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2021年05月22日

翻訳熱望! "Indian Migrants in Tokyo" インド人は日本でどう暮らしているのか?


英語の本を読むのが遅いので、紹介するのがすっかり遅くなってしまったが、Megha Wadhwa著の"Indian Migrants in Tokyo: A Study of Socio-Cultural, Religious, and Working Worlds"がめっぽう面白かった!
IndianMigrantsInTokyo
 
この本はイギリスの学術系出版社Routledgeの'Studies on Asia in the World'シリーズの一冊として刊行された、在日インド人に関する研究書である。
なんて書くと生真面目で小難しい本を想像してしまうかもしれないが、この本はとにかく読みやすくて面白い。
自分はアカデミックな立場の人間ではないので、学術的な本というと「本来は心躍る面白いテーマでも、平板かつ無味乾燥に書かなきゃいけないもの」という偏見を持っていたのだが(一般書とは違うお作法があることは存じ上げております…)、それはこの本にはまったくあてはまらない。

"Indian Migrants in Tokyo"の内容を簡単に説明すると、「日本に5年以上暮らしているインド人たちへの聞き取り調査をまとめたもの」ということになる。
だが、その内容はインタビュー記録や考察の羅列にとどまらない。
本書は、回答に協力してくれた人々や、著者本人(彼女も5年以上日本で暮らしている「当事者」の一人だ)の人生観と悲喜こもごもが込めらた、読みものとしても非常に面白いものなのだ。
ところが、洋書の研究書/専門書であるこの本はバカ高く、ハードカバーの書籍で16,510円、Kindle版でも6,510円もする(2021年5月時点)。
いくら面白いとはいえ、さすがに個人で買うのはちょっと厳しい代物である。
(幸運なことに、私はたまたま某大学の図書館で借りることができた)

率直に言って、この興味深い本を研究者だけに独占させてしまうのはもったいない。
日本語への翻訳と、もっと安価に読めるようになることを強く期待したいのだが、今回はその時の楽しみをうばわない程度に、この本の内容を紹介したい。


著者のMegha Wadhwaはデリー出身。
世界一周旅行を経験したという祖母の影響で日本に興味を持ち、日本企業での勤務を経て、上智大学のPDとして在日インド人の研究を始めた。(現在はベルリン自由大学に研究者としての籍を置いているようだ)
"Indian Migrants in Tokyo"はその7年以上におよぶ研究の集大成で、この本は、我々にとって遠いようで近く、近いようで遠い東京のインド人コミュニティを、同胞の目から覗き見るという、稀有な体験ができるものになっている。

以下、私が面白いと思った部分をいくつかのトピックとして紹介するが、これはこの本の章立てに沿っているわけではなく、独断で興味深いと感じたところをかいつまんだものだということをお断りしておく。



在日インド人は、宗教や言語や階層といったサブ・コミュニティではなく、「インド人」というアイデンティティの大きいコミュニティとしてまとまりがち!

ご存知の方も多い思うが、インドはひとつの国家でありながら、言語、民族、文化、宗教など、多様すぎるほどの多様性に溢れている。
こうした多様性は我々日本人には想像しづらいものだが、インドをひとつの国ではなく「ヨーロッパ」や「東南アジア」と同じような「地域」だと捉えると分かりやすい。
つまり、インドに28ある州が、国家と同じくらいの独自性を持ち、他と区別できる固有の文化や言語を持っているのだ。
さらに、地域や言語によって「ヨコ方向」に分けられるだけではなく、インドには、カーストや経済状況による「タテ方向」に分けられる階層も存在している。

こうした特性から、英米やドバイのようなインド系住民が多く暮らす国では、インド人たちは母国で属していた集団ごとに、別々のコミュニティを形成する傾向があるという。
(2015年の集計では、アメリカには450万人、イギリスには180万人、UAEには200万人のインド人が暮らしている)
ところが、日本で暮らすインド人は、増え続けているとはいえ35,000人程度で、そのうち東京とその近郊に暮らしているのは20,000人ほどに過ぎない。(いずれも2018年のデータ。地域的にはとくに江戸川区、江東区に多い)
こうした事情から、日本で暮らすインド人たちは、母国での地域、言語、信仰、階層といった壁を超えて、「インド人」としてひとつのコミュニティを作る傾向があるそうだ。
在日インド人たちのこんな言葉がそれを象徴している。

「私はアムリトサル(インド北西部パンジャーブ州)出身のシク教徒ですが、日本で最初にできたインド人の友達はオリッサ(インド東部)から来た女性でした。しかも私はいまだに彼女の宗教を知りません。結婚して東京に引っ越してきたとき、最優先だったのはインド人(の友達)を見つけることでした。(…中略…)夫には男友達が何人かいましたが、私は女友達を探していたんです。(…)その後、交友関係が広がって、今ではシク教徒も、そうでない人も、インド人の友達がたくさんいます」


アムリトサルとオリッサ州(現オディシャ州)はまったく別の言語や文化を持つ地域で、オリッサ出身の友人はおそらくシク教徒ではないはずである。
インド国内やインド人の多い都市に暮らしていたら、この二人は知り合うことすらなかったかもしれない。
また別の在日インド人はこう語る。

「ドバイに住んでいたときは、インド人がたくさんいたので、私は付き合う友だちを選ぶことができました。でも日本ではそんなに選択肢はありません。率直に言うと、(東京では)ドバイやインドにいたら絶対に付き合わなかったような友人も何人かいます。でもここでは、選んでなんかいられないんです。幸いなことに彼らのことを好きになることができましたが、最初のうちは、必要だったから付き合っただけでした。とても孤独だったので、誰もいないよりはましだったんです」

日本にいくつもある言語・地域によるインド人グループ(ベンガル人とか、タミル人とか)は、別のコミュニティ出身のインド人も歓迎して活動しているという。
はからずも、日本での暮らしが、彼らに「インド人」というより大きな帰属意識を感じさせているのだ。



インド人が日本の暮らしで困ること

インド人が日本で暮らすうえで困ることのトップ3は、「言語」「住居」「食生活」。

とくに言語に関しては、古い時代に移住してきた人ほど苦労が大きかったようだ。
彼らのほとんどが流暢な英語を話すが、日本人には英語すら通じないことが多かったからだ。
今では日常生活での言葉の問題は比較的少なくなってはきたものの、こと仕事の場面では、今でも言語面で苦労することが多いという。
そりゃそうだ。
ビジネスで使う日本語は、日本人でも難しい。
言語も文化も全く違うインド人が、話し言葉とは全く違う「平素は格別のご高配を賜り〜」なんて文章を読んだり書いたりするのは苦痛以外の何ものでもないだろう。
(というか、この手のビジネス文はほとんどの日本人にとっても苦痛でしかないと思う)
そのため、海外でのキャリアを追求するインド人の多くは、せっかく日本に好印象を持っていても、日本に見切りをつけて、英語が通じる欧米やシンガポールなどに渡ってしまうという。
(ちなみに日本特有の職場カルチャーについては、合う人も合わない人もいるようだ)
今では世界中に広く知られている通り、インドはITなどの分野で多くの優秀な人材を輩出している国である。
彼らが日本に定着しないということは、日本がそのまま世界市場から遅れをとってゆくことを意味する。
こうした理由で日本を離れる才能ある外国人はきっとインド人以外にも多いはずだ。
日本人としてなんとも耳が痛い話である。


「住居探し」については想像の通り。
ここでも日本の排外主義的な側面(もう少しマイルドに言うなら、外国人を苦手に感じる側面)が彼らの壁となっていて、読んでいてなんだか申し訳ない気持ちを覚える。

興味深いのは(と言っては申し訳ないが)、食に関する問題だ。
インドにはベジタリアンが多く、またノンベジタリアンであっても、日本で一般的な牛肉や豚肉を食べる習慣はほとんどない。
魚を食べることも沿岸部など一部の地域を除いては一般的ではないし、味付けも、出汁や醤油がベースの日本と、マサラの国インドでは全く異なる。
インド人が日本で食べ物に苦労していることは想像にかたくないが、その解決方法はなんともユニークだ。
ベジタリアンの間では、食べられるものが見つからないときに、マクドナルドでパティ抜きのハンバーガーとポテトフライを頼んで、バンズにポテトフライを挟んで食べるというライフハックが浸透しているという。
それが美味しいかどうかは別にして、彼らのたくましさと工夫(いわゆるジュガール〔Jugaad〕の精神)には、いつもながら驚かされる。



インドと日本と男と女

インド人から見た日本の男性像・女性像は、奇妙に映ることもあるようだ。
かつて大阪のインド総領事を務めていたVikas Swarup(ヴィカス・スワループ。映画『スラムドッグ・ミリオネア』の原作の著者としても知られる)の"Accidental Apprentice"には、日本人である登場人物の亡き妻が夫に対して非常に献身的だったという記述が出てくるし、現代インドのベストセラー作家Chetan Bhagat(『きっと、うまくいく〔3 Idiots〕』や"2 States"といったボリウッド映画の原作者でもある)の小説には、日本企業の男性が女性社員を使用人のように扱う場面が出てくる。
インドも保守的な伝統の残る国だが、高い教育を受けてきたインド人にとっては、日本こそ今なお男性上位の保守的な文化の国という印象があるのかもしれない。(これは、この本には関係のない話)

"Indian Migrants in Japan"によると、インド人から見た日本人男性の印象は「会話が長く続かない」「ハードワーキング」「家族より仕事を優先」といったものだそうで、日本人女性には「いつも笑顔」「たくさん食べるのにスリム」「見た目にすごく気を遣ってる(目は私の方が大きいけど)」と感じているようだ。
日本人女性に対しては、インドの女性から「『カワイイ』に囚われることをやめて、もっとリーダーシップを発揮すべき」という指摘もあったが、男性からは「インドの女性より話しやすいし、お酒も一緒に飲めて良い」(インドでは大っぴらに飲酒する女性はまだまだ少ない)なんていう意見も。
ちなみにインド人女性から見ると、「職場ではインド人女性のほうが強いけど、家庭では日本人女性のほうが強い」とのこと。
これには全面的に同意!



日本に来たインド人はどう変わる?

男と女をめぐる話題は続く。
貧富の差の激しいインドでは、中流階級以上の家庭では使用人を雇うことが一般的だが、日本では家政婦は非常に高くつく。
そのため、ほとんどの家庭は夫婦だけでやりくりしなければならない。
このことは悪いことばかりではなく、「結果として、夫が家事や子育てに参加してくれるようになって良かった」という女性からの意見もある。
結婚早々に日本で暮らすことになったある主婦は、インドに帰ったら夫の家族と一緒に暮らさなければならないので、年長者に従わなければならないという恐怖感と、まわりにたくさんの人がいる環境で暮らせる期待の両方を感じているという。

様々な違いがあるとはいえ、インドの人たちにとっても、日本の社会が便利で安全であることや、時間に正確であることは、総じて高く評価されている。
日本で暮らした結果、インドに帰っても時間の正確さを求めるようになってしまう人もいるという。
面白かったのは、日本文化の影響を受けて、在日インド人社会では、インド的な部分と日本的な部分が奇妙に混ざってしまうこともあるという話。
例えば、日本で行われているインドのお祭りだと、スケジュール通りに進まないという時間にルーズな部分はインド的でありつつ、行列にきちんと並ぶところは日本的、なんてこともあるそうだ。

それにしても、この本に出てくるインド人たちの日本社会に対するコメントはいちいち面白い。
たとえば、「日本では社会性と協調性が尊重されているが、インドでは個人と一人一人の努力が重視されている」。
これには同意する人が多いだろう。
ビジネスについては、「日本人は6ヶ月で決めて1ヶ月で仕上げるが、インド人は1ヶ月で決めて、6ヶ月かけて仕上げる」だそうで、これも仕事文化の違いを見事に言い当てている。



在日インド人と信仰

インド人は総じて信仰に厚い。
また、祈りや瞑想といった精神的な活動を大切にしている人たちも多い。

著者もまた、日本での生活の中で祈りの場を求めて、まず仏教のお寺や神道の神社、キリスト教の教会を訪ねてみたという。
しかし、そこにインドの寺院のような祈りや心の平安を見出すことができず、当時中野にあったというヒンドゥー寺院を訪れることになった。
(しかしそこは彼女が思っていた「寺院」とは違って…と話はさらに続くのだが、今は割愛する)
こうした記述からは、日本に暮らすインド人たちが、精神文化を非常に大事にしていることが分かるし、寺院や教会が、宗教的な意味だけでなく、社会的、文化的な集会所としての意味も持っているという考察もとても興味深い。

彼らにとって、信仰とは、自身と神とを繋ぎ人生の指針を示すだけではなく、家族やコミュニティの絆であり、アイデンティティでもある。
とくに、異国の地で子どもを育てる人々にとっては、自身の文化を引きついてゆくためにも、信仰の伝統を守ることは大きな意味を持つのだ。

この本では、ヒンドゥー教、イスラム教、シク教、ジャイナ教、キリスト教を信仰するインド人たちが、ここ日本でどのように祈りの場を設け、信仰生活を守って来たかについて詳細に記されているが、とくに興味深いのは、やはりヒンドゥー、シク、ジャイナ教といったインドで生まれた宗教の話だ。

なかでも、ターバンを巻いた姿ゆえに、日本では良くも悪くも目立ってしまうシク教徒たちの日本社会での奮闘は印象的だ。
彼らは、ときに警察に怪しまれたりしながらも、はじめは仲間が経営するレストランを借りて祈りの場を確保し、やがて専用の寺院を設けるに至る。
しかし、日本でシク教徒が戒律を守って生きるのは大変だ。
髪の毛やヒゲを伸ばすという戒律は上司の理解が得られないし、男の子が女の子と間違われるのをいやがって、髪を切りたがることもあるという。
日本で育った子どもたちが野球やサッカーのチームに入るためにターバンを巻くのをやめたり、逆にチームをやめてターバンを巻き続けることを選ぶケースもある。
こうしたトラブルだけではなく、電気店に務めるシク教徒が、そのターバン姿ゆえに人気となって、おおいに売り上げに貢献しているという例もあるというから、在日インド人の人生もいろいろだ。

各宗教の説明も丁寧で、さまざまな宗教施設での祈りや祭礼の様子も詳しく書かれており、本書はインドの宗教入門としてもよくできている。


本当はまだまだ書きたいのだが、もうずいぶん長くなったし、この本がいつか翻訳されたときの楽しみを奪ってしまうのは本意ではないので、このあたりにしておく。

最後まで面白く読ませてもらったが、できればもっと詳しく書いてほしかった部分もなかったわけではない。
ぜいたくを言えば、在日インド人の暮らしや社会に、他の南アジア諸国(ネパール、パキスタン、バングラデシュなど)出身の人々がどのように関わっているのかも知りたかった。
北インドで広く話されているヒンディー語とパキスタンの公用語であるウルドゥー語は極めて近い言語だし、インドの西ベンガル州とバングラデシュはいずれもベンガル語を公用語としている。
ここ日本で、南アジア出身者たちの国境を超えた営みが、どの程度、どのような形で行われているのか、そのあたりも今後の研究に期待したいところだ。

それから、取り上げられている移民の人選が、ホワイトカラーに偏っているように思えたのも少々残念だった。
できれば、我々が多く接するインド料理店で働く人々などのライフヒストリーも取り上げてもらえたら、より興味深い内容になったのではないかと思う。

とはいえ、これらはこの本の充実度から考えれば、あくまで些細なこと。

もう一度くりかえすが、この"Indian Migrants in Tokyo"はとにかく面白く、興味の尽きない本だった。
小林真樹さんの『日本の中のインド亜大陸食紀行』とか、高野秀行さんの『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』、室橋裕和さんの『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』と同じように、異文化に興味のある人だったら誰でも面白く読めること間違いなし。
日本で暮らすインド人の目線から見た我々の社会の姿に、はっとさせられることも多かった。
この本が翻訳され、日本でも多くの人に読まれるようになることを、祈ってやまない。




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goshimasayama18 at 13:39|PermalinkComments(0)

2021年03月03日

続・タイガー・ジェット・シン伝説 「ヒンズー・ハリケーン」の謎をさぐる



(タイガー・ジェット・シンの半生と、その知られざる本当の人柄については、この全3回のシリーズをお読みください)




タイガー・ジェット・シン財団が行った東日本大震災への支援に対して、在トロント総領事から表彰が贈られたというニュースが大きく報じられた。

NHKの報道によると、今回の受賞を受けて、シンは「津波の被害について聞いたときは胸が張り裂ける思いでした。49年間もの時間を過ごした日本の子どもたちのために、とにかく何かしなければと思いました。近いうちにまた日本を訪れたいです」と語り、被災者支援のために、さらに20,000カナダドル(約170万円)の寄付を行うという。

「インドの狂虎」としてリング内外で暴れ回ったシンがじつは極めて紳士的な人物であり、実業家としても成功しているという事実は、プロレスファンにはよく知られている。
タイガー・ジェット・シン財団のYouTubeチャンネルでは、シンが震災直後の2011年4月に行った支援活動の様子を見ることができる。
プロレスファンとしても、日本人としても目頭が熱くなることを抑えられない映像だ。

それでも、彼はこれまで「狂気のヒール(悪役レスラー)」のイメージを頑なに守り、日本ではこうした側面を一切アピールしてこなかった。
マスコミに対して「ヒールのイメージを損なうことは書くな」と念を押していたという話も聞いたことがある。
シンは明確な引退宣言やセレモニーこそ行っていないものの、すでに76歳。
レスラーとしてはもう10年以上リングに上がっていない。
今回の受賞に対するあたたかいコメントは、ついに日本でもヒールであることから引退したという意味なのだろうか。
彼の素晴らしい人間性が広く知られることはうれしいが、やはりプロレスファンとしては一抹の寂しさも感じてしまう…。


数々の伝説に彩られた「プロレスラー、タイガー・ジェット・シン」ではなく、一人のインド系移民としてのジャグジット・シン・ハンス(シンの本名)のリアルな半生については、以前の3回にわたる特集記事で詳しく紹介した。
それでも彼のキャリアには、謎に包まれた部分がいくつも存在している。
とくに、彼のキャリア初期には、未解明なところが少なくない。

今回は、そのうち2つの謎に焦点をあてて検証してみたい。
その謎というのは、
  • シンのプロレスラーとしてのデビューは、カナダ(1965年)ではなく、シンガポールだという説があるが、どちらが正しいのか?
  • シンはデビュー当時「ヒンズー・ハリケーン」と名乗っていたという説があるが、それは本当なのか?本当だとしたら、いつ、どこで名乗っていたのか?

