ボリウッド

2020年12月10日

インドのアニメファンによるYouTubeチャンネル"Anime Mirchi"の強烈すぎる世界!


これまでも何度か特集しているとおり、インドにおいて日本のカルチャーは一定のファン層を獲得している。
ここでいう「カルチャー 」というのは、主にアニメのことで、インドのインディーミュージシャンの中には、日本のアニメ作品からの影響を公言しているアーティストがたくさんいるのだ。




そんなインドのアニメファンが運営している、かなり面白いYouTubeチャンネルを発見してしまった。
それが、今回紹介するこの'Anime Mirchi'である。
('Mirchi'とはインド料理にもよく使われる唐辛子のこと)


このチャンネルの素晴らしいところは、単にアニメのみを扱っているのではなく、インドのインディペンデント・ミュージックと日本のアニメ・カルチャーの融合にも積極的に取り組んでいることである。

中でも唸らされたのが、この'Indian lofi hip hop/ chill beats ft. wodds || Desi lofi girl studying'と題された動画だ。


Lo-Fiヒップホップは、創成期の代表的ビートメーカーである故Nujabesが、アニメ作品『サムライ・チャンプルー』のサウンドを手掛けたことなどから、アニメとのつながりが深いジャンルとされている。
とくに、パリ郊外に拠点を構えるYouTubeチャンネル'ChilledCow'が、"lofi hip hop radio - beats to relax/study to"に勉強中の女の子のアニメーションを使用してからは、ローファイサウンドと日本風のアニメの組み合わせがひとつの様式美として確立した。

Lo-Fi HipHopについてはこのbeipanaさんによる記事が詳しい。
 
この「勉強中の女の子」(当初はジブリの『耳をすませば』 のワンシーンが使われていたが、著作権の申し立てによってオリジナルのアニメに差し替えられた)は、国や文化によって様々なバージョンが二次創作されており、Anime Mirchiが作成したのはそのインド・バージョンというわけである。
(インド以外の各国バージョンはこの記事で紹介されている)

さらに面白いところでは、「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」をヴェイパーウェイヴ、シンセウェイヴ的に再構築するという狂気としか思えないアイディアを実現したこんな音源もアップロードされている。

ヒンディー語版?のドラえもんのテーマ曲をリミックスした映像は超ドープ!


ここ数年話題となっているヴェイパーウェイヴというジャンルを簡単に説明すると、「80年代風の大量消費文化を、追憶と皮肉を込めて再編集したもの」ということになるだろう。
「シンセウェイヴ」は、同様のコンセプトでシンセサウンドとレトロフューチャー的なイメージが主体となったものだ。
これらの動画のサウンドを手掛けている'$OB!N'というアーティストは相当なアニメファンらしく、あの『こち亀』の主人公の両津勘吉をテーマにしたこんな曲を自身のSoundcloudで発表していたりもする。
$OB!N · Ryotsu
他にも、このAnime Mirchiには、アニメのなかのドラッグ的な効果を感じるシーンを集めた'Anime on Ganja'なんていう想像の斜め上すぎるシリーズの動画もアップされている。

こんなふうに書くと、サブカルチャーをこじらせたマニアックなYouTubeチャンネルのようなイメージを持つかもしれないが(まあ、それは間違いないんだけど)、このチャンネルが面白いのは、アニメだけではなく、ボリウッドやハリウッドなどの王道ポピュラーカルチャーにも目配りができていることである。
例えば、昨年日本でも公開された『ガリーボーイ』や『ロボット2.0』の予告編そっくりの動画を、アニメ映像をマッシュアップして作り上げるなんていう、これまたぶっとんだアイディアの動画もアップされているのだ。
オリジナルの予告編と合わせて紹介してみたい。

これは『DEVILMAN crybaby』の映像で作った、ボリウッドのヒップホップ映画『ガリーボーイ』予告編のパロディ。


こっちがオリジナル。


こちらは『ジョジョの奇妙な冒険』をマッシュアップして作ったスーパースター、ラジニカーント主演のタミル語映画『ロボット2.0』の予告編。


そしてこちらがオリジナル。

映像のシンクロ率は『ガリーボーイ』ほどではないが、こちらもかなりの完成度。もしかすると、『ガリーボーイ』『ロボット2.0』という映画のセレクトも、日本公開された作品を選んでくれているのかもしれない。

同様の発想で、アニメの映像を使って『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の予告編を作ったり、「もしアニメがボリウッドで制作されたら」というシリーズを作ったりと、とにかく独特すぎる動画が盛り沢山。
さらに凝ったところだと、『バーフバリ 伝説誕生』の映像を編集して、アニメ映画の予告編風の動画を作っていたりもする。
 
カタカナ入りの字幕も全てこの動画のために作成されたものだ。
『バーフバリ』はコアなアニメ作品同様、コスプレまでする熱心なファンを持つ映画だが、こうして見てみると、かなりアニメ的なシーンや演出が多いということに気づかされる。
この映像は、『バーフバリ』の日本で大ヒットし、新しいファン層を開拓したことに対するトリビュートとして制作されたものだそう。

インドのインディーミュージックの紹介を趣旨としているこのブログとしては、最近のアーティストの作品に日本のアニメの映像を組み合わせた動画に注目したい。

これはSmg, Frntflw, Atteevの共作によるEDM"One Dance"に新海誠の『言の葉の庭』の映像を合わせたもの。


デリーのラッパーデュオSeedhe MautとKaran Kanchanの"Dum Pishaach"にはHELLSINGの映像が重ねられている。

この2曲に関しては、オリジナルのミュージックビデオも(ほぼ静止画だが)アニメーションで作られており、"One Dance"はSF風、"Dum Pishaach"はアメコミと日本のアニメとインドの神様が融合したような独特の世界観を表現している。


"Dum Pishaach"のビートメイカーKaran Kanchanは大のアニメ好き、日本カルチャー好きとしても有名なアーティストだ。


著作権的なことを考えると微妙な部分もあるが(というか、はっきり言ってアウトだが)、ここまで熱心に日本のカルチャーを愛してくれて、かつ私が愛するインドのインディーミュージックにも造詣が深いこのチャンネル運営者の情熱にはただただ圧倒される。
インドにおけるジャパニーズ・カルチャーと、日本におけるインディアン・カルチャー。
いずれもコアなファンを持つ2つのジャンルをつなぐ'Anime Mirchi'に、どうかみなさんも注目してほしい。


'Anime Mirchi' YouTubeチャンネル


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goshimasayama18 at 20:06|PermalinkComments(0)

2020年04月01日

ヒンディー語映画『きっと、またあえる』はボリウッド映画の幕の内弁当だ

ヒンディー語映画『きっと、またあえる』が4月24日に公開になる。(シネマート新宿、シネマート心斎橋ほか)

新型コロナウイルス流行につき、公開延期となっていましたが、8/21(金)公開が決定しました!

先日行われた試写会でこの映画を拝見することができたので、今回は私なりに紹介&解説してみます。

映画公式Twitter:



この映画の原題である"Chhichhore"は、ヒンディー語で「軽薄な、お気楽な(人)」という意味らしい。
インド映画ファンならお気づきの通り、『きっと、またあえる』という邦題は、2009年にインドで大ヒットした『きっと、うまくいく』(日本では2013年に公開。原題"3 Idiots")、 そして2016年に公開されインド映画の世界興行収入歴代1位を記録した『ダンガル きっと、つよくなる』(日本では2018年に公開。原題"Dangal". いずれもヒンディー語)にあやかったものだ。
安易な命名と言いたくなるところだが、これにはちゃんと(?)理由がある。

この作品は、『ダンガル きっと、つよくなる』でもメガホンを取ったニテーシュ・ティワーリー監督によるもので、なおかつ『きっと、うまくいく』と同じ、インドが誇る名門工科大学IIT(をモデルにした大学)を舞台にした青春コメディ・ヒューマンドラマなのである。
ストーリー的なつながりがあるわけではないが、先行の大ヒット2作品を意識した邦題をつけたくなるのもわからないでもない。
主演は『きっと、うまくいく』と同じラージクマール・ヒラニ監督の『PK』でパキスタン人青年役を好演したスシャント・シン・ラージプート。
ヒロインに『愛するがゆえに(原題"Aashiqui2")』や『サーホー』のシュラッダー・カプール。
他にも実力派のキャストたちが、個性的なキャラクターの学生時代と40代を見事に演じ分けている。


(以下のあらすじは、クライマックスや具体的なエピソードには触れずに書いたつもりですが、映画を見るまでストーリーを知りたくないという方は、2本めの動画の下にあるレビューまで飛ばしてください。)

日本版の予告編は、楽しくてなおかつ感動的な雰囲気がとてもよく伝わってくる。





あらすじ
アルニット(通称、"アニ")は、名門ボンベイ工科大学卒業のエリートビジネスマン。
妻と別れ、今では一人息子のラーガヴと豪邸で二人きりで暮らしている。
自信家のアニと違い、受験生のラーガヴは気弱な性格で、「負け犬」と呼ばれることを極度に恐れていた。

ところが、「あるできこと」をきっかけに、ラーガヴは脳に障害を負い、昏睡状態に陥ってしまう。
アニの完璧主義的な子育てが、知らず知らずのうちにラーガヴを追い詰めていたのだ。

アニは、寝たきりになった息子に、自分が学生時代に「負け犬の集まり」と呼ばれていた寮で暮らしていた話をして元気づけようとする。
成功者であり、強い父親である自分も、かつては「負け犬」と呼ばれていたことを伝えれば、弱気な息子もきっと自分に自身が持てるはず。

挫折や弱みを息子に見せたことがなかったアニは、寮生活の思い出話を信じさせるために、一癖も二癖もある学生時代の仲間たちを久しぶりに呼び集める。

エロで頭がいっぱいのセクサ、汚い言葉遣いでは右に出るもののいないアシッド、マザコンのマミー、アル中の「へべれけ」、そしてスポーツ万能だったがすっかり「負け犬寮」暮らしが板についてしまったデレク。
かつて「負け犬」と呼ばれていた彼らは、今ではそれぞれが大企業の重要なポジションについて活躍していた。
彼らは旧友(アニ)の一大事に仕事を休んで駆けつけ、アニとともに寮での思い出をラーガヴに語りかける。

学生時代、彼らが暮らしていたボロボロの寮"H4"は、「負け犬たちの寮」と呼ばれていた。
ことあるごとに彼らを馬鹿にするエリート集団の寮"H3"を見返すために、"H4"の仲間たちは寮対抗の競技大会"GC"に勝負をかけることにした。
クリケット、バスケットボール、卓球、カバディ、バドミントン、陸上、チェス、キャロム…、スポーツからテーブルゲームまで、30もの種目が行われるこの大会に、"H4"の「負け犬たち」はそれぞれの特技を活かして挑んでゆく。
…そして、恋の思い出も。
アニは、男子が多い理系大学で「ハレー彗星級」の美女だったマヤと恋に落ちる。
アニとマヤの恋は実り、卒業後に家庭を築くことができたものの、ラーガヴが生まれたのちに、価値観の違いから別居してしまっていた。
思い出話をしてゆくうちに、卒業後、競争社会でエリートとして暮らしてきた旧友たちの気持ちに、少しづつ変化が訪れる。

そして、アニとマヤの関係にも、ぬくもりが戻り始めてゆく。
ラーガヴのために必死で思い出話を語る、かつての「負け犬たち」。
やがて父(アニ)の思い出話と、息子(ラーガヴ)の容体は、思いもしなかった展開を迎える…。




インド版の予告編は、よりコミカルさが全面に出た仕上がりになっている。



主人公アニの学生時代と現在を行き来しながら進むこのストーリーには、親子の確執と邂逅、カレッジでの青春、憧れの女性との恋愛、ライバルとの争い、そして「本当に大切なものは何か」という問いかけといった、インド映画の定番テーマがぜいたくに、かつバランスよく盛り込まれている。
登場人物は多いが、それぞれに個性が強くキャラが立っていて、まさにインド映画の幕の内弁当のような作品だ。

寮生活のエピソードは、じっさいにIITボンベイ校の卒業生であるティワーリー監督の実体験に基づいているという。
ストーリーで大きな意味を持つ寮対抗の競技大会'GC'は、実際にIITで行われている行事だそうで、登場人物たちの名前やキャラクターも、監督の実際の友人がもとになっているとのことだ。
ムンバイのような大都市の学生文化は、インドの若者たちのカルチャーの中で大きな位置を占めており、例えばこのブログでいつも紹介しているようなインドのインディーミュージシャンたちも、カレッジで行われるフェスティバルを重要な演奏の機会としている(映画『ガリーボーイ』に出てきたカレッジでのライブシーンを思い出してみてほしい)。

カーストに基づく身分差別が知られるインドだが、都市部では「学歴の差」がカーストに代わる新しい社会格差として定着するという現象が起きている。
加熱する受験戦争やエリート主義に対する異議は、『きっと、うまくいく』や『ヒンディー・ミディアム』といった映画でも取り上げられた人々の共感を呼ぶトピックで、ティワーリー監督も「学生時代に負け犬だったとしても、その後の人生で成功できる」というテーマをこの作品の中心に据えている。

試写会で配布されたプレス資料に松岡環先生が書いていたが(すばらしい文章だったので、きっと同じものがパンフレットにも載ることと思う)、父アニの学生時代だった1992年は、インドが経済開放政策を導入し、飛躍的な経済成長の幕開けとなった時代だ。
今では贅沢な暮らしをしているアニや同級生達は、卒業後、こうした経済成長の波に乗って成功を納めたのだろう。
しかし、アニの家に生まれた息子ラーガヴは、成功の象徴である恵まれた生活が日常になってしまっており、受験に失敗してこの暮らしから落ちこぼれることを極度に恐れている。
こうした「ひとまず豊かな暮らしは出来ているが、親の世代のような社会の成長はもう望めず、努力を怠ればきっと転落してしまう」という感覚は、日本の若者にも共感できるものだろう。

昨今のちょっと社会派のボリウッド作品によくある「あまり踊らない系の映画」だが、ここぞという場面でド派手なミュージカルシーンをぶち込んで大切なメッセージを伝える演出は、インド映画ファンもきっと満足できるはず。
ヒロインの登場シーンやクライマックスなどでは、いかにもインド映画らしいけれん味たっぷりの演出が楽しめる一方で、まるでヨーロッパ映画のような鮮やかだが落ち着いた色彩の映像も美しい。
垢抜けないけれどレトロでどこか愛らしい、90年代のムンバイの学生たちのファッションも見どころだ。
(シュラッダー・カプールが演じるマヤだけは、時代を考えるとオシャレすぎるような気がするが)

