パンジャビ

2021年01月31日

インド・ヒップホップ夜明け前(その2)Mafia Mundeerの物語・前編


(前回の記事)



今日のインドのメジャーヒップホップシーンを築いた立役者であるYo Yo Honey Singh, Badshah, Raftaar, Ikka.
インド以外での知名度は高いとは言えない彼らだが、その人気は我々の想像を大きく上回っている。

Yo Yo Honey SinghとBadshahは、パンジャーブの伝統のリズムであるバングラーとヒップホップを融合し、さらにラテンやEDMの要素を取り入れたド派手な音楽性が大いに受け、YouTubeでの動画再生回数はともに20億回をゆうに超えている。

Raftaarは、よりヒップホップ的な表現を追求してシーンの支持を集め、やはり億単位の動画再生回数を誇っている。
Ikkaは、知名度こそ他の3人には劣るが、確かなスキルを評価されて、アメリカの超有名ラッパーNasのレーベルのインド部門であるMass Appeal Indiaの所属アーティストとなり、さらなる活躍が期待されている。
この曲で、IkkaはMass Appeal Indiaのレーベルメイトでもあるムンバイのヒップホップシーンの帝王DIVINEとの共演を果たした。

このインドのメジャーヒップホップ界の大スターたちは、いずれもかつてMafia Mundeerというユニットに所属していた。
しかし、この「インドのメジャーヒップホップ梁山泊」的なグループについて、今我々が得られる情報は、決して多くはない。
その理由が、Mafia Mundeerが本格的にスターダムにのし上がる前に解散してしまったからなのか、それとも彼らにとってあまり振り返りたくない過去だからなのかは分からないが…。
いずれにしても、彼らこそが現在までつながるインドのメインストリーム・ヒップホップのスタイルを定着させた最大の功労者であることに、疑いの余地はない。

このMafia Mundeerの中心人物は、やはり彼らの中で最年長のこの男だったようだ。
Hirdesh Singh - 1983年3月15日、パンジャーブ州、ホシアルプル(Hoshiarpur)生まれ。
ステージネーム、Yo Yo Honey Singh.
彼はラッパーとしてのキャリアをスタートさせる前にロンドンの音楽学校Trinity Schoolに留学していたというから、かなり裕福な家庭の出身だったのだろう。
時代的に考えて、留学先のイギリスでは、2000年台前半の最も勢いがあったころのバングラー・ビートやデシ・ヒップホップを体験したはずだ。
前回の記事で書いたとおり、イギリスに渡ったパンジャーブ系移民は、90年代以降、彼らの伝統音楽バングラー(Bhangra)を最新のダンスミュージックと融合させ、バングラー・ビートと呼ばれるジャンルを作り上げた。
デシ・ヒップホップ(Desi HipHop)とは、インド系(南アジア系)移民によるヒップホップを指す言葉で、移民にパンジャーブ系の人々が多かったこともあり、デシ・ヒップホップにはバングラーの要素が頻繁に取り入れられていた。(現在では、デシ・ヒップホップという言葉は、インド、パキスタン、バングラデシュなどの国内も含めた、南アジア系ヒップホップ全般を指して使われることもある)
デリーに戻ってきたHirdeshは、同じような音楽を愛する友人と、Mafia Mundeerを結成する。

その友人の名は、Aditya Prateek Singh Sisodia.
1985年、11月19日生まれ。
ハリヤーナー系の父と、パンジャーブ系の母の間にデリーで生まれた彼のステージネームは、Badshah.
'Badshah'とはペルシア語由来の「皇帝」を意味する言葉だが、おそらく英語の'Bad'が入っていることからラッパーらしい名前として選んだのだろう。
彼もまた、名門バナーラス・ヒンドゥー大学とパンジャーブ工科大学を卒業したエリートである。

数年後、Honey Singhは、同じくヒップホップを愛する"Black Wall Street Desis"という3人組のクルーに出会い、彼らにMafia Mundeer加入を呼びかけた。
彼らのリーダー格は、RaftaarことDilin Nair.
1998年11月17日生まれ。
バングラーなどのパンジャービー音楽との関わりが深いインドのメインストリーム・ヒップホップ界において、彼はパンジャーブのルーツをいっさい持たないケーララ出身のマラヤーリー(ヒンディー語やパンジャーブ語とはまったく異なる言語形態のケーララの言語マラヤーラム語を母語とする人々)だ。
とはいえ、学生時代をハリヤーナー州の寮でデリーやパンジャーブ州から来た仲間と過ごしていたそうで、インタビューで「自分にとってマラヤーリーなのは名字だけ」と語るほど北インド文化に馴染んでいるようだ。
もともとダンサーとしてコンテストに入賞するなど活躍していたが、やがてラッパーに転向したという経歴の持ち主でもある。

Raftaarの仲間の一人は、IkkaことAnkit Singh Patyal.
1986年11月16日生。
彼はパンジャーブの北に位置するヒマーチャル・プラデーシュ州の出身で、当時はYoung Amilというステージネームを名乗っていた。

もう一人の仲間は、Lil Golu.
彼は、自身が表に出るよりも、プロデューサー的な役割を担うことが多かったようで、Yo Yo Honey Singhの"Blue Eyes", "Stardom", "One Thousand Miles"といった曲を共作している。
マハーラーシュトラ州ムンバイ出身のラージプート(ラージャスターンにルーツを持つコミュニティ)一家の出身とされており、彼のみ1990年代生まれのようだ。
Black Wall Street Desisは、自分たちでリリックを書き、曲を作ってポケットマネーでレコーディングをしたりしていたという。

多くの地名が出てきたので、ここでインドの地図を貼り付けておく。
1280px-India_-_administrative_map
(画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Tourism_in_India_by_state

Ikkaの故郷ヒマーチャル・プラデーシュや、Badshahの父の故郷でRaftaarが学生時代を過ごしたハリヤーナーがパンジャーブ州に隣接しているのに対し、Lil Goluが生まれたムンバイや、Raftaarのルーツであるケーララが地理的にもかなり離れた場所であることが見て取れる。
多様なバックグラウンドを持つMafia Mundeerのメンバーを結びつけたのは、ヒップホップと、そしてやはりもう一つのルーツとしてのバングラー/パンジャーブ音楽だったのだろう。

さまざまな情報を総合すると、Yo Yo Honey SinghとBadshahが出会ったのが2006年、Raftaar, Ikka, Lil Goluが加入したのが2008年のことだったようだ。
インドではまだヒップホップのリスナーもパフォーマーも少ないこの時代、デリーの街角で、5人の若者が、彼らなりのヒップホップを追求し始めた。
もちろん、まだ彼らは誰も、将来「インドのミュージックビジネスで最も稼ぐ男」と呼ばれることも、憧れのNasのレーベルと契約するようになることも想像すらしていなかったはずだ。
彼らのごく初期の楽曲を改めて聴いてみたい。

この曲ではHoney Singhはミュージックビデオには参加しているもののラップはしておらず、Bill Singhというアーティストの作品にプロデューサーとして関わったもののようだ。
もしかしたらHoney Singhがイギリス留学中に関わったものかもしれない。
音楽性はオールドスクールなバングラーとラップのフュージョン。
後ろでDJをしながら踊っているのが若き日のHoney Singhだ。

Honey SinghとBadshahが共演した"Begani Naar"は、Wikipediaによると2006年の楽曲らしい。
この時代の彼らの活動については謎が多く、楽曲のリリース年すら情報が錯綜していてウェブサイトによって異なる記述が見られる。

BadshahがCool Equal名義でRishi Singhと共演した"Soda Whiskey"は2010年の楽曲。
この頃からボリウッドのパーティーソング的な世界観に近づいてきているのが分かる。

Honey Singhが作ったトラックにBadshahのラップを乗せた"Main Aagaya"は2013年にリリースされた曲。

RaftaarとHoney Singhが共演したこの曲は、正確なタイトルすら定かではないが2010年ごろのリリースのようだ。
オールドスクールなフロウにバングラー独特のトゥンビの音色が重なってくるいかにも初期バングラー・ラップらしい楽曲。

面白いのは、彼らはつるんではいても決してMafia Mundeer名義での楽曲は発表せず、仲間同士でのコラボレーションでも名前を併記してのリリースとしていることだ。
少し後の時代にインド版ストリートラップである「ガリーラップ」のブームを巻き起こしたムンバイのDIVINEのGully Gangも同様の活動形態を取っている。

2012年にIkkaがパンジャーブ系シンガーのJSL Singhと共演した"Main Hoon Ikka".

いずれの曲もまだ拙さが目立つが、この先、彼らは加速度的に成功への道を歩んでゆく。
そして、ヒップホップへの情熱で結ばれた彼らの友情にも綻びが生まれてゆくのだが、今日はここまで!

(つづき)



(参考サイト)
https://www.shoutlo.com/articles/top-facts-about-mafia-mundeer

http://www.desihiphop.com/mafia-mundeer-underground-raftaar-yo-yo-honey-singh-badshah-lil-golu-ikka/451958

https://www.hindustantimes.com/chandigarh/punjab-is-not-on-the-cards-anymore/story-Wqt6M1lpsARdwVk3TaSSCM.html

https://www.hindustantimes.com/music/honey-singh-might-call-him-a-nano-but-raftaar-still-thinks-he-is-his-bro/story-IKDAVHj7O14CAziUC8KLBK.html

https://www.hindustantimes.com/music/honey-singh-if-my-music-is-rolls-royce-badshah-is-nano/story-lWlU4baLG2poyzpOTZfDqK.html

https://timesofindia.indiatimes.com/city/kolkata/honey-badshah-and-i-still-love-each-other-raftaar/articleshow/58679645.cms

https://www.republicworld.com/entertainment-news/music/read-more-about-raftaars-first-rap-group-black-wall-street-desis.html



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goshimasayama18 at 17:52|PermalinkComments(0)

2020年12月23日

2020年度版 インドのクリスマスソング特集! 古代アラム語で歌われるクリスマスキャロルからバングラーまで



2年前に、インド北東部ナガランド州のクリスマスソングに関する記事を書いた。
典型的な「インド人」とは異なる、モンゴロイド系の民族が多く暮らすインド北東部は、他の南アジアとは異なりヒンドゥー/イスラーム文化の影響が少なく、19世紀以降の宣教によって、今では多くの住民がキリスト教を信仰している。
ナガランドは人口の9割がクリスチャンであり、地元の伝統と西洋のポップミュージックやキリスト教信仰を融合したユニークなクリスマスソングが存在しているのだ。
 
(詳細はこちらの記事で↑)
今回は、ナガランド以外に視野を広げて、あらためてインドのクリスマスソングを調べたので、紹介してみます。
今年リリースされた曲でとくに印象に残ったのはこの2曲。

まず紹介するのは、インドを代表するEDM系プロデューサーからアコースティックなシンガーソングライターへの転身を遂げたZaedenが、女性シンガーNatania Lalwaniをフィーチャーしてリリースした"For Christmas".

シャッフル気味のアコースティックギターに、ファルセットボイスで歌われるポップなメロディー。
インディー音楽とはいえ、とうとう典型的なクリスマスのポップチューンがインドでも作られるようになったと思うと感慨深い。
途中からレゲエっぽいリズムが入ってくる展開も洒落ている。

インドでは、近年の経済成長や海外文化の流入に伴い、都市部を中心に「欧米的なオシャレなイベント」としてのクリスマスが根付きつつある。(一方で、既存の宗教の原理主義的な信奉者や偏狭なナショナリズムの支持者からは反発もあるわけだが)
イエス・キリストの誕生日やサンタクロースがやってくる日としてのクリスマスではなく、愛する人と過ごす日としてのクリスマスが描かれたこの曲は、都市部の現代的な若者たちのクリスマスのイメージを踏襲したものと見てよいだろう。


続いて紹介するのは、人口の75%がキリスト教を信仰するインド北東部メガラヤ州の州都シロンからの1曲。
Shillong Chamber Choirが今年リリースしたクリスマスアルバム"Come Home Christmas"に収録された"Go Tell It On The Mountain"だ。

Shillong Chamber Choirは、2001年に結成された室内合唱団で、人気テレビ番組'India's Got Talent'での優勝(2001年)を含め、国内外で多くの賞に輝いている。
地元の民謡っぽい旋律に続いて、ファンキーにアレンジされた賛美歌/ゴスペルの"Go Tell It On The Mountain"が英語で歌われるが、途中で歌が耳慣れない言語に変わることに気がつくはずだ。
これはなんとイエス・キリストが話していたと言われる「古代アラム語」だそうで、「マルチリンガルなクリスマス・アルバム」として制作された今作に合わせて、今ではほとんど話者のいないこの言語を「救い主が生まれたことを世界に告げよ」と歌うこの曲に採用したとのこと。
多言語社会のインドでは、複数の言語で歌われる曲も珍しくはないが、賛美歌に古代アラム語を持ってくるというのは、クリスチャンの多い北東部ならではの発想だろう。

この"We The Kings"では、ウルドゥー語とペルシア語が採用されている。

非常に美しいミュージックビデオは、イスラエルのサンドアーティストIlana Yahavによるもの。
正直に言うと、私は普段合唱団が歌うような音楽は全く聴かないのだが、このアルバム"Come Home Christmas"に関しては、ファンキーにアレンジされたゴスペルから荘厳な賛美歌まで、さまざまな言語の美しい響きとともに、なんの違和感もなくポップミュージックとして楽しむことができた。
非常にユニークな、長く聴くことのできるクリスマス・アルバムだ。


今年のリリースではないものの、インドならではの面白いクリスマスソングを他にも見つけることができたので、合わせて紹介します。

ムンバイのポップバンドSanamは、いくつかのクリスマスソングをカバーして発表している。
彼らは古いボリウッド映画の曲を現代的にカバーし、YouTubeから人気が出たバンド。
彼らは映画音楽のみならず、100年前のベンガルの詩人タゴールの作った歌などもカバーしており、近代化著しいインドで、歌を通して古き良きものと現代を繋ぐ役割を担っているのだろう。
そんな彼らがカバーしたクリスマスソングは、ポップスではなく、伝統的な聖歌/賛美歌だ。

おそらく彼らはクリスチャンではないと思われるが、彼らのクリスマスソングを聞くと、流行の消費主義的なイベントとしてのクリスマスではなく、信仰こそ違えど、我々よりも大きな存在に帰依する人々への共感とリスペクトが込められているように感じられる。
物質主義的な部分が強くなって来たとはいえ、インドは信仰の国だ。
サンタクロースやクリスマスケーキになじみのない人々も、偉大なGuru、イエス・キリストの生誕を祝う気持ちは十分に理解できるのだろう。

続いて、北インドのポピュラー音楽シーンのメインストリームであるバングラー(Bhangra)のクリスマスソングを探してみたところ、意外にも多くの動画がアップされているのを見つけてしまった。
バングラー・ユニットのGeeta Brothersは、その名も"Punjabi Christmas Album"というアルバムをリリースしている。