というものである。
ひとつずつ検証してみよう。


「シンガポールデビュー説」の真偽
「タイガー・ジェット・シン、シンガポールデビュー説」は、例えば以下のようなサイトで見ることができる。
  • シンが日本で最後に参戦していた(2009年まで)団体「ハッスル」のウェブサイトでは、シンのプロフィールはこのように紹介されている。(http://www.hustlehustle.com/free/fighters/?id=1093611933)「兵役を終えたあと、インドでグレート・ガマ流のインド・レスリングを身に付けてシンガポールでプロレス入り、その後、カナダで本格的なプロレスを身に付けて来日!! 新日本プロレスでアントニオ猪木を相手に壮絶な死闘を繰り広げた。サーベル片手に上田馬之助と共に大暴れして日本中を恐怖のドン底に叩き落とした。ハッスルのリングでも、いまだ狂乱ぶりは健在だ。」
  • 日本語版Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/タイガー・ジェット・シン)には「1964年にシンガポールでデビューし、その後カナダに渡ったという説があるが定かではない」という記載がある(2021年2月現在)。
  • ルチャ・リブレ系の情報サイトLuchawikiでは、デビューの時期・場所は「1965年 シンガポール」と紹介されている。(http://www.luchawiki.com/index.php/Tiger_Jeet_Singh
シンが参戦していた「ハッスル」(2009年に活動を休止しているのにまだサイトが存在している!)によるプロフィールは、本人から情報を得ている可能性も高く、それなりに信憑性があると考えて良いだろう。
だが、シンが1944年生まれであることはあらゆる情報源で一致しており、また彼が17歳で(15歳説もある)カナダのバンクーバーに渡ったということも議論の余地がないようだ。
いくら屈強なシンとはいえ、さすがに10代なかばで兵役を終えたとは考えられず、カナダ移住前にシンガポールでデビューしていた可能性はまずないと考えるのが妥当だ。
おそらくだが、これはヒールとして活躍している日本で、カナダでのベビーフェイス(善玉レスラー)時代の経歴をカモフラージュするために用意された偽の経歴ではないだろうか。
シンは、カナダでのインタビューで、「カナダのテレビでプロレスというものを初めて見た」と語っている。
だが、日本で怪奇派レスラーとして活動するには「カナダでフレッド・アトキンス(あのジャイアント馬場のプロレスの師でもある)にレスリングを学んだ」という経歴は少々インパクトが弱い。
そこで、「グレート・ガマ流のインド・レスリングを身につけてアジアのリングでデビューした」というミステリアスな来歴を日本向けに用意した可能性はありそうだ。

2番目の日本版Wikipediaの情報だが、こちらも真実であるとは考えにくい。
日本、アメリカ、メキシコのプロレスのデータを網羅したwww.wrestlingdata.comによると、シンのカナダでのデビューは1965年9月16日、トロントのメイプルリーフ・アリーナだったとされている。
対戦相手や試合時間まで記録されたこのサイトの情報は信頼度が高いと考えてよいだろう。
だとすると、1964年当時、シンはフレッド・アトキンスのもとに弟子入りする前後だったはずで、いくらなんでもデビュー前のまだ半人前のレスラーが海外遠征をしたという可能性は極めて低い。
同様に、Luchawikiの情報も、おそらくはシンが日本向けに伝えた偽の経歴と、カナダでのデビュー年が混同されたものだと考えられる。

しかしながら、プロレスの世界に「絶対」はあり得ない。
もしかしたら、このシンガポール・デビュー説が真実である可能性もなくはないのだが、それはこのあと「ヒンズー・ハリケーン」説と合わせて検証してみたい。



シンは「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームを名乗っていたのか?

シンがデビュー当時名乗っていたとされる「ヒンズー・ハリケーン」という怪しげなリングネームについては、以下のようなサイトで確認できる。

「ヒンズー・ハリケーン」の「ヒンズー」はヒンドゥー教(Hindu)のカナ表記だろうが、シン自体はヒンドゥー教徒ではなくシク教徒である。
とはいえ、ギミックのためにレスラーの国籍やプロフィールを偽ることは日常茶飯事のプロレス界では、シク教徒がインドを代表する宗教であるヒンドゥーのリングネームを名乗ったとしても不思議ではない。
だが、どうしても引っかかるのは、この「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームについての記述があるのは、日本語とスペイン語のウェブサイトだけだということである。
前述のwww.wrestlingdata.comを含めて、英語の情報にはHindu Hurricaneの記述はいっさいなく、Wikipediaでも日本語以外(英語、ポルトガル語、ポーランド語、アラビア語)ではこのリングネームに関する記載はない。
マニアックさでは日本に勝るとも劣らない英語圏のファンが把握していないということは、少なくとも、アメリカやカナダのリングでシンがこのリングネームを使ったことはなかったのではないか。

そう考えると、この「ヒンズー・ハリケーン」も、シンが怪奇派ヒールレスラーとしてのキャラクターのために作りあげた架空の存在ように思えてくる。
日本向けに創作されたプロフィールがスペイン語圏にも伝わった一方で、アメリカやカナダのマット界の一次資料へのアクセスが容易な英語圏では、根拠のない「シン=ヒンズー・ハリケーン説」は広まらなかった。
こう考えるとつじつまが合う。

だが、さらに調査を続けてゆくと、シン来日前に、日本のプロレス誌に「まだ見ぬ強豪」として「ヒンズー・ハリケーン」というレスラーが掲載されていたという情報にたどり着いた。
たとえば、このブログではワニにヘッドロックを決める(なんだそれ)タイガー・ジェット・シンらしき男に「ヒンズ・ハリケーン」のキャプションが付けられた記事が紹介されている。

「ヒンズー・ハリケーン」はやはり実在していたようなのだ。
他のウェブサイトの情報も総合すると、どうやら「ヒンズー・ハリケーン」の名前が掲載されていたのは、1969年から1970年にかけての「月刊ゴング」だったようだ。
シンの初来日は1973年であり、さすがにこの時期から日本向けに怪奇派ヒールとしてのキャラクター作りがされていたとは考えにくい。

前述のwww.wrestlingdata.comでは、1969年3月から1970年の11月までのシンの試合の記録がすっぽりと抜けている。
とすると、この時期、シンは記録の残っていない東南アジア(香港、シンガポール)かオセアニアのリングで戦っていた可能性が高い。

シンガポールはカナダ同様にインド系移民の多い国だが、パンジャーブ系よりも南インドのタミル系の移民が多く暮らしている(シンガポールのインド系住民の約半数がタミル人)。
シク教は北インドのパンジャーブ地方発祥の宗教なので、南インドにルーツを持つタミル人には馴染みがない。
賢いシンが、この地で戦うのにいかにもパンジャーブのシク教徒らしいJeet Singhではなく、Hindu Hurricaneというリングネームを選んだとしても不思議ではない。
シンの新日本プロレスへの来日は、香港で彼のファイトを見た貿易商が猪木に推薦したことだと言われている。
「ヒンズー・ハリケーン」は、シンの東南アジア限定のリングネームだったとすれば、地理的に近い日本にのみその情報が伝わり、英語圏では全く知られていないということも説明できる。

シンが信仰するパンジャーブ地方発祥の宗教、シク教徒は、コミュニティの高い結束力を持つことで知られている。
シンは後に、やはりインド系移民の多い南アフリカのプロレス界のブッカーとして活躍することになるが、こうしたリング外での活躍の裏には、世界中に広がるシク・コミュニティのネットワークがあったはずだ。
この時期のオセアニア、シンガポール、香港(いずれもインド系移民の多い土地だ)などへの遠征も、そのネットワークを利用して行われたに違いない。

そう考えると、シンがカナダでデビューする前にシンガポールでデビューしていた可能性も、否定できないのだ。
シンが故郷のパンジャーブでクシュティ(インド式レスリング)のトレーニングをしていたことは間違いなく、北米ほどレスリングのレベルの高くないシンガポールに何かの用事で立ち寄った際に(それは、カナダに渡る道中のことだったかもしれないし、いったんカナダに渡ったあとの1964年、あるいは65年だったかもしれない)、リングに上がったということも考えられる。
シンガポールデビュー説も、デマだと一蹴することはできない何かがあるのだ。


さらに深まる謎

これで、シンの初期のキャリアに関する謎に一通りの答えらしきものを出すことができた。
そう思っていた矢先に、再び興味深い情報を入手してしまった。

この記事を仕上げるにあたって、神田の古本屋で、「これが猛虎タイガー・ジェット・シンの意外な正体!」という特集が掲載された「月刊ゴング」1976年9月号を購入したのが運の尽きだった。
そこに書かれていたのは、これまでの考察とは全く異なるシンのプロフィールだった。
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この記事が描かれた当時、タイガー・ジェット・シンは新日本プロレスに早くも7度目の来日中だった。
「アジア・リーグ戦」に出場し、8月5日には蔵前国技館でアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級タイトルに挑戦しようという、脂の乗りきった時期である。
この特集では、アメリカのWrestling Revue誌の1968年1月号に「アール・ダーネル」なる記者が書いた5ページにわたる「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事を引用する形でシンのプロフィールを紹介している。

「ダーネル記者によれば、シンは1967年11月末に突如、カナダのマットに出現した。この時、シンは25歳というから現在は34歳ということになる。
シンがいきなり登場したのはカナダのトロントのメープルリーフ・ガーデン。以来、現在までシンはホーム・リングを変えていない(このへんはインドレスラーの堅実さだ)。」

のっけからフレッド・アトキンスのもとで修行し1965年にデビューしたという「正史」とは異なる記述で始まっていて驚くが、著者はWrestling Revueの記事をさらに引用して続ける。

「かれは、インドのパンジャプ(原文ママ。以下同)の名家の出身で父はサルタンであった。かれには、父からパンジャプ地方に4000エーカーという想像もつかないような広大な土地が残されており、かれがレスリングという格闘技に必要以上に興味さえ持たなければ、かれはサルタンのプリンスとして多くの召使いにかしずかれる身分であった。
 ところが、かれは少年時代から恐ろしく強かった。十四歳の時に父のサルタンと一緒に象にのって虎狩りに行き、この貴族の息子は、槍を使って虎を仕止めるという凄いことをやってのけた。
 インドにはインド・レスリング
(軽刈田註:クシュティのことか?)という古来からの格闘技があり、これは、かれが生まれたパンジャブ地方で最も盛んに行われており、かれは少年時代からそのチャンピオンであった。
 インドには様々な種族がいるが、かれはその中で最も勇猛で戦闘の精神に富んでいるといわれるシーク族であり、彼の父のサルタンは、その族長でもある」


虎狩りに関する記述はエキゾチックな個性を際立たせるための罪のない創作だろうが、それ以外もシク教徒を「シーク族」と表していたり、イスラームの王である「サルタン(スルターン)」という言葉が使われたりと全体的に滅茶苦茶な文章である。
ゴングの記者もそこには気づいていたようで、このあと「サルタンというのはトルコ・ペルシア(イラン)の土侯のことでインドではサルタンとはいわない」と冷静に突っ込みを入れている。
(ちなみにシンの父親は実際には軍人で、少佐まで務めた人物であることが分かっている)
シンのプロレス入りの経緯に関しても、さらに不思議な記述が続く。

「シンはインドのデリー大学で電子工学を学び、父のサルタンの命でカナダのモントリオールにあるマックギル大学(原文ママ。マギル大学と表記されることの多いMcGill Universityだろう)に留学してきたのだ。それは1963年の夏である。シンはマックギル大学で弱電の勉強をして1967年に卒業している。だが、シンはこの大学時代にレスリングをやり、プロレスリングという闘争の世界があることを知った。
 かれはモントリオールの試合場で知り合ったフレッド・アトキンスにすすめられて、試しにプロレスをやってみることになった。…」 

Wrestling Revueの記事によると、シンは、「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームでデビューしたが、初戦ではアフリカ系アメリカ人レスラーのスウィート・ダディ・シキ(Sweet Daddy Siki)と戦って敗戦。
だが、「15キロのオモリのついた鉄のヘッドギアをつけ、10キロのオモリのついた足カセをはめて運動」し、「インドではプールの中に泥と油を入れて、その中でレスリングの練習をし」ていたというシンは、名伯楽フレッド・アトキンスのもとで、遠からぬうちに世界的レスラーになるだろう、と評価されている。

年号や大学名が明記された学歴は妙にリアリティがあるが、これはシンがインタビューで語っていた「6ドルだけをポケットに入れてインドから海を渡ってきた」という経歴とは全く異なる。
おそらくだが、これは「トロントでのベビーフェイス・レスラーとしてのシン」の創作されたプロフィールではないだろうか。
シンをプロレスラーとしてスカウトしたフランク・タニーは、今後カナダで増え続けるであろう南アジア系移民のマーケットを意識していたという。
シンを売り出してゆくにあたって、「出稼ぎ移民の息子」よりも「名家出身のエリートにして、レスリングの天才」という肩書きのほうが人気が出ると考えたとしても、不思議ではない。

ちなみにwww.wrestlingdata.comの記録によると、シンのデビューは1967年ではなく、「正史」同様に1965年。
場所こそ同じトロントのメイプルリーフ・ガーデンだが、Jeet Singhのリングネームで9月16日にStamford Murphyというオーストラリア出身のレスラーと対戦し、4分12秒で勝利したことになっている。

だが、何よりも気になるのは、この記事のタイトルにも使われている「ヒンズー・ハリケーン」である。
この記事には、「ダーネル記者によればシンはこの第一戦でヒンズー・ハリケーンを名乗ってデビューした」とはっきりと書かれている。
シンは、英語での記録にはいっさい残されていない「ヒンズー・ハリケーン」という名前を本当に使っていたのだろうか。

その答えには、以下の3つの可能性があるように思う。
  • 仮説その1:「ヒンズー・ハリケーン」はリングネームではなく、シンのキャッチコピーであり、もとの記事で代名詞的に使われていたものを、ゴングの記者が誤訳してしまった。デビュー戦の記述以外でヒンズー・ハリケーンという言葉が使われているのは「ヒンズー・ハリケーンことタイガー・ジェット・シンは、(中略)フレッド・アトキンスの手で厳しく育てられており」「カナダのマットへ……まさにその仇名ヒンズー・ハリケーン(インドの台風)のように登場したのだ」という箇所のみであり、リングネームというよりはシンの「別名」のような印象を受ける。デビュー戦のところで「名乗って」と訳された部分も、正式なリングネームではなく、「あだ名/称号」のようなものだった可能性もあるだろう。そもそも「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事のタイトルも、リングネームというよりはキャッチコピーを思わせる。
  • 仮説その2:実際にシンがHindu Hurricaneというリングネームを名乗っていた。しかしこのリングネームはすぐに変えられてしまい、記録上はJeet Singh,またはTiget Jeet Singhとなっている。来日前のシンは、チャンピオンベルト獲得歴があるとはいえ、トロントのローカル・レスラーにすぎなかったため、カナダやアメリカのプロレスファンも、その経歴を詳しく追っておらず、英語圏のウェブサイトにも掲載されていない。
  • 仮説その3:アール・ダーネル記者とシンのいずれか、あるいは両方が共犯して、本来のプロフィールを隠し、新しいキャラクターを定着させるために、「ヒンズー・ハリケーン」なる架空のリングネームと、「サルタンの御曹司」というストーリーを作り上げた。
もっともありそうなのは、やはり3番目の説だ。
どこの馬の骨かもわからないインド系レスラーだったシンは、トロントでめきめきと頭角を現してきた。
地域ごとに様々なプロモーターや団体が林立していた当時、トロントは北米のマット界では辺境の地だったはずだ。
シンをいよいよ全米のマーケットで売り出すにあたり、「移民の息子」ではつまらないし、エキゾチックさを前面に出した怪奇派のヒールでは、すでにザ・シークという圧倒的な存在がいる。
そこで、北米マット界では珍しいインド系レスラーをアピールするために「金のために戦う必要などないのに、類まれな才能を持て余してリングに身を投じたサルタンの御曹司」というストーリーが考えられた可能性は否定できない。
来日後にシンが「狂気のヒール」という徹底して「演じた」ことを考えれば、彼が自身のイメージ作りに手間とアイデアを惜しまないのは明白である。

(ちなみに1976年当時、すでに日本でもシンが裕福であることは知られていたようで、この記事でも、ゴングの記者によって「タイガー・ジェット・シンがシーク族の名門の出であり、パンジャプ地方に広大な土地を持つ財産家で、現在はトロントの郊外にお城のような豪邸を構えて貴族的生活をおくっていることは周知のこと」と書かれている。)


