DelhiSultanate

2020年06月11日

インドに共鳴する#BlackLivesMatter ダリットやカシミール、少数民族をめぐる運動


今さら言うまでもないことだが、米ミネアポリスでアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドさんが警察官の過剰な暴力によって命を落としたことに端を発する抗議運動が、世界中に広がっている。
この運動は、もはや個別の事件への抗議運動ではなく、社会構造に組み込まれた差別や格差全体に対する抗議であるとか、過激な反ファシスト活動家たちが暴力的な行動を引き起こしているとか、いや、じつは暴力行為の引き金を引いているのは彼らを装った白人至上主義団体だ、とか、さまざまな議論が行われているが、すでに詳しく報じている媒体も多いので、ここでは割愛する。

アフリカ系アメリカ人のみならず、多くの人種や国籍の人々が、SNS上で#BlackLivesMatterというハッシュタグを使い、軽視される黒人の命を大切にするよう訴えていることも周知の通りだ。
この 'Black Lives Matter'(BLM)は、2013年に黒人少年が白人自警団員に射殺された事件をきっかけに生まれスローガンで、その後も同様の事件が起こるたびに、'BLM'ムーブメントは大きなうねりを巻き起こしており、インドでも、多くの著名人がBLMへの共感を表明している。

それにともなってソーシャルメディア上で目につくようになってきたのが、#DalitLivesMatterというハッシュタグだ。
ダリット(Dalit. ダリトとも)とは、南アジアでカースト制度の最下層の抑圧された人々のこと。
動物の死体の処理や、皮革工芸、清掃、洗濯など「汚れ」を扱う仕事を生業としてきた彼らの存在は、カースト制度の枠外に位置付けられた「アウトカースト」と呼ばれたり、触れたり視界に入ったりするだけで汚れるとされて'Untouchable'(「不可触民」と訳される)と呼ばれるなど、激しい差別の対象となってきた。
インドの憲法はカースト制度もそれに基づく差別も禁じているが、今日に至るまで、苛烈なカースト差別に起因する殺人や暴力はあとを絶たない。
ソーシャルメディア上では、#DalitLivesMatterのハッシュタグとともに、実際に起きたダリット迫害事件のニュースがシェアされたり、「インドのセレブリティーはBLMに対する共感を表明するなら、自国内の差別問題にも真摯に取り組むべきだ」という痛烈な意見が述べられたり、さまざまな情報発信が行われている。

ダリットに対する差別反対と地位向上を訴えているオディシャ州出身のラッパーのSumeet Blueも、#DalitLivesMatterを使用している一人だ。
彼はソーシャルメディアを通じて、ネパールのダリットが石を投げられて殺されたことや、貧しさゆえにオンライン授業にアクセスできなかったケーララ州のダリットの少女が自ら命を絶ったことなど、厳しい現実を発信し続けている。

彼のリリックのテーマもまたダリットの地位向上であり、この"Blue Suit Man"では、「ダリット解放運動の父」アンベードカル博士をラップで讃えている。

アンベードカルはダリットとして様々な差別を受けながら、猛勉強をして大学に進み、ヴァドーダラー君主による奨学金を得てコロンビア大学に留学し、のちにインド憲法を起草して初代法務大臣も務めた人物である。
晩年、彼はヒンドゥー教こそがカースト制度の根源であるという考えから、50万人もの同朋とともに仏教に改宗し、ダリット解放とインドにおける仏教復興運動の両方で大きな役割を果たした。
彼は青いスーツを好んで着用していたことで知られ、今日では青はダリット解放運動を象徴する色となっている。(これとは別に、青は空や海のように境界がないことを表しているという説も聞いたことがある)

インド各地に目を向けると、ヒップホップとタミルの伝統音楽を融合したCasteless Collectiveや、自らの出自である皮革工芸カーストの名を冠したチャマール・ポップ(Chamar Pop)を歌う女性シンガーGinni Mahiなどが、音楽を通して反カーストやダリットの地位向上のためのメッセージを発信しつづけている。




ダリット以外のインドの人々にも、BLMムーブメントは影響を与えている。
#KashmiriLivesMatterは、長く独立運動や反政府運動が続き、それに対する苛烈な弾圧で罪のない人々の自由や命が奪われ続けているカシミールへの共感を表明するハッシュタグだ。

カシミール出身のラッパーAhmerは、自由を求める政治的/社会的な主張を発信しているレゲエアーティストのDelhi Sultanateとコラボレーションした新曲"Zor"を6月9日にリリースした。
(ただし、彼らが#KashmiriLivesMatterのハッシュタグを使用していることは確認できなかった。彼の曲を聴けば、同じテーマを扱っていることは分かるのだが)。

