パンジャビ

2020年01月11日

タイガー・ジェット・シン伝説その2 猛虎襲来!来日、そして最凶のヒールへ

(前回の記事はこちら)


プロレスラーとしてのキャリアをあきらめ、故郷のパンジャーブで農家として新婚生活を始めたシンに、トロントの古巣メイプルリーフ・レスリングから再び声がかかった。
もう一度、リングに上がってほしいというのだ。
それには、こんな背景があった。

シンがリングを去った後、北米では、「アラビアの怪人」ことザ・シークがリングを荒らしまくっていた。
シークはアラビア人というギミック(じつはレバノン系アメリカ人)で火炎殺法をあやつる怪奇派レスラー。
従来のプロレスのセオリーを無視した暴走ファイトで一世を風靡し、そのすさまじい人気は国境を越えてカナダにも及んだ。
そのシークがトロントにやってくることになったのだ。
メイプルリーフ・レスリングのフランク・タネイは、アクの強いシークに対抗できるレスラーとして、シンのカムバックを画策した。
 
プロレスラーの夢を捨てていなかったシンはこのオファーを受け、新婚の妻を連れて再びカナダへと渡る。
果たして、1971年のトロントで、シーク対シンはドル箱マッチとなった。
彼らの金網マッチに人々は熱狂し、それまで良くて3,500人の観客しか入らなかったメイプルリーフ・ガーデンには、20,000人もの観客が押し寄せるようになった。

ちなみに、「ザ・シーク」というリングネームは、カタカナで書くとシンが信仰する「シク教(Sikh, Sikhism。 シーク教と表記することもある)」とよく似ているが、アルファベットで書くと'The Sheikh'であり、アラビア語で「部族の長老、首長」を意味する「シャイフ」という言葉の英語表記である。
それにしても、この時代のカナダで、アラビア人対インド人の試合がメインというのもすごい話だ。
シンはシークとの戦いで株を上げ、大いに稼いでキャデラックを乗り回すまでになった。
地元トロントでシンがヒール(悪役)からベビーフェイス(善玉)にターンしたのもこの頃だろう。
それには、ザ・シークという最強の悪役がいたということだけでなく、おそらくカナダ社会の変化が関係している。

20世紀前半、パンジャーブ系を中心とした多くの南アジア系移民が、アジア極東地域から太平洋を渡ってカナダ西岸の街バンクーバーに移り住んだ。
シンの家族が当初バンクーバーを目指したのも、この街にすでにパンジャーブ系コミュニティーの基盤があったことが理由だろう。
1960年代以降になると、南アジア系住民の第二波がカナダに到達する。
今度は東部に位置するカナダ最大の都市トロントに、アフリカやカリブ諸国に移住していたインド系住民たちがやってきたのだ。

多民族国家であるアメリカやカナダのプロレスは、ベビーフェイスとヒールの戦いであると同時に、各コミュニティーの代表の戦いでもある。
1960〜70年代のWWWF(現WWE。ニューヨークを拠点としている)でブルーノ・サンマルチノが絶対的なスターだったのは、ニューヨークのイタリア系移民の多さと無関係ではない。
インド人をはじめとする南アジア系住民が増えてきたトロントには、インド系のシンが外国人ヒールではなく、ベビーフェイスとして活躍する素地が出来ていたのだろう。
(その後もトロントの南アジア系社会は成長を続け、郊外を含めると、今ではトロントにはバンクーバーを上回る約100万人の南アジア系住民が暮らしている)

しかしシンは、北米マット界の辺境であるトロントでの成功では飽き足らなかった。
カナダのローカルスターに過ぎなかった彼は、さらなる成功を夢見て世界を転戦する。
オーストラリア、シンガポール、ブラジル、香港などのリングに立ち、そして1973年5月、ついに運命の国、日本へとやってくる。

シンの来日には、新日本プロレスと近しいある貿易商が関わっていたようだ。
香港でシンのファイトを見た彼は、新日の関係者にシンの写真を見せた。
ターバン姿でナイフをくわえ、目をひんむいたシンの写真を見たアントニオ猪木は、この世界的には無名なレスラーを招聘しようと決断する。
当時、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに主要な外国人レスラーの招聘ルートを抑えられていた新日本プロレスは、インパクトのある外国人レスラーがなんとしても必要だったのだ。

ところで、シク教徒の男性には、教義によって身につけることになっている「5つのK」がある(今日では日常的にこの全てを守っているシク教徒は少ないが)。
Kesh(髪を伸ばし切らないこと)、Khanga(小さな木製の櫛)、Kara(右腕にはめる鉄の腕輪)、Kachera(ゆったりした短パンのような下着)、そして、自身と正義を守るための短剣、Kirpan(キルパーン)だ。
シンが写真でくわえていたのは、このキルパーンだった。
アントニオ猪木は、この写真を見て、ナイフをサーベルに変えることを提案する。
レスラーとしての成功を夢見ていたシンは、シク教徒のシンボルとの決別を意味するこの提案を快諾。
日本では、伝統を保持するインド系コミュニティの代表としてではなく、狂気の外国人レスラーとして暴れまわることを、当初から決意していたのだろう。
入場時に振り回し、試合では凶器として使用する、シンのトレードマークとも言えるあのサーベルはこうして誕生した。