大人が見れば旧友に会いたくなる、小さい子を持つ親が見れば子どもに優しくなれる、受験を控えた子どもたちが見れば少し気持ちが楽になる、そんな温かい映画なので、こんなご時世ではありますが、ぜひみなさんもご覧になってみてはいかがでしょう。

ところで、ストーリーにはいっさい関係のない話だけど、ボロボロの寮という設定の'H4'が、ちょうど同じ時代にインドひとり旅をしていた私が泊まってた宿よりだいぶマシだったことに驚いた。
貧乏バックパッカーが泊まる宿ってのはエリート学生だったら顔をそむけるような環境だったんだなあ…。



6月15日追記:
コロナウイルスが一段落し、公開日が8月21日に決まったという矢先に、なんと主演のスシャント・シン・ラージプートが亡くなったというニュースが飛び込んできた。
詳細は不明だが、自ら死を選んだということらしい。
インドの報道では、「映画では自死を諌める役だったのに…」という皮肉めいたものも見かけられるが、役と役者は別のものだ。
スシャントのみならず、心のうちにどんな葛藤があろうと、役柄を全うして、我々に感動を届けてくれる俳優たちを、改めて讃えたい。
コロナのせいだけでなく、なんとも言い難い時期の公開になってしまったが、希望を与えてくれる映画の内容と、苦くて厳しい現実を両方を受け止めて、命というものについて改めて考えることとしたい。
それが、スシャントの冥福を祈ることにもなると信じて。

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goshimasayama18 at 19:39|PermalinkComments(0)

2020年02月22日

祝『ガリーボーイ』フィルムフェア賞13冠達成!! そして『WALKING MAN』とのシンクロニシティーを考える




日本でDVDが発売されたばかりの『ガリーボーイ』が、ヒンディー語映画界最高の賞であり、ボリウッドのアカデミー賞とも呼ばれているフィルムフェア賞(Filmfare Awards)で主要部門の総ナメにして、13冠を達成した。

その内訳は以下の通り。
  • 作品賞
  • 監督賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)
  • 主演男優賞 ランヴィール・シン(Ranveer Singh)
  • 主演女優賞 アーリヤー・バット(Alia Bhatt) 
  • 助演男優賞 シッダーント・チャトゥルヴェーディ(Soddhant Chaturvedi)
  • 助演女優賞 アムリター・スバーシュ(Amruta Subhash)
  • 最優秀脚本賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)、リーマー・カーグティー(Reema Kagti)
  • 最優秀ダイアローグ賞 ヴィジャイ・マウリヤ(Vijay Maurya)
  • 最優秀音楽監督賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)、アンクル・テワリ(Ankur Tewari)
  • 最優秀作詞家賞 "Apna Time Aayega" ディヴァイン(Divine)、アンクル・テワリ(Ankur Tewari)
  • 最優秀美術賞 スザンヌ・カプラン・マーワンジー Suzanne Caplan Merwanji
  • 最優秀撮影賞 ジェイ・オーザ(Jay Oza)
  • 最優秀バックグラウンド・スコア賞 カーシュ・カーレイ(Karsh Kale)
今年のフィルムフェア賞は、まさに『ガリーボーイ』のためにあったと言って良いだろう。
ここまでの高い評価を得た『ガリーボーイ』だが、じつは興行成績に関しては2019年に公開されたヒンディー語映画のうち、8位に甘んじている。
『ガリーボーイ』はインド国内で14億ルピー、世界で24億ルピーと、十分にヒット作品と呼べるだけの数字を叩き出しているが、興行成績1位の"War"(国内32億ルピー、世界48億ルピー)と比べると、その売り上げは
半分程度でしかない。(出典はBollywood Hungama "Bollywood Top Grossers Worldwide"
これは、大都市ムンバイのストリートヒップホップという斬新なテーマが、必ずしもすべての層に受け入れられたわけではないということを意味している。

それにもかかわらず、『ガリーボーイ』がここまで圧倒的な評価を得られたのは、スラム生まれのラップという新しくて熱いカルチャーをボリウッドに導入して素晴らしい作品に仕上げた制作陣の手腕、そしてそれに見事に応えた役者たちの熱演によるものだ。
この革新的な映画のストーリーは、じつは、親子の葛藤、夢と現実の相克、身分違いの恋、サクセスストーリーといった、ボリウッドの王道とも言えるモチーフで構成されている。
だが、そうしたクラシックな要素と、新しいカルチャー、新しいヒーロー像、新しい女性像がとてもバランスよく配置されており、王道でありながらも革新的な、奇跡のような作品となったのだ。
今後ボリウッドの歴史に永く名を残すことになるであろう『ガリーボーイ』を称えるのと同時に、もう一本紹介したい映画がある。

同じく2019年に公開された国産ヒップホップ映画『WALKING MAN』である。
(この映画のDVDは4月24日発売予定)
この『WALKING MAN』と『ガリーボーイ』には、シンクロニシティーとも言える共通点が数多くあり、同じ時代に極東アジアと南アジアで作られた、よく似た質感を持つヒップホップ映画について、きちんと何か書き残しておくべきではないかと思っているのだ。
WALKINGMAN

『ガリーボーイ』は、実在のラッパーNaezyとDivineをモデルに制作された映画であり、ニューヨークのラッパー、Nasがエグゼクティブプロデューサーとして名を連ねている。
一方の『WALKING MAN』はラッパーANARCHYの初監督作品だ。
ANARCHYは京都市向島の市営団地に生まれ、彫師の父との父子家庭で育ち、喧嘩に明け暮れる少年時代を過ごした。
15歳でラッパーとしての活動を開始。暴走族の総長を務めたり、少年院で1年を過ごすなど波乱に満ちた青春を過ごしたのち、2006年に25歳でファーストアルバム"Rob The World"を発表する。
自身の生い立ちや経験をベースにした力強いラップで話題と支持を集め、私、軽刈田も、インドの音楽シーンにはまる前、彼の音楽を聴いて強い衝撃を受けたものだった。

この2本の映画の共通点を探すとしたら、ストーリー以前に、実際のラッパーが作品に深く携わっているということがまず挙げられるだろう。
(『ガリーボーイ』のNasは、制作に関わったわけではなく、実際には完成した映画を見てエグゼクティブ・プロデューサーに名乗り出たということらしいが、名を連ねることを許可したということは、この映画のリアルさを認めたということだと理解して良いだろう)
つまり、この2作品は「本物が作った(あるいは本物がモチーフになった)映画」なのだ。 

実在のラッパーをモチーフにした映画と言えば、ヒップホップの本場アメリカではN.W.A.の軌跡を描いた『ストレイト・アウタ・コンプトン』と、エミネムの半生をもとに本人が主演した『8マイル』がまず挙げられるが、『ガリーボーイ』と『WALKING MAN』には、この2作品とは大きく異なる共通点がある。
それは、『〜コンプトン』と『8マイル』の主人公たちが物語の最初からすでにラッパーだったのに対して、『ガリーボーイ』『WALKING MAN』の主人公は、映画の冒頭では都市の下流に生きる単なる若者であり、ストーリーの中でヒップホップに出会い、ラップに目覚めてゆくということである。
『ガリーボーイ』のムラドは、Nasに憧れつつも、自分がラッパーになろうとは考えておらず、地元にヒップホップシーンがあることも知らなかったという設定だし、『WALKING MAN』のアトムに至っては、ヒップホップファンですらない。

つまり、アメリカの2作品が「ラッパーたちのサクセスストーリー」であるのに対して、日印の2本は、「声を上げる手段を持たない若者が、ヒップホップと出会い、ラッパーになるまで」を描いた映画なのだ。
『ガリーボーイ』も『WALKING MAN』も、日印のシーンを代表するラッパーが関わっていながらも、ヒップホップファンのみを対象にした映画ではなく、ラッパーとしての第一歩にフォーカスすることで、ヒップホップの精神を、万人に向けて分かりやすく提示した作品なのである。
アメリカと日印のヒップホップの定着度の違いと言ってしまえばそれまでだが、コアなファン層以外もターゲットとしたことで、より作品のテーマが結晶化され、理解しやすくなっているとも言えるだろう。
そのテーマとは何か。

『WALKING MAN』の舞台は、川崎の工業地帯だ。
貧しい母子家庭で妹と暮らしながら廃品回収業で生計を立てる寡黙な青年アトム(野村周平)は、母の急病をきっかけに、母の収入は絶たれ、治療費が必要なのに公的なサービスも受けられないという八方塞がりの窮地に陥る。
この最悪の状態から、アトムはラップとの出会いによって、自分のコトバと自信を手にして変わってゆく、というのが『WALKING MAN』のあらすじである。

一方で、『ガリーボーイ』の主人公ムラドは、ムンバイのスラム街ダラヴィに暮らしている。
カレッジの音楽祭に出演していたラッパーとの出会いから、自身もラッパーとなったムラドは、怪我をした父に代わって裕福な家庭の運転手として働くことになる。
ムラドはそこで圧倒的な貧富の差を目のあたりにして、ラッパーとしての表現を深化させてゆく。

親の怪我や病気による窮状、そこからのヒップホップによる「救い」といったストーリーもよく似ているが、ここで注目したいのは、この2作品の主人公のキャラクターである。
ヒップホップ映画の主人公であれば、ふつうはささくれ立った「怒れる若者」タイプか、もしくはファンキーでポジティブなキャラクターを設定しそうなものだが、この2作品の主人公は、いずれも内省的で、生まれ持ったスター性などまるでない性格づけがされている。
『ガリーボーイ』のムラドは、仲間が自動車泥棒をする場面で怖気付いたり、自分のリリックをラップしてみろと言われて緊張してしまうような性格だし、『WALKING MAN』のアトムは、「吃音」という大きなハンデを持ち、自分の感情を素直に出すことすらできないという設定だ。
こうした主人公たちの「不器用さ」は、ヒップホップの本質のひとつである「抑圧された、声なき者たちの声」という部分を象徴したものと理解することができるだろう。
(マーケティング的に見れば、こうした主人公の性格づけは、バッドボーイ的なヒップホップファン以外にも共感を得やすくするための設定とも取ることもできるし、『ガリーボーイ』に関しては、ムラドのモデルになったNaezyも実際にシャイで内向的な青年のようである) 
彼らが内向的で、社会からの疎外感を感じているからこそ、自分の言葉で自身を堂々とレペゼンするヒップホップが彼らの救いとして大きな意味を持ち、また彼らがラッパーとしての一歩を踏み出すことが、人間的な成長として描けるのだ。

ムラドとアトムの成長を描く手段として、ラップバトルが使われているのも印象的だ。
フリースタイルに臨んだ2人が、どう挫折し、どう乗り越えるか、という展開は、『8マイル』の影響はあるにしても、あまりにも似通っている。
彼らがラップバトルで勝利するために戦うべきは、じつは対戦相手ではなく、自分自身の中にある。
自分の弱点を認め、その上で自分自身を誇り、自分の言葉で表現することが、結果的にオーディエンスの心を動かすという展開は、ヒップホップの意義を見事に表したものである。

他にも、家族との葛藤(ムラドは父との、アトムは妹との確執がある)、主人公に協力する兄貴的な人物の存在(ムラドにはMCシェール、アトムには山本)など、この2つの映画の共通点はまだまだある。

制作された国や時期を考えれば、この2つの作品が影響を与え合う可能性はまったく無いにもかかわらず、これだけの一致があるということは、はたして偶然なのだろうか。
従来のタフでワイルド、言葉巧みで男性的なラッパー像からは大きく異なるムラドとアトムというキャラクターは、いったい何を表しているのだろうか。
私は、ここにこそヒップホップというアートの本質と、その今日的な意味が描かれているのではないかと思う。
ヒップホップ、すなわち、ラップ、B-ボーイング(ブレイクダンス)、DJ(ヒューマンビートボックスのような広義のビートメイキングを含む)、グラフィティアートは、スキルとセンスさえあれば、体一つでいくらでもクールネスを体現できるアートフォームであり、ハンデを魅力に変えることができる魔法なのだ。
内省的なムラドとアトムは、自信すら持てないほどに抑圧された若者の象徴だ。
ヒップホップはそうした者たちにこそ大きな意味を持ち、また彼らこそが最良の表現者になれる。
こうした、いわば、「希望としてのヒップホップ」を描いたのが、『ガリーボーイ』であり『WALKING MAN』なのである。
その希望の普遍性を表すためには、主人公は従来のラッパー像とは異なる「弱い」人間である必要があったし、家族との葛藤を抱えた「居場所のない」若者である必要があったのだ。

この作品の核は階級差別に対する闘いです。インドだけに限りません。私達は抑圧を無くし、人が自分を表現できる能力を磨き、自分に自信を持って、夢を追いかけることができる世界にしていかなければならないと思います」
これは、『ガリーボーイ』のゾーヤー・アクタル監督の言葉だ。 
ムラドとアトムのハードな環境の背景には、世界中で広がる一方の格差社会があるということも、もちろんこのシンクロニシティの理由のひとつである。
今更かもしれないが、この2作品のシンクロニシティに触れて、ヒップホップはもはやアメリカの黒人文化という段階を完全に脱したということを実感した。
ヒップホップは、その故郷アメリカを遠く離れ、日本でもインドでも、単なるパーティーミュージックでも外国文化への憧れでもなく、抑圧された者たちの言葉を乗せた、リアルでローカルな文化となったのだ。
この「ローカル化」は、逆説的に、ヒップホップのグローバル化でもあり、その日本とインドにおける2019年のマイルストーンとしてこの2本の映画を位置付けることもできるだろう。

共通点だけでなく、この2作品の異なる点にも注目してみたい。
それは家族やコミュニティーとの「繋がり」の描かれ方だ。
『ガリーボーイ』では、家族やコミュニティーは、自由を縛る保守的な価値観とつながったものとして描かれ、「絆」がすなわち主人公を苦しめるくびきとして描かれている。
一方で、『WALKING MAN』のアトムは、吃音というハンデを持ち、また誰からの援助も得られない極貧の母子家庭に暮らしているという設定だ。
つまり、逆に「絆の不在」「疎外感」が彼を苦しめているのである。
絆による不自由と、絆の不在による疎外感。
この2作品が乗り越えるべき壁として描いたテーマは、そのままインドと日本の社会を象徴しているように思えるのだが、いかがだろうか。

それから個人的に衝撃だったのが、ムンバイのスラムに暮らすムラドがスマホを持ち、大学に通う学生だったのに対して、川崎のアトムは(おそらくは)大学に通うことなく場末の廃品回収業者で働いており、スマホを持つことを「目標」としているということだ。
ダラヴィはムンバイのスラムのなかでは比較的「恵まれた」環境のようだし(あくまでもより劣悪なスラムとの比較の話だが)、住む場所すらなく路上で暮らす人々や、電気や水道すらない農村部の人々と比べれば、インド社会の最底辺とは言えないということには留意すべきだが、それでも、ムンバイのスラムの「あたりまえ」が日本の若者の憧れとして描かれているという事実はショックだった。
日本が落ちぶれたのか、インドが成長著しいのか、おそらくはその両方なのだろうが、この言いようもない衝撃を、ヒップホップ映画からの「お前の足元のリアルをきちんと見ろ!」というメッセージとして受け取った次第である。

最後に、もう一つ気になった点である、「吃音とラップの親和性」についても触れておきたい。
すでに書いた通り、『WALKING MAN』のアトムは吃音者という設定だが、実際に日本には達磨という吃音のラッパーがいるし、インドにもTienasという吃音者ラッパーがいる。
映画のなかで、アトムが通行者を数えるカウンターでリズムを刻みながら、吃ることなく言葉を発する場面が出てくるが、実際にこうした吃音の克服法があるのだろうか。
あまり興味本位で考えるべきではないかもしれないが、「吃音」という「声を持てぬもの」を象徴するようなハンデを抱えたラッパーが日印それぞれに存在しているということも(他の国にもいるのかもしれない)、また意味深い共通点であるように感じられる。

基本的にはインドのカルチャーを紹介するというスタンスで書いているブログなので、『WALKING MAN』のことは公開時には紹介しなかったのだが、『ガリーボーイ』と合わせて見ることで、現代社会とヒップホップの現在地をより的確に感じることができる、粗削りだが良い作品である。
ヒップホップや音楽に心を動かされたことがある、すべての人にお勧めしたい2本だ。


もう十分に長くなったが、最後の最後に、似たテーマを扱った、ムンバイと日本のヒップホップの曲を並べて紹介したい。

まずは、『ガリーボーイ』の中から、大都市ムンバイの格差をテーマにした"Doori"、そして日本からは『WALKING MAN』の監督を務めたANARCHYの"Fate".