陽気な男たちが打ち鳴らすドール(Dhol. 両面太鼓)、コブシの聞いた歌い回し。
彼らはバングラーの故郷パンジャーブ州に住んでいるわけではなく、イギリスに暮らす移民たちらしい。
パンジャービー系の人々は、移民が多く、コミュニティーが世界中に広がっているからこそ、世界中の文化と伝統音楽の融合が行われているのだろう。

こちらはマレーシア、クアラルンプールのパンジャービー・コミュニティー。


クリスマスソングに合わせてバングラー・ダンスを踊りまくっている動画とか、クリスマスソングのバングラー・リミックスもかなりたくさんヒットする。





彼らがクリスチャンなのか、はたまたヒンドゥーやシクなのかは知る由もないが(ターバンを巻いている人たちはシク教徒のはず…)、なんとも陽気で楽しくて素晴らしいではないか。
「お祝いだ!太鼓叩いて踊ろうぜ」って感じのノリが最高だ。

クリスマスを信仰に基づいてお祝いする人も、パーティーとして楽しむだけの人も、今年は例年になく困難な状況を迎えているが、何はともあれ感謝の心を忘れずに、遠く離れた人々との繋がりも感じながら過ごすことができたら素晴らしいことだ。
みなさん、メリー・クリスマス。
素敵なクリスマスをお過ごしください。




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goshimasayama18 at 19:13|PermalinkComments(0)

2020年10月18日

どうして誰もバングラー演歌をやらないのか

(最初に断っておくと、今回の記事は完全にたわごとです)

先日来、このブログの記事を書くためにパンジャービー/バングラー系の音楽を聴きまくっているうちに、自分の心と体に思いもよらない変化が起こった。

なんと、演歌が聴きたくなったのである。
自分はこれまで、インドの音楽にはまる前を含めても、ロックとか、いわゆる洋楽的なジャンルの音楽ばかり聴いてきた人間であり、失礼ながら、これまでの人生で一度たりとも演歌を聴きたいと思ったことはなかった。

ところが、パンジャーブ系の音楽をひたすら聴いているうちに、同じようにコブシの効いた日本の演歌(というか吉幾三)が、無性に聴きたくなってしまったのだ。

まさか自分がSpotifyで「吉幾三」を検索する日が来るとは思わなかった。
吉幾三から始まって、北島三郎、細川たかし、五木ひろし、氷川きよし、石川さゆり、都はるみ、etc...知っている名前を次々と入力して、演歌を聴きあさってみた。
聴けば聴くほど、「演歌は日本のバングラーであり、バングラーはインドの演歌だ」という確信は強くなっていった。

そして、演歌とバングラーを交互に聴いているうちに、自分の中に、とても素晴らしいアイデアが浮かんできたのだ。
それは、「バングラー演歌」というジャンルを作ったら、ものすごい金脈になるのではないか、ということだ。


演歌とバングラー/パンジャービー・ポップの歌い回しは、本当によく似ている。
例えば、この曲を聴いてみてほしい。

(参考楽曲:Aatish "Jannat")
念のために言っておくと、演歌っぽいパンジャービーの曲を何曲も探してこの曲を見つけたわけではない。
YouTubeで適当に検索した3曲目がこれである。

2曲目に行き当たったこの曲もかなり演歌っぽかった。
歌い回しだけでなく、イントロのガットギターのトレモロ奏法など、バングラー/パンジャービー歌謡は演歌っぽい要素には事欠かないのだ。


次に、演歌がいかにバングラーっぽいかを聴いてみよう。
この曲を演歌に含めて良いかどうかは意見が分かれると思うが、当人の意志とはまったく関係のないところで、最近のパンジャービー・ポップスの主流であるバングラーラップと演歌を繋ぐミッシングリンクとなっているのは間違いないだろう。



演歌とバングラーの共通点はサウンド面だけではない。
演歌の美学として、紅白歌合戦における北島三郎の「まつり」の演出や、小林幸子の巨大衣装など、祝祭性や過剰さを良しとする考え方がある。
こうした傾向は、パンジャービー・ポップスが持つボリウッド的な華やかさともバッチリはまるはずだ。

というか、こうして見てみると、演歌ってじつはかなりインドっぽいのではないだろうか。
この演出もダンサーも増し増しにしてゆく感覚は、ほとんどボリウッド映画のミュージカルシーンだ。

こんな感じのドール(Dhol)のビートや…


こんな感じのバングラー・ダンスは、

演歌が持つ祝祭感覚とぴったりだ。

「バングラー演歌」という発想が荒唐無稽だと思っていたあなたも、「ひょっとしたら…」と思い始めてきたのではないだろうか。

想像してみてほしい。
和太鼓の代わりにドール(Dhol)が打ち鳴らされる中、パンジャーブの民族衣装の大量のダンサーを引き連れて歌い上げる演歌歌手を。
そこには、マツケンサンバ的な、ミスマッチなのになぜか違和感がないという、不思議な説得力と恍惚感が生まれるはずだ。
そんな曲がヒットすれば、日本の景気も少しは良くなるだろう。

本場のバングラー歌手と共演したりすれば、日本だけではなくインドでも大ヒット間違いなしだ。
粋に着物を着こなした演歌歌手と、ターバン姿に伝統衣装のバングラー歌手の共演なんて、考えただけで心が躍る。
もちろん、バックには着物姿の踊り手とサリーのダンサーたち、そしてフンドシをしめた和太鼓の集団と、パンジャービーのドール奏者たちが華を添えるのだ。

演出のパターンは無限にある。
演歌のジャンルのひとつに「任侠もの」というのがあるが、こんな感じのパンジャービー・マフィア・スタイルと、着流し姿の古式ゆかしい任侠スタイルの共演なんかも見てみたい。

昨今、反社会勢力を扱った芸能への風当たりは強くなるばかりだが、これくらい荒唐無稽なら、馬鹿馬鹿しくて誰も文句は言わないだろう。

もちろん艶やかな女性歌手の共演も素晴らしいものになるはずだ。
日本からは、石川さゆりや丘みどりあたりに出てもらえれば、パンジャービー美人の歌手とならんでも、美しさでも歌唱力でも引けを取らないだろう。

演歌とバングラーのもうひとつの共通点といえば、どちらもラテン音楽への接近が見られることだ。
演歌では、こんなふうに唐突にラテンの要素が導入されることがたびたびある。


純烈、これまでノーチェックだったがこうやって見てみるとかなりボリウッドっぽいな…。

一方のバングラー/パンジャービー勢も、よりモダンな方向性ではあるが、最近こんなふうにラテン要素の導入が目立っている。

若手演歌歌手なら、これくらい現代的なバングラーの要素を取り入れてみても良いだろう。

演歌がバングラーを取り入れるメリットは、一時のブームには終わらない。
バングラーは、これまで何度も書いてきた通り、伝統音楽でありながら、ヒップホップやEDMなど新しいジャンルを貪欲に吸収し、今でも北インドのメインストリームを占めている。
一方、我が国の演歌は、サウンド面の刷新がなかなか進まず(ビジュアル的には、ホストっぽくなったりとそれなりの進化を遂げているようなのだが)、リスナーの高齢化が著しく、ジャンルとしての衰退に歯止めがかからない状態だ。

ところが、演歌はバングラーを経由することで、ヒップホップやEDMのような若い世代の音楽と、ごく自然に融合できるのだ。

例えば、こんなアレンジの演歌があってもいいじゃないか。
演歌がこれくらい斬新な音楽性を示すことができれば話題になること間違いなしだし、若い世代や新しい音楽に敏感な層も飛びついてくるだろう。
バングラーとの融合は、演歌にとって起死回生のカンフル剤となる可能性があるのだ。

と、バングラーと演歌を巡る妄想は膨らむばかりだ。
この記事が演歌関係者(もしくはバングラー関係者)の目に留まることを祈っている。
バングラー演歌、いいと思うんだけどなあ…。

演歌関係者のみなさん、ぜひこのアイデアを実現させてみませんか?





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2020年10月13日

2020年版 シク系ミュージシャンのターバン・ファッションチェック!




先日のバングラーの記事を書いていて、どうしても気になったことがある。
それは、ターバンの巻き方についてだ。
改めて言うまでもないが、ターバンというのは、インド北西部のパンジャーブ地方にルーツを持つ「シク教」の男性信者が教義によって頭に巻くことになっている例のあれのことである。
シク教徒はインドの人口の2%に満たない少数派だが、彼らは英国統治時代から軍人や労働者として諸外国に渡っていたため、インド人といえばターバン姿というイメージになっているのだ。
(実際はシク教徒以外にもターバン文化を持っている人たちもいるし、宗教に関係なく「盛装としてのターバン」というのもあるのだが、ややこしくなるので今回は省略)

シク教徒のミュージシャンのターバン事情については、以前も書いたことがあったのだけど、今回あらためて気づいたことがあった。


それは、インド国内のシクのミュージシャンは、ターバンを巻く時に、ほぼ必ず「正面から見ると額がハの字型になり、耳が隠れるボリュームのある巻き方」をしているということだ。

例えばこんな感じである。
今年7月にリリースされたDiljit Dosanjhの"G.O.A.T."のミュージックビデオを見てみよう。
 
前回も取り上げたDiljit Dosanjhは、このゴッドファーザーのような世界観のミュージックビデオで、タキシードやストリート系のファッションに合わせて黒いターバンを着用している。
我々がターバンと聞いてイメージする伝統的な巻き方なので、これを便宜的に「トラディショナル巻き」と名付けることにする。
額にチラリと見える赤い下地がアクセントになっているのもポイントだ。
「トラディショナル巻き」のいいところは、この下地チラ見せコーディネートができるということだろう。
それにしても、このミュージックビデオのマフィア風男性、ターバン を巻いているというだけでものすごい貫禄に見える。

トラディショナル巻き以外にどんな巻き方があるのかと言うと、それは「ラッパー巻き」(こちらも勝手に命名)である。
「ラッパー巻き」については、このUKのインド系ヒップホップグループRDBが2011年にリリースした"K.I.N.G Singh Is King"のミュージックビデオを見ていただけば一目瞭然だ。

「ラッパー巻き」の特徴は、耳が見える巻き方だということ(耳をほぼ全て出すスタイルもあれば、半分だけ出すスタイルもあるようだ)、正面から見たときの額のラインが「ハの字型」ではなくより並行に近いということ、そしてターバンのボリュームがかなり控えめであるということだ。

「ラッパー巻き」は、2000年代以降に活躍が目立つようになった在外パンジャーブ系ラッパーがよく取り入れていた巻き方である。
おそらく、よりカジュアルなイメージがヒップホップ系のファッションに合うという判断だったのだろう。

ところが、インド国内のシクのミュージシャンたち、とくにパンジャーブを拠点に活動しているバングラー系のミュージシャンやラッパーたちは、首から下のファッションはどんなに西洋化しても、ターバンの巻き方だけは頑なにトラディショナル巻きを守っているのだ。
音楽的には様々な新しいジャンルとの融合が行われているバングラーだが、ターバンのスタイルに関しては、本場インドでは、かなり保守的なようなのである。

とはいえ、彼らのターバンの着こなし(かぶりこなし)はじつにオシャレで、見ているだけでとても楽しい。
それではさっそく、インド国内のパンジャーブ系シンガーたちを見てみよう。

まるで「ターバン王子」と呼びたくなるくらい整った顔立ちと伸びやかな声が魅力のNirvair Pannuは、ちょっとレゲエっぽくも聴こえるビートに合わせて、いかにもバングラー歌手らしい鮮やかな色のターバンを披露している。(曲は1:00過ぎから)

明るい色には黒、濃いエンジには黄色の下地を合わせるセンスもなかなかだ。
映像やファッションに垢抜けない部分もあるが、それも含めてメインストリームの大衆性なのだろう。

パンジャーブ語映画の俳優も務めているJordan Sandhuが今年2月にリリースした"Mashoor Ho Giya"では、オフィスカジュアルやパーティーファッションにカラフルなターバンを合わせたコーディネートが楽しめる。
 
彼の場合、ターバンと服の色を合わせるのではなく、ターバンの色彩を単独で活かす着こなしを心掛けているようだ。
どのスタイルもポップで親しみやすい魅力があり、彼のキャラクターによく似合っている。

シンガーの次は、ラッパーを見てみよう。
バングラー的なラップではなく、ヒップホップ的なフロウでラップするNseeBも、やはりターバンはトラディショナル巻きだ。
 
彼のようなバングラー系ではないラッパーは黒いターバンを巻いていることが多いのだが、今年9月にリリースされた"Revolution"では、様々な色のターバンを、チラ見せ無しのトラディショナル巻きスタイルで披露している。

こちらのSikander Kahlonもパンジャーブ出身のラッパーだ。
この"Kush Ta Banuga"では、ニットキャップやハンチングを後ろ前にしてかぶるなど、いかにもラッパー然とした姿を見せているが、ターバンを巻くときはやっぱりトラディショナル巻き。

ターバンの色はハードコア・ラッパーらしい黒。
個人的には、トラディショナル巻きはチラ見せのアクセントをいかに他のアイテムとコーディネートするかが肝だと思っているのだが、彼やNseeBのように、あえてチラ見せしないスタイルも根強い人気があるようだ。

と、いろいろなスタイルのシク教徒のミュージシャンを見てきたが、ご覧のとおり、インド国内のシク系ミュージシャンは、音楽ジャンルにかかわらず、ターバンを巻く時は「トラディショナル巻き」を守る傾向があるのだ。

私の知る限り、インド国内で「ラッパー巻き」をしているのは、デリーのストリートラッパーのPrabh Deepだけだ。
彼は、ターバンの額の部分がほぼ真っ直ぐになるような、かなりタイトなラッパー巻きスタイルを実践している。

洗練されたストリート・スタイルと、いかにもラッパー然とした鋭い眼光が、ラッパー巻きのスタイルによく似合っている。
トラディショナル巻きは、どうしても伝統的なバングラーのイメージが強い巻き方である。
彼がラッパー巻きを選んでいる理由は、「俺はパンジャービーだけど、バングラー系ではない」という矜恃なのかもしれない。


ここまで、シクのラッパーたちの2つのターバンの巻き方、すなわち「トラディショナル巻き」と「ラッパー巻き」に注目してきたが、じつは、彼らにはもう一つの選択肢がある。
それは、「ターバンをかぶらない」ということだ。

時代の流れとともに手間のかかるターバンは敬遠されつつあり、最近では、インドのシク教徒の半数がもはやターバンを巻いていないとも言われている。

シクのミュージシャンでも、メインストリーム系ラッパーのYo Yo Honey SinghやBadshahもパンジャーブ出身のシク教徒だが、彼らに関して言えば、ターバンを巻いている姿は全く見たことがない。


Yo Yo Honey Singhが今年リリースしたこの曲では、スペイン語の歌詞を導入したパンジャービー・ポップのラテン化の好例だ。

Badshahの現時点での最新作は、意外なことにかなり落ち着いた曲調で、ミュージックビデオでは珍しくインドのルーツを前面に出している。
原曲はなんとベンガルの民謡だという。

