AditiRaoHydari
2019年05月15日
インドのカルトロック映画"Rockstar"とは?
「パドマーワト 女神の誕生」の試写会でもお世話になったインド・イスラーム研究者の麻田豊先生から、「インドの現代音楽のことを書いているなら」と、"Rockstar"というヒンディー語映画のDVDを貸していただいた。
この映画は2011年に公開されたImtiaz Ali監督による大ヒット作品で、主演はRanbir Kapoor、ヒロイン役にNargis Fakhri.
英語版Wikipediaによると、今日でもインドの若者の間でカルトクラシックとして人気がある映画だそうだ。
ロック映画ということでやはり音楽が気になるが、手がけているのは、あのA.R.Rahman.
ご存知の方も多いと思うが、90年代初頭にタミル語映画の音楽からキャリアをスタートした彼は、手がける楽曲の斬新さと質の高さであっという間に人気を博し、インドじゅうの大作映画の音楽を手がけるようになった。
彼の活躍の舞台はインドにとどまらず、2009年にはムンバイを舞台にしたイギリス制作の映画「スラムドッグ・ミリオネア」でアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞を受賞。
この映画は2011年に公開されたImtiaz Ali監督による大ヒット作品で、主演はRanbir Kapoor、ヒロイン役にNargis Fakhri.
英語版Wikipediaによると、今日でもインドの若者の間でカルトクラシックとして人気がある映画だそうだ。
ロック映画ということでやはり音楽が気になるが、手がけているのは、あのA.R.Rahman.
ご存知の方も多いと思うが、90年代初頭にタミル語映画の音楽からキャリアをスタートした彼は、手がける楽曲の斬新さと質の高さであっという間に人気を博し、インドじゅうの大作映画の音楽を手がけるようになった。
彼の活躍の舞台はインドにとどまらず、2009年にはムンバイを舞台にしたイギリス制作の映画「スラムドッグ・ミリオネア」でアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞を受賞。
映画音楽以外ではミック・ジャガー、ダミアン・マーリー、ジョス・ストーンらによる夢のプロジェクトSuperheavyに参加するなど、現代のインドを代表する音楽家である。
ご存知でない方は、インドにおける坂本龍一と久石譲と筒美京平と桑田佳祐を足して割らないくらいの存在だと思えば間違いないだろう(それよりもビッグかもしれないが、その誰よりも若く彼はまだ52歳だ)。
1994年には早くもヒップホップを取り入れるなど、新しい音楽への目配りも聞いており(こちらの記事を参照)、メインストリームの音楽を好まないインドのインディーミュージシャンたちの中にも、彼の影響を公言する者は多い。
しかしながら、映画のために彼が作る音楽は、いかにも映画音楽らしい、よくいえば重厚な、悪くいえばオーバープロデュース気味な、ロックとは真逆なもの。
果たしてロックとタイトルに冠したこの映画では、どんな音楽を聴かせてくれるのだろうか。
音楽についてはひとまず置いておいて、まずはストーリーの内容から。
ご存知でない方は、インドにおける坂本龍一と久石譲と筒美京平と桑田佳祐を足して割らないくらいの存在だと思えば間違いないだろう(それよりもビッグかもしれないが、その誰よりも若く彼はまだ52歳だ)。
1994年には早くもヒップホップを取り入れるなど、新しい音楽への目配りも聞いており(こちらの記事を参照)、メインストリームの音楽を好まないインドのインディーミュージシャンたちの中にも、彼の影響を公言する者は多い。
しかしながら、映画のために彼が作る音楽は、いかにも映画音楽らしい、よくいえば重厚な、悪くいえばオーバープロデュース気味な、ロックとは真逆なもの。
果たしてロックとタイトルに冠したこの映画では、どんな音楽を聴かせてくれるのだろうか。
音楽についてはひとまず置いておいて、まずはストーリーの内容から。
こんな80年代のヘヴィーメタルバンドみたいなタイトルのロゴなので、あまり期待しないで見たのだが(麻田先生ゴメンナサイ)、これがまた素晴らしかった。
この映画のストーリーはこんなふうに始まる。
(ずいぶん前の映画でもあり、今後日本で上映される予定もなく、また英語版Wikipediaにも載っていることなので、あらすじを最後まで書いてしまっています。読みたくない方はここでお引き返しを)
物語は「ここから遠く離れた善悪の彼岸に、あなたに会える場所があるだろう」(Miles away from here, beyond good and evil, there's a ground. I will meet you there)という独白から始まる。
国際的ロックスターのJordanことJanardhan Jakharは、イタリアでの大規模野外コンサートを前に苛立ちを隠せず、大暴れした挙句、乗り合いバスに飛び乗ってようやくライブ会場に到着した。
熱狂する大観衆を目の前にした彼は、これまでの人生に思いを馳せる。(ここから、彼の回想として物語が始まる)
大学生の頃のJanardhanは、ジム・モリソンに憧れて歌手を目指す純朴な若者だった。
だが、不器用な彼の歌を聴こうとするものは誰もいない。
行きつけの食堂の店主に「スターになるためには、心の痛みを知る必要がある」と言われ、自分が何の苦労も悲しみも知らない平凡な人間であることに気づいた彼は、心の痛みを知るためだけに失恋を経験しようと決意する。
彼は大学のダンスコンテストで踊る美女Heerに一目惚れし、失恋の痛みを知るために猛烈なアプローチを始める。
初めのうちは全く相手にされなかったが、やがてHeerは少しずつ彼に心を開いてゆく。
この映画のストーリーはこんなふうに始まる。
(ずいぶん前の映画でもあり、今後日本で上映される予定もなく、また英語版Wikipediaにも載っていることなので、あらすじを最後まで書いてしまっています。読みたくない方はここでお引き返しを)
物語は「ここから遠く離れた善悪の彼岸に、あなたに会える場所があるだろう」(Miles away from here, beyond good and evil, there's a ground. I will meet you there)という独白から始まる。
国際的ロックスターのJordanことJanardhan Jakharは、イタリアでの大規模野外コンサートを前に苛立ちを隠せず、大暴れした挙句、乗り合いバスに飛び乗ってようやくライブ会場に到着した。
熱狂する大観衆を目の前にした彼は、これまでの人生に思いを馳せる。(ここから、彼の回想として物語が始まる)
大学生の頃のJanardhanは、ジム・モリソンに憧れて歌手を目指す純朴な若者だった。
だが、不器用な彼の歌を聴こうとするものは誰もいない。
行きつけの食堂の店主に「スターになるためには、心の痛みを知る必要がある」と言われ、自分が何の苦労も悲しみも知らない平凡な人間であることに気づいた彼は、心の痛みを知るためだけに失恋を経験しようと決意する。
彼は大学のダンスコンテストで踊る美女Heerに一目惚れし、失恋の痛みを知るために猛烈なアプローチを始める。
初めのうちは全く相手にされなかったが、やがてHeerは少しずつ彼に心を開いてゆく。
イニシャルからJ.J.という名前を名乗っていた彼は、彼女にもっとロックスターらしいJordanというあだ名をつけられ、以後この名前で音楽活動をすることになる。
Heerは卒業後にチェコのプラハに暮らす裕福な婚約者と結婚することが決まっていた。
彼女は、それまでの時間をJanardhanと「独身のうちにしかできないような安っぽい楽しみ」をしながら過ごすことにしたのだ。
本当のHeerは、良家のお嬢様などではなく、刺激のある暮らしを楽しみたい活発な女の子だった。
二人が下町オールドデリーの映画館で見た映画の題名は"Junglee Jawaani".
