわち、批判的に見ている人たちは、この物語を現代の物語として見ており、アラーウッディーンの描写を残虐なムスリムのステレオタイプとして捉えている。
一方で、映画の描き方に問題がないと考えている人たちは、この物語を歴史を舞台にしたフィクションとして見ていて、アラーウッディーンの描写は宗教に関係のない暴君の典型だと捉えている。

客観的に見ると、アラーウッディーンがムスリムであったことは紛れのない歴史的な事実だが、バンサーリー監督は、この映画の中で信仰をことさらに強調する描き方をしないよう、気を配っているように思える。
強烈な悪役として描く以上、表現者としての配慮をしたのは確かだろう。
その配慮が十分であったのか、それとも、そもそもスルタンを暴君として描くこと自体、今日のインドではすべきでないのか、という問いとなると、もはや誰もが納得できる答えを出すことは不可能だ。

また、この視座の違いは、インド社会の中で弱者の地位に甘んじているムスリムや女性としての立場に基づくのか、それとも彼らの危機感の対象である、ヒンドゥーもしくは男性としての立場に基づくのか、という違いでもある。

マイノリティーからの「自分たちが脅かされるのではないか」という異議申し立てに対して、マジョリティーの側が「心配には及ばない」と答えているという図式である。
とはいえ、マイノリティー側は、直接的な影響ではなく、ムスリムや女性により抑圧的な「風潮」が静かに強まることに対して危惧を抱いているのだろうし、そういった風潮がこの映画のせいで強まったのかどうかということについては、これまた測りようがない。
(マイノリティーの危惧にはそれだけの理由があり、映画の評価とは別の部分で根本的な対策が必要であることは言うまでもないが)

それにしても、インドで、一本の映画に対して、メディア上でここまで健全な、成熟した議論が行われているということに、うらやましさすら覚えてしまうのは私だけではないだろう。
議論好きで理屈っぽいインド人の、最良の部分が出ている感じである。

次回、後編では、こう言ってはなんだが、さらに面白い『パドマーワト』批判と批評をお届けします。
歴史的な観点からの批判と、さらに心理学的な観点からの驚愕の映画分析!
乞うご期待!
(つづく) 


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goshimasayama18 at 21:01|PermalinkComments(0)

2019年04月26日

『北斗の拳』をインドで実写映画化してくれないものか

前回、話題のインド映画(ヒンディー語)『パドマーワト 女神の誕生』について、「『北斗の拳』の実写版のようだった(いい意味で)」という感想を述べたが、そういえば、以前大ブームとなったテルグ語映画の『バーフバリ』を見たときも同じような印象を受けたことを思い出した。
暑苦しいほどのヒロイズム、荒唐無稽なほどの強さや精神力を、どこか冷めたメタな視点を入れずに違和感なく表現できるのは、いまや世界中でインド映画だけだ。
インドなら『北斗の拳』の世界観を完璧に映像化できるはず。
多くのファンが想像し、そして諦めた『北斗の拳』の実写映画化を、誰かインドで実現してくれないだろうか。

ハリウッドによる日本のマンガやゲームの実写化は、これまで世界中のファンに数知れない失望をもたらしてきた。
『ドラゴンボール』『スーパーマリオ』『ゴジラ』…我々には、無用なアメリカナイズや脚色によって数々の名作が台無しにされてきた苦い思い出がある。
しかも、最近ではさらに『ポケモン』とか『君の名は。』とか『進撃の巨人』までアメリカで実写映画化されようとしていると聞く。
アニメファンでなくても、これ以上、ハリウッドに日本の財産ともいえるコンテンツをめちゃくちゃにされるのを見たくはないという人たちは多いだろう。

だが、インドならやってくれるはずだ。
「世紀末を舞台に、伝説の暗殺拳の継承をめぐって戦いが繰り広げられる」という破天荒なストーリーを余計なアレンジ無しで表現できるのは、インド映画をおいて他にない。
そして、強さと悲しみを抱えた救世主、覇道を突き進む冷酷なダークヒーロー、慈愛に満ちたヒロイン、義を貫くサブキャラクターなどの強烈すぎる登場人物を完璧に演じることができるのもまた、インド人俳優をおいて他にないはずだ。