音楽的な話はさておき、ともかく彼らはターバンを巻いていないのだ。
(そういえば、2000年前後に世界的なバングラー・ブームの火付け役となったPunjabi MCもターバンを巻かないスタイルだった)
ターバンを巻いても巻かなくても、それは個人の自由だし、まして信仰に関わることに部外者が口を出すのはご法度だ。
ターバンを巻く、巻かないという選択には、伝統主義か現代的かというだけではなく、宗派による違いも関係しているとも聞いたことがある。

ただ、そうは言っても、シクの男性は、やっぱりターバンを巻いてたほうがかっこよく見えてしまうというのもまた事実。
これもまたステレオタイプな先入観によるものなんだろうけど、成金のパーティーみたいなミュージックビデオであろうと、ギャングスタみたいな格好をしていていようと、ターバンを巻いているだけで、シクの男性は「一本筋の通った男」みたいな雰囲気が出て、圧倒的にかっこよく見えてしまうのだ。

ここまで読んでくださったみなさんは、ターバンが単なるエキゾチックなかぶり物ではなく、また信仰を象徴するだけの伝統でもなく、タキシードからヒップホップまで、あらゆるスタイルに合わせられる極めてクールなファッション・アイテムでもあるということがお分かりいただけただろう。

ターバンとファッションと言えば、少し前にGucciがターバン風のデザインの帽子を発表して、 シク教徒たちから「信仰へのリスペクトを欠く行為である」と批判された事件があった。

その帽子のデザインは、今回紹介した洗練されたシク教徒たちのスタイルと比べると、はっきり言ってかなりダサかったので、文化の盗用とかいう以前の問題だったのだが、何が言いたいかというと、要は、ターバンは、世界的なハイブランドが真似したくなるほどかっこいいのだということである。

ところが、ターバンは、センスとか色彩感覚といった問題だけではなく、やはり信仰を持ったシク教徒がかぶっているからこそかっこいいのであって、そうでない人が模倣しても、絶対に彼らほどには似合わないのだ。
(ドレッドヘアーはジャマイカのラスタマンがいちばんかっこよく見えるというのと同じ原理だ)
上記のCNNの記事にあるように、シク教徒たちにとって、ターバンは偏見や差別の対象に成りうるものでもある。
それでもターバンを小粋にかぶりこなす彼らの、自身のルーツや文化へのプライドが、何にも増して彼らをかっこよく見せている。
彼らが何を信じ、どんな信念を持って生きているかを知ることもももちろん大事だが、ポップカルチャーの視点から、彼らがいかにクールであるかという部分に注目することも、リスペクトの一形態のつもりだ。

というわけで、当ブログではこれからもパンジャービー・ミュージシャンたちのターバン・ファッションに注目してゆきたいと思います。
ターバン・ファッションチェック、毎年恒例にしようかな。


(追記:シク教徒のターバンは正確にはDastarと言い、巻き方にもそれぞれちゃんと名前がある。今回は、音楽カルチャーやファッションと関連づけて気軽に読めるものにしたかったので、あえて「トラディショナル巻き」や「ラッパー巻き」と書いたが、いずれリスペクトを込めて、正しい名称や巻き方の種類を紹介したいと思っている。また、パンジャーブの高齢の男性がラッパー巻きをしているのを見たことがあるので、ラッパー巻きは必ずしも若者向けのカジュアルなスタイルというわけでもないようだ。そのあたりの話は、また改めて。)


参考サイト:
https://en.wikipedia.org/wiki/Kesh_(Sikhism)




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2020年10月10日

バングラー・ポップの現在地!最新のパンジャーブ音楽シーンをチェックする

毎回インドの音楽シーンを紹介しているこのブログで、インドで絶大な人気を誇っているにも関わらず、あえて触れてこなかったジャンルがある。
それは、パンジャーブ州発祥の音楽「バングラー(Bhangra)」だ。
(一般的には「バングラ」とカナ表記されることが多いが、それだとバングラデシュと紛らわしいし、より原語に近い「バングラー」という表記で行きます)

バングラーは、1990年代以降、ヒップホップやエレクトロニック系の音楽と融合して様々に進化しており、インドの音楽シーンを語るうえで決して無視できないジャンルなのだが、あまりにもメインストリームすぎて、インディー音楽を中心に扱っているこのブログでは、正直に言うとちょっと扱いに困っていたのだ。

現代インドにおけるバングラーの位置づけを説明するためには、少し時代をさかのぼる必要がある。 
インド北西部に位置するパンジャーブ州は、ターバンを巻いた姿で知られるシク教徒が数多く暮らす土地だ。
800px-Punjab_in_India_(disputed_hatched)

インドがイギリスに支配されていた時代、シク教徒は労働者や警官として重用され、世界中のイギリス植民地に渡って行った。(この時代の香港が舞台のジャッキー・チェン主演の映画『プロジェクトA』にターバン姿の警察官が出てくるのはそのためだ。)

1947年にインド・パキスタンがイギリスから分離独立した後も、血縁や地縁を頼って多くのパンジャービー(パンジャーブ人)たちがイギリス、カナダ、アメリカ西海岸などに渡り、海外のパンジャーブ系コミュニティは拡大の一途を辿った。

パンジャーブ州の人口は約3,000万人で、インドの全人口のたったの2.2%に過ぎない。
シク教徒の人口も、全人口の1.7%でしかないのだが、こうした背景から、旧宗主国のイギリスでは、140万人にもおよぶインド系住民のうち、じつに45%をパンジャービーが占めており、その3分の2をシク教徒なのである。
つまり、パンジャーブやシクの人々は、欧米に暮らす移民との密接なコネクションを持っているのだ。

ここでようやく音楽の話が出てくるのだが、「バングラー」はもともと、パンジャーブの収穫祭で踊られていた伝統音楽だった。
海外に渡ったパンジャーブ系移民の2世、3世たちは、シンプルだが強烈なビートを持つ「バングラー」を、現地の最新のダンスミュージックと融合するようになる。
こうして生まれた新しいバングラーは、「バングラー・ビート」と呼ばれ、南アジア系ディアスポラの若者の間で絶大な人気を得た。
その人気はやがて南アジア系以外にも飛び火し、1998年にパンジャーブ系イギリス人シンガー/ラッパーのPanjabi MCがリリースした"Mundian To Bach Ke"は、Jay-Zによってリミックスされ、2003年に世界的な大ヒットを記録した。



現代的なベースやリズムが導入されているが、この曲の骨子は正真正銘のバングラー。
印象的な高音部のフレーズを奏でている弦楽器はトゥンビ(Tumbi)、祭囃子のようなシャッフルを刻んでいる打楽器はドール(Dhol)という伝統楽器だ。
バングラーの直線的なリズムは、ヒップホップやエレクトロニック系の西洋音楽との融合がしやすかったのも幸いした。

「バングラー・ビート」はインドに逆輸入されると、新しい音楽に目ざといボリウッド映画にも導入され、国内でも人気を博すようになる。
私が初めてインドを訪れた90年代後半には、"Punjabi Non-Stop Remix"みたいなタイトルのバングラービートのカセットテープ(当時のインドの主要音楽メディアはカセットテープだった)がたくさん売られていたのを覚えている。
だいたいがド派手なターバン姿の髭のオッサンがニンマリと笑っているデザインのジャケットだった。


例えばこんな感じのやつ。

世界的なバングラー・ブームはすぐに収束してしまったが、インド国内や海外のディアスポラでは、バングラー系の音楽(より歌モノっぽいパンジャービー・ポップスを含む)は、今でもポピュラー音楽のメインストリームを占めている。
(映画『ガリーボーイ』の冒頭で、主人公がパンジャービー・ラップを聴いて「こんなものはヒップホップじゃない」と吐き捨てるシーンがあるのは、こういった背景によるものだ。)

前置きが長くなったが、そんなわけで、インドのインディー音楽に興味がある私としては、商業主義丸出しで、かつ流行遅れのイメージのあるバングラー系音楽には、あまり興味を持っていなかったのである。

我々日本人にとってさらに致命的なのは、バングラーの歌い回しが「吉幾三っぽい」ということだ。
先ほどの"Mundian To Bach Ke"でもお分かりいただけたと思うが、バングラーのこぶしの効いた歌い回しはまるで演歌のようで、かつパンジャービー語の独特のイントネーションは東北弁を彷彿とさせる。
演歌+東北弁ということは、つまり吉幾三である。

演歌ファンと東北出身の方には大変申し訳ないのだが、そんなわけで、インディーロックやヒップホップ好きの感覚からすると、バングラーはどこか垢抜けないのだ。
(ちなみにパンジャーブ人から見ても、演歌は親しみを感じる音楽のようで、インド出身の演歌歌手として一世を風靡した「チャダ」はパンジャーブ系のシク教徒である。彼はミカン作りを学びにきた日本で演歌に出会い、惚れ込んで歌手になったという。)


そんなバングラーについて考え直すきっかけになったのは、パンジャーブ州の州都チャンディーガル出身のヒップホップユニット、Kru172だった。

彼らはラッパーとしてだけではなく、ビートメーカーとしても活躍しており、パンジャーブを遠く離れたムンバイのフィーメイルラッパー、Dee MCにもビートを提供している。


そんなヒップホップシーンで大活躍中の彼らが、なんと昨年"Back In The Dayz"というタイトルのバングラーのアルバムをリリースしていたのである。
アルバムのイントロ(Desi-HipHop創成期から活躍しているUKのパンジャービー系フィーメイルラッパーHard Kaurによる語り!)に続いて始まるのは、正真正銘のバングラー・サウンド!

静かに期待感をあおるクラブミュージック風のイントロに、トゥンビのサウンドがパンジャーブの風を運んでくる。
ところが、いざ本編が始まってみると、この歌い回し、このリズム、ヒップホップらしさのかけらもない、ど真ん中のバングラー・ポップだ!


コアなヒップホップヘッズと思われていた彼らが、こんなアルバムを出すなんて!
イントロの語りからも、アルバムタイトルからも、この作品は彼らがかつて聴いていた音楽への懐かしさを込めて作ったものであることがわかる。

そう、パンジャーブの人々にとって、バングラーは商業主義のメインストリームでも、垢抜けないダサい音楽でもなく、今でも「自分たちの音楽」なのだ。
というわけで、自分の勝手な先入観を恥じつつ、現代のバングラー・シーン、パンジャービー・ポップシーンがどうなっているのか、調べてみました!

YouTubeやSpotifyで調べてみたところ、現代のバングラーには、いまだに旧態依然としたものもあれば、垢抜けすぎてもはやどこにもバングラーの要素が無いものまでいろいろなタイプな曲があったのだが、今回は、適度に垢抜けつつも、バングラーっぽさ、パンジャービーっぽさを残したものを中心に紹介する。



まずは、パンジャーブのシンガーソングライターのSukh-E Muzical Doctorzが昨年リリースした"Wah Wai Wahh"という曲を聴いてもらおう。

インドらしさを全く感じさせないクールなギターのイントロに、いかにもパンジャービーなヴォーカルが入ると空気が一変する。
曲が進むにつれて、現代風にアレンジされたバングラーのリズムや、トゥンビ風のフレーズが加わるたびに少しずつパンジャーブ成分が強くなってゆくが、曲全体の感触はあくまでスムース。
濃くてアクの強いバングラーのイメージを覆すさわやかなパンジャービー・ポップだ。
(パンジャービー系のミュージックビデオは、色彩やダンスなど、出演者の「圧」が非常に強いことが多いので、映像に引っ張られそうになったら目を閉じて聴いてみることをおすすめする)

Sukh-E Muzical Doctorz(単にSukh-Eの名前でも活動している)は、現代パンジャービー/バングラーを代表するアーティストの一人で、この"Bamb"ではパンジャーブ出身の大人気ラッパーBadshahをフィーチャーしている。

Badshahはバングラー・ビート系の音楽出身のラッパーで、EDMなどを導入したスタイルで全国区の人気を誇るラッパーだ。(いわゆるストリート系のヒップホップ・アーティストとは異なるメインストリームのラッパー)
リズムやフレーズなど、どことなくラテン系ポップスにも似た雰囲気を持った曲。
以前も書いたことがあるが、インドのポピュラーミュージックのラテン化は非常に興味深い現象だ。



続いては、The Doorbeen Ft. Raginiによる2018年のリリース、"Lamberghini".
この曲は、なんとYouTubeで4億回以上の再生回数を叩き出している。

The Doorbeenは、デリーとパンジャーブ州のちょうど中間あたりに位置するハリヤーナー州Karnal出身のパンジャービー・ポップデュオ。
この曲はインドの結婚式のダンスパーティーの定番ソングとなったそうで、ランヴィール・シンとディーピカー・パードゥコーンのボリウッド大スターカップルもこの曲に合わせて踊ったという。
女性ヴォーカルの独特の歌い回しがかろうじてパンジャービーっぽさを残してはいるものの、EDMポップ的なリズム、洋楽的な男性ヴォーカル、そしてラップといった要素は非常に現代的。
土着的な要素を残しつつ、モダンな要素を非常にうまく導入している最近のパンジャービー・ポップの特徴がよくわかる1曲。

タイトルはもちろんミュージックビデオにも出てくるあのイタリア製のスポーツカーのこと。
ランボルギーニはアメリカのヒップホップのリリックにもよく登場することが知られている。
「スーパーカー」の代表格として、富を象徴する扱いなのだが、パンジャービー・ポップにもヒップホップ・カルチャーの影響があったのかどうか、興味深いところである。

EDMとパンジャービー・ポップの融合がうまいアーティストといえば、Guru Randhawa.
彼は映画音楽を手がけることが多いまさにメジャーシーンのど真ん中の存在。
この曲は映画"Street Dancer"でフィーチャーされていたものだ。

彼は他にも『ヒンディー・ミディアム』や『サーホー』といった日本でも公開されたヒンディー語映画の曲を手掛けていたので、インド映画ファンで耳にしたことがある人も多いはずだ。

ここまで、非常に欧米ポップス寄りの曲を紹介してきたが、もっとプリミティブなバングラーらしさを残した曲もある。
例えばDiljit Dosanjhの"Muchh"は、ドールのビートとハルモニウムが古典的な要素を強く感じさせるが、リズムの感触は非常に現代的。
最初に紹介したPanjabi MCの"Mundian To Bach Ke"と聴き比べてみてほしい。

このミュージックビデオからも、USのヒップホップ的な成金志向が見て取れる。
それにしてもガタイのいいシク教徒の男性はスーツ姿が映える。
ターバンとのコーディネートもかっこいい。

今回紹介したミュージックビデオは、いずれもYouTubeで6,000万ビューを超える再生回数を叩き出しており、バングラー/パンジャービー・ポップのメインストリームっぷりを改めて思い知らされた。

また、このジャンルのミュージシャンにとって、ボリウッド映画に採用されるということがひとつのゴールになっているようで、The Doorbeenについて書かれた記事では、わざわざ「彼らはまだボリウッドのオファーを受けていないが…」という但し書きがされていたのも印象に残った。 
(その後、彼らの"Lamberghini"は、その後2020年に公開された映画"Jai Mummy Di"の挿入歌として、本家と同じ綴りの"Lamborghini"というタイトルで、若干のアレンジを加えた形で使われ、無事ボリウッドデビューを果たしている。映画版の楽曲はMeet Brothersという別のパンジャーブ系プロデューサーの曲としてクレジットされているのが気になっているのだが…)

