バウル

2020年12月05日

インドのボブ・ディラン Susmit Boseの50年

今年で活動50年を迎えたインドの伝説的アーバン・フォークシンガー、Susmit Boseが、キャリアを網羅したコンピレーション・アルバム"Then & Now"を発表した。
(インドでは、ボブ・ディランのような英語のポピュラー・ミュージック的なフォーク音楽を、ローカルの民謡と区別して「アーバン・フォーク」と呼ぶ)

これが大変素晴らしくて、先日からヘビーローテーション中なのだが、この作品の魅力をどう伝えたものか、正直ちょっと迷ってしまっている。
このアルバムは、1978年にリリースされた彼のファーストアルバム"Train to Calcutta"と、活動を再開した2006年以降の楽曲をバランスよく収めたものだ。
収録されているほとんどの曲は、ギターの弾き語りにハーモニカという初期ディラン・スタイルのシンプルなフォークソングで、そこに目立った個性や派手さがあるわけではない。
それでも、彼の歌声とメロディー、ギターのアルペジオや古い録音のノイズまでもが、なんとも心地よく、愛おしいのだ。
飲食店に例えると、目立って美味しい名物メニューがあるわけではないが、そこで過ごす時間そのものに価値があるような、落ち着く老舗の居酒屋や喫茶店といった趣きだ。




1950年、Susmit Boseは、デリーに暮らすベンガル系の古典音楽一家に生まれた。 
父は北インド古典ヒンドゥスターニー音楽のミュージシャンで、All India Radioのディレクターを務めていた。
幼い頃のSusmitも、将来は古典音楽の道に進み、いつの日かPundit(師匠)と呼ばれることを夢見ていたという。
ところが、14歳のときに聞いた、アメリカのフォーク歌手ピート・シーガーが、彼の夢を変えてしまった。
そして、まもなくして知ったボブ・ディランの音楽が彼の人生を決定づける。

彼は保守的な父に隠れてギターを練習し、やがて自作の曲を作り始めた。
欧米ではベトナム反戦運動、そしてヒッピームーブメントの時代。
インド国内でも、ウエスト・ベンガル州で発生したナクサライト運動(毛沢東主義を掲げるラディカルな革命運動で、テロリズム的な暴力闘争に発展した)など、社会運動のうねりが起きていた。

インドの60〜70年代ロックシーンを扱った"India Psychedelic: the story of rocking generation in India"という本の中で、Susmitはこう語っている。
「私は60年代と70年代、つまり分断の時代に育ったんだ。人類にとって恥ずべきベトナム戦争もあった。私は欧米の人たちと同じように、平和や普遍性や精神性について歌う必要があると感じていた。世界は一つで、調和しているという感覚さ」

デリーでも、繁華街コンノート・プレイスのディスコ'The Celler'で、アーバン・フォークを歌う人なら誰もが出演できる「フォーク・イヴニング」が行われ、人気イベントとなっていた。

デリー大学のキャンパス、公園、さらにはカルカッタの音楽シーンの中心だったレストラン'Trincas'など、Susmitは歌えるところならどこにでも出向いて歌った。
英語の新しい音楽をこころよく思わない父に勘当され、しばらくネパールのカトマンドゥで過ごしたこともあったという。
だが、1971年に彼がリリースした最初の曲、"Winter Baby"がラジオから流れ、高く評価されるようになると、父は抱きしめて迎え入れてくれたそうだ。

 

インドの国営放送Doordarshanの依頼で、"We Shall Overcome"(勝利を我等に)のヒンディー語版"Hum Honge Kamyab"を録音し、ときの首相インディラ・ガーンディーの前でパフォーマンスしたこともあったという。
当時の欧米の社会運動を象徴するこの曲が、インドでは国営放送によって制作され、強権的な政策で知られたインディラ・ガーンディーの前で歌われたというのは皮肉だが、詩人のGirija Kumar Mathurが訳したこの曲は、政府に反対する人々にも支持され、今もインドで愛されている。

それでも、時代の流れは彼に味方しなかった。
インドのライブスポットは、過激化する社会運動を警戒し、反体制的な傾向のあるミュージシャンの出演を渋るようになっていた。
また、夜間外出禁止令もミュージシャンたちの活動の幅を狭めることとなった。
Susmitも、自作のアーバン・フォークではなく、派手な衣装を着て他の歌手のヒットソングやポピュラーソングを歌わなければならなかったという。

