写真集
2019年11月01日
インド写真集にやられる(その2) 三井昌志『渋イケメンの旅』
先日、銀座のソニーイメージングギャラリーに、三井昌志さんの写真展『渋イケメンの旅』を見に行ってきた。
これは、写真家の三井さんがインドじゅうをバイクで旅して出会った、渋くてカッコイイ働く男、すなわち「渋イケメン」を撮影した写真を集めた展示企画だ。

(画像は三井さんのウェブサイト「たびそら」よりhttp://tabisora.com/blog/exhibition2019-sony/)
三井さんは、「渋イケメン」シリーズの写真集をこれまで2冊発表しており(『渋イケメンの国』『渋イケメンの世界』)、このたびシリーズ3作目で、写真だけでなく文章も充実した『渋イケメンの旅』を発売したばかり。
三井さんによると、「渋イケメン」の定義はこうだ。
1.目力が強く、面構えに存在感がある
2.年齢を重ねることを恐れず、自然な「渋み」を漂わせている
3.外見には無頓着で、「異性にモテよう」という意識が希薄である
日本では絶滅危惧種の「渋イケメン」だが、インドでは肉体労働者や職人などに、このタイプの男たちがわりとたくさんいる。
知識や理屈だけではなく、経験と技術に裏打ちされた仕事ができる男だけが漂わせる、自信と貫禄。日本では絶滅危惧種の「渋イケメン」だが、インドでは肉体労働者や職人などに、このタイプの男たちがわりとたくさんいる。
決して暮らしぶりがよいわけでも、教養や学歴が高いわけでもないかもしれないが、彼らには「粗野な品格」とでも呼べるような雰囲気がある。
無駄口は叩かず、愛想笑いはせず、困っている人がいれば、助ける。
思えば、小さい頃に思い描いていた「大人」というのは、わりと渋イケメン的な人間像だった気がする。
思えば、小さい頃に思い描いていた「大人」というのは、わりと渋イケメン的な人間像だった気がする。
(大人になった私が果てしてそういう人間になれたかどうかは言わぬが花でしょう)
前回紹介した名越啓介さんの『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』が、「宗教的祝祭」を撮影したものであるのに対して、三井さんが撮影しているのは日々の「労働」。
俗世を捨てた修行者たちが集まる非日常的な世界ではなくて、市井を生きる人々の「日常」そのものだ。
クンブメーラのサドゥーたちがロックスターやラスタマンだとしたら、三井さんが撮影するのはさしずめブルースマン。
繰り返される日々に、すり減らされるのではなく深みを増して生きてきた男たちの写真は、ガキとくたびれたおっさんばかりの国になってしまった日本で見ると、率直に言って心に刺さる。
クンブメーラのサドゥーたちがロックスターやラスタマンだとしたら、三井さんが撮影するのはさしずめブルースマン。
繰り返される日々に、すり減らされるのではなく深みを増して生きてきた男たちの写真は、ガキとくたびれたおっさんばかりの国になってしまった日本で見ると、率直に言って心に刺さる。
今の日本にも熟練の労働者はいるだろうが、
我々が知識や目新しさ、人あたりの良さばかりをもてはやしてしまったせいで、渋イケメン的な男性はすっかり見なくなってしまった。
俺だって、例えば家の水道工事に来てもらうんだったら渋イケメンよりも愛想のいい人のほうがいいもの。
三井さんは、バイクでインド中を回り、小さな街の工場や、名もない村の畑や、道端のチャイ屋などで、「渋イケメン」を見つけては撮影したそうだ。
三井さんが撮った「渋イケメン」には、厳しさだけでなくどこか温かみを感じさせる表情の男たちが多いのも特徴だ。
三井さんが撮った「渋イケメン」には、厳しさだけでなくどこか温かみを感じさせる表情の男たちが多いのも特徴だ。
観光地でないインドの街や村には、外国人に対して本当に親切であたたかい人がたくさんいる。
コミュニティの構成員全員の顔が見えるような街では、悪い人間はなかなか生まれようがない。
代々同じように、生まれて、働いて、家族を作り、子孫を育て、そして死んでゆくという人生を、あるがままに受け入れて暮らしている人々。
旅人の感傷と知りつつも、古い時代のままに生きるインドの人々に姿には、やはりどこかほっとしてしまう。
しかし、都市部を中心に、インドの価値観も変わりつつある。
『渋イケメンの旅』(本のほう)のなかに、「そんなわけでインドでは、日本(も含めた東アジア圏)でよく見られるようなフェミニンな男はまったく人気がない。つるっとしてかわいいジャニーズ系のアイドルなんてものは存在しないし、もしいたとしても誰にも見向きもされないだろう」という文章が出てくるが、今ではインドでも韓流アイドルが流行している。