1973年5月3日、タイガー・ジェット・シン、初来日。
その2ヶ月前には、のちにWWEでTiger Ali Singhとして活躍する長男Gurjitが生まれたばかりだった。
幼い我が子と妻をカナダに残して極東の地を踏んだシンの心情はいかばかりだっただろうか。 
手違いで早く日本に着いてしまったシンは、新日本プロレスに翌日の川崎大会に招待された。
客席から見るだけだったはずのシンだが、何を思ったか山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合に乱入すると、小鉄をめった打ちにしてしまう。
突然現れたターバン姿のガイジンレスラーの凶行は、強烈なインパクトを残した。
ここからのプロレス史的なシンの活躍については、すでにさまざまな形で書かれているので、簡単に紹介するに留めよう。
シンは新日本のリングで、水を得た魚のように暴れ回り、あっという間に人気悪役レスラーとなった。
凶器攻撃、試合展開を度外視した暴走ファイト、そして、シンそのものから滲み出る本物の狂気を感じさせる怪しさは、観客の目を釘付けにした。
シンが日本で見せた無軌道なファイトスタイルは、間違いなくカナダで肌を合わせたザ・シークから学んだものだ。(ちなみにシンもシーク譲りの火炎殺法を使っている)
 
そして、同年11月、あの、あまりにも有名な猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件が起こる。
「リアル」なものとして警察も出動する騒ぎになったこの騒動は、今日ではプロレス的なストーリーライン上の出来事されているが、この時代に、リングも会場も飛び出して、家族をも巻き込んだ後年のWWE的演出の原点とも言えるアングルを仕掛けた発想は、天才的だった。
この騒動に、当事者であり新日本プロレスの経営者でもあった猪木が深く関わっていたことは間違いないだろう。
このたった3年後には、天才猪木は逆の方向に振り切れ、後の総合格闘技の原点とも言えるモハメド・アリとの異種格闘技戦を行う。
アントニオ猪木もまた、狂気とも言える才覚の人だった。

その後、猪木とシンとの遺恨マッチは新日本プロレスに多くのファンを呼び込むことになる。
猪木、シン、そして観客の興奮と熱狂は1974年6月26日の大阪府立体育館で頂点に達し、伝説となっている猪木によるシンの「腕折り事件」を迎える。
この一連の猪木-シンの抗争は、当時全日本プロレスに大きく水を開けられていた新日本プロレスに莫大な利益をもたらした。
来日時に週給3,000ドルだったシンの報酬は、最終的には週給8,000ドルにまで上がったという。

シンの日本での成功にはいくつかの理由がある。
ひとつには、ポケットの中にたった6ドルを握りしめてカナダに渡ったシンの、強烈なハングリー精神が挙げられる。
日本はアメリカ、メキシコと並ぶプロレス大国であり、当時はファンたちがプロレスを"リアルなもの"として熱狂していた時代である。
生まれたばかりの子と妻をカナダに残して来日したシンは、なんとしてもここ日本で強烈な爪痕を残したいと感じていたはずだ。
この想いが、前述の理由から有力な外国人レスラーが招聘できなかった新日本プロレスの思惑と合致した。
シンにとって幸運だったのは、そこにアントニオ猪木というもう一人の「狂気」を宿した天才がいたということだ。
シンの狂気を感じさせる暴走ファイトと、感情をむき出しにしてそれを受け止める猪木との化学反応は、相乗効果となって観客たちを興奮の坩堝へと誘った。

TJシン2


猪木、そして新日本プロレスは、シンの演出の面でも完璧だった。
シク教徒のシンボルだった短剣をよりインパクトの強いサーベルに持ち替えさせ、「伊勢丹前襲撃事件」、さらには「招待していないのに勝手に参戦している」という斬新なアングルを用意して、シンの「狂気のヒール」というイメージを確固たるものにしていった。

とはいえ、シンは単なるキワモノのヒールではなかった。
彼の狂乱のファイトのベースにはフレッド・アトキンスに鍛えられた確かなプロレス技術があり、猪木もその実力には一目置いていたという。
緩急のあるファイトが、単なる怪奇派にとどまらない試合の流れを作り出していたのだ。

また、今ではファンに広く知られているが、素顔のシンは実に誠実で紳士的な男だった。
ミスター高橋の著書によると、1973年の5月3日に初来日したシンは、スーツ姿で空港に現れ、名刺を差し出して高橋を驚かせた。
そんな挨拶をした外国人レスラーは他に誰もいなかったからだ。
スポンサーに招待されたバーベキューで、火力が強まり汗ばんでも、シンは「社長、ジャケットを脱いでもよろしいでしょうか」とわざわざ断りを入れるほど、気配りのできる人物だった。
猪木によるシンの「腕折り」はプロレス的なストーリーの中でのこと(実際に骨折したわけではない)だったのだが、律儀なシンはその後しばらく腕に包帯を巻いて過ごし、そのために腕がかぶれてしまっても、包帯を巻き続けていたという。
シンのあまりにも誠実な性格は、やはり誇り高きシク教徒の軍人だった父、そして伝統的なインド女性だった母親からの影響によるものだろう。
彼の「狂気」「暴走」は、こうした「生真面目さ」に裏打ちされたものだったのだ。
バス移動中のサービスエリアでファンに声をかけられたシンが、ヒールのキャラクターを崩さないために襲いかかるふりをしたところ、そのファンに足があたってファンが転んでしまったことがあったという。
出発したバスの中で、シンはファンのことをいつまでも心配していたそうだ。