1978年にようやくファースト・アルバム"Train To Calcutta"を発表。



The WIREの記事によると、この作品はインド人歌手による最初の英語で歌われたアルバムとのことである。
だが、彼がメッセージを届けたいと思っていた大衆は、英語ではなく、ヒンディー語の歌を聴きたがっていた。
Susmitは、それでも英語で歌った理由について、こんなふうに語っている。
「私が育った時代、英語はエンパワーメントの言語であり、文化だった。私の家は伝統的な家庭だったけれど、イングリッシュ・ミディアム(英語で教育する学校)で育った自分にとって、英語で歌うのは自然なことだった。『英語だからダメだ』なんていうのはヒンドゥー・ナショナリズム的なレトリックさ。英語を受容することは、寛容なインドの美点でもあるんだ…」

しかし、この時代にインドで活動していた多くのロックミュージシャン同様、Susmitも生きるために音楽以外の仕事に時間を取られていったようである。
その後、20世紀中に彼がリリースしたのは、ネルソン・マンデラをテーマにした1990年の作品"Man of Conscience"のみとなっている。

70年代にインドで活躍した「早すぎたロックミュージシャンたち」は、そのほとんどが生活のために音楽活動をあきらめ、また夢を追い続ける数少ない人々は、海外に活路を求めた。


だが、Susmitはインド国内で音楽活動を決してあきらめなかった。
2006年に久しぶりにリリースしたアルバム"Public Issue"が批評家から高い評価を受けると、再び音楽活動を活発化させてゆく。
2007年には早くも次作"Be the Change"をリリース。
2008年にはバウルのミュージシャンとのコラボレーションによる実験的作品"Song of the Eternal Universe"、2009年には北東部のミュージシャンたちと共演した"Rock for Life"といった意欲作を次々と発表する。
(いかにもベンガル人らしく、Susmitは自身のルーツとして、欧米のフォークミュージックだけではなく、バウルの歌やタゴールの詩、またガーンディーの思想も挙げている)



彼のキャリアを網羅した"Then & Now"のリリースのきっかけとなったのは、昨年公開されたコルカタのミュージシャンたちのボブ・ディランへの憧れを描いたドキュメンタリー映画"If Not for You"だった。



ファーストアルバムの"Train to Calcutta"は5,000枚のみプレスされ、Susmitの手元には一枚も残っていなかった。
だが、この映画の監督Jaimin Rajaniはなんとかしてアルバムの所有者を探し出し、その音源を使って今回の"Then & Now"のリリースに漕ぎつけたという。
"Train to Calcutta"は、知る人ぞ知る名盤として、海外では10万円近い値がつけられていたが、彼のおかげで誰もが手軽に聴けるようになったのだ。

Susmitが音楽を始めた頃とは違い、今ではインターネットで多くの人々が欧米の音楽に触れることができるようになった。
インドの若者たちが自らの主張や社会へのメッセージを音楽に乗せて訴えることも決して珍しくはなくなった。
ただし、今となってはその音楽は、アーバン・フォークではなくヒップホップであることがほとんどだが…。

今では時代遅れとも言えるシンプルな形式のフォークにこだわり続けることについて、Susmitはこう語っている。
「自分はウディ・ガスリーやピート・シーガーやボブ・ディランの『ガラナ』を引き継いでいるのさ。
シンプルであることにフォークの精神があるんだ」

「ガラナ」とは、インドの古典音楽の流派を表す言葉だ。
かつて古典音楽の大家になることを目指していたSusmitは、50年にわたる音楽活動を経て、今ではディラン・ガラナの名演奏家になったと言えるだろう。

彼が憧れたピート・シーガーとは、のちに文通を通して知己を得て、ニューヨークのハドソン川でセッションしたこともあったという。
二人がウディ・ガスリーの"This Land is Your Land"(『我が祖国』)を演奏した時、Susmitは'From California to New York island'という歌詞を'From Gulf of Cambay to the Brahmaputra'と歌ったという。
Cambayはインド西部グジャラート州の地名、Brahmaputraはインド北東部を流れる川の名前である。
驚くピートに、Susmitはこう言った。
「ウディ・ガスリーはアメリカのためだけにこの曲を書いたわけじゃないだろう?」

Susmitにとって、アーバン・フォークは、国籍に関係なく20世紀の世界が共有した、普遍的な「古典音楽」だったのかもしれない。
ディランがノーベル文学賞を受賞し、フォーク・ミュージックが持つ価値が改めて世界に知れ渡った今、ディラン・ガラナの大家として、Susmitの音楽は、それこそ国籍を問わずもっと評価されても良いのではないだろうか。



参考サイト:
https://www.nationalheraldindia.com/interview/interview-susmit-bose-the-rebel-musician-with-a-difference

https://scroll.in/article/977684/in-then-now-susmit-boses-social-blues-create-a-time-warp-to-reach-the-counterculture-years

https://thewire.in/the-arts/susmit-bose-train-to-calcutta-protest-music


https://www.thehindu.com/entertainment/music/the-songs-that-bind/article23821610.ece
 



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goshimasayama18 at 21:10|PermalinkComments(0)

2020年11月29日

ゴアを拠点に活躍する多才すぎる日本人アーティストNoriko Shaktiに注目!