(例えば、BTSのライブ・ドキュメンタリー映画の"Burn The Stage"はインド40都市で公開され、人気を博したという。参考:「インドで盛り上がるK-Pop旋風!」)
90年代以降のIT人材のバブル的な需要増加や経済成長もあり、インドでも「汗の匂いのしない、センスの良い男たち」の存在感は大きくなるばかりだ。
無責任な外国人としては、古い価値観からの自由を求めて音楽で表現をはじめた若い世代のミュージシャンたちにも、いわゆる昔ながらの「渋イケメン」にも、それぞれにインドならではの言いようのない魅力を感じてしまう。
前回の記事で、『地球の歩き方』インド編の名文句、「私は実はあなたなのだ」を紹介したが、三井さんの視線を通したインドは、渋く、たくましく、やさしい。
インドの最新の音楽は、ネットを通してでも知ることができるが、渋イケメンたちに会うには実際にインドに行くしかない。そんなわけで、私は三井さんの写真を見るたびに、インドに旅したくなってしまうのだ。
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goshimasayama18 at 23:30|Permalink│Comments(0)
2019年10月29日
インド写真集にやられる(その1) 名越啓介『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』
少し前に、岡田悠さんという方が、「ねとらぼ」で「地球の歩き方」の独特の文体の「煽り文句」をランキング形式で紹介して話題になっていた。
その1位が、案の定というかインド編だったのだが、それはこんな文章だった。
インド。それは人間の森。木に触れないで森を抜けることができないように、人に出会わずにインドを旅することはできない。インドは「神々と信仰の国」だという。また、「喧騒と貧困の国」だともいう。だが、そこが天国だとすれば、僕たちのいるここは地獄なのだろうか。そこを地獄と呼ぶならば、ここが天国なのだろうか?インドを旅するキミが見るのは、天国だろうか地獄だろうか?さあ、いま旅立ちの時。インドはキミに呼びかけている。「さあ、いらっしゃい!私は実はあなたなのだ。」
20年以上前に私が初めて買った「地球の歩き方」にも、全く同じ煽り文句が掲載されていたと記憶している。
毎年の改訂をくぐり抜けてきた、歴史ある名文なのである。
毎年の改訂をくぐり抜けてきた、歴史ある名文なのである。
それにしても凄い文章だ。
たかが旅行なのに、旅人が見るのは天国か地獄。
「神々と信仰」というあまりにも大仰な世界か、「喧騒と貧困」という明らかに不快な場所か。
「神々と信仰」というあまりにも大仰な世界か、「喧騒と貧困」という明らかに不快な場所か。
ほとばしる非日常感。
そしてそれに続く文章がまた強烈だ。
「私は実はあなたなのだ」
自分探し系バックパッカー直撃の名文句である。
きっとリゾートやショッピングを求めてインドに行こうとしていた人は(そもそもいないかもしれないが)、そっとガイドブックを書架に戻すことだろう。
写真家がインドを旅するとしたら、何をどう切り取るだろうか。
マハラジャ、聖者、乞食。
聖地、市場、スラム。
祝祭、祭礼、儀式。
そして街を行き交う人々や動物、荷車やトラックやリクシャー。
インドは絵になる被写体には事欠かない国だ。
インドは絵になる被写体には事欠かない国だ。
写真家が撮るインド、それはほかでもない、写真家その人なのではないだろうか。
「私は実はあなたなのだ」
名越啓介の『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』は、写真家とインドとの真剣勝負が見られる1冊だ。
名越啓介は、アメリカのチカーノギャングやスクワッター(不法居住者)、フィリピンのごみ山スモーキーマウンテンのスカベンジャー(ごみを集めて生活する人々)らを撮影してきた写真家だ。
最近では、ブラジル系の住民が多く暮らしている豊田市の保見団地の人々とともに暮らし、撮影した写真集『Familia 保見団地』で、「写真の会賞」を受賞している。
今回彼が撮影した「クンブメーラ」は、インドの川沿いにある4箇所の聖地、アラハバード、ハリドワール、ナーシク、ウッジャインで、隔年で開催される、巨大な規模のヒンドゥー教の宗教行事である。