続いてはリアルにダラヴィ出身で、『ガリーボーイ』にもカメオ出演していたMC Altafの"Code Mumbai 17"(17はダラヴィのピンコード)と、横浜代表Ozrosaurusの"AREA AREA".
オジロの地元レペゼンソングなら横浜の市外局番を冠した"Rolling 045"なんだけど、この2曲はビートの感じが似ていて自分がDJだったら繋げてみたい。



地元レペゼンソングでもう1組。
『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなったDivineのデビュー曲"Yeh Mera Bombay"(これが俺のボンベイ)。ムンバイの下町を仲間と練り歩きながら、ヒップホップなんて関係なさそうなオッサンとオバハンも巻き込むミュージックビデオに地元愛を感じる。
日本からは当然、SHINGO★西成の"大阪UP"でしょう。



最後にオールドスクールなビートでB-Boysをテーマにした楽曲。
インドからはMumbai's Finestの"Beast Mode". これはダンス、グラフィティ・アート、ビート・ボクシング、BMX、スケボーなどの要素を含むムンバイのBeast Mode Crewのテーマ曲のようだ。
となると日本からは
Rhymesterのクラシック"B-Boyイズム"で迎え撃つことになるでしょう。
ちなみにB-Boyという言葉は、日本だと「ヒップホップ好き」という意味で使われるけど、本来はブレイクダンサーという意味。踊れないのに海外でうっかり言わないよう注意。



それでは今日はこのへんで!

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goshimasayama18 at 17:09|PermalinkComments(0)

2019年09月14日

インドの新世代英語ラッパーが傑作アルバムを発表(その1)!Smokey The Ghost


これまで何度もこのブログで紹介してきたインドのヒップホップ。
大都市を中心としたインド各地でシーンが発展し、ヒップホップは短期間でストリートの若者たちのリアルな声を発信する音楽ジャンルに成長した。
埋めようのない格差や差別に対する反骨精神、そして伝統的なリズムとの融合など、興味深い点にはこと欠かないインドのヒップホップだが、本場米国のヒップホップを中心に聴いてきたリスナーにとっては、インドの地元言語のラップは少々とっつきにくく感じられるかもしれない。

これから紹介するラッパーは、そんなヒップホップファンにも自信を持って勧められるアーティストだ。
12億の人口と州ごとに異なる言語を擁し、英語も公用語のひとつであるインドには、英語でラップするラッパーたちも大勢いる。
そんなインドの英語ラッパーのうち、この夏に相次いで傑作アルバムを発表したアーティストたちを、これから2回にわたって紹介します。

まず紹介するのは、バンガロールを拠点としているSmokey The Ghost.
不思議な名前を持つ彼は、ローファイ/チルホップ的なトラックに英語でラップを乗せている、インドでは珍しいスタイルのラッパーだ。

まずは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのデリーのPrabh Deepと2017年に共演した"Only My Name"を聴いてみよう。
前半の英語のラップがSmokey、後半のパンジャービー語がPrabh Deepだ。
プロデュースはAzadi Recordsなどで活躍する新世代トラックメーカーのSez on the Beat.
とにかくアゲまくるボリウッド・ラップや、パーカッシブなトラックが特徴的なガリーラップと比べると、このSmokeyのメロウなヒップホップは、インドではかなり個性的なスタイルだ。

その彼が、つい先ごろ発表したニューアルバム"The Human Form"が素晴らしかった。
この楽曲はオープニングトラックの"The Return"

今回のアルバムのプロデュースは、バンガロールを拠点に活躍する二人組のAerate Soundが手掛けている。
彼らはヒップホップのトラックメーカーとしてだけではなく、エレクトロニック・ミュージックのアーティストとしても活躍しており、このアルバムでも、バラエティ豊かで面白いビートを提供している。


Smokey The GhostことSumukh Mysoreは、インド南部デカン高原の大都市バンガロールで生まれた。
ラッパーとしてのキャリアは長く、10代前半から詩作とヒップホップにのめり込んだ彼は、2008年にBrodha V、Bigg NikkとM.W.A(Machas With Attitude)というラップトリオを結成して活動を開始した。
このユニット名は、言うまでもなくDr.DreやIce Cubeらが在籍したカリフォルニアの伝説的ヒップホップグループN.W.A.(Niggaz With Attitude)のパロディである。
Machaという言葉はもともとはタミル語で特定の親族を指す言葉だったものが、カンナダ語(バンガロールのあるカルナータカ州の公用語)圏で「ブラザー」みたいな意味で使われるようになったものらしい。
メンバーのBrodha Vは、このブログのごく初期に紹介した、ヒンドゥーの信仰をテーマにした楽曲を発表しているラッパーだ。
「インドのエミネム? Brodha V」

Smokeyは、当初はアメリカっぽいアクセントの英語でラップしていたが、今では、アメリカ各地のラッパーがそれぞれ地元の訛りでラップしているように、南インド訛りのアクセントでラップすることにアイデンティティーを見出しているという。
2013年にはシャー・ルク・カーン主演の『チェンナイ・エクスプレス』の楽曲にも参加している。

このド派手ないかにもボリウッド風の楽曲には、SmokeyとBrodha V、そしてムンバイのアンダーグラウンドラッパーEnkoreも参加している。
この頃はまだ、ラッパーたちが音楽で稼ごうとしたら、こういうメインストリームの商業的な音楽に協力するしかなかったのだろう。
その後たった6年でのインドのシーンの発展には驚くばかりだが、6年前にまだまだアンダーグラウンドな存在だった彼らを起用したボリウッドのセンスも相当凄い。
エンタメ・ラップが中心だったインドのヒップホップシーンを大きく打開したのも、結局はボリウッド映画の『ガリーボーイ』がきっかけだったわけで、商業主義的であると批判されがちなインドの映画産業であるが、彼らの新しいサウンドへの目配りには、やはり一目置かざるを得ないだろう。

話をSmokeyことSumukhに戻す。
インドでは高学歴の兼業ミュージシャンが多いが、なんとSumukhは、以前は生物学者として国立生物科学センター(National Centre of Biological Science)で働いていたという超エリート。
今では医療機器会社の共同経営に携わっているという。

Sumukhは映画『ガリーボーイ』で注目を集めているようなスラムのラッパーたちとは対象的に、ブラーミン(バラモン)の裕福な家庭に生まれた。
古代の祭祀階級にルーツを持つと言われるブラーミンはカーストの最上位に位置する存在であり、保守的な人々には「インドでヒップホップなんてやる価値がない」と言われてきたそうだ。
「俺はブラーミンにも、ヒンドゥーにも、ムスリムにも、無神論者にも属していない。俺は“ヒューマン・コミュニティー”に属しているのさ」と語るSumukhは、ブラーミンの家に産まれながらも「反ブラーミン主義」を自認している。
この主義のために、おそらく保守的なカースト内の人々との軋轢もあったことだろう。
スラム出身ではない彼にも、ラッパーであり続けるための、インドならではの苦労や苦悩を経験しているはずだ。

この"When You Move"は、彼のアンチ・ブラーマニズムの思想を表明したもの。

サウンド的にもかなり面白い構造の楽曲だ。
今では家族の理解も得られ、母親も彼のことをSmokeyと呼んでいるという。

「自分はエンターテイナーではなくアーティストなんだ」と語る彼は、ソニーと契約したBrodha Vと袂を分かち、自分自身の表現を追求する道を選ぶ。

Rolling Stone IndiaがSmokeyに行ったインタビューによると、このアルバムは、作品全体が「抗議」であるという。
Smokeyいわく、アメリカのトランプ政権やインドのモディ政権、戦争や宗教といった政治的・社会的なテーマや、アルコール業界に牛耳られたインドの音楽シーン、宗教や恐怖心を利用してプロパガンダを行う政治家への怒りが表現されているそうだ

字幕をONにするとリリックを読むことができるので、ぜひ彼のメッセージにも注目してほしい。





アルバムに先駆けて発表されたこの"Human Error"もグローバル社会におけるさまざまな問題を扱った楽曲だ。


映画音楽や娯楽としてのダンスミュージックから始まったインドのヒップホップは、いまやローカル都市の路地裏から、グローバルな社会問題まで、あらゆるトピックを扱うジャンルに急成長した。

サウンド的にも面白く、楽曲のテーマにも普遍性があり、グローバル言語である英語でラップする彼の音楽が、もっと広く評価される日もそう遠くないかもしれない。

Smokey THe Ghostのニューアルバム"The Human Form"はこちらのSoundcloudからも全曲聴くことができる。

(Youtubeにも全曲アップされており、字幕機能をOnにするとリリックも読めるので、リリックを味わいたい方はYoutubeがおすすめ)


参考サイト
Rolling Stone India "Smokey the Ghost: ‘This Whole Album is A Protest’"
Homegrown "The Bangalore Rapper Who’s Also A Scientist – Meet Smokey The Ghost"

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goshimasayama18 at 22:12|PermalinkComments(0)

2019年09月07日

『ガリーボーイ』ジャパン・プレミア!&隠れた名シーン解説

かねてからお伝えしていた通り、9月5日に新宿ピカデリーで、ゾーヤー・アクタル監督と脚本のリーマー・カーグティーを迎えて、『ガリーボーイ』のジャパン・プレミア上映が行われた。

当日は580席のスクリーン1が大方埋まる盛況。
客層はヒップホップファンというよりはインド映画ファンが中心。
もっと音楽ファンにも注目してほしいのはやまやまだが、公開されれば遠からずそうなるだろう。

『ガリーボーイ』は、これまでに日本で大ヒットしたインド映画、すなわち、マサラ風エンターテインメントの『ムトゥ』や、神話的英雄譚の『バーフバリ』とは明らかに毛色が違う「ムンバイのリアルなヒップホップ映画」ということで、開始前の客席は、いつもとは異なる期待感と、静かな熱気に満ちていた(ように見えた。自分自身が静かな熱気に満ちていたので、まわりのことはあんまり分からないけど)。

そしていよいよ暗転、上映開始。
内容についてはこれまで何度も書いてきたので省くが、いとうせいこう氏監修の字幕は、日本語でも韻を踏んでいる部分もあり、映画字幕の文字数制限のなかでリリックの本質を伝える、非常に雰囲気のあるものだった。
試写会で見たときは、いとう氏の監修前の字幕だったのだが、さすがに良い仕事をしているなあ、と感心。
公開までに字幕はさらにブラッシュアップされるらしい。

そして上映終了後は、いよいよゾーヤー・アクタル監督と、脚本のリーマー・カーグティー氏が登場。
舞台挨拶で印象に残ったのは、Naezyとのエピソードだ。
監督曰く、Naezyが21歳のときに撮ったミュージックビデオを見て強い印象を受け、友人を介して会いに行ったところ、ちょっと挨拶するだけのはずが、3時間も話し込んでしまったとのこと。

監督が見たというミュージックビデオは、「iPadで撮影されたもの」と言っていたから、間違いなくこの"Aafat!"だろう。
NaezyがiPadでビートをダウンロードし、ラップを吹き込み、そして映像も撮影したというごく初期の作品だ。

シンプルなビートだけにNaezyのスキルの高さが感じられる。
インタビューでは言及がなかったが、実はゾーヤー監督自身もアメリカのヒップホップのファンだったらしい。
Naezyについて「フロウも歌詞も素晴らしい」と語っていたが、地元インドから、本場アメリカにも匹敵するスキルとアティテュードのラッパーが登場したという感激が、この映画を作る原動力になったのだろう。

初めて会ったときのNaezyはシャイで、ボリウッドのビッグネームである監督たちに緊張して、部屋の隅に引っ込んでしまうような人物だったという。
こうした一見不器用で情熱を内に秘めたNaezyの性格は、ムラドのキャラクターをかたち作るうえでも、影響があったに違いない。
その後、Naezyのライブでオープニングアクトを務めていたDIVINEとも知り合い、『ガリーボーイ』の制作に至るのだが、二人をモデルに映画を作ることを伝えた時も、Naezyは自分の半生が映画になることよりも、ヒップホップというカルチャーが広まることについて喜んでいたそうだ。
(DIVINEは、『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなった人物)

また、エグゼクティブ・プロデューサーとしてNasが名を連ねている理由は(実際は名誉職だと思うが)、ムンバイのラッパーたちがこぞって影響を受けたアーティストとして名前をあげたのが、Nasと2Pacであったためだという(2Pacは故人)。
インドのラッパーがいちばん影響を受けているのはEminemだと思っていたので、これはちょっと意外だった。