いつものようにRolling Stone Indiaのウェブサイトをチェックしていたら、いきなり日本人女性らしき名前が飛び込んできたので驚いた。
彼女の名前はNoriko Shakti.
 
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現在、ゴアを拠点に音楽活動をしている彼女は、日本でダンスミュージック制作とDJのスキルを得たのち、ヨーロッパで楽曲をリリースし、さらにコルカタでタブラを習得してバウルとの共演もしているという、多彩すぎる経歴の持ち主だ。

Rolling Stone Indiaで紹介されていたEP "Within the Time and Place"の収録曲、"CovidWar"がまた強烈だった。


トランシーなオープニングに続いて、銃撃音をサンプリングしたヘヴィなビートにインドや和の要素が絡むサウンドはユニークかつクール。
ミュージックビデオでは、コロナウイルス禍のためか、ダンサーたちが自宅と思われる場所で踊っているが、それが高揚感のあるサウンドとあいまって、日常から異次元に脱出していくような不思議な感覚をかきたてる。
他のEP収録曲も、モッドなジャズナンバーあり、インド古典音楽あり、アンビエントありと、じつにバラエティーに富んでいる。

異色の経歴、不思議なミュージックビデオ、そしてEPの多彩なサウンド、何から何まで気になることが多すぎる!
というわけで、現在もゴアで暮らしている彼女に、さっそくZoomでのインタビューを申し込んでみた。 



電子音楽からタブラ、そしてコルカタ留学へ

ーダンスミュージックからタブラまで、いろいろな音楽をされているようですが、まずはNorikoさんの音楽遍歴を教えてください。

Noriko Shakti(以下NS):「小さい頃からピアノを習ったり、合唱団に入ったりと音楽に親しんでいましたが、東京の一般的なサラリーマン家庭で育ちました。中学・高校の頃、当時流行っていたメロコアやパンクを友達の影響で聴くようになって、だんだんライブハウスやクラブに行くようになったんです。
高校2年のときにフジロックに行って、世界にはこんなにいろんな音楽があるんだなあーと素直に感動してしまって…。バイト代でターンテーブルを買って、音楽をやっている先輩の影響でシーケンサーを触ったり、DJをしたりするようになりました。当時は、Aphex Twinとかの電子音楽が好きだったんですが、同時にレゲエなどライブミュージックも好きでした。
ちょうどDiwali RiddimとかSean Paulとかのダンスホールが流行っていた時期で、そこからファンデーション、ラバーズロックやダブも聴くようになって、渋いなあーなんて思ってました(笑)」

DJとしての道を歩み始めた彼女は、新宿GARAM、新宿ドゥースラー、吉祥寺の4th Floorやスターパインズカフェ、Warp、恵比寿みるく、渋谷Moduleなどでプレイするようになる。
いくつかのコンピレーション・アルバムに楽曲を提供したのもこの頃だ。

NS「ずっとDJや打ち込みの音楽をやっていたんですけど、20代になってから、電子音楽の限界を感じたというか、アナログ楽器もできたほうがいいと感じるようになって、パーカッションの演奏をきちんと学んでみたいと思い始めたんです。
その頃ヨガにもはまっていて、呼吸とか瞑想とかそういう世界も探求するようになっていたのですけど、『インドって面白い』と思った頃に、ちょうどタブラというものがあると知って(笑)」

ータブラという楽器のことはどうやって知ったんですか?