カシミール地方は、昨年、中央政府によって自治権を持った州から直轄領へと変更になったばかりであり、その反対運動を抑えるために、外出禁止やインターネットの遮断といった事実上の戒厳令下に置かれていた。
こうした状況のもとで、圧制に反発し、カシミール人を鼓舞する楽曲をリリースするということは、かなり勇気のいる行動だと思うが、なんとしても訴えたい現実があるのだろう。

カシミールのラッパーによる意見表明は今回が初めてではない。
同じくカシミール出身のラッパーMC Kashは、2010年に、抑圧され続けるカシミールの現状に抗議する"I Protest"をリリースしている。
この曲のタイトルは、大きな共感を呼び起こし、ハッシュタグ'#IProtest'として、インド社会を中心に広く拡散し、カシミールの住民への弾圧に反対する人々の合い言葉となった。


Delhi SultanateやMC Kashについては、以前こちらの記事で詳しく紹介している。



#DalitLivesMatterや#KashmiriLivesMatterは、BLMに比べれば、大きな盛り上がりになっているとは言えないかも知れないが、社会構造の中で抑圧された人々をめぐる運動が国境を超えてインスパイアされているということを示す象徴的な事例と言うことができるだろう。
マイノリティの権利獲得/地位向上のための運動としての歴史が長いアフリカ系アメリカ人のムーブメントは、訴求力の高い彼らの音楽とともに、様々なマイノリティ運動に活力を与えているのだ。


もうひとつ事例を紹介したい。
2017年に米ラッパーのJoyner Lucasが発表した"I'm not Racist"は、今回のBLMムーブメントとともに再び注目されている楽曲だが、白人による無理解に基づく偏見と、それに対する黒人からの言い分というこの曲の構成を、インドに置き換えて「リメイク」したラッパーがいる。
まずは、オリジナル版を見てみよう。


オディシャ州出身の日印ハーフのラッパー、Big Dealは、その東アジア人的な見た目を理由に幼少期に差別を受けた経験を持っており、そのことから、彼によく似た外見を持ち、マイノリティーとして差別の対象となっているインド北東部の人々の心情に寄り添った楽曲を発表している。
インドのメインランド(アーリア系やドラヴィダ系の人種がマジョリティであるインド主要部)の人々から「お前は本当にインド人なのか?」と蔑まれるインド北東部出身者の状況をラップした"Are You Indian"がその曲である。

さまざまな人々がリップシンクしているが、"I'm Not Racist"同様に、実際は全てのヴァースをBig Dealがラップしている。
この曲の前半では、メインランドの典型的インド人から、北東部出身者の見た目や習慣に関する偏見に基づいた差別的な非難が繰り広げられる。
後半のヴァースでは、それに対して、北東部出身者から、彼らも同じインド人であること、彼らの中にも多様性があるということ、マイノリティーとして抑圧されてきたこと、差別的な考えはインド独立前のイギリス人と同様で恥ずべきものであることなどという反論が行われる。

リリックの詳細はこちらの記事に詳しく訳してあるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
Big Dealはつい先日も、コロナウイルスの発生源とされる中国人に似た見た目の北東部出身者がコロナ呼ばわりされることに抗議する曲をリリースしており、さながら北東部の人々の心情をラップで代弁するスポークスマンのような役割を果たしている。



#DalitLivesMatterや#KashmiriLivesMatter(インドに限ったものではないが、#MuslimLivesMatterというものもある)は、#BlackLivesMatterが黒人の命だけを特別扱いするものだとして起こった#AllLivesMatter(黒人の置かれた状況を無視した話題のすり替えであり、マジョリティである白人の特権性に無自覚な表現だと批判された)とは全く異なるものだ。
インドにおけるこうしたムーブメントは、BLMのスローガンである'None of us are free, until all of us are free'をローカライズしたものだと言うことができるろう。
オリジナルのBLMをリスペクト、サポートするだけではなく、インドの社会問題にも想いを寄せるとともに、日本を含めた世界中に様々な形で存在している差別や偏見についても、改めて考えるきっかけとしたい。



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goshimasayama18 at 19:42|PermalinkComments(0)

2019年09月10日

ダラヴィが舞台のタミル映画"Kaala"の音楽はヒップホップ!そしてアンチ・カーストあれこれ!


