レイヴ

2018年12月04日

ゴアトランス後のゴアの音楽シーン インドのEDM/レゲエ/ロック系フェスティバル!

前回前々回の記事で、1960年代から00年代中頃まで続いたゴアのサイケデリックな狂騒を、ヒッピー側とローカル側の双方の視点から取り上げた。
今回はその後のゴアのシーンの変遷と発展を書いてみたいと思います!

00年代のゴアは変化の10年だった。
ゴアのトランスパーティーが徐々に規制されるようになってきたのは、21世紀に入った頃からだったと記憶している。
この頃、インターネット上では「警察にパーティーが規制されて、今シーズンは全く開催できないみたい」とか「こないだのフルムーンは久しぶりにパーティーが開かれてた。完全にダメってわけでもないらしい」とか、刻々と変化するゴアの情報が飛び交っていた。
ゴアでも、ヨーロッパ同様に、野外でのフリーパーティー(いわゆるレイヴ)は年々規制が厳しくなり、きちんとした営業形態のクラブのような場所(トランスで言えば、Shiva ValleyやHilltopなど)や大規模な商業レイヴでなければパーティーが開けない時代がやってきたのだ。
良かれ悪しかれ、ゴアはもはや、外国人たちが無秩序な祝祭を楽しめる場所ではなくなってしまった。

ハードコアなパーティーフリークはゴアを去り、代わりに増えてきたのが、インドの富裕層の若者たちだった。
サラーム海上氏が著書で、「10年ぶりにゴアに行ったら、かかっている音楽は10年前と同じなのにセンスのいい欧米人はもういなくなって、騒いでいるのはインド人ばかり。ゴアはもう終わった。」(うろ覚え)といった趣旨のことを書いていたのも、この頃だ。
「ほっとけ。今までさんざん植民地扱いされてたところで、やっとインドの人たちが楽しめるようになったんだからいいじゃねえか」と思ったものだった。

インド人はとにかくダンスが好きだ。
急速な経済成長によって可処分所得が増え、インターネットの普及とグローバル化の影響で世界中の音楽に触れられるようになった新しい世代のインド人たちが、ボリウッド音楽では飽き足らずにより本格的なダンスミュージックに惹かれてゆくのは必然だった。
彼らにとって、ゴアは欧米文化の影響が強く、なにやら楽しそうなパーティーも行われている最先端のビーチリゾート。
関東近郊で例えるなら、ものすごくオシャレな湘南をイメージをしてもらえれば近い雰囲気かもしれない(よく分からんけど)。

そんな時代背景の中、2007年に、満を持してインド人の主催による大規模なダンスミュージックフェスティバルがゴアで開催された。
'Sunburn Festival'と名付けられたそのイベントの第一回目の様子がこちら。

このときの目玉はイギリスの大御所Carl CoxとSwedish House Mafiaの一員、Axwell.
新しい、そして最高に楽しい遊び場を見つけたインド人たちのこのうれしそうな様子!
トランスのレイヴでゾンビみたいに踊るヒッピーたちと比べると、このポジティブなエネルギーの発散は目を見張るものがある。
このフェスティバルのオーガナイザーは、起業家にしてEDM系のプロモーターであるShailendra Singhという人物。
第1回目のSunburnは、彼を中心に、MTV Indiaの元MCで、のちにインドで最初にして最大のEDMオーガナイザー'Submerge'を立ち上げるNikhil Chinapaと、バンガロールのDJであるRohit Barkerがホストを務める形で行われた。いずれも拡大する一方のインドEDMシーンの立役者だ。

初回の2007年の来場者は5,000人だったそうだが、回を追うごとに参加者は増加の一途をたどり、2010年には13万人が集結。
そして今ではSunburnは35万人以上を集めるアジア最大にして世界で3番目の規模(Tommorowland, Ultra Festivalに次ぐということ!)の超ビッグフェスとなった。


これまでに招聘した欧米のアーティストは、Carl Cox, Axwell(よほど気に入ったのか2007年以降毎年のように出演している)、Paul Van Dyke, Ferry Corsten, Afrojack, Paul Oakenfold, David Guetta, Tiesto, Swedish House Mafiaら。
テクノ、EDM系のアーティストに混じって、GMS, Infected Mushroom, Skazi, Domino, Riktam & Bansiらトランス系の面々が出演しているのはゴアトランスの名残と言えるだろうか。
また、地元インドのDJたちもPearl, Tuhin Mehta, Lost Storiesらが出演し、会場を盛り上げている。

