映画批評

2023年01月14日

「光としての映画」への感動の讃歌 『エンドロールのつづき』



1月20日に公開になるインド映画『エンドロールのつづき』。
この映画の試写を見せてもらう機会があったのだが、これが本当に素晴らしかった。



これまで一度でも「映画っていいな」と思ったことがある人だったら、絶対に観たほうがいい。
上映前のざわめき、照明が落ちる時の胸の高鳴り、あっという間に感じられる上映時間が過ぎて、再び明かりがついた時の充足感。
映画にはじめて夢中になったときの感覚が蘇って、思わず熱いものが込み上げてきた。
「現代版『ニューシネマパラダイス』」という評判は、まったく誇張ではない。

この映画は、パン・ナリン監督の少年時代を描いた自伝的作品ということになっている。
主人公は、インドの田舎町(っていうか村)に暮らす少年サマイ。
カーストの最上位であるバラモンの家柄だが、サマイの父が騙されて一家は没落。
親子は小さな駅でチャイ売りをして生計を立てている。

ある日、家族と街に出たサマイは、ギャラクシー座という映画館で映画を見る。
固い座席に割れた音響のさびれた映画館だったが、映写機からスクリーンへと伸びる光の束のなかで、サマイは魔法のような時間を体験した。
このときから、彼は映画に夢中になる。
貧しさと厳格な家柄ゆえ、ふたたび映画館に行くことは許されなくても、映画への憧れは止まらない。
劇場の映写技師ファザルと親しくなった彼は、料理自慢の母がサマイのために作る弁当と引き換えに、映写室から映画を見せてもらうようになる。

サマイの映画への思いはどんどん大きくなってゆき、その後もいろいろなことが起きるのだが、ネタバレがいやな方もいると思うのでここでは割愛する。
単純にストーリーだけを見ても起伏に富んだ素晴らしい作品である。
だが、サマイ少年の思いをよそに、田舎町の映画館も、時代の流れと無縁ではいられなかった。
彼に夢を見させてくれた「フィルムと映写機」の時代の終わりが、静かに迫っていた…。

…というのが、『エンドロールの続き』の、まあ見る前に知っていておいて問題のない範囲のあらすじだ。

この映画の魅力は多岐にわたっているのだが、まず言えるのは、全てのシーンの映像が絵葉書になるレベルで美しいということ。
草原の淡い緑、主人公親子が働く駅のチャイ売り小屋や空の青、色鮮やかな衣装、そして映写機から伸びる啓示のような光。
仮に字幕なしで見たとしても(ちなみに手がかりなしのグジャラート語だ)、構図と色彩の美しさだけで十分に楽しめたはずだ。
予告編でもその素晴らしさは伝わると思うが、その柔らかな美しさは、スクリーンでは何倍にも映えて見える。


主人公サマイを演じているのは、3,000人の子どもの中からオーディションで選ばれたというバヴィン・ラバリ君。
バヴィン君は、サマイ同様にグジャラートの田舎で暮らしていた男の子なのだが、この彼の演技がすばらしい。
ラバリ君はこの映画の撮影まで、映画館に行ったことがなかった(!)とのこと。
松岡環さんの解説によると、劇中で上映されているのは90年代から00年代に撮られたヒンディー語映画だそうで、見たことのない作品ばかりだったが、彼の目の輝きを通して、初めて映画に夢中になった時の興奮がリアルに伝わってくる。


パン・ナリン監督は、この映画のなかで一貫して「映画とは光である」というメッセージを伝えている。
もちろん映画は映写機からの光に間違いないのだが、文字通りの意味だけではない。
暗闇の中で遠い場所の物語を見せてくれる映画は、サマイ君だけでなく、誰にとっても希望であり、夢であり、また人と人、文化と文化をつなぐ存在でもある。

パン・ナリン監督のスタイルは、サマイ少年が心躍らせたボリウッド・エンタメ的なものではなく、どちらかというと洋画的なセンスを感じさせるものだ。
インドは現在でも映画が娯楽の王道を担っているという奇跡のような国だが、この国で映画に夢中になる少年を、監督はいかにもインド的な方法では撮らない。