先日の『ガリーボーイ』ジャパン・プレミアの興奮も醒めやらぬ10月8日、大型台風が接近する中、キネカ大森で開催中のIndian Movie Week(IMW)に、タミル映画"Kaala"(『カーラ 黒い砦の闘い』という邦題がつけられている)を見に行ってきた。

この映画は、『ガリーボーイ』の舞台にもなったムンバイ最大のスラム「ダラヴィ」に君臨するタミル人のボス「カーラ」が、スラムの再開発計画を進めるナショナリズム政治家と戦う物語だ。
ムンバイが位置するマハーラーシュトラ州はマラーティー語が公用語だが、ダラヴィには南部タミルナードゥ州からの移住者が多く暮らしていて、7万人の人口のうち約3分の1がタミル語を話しているという統計もある。
映画に出てくる政党は、地元の有力政党「シヴ・セーナー」や、ヒンドゥー・ナショナリズム政党と言われるモディ首相の「インド人民党」のような実在の政党がモデルになっているようだ。
シヴ・セーナーはヒンドゥー至上主義だけでなく、マラーティー・ナショナリズム(マハーラーシュートラの人々のナショナリズム)の政党と言われており、実際に南インドからの移住者やムスリムを排斥する傾向にある。
ダラヴィでは人口の3割がムスリムであり(ムンバイ全体では13%)、 6%ほどのクリスチャンも暮らしているから、当然、こうしたナショナリズム的な思潮とは対立することになる。
つまり、この映画はナショナリズムを標榜する支配者(「ピュアなムンバイ」を標榜している)と、多様性のある大衆の対決を描いた、世界的に見てもなかなかにタイムリーなテーマの作品というわけだ。

主演はタミル映画界の「スーパースター」ラジニカーント。
メインの客層が映画の舞台ムンバイから離れたタミルナードゥ州(タミル語を公用語とする)の人々だとはいえ、ここまで現実をリアルに反映した映画を、当代一の人気俳優を主演に制作できるというのはけっこう凄いことだ。
監督はPa Ranjithで、公開は『ガリーボーイ』より8ヶ月ほど早い2018年6月だった。

音楽ブログであるこの「アッチャー・インディア」として注目したいのは、なんといってもこの映画で使われている楽曲だ。
この映画のサウンドトラックには、「ダラヴィのスヌープ」(見た目で分かるはず)ことStony Psykoを擁するヒップホップユニットDopeadeliczが大々的に参加している。

90年代のプリンスを彷彿とさせるファンキーかつド派手な"Semma Weightu"は、いかにもタミル映画らしいケレン味たっぷりの映像とラッパーたちのストリート感覚が不思議と融合。


(どういうわけか素晴らしいミュージックビデオがYouTubeから削除されてしまっていたので、音源だけ貼り付けておく)
 
最初のヴァースのリリックは、主人公を称えるいかにも映画音楽的なものだが、2番では「ナマスカール(ヒンドゥーの挨拶)、サラーム(ムスリムの挨拶)と言葉は違っても…」と宗教を超えた団結を歌った内容で、実際に多宗教が共存するダラヴィのヒップホップシーンを思わせるところがある。

こちらはガリー感覚満載のビデオ"Theruvilakku".
タミル語のリズムに引っ張られているヒップホップビートがヒンディーラップとはまた違う独特な感じ。


いずれにしても、スラム出身のラッパーが文字通りのスーパースターの映画にフィーチャーされるというのはとんでもない大出世と言える。
Dopeadeliczのメンバーは、ミュージカルシーン以外でも、端役としてセリフも与えられており、もしヒップホップに理解のない身内がいたとしても、これで確実に黙らせることができたはずだ。

それにしても、ダラヴィが舞台となった映画のサウンドトラックに、地元のストリートラッパーが起用されたというのは意義深いことだ。
インド社会に、「ヒップホップは社会的メッセージを伝える音楽」そして、「ダラヴィの音楽といえばヒップホップ」という認識が浸透してきているからこそのことだろう。
実際、この映画のなかでも、ヒップホップ的なファッションをした若者が多く描かれており、抗議運動のシーンでもブレイクダンサーが登場するなど、ヒップホップカルチャーの普及を感じさせられる場面が多かった。

ちなみに普段のDopeadeliczのリリックのテーマのひとつは、大手資本の映画が絶対に扱わないであろう「大麻合法化」だったりする。

これはこれでヒップホップとしてはかなりクールな仕上がり。

この"Katravai Patravai"は、タミル版Rage Against The Machineと呼べそうな、ヘヴィロックとラップの融合。

この曲に参加しているYogi Bはマラヤーラム/タミル語でパフォームするマレーシア出身のラッパー(インドからの移民ということだろう)で、共演のRoshan Jamrockなる人物もマレーシアのヒップホップグループK-Town Clanのメンバーのようだ。
タミル系移民のネットワークだと思うが、興味深いコラボレーションではある。