Sunburn Festivalは2015年までゴアのビーチで開催されていたが、規模が大きくなりすぎたせいか、2016年からはマハーラーシュトラ州プネー(ムンバイから150kmほどの距離にある学園都市)に会場を移している。

その代わりにというわけではないが、2016年からゴアで開催されるようになったのが、レゲエ・ミュージックの祭典、Goa Sunsplashだ。

デリーのレゲエバンド、Reggae Rajahsによって始められたこの南アジア最大のレゲエフェスティバルは、今までにNaaman(フランス),  General Levy(UK), Brother Culture(UK)といったヨーロッパのレゲエ・アクトや、Johnny Osbourne, Mad Professor, Anthony Bといった本場ジャマイカのアーティストを招いて開催されている。
レゲエといえばトランスやジャムバンドと並んでヒッピーに人気の高かった音楽ジャンルだが、トランスに変わって現在のパーティーミュージックの主流となったEDMに比べると、インドでの人気はまだまだそこまでではない。
そのせいか、見たところ観客はインド人よりもヒッピー風の欧米人が多いようだが、出演者ではGereral ZoozやDJ MocityなどReggae Rajahsまわりの人脈や、Ska VengersDelhi Sultanate&Begum X、さらには地元ゴアのサウンドシステム10,000 Lions(サルデーニャ出身のPierre ObinoとReggae Rajahsのメンバーらで結成)など、インドのレゲエ・アーティストも多く見受けられる。
ちなみに2018年のプレパーティーには、日本人レゲエダンサーのCornbreadも参加していたようだ。
これはインドに限った傾向ではないと思うが、もはやレゲエがジャマイカンや黒人だけの音楽ではなく、普遍的なグッドタイム・ミュージックとして(あるいは闘争の音楽として)広く受け入れられているということの証左だろう。

ゴアでは他にもEDMやロック系のフェスが頻繁に行われており、2014年に開催されたNew Wave Musicfestというパンク/インディーロック系のフェスティバルには、日本の少年ナイフも出演している(彼女たちの様子は2:14頃から)。


かつてはヒッピーたちがサイケデリック・パーティーに興じたゴアは、いまではインドの若者たちが集う、インドで最もクールなフェスが数多く行われる街となった。
経済成長とそれにともなうサブカルチャーの発展によって、インドはゴアをヒッピーたちの植民地から取り戻した、と言ったら愛国的に過ぎるだろうか。

集まる人々こそ欧米のヒッピーからインドの音楽好きの若者たちに変わったが、ゴアはあいかわらず最高にゴキゲンな音楽を楽しむことができるリゾート地であり続けている。
これからこの街でどんな音楽文化が育まれてゆくのだろう。
もちろん、ゴアは排他的な街ではないのだから、我々外国人ツーリストも、その様子を一緒に楽しむことができる。
そのときは、地元への敬意も忘れずにね。


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2018年12月01日

サイケデリック・リゾート ゴアの表と裏(その2 2000年代以降のゴア)

前回の記事では、1960年代のアメリカで発生したヒッピームーヴメントが本国で下火になった後も、ゴアがヒッピーの楽園であり続け、90年代にはゴアトランスという独自のダンスミュージックを生み出した過程を書いた。
あまり曲の紹介ができなかったので、今回はまずゴアトランスの代表的なトラックをいくつか紹介してみます。

イギリス人アーティストSimon Posfordによるプロジェクト、Hallucinogenの名盤'Twisted'.
意味ありげなナレーションと効果音で始まって、エフェクトのかかった電子音が重なってゆく典型的なゴアトランスのサウンドだ。
 
ある時期までのゴアトランスはだいたいどれもこんな感じ。

こんなふうにヘヴィーなギターが入っている曲もあった。スウェーデンの女性アーティスト、Mirandaの'Real Rush'.
ギターのリフは1:55頃から。

今聴くとダサいって?ほっとけ…。

ゴアトランスの進化系。
よりダークでハードなロシアのParasense.
 