その理由は何故か。
登場する男性キャラがほぼ全員マッチョである『北斗の拳』を、もし日本やアメリカで映画化するとしたら、出演する俳優を限られた肉体派スターの中から選ばなければいけないという制約があるが、インド映画界においては、男性スターはほぼもれなく全員筋肉質。
単純に演技力やキャラクターのイメージに近い俳優を選ぶだけで良い。
限りない愛と慈悲をたたえた女性キャラクターたちも、美しすぎるインド人女優が演じれば、全く不自然さを感じないだろう。
インド人俳優たちは、インドの中ではかなり色白な人が多いので、日本人の目線で見ても、少なくともハリウッド俳優に演じさせるよりは違和感が少ないはずだ。
彼らがもれなく目鼻立ちがはっきりした劇画的な美男美女であることもポイントが高い。
原哲夫先生が描くキャラクターのイメージにピッタリだ。
インド映画と『北斗の拳』両方のファンなら、この役はこの俳優にやってほしい、というアイディアがいくらでも出てくるだろう。

『バーフバリ』や『パドマーワト』を見れば分かる通り、昨今のインド映画では、映像技術や特殊効果に関してもハリウッドに引けを取らないものを持っている。
少なくとも日本の子供向け特撮映画よりははるかに高いレベルに達している。
北斗神拳の異次元の戦いも、完璧に映像化してくれるに違いない。

もうお分かりだろう。
『北斗の拳』を実写映画化するとしたら、日本でもハリウッドでもなく、どう考えてもインドしかありえないのだ。


インドと『北斗の拳』といえば、忘れられない思い出がある。
もう1年以上前の話になるが、友人のインド北東部のデスメタル・アーティストが、突然Facebookのプロフィール画像をこの絵に変えたのだ。
omae wa mou shindeiru

それだけでも十分びっくりしたが、これに対して彼や彼の友人たちが、コメント欄に日本語で「Omae wa mou shindeiru」とか「Nani?」とか書いているのを見て、さらに驚いた。
彼に「これが『北斗の拳』のケンシロウって知ってるの?」と聞いたところ、「もちろん知ってるよ。この『お前はもう死んでいる』『ナニィ?』っていう動画がすごく流行ったんだよ」とのこと。

また別のムンバイの友人も、前回の記事をGoogle翻訳で読んで「何か『北斗の拳』(Fist of the North Star)に関連したことを書いたみたいだけど、何だって?」と連絡してきた。
彼もまた「お前はもう死んでいる」の動画を知っていたらしい。
さらに彼からはこんな動画を教えてもらった。
インド版「お前はもう死んでいる。ナニィ?コンピレーション」。こんなの作ってる人もいるんだ!


そう。インドでもサブカルチャー好きの若者たちの間では、『北斗の拳』はもう十分に知られているのだ。
分かりやすい勧善懲悪、過剰なまでの悲劇性、愛、宿命、そして派手なアクション。
『北斗の拳』はインド映画と共通する、インドの人々が大好きなテーマをいくつも持っている。
悲しい愛と胸のすくようなヒーローの活躍は、インドでも大ヒットするに違いない。
誰かインドの映画監督に、「こんな素晴らしい原作がありますよ!」と紹介してくれないものだろうか。
この「お前はもう死んでいる」「ナニィ!」の名シーンに関しては、世界中でいろんな種類の面白動画が作られていて(気になる人はYoutubeで検索を!)、あらゆる国で有名になっているのだ。
このシーンをかっこよく映像化することができれば、世界中でヒットさせることも夢ではない。


ちなみにインドと北斗の拳といえば、ケンシロウはシク教徒の悪党とも戦っている。

『北斗の拳』は第一話で舞台が日本であることが示唆されているが、トキが幽閉されていたこのあたりは核戦争後の西葛西だろうか。

もし『北斗の拳』がインドで映画化されるとして、ひとつだけ注文をつけるとしたら、頼むからケンシロウやラオウにダンスを踊らせるようなことはやめてくれ、ということだろうか。
そこだけは、ひとつよろしくお願いします。