キャスティングについての質問の回答も興味深かった。
ランヴィールを主役にした理由としては、生粋のムンバイ育ちでスラングにも詳しく、また彼がヒップホップの大ファンで、密かにラップをしていることを監督が知っていたからとのこと。
実際、ムラドについてはほとんどランヴィールを想定してシナリオを書いたようで、 ランヴィールも自身でラップを吹き込み「俺はこの役をやるために生まれてきた」とまで言っていたのだから、最高のはまり役と言えるだろう。
この映画の撮影現場は、40人もの実際のラッパーがいる環境だったそうだが、ランヴィールは彼らともすっかり打ち解けていた様子で、撮影中から彼らのSNSに頻繁に登場していた。
ムンバイで行われた公開記念コンサートでは、ランヴィールとMCシェール役のシッダーント・チャトゥルヴェーディが「オリジナル・ガリーボーイズ」のDIVINE, Naezyと息のあったパフォーマンスを見せている。


また、ランヴィールは、『ガリーボーイ』にもカメオ出演していたダラヴィ出身のラッパーMC Altafのミュージック・ビデオにも(画面の中から、ほんの少しだけだが)出演。 

国民的人気俳優が、インドでもよほどのローカル・ヒップホップファンでなければ知らないアンダーグラウンドラッパーのビデオに出演するのは、極めて異例のことだ。
ボリウッドの大スターと、ストリート・ラッパーという、エンターテインメント界の対極に位置するものたちが、ヒップホップという共通項で対等につながったのだ。

そう、『ガリーボーイ』の美しいところは、監督もランヴィールもシッダーントも、ヒップホップというカルチャーへの理解とリスペクトが深く、ヒップホップを深く、正しく伝えようという姿勢がぶれていないことだ。
これはボリウッド映画では珍しいことで、例えばロックをモチーフにしたインド映画はこれまでに何本かあるが、いずれもロックとは名ばかりで、単なるワイルドなイメージの材料として扱っているものがほとんどだった。
それに対して、『ガリーボーイ』は、製作者側からヒップホップへの愛に満ちている。

この作品に、裕福な家庭に育ち、アメリカの名門音楽大学バークリーに留学していたトラックメイカーの、スカイというキャラクターが出てくる。
スカイは、富裕層であるにもかかわらず、偏見を持たず、優れた才能の持ち主であれば、貧富や出自に関係なく賞賛し、厳しいスラムの現実を表現するラッパーたちをむしろリスペクトする姿勢の持ち主だ。
彼女は、インドの保守的な階級意識から自由であり、貧富の差などの社会問題への高い意識を持った存在として描かれている。
このスカイと同じような目線が、『ガリーボーイ』という映画全体を貫いている。
超ビッグなエンターテインメント産業であるボリウッドから、ムンバイのスラムで生まれたガリーラップへのリスペクトの気持ちが、どうしようもなく溢れているのだ。

今回のジャパンプレミアで『ガリーボーイ』を見た方に、2回目に鑑賞する時にぜひ注目してほしいシーンがある。 (映画の本筋に関係のない話だが、見るまで前情報を何も知りたくないという方はここでお引き返しを)

この映画には多くのラッパーがカメオ出演しているが、映画のなかに名前が出てこないラッパーたちも、極めて意味深い登場の仕方をしている。
映画を見た方は、後半のラップバトル第一回戦のシーンで、審査員席に座っていた身なりのいい3人の男女に気づいただろう。
彼らは、いずれもが、在外インド人社会の音楽シーンで活躍し、インドの音楽のトレンドにも影響を与えてきた成功者である。

ゴージャスな女性は、カリフォルニア出身の女性ラッパー、Raja Kumari.
本場の高いスキルを持ち、ソングライターとしてグラミー賞にノミネートされた経験もある彼女は、インド古典音楽のリズムをラップに導入したり、伝統的な装束をストリートファッションに落とし込んで着こなすなど、インドのルーツを意識したスタイルで活動している(Divineとも数曲で共演している)。

ターバンを巻いた男性はイギリス出身のシンガーManj Musik.
1997年にデビューした英国製バングラー音楽グループRDBの一員で、'Desi Music'と呼ばれる在外インド人のルーツに根ざした新しい音楽に、大きく貢献してきたミュージシャンだ。

もう一人の男性は、イギリス出身のBobby Friction.
BBC Asian Networkなどの司会者として活躍している人物で、在外インド系音楽を広く紹介し、シーンの発展に寄与してきた。

インド系音楽カルチャーの第一人者であり、富裕な海外在住の成功者としてインド国内にも影響を与えてきた彼らが、インドのストリートから生まれてきた音楽を、同じミュージシャンとしてリスペクトする。
貧富も出自も国籍も関係なく、同じルーツを持つ者同士で優れた音楽を認め合う。
ヒップホップで重要なのは、スキルと、リアルであることだけだからだ。
従来のインド映画であれば、審査員席には映画音楽界のビッグネームが座っていたはずだが、『ガリーボーイ』では、この3人が並んでいることに意味がある。
彼らが何者であるかは細かく明かされなくても(映画の進行上、必ずしも必要でないからだろう)このシーンには、製作者側のこうした意図が隠されているはずだ。

また、クライマックスのシーンにも仕掛けがある。
ステージの司会を務め、観客を盛り上げているのは、名前こそ出てこないが、リアル・ガリーボーイの一人で、ムンバイのヒップホップシーンの兄貴分的存在(そしてもちろんMCシェールのモデル)DIVINE本人である。
そして、ステージに上がるムラドが、DIVINEにある言葉をかける。
意識して見なければ、司会者に挨拶しているように見えるごく自然なシーンだが、このシーンには、ヒップホップをこよなく愛するランヴィールからガリーラップの創始者DIVINEへの、そして、ボリウッド一家に生まれたゾーヤー・アクタル監督から、ストリートで生まれたヒップホップカルチャーへの、心からの気持ちが込められているのだ。
正直言って、このシーンだけで感動をおさえることができなかった。

今回のジャパン・プレミアでは、最後にシッダーント、スカイ役のカルキ・ケクラン、そしてランヴィールからの日本のファンへのビデオメッセージが披露されるなど、非常に充実した内容だった。
SNSでの評判も非常に高く、正式公開に向けての期待はますます高まるばかりだ。

10月18日の公開に先駆けて行われる、10月15日のイベントもお見逃しなく!
日本におけるワールドミュージックの第一人者サラーム海上さん、ムンバイの在住のダンサー/シンガーで現地のラッパーとも共演経験のあるHiroko Sarahさん、そして私軽刈田が、映画の背景となったインドのヒップホップについて、思いっきり熱く語りまくります!
詳細はこちらのリンクから!




(審査員の一人としてカメオ出演しているRaja Kumariについては、こちらの記事で詳しく紹介している。彼女の音楽もとても面白いので、興味があったらぜひ読んでみてほしい。「逆輸入フィーメイル・ラッパーその1 Raja Kumari」「Raja Kumariがレペゼンするインド人としてのルーツ、そしてインド人女性であるということ」)
また、在外インド人の部分で、便宜的に「在外インド系」と書いたが、これはパキスタン系、バングラデシュ系など、南アジアの他の国にルーツを持つ人々も含んだ表現だと捉えてください。


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2019年08月25日

インドのお受験事情を描いた映画『ヒンディー・ミディアム』は、あなたの物語であり、私の物語でもある


今年はインド映画の公開が相次いでいるが、今回は9月6日から全国で公開される映画『ヒンディー・ミディアム』を紹介したい。
主演は『アメージング・スパイダーマン』などのハリウッド映画でも活躍するイルファン・カーン(Irrfan Khan)、主人公の妻役にパキスタンのトップ女優でインド映画初出演のサバー・カマル(Saba Qamal)、監督はサケート・チョードリー(Saket Chaudhary)。

『ヒンディー・ミディアム』と言われても、どんな意味だかピンと来ない人も多いと思うが、ここで言う「ミディアム」は、肉の焼き方ではなく、「伝達手段」という意味。
「ヒンディー語を伝達の手段とする」という映画のタイトルは、デリーなど北インドの公用語である「ヒンディー語で教育を行う学校」を表している。
ヒンディー・ミディアムの対義語にあたる言葉は「イングリッシュ・ミディアム」。
「英語を教える学校」ではなく、「英語で教える学校」ということだ。
ほぼ全ての高等教育が英語で行われるインドでは、良い大学に進んで、高収入な仕事(いわゆるグローバル企業など)に就くには、小学校から英語で授業を行う「イングリッシュ・ミディアム」の学校に通うことが非常に大事なのである。

各地域のローカル言語(物語の舞台となったデリーではヒンディー語)で教育が行われる公立学校は、イングリッシュ・ミディアムの学校に比べると総じてレベルが低く、英語での高等教育に適応するにも言語の面でかなり不利になってしまう。
(そう考えると、大学院まで母国語で学ぶことができる日本は、かなり恵まれているとも言えるし、また英語中心のグローバリゼーションが進む今日の状況からすると、特殊だとも言えるだろう)
 
この物語は、ごく簡単に言うと、ヒンディー・ミディアムの教育しか受けていない夫婦が、なんとかして娘をイングリッシュ・ミディアムの名門小学校に通わせようとするコメディ映画なのだ。


あらすじと見どころ

物語の主人公は、デリーで衣料品店を営む夫婦、ラージとミータ。
ラージは、持ち前のセンスと接客技術で、一代でオールドデリーの老舗テーラーを大型店舗にまで成長させた敏腕経営者だ。
教育熱心なミータは、娘のピアをなんとかしてイングリッシュ・ミディアムの名門学校に入れたいと思っている。
「インドでは英語は階級そのもの」
裕福な暮らしをしているものの、自分もラージも誇れるような学歴を持っておらず、英語が苦手であることに、彼女は劣等感を持っていた。
ミータの希望で一家は人情に厚い下町を離れ、志望する小学校の学区にあたる富裕層が暮らすエリアに引越すが、下町育ちのラージ一家は、個人主義で冷たく、外見や話す言語を気にする土地になかなかなじめない。
二人は宗教の見境なく神頼みに励み、ピアをお受験のための塾に通わせるが、なかなか志望校の合格は得られない。
ミータはとうとう、自分たちの身分を偽り、定員の25%に割り当てられた低所得者層のための特別枠を狙って、貧しい人々が暮らす地域に引っ越すことを決意する。
だが、志望校の校長は潔癖で、賄賂や不正は絶対に許さない堅物だ。
彼らは、自分たちが本当に貧しいエリアに暮らす住民だと信じてもらえるよう、必死にふるまうことを迫られる…。


映画の見どころは、下町育ちの成金夫婦が、娘の教育のために慣れない上流階級暮らしや貧乏生活に挑戦する、可笑しくも涙ぐましい奮闘っぷりだ。
こう書くと、まるでこの映画が、インド固有の社会事情に根ざした別世界の物語のように感じるかもしれないが、じつはこれが日本に暮らす我々の心にも、がんがん刺さってくるのである。

この映画のテーマはもちろん「教育」だが、本当の主題は、「本当に良い生き方とは何なのか」という、普遍的かつ根源的な問いかけだ。
この映画のクライマックスは、志望校への合格/不合格ではなく、じつはその後にある。
富裕層を中心とした一部の人しか通うことができないイングリッシュ・ミディアム・スクールに、あらゆる手段を尽くして(不正な手段を使ってまで)入学することが、本当に立派なことなのか?
自分の家族のみの豊かさや社会的評価を得るためだけに生きることが本当に良いことのか?
この作品のメッセージは、子どもがいる人には「自分の子どもを育てるべきか」という問いかけとして、子どもがいない人には、「自分はどのように生きるべきなのか」という問いかけとして突き刺さる。
とはいえ、これは小難しい作品ではなくインドの大衆映画。
社会派映画であると同時に徹底したエンターテインメント作品でもあるから、難しいことは考えずに、ストーリーに没頭して楽しむことができるのも魅力だ。


インドの教育事情

この映画でが全てにおいてリアルかというと、そんなことはなく、インドの娯楽映画にありがちな、大衆礼賛的な、理想化された部分も大きい。
映画のなかのヒンディー・ミディアム・スクールは、貧しくとも貧しいなりに教育熱心だが、実際はローカル言語の公立校では、待遇の悪さから教師のモチベーションが極めて低く、教師の質も悪い。
授業が極めていい加減だったり、受験対策の放課後の補習のために追加料金(要は教員の小遣い稼ぎ)を要求されたりすることも多いという。 
少しでも良い教育を受けさせたいという親の気持ちにつけこんだ、未認可の教育機関も多く、現実はもっとややこしくて複雑だ。
(インドのこうした未認可教育事情に関しては、『インドの無認可学校研究ー公教育を支える「影の制度」ー』(東信堂)などの著者のある小原優貴さんの研究に詳しい) 


インドの格差と教育

この映画では、2009年に施行されたRTE法(Right To Edication Act)に基づいて、私立学校の入学定員の25%に割り当てられた貧困層のための入学枠が重要なトピックとなっているが、こうした制度や、被差別階級である指定カースト・指定部族への入学優遇枠をもってしても、インドの格差は、なお解決には程遠い。(制度自体が悪用されたり、政治利用されたりすることも少なくない)

この映画に描かれているように、英語能力や教育程度による階級意識も根強く、中島岳志さんの『インド人のことはインド人に聞け!』(講談社、2009年)によると、地元言語で教育を受けた学生が、大学での英語の講義について行けずに自殺する例すらあるという。
この本で紹介されている現地報道では、インドのコラムニストは、英語のことを、端的に「下層・中流階級にとっては憧れの言語であり、上流階級にとっては流行りの言語である」と述べている。
英語が海外での仕事や、航空会社、ホテル、マスコミ、金融、ショッピングモールなどの高給で見栄えの良いキャリアに結びついているからだ。
(ただし、それはネイティブ・スピーカーが話す英語'English'ではなく、「インド英語」'Inglish'であることが多く、悪質な英語教育機関が乱立していることにも触れている)
インドの大ベストセラー作家Chetan Bhagatの"A Half Girlfriend"も、英語が苦手な学生がスポーツ推薦で名門大学に入学するという設定の、教育格差をテーマにした内容だった(映画化もされている)。

実際、英語ができる・できないという格差は、ビジネスや就職だけではなく、あらゆる場面で情報や機会の格差となりうる。
例えば、私が普段ブログに書いている音楽の情報は、ほぼすべて英語で書かれたウェブサイトや媒体で得ている。
ヒンディー語などの地域言語で楽曲を発表しているアーティストも、情報発信は基本的にすべて英語で行なっているのだ。
もし私が現地言語しかできないインド人だったら、そもそもロックやヒップホップの情報を得ることすら難しいだろう。
それがどんなものか正確に把握することすら難しいかもしれない。
私が知る限り、ローカル言語を中心に情報発信をしているのは、タミルのヒップホップグループCasteless Collectiveと、ケーララ州のブラックメタルバンドWilluwandiだけだ。
彼らはいずれも、カースト制度の外に位置付けられた被差別民の尊厳のための音楽を演奏しているアーティストであり、地域言語での情報発信は、英語にアクセスできない人々に情報を伝えるためだろう。

インドのいわゆる上流階級には、結構な割合で、「家でも英語で話している」という人たちがおり、彼らに会うたびに、「家庭内で、母語ではなく、英語を使って話すっていうのは、どんな感じがするものなのだろう」と思っていたのだが、この映画を見て、少しその感覚がつかめた気がした。


何やら話しが大幅に逸れた上に、あんまりタイトルと関係ない内容になってしまったような気がしないでもないが、『ヒンディー・ミディアム』、たいへん面白くて考えさせられる、非常にオススメの映画です。
かといって涙腺に電極を刺されたように号泣したり、ものすごく悩まされたりするほどに胃もたれする映画ではなく、爽やかな娯楽としてもとても良くできています。
公開は9月3日から!