プロレスがリアルで、それゆえの熱狂を生み出していた70年代日本で、シンはついに稀代のヒールとして開花した。
「インドの狂虎 」の伝説はまだまだ終わらない。

(つづきはこちら)


参考文献:
ミスター高橋「悪役レスラーのやさしい素顔」ほか



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2020年01月08日

タイガー・ジェット・シン伝説その1 パンジャーブの虎、カナダに渡る。そして虎たちの系譜


ジャグジート・シン・ハンス(Jagjeet Singh Hans)という名前を聞いて、ピンとくる人はほとんどいないだろう。
だが、ある世代の日本人にとって、彼はもっともよく知られているインド人であり、そしてもっとも恐れられたインド人でもあるはずだ。
彼のもうひとつの名前は、タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh)。
インドの狂虎。
稀代の悪役レスラー。
彼のリングネームは、本来であれば「ジート・シン」とカナ表記すべきなのだろうが、それを「ジェット・シン」としたことで、彼の狂乱のファイトの勢いが伝わってくるような響きになった。
誰かは知らないが、彼の名前を最初に訳した人に敬意を表したい。

新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃事件や、試合での流血ファイト、凶器攻撃など、リング内外での彼の暴れっぷりについては、プロレスファンによく知られている。
また、もう少し熱心なファンなら、素顔の彼がじつは非常に紳士的な人物だと聞いたことがある人も多いはずだ。
彼が現在暮らしているカナダには、その名前が冠された小学校があるという話も、ファンの間では有名である。
しかし、プロレス不毛の地であるインド出身の彼が、なぜ、どうやってプロレスラーになったのか。
本来は紳士であるはずの彼は、どうして稀代の悪役レスラーとなったのか。
そして、カナダでは地元の名士だという彼の本当の素顔はどのようなものなのか。
この「日本で最もよく知られているインド人」について、我々が知らないことはあまりにも多い。
今回から数回に分けて、タイガー・ジェット・シンの半生を振り返り、そのインド人としてのルーツを探る企画をお届けします。

Punjab_in_India
(インド・パンジャーブ州の位置。https://ja.wikipedia.org/wiki/パンジャーブ州_(インド)より)


1944年4月3日、ジャグジート・シン・ハンスは、パンジャーブ地方のシク教徒の家庭に生まれた。
「シク教」は、15世紀にパンジャーブで生まれた宗教で、男性の信徒がターバンを巻くことでよく知られている。
シク教徒は、インド全体の人口の2パーセントほどに過ぎないマイノリティだが、早くから海外に出た人たちが多かったため、インド人といえばターバンというイメージが世界中で定着してしまった。
ジャグジートの出生地は、現在のインド領パンジャーブ州の中央に位置する、ルディヤーナー郡のスジャプルという村だ。
「現在のインド領」とことわったのは、彼が生まれた当時、インドという国家はまだ存在しておらず、南アジア一帯がイギリスの支配下だったからだ。
1947年、彼が3歳のときに、インドとパキスタンはイギリスからの独立を果たし、故郷のパンジャーブ地方は2つの国に分断されることになった。
この印パ分離独立にともない、パンジャーブ一帯は大混乱となった。
イスラーム国家となったパキスタンを脱出してインド領内を目指すヒンドゥー教徒・シク教徒と、インドからパキスタンを目指すイスラーム教徒がパニック状態となり、混乱のなかで起きた暴力行為による犠牲者数は、数百万人に上るとも言われている。
この悲劇がシンの一家にどのような影響を与えたかは、分からない。
いずれにしても分離独立にともなうパンジャーブの混乱は、この地域に暮らす人々の海外移住に拍車をかけることになった。

シンの父は軍人、母は伝統的な専業主婦だった。
シク教徒は古来、勇猛な戦士として知られており、今日でも軍隊に所属する者が多い。
ジャグジート少年も、誇り高き軍人の息子として、厳しく育てられたはずだ。
彼の紳士的な性格や、後年慈善事業に積極的に取り組む姿勢は、こうした家庭環境からの影響が大きいのだろう。
少年時代のジャグジートは、アカーラー(Akhara)と呼ばれる道場で、インド式レスリングのクシュティとカバディを習っていたという。
この頃、クシュティの英雄だったダラ・シン(後述)の試合を見たことが、後の彼の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
(余談だが、カール・ゴッチによって日本のプロレス界に取り入れられた棍棒を使ったトレーニング方法の「コシティ」は、インド〜西アジア発祥のトレーニングで、その語源はクシュティに由来する)

ジャグジートが17歳のときに、彼の一家はバンクーバーに移住することになる(15歳説もある)。
20世紀初頭から、カナダ西岸ブリティッシュ・コロンビア州の州都バンクーバーには、太平洋を渡った多くのシク教徒が工場労働者として移住していた。
彼らもそうした流れに乗って、より豊かな生活を求めて移民となったのだろう。
カナダに渡るジャグジートのポケットにはたったの6ドルしか無かったというから、まさに裸一貫での移住である。