このころにはもうゴアとは呼ばずにサイトランス(Psy-Trance)とか呼ばれてた。
彼らは実はロシアのマフィアだという噂があったが、ゴアトランスにもっとピースフルなイメージを持っていた私は、マフィアって何だよ、って思ったものだ。

Simon Posfordとオーストラリア人のRaja Ram(本名Ronald Rothfield)によるプロジェクト、Shpongleはダンス/パーティーミュージックというよりもリスニングミュージックとしてのトランスを追求したサウンド。
 
生楽器やヴォーカル、ダンサーも交えたパフォーマンスにも定評がある、また別の方面に進化したトランスミュージックだ。

と、ご覧のように、いろんな国のアーティストたちがいる。
60年代のヒッピームーヴメントのロックアーティストはアメリカ中心だったが、90年代のゴアトランスの時代にはほんとうに多様な国籍のアーティストが活躍していた。
そもそも、この頃トランス系のパーティーに集っていた人たちは、もはやヒッピーとは自称せず、「レイヴァー(Raver)」と名乗っていた。
ゴアトランスの音楽的なルーツの一つはジャーマン・トランスだし、アーティストやファンで目立っていたのはイスラエル人トラベラーたちだった(イスラエル系のアーティストにはAstral Projection, Miko, Oforiaらがいる)。
他にもフランスのTotal Eclipse、イタリアのEtnica、デンマークのKoxboxがいたし、日本人でもTSUYOSHIやUbar Tmarが活躍していた。
まだインターネットもようやく産声をあげたばかりの1990年代前半だったが、この時期のトランスミュージックは本当にグローバルなムーヴメントだったのだ。

グローバルとはいっても、いままで紹介してきたアーティストに地元のゴアやインドの出身者は一人もいない。
ゴアの名を名乗りながらも、グローバルではあってもローカルではなかったのが、ゴアトランスだった。
果たして、ゴアの地元の人々は、彼らにしてみたら得体のしれない音楽に踊り狂うレイヴァーたちに対して、どのような印象を持っていたのだろうか。

「小さい頃、親からはヒッピーには絶対に近づくなって言われてたよ。彼らのことは大嫌いだ。臭いし、汚いし、ドラッグをやってめちゃくちゃなことをするし」
ゴア出身者にヒッピー系のトラベラーの印象を訪ねたところ、この答えが返ってきた。
彼は生粋のゴア人で、祖父母とはポルトガル語、両親とは英語、地元の友達とはコンカニ語(ゴアの地元言語)で話していたというエリートだ。
彼の意見は、ある程度の階層のゴア人の一般的な感覚と言って良いだろう。

レイヴァーにとってみれば、宿のおじちゃんは優しいし、パーティー会場に行けば地元のおばちゃんや子どもたちがチャイやドリンクを売っている。
ビーチの近くでヒッピー好みのシヴァ神やサンスクリット文字がプリントされたタイダイのTシャツを売っているのもインド人だし、ゴアトランスに興味を持ってDJの真似事を始める地元の若者もいる。
自分たちは歓迎されている、少なくとも許容されていると感じていたヒッピーやレイヴァーも多かっただろう。

だがしかし、ヒッピーの流入につれ、ゴアではドラッグの売買が盛んになり、良からぬ連中が幅を利かすようになった。
外国人ツーリストがたちが、かつては穏やかだった地元の浜辺で、法律もモラルも無視した乱痴気騒ぎを繰り広げるようになった。
そう、ヒッピーもレイヴァーも、まっとうな地元の人々にはひどく嫌われていたのだ。
今まで、ローカルの視点からこれらのムーブメントが語られることは極端に少なかったが、今後歴史を振り返るときに、このことは覚えておいたほうが良い。

そもそも、90年代にゴアでトランスパーティーが隆盛した理由のひとつに、当時のヨーロッパの社会背景がある。
当時、レイヴはゴアなどのリゾート地(他にはタイのパンガン島、スペインのイビサ島など)のみならず、西ヨーロッパ全体に広まったムーヴメントだった。
若者たちはサウンドシステムを野外に持ち出し、音楽とドラッグで自由を謳歌した。
(60年代ヒッピーカルチャーを象徴的するドラッグはLSDとマリファナだったが、90年代のレイヴカルチャーを象徴するドラッグはエクスタシー(MDMA)だ)
こうした動きに対して、当然当局側は規制を強めていくことになる。
イギリス政府は、レイヴによる薬物の蔓延、秩序の紊乱、騒音などを憂慮し1994年に「クリミナル・ジャスティス・アクト」という法案を施行した。
これは「野外で『反復するビート』を持つ音楽を10人以上で聴いている集団を解散させる権限を警察に与える」という条文を持った、実質上の「レイヴ規制法」だ。
期を同じくして、他のヨーロッパ各国でも、野外パーティーの開催を制限する風潮が強まってくる。
そんな中で、若者たちが自国の法を逃れ、自由と無秩序を謳歌できる場所が、ヨーロッパを遠く離れたインドのゴアだった。