また、この映画では、「ダリット」の権利回復というテーマも扱われている。
「ダリット」とはカースト制度の外側に位置づけられた被差別階級のこと。
ヒンドゥー教古来の価値観では「不可触民」と称されるほどに穢れた存在と見なされ、現在も様々な差別を受けている。
スラムの住民とダリットは必ずしも同一のものではないが、映画の冒頭で、ダリットの一つである洗濯屋カーストの「ドービー」が出てきたり、カーラの家で出された水に対立する政治家が口をつけないシーン(保守的なヒンドゥー教徒は、ダリットが提供した飲食物を穢れていると考えて摂取しない)が出てくるなど、カーストにもとづく階級意識が随所に登場する。
アジテーション演説で、「ジャイ・ビーム!」という掛け声(後述)が出てくるのも象徴的だ。

Pa Ranjith監督は、ダリット解放運動に非常に熱心であり、2018年にはカースト制度を否定する音楽グループ、その名もCasteless Collectiveを結成するなど、様々なスタイルでメッセージを発信し続けている。

このCasteless Collectiveはチェンナイで結成された19人組。
ガーナというタミルの伝統音楽とラップを融合した音楽性を特徴としており、いつか改めて紹介したいグループだ。

今回紹介した『カーラ』は、タミル映画特有のクドい演出も多く、そのわりにテーマは重いので、万人向けの映画ではないかもしれないが、インドのスラムや格差、階級意識などを知るのには非常に良い作品ではないかと思う。
いつもの過剰とも言えるアクション・シーンや、見得を切るシーンもふんだんに含まれているので、主演のラジニカーントのファンであれば、確実に楽しめる作品ではある。

ダラヴィのヒップホップシーンの宗教的多様性については、こちらの記事も是非読んでみてほしい。



また、『カーラ』の宗教的、社会的背景は、このIMW公式Twitterにとても詳しく解説されているので、興味のある方はこちらもどうぞ。(「タミル映画『カーラ』鑑賞に役立つ予備知識(ネタばれなし)」)

この映画の被差別民に関する描写については、インドの「改宗仏教徒」(ヒンドゥー社会での被差別的な立場から解放されるために仏教に改宗した人々)のリーダーとして活躍する佐々井秀嶺師のもとで、同じ志で活動している高山龍智師のTwitterが非常に参考になった。
曰く、"Katravai Patravai"のミュージックビデオにも出てくる青は改宗仏教徒の象徴の色であり、赤は抑圧された人々の拠り所のひとつである共産主義を象徴する色という意味があるそうだ(ちなみに主人公の息子の名前は「レーニン」)。


それで思い出したのが、ジャマイカン・ミュージックを武器に闘争活動を繰り広げているレゲエ・ミュージシャンのDelhi Sultanate.
彼もまた、オーディエンスへの挨拶に「ジャイ・ビーム!」「ラール・サラーム!」という言葉を取り入れている。

「ジャイ・ビーム」は不可触民抵抗運動の父であるアンベードカル博士を讃える平等主義者の挨拶であり、「ラール・サラーム!」は「赤色万歳」という意味の共産主義にシンパシーを持つ者の挨拶だ。
彼はスラムの出身ではなく、留学できるほどに裕福な家庭に育ったようだが、そうした階層のなかにも、社会格差や不正に対する高い問題意識を持った社会的アーティストがけっこういるというのが、インドの音楽シーンのまた素晴らしいところだ。

『カーラ』の中でもうひとつ印象的なのが、古典文学である「ラーマーヤナ」が、ヒンドゥーナショナリストがスラムの人々を弾圧するときの拠り所として扱われているということ。
タミル映画である『カーラ』では、ラーマーヤナで主人公ラーマ神に倒される悪魔ラーヴァナこそ、抑圧されたスラムの民、被差別民、そして北インドのアーリア人種から見下されがちな南インドのドラヴィダ人の象徴なのではないかというメタファーが登場する。
主人公が、「カーラ」(黒)は労働者の色だと語る場面があるが、ヒンドゥーでは忌むべき色とされる「黒」を、逆説的に抑圧された人々のプライドの象徴として描いているのだ。
 