(今回は「インドのことを知らなくても楽しめる!」とか言いながら、映画に関連するインド事情をひたすら語りまくるという、インド好きにありがちなことをやってしまった…。この病気治らないなー)

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2019年07月01日

"Gully Boy(ガリーボーイ)"日本公開決定に勝手に寄せて



ボリウッド初のヒップホップ映画、"Gully Boy"の日本での公開が正式に決定した。
公開日は10月18日。
邦題はそのままカナ表記で『ガリーボーイ』となる。
この映画は、本国インドでは 2月に公開され、大ヒットを記録。
日本でも同時期に英語字幕での自主上映が行われ、熱狂的な支持を受けて正式公開が待たれていた。

…と、冷静に書いてしまったが、なにを隠そう、私も日本での正式公開を熱烈に待っていた一人だ。 
これまでずっとこの映画のタイトルを、原題の通り"Gully Boy"と書いてきたが、それを「ガリーボーイ」とカタカナ表記で書けるうれしさといったらない。
なんでかっていうと、果たしてこの映画が日本で正式に公開されるかどうか、正直結構不安だったからである。

『ガリーボーイ』は本当に素晴らしい映画だが、これまで日本でヒットしてきたインド映画のように、超人的な主人公が活躍する英雄譚でも、敬虔な信仰を持つ素朴な人たちの心温まるヒューマンドラマでも、恋愛もアクションもコメディーも出世物語も全て詰め込んだ何でもありのマサラ風エンターテインメントでもない。
ボリウッド(ムンバイで作られたヒンディー語映画)とはいえ、日本人が考えるインド映画のイメージとは大きく異なる作品なので、配給会社が二の足を踏んで、日本での公開に至らないのではないかと、心配していたのだ。
配給を決定してくれたTwinさん、どうもありがとう!

そう、率直に言って、『ガリーボーイ』は、既存の「インド映画」の枠の中で見るべき映画ではない。
もちろん生粋のインド映画ファンも必ず楽しめる作品だが、この映画は、できれば今までインド映画を敬遠してきた人にこそ見てほしい。
ヒップホップファンや音楽好きはもちろん、「ヒップホップって、川崎あたりのヤンキーがやってるやつでしょ」っていう程度の認識の人も、見てもらったら、ヒップホップがどう他のジャンルの音楽と違うのか、どんな特別な意味があるものなのかを、感動とともに理解できることと思う。
それから、代わり映えのしない毎日を鬱々と過ごしている人たち(私やあなただ)にも、是非見てもらいたい。
(押しつけがましいメッセージがある映画ではないからご安心を)

貧しい青年のサクセスストーリーや、身分違いの恋といった、インド映画にありがちな要素も確かにある。
だが、この映画は、インド庶民の夢と理想を詰め込んだファンタジーではなく、実在のラッパーとムンバイのヒップホップシーンがモデルとなった、かなりリアルに現代を描いた物語なのだ。
ゾーヤ・アクタル監督は、ムンバイのアンダーグラウンドなヒップホップシーンのリアルさと熱気に感銘を受けてこの映画の制作を決意したというし、大のヒップホップファンであった主演のランヴィール・シンは、「自分はこの役を演じるために生まれてきた」とまで語っている。
この作品は、ムンバイで何か新しいことが起こった瞬間を、映画という形にとじこめたものでもあるのだ。
製作陣と出演者の熱意が込められたストーリーをごく簡単に紹介しよう。
 
主人公のムラドは、ムンバイ最大のスラムである、ダラヴィに暮らす大学生。
アメリカのヒップホップスターに憧れながらも、殺伐とした家庭で希望の持てない日々を過ごしていた。
ある日、大学で行われていたライブで観客を熱狂させる地元のラッパーを見たムラドは、この街にアンダーグラウンドなヒップホップシーンがあることを知る。

インドでは、欧米や日本のように、ヒップホップがエンターテインメントとして大きな存在感を持っているわけではなく、一般的にはまだまだ知られていない。
インド初のリアルなヒップホップ映画でもあると同時に、大衆エンターテインメント映画でもあるこの作品は、まだまだインドでは知名度の低いヒップホップを紹介するため、ラップとはリズムに乗せた詩であること、自分の言葉を自分でラップして初めて意味を持つことなど、ラップの何たるかがさりげなく分かるような構成にもなっている。
ヒップホップに全く興味がない人も置いていかないようになっている良くできた演出だ。

ムラドは書きためていたリリックを持って、ラップバトルの場に向かう。
はじめは自分がラッパーになる気は無く、リリックを渡すだけのつもりだったが、「ヒップホップはリリックを自分でラップしてこそ意味があるもの」と言われ、ラッパーとしての一歩を踏み出すことになる。
彼がYoutubeにアップしたラップは好評を博し、先輩ラッパーや帰国子女のトラックメーカーの助けも得て、ムラドはラッパーとしての道を歩んでゆく。
貧困、音楽活動に反対する父、やきもち妬きの恋人との別れなど、ムラドはさまざまな苦境にさらされるが、やがて、ラッパーとしての名を大きく上げるチャンスに出会うことになる…。

映画のタイトルになっているガリー(Gully)は、ヒンディー語で「路地裏」のような細い通りを意味する言葉である。
登場人物のモデルの一人であり、今ではインドを代表するヒップホップアーティストとなったムンバイのラッパーDivineが「ストリート」の意味合いで使い始めた、インドのヒップホップカルチャーを象徴する言葉で、主人公のムラドは、まさにダラヴィの「ガリー」で生まれ育ったという設定だ。
この映画は、ムンバイの巨大スラムで淀んだ青春を過ごすストリートの若者が、ヒップホップと出会い、希望を見出してゆく物語でもある。

インドの社会は、あまりにも大きな格差が存在する、残酷なまでの「階級社会」だ。
ムンバイのような大都市では、大企業や政治に携わり、海外とのコネクションを持って富を独占する人々と、彼らに仕えることで生計を立てる人々との間に、あまりのも大きな格差がある。
「ガリー」に暮らすムラドは、言うまでもなく後者に属している。
ガリーに暮らす人間が少しでも生活を良くするためには、なんとかして教育を受け、少しでも良い仕事につき、必死で働くしかないが、どんなにがんばっても、富を独占する富裕層の生活には遠く及ばないことは目に見えている。
構造的に希望が持てない立場に追いやられてしまっているのだ。

「ガリー」の人々は、これまで自分たちの言葉を発信する手段を持たず、彼らの言葉を聞くものもいなかった。
だが、ヒップホップという枠組みの中では、ストリートという出自はむしろ本物の証明であり、そこに生きる者のリリックはリアルな言葉として、同じ立場のリスナーに支持されてゆく。
ヒップホップにおいては、虐げられ、搾取される者の言葉が価値を持ち、なおかつその言葉で「成り上がる」ことができるのだ。

ムンバイじゅうのアンダーグラウンドラッパー(ほぼ全員がカメオ出演!)とのラップバトルのシーンの審査員を務めるのは、海外のシーンで活躍する在外インド人のミュージシャンたちだ。

インド人によるヒップホップは、イギリスやアメリカにいる在外インド人によって始められ、本国では耳の早いおしゃれな若者たちによって、支持されてきた。
本来はストリートカルチャーであったヒップホップが、当初はハイソな舶来文化として定着してきたのだ(この図式は他の多くの国でも見られるものだと思う)。
この映画は、これまでアンダーグラウンドなヒップホップシーンを作ってきた富裕層出身者と、「ガリー」出身のムラドとの邂逅の物語でもある。
つまり、インドでヒップホップがリアルなものになる瞬間を描いた作品でもあるということだ。

アメリカの黒人の間で生まれたヒップホップという文化が、全く別の国、それも、貧富の差や与えられるチャンスの差が極端に大きいインドのような国で、どのような意味を持つことができるのか。
ヒップホップという文化の普遍的な価値を知ることができる映画である。

主人公ムラドのモデルになったラッパーNaezyは、iPadでビートをダウンロードし、そこにラップを乗せ、さらにiPadで近所で撮影したビデオをアップロードして、一躍インドのヒップホップ界の寵児となった。
(その後、この映画のモデルとなったことで一般的にも広く知られるようになり、さらにビッグな存在になった)
スタジオでレコーディングするお金はなくても、専門的な機材もコネクションもなくても、やり方次第で誰もが自分の表現を発信し、世に出ることができる。
たとえスラムで暮らしていても、インターネットというインフラさえあれば、工夫次第でいくらでもチャンスつかむことができる。 
これは、インドだけの物語でも、ヒップホップだけの物語でもなく、インターネット時代の普遍的なサクセス・ストーリーでもある。

「俺の時代がやってきた」とラップする、この映画を象徴する1曲。"Apna Time Aayega"


主人公のモデルとなったNaezyのアンダーグラウンドシーンでの成功を追ったドキュメンタリー。
ヒップホップ人気が沸騰する直前の、ムンバイのアンダーグラウンドシーンの雰囲気が感じられる映像だ。


最後にもう一度紹介する。
10月18日公開の、インドはムンバイの実在のストリートラッパーをモデルにした映画『ガリーボーイ』。
自分はたまたまインド好きの音楽好きということで、この映画に少し早く出会うことができたが、インドとか音楽とかに関係なく、できるだけ多くの人に見てほしい映画である。
あなたもぜひ。


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2019年06月20日

『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(前編)

(注:記事の性質上、映画のネタバレを含みます。未見でネタバレを望まない方は、ここでお引き返しください)

全国で公開中の歴史大作映画『パドマーワト 女神の誕生』(サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督)。
その美学とヒロイズムに貫かれた圧倒的な世界観については、以前このブログでも書いた通りだ。
「史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)」



「究極の映像美」という明確な売りがある映画とはいえ、その絢爛な舞台はヴェルサイユ宮殿ではなくラージャスターンのチットールガル城砦だ。
日本では、ほとんどの人が、「何それ?どこ?」という状況なわけで、日本の映画ファンが「インドの歴史大作」というなじみのないジャンルのこの作品をどう受け入れるのか興味があったので、映画を見た方がTwitterでつぶやく感想をたまにチェックしていた。
予想通り、「ディーピカーが神々しいほど美しかった!」とか「ランヴィールの狂いっぷりがすごかった!」とか「めくるめく映像美の酔いしれた!」といった、美や演技に関するものがほとんどだったのだが(『北斗の拳』を連想したアホーは私くらいだったようだ)、そのなかにいくつか気になるものがあった。

曰く、「冒頭に『サティ(夫に死なれた未亡人の焼身自殺)を推奨するものではない』とか言っておきながら、思いっきり殉死を美化してるのはいかがなものか」とか、「インドとパキスタン、ヒンドゥーとイスラームの対立が激化しているこのご時世に、アラーウッディーンを肉をむさぼりハーレムに女をはべらせるステレオタイプな悪役スルターンとして描くのはよろしくない」とか「バジュランギおじさんの爪の垢を煎じて飲ませるべき」といったもの。
「原作が古典なんだからしょうがないじゃん」とも思ったのだが、こういった感想はだいたいインドに詳しい方が書いているので「いくらスーフィー(イスラームの神秘主義者)の叙事詩が原作とはいえ」とあらかじめ断っていたりして、ぐうの音も出ない。
要は、インド社会の中でマイノリティーであったり弱者であったりするムスリムや女性に対しての配慮に欠ける、ヒンドゥーナショナリズム的で保守反動的な映画だという、実にまっとうな批判なわけだ。

確かに、こうした視点は重要である。
実際にこの映画はマレーシアでは「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったというし、インドでは公開前に「ヒンドゥーの王妃とイスラームのスルターンのラブシーンがある」という噂が立ち、逆にヒンドゥー至上主義者から反対運動が起きている。
『パドマーワト』はインドでもほかの国でも、宗教的なバックグラウンドと結びつけて捉えられており、日本のファンだけ能天気にそのへんの事情に無頓着というのも、あんまりよろしくないような気がする。

この問題についての私のスタンスを明確にしておくと、「古典が原作であり、過去が舞台である以上、現代の価値観と合わない部分があるのは仕方ない」というものだ。
インドの歴史において、かつては侵略者だったムスリムが、現在はマイノリティーであるというねじれた現実がある以上、こうした議論が避けられないのは致し方ないことだ。
映画を制作するうえで、必要以上に「ポリティカル・コレクトネス」にとらわれないバンサーリー監督の姿勢は、むしろ健全であるとも感じた。

それに、このストーリーの主人公は実質、ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンで、確かにステレオタイプな暴君として描かれているかもしれないが、それでもその描かれ方は、率直に言って非常にカリスマ的で「かっこいい」ものだ。
彼は『北斗の拳』のラオウや、『スターウォーズ』のダースベイダーのような、強さと誇りを併せ持った「愛すべき悪役」として描かれている。
ストーリー上、悪役として描かなければならないという前提のもとでは、最良の描かれ方をしているのではないだろうか。
この映画のなかでは、ことさらに宗教の違いが強調されているわけではなく、国と国、王と王との戦いがテーマであり、今回はその中の敵役がイスラームだった、ということだと解釈している。

とはいえ、これはヒンドゥーもイスラームもほとんど存在しない極東の島国での感想。
インドの現在の状況を踏まえた上で、「ナショナリズム的で反動的」という批判が的を射たものなのかどうか、できる範囲で確かめてみたいと思う。
そのためには、「ムスリムやインドの女性が、この映画をどう感じたのか」「この映画によって、イスラーム嫌悪や、女性蔑視的な風潮が強まったのか」を調べるしかない。
私にできるのはネットを使って調べることくらいだが、そんなわけで、今回は、インドを中心に、こうした観点から書かれているインドのメディアのレビューを紹介したいと思います。

 まずは、インドのニュースサイトScroll.inに掲載されたこの記事から。
"View from Pakistan: ‘Padmaavat’ puts together every stereotype of Muslims in India" 
(「パキスタンからの視点:「パドマーワト」はインドにおけるムスリムのステレオタイプの寄せ集め」)