日常のモラルやルールを忘れ、祝祭の時間を過ごす。
パーカッシブな音楽に合わせて夜通し踊り、生を肯定する。
こうした有史以前から行われているような人間の根源的な行為を、国家が管理、制限して良いのか。
真剣に考えるべき課題ではあるが、これは欧米社会の中の問題で、遠く離れたゴアの人々には関係のない話だ。

レイヴァーたちはドラッグを持ち込み、我が物顔で振る舞い、浜辺で夜通し騒ぎ、ヒンドゥーのイメージをサイケデリックの文脈に盗用した。
ゴアのドラッグの取引を取り仕切っていたのはロシアのマフィアで、警察とも繋がっていたという話を読んだことがある(前述のParasenseと関係があるかどうかは、知らない)。
まっとうな地元民からしたら、得体の知れない連中が地元の文化も法律も無視した大騒ぎを繰り広げた挙句に、外国のマフィアが違法薬物を売りさばいているとしたら、とても許容できる話ではないだろう。

欧米のヒッピーやレイヴァーたちがゴアに求めたのは、無制限の自由と温暖な気候、物価の安さだけだった。
愛と平和を訴え、資本主義社会に対する抗議を表明していたヒッピーたちがゴアでしていたことは、自国でできない逸脱行為を発展途上国に求めるという、きわめて植民地主義的なものだった。
結局のところ、侵略戦争に反対し、物質主義社会に疑問を投げかけていた彼らは、先進国の経済力を背景に地域の治安を乱す侵略者だったのだ。

いよいよ本格的にゴアでもパーティーの取り締まりが始まると(2000年以降だったと記憶している)、レイヴァーたちは、「ゴアのシーンは終わった」とかいって、三々五々、別の街に旅立っていった。
彼らは、決してゴアという街そのものを愛していたわけではなかったのだ。
こうして、名実ともに、ゴアトランスは終わりを告げた。

2010年代に入り、かつてのようにゴアでゲリラ的にトランスパーティーが開かれることはなくなったが、今でもゴアにはオールドスクールなトランスをかけている店がある。
ゴアにおけるヒッピーカルチャーの中心地、アンジュナ・ビーチにあるShiva Valleyもそのひとつだ。

この映像のYoutubeのコメントのいくつかを見ると「こいつらは俺たちの国に来るべきじゃない。さっさと追放されるべきだ」とか、「まるでゾンビみたいな連中だ。こんな奴らを見たくはないね」といったものもちらほら。

欧米サブカルチャーの文脈では、平和や自由といった普遍的な価値観を愛する旅人といったイメージのあるヒッピーやレイヴァーだが、反面、彼らは地元の人々にとっては植民地主義者的な存在でもあったということは、覚えておくべきことだろう。

ヒッピーカルチャーやトランスのムーヴメントに触れられるとき、ゴアの「まっとうな」ローカルからの視点がこれまであまりにも欠けていると思ったので、この記事を書いてみました。
もちろん、ゴアトランス/レイヴカルチャーがインドに残したのはこうした負の側面だけでなく、とくに音楽文化については非常にポジティブな影響も与えている。
だが、それはまた別のお話。
次回じっくり紹介したいと思います。
それでは!

(つづき)
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2018年11月24日

サイケデリック・リゾート ゴアの表と裏(その1)

インドのゴアといえば、20世紀のサイケデリック文化に多大な影響を与えたインドの港町。
60年代から欧米のヒッピーたちのデスティネーションとして人気を集め、90年代にはゴア・トランスという独特のダンスミュージックを生み出した、サイケデリックムーブメントの聖地ともいえる土地だ。
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今回は、欧米の音楽シーンと地元の人々の双方から見たゴアのサイケデリックカルチャー史を見てゆきたいと思います!