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2019年04月25日

史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)

6月7日に待望の日本公開が決まったインド映画『パドマーワト 女神の誕生』(原題"Padmaavat"、ヒンディー語。配給Spacebox)の試写を、インド・イスラーム研究者の麻田豊先生と鑑賞するという素晴らしい機会をいただいた。
この作品はインド映画史上最高額の制作費をかけた超大作で、昨年インド国内で大ヒットを記録したもの。
これがまた最高だったので、今回は音楽を離れて、この映画の話題を書いてみたいと思います。

予告編はこちら

この『パドマーワト 女神の誕生』は、16世紀のラクナウ(現ウッタル・プラデーシュ州の州都)地方のスーフィー(「イスラーム神秘主義者」と訳される)詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤシーによる叙事詩を映画化したもの。
原作となった叙事詩は、13世紀から14世紀 にかけてのインド北部の史実を題材としたもので、今日でもインドで親しまれている物語だというから、さしずめ日本でいう「平家物語」とか「忠臣蔵」のようなものなのだろう。

この映画は当初インドで2017年12月に公開される予定だったが、ヒンドゥー至上主義団体からの抗議のために1ヶ月以上公開が延期され(わりとよくあることではあるが)、またマレーシアでは逆に「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったといういわくつきの作品だ。 
『女神の誕生』という邦題のサブタイトルや、「その"美"は、やがて伝説になる」というキャッチコピーは、バーフバリ以降急増している女性ファンを意識したものと思われるが、とことんこだわったというふれこみの映像美にも増して印象に残ったのは、愛や義や野望に忠実に生きる登場人物の苛烈で劇画的なかっこよすぎる生き様だった。


あらすじをごく簡単に説明してみる。
義を重んじるメーワール王国の王ラタン・シンは、シンガラ国(現スリランカ)出身の絶世の美女パドマーワティと恋に落ち、妃とした。
同じ頃、ハルジー朝では己の野望のためには手段を選ばない暴君アラーウッディーンが、国王である叔父を亡き者にしてスルターンの座につく。
パドマーワティの美貌の噂を聞いたアラーウッディーンは、王妃を我がものにすべくメーワール王国に攻め入るが、強固なチットール城に阻まれて退却を余儀なくされる。
だが、和睦を持ちかけると見せかけて奸計を仕掛けたアラーウッディーンは、国王ラタン・シンを捕らえ、デリーの居城に幽閉してしまう。
アラーウッディーンはラタン・シンの身柄と引き換えにパドマーワティをデリーに誘い出そうとする。
しかしパドマーワティの決意と機知、そしてアラーウッディーンの第一王妃メヘルニサーの計らいによって、ラタン・シンはデリー脱出に成功する。
だがこれでアラーウッディーンが諦めるはずもなく、ハルジー朝は秘密兵器を携えて再度のメーワールを侵攻する…。


ヒンドゥーのメーワール王国とイスラームのハルジー朝の戦いの物語ではあるのだが、物語の主眼は宗教同士の戦いではなく、劇画的なまでにキャラが立った人間群像の生き様だ。
戦いの場においてさえ信義を優先させる高潔なラージプート(インド北西部の砂漠地帯ラージャスターンの戦士)の王ラタン・シンと、より強大な権力を目指し、欲しいものは全て手に入れようとする暴虐なスルターンのアラーウッディーン。
対照的でありながらも、愚かしいまでに己の誇りのために生きる二人の王に対し、后であるパドマーワティーとメヘルニサーは、国の平和のために知恵と愛で難局に立ち向かう。
あまりにも熱く激しく、そして悲しい物語は、まるであの『北斗の拳』のような印象を受けた。

