2021年07月16日

今見るべき映画『ジャッリカットゥ 牛の怒り』はケーララの村の「シン・ゴジラ」!



神は宇宙の全てを創造した。

それらを緩やかに並べ、それぞれに固有のリズムを与えた。
それは、ひとたび崩れると世界そのものを崩壊させる連鎖を生む原動力になる。
光から闇へ
静寂から混沌へ
人間から獣へ
平和から戦争へ
創世記から黙示録へ
それぞれの距離。
この作品は、世界が行っている狂ったレースのアレゴリーである。
世界はそのようにあっては決してならない。
(後略)
リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ(Lijo Jose Pellissery)

(『ジャッリカットゥ 牛の怒り』パンフレットより) 
 



『ジャッリカットゥ 牛の怒り』がいよいよ公開となった。
私、軽刈田もこの映画を見ましたが、いやあ、スゴかった。
見事にやられました。
この映画は、インド映画とか、パニック映画とか、そういうジャンルに関係なく、間違いなく、今、見るべき映画だ。

海外の映画評では「徒歩版『マッドマックス 怒りのデスロード』」とか「牛版『アンストッパブル』」とか言われているようだし、日本の映画情報サイトでも「怒り狂う暴走牛 VS 1,000人の村人たち!タピオカ畑も被害に」なんて紹介されているので、半笑いでツッコミながら見るB級作品かと思っていたのだが、その予想はいい意味で裏切られた。

この『ジャッリカットゥ 牛の怒り』(インド映画にしては短い91分!)は、終始緊張感の途切れない優れたエンターテインメントであると同時に、森の匂いや男たちの体臭まで伝わって来そうな濃密な映像美と映像リズムが楽しめ、そして現代社会と人間の本質を描いた、素晴らしい芸術的作品でもあった。

この映画は、インド映画を含めて、これまで見たどの映画とも似ていない。
とにかく見てくれ。
話はそれからだ。

物語のあらすじを簡単に言うと、こんな感じである。

舞台は南インド、ケーララ州の山奥の農村。
キリスト教徒たちが暮らすこの村で、食材として屠られようとしていた水牛が暴走し、村はパニックとなる。
村人たちは、牛を捕まえようとするうちに様々な欲望が剥き出しとなり、村人vs牛という構図は、徐々に狂気を帯びてくる。

単純に、ほんとうにもう単純に、ただそれだけ。
主人公のアントニをはじめ、登場する村人たちには、さまざまな個人的事情や背景を持っているが、彼らはあくまでもこの映画の構成要素のひとつに過ぎない。
私は海外の映画を見ていると、登場人物の誰が誰だか分からなくなってしまうことがよくあるのだが(じっさい、この映画でも回想シーンのあたりでそうなった)、そういうことは、この映画を見る上で、ほとんど支障にはならない。
ペッリシェーリ監督曰く、この映画の主役は、「屠殺場を脱出して逃げる水牛」と「軽く浮かれた、不思議なほど静かな村」だそうで、インド映画にありがちな、主人公を中心にケレン味たっぷりにストーリーを描くという構図は全く存在していないからだ。
狂気を帯びてゆく人々や、パニックを尻目に自分の欲望だけを追求しようとする人々を、ひとつひとつの事象として見ておけば、いちいち顔や名前を覚えなくても、とりあえずはオーケー。
監督が描きたいのは、個人のストーリーではなく、群衆やコミュニティ、そして人間の存在そのものなのだろう。

もう一つ特筆すべき点は、この映画は、インドの中でもクリスチャンが多い山深い集落という、かなり特殊な環境を舞台としているにもかかわらず、その文化的背景を全く知らなくても、ほとんど問題なく楽しめる普遍性を持っているということだ。
突如出現した荒ぶる存在に対する狂騒(恐怖心、功名心、高揚感、正常化バイアスなど)は、とっぴな設定でありながら、文化的差異にほとんど関係なく共感できるのが面白い。

海外メディアでは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『アンストッパブル』と並んで『ジョーズ』が引き合いに出されていたけれど、私が受けた印象を、他の映画を使って例えるなら、「村の『シン・ゴジラ』」。

『シン・ゴジラ』では、突然現れた怪獣に対して、日本政府が会議に終始して右往左往する様子が描かれていたが、『ジャッリカットゥ』の村の警察も「手続きがないと牛を撃つことはできない」とか、そんなことばかり言って全く役に立たない。 
村人たちは、未知の怪獣に対して秘密兵器を用意するように、かつて村を追放した荒くれ者を呼び戻したり、追い詰めた牛を生け捕りにする作戦を講じたりするのだが(このシーンのカメラワークが最高!)、このあたりの面白さは非常に怪獣映画的だ。

牛を追い続けるうちに正気を失ってゆく村人たちは、監督の言葉を借りれば「偽りの皮を脱ぎ、思いがけずその下にある動物性を露わにする」。
人間と獣との境目が失われてゆく中で、村人たちの狂気を超越した存在である牛は、いったい何を表しているのだろうか。
(邦題に『牛の怒り』とあるが、そもそも牛は怒っていたのか?)