NS「Talvin Singhなど、UKのアーティストが作るミクスチャー音楽に触れていたので、タブラを知ってはいました。UKの音楽シーンの移民カルチャーに惹かれていたのと、世界一難しいと言われる楽器に挑戦してみたいと思って、インド大使館のタブラ教室でインド人の先生に習い始めました。
もともとピアノや音楽制作の経験があったので、その先生から、ハルモニウムの伴奏を頼まれたり、一緒にステージで共演したりするようになりました。代々木公園で行われている『ナマステ・インディア』(インド文化の一大イベント)で一緒に演奏したこともあります。
そのうち先生から、『君は音楽をやったほうがいい。タブラでも声楽でもインドに行って勉強したほうがいい』って言われるようになり、『面白そう!行ってみようかな』って(笑)。
で、奨学金のテストを受けてインドに来たって感じですね」

ー簡単に言いますけど、すごいですね(笑)

NS「コルカタのRabindra Bharati大学に行くことになったんですが、コルカタに行ってびっくりしました。ヨガにはまってたときに1回だけ南インドを旅行したことはあったんですけど、北インドは初めてで、相当カオスだったので(笑)。
バンコクからコルカタ行きの飛行機に乗る時点から、誰もちゃんと並ばない(笑)」

ー(笑)結局、そのコルカタに長くいることになったんですよね。

NS「途中で日本に帰ってきたり、台湾にアーティスト・イン・レジデンスで行ってたりもしたんですが、コルカタには足掛け5年くらいはいました。イヤだったらすぐ帰ってくればいいや、くらいの気持ちでいたのですが、タブラが面白かったし、音楽好きのインド人の気質もすごく合ったので」

ー「大学でタブラを学ぶ」っていうのはどんな感じなんですか?

NS「セオリーと実技の授業がありました。ほとんどの同級生が古典音楽一家の出身だったので、ついて行くのに必死で勉強しました。インドでは古典音楽は子供の頃から習うのが普通なので。
他にも、インド音楽の歴史とか、アコースティックス(音響学)とか、内耳の構造みたいな授業もありました。ベンガル語も分からなかったし、ずっと日本で育った程度の英語力しかなかったのに、急に大学院の修士課程に入ってしまったので、英語もベンガル語もほぼ独学で必死に学びました」

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(当時の授業の様子。どちらもNoriko Shaktiさん提供)

ーどなたか一人の師匠について学ぶというわけではないのですね。

NS「技術的な部分はいろんな人に習いました。
最近はインドの古典音楽も、日本でよく言われているように、ひとりの師匠のもとで一生を捧げて修行するというよりも、『この人にこれを習いたい』って思ったら教えてもらいに行ったり、古典シーンで活躍している先輩のところに遊びに行ったときに教えてもらったりしました。
出し惜しみなくカジュアルに教えてもらえましたね。
修士、博士論文はリサーチ、英語での文章力が必須になります」


彼女の話を聞いていると、西洋も東洋も、現代音楽も古典音楽も関係なく、自然体で夢中になれる音楽を追求しているのだなあ、という印象を受ける。
東京のクラブでのDJから、コルカタの大学での修行まで、ジャンルも場所も関係なく音楽に向き合ってきたのだろう。
電子音楽からインドの伝統楽器タブラにつながったNoriko Shaktiの音楽遍歴は、さらなる展開を見せる。



シャンティニケタンのフェスティバルでのDJ、そしてゴアでのバウルとの共演!

ーコルカタでは、DJをやったり、クラブシーンに顔を出したりしてたんですか?

NS「コルカタにはいちおう小さいクラブがあったり、シンセとか打ち込みで曲を作るアーティストたちがいたりもします。
あと、シャンティニケタンの野外フェスでDJをしたりもしました。パールヴァティ・バウルさんが歌って、その同じステージでDJをしました。
ただ、タブラの勉強がめちゃくちゃ大変なんで、電子音楽はしばらくお休みしてました」

「バウル」とは、ベンガル地方、つまりインドの西ベンガル州とバングラデシュに何百年も前から存在する、修行者であり世捨て人でもある、不思議な吟遊詩人だ。
かつては賎民のような存在だったとも言われているが、その詩世界や生き方はタゴールやボブ・ディランにも影響を与えたとして、20世紀以降、急速に評価を高めており、今ではUNESCOの無形文化遺産にも登録されている。

 

それにしても、ベンガルの伝統を担うバウルとDJが同じステージでプレイするとは…。
この想像を超えるイベントは、"Route2"というフェスティバルで、極めてオルタナティブかつジャンルの垣根を超えたイベントだったようだ。
ここで名前の挙がったパールバティ・バウル(Parvathy Baul)は、世界的にも著名な女性のバウルで、日本公演の経験もある。
他にも、ラージャスターンのフォークミュージシャンや、マニプル州のImphal Talkies、コルカタのHybrid Protokolらが出演したこのフェスで、彼女はレゲエや電子音楽をプレイして大いに盛り上げたという。


ーずっとコルカタに住んでいたNorikoさんが、どういうきっかけでゴアで暮らすことになったんですか?