インドの大地の香りと欧米的な様式を混ぜ合わせて傑作を作り上げた監督の手法は、いつもこのブログで取り上げている、自身のルーツとロックやヒップホップを組み合わせてユニークな音楽を作っているインドのミュージシャンたちを想起させる。
映画にしろ音楽にしろ、ひとつの表現様式が国境を越えて、その土地の文化と融合し、新しい価値を持った芸術作品が生まれる。
グローバル化によって失われゆく伝統もあるが、それは必ずしも、ローカルがグローバルに溶けていってしまうことだけを意味しない。
そこに新しく生まれる文化もあるのだ。
この作品は、フィルムと映写機に象徴される一つの時代の終焉を描いたものだが、見終わった後に強く印象に残るのは、寂しさよりもむしろ希望である。
この映画は、映写機からフィルムを通して放たれる光に対する、レクイエムというよりも讃歌なのだ。

映写機の光が照らす道のりの先にあるのは、タイトルの通り『エンドロールつづき』。
それはすなわちサマイ少年の現在の姿であるナリン監督自身であり、映画の素晴らしさ知っている観客の我々である。
"The Last Film Show"という原題を『エンドロールのつづき』と翻訳したセンスは文学賞ものだ。


最後に、日本人にはちょっと分かりにくい部分の解説をしたい。
サマイ少年が仲良くなる映写技師のファザルはムスリムという設定である。
家庭という責任さえなければスーフィズム(行によって神との合一を目指す「イスラーム神秘主義」)の行者になりたいという、叶わない夢を持った青年だ。
信仰や世代や立場が違っても、映画という光を通して通じ合い、友情を育むことができる。
昨今のインド映画では、ナショナリズム(国家主義というよりも、ヒンドゥー・ナショナリズム)が強すぎて興醒めしてしまうことも多いのだが、この作品に込められたあたたかく静かなメッセージには胸に沁みた。

これもまた、映画が光である理由の一つである。
映画に感動したことがある、全ての人に見てほしい作品だ。



余談です。
個人的にはこの海外版の予告編のほうがグッと来る。
ストーリーをほぼ追った作りになっているので、ネタバレ厳禁派の人にはお勧めしないが、この作品の魅力がより感じられる動画になっているので、気にしない人(もしくは鑑賞後に反芻したい人)は是非。


そしてなんと、この映画を作ったパン・ナリン監督にインタビューをさせてもらえることになった!
次回はその模様をお届けしたい。
乞うご期待!



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goshimasayama18 at 16:25|PermalinkComments(0)

2019年06月20日

『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(前編)

(注:記事の性質上、映画のネタバレを含みます。未見でネタバレを望まない方は、ここでお引き返しください)

全国で公開中の歴史大作映画『パドマーワト 女神の誕生』(サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督)。
その美学とヒロイズムに貫かれた圧倒的な世界観については、以前このブログでも書いた通りだ。
「史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)」



「究極の映像美」という明確な売りがある映画とはいえ、その絢爛な舞台はヴェルサイユ宮殿ではなくラージャスターンのチットールガル城砦だ。
日本では、ほとんどの人が、「何それ?どこ?」という状況なわけで、日本の映画ファンが「インドの歴史大作」というなじみのないジャンルのこの作品をどう受け入れるのか興味があったので、映画を見た方がTwitterでつぶやく感想をたまにチェックしていた。
予想通り、「ディーピカーが神々しいほど美しかった!」とか「ランヴィールの狂いっぷりがすごかった!」とか「めくるめく映像美の酔いしれた!」といった、美や演技に関するものがほとんどだったのだが(『北斗の拳』を連想したアホーは私くらいだったようだ)、そのなかにいくつか気になるものがあった。

曰く、「冒頭に『サティ(夫に死なれた未亡人の焼身自殺)を推奨するものではない』とか言っておきながら、思いっきり殉死を美化してるのはいかがなものか」とか、「インドとパキスタン、ヒンドゥーとイスラームの対立が激化しているこのご時世に、アラーウッディーンを肉をむさぼりハーレムに女をはべらせるステレオタイプな悪役スルターンとして描くのはよろしくない」とか「バジュランギおじさんの爪の垢を煎じて飲ませるべき」といったもの。
「原作が古典なんだからしょうがないじゃん」とも思ったのだが、こういった感想はだいたいインドに詳しい方が書いているので「いくらスーフィー(イスラームの神秘主義者)の叙事詩が原作とはいえ」とあらかじめ断っていたりして、ぐうの音も出ない。
要は、インド社会の中でマイノリティーであったり弱者であったりするムスリムや女性に対しての配慮に欠ける、ヒンドゥーナショナリズム的で保守反動的な映画だという、実にまっとうな批判なわけだ。