バンクーバーに渡ったジャグジート少年は、英語が分からなかったので、早々に学校からドロップアウトし、学校に行くふりをして近所のジムに通うようになった。
インドでアカーラー(道場)に通っていた彼にとって、学校よりもジムのほうが馴染みやすかったのかもしれない。
トレーニングに打ち込んだ彼の体は、みるみる強く、大きくなってゆく。
この頃、テレビで初めてプロレスを見た彼は、「これなら自分にもできるはずだ」と思い立ち、レスラーになるため、カナダ東部のオンタリオ湖畔の街、トロントへと移り住むことを決意する。
彼の地元のバンクーバーは、のちにジン・キニスキーによってAll Starという団体が設立されるまで、プロレス不毛の地だったのだ。
東部のトロントには、小さいながらもプロレス団体がすでに存在していた。
念願は叶い、移住先のトロントで、ジャグジートはプロモーターのフランク・タネイ(Frank Tanney)によってプロレスラーとなることを認められた。
「ターバンを巻いたレスラー」という個性をタネイに評価されてのことだった。
徐々に多文化社会となってゆくカナダで、人種的多様性に着目したのは先見の明と言って良いだろう。

ジャグジートは、フレッド・アトキンス(Fred Atkins)のもとで厳しいトレーニングを積み、そのファイトスタイルの激しさから、Tiger Jeet Singhのリングネームを授かる。
アトキンスはジャイアント馬場の修行時代のコーチとしても知られる名レスラーで、彼もまたニュージーランド出身の移民だった。
 
ジャグジート改めタイガー・ジェット・シンは、1965年にデビューする。
21歳のときのことだった
シンは、きびしい練習の成果からめきめき頭角を現し、その年の暮れには、タッグマッチでメインイベントを任されるまでに成長した。
パートナーは日系人レスラーのプロフェッサー・ヒロ。
この頃から、 日本となにか縁があったのだろうか。
ちなみに、日本のファンには、「シンは地元カナダではベビーフェイス(正統派)のレスラー」と知られているが、この頃のシンは、まだ荒っぽいファイトを繰り広げるヒール(悪役)だった。
やがて彼は地元のメイプルリーフ・レスリングのUS王座につき、団体のメインコンテンダーとして活躍するようになる。
しかしトロントのレスリングマーケットは小さく、大入りでも3,500人程度しか入らない。
週にたった100ドルを稼ぐために、必死で戦う毎日が続いた。
豊かになるために訪れたカナダで、体を張った厳しい日々が続く。 
彼のレスリング人生の根底にあるのは、インド時代からこの時期までに培われたハングリー精神だろう。 
だが、苦労するジャグジートを見かねた父は、彼をインドに連れ戻してしまう。
さすがのシンも、軍人の父親には頭が上がらなかった。

1970年(1967年8月という説もある)、パンジャーブに戻った彼は、一般的なインド人と同様に、お見合いをして、地元のスポーツ選手だった女性と結婚する。
花嫁は、夫がしているという「レスリング」がどんなものだか知らなかったという。
シンの妻は、はじめは太った大男かと思って彼を怖がっていたが、会ってみると思いのほか紳士的な男性だったと語っている。
生まれ故郷のパンジャーブで、シンの新婚生活が始まった。
ここで彼のレスラーとしてのキャリアが終わってしまえば、タイガー・ジェット・シンはトロントの一部のファンにしか記憶されない存在になっていたはずだ。

ところで、「タイガー」と異名をつけられたインド系のレスラーは彼が最初ではない。
「虎」はインド人レスラーの典型的なイメージだったのだろう。
1930年代から60年代に世界中を転戦して活躍したDaula Singhは、Tiger Daulaのリングネームを名乗り、真偽のほどは不明だが、インディア・チャンピオンなる肩書きを引っさげていたようだ。
また、1919年生まれのJoginder Singhも、Tiger Joginder Singhというリングネームを使っていた。
彼の活躍の場は、シンガポール、米国を経て日本にも及び、1955年には「タイガー・ジョギンダー」の名で力道山・ハロルド坂田組を破って日本最古のベルトであるアジアタッグの初代チャンピオンにも輝いている(パートナーはキングコング)。
Tiger Joginder Singhを1954年にインドで破ったのが、Dara Singh(ダラ・シン)。
500戦無敗という伝説を誇り、少年時代のジャグジートにレスラーになるきっかけを与えた人物だ。
彼は力道山時代に来日した数少ないクリーンなファイトをする外国人としても知られ、1968年には母国インドであのルー・テーズを破って、世界チャンピオンにも輝いている(調べたが、この王座がどこの団体が認定したものかは分からなかった)。

この「シン」たちは、いずれもパンジャーブ出身のシク教徒のレスラーだ。
今もパンジャーブにはシク教徒が多く、世界中のシク教徒の6割以上がこの地に暮らしている。
「シン」はシク教徒の男性全員が名乗る名前で、「ライオン」を意味している。
つまり、タイガー・ジェット・シンという名前には、虎とライオンが入っているのだ。