パキスタン人の記者によるこの記事の冒頭では、パキスタンの教育では、南アジア地域の歴史のなかではヒンドゥー国家こそが暴君であって、イスラームの国家が人々を解放したと教えられていることが紹介されている。
そうした教育にもかかわらず、著者は、インド映画を見ることによって、ヒンドゥーの人々もまた自分たちと同じような良心のある人間だと知ったと述べている。
歴史教育や歴史の解釈は、ところ変われば真逆にすらなりうるもので、それでも人間の本質は地域や信仰によって変わるものではない、という「バジュランギおじさん」的な真理だ。
そのうえで、著者は、『パドマーワト』が美的な面では非常に優れていると認めるにしても、政治的な部分では人種差別的、性差別的、イスラーム嫌悪的だと指摘する。
この映画のなかのイスラームの描かれ方はあまりにもステレオタイプで、自分がかつてインド映画でヒンドゥー教徒を見て「彼らも同じ良心を持った人間」と感じたのとは真逆な、残虐な描かれ方をしている。
つまり、インドのヒンドゥーコミュニティに暮らす人々が、この映画を見ることによって、ムスリムに残虐な印象を持ちかねない、と危惧しているわけだ。
(著者は、「芸術は'ポリティカリー・コレクト'であるべきか」という論点にも触れており、必ずしもそうあるべきでないとしても目に余る、という意見なのだろう。) 
具体例として、ヒンドゥーの王ラタン・シンと王妃パドマーワティとの関係が愛に満ちたものとして描かれているのに対して、スルタンであるアラーウッディーンと彼の妻との関係は暴力的に描写されている点を挙げており、また夫への殉死であるジョウハルが解放の手段として描かれているなど、女性への重大な人権侵害を美化していると指摘している。
また、パドマーワティがラタン・シンの第二夫人だったという描写が欠けているという言及もあり、この記事は、『パドマーワト』におけるヒンドゥーとイスラームの描き方がフェアではないという批判なのである。

この記事に対する読者の反応がまた面白かったので、いくつかを抜粋して紹介する。
https://scroll.in/article/866261/readers-comments-was-the-portrayal-of-allaudin-khilji-in-padmaavat-islamophobic
(「読者コメント:『パドマーワト』におけるアラーウッディーンの描き方はイスラム嫌悪的だったのか?」)
  • 実際のアラーウッディーンは、野蛮というほどではないにしても、いくつもの国の侵略者であることは事実で、自らが国王になるために叔父を殺した人物である(=残酷な描かれ方もそこまで批判されるべきものではない、ということだろう)。アラーウッディーンの最初の妻は、歴史上は傲慢な人物だったが、劇中ではパドマーワティとラタン・シンを救う優しい人物として描かれている(=イスラームを好意的に描いている部分もある)。パドマーワティは指揮官の反対にも関わらず、単身デリーに乗り込んだ聡明で強い女性として描かれており、劇中の時代背景の中で名誉を守るために死を選んだからといって、それを今日の価値観で女性差別的だと考えるのは未熟である。
  • 著者の分析は正確。この映画は非常に反動的だ。
  • 著者は(名誉を守るための自死である)ジョウハルと、(夫の火葬の火に飛び込んで死ぬ)サティは全く別のものだと認識すべきだ。パドマーワティは自身が性奴隷となることを避けるために、自由意志で死を選んだ。女性蔑視的なのは著者のほうである。
  • 著者は考え不足だ。アラーウッディーンはムスリムとしてではなく、一人の常軌を逸した男として描かれていたし、映画を観に行く人はみんなそのことを理解している。パキスタン人であることが記者の視点に影響したのかもしれない。
  • これはあくまでも映画であって、歴史ではない。それに映画はジョウハルを賛美してもいない。 それは夫が戦争で殺された場合、女性が自分自身を守るためには死ぬしかなかったということを示しているだけだ。 ムスリムの描写に関しては、宗教に関係なく単に支配者として描いているだけであり、その支配者の信仰がイスラームだったということにすぎない。 アラーウッディーンは現在のインドだけでなく、現在パキスタンに属している地域も侵略していた(=現在の印パの対立に関連づけて考えるのはおかしいということだろう)。
  • (前略)いずれにせよ、私は『パドマーワト』を見に行くことはない。パドマーワティがジョウハルを恐れる描き方ならば見にいったかもしれないが。サティ廃止後150年が経った今、それこそが望ましい描かれ方だ。
  • この記事の見解は面白かったけど、映画のネタバレを含んでいるということが冒頭で触れられていなかったことを指摘したい。作品のレビューにネタバレを含むのであれば、免責事項として最初に書いてもらえると助かる。(=『パドマーワト』は最初に免責事項としてフィクションである旨やサティを美化していないことに触れているのだから、そのように見るべきだという皮肉か)
  • どうして記者は、アラーウッディーンの描写がムスリムの王としてのものであり、冷酷な一個人として描かれているのではないと考えるのだろうか?映画のどこで宗教について言及されているのか?記者の豊かな想像力のせいで、このレビューは過剰なものになっている。
  • この記事は新しい視点に気づかせてくれた。私はインドの都市部で育った53歳のヒンドゥー教徒だが、自分のまわりには多くの「反イスラム・バイアス」がある。著者は、このようにすでに偏ってしまっている社会の中で、この映画が、とくに若者によって、どのように解釈されるおそれがあるか、そして監督がどのような描写の仕方を選んでいるのかについて、優れた指摘をしている。私も、非論理的な部分では、反イスラム・バイアスを持っていた(今も持っているかもしれない)ことを認めざるを得ない。しかしパキスタンのテレビ番組を見て、そこに住む人々も我々と変わらないということを理解することができた。たとえこうした点に気づくのがインドのコミュニティの10%だとしても、今後の印パ関係をより良くし、ムスリムの性格のステレオタイプな解釈をしなくて済むようにしてくれたことについて、記者に感謝したい。

記者に同意する意見もいくつかあるが、アラーウッディーンの描写はムスリムとしてではなく一人の暴君としてのものであり、ジョウハルについても当時の歴史の文脈ので捉えるべきだという反論が目立つ。
ちなみに、名前を見る限り、ほぼ全てがヒンドゥー教徒からのコメントのようだ。


女優としての数々の受賞歴があり、サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督作品への出演歴もあるスワラ・バスカル(Swara Bhaskar)は、女性としての立場から、『パドマーワト』を批判している。
https://thewire.in/film/end-magnum-opus-i-felt-reduced-vagina
(‘At The End of Your Magnum Opus... I Felt Reduced to a Vagina – Only’ 「あなたの傑作は、結局のところ…女性器に矮小化されてしまっている…ただそれだけに」)

この批評で、バスカルは、バンサーリー監督への手紙の形式を取って、まず多くの反対運動にも関わらず、犠牲者を出さずに公開にこぎつけたこと、そして出演者のすばらしい演技に祝意をあらわしている。
そのうえで、この映画に登場する女性は、男性の「性の対象」でしかないという観点からの批判を繰り広げている。
彼女は、全ての女性には自分の人生を生きる権利があり、性的なだけの存在では決してなく、仮にレイプ被害にあったとしても人生は生きるに値することを強調している(つまり、女性が敵への服従よりも死を選ぶジョウハルの描写を批判しているわけだ)。
いくら冒頭で「サティを美化しているのではない」と宣言しても、都市部では女子学生が、農村部ではアウトカーストの女性がレイプされ、必死の抵抗にもかかわらず殺害されている現代のインドで、このような描き方をするべきではないと舌鋒鋭く主張している。
また、ジョウハルが決して遠い過去の話ではなく、印パ分離独立の際にも、女性が他宗教の男性からの性暴力から逃れるために行われており、決して大昔の歴史の一部として美化できるものではないとも述べた上で、それでも監督の表現の自由のためであれば、自分もともに戦うことを宣言して、手紙を結んでいる。


こうした批評を読むと、『パドマーワト』のムスリムや女性の描き方に対する意見の違いは、そもそもの視座が違いが理由となっていることが明らかになったと思う。
すなわち、批判的に見ている人たちは、この物語を現代の物語として見ており、アラーウッディーンの描写を残虐なムスリムのステレオタイプとして捉えている。
一方で、映画の描き方に問題がないと考えている人たちは、この物語を歴史を舞台にしたフィクションとして見ていて、アラーウッディーンの描写は宗教に関係のない暴君の典型だと捉えている。

客観的に見ると、アラーウッディーンがムスリムであったことは紛れのない歴史的な事実だが、バンサーリー監督は、この映画の中で信仰をことさらに強調する描き方をしないよう、気を配っているように思える。
強烈な悪役として描く以上、表現者としての配慮をしたのは確かだろう。
その配慮が十分であったのか、それとも、そもそもスルタンを暴君として描くこと自体、今日のインドではすべきでないのか、という問いとなると、もはや誰もが納得できる答えを出すことは不可能だ。

また、この視座の違いは、インド社会の中で弱者の地位に甘んじているムスリムや女性としての立場に基づくのか、それとも彼らの危機感の対象である、ヒンドゥーもしくは男性としての立場に基づくのか、という違いでもある。

マイノリティーからの「自分たちが脅かされるのではないか」という異議申し立てに対して、マジョリティーの側が「心配には及ばない」と答えているという図式である。
とはいえ、マイノリティー側は、直接的な影響ではなく、ムスリムや女性により抑圧的な「風潮」が静かに強まることに対して危惧を抱いているのだろうし、そういった風潮がこの映画のせいで強まったのかどうかということについては、これまた測りようがない。
(マイノリティーの危惧にはそれだけの理由があり、映画の評価とは別の部分で根本的な対策が必要であることは言うまでもないが)

それにしても、インドで、一本の映画に対して、メディア上でここまで健全な、成熟した議論が行われているということに、うらやましさすら覚えてしまうのは私だけではないだろう。
議論好きで理屈っぽいインド人の、最良の部分が出ている感じである。

次回、後編では、こう言ってはなんだが、さらに面白い『パドマーワト』批判と批評をお届けします。
歴史的な観点からの批判と、さらに心理学的な観点からの驚愕の映画分析!
乞うご期待!
(つづく) 


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2019年06月16日

ソーシャル・メディア時代のボリウッドの傑作!『シークレット・スーパースター』!

日本公開が決まった2017年の大ヒットヒンディー語映画『シークレット・スーパースター』がめっぽう面白かった。
主演は『ダンガル きっと、つよくなる』で子役を演じたザイラー・ワシーム(Zaira Wasim)。
主人公の母親役に『バジュランギおじさんと、小さな迷子』でも迷子の女の子の母を演じたメヘル・ヴィジュ(Meher Vij)。
アーミル・カーン(Aamir Khan)は物語の鍵を握るくせものの音楽プロデューサーを演じるとともに、製作とプロデュースにも名を連ねている。
監督・脚本は今作が監督デビューとなるアドヴェイト・チャンダン(Advait Chandan)。
ボリウッドの王道的なサクセス・ストーリーを、現代インドを舞台にしたみずみずしいエンターテインメントに仕上げている。
本国インド、そして中国での大ヒットを経て、いよいよ8月9日に日本公開となる。
(6月18日追記:日本版の予告編がついに解禁!新たに貼っておきます)


(オリジナルの予告編はこちら)
 

【あらすじ】(試写会でのパンフレットから抜粋)
インドに暮らすインシアは、両親と祖母、弟と暮らしている。
父親は、権威的で、母親に暴力をふるうこともしばしば。
インシアは、歌手を夢見てギターを弾き、自分で曲を作っていた。
父からは叶わない夢にうつつを抜かすなと厳しく歌を禁止されていたが、母はインシアを応援しており、ある日父親に内緒でノートパソコンを買い与える。
そこでインシアは、母の提案もあってブルカで顔を隠してYoutubeで自分の歌う姿をアップする。
するとその歌声はたちまちインド中で話題になり、新聞やTVまでもが、"シークレット・スーパースター"の話題で持ちきりとなる。
自分の歌声が響き、たくさんの人に聞いてもらっていることに喜びを感じるインシア。
しかし、父に隠れて歌を歌っていることがバレてしまい、投げやりになりノートパソコンを壊してしまう。
そんな時、有名ではあるが若干落ち目の音楽プロデューサー、シャクティが彼女を見つける。
インシアは学校にも親にも内緒で、彼女を支えてくれる友人チンタンの助けを得てシャクティに会いに行く。
最初にシャクティから渡された曲は全くインシアに合わない曲だった。
上手く歌うことのできないインシアをみて、プロデューサーたちはがっかりし、諦めかけていた時、インシアはシャクティの昔のバラードを歌いたいと願い出る。
そこで歌った彼女の歌声が全員の心を掴んだ。
しかし帰ってきた彼女には大きな障害が立ちはだかっていたのだった…。



全編を通して印象に残ったのは、役者たちの演技の素晴らしさだ。
主演のザイラー・ワシームは、夢見る少女の素朴さ、夢に向かう力強さ、夢破れそうになる絶望や淡い恋への不器用さを見事に演じきっており、彼女に想いを寄せる同級生チンタン役のティルト・シャルマ(Tirth Sharma)とのかわいらしい恋模様も良いアクセントになっている。
ザイラー・ワシームは、インド映画の典型的なヒロイン女優とは違って絶世の美人タイプないが、平凡にも見える彼女がシーンによってこの上なくかわいらしく見えたり、頼もしく見えたり、時には孤高にすら見える名演を見せている。
カシミール出身のムスリムである彼女は、先日、自身の信仰生活を大事にするために女優業からの電撃引退を発表したばかり。
この稀有な女優の一世一代の名演技をぜひ目に焼きつけてほしい。
脇役陣も素晴らしく、娘のことを思いながらも運命に抗うことができない母親役のメヘル・ヴィジュも、鬼気迫る封建的な父親役を演じた父親役のラージ・アルジュン(Raj Arjun)も迫真の演技で、夢や恋を追う若い世代との対比が、物語にいっそうの深みを増している。
アーミル・カーンは、傲慢でいかがわしいが、音楽の才能を見抜くことに関しては天才的なプロデューサー役。
シリアスなストーリーの中で唯一のコミカルな役柄で、彼が登場するたびに映画の空気感が変わり、笑いが起きる存在感はさすがだ。
このあらすじに書かれていない細やかな伏線もすばらしく、150分の長丁場だが、誰もが飽きることなく楽しめて感動できる作品になっている。

インシアの歌を吹き替えたのは、2001年生まれのプレイバックシンガー、Meghna Mishra.
幼さと力強さを兼ね備えた歌声が印象的で、この映画でいくつもの映画賞・音楽賞に輝いた。

シャクティが提案した無内容でセクシーなダンスミュージックの代わりに歌うことを選んだのは、若き日のシャクティが作ったラブソング"Nachdi Phira".