シンの「作られたプロフィール」はこれで終わりではない。
さらに異なる説を唱えているのは、1980年代の全日本プロレスでジャンボ鶴田とタッグを組み「五輪コンビ」として活躍していた谷津嘉章である。
谷津は、このYouTube動画の中で、シンにプロレス入りのきっかけを「地元のプロレス興行にエキシビジョンとして参加していたところを、たまたま見に来ていたフレッド・アトキンスにスカウトされた」と説明されたと語っている。
これまた「正史」とは異なるエピソードで、いくらなんでもフレッド・アトキンスがインドのパンジャーブまでプロレスを見に行くことはないと思うが、日本で「狂気のヒールレスラー」として活躍するうえでは、今度は「サルタンのエリート御曹司」ではイメージが合わないため、シンがとっさに苦し紛れに作り出したプロフィールなのかもしれない。
それにしても、レスラー仲間の谷津にまで、作られた来歴を語っているというところに、シンの並外れたプロ根性を感じる。


ここまでお読みいただければ、もうお分かりだろう。
シンは、その時々に応じて、自分をもっとも魅力的に輝かせるためのプロフィールをいくつも用意しているのだ。
一流のレスラーにとって、自分を演出する能力は必要不可欠なものだ。
ある時は、武勇の誉れ高きサルタンの御曹司。
ある時は、移民の立場から身を起こした苦労人の成功者。
そしてある時は、インドでフレッド・アトキンスにスカウトされたインド・レスリングの天才にして狂気のヒール・レスラー。
初来日直後のシンが、猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件などを通して、完璧な狂気を演出していたのは、彼の才能がもっともよく活かされた例だろう。

そう考えると、カナダのテレビ番組で語っていた「たった6ドルを握りしめて海を渡ったインド系移民」という、彼の「正史」すらも、本当かどうか疑わしくなる。
「貧しい移民が叶えたカナディアン・ドリーム」としては、あまりにも出来すぎたイメージだからだ。
実際、そのインタビューで「必死に戦っても月に100ドルしか稼げない状況を見た父親にパンジャーブに連れ戻され、地元で結婚生活を送っていた時期」とされる1969年から70年にかけても、シンはアジア各地を転戦していた可能性がある。
彼は、自分をどう見せれば、もっともアピールできるかが分かっているのだ。

間違えて欲しくないのは、私は何も「シンは経歴詐称ばかりしている疑わしい人物だ」と言いたいのではない。
彼が非の打ちどころのない紳士であることは多くの関係者が語っているし、東日本大震災の被災者支援や、彼が地元で行っているドラッグ依存症撲滅のための活動からも、彼が立派な人物であることは疑う余地がない。
私はシンの完璧なまでのプロ意識を称えたいのだ。
シンはかつて、本物の狂気を感じさせる極悪ヒールとして我々を怖がらせ、楽しませたが、その裏側には、かくも巧みな自己演出があったのである。
招待していないのに新日本プロレスに参戦していた狂気のヒールも、貧しさから努力で成り上がった移民の息子も、幼くして虎狩りを成功させたスルタンのエリート御曹司も、それぞれに魅力的なストーリーだし、またいかにも昭和のプロレスらしい虚構と現実が一体となったたまらない味わいがある。

結局、シンがどのようにしてプロレスに出会ったのか、いつ、どうやってデビューして、そして「ヒンズー・ハリケーン」とは何だったのか、調べれば調べるほど、謎は深まるばかりだった。
それでも、彼のプロレスラーとしての偉大さについては、これまで以上に理解できたつもりだ。

タイガー・ジェット・シン、それにしても、魅力の尽きない男である。



その他参考サイト:
https://www.nriinternet.com/NRIwrestling/CANADA/A_Z/T/Tiger_Jeet_Singh/Bio.htm

https://www.indiatoday.in/magazine/international/story/19920630-wrestling-pro-tiger-jeet-singh-hans-carves-out-twin-careers-and-an-expanding-empire-766517-2013-01-08

https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=4854

https://sites.google.com/site/wrestlingscout/profiles-by-country/profiles/tjsingh
 

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2021年01月24日

インド・ヒップホップ夜明け前(その1)パンジャーブからUKへ、そしてデリーへの逆輸入


ムンバイのストリート・ラッパーをテーマにした映画『ガリー・ボーイ』の公開からもうすぐ2年。
今ではインド全土のあらゆる街にラッパーがいる時代になった。
ここであらためて確認しておきたいのは、インドでラップを最初にメジャーにしたのは、デリーのアーティストたちだったということだ。
とくに、デリー在住のパンジャーブ系シク教徒のアーティストたちが、今日流行しているメインストリームのエンターテインメントラップの確立に大きな役割を果たしたのだ。

今回は、そのあたりの話を書くことにしたいのだが、そのためには少し時代を遡らなければならない。
(何度も書いている話なので、ご存知の方は飛ばしてください)

「シク教」は、男性がターバンを巻くことで知られるインド北西部パンジャーブ地方発祥の宗教だ。
勇猛な戦士として知られるシク教徒たちは、イギリス統治時代に重用され、当時イギリスの植民地だった世界中の土地に渡っていた。
シク教徒の人口はインド全体の2%にも満たないが、彼らが早くから世界に進出していたために、「インド人といえばターバン」という印象が根付いたのだろう。
現在でも、イギリスで暮らす南アジア系住民のうち、シク教徒の割合は3割にものぼる。
1947年、インド・パキスタンがイギリスから分離独立すると、シク教徒たちの故郷であるパンジャーブ地方は、両国に分断されてしまう。
パキスタン側に暮らしていた多くのシク教徒たちは、イスラームを国教とするパキスタンを逃れ、インドの首都デリーに移り住んだ。
こうした理由から、デリーには故郷を失った多くのパンジャーブ系(ヒンドゥー教徒を含む)住民が暮らしている。

ヒップホップは、ニューヨークのブロンクスで、カリブ地域から渡ってきたアフリカ系の黒人たちによって生み出された音楽だが、デリーに住むシク教徒たちも、同じように故郷から切り離された暮らす人々だった。
さらに言うと、パンジャービーたちの性格も、彼らがインド最初のラッパーになる条件を満たしていたのかもしれない。
一般的に、パンジャーブ人は、ノリが良く、パーティーやダンス好きで、物質的な豊かさを誇示する傾向があり、自分たちのカルチャーへの高いプライドを持っていることで知られている。
ステレオタイプで書くことを許してもらえるならば、そもそもがものすごくヒップホップっぽい人たちだったのである。

パンジャーブの人々は、もともと、「バングラー」という強烈なリズムの伝統音楽を持っていた。


パンジャーブの収穫祭ヴァイサキ(Vaisakhi)で演奏されるバングラーは、両面太鼓ドール(Dhol)の強烈なリズムと一弦楽器トゥンビ(Tumbi)の印象的な高音のフレーズ、そしてコブシの効いた歌と両手を上げて踊るスタイルで知られるダンスミュージックだ。

インド独立後も、多くのパンジャーブ人たちが海外に暮らす同胞を頼って海外に渡っていった。
彼らは欧米のダンスミュージックと自分たちのバングラーを融合し、新しい音楽を作り始めていた。
ちょうどブロンクスの黒人たちが、故郷ジャマイカのレゲエのトースティングとポエトリーリーディングやアメリカのソウルのリズムを融合してヒップホップを生み出したように。

80年代のイギリスでは、Heera, Apna Sasngeet, The Sahotas, Malkit Singhといったアーティストたちが、新しいタイプのバングラー・ミュージックを次々に発表し、南アジア系移民のマーケットでヒットを飛ばしていた。


今聴くとさすがに垢抜けないが、ベースやリズムマシンを導入したバングラー・ビートは、当時としては新しかったのだろう。

UKのパンジャービーたちの快進撃は止まらない。
90年代に入ると、Bally Sagooが母国のボリウッド映画の音楽を現代的にリミックスし、RDB(Rhythm, Dhol, Bass)が本格的にヒップホップを導入する。
そして、1998年にリリースされたPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"は、2002年に在外インド人の枠を超えた世界的な大ヒットを記録するまでになる。




シク教徒は強い結束を持つことでも知られている。
海外の同胞たちが作り上げた最新のバングラー・ビートが、シク教徒が多く暮らすデリーに逆輸入されてくるのは必然だった。

21世期に入ると、Yo Yo Honey Singh, Badshah, Raftaar, Ikkaといった今もインドのメジャーシーンで活躍するラッパーたちがデリーで新しい音楽を作り始める。
彼らは、もともとMafia Mundeerという同じクルーに所属していたのだ。

(つづき) 



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2020年08月14日

『カセットテープ・ダイアリーズ』(原題"Blinded by The Light")は今見るべき作品


グリンダ・チャーダ(Gurinder Chadha)監督、ヴィヴェイク・カルラ(Viveik Kalra)主演の映画、『カセットテープ・ダイアリーズ(原題"Blinded by The Light")』を見に行った。(以下、人名・役名の表記は劇中とパンフレットのものを使う)


この映画は、1980年代のイギリス、ルートンの街を舞台に、パキスタン系移民2世の若者ジャベド(Javed)が、郊外の労働者階級の疎外感、親子の対立、移民への差別などに向き合いながら、ブルース・スプリングスティーンの音楽との出会いにより大きく成長してゆく姿を描いたもの。
英ガーディアン紙のジャーナリスト、サルフラズ・マンスール(Sarfraz Manzoor)の自伝がもとになっており、昨年のサンダンス映画祭で絶賛された作品という触れ込みだ。

7月3日の公開からすでに1ヶ月以上が経ち、映画の内容も、こう言ってはなんだがあまり日本で受けそうなものではないため、案の定というか劇場はかなり空いていた。
コロナウイルスが気になる人も是非見に行ってみてはいかがでしょう。


原題の"Blinded By The Light"はスプリングスティーンのファースト・アルバムの1曲目のタイトル。
不思議な邦題は、ジャベドが10歳からずっと日記に詩を書いていたということと、大学で出会った同郷の友人(インドとパキスタンにまたがるパンジャーブにルーツを持つシク教徒)ループスに借りたカセットテープでスプリングスティーンを知ったということから付けられたものだろう。
劇中にはスプリングスティーン以外にも当時の音楽がふんだんに登場するから、「カセットテープ」という言葉にノスタルジーを感じる80年代の洋楽ファンが見れば、ファッションなども含めてかなり楽しめるはずだ。

とはいっても、これは単なる懐古趣味の作品ではない。
この映画が扱っているテーマは、極めて現代的かつ普遍的で、娯楽作品としてもよくできているので、スプリングスティーンにもイギリスの南アジア系移民にも80年代カルチャーにも興味がない人でも、全く問題なく楽しめる。
私もスプリングスティーンの音楽は代表曲くらいしか知らなかったのだが、この映画を通して、彼が一貫して労働者階級や焦燥感を抱える郊外の人間を代表してきたということがよく理解できた(映画で見た限りの印象なので、違ったらごめんなさい)。

映画前半のテーマは、郊外の保守的な社会に生まれた主人公の焦燥感だ。
この「保守的」にはふたつの意味がある。
ひとつめはパキスタンからの移民であるジャベドの父親が、家父長制度に基づいた伝統的な価値観を強く持っており、自由に夢を見ることすらできないということ(つまり、移民家庭のなかの保守性)。
そしてふたつめは、彼らの周辺に、移民排斥の動きが描かれているということだ(英国社会の保守性)。
後者については、サッチャー首相の新自由主義政策によって階級間の分断が強まり、労働者層の不満が移民たちに向けられたことが背景となっている。
面白みのない郊外の街で、将来に希望を持てずに暮らす無力感や焦燥感が強く描かれるこの映画の前半を見ながら、最近読んだこの記事のことがずっと頭に浮かんでいた。

この文章は長崎県の高校生の山辺鈴さんが書いたもの。
(この記事には出てこないが、彼女はインドのマハーラーシュトラ州のナーシクという中規模都市に1年間留学しており、その間にスラムの子ども達が主役になるファッションショーを企画・実行するなど、とても意欲的な活動をしている。なんて書くと、冷笑的に「意識高い系」と呼ばれるような人をイメージするかもしれないが、身の回りから世界まで、ここまで相対化して考えられる/書ける人は世代を問わず本当に希有だと思う。ぜひ読んでみてください。)
主人公は、この記事にあるような「見えない分断」の疎外された側にいる。

何が言いたいのかというと、この映画のテーマは、場所も時代も問わず、とても普遍的なものだということだ。
現代イギリスのブレグジットと関連付けて見ることもできる作品だが、都市と地方の格差、疎外される移民たち、新自由主義的な価値観のもとで暴力的に右傾化する社会など、今日の日本とも共通したテーマが描かれている。
考えてみれば、「80年代イギリスのパキスタン系移民が、当時ですらすでに時代遅れだったブルース・スプリングスティーンの音楽で自己を確立する」という、あまりにも特殊なストーリーが高く評価されているという時点で、そこに普遍的な意味が無いわけがないのだ。

ところで、ルートンという街は、長崎のような首都から遠く離れた土地だと思って見ていたのだが、実際はロンドンから50kmほどの「郊外」だという。
個人的な話になるが、これは自分が生まれた千葉の街と同じような首都との距離感で、都会ではないが田舎というほどでもない、これといった希望も刺激もないがm若者はとりあえず薄っぺらい流行を追っている、みたいな雰囲気は、そういえば思い当たるところがかなりあった。

後半は、古い価値観に生きる父親と、自分の夢に生きたいジャベドの確執と断絶という、インド映画の定番とも言えるテーマに焦点が当てられる。
この映画はイギリスで制作されたものだが、原作、監督はいずれも南アジア系だ。
このテーマは海外の南アジア系コミュニティーでも同様に大きな意味を持っているのだ。(グリンダ・チャーダ監督による『ベッカムに恋して(原題"Bend It Like Beckham")』でも同じテーマが扱われていた)

この映画にツッコミを入れるとしたら、恋愛、差別、夢、親子の確執などのあらゆる課題が全てスプリングスティーンで解決されてしまうということ。
いくらなんでもそれは無茶な話だと思ったが、原作者のマンズールはスプリングスティーンの熱狂的なファンで、実際に150回もライブを見に行って「最前列で盛り上がっている南アジア系のファン」として本人にも認識されるほどだというから、これは事実に基づいた描写なのだろう。
ちなみにチャーダ監督もディランやスプリングスティーンのファンだという。

イギリスやアメリカの音楽が南アジアの若者たちの希望になるというストーリーは、最近では映画『ガリーボーイ』でも描かれていたし、古くは60年代のインドの一部の若者たちにも起きていたことだ。
 
 
それだけ普遍的なテーマであり、またポピュラーミュージックの本質的な部分を描いているということなのだろう。
音楽に励まされるというテーマの南アジア系作品では、インド東部とバングラデシュにまたがるベンガル地方の大詩人タゴールが約100年前に作った歌を扱ったドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』も記憶に新しい。



『カセットテープ・ダイアリーズ』は、南アジアカルチャー好きとしての見どころも盛り沢山だ。
主人公の友人ループスが、黒いターバンの下から柄付きの赤いバンダナ風の下地をチラ見せしている80年代風UKシク教徒ファッションも素敵だし、とあるシーンで描かれる黎明期のバングラー・ビート/エイジアン・アンダーグラウンドのクラブイベント(夜出掛けられない保守的な南アジア系の若者たちのために、昼間に行われている!)の様子も興味深い。


この記事(↑)で取り上げたさらに以前にあたる、80年代のUKエイジアン・カルチャーの様子はかなり新鮮だった。
クラブイベントのシーンで流れるこの曲は、まさに映画の舞台となった88年のヒット曲らしい。

イギリスに渡った南アジア系移民たちが、自身のルーツを大切にしつつも、欧米の音楽を導入した新しいサウンドを作り出し、やがてそれが本国インドにも還元されていったというのは、いつもこのブログで書いている通りだ。

インド映画へのオマージュのようなミュージカル・シーンもさまざまな場面で楽しめる(もちろんスプリングスティーンの曲で踊る)。
音楽の面では、スプリングスティーンをはじめとする80年代の曲が主役ともいえる映画だが、それ以外のオリジナル・スコアを手掛けているのはあのA.R.ラフマーン。
とはいえ、今回は主役をスプリングスティーンに譲り、裏方的な役割に徹している。

個人的には、成功を求めて祖国を捨てて渡英したものの、差別や偏見を恐れて、伝統を守りつつも目立たないように生きる父親の姿に、謎のインド人占い師ヨギ・シンのコミュニティー(かなり早い時期にイギリスに渡った保守的なシク教徒のグループ)を思い出した。

ちなみにグリンダ・チャーダ監督も、ケニア出身のシク教徒なので、この記事(↑)のなかにある「南アジアからアフリカに渡り、さらにそこからイギリスに渡った移民」にあたる(かつてイギリス領だったアフリカ諸国には、労働者として多くの南アジア出身者が渡航していた)。


と、かなり微妙な時期ではありますが映画『カセットテープ・ダイアリーズ』を紹介させていただきました。
さっきも書いたけど、映画館はかなり空いているはずなので、興味のある人は往復の感染対策を万全にしたうえで、見に行くべし。



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goshimasayama18 at 13:58|PermalinkComments(0)

2020年05月04日

ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その2)