バングラー/パンジャービー系のミュージックビデオが、アメリカのヒップホップ同様に、「経済的成功」を重要なテーマにしているということも非常に興味深い。
(ミュージックビデオでやたらとパーティーをしていることも共通している)
インドの大ベストセラー作家、Chetan Bhagatの"2 States"(映画化もされている)はパンジャーブ人男性とタミル人女性の国内異文化ラブストーリーだが、この自伝的小説によると、パンジャーブ人は、金銭的な成功を誇示したり、パーティーで騒ぐことが大好きなようで、教養の深さや控えめな態度を好むタミル系ブラーミン(バラモン)とは対称的なカルチャーの持ち主として描かれている。

そう考えると、インド国産ヒップホップの第一世代であるYo Yo Honey Singhらのパンジャーブ系ラッパーたちが、アフリカ系アメリカ人の拝金主義的な部分をほぼそのままトレースしたことも納得できる。
そうした姿勢は、インド国内でも、より社会的なテーマを扱う第二世代以降のラッパーたちによって批判されるわけだが、それは音楽カルチャーの違いではなく、むしろ民族文化の違いよるところが大きかったのかもしれない。


今回改めてバングラー/パンジャービー・ポップを聴いてみて、さまざまな音楽を吸収する貪欲と柔軟さ、それでも芯の部分を残すかたくなさ、そしてどこまでもポジティブなヴァイブを再認識することとなった。
いつも書いているように、こうしたジャンルとは距離を置いたインドのインディー音楽も急成長を遂げているのだが、メインストリームもまた揺るぎない進歩を続けている。
メジャーとインディペンデント、インドのそれぞれのシーンの面白さは本当に尽きることがない。

インド国内の現代的なバングラーやパンジャービー・ポップがチェックしたければ、Speed Records, Geet MP3, 10 on 10 Records, White Hill Musicといったレーベルをチェックすると最新のサウンドが聴けるはずだ。
 

参考記事:
https://mumbaimirror.indiatimes.com/others/sunday-read/love-and-lamberghini/articleshow/67402308.cms




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goshimasayama18 at 14:18|PermalinkComments(0)

2020年05月04日

ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その2)

前回の記事では、とうとう判明した謎のインド人占い師「ヨギ・シン」の正体と思われるシク教徒のコミュニティー(カーストと言い換えても良い)'B'について書いた。
今回は、ヨギ・シンが'B'に所属しているとしたら、彼らはいったいどのように世界中に出没しているのか、そして彼らは本当に'B'の一員なのかという部分に迫ってみたい。



私が考える、「ヨギ・シン='B'説」は、このようなものだ。

20世紀中頃までにイギリス領をはじめとする世界中に渡った'B'たちは、祖国では低く見られていた生業を捨て、新しい職に就いて暮らすようになった。
最初の世代が移住してから長い年月が過ぎ去ったが、彼らは今でもインドに暮らす親族たちと深い絆で結ばれている。
インドで暮らす同胞たちのなかには、彼らの伝統である「辻占」の技術(それは多分にメンタリズムやマジックの技術を含むものだ)を受け継いだ者たちも残っていたとしても、不思議ではない。
彼らは、息子の進学や娘の結婚などのためにお金が必要になると、海外に暮らす親族のネットワークを頼って、「出稼ぎ」のために世界中の大都市に渡る。
だが、先進国では、労働ビザを持たない外国人が簡単に就くことができる仕事などない。
短い期間で大金を稼ぐには、富裕層を狙って彼らの伝統である占いを行うしか手段はなかった。
さあ、どこの国に出稼ぎに行こうか。
'B'のコミュニティーのなかで、話し合いが行われる。 
香港には、ついこないだまであの家のじいさんが行っていた。
ロンドンでは今となり村の叔父さんたちが「仕事」をしているところだ。
メルボルンには向こうの家の親父が行っていたが、「詐欺師に注意!」と報道されてしまったばかり。
よし、今まで誰も行っていない東京にしよう。
ちょうど、エンジニアをしている従兄弟の一人が、2年前から東京で暮らしているのだ。

「ヨギ・シン」たちは、こんなふうにして目的地を決めるのだろう。
占い師は、親族の住まいに身を寄せ、その街に暮らす親族に、占いに適した地域を尋ねる。
金払いの良い富裕層が集まっていること。
英語を理解する教育程度の高い人間が多いこと。
そして、見慣れない異国の人間が歩いていても、怪しまれないこと。
彼らが安心して活動するには、少なくともこういった条件が必要だ。
先住の'B'は、ちょっと迷惑だなと感じながらも、故郷から来た時代遅れの親類に、寝床を提供して、助言を与える。
伝統を大事にしている自分たちのコミュニティーでは、娘の結婚に持参金が必要なことも、この忌むべき生業から抜け出すには高い学歴が必要なことも分かっているからだ。

東京に来たヨギ・シンが、丸の内という彼らの活動にいちばん適した街にいきなり出没できたのは、きっとこんな背景があったはずだ。
必要なお金が集まったら、彼らは故郷へと帰ってゆく。
そのお金で高い教育を受けたり、よい家柄に嫁いだ彼らの子どもたちは、もう誰も「ヨギ・シン」にはならない。

もし、「仕事」の最中に正体やトリックがばれそうになったら、あるいは、警察や役人に怪しまれそうになったら、なんとかしてその場から逃げ出して、その街から立ち去ることだ。
拘束や強制送還で済めば、まだ運が良い方だ。
彼らの存在や、その秘密が知れ渡ってしまったら、もう誰も先祖代々の共有財産であるこの生業をできなくなってしまう。
それだけはなんとしても避けなければならない。

…国際フォーラムで声をかけた時の「彼」の反応は、こんな事情があることを思わせるものだった。
 

ある程度、情報も集まり、仮説も立てられた。
次はどんな調査をすべきだろうか。
私が大きく考えさせられる言葉に出会ったのは、ちょうどこんな想像を巡らせていた時だった。

それは、シク教徒たちが集まるウェブサイトに書かれていた、何気ない言葉だった。
そのサイトは、世界中のシク教徒たちがシク教の歴史や文化を話し合うために作られたものだった。
パンジャービー語やヒンディー語の文字は見当たらず、全て英語で書かれていたから、海外在住のシク教徒や、インドでも英語を自由に使える階層の(つまり、教育レベルが高い)人々が主に利用しているサイトなのだろう。

このサイトの中で、ロンドンに住む男性が書いた、'B'に対するこんなコメントを見つけてしまったのだ。
「かつて、我々シク教徒は誇り高い戦士だと思われていた。それが、'B'のコミュニティーのいんちきな占いのせいで、シク教徒といえば怪しいニセ占い師だと言われるようになってしまった。悲しいことだ。1920年代からイギリスでは同じようなことが言われているし、今ではネット上のあらゆる場所でシク教徒には近づくなと言われている。占いは彼らの伝統かもしれないけど、そのせいでシク教徒の評判が傷つけられている。彼らは150年前からなにも変わっていない。でも、カースト差別主義者だと思われたくないから、誰もこんな話はしないんだ…。(大意)」
そこには、ご丁寧に世界中に出没した「ヨギ・シン」たちのことを伝えるブログやニュースサイトのリンク(私が彼らの出没情報を得るのに使ったものと同じページだった)が貼り付けられていた。

また別のスレッドには、同じくイギリス在住のシク教徒からこんなコメントが書かれていた。
「(ヨギ・シンのような詐欺に会ったという声に対して)悲しいことに、それをしているのは自分と同じ'B'コミュニティーの出身者だよ。こんなことをする'B'は本当に少なくて、1%くらいだけだ。彼らはイギリスに住んでいるわけじゃなくて、インドからやって来るんだ。」

ここに書かれていたのは、他ならぬシク教徒たちからの告発であり、また'B'の同胞たちからの、生業に対する弁解だった。
これらの書き込みを読む限り、おそらく私の推理は当たっていたのだろう。
間違いなく'B'こそがヨギ・シンの所属するコミュニティーだ。
それでも、私は謎が解けた喜びよりも、むしろもやもやとした落ち着かない気持ちが湧いて来るのを抑えられなかった。

大谷幸三氏の本(『インド通』)やシク教の解説書で、'B'が非差別的な立場の存在であることを、知識としては理解していた。
だが、私は放浪の占い師である彼らを、どこかロマンチックな存在として見ていたところがあった。
秘伝の占いを武器に、口八丁で世界中を渡り歩く謎多き人々。
彼らに対して、物語のなかのジプシーやサンカ(かつて日本にいたとされる漂泊民)に抱くのと同じようなイメージを持っていたのだ。
ところが、ここに書かれていたのは、仲間たちから恥ずべき存在として扱われている、時代遅れで極めて弱い立場の人々だった。
このウェブサイトで、'B'は決して激しい言葉で差別されているわけではない。
むしろ、ここで'B'を批判しているのは無教養な差別主義者ではなく、先進国に暮らしながらも、自身のルーツであるシクのコミュニティ全体の誇りをも考えている立派なシク教徒たちに違いない。
だからこそ、'B'の置かれた立場の寄る辺のなさが、とても重苦しいものとして感じられたのだ。

ある人物(おそらく'B'の一員だろう)は、このサイトの掲示板に「'B'コミュニティーがシク教の歴史のなかで果たしてきた役割をきちんと評価すべきだ。そのうえで、シク教徒はコミュニティーによる分断を乗り越えて、ひとつになるべきだ」という趣旨のスレッドを作成していた。
おそらく、シク教徒たちのなかで低い立場に置かれている'B'の扱いに対する異議申立てなのだろう。
だが、それに対する反応は、「シク教徒は全体でひとつの存在なのだから、'B'のコミュニティーだけを評価すべきという考えはおかしい」という、至極まっとうだが冷淡なものがほとんどだった。
他にも、この掲示板では、女子教育の軽視や早期の結婚といった'B'の保守性が批判的に扱われているコメントが散見された。

断っておくと、このサイト上のでは、特定のコミュニティーを見下すような意見はほとんど表出されておらず、むしろ「シク教徒全体がひとつの大きなコミュニティーなのだから、個々のカーストやコミュニティーにこだわるべきではない」という考えに基づくコメントが多く書き込まれていた。
それに、シク教徒のなかにも、'B'のことを知らなかったり、彼らがこうした占いを行なっていることを聞いたことがない人たちも多いようだった(私が受けた印象では、むしろそういう人のほうが圧倒的に大多数のようだ)。
だが、それでも「ヨギ・シン」たちがシク教徒の仲間や同じコミュニティからも、恥ずべき存在だと思われているという現実は、心に重くのしかかったままだった。

端的にいうと、私は、こうした弱い立場の彼らの正体を、興味本位で暴こうとすることに、罪悪感を感じ始めてしまったのだ。
「差別的に扱われている彼らの占いを、伝統芸能として再評価すべき」なんていう理想を掲げていたが、そもそも彼ら自身がこの考えをどう感じるのか、私はまったく想像できていなかった。
自分勝手な親切を押し付けようとしていただけなのではないか。
彼らはそんなことは望んでおらず、必要最小限だけ、静かに目立たないようにその仕事をしたかっただけなのではないだろうか。

この記事に彼らのコミュニティーの名前をはっきりと書かなかったのも、引用した文献や著者の名前を記さなかったのも、彼らのことを好奇心のままに取り上げることに疑問が湧いてきてしまったからだ。
彼らのことを書きたいという欲求と、彼らのことを書くべきでないという気持ちの葛藤に、いまだに整理がつかないでいる。
彼らが感じているであろう「痛み」を知らずに、好奇心のままに彼らの正体を暴くことは、果たして許されることなのだろうか。

国際フォーラムの中庭で遭遇したヨギ・シンの様子が思い出される。
彼が示した明確な拒絶。
彼らが路上で奇妙な占い行為をしていたのは明らかだったにもかかわらず、口が達者な占い師であるはずの彼は、言い逃れをすることもごまかすこともなく、'No'と'I don't know'だけを繰り返し、足早に立ち去った。
そして、それまで連日のように丸の内に現れていたヨギ・シンの集団は、それ以来二度と現れることはなかった…。
はるばる東京を訪れ、その生業で一稼ぎしようと思っていた矢先に、彼らに好奇心を抱いた男(私のこと)に見つかってしまった占い師たち。 
その心のうちはどのようなものだったのだろう。
自らの生業がどのように見られているかを知りつつも、その生業を続けざるを得ない彼らの気持ちは、思ったよりもずっと複雑なものなのではないだろうか。
彼らは、口八丁で生きるミステリアスな放浪の占い師などでは全くなかったのだ。
自らのコミュニティーや伝統が差別され、その生業が恥ずべきものだと知りながらも、シク教徒としての信仰に誇りを持ち、よりよい暮らしのためにやむなくその伝統にすがって生きている、弱い立場の存在…。
彼らのことを知れば知るほど、「ヨギ・シン」のイメージは私の中で変わっていった。

「彼らは何者なのか」
「彼らはどこから来たのか」
「彼らはいつ頃からいるのか」
「彼らはどんなトリックを使っているのか」
「彼らは何人くらいいるのか」

私はそんなことばかりを気にしていて、大事な疑問を忘れていたのだ。
「彼らは、なぜ占いをするのか」 
もちろん、家族のため、お金を稼ぐためだろう。
それは分かる。
しかし、そこに至るまでの経緯や逡巡、ひとりひとりのヨギ・シンが、何を思い、考えているのか。
どのように伝統が受け継がれ、どのように実践されるのか。
それを知るためには、彼らと知り合い、打ち解け、直接尋ねるしかない。
ヨギ・シンが抱える痛みを知った上で、はじめて彼らが秘めてきた伝統を書き記す資格が得られるはずだ。
いや、それだって、独りよがりな思い込みにすぎないかもしれない。
だが、それでも、彼らのことを知らずに、外側から眺めているだけでこれ以上書き続けることはできないし、それ以前にこれ以上書ける内容もない。

どんなアプローチの仕方があるのか、どれだけ時間や労力がかかるのか、皆目見当がつかないし、そもそもこのコロナウイルス流行の状況下では取り掛かりようもないのだが、この続きを書くためには、彼らと直接コンタクトを取るしかない。
ヨギ・シンに対する、ウェブや文献による調査と推理のフェーズは、今回をもってひとまずの終了とすべきだろう。
この続きは、彼らと再び出会い、関係を築いたうえで、あらためて書くということになりそうだ。
そんなことがはたしてできるのだろうか?
だが、何事も試して見なければわからない。
今は、ただその一歩が踏み出せる時が来ることを、静かに待つばかりだ。


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2020年05月01日

ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その1)