ゴジラは原子力の象徴だったが(『シン・ゴジラ』では3.11によって起きた原発事故のメタファーとして描かれていた)、『ジャッリカットゥ』の牛も、何かを暗示しているのは間違いないだろう。

あくまで個人的な印象を語らせてもらえば、突然暴れだした牛は、人間が文明の力で飼い慣らし、自由に搾取できる対象と考えていた自然の象徴だと思う。
その自然が、突然、人間に牙を向いたとき、我々は知恵と力を結集して立ち向かおうとするが、その過程で「人間vs自然」という構図は、人間同士の争いへと変わってゆく。
『ジャッリカットゥ』における牛=自然を、人間が制圧したと思い込んでいたウイルスとして捉えると、この映画はコロナウイルスが猛威を振るい、オリンピックやワクチン接種をめぐって人々が対立する現代社会を見事に描き切っている。

『ジャッリカットゥ 牛の怒り』がインドで公開されたのはパンデミック前の2019年だし、原作となった小説が出版されたのは2018年だから、もちろんこれは単なる偶然なのだが、この映画が人間の本質を描き切っているがゆえに、予言めいた偶然が生まれたのだろう。

音楽ブログなので音楽についても触れると、この映画は音楽も独特だ。
人間の声で自然の音や不穏なリズムを表現した音像は、インドネシアのケチャのようでもあり、ハカのようでもあり、映画同様に、インドのいかなる音楽にも似ていない。(ちょっと『アキラ』の芸能山城組を思い出した) 

監督曰く「観客が自らの内に息づく獣的な欲求のざわめきに気を向けてもらうため、この作品のサウンドは居心地を悪くするために作られている」とのこと。
ぜひ音楽にも注目して見てほしい。


最後に、『ジャッリカットゥ 牛の怒り』に関連した音楽をいくつか紹介したい。
まずは、舞台となったケーララの魅力をふんだんに詰め込んだ、同州コチ出身のロックバンドThaikkudam Bridgeの"One".


クリスチャンやイスラーム教徒も多く、多様性にあふれたケーララの人々、自然、文化の豊かさが伝わってくる作品だ。
ケーララは古くから教育に力を入れ、識字率が高い文化的な土地として知られており、こうした風土は『ジャッリカットゥ』の高い芸術性と無関係ではない。


彼らの"Inside My Head"のミュージックビデオも『ジャッリカットゥ』を想起させるような、密林の中での不条理劇。


ジャングルを徘徊する男、彼を追う男、蛇に噛まれた男、その男の同行者を描いたこの作品は、何を表現しているのかよく分からないが、どこか芸術性を感じるという点ではケーララっぽいと言えるのかもしれない。


続いて紹介するのは、ケーララ州の州都ティルヴァナンタプラム出身のスラッシュメタルバンドChaosの"All Against All".
こちらも『ジャッリカットゥ』の世界観との不思議なシンクロニシティを感じさせる映像だ。
 

『ジャッリカットゥ』同様に、山あいの村で人々が争い合うこのミュージックビデオは、肌の色などによって人々が分断され、対立し、争い合うことの無益さを描いたものとのこと。
社会的・観念的な大きなテーマを、ローカルな舞台に落とし込んで表現するというのはケーララならではのセンスなのだろうか。


ちなみに「ジャッリカットゥ」とは、本来はケーララ州のお隣、タミルナードゥ州の祭礼ポンガルで行われている牛追いの競技のこと。
以前、この記事で紹介したタミルのヒップホップ・デュオHiphop Tamizhaは、タミル文化としてのジャッリカットゥを描いた短編映画風のミュージック・ビデオを発表している。
今回の記事で紹介したケーララのリアリズム的な映像センスと、いかにもタミル的なアクの強い表現(これはこれでクセになる!)との対比も楽しめる映像作品となっているので、興味のある方はぜひこちらの記事もどうぞ。 



『ジャッリカットゥ 牛の怒り』は渋谷イメージフォーラムなどで7月17日から公開されています。
見るべし!



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goshimasayama18 at 01:52|PermalinkComments(0)