強大な力を持ち手段を選ばないアラーウッディーンは気持ちいいほどのラオウっぷりだし、美しさと優しさと強さを兼ね備え、強い男たちを虜にするパドマーワティーはユリアを彷彿とさせる。
ラタン・シンとアラーウッディーンが宮中で対峙するシーンでは、宿敵同士であるはずの二人から、王としての誇りを持った者同士の不思議な「絆」さえ感じられ、さしずめ往年の週刊少年ジャンプのごとく「強敵」と書いて「友」と読みたくなってしまった。
(『北斗の拳』をご存知ない方はごめんなさい。世紀末の暗殺拳をテーマにした武論尊原作の名作マンガがあって、今40代くらいの男性は夢中になって読んだものなのです)

インドの古典叙事詩が持つロマンと日本の少年マンガ的なヒロイズムに共通点があるというのは面白い発見だった。
普遍的な人の心を惹きつける物語の要素というものは時代や場所が変わってもあまり変わらないものなのかもしれない。

とにかく、荒唐無稽なまでのキャラクターを凄まじい迫力と美しさで演じきった俳優たちの演技が大変すばらしく、ものすごいテンションで観客を映画の世界に引き込んでゆく。
じつは、物語が転がり始めるまでの序盤は若干退屈な印象を受けていたのだが、後半の怒涛の展開、そして美しくも激しい圧巻のラストシーンを見終わってみれば、呆然とするほどの満足感にしばらく席を立てないほどだった。

アラーウッディーン役のランヴィール・シンは "Gully Boy"(こちらに詳述)の繊細な主人公役とはうってかわって、狂気に満ちたアンチヒーローを鬼気迫るほどに演じきっている(制作は『パドマーワト』のほうが先)。狂気的な野望の持ち主でありながら、夜空の下で詩を吟じたりもする姿は憎たらしいほどにかっこいい。
絶世の美女パドマーワティを演じるディーピカー・パードゥコーンは外見的な美しさはもとより、内面の美しさ、強さ、誇り高さまでも感じさせる演技で、絢爛な衣装やセットの中でもひときわ美しく輝いている。かなり保守的なものになりかねない役柄を、強い意志と機知とたくましさをもった女性として描いたのは、彼女の演技に加えてサンジャイ・リーラ・バンサーリー監督の手腕でもあるのだろう。
高潔なラージプートの王、ラタン・シンを演じたシャーヒド・カプールも義と誇りに生きる男の強さと悲しさを完璧に表現し、ランヴィールとの素晴らしい対比を見せている。

己のプライドに生きる男たちと同様に、いやそれ以上に強烈な印象を残すのが誇り高き王宮の女性たちだ。
美しく、賢く、強い意志を持った女性たちが、悲劇的なストーリーの中で見せる気高さは何にもまして際立っており、「ラージプートの男たちが強いのは、強い母がいるからですね」という台詞がとくに印象に残った。
また詩人や宦官の奴隷、王に忠誠を誓う戦士といった脇役たちもそれぞれキャラが立っていて、ストーリーに花を添えている。

「究極の映像美」というふれこみに違わず、もちろん映像も素晴らしい。
20年前に訪れたラージャスターンでは、乾燥した大地に映える極彩色の民族衣装が印象的だったので、映像美と聞いてめくるめく色の洪水を想像していたのだが、予想に反してこの映画の基調となるのはセピア色を基調とした深みのある映像。
広大な砂漠や壮麗な王宮、絢爛な衣装を落ち着いた色調で描いた映像は、この壮大な歴史ドラマにふさわしい重厚さを演出している。

以下、映画を見るときにぜひ注目して欲しい部分。
(ほとんどが麻田先生の受け売りですが…)

・制作途中に数々の抗議や脅迫を受けた映画というだけのこともあって、冒頭に長々とした免責事項の説明がある。曰く、「この映画の地名、言語、文化、思想、伝統、衣装…等はフィクションであり、いかなる信仰や文化も軽んじる意図はない。サティ(インドの法律で禁止されている寡婦の殉死の習慣)を推奨するものではない。動物が出てくるシーンにはCGが使われ、実際の動物は大切に扱われた」云々。ちなみに制作中には前述の反対の声もあったというものの、映画が公開になると評価はほぼ賛辞ばかりになったらしい。