前回の記事で、山田真美さんの著書『インド大魔法団』『マンゴーの木』で紹介されているインドのマジシャン事情に触れつつ、世界中を流浪する謎の占い師「ヨギ・シン」を、詐欺師扱いされる存在からその伝統に値するリスペクトを受けられる存在にしたいという内容を書いた。
その気持ちに嘘偽りはない。
だが、ヨギ・シンの調査にあたって、それにも増して私の原動力になっていたのは、もっと単純な、本能的とも言える好奇心だ。
あらゆる情報がインターネット検索で分かってしまうこの時代に、こんなに不思議な存在が謎のままでいるということは、ほとんど奇跡であると言っていい。
「彼らは何者なのか」
「彼らはどこから来たのか」
「彼らはいつ頃からいるのか」
「彼らはどんなトリックを使っているのか」
「彼らは何人くらいいるのか」
ヨギ・シンにまつわる全ての謎の答えが知りたかった。

いくつかの謎については、これまでの調査でかなりのことが分かっていた。
彼らが使う「読心術」のトリックは、ちょっとした心理(メンタリズム)的な技法と、以前「ヨギ・トリック」として紹介したあるマジックの技術を使うことで、ほぼ説明することができそうである。
彼らの正体については、大谷幸三氏の著書『インド通』に登場する、シク教徒のなかでも低い身分とされる占い師カーストの人々だということで間違いないだろう。




では、その占い師のカーストは、何という名前なのだろう。
彼らはインドからどのように世界中に広まったのか。
そして、世界中で何人くらいが占い師として活動しているのだろうか。
こうした疑問の答えは、依然として謎のままだった。
私は、彼らの正体をより詳しく探るべく、ほとんど手がかりのないまま、シク教徒の占い師カーストについての調査にとりかかった。

ところで、「シク教徒のカースト」というのは、矛盾した表現だ。
シク教は、カースト制度そのものを否定しているからだ。
16世紀にヒンドゥーとイスラームの影響を受けて成立したシク教は、この2つの信仰が儀式や戒律を重視し過ぎたために形骸化していることを批判し、宗教や神の名はさまざまでも信仰の本質はひとつであるという教えを説いた。
ごく単純に言えば、ヴィシュヌもアッラーも同じ神の異名であり、信仰の前に人々の貴賎はないというのがシク教の思想である。
シク教徒の男性全員がSingh(ライオンを意味する)という名を名乗るのは、悪しき伝統であるカースト制度を否定し、出自による差別をなくすためだ。
シク教の聖地であるアムリトサルの黄金寺院では、宗教や身分にかかわらず、あらゆる人々に分け隔てなく無料で食事が振舞われているが、これもヒンドゥー教徒が自分より低いカーストの者と食事をともにしないことへの批判という意味を持っている。(黄金寺院で毎日提供される10万食もの食事の調理、給仕、後片付けなどの様子は、ドキュメンタリー映画『聖者たちの食卓〔原題"Himself He Cooks"〕』で見ることができる。)

形骸化した既存の宗教への批判から生まれたシク教だが、ほかのあらゆる宗教と同様に、時代とともに様式化してしまった部分もある。
例えば、彼らのシンボルとも言える、男性がターバンを着用する習慣もそのひとつと言えるだろう。
そして、シク教徒たちもまた、インドの他の宗教同様、この土地に深く根付いたカーストという宿痾から逃れることはできなかった。
誰とでも食卓を囲む彼らにも、血縁や地縁でつながった職業コミュニティー間の上下関係、すなわち事実上のカースト制度が存在している。
ヒンドゥー的な浄穢の概念は捨て去ることができても、家柄や職業の貴賤という感覚からは逃れられなかったのだ。
結果として、路上での占いを生業とするコミュニティーに所属する人々は、シク教徒の社会のなかでも、低い身分に位置付けられることになった。

そこまでは分かっていたのだが、シク教徒の辻占コミュニティーについての情報は、なかなか見つけることができなかった。
興味本位のブログ記事や、詐欺への注意を喚起する記事は見つけられても、彼らの正体に関する情報は、英語でも日本語でも、ネット上のどこにも書かれていないようだった。
ところが、なんとなく読み始めたシク教の概説書に、思いがけずヒントになりそうな記述を見つけることができたのだ。
それは、あるイギリス人の研究者が書いた本だった。
その本のなかの、イギリス本国に渡ったパンジャーブ系移民について書かれた部分に、こんな記述を見つけたのだ。

「…第一次世界大戦から1950年代の間にイギリスに移住したシク教徒の大部分は、(引用者注:それ以前に英国に渡っていた王族やその従者に比べて)はるかに恵まれない身分の出身だった。インドでは'B'というカーストとして知られている彼らは、他の人々からは、地位の低い路上の占い師と見なされていた。イギリスに渡った'B'の家族の多くが、現在はパキスタン領であるシアルコット地区の出身である。」
(引用者訳。この本には具体的なカースト名が書かれていたのだが、後述の理由により、彼らの集団の名前や、参考にした著書については、今は明かさないことにする)

この「低い身分の路上の占い師」である'B'という集団こそが、ヨギ・シンなのだろうか。
文章は続く。

「'B'のシク教徒の先駆者たちは、ロンドンや、ブリストル、カーディフ、グラスゴー、ポーツマス、サウサンプトン、スウォンジーなどの港町や、バーミンガム、エディンバラ、マンチェスター、ノッティンガムなどの内陸部に定住した。彼らはまず家庭訪問のセールスマンになり、やがて小売商、不動産賃貸業などに就くようになった。より最近の世代では、さらに幅広い仕事についている。'B'たちは、他のシク教徒たちが手放してしまった習慣や、他のシク教徒たちに馴染みのない習慣を保持していた。」

シク教徒のなかでもとくに保守的な集団だというから、今では違う職に就いている彼らのなかに、きっとあの占い師たちもいるのではないだろうか。
彼らのコミュニティーの名前が分かれば、あとは簡単に情報が集まるだろうと思ったが、そうはいかなかった。
'B'という単語を使ってググっても、彼らが行うという「占い」に関する情報はほとんど得られないのだ。
それでもなんとかネット上で得られた情報や、探し当てた文献から得た情報(そのなかには、前述の本の著者の方に特別に送っていただいた論文も含まれている)を総合すると、以下のようになる。

'B'に伝わる伝承によると、改宗以前の彼らはヒンドゥーのバラモンであり、神を讃える詩人だったという。
'B'の祖先はもともとスリランカに住んでおり、その地でシク教の開祖ナーナクと出会った彼らは、シク教の歴史のごく初期に、その教えに帰依した。
改宗後、シク教の拠点であるパンジャーブに移り住んだ'B'の人々は、シクの聖歌を歌うことを特別に許された宗教音楽家になった。
彼らが作った神を讃える歌は、シク教の聖典にも収められている。
インドでは、低いカーストとみなされているコミュニティーが「かつては高位カーストだった」と主張することはよくあるため、こうした伝承がどの程度真実なのかは判断が難しいが、'B'の人々は、今でも彼らこそがシク教の中心的な存在であるという誇りを持っているという。
いずれにしても、彼らはその後の時代の流れの中で、低い身分の存在になっていった。
音楽家であり、吟遊詩人だった彼らは、その土地を持たない生き方ゆえに、貧困に陥り、やがて蔑視される存在になってしまったのだろうか。
少なくとも20世紀の初め頃には、'B'は路上での占いや行商を生業としていた。
彼らの22の氏族のうち13氏族が現パキスタン領であるシアルコット地区を拠点としていたという。

シク教徒の海外への進出は、イギリス統治時代に始まった。
19世紀に王族やその従者がイギリスに移住して以来、多くのシク教徒が、軍人や警官、あるいはプランテーションや工場の労働者として、英本国や世界中のイギリス領へと向かった。
彼らの中でもっとも多かったのが、「土地を所有する農民」カーストであるJatだった。
'B'の人々のイギリスへの移住は、おもに第一次世界大戦期から1950年代ごろに行われている。
とくに、Jatの移住が一段落いた1950年代に、なお不足していた単純労働力を補うために渡英したのが、職人カーストのRamgarhia、ダリット(「不可触民」として差別されてきた人々)のValmiki、そして'B'といった低いカーストと見なされている人々だった。
もともと流浪の民だった'B'は、海外移住に対する抵抗も少なかったようだ。
彼らの主な居住地(シアルコットなど)が、1946年の印パ分離独立によって、イスラームを国教とするパキスタン領になってしまったこともシク教徒の海外移住を後押しした。
シク教徒のほとんどが暮らしていたパンジャーブ地方は、分離独立によって印パ両国に分割され、パキスタン領に住んでいたシク教徒たちは、その多くが世俗国家であるインドや海外へと移住することを選んだのだ。
逆にインドからパキスタンに移動したムスリムたちも多く、その混乱の中で両国で数百万人にも及ぶ犠牲者が出たといわれている。
印パの分離独立にともない、これ以前に移住していた'B'の人々は、帰る故郷を失い、イギリスへの定住を選ばざるを得なくなった。
 
1950年代にイギリスに渡った'B'のなかには、占いを生業とするものがとくに多かったが、彼らの多くは渡英とともにその伝統的な職業を捨て、セールスマンや小売商となった。
彼らは、サウサンプトン、リバプール、グラスゴー、カーディフといった港町でユダヤ人やアイルランド人が経営していた商店を引き継いだり、ハイドパークなどの公園で小間物や衣類、布地などを商ったりして生計を立てた。
また、シンガポールやマレーシア、カナダ、アメリカ(とくにニューヨーク)に移住した者も多く、行商人としてフランス、イタリア、スイス、日本、ニュージーランドやインドシナなどを訪れる者もいたという。

1960年の時点で、イギリスには16,000人ほどのシク教徒がいたが、その後もイギリスのシク教徒は増え続けた。
先に移住していた男性の結婚相手として女性が移住したり、アフリカやカリブ海地域に移住していた移民が、より良い条件を求めてイギリスにやってきたりしたことも、その原因だった。
インドから血縁や地縁を利用して新たに移住する者たちも後を立たなかった。
1960年代以降、インディラ・ガーンディー首相が始めた「緑の革命」(コメや小麦の高収量品種への転換、灌漑設備の整備、化学肥料の導入などを指す)によって、彼らのパンジャーブ州の基幹産業である農業は大きく発展した。
しかし、この成功体験は、人々に「努力して働けば、その分豊かになれる」という意識をもたらし、皮肉にも海外移住の追い風になってしまったという。
今では海外移住者がインド経済に果たす役割は非常に大きくなり、世界銀行によると、2010年にはパンジャーブ州のGDPのうち、じつに10%が海外からの送金によって賄われている(インド全体でも、この年のGDPの5%が海外からの送金によるものだった)。
経済的な野心から違法な手段で海外に渡る者も多く、世界中で15,000人ものパンジャーブ人が不法滞在を理由に拘束されているという。

現在、イギリスには約100万人ものインド系住民が住んでおり、英国における最大のマイノリティーを形成しているが、そのうち45%がパンジャービー系の人々で、その3分の2がシク教徒である。
つまり、イギリスに暮らすインド系住民のうち、約30%がシク教徒なのだ。
インドにおけるシク教徒の人口の2%に満たないことを考えると、これはかなり高い割合ということになる。
その人数の多さゆえか、イギリスのシク教コミュニティーは、決して一枚岩ではなく、それぞれのカーストによって個別のグループを作る傾向があるそうだ。
例えば、彼らの祈りの場である寺院〔グルドワーラー〕もカーストによるサブグループごとに、別々に建てられている。
'B'の人たちは、とくに保守的な傾向が強いことで知られている。
'B'の男性は、他のコミュニティーと比べてターバンを着用する割合が高く、また女子教育を重視しない傾向や、早期に結婚する傾向があると言われている。
参照した文献によると、少なくとも20世紀の間は、'B'の女性は十代後半で結婚することが多く、また女性は年上の男性の前では顔を隠す習慣が守られていたとある。
彼らにとってこうした「保守性」は、特別なことではなく、シク教徒としてのあるべき形なのだと解釈されていた。


長くなったが、これまでに'B'について調べたことをまとめると、このようになる。
世界中に出没している「ヨギ・シン」が'B'の一員だとすれば(それはほぼ間違いのないことのように思える)、例えばこんな仮説が立てられるのではないだろうか。

(つづく)



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goshimasayama18 at 18:56|PermalinkComments(0)

2020年01月21日

T.J.シン伝説 番外編(日本のリングを彩ったインド系プロレスラーたち)

前回まで、伝説のヒール(悪役)レスラー、タイガー・ジェット・シン(Tiget Jeet Singh)の半生を振り返る連載企画をお届けした。
ジェット・シンについて調べた過程で気がついたのだが、じつは日本のリングで活躍したインド人レスラーはジェット・シンだけではなく、意外にもかなり大勢いたようなのだ(「活躍した」とまで言えるのはジェット・シンだけだったかもしれないが)。
そのほとんどがジェット・シン同様にパンジャーブ出身のシク教徒だった。
その理由を挙げるとするならば、クシュティにルーツを持つパンジャーブのレスリング文化の豊かさと、戦士としての誇りを持つシク文化、そして20世紀初頭から積極的に移民として海外に進出していた彼らのもの怖じしない性格ということになるだろう。

裸一貫で海を渡り、その肉体と技術のみを頼りに生きてきた彼らの姿は、世界中の都市で目撃されている謎の占い師、ヨギ・シンとも重なって見える。
今回は、日本のリングを彩った、ほとんど人々の記憶にも残っていないインド系レスラーたちの情報をまとめてお届けします。


タイガー・ジェット・シン以前
おそらく最初に日本の地を踏んだインド人レスラーは、海外ではTiger Joginder Singhのリングネームで知られたタイガー・ジョギンダーと、「インドの英雄」ダラ・シン(Dara Singh Randhwa)だろう。

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タイガー・ジョギンダーことTiger Joginder Singh(画像出典:https://www.wikiwand.com/en/Tiger_Joginder_Singh

タイガー・ジョギンダーは、1955年に行われた「アジア選手権大会」で、キングコングとのタッグで力道山&ハロルド坂田組を破り「日本最古の王座」であるアジアタッグの初代王者に輝いたレスラーだ。
パンジャーブ出身のジョギンダーだが、この「アジア選手権大会」のシングル部門には、なぜかマレーシア代表として参加していたようで(ちなみにインド代表はダラ・シン)、レスラーの国籍ギミックは今でも珍しくないとはいえ、当時のマット界はかなりおおらか(適当ともいう)だったのだろう。
ちなみに当時のアジアタッグ王座は、タイトルマッチで移動する形式ではなく、アジア選手権大会に優勝したタッグに与えられる称号のようなものだったらしく、ジョギンダー&キングコング組は防衛戦を行わないまま、1960年に第2回アジアタッグ王座決定トーナメントで優勝したフランク・バロア&ダン・ミラー組が第2代王者として認定されている。
来日前のジョギンダーは、シンガポールや米国のマットでキャリアを築いていたようで、来日前後にはインドのリング(プロレスかクシュティかは不明)でダラ・シンらと闘っていたという記録が残っている。
1960年代以降は恵まれた体格を生かしてインドで映画俳優としても活躍した。
ちなみにタッグパートナーだったキングコングもなにかと南アジアと縁が深く、wikipediaの情報によると、彼は1937年にインドのボンベイ(現ムンバイ)でレスラーとしてデビューしたとのこと。
ハンガリー出身者がインドでデビューするとは謎すぎるキャリアだが、どうやら独立前のインドには、南アジアの伝統的なレスリングであるクシュティとは別に、植民地の支配者たちの娯楽として行われていたレスリングがあったらしい。
「キングコング」という見も蓋もないリングネームも、当時のインド映画でキングコング役を演じたことからつけられたものだそうだ。
ラホール(現パキスタン領)で行われたキングコング対ダラ・シンとの一戦には、20万人もの観衆が集まったというから、当時の南アジアのレスリング文化は相当なものだったようだ。