そこで思い出したのが、タミルナードゥ州の隣に位置するケーララ州のブラックメタルバンド、Willuwandiだ。
彼らは、悪魔崇拝(サタニズム)や反宗教的な思想の音楽であるブラックメタルを演奏しているのだが、オカルト的な音楽性に反して、彼らの歌詞のテーマは、いたって真面目なカースト制度への抗議である。
以前彼らについての記事を書いたとき、なぜこんなに極端な音楽性(サウンドはうるさく、ヴォーカルは絶叫しているので歌詞が聞き取れない)で、政治的かつ社会的なメッセージを発信しているのか、大いに疑問に思ったものだった。
だが、もし彼らが『カーラ』と同じメタファーを込めてブラックメタルを演奏しているのだとすれば、全て合点がいく。
つまり、ブラックメタルの「黒」は抑圧された人々の象徴であり、一見悪趣味な悪魔崇拝は伝統的宗教的価値観の逆転を意味しており、宗教への反発はカースト制度のもととなったヒンドゥーの概念の拒絶を意味している、というわけだ。

この記事で紹介している"Black God"のミュージックビデオの冒頭にも、「インドの真実の歴史は、アーリア人とドラヴィダ人の闘争である」というメッセージが出てくるから、この憶測はあながち間違いではないだろう。

それにしても、まさかタミル映画のスーパースターのタミル映画を見たら、インドのブラックメタルの理解が深まるとは思わなかった。
インド、やはり深すぎる。


今回は(今回も?)盛りだくさんでした!
お読みいただきありがとうございます!
ではまた!


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goshimasayama18 at 21:08|PermalinkComments(0)

2019年08月19日

Sarathy Korwarの"More Arriving"はとんでもない傑作なのかもしれない

イギリス在住のタブラプレイヤー/ジャズパーカッショニストのSarathy Korwarのセカンドアルバム"More Arriving"が素晴らしい。
すでに先日の記事でも、このアルバムからムンバイの先鋭的ヒップホップグループSwadesiが参加した楽曲"Mumbay"を紹介させてもらったが、改めてアルバム全体を聴いて、その強烈な内容に衝撃を受けた。

タイトルで、とんでもない作品「かもしれない」と書いたのは、内容に対する疑問ではない。
内容は文句なしに素晴らしいのだが、このジャンル不明の大傑作が、世界的にはニッチな存在となっている(世界中の南アジア系住民以外にはなかなか届かない)'Desi Music'の枠を超えた、現代ジャズの名盤として歴史に名を残す可能性があるのではないか、という気持ちを込めたものだ。
個人的には、この作品はKamasi Wahingtonあたりと同等の評価を受けるに値する内容のものだと考えている。

改めて、ここで"Mumbay"を紹介する。


アメリカで生まれ、インド(アーメダーバードとチェンナイ)で育ったSarathy Korwarは、10代からタブラの練習を始め、ほどなくコルトレーンらのスピリチュアル・ジャズにも興味を持つようになった。
その後もタブラの修行とジャズの追求を続け、進学のために移ったプネーでドラムを始めると、セッションミュージシャンとして音楽の道を目指すようになる。
その後、より本格的にタブラを追求するためにイギリスに渡り、SOAS(東洋アフリカ研究学院)のSanju Sahaiに師事。
ジャズミュージシャンとしてのキャリアも続け、2016年にクラブ・ミュージックの名門レーベルNinja Tuneからファーストアルバム"Day To Day"をリリースした。

彼の音楽性をごく簡単に説明すれば、「ジャズとインド古典音楽の融合」ということになるだろう。
これまでもジャズとインド音楽の融合は、東西のさまざまなアーティストが試みているが(例えばジョン・マクラフリンとザキール・フセインらによるプロジェクト'Shakti'や、ドキュメンタリー映画"Song of Lahore"にもなったパキスタンのSachal Jazz Ensembleなど)、いずれもが異なる音楽的要素を混合することによる、純粋な音響的な表現の追求にとどまるものだった。
つまり、実験的で純音楽的な試みではあっても、その時代の最先端のロックやヒップホップのような、同時代的なものではなかったということだ。
Sarathy Korwarのファースト・アルバムも、こうした枠のなかの作品のひとつとして捉えられるものだった。 
(もちろん、それでもここに挙げたアルバムが普遍的な音楽作品として十分に素晴らしいことは言うまでもない。また、それぞれのプロジェクトには社会的・時代的な必然性があったというのも事実だが、少なくとも同時代へのメッセージ性を強く持ったものではなかった)


ところが、The Leaf Label(これまでに、Four TetやAsa-Chang&巡礼の作品を取り扱っているヨークシャーのレーベル)からリリースされた彼のセカンドアルバム"More Arriving"は、こうした作品群とは全く違う次元のものだった。
Sarathyは、このアルバムに、SwadesiやPrabh Deepらの発展著しいインドのヒップホップ勢を参加させることで、インドの古典音楽とジャズという、「あまりにも様式として完成されてしまっているが故に、決して現代的にはなり得ない音楽ジャンル」に、極めて今日的な緊張感と魅力を付与することに成功した