・映画の中で詩人として言及されるアミール・フスローは13世紀〜14世紀にかけて活躍したスーフィーの詩人、音楽家で、カッワーリーの創始者、タブラの発明者でもあり、北インドの古典音楽であるヒンドゥスターニー音楽の基礎を築いた人物である。

・アラーウッディーンが叔父から贈られた従者カフールは、字幕では「贈りもの」としか書かれていないが、実際は当時のイスラーム王宮に多数いた宦官の奴隷という設定である。その後のアラーウッディーンへの同性愛を思わせる場面は、こうした設定が背景となっている。

・戦闘シーンではメーワール王国の太陽の旗とハルジー朝の三日月の旗が対照的だが、実際にメーワールの紋章は太陽とラージプート戦士の顔を象ったもので、三日月はイスラームの象徴である。

・この映画にも『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で見られたような、ムスリムがヒンドゥーに対してヒンドゥー式のあいさつ(お礼)の仕草(両手を合わせる)をし、それに対してヒンドゥーがイスラーム式に「神のご加護を」と言う場面がある。女たちによるこのシーンは、男たちの戦いを描いた映画のなかで非常に印象的なものになっている。

・パドマーワティだけが、鼻の中央にもピアスをしていたが、何か意味があるのだろうか。王妃という地位を表すもの?

・サブタイトルに「女神の誕生」とあり「パドマーワティが女神のように崇拝されている」との説明があるが、物語の中でも現実世界でも、神々の一人として崇拝されているわけではない。パドマーワティの人気はあくまで伝説上の人物としての尊敬であり、信仰とは別のものだ。

・映画の中で「尊厳殉死」という漢字があてられている「ジョーハル」は、戦争に敗北した際に、女性たちが略奪や奴隷化を防ぐために集団で焼身自殺するというラージャスターンでかつて見られた風習である(井戸に飛び込んだりすることもある)。冒頭の免責事項にあるサティは、寡婦が夫の火葬の際に、夫の亡骸とともに焼身自殺する風習で、法律で禁止されているものの近年まで行われていたとされる。

・映画では悪役として描かれているハルジー朝だが、この「デリー諸王朝時代」はヒンドゥーとイスラームの習慣や文化が融合し、多様な文化が発展した時代でもある。この時代を多様性や寛容の象徴として'Delhi Sultanate'というアーティスト名にしたのが、デリーのスカバンドSka VengersのフロントマンTaru Dalmiaだ。彼は昨今の宗教的ナショナリズムに反対し、BFR Soundsystem名義で社会的な活動にも取り組んでいる。
「Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」

・サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督は音楽の才能にも恵まれており、この映画を彩る音楽も監督の手によるもの。インド古典音楽のエモーションとハリウッド的な壮大さが融合した楽曲が多く、作品をより魅力的なものにしている。とくに、物語の舞台となった北インド独特の力強いコブシの効いた古典ヴォーカル風の楽曲は必聴。

と、一度見た限りの印象(と麻田先生から教わった知識)ではあるが、ぜひこうした枝葉の部分にも注目して楽しんでいただきたい。


さすがに話題の大作というだけあって、昨年日本で英語字幕での自主上映が行われた時点でかなり詳しい紹介しを書いている方もたくさんいて、中でも充実しているのはポポッポーさんのブログ。
『ポポッポーのお気楽インド映画 【Padmaavat】』
史実や伝説との関係、上映反対運動のことまで詳しく書かれているのでぜひご一読を。


音楽ブログなので最後に音楽の話題を。
ラージャスターンの気高き戦士、ラージプートの誇りは現代にも受け継がれていて、ジョードプルのラッパーデュオ、J19 Squadは、以前このブログで行ったインタビューで、彼らのギャングスタ的なイメージについて、
「ラージャスターニーはとても慎ましくて親切だけど、もし誰かが楯突こうっていうんなら、痛い目に合わせることになるぜ。ラージプートの戦士のようにね」
と答えている。
 彼らの地元である砂漠の中のブルーシティ、ジョードプルの誇りをラップする"Mharo Jodhpur".
城に食べ物に美しい女性たち。地元の誇りがたくさん出てくる中、ラージプート・スタイルの口髭をぴんとはね上げた男たちも登場する。
これが問題のラージャスターニー・ギャングスタ・ヒップホップ。現代的なギャングスタにもラージプートのプライドが受け継がれているのだ。