確かに、こうした視点は重要である。
実際にこの映画はマレーシアでは「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったというし、インドでは公開前に「ヒンドゥーの王妃とイスラームのスルターンのラブシーンがある」という噂が立ち、逆にヒンドゥー至上主義者から反対運動が起きている。
『パドマーワト』はインドでもほかの国でも、宗教的なバックグラウンドと結びつけて捉えられており、日本のファンだけ能天気にそのへんの事情に無頓着というのも、あんまりよろしくないような気がする。

この問題についての私のスタンスを明確にしておくと、「古典が原作であり、過去が舞台である以上、現代の価値観と合わない部分があるのは仕方ない」というものだ。
インドの歴史において、かつては侵略者だったムスリムが、現在はマイノリティーであるというねじれた現実がある以上、こうした議論が避けられないのは致し方ないことだ。
映画を制作するうえで、必要以上に「ポリティカル・コレクトネス」にとらわれないバンサーリー監督の姿勢は、むしろ健全であるとも感じた。

それに、このストーリーの主人公は実質、ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンで、確かにステレオタイプな暴君として描かれているかもしれないが、それでもその描かれ方は、率直に言って非常にカリスマ的で「かっこいい」ものだ。
彼は『北斗の拳』のラオウや、『スターウォーズ』のダースベイダーのような、強さと誇りを併せ持った「愛すべき悪役」として描かれている。
ストーリー上、悪役として描かなければならないという前提のもとでは、最良の描かれ方をしているのではないだろうか。
この映画のなかでは、ことさらに宗教の違いが強調されているわけではなく、国と国、王と王との戦いがテーマであり、今回はその中の敵役がイスラームだった、ということだと解釈している。

とはいえ、これはヒンドゥーもイスラームもほとんど存在しない極東の島国での感想。
インドの現在の状況を踏まえた上で、「ナショナリズム的で反動的」という批判が的を射たものなのかどうか、できる範囲で確かめてみたいと思う。
そのためには、「ムスリムやインドの女性が、この映画をどう感じたのか」「この映画によって、イスラーム嫌悪や、女性蔑視的な風潮が強まったのか」を調べるしかない。
私にできるのはネットを使って調べることくらいだが、そんなわけで、今回は、インドを中心に、こうした観点から書かれているインドのメディアのレビューを紹介したいと思います。

 まずは、インドのニュースサイトScroll.inに掲載されたこの記事から。
"View from Pakistan: ‘Padmaavat’ puts together every stereotype of Muslims in India" 
(「パキスタンからの視点:「パドマーワト」はインドにおけるムスリムのステレオタイプの寄せ集め」)

パキスタン人の記者によるこの記事の冒頭では、パキスタンの教育では、南アジア地域の歴史のなかではヒンドゥー国家こそが暴君であって、イスラームの国家が人々を解放したと教えられていることが紹介されている。
そうした教育にもかかわらず、著者は、インド映画を見ることによって、ヒンドゥーの人々もまた自分たちと同じような良心のある人間だと知ったと述べている。
歴史教育や歴史の解釈は、ところ変われば真逆にすらなりうるもので、それでも人間の本質は地域や信仰によって変わるものではない、という「バジュランギおじさん」的な真理だ。
そのうえで、著者は、『パドマーワト』が美的な面では非常に優れていると認めるにしても、政治的な部分では人種差別的、性差別的、イスラーム嫌悪的だと指摘する。
この映画のなかのイスラームの描かれ方はあまりにもステレオタイプで、自分がかつてインド映画でヒンドゥー教徒を見て「彼らも同じ良心を持った人間」と感じたのとは真逆な、残虐な描かれ方をしている。
つまり、インドのヒンドゥーコミュニティに暮らす人々が、この映画を見ることによって、ムスリムに残虐な印象を持ちかねない、と危惧しているわけだ。
(著者は、「芸術は'ポリティカリー・コレクト'であるべきか」という論点にも触れており、必ずしもそうあるべきでないとしても目に余る、という意見なのだろう。) 
具体例として、ヒンドゥーの王ラタン・シンと王妃パドマーワティとの関係が愛に満ちたものとして描かれているのに対して、スルタンであるアラーウッディーンと彼の妻との関係は暴力的に描写されている点を挙げており、また夫への殉死であるジョウハルが解放の手段として描かれているなど、女性への重大な人権侵害を美化していると指摘している。
また、パドマーワティがラタン・シンの第二夫人だったという描写が欠けているという言及もあり、この記事は、『パドマーワト』におけるヒンドゥーとイスラームの描き方がフェアではないという批判なのである。