このアルバムで、Sarathyは 2019年のセンスでジャズを解体再構築している。
いや、というよりも、むしろ2019年のセンスでジャズ本来の精神を解放しているといったほうが良いかもしれない。
つまり、都会の不穏さと快楽を音楽に閉じ込めるとともに、音そのもので、抑圧的な社会からの魂の自由を表現しているのだ。
それも、タブラプレイヤーでもあるインド系ジャズパーカッショニストだけができるやり方で。

とくに、冒頭の"Mumbay"から"Coolie"(デリーのラッパーPrabh Deepとレゲエシンガー&DJのDelhi Sultanateが参加)、そして"Bol"(アメリカ在住のカルナーティック・フュージョンのシンガーAditya Prakashと、インド系イギリス人でポエトリー・スラムのアーティストZia Ahmedが参加)に繋がる流れは素晴らしい。
"Bol"では、インドの伝統音楽が、ほぼそのままの形を保ちながら、すべて生音であるにもかかわらず、恐ろしいほど現代的に表現されている。
しかも、ここまでヘヴィに、緊張感を保ったままでだ。

"Bol"というタイトルは「発言」や「会話」という意味。
歌詞にもビデオにも、今日の英国社会での南アジア系住民へのステレオタイプな偏見に対する皮肉を含んだメッセージが込められている。
この動画は4分程度のシングル・バージョンだが、9分以上あるアルバム・バージョンはさらに素晴らしい。


アルバム全体もYoutubeで公開されているので、紹介しておく。
コンセプトや構成がしっかりしたアルバムなので、ぜひ通しで聴いてもらいたい。

"More Arriving"には、他にもムンバイのラッパーのTRAP POJU(a.k.a. Poetik Justis)やカルカッタの女性古典(ヒンドゥスターニー)シンガーのMirande, さらには在外インド人作家のDeepak Unnikrishnanなど、多彩なメンバーが参加している。

最後に、このアルバムへのSarathyのコメントやレーベルからの紹介文と、各メディアによる評価を紹介したい。

「このアルバムには、たくさんのラッパーや詩人などが参加していて、南アジアの様々な声をフィーチャーすることを目指しているんだ。それは単一のものではなく、ブラウン(南アジア系の人々)の多様なストーリーやナラティブによって成り立っているっていうことを強調しておくよ。"More Arriving"というタイトルは、人々の移動(ムーブメント)を表している。この言い回しは、恐怖や、望まざる競争、歓迎せざる気持ちなどがより多くやってくるという今日の状況を取り巻くものなんだ。」
(Sarathy Korwarのウェブサイトhttp://www.sarathykorwar.comより)

「我々は分断の時代を生きている。多文化主義(multiculturalism)は人種間の緊張と密接な関係があり、政治家は人々の耳に複雑なメッセージを届けることすらできないほどに無力だ。別な視点を持つべき時がやってきた。
このアルバムで、Sarahty Korwarは彼自身の鮮やかで多元的な表現を、世界に向けて撃ち放った。これは必ずしも調和(unity)のレコードではない。分断したイギリス社会でインド人として生きるKorwarの経験を率直に反映したものだ。イギリスとインドで2年半にわたってレコーディングされ、ムンバイとニューデリーの新しいラップシーンと、彼自身のインド古典音楽とジャズの楽器が取り入れられている。これは、対立から生まれた、対立の時代のためのレコードだ。」

(The Leaf Labelのウェブサイトhttp://www.theleaflabel.com/en/news/view/653/DMより)

「稀有な才能… 彼のリズムの激しさ、魅惑的なビジョンは、インドとジャズの融合の歴史に新しいスピンを加えた。★★★★★」(MOJO)

「絶対的な瞬間。民族的アイデンティティーを扱った、サイケデリックで、強烈なジャズのオデッセイ。素晴らしい。★★★★」(Guardian)

「2019年を定義するアルバムのうちのひとつ。Sarathyのニューアルバムはここ1年でもっともエキサイティングなもの…カゥワーリーからモダンジャズ、ムンバイ・ヒップホップ、インド古典音楽にいたるまでのワイルドな相乗効果だ。だがこれは、まさに今イギリスで起こっていることに関するレコードでもある」(Pete Paphides, Needle Mythology podcast)

「素晴らしい… アドレナリンに溢れ、パーカッションに導かれた、意識(consciousness)を高めるスリリングな冒険」(Electronic Music)

「アジア系ラッパーや詩人をフィーチャーしたインド音楽とジャズのスリリングな融合であり、いいかげんなステレオタイプや、東西文化のナラティブを変える必要性などのテーマに取り組んでいる。これは分断の時代のタイムリーなサウンドトラックだ」(Songlines)