とくにアラハバードで行われる年は規模が大きく、一説には一億人ものヒンドゥー教徒が、聖地での沐浴のために集まるという。
名越は、「週刊プレイボーイ」編集者の近田拓郎を伴って、三たびアラハバードのクンブメーラを訪れた。
この『バガボンド』には、国じゅうから集まった人々の群れや動物たちの写真なども収められているが、何よりも目をひくのが「サドゥー」たちの写真だ。
名越啓介は、アメリカのチカーノギャングやスクワッター(不法居住者)、フィリピンのごみ山スモーキーマウンテンのスカベンジャー(ごみを集めて生活する人々)らを撮影してきた写真家だ。
最近では、ブラジル系の住民が多く暮らしている豊田市の保見団地の人々とともに暮らし、撮影した写真集『Familia 保見団地』で、「写真の会賞」を受賞している。
今回彼が撮影した「クンブメーラ」は、インドの川沿いにある4箇所の聖地、アラハバード、ハリドワール、ナーシク、ウッジャインで、隔年で開催される、巨大な規模のヒンドゥー教の宗教行事である。
とくにアラハバードで行われる年は規模が大きく、一説には一億人ものヒンドゥー教徒が、聖地での沐浴のために集まるという。
名越は、「週刊プレイボーイ」編集者の近田拓郎を伴って、三たびアラハバードのクンブメーラを訪れた。
この『バガボンド』には、国じゅうから集まった人々の群れや動物たちの写真なども収められているが、何よりも目をひくのが「サドゥー」たちの写真だ。
サドゥーとは、所有を放棄し、放浪と修行に生きるヒンドゥーの行者のことだ。
一部の者は、衣服すら身に着けず、裸に聖なる灰を塗りつけただけの姿で暮らしている。
豊かだった人、貧しかった人。
カースト、家族、仕事、人間関係。
カースト、家族、仕事、人間関係。
あらゆるしがらみを断ち切って、サドゥーとして生きる人が、インド・ネパールには500万人もいるという。
聖者のように崇められている者もいれば、観光客相手に祈りの文句を唱えて高額の布施をせびる詐欺師まがいの者もいる。
輪廻からの解脱と悟りを求めている者もいれば、夜逃げ同然の者もいる。
彼らはあらゆる秩序に縛られない。
大麻はインドでももちろん違法だが、彼らは瞑想のために、車座になってガンジャのパイプを回す。
髪を切らないサドゥーは、必然的にラスタマンやロックスターのような佇まいになる。
大麻はインドでももちろん違法だが、彼らは瞑想のために、車座になってガンジャのパイプを回す。
髪を切らないサドゥーは、必然的にラスタマンやロックスターのような佇まいになる。
天然のドレッドヘアー。
鋭い眼光。
修行者であることを意味するオレンジ色の衣。
名越は煩悩の数、108人のサドゥーを、憑かれたように白バックの前で撮影してゆく。
鋭い眼光。
修行者であることを意味するオレンジ色の衣。
名越は煩悩の数、108人のサドゥーを、憑かれたように白バックの前で撮影してゆく。
年老いたサドゥー。
若さの残るサドゥー。
片足立ちのサドゥー。
手を上げてポーズを取るサドゥー。
なぜか、豹柄の布を頭と体にまきつけたサドゥー。
どんな人生を歩んできたのか、どんな生活をしてきたのか、何を考えているのか。
何ひとつ手がかりすらないが、白バックによってアラハバードという聖地から切り離されたサドゥーは、ただその存在感だけを強烈に浮かび上がらせる。
若さの残るサドゥー。
片足立ちのサドゥー。
手を上げてポーズを取るサドゥー。
なぜか、豹柄の布を頭と体にまきつけたサドゥー。
どんな人生を歩んできたのか、どんな生活をしてきたのか、何を考えているのか。
何ひとつ手がかりすらないが、白バックによってアラハバードという聖地から切り離されたサドゥーは、ただその存在感だけを強烈に浮かび上がらせる。
ドレッドヘアー。
個性あふれるキメのポーズ。
誰ひとり同じでない僧衣の着こなし。
それは、サドゥーというあまりにも過酷な生き方から遠く離れて、まるでファッションスナップのようですらある。
強烈な存在感と、すかしたようなクールさが共存した、不思議で不穏な感覚。
それは、サドゥーというあまりにも過酷な生き方から遠く離れて、まるでファッションスナップのようですらある。
強烈な存在感と、すかしたようなクールさが共存した、不思議で不穏な感覚。
写真の合間に挿入される近田の文章もまた凄い。
なにか得体の知れない、ひりひりした緊張感が漂っている。
なにか得体の知れない、ひりひりした緊張感が漂っている。