タイガー・ジョギンダーと同じく55年のアジア選手権大会シリーズで来日したダラ・シン(Dara Singh.本名Deedar Singh Randhawa)は、日本での目立ったタイトル獲得歴こそないものの、500戦無敗という伝説を持ち、レスラーとしての格はジョギンダーよりもずっと上だった。
なにしろ、あのタイガー・ジェット・シンにレスラーになることを決意させた人なのだから、当時のインドでは相当なヒーローだったのだろう。
1928年生まれのダラ・シンは、1947年にシンガポールに渡り、工場で働きながらレスリングジムに通って、レスラーとしてのキャリアをスタートさせたらしい。
1954年にはインドのレスリング(クシュティ)トーナメントRustam-e-Hindに出場し、決勝でジョギンダーを破って優勝しているが、デビュー前後の経歴は不明で、500戦無敗と言われるエピソードの真偽ははっきりしない。
ひょっとしたらこれもインドという未知の土地から来たレスラーにハクをつけるための演出だったのかもしれないが、実際にインドでかなり尊敬を集めていたレスラーことは間違いないようだ。
各種媒体によると、日本では当時の外国人レスラーには珍しい正統派のファイトスタイルで、力道山のライバルとして活躍したらしい。
ちなみに1955年の来日時には、パキスタン代表のサイド・サイプシャー(英語表記不明)なるレスラーとタッグを組んでいたようだが、このムスリムっぽい名前のレスラーについては詳しく分からずじまいだった。
darasingh
ダラ・シン(画像出典:https://wrestlingtv.in/dara-singh-tributes-pour-in-from-bollywood-wrestling-world-on-91st-birth-anniversary/
その後、ダラ・シンは1967年にも来日しているが、このときのダラ・シンと1955年のダラ・シンが同一人物であるかどうかについては諸説あり、このあたりの謎も昭和のプロレスならではの怪しい魅力に満ちている。
(別人説についてはこちらの記事に詳しい「ダラ・シンの謎」
ダラ・シンは50年代からプロレスと並行してスタントマンや俳優としても活躍しており、武勇の猿神ハヌマーン役などを務めて人気を博した。
その後、2000年からはインドの上院議員も務めているというから、ドウェイン・ジョンソン(ザ・ロック)や馳浩の大先輩のような存在と言えるかもしれない。
2018年にはWWE殿堂入りを果たすなど、その実績は世界的にも高く評価されている。
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映画『ラーマーヤナ(Ramayan)』でハヌマーンを演じたダラ・シン(画像出典:https://www.cinetalkers.com/dara-singhs-photos-were-found-in-temples-as-hanuman-people-started-worshiping-as-god/


67年の来日時にダラ・シンのタッグパートナーを務めていたのが、サーダラ・シン
ダラ・シンの実の弟である。
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サーダラ・シン(画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Randhawa_(wrestler)
彼の名前をサー・ダラ・シンと表記している記事も見かけるが、いちレスラーの彼がSirの称号を持っているはずもなく、英語表記はSardara Singh(本名Sardara Singh Randhawa)。よりインド風に書くならサルダーラ・シンということになるだろう。(それを言ったら、ジョギンダーもジョギンダルと書くべきだが)
彼も兄を追って1952年にシンガポールに渡り、海外ではファミリーネームのRandhawaというリングネームで活動していたようだ。
日本のリングでは、すでに全盛期を過ぎていたダラ・シンともども大きなインパクトを残すことはできず、たった一度の来日で終わってしまった。
60年代から兄同様に映画にも出演していたものの、俳優としても大成した兄と違い、端役ばかりだったようだ。

ところで、ジェット・シン以前に来日したインド系レスラーの経歴を見ると、シンガポールからのルートで来日したと思われる例が多いことに気がつく。
あのジェット・シンも、カナダに渡る前にシンガポールでデビューしていたという説もあり、1960年代頃までのインド系レスラーの活躍の場としてシンガポールは相当重要な地だったようだ。


1959年の日本プロレス第1回ワールドタッグリーグ戦で来日したのが、「インドの巨人」とも「パンジャブの虎」とも異名を取った198センチの巨漢レスラー、ターロック・シン(Tarlok Singh)。
真偽不明ながらインドレスリングの王者という経歴の持ち主で、実際に1953年にはパキスタンのカラチでアクラム・ペールワンの兄アスラムと戦ったという記録が残っているが、日本のリングでは活躍できず、彼もたった1回のみの来日となってしまった。
日本では印象に残らなかったターロックだが、帰国後のエピソードが強烈だ。
なんと、「象狩り」に行ったまま行方不明となってしまい、足が不自由になった状態で発見され、その後は乞食同然となって暮らしたという。
いくらなんでもこれは嘘だと思うが(象狩りというのは聞いたことがない)、来日前の演出のためのホラ話ではなく、後日談までこの怪しさ、昭和のプロレスならではである。

1971年に自費で来日(!)し、ジャイアント馬場への挑戦を表明したのが「インドの飛鳥」ことアジェット・シン(英語表記はArjit Singhで、本来はアルジットと読むべきだろう)と「インドの蛇男」ことナランジャン・シン(Naranjan Singh)。
アジェットはダラ・シンの弟という触れ込みだったようだが、これが事実なのかどうかは分からない。 
しかし馬場には一切相手にされず、結局国際プロレスのリングに上がったものの、思うように活躍できず来日はこの1回限りとなったようだ。
それにしても「インドの飛鳥」だというのにアジェット・シンの得意技はブロックバスターだったみたいだし、「インドの蛇男」に関してはもはや意味が分からない(得意技は地味なチンロック)。
見世物的なインパクトを狙ったのだろうが、あまりにも適当なネーミングは面白くももの悲しい。
この二人は来日前はイギリスやシンガポールでキャリアを積んでいたようだ。
ところで、この頃来日したインド系レスラーは、インド・ヘビー級チャンピオンなる実態不明の肩書きを名乗っていることが多かったようである。
おそらくはハクをつけるためのハッタリだと思われるが(Rustam-e-Hindというクシュティ/ペールワニの王座は存在するようだが、これも認定団体や歴代王者等が不明の謎の称号)この二人に関しては「インド洋タッグチャンピオン」というさらに正体不明な肩書きを引っ提げていた。


タイガー・ジェット・シン以後
1973年のジェット・シンの来日、そして大ブレイク以降、これまでのシンガポール経由ではなく、カナダや南アフリカから来日するインド系レスラーたちが増えた。
どうやら、カナダでキャリアを積み、南アのブッカーとしても力を持っていたジェット・シンが、自ら連れてきたレスラーが多いようなのだ。
これ以降も記憶や記録に残るほどのインド系レスラーはほぼいないのだが、成功を独り占めせず、少しでも多くの同郷のレスラーにもチャンスを与えようとするジェット・シンの器の大きさが分かるというものだ。

1975年に来日したファザール・シン(Farthel Singh)は、ジェット・シンの実弟というギミックで、「インドの狂虎」ジェット・シンに対して「インドの猛豹」というニックネームがつけられていた。
しかしリングでは良いところを見せることができず、この1回きりの来日に終わってしまった。
あまりのふがいなさに、猪木に「二度と新日のリングに上げない」とまで言われたという情報もある。
もともとはデトロイトやモントリオールを拠点としていたようで(シンのテリトリーとも近い)、売り出し方ともども、ジェット・シンの手引きによる来日と見て間違いないだろう。

1976年に初来日した「インドの若虎」(やはりジェット・シンを意識したニックネームだろう)ガマ・シン(Gama Singh)は、さえないレスラーが多いインド系には珍しく、その後も77年、79年と三度に渡って新日本プロレスに招聘されている。
リングネームの「ガマ」は、20世紀前半に活躍したパキスタン出身の伝説的な格闘家であるグレート・ガマから取ったものだろう。
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ガマ・シン(画像出典:https://prowrestling.fandom.com/wiki/Gama_Singh
彼はパンジャーブ出身ながら、カリブ海のバハマ育ちで、ジェット・シン特集の第2回目で書いた1960年以降にアフリカやカリブからカナダに渡ったインド系移民ということになる。
カナダに渡ったのちにカルガリーで多くの地元タイトルを獲得し、南アフリカでも人気を誇ったようだ。
彼が何度も招聘されるほどに活躍できたのは、ひとえに早い時期からアメリカ式のプロレスに親しんでいたからではないだろうか。
彼はWWEで大活躍しているジンダー・マハルの伯父にあたり、実の息子もガマ・シンJr.の名前でプロレスラーとして活動している。

数多くの南アジア系泡沫レスラーのなかでも、とりわけ悲劇的なのがゴーディ・シンだ。(Gurdaye Singh. 彼もまたカナ表記が微妙。インド系レスラーのリングネームは英語読みからマイナーチェンジすべし、というルールでもあるのだろうか)
76年に行われた新日本プロレスのアジアリーグ戦に、ガマ・シンらと同時に来日。
もともとはカナダのバンクーバーを拠点としていたレスラーだったようだ。
パキスタンのラホール出身という肩書きになっているが、これが事実なのか、このリーグ戦に「パキスタン代表」として参戦するためのギミックなのかは不明(ジェット・シンとガマ・シンがインド代表)。
このシリーズには、ジェット・シン、ガマ・シン、ゴーディ・シンと、3人の「シン」が参戦していたことになる。
ちなみにゴーディ・シンのタッグパートナーだったマジット・アクラ(Majid Ackra)は、南アジアに縁もゆかりもないニュージーランドの先住民マオリの血を引くレスラーで、本名は ジョン・ダ・シルバという(John Walter da Silva. ファミリーネームがポルトガル語っぽいのが少々気になる)。
マオリの戦士をパキスタン人に仕立ててしまうのだから、あいかわらず昭和のプロレスはおおらかである。
ゴーディ・シンの悲劇が始まるのは巡業後だ。
しょっぱいながらもシリーズを終え、生まれて初めて見る大金を抱えてバンクーバーに帰ると、なんとゴーディの家は火事で全焼しており、さらにその1週間後には妻が交通事故で亡くなってしまう。
10歳の一人娘はそのショックで葬儀の最中に突然笑い始め、精神病院に入院。
何もかも失ったゴーディは、遠洋漁業の漁師として再起を図ることにしたというが、その後の彼がどうなったかは、誰も分からないという。 

翌1977年に新日本プロレスに来日したのが「インドの白虎」ことタルバー・シン(Dalibar Singh. 本来ならダリバール・シンと表記すべきだが、もう何も言うまい)。
イギリスや南アフリカで活躍していたというから、やはり南アに強いジェット・シンのルートでの来日と思われる。
DalibarSingh
タルバー・シン(画像出典:https://www.youtube.com/watch?v=ysXdS6kjAc4
イギリスではTiger Dalibar Singhの名前で活躍していたらしく、どうやらパンジャーブ系のレスラーにタイガーというリングネームをつけるのは、欧米では定番のようである。
もともとはイギリスのアマレスで名を上げた選手で、少し間を置いて83年にも新日マットに上がったのち、インド系のレスラーには珍しく85年には旧UWFにも招聘されている。
今ではジェット・シンの会社で働いているという情報もあるが、真偽は不明。

タルバー・シンと同じく77年に新日に初来日したのがモハン・シン(Mohan Singh)。ニックネームは「インドの魔術師」。
クシュティの実力者でダラ・シンからインド王座を奪ったとのふれこみだったが、インドから出たことがなかったようで、日本のリングでは活躍できず、その後の経歴も不明である。

ジェット・シン以降、ここまでが新日本プロレスに来日したレスラーたちである。
誰一人としてジェット・シンに並ぶインパクトを与えたレスラーはいなかったが(リアルタイムのファンによるブログを読むと、みんな「しょっぱかった」ようだ)、凶暴なジェット・シンのもと、インド系の謎のレスラーたちが一人また一人とやって来るというコンセプト自体は悪くなく、彼らを「シン軍団」と読んでいる記事も見かける。
当時からその呼称があったかどうかは不明なので、ここから先は完全に妄想だが、次から次へと正体不明のレスラーが増殖する(シン軍団の場合は、増殖するのではなく入れ替わり立ち替わりやってくるわけだが)というアイデアは、のちに一斉を風靡した「マシン軍団」を彷彿とさせる。
ひょっとしたら、マシン軍団のアイデアや名称は、「シン軍団」から着想を得た部分もあるのかなあ、なんて思ったりもして。

これ以降、そもそも良い人材がいなかったためか、ジェット・シンが新日ナンバーワン外国人レスラーの座から陥落したためか(あるいは、新日にアメリカとのルートができ、得体の知れないインド系に頼らなくてもよくなったのかもしれないが)、インド系レスラーの来日はぱったりと止む。
81年のジェット・シン全日移籍後も、アメリカマットとの豊富なコネクションを持つ全日本プロレスにシン軍団はお呼びでなかったらしく、全日に招聘されたインド系のレスラーは85年のダシュラン・シン(ダシラン・シンとも。英語表記はDashran Singh)のみのようである。
しかしこのダシュランも、あまりにもふがいないファイトで2試合のみで帰国してしまう。

1987年には、226cmもの身長を誇るパキスタンの自称空手チャンピオン、ラジャ・ライオン(Raja Lion)がジャイアント馬場の生涯唯一の異種格闘技戦(!)のために来日する。
試合前に「馬場は小さい」という歴史に残る言葉を発し(馬場は209cm)、話題になったそうだが、このラジャ・ライオン、試合ではまるで強さを見せられず、ヨロヨロとリング上を動き回ると、全盛期を過ぎていた馬場にあっさりと敗れている
彼はこれまでのインド系レスラー/格闘家の中でも輪をかけて酷く、素人目にも格闘技経験が無いのが解るほどで、「その後カレー屋の店長をしていたのを見た」という真偽不明の噂が広まるなど、別の意味で記憶に残る人物だった大槻ケンヂがよくネタにしていた)。
これに懲りたのか、その後、インド系レスラー不在の時代が長く続く。

久しぶりにやってきたインド系レスラーは、ジャイアント・シンことダリップ・シン(本名Dalip Singh Rana)。
Giant Singh
ジャイアント・シン(画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ダリップ・シン