前回の記事では、とうとう判明した謎のインド人占い師「ヨギ・シン」の正体と思われるシク教徒のコミュニティー(カーストと言い換えても良い)'B'について書いた。
今回は、ヨギ・シンが'B'に所属しているとしたら、彼らはいったいどのように世界中に出没しているのか、そして彼らは本当に'B'の一員なのかという部分に迫ってみたい。



私が考える、「ヨギ・シン='B'説」は、このようなものだ。

20世紀中頃までにイギリス領をはじめとする世界中に渡った'B'たちは、祖国では低く見られていた生業を捨て、新しい職に就いて暮らすようになった。
最初の世代が移住してから長い年月が過ぎ去ったが、彼らは今でもインドに暮らす親族たちと深い絆で結ばれている。
インドで暮らす同胞たちのなかには、彼らの伝統である「辻占」の技術(それは多分にメンタリズムやマジックの技術を含むものだ)を受け継いだ者たちも残っていたとしても、不思議ではない。
彼らは、息子の進学や娘の結婚などのためにお金が必要になると、海外に暮らす親族のネットワークを頼って、「出稼ぎ」のために世界中の大都市に渡る。
だが、先進国では、労働ビザを持たない外国人が簡単に就くことができる仕事などない。
短い期間で大金を稼ぐには、富裕層を狙って彼らの伝統である占いを行うしか手段はなかった。
さあ、どこの国に出稼ぎに行こうか。
'B'のコミュニティーのなかで、話し合いが行われる。 
香港には、ついこないだまであの家のじいさんが行っていた。
ロンドンでは今となり村の叔父さんたちが「仕事」をしているところだ。
メルボルンには向こうの家の親父が行っていたが、「詐欺師に注意!」と報道されてしまったばかり。
よし、今まで誰も行っていない東京にしよう。
ちょうど、エンジニアをしている従兄弟の一人が、2年前から東京で暮らしているのだ。

「ヨギ・シン」たちは、こんなふうにして目的地を決めるのだろう。
占い師は、親族の住まいに身を寄せ、その街に暮らす親族に、占いに適した地域を尋ねる。
金払いの良い富裕層が集まっていること。
英語を理解する教育程度の高い人間が多いこと。
そして、見慣れない異国の人間が歩いていても、怪しまれないこと。
彼らが安心して活動するには、少なくともこういった条件が必要だ。
先住の'B'は、ちょっと迷惑だなと感じながらも、故郷から来た時代遅れの親類に、寝床を提供して、助言を与える。
伝統を大事にしている自分たちのコミュニティーでは、娘の結婚に持参金が必要なことも、この忌むべき生業から抜け出すには高い学歴が必要なことも分かっているからだ。

東京に来たヨギ・シンが、丸の内という彼らの活動にいちばん適した街にいきなり出没できたのは、きっとこんな背景があったはずだ。
必要なお金が集まったら、彼らは故郷へと帰ってゆく。
そのお金で高い教育を受けたり、よい家柄に嫁いだ彼らの子どもたちは、もう誰も「ヨギ・シン」にはならない。

もし、「仕事」の最中に正体やトリックがばれそうになったら、あるいは、警察や役人に怪しまれそうになったら、なんとかしてその場から逃げ出して、その街から立ち去ることだ。
拘束や強制送還で済めば、まだ運が良い方だ。
彼らの存在や、その秘密が知れ渡ってしまったら、もう誰も先祖代々の共有財産であるこの生業をできなくなってしまう。
それだけはなんとしても避けなければならない。

…国際フォーラムで声をかけた時の「彼」の反応は、こんな事情があることを思わせるものだった。
 

ある程度、情報も集まり、仮説も立てられた。
次はどんな調査をすべきだろうか。
私が大きく考えさせられる言葉に出会ったのは、ちょうどこんな想像を巡らせていた時だった。

それは、シク教徒たちが集まるウェブサイトに書かれていた、何気ない言葉だった。
そのサイトは、世界中のシク教徒たちがシク教の歴史や文化を話し合うために作られたものだった。
パンジャービー語やヒンディー語の文字は見当たらず、全て英語で書かれていたから、海外在住のシク教徒や、インドでも英語を自由に使える階層の(つまり、教育レベルが高い)人々が主に利用しているサイトなのだろう。

このサイトの中で、ロンドンに住む男性が書いた、'B'に対するこんなコメントを見つけてしまったのだ。
「かつて、我々シク教徒は誇り高い戦士だと思われていた。それが、'B'のコミュニティーのいんちきな占いのせいで、シク教徒といえば怪しいニセ占い師だと言われるようになってしまった。悲しいことだ。1920年代からイギリスでは同じようなことが言われているし、今ではネット上のあらゆる場所でシク教徒には近づくなと言われている。占いは彼らの伝統かもしれないけど、そのせいでシク教徒の評判が傷つけられている。彼らは150年前からなにも変わっていない。でも、カースト差別主義者だと思われたくないから、誰もこんな話はしないんだ…。(大意)」
そこには、ご丁寧に世界中に出没した「ヨギ・シン」たちのことを伝えるブログやニュースサイトのリンク(私が彼らの出没情報を得るのに使ったものと同じページだった)が貼り付けられていた。

また別のスレッドには、同じくイギリス在住のシク教徒からこんなコメントが書かれていた。
「(ヨギ・シンのような詐欺に会ったという声に対して)悲しいことに、それをしているのは自分と同じ'B'コミュニティーの出身者だよ。こんなことをする'B'は本当に少なくて、1%くらいだけだ。彼らはイギリスに住んでいるわけじゃなくて、インドからやって来るんだ。」

ここに書かれていたのは、他ならぬシク教徒たちからの告発であり、また'B'の同胞たちからの、生業に対する弁解だった。
これらの書き込みを読む限り、おそらく私の推理は当たっていたのだろう。
間違いなく'B'こそがヨギ・シンの所属するコミュニティーだ。
それでも、私は謎が解けた喜びよりも、むしろもやもやとした落ち着かない気持ちが湧いて来るのを抑えられなかった。

大谷幸三氏の本(『インド通』)やシク教の解説書で、'B'が非差別的な立場の存在であることを、知識としては理解していた。
だが、私は放浪の占い師である彼らを、どこかロマンチックな存在として見ていたところがあった。
秘伝の占いを武器に、口八丁で世界中を渡り歩く謎多き人々。
彼らに対して、物語のなかのジプシーやサンカ(かつて日本にいたとされる漂泊民)に抱くのと同じようなイメージを持っていたのだ。
ところが、ここに書かれていたのは、仲間たちから恥ずべき存在として扱われている、時代遅れで極めて弱い立場の人々だった。
このウェブサイトで、'B'は決して激しい言葉で差別されているわけではない。
むしろ、ここで'B'を批判しているのは無教養な差別主義者ではなく、先進国に暮らしながらも、自身のルーツであるシクのコミュニティ全体の誇りをも考えている立派なシク教徒たちに違いない。
だからこそ、'B'の置かれた立場の寄る辺のなさが、とても重苦しいものとして感じられたのだ。

ある人物(おそらく'B'の一員だろう)は、このサイトの掲示板に「'B'コミュニティーがシク教の歴史のなかで果たしてきた役割をきちんと評価すべきだ。そのうえで、シク教徒はコミュニティーによる分断を乗り越えて、ひとつになるべきだ」という趣旨のスレッドを作成していた。
おそらく、シク教徒たちのなかで低い立場に置かれている'B'の扱いに対する異議申立てなのだろう。
だが、それに対する反応は、「シク教徒は全体でひとつの存在なのだから、'B'のコミュニティーだけを評価すべきという考えはおかしい」という、至極まっとうだが冷淡なものがほとんどだった。
他にも、この掲示板では、女子教育の軽視や早期の結婚といった'B'の保守性が批判的に扱われているコメントが散見された。

断っておくと、このサイト上のでは、特定のコミュニティーを見下すような意見はほとんど表出されておらず、むしろ「シク教徒全体がひとつの大きなコミュニティーなのだから、個々のカーストやコミュニティーにこだわるべきではない」という考えに基づくコメントが多く書き込まれていた。
それに、シク教徒のなかにも、'B'のことを知らなかったり、彼らがこうした占いを行なっていることを聞いたことがない人たちも多いようだった(私が受けた印象では、むしろそういう人のほうが圧倒的に大多数のようだ)。
だが、それでも「ヨギ・シン」たちがシク教徒の仲間や同じコミュニティからも、恥ずべき存在だと思われているという現実は、心に重くのしかかったままだった。

端的にいうと、私は、こうした弱い立場の彼らの正体を、興味本位で暴こうとすることに、罪悪感を感じ始めてしまったのだ。
「差別的に扱われている彼らの占いを、伝統芸能として再評価すべき」なんていう理想を掲げていたが、そもそも彼ら自身がこの考えをどう感じるのか、私はまったく想像できていなかった。
自分勝手な親切を押し付けようとしていただけなのではないか。
彼らはそんなことは望んでおらず、必要最小限だけ、静かに目立たないようにその仕事をしたかっただけなのではないだろうか。

この記事に彼らのコミュニティーの名前をはっきりと書かなかったのも、引用した文献や著者の名前を記さなかったのも、彼らのことを好奇心のままに取り上げることに疑問が湧いてきてしまったからだ。
彼らのことを書きたいという欲求と、彼らのことを書くべきでないという気持ちの葛藤に、いまだに整理がつかないでいる。
彼らが感じているであろう「痛み」を知らずに、好奇心のままに彼らの正体を暴くことは、果たして許されることなのだろうか。

国際フォーラムの中庭で遭遇したヨギ・シンの様子が思い出される。
彼が示した明確な拒絶。
彼らが路上で奇妙な占い行為をしていたのは明らかだったにもかかわらず、口が達者な占い師であるはずの彼は、言い逃れをすることもごまかすこともなく、'No'と'I don't know'だけを繰り返し、足早に立ち去った。
そして、それまで連日のように丸の内に現れていたヨギ・シンの集団は、それ以来二度と現れることはなかった…。
はるばる東京を訪れ、その生業で一稼ぎしようと思っていた矢先に、彼らに好奇心を抱いた男(私のこと)に見つかってしまった占い師たち。 
その心のうちはどのようなものだったのだろう。
自らの生業がどのように見られているかを知りつつも、その生業を続けざるを得ない彼らの気持ちは、思ったよりもずっと複雑なものなのではないだろうか。
彼らは、口八丁で生きるミステリアスな放浪の占い師などでは全くなかったのだ。
自らのコミュニティーや伝統が差別され、その生業が恥ずべきものだと知りながらも、シク教徒としての信仰に誇りを持ち、よりよい暮らしのためにやむなくその伝統にすがって生きている、弱い立場の存在…。
彼らのことを知れば知るほど、「ヨギ・シン」のイメージは私の中で変わっていった。

「彼らは何者なのか」
「彼らはどこから来たのか」
「彼らはいつ頃からいるのか」
「彼らはどんなトリックを使っているのか」
「彼らは何人くらいいるのか」

私はそんなことばかりを気にしていて、大事な疑問を忘れていたのだ。
「彼らは、なぜ占いをするのか」 
もちろん、家族のため、お金を稼ぐためだろう。
それは分かる。
しかし、そこに至るまでの経緯や逡巡、ひとりひとりのヨギ・シンが、何を思い、考えているのか。
どのように伝統が受け継がれ、どのように実践されるのか。
それを知るためには、彼らと知り合い、打ち解け、直接尋ねるしかない。
ヨギ・シンが抱える痛みを知った上で、はじめて彼らが秘めてきた伝統を書き記す資格が得られるはずだ。
いや、それだって、独りよがりな思い込みにすぎないかもしれない。
だが、それでも、彼らのことを知らずに、外側から眺めているだけでこれ以上書き続けることはできないし、それ以前にこれ以上書ける内容もない。

どんなアプローチの仕方があるのか、どれだけ時間や労力がかかるのか、皆目見当がつかないし、そもそもこのコロナウイルス流行の状況下では取り掛かりようもないのだが、この続きを書くためには、彼らと直接コンタクトを取るしかない。
ヨギ・シンに対する、ウェブや文献による調査と推理のフェーズは、今回をもってひとまずの終了とすべきだろう。
この続きは、彼らと再び出会い、関係を築いたうえで、あらためて書くということになりそうだ。
そんなことがはたしてできるのだろうか?
だが、何事も試して見なければわからない。
今は、ただその一歩が踏み出せる時が来ることを、静かに待つばかりだ。


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2020年05月01日

ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その1)

前回の記事で、山田真美さんの著書『インド大魔法団』『マンゴーの木』で紹介されているインドのマジシャン事情に触れつつ、世界中を流浪する謎の占い師「ヨギ・シン」を、詐欺師扱いされる存在からその伝統に値するリスペクトを受けられる存在にしたいという内容を書いた。
その気持ちに嘘偽りはない。
だが、ヨギ・シンの調査にあたって、それにも増して私の原動力になっていたのは、もっと単純な、本能的とも言える好奇心だ。
あらゆる情報がインターネット検索で分かってしまうこの時代に、こんなに不思議な存在が謎のままでいるということは、ほとんど奇跡であると言っていい。
「彼らは何者なのか」
「彼らはどこから来たのか」
「彼らはいつ頃からいるのか」
「彼らはどんなトリックを使っているのか」
「彼らは何人くらいいるのか」
ヨギ・シンにまつわる全ての謎の答えが知りたかった。

いくつかの謎については、これまでの調査でかなりのことが分かっていた。
彼らが使う「読心術」のトリックは、ちょっとした心理(メンタリズム)的な技法と、以前「ヨギ・トリック」として紹介したあるマジックの技術を使うことで、ほぼ説明することができそうである。
彼らの正体については、大谷幸三氏の著書『インド通』に登場する、シク教徒のなかでも低い身分とされる占い師カーストの人々だということで間違いないだろう。




では、その占い師のカーストは、何という名前なのだろう。
彼らはインドからどのように世界中に広まったのか。
そして、世界中で何人くらいが占い師として活動しているのだろうか。
こうした疑問の答えは、依然として謎のままだった。
私は、彼らの正体をより詳しく探るべく、ほとんど手がかりのないまま、シク教徒の占い師カーストについての調査にとりかかった。

ところで、「シク教徒のカースト」というのは、矛盾した表現だ。
シク教は、カースト制度そのものを否定しているからだ。
16世紀にヒンドゥーとイスラームの影響を受けて成立したシク教は、この2つの信仰が儀式や戒律を重視し過ぎたために形骸化していることを批判し、宗教や神の名はさまざまでも信仰の本質はひとつであるという教えを説いた。
ごく単純に言えば、ヴィシュヌもアッラーも同じ神の異名であり、信仰の前に人々の貴賎はないというのがシク教の思想である。
シク教徒の男性全員がSingh(ライオンを意味する)という名を名乗るのは、悪しき伝統であるカースト制度を否定し、出自による差別をなくすためだ。
シク教の聖地であるアムリトサルの黄金寺院では、宗教や身分にかかわらず、あらゆる人々に分け隔てなく無料で食事が振舞われているが、これもヒンドゥー教徒が自分より低いカーストの者と食事をともにしないことへの批判という意味を持っている。(黄金寺院で毎日提供される10万食もの食事の調理、給仕、後片付けなどの様子は、ドキュメンタリー映画『聖者たちの食卓〔原題"Himself He Cooks"〕』で見ることができる。)

形骸化した既存の宗教への批判から生まれたシク教だが、ほかのあらゆる宗教と同様に、時代とともに様式化してしまった部分もある。
例えば、彼らのシンボルとも言える、男性がターバンを着用する習慣もそのひとつと言えるだろう。
そして、シク教徒たちもまた、インドの他の宗教同様、この土地に深く根付いたカーストという宿痾から逃れることはできなかった。
誰とでも食卓を囲む彼らにも、血縁や地縁でつながった職業コミュニティー間の上下関係、すなわち事実上のカースト制度が存在している。
ヒンドゥー的な浄穢の概念は捨て去ることができても、家柄や職業の貴賤という感覚からは逃れられなかったのだ。
結果として、路上での占いを生業とするコミュニティーに所属する人々は、シク教徒の社会のなかでも、低い身分に位置付けられることになった。

そこまでは分かっていたのだが、シク教徒の辻占コミュニティーについての情報は、なかなか見つけることができなかった。
興味本位のブログ記事や、詐欺への注意を喚起する記事は見つけられても、彼らの正体に関する情報は、英語でも日本語でも、ネット上のどこにも書かれていないようだった。
ところが、なんとなく読み始めたシク教の概説書に、思いがけずヒントになりそうな記述を見つけることができたのだ。
それは、あるイギリス人の研究者が書いた本だった。
その本のなかの、イギリス本国に渡ったパンジャーブ系移民について書かれた部分に、こんな記述を見つけたのだ。

「…第一次世界大戦から1950年代の間にイギリスに移住したシク教徒の大部分は、(引用者注:それ以前に英国に渡っていた王族やその従者に比べて)はるかに恵まれない身分の出身だった。インドでは'B'というカーストとして知られている彼らは、他の人々からは、地位の低い路上の占い師と見なされていた。イギリスに渡った'B'の家族の多くが、現在はパキスタン領であるシアルコット地区の出身である。」
(引用者訳。この本には具体的なカースト名が書かれていたのだが、後述の理由により、彼らの集団の名前や、参考にした著書については、今は明かさないことにする)