"Wild Youth"という意味のこのタイトルは、型にはまった結婚生活とは対照的な、自由な青春時代を象徴するものとして、この映画の中で効果的にくり返される。
裕福だが退屈な暮らしで精神を病みかけていたHeerは、Jordanと再会できたことで笑顔を取り戻した。
時間の許す限り、結婚前の日々のような「安っぽい楽しみ」の時間を過ごす二人。
ストリップを見に行ったり、安いディスコで踊ったり、赤線地帯に行ってみたり。二人きりの刺激的な時間を過ごす中で、とうとうJordanはHeerの関係は、許されないところまで進んでしまう。
プラハでのコンサートは大成功し、Jordanはメディアからも大絶賛を受ける。
ありきたりとも言えるテーマを見応えのある作品に仕上げたのは、ひとえに監督の手腕と俳優たちの演技力によるものだろう。
主演のRanbirは純情な青年時代から退廃的なロックスターへの成長を見事に演じているし、Heerを演じたNargis Fakhriはこの映画がデビュー作ながら、高嶺の花のイメージの学生時代から、道ならぬ恋に溺れる結婚後の姿まで、難しい役柄を演じきっている(ちなみに彼女はパキスタン人とこの映画の舞台でもあるチェコ人とのハーフで、米国籍)。
中産階級の平凡な若者だったJordanが、ロックスターになるために必要な辛い経験を何もしていないことに悩むシーンは、コミカルではあるが、発展途上国のロック黎明期にありがちなパラドックスを示している。
つまり、アメリカやイギリスで労働者階級の反骨の音楽として誕生したロックは、途上国では高価な楽器が買える人々しか演奏することができない富裕層(少なくとも中産階級以上)音楽になってしまうということだ。
(その点、今年公開された"Gully Boy"は、ヒップホップという楽器すら必要としない音楽をテーマにすることで、都市の持たざるものの声が音楽に乗せられる瞬間を扱ったものとして、やはり歴史的な意味がある作品と言えるだろう)
この映画が公開された2011年は、インドではようやくインディーズのロックバンドの活躍が見られるようになった時代。
インターネットの発展で海外の音楽にも容易に触れられるようになり、大衆映画の観客にもロックのイメージが知れ渡った時期だったはずだ。
ワイルドで退廃的なロックの描かれ方は紋切り型だし、インド人ロックスターがヨーロッパで大人気になるという設定も現実離れしているが、それでも定番のテーマの映画に新しい息吹を吹き込む要素として、ロックが選ばれるべき時代だったのだろう。
また、Jordanの姿は、ロックスターであると同時に古典的な求道者の姿にも繋がる描かれ方をしている。
下町の映画館で反道徳的な映画を見たり、強い酒を飲んだり、クラブに繰り出したりしているうちに、彼女は本当の自分を受け入れてくれるJordanに惹かれてしまう。
結婚すれば裕福だが退屈な生活を一生送ることになる。
彼女の心は、結婚を前に「どう(誰と)生きたいか」と「どう(誰と)生きなければならないか」に引き裂かれてゆく。
二人は彼女の故郷カシミールで結婚式の直前まで楽しい時間を過ごし、惹かれあいながらも、お互いの本心を隠したまま別れの時を迎える。
失恋の悲しみを知ったJordanは、歌手としての実力と名声を少しずつ上げてゆくのだった。
というのが序盤のストーリー。
読んでいただいて分かる通り、かなり荒唐無稽というかムチャクチャな展開である。
Jordanはドアーズのジム・モリソンに憧れている(若いのにシブすぎる!)という設定なのに、みんなの前で弾く曲はMr.Bigの"To Be with You"だし、食堂のオヤジに言われたことを鵜呑みにしてスターになるために失恋を決意するというのも、いくらなんでも純粋すぎる。
インド映画にありがちなことだが、Heerにしつこくつきまとう彼は完全にストーカーだし(インド映画に免疫のない人が見たら絶対引く)、ロックスターを目指す若者がアルコールを飲むだけで大冒険というのもお国柄とはいえ無邪気すぎる。
二人は彼女の故郷カシミールで結婚式の直前まで楽しい時間を過ごし、惹かれあいながらも、お互いの本心を隠したまま別れの時を迎える。
失恋の悲しみを知ったJordanは、歌手としての実力と名声を少しずつ上げてゆくのだった。
というのが序盤のストーリー。
読んでいただいて分かる通り、かなり荒唐無稽というかムチャクチャな展開である。
Jordanはドアーズのジム・モリソンに憧れている(若いのにシブすぎる!)という設定なのに、みんなの前で弾く曲はMr.Bigの"To Be with You"だし、食堂のオヤジに言われたことを鵜呑みにしてスターになるために失恋を決意するというのも、いくらなんでも純粋すぎる。
インド映画にありがちなことだが、Heerにしつこくつきまとう彼は完全にストーカーだし(インド映画に免疫のない人が見たら絶対引く)、ロックスターを目指す若者がアルコールを飲むだけで大冒険というのもお国柄とはいえ無邪気すぎる。
二人が下町オールドデリーの映画館で見た映画の題名は"Junglee Jawaani".