曲調にも歌い方にもインドっぽい要素がほとんどないので、典型的なインド映画のミュージカルシーンが苦手な人にも違和感なく受け入れられるはずだ。
映画のストーリーにも見事にはまっており、映画のなかで見ると、この歌の魅力は何倍にも増して聴こえる。

古い価値観からの解放と夢や自由の追求、世代間の断絶というインドの娯楽作品の古典的なテーマがこの作品のタテ糸であるとすれば、ヨコ糸はインターネット時代に抑圧された立場の女の子がどう夢を実現させるかという現代性だ。
古典的な主題に、インターネットという現代的なツールを取り入れ、音楽を通して夢の実現を図るという構図は、今年本国で大ヒットしたヒップホップ映画"Gully Boy"とも対比できる。
「映画"Gully Boy"のレビューと感想」

どちらの作品も、主人公が自身の育った環境のなかで名乗ることになった「芸名」が映画のタイトルになっており、自分の音楽をようやく手に入れたPC("Gully Boy"の場合はiPad)を使ってYoutubeにアップすることで成功への道を歩んでゆく。
ムンバイのスラムを舞台にした"Gully Boy"とは、作品の質感こそ全く違うが、とてもよく似た構成なのだ。

PCを手に入れたインシアは、母と弟とともにネット上の音楽や映画を楽しみ、ともに踊り、新しいレシピの料理に挑戦する。
姿を隠して歌う動画をアップロードしたインシアの「大勢の人が歌を聴いてくれたわ!会ったこともない人たちよ!」 というセリフは、インターネット環境を手に入れることで、飛躍的に世界が広がり、自身の才能ひとつで経済的、地理的、社会的なさまざまなギャップを乗り越えて成功できる「インドの新しい夢」を象徴するものだ。

「親子の価値観の対立」は、インド映画で頻出するテーマだが、この作品でも大きな意味を持っている。
インシアのいちばんの理解者である母は、彼女が音楽を楽しむことを容認しているが、音楽が彼女のキャリアになるとまでは思っておらず、女性が従属的な立場で生きるしかないことを受け入れている(というか、他の生き方を知らない)。
古い価値観のなかで考えることをやめてしまった母の生き方は、才能と機知でチャンスをつかみ、現状を打開しようとするインシアとは見事に対照的だ。

封建的な考えを持ち、家族を束縛し、ときに暴力すら振るう父親は、夢や自由を阻害する徹底的な悪役。
"Gully Boy"の主人公Muradの父親がそうであったように、インシアの父もまた、娘が音楽の道に進むことを認めない、古い価値観の象徴として描かれる。
だが、丁寧に映画を見てゆくと、彼もまた彼なりに家族を愛していることが示唆されている部分がある。
インシアの弟への接し方もそうだし、学校でも塾でも授業そっちのけで音楽のことばかり考えている娘に対して心配し厳しく接するのも、常軌を逸した怒り方さえ別にすれば、そこまでおかしなことではない。
暴力は論外としても、女の子の誕生を喜ばず、娘に良い結婚をさせるために、音楽に夢中になるよりも高い学歴を求める父の価値観もまた、彼だけの悪徳ではなく、彼が生きてきた時代や社会によって育まれたものなのだ。
保守的な価値観の中で生きてきて、家族のために遅くまで働いている父が、妻と子どもが自分とは違う価値観の中に生きるようになってしまったことに、孤独と焦燥のなかにいるであろうことは想像に難くない。
この映画では、分かりやすい「悪役」として描かれているが、新しい時代の考えについてゆけず、父もまた苦悩していることを丁寧に描けば、また別のインド社会の一面を表現することもできただろう。
(そこを描ききらなかったことで、娯楽作品としてのこの映画の価値が下がっているわけではないが)
映画のなかでは「束縛の象徴」として、逃避すべき存在として描かれているが、ここに描かれた「断絶」は、インド社会全体の断絶でもあり、逃避以外の解決策が提示されないのは、いささか絶望的でもある。

また、信じられないほどのYoutubeの再生回数を叩き出し、有名音楽プロデューサーやインドじゅうの人々から絶賛されるほどの才能を持っていないと、古い価値観の束縛から自由になれないのかと思うと、やはりこの映画で描かれたような「成功」は一般庶民からは遠い夢なのだろうな、と感じさせられたりもした。

この『シークレット・スーパースター』は、こんなふうに現実の社会問題を扱いながらも、優れたインドの現代劇がいつもそうであるように、爽快な娯楽作品として、非常に高い完成度を誇っている。
インドの社会問題と関連して、少しネガティブな感じのことを書いてしまったが、映画を娯楽として楽しむ上では全く気にしなくて良い視点なので、あしからず。

試写を見ていて、たくさんのインドのミュージシャンのことが頭に浮かんだので、そのうち何組かを紹介してみたい。

まず最初に紹介するのは、懐かしのボリウッド映画のヒットソングをロックアレンジでカバーし、Youtubeにアップしてスターとなったバンド、"Sanam".
これは1972年の映画"Mere Jeevan Saathi"からの楽曲"O Mere Dil Ke Chain".


今ではモルディブロケまで行うほどに成長し、この1970年の映画"The Train"のカバー曲"Gulabi Aankhen Jo Teri Dekhi"は1億ビューを超える視聴回数を叩き出している。

「Youtubeでスターダムにのし上がる」とか「無内容な最近のダンスミュージックよりも、昔の心のこもった音楽のほうが良い」というテーマは、まさに「シークレット・スーパースター」と重なるものだ。

ムンバイの女性ラッパー、Dee MCは、インド社会で抑圧されがちな女性のエンパワーメントをテーマにした楽曲を数多くリリースしている。

父親が海外に出稼ぎに出ていたために、家で気兼ねなくインターネットを使うことができ、ヒップホップに出会って、家族からの反対にもめげずにラッパーとなったという彼女は「ヒップホップ版インシア」だ。
この曲は、生理を不浄なものとされてきたインド女性の解放をラップする"No More Limits".
彼女については以前の記事「インド女性のエンパワーメントをラップするムンバイのフィーメイル・ラッパーDee MC」で詳しく紹介している。

映画の中に、お母さんの無償の愛を讃える歌、"Meri Pyaari Ammi"が出てくるが、家族への愛情をストレートに出すお国柄のインドでは、こうした「お母さんに捧げる歌」がたくさんある。

曲の冒頭で、鉛筆とゴムで即席のカポ(ギターのフレットを抑えるための器具)を作るところ、あり合わせのものでどうにかして音楽をしようとするインシアの一途さが伝わってくる、好きなシーンだ。
この曲を聴いて思い出したのは、女性シンガーAbhilasha Sinhaの"Mother".

この曲は、かつてはKomorebiの名前で活動するエレクトロニカアーティストのTarana Marwahらとのトリオを結成していたAbhilashaのソロデビューシングルで、インドを遠く離れてニューヨークで暮らす彼女が故郷の母を思って作曲したもの。
(関連記事:「母に捧げるインドのヒップホップ/ギターインストゥルメンタル」

映画のなかでは、落ちぶれているが腕は確かなボリウッドの音楽プロデューサーのシャクティ・クマールがインシアの才能を評価してプロデュースを申し出るが、インディーミュージックの世界でも、若い才能をすでに世に出ているミュージシャンがサポートした事例がある。
ジャールカンドのラッパーTre Essと、ギタリストのThe Mellow Turtleがプロデュースしたのは、同郷の盲学校の生徒たち、Dheeraj & Subhashによる楽曲"Dil Aziz"だ。

歌っているDheerajは15歳、作曲したSubhashはまだ14歳。
幼さと深みの同居する歌声に、ふとインシア(というか、プレイバックシンガーのMeghna Mishra)を思い出した。
彼らもまたスターへの道を歩むことができるだろうか(ちなみに現時点でのYoutubeの再生回数は33万回)。


最後に、知らなくてもいいけど知っているとより楽しめる、私が気がついた『シークレット・スーパースター』の面白い部分をいくつか紹介します!

  • 「謝る」ことがテーマとなるシーンがあるが、そこで使われるのはヒンディー語ではなく、英語の「ソーリー」。「インドの言語では『ありがとう』『すみません』『ごめんなさい』がない」とよく言われるが(実際はあるが、ほぼ使われない)、それを象徴するシーンだ。
  • インシアが、アーミル・カーン演じるくせものプロデューサーのシャクティに「ダンスソングじゃないと映画がヒットしないんだ」と言われて「『愛するがゆえに』はバラードばかりでもヒットした」と言い返すシーンがある。シャクティの作った往年のバラードを見事に歌い上げたインシアに、シャクティは「スター誕生だ」と絶賛する。この『愛するがゆえに』は、日本でも公開されたボリウッド映画"Aashiqui 2"のことで、ストーリーはハリウッドの『スター誕生』のインド版リメイクだ。このセリフは訳者さんの粋な心遣いだろう。
  • その"Aashiqui 2"は2013年の大ヒット映画。ゴアのバーで歌っていた歌手志望の女の子を落ちぶれた人気歌手がスターに育て上げるストーリーは「シークレット・スーパースター」にも通じるものがある。だが、"Aashiqui 2"では主人公がスターになる手段としてSNSは出てこず(「スター誕生」という原作があるからかもしれないが)、主人公の歌い方もインシアのような素朴なものではなくて古典音楽をベースにした技巧的なもの。ここ数年のインドの社会や音楽の変化を感じることができる。
  • 物語のなかで「女の子の誕生自体が望まれていない」というインド社会の問題が示唆されるが、実際にインドでは女児は結婚するために高額の持参金が必要とされることから、違法な堕胎が数多く行われている。インドにおける男女別の出生数は、男子1,000人に対して女子は900人という数字からも、問題の深刻さが分かる。この映画の舞台となったグジャラート州では男子1,000人に対して女子は854人と、インドのなかでもとくに女子の出生数が少ない州のひとつだ。ちなみにインドのなかで女子の出生数がいちばん多いのは、進歩的な土地柄で知られるケーララ州で、それでも男子1,000人に対して女子967人。(参考:https://niti.gov.in/content/sex-ratio-females-1000-males
  • 歌手として紹介されるモナリ・タークル(Monali Thakur. 女優も務める)やシャーン(Shaan)は、実際のスター歌手のカメオ出演だ。
  • サウジアラビアへの引っ越しが、夢を失うことと同義に語られているのは、世俗国家であるインドと比べて、女性の自由が大きく制限されているからでもある。

と、いろいろと書かせてもらったが、適度な同時代性と社会性を孕みつつ、150分を飽きずに楽しませ、笑わせ、感動させてくれる『シークレット・スーパースター』は、優れたインド映画がいつもそうであるように、映画という娯楽の面白さがぎゅっと詰まった大傑作!
インドの社会背景を題材にしながらも、近年のインド映画のヒット作品『バーフバリ』や『バジュランギおじさん』と比べると、「インド臭さ」は少なく、インド映画ファン以外にも大いにアピールする内容だ。
ぜひみなさんお誘い合わせのうえご覧になることをお勧めします!

(2019.8.7追記 この映画のパンフレットで、映画の内容と関連して現代インドの音楽シーンを紹介するコラムを書かせてもらいました!映画だけでなく是非パンフレットもお楽しみください!他にも映画をさらに深く味わえる記事が盛りだくさんです!)

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goshimasayama18 at 17:01|PermalinkComments(0)

2019年05月15日

インドのカルトロック映画"Rockstar"とは?

「パドマーワト 女神の誕生」の試写会でもお世話になったインド・イスラーム研究者の麻田豊先生から、「インドの現代音楽のことを書いているなら」と、"Rockstar"というヒンディー語映画のDVDを貸していただいた。
この映画は2011年に公開されたImtiaz Ali監督による大ヒット作品で、主演はRanbir Kapoor、ヒロイン役にNargis Fakhri.
英語版Wikipediaによると、今日でもインドの若者の間でカルトクラシックとして人気がある映画だそうだ。

ロック映画ということでやはり音楽が気になるが、手がけているのは、あのA.R.Rahman.
ご存知の方も多いと思うが、90年代初頭にタミル語映画の音楽からキャリアをスタートした彼は、手がける楽曲の斬新さと質の高さであっという間に人気を博し、インドじゅうの大作映画の音楽を手がけるようになった。
彼の活躍の舞台はインドにとどまらず、2009年にはムンバイを舞台にしたイギリス制作の映画「スラムドッグ・ミリオネア」でアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞を受賞。
映画音楽以外ではミック・ジャガー、ダミアン・マーリー、ジョス・ストーンらによる夢のプロジェクトSuperheavyに参加するなど、現代のインドを代表する音楽家である。
ご存知でない方は、インドにおける坂本龍一と久石譲と筒美京平と桑田佳祐を足して割らないくらいの存在だと思えば間違いないだろう(それよりもビッグかもしれないが、その誰よりも若く彼はまだ52歳だ)。
1994年には早くもヒップホップを取り入れるなど、新しい音楽への目配りも聞いており(こちらの記事を参照)、メインストリームの音楽を好まないインドのインディーミュージシャンたちの中にも、彼の影響を公言する者は多い。
しかしながら、映画のために彼が作る音楽は、いかにも映画音楽らしい、よくいえば重厚な、悪くいえばオーバープロデュース気味な、ロックとは真逆なもの。
果たしてロックとタイトルに冠したこの映画では、どんな音楽を聴かせてくれるのだろうか。
Rockstar

音楽についてはひとまず置いておいて、まずはストーリーの内容から。
こんな80年代のヘヴィーメタルバンドみたいなタイトルのロゴなので、あまり期待しないで見たのだが(麻田先生ゴメンナサイ)、これがまた素晴らしかった。
この映画のストーリーはこんなふうに始まる。
(ずいぶん前の映画でもあり、今後日本で上映される予定もなく、また英語版Wikipediaにも載っていることなので、あらすじを最後まで書いてしまっています。読みたくない方はここでお引き返しを)


物語は「ここから遠く離れた善悪の彼岸に、あなたに会える場所があるだろう」(Miles away from here, beyond good and evil, there's a ground. I will meet you there)という独白から始まる。
国際的ロックスターのJordanことJanardhan Jakharは、イタリアでの大規模野外コンサートを前に苛立ちを隠せず、大暴れした挙句、乗り合いバスに飛び乗ってようやくライブ会場に到着した。
熱狂する大観衆を目の前にした彼は、これまでの人生に思いを馳せる。(ここから、彼の回想として物語が始まる)