この「低い身分の路上の占い師」である'B'という集団こそが、ヨギ・シンなのだろうか。
文章は続く。

「'B'のシク教徒の先駆者たちは、ロンドンや、ブリストル、カーディフ、グラスゴー、ポーツマス、サウサンプトン、スウォンジーなどの港町や、バーミンガム、エディンバラ、マンチェスター、ノッティンガムなどの内陸部に定住した。彼らはまず家庭訪問のセールスマンになり、やがて小売商、不動産賃貸業などに就くようになった。より最近の世代では、さらに幅広い仕事についている。'B'たちは、他のシク教徒たちが手放してしまった習慣や、他のシク教徒たちに馴染みのない習慣を保持していた。」

シク教徒のなかでもとくに保守的な集団だというから、今では違う職に就いている彼らのなかに、きっとあの占い師たちもいるのではないだろうか。
彼らのコミュニティーの名前が分かれば、あとは簡単に情報が集まるだろうと思ったが、そうはいかなかった。
'B'という単語を使ってググっても、彼らが行うという「占い」に関する情報はほとんど得られないのだ。
それでもなんとかネット上で得られた情報や、探し当てた文献から得た情報(そのなかには、前述の本の著者の方に特別に送っていただいた論文も含まれている)を総合すると、以下のようになる。

'B'に伝わる伝承によると、改宗以前の彼らはヒンドゥーのバラモンであり、神を讃える詩人だったという。
'B'の祖先はもともとスリランカに住んでおり、その地でシク教の開祖ナーナクと出会った彼らは、シク教の歴史のごく初期に、その教えに帰依した。
改宗後、シク教の拠点であるパンジャーブに移り住んだ'B'の人々は、シクの聖歌を歌うことを特別に許された宗教音楽家になった。
彼らが作った神を讃える歌は、シク教の聖典にも収められている。
インドでは、低いカーストとみなされているコミュニティーが「かつては高位カーストだった」と主張することはよくあるため、こうした伝承がどの程度真実なのかは判断が難しいが、'B'の人々は、今でも彼らこそがシク教の中心的な存在であるという誇りを持っているという。
いずれにしても、彼らはその後の時代の流れの中で、低い身分の存在になっていった。
音楽家であり、吟遊詩人だった彼らは、その土地を持たない生き方ゆえに、貧困に陥り、やがて蔑視される存在になってしまったのだろうか。
少なくとも20世紀の初め頃には、'B'は路上での占いや行商を生業としていた。
彼らの22の氏族のうち13氏族が現パキスタン領であるシアルコット地区を拠点としていたという。

シク教徒の海外への進出は、イギリス統治時代に始まった。
19世紀に王族やその従者がイギリスに移住して以来、多くのシク教徒が、軍人や警官、あるいはプランテーションや工場の労働者として、英本国や世界中のイギリス領へと向かった。
彼らの中でもっとも多かったのが、「土地を所有する農民」カーストであるJatだった。
'B'の人々のイギリスへの移住は、おもに第一次世界大戦期から1950年代ごろに行われている。
とくに、Jatの移住が一段落いた1950年代に、なお不足していた単純労働力を補うために渡英したのが、職人カーストのRamgarhia、ダリット(「不可触民」として差別されてきた人々)のValmiki、そして'B'といった低いカーストと見なされている人々だった。
もともと流浪の民だった'B'は、海外移住に対する抵抗も少なかったようだ。
彼らの主な居住地(シアルコットなど)が、1946年の印パ分離独立によって、イスラームを国教とするパキスタン領になってしまったこともシク教徒の海外移住を後押しした。
シク教徒のほとんどが暮らしていたパンジャーブ地方は、分離独立によって印パ両国に分割され、パキスタン領に住んでいたシク教徒たちは、その多くが世俗国家であるインドや海外へと移住することを選んだのだ。
逆にインドからパキスタンに移動したムスリムたちも多く、その混乱の中で両国で数百万人にも及ぶ犠牲者が出たといわれている。
印パの分離独立にともない、これ以前に移住していた'B'の人々は、帰る故郷を失い、イギリスへの定住を選ばざるを得なくなった。
 
1950年代にイギリスに渡った'B'のなかには、占いを生業とするものがとくに多かったが、彼らの多くは渡英とともにその伝統的な職業を捨て、セールスマンや小売商となった。
彼らは、サウサンプトン、リバプール、グラスゴー、カーディフといった港町でユダヤ人やアイルランド人が経営していた商店を引き継いだり、ハイドパークなどの公園で小間物や衣類、布地などを商ったりして生計を立てた。
また、シンガポールやマレーシア、カナダ、アメリカ(とくにニューヨーク)に移住した者も多く、行商人としてフランス、イタリア、スイス、日本、ニュージーランドやインドシナなどを訪れる者もいたという。

1960年の時点で、イギリスには16,000人ほどのシク教徒がいたが、その後もイギリスのシク教徒は増え続けた。
先に移住していた男性の結婚相手として女性が移住したり、アフリカやカリブ海地域に移住していた移民が、より良い条件を求めてイギリスにやってきたりしたことも、その原因だった。
インドから血縁や地縁を利用して新たに移住する者たちも後を立たなかった。
1960年代以降、インディラ・ガーンディー首相が始めた「緑の革命」(コメや小麦の高収量品種への転換、灌漑設備の整備、化学肥料の導入などを指す)によって、彼らのパンジャーブ州の基幹産業である農業は大きく発展した。
しかし、この成功体験は、人々に「努力して働けば、その分豊かになれる」という意識をもたらし、皮肉にも海外移住の追い風になってしまったという。
今では海外移住者がインド経済に果たす役割は非常に大きくなり、世界銀行によると、2010年にはパンジャーブ州のGDPのうち、じつに10%が海外からの送金によって賄われている(インド全体でも、この年のGDPの5%が海外からの送金によるものだった)。
経済的な野心から違法な手段で海外に渡る者も多く、世界中で15,000人ものパンジャーブ人が不法滞在を理由に拘束されているという。

現在、イギリスには約100万人ものインド系住民が住んでおり、英国における最大のマイノリティーを形成しているが、そのうち45%がパンジャービー系の人々で、その3分の2がシク教徒である。
つまり、イギリスに暮らすインド系住民のうち、約30%がシク教徒なのだ。
インドにおけるシク教徒の人口の2%に満たないことを考えると、これはかなり高い割合ということになる。
その人数の多さゆえか、イギリスのシク教コミュニティーは、決して一枚岩ではなく、それぞれのカーストによって個別のグループを作る傾向があるそうだ。
例えば、彼らの祈りの場である寺院〔グルドワーラー〕もカーストによるサブグループごとに、別々に建てられている。
'B'の人たちは、とくに保守的な傾向が強いことで知られている。
'B'の男性は、他のコミュニティーと比べてターバンを着用する割合が高く、また女子教育を重視しない傾向や、早期に結婚する傾向があると言われている。
参照した文献によると、少なくとも20世紀の間は、'B'の女性は十代後半で結婚することが多く、また女性は年上の男性の前では顔を隠す習慣が守られていたとある。
彼らにとってこうした「保守性」は、特別なことではなく、シク教徒としてのあるべき形なのだと解釈されていた。


長くなったが、これまでに'B'について調べたことをまとめると、このようになる。
世界中に出没している「ヨギ・シン」が'B'の一員だとすれば(それはほぼ間違いのないことのように思える)、例えばこんな仮説が立てられるのではないだろうか。

(つづく)



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goshimasayama18 at 18:56|PermalinkComments(0)

2020年01月21日

T.J.シン伝説 番外編(日本のリングを彩ったインド系プロレスラーたち)

前回まで、伝説のヒール(悪役)レスラー、タイガー・ジェット・シン(Tiget Jeet Singh)の半生を振り返る連載企画をお届けした。
ジェット・シンについて調べた過程で気がついたのだが、じつは日本のリングで活躍したインド人レスラーはジェット・シンだけではなく、意外にもかなり大勢いたようなのだ(「活躍した」とまで言えるのはジェット・シンだけだったかもしれないが)。
そのほとんどがジェット・シン同様にパンジャーブ出身のシク教徒だった。
その理由を挙げるとするならば、クシュティにルーツを持つパンジャーブのレスリング文化の豊かさと、戦士としての誇りを持つシク文化、そして20世紀初頭から積極的に移民として海外に進出していた彼らのもの怖じしない性格ということになるだろう。

裸一貫で海を渡り、その肉体と技術のみを頼りに生きてきた彼らの姿は、世界中の都市で目撃されている謎の占い師、ヨギ・シンとも重なって見える。
今回は、日本のリングを彩った、ほとんど人々の記憶にも残っていないインド系レスラーたちの情報をまとめてお届けします。


タイガー・ジェット・シン以前
おそらく最初に日本の地を踏んだインド人レスラーは、海外ではTiger Joginder Singhのリングネームで知られたタイガー・ジョギンダーと、「インドの英雄」ダラ・シン(Dara Singh Randhwa)だろう。

Joginder_Singh
タイガー・ジョギンダーことTiger Joginder Singh(画像出典:https://www.wikiwand.com/en/Tiger_Joginder_Singh

タイガー・ジョギンダーは、1955年に行われた「アジア選手権大会」で、キングコングとのタッグで力道山&ハロルド坂田組を破り「日本最古の王座」であるアジアタッグの初代王者に輝いたレスラーだ。
パンジャーブ出身のジョギンダーだが、この「アジア選手権大会」のシングル部門には、なぜかマレーシア代表として参加していたようで(ちなみにインド代表はダラ・シン)、レスラーの国籍ギミックは今でも珍しくないとはいえ、当時のマット界はかなりおおらか(適当ともいう)だったのだろう。
ちなみに当時のアジアタッグ王座は、タイトルマッチで移動する形式ではなく、アジア選手権大会に優勝したタッグに与えられる称号のようなものだったらしく、ジョギンダー&キングコング組は防衛戦を行わないまま、1960年に第2回アジアタッグ王座決定トーナメントで優勝したフランク・バロア&ダン・ミラー組が第2代王者として認定されている。
来日前のジョギンダーは、シンガポールや米国のマットでキャリアを築いていたようで、来日前後にはインドのリング(プロレスかクシュティかは不明)でダラ・シンらと闘っていたという記録が残っている。
1960年代以降は恵まれた体格を生かしてインドで映画俳優としても活躍した。
ちなみにタッグパートナーだったキングコングもなにかと南アジアと縁が深く、wikipediaの情報によると、彼は1937年にインドのボンベイ(現ムンバイ)でレスラーとしてデビューしたとのこと。
ハンガリー出身者がインドでデビューするとは謎すぎるキャリアだが、どうやら独立前のインドには、南アジアの伝統的なレスリングであるクシュティとは別に、植民地の支配者たちの娯楽として行われていたレスリングがあったらしい。
「キングコング」という見も蓋もないリングネームも、当時のインド映画でキングコング役を演じたことからつけられたものだそうだ。
ラホール(現パキスタン領)で行われたキングコング対ダラ・シンとの一戦には、20万人もの観衆が集まったというから、当時の南アジアのレスリング文化は相当なものだったようだ。

タイガー・ジョギンダーと同じく55年のアジア選手権大会シリーズで来日したダラ・シン(Dara Singh.本名Deedar Singh Randhawa)は、日本での目立ったタイトル獲得歴こそないものの、500戦無敗という伝説を持ち、レスラーとしての格はジョギンダーよりもずっと上だった。
なにしろ、あのタイガー・ジェット・シンにレスラーになることを決意させた人なのだから、当時のインドでは相当なヒーローだったのだろう。
1928年生まれのダラ・シンは、1947年にシンガポールに渡り、工場で働きながらレスリングジムに通って、レスラーとしてのキャリアをスタートさせたらしい。
1954年にはインドのレスリング(クシュティ)トーナメントRustam-e-Hindに出場し、決勝でジョギンダーを破って優勝しているが、デビュー前後の経歴は不明で、500戦無敗と言われるエピソードの真偽ははっきりしない。
ひょっとしたらこれもインドという未知の土地から来たレスラーにハクをつけるための演出だったのかもしれないが、実際にインドでかなり尊敬を集めていたレスラーことは間違いないようだ。
各種媒体によると、日本では当時の外国人レスラーには珍しい正統派のファイトスタイルで、力道山のライバルとして活躍したらしい。
ちなみに1955年の来日時には、パキスタン代表のサイド・サイプシャー(英語表記不明)なるレスラーとタッグを組んでいたようだが、このムスリムっぽい名前のレスラーについては詳しく分からずじまいだった。
darasingh
ダラ・シン(画像出典:https://wrestlingtv.in/dara-singh-tributes-pour-in-from-bollywood-wrestling-world-on-91st-birth-anniversary/
その後、ダラ・シンは1967年にも来日しているが、このときのダラ・シンと1955年のダラ・シンが同一人物であるかどうかについては諸説あり、このあたりの謎も昭和のプロレスならではの怪しい魅力に満ちている。
(別人説についてはこちらの記事に詳しい「ダラ・シンの謎」
ダラ・シンは50年代からプロレスと並行してスタントマンや俳優としても活躍しており、武勇の猿神ハヌマーン役などを務めて人気を博した。
その後、2000年からはインドの上院議員も務めているというから、ドウェイン・ジョンソン(ザ・ロック)や馳浩の大先輩のような存在と言えるかもしれない。
2018年にはWWE殿堂入りを果たすなど、その実績は世界的にも高く評価されている。
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映画『ラーマーヤナ(Ramayan)』でハヌマーンを演じたダラ・シン(画像出典:https://www.cinetalkers.com/dara-singhs-photos-were-found-in-temples-as-hanuman-people-started-worshiping-as-god/


67年の来日時にダラ・シンのタッグパートナーを務めていたのが、サーダラ・シン
ダラ・シンの実の弟である。
Randhawa_Panch_Ratan
サーダラ・シン(画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Randhawa_(wrestler)
彼の名前をサー・ダラ・シンと表記している記事も見かけるが、いちレスラーの彼がSirの称号を持っているはずもなく、英語表記はSardara Singh(本名Sardara Singh Randhawa)。よりインド風に書くならサルダーラ・シンということになるだろう。(それを言ったら、ジョギンダーもジョギンダルと書くべきだが)
彼も兄を追って1952年にシンガポールに渡り、海外ではファミリーネームのRandhawaというリングネームで活動していたようだ。
日本のリングでは、すでに全盛期を過ぎていたダラ・シンともども大きなインパクトを残すことはできず、たった一度の来日で終わってしまった。
60年代から兄同様に映画にも出演していたものの、俳優としても大成した兄と違い、端役ばかりだったようだ。

ところで、ジェット・シン以前に来日したインド系レスラーの経歴を見ると、シンガポールからのルートで来日したと思われる例が多いことに気がつく。
あのジェット・シンも、カナダに渡る前にシンガポールでデビューしていたという説もあり、1960年代頃までのインド系レスラーの活躍の場としてシンガポールは相当重要な地だったようだ。


1959年の日本プロレス第1回ワールドタッグリーグ戦で来日したのが、「インドの巨人」とも「パンジャブの虎」とも異名を取った198センチの巨漢レスラー、ターロック・シン(Tarlok Singh)。
真偽不明ながらインドレスリングの王者という経歴の持ち主で、実際に1953年にはパキスタンのカラチでアクラム・ペールワンの兄アスラムと戦ったという記録が残っているが、日本のリングでは活躍できず、彼もたった1回のみの来日となってしまった。
日本では印象に残らなかったターロックだが、帰国後のエピソードが強烈だ。
なんと、「象狩り」に行ったまま行方不明となってしまい、足が不自由になった状態で発見され、その後は乞食同然となって暮らしたという。
いくらなんでもこれは嘘だと思うが(象狩りというのは聞いたことがない)、来日前の演出のためのホラ話ではなく、後日談までこの怪しさ、昭和のプロレスならではである。

1971年に自費で来日(!)し、ジャイアント馬場への挑戦を表明したのが「インドの飛鳥」ことアジェット・シン(英語表記はArjit Singhで、本来はアルジットと読むべきだろう)と「インドの蛇男」ことナランジャン・シン(Naranjan Singh)。
アジェットはダラ・シンの弟という触れ込みだったようだが、これが事実なのかどうかは分からない。 
しかし馬場には一切相手にされず、結局国際プロレスのリングに上がったものの、思うように活躍できず来日はこの1回限りとなったようだ。
それにしても「インドの飛鳥」だというのにアジェット・シンの得意技はブロックバスターだったみたいだし、「インドの蛇男」に関してはもはや意味が分からない(得意技は地味なチンロック)。
見世物的なインパクトを狙ったのだろうが、あまりにも適当なネーミングは面白くももの悲しい。
この二人は来日前はイギリスやシンガポールでキャリアを積んでいたようだ。
ところで、この頃来日したインド系レスラーは、インド・ヘビー級チャンピオンなる実態不明の肩書きを名乗っていることが多かったようである。
おそらくはハクをつけるためのハッタリだと思われるが(Rustam-e-Hindというクシュティ/ペールワニの王座は存在するようだが、これも認定団体や歴代王者等が不明の謎の称号)この二人に関しては「インド洋タッグチャンピオン」というさらに正体不明な肩書きを引っ提げていた。


タイガー・ジェット・シン以後
1973年のジェット・シンの来日、そして大ブレイク以降、これまでのシンガポール経由ではなく、カナダや南アフリカから来日するインド系レスラーたちが増えた。
どうやら、カナダでキャリアを積み、南アのブッカーとしても力を持っていたジェット・シンが、自ら連れてきたレスラーが多いようなのだ。
これ以降も記憶や記録に残るほどのインド系レスラーはほぼいないのだが、成功を独り占めせず、少しでも多くの同郷のレスラーにもチャンスを与えようとするジェット・シンの器の大きさが分かるというものだ。