"Wild Youth"という意味のこのタイトルは、型にはまった結婚生活とは対照的な、自由な青春時代を象徴するものとして、この映画の中で効果的にくり返される。
タイトルが主人公と同じイニシャルのJ.J.なのも偶然ではないのだろう。
喜劇調に始まったストーリーが、少しずつシリアスに転換し、Jordanが好青年から影のあるロックスターに変化してゆくさまはこの映画の大きな見所のひとつだ。
カシミールから戻ったJordanは、勝手に家をあけて家族の知らない女の子の結婚式に出ていたことを咎められ、勘当されてしまう。
ギターを持って家を出た彼は、イスラームの聖者廟でカッワーリーを歌ったり、ヒンドゥー寺院でバジャンを歌ったりして暮らしていた(いずれもそれぞれの宗教の神への帰依を歌う音楽)。
Jordanの評判を耳にしたレコード会社は、彼を見つけ契約しようとするが、Heerを失った彼は思い悩んでいた。
だが、レコード会社と契約すればHeerの暮らすプラハでのコンサートに出演できることを知った彼は、 彼女に再び会うために契約を結び、歌手として彼女が暮らす街を訪れる。
喜劇調に始まったストーリーが、少しずつシリアスに転換し、Jordanが好青年から影のあるロックスターに変化してゆくさまはこの映画の大きな見所のひとつだ。
カシミールから戻ったJordanは、勝手に家をあけて家族の知らない女の子の結婚式に出ていたことを咎められ、勘当されてしまう。
ギターを持って家を出た彼は、イスラームの聖者廟でカッワーリーを歌ったり、ヒンドゥー寺院でバジャンを歌ったりして暮らしていた(いずれもそれぞれの宗教の神への帰依を歌う音楽)。
Jordanの評判を耳にしたレコード会社は、彼を見つけ契約しようとするが、Heerを失った彼は思い悩んでいた。
だが、レコード会社と契約すればHeerの暮らすプラハでのコンサートに出演できることを知った彼は、 彼女に再び会うために契約を結び、歌手として彼女が暮らす街を訪れる。
裕福だが退屈な暮らしで精神を病みかけていたHeerは、Jordanと再会できたことで笑顔を取り戻した。
時間の許す限り、結婚前の日々のような「安っぽい楽しみ」の時間を過ごす二人。
ストリップを見に行ったり、安いディスコで踊ったり、赤線地帯に行ってみたり。二人きりの刺激的な時間を過ごす中で、とうとうJordanはHeerの関係は、許されないところまで進んでしまう。
プラハでのコンサートは大成功し、Jordanはメディアからも大絶賛を受ける。
しかしJordanはHeerへの愛を抑えきれなくなっていた。
家庭を壊してしまうことに恐怖を覚えたHeerは、彼を愛していながらも拒絶してしまう。
自制心を失った彼は、夜中にHeerの家を訪ねたことで不法侵入のかどで逮捕され、インドに強制送還されることになる。
これが中盤の展開。
ロック映画なのに主人公が下積み時代にカッワーリーやバジャンを歌ってしまうところがいかにもインドらしい。
この映画は宗教を主題にしたものではないから、ここでは宗教歌は特定の信仰の表明ではなく、超越者への帰依を通して自分自身からも自由になり、まだ知らぬ境地へ焦がれる気持ちを表すものとして扱われている。
音楽という芸術を模索する姿が、信仰心に重ねて表現されているのだ。
家庭を壊してしまうことに恐怖を覚えたHeerは、彼を愛していながらも拒絶してしまう。
自制心を失った彼は、夜中にHeerの家を訪ねたことで不法侵入のかどで逮捕され、インドに強制送還されることになる。
これが中盤の展開。
ロック映画なのに主人公が下積み時代にカッワーリーやバジャンを歌ってしまうところがいかにもインドらしい。
この映画は宗教を主題にしたものではないから、ここでは宗教歌は特定の信仰の表明ではなく、超越者への帰依を通して自分自身からも自由になり、まだ知らぬ境地へ焦がれる気持ちを表すものとして扱われている。
音楽という芸術を模索する姿が、信仰心に重ねて表現されているのだ。
コブシの効いたカッワーリーにはロック的な歌唱法がよく似合う。
冷静に考えれば、チェコでは無名であろうインド人歌手が大ホールでコンサートを行うことや、そこに多くのマスコミが詰めかける点など、ツッコミどころはたくさんあるが、緊張感を持ったストーリーは見るものをぐいぐいと引き込みながら終盤に向かって進んでゆく。
Jordanの強制送還はインドでも大スキャンダルとなっていた。
警官相手にも粗暴に振る舞う彼は、ロックスター としての危険な魅力をまとっていた。
この話題を利用したいレコード会社は、このタイミングでCDをリリースし、彼は一躍大スターとなる。
だが、Heerを失った彼の心の傷は癒えず、彼の奇行は激しさを増し、それにともなってますます人気も高まってゆく。
2年後。
すっかり退廃的なロックスターとなった彼は、Heerの妹から、彼女が不治の病の床についていることを聞かされ、すぐにプラハに駆けつける.
彼女の家族は彼を歓迎しなかったが、彼が来たことでHeerは奇跡的な回復の兆候を示し、家族も彼の存在を受け入れざるを得なくなる。
結婚前のように二人の時間を過ごすJordanとHeer.
Jordanにとってもファンからの喝采では満たされなかった孤独が癒され、久しぶりに幸福を感じられる時間となった。
Heerは驚くべき回復を見せ、インド北部のヒマーチャル・プラデーシュでコンサートを行う彼に同行する。
独身時代の最後にJordanと見たヒマラヤを、もう一度二人で見たかったのだ。
人妻との恋愛スキャンダルを聞きつけたマスコミがJordanの元に殺到するが、彼は何も答えず、ホテルの部屋の中で二人は束の間の満たされた時間を過ごしたのだった。
だが、帰国したHeerは急激に体調を悪化させ、ICUに入院してしまう。
彼女はJordanの子を妊娠していたのだ。
すぐに病院を見舞った彼だったが、Heerは目を覚まさない。
愛するものを失うかもしれない焦燥感を抱えたまま、Jordanはイタリアでのコンサートに出演することになる(ここで、冒頭のシーンに繋がる)。
ステージで喝采を浴びる彼に、Heerの幻が現れ、二人で過ごした幸福な時間が彼の心に次々と浮かんでゆくのだった。
というのがこの映画のあらすじ。
冷静に考えれば、チェコでは無名であろうインド人歌手が大ホールでコンサートを行うことや、そこに多くのマスコミが詰めかける点など、ツッコミどころはたくさんあるが、緊張感を持ったストーリーは見るものをぐいぐいと引き込みながら終盤に向かって進んでゆく。
Jordanの強制送還はインドでも大スキャンダルとなっていた。
警官相手にも粗暴に振る舞う彼は、ロックスター としての危険な魅力をまとっていた。
この話題を利用したいレコード会社は、このタイミングでCDをリリースし、彼は一躍大スターとなる。
だが、Heerを失った彼の心の傷は癒えず、彼の奇行は激しさを増し、それにともなってますます人気も高まってゆく。
2年後。
すっかり退廃的なロックスターとなった彼は、Heerの妹から、彼女が不治の病の床についていることを聞かされ、すぐにプラハに駆けつける.
彼女の家族は彼を歓迎しなかったが、彼が来たことでHeerは奇跡的な回復の兆候を示し、家族も彼の存在を受け入れざるを得なくなる。
結婚前のように二人の時間を過ごすJordanとHeer.