この記事に対する読者の反応がまた面白かったので、いくつかを抜粋して紹介する。
https://scroll.in/article/866261/readers-comments-was-the-portrayal-of-allaudin-khilji-in-padmaavat-islamophobic
(「読者コメント:『パドマーワト』におけるアラーウッディーンの描き方はイスラム嫌悪的だったのか?」)
  • 実際のアラーウッディーンは、野蛮というほどではないにしても、いくつもの国の侵略者であることは事実で、自らが国王になるために叔父を殺した人物である(=残酷な描かれ方もそこまで批判されるべきものではない、ということだろう)。アラーウッディーンの最初の妻は、歴史上は傲慢な人物だったが、劇中ではパドマーワティとラタン・シンを救う優しい人物として描かれている(=イスラームを好意的に描いている部分もある)。パドマーワティは指揮官の反対にも関わらず、単身デリーに乗り込んだ聡明で強い女性として描かれており、劇中の時代背景の中で名誉を守るために死を選んだからといって、それを今日の価値観で女性差別的だと考えるのは未熟である。
  • 著者の分析は正確。この映画は非常に反動的だ。
  • 著者は(名誉を守るための自死である)ジョウハルと、(夫の火葬の火に飛び込んで死ぬ)サティは全く別のものだと認識すべきだ。パドマーワティは自身が性奴隷となることを避けるために、自由意志で死を選んだ。女性蔑視的なのは著者のほうである。
  • 著者は考え不足だ。アラーウッディーンはムスリムとしてではなく、一人の常軌を逸した男として描かれていたし、映画を観に行く人はみんなそのことを理解している。パキスタン人であることが記者の視点に影響したのかもしれない。
  • これはあくまでも映画であって、歴史ではない。それに映画はジョウハルを賛美してもいない。 それは夫が戦争で殺された場合、女性が自分自身を守るためには死ぬしかなかったということを示しているだけだ。 ムスリムの描写に関しては、宗教に関係なく単に支配者として描いているだけであり、その支配者の信仰がイスラームだったということにすぎない。 アラーウッディーンは現在のインドだけでなく、現在パキスタンに属している地域も侵略していた(=現在の印パの対立に関連づけて考えるのはおかしいということだろう)。
  • (前略)いずれにせよ、私は『パドマーワト』を見に行くことはない。パドマーワティがジョウハルを恐れる描き方ならば見にいったかもしれないが。サティ廃止後150年が経った今、それこそが望ましい描かれ方だ。
  • この記事の見解は面白かったけど、映画のネタバレを含んでいるということが冒頭で触れられていなかったことを指摘したい。作品のレビューにネタバレを含むのであれば、免責事項として最初に書いてもらえると助かる。(=『パドマーワト』は最初に免責事項としてフィクションである旨やサティを美化していないことに触れているのだから、そのように見るべきだという皮肉か)
  • どうして記者は、アラーウッディーンの描写がムスリムの王としてのものであり、冷酷な一個人として描かれているのではないと考えるのだろうか?映画のどこで宗教について言及されているのか?記者の豊かな想像力のせいで、このレビューは過剰なものになっている。
  • この記事は新しい視点に気づかせてくれた。私はインドの都市部で育った53歳のヒンドゥー教徒だが、自分のまわりには多くの「反イスラム・バイアス」がある。著者は、このようにすでに偏ってしまっている社会の中で、この映画が、とくに若者によって、どのように解釈されるおそれがあるか、そして監督がどのような描写の仕方を選んでいるのかについて、優れた指摘をしている。私も、非論理的な部分では、反イスラム・バイアスを持っていた(今も持っているかもしれない)ことを認めざるを得ない。しかしパキスタンのテレビ番組を見て、そこに住む人々も我々と変わらないということを理解することができた。たとえこうした点に気づくのがインドのコミュニティの10%だとしても、今後の印パ関係をより良くし、ムスリムの性格のステレオタイプな解釈をしなくて済むようにしてくれたことについて、記者に感謝したい。