地元のシンガーRapperiya Baalamと共演した"Raja"は、色鮮やかなターバンや民族衣装、ラクダに馬とラージャスターニーの誇りがいっぱい。

ラージャスターンのヒップホップについては何度か記事にしているので、ご興味があればこちらもお読みください。
「インドいち美しい砂漠の街のギャングスタラップ J19 Squad」
「忘れた頃にJ19 Squadから返事が来た(その1)」
「魅惑のラージャスターニー・ヒップホップの世界」

本日はここまで!
麻田先生、このたびは本当にありがとうございました!


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goshimasayama18 at 00:00|PermalinkComments(0)

2019年03月27日

ヒンドゥー・ナショナリズムとインドの音楽シーン

先日、映画「バジュランギおじさんと小さな迷子」の話題と絡めてヒンドゥー・ナショナリズムの話を書いた。(「バジュランギおじさん/ヒンドゥー・ナショナリズム/カシミール問題とラッパーMC Kash(前編)」
ヒンドゥー・ナショナリズムは、「インドはヒンドゥーの土地である」という思想で、この思想のもとに教育や貧困支援などの慈善活動が行われている反面、ヒンドゥーの伝統に反するもの(例えば外来の宗教であるイスラームやキリスト教)をときに暴力的に排除しようとする側面があるとして問題視されている。
こうした運動は現代インドで無視できないほどの力を持っており、よく言われる例では現在の政権与党であるモディ首相の所属するBJP(インド人民党)は、ヒンドゥー・ナショナリズム団体RSS(民族義勇団)を母体とする政党だったりもする。

このブログで紹介しているようなロックやヒップホップ、エレクトロニックなどの音楽シーンでは、これらのジャンルがもともと自由や反権威を志向するものだということもあって、一般的にこうしたヒンドゥー至上主義的な動きに反対する傾向が強い。
その最もラディカルな例が以前紹介したデリーのレゲエバンドSka VengersのDelhi SultanateことTaru DalmiaのユニットBFR Soundsystemだろう。
彼はジャマイカン・ミュージックを闘争のための音楽と位置づけ、レゲエ未開の地インドでサウンドシステムを通してヒンドゥー・ナショナリズムや抑圧的な体制からの自由を訴えるという、なかばドン・キホーテ的な活動を繰り広げている。

Ska Vengersの痛烈なモディ批判ソング"Modi, A Message for you".
Taruはこの曲を発表したことで殺害予告を受けたこともあるそうだが、命の危険を冒してまで、彼らは音楽を通してメッセージを発信しているのだ。

ヒンドゥー・ナショナリズムについては、地域や所属するコミュニティーや個人の考え方によって、まったく捉えられ方が異なる。
たとえばムンバイのような先進的な大都市に暮らす人に話を聞くと、度を越したナショナリズム的な傾向があるのはごく一部であって、ほとんどの人は全くそんなこと考えずに生活しているよ、なんて言われたりもする。
(ムンバイはムンバイで、シヴ・セーナーという地域ナショナリズム政党が強い土地柄であるにもかかわらず、だ)
こんなふうに聞くと、なーんだ、ヒンドゥー・ナショナリズムなんて言っても、実際は一部の偏屈な連中が騒いでいるだけなんじゃないの?と言いたくなってしまうが、地方では、ナショナリズム的な傾向と伝統的な価値観が合わさって、なかなかに厳しい状況のようなのだ。