話は大航海時代にさかのぼる。
インド西部の港町ゴアは、16世紀前半にポルトガル人によって征服されると、ポルトガルのアジア貿易の拠点として発展し、17世紀には「東洋のローマ」と呼ばれるほどの栄華を誇った。
その後もインドに併合される1961年まで、ゴアはポルトガル領としての歴史を重ねてきた。
ここ日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの遺体が安置されているのもこの街の教会だ。
ゴアでは今でも人口の30%ほどがクリスチャン(カトリック)で、街には植民地風の教会や、ヨーロッパ風のサービスを提供するホテルやレストランが並んでいる。
温暖で美しいビーチがあり、欧米人にも過ごしやすい環境が整ったゴアは、欧米のツーリスト達がもっとも心地よく過ごせるインドの街になった。

ここで話の舞台は1960年代のアメリカに移る。
ベトナム戦争が激化すると、欧米では若者たちによる反戦運動が巻き起こった。
おりしもビートルズを始めとするロックミュージックが人気を集め、またLSDのような幻覚作用がある新しいドラッグが台頭してきた時代。
若者たちは、戦争に反対して愛と平和と自由を訴え、その象徴的行為として幻惑的なサウンドのロックを聴きながらドラッグに耽溺するようになる。彼らはヒッピーと呼ばれた。
ヒッピームーヴメントが頂点に達したのが1969年にニューヨーク州で開催されたウッドストックフェスティバルだ。主催者側の予想を大きく上回る40万人もの若者が集まり、会場はコントロールが効かない完全な無政府状態と化したが、大きな混乱も起きず、観衆は助け合いながらロックと自由を謳歌した。
ウッドストックは反体制文化の理想郷となり、ヒッピームーブメントが頂点を迎えた瞬間だ。
ヒッピームーブメントをものすごく簡単に言うと、平和思想とロックとドラッグ文化が融合したものと言えるだろう。

この時代、ドラッグ同様に彼らの「知覚を広げ、意識を覚醒させる」手段として人気を集めたのがヨガやインド思想だ。
ビートルズがヨガ行者マハリシ・マヘシュ・ヨギに傾倒し、インド北部の街リシケシュを訪れたのもこの頃だ。

多くの若者たちが、物質文明にまみれた欧米社会からドロップアウトし、輪廻転生やヨガといった精神文化の生きる神秘の地、インドを目指した。
夏の間はリシケシュやマナリというヒマラヤのふもとの街で過ごしたヒッピーたちが、冬になると集まった街がゴアだった。
温暖な気候でヨーロッパ文化が根づいたゴアは過ごしやすく、ヒッピーの溜まり場に最適な環境だった。
薄汚れた長髪の欧米の若者達は、安宿に長逗留してはゴアのビーチでマリファナとパーティーに耽った。
日本のバックパッカーの間では、一つの街にどっぷりとはまってしまい抜け出せなくなってしまうことを「沈没」というが、ゴアのヒッピーたちこそ、近代バックパッカー史で最初の沈没者たちだったかもしれない。

その後、発祥の地アメリカでのヒッピームーヴメントは長くは続かなかった。
ジョン・レノンは早々にマハリシに幻滅し(理由は諸説ある)、彼を批判する楽曲'Sexy Sadie'を発表した。
ウッドストックの4ヶ月後にローリング・ストーンズがオルタモントで開催したフリーコンサートでは警備を担当したヘルズエンジェルズによる殺人事件が発生し、愛と平和の理想は早くも綻びを現した。
1970年に入ると、ムーヴメントの中心を担ったジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンが相次いでドラッグで死去し、翌年にはドアーズのジム・モリソンもこの世を去った。
残されたミュージシャン達も人気ゆえに商業主義に取り込まれ、音楽は反体制の象徴ではなく、商品として消費されるようになった。
さらに1973年のオイルショックにより社会が不況に陥ると、楽天的で理想主義的なヒッピームーヴメントは、完全に終りを告げることになる。
物質的な価値観からの脱却を訴えたムーヴメントが、経済の不況で終焉するというのはなんとも皮肉な話だった。

だがしかし、欧米から遠く離れたゴアでは、ムーヴメントは簡単には終わらなかった。
欧米社会に嫌気がさし、自由と冒険を求めた若者達は、ゴアの雰囲気を愛し、その後も次々とこの街にやってきた。
ヨーロッパ文化の影響の強いゴアは、ドロップアウトした欧米人にとって過ごしやすい街であり続けたのだ。
ビーチは心地よく、食べ物も口に合い(欧米風の料理が手軽に食べられる)、ドラッグも手に入りやすかった。
彼らが愛聴していた音楽と言えば、ピンク・フロイドのようなサイケデリック・ロック、レゲエ、そして、グレイトフル・デッドに代表されるジャム・バンドたちだった。