1975年に来日したファザール・シン(Farthel Singh)は、ジェット・シンの実弟というギミックで、「インドの狂虎」ジェット・シンに対して「インドの猛豹」というニックネームがつけられていた。
しかしリングでは良いところを見せることができず、この1回きりの来日に終わってしまった。
あまりのふがいなさに、猪木に「二度と新日のリングに上げない」とまで言われたという情報もある。
もともとはデトロイトやモントリオールを拠点としていたようで(シンのテリトリーとも近い)、売り出し方ともども、ジェット・シンの手引きによる来日と見て間違いないだろう。

1976年に初来日した「インドの若虎」(やはりジェット・シンを意識したニックネームだろう)ガマ・シン(Gama Singh)は、さえないレスラーが多いインド系には珍しく、その後も77年、79年と三度に渡って新日本プロレスに招聘されている。
リングネームの「ガマ」は、20世紀前半に活躍したパキスタン出身の伝説的な格闘家であるグレート・ガマから取ったものだろう。
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ガマ・シン(画像出典:https://prowrestling.fandom.com/wiki/Gama_Singh
彼はパンジャーブ出身ながら、カリブ海のバハマ育ちで、ジェット・シン特集の第2回目で書いた1960年以降にアフリカやカリブからカナダに渡ったインド系移民ということになる。
カナダに渡ったのちにカルガリーで多くの地元タイトルを獲得し、南アフリカでも人気を誇ったようだ。
彼が何度も招聘されるほどに活躍できたのは、ひとえに早い時期からアメリカ式のプロレスに親しんでいたからではないだろうか。
彼はWWEで大活躍しているジンダー・マハルの伯父にあたり、実の息子もガマ・シンJr.の名前でプロレスラーとして活動している。

数多くの南アジア系泡沫レスラーのなかでも、とりわけ悲劇的なのがゴーディ・シンだ。(Gurdaye Singh. 彼もまたカナ表記が微妙。インド系レスラーのリングネームは英語読みからマイナーチェンジすべし、というルールでもあるのだろうか)
76年に行われた新日本プロレスのアジアリーグ戦に、ガマ・シンらと同時に来日。
もともとはカナダのバンクーバーを拠点としていたレスラーだったようだ。
パキスタンのラホール出身という肩書きになっているが、これが事実なのか、このリーグ戦に「パキスタン代表」として参戦するためのギミックなのかは不明(ジェット・シンとガマ・シンがインド代表)。
このシリーズには、ジェット・シン、ガマ・シン、ゴーディ・シンと、3人の「シン」が参戦していたことになる。
ちなみにゴーディ・シンのタッグパートナーだったマジット・アクラ(Majid Ackra)は、南アジアに縁もゆかりもないニュージーランドの先住民マオリの血を引くレスラーで、本名は ジョン・ダ・シルバという(John Walter da Silva. ファミリーネームがポルトガル語っぽいのが少々気になる)。
マオリの戦士をパキスタン人に仕立ててしまうのだから、あいかわらず昭和のプロレスはおおらかである。
ゴーディ・シンの悲劇が始まるのは巡業後だ。
しょっぱいながらもシリーズを終え、生まれて初めて見る大金を抱えてバンクーバーに帰ると、なんとゴーディの家は火事で全焼しており、さらにその1週間後には妻が交通事故で亡くなってしまう。
10歳の一人娘はそのショックで葬儀の最中に突然笑い始め、精神病院に入院。
何もかも失ったゴーディは、遠洋漁業の漁師として再起を図ることにしたというが、その後の彼がどうなったかは、誰も分からないという。 

翌1977年に新日本プロレスに来日したのが「インドの白虎」ことタルバー・シン(Dalibar Singh. 本来ならダリバール・シンと表記すべきだが、もう何も言うまい)。
イギリスや南アフリカで活躍していたというから、やはり南アに強いジェット・シンのルートでの来日と思われる。
DalibarSingh
タルバー・シン(画像出典:https://www.youtube.com/watch?v=ysXdS6kjAc4
イギリスではTiger Dalibar Singhの名前で活躍していたらしく、どうやらパンジャーブ系のレスラーにタイガーというリングネームをつけるのは、欧米では定番のようである。
もともとはイギリスのアマレスで名を上げた選手で、少し間を置いて83年にも新日マットに上がったのち、インド系のレスラーには珍しく85年には旧UWFにも招聘されている。
今ではジェット・シンの会社で働いているという情報もあるが、真偽は不明。

タルバー・シンと同じく77年に新日に初来日したのがモハン・シン(Mohan Singh)。ニックネームは「インドの魔術師」。
クシュティの実力者でダラ・シンからインド王座を奪ったとのふれこみだったが、インドから出たことがなかったようで、日本のリングでは活躍できず、その後の経歴も不明である。

ジェット・シン以降、ここまでが新日本プロレスに来日したレスラーたちである。
誰一人としてジェット・シンに並ぶインパクトを与えたレスラーはいなかったが(リアルタイムのファンによるブログを読むと、みんな「しょっぱかった」ようだ)、凶暴なジェット・シンのもと、インド系の謎のレスラーたちが一人また一人とやって来るというコンセプト自体は悪くなく、彼らを「シン軍団」と読んでいる記事も見かける。
当時からその呼称があったかどうかは不明なので、ここから先は完全に妄想だが、次から次へと正体不明のレスラーが増殖する(シン軍団の場合は、増殖するのではなく入れ替わり立ち替わりやってくるわけだが)というアイデアは、のちに一斉を風靡した「マシン軍団」を彷彿とさせる。
ひょっとしたら、マシン軍団のアイデアや名称は、「シン軍団」から着想を得た部分もあるのかなあ、なんて思ったりもして。

これ以降、そもそも良い人材がいなかったためか、ジェット・シンが新日ナンバーワン外国人レスラーの座から陥落したためか(あるいは、新日にアメリカとのルートができ、得体の知れないインド系に頼らなくてもよくなったのかもしれないが)、インド系レスラーの来日はぱったりと止む。
81年のジェット・シン全日移籍後も、アメリカマットとの豊富なコネクションを持つ全日本プロレスにシン軍団はお呼びでなかったらしく、全日に招聘されたインド系のレスラーは85年のダシュラン・シン(ダシラン・シンとも。英語表記はDashran Singh)のみのようである。
しかしこのダシュランも、あまりにもふがいないファイトで2試合のみで帰国してしまう。

1987年には、226cmもの身長を誇るパキスタンの自称空手チャンピオン、ラジャ・ライオン(Raja Lion)がジャイアント馬場の生涯唯一の異種格闘技戦(!)のために来日する。
試合前に「馬場は小さい」という歴史に残る言葉を発し(馬場は209cm)、話題になったそうだが、このラジャ・ライオン、試合ではまるで強さを見せられず、ヨロヨロとリング上を動き回ると、全盛期を過ぎていた馬場にあっさりと敗れている
彼はこれまでのインド系レスラー/格闘家の中でも輪をかけて酷く、素人目にも格闘技経験が無いのが解るほどで、「その後カレー屋の店長をしていたのを見た」という真偽不明の噂が広まるなど、別の意味で記憶に残る人物だった大槻ケンヂがよくネタにしていた)。
これに懲りたのか、その後、インド系レスラー不在の時代が長く続く。

久しぶりにやってきたインド系レスラーは、ジャイアント・シンことダリップ・シン(本名Dalip Singh Rana)。
Giant Singh
ジャイアント・シン(画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ダリップ・シン

2001年、迷走していた時期の新日本プロレスに蝶野が呼び寄せた巨漢レスラー2人組のうちの1人で、216cmもの長身を誇る、その名の通りの「巨人」だった(もう1人はブラジル出身のジャイアント・シルバ)。
しかしながら、見た目のインパクトに反して不器用なファイトが続き、シルバとの仲間割れや一騎打ちなど、それなりに話題になりそうなことをしていたのだが、正直あまり記憶に残っていない。
当時の専門誌に「ラテン系の陽気なシルバとインド出身で真面目なシンの確執」と説得力があるんだかないんだか分からない記事が書かれていたのをうっすらと覚えているくらいの印象である。
インドで警察官、ボディビルダーとして活躍してミスターインドにも輝いたのち、レスラーを目指してアメリカに渡り、マイナーな団体をいくつか渡り歩いたのちの来日だった。
クシュティではなくボディビル出身で、プロレスが完全にエンターテイメントと化した時代に海を渡ったジャイアント・シンは、新しい時代のインド系レスラーと言って良いだろう。
ちなみに彼はパンジャーブ系ではあるものの、シク教徒ではなくヒンドゥー教徒のようである。

相方のジャイアント・シルバはその後総合格闘技に転向(ぱっとしなかったが)。
ジャイアント・シンはこのまま消えてしまうのかと思われたが、2006年にWWE入りすると、グレート・カリ(Great Khali)のリングネームで猛烈にプッシュされ、WWEヘビー級王座を獲得するなど大活躍。
これは急速な成長を続ける(そしてプロレスファンが非常に多い)インド市場を見越した抜擢だろうが、いずれにしても南アジア系では初の快挙となった。
2015年にはパンジャーブにCWE(Continental Wrestling Entertainment)なる団体(プロレス学校も兼ねているようだ)を設立し、母国のプロレス文化普及に務めている。


…と、こうしてまとめて書かなければ、よっぽどコアなファン以外からは忘れられてしまいそうなインド系レスラーたちを紹介してみた。
改めて感じるのは、ジェット・シンはインド系レスラーの中では本当に別格だったんだなあ、ということだ。
鬼気迫る狂気を完璧に表現し、リング外でも徹底して凶悪ヒールのイメージを形成する自己プロデュース能力、リングでのテクニック、チャンスを独り占めせず同郷の仲間たちにも与える器の大きさ、そしてプロレス以外でも事業を営み成功させる経営能力と、全てにおいて桁外れの才能の持ち主だったことがはっきりと分かる。

インドでのクシュティ人気の低下や、これまでのクシュティ出身者がしょっぱかったせいだと思うが、昨今ではクシュティ出身のプロレスラーが全くいなくなってしまったのは、なんだか少し寂しいような気がしないでもない。
「寝技がなく、相手の背中を地面につけたら勝ち」というクシュティのルールで育った選手では、現代的なプロレスにはもはや対応できないのだろう。


ふと気づいたのだが、このクシュティのルールで育った選手が活躍できそうな格闘技があるとしたら、それは相撲ではないだろうか。
クシュティはインドの都市部では廃れてしまったが、地方ではまだまだ盛んなようで、きっとハングリー精神の旺盛な選手がたくさんいるのではないかと思う。
シク教徒は食のタブーのない人もいるので(個人や宗派による)、ちゃんこを食べることにも抵抗は少ないだろう。
ハワイ勢、モンゴル勢に続いて、インドの力士が活躍する時代が来たら面白いなあ、なんて思っている次第である。

だんだん何を書いているか分からなくなって来たので、今回はここまで。

今回の記事を書くにあたり、プロレスライターのミック博士が書いている「ミック博士の昭和プロレス研究室(http://www.showapuroresu.com)」から非常に多くの情報をいただいた。
っていうか、懐かしい名前がたくさん出てきて、ブログを書く作業が進まないっていったらなかった。
歴史に埋もれてしまいそうなレスラーたちを記録していただいたことに改めて感謝しつつ、タイガー・ジェット・シンを巡る連載を終わります。




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goshimasayama18 at 23:18|PermalinkComments(0)

2020年01月14日

タイガー・ジェット・シン伝説その3 全てを手に入れた男

その1の記事はこちら


その2の記事はこちら


猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件、腕折り事件といったスキャンダラスな話題に満ちたアントニオ猪木とタイガー・ジェット・シンの抗争は、新日本プロレスに(もちろん、シンにも)巨万の富をもたらした。
シンはその狂気を感じさせる独特のファイトスタイルで、新日ナンバーワン外国人レスラーの座を確かなものとした。

しかし、シンと新日本プロレスとの蜜月にも終わりがやってくる。
1977年、カウボーイ・スタイルのアメリカ人レスラー、スタン・ハンセンが新日に初参戦する。
ハンセンは、必殺技の「ウエスタン・ラリアート」でブルーノ・サンマルチノの首をへし折ったというふれこみだったが、それは実は後付けで、その実態は下手なボディスラムでサンマルチノの首を負傷させてしまった不器用なレスラーに過ぎなかった。
しかし、ハンセンはシンの暴走ファイトを参考に「ブレーキの壊れたダンプカー」と称されるスタイルを確立すると、みるみるうちに人気レスラーとなり、ついにはシンから新日ナンバーワン外国人の座を奪うまでになる。
ハンセンのトレードマークであるブルロープを振り回し、観客を蹴散らしながら入場するのは、サーベルを振り回して入場するシンの影響だと言われている。
シンがザ・シークのスタイルを取り入れて日本でトップを取ったように、ハンセンはシンのスタイルを取り入れ、そのお手本を上回る人気を得たのだ。
(それでも、ハンセンはシンに対する尊敬の気持ちを持ち続けており、二人はけっして不仲ではなかった)

さらに、1981年には新日本プロレスが全日本プロレスからアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜くという事件が発生。
ブッチャーはシンと同様に反則ファイトや凶器攻撃を得意とする怪奇派の人気ヒールレスラーだ。
シンは来日前からブッチャーと面識があったが、もともとウマが合わず、さらには自分と似たキャラクターのレスラーを引き抜いた新日フロント陣への不満も募っていった。
一方、ブッチャーを引き抜かれた全日本プロレスは、報復として新日からのシン、ハンセンの引き抜きを画策する。
シンとハンセンはそれに応じて全日本プロレスへの移籍を決意、新日本と全日本の興行戦争はますます加熱してゆく。
正直に告白すると、私がタイガー・ジェット・シンを記憶しているのはこの頃からだ。
全日本プロレスでのシンは、ハンセンやブルーザー・ブロディよりも格下の扱いであり、そのヒールぶりは狂気というよりは伝統芸能、様式美の域に達していたが、それでもなおサーベルを振り回して入場する彼の姿は、子供心にインパクトを残すには十分なものだった。

ところで、地元トロントでは事業家としても知られるシンは、現役時代からレスラーとしてだけではなく、ブッカーとしても活躍していた。
とくに、100万人を超えるインド系住民が暮らしている南アフリカには多くのレスラーを派遣していたようだ。
1987年、ある悲劇が起きる。
シンは全日本プロレスに南アフリカへの選手派遣を依頼し、ジャイアント馬場は要請に応えて、当時若手有望株だったハル薗田を遠征させることにした。
新婚だった薗田のハネムーン兼ねたものにしてやろうと思っていたのだ。
ところが、南アフリカ行きの飛行機が墜落し、薗田夫妻は帰らぬ人となってしまう。
このとき、シンは狂人ヒールというキャラクターを捨て去り、スーツ姿でマスコミの前に現れて深い悔恨の意を伝え、ファンを驚かせた。
シンの本当の人柄が伝わるエピソードだが、これはあくまでも非常事態に見せた例外的な対応だ。
シンは自身のキャラクターを守ることを強く意識しており、とくにヒールとして活躍していた日本では、自分からその素顔をメディアに見せることは決してなかった。(そして、今日まで、その信念は揺らいでいない)
一方で、ベビーフェイス(善玉レスラー)として活躍していたカナダでは、事業家や慈善活動家としての一面も隠さずにメディアに語っており、こうしたキャラクターの使い分けは、シンの高いプロ意識によるものと言えるだろう。
全日本プロレスでのシンは、元横綱の輪島大士のデビュー戦の相手を務めたり、新日から復帰したブッチャーと不仲を乗り越えて「最凶悪タッグ」を結成したりするなど話題を振りまいたが、その活躍は新日のトップヒール時代とは比べるべくもなかった。
だが、シンの伝説はこのままでは終わらない。

全盛期を過ぎたかに見えたシンだが、新日本プロレスの古参ファンたちは、彼のことを忘れてはいなかった。
1990年9月30日、新日本プロレスのアントニオ猪木デビュー30周年興行。
シンは、この記念すべき試合の猪木のタッグパートナーに、ファン投票によって選ばれたのだ(対戦相手はビッグバン・ベイダー、アニマル浜口)。
日本では極悪ヒールとして活躍してきたシンだが、日本マット界の最大のカリスマである猪木のプロレス人生で最も重要なレスラーとして選ばれたことに対しては、万感の思いがあったようだ。
横浜アリーナに集まった18,000人(超満員札止め)の大観衆が見守るなか、シンは、いつものような狂乱ファイトを封印し、多少のラフさを残しながらも、猪木を立てる役割に終始する。
彼の本当の人柄が現れた日本では稀有な試合で、機会があればぜひ見てみることをお勧めする。

生まれ故郷のインドを離れ、居を構えたカナダからも遠く離れた日本で、彼は生まれ持った真面目さを捨て、いや、その真面目さゆえに、「インドの狂虎」として暴れまわり、恐れられた。
カナダに妻子を残し、本来の性格とは正反対の悪役を完璧に演じることで、彼は成功を手にした。
日本のプロレス界の絶対的ヒーローである猪木と初めて同じコーナーに立ち、割れんばかりの歓声(罵声や恐怖の叫びでなく)を浴びたシンの思いはいかばかりだっただろうか。
それにしてもこの試合、「教祖としての猪木」への観客の盛り上がりが凄まじい。
全盛期はとうに過ぎているにもかかわらず、動きや表情の一つ一つで観客を魅了してゆく猪木の格闘アーティストぶりは素晴らしく、シンからタッチされた直後にベイダーに腕折りを仕掛ける場面なんかは天才的な発想だ。(猪木がかつて、死闘の末にシンの腕を折ったとされる伝説の試合のオマージュになっており、またほぼ全ての観客がそれを理解しているのも凄い)