パンジャーブ出身の格闘家の歴史は古い。
さらに時代を遡ると、1878年生まれのグレート・ガマ(Great Gama)という格闘家がいる。
本名(Ghulam Mohammad Baksh Butt)を見る限り、彼はシクではなくムスリムのようだが、彼もまた、英領時代のパンジャーブ地方の生まれである。
彼はイギリスや英領時代のインドで数多くの強豪と戦い、52年に渡るキャリアで、5,000試合無敗という伝説も残っている英雄だ。
グレート・ガマはペールワニ(Pehlwani)と呼ばれるインド式レスリングの絶対王者だった。
昭和のプロレスに興味がある人であれば、ペールワニという言葉を聞いて、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行ったパキスタンの格闘家、アクラム・ペールワンを思い出す人も多いだろう。
グレート・ガマは、このアクラム・ペールワンの叔父にあたる。 
猪木ファンの間では、「ペールワン」とは最強の男にのみ許される称号だという説が有名だが、実際は、「ペールワニのレスラー」という程度の意味である。
ちなみにかのブルース・リーはグレート・ガマのトレーニング方法を参考にしていたというから、グレート・ガマがいなかったらインドで今も大人気のブルース・リーは存在しなかったかもしれない。
ペールワニおそるべしである。 
とにかく、「パンジャーブから世界的(プロ)レスラーになる」という道筋は、20世紀のごく初期から作られていたのだ。

彼らの共通点は、クシュティ、ペールワニの経験者であるということ。
調べてみると、どうやらクシュティとペールワニは同じ競技を指しているようだ。
ペールワニ(Pehlwani)はイスラーム式(ペルシア語由来)の呼び方であるため、ムスリムであるガマやアクラムは、クシュティではなくこの呼称を使っているのだろう。
ヒンドゥー教徒(インドの人口の8割を占める)にとってのクシュティには、ラーマ神に忠誠を誓う戦士として知られる猿神ハヌマーンへの帰依という要素が加わることがあるようだ。
また、ボリウッド映画のタイトルにもなった「ダンガル(Dangal)」という言葉も、同様の「南アジア式レスリング」を指している。

いずれにしても、パンジャーブはインド式のレスリングが盛んな土地柄だったのだろう。
そのなかから、グレート・ガマやダラ・シンのような英雄が誕生し、後続の若者たちも、富と成功を目指してレスラーを夢見るようになった。
おそらく、パンジャーブから次々とプロレスラーが誕生した理由は、こんなところではないだろうか。
日本からも、相撲出身の力道山や豊登、柔道出身の木村政彦や坂口征二など、ドメスティックな格闘技出身のプロレスラーが多く誕生した時代である。
もちろん、インドと日本だけではない。
本場アメリカのプロレスは、世界中の力自慢の移民たちがしのぎを削る場だった。
「鉄人」ルー・テーズはハンガリー系だし、「神様」カール・ゴッチはベルギー出身、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノはイタリア出身、「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスはメキシコ出身で、「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントはフランス出身だ。
インターネットも衛星放送も無かった時代、プロレスは、体一つで一攫千金を夢見る世界中の腕自慢や荒くれ者が集まる、まさに戦いのワンダーランドだったのだ。

気になるのは、クシュティ(ペールワニ)が、純粋に勝ち負けを競うスポーツとしての格闘技なのか、プロレスのようにエンターテインメント(興行)としての要素もあるものなのか、ということだ。
調べて見たのところ、インドには全国クシュティ協会のような組織があるわけではなく、クシュティは基本的には道場や村落単位で行われているようだ。
'Rustam-e-Hind'という「インド・チャンピオン」の称号もあるそうだが、どんな大会が開かれ、どんな団体が認定しているのかについては全く情報がなかった。
YouTubeで検索して見ても、地方の屋外会場で行われている動画ばかりがヒットする。
その試合はむしろ非常に地味で、エンターテインメントからはほど遠く、純粋に強さを競うものであるように見える。
近年ではクシュティの競技人口も大きく減っているようで、今後、ミステリアスな「クシュティ出身の強豪」という触れ込みのプロレスラーが登場することは、もう無いのかもしれない。

話をタイガー・ジェット・シンに戻す。
家庭を持ったシンが、故郷パンジャーブで平穏な暮らしをすることを、レスリングの神は許さなかった。
トロントのメイプルリーフ・レスリングから、シンに再び声がかかったのだ。
シンがいない間に北米全土で大人気となったヒールレスラー、ザ・シークに対抗できる人材として、ターバン姿でラフファイトを繰り広げていた彼に、白羽の矢が立った。
ダラ・シンのように強くなりたい。
プロレスで富と成功を手に入れたい。
シンは、新婚の妻を連れ、カナダに戻ることを決意する。

シンのプロレスラーとしての旅は始まったばかりだ。
そして、その伝説は、まだ始まってすらいない。

(続きはこちらから)


【参考サイト・参考映像】
https://www.bramptonguardian.com/news-story/6003647-the-tiger-with-a-heart-of-gold

https://web.archive.org/web/20090505075751/http://www.sceneandheard.ca/article.php?id=1080&morgue=1

ドキュメンタリー番組"Tiger!"
など



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2019年03月01日

早すぎたインド系ラッパーたち アジアのPublic Enemyとインドの吉幾三、他

先日の記事で、南アジア系移民たちによるDesi hiphopを起点としたインドのヒップホップシーンの歴史について書いてみたが、Desi hiphop以前にも南アジア系のラッパーがいなかったわけではない。