2001年、迷走していた時期の新日本プロレスに蝶野が呼び寄せた巨漢レスラー2人組のうちの1人で、216cmもの長身を誇る、その名の通りの「巨人」だった(もう1人はブラジル出身のジャイアント・シルバ)。
しかしながら、見た目のインパクトに反して不器用なファイトが続き、シルバとの仲間割れや一騎打ちなど、それなりに話題になりそうなことをしていたのだが、正直あまり記憶に残っていない。
当時の専門誌に「ラテン系の陽気なシルバとインド出身で真面目なシンの確執」と説得力があるんだかないんだか分からない記事が書かれていたのをうっすらと覚えているくらいの印象である。
インドで警察官、ボディビルダーとして活躍してミスターインドにも輝いたのち、レスラーを目指してアメリカに渡り、マイナーな団体をいくつか渡り歩いたのちの来日だった。
クシュティではなくボディビル出身で、プロレスが完全にエンターテイメントと化した時代に海を渡ったジャイアント・シンは、新しい時代のインド系レスラーと言って良いだろう。
ちなみに彼はパンジャーブ系ではあるものの、シク教徒ではなくヒンドゥー教徒のようである。

相方のジャイアント・シルバはその後総合格闘技に転向(ぱっとしなかったが)。
ジャイアント・シンはこのまま消えてしまうのかと思われたが、2006年にWWE入りすると、グレート・カリ(Great Khali)のリングネームで猛烈にプッシュされ、WWEヘビー級王座を獲得するなど大活躍。
これは急速な成長を続ける(そしてプロレスファンが非常に多い)インド市場を見越した抜擢だろうが、いずれにしても南アジア系では初の快挙となった。
2015年にはパンジャーブにCWE(Continental Wrestling Entertainment)なる団体(プロレス学校も兼ねているようだ)を設立し、母国のプロレス文化普及に務めている。


…と、こうしてまとめて書かなければ、よっぽどコアなファン以外からは忘れられてしまいそうなインド系レスラーたちを紹介してみた。
改めて感じるのは、ジェット・シンはインド系レスラーの中では本当に別格だったんだなあ、ということだ。
鬼気迫る狂気を完璧に表現し、リング外でも徹底して凶悪ヒールのイメージを形成する自己プロデュース能力、リングでのテクニック、チャンスを独り占めせず同郷の仲間たちにも与える器の大きさ、そしてプロレス以外でも事業を営み成功させる経営能力と、全てにおいて桁外れの才能の持ち主だったことがはっきりと分かる。

インドでのクシュティ人気の低下や、これまでのクシュティ出身者がしょっぱかったせいだと思うが、昨今ではクシュティ出身のプロレスラーが全くいなくなってしまったのは、なんだか少し寂しいような気がしないでもない。
「寝技がなく、相手の背中を地面につけたら勝ち」というクシュティのルールで育った選手では、現代的なプロレスにはもはや対応できないのだろう。


ふと気づいたのだが、このクシュティのルールで育った選手が活躍できそうな格闘技があるとしたら、それは相撲ではないだろうか。
クシュティはインドの都市部では廃れてしまったが、地方ではまだまだ盛んなようで、きっとハングリー精神の旺盛な選手がたくさんいるのではないかと思う。
シク教徒は食のタブーのない人もいるので(個人や宗派による)、ちゃんこを食べることにも抵抗は少ないだろう。
ハワイ勢、モンゴル勢に続いて、インドの力士が活躍する時代が来たら面白いなあ、なんて思っている次第である。

だんだん何を書いているか分からなくなって来たので、今回はここまで。

今回の記事を書くにあたり、プロレスライターのミック博士が書いている「ミック博士の昭和プロレス研究室(http://www.showapuroresu.com)」から非常に多くの情報をいただいた。
っていうか、懐かしい名前がたくさん出てきて、ブログを書く作業が進まないっていったらなかった。
歴史に埋もれてしまいそうなレスラーたちを記録していただいたことに改めて感謝しつつ、タイガー・ジェット・シンを巡る連載を終わります。




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2020年01月14日

タイガー・ジェット・シン伝説その3 全てを手に入れた男

その1の記事はこちら


その2の記事はこちら


猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件、腕折り事件といったスキャンダラスな話題に満ちたアントニオ猪木とタイガー・ジェット・シンの抗争は、新日本プロレスに(もちろん、シンにも)巨万の富をもたらした。
シンはその狂気を感じさせる独特のファイトスタイルで、新日ナンバーワン外国人レスラーの座を確かなものとした。

しかし、シンと新日本プロレスとの蜜月にも終わりがやってくる。
1977年、カウボーイ・スタイルのアメリカ人レスラー、スタン・ハンセンが新日に初参戦する。
ハンセンは、必殺技の「ウエスタン・ラリアート」でブルーノ・サンマルチノの首をへし折ったというふれこみだったが、それは実は後付けで、その実態は下手なボディスラムでサンマルチノの首を負傷させてしまった不器用なレスラーに過ぎなかった。
しかし、ハンセンはシンの暴走ファイトを参考に「ブレーキの壊れたダンプカー」と称されるスタイルを確立すると、みるみるうちに人気レスラーとなり、ついにはシンから新日ナンバーワン外国人の座を奪うまでになる。
ハンセンのトレードマークであるブルロープを振り回し、観客を蹴散らしながら入場するのは、サーベルを振り回して入場するシンの影響だと言われている。
シンがザ・シークのスタイルを取り入れて日本でトップを取ったように、ハンセンはシンのスタイルを取り入れ、そのお手本を上回る人気を得たのだ。
(それでも、ハンセンはシンに対する尊敬の気持ちを持ち続けており、二人はけっして不仲ではなかった)

さらに、1981年には新日本プロレスが全日本プロレスからアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜くという事件が発生。
ブッチャーはシンと同様に反則ファイトや凶器攻撃を得意とする怪奇派の人気ヒールレスラーだ。
シンは来日前からブッチャーと面識があったが、もともとウマが合わず、さらには自分と似たキャラクターのレスラーを引き抜いた新日フロント陣への不満も募っていった。
一方、ブッチャーを引き抜かれた全日本プロレスは、報復として新日からのシン、ハンセンの引き抜きを画策する。
シンとハンセンはそれに応じて全日本プロレスへの移籍を決意、新日本と全日本の興行戦争はますます加熱してゆく。
正直に告白すると、私がタイガー・ジェット・シンを記憶しているのはこの頃からだ。
全日本プロレスでのシンは、ハンセンやブルーザー・ブロディよりも格下の扱いであり、そのヒールぶりは狂気というよりは伝統芸能、様式美の域に達していたが、それでもなおサーベルを振り回して入場する彼の姿は、子供心にインパクトを残すには十分なものだった。

ところで、地元トロントでは事業家としても知られるシンは、現役時代からレスラーとしてだけではなく、ブッカーとしても活躍していた。
とくに、100万人を超えるインド系住民が暮らしている南アフリカには多くのレスラーを派遣していたようだ。
1987年、ある悲劇が起きる。
シンは全日本プロレスに南アフリカへの選手派遣を依頼し、ジャイアント馬場は要請に応えて、当時若手有望株だったハル薗田を遠征させることにした。
新婚だった薗田のハネムーン兼ねたものにしてやろうと思っていたのだ。
ところが、南アフリカ行きの飛行機が墜落し、薗田夫妻は帰らぬ人となってしまう。
このとき、シンは狂人ヒールというキャラクターを捨て去り、スーツ姿でマスコミの前に現れて深い悔恨の意を伝え、ファンを驚かせた。
シンの本当の人柄が伝わるエピソードだが、これはあくまでも非常事態に見せた例外的な対応だ。
シンは自身のキャラクターを守ることを強く意識しており、とくにヒールとして活躍していた日本では、自分からその素顔をメディアに見せることは決してなかった。(そして、今日まで、その信念は揺らいでいない)
一方で、ベビーフェイス(善玉レスラー)として活躍していたカナダでは、事業家や慈善活動家としての一面も隠さずにメディアに語っており、こうしたキャラクターの使い分けは、シンの高いプロ意識によるものと言えるだろう。
全日本プロレスでのシンは、元横綱の輪島大士のデビュー戦の相手を務めたり、新日から復帰したブッチャーと不仲を乗り越えて「最凶悪タッグ」を結成したりするなど話題を振りまいたが、その活躍は新日のトップヒール時代とは比べるべくもなかった。
だが、シンの伝説はこのままでは終わらない。

全盛期を過ぎたかに見えたシンだが、新日本プロレスの古参ファンたちは、彼のことを忘れてはいなかった。
1990年9月30日、新日本プロレスのアントニオ猪木デビュー30周年興行。
シンは、この記念すべき試合の猪木のタッグパートナーに、ファン投票によって選ばれたのだ(対戦相手はビッグバン・ベイダー、アニマル浜口)。
日本では極悪ヒールとして活躍してきたシンだが、日本マット界の最大のカリスマである猪木のプロレス人生で最も重要なレスラーとして選ばれたことに対しては、万感の思いがあったようだ。
横浜アリーナに集まった18,000人(超満員札止め)の大観衆が見守るなか、シンは、いつものような狂乱ファイトを封印し、多少のラフさを残しながらも、猪木を立てる役割に終始する。
彼の本当の人柄が現れた日本では稀有な試合で、機会があればぜひ見てみることをお勧めする。

生まれ故郷のインドを離れ、居を構えたカナダからも遠く離れた日本で、彼は生まれ持った真面目さを捨て、いや、その真面目さゆえに、「インドの狂虎」として暴れまわり、恐れられた。
カナダに妻子を残し、本来の性格とは正反対の悪役を完璧に演じることで、彼は成功を手にした。
日本のプロレス界の絶対的ヒーローである猪木と初めて同じコーナーに立ち、割れんばかりの歓声(罵声や恐怖の叫びでなく)を浴びたシンの思いはいかばかりだっただろうか。
それにしてもこの試合、「教祖としての猪木」への観客の盛り上がりが凄まじい。
全盛期はとうに過ぎているにもかかわらず、動きや表情の一つ一つで観客を魅了してゆく猪木の格闘アーティストぶりは素晴らしく、シンからタッチされた直後にベイダーに腕折りを仕掛ける場面なんかは天才的な発想だ。(猪木がかつて、死闘の末にシンの腕を折ったとされる伝説の試合のオマージュになっており、またほぼ全ての観客がそれを理解しているのも凄い)

話をシンに戻す。
猪木30周年記念試合をきっかけに新日本プロレスに復帰したシンは、馳浩と巌流島で戦うなど、一定の話題を振りまくが、やはり全盛期ほどの活躍はできず、1992年にふたたび新日を離れることになる。

しかし、これでもまだ終わらないのが、シンの凄いところだ。

これ以降、シンはFMW、NOW、IWAジャパンといった、いわゆるインディー団体への来日を繰り返し、まだまだ健在であることをアピールしてゆく。
これらの団体では、もちろんシンはトップ外国人レスラーであり、サーベルを手に存分に暴れまわってその力を誇示した。
ちなみに、「日本のプロレス報道のクオリティ・ペーパー」である東京スポーツは、この頃からシンのリングネームの表記を、より本来の発音に近い「タイガー・ジット・シン」と記載するようになった。
本人の意向もあったようだが、一般のファンや他のマスコミには浸透せず、私もそんなことはまったく知らなかった。
ちょうどこの時期、私はプロレスから遠ざかっていたので、たまに東スポ紙上で「ジット・シン」がインディー団体に上がっているという記事を見るたびに、超大物レスラーであるシンとマイナーな団体とが結びつかず、「これは本物のシンなのか、それともシンによく似たパロディ・レスラーなのか」と悩んだものだった。

さらに時は流れる。
2005年、タイガー・ジェット・シンの姿は、まだ日本のリングの上にあった。
「ハッスル」というかなりエンターテインメント色の強いプロレス興行ではあったが、60歳のシンの鍛え上げられた肉体はリアルだった。
トレーニングではベンチプレスを軽々と持ち上げ、全盛期と同様にサーベルを振り回し、観客を恐怖に陥れながら入場すると、リングでは凶器攻撃でオリンピック柔道銀メダリストの小川直也を徹底的に痛めつけた。
この光景は、このシリーズを書くにあたってかなり参考にした"Tiger!"というドキュメンタリー番組(2005年、カナダ制作)の一場面である。
あくまで画面からの印象だが、このときのシンのコンディションは、体重が増加し思うように動けなかった全日時代よりもむしろ良かったのではないかと思えるくらいだ。
このドキュメンタリーのなかで、シンは自らの言葉で半生を語っている。
試合での年齢を感じさせない狂乱のファイトとは対象的に、広大な敷地の豪邸で穏やかにインタビューに答える様子は、成功者としての貫禄にあふれ、人々に慕われ、尊敬されている様子が伝わってくる。

結局のところ、この男は何者なのだろうか。


シンの半生を振り返る。
彼は「すべてを手に入れた男」だ。
力、富、尊敬、家族、地位、名誉。
およそ人間が手に入れたいと願うもので、彼が手に入れられなかったものはない。
しかも、彼が手にしたもののうち、親から授かったものは、恵まれた肉体(彼の身長は191㎝)と、その誠実な人柄だけであり、それ以外の全ては、彼が努力によって手に入れたものなのだ。

「力」については言うまでもないだろう。
インドで身につけたクシュティ、フレッド・アトキンス仕込みのプロレスの技術、ザ・シークから学んだ暴走ファイト、そして、60歳を過ぎてなおリングで大暴れできるほどにストイックに鍛え上げられた肉体。
自身をどう見せるかというプロデュース能力を含めて、こうした全てが彼にリングでの成功をもたらした。
そこには、自分のキャラクターとスタイルへの強烈なプライドもあった。
稀代の悪役として新日本プロレスで暴れ回っていた頃、新日ストロング・スタイルの創始者であり、「神様」とも称されたカール・ゴッチは、シンのスタイルを快く思っていなかったそうだ。
だが、シンはゴッチと一触即発の状況になっても、一歩も引かなかったという。
自身が新日立て直しの最大の立役者であるという自負が、そうさせたのだろう。
一方で、シンはいわゆる「ストロング・スタイル」の日本のプロレスのスタイルに強い思い入れを持っていたようで、地元のメディアに対して「現在のWWE的なプロレスはフェイク。自分が日本でしていたのは本物の戦いだった」という趣旨のことを語っている。
シンの強烈なハングリー精神とプライドは、より「リアル」を重んじる日本のリングだからこそら華開いたのだ。

「富」については、彼の現在の暮らしぶりを見れば何の説明もいらないはずだ。
リムジンで移動し、誕生日をクルーザーで祝う彼は、成功におぼれ身を持ち崩す者も多いレスラーの中では、極めて堅実に成功している例と言えるだろう。
シンは、カナダでは日本で稼いだ金をもとに事業に成功した実業家としても知られている。
彼はホテル、不動産、土地開発を手がける経営者でもあり、今では800エーカーの敷地に立つ豪邸に住んでいる。

「尊敬」に関しては、これまで述べてきた通りだ。
日本でのシンは、ヒールとしての悪名から転じて、やがて誰からも愛される存在となった。
カナダのメディアは、「日本ではシンは神のように扱われている。妊婦がシンのもとにやってきて、彼のように強い子どもが生まれるように、お腹をさわってほしいとお願いしに来ることもある」と驚きをもって伝えている。
うれしいことに、シン自身も地元メディアに日本のファンへの感謝を常に語っており、最も印象的な試合として、アメリカでも有名なアンドレ・ザ・ジャイアントやザ・シークとの対戦ではなく、猪木戦や輪島戦を挙げている。
地元カナダでも彼は名士として知られているが、やはり日本での知名度と存在感は格別であり、シンもその事実を誇らしく思ってくれているようだ。