記者に同意する意見もいくつかあるが、アラーウッディーンの描写はムスリムとしてではなく一人の暴君としてのものであり、ジョウハルについても当時の歴史の文脈ので捉えるべきだという反論が目立つ。
ちなみに、名前を見る限り、ほぼ全てがヒンドゥー教徒からのコメントのようだ。


女優としての数々の受賞歴があり、サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督作品への出演歴もあるスワラ・バスカル(Swara Bhaskar)は、女性としての立場から、『パドマーワト』を批判している。
https://thewire.in/film/end-magnum-opus-i-felt-reduced-vagina
(‘At The End of Your Magnum Opus... I Felt Reduced to a Vagina – Only’ 「あなたの傑作は、結局のところ…女性器に矮小化されてしまっている…ただそれだけに」)

この批評で、バスカルは、バンサーリー監督への手紙の形式を取って、まず多くの反対運動にも関わらず、犠牲者を出さずに公開にこぎつけたこと、そして出演者のすばらしい演技に祝意をあらわしている。
そのうえで、この映画に登場する女性は、男性の「性の対象」でしかないという観点からの批判を繰り広げている。
彼女は、全ての女性には自分の人生を生きる権利があり、性的なだけの存在では決してなく、仮にレイプ被害にあったとしても人生は生きるに値することを強調している(つまり、女性が敵への服従よりも死を選ぶジョウハルの描写を批判しているわけだ)。
いくら冒頭で「サティを美化しているのではない」と宣言しても、都市部では女子学生が、農村部ではアウトカーストの女性がレイプされ、必死の抵抗にもかかわらず殺害されている現代のインドで、このような描き方をするべきではないと舌鋒鋭く主張している。
また、ジョウハルが決して遠い過去の話ではなく、印パ分離独立の際にも、女性が他宗教の男性からの性暴力から逃れるために行われており、決して大昔の歴史の一部として美化できるものではないとも述べた上で、それでも監督の表現の自由のためであれば、自分もともに戦うことを宣言して、手紙を結んでいる。


こうした批評を読むと、『パドマーワト』のムスリムや女性の描き方に対する意見の違いは、そもそもの視座が違いが理由となっていることが明らかになったと思う。
すなわち、批判的に見ている人たちは、この物語を現代の物語として見ており、アラーウッディーンの描写を残虐なムスリムのステレオタイプとして捉えている。
一方で、映画の描き方に問題がないと考えている人たちは、この物語を歴史を舞台にしたフィクションとして見ていて、アラーウッディーンの描写は宗教に関係のない暴君の典型だと捉えている。

客観的に見ると、アラーウッディーンがムスリムであったことは紛れのない歴史的な事実だが、バンサーリー監督は、この映画の中で信仰をことさらに強調する描き方をしないよう、気を配っているように思える。
強烈な悪役として描く以上、表現者としての配慮をしたのは確かだろう。
その配慮が十分であったのか、それとも、そもそもスルタンを暴君として描くこと自体、今日のインドではすべきでないのか、という問いとなると、もはや誰もが納得できる答えを出すことは不可能だ。

また、この視座の違いは、インド社会の中で弱者の地位に甘んじているムスリムや女性としての立場に基づくのか、それとも彼らの危機感の対象である、ヒンドゥーもしくは男性としての立場に基づくのか、という違いでもある。

マイノリティーからの「自分たちが脅かされるのではないか」という異議申し立てに対して、マジョリティーの側が「心配には及ばない」と答えているという図式である。
とはいえ、マイノリティー側は、直接的な影響ではなく、ムスリムや女性により抑圧的な「風潮」が静かに強まることに対して危惧を抱いているのだろうし、そういった風潮がこの映画のせいで強まったのかどうかということについては、これまた測りようがない。
(マイノリティーの危惧にはそれだけの理由があり、映画の評価とは別の部分で根本的な対策が必要であることは言うまでもないが)

それにしても、インドで、一本の映画に対して、メディア上でここまで健全な、成熟した議論が行われているということに、うらやましさすら覚えてしまうのは私だけではないだろう。
議論好きで理屈っぽいインド人の、最良の部分が出ている感じである。

次回、後編では、こう言ってはなんだが、さらに面白い『パドマーワト』批判と批評をお届けします。
歴史的な観点からの批判と、さらに心理学的な観点からの驚愕の映画分析!
乞うご期待!
(つづく) 


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goshimasayama18 at 21:01|PermalinkComments(0)