NS「本当に偶然でした。ゴアには以前にも2回来たことがあったんですが、観光地としか思っていなくて、数日しか滞在しなかったんです。
去年の12月にコルカタで博士論文を提出し終わったあと、結果が出るまで待たされることになって、その間ずっとコルカタにいるのもなあ…と思っていたら、以前デリーで会ったバウル・シンガーの友人が、今ゴアにいるから一緒に演奏しようよ、と誘ってくれたんです。
それでゴアに行くことにして、結局ゴアで20回くらいそのバウルのおじさんといっしょに演奏しました。
ツーリストとしてでなく、演奏者としてゴアで過ごすのは初めてだったので、楽しかったです。
ゴアにいるうちに、今度は、モールチャン(口琴)の奏者の人に『アルバムをプロデュースしてほしい』と依頼されて、クラブミュージックにモールチャンをフィーチャーした曲を作ったり。
そんなこんなでゴアの滞在が伸びているうちにコロナが起こって、ロックダウンになってしまって。
最初はバウルのおじさんと、一緒に演奏していたシタールプレイヤーと、3人で住居をシェアして暮らしてたんですが、今は家を借りてパートナーと住んでいます。あと近所の犬と(笑)」 

このインタビューの最中、Norikoさんの部屋の中を我がもの顔でうろうろしている犬がいたので、てっきり飼い犬なのだと思っていたのだが、そうではなく勝手に入ってきた近所の犬だそうで、いかにもおおらかなゴアらしい暮らしをしているようだ。

ーゴアではどんな場所で演奏しているんですか?

NS「ライブミュージックの場合は、カフェとかレストランですね。あとバーとか。ゴアにはいわゆるライブハウスはあんまりないんです。
バウルのおじさんとシタールプレイヤーと一緒に住んでいたときは、めちゃくちゃギグがたくさんあったので、ひたすら演奏と練習、っていう暮らしをしていました。」

ーゴアと古典音楽のイメージがあんまり重ならないんですが、ゴアにも古典音楽の演奏をしている人はけっこういるんですか?(ゴアといえば、かつては欧米のヒッピー系ツーリストたちによるサイケデリック・トランスの一大拠点だった街であり、今でもダンスミュージックのイメージが強い)

NS「少ないけど少しはいますね。
あとKarsh Kale(インド系イギリス人のタブラ奏者/エレクトロニカ・ミュージシャンで、最近ではボリウッド音楽なども手がけている)もゴアに住んでますよ!
他にもゴアにスタジオを構えているプロデューサーは結構います」

ーその一緒に演奏していたというバウルの方は、どんな方なんでしょう?
じつは今、日本ではちょっとしたベンガル文化のブームが来てるんです。ドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』がロングラン上映されていたり、川内有緒さんの『バウルを探して 完全版』が発売になったり、バウルという存在が気になっているという人も増えていると思います。あとベンガル料理のお店も増えてきています」

NS「えー!そうなんですか?日本帰らなきゃ(笑)
バウルの話はすごく面白いんですよ。大学で研究もしていたので、バウルについての記事を学術誌に書いたこともあるんです。
バウルのルーツは、実はラージャスターンにもあるんです。ラージャスターンからヨーロッパ方面に行った人たちがジプシーになり、東に行った人たちのなかには、現在のバウルになった人たちに合流した人もいたようです。
もちろん、バウルの起源はミステリアスで、スーフィー、ヒンドゥー、イスラームといったいろんな文化を取り入れて出来上がったのですが。
ダンスのフォームにはスーフィーの影響がありますね。
本来は定住しないで一生旅をしていないとバウルとは言えないってことになっているんですけど、今のバウルは家を持ったり、結婚したり、外国人の彼女作ったり(笑)、いろんな人がいます。
私の友人は、ウエストベンガル出身なんですけど、祖先はアクバル帝の時代にラージャスターンからベンガルに移住してきたそうです。
彼もバウルなのでいろんなところを旅していて、若いときにはデリーでパフォーマンスをする機会が多かったようで、デリーにパトロンがいるみたいです。
彼とはデリーで音楽家の友達のつながりで知り合いました。
バウルは彼らが旅をしてゆく中で作り上げられていったカルチャーなので、バウルの家に生まれなくても、彼らのコミュニティーに入ってバウルになることはできます。
そうやっていろんなカルチャーを吸収してバウルという存在ができています。
楽器も、ラージャスターンのマンガニヤールのひとたちが使うものとベンガルのバウルが使うものは、名前は違うんですけどほぼ一緒だったりして、すごく面白いです」 