Jordanにとってもファンからの喝采では満たされなかった孤独が癒され、久しぶりに幸福を感じられる時間となった。
Heerは驚くべき回復を見せ、インド北部のヒマーチャル・プラデーシュでコンサートを行う彼に同行する。
独身時代の最後にJordanと見たヒマラヤを、もう一度二人で見たかったのだ。
人妻との恋愛スキャンダルを聞きつけたマスコミがJordanの元に殺到するが、彼は何も答えず、ホテルの部屋の中で二人は束の間の満たされた時間を過ごしたのだった。
だが、帰国したHeerは急激に体調を悪化させ、ICUに入院してしまう。
彼女はJordanの子を妊娠していたのだ。
すぐに病院を見舞った彼だったが、Heerは目を覚まさない。
愛するものを失うかもしれない焦燥感を抱えたまま、Jordanはイタリアでのコンサートに出演することになる(ここで、冒頭のシーンに繋がる)。
ステージで喝采を浴びる彼に、Heerの幻が現れ、二人で過ごした幸福な時間が彼の心に次々と浮かんでゆくのだった。
というのがこの映画のあらすじ。
安っぽい部分や予想がつく展開も多いが、それでも緊張感を持ったまま進んでゆくストーリーには飽きさせられなかったし、この時代のインドでのロックの描かれ方も面白かった。
スターとなった彼が出演したインドでの野外ライブのシーンでは、会場に掲げられたスローガンから、このコンサートが自由を求める市民運動の一環であることが分かるようになっている。
ロックが若者の心の内面だけを扱うものではなく、社会的なメッセージをも持った音楽であることを示唆した一場面と言えるだろう。
富と名声を得てもなお満たされないJordanの姿はニルヴァーナのカート・コバーンを彷彿とさせるし、ホテルのベッドのシーツにくるまって二人きりの時間を過ごすJordanとHeerは、60年代のジョン・レノンとオノ・ヨーコを思い起こさせる。
だが、典型的なロックスター像を題材にしながらも、この映画のテーマは、じつは典型的なインド映画とまったく同じものなのだ。
つまり、
・結ばれない運命の恋愛
・夢や自由の追求
・青春時代の自由と、その後の決められた退屈な人生
・親と子の世代間の葛藤
・夢を叶えるための大きすぎる代償
といった要素を中心に物語が構成されているというわけだ。
ロックが若者の心の内面だけを扱うものではなく、社会的なメッセージをも持った音楽であることを示唆した一場面と言えるだろう。
富と名声を得てもなお満たされないJordanの姿はニルヴァーナのカート・コバーンを彷彿とさせるし、ホテルのベッドのシーツにくるまって二人きりの時間を過ごすJordanとHeerは、60年代のジョン・レノンとオノ・ヨーコを思い起こさせる。
だが、典型的なロックスター像を題材にしながらも、この映画のテーマは、じつは典型的なインド映画とまったく同じものなのだ。
つまり、
・結ばれない運命の恋愛
・夢や自由の追求
・青春時代の自由と、その後の決められた退屈な人生
・親と子の世代間の葛藤
・夢を叶えるための大きすぎる代償
といった要素を中心に物語が構成されているというわけだ。
ありきたりとも言えるテーマを見応えのある作品に仕上げたのは、ひとえに監督の手腕と俳優たちの演技力によるものだろう。
主演のRanbirは純情な青年時代から退廃的なロックスターへの成長を見事に演じているし、Heerを演じたNargis Fakhriはこの映画がデビュー作ながら、高嶺の花のイメージの学生時代から、道ならぬ恋に溺れる結婚後の姿まで、難しい役柄を演じきっている(ちなみに彼女はパキスタン人とこの映画の舞台でもあるチェコ人とのハーフで、米国籍)。
中産階級の平凡な若者だったJordanが、ロックスターになるために必要な辛い経験を何もしていないことに悩むシーンは、コミカルではあるが、発展途上国のロック黎明期にありがちなパラドックスを示している。
つまり、アメリカやイギリスで労働者階級の反骨の音楽として誕生したロックは、途上国では高価な楽器が買える人々しか演奏することができない富裕層(少なくとも中産階級以上)音楽になってしまうということだ。
(その点、今年公開された"Gully Boy"は、ヒップホップという楽器すら必要としない音楽をテーマにすることで、都市の持たざるものの声が音楽に乗せられる瞬間を扱ったものとして、やはり歴史的な意味がある作品と言えるだろう)
この映画が公開された2011年は、インドではようやくインディーズのロックバンドの活躍が見られるようになった時代。
インターネットの発展で海外の音楽にも容易に触れられるようになり、大衆映画の観客にもロックのイメージが知れ渡った時期だったはずだ。
ワイルドで退廃的なロックの描かれ方は紋切り型だし、インド人ロックスターがヨーロッパで大人気になるという設定も現実離れしているが、それでも定番のテーマの映画に新しい息吹を吹き込む要素として、ロックが選ばれるべき時代だったのだろう。
また、Jordanの姿は、ロックスターであると同時に古典的な求道者の姿にも繋がる描かれ方をしている。
とくにスターとなった彼が衣装として着用する帽子は、古の時代の詩人やスーフィー(神との合一を目指すイスラームの修行者で、「イスラーム神秘主義者」と訳される)を想起させるものだ。
最後のシーンではHeerの死が示唆されるが、永遠に満たされない自分の片割れを希求する気持ちがロックの源泉となるというテーマは、ギリシア神話に着想を得たロック映画の名作「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」とも共通している。
つまり、ロックを扱いながらも、芸術や絶対者との合一の追及という普遍的な主題が、この映画の根底となっているのだ。
もうお分かりだろう。
冒頭の「ここから遠く離れた善悪の彼岸に、あなたに会える場所があるだろう」という言葉は、恋人(生きていても一緒になることができない人の妻でもある)を失った苦しみを抱えたままロック道を精進することで、恋人との現世を超えた次元での再開と合一を願う(そしてそれは神との合一ともつながる)という、ロック映画にしてはものすごく大げさで、同時に極めて古典的な世界観を表しているのだ。
こうした古典的で普遍的なテーマが巧みに表現されているからこそ、リアリティーに欠けるストーリーであっても、多くの人の心を打つヒット作品となったのだろう。
ここまで考えると、Jordanの憧れがジム・モリソンだというのも納得がいく。
ジムが単なる享楽的なイメージのロックスターではなく、奇行で知られながらも、どこか神秘的で、哲学的なイメージすらあるカリスマだからである。
さて、最後になったが、肝心のA.R.Rahmanによる音楽について。
Rahman流のロックを楽しみにしていたのだが、結論から言うとこの映画の音楽は、クオリティこそ高いものの「ロックの要素の入ったいつものRahman流映画音楽」に他ならなかった。
最後のシーンではHeerの死が示唆されるが、永遠に満たされない自分の片割れを希求する気持ちがロックの源泉となるというテーマは、ギリシア神話に着想を得たロック映画の名作「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」とも共通している。
つまり、ロックを扱いながらも、芸術や絶対者との合一の追及という普遍的な主題が、この映画の根底となっているのだ。
もうお分かりだろう。
冒頭の「ここから遠く離れた善悪の彼岸に、あなたに会える場所があるだろう」という言葉は、恋人(生きていても一緒になることができない人の妻でもある)を失った苦しみを抱えたままロック道を精進することで、恋人との現世を超えた次元での再開と合一を願う(そしてそれは神との合一ともつながる)という、ロック映画にしてはものすごく大げさで、同時に極めて古典的な世界観を表しているのだ。
こうした古典的で普遍的なテーマが巧みに表現されているからこそ、リアリティーに欠けるストーリーであっても、多くの人の心を打つヒット作品となったのだろう。
ここまで考えると、Jordanの憧れがジム・モリソンだというのも納得がいく。
ジムが単なる享楽的なイメージのロックスターではなく、奇行で知られながらも、どこか神秘的で、哲学的なイメージすらあるカリスマだからである。
さて、最後になったが、肝心のA.R.Rahmanによる音楽について。
Rahman流のロックを楽しみにしていたのだが、結論から言うとこの映画の音楽は、クオリティこそ高いものの「ロックの要素の入ったいつものRahman流映画音楽」に他ならなかった。
ロック音楽を聴かせることよりも、前述のような古典的なテーマを見せることが趣旨であることを考えれば致し方のないことだろう。
とはいえ、印象に残った楽曲を紹介したい。
Heerが結婚してしまった後の飾り気のない心情を歌う弾き語りから始まり、映画の場面に合わせてクラブのシーンでのダンスミュージックにつながってゆく展開が見事な"Phir Se Ud Chala".