ところが、1990年代に入り、欧米の音楽シーンでテクノやハウスが台頭してくると、ゴアのパーティー・ミュージックも一変する。
カリフォルニア出身のGoa Gilやオーストラリア出身のRaja Ramら(名前からしてインドかぶれ丸出し!)が、サイケデリックな「曲がった音」や民族音楽的な要素をテクノに導入し、ヒッピー系トラベラーたちの熱狂的な支持を受けた。
この新たな電子的サイケデリック・ミュージックは、ゴア・トランスと呼ばれた。
彼らに続くJuno Reacor, Astral Projection, Space Tribe, Hallucinogenらの活躍により、またたく間に世界中にアンダーグラウンドなシーンが形成される。

これが当時のゴアでのパーティーの様子。

ゴアにはいくつもの美しいビーチがあるが、とくにアンジュナ・ビーチにはヒッピー系のトラベラーが多く滞在し、盛んにパーティーが行われた。
ゴアトランスのムーヴメントはその後世界中に波及。
90年代末には日本にも流入し、山間部のキャンプ場などでレイヴ(野外パーティー)が開催されるようになった。

正直に書くと、私もあのころのゴアトランス/レイヴカルチャーに魅力を感じていた一人だ。
あのころの日本のレイヴシーンは本当に純粋で、面白かった。

初めて行ったのは、愛知県の山奥で行われたDJ Jorgが出演したレイヴだった。
会場についた夕暮れの時間帯には、ロングセットで知られるJorgは穏やかなアンビエントをプレイしていた。
そこから夜の闇が濃くなるのに合わせて、物語を紡ぐように盛り上げてゆき、フルオンに持ってゆく彼のDJは本当にすばらしかった。
都会を離れて自然の中で音楽に陶酔し、夜明けまで踊ったり、疲れたら森林の中で回るミラーボールを眺めてチルアウトしたりという経験は、軽く人生観を変えるくらいのインパクトがあった。
この文化が広まれば世の中は今の何倍も素晴らしくなるのにと本気で思っていたものだ。
当時こんなふうに思っていたのは私だけではなく、オーガナイザーたちも単なるパーティー以上のものを作ろうと様々に工夫をこらしていた。
本当の意味でオルタナティヴな文化を創造するため、環境への配慮にとことんこだわったり、世界の民族音楽のアーティストを出演させたり、南米のシャーマンを招聘したレイヴもあった(そのイベントには行ってないのだけど、シャーマンは一体何をやったんだろう)。
オーディエンスたちも自然やカルチャーへの敬意を持っていて、ゴミを拾ったり持ち帰ったりしていたし、会場はピースフルな雰囲気に満ちていた。

だがしかし、楽しい時代は続かない。
その後、日本ではイベントの商業化が進み、客層も楽しんで騒ぎたいだけの人たちが増えてきて、レイヴ本来の精神は忘れられていった。
愛好家が増えるにつれ、お祭り騒ぎだけを求める人たちが増えてきたのだ。
やがてレイヴカルチャーは、新しい楽しみを見つけることに関しては天才的なギャル文化に吸収されてしまい、ドラッグの問題も報道されるようになり、すっかり反社会的なイベントというイメージで捉えられるようになる。
ゴアでも、薬物の蔓延や風紀の悪化が問題視され、当局によりレイヴの開催が厳しく制限されるようになってしまい、ゴアトランスのシーンは衰退していった。

音楽的な意味での衰退の大きな原因となったのは、日々進化するダンスミュージックのなかで、極めて形式化されたスタイルを持つゴアトランスそのものが新鮮さを失い、陳腐化、形骸化していったことだ。
かつては深淵な精神性とサイケデリアを表現していたゴアトランスのサウンドは、メッキが剥がれたかのように輝きと刺激を失っていった。
民族音楽の導入やヒンドゥーの神々を用いたアートワークは、その神秘的な魔術を失い、安っぽいエキゾチシズムの盗用と感じられるようになった。
精神の高揚をもたらした「曲がった」サウンドは、手っ取り早く盛り上げるための陳腐で安易な音作りと聴こえるようになった。
要は、ゴアトランスはダサくなったのだ。

こうして、ゴアトランスの季節は終わっていった。
トランスミュージックそのものは、その後もより大衆的なエピックトランスや、ゴアトランスをよりダークでアグレッシヴにしたサイケデリック・トランスなどに分化し、EDMが台頭するまでは大規模な商業レイヴや野外パーティーなどで一定の人気を誇った。
だがムーヴメントの精神や音楽的なクリエイティヴィティーはもはや死んでしまっていたのだ。

長くなったので今回はここまで!
次回はまた別の視点、ゴアのローカルから見たムーヴメントと、その後のゴアの音楽シーンを紹介します。
(続き)


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