大学生の頃のJanardhanは、ジム・モリソンに憧れて歌手を目指す純朴な若者だった。
だが、不器用な彼の歌を聴こうとするものは誰もいない。
行きつけの食堂の店主に「スターになるためには、心の痛みを知る必要がある」と言われ、自分が何の苦労も悲しみも知らない平凡な人間であることに気づいた彼は、心の痛みを知るためだけに失恋を経験しようと決意する。
彼は大学のダンスコンテストで踊る美女Heerに一目惚れし、失恋の痛みを知るために猛烈なアプローチを始める。
初めのうちは全く相手にされなかったが、やがてHeerは少しずつ彼に心を開いてゆく。
イニシャルからJ.J.という名前を名乗っていた彼は、彼女にもっとロックスターらしいJordanというあだ名をつけられ、以後この名前で音楽活動をすることになる。

Heerは卒業後にチェコのプラハに暮らす裕福な婚約者と結婚することが決まっていた。
彼女は、それまでの時間をJanardhanと「独身のうちにしかできないような安っぽい楽しみ」をしながら過ごすことにしたのだ。
本当のHeerは、良家のお嬢様などではなく、刺激のある暮らしを楽しみたい活発な女の子だった。
下町の映画館で反道徳的な映画を見たり、強い酒を飲んだり、クラブに繰り出したりしているうちに、彼女は本当の自分を受け入れてくれるJordanに惹かれてしまう。

結婚すれば裕福だが退屈な生活を一生送ることになる。
彼女の心は、結婚を前に「どう(誰と)生きたいか」と「どう(誰と)生きなければならないか」に引き裂かれてゆく。
二人は彼女の故郷カシミールで結婚式の直前まで楽しい時間を過ごし、惹かれあいながらも、お互いの本心を隠したまま別れの時を迎える。

失恋の悲しみを知ったJordanは、歌手としての実力と名声を少しずつ上げてゆくのだった。

というのが序盤のストーリー。
読んでいただいて分かる通り、かなり荒唐無稽というかムチャクチャな展開である。
Jordanはドアーズのジム・モリソンに憧れている(若いのにシブすぎる!)という設定なのに、みんなの前で弾く曲はMr.Bigの"To Be with You"だし、食堂のオヤジに言われたことを鵜呑みにしてスターになるために失恋を決意するというのも、いくらなんでも純粋すぎる。
インド映画にありがちなことだが、Heerにしつこくつきまとう彼は完全にストーカーだし(インド映画に免疫のない人が見たら絶対引く)、ロックスターを目指す若者がアルコールを飲むだけで大冒険というのもお国柄とはいえ無邪気すぎる。

二人が下町オールドデリーの映画館で見た映画の題名は"Junglee Jawaani".
"Wild Youth"という意味のこのタイトルは、型にはまった結婚生活とは対照的な、自由な青春時代を象徴するものとして、この映画の中で効果的にくり返される。
タイトルが主人公と同じイニシャルのJ.J.なのも偶然ではないのだろう。
喜劇調に始まったストーリーが、少しずつシリアスに転換し、Jordanが好青年から影のあるロックスターに変化してゆくさまはこの映画の大きな見所のひとつだ。


カシミールから戻ったJordanは、勝手に家をあけて家族の知らない女の子の結婚式に出ていたことを咎められ、勘当されてしまう。
ギターを持って家を出た彼は、イスラームの聖者廟でカッワーリーを歌ったり、ヒンドゥー寺院でバジャンを歌ったりして暮らしていた(いずれもそれぞれの宗教の神への帰依を歌う音楽)。
Jordanの評判を耳にしたレコード会社は、彼を見つけ契約しようとするが、Heerを失った彼は思い悩んでいた。
だが、レコード会社と契約すればHeerの暮らすプラハでのコンサートに出演できることを知った彼は、 彼女に再び会うために契約を結び、歌手として彼女が暮らす街を訪れる。

裕福だが退屈な暮らしで精神を病みかけていたHeerは、Jordanと再会できたことで笑顔を取り戻した。
時間の許す限り、結婚前の日々のような「安っぽい楽しみ」の時間を過ごす二人。
ストリップを見に行ったり、安いディスコで踊ったり、赤線地帯に行ってみたり。二人きりの刺激的な時間を過ごす中で、とうとうJordanはHeerの関係は、許されないところまで進んでしまう。
プラハでのコンサートは大成功し、Jordanはメディアからも大絶賛を受ける。
しかしJordanはHeerへの愛を抑えきれなくなっていた。
家庭を壊してしまうことに恐怖を覚えたHeerは、彼を愛していながらも拒絶してしまう。
自制心を失った彼は、夜中にHeerの家を訪ねたことで不法侵入のかどで逮捕され、インドに強制送還されることになる。



これが中盤の展開。
ロック映画なのに主人公が下積み時代にカッワーリーやバジャンを歌ってしまうところがいかにもインドらしい。
この映画は宗教を主題にしたものではないから、ここでは宗教歌は特定の信仰の表明ではなく、超越者への帰依を通して自分自身からも自由になり、まだ知らぬ境地へ焦がれる気持ちを表すものとして扱われている。
音楽という芸術を模索する姿が、信仰心に重ねて表現されているのだ。
コブシの効いたカッワーリーにはロック的な歌唱法がよく似合う。
冷静に考えれば、チェコでは無名であろうインド人歌手が大ホールでコンサートを行うことや、そこに多くのマスコミが詰めかける点など、ツッコミどころはたくさんあるが、緊張感を持ったストーリーは見るものをぐいぐいと引き込みながら終盤に向かって進んでゆく。


Jordanの強制送還はインドでも大スキャンダルとなっていた。
警官相手にも粗暴に振る舞う彼は、ロックスター としての危険な魅力をまとっていた。
この話題を利用したいレコード会社は、このタイミングでCDをリリースし、彼は一躍大スターとなる。
だが、Heerを失った彼の心の傷は癒えず、彼の奇行は激しさを増し、それにともなってますます人気も高まってゆく。

2年後。
すっかり退廃的なロックスターとなった彼は、Heerの妹から、彼女が不治の病の床についていることを聞かされ、すぐにプラハに駆けつける.
彼女の家族は彼を歓迎しなかったが、彼が来たことでHeerは奇跡的な回復の兆候を示し、家族も彼の存在を受け入れざるを得なくなる。
結婚前のように二人の時間を過ごすJordanとHeer.
Jordanにとってもファンからの喝采では満たされなかった孤独が癒され、久しぶりに幸福を感じられる時間となった。
Heerは驚くべき回復を見せ、インド北部のヒマーチャル・プラデーシュでコンサートを行う彼に同行する。
独身時代の最後にJordanと見たヒマラヤを、もう一度二人で見たかったのだ。
人妻との恋愛スキャンダルを聞きつけたマスコミがJordanの元に殺到するが、彼は何も答えず、ホテルの部屋の中で二人は束の間の満たされた時間を過ごしたのだった。
だが、帰国したHeerは急激に体調を悪化させ、ICUに入院してしまう。
彼女はJordanの子を妊娠していたのだ。
すぐに病院を見舞った彼だったが、Heerは目を覚まさない。
愛するものを失うかもしれない焦燥感を抱えたまま、Jordanはイタリアでのコンサートに出演することになる(ここで、冒頭のシーンに繋がる)。
ステージで喝采を浴びる彼に、Heerの幻が現れ、二人で過ごした幸福な時間が彼の心に次々と浮かんでゆくのだった。



というのがこの映画のあらすじ。
安っぽい部分や予想がつく展開も多いが、それでも緊張感を持ったまま進んでゆくストーリーには飽きさせられなかったし、この時代のインドでのロックの描かれ方も面白かった。

スターとなった彼が出演したインドでの野外ライブのシーンでは、会場に掲げられたスローガンから、このコンサートが自由を求める市民運動の一環であることが分かるようになっている。
ロックが若者の心の内面だけを扱うものではなく、社会的なメッセージをも持った音楽であることを示唆した一場面と言えるだろう。
富と名声を得てもなお満たされないJordanの姿はニルヴァーナのカート・コバーンを彷彿とさせるし、ホテルのベッドのシーツにくるまって二人きりの時間を過ごすJordanとHeerは、60年代のジョン・レノンとオノ・ヨーコを思い起こさせる。
だが、典型的なロックスター像を題材にしながらも、この映画のテーマは、じつは典型的なインド映画とまったく同じものなのだ。

つまり、
・結ばれない運命の恋愛
・夢や自由の追求
・青春時代の自由と、その後の決められた退屈な人生
・親と子の世代間の葛藤
・夢を叶えるための大きすぎる代償
といった要素を中心に物語が構成されているというわけだ。

ありきたりとも言えるテーマを見応えのある作品に仕上げたのは、ひとえに監督の手腕と俳優たちの演技力によるものだろう。
主演のRanbirは純情な青年時代から退廃的なロックスターへの成長を見事に演じているし、Heerを演じたNargis Fakhriはこの映画がデビュー作ながら、高嶺の花のイメージの学生時代から、道ならぬ恋に溺れる結婚後の姿まで、難しい役柄を演じきっている(ちなみに彼女はパキスタン人とこの映画の舞台でもあるチェコ人とのハーフで、米国籍)。

中産階級の平凡な若者だったJordanが、ロックスターになるために必要な辛い経験を何もしていないことに悩むシーンは、コミカルではあるが、発展途上国のロック黎明期にありがちなパラドックスを示している。
つまり、アメリカやイギリスで労働者階級の反骨の音楽として誕生したロックは、途上国では高価な楽器が買える人々しか演奏することができない富裕層(少なくとも中産階級以上)音楽になってしまうということだ。
(その点、今年公開された"Gully Boy"は、ヒップホップという楽器すら必要としない音楽をテーマにすることで、都市の持たざるものの声が音楽に乗せられる瞬間を扱ったものとして、やはり歴史的な意味がある作品と言えるだろう)

この映画が公開された2011年は、インドではようやくインディーズのロックバンドの活躍が見られるようになった時代。
インターネットの発展で海外の音楽にも容易に触れられるようになり、大衆映画の観客にもロックのイメージが知れ渡った時期だったはずだ。
ワイルドで退廃的なロックの描かれ方は紋切り型だし、インド人ロックスターがヨーロッパで大人気になるという設定も現実離れしているが、それでも定番のテーマの映画に新しい息吹を吹き込む要素として、ロックが選ばれるべき時代だったのだろう。

また、Jordanの姿は、ロックスターであると同時に古典的な求道者の姿にも繋がる描かれ方をしている。
とくにスターとなった彼が衣装として着用する帽子は、古の時代の詩人やスーフィー(神との合一を目指すイスラームの修行者で、「イスラーム神秘主義者」と訳される)を想起させるものだ。
最後のシーンではHeerの死が示唆されるが、永遠に満たされない自分の片割れを希求する気持ちがロックの源泉となるというテーマは、ギリシア神話に着想を得たロック映画の名作「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」とも共通している。
つまり、ロックを扱いながらも、芸術や絶対者との合一の追及という普遍的な主題が、この映画の根底となっているのだ。

もうお分かりだろう。
冒頭の「ここから遠く離れた善悪の彼岸に、あなたに会える場所があるだろう」という言葉は、恋人(生きていても一緒になることができない人の妻でもある)を失った苦しみを抱えたままロック道を精進することで、恋人との現世を超えた次元での再開と合一を願う(そしてそれは神との合一ともつながる)という、ロック映画にしてはものすごく大げさで、同時に極めて古典的な世界観を表しているのだ。
こうした古典的で普遍的なテーマが巧みに表現されているからこそ、リアリティーに欠けるストーリーであっても、多くの人の心を打つヒット作品となったのだろう。
ここまで考えると、Jordanの憧れがジム・モリソンだというのも納得がいく。
ジムが単なる享楽的なイメージのロックスターではなく、奇行で知られながらも、どこか神秘的で、哲学的なイメージすらあるカリスマだからである。

さて、最後になったが、肝心のA.R.Rahmanによる音楽について。
Rahman流のロックを楽しみにしていたのだが、結論から言うとこの映画の音楽は、クオリティこそ高いものの「ロックの要素の入ったいつものRahman流映画音楽」に他ならなかった。
ロック音楽を聴かせることよりも、前述のような古典的なテーマを見せることが趣旨であることを考えれば致し方のないことだろう。
とはいえ、印象に残った楽曲を紹介したい。

Heerが結婚してしまった後の飾り気のない心情を歌う弾き語りから始まり、映画の場面に合わせてクラブのシーンでのダンスミュージックにつながってゆく展開が見事な"Phir Se Ud Chala".


チェコのストリートミュージシャンやジプシーっぽいダンサーと共演する設定の"Hawaa Hawaa"は、ジプシー音楽のルーツがインドにある(ラージャスタンのあたり)ことを思い出させる楽曲だ。


プラハでの許されない逢瀬からライブのシーンにつながる"Aur Ho"は、後半のドラムが入ってくるあたりで、レッド・ツェッペリンがインドやアラブの音楽を取り入れた楽曲に少し似た雰囲気になる。



今回もずいぶん長くなってしまいました。
蛇足ですが、実際に活躍するヒンディー語で歌うロックバンドを2つほど紹介しておしまいにします。
まずは、このブログでも以前紹介したデリーのバンド、Anand Bhaskar Collective.
RockstarのJordanのように、古典声楽の要素の入ったヴォーカルが特徴のバンドの代表曲は、"Hey Ram".
マハートマー・ガーンディーの最後の言葉でもあるタイトルのこの楽曲(「おお、ラーマ神よ」の意)は、宗教間の争いをテーマにしたもの。


古典音楽色の強い歌とバイオリンが、よりインドらしさを感じさせる"Malhar".

Pearl JamやSoundgardenのような90年代のアメリカのオルタナティブ・ロック風の楽曲に、こんなにインド風の歌い回しが合うとは思わなかった。


チャンディーガル出身で、現在はデリーを拠点に活動しているThe Local Trainは、ヒンディー語で歌いながらも、欧米のロックを思わせるメロディーラインを聴かせてくれるバンドだ。

毎回完成度の高いビデオを作っており、この"Khudi"はRolling Stone India誌が選ぶ2017年度ベストミュージックビデオの第3位に選ばれている。

2018年にリリースされたアルバム"Vaaqif"から、"Dilnawaz".

彼らの楽曲のクオリティーはとても高く、もし彼らが英語で歌うアメリカかイギリスのバンドだったら、世界的な人気を得られていたかもしれない。

現実のインドのロックバンドは、ワイルドでクレイジーなイメージではなく、こんなふうにどこか知的さや生真面目さを感じさせる雰囲気がある。
ポストロックやプログレッシブメタルのように、音響や構成の美学を追求したバンドも多く、やはりインドではロックは「中産階級以上の音楽」であるということを実感させられる。


それでは今回はここまで!
長い記事を読んでいただいてありがとうございました!


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