チェコのストリートミュージシャンやジプシーっぽいダンサーと共演する設定の"Hawaa Hawaa"は、ジプシー音楽のルーツがインドにある(ラージャスタンのあたり)ことを思い出させる楽曲だ。
プラハでの許されない逢瀬からライブのシーンにつながる"Aur Ho"は、後半のドラムが入ってくるあたりで、レッド・ツェッペリンがインドやアラブの音楽を取り入れた楽曲に少し似た雰囲気になる。
今回もずいぶん長くなってしまいました。
蛇足ですが、実際に活躍するヒンディー語で歌うロックバンドを2つほど紹介しておしまいにします。
まずは、このブログでも以前紹介したデリーのバンド、Anand Bhaskar Collective.
RockstarのJordanのように、古典声楽の要素の入ったヴォーカルが特徴のバンドの代表曲は、"Hey Ram".
マハートマー・ガーンディーの最後の言葉でもあるタイトルのこの楽曲(「おお、ラーマ神よ」の意)は、宗教間の争いをテーマにしたもの。
古典音楽色の強い歌とバイオリンが、よりインドらしさを感じさせる"Malhar".
Pearl JamやSoundgardenのような90年代のアメリカのオルタナティブ・ロック風の楽曲に、こんなにインド風の歌い回しが合うとは思わなかった。
チャンディーガル出身で、現在はデリーを拠点に活動しているThe Local Trainは、ヒンディー語で歌いながらも、欧米のロックを思わせるメロディーラインを聴かせてくれるバンドだ。
毎回完成度の高いビデオを作っており、この"Khudi"はRolling Stone India誌が選ぶ2017年度ベストミュージックビデオの第3位に選ばれている。
2018年にリリースされたアルバム"Vaaqif"から、"Dilnawaz".
彼らの楽曲のクオリティーはとても高く、もし彼らが英語で歌うアメリカかイギリスのバンドだったら、世界的な人気を得られていたかもしれない。
現実のインドのロックバンドは、ワイルドでクレイジーなイメージではなく、こんなふうにどこか知的さや生真面目さを感じさせる雰囲気がある。
ポストロックやプログレッシブメタルのように、音響や構成の美学を追求したバンドも多く、やはりインドではロックは「中産階級以上の音楽」であるということを実感させられる。
それでは今回はここまで!
長い記事を読んでいただいてありがとうございました!
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
とはいえ、印象に残った楽曲を紹介したい。
Heerが結婚してしまった後の飾り気のない心情を歌う弾き語りから始まり、映画の場面に合わせてクラブのシーンでのダンスミュージックにつながってゆく展開が見事な"Phir Se Ud Chala".
チェコのストリートミュージシャンやジプシーっぽいダンサーと共演する設定の"Hawaa Hawaa"は、ジプシー音楽のルーツがインドにある(ラージャスタンのあたり)ことを思い出させる楽曲だ。
プラハでの許されない逢瀬からライブのシーンにつながる"Aur Ho"は、後半のドラムが入ってくるあたりで、レッド・ツェッペリンがインドやアラブの音楽を取り入れた楽曲に少し似た雰囲気になる。
今回もずいぶん長くなってしまいました。
蛇足ですが、実際に活躍するヒンディー語で歌うロックバンドを2つほど紹介しておしまいにします。
まずは、このブログでも以前紹介したデリーのバンド、Anand Bhaskar Collective.
RockstarのJordanのように、古典声楽の要素の入ったヴォーカルが特徴のバンドの代表曲は、"Hey Ram".
マハートマー・ガーンディーの最後の言葉でもあるタイトルのこの楽曲(「おお、ラーマ神よ」の意)は、宗教間の争いをテーマにしたもの。
古典音楽色の強い歌とバイオリンが、よりインドらしさを感じさせる"Malhar".
Pearl JamやSoundgardenのような90年代のアメリカのオルタナティブ・ロック風の楽曲に、こんなにインド風の歌い回しが合うとは思わなかった。
チャンディーガル出身で、現在はデリーを拠点に活動しているThe Local Trainは、ヒンディー語で歌いながらも、欧米のロックを思わせるメロディーラインを聴かせてくれるバンドだ。
毎回完成度の高いビデオを作っており、この"Khudi"はRolling Stone India誌が選ぶ2017年度ベストミュージックビデオの第3位に選ばれている。
2018年にリリースされたアルバム"Vaaqif"から、"Dilnawaz".
彼らの楽曲のクオリティーはとても高く、もし彼らが英語で歌うアメリカかイギリスのバンドだったら、世界的な人気を得られていたかもしれない。
現実のインドのロックバンドは、ワイルドでクレイジーなイメージではなく、こんなふうにどこか知的さや生真面目さを感じさせる雰囲気がある。
ポストロックやプログレッシブメタルのように、音響や構成の美学を追求したバンドも多く、やはりインドではロックは「中産階級以上の音楽」であるということを実感させられる。
それでは今回はここまで!
長い記事を読んでいただいてありがとうございました!