まずイギリスに目を向けると、パキスタン系イギリス人Aki Nawazを中心に1991年に結成されたFun-Da-Mentalというグループがいる。
彼らは1992年に"Janaam", "Gandhi's Revenge"の2枚のシングルをリリースしてシーンに登場した。
Desi hiphopの第一人者といわれるBohemiaのデビューが2002年だから、彼よりも10年も早かったということになる。

中心人物のAkiは、Fun-Da-Mental結成以前、のちのゴシックロックバンドThe Cult(念のため書くと、イアン・アストベリーのあのThe Cultだ!) の前身Southern Death Cultのドラマーを務めていたというから、Queenのフレディ・マーキュリーのように、南アジア系移民の中でも若い頃からロックに親しんだ暮らしを送っていたのだろう。
しかし、その後の活動は、南アジア系のルーツから距離を置いてブリティッシュ・ハードロックの道に進んだフレディとは大きく異なっている。

Fun-Da-Mentalは、アメリカの急進的な黒人運動ブラック・パンサーの影響を受けた反人種差別や、イスラームの擁護、反アメリカ主義をテーマにラップする非常に政治的・社会的なバンドで、そうした姿勢から、アメリカの政治的ヒップホップユニットになぞらえて、'Asian Public Enemy'とも呼ばれた。

1994年のファーストアルバムのタイトルトラック"Seize the Time".

今聴くとちょっととっちらかった印象だが、伝統音楽のサンプリングという後年の南アジア系ヒップホップのスタイルがこの時点ですでに確立されていることが分かる。

1998年にリリースされたアルバム"Erotic Terrorism"からの"Ja Sha Taan"はカッワーリーとヒップホップとロックの融合!貴重なライブ映像を見つけた。
 

彼らに続くUKの南アジア系政治的ラップ・バンドとしては、よりダンサブルで音楽的ミクスチャーを進めたAsian Dub Foundation(1995年デビュー)が日本でも人気だが、だんだんヒップホップから離れてくるので今回は割愛。
この系統のアーティストは、その強すぎる政治性からか、その後大きな潮流とはなっていないようだが、南アジア系の音楽と社会運動が結びついた初期の例としても大きな意味があるように思う。


さて、本国インドはどうかというと、こちらもまた強烈なアーティストがいる。
Fun-Da-Mentalよりもさらに早い1990年にデビューしたBaba Sehgal(本名Harjeet Singh Sehgal)は、ウッタル・プラデーシュ州ラクナウ出身の「インドで最初のラッパー」とも「最初のヒンディー・ラッパー」とも言われるアーティストだ。
インド本国でバングラー系ラップが流行しだすのが2010年頃からであることを考えると、いかに彼が早かったかが分かるだろう。

彼は在英インド系レゲエ・アーティストのApache Indianの影響で音楽活動を開始したというが、後進的というか保守的なウッタル・プラデーシュでどうやって海外の音楽に触れたのかとか、機材の使い方や音楽の作り方をどう学んだのかとか、そのキャリアの初期にはよくわからない部分が多い。
そもそも、Apache Indianに影響を受けて音楽を始めたと言っているのに、そのApache Indianと同じ年にデビューしているのも解せない。
名前を見ると彼もまたパンジャーブ系のようなので(Apache Indianもだ)、移民と本国とをつなぐパンジャーブ・コネクションがあって、彼に誰よりも早く最先端の音楽をもたらしたのだろうか。

とにかく、彼は大学卒業後、デリーで電気技師として働きながら本格的に音楽活動を始めた。
1990年にリリースした"Dilruba"、1991年にリリースした"Alibaba"が思うようにヒットしなかった彼は、一念発起してムンバイに拠点を移すと、1992年にリリースしたサードアルバムの"Thanda Thanda Pani"が大ヒット。
一躍スターとなった彼だが、当時はまだ電話のない家に住んでいたため、隣の通りのパーン(インドの噛みタバコ)ショップが連絡先で、電話が来ると店の子供が彼を呼びに来ていたという。
(もとの記事では"Gully"という言葉が使われていた。そういう意味では、彼は最初のHiphop Gully Boyと呼べるかもしれない。いずれにしてもインドのヒップホップはムンバイのGullyで生まれたのだ)

"Thanda Thanda Pani"から、'Cool Cool Water'という意味のタイトルトラック。

Queen & David Bowieの"Under Pressure"をサンプリングしたVanila Iceの"Ice Ice Baby"をさらにパクったというなんだかすごい楽曲。
このアルバムの売上枚数については、記事によって3万枚から50万枚までかなり開きがあるが、とにかく当時の大ヒットとなったことは間違いないようだ。

同じアルバムから"Dil Dhadke".