彼はこの本に取り掛かる前、両親を相次いで失くしている。
だが、それだけではない、何か心の底のマグマのようなものを感じる文章だ。
だが、それだけではない、何か心の底のマグマのようなものを感じる文章だ。
ふつう、日本とは全く異なる価値観の国インドの、歴史ある巨大宗教行事について書くなら、その成り立ちや信仰上の意義を、少なからず咀嚼し、紹介しようとするだろう。
だが、近田はほとんどそれをしない。
クンブメーラのど真ん中に飛び込み、巡礼者やサドゥーの洪水のなかに身を置き、満足のいく撮影のための「もがき」だけが、焦燥感とともに綴られている。
世界最大の祝祭のど真ん中に、気鋭のカメラマンを伴って飛び込む情熱。
しかも、近田は仕事としてではなく、集英社から13日間の休暇を取ってまで、何かに衝き動かされるかのようにクンブメーラに来ているのだ。
この情熱は、どこから来て、どこに向かうのか。
この二人は、文化的・宗教的な文脈に溺れることなく、また、表層的な理解に甘んじることもなく、感性だけを武器にこの巨大な祝祭に対峙し、そこにぎりぎりの充実感を感じているようなのだ。
「知られざる祭礼の紹介」でも「絵になる写真の撮影」でもない、クンブメーラの巨大なエネルギーと、研ぎ澄まされた魂とがぶつかって飛び散る火花。
近田と名越が求めているのは、本当に純粋に、ただそれだけなのだ。
彼らは、きっと初めてひとり旅をしたときの初期衝動を、ほとんどそのままの形で抱え続けている。
二人とも私と同世代のはずだが、そのひりひりした感覚を維持したまま、発狂することも倦むこともなく、ペンやカメラを持ち、混沌のなかに飛び込んでゆく。
畏敬というよりも、恐怖にすら近い感情が湧き上がってくる。
ひとりひとりだと個性あるサドゥーたちが、群衆となって沐浴場を目指している写真もまた圧巻だ。
何が彼らを突き動かしているのか。
それは分からない。
分からないが、やはり名越、近田の二人と同じような、純粋だが得体の知れない衝動が、巨大なうねりとなって聖地サンガムに渦巻いていることが、伝わってくる。
サドゥーやクンブメーラ以外の写真も刺激的である。
子どもたちや、街のギャングを撮った写真のそれぞれが、不敵だったり、ユーモラスだったりする。
ひとりひとりだと個性あるサドゥーたちが、群衆となって沐浴場を目指している写真もまた圧巻だ。
何が彼らを突き動かしているのか。
それは分からない。
分からないが、やはり名越、近田の二人と同じような、純粋だが得体の知れない衝動が、巨大なうねりとなって聖地サンガムに渦巻いていることが、伝わってくる。
サドゥーやクンブメーラ以外の写真も刺激的である。
子どもたちや、街のギャングを撮った写真のそれぞれが、不敵だったり、ユーモラスだったりする。
インドの人々を、資本主義社会の抗えないひずみの中で、しぶとくしたたかに生活する個人として、我々の前に提示する。
彼がこれまでに撮影してきたスモーキーマウンテンの人々や、スクワッターと同じように。
インドの写真には、じつは意図的に作られた「型」があるのだが(例えば、静謐な空気の中で祈る老女、貧しくとも目を輝かせる子ども、肉体労働の合間にチャイを飲みタバコをくゆらす労働者、など)、名越はその「型」を外した、ありのままの人間を提示する。
写真の中のギャングやサーカス団、サドゥーたち。
そしてファインダーのこちら側にいるはずの名越啓介と近田拓郎から、つまりバガボンド(放浪者)たちから、「お前はどうなんだ?」「お前はどう生きているんだ?」と問いかけられているような気配を感じる。
名越啓介が切り取ったインド。
名越啓介が切り取ったインド。
近田拓郎の感じたインド。
そして私のインド。
「私はじつはあなたなのだ」
という問いかけが乱反射する。
「私はじつはあなたなのだ」
という問いかけが乱反射する。
『バガボンド インド・クンブメーラ聖者の疾走』から感じた感覚の正体をつかもうとして、よく分からないことばかり書いたかもしれない。
ひとつ言えるのは、クンブメーラのような伝統的で巨大な宗教行事を、歴史的文化的なものとしてではなく、純粋なエネルギーの放出として現代的な感性で受け止め、作品に転化する名越啓介の感覚は、いつも紹介している現代インドのアーティストたちとも通底しているのではないか、ということだ。
インドはやっぱり分からない。
だが、確実に、刺激的で、面白い。
(今回は文中敬称略にさせてもらいました)
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