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goshimasayama18 at 19:55|Permalink│Comments(0)
2019年04月25日
史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)
6月7日に待望の日本公開が決まったインド映画『パドマーワト 女神の誕生』(原題"Padmaavat"、ヒンディー語。配給Spacebox)の試写を、インド・イスラーム研究者の麻田豊先生と鑑賞するという素晴らしい機会をいただいた。
この作品はインド映画史上最高額の制作費をかけた超大作で、昨年インド国内で大ヒットを記録したもの。
これがまた最高だったので、今回は音楽を離れて、この映画の話題を書いてみたいと思います。
予告編はこちら
この『パドマーワト 女神の誕生』は、16世紀のラクナウ(現ウッタル・プラデーシュ州の州都)地方のスーフィー(「イスラーム神秘主義者」と訳される)詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤシーによる叙事詩を映画化したもの。
原作となった叙事詩は、13世紀から14世紀 にかけてのインド北部の史実を題材としたもので、今日でもインドで親しまれている物語だというから、さしずめ日本でいう「平家物語」とか「忠臣蔵」のようなものなのだろう。
この映画は当初インドで2017年12月に公開される予定だったが、ヒンドゥー至上主義団体からの抗議のために1ヶ月以上公開が延期され(わりとよくあることではあるが)、またマレーシアでは逆に「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったといういわくつきの作品だ。
『女神の誕生』という邦題のサブタイトルや、「その"美"は、やがて伝説になる」というキャッチコピーは、バーフバリ以降急増している女性ファンを意識したものと思われるが、とことんこだわったというふれこみの映像美にも増して印象に残ったのは、愛や義や野望に忠実に生きる登場人物の苛烈で劇画的なかっこよすぎる生き様だった。
あらすじをごく簡単に説明してみる。
ヒンドゥーのメーワール王国とイスラームのハルジー朝の戦いの物語ではあるのだが、物語の主眼は宗教同士の戦いではなく、劇画的なまでにキャラが立った人間群像の生き様だ。
戦いの場においてさえ信義を優先させる高潔なラージプート(インド北西部の砂漠地帯ラージャスターンの戦士)の王ラタン・シンと、より強大な権力を目指し、欲しいものは全て手に入れようとする暴虐なスルターンのアラーウッディーン。
対照的でありながらも、愚かしいまでに己の誇りのために生きる二人の王に対し、后であるパドマーワティーとメヘルニサーは、国の平和のために知恵と愛で難局に立ち向かう。
あまりにも熱く激しく、そして悲しい物語は、まるであの『北斗の拳』のような印象を受けた。
強大な力を持ち手段を選ばないアラーウッディーンは気持ちいいほどのラオウっぷりだし、美しさと優しさと強さを兼ね備え、強い男たちを虜にするパドマーワティーはユリアを彷彿とさせる。
ラタン・シンとアラーウッディーンが宮中で対峙するシーンでは、宿敵同士であるはずの二人から、王としての誇りを持った者同士の不思議な「絆」さえ感じられ、さしずめ往年の週刊少年ジャンプのごとく「強敵」と書いて「友」と読みたくなってしまった。
とにかく、荒唐無稽なまでのキャラクターを凄まじい迫力と美しさで演じきった俳優たちの演技が大変すばらしく、ものすごいテンションで観客を映画の世界に引き込んでゆく。
じつは、物語が転がり始めるまでの序盤は若干退屈な印象を受けていたのだが、後半の怒涛の展開、そして美しくも激しい圧巻のラストシーンを見終わってみれば、呆然とするほどの満足感にしばらく席を立てないほどだった。
アラーウッディーン役のランヴィール・シンは "Gully Boy"(こちらに詳述)の繊細な主人公役とはうってかわって、狂気に満ちたアンチヒーローを鬼気迫るほどに演じきっている(制作は『パドマーワト』のほうが先)。狂気的な野望の持ち主でありながら、夜空の下で詩を吟じたりもする姿は憎たらしいほどにかっこいい。
この作品はインド映画史上最高額の制作費をかけた超大作で、昨年インド国内で大ヒットを記録したもの。
これがまた最高だったので、今回は音楽を離れて、この映画の話題を書いてみたいと思います。
予告編はこちら
この『パドマーワト 女神の誕生』は、16世紀のラクナウ(現ウッタル・プラデーシュ州の州都)地方のスーフィー(「イスラーム神秘主義者」と訳される)詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤシーによる叙事詩を映画化したもの。
原作となった叙事詩は、13世紀から14世紀 にかけてのインド北部の史実を題材としたもので、今日でもインドで親しまれている物語だというから、さしずめ日本でいう「平家物語」とか「忠臣蔵」のようなものなのだろう。
この映画は当初インドで2017年12月に公開される予定だったが、ヒンドゥー至上主義団体からの抗議のために1ヶ月以上公開が延期され(わりとよくあることではあるが)、またマレーシアでは逆に「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったといういわくつきの作品だ。
『女神の誕生』という邦題のサブタイトルや、「その"美"は、やがて伝説になる」というキャッチコピーは、バーフバリ以降急増している女性ファンを意識したものと思われるが、とことんこだわったというふれこみの映像美にも増して印象に残ったのは、愛や義や野望に忠実に生きる登場人物の苛烈で劇画的なかっこよすぎる生き様だった。
あらすじをごく簡単に説明してみる。
義を重んじるメーワール王国の王ラタン・シンは、シンガラ国(現スリランカ)出身の絶世の美女パドマーワティと恋に落ち、妃とした。
同じ頃、ハルジー朝では己の野望のためには手段を選ばない暴君アラーウッディーンが、国王である叔父を亡き者にしてスルターンの座につく。
パドマーワティの美貌の噂を聞いたアラーウッディーンは、王妃を我がものにすべくメーワール王国に攻め入るが、強固なチットール城に阻まれて退却を余儀なくされる。
だが、和睦を持ちかけると見せかけて奸計を仕掛けたアラーウッディーンは、国王ラタン・シンを捕らえ、デリーの居城に幽閉してしまう。
同じ頃、ハルジー朝では己の野望のためには手段を選ばない暴君アラーウッディーンが、国王である叔父を亡き者にしてスルターンの座につく。
パドマーワティの美貌の噂を聞いたアラーウッディーンは、王妃を我がものにすべくメーワール王国に攻め入るが、強固なチットール城に阻まれて退却を余儀なくされる。
だが、和睦を持ちかけると見せかけて奸計を仕掛けたアラーウッディーンは、国王ラタン・シンを捕らえ、デリーの居城に幽閉してしまう。
アラーウッディーンはラタン・シンの身柄と引き換えにパドマーワティをデリーに誘い出そうとする。
しかしパドマーワティの決意と機知、そしてアラーウッディーンの第一王妃メヘルニサーの計らいによって、ラタン・シンはデリー脱出に成功する。
しかしパドマーワティの決意と機知、そしてアラーウッディーンの第一王妃メヘルニサーの計らいによって、ラタン・シンはデリー脱出に成功する。
だがこれでアラーウッディーンが諦めるはずもなく、ハルジー朝は秘密兵器を携えて再度のメーワールを侵攻する…。
ヒンドゥーのメーワール王国とイスラームのハルジー朝の戦いの物語ではあるのだが、物語の主眼は宗教同士の戦いではなく、劇画的なまでにキャラが立った人間群像の生き様だ。
戦いの場においてさえ信義を優先させる高潔なラージプート(インド北西部の砂漠地帯ラージャスターンの戦士)の王ラタン・シンと、より強大な権力を目指し、欲しいものは全て手に入れようとする暴虐なスルターンのアラーウッディーン。