話をシンに戻す。
猪木30周年記念試合をきっかけに新日本プロレスに復帰したシンは、馳浩と巌流島で戦うなど、一定の話題を振りまくが、やはり全盛期ほどの活躍はできず、1992年にふたたび新日を離れることになる。

しかし、これでもまだ終わらないのが、シンの凄いところだ。

これ以降、シンはFMW、NOW、IWAジャパンといった、いわゆるインディー団体への来日を繰り返し、まだまだ健在であることをアピールしてゆく。
これらの団体では、もちろんシンはトップ外国人レスラーであり、サーベルを手に存分に暴れまわってその力を誇示した。
ちなみに、「日本のプロレス報道のクオリティ・ペーパー」である東京スポーツは、この頃からシンのリングネームの表記を、より本来の発音に近い「タイガー・ジット・シン」と記載するようになった。
本人の意向もあったようだが、一般のファンや他のマスコミには浸透せず、私もそんなことはまったく知らなかった。
ちょうどこの時期、私はプロレスから遠ざかっていたので、たまに東スポ紙上で「ジット・シン」がインディー団体に上がっているという記事を見るたびに、超大物レスラーであるシンとマイナーな団体とが結びつかず、「これは本物のシンなのか、それともシンによく似たパロディ・レスラーなのか」と悩んだものだった。

さらに時は流れる。
2005年、タイガー・ジェット・シンの姿は、まだ日本のリングの上にあった。
「ハッスル」というかなりエンターテインメント色の強いプロレス興行ではあったが、60歳のシンの鍛え上げられた肉体はリアルだった。
トレーニングではベンチプレスを軽々と持ち上げ、全盛期と同様にサーベルを振り回し、観客を恐怖に陥れながら入場すると、リングでは凶器攻撃でオリンピック柔道銀メダリストの小川直也を徹底的に痛めつけた。
この光景は、このシリーズを書くにあたってかなり参考にした"Tiger!"というドキュメンタリー番組(2005年、カナダ制作)の一場面である。
あくまで画面からの印象だが、このときのシンのコンディションは、体重が増加し思うように動けなかった全日時代よりもむしろ良かったのではないかと思えるくらいだ。
このドキュメンタリーのなかで、シンは自らの言葉で半生を語っている。
試合での年齢を感じさせない狂乱のファイトとは対象的に、広大な敷地の豪邸で穏やかにインタビューに答える様子は、成功者としての貫禄にあふれ、人々に慕われ、尊敬されている様子が伝わってくる。

結局のところ、この男は何者なのだろうか。


シンの半生を振り返る。
彼は「すべてを手に入れた男」だ。
力、富、尊敬、家族、地位、名誉。
およそ人間が手に入れたいと願うもので、彼が手に入れられなかったものはない。
しかも、彼が手にしたもののうち、親から授かったものは、恵まれた肉体(彼の身長は191㎝)と、その誠実な人柄だけであり、それ以外の全ては、彼が努力によって手に入れたものなのだ。

「力」については言うまでもないだろう。
インドで身につけたクシュティ、フレッド・アトキンス仕込みのプロレスの技術、ザ・シークから学んだ暴走ファイト、そして、60歳を過ぎてなおリングで大暴れできるほどにストイックに鍛え上げられた肉体。
自身をどう見せるかというプロデュース能力を含めて、こうした全てが彼にリングでの成功をもたらした。
そこには、自分のキャラクターとスタイルへの強烈なプライドもあった。
稀代の悪役として新日本プロレスで暴れ回っていた頃、新日ストロング・スタイルの創始者であり、「神様」とも称されたカール・ゴッチは、シンのスタイルを快く思っていなかったそうだ。
だが、シンはゴッチと一触即発の状況になっても、一歩も引かなかったという。
自身が新日立て直しの最大の立役者であるという自負が、そうさせたのだろう。
一方で、シンはいわゆる「ストロング・スタイル」の日本のプロレスのスタイルに強い思い入れを持っていたようで、地元のメディアに対して「現在のWWE的なプロレスはフェイク。自分が日本でしていたのは本物の戦いだった」という趣旨のことを語っている。
シンの強烈なハングリー精神とプライドは、より「リアル」を重んじる日本のリングだからこそら華開いたのだ。

「富」については、彼の現在の暮らしぶりを見れば何の説明もいらないはずだ。
リムジンで移動し、誕生日をクルーザーで祝う彼は、成功におぼれ身を持ち崩す者も多いレスラーの中では、極めて堅実に成功している例と言えるだろう。
シンは、カナダでは日本で稼いだ金をもとに事業に成功した実業家としても知られている。
彼はホテル、不動産、土地開発を手がける経営者でもあり、今では800エーカーの敷地に立つ豪邸に住んでいる。

「尊敬」に関しては、これまで述べてきた通りだ。
日本でのシンは、ヒールとしての悪名から転じて、やがて誰からも愛される存在となった。
カナダのメディアは、「日本ではシンは神のように扱われている。妊婦がシンのもとにやってきて、彼のように強い子どもが生まれるように、お腹をさわってほしいとお願いしに来ることもある」と驚きをもって伝えている。
うれしいことに、シン自身も地元メディアに日本のファンへの感謝を常に語っており、最も印象的な試合として、アメリカでも有名なアンドレ・ザ・ジャイアントやザ・シークとの対戦ではなく、猪木戦や輪島戦を挙げている。
地元カナダでも彼は名士として知られているが、やはり日本での知名度と存在感は格別であり、シンもその事実を誇らしく思ってくれているようだ。

彼の「家族」について見てみると、今では幸せに孫たちに囲まれて暮らしているものの、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
シン夫妻には3人の息子がいる。
妻は結婚早々に故郷のパンジャーブを離れてカナダに引っ越すことになり、巡業で家を空けがちな夫がいない寂しさに耐えなければならなかった。
当時は英語も満足に話すことができず、孤独感のなかで子供たちを育てざるを得なかったという。
インターネットのない時代に、いつ命にかかわるケガをするか分からない仕事をしている夫を、慣れない異国の地で待って暮らすのはさぞ心細かったことだろう。
だが、子供たちは立派に育った。
長男のGurjitはTiger Ali SinghのリングネームでWWEなどで活躍し、タイガー・ジェット・シンJr.の名前で来日して親子タッグも組んだこともある(彼のリングネームは、自身のヒーローである父とモハメド・アリの名前を合体したものだ。彼は今ではケガを理由にプロレスを引退して、父の名を冠した財団の仕事をしている)
他の息子たちも、ホテルを経営するなど、さまざまな分野で活躍しているようだ。

日本ではなく、カナダにおける「名誉」や「尊敬」については、少し説明が必要だろう。
シンは、プロレスや事業で稼いだお金を、決して自分や家族のためだけには使わなかった。
彼は、「タイガー・ジェット・シン財団」を作り、ドラッグ対策、健康増進、奨学金などの形で社会貢献をしてきた。
2010年には、そうした活動を称えて、彼が暮らしているオンタリオ州ミルトンの公立学校に、Tiger Jeet Singh Public Schoolの名前がつけられることになった。
カナダで初めてシク教徒の名前がつけられた学校であり、そしておそらく世界初のプロレスラーの名前を冠した学校でもある。
命名にあたって、「暴力的なプロレスラーの名前を学校につけるのはいかがなものか?」という意見もあったようだが、彼が地域をより良いものにしたロールモデルであるという理由で、シンの名前が採用されることになったという。
2012年には、こうした活動を称えられ、財団の仕事をしている息子のGurjitとともに、英国王室からダイヤモンド・ジュビリー勲章を授与された。
日本人としては、2011年の東日本大震災に対して、彼の財団が日本支援のためのキャンペーンをしてくれたことも忘れずに覚えておくべきだろう。

1971年に、インドからたった6ドルを握りしめて海を渡ってきた少年が、ここまでの成功を収めるとは、いったい誰が想像しただろうか。
だが、彼の絶え間ない努力と誠実さを考えれば、彼が手にした成功は全く不思議ではないのだ。
今後、もし「尊敬する人は誰か?」と聞かれたら、私は即座に「タイガー・ジェット・シン」と答えることにしたい。


さて、その後のシンは、明確な引退宣言をしないまま、セミリタイア状態が続いている。
どうやら2009年にハッスルのリングに上がったのが、現役レスラーとしての最後の姿になったようだ。
いくら頑健な肉体を誇るシンとはいえ、もう75歳であり、これからリングの上で戦うことはないだろう。
引退試合は難しいかもしれないが、せめて引退セレモニーくらいはしてほしいというのがせめてもの願いである。
シンがプロレスのリングを離れて10年以上が経過した。
かつてシンが活躍した新日本プロレスは、当時の猪木体制から完全に決別しており、また全日本プロレスもシンが来日した馬場時代とは全く別の体制となっている。
現在の日本のプロレス界でシンの功績が振り返られることはほとんどない。
だが、シンの居場所がオールドファンの心の中だけというのはあまりにも寂しい。
そして、現役を退いた今だからこそ、シンに、日本のファンに向けてありのままの人生を語ってもらえないだろうか。
彼はヒールとしてのキャラクターを貫きたいのかもしれないが、ぜひシン自身の言葉で、彼の哲学を、努力を、大切にしているものを聞いてみたい。
彼の人生から我々が学べることは、あまりにも多いのだから。



参考サイト:


カナダでやはりインド系の映像プロデューサーLalita Krishaが作成したドキュメンタリー"Tiger!"では、日本では決して見せないシンの素顔を見ることができる。







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goshimasayama18 at 19:37|PermalinkComments(0)

2020年01月11日

タイガー・ジェット・シン伝説その2 猛虎襲来!来日、そして最凶のヒールへ

(前回の記事はこちら)


プロレスラーとしてのキャリアをあきらめ、故郷のパンジャーブで農家として新婚生活を始めたシンに、トロントの古巣メイプルリーフ・レスリングから再び声がかかった。
もう一度、リングに上がってほしいというのだ。
それには、こんな背景があった。

シンがリングを去った後、北米では、「アラビアの怪人」ことザ・シークがリングを荒らしまくっていた。
シークはアラビア人というギミック(じつはレバノン系アメリカ人)で火炎殺法をあやつる怪奇派レスラー。
従来のプロレスのセオリーを無視した暴走ファイトで一世を風靡し、そのすさまじい人気は国境を越えてカナダにも及んだ。
そのシークがトロントにやってくることになったのだ。
メイプルリーフ・レスリングのフランク・タネイは、アクの強いシークに対抗できるレスラーとして、シンのカムバックを画策した。
 
プロレスラーの夢を捨てていなかったシンはこのオファーを受け、新婚の妻を連れて再びカナダへと渡る。
果たして、1971年のトロントで、シーク対シンはドル箱マッチとなった。
彼らの金網マッチに人々は熱狂し、それまで良くて3,500人の観客しか入らなかったメイプルリーフ・ガーデンには、20,000人もの観客が押し寄せるようになった。

ちなみに、「ザ・シーク」というリングネームは、カタカナで書くとシンが信仰する「シク教(Sikh, Sikhism。 シーク教と表記することもある)」とよく似ているが、アルファベットで書くと'The Sheikh'であり、アラビア語で「部族の長老、首長」を意味する「シャイフ」という言葉の英語表記である。
それにしても、この時代のカナダで、アラビア人対インド人の試合がメインというのもすごい話だ。
シンはシークとの戦いで株を上げ、大いに稼いでキャデラックを乗り回すまでになった。
地元トロントでシンがヒール(悪役)からベビーフェイス(善玉)にターンしたのもこの頃だろう。
それには、ザ・シークという最強の悪役がいたということだけでなく、おそらくカナダ社会の変化が関係している。

20世紀前半、パンジャーブ系を中心とした多くの南アジア系移民が、アジア極東地域から太平洋を渡ってカナダ西岸の街バンクーバーに移り住んだ。
シンの家族が当初バンクーバーを目指したのも、この街にすでにパンジャーブ系コミュニティーの基盤があったことが理由だろう。
1960年代以降になると、南アジア系住民の第二波がカナダに到達する。
今度は東部に位置するカナダ最大の都市トロントに、アフリカやカリブ諸国に移住していたインド系住民たちがやってきたのだ。

多民族国家であるアメリカやカナダのプロレスは、ベビーフェイスとヒールの戦いであると同時に、各コミュニティーの代表の戦いでもある。
1960〜70年代のWWWF(現WWE。ニューヨークを拠点としている)でブルーノ・サンマルチノが絶対的なスターだったのは、ニューヨークのイタリア系移民の多さと無関係ではない。
インド人をはじめとする南アジア系住民が増えてきたトロントには、インド系のシンが外国人ヒールではなく、ベビーフェイスとして活躍する素地が出来ていたのだろう。
(その後もトロントの南アジア系社会は成長を続け、郊外を含めると、今ではトロントにはバンクーバーを上回る約100万人の南アジア系住民が暮らしている)

しかしシンは、北米マット界の辺境であるトロントでの成功では飽き足らなかった。
カナダのローカルスターに過ぎなかった彼は、さらなる成功を夢見て世界を転戦する。
オーストラリア、シンガポール、ブラジル、香港などのリングに立ち、そして1973年5月、ついに運命の国、日本へとやってくる。

シンの来日には、新日本プロレスと近しいある貿易商が関わっていたようだ。
香港でシンのファイトを見た彼は、新日の関係者にシンの写真を見せた。
ターバン姿でナイフをくわえ、目をひんむいたシンの写真を見たアントニオ猪木は、この世界的には無名なレスラーを招聘しようと決断する。
当時、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに主要な外国人レスラーの招聘ルートを抑えられていた新日本プロレスは、インパクトのある外国人レスラーがなんとしても必要だったのだ。

ところで、シク教徒の男性には、教義によって身につけることになっている「5つのK」がある(今日では日常的にこの全てを守っているシク教徒は少ないが)。
Kesh(髪を伸ばし切らないこと)、Khanga(小さな木製の櫛)、Kara(右腕にはめる鉄の腕輪)、Kachera(ゆったりした短パンのような下着)、そして、自身と正義を守るための短剣、Kirpan(キルパーン)だ。
シンが写真でくわえていたのは、このキルパーンだった。
アントニオ猪木は、この写真を見て、ナイフをサーベルに変えることを提案する。
レスラーとしての成功を夢見ていたシンは、シク教徒のシンボルとの決別を意味するこの提案を快諾。
日本では、伝統を保持するインド系コミュニティの代表としてではなく、狂気の外国人レスラーとして暴れまわることを、当初から決意していたのだろう。
入場時に振り回し、試合では凶器として使用する、シンのトレードマークとも言えるあのサーベルはこうして誕生した。

1973年5月3日、タイガー・ジェット・シン、初来日。
その2ヶ月前には、のちにWWEでTiger Ali Singhとして活躍する長男Gurjitが生まれたばかりだった。
幼い我が子と妻をカナダに残して極東の地を踏んだシンの心情はいかばかりだっただろうか。 
手違いで早く日本に着いてしまったシンは、新日本プロレスに翌日の川崎大会に招待された。
客席から見るだけだったはずのシンだが、何を思ったか山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合に乱入すると、小鉄をめった打ちにしてしまう。
突然現れたターバン姿のガイジンレスラーの凶行は、強烈なインパクトを残した。
ここからのプロレス史的なシンの活躍については、すでにさまざまな形で書かれているので、簡単に紹介するに留めよう。
シンは新日本のリングで、水を得た魚のように暴れ回り、あっという間に人気悪役レスラーとなった。
凶器攻撃、試合展開を度外視した暴走ファイト、そして、シンそのものから滲み出る本物の狂気を感じさせる怪しさは、観客の目を釘付けにした。
シンが日本で見せた無軌道なファイトスタイルは、間違いなくカナダで肌を合わせたザ・シークから学んだものだ。(ちなみにシンもシーク譲りの火炎殺法を使っている)
 
そして、同年11月、あの、あまりにも有名な猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件が起こる。
「リアル」なものとして警察も出動する騒ぎになったこの騒動は、今日ではプロレス的なストーリーライン上の出来事されているが、この時代に、リングも会場も飛び出して、家族をも巻き込んだ後年のWWE的演出の原点とも言えるアングルを仕掛けた発想は、天才的だった。
この騒動に、当事者であり新日本プロレスの経営者でもあった猪木が深く関わっていたことは間違いないだろう。
このたった3年後には、天才猪木は逆の方向に振り切れ、後の総合格闘技の原点とも言えるモハメド・アリとの異種格闘技戦を行う。
アントニオ猪木もまた、狂気とも言える才覚の人だった。

その後、猪木とシンとの遺恨マッチは新日本プロレスに多くのファンを呼び込むことになる。
猪木、シン、そして観客の興奮と熱狂は1974年6月26日の大阪府立体育館で頂点に達し、伝説となっている猪木によるシンの「腕折り事件」を迎える。
この一連の猪木-シンの抗争は、当時全日本プロレスに大きく水を開けられていた新日本プロレスに莫大な利益をもたらした。
来日時に週給3,000ドルだったシンの報酬は、最終的には週給8,000ドルにまで上がったという。