当時のインドにしてはえらくかっこいいトラックが始まったと思ったら、曲が始まった途端に吉幾三みたいな感じでずっこける。

いろんな記事を読むと、どうも彼は今のインドのオシャレな音楽ファンからは、古いというかダサいというか、あまり好意的に受け止められていないようで、このブログで連載している「インドのインディー音楽史」にも入っていないし、まさに日本のラップ史における吉幾三の「おら東京さ行くだ」的な存在なのかもしれない。

その後、映画音楽を含めた何枚かのアルバムをリリースした後にヒンディー語圏の音楽シーンから姿を消した彼は、南インド(テルグ語)映画のプレイバックシンガーに活動の場を移した。

すっかり過去の人となっていた彼は、2015年に自身のYoutubeチャンネルを開設してカムバックすると、この"Going To The Gym"が久しぶりのヒットとなり、フェスティバル等にも出演するようになる。

ちょっと松平健にも似ているような気がするが、ちょうどマツケンサンバのように、彼の音楽をキッチュなものとして楽しめる土壌がインドにできてきた、といったところだろうか。

(Baba Sehgalの半生については主にこれらのサイトを参考にしました。
http://www.vervemagazine.in/people/mapping-the-unique-trajectory-of-baba-sehgals-success
https://www.indiatoday.in/magazine/society-the-arts/story/19921130-thanda-thanda-pani-hots-up-the-hindi-rap-scene-767167-2012-12-21

 
映画音楽の分野では、A.R.Rahmanが1994年のタミル語映画"Kadhalan"のために作った"Pettai Rap"あたりがインドで最初のラップ・ソングということになりそうだ。

こちらもインド音楽の要素を取り入れたオールドスクール風の曲で、これはこれで結構かっこよく、さすがRahmanといった出来栄え。
バンガロールのラッパー、Brodha Vが初めて聴いたラップとして挙げているこの曲は、世界初のタミル語ラップでもあるかもしれない。
まさか当時はインド各地にストリートラップシーンができ、ボリウッドスター主演のヒップホップ映画が大ヒットする時代が来るとは誰も思っていなかったことだろう。

インドではちょうど昨日、世界最大手の音楽ストリーミングサービスSpotifyが使用できるようになり、音楽メディアはその話題で持ちきりだ。
よりいっそう世界の音楽にアクセスしやすくなったインド。
きっともう5年、10年したらシーンの様相もまたすっかり変わっているのだろうなあ。
ますます楽しみになってきた。

それでは今回はこのへんで!


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goshimasayama18 at 23:10|PermalinkComments(0)

2018年08月31日

インドのインディーズシーンの歴史その4 バングラ・ビートの時代!Apache Indian!

インドのインディーズミュージック史を紐解くこの企画、第4回目にして、おそらく初めて多くの人が知っている名前が出てきたのではないだろうか。
そう、今回取り上げるのはApache Indian.
とくにアラフォー世代のみなさんにとっては懐かしい名前のはずだ。
VH1INDIAによるインドのインディー100曲
この例のリストで取り上げられているのは、「Boom 釈迦-楽!」というワケの分からない邦題で有名なあの曲ではなく、"Chok There"という曲。
それではどうぞお聴きください。


うわあ、懐かしい!
このバングラ・レゲエのリズムを聞くと90年代の空気が一気に蘇ってくる。
最初に断っておくと、自分はバングラには全く詳しくない。
90年代に一斉を風靡したバングラを網羅的に紹介できる人は他に適切な人がいるはずなので(サラーム海上さんとか)、今回はごく簡単な紹介に止めさせてもらいます。

Apache Indianはバーミンガム出身のパンジャーブ系のインド系イギリス人。
在外インド人と言っても、当然ながらその出身地域によって言語も文化も異なるわけだが、彼の場合、このパンジャーブ系であるということがとくに大きな意味を持っている(後ほど詳述)。

工業都市バーミンガムのアジア系と黒人が混住する地域で育った彼は、80年代から髪をドレッドにして地元のサウンドシステムでの活動を始めた。
やがて90年代に入ると、バングラとレゲエをミックスしたスタイルで名門Island Recordsと契約。
93年には世界的なヒットとなった"Boom shack-a-lak"をリリースした。
やっぱりこっちも懐かしい。バングラ・ラガ・ロックンロール。
 

ここで、「バングラ」の説明を改めて。
90年代、「バングラ・ビート」というジャンルがまずイギリスで人気になり、やがて世界的な盛り上がりを見せた。
カタカナで書くと同じなので、バングラという言葉からバングラデシュ(Bangladesh)を連想する人もいるかもしれないが、「バングラ(Bhangra)」は方角的には反対側のインド北西部、パキスタンとの国境に接したパンジャーブ州の伝統的なリズムだ。

パンジャーブ州は、ターバンとヒゲで有名なシク教の本拠地としても有名な土地で、印パ分離独立時に、両国に分割されてしまった経緯のある土地だ。地図上の赤いところ。
800px-Punjab_in_India_(disputed_hatched)
(画像出典:Wikipedia)

パンジャーブ州やシク教について詳しく書いていると、それだけで永遠に終わらなくなってしまうので割愛するとして、インドでは、パンジャーブ人は特に陽気で賑やか、率直な性格の人々という印象を持たれているようだ。
例えば、人気作家Chetan Bhagatの"2 states"という小説では、物静かで教養を重んじるタミル人の家庭に育った彼女と、やかましくて歯に衣着せぬ典型的パンジャーブ人の家庭に育った彼氏との結婚に至るまでの両家の葛藤が面白おかしく描かれている。ちなみに著者の自伝的な小説だそうだ。