対照的でありながらも、愚かしいまでに己の誇りのために生きる二人の王に対し、后であるパドマーワティーとメヘルニサーは、国の平和のために知恵と愛で難局に立ち向かう。
あまりにも熱く激しく、そして悲しい物語は、まるであの『北斗の拳』のような印象を受けた。
強大な力を持ち手段を選ばないアラーウッディーンは気持ちいいほどのラオウっぷりだし、美しさと優しさと強さを兼ね備え、強い男たちを虜にするパドマーワティーはユリアを彷彿とさせる。
ラタン・シンとアラーウッディーンが宮中で対峙するシーンでは、宿敵同士であるはずの二人から、王としての誇りを持った者同士の不思議な「絆」さえ感じられ、さしずめ往年の週刊少年ジャンプのごとく「強敵」と書いて「友」と読みたくなってしまった。
(『北斗の拳』をご存知ない方はごめんなさい。世紀末の暗殺拳をテーマにした武論尊原作の名作マンガがあって、今40代くらいの男性は夢中になって読んだものなのです)
インドの古典叙事詩が持つロマンと日本の少年マンガ的なヒロイズムに共通点があるというのは面白い発見だった。
普遍的な人の心を惹きつける物語の要素というものは時代や場所が変わってもあまり変わらないものなのかもしれない。
とにかく、荒唐無稽なまでのキャラクターを凄まじい迫力と美しさで演じきった俳優たちの演技が大変すばらしく、ものすごいテンションで観客を映画の世界に引き込んでゆく。
じつは、物語が転がり始めるまでの序盤は若干退屈な印象を受けていたのだが、後半の怒涛の展開、そして美しくも激しい圧巻のラストシーンを見終わってみれば、呆然とするほどの満足感にしばらく席を立てないほどだった。
アラーウッディーン役のランヴィール・シンは "Gully Boy"(こちらに詳述)の繊細な主人公役とはうってかわって、狂気に満ちたアンチヒーローを鬼気迫るほどに演じきっている(制作は『パドマーワト』のほうが先)。狂気的な野望の持ち主でありながら、夜空の下で詩を吟じたりもする姿は憎たらしいほどにかっこいい。
絶世の美女パドマーワティを演じるディーピカー・パードゥコーンは外見的な美しさはもとより、内面の美しさ、強さ、誇り高さまでも感じさせる演技で、絢爛な衣装やセットの中でもひときわ美しく輝いている。かなり保守的なものになりかねない役柄を、強い意志と機知とたくましさをもった女性として描いたのは、彼女の演技に加えてサンジャイ・リーラ・バンサーリー監督の手腕でもあるのだろう。
高潔なラージプートの王、ラタン・シンを演じたシャーヒド・カプールも義と誇りに生きる男の強さと悲しさを完璧に表現し、ランヴィールとの素晴らしい対比を見せている。
高潔なラージプートの王、ラタン・シンを演じたシャーヒド・カプールも義と誇りに生きる男の強さと悲しさを完璧に表現し、ランヴィールとの素晴らしい対比を見せている。
己のプライドに生きる男たちと同様に、いやそれ以上に強烈な印象を残すのが誇り高き王宮の女性たちだ。
美しく、賢く、強い意志を持った女性たちが、悲劇的なストーリーの中で見せる気高さは何にもまして際立っており、「ラージプートの男たちが強いのは、強い母がいるからですね」という台詞がとくに印象に残った。
美しく、賢く、強い意志を持った女性たちが、悲劇的なストーリーの中で見せる気高さは何にもまして際立っており、「ラージプートの男たちが強いのは、強い母がいるからですね」という台詞がとくに印象に残った。
また詩人や宦官の奴隷、王に忠誠を誓う戦士といった脇役たちもそれぞれキャラが立っていて、ストーリーに花を添えている。
「究極の映像美」というふれこみに違わず、もちろん映像も素晴らしい。
以下、映画を見るときにぜひ注目して欲しい部分。
(ほとんどが麻田先生の受け売りですが…)
・制作途中に数々の抗議や脅迫を受けた映画というだけのこともあって、冒頭に長々とした免責事項の説明がある。曰く、「この映画の地名、言語、文化、思想、伝統、衣装…等はフィクションであり、いかなる信仰や文化も軽んじる意図はない。サティ(インドの法律で禁止されている寡婦の殉死の習慣)を推奨するものではない。動物が出てくるシーンにはCGが使われ、実際の動物は大切に扱われた」云々。ちなみに制作中には前述の反対の声もあったというものの、映画が公開になると評価はほぼ賛辞ばかりになったらしい。
・映画の中で詩人として言及されるアミール・フスローは13世紀〜14世紀にかけて活躍したスーフィーの詩人、音楽家で、カッワーリーの創始者、タブラの発明者でもあり、北インドの古典音楽であるヒンドゥスターニー音楽の基礎を築いた人物である。
・アラーウッディーンが叔父から贈られた従者カフールは、字幕では「贈りもの」としか書かれていないが、実際は当時のイスラーム王宮に多数いた宦官の奴隷という設定である。その後のアラーウッディーンへの同性愛を思わせる場面は、こうした設定が背景となっている。
・戦闘シーンではメーワール王国の太陽の旗とハルジー朝の三日月の旗が対照的だが、実際にメーワールの紋章は太陽とラージプート戦士の顔を象ったもので、三日月はイスラームの象徴である。
・この映画にも『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で見られたような、ムスリムがヒンドゥーに対してヒンドゥー式のあいさつ(お礼)の仕草(両手を合わせる)をし、それに対してヒンドゥーがイスラーム式に「神のご加護を」と言う場面がある。女たちによるこのシーンは、男たちの戦いを描いた映画のなかで非常に印象的なものになっている。
・パドマーワティだけが、鼻の中央にもピアスをしていたが、何か意味があるのだろうか。王妃という地位を表すもの?
・サブタイトルに「女神の誕生」とあり「パドマーワティが女神のように崇拝されている」との説明があるが、物語の中でも現実世界でも、神々の一人として崇拝されているわけではない。パドマーワティの人気はあくまで伝説上の人物としての尊敬であり、信仰とは別のものだ。
・映画の中で「尊厳殉死」という漢字があてられている「ジョーハル」は、戦争に敗北した際に、女性たちが略奪や奴隷化を防ぐために集団で焼身自殺するというラージャスターンでかつて見られた風習である(井戸に飛び込んだりすることもある)。冒頭の免責事項にあるサティは、寡婦が夫の火葬の際に、夫の亡骸とともに焼身自殺する風習で、法律で禁止されているものの近年まで行われていたとされる。
・映画では悪役として描かれているハルジー朝だが、この「デリー諸王朝時代」はヒンドゥーとイスラームの習慣や文化が融合し、多様な文化が発展した時代でもある。この時代を多様性や寛容の象徴として'Delhi Sultanate'というアーティスト名にしたのが、デリーのスカバンドSka VengersのフロントマンTaru Dalmiaだ。彼は昨今の宗教的ナショナリズムに反対し、BFR Soundsystem名義で社会的な活動にも取り組んでいる。
(「Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」)
・サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督は音楽の才能にも恵まれており、この映画を彩る音楽も監督の手によるもの。インド古典音楽のエモーションとハリウッド的な壮大さが融合した楽曲が多く、作品をより魅力的なものにしている。とくに、物語の舞台となった北インド独特の力強いコブシの効いた古典ヴォーカル風の楽曲は必聴。
と、一度見た限りの印象(と麻田先生から教わった知識)ではあるが、ぜひこうした枝葉の部分にも注目して楽しんでいただきたい。
さすがに話題の大作というだけあって、昨年日本で英語字幕での自主上映が行われた時点でかなり詳しい紹介しを書いている方もたくさんいて、中でも充実しているのはポポッポーさんのブログ。
『ポポッポーのお気楽インド映画 【Padmaavat】』
史実や伝説との関係、上映反対運動のことまで詳しく書かれているのでぜひご一読を。
音楽ブログなので最後に音楽の話題を。
「究極の映像美」というふれこみに違わず、もちろん映像も素晴らしい。