昨年8月に書かれたインドのカルチャー系ウェブサイトHomegrownの記事では、インド北部ウッタル・プラデーシュ州の街ジャーンシーの信じられない状況が報告されている。
Homegrown "Communal ‘Hate Songs’ Top The Playlists Of DJs In Jhansi"
さらにそのもとになった記事は、ThePrint "The Hindu & Muslim DJs behind India’s hate soundtrack"

この街では、なんとDJたちがヒンドゥー至上主義や反ムスリム、反リベラル的なリリックの楽曲を作り、大勢の人々が繰り出すラーマ神やガネーシャ神の祭礼の際に大音量でプレイして、住民たちが大盛り上がりで踊っているという。
「シヴァ神がカイラーシュ山からメッセージを送り、サフラン色(ヒンドゥー至上主義を象徴する色)の旗がパキスタンにもはためく」とか「インドに暮らしたければ"Jai Sri Ram"を唱えろ」とか「アヨーディヤーのバブリー・マスジッドを破壊した跡地にラーマ寺院を建てよう」なんていう狂信的で偏見に満ちた曲が流されているというのだ。
"Jai Sri Ram"というヒンドゥーの祈りの言葉は、映画「バジュランギおじさん」では印パ/ヒンドゥーとムスリムの相互理解の象徴として使われていたことを覚えている人も多いだろう。
その言葉が、ここではムスリムに対する踏み絵のような使われ方をしている。
アヨーディヤーというのはイスラーム教の歴史あるモスク、バブリー・マスジッドを狂信的なヒンドゥー教徒が破壊するという事件が起きた街の名前だ。
この事件は現代インドの宗教対立の大きな火種となっており、このリリックはムスリムに対する明白な挑発だ。(Ska vengersを紹介した記事でも少し触れている)

なんだか悲しい話だが、この問題を扱ったこの短いドキュメンタリー映像(6分弱)を見る限り、こうしたヘイト的な曲に合わせてダンスする人々の様子は、憎しみに燃えているというよりもむしろ無邪気に楽しんでいるようで、それがまた余計にやりきれない気持ちにさせられる。

これらのヘイトソングを作成しているDJ達(記事やビデオではDJと呼ばれているが、いわゆるトラックメイカーのことようだ)は、インタビューで「個人的にはムスリムのことを憎んではいない。でも求められた曲を作ることが俺たちの仕事で、こういう曲のほうが金になるんだ」と語っている。
彼らにこういう楽曲を発注して、行き過ぎたナショナリズムを煽動している黒幕がいるのだ。
DJたちもさすがに「モスクの前なんかでこういう曲をプレイするのは問題だね」という意識はあるようだが、保守的な田舎町で音楽で生計を立ててゆくために、てっとり早く金になるヘイト的な楽曲を作ることへのためらいは見られない。

偏見に満ちた思想が音楽を愛するアーティスト自身の主張ではないということに少しだけ救われるが、宗教的な祭礼において、祝福や神への献身よりもヘイトのほうに需要があるというのは、部外者ながらどう考えてもおかしいと感じざるを得ない。

このジャーンシー、私も20年ほど前に、バスの乗り継ぎのために降り立ったことがあるが、そのときはのどかでごく普通の小さな地方都市という以上の印象は感じなかった。
ところが、記事によるとこの地域はリンチや暴動、カーストやコミュニティーの違いによる暴力沙汰などが頻発しているとのことで、インドの保守的なエリアの暗部がさまざまな形で噴出しているようなのである。
地域や貧富による多様性と格差がすさまじいインドでは、ムンバイのような大都市の常識が地方ではまったく通じない。
インドの田舎には古き良き暮らしや伝統が残っている反面、旧弊な偏見が残り、コミュニティー同士が時代の変化のなかで対立を激化させているという部分もあるのだ。

上記のThe Printの記事によると、実際にウエストベンガル州やビハール州では、こうしたヘイトソングがモスクの近くでプレイされたことをきっかけとする衝突が発生しているという。
ふだんこのブログで紹介している都市部の開かれた音楽カルチャーと比較すると、とても信じられない話だが、残念ながらこれもまたインドの音楽シーンの一側面ということになるのだろう。