「Korwarは、公民権を剥奪された人々の声という、ジャズの政治的でラディカルな歴史を取り入れ、それを現代イギリスにおけるインド人ディアスポラの体験に応用している」(The Vinyl Factory)

(以上、各媒体からのコメントは、The Leaf Labelのウェブサイトhttp://www.theleaflabel.com/en/news/view/653/DMから引用)


近年、独自の発展を続けてきた在外インド系アーティストと、急速に進化しているインド国内のアーティストの共演が盛んに行われているが、またしても、国境も、ジャンルも超えた名盤が誕生した。
"Sarathy Korwar"の"More Arriving"は、インド系ディアスポラとインド本国から誕生した、極めて普遍的かつ現代的な、もっと聴かれるべき、もっと評価されるべき作品だ。

インドの作品にしては珍しく、フィジカルでのリリース(CD、レコード)もされるようなので、ぜひ実際に手に取って聴いてみたいアルバムである。


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2018年06月03日

Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス

前回の記事で、デリーのスカ・バンドSka Vengersを紹介した。
彼らがレゲエやスカを単なるゴキゲンな音楽としてではなく、抑圧や専制に対する闘争の手段として捉え、 ヒンドゥー・ナショナリズムやインド社会の不正義と戦う姿勢を示していることは記事の通りだ。

Ska Vnegersの中心人物、Delhi SultanateことTaru Dalmiaは、バンド以外でもBFR(Bass Foundation Roots) Sound Systemという名義でジャマイカン・ミュージックを通した自由への抑圧に対する抗議行動を行っている。
アル・ジャジーラが製作した"India's Reggae Resistance: Defending Dissent Under Modi" はそんな彼の活動を追いかけたドキュメンタリーだ。



モディ政権後、ヒンドゥー原理主義が力を持ち言論の自由が脅かされつつあるインドで、Taruは音楽を通した闘争を始めるべく、クラウドファンディングで集めた資金でサウンドシステムを作り上げることにした。抗議活動の場で自由を求めるレゲエ・サウンドを鳴らすために。

サウンドシステムとは、ジャマイカで生まれた移動式の巨大なスピーカーとDJブースのこと。
クラブのような音楽を楽しむための場所がなかった時代に、音楽にあわせてラップや語りや歌を乗せるスタイルで、人々を踊らせ、音楽によるひとときの自由を提供するための手段として生まれた(やがて海を渡ってヒップホップやレイヴ・カルチャー誕生の揺籃ともなったのは、また別のお話)。

Taruにとってジャマイカン・ミュージックは自由のための闘争の手段。
「レゲエの本質に戻ってみると、サウンドシステムに行き着く。サウンドシステムは単なる積み重ねたスピーカーじゃない。音楽や自由を自分たちの手に取り戻し、ストリートに届ける手段なんだ」
彼の広い庭に巨大なスピーカーが組み上がる。
まったく歴史的、文化的背景の違うインドで、ジャマイカと同じようにレゲエを闘争の手段にしようとしている彼こそ、ヒンドゥー原理主義者ならぬレゲエ原理主義者なんじゃないか、という気がしないでもないが、彼はいたって真剣だ。

最初の活動の場は、デリーの名門大学JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)。
言論の自由を求める活動の中心地であり、Taruの出身大学でもある。
「同志よ!ジャイ・ビーム!ラール・サラーム!ジャマイカの奴隷農園の革命の歌を演奏する!」
「ジャイ・ビーム」とはインド憲法の起草者で、最下層の被差別階級出身の活動家、ビームラーオ・アンベードカルを讃える言葉。
カーストに基づく差別からの脱却のため、被差別階級の人々と集団で仏教に改宗した彼を讃えるこのフレーズは、改宗仏教徒など、旧弊な社会秩序に異を唱える人々の合言葉だ。
「ラール・サラーム(赤色万歳)」は、共産主義のシンボルカラーを讃える反資本主義者たちの合言葉。
Taruの言葉に活動家たちから歓声が上がるが、音楽をかけても人々は踊らない。
彼の思想には共鳴しても、レゲエなんて聴いたことがない彼らは、初めて耳にするリズムにどうして良いか分からずじっと座っているばかりだ。

すっかり盛り上がりに欠けたまま、やがて大学当局者に音を止めるように言われ、しぶしぶDJを止めるTaru.
すると当局の介入によって演奏を止められたことに抗議して、学生たちから自由を求めるコール&レスポンスが始まる。
皮肉なことに、音楽が止められたことで、抗議運動は初めて盛り上がりを見せたのだった。
やはりインドでレゲエを使った社会運動は無理があるのか。