20年前に訪れたラージャスターンでは、乾燥した大地に映える極彩色の民族衣装が印象的だったので、映像美と聞いてめくるめく色の洪水を想像していたのだが、予想に反してこの映画の基調となるのはセピア色を基調とした深みのある映像。
広大な砂漠や壮麗な王宮、絢爛な衣装を落ち着いた色調で描いた映像は、この壮大な歴史ドラマにふさわしい重厚さを演出している。
以下、映画を見るときにぜひ注目して欲しい部分。
(ほとんどが麻田先生の受け売りですが…)
・制作途中に数々の抗議や脅迫を受けた映画というだけのこともあって、冒頭に長々とした免責事項の説明がある。曰く、「この映画の地名、言語、文化、思想、伝統、衣装…等はフィクションであり、いかなる信仰や文化も軽んじる意図はない。サティ(インドの法律で禁止されている寡婦の殉死の習慣)を推奨するものではない。動物が出てくるシーンにはCGが使われ、実際の動物は大切に扱われた」云々。ちなみに制作中には前述の反対の声もあったというものの、映画が公開になると評価はほぼ賛辞ばかりになったらしい。
・映画の中で詩人として言及されるアミール・フスローは13世紀〜14世紀にかけて活躍したスーフィーの詩人、音楽家で、カッワーリーの創始者、タブラの発明者でもあり、北インドの古典音楽であるヒンドゥスターニー音楽の基礎を築いた人物である。
・アラーウッディーンが叔父から贈られた従者カフールは、字幕では「贈りもの」としか書かれていないが、実際は当時のイスラーム王宮に多数いた宦官の奴隷という設定である。その後のアラーウッディーンへの同性愛を思わせる場面は、こうした設定が背景となっている。
・戦闘シーンではメーワール王国の太陽の旗とハルジー朝の三日月の旗が対照的だが、実際にメーワールの紋章は太陽とラージプート戦士の顔を象ったもので、三日月はイスラームの象徴である。
・この映画にも『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で見られたような、ムスリムがヒンドゥーに対してヒンドゥー式のあいさつ(お礼)の仕草(両手を合わせる)をし、それに対してヒンドゥーがイスラーム式に「神のご加護を」と言う場面がある。女たちによるこのシーンは、男たちの戦いを描いた映画のなかで非常に印象的なものになっている。
・パドマーワティだけが、鼻の中央にもピアスをしていたが、何か意味があるのだろうか。王妃という地位を表すもの?
・サブタイトルに「女神の誕生」とあり「パドマーワティが女神のように崇拝されている」との説明があるが、物語の中でも現実世界でも、神々の一人として崇拝されているわけではない。パドマーワティの人気はあくまで伝説上の人物としての尊敬であり、信仰とは別のものだ。
・映画の中で「尊厳殉死」という漢字があてられている「ジョーハル」は、戦争に敗北した際に、女性たちが略奪や奴隷化を防ぐために集団で焼身自殺するというラージャスターンでかつて見られた風習である(井戸に飛び込んだりすることもある)。冒頭の免責事項にあるサティは、寡婦が夫の火葬の際に、夫の亡骸とともに焼身自殺する風習で、法律で禁止されているものの近年まで行われていたとされる。
・映画では悪役として描かれているハルジー朝だが、この「デリー諸王朝時代」はヒンドゥーとイスラームの習慣や文化が融合し、多様な文化が発展した時代でもある。この時代を多様性や寛容の象徴として'Delhi Sultanate'というアーティスト名にしたのが、デリーのスカバンドSka VengersのフロントマンTaru Dalmiaだ。彼は昨今の宗教的ナショナリズムに反対し、BFR Soundsystem名義で社会的な活動にも取り組んでいる。
(「Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」)
・サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督は音楽の才能にも恵まれており、この映画を彩る音楽も監督の手によるもの。インド古典音楽のエモーションとハリウッド的な壮大さが融合した楽曲が多く、作品をより魅力的なものにしている。とくに、物語の舞台となった北インド独特の力強いコブシの効いた古典ヴォーカル風の楽曲は必聴。
と、一度見た限りの印象(と麻田先生から教わった知識)ではあるが、ぜひこうした枝葉の部分にも注目して楽しんでいただきたい。
さすがに話題の大作というだけあって、昨年日本で英語字幕での自主上映が行われた時点でかなり詳しい紹介しを書いている方もたくさんいて、中でも充実しているのはポポッポーさんのブログ。
『ポポッポーのお気楽インド映画 【Padmaavat】』
史実や伝説との関係、上映反対運動のことまで詳しく書かれているのでぜひご一読を。
音楽ブログなので最後に音楽の話題を。
ラージャスターンの気高き戦士、ラージプートの誇りは現代にも受け継がれていて、ジョードプルのラッパーデュオ、J19 Squadは、以前このブログで行ったインタビューで、彼らのギャングスタ的なイメージについて、
「ラージャスターニーはとても慎ましくて親切だけど、もし誰かが楯突こうっていうんなら、痛い目に合わせることになるぜ。ラージプートの戦士のようにね」
と答えている。
彼らの地元である砂漠の中のブルーシティ、ジョードプルの誇りをラップする"Mharo Jodhpur".
城に食べ物に美しい女性たち。地元の誇りがたくさん出てくる中、ラージプート・スタイルの口髭をぴんとはね上げた男たちも登場する。
これが問題のラージャスターニー・ギャングスタ・ヒップホップ。現代的なギャングスタにもラージプートのプライドが受け継がれているのだ。
地元のシンガーRapperiya Baalamと共演した"Raja"は、色鮮やかなターバンや民族衣装、ラクダに馬とラージャスターニーの誇りがいっぱい。
ラージャスターンのヒップホップについては何度か記事にしているので、ご興味があればこちらもお読みください。
「インドいち美しい砂漠の街のギャングスタラップ J19 Squad」
「忘れた頃にJ19 Squadから返事が来た(その1)」
「魅惑のラージャスターニー・ヒップホップの世界」
本日はここまで!
麻田先生、このたびは本当にありがとうございました!
凡平自選の2018年度のおすすめ記事はこちらからどうぞ!
「ラージャスターニーはとても慎ましくて親切だけど、もし誰かが楯突こうっていうんなら、痛い目に合わせることになるぜ。ラージプートの戦士のようにね」
と答えている。
彼らの地元である砂漠の中のブルーシティ、ジョードプルの誇りをラップする"Mharo Jodhpur".
城に食べ物に美しい女性たち。地元の誇りがたくさん出てくる中、ラージプート・スタイルの口髭をぴんとはね上げた男たちも登場する。
これが問題のラージャスターニー・ギャングスタ・ヒップホップ。現代的なギャングスタにもラージプートのプライドが受け継がれているのだ。
地元のシンガーRapperiya Baalamと共演した"Raja"は、色鮮やかなターバンや民族衣装、ラクダに馬とラージャスターニーの誇りがいっぱい。
ラージャスターンのヒップホップについては何度か記事にしているので、ご興味があればこちらもお読みください。
「インドいち美しい砂漠の街のギャングスタラップ J19 Squad」
「忘れた頃にJ19 Squadから返事が来た(その1)」
「魅惑のラージャスターニー・ヒップホップの世界」
本日はここまで!
麻田先生、このたびは本当にありがとうございました!
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「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」
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goshimasayama18 at 00:00|Permalink│Comments(0)