インド各地に様々なリズムがあるのに、インド系移民の多いイギリスで、どうして90年代にブレイクしたのがこのバングラだったのか。
例えば南インドのカルナーティックのリズムでも良かったのではないかと思っていたのだが、その理由はおそらくはとてもシンプルなことだった。
イギリスに住んでいるインド系の人口150万人のうち、パンジャーブ系は70万人。じつに4割にものぼる。
本国インドでは、インド全体の人口約13億にたいして、パンジャーブ系の人口は約3,300万人、たったの2.5%にすぎないが、歴史的にイギリスには多くのパンジャビ(パンジャーブ人)たちが移住してきているのだ。
(インド国内でのパンジャーブ人の人口は、統計の取り方によって変わってきそうだが、それはひとまず置いておく)

そんなわけで、イギリスのインド系社会ではマジョリティーであるパンジャビのリズム、バングラはさまざまな音楽と結びついて独自の発展を遂げることとなった。
そもそものルーツである伝統的なバングラのリズムはこんな感じ。


より大衆的な音楽だからということもあるだろうが、他のインド古典音楽のように変拍子や複雑なリズムなどはなく、直線的な打楽器のビートはいわゆるアゲアゲ感がある。
このリズムがディスコやヒップホップ、ダンスホールレゲエなどと融合し、「バングラ・ビート」と呼ばれるスタイルが形成された。
バングラ・ビートは、はじめはインド系移民の間でのみ親しまれていたが、90年代に入ると徐々にその存在感を増し、Boom shack-a-lakがヒットした93年頃には世界的な注目を集めるに至ったというわけだ。
最終的には、パンジャーブ系のインド人が演奏していれば、もはやバングラの要素をほとんど残していなくてもバングラというジャンルとして扱われていたように記憶している。
いずれにしても、この「パンジャーブ系」であるということがバングラというジャンルの共通項であったわけだ。

もう一人、90年代のバングラの国際的スターを挙げるとしたら、Punjabi MCということになるだろう。
彼もまたパンジャービ系イギリス人で、よりプリミティブなバングラ・ビートの"Mundian To Bach Ke"は、1998年にUKのシングルチャートで5位、米ビルボードのダンスチャートで3位の大ヒットとなった。

当時、他のヒット曲に混じってこの曲がプレイされると、すごい違和感があったものだけど、理由はともかく世紀末の空気とこのインドのリズムが呼応した時代だったのだろう。
このバングラ、ぎゃくに言うとそれ以前もそれ以降も世界的には見向きもされないジャンルとも言えるかもしれないけど、とにかく90年代はバングラビートの時代だったというわけだ。

話を"Chok There"に戻します。
この曲がリリースされたのは、大ヒット曲"Boom shack-a-lak"に先立つ1991年。
世界的にはバングラ・ブームの創世記を担ったより重要な曲であるはずなのに、このVH1 Sound Nationが選んだインドのインディーズシーンを作った100曲リストでは、前回紹介したドイツローカルの一発屋であるNoble Savegesが1997年にリリースした曲よりも後にリストアップされている。
深読みかもしれないが、これはNoble Savegesが"I am a Indian"をインドで製作したことがより重要視されているのだろう。

Apache Indianもインド系社会特有のテーマについて、インドの言葉を交えて歌っているが、彼がブレイクした90年代前半は、インドにはまだ彼がレゲエビートを引っさげて凱旋帰国できるだけの音楽市場がおそらく整っていなかった。
それに、マーケット的に未開の地であるインドに行くには彼はあまりにも世界で売れすぎた。

Apache Indianも大ヒットから一段落した1996年に、遅ればせながらインドに一時帰国し、タミル語映画"Love Birds"に出演し楽曲も提供している。
楽曲的には当時のインドの映画音楽のアベレージから考えるととても垢抜けた曲なのだが、さすがにインドのメジャーシーンのど真ん中の映画音楽では、インディーズミュージックのリストに入れるわけにもいかないのだろう。
これがその曲で、タイトルは、インド人の口ぐせ"No Problem"



世界的なバングラブームは90年代に過ぎ去ってしまったが、バングラはもちろん今でもパンジャビ系の人々にとって身近なリズム。
最近ではEDMなどと融合し、独自の発展を遂げている。


ところで、Apache Indianというアーティスト名は、お気づきの通り、ネイティブ・アメリカンのほうのインディアンのアパッチ族を意識してつけられたものだが、前回紹介したNoble Savegesというユニット名も、アメリカ先住民を表す言葉だ。
どちらも意図的に「インディアン」という言葉の混同をしているわけだが、そこに単なる言葉遊び以上の意味があるのだろうか。少し気になるところではある。

90年代、インドの音楽シーンはまだ眠っていたけれど、国外では徐々にインド系ミュージシャンの活躍が目立ち始めてくる。
タブラ・エレクトロのTalvin Singh、インディー・ポップのCorner Shop、ミクスチャー的ダブ・バンドのAsian Dub Foundation等々、イギリスのインド系移民たちがシーンで評価され始めたのも90年代だ。
今回は、そんな時代に最も世界で受け入れられたインド系音楽、バングラを感じてもらえたらうれしいです。

次回は再びインドに舞台を移して、インドロック界の大御所バンドを紹介します。
では! 

goshimasayama18 at 11:35|PermalinkComments(0)