シンの日本での成功にはいくつかの理由がある。
ひとつには、ポケットの中にたった6ドルを握りしめてカナダに渡ったシンの、強烈なハングリー精神が挙げられる。
日本はアメリカ、メキシコと並ぶプロレス大国であり、当時はファンたちがプロレスを"リアルなもの"として熱狂していた時代である。
生まれたばかりの子と妻をカナダに残して来日したシンは、なんとしてもここ日本で強烈な爪痕を残したいと感じていたはずだ。
この想いが、前述の理由から有力な外国人レスラーが招聘できなかった新日本プロレスの思惑と合致した。
シンにとって幸運だったのは、そこにアントニオ猪木というもう一人の「狂気」を宿した天才がいたということだ。
シンの狂気を感じさせる暴走ファイトと、感情をむき出しにしてそれを受け止める猪木との化学反応は、相乗効果となって観客たちを興奮の坩堝へと誘った。

TJシン2


猪木、そして新日本プロレスは、シンの演出の面でも完璧だった。
シク教徒のシンボルだった短剣をよりインパクトの強いサーベルに持ち替えさせ、「伊勢丹前襲撃事件」、さらには「招待していないのに勝手に参戦している」という斬新なアングルを用意して、シンの「狂気のヒール」というイメージを確固たるものにしていった。

とはいえ、シンは単なるキワモノのヒールではなかった。
彼の狂乱のファイトのベースにはフレッド・アトキンスに鍛えられた確かなプロレス技術があり、猪木もその実力には一目置いていたという。
緩急のあるファイトが、単なる怪奇派にとどまらない試合の流れを作り出していたのだ。

また、今ではファンに広く知られているが、素顔のシンは実に誠実で紳士的な男だった。
ミスター高橋の著書によると、1973年の5月3日に初来日したシンは、スーツ姿で空港に現れ、名刺を差し出して高橋を驚かせた。
そんな挨拶をした外国人レスラーは他に誰もいなかったからだ。
スポンサーに招待されたバーベキューで、火力が強まり汗ばんでも、シンは「社長、ジャケットを脱いでもよろしいでしょうか」とわざわざ断りを入れるほど、気配りのできる人物だった。
猪木によるシンの「腕折り」はプロレス的なストーリーの中でのこと(実際に骨折したわけではない)だったのだが、律儀なシンはその後しばらく腕に包帯を巻いて過ごし、そのために腕がかぶれてしまっても、包帯を巻き続けていたという。
シンのあまりにも誠実な性格は、やはり誇り高きシク教徒の軍人だった父、そして伝統的なインド女性だった母親からの影響によるものだろう。
彼の「狂気」「暴走」は、こうした「生真面目さ」に裏打ちされたものだったのだ。
バス移動中のサービスエリアでファンに声をかけられたシンが、ヒールのキャラクターを崩さないために襲いかかるふりをしたところ、そのファンに足があたってファンが転んでしまったことがあったという。
出発したバスの中で、シンはファンのことをいつまでも心配していたそうだ。

プロレスがリアルで、それゆえの熱狂を生み出していた70年代日本で、シンはついに稀代のヒールとして開花した。
「インドの狂虎 」の伝説はまだまだ終わらない。

(つづきはこちら)


参考文献:
ミスター高橋「悪役レスラーのやさしい素顔」ほか



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2020年01月08日

タイガー・ジェット・シン伝説その1 パンジャーブの虎、カナダに渡る。そして虎たちの系譜


ジャグジート・シン・ハンス(Jagjeet Singh Hans)という名前を聞いて、ピンとくる人はほとんどいないだろう。
だが、ある世代の日本人にとって、彼はもっともよく知られているインド人であり、そしてもっとも恐れられたインド人でもあるはずだ。
彼のもうひとつの名前は、タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh)。
インドの狂虎。
稀代の悪役レスラー。
彼のリングネームは、本来であれば「ジート・シン」とカナ表記すべきなのだろうが、それを「ジェット・シン」としたことで、彼の狂乱のファイトの勢いが伝わってくるような響きになった。
誰かは知らないが、彼の名前を最初に訳した人に敬意を表したい。

新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃事件や、試合での流血ファイト、凶器攻撃など、リング内外での彼の暴れっぷりについては、プロレスファンによく知られている。
また、もう少し熱心なファンなら、素顔の彼がじつは非常に紳士的な人物だと聞いたことがある人も多いはずだ。
彼が現在暮らしているカナダには、その名前が冠された小学校があるという話も、ファンの間では有名である。
しかし、プロレス不毛の地であるインド出身の彼が、なぜ、どうやってプロレスラーになったのか。
本来は紳士であるはずの彼は、どうして稀代の悪役レスラーとなったのか。
そして、カナダでは地元の名士だという彼の本当の素顔はどのようなものなのか。
この「日本で最もよく知られているインド人」について、我々が知らないことはあまりにも多い。
今回から数回に分けて、タイガー・ジェット・シンの半生を振り返り、そのインド人としてのルーツを探る企画をお届けします。

Punjab_in_India
(インド・パンジャーブ州の位置。https://ja.wikipedia.org/wiki/パンジャーブ州_(インド)より)


1944年4月3日、ジャグジート・シン・ハンスは、パンジャーブ地方のシク教徒の家庭に生まれた。
「シク教」は、15世紀にパンジャーブで生まれた宗教で、男性の信徒がターバンを巻くことでよく知られている。
シク教徒は、インド全体の人口の2パーセントほどに過ぎないマイノリティだが、早くから海外に出た人たちが多かったため、インド人といえばターバンというイメージが世界中で定着してしまった。
ジャグジートの出生地は、現在のインド領パンジャーブ州の中央に位置する、ルディヤーナー郡のスジャプルという村だ。
「現在のインド領」とことわったのは、彼が生まれた当時、インドという国家はまだ存在しておらず、南アジア一帯がイギリスの支配下だったからだ。
1947年、彼が3歳のときに、インドとパキスタンはイギリスからの独立を果たし、故郷のパンジャーブ地方は2つの国に分断されることになった。
この印パ分離独立にともない、パンジャーブ一帯は大混乱となった。
イスラーム国家となったパキスタンを脱出してインド領内を目指すヒンドゥー教徒・シク教徒と、インドからパキスタンを目指すイスラーム教徒がパニック状態となり、混乱のなかで起きた暴力行為による犠牲者数は、数百万人に上るとも言われている。
この悲劇がシンの一家にどのような影響を与えたかは、分からない。
いずれにしても分離独立にともなうパンジャーブの混乱は、この地域に暮らす人々の海外移住に拍車をかけることになった。

シンの父は軍人、母は伝統的な専業主婦だった。
シク教徒は古来、勇猛な戦士として知られており、今日でも軍隊に所属する者が多い。
ジャグジート少年も、誇り高き軍人の息子として、厳しく育てられたはずだ。
彼の紳士的な性格や、後年慈善事業に積極的に取り組む姿勢は、こうした家庭環境からの影響が大きいのだろう。
少年時代のジャグジートは、アカーラー(Akhara)と呼ばれる道場で、インド式レスリングのクシュティとカバディを習っていたという。
この頃、クシュティの英雄だったダラ・シン(後述)の試合を見たことが、後の彼の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
(余談だが、カール・ゴッチによって日本のプロレス界に取り入れられた棍棒を使ったトレーニング方法の「コシティ」は、インド〜西アジア発祥のトレーニングで、その語源はクシュティに由来する)

ジャグジートが17歳のときに、彼の一家はバンクーバーに移住することになる(15歳説もある)。
20世紀初頭から、カナダ西岸ブリティッシュ・コロンビア州の州都バンクーバーには、太平洋を渡った多くのシク教徒が工場労働者として移住していた。
彼らもそうした流れに乗って、より豊かな生活を求めて移民となったのだろう。
カナダに渡るジャグジートのポケットにはたったの6ドルしか無かったというから、まさに裸一貫での移住である。

バンクーバーに渡ったジャグジート少年は、英語が分からなかったので、早々に学校からドロップアウトし、学校に行くふりをして近所のジムに通うようになった。
インドでアカーラー(道場)に通っていた彼にとって、学校よりもジムのほうが馴染みやすかったのかもしれない。
トレーニングに打ち込んだ彼の体は、みるみる強く、大きくなってゆく。
この頃、テレビで初めてプロレスを見た彼は、「これなら自分にもできるはずだ」と思い立ち、レスラーになるため、カナダ東部のオンタリオ湖畔の街、トロントへと移り住むことを決意する。
彼の地元のバンクーバーは、のちにジン・キニスキーによってAll Starという団体が設立されるまで、プロレス不毛の地だったのだ。
東部のトロントには、小さいながらもプロレス団体がすでに存在していた。
念願は叶い、移住先のトロントで、ジャグジートはプロモーターのフランク・タネイ(Frank Tanney)によってプロレスラーとなることを認められた。
「ターバンを巻いたレスラー」という個性をタネイに評価されてのことだった。
徐々に多文化社会となってゆくカナダで、人種的多様性に着目したのは先見の明と言って良いだろう。

ジャグジートは、フレッド・アトキンス(Fred Atkins)のもとで厳しいトレーニングを積み、そのファイトスタイルの激しさから、Tiger Jeet Singhのリングネームを授かる。
アトキンスはジャイアント馬場の修行時代のコーチとしても知られる名レスラーで、彼もまたニュージーランド出身の移民だった。
 
ジャグジート改めタイガー・ジェット・シンは、1965年にデビューする。
21歳のときのことだった
シンは、きびしい練習の成果からめきめき頭角を現し、その年の暮れには、タッグマッチでメインイベントを任されるまでに成長した。
パートナーは日系人レスラーのプロフェッサー・ヒロ。
この頃から、 日本となにか縁があったのだろうか。
ちなみに、日本のファンには、「シンは地元カナダではベビーフェイス(正統派)のレスラー」と知られているが、この頃のシンは、まだ荒っぽいファイトを繰り広げるヒール(悪役)だった。
やがて彼は地元のメイプルリーフ・レスリングのUS王座につき、団体のメインコンテンダーとして活躍するようになる。
しかしトロントのレスリングマーケットは小さく、大入りでも3,500人程度しか入らない。
週にたった100ドルを稼ぐために、必死で戦う毎日が続いた。
豊かになるために訪れたカナダで、体を張った厳しい日々が続く。 
彼のレスリング人生の根底にあるのは、インド時代からこの時期までに培われたハングリー精神だろう。 
だが、苦労するジャグジートを見かねた父は、彼をインドに連れ戻してしまう。
さすがのシンも、軍人の父親には頭が上がらなかった。

1970年(1967年8月という説もある)、パンジャーブに戻った彼は、一般的なインド人と同様に、お見合いをして、地元のスポーツ選手だった女性と結婚する。
花嫁は、夫がしているという「レスリング」がどんなものだか知らなかったという。
シンの妻は、はじめは太った大男かと思って彼を怖がっていたが、会ってみると思いのほか紳士的な男性だったと語っている。
生まれ故郷のパンジャーブで、シンの新婚生活が始まった。
ここで彼のレスラーとしてのキャリアが終わってしまえば、タイガー・ジェット・シンはトロントの一部のファンにしか記憶されない存在になっていたはずだ。

ところで、「タイガー」と異名をつけられたインド系のレスラーは彼が最初ではない。
「虎」はインド人レスラーの典型的なイメージだったのだろう。
1930年代から60年代に世界中を転戦して活躍したDaula Singhは、Tiger Daulaのリングネームを名乗り、真偽のほどは不明だが、インディア・チャンピオンなる肩書きを引っさげていたようだ。
また、1919年生まれのJoginder Singhも、Tiger Joginder Singhというリングネームを使っていた。
彼の活躍の場は、シンガポール、米国を経て日本にも及び、1955年には「タイガー・ジョギンダー」の名で力道山・ハロルド坂田組を破って日本最古のベルトであるアジアタッグの初代チャンピオンにも輝いている(パートナーはキングコング)。
Tiger Joginder Singhを1954年にインドで破ったのが、Dara Singh(ダラ・シン)。
500戦無敗という伝説を誇り、少年時代のジャグジートにレスラーになるきっかけを与えた人物だ。
彼は力道山時代に来日した数少ないクリーンなファイトをする外国人としても知られ、1968年には母国インドであのルー・テーズを破って、世界チャンピオンにも輝いている(調べたが、この王座がどこの団体が認定したものかは分からなかった)。

この「シン」たちは、いずれもパンジャーブ出身のシク教徒のレスラーだ。
今もパンジャーブにはシク教徒が多く、世界中のシク教徒の6割以上がこの地に暮らしている。
「シン」はシク教徒の男性全員が名乗る名前で、「ライオン」を意味している。
つまり、タイガー・ジェット・シンという名前には、虎とライオンが入っているのだ。

パンジャーブ出身の格闘家の歴史は古い。
さらに時代を遡ると、1878年生まれのグレート・ガマ(Great Gama)という格闘家がいる。
本名(Ghulam Mohammad Baksh Butt)を見る限り、彼はシクではなくムスリムのようだが、彼もまた、英領時代のパンジャーブ地方の生まれである。
彼はイギリスや英領時代のインドで数多くの強豪と戦い、52年に渡るキャリアで、5,000試合無敗という伝説も残っている英雄だ。
グレート・ガマはペールワニ(Pehlwani)と呼ばれるインド式レスリングの絶対王者だった。
昭和のプロレスに興味がある人であれば、ペールワニという言葉を聞いて、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行ったパキスタンの格闘家、アクラム・ペールワンを思い出す人も多いだろう。
グレート・ガマは、このアクラム・ペールワンの叔父にあたる。 
猪木ファンの間では、「ペールワン」とは最強の男にのみ許される称号だという説が有名だが、実際は、「ペールワニのレスラー」という程度の意味である。
ちなみにかのブルース・リーはグレート・ガマのトレーニング方法を参考にしていたというから、グレート・ガマがいなかったらインドで今も大人気のブルース・リーは存在しなかったかもしれない。
ペールワニおそるべしである。 
とにかく、「パンジャーブから世界的(プロ)レスラーになる」という道筋は、20世紀のごく初期から作られていたのだ。

彼らの共通点は、クシュティ、ペールワニの経験者であるということ。
調べてみると、どうやらクシュティとペールワニは同じ競技を指しているようだ。
ペールワニ(Pehlwani)はイスラーム式(ペルシア語由来)の呼び方であるため、ムスリムであるガマやアクラムは、クシュティではなくこの呼称を使っているのだろう。
ヒンドゥー教徒(インドの人口の8割を占める)にとってのクシュティには、ラーマ神に忠誠を誓う戦士として知られる猿神ハヌマーンへの帰依という要素が加わることがあるようだ。
また、ボリウッド映画のタイトルにもなった「ダンガル(Dangal)」という言葉も、同様の「南アジア式レスリング」を指している。

いずれにしても、パンジャーブはインド式のレスリングが盛んな土地柄だったのだろう。
そのなかから、グレート・ガマやダラ・シンのような英雄が誕生し、後続の若者たちも、富と成功を目指してレスラーを夢見るようになった。
おそらく、パンジャーブから次々とプロレスラーが誕生した理由は、こんなところではないだろうか。
日本からも、相撲出身の力道山や豊登、柔道出身の木村政彦や坂口征二など、ドメスティックな格闘技出身のプロレスラーが多く誕生した時代である。
もちろん、インドと日本だけではない。
本場アメリカのプロレスは、世界中の力自慢の移民たちがしのぎを削る場だった。
「鉄人」ルー・テーズはハンガリー系だし、「神様」カール・ゴッチはベルギー出身、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノはイタリア出身、「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスはメキシコ出身で、「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントはフランス出身だ。
インターネットも衛星放送も無かった時代、プロレスは、体一つで一攫千金を夢見る世界中の腕自慢や荒くれ者が集まる、まさに戦いのワンダーランドだったのだ。

気になるのは、クシュティ(ペールワニ)が、純粋に勝ち負けを競うスポーツとしての格闘技なのか、プロレスのようにエンターテインメント(興行)としての要素もあるものなのか、ということだ。
調べて見たのところ、インドには全国クシュティ協会のような組織があるわけではなく、クシュティは基本的には道場や村落単位で行われているようだ。
'Rustam-e-Hind'という「インド・チャンピオン」の称号もあるそうだが、どんな大会が開かれ、どんな団体が認定しているのかについては全く情報がなかった。
YouTubeで検索して見ても、地方の屋外会場で行われている動画ばかりがヒットする。
その試合はむしろ非常に地味で、エンターテインメントからはほど遠く、純粋に強さを競うものであるように見える。
近年ではクシュティの競技人口も大きく減っているようで、今後、ミステリアスな「クシュティ出身の強豪」という触れ込みのプロレスラーが登場することは、もう無いのかもしれない。

話をタイガー・ジェット・シンに戻す。
家庭を持ったシンが、故郷パンジャーブで平穏な暮らしをすることを、レスリングの神は許さなかった。
トロントのメイプルリーフ・レスリングから、シンに再び声がかかったのだ。
シンがいない間に北米全土で大人気となったヒールレスラー、ザ・シークに対抗できる人材として、ターバン姿でラフファイトを繰り広げていた彼に、白羽の矢が立った。
ダラ・シンのように強くなりたい。
プロレスで富と成功を手に入れたい。
シンは、新婚の妻を連れ、カナダに戻ることを決意する。

シンのプロレスラーとしての旅は始まったばかりだ。
そして、その伝説は、まだ始まってすらいない。

(続きはこちらから)


【参考サイト・参考映像】
https://www.bramptonguardian.com/news-story/6003647-the-tiger-with-a-heart-of-gold

https://web.archive.org/web/20090505075751/http://www.sceneandheard.ca/article.php?id=1080&morgue=1

ドキュメンタリー番組"Tiger!"
など



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