彼の「家族」について見てみると、今では幸せに孫たちに囲まれて暮らしているものの、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
シン夫妻には3人の息子がいる。
妻は結婚早々に故郷のパンジャーブを離れてカナダに引っ越すことになり、巡業で家を空けがちな夫がいない寂しさに耐えなければならなかった。
当時は英語も満足に話すことができず、孤独感のなかで子供たちを育てざるを得なかったという。
インターネットのない時代に、いつ命にかかわるケガをするか分からない仕事をしている夫を、慣れない異国の地で待って暮らすのはさぞ心細かったことだろう。
だが、子供たちは立派に育った。
長男のGurjitはTiger Ali SinghのリングネームでWWEなどで活躍し、タイガー・ジェット・シンJr.の名前で来日して親子タッグも組んだこともある(彼のリングネームは、自身のヒーローである父とモハメド・アリの名前を合体したものだ。彼は今ではケガを理由にプロレスを引退して、父の名を冠した財団の仕事をしている)
他の息子たちも、ホテルを経営するなど、さまざまな分野で活躍しているようだ。

日本ではなく、カナダにおける「名誉」や「尊敬」については、少し説明が必要だろう。
シンは、プロレスや事業で稼いだお金を、決して自分や家族のためだけには使わなかった。
彼は、「タイガー・ジェット・シン財団」を作り、ドラッグ対策、健康増進、奨学金などの形で社会貢献をしてきた。
2010年には、そうした活動を称えて、彼が暮らしているオンタリオ州ミルトンの公立学校に、Tiger Jeet Singh Public Schoolの名前がつけられることになった。
カナダで初めてシク教徒の名前がつけられた学校であり、そしておそらく世界初のプロレスラーの名前を冠した学校でもある。
命名にあたって、「暴力的なプロレスラーの名前を学校につけるのはいかがなものか?」という意見もあったようだが、彼が地域をより良いものにしたロールモデルであるという理由で、シンの名前が採用されることになったという。
2012年には、こうした活動を称えられ、財団の仕事をしている息子のGurjitとともに、英国王室からダイヤモンド・ジュビリー勲章を授与された。
日本人としては、2011年の東日本大震災に対して、彼の財団が日本支援のためのキャンペーンをしてくれたことも忘れずに覚えておくべきだろう。

1971年に、インドからたった6ドルを握りしめて海を渡ってきた少年が、ここまでの成功を収めるとは、いったい誰が想像しただろうか。
だが、彼の絶え間ない努力と誠実さを考えれば、彼が手にした成功は全く不思議ではないのだ。
今後、もし「尊敬する人は誰か?」と聞かれたら、私は即座に「タイガー・ジェット・シン」と答えることにしたい。


さて、その後のシンは、明確な引退宣言をしないまま、セミリタイア状態が続いている。
どうやら2009年にハッスルのリングに上がったのが、現役レスラーとしての最後の姿になったようだ。
いくら頑健な肉体を誇るシンとはいえ、もう75歳であり、これからリングの上で戦うことはないだろう。
引退試合は難しいかもしれないが、せめて引退セレモニーくらいはしてほしいというのがせめてもの願いである。
シンがプロレスのリングを離れて10年以上が経過した。
かつてシンが活躍した新日本プロレスは、当時の猪木体制から完全に決別しており、また全日本プロレスもシンが来日した馬場時代とは全く別の体制となっている。
現在の日本のプロレス界でシンの功績が振り返られることはほとんどない。
だが、シンの居場所がオールドファンの心の中だけというのはあまりにも寂しい。
そして、現役を退いた今だからこそ、シンに、日本のファンに向けてありのままの人生を語ってもらえないだろうか。
彼はヒールとしてのキャラクターを貫きたいのかもしれないが、ぜひシン自身の言葉で、彼の哲学を、努力を、大切にしているものを聞いてみたい。
彼の人生から我々が学べることは、あまりにも多いのだから。



参考サイト:


カナダでやはりインド系の映像プロデューサーLalita Krishaが作成したドキュメンタリー"Tiger!"では、日本では決して見せないシンの素顔を見ることができる。







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goshimasayama18 at 19:37|PermalinkComments(0)

2020年01月11日

タイガー・ジェット・シン伝説その2 猛虎襲来!来日、そして最凶のヒールへ

(前回の記事はこちら)


プロレスラーとしてのキャリアをあきらめ、故郷のパンジャーブで農家として新婚生活を始めたシンに、トロントの古巣メイプルリーフ・レスリングから再び声がかかった。
もう一度、リングに上がってほしいというのだ。
それには、こんな背景があった。

シンがリングを去った後、北米では、「アラビアの怪人」ことザ・シークがリングを荒らしまくっていた。
シークはアラビア人というギミック(じつはレバノン系アメリカ人)で火炎殺法をあやつる怪奇派レスラー。
従来のプロレスのセオリーを無視した暴走ファイトで一世を風靡し、そのすさまじい人気は国境を越えてカナダにも及んだ。
そのシークがトロントにやってくることになったのだ。
メイプルリーフ・レスリングのフランク・タネイは、アクの強いシークに対抗できるレスラーとして、シンのカムバックを画策した。
 
プロレスラーの夢を捨てていなかったシンはこのオファーを受け、新婚の妻を連れて再びカナダへと渡る。
果たして、1971年のトロントで、シーク対シンはドル箱マッチとなった。
彼らの金網マッチに人々は熱狂し、それまで良くて3,500人の観客しか入らなかったメイプルリーフ・ガーデンには、20,000人もの観客が押し寄せるようになった。

ちなみに、「ザ・シーク」というリングネームは、カタカナで書くとシンが信仰する「シク教(Sikh, Sikhism。 シーク教と表記することもある)」とよく似ているが、アルファベットで書くと'The Sheikh'であり、アラビア語で「部族の長老、首長」を意味する「シャイフ」という言葉の英語表記である。
それにしても、この時代のカナダで、アラビア人対インド人の試合がメインというのもすごい話だ。
シンはシークとの戦いで株を上げ、大いに稼いでキャデラックを乗り回すまでになった。
地元トロントでシンがヒール(悪役)からベビーフェイス(善玉)にターンしたのもこの頃だろう。
それには、ザ・シークという最強の悪役がいたということだけでなく、おそらくカナダ社会の変化が関係している。

20世紀前半、パンジャーブ系を中心とした多くの南アジア系移民が、アジア極東地域から太平洋を渡ってカナダ西岸の街バンクーバーに移り住んだ。
シンの家族が当初バンクーバーを目指したのも、この街にすでにパンジャーブ系コミュニティーの基盤があったことが理由だろう。
1960年代以降になると、南アジア系住民の第二波がカナダに到達する。
今度は東部に位置するカナダ最大の都市トロントに、アフリカやカリブ諸国に移住していたインド系住民たちがやってきたのだ。

多民族国家であるアメリカやカナダのプロレスは、ベビーフェイスとヒールの戦いであると同時に、各コミュニティーの代表の戦いでもある。
1960〜70年代のWWWF(現WWE。ニューヨークを拠点としている)でブルーノ・サンマルチノが絶対的なスターだったのは、ニューヨークのイタリア系移民の多さと無関係ではない。
インド人をはじめとする南アジア系住民が増えてきたトロントには、インド系のシンが外国人ヒールではなく、ベビーフェイスとして活躍する素地が出来ていたのだろう。
(その後もトロントの南アジア系社会は成長を続け、郊外を含めると、今ではトロントにはバンクーバーを上回る約100万人の南アジア系住民が暮らしている)

しかしシンは、北米マット界の辺境であるトロントでの成功では飽き足らなかった。
カナダのローカルスターに過ぎなかった彼は、さらなる成功を夢見て世界を転戦する。
オーストラリア、シンガポール、ブラジル、香港などのリングに立ち、そして1973年5月、ついに運命の国、日本へとやってくる。

シンの来日には、新日本プロレスと近しいある貿易商が関わっていたようだ。
香港でシンのファイトを見た彼は、新日の関係者にシンの写真を見せた。
ターバン姿でナイフをくわえ、目をひんむいたシンの写真を見たアントニオ猪木は、この世界的には無名なレスラーを招聘しようと決断する。
当時、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに主要な外国人レスラーの招聘ルートを抑えられていた新日本プロレスは、インパクトのある外国人レスラーがなんとしても必要だったのだ。

ところで、シク教徒の男性には、教義によって身につけることになっている「5つのK」がある(今日では日常的にこの全てを守っているシク教徒は少ないが)。
Kesh(髪を伸ばし切らないこと)、Khanga(小さな木製の櫛)、Kara(右腕にはめる鉄の腕輪)、Kachera(ゆったりした短パンのような下着)、そして、自身と正義を守るための短剣、Kirpan(キルパーン)だ。
シンが写真でくわえていたのは、このキルパーンだった。
アントニオ猪木は、この写真を見て、ナイフをサーベルに変えることを提案する。
レスラーとしての成功を夢見ていたシンは、シク教徒のシンボルとの決別を意味するこの提案を快諾。
日本では、伝統を保持するインド系コミュニティの代表としてではなく、狂気の外国人レスラーとして暴れまわることを、当初から決意していたのだろう。
入場時に振り回し、試合では凶器として使用する、シンのトレードマークとも言えるあのサーベルはこうして誕生した。

1973年5月3日、タイガー・ジェット・シン、初来日。
その2ヶ月前には、のちにWWEでTiger Ali Singhとして活躍する長男Gurjitが生まれたばかりだった。
幼い我が子と妻をカナダに残して極東の地を踏んだシンの心情はいかばかりだっただろうか。 
手違いで早く日本に着いてしまったシンは、新日本プロレスに翌日の川崎大会に招待された。
客席から見るだけだったはずのシンだが、何を思ったか山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合に乱入すると、小鉄をめった打ちにしてしまう。
突然現れたターバン姿のガイジンレスラーの凶行は、強烈なインパクトを残した。
ここからのプロレス史的なシンの活躍については、すでにさまざまな形で書かれているので、簡単に紹介するに留めよう。
シンは新日本のリングで、水を得た魚のように暴れ回り、あっという間に人気悪役レスラーとなった。
凶器攻撃、試合展開を度外視した暴走ファイト、そして、シンそのものから滲み出る本物の狂気を感じさせる怪しさは、観客の目を釘付けにした。
シンが日本で見せた無軌道なファイトスタイルは、間違いなくカナダで肌を合わせたザ・シークから学んだものだ。(ちなみにシンもシーク譲りの火炎殺法を使っている)
 
そして、同年11月、あの、あまりにも有名な猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件が起こる。
「リアル」なものとして警察も出動する騒ぎになったこの騒動は、今日ではプロレス的なストーリーライン上の出来事されているが、この時代に、リングも会場も飛び出して、家族をも巻き込んだ後年のWWE的演出の原点とも言えるアングルを仕掛けた発想は、天才的だった。
この騒動に、当事者であり新日本プロレスの経営者でもあった猪木が深く関わっていたことは間違いないだろう。
このたった3年後には、天才猪木は逆の方向に振り切れ、後の総合格闘技の原点とも言えるモハメド・アリとの異種格闘技戦を行う。
アントニオ猪木もまた、狂気とも言える才覚の人だった。

その後、猪木とシンとの遺恨マッチは新日本プロレスに多くのファンを呼び込むことになる。
猪木、シン、そして観客の興奮と熱狂は1974年6月26日の大阪府立体育館で頂点に達し、伝説となっている猪木によるシンの「腕折り事件」を迎える。
この一連の猪木-シンの抗争は、当時全日本プロレスに大きく水を開けられていた新日本プロレスに莫大な利益をもたらした。
来日時に週給3,000ドルだったシンの報酬は、最終的には週給8,000ドルにまで上がったという。

シンの日本での成功にはいくつかの理由がある。
ひとつには、ポケットの中にたった6ドルを握りしめてカナダに渡ったシンの、強烈なハングリー精神が挙げられる。
日本はアメリカ、メキシコと並ぶプロレス大国であり、当時はファンたちがプロレスを"リアルなもの"として熱狂していた時代である。
生まれたばかりの子と妻をカナダに残して来日したシンは、なんとしてもここ日本で強烈な爪痕を残したいと感じていたはずだ。
この想いが、前述の理由から有力な外国人レスラーが招聘できなかった新日本プロレスの思惑と合致した。
シンにとって幸運だったのは、そこにアントニオ猪木というもう一人の「狂気」を宿した天才がいたということだ。
シンの狂気を感じさせる暴走ファイトと、感情をむき出しにしてそれを受け止める猪木との化学反応は、相乗効果となって観客たちを興奮の坩堝へと誘った。

TJシン2


猪木、そして新日本プロレスは、シンの演出の面でも完璧だった。
シク教徒のシンボルだった短剣をよりインパクトの強いサーベルに持ち替えさせ、「伊勢丹前襲撃事件」、さらには「招待していないのに勝手に参戦している」という斬新なアングルを用意して、シンの「狂気のヒール」というイメージを確固たるものにしていった。

とはいえ、シンは単なるキワモノのヒールではなかった。
彼の狂乱のファイトのベースにはフレッド・アトキンスに鍛えられた確かなプロレス技術があり、猪木もその実力には一目置いていたという。
緩急のあるファイトが、単なる怪奇派にとどまらない試合の流れを作り出していたのだ。

また、今ではファンに広く知られているが、素顔のシンは実に誠実で紳士的な男だった。
ミスター高橋の著書によると、1973年の5月3日に初来日したシンは、スーツ姿で空港に現れ、名刺を差し出して高橋を驚かせた。
そんな挨拶をした外国人レスラーは他に誰もいなかったからだ。
スポンサーに招待されたバーベキューで、火力が強まり汗ばんでも、シンは「社長、ジャケットを脱いでもよろしいでしょうか」とわざわざ断りを入れるほど、気配りのできる人物だった。
猪木によるシンの「腕折り」はプロレス的なストーリーの中でのこと(実際に骨折したわけではない)だったのだが、律儀なシンはその後しばらく腕に包帯を巻いて過ごし、そのために腕がかぶれてしまっても、包帯を巻き続けていたという。
シンのあまりにも誠実な性格は、やはり誇り高きシク教徒の軍人だった父、そして伝統的なインド女性だった母親からの影響によるものだろう。
彼の「狂気」「暴走」は、こうした「生真面目さ」に裏打ちされたものだったのだ。
バス移動中のサービスエリアでファンに声をかけられたシンが、ヒールのキャラクターを崩さないために襲いかかるふりをしたところ、そのファンに足があたってファンが転んでしまったことがあったという。
出発したバスの中で、シンはファンのことをいつまでも心配していたそうだ。

プロレスがリアルで、それゆえの熱狂を生み出していた70年代日本で、シンはついに稀代のヒールとして開花した。
「インドの狂虎 」の伝説はまだまだ終わらない。

(つづきはこちら)


参考文献:
ミスター高橋「悪役レスラーのやさしい素顔」ほか



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