それでもTaruはあきらめない。
次なる活動の場は幾多の大学を抱える街、プネーのFTII (Film and Television Institute of India)。
抗議行動をオーガナイズする学生組織とのミーティングで、Taruはこんなことを言われる。
「初めてレゲエを聞いたけど、僕たちの文化の中では共感を得にくいんじゃないかな。なんというか、エリートの音楽っていう感じがする。英語だし、ラップだから」
「欧米から来た音楽だからって、みんなエリートの音楽ってわけじゃない。ブロークンな英語で歌われている音楽なんだ」
Taruは反論するが、こう言われてしまう。
「僕たち活動家が理解できないっていうのに、どうやって一般の人々がそれを理解できるんだい?」
Taruの理想と現実の乖離を率直に指摘する言葉だ。

地元の人々に受け入れられるために、彼らの言語であるヒンディーやマラーティーをレゲエのリズムに乗せることにした。
レゲエをインドでの社会運動において意味あるものとするために、彼らの工夫は続く。
地元の社会派ラッパー、Swadesiにも声をかけた。
ジャマイカの大衆のための音楽が、少しずつインドの大衆のためのものに変わってゆく…。

憲法記念日。プネーで行われる野外コンサートの当日。
主宰者側はカシミール問題(パキスタンとの間の、ヒンドゥーとイスラムの宗教問題を含んだ領土問題)のようなデリケートな話題を持ち出し、当局に集会を潰されることを心配していた。
言論の自由を求める集まりであるにもかかわらず、だ。
「世界最大の民主主義国」インドの自由は微妙なバランスの上に成り立っている。

集まった人々に、Taruはこう語りかける。
「独立したはずのインドでも、最近じゃこんな雰囲気だ。でも、いつの日か正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると言えるようになろう。俺たちは団結している。もし体制側のスパイがいたとしたっていい。一緒に踊ろう」
Taruがプレイするジャマイカのリズムに、地元の活動家たちがスローガンの言葉を乗せて行く。
地元の言語を使ったラップや、苦労した選曲の甲斐あってか、デリーのときとは違って観客も大いに盛り上がっている。

最後の曲の前に、Taruは「俺たちが求めるものは?」と観客に問いかけた。
即座に「自由(Azadi)!」との答えが返ってくる。
RSS(ヒンドゥー至上主義組織)からの、モディ政権からの、ヒンドゥーナショナリズムからの、企業のルールからの自由。コール&レスポンスは熱気を帯びてくる。
最後の曲は60年代のジャマイカン・ナンバー、Toots & Maytalsの"54 46 Was My Number".
警察の横暴を批判するスカ・ソングだ。

彼の言葉に、サウンドに、集まった人々は心のままに踊り始める。
このシーンは圧巻だ。
インド人は総じて踊りが得意だが、スカのリズムに合わせて魂を解放して踊る彼らは、とても初めてジャマイカの音楽を聴いたようには見えない。
まるで生まれた時からスカやレゲエを聴いて育ったジャマイカンたちのように見える。
音楽が、レゲエミュージックが、束の間であっても変革を求めるインドの人々に精神の自由をもたらした瞬間だ。

この映像は、インドにおけるレベルミュージック(反抗の音楽)としてのレゲエのスタート地点であり、現時点での到達地点の記録でもある。 

名門大学出身で大きな庭のある家に住んでいる彼が、ジャマイカのゲットーで生まれた音楽を、全く文化の異なるインドで大衆革命の手段としようとすることに、いささかのドン・キホーテ的な滑稽さを感じるのも事実だ。
今後、レゲエがインドでのこうした活動の中で大きな意味を持つかと考えると、正直に言うとかなり難しいんじゃないかと思う。(この映像を見る限りだと、もっとインドの大衆の理解を得やすい音楽や伝達方法があるように感じる)

でもレゲエやパンクやヒップホップに夢中になったことがある人だったら、音楽とは単なる心地よいサウンドではなく、人々の意識や社会構造に大きく働きかけるものであることを知っているはず。
そして、サウンドそのものよりも、そうしたスピリットの部分にこそ、音楽の本質があることを分かっているはずだ。
音楽好きとしては、音楽の力を信じて愚直に活動を続ける彼に、なんというかこう、ぐっとくるのを禁じ得ない。
ヒップホップに比べると、まだまだインドではマイナーな感があるレゲエミュージックシーンだが、今後こうした社会的な意味のあるジャンルとして根づいてゆくのかどうか、これからもTaruの活動に注目してゆきたい。

goshimasayama18 at 17:59|PermalinkComments(2)