こうした排他的ヒンドゥー・ナショナリズムの音楽シーンへの影響は、じつは地方都市だけに限ったことではない。
マハーラーシュトラ州のプネーは多くの大学が集まる学園都市で、多数の有名外国人アーティストがライブを行うなど文化的に開かれた印象の土地だが、2018年にはヒンドゥー・ナショナリストたちがここで行われたSunburn Festival(以前紹介したアジア最大のエレクトロニック系音楽フェスだ)をテロの標的としたという疑いで逮捕されている。
(The New Indian Express "Suspected right-wing activists wanted to target Sunburn Festival in Pune: ATS"
この件で逮捕されたヒンドゥー右翼団体'Sanatan Sanstha'のメンバー5人は、ヒンドゥー教の伝統に反するという理由で、EDM系のフェスティバルであるSunburn Festivalや、大ヒット映画"Padmaavat"の上映館に爆発物を仕掛けることを計画していたという。


2018年のSunburn Festivalの様子


"Padmaavat"予告編。主演は"Gully Boy"のRanveer Singhで、彼の奥さんDeepika Padukoneも出演し、大ヒットを記録した映画だ。
こうして並べてみると、もう何がヒンドゥー至上主義者の逆鱗に触れるのか、全くもって分からなくなってくる。

"Padmaavat"に関して言うと、歴史映画のなかでのキャラクターや宗教の描き方についてヒンドゥー、イスラームそれぞれの宗教団体から抗議を受け、撮影の妨害なども行われていたということのようだ。
こうしたタイプの映画への反対運動は頻繁に行われていて、州によっては特定の映画の上映が禁止されてしまうといったことも起きている。

Sunburn Festivalに関しては言わずもがなで、享楽的なEDMに合わせて踊る人々は伝統を重んじるヒンドゥー至上主義者たちにとっては堕落以外の何ものでもないと映るのだろう。
資本主義・物質主義的な価値観の急速な浸透(インドは90年代初めごろまで社会主義的な経済政策をとっていた)に対する反発は、ヒンドゥー・ナショナリズム隆盛の原因のひとつだが、その矛先はこうして新しいタイプの音楽の流行にも向けられるようになった。

今更こんなことを大上段に構えて言うのもなんだが、音楽や芸術は人間の精神の自由を象徴するものだ。
音楽に合わせて肉体と精神を解放して生を祝福するという行為は、有史以前から人類が行ってきたことのはずなのに、自らの価値観に合わないからという理由でそれを(ときに暴力的に)潰そうとする人々がいる。
音楽が好きな人なら、「特定の価値観を持つ人たちが、音楽表現の場を、音楽を楽しむ場を、奪うなんてことがあってはならない」ということに同意してくれるだろう。

だが、我々もインドの過激な伝統主義者たちのニュースを人ごとだとは言っていられない。
ここ日本でも、アーティストの表現をサポートすべきレコード会社が、特定のアーティストが「容疑者」となったことで、彼が関わった作品の配信を停止したり、CDを店頭から回収したりなんていう馬鹿馬鹿しいことがあったばかりだ。
脅迫に屈したわけでもないのに、事なかれ主義の自粛こそが正義だと考え、とても音楽文化を扱う企業とは思えないような判断をしているということに、開いた口がふさがらない。
坂本龍一が言うとおり、いったい誰のための、何のための自粛なんだろうか。
しかも、同じ会社がオーバードーズで死んだジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、明らかにドラッグの影響を受けている(コカイン所持で逮捕されたこともある)ジョージ・クリントンの作品は平気で扱っているというから開いた口がふさがらない。
自粛したければ、個々のリスナーが聴かないことを選べば良いだけだ。


話が大幅に逸れたけど、いろいろと考えせられるインドと、そして日本の状況について書かせてもらいました。
それぞれが、それぞれの好きな音楽を楽しむ。そんな当たり前のことができる世の中が日本に無いっていうのが情けないね。
インドじゃ命懸けで表現に向き合っているアーティストもいるというのに。

A-ZA-DI!! (Freedom)
それではまた。

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