バウルの起源は不明だが、15世紀にベンガル語の文献に初めて登場するとされている。
バウルはカーストや血縁に基づく存在ではないため、ラージャスターンから来た人々がそこに内包されている可能性もあるのだ。南アジア文化の流動性や多様性を考えるうえで、かなり興味深い話ではある

ーバウルというと、ベンガル地方で、近隣の村々を回ってマドゥコリ(ごく簡単に言うと、演奏と托鉢)をして生活しているというイメージでしたけど、今ではインドじゅうを回っているバウルもいるということですか?

「インドじゅうのフェスティバルやイベントに呼ばれているバウルもいます。そういう意味では、他のジャンルのミュージシャンと変わらないところもありますね」

バウルという存在は、本来はアーティスト/表現者であるというよりも、修行者/求道者であり、その歌は『俗世』を離れ真理を追求する生き方と不可分なものだ。
現代化が進む南アジア社会のなかで、こうした強烈な魅力を持つバウルの文化は、よりいっそう憧れられ、引用される対象にもなっている。
以前も紹介したように、インドでは多くのインディー・ミュージシャンがバウルとのコラボレーションを行っており、現代のカウンターカルチャーの中でも大きな存在感を放っている。


ーゴアは20年前に一度行ったことがあるだけなんですが、今のゴアはどんな感じですか?
当時は欧米人たちのトランス一色でした。Norikoさんはトランスからゴアに惹かれたわけではないんですよね。まあ、当時のトランスってかなり独特な音楽ではありましたが…(笑)。

NS「トランスは、それこそ学生の頃とか流行っていたんですけど、やっぱり独特な感じでしたよね。私はあんまりハマらなかったです。
アンジュナ・ビーチのあたりは今でもPsy-Tranceとか、テクノが多いです。
アランボール・ビーチのほうに行くと、多国籍なライブミュージックが多くなりますね。
ゴアにはロシア人とイスラエル人が多くて、彼らはトランスが好きだったり、中東系の人たちも多いんですが、彼らはウードとか自分たちの民族楽器を持ってきて演奏したりしています。
Goa Sunsplashというレゲエのフェスもあります。Reggae  Rajahsの人たちが主催していて、彼らはデリーのバンドですが、メンバーの一人はゴアを拠点に活動しているようです。ゴアはムンバイが近いから、ムンバイから来る人たちも多いです」



ー20年前は欧米のツーリストやアーティストがトランスのシーンを作っている印象でしたが、今ではインド人がシーンの中心になっているんですか?

NS「インド人が多いと思います。バンガロールやムンバイからゴアに移住して音楽活動している人も多いですし。外国人もいますけど、インド人のほうが多いですね。
外国人は冬のシーズンしか来ないし、今年の場合は、コロナの影響でもう外国人が来られないので、観光客はインド人ばっかりです。去年までは外国人の演奏者もけっこういたんですけど。
コロナの影響でEDM系フェスティバルのSunburnも中止になっちゃいましたね」

ゴアのシーンからバウルの起源まで、話は尽きないが、ここで、彼女が8月31日にリリースしたEP"Within the Time and Place"に話題を移そう。
冒頭で紹介した多彩すぎるサウンドや、不思議なミュージックビデオは、いったいどうやって作られたものなのだろうか。


EP "Within The Time and Place"の楽曲と背景

ーニューEPの"Within The Time and Place"の話を聞かせてください。収録曲のジャンルがすごくバラエティーに富んでいますよね。

NS「ムンバイ在住のダンサーの原田優子さんからお誘いを受けて、1ヶ月弱で全て作りました。もともと作っていた曲もありましたが、このEPについては、ディレクターのAshley Loboがぐいぐい引っ張ってくれたところもあります。
1曲目はCovidWarはもともと持っていた曲だったんですが、この激しい曲に合わせて、今の状況や葛藤を表したりしよう、ということで採用になりました」

"Within The Time and Place"は、日本とインドのアーティストがオンラインで舞台作品を作り、配信するというプロジェクト"WITHIN"のために作られた音楽作品だったものだという。
この作品は、ムンバイ在住のコンテンポラリーダンサー原田優子さんが国際交流基金ニューデリー日本文化センターに働きかけて制作されたものだ。
インドでは、コロナウイルス禍の急速な拡大によるロックダウンによって、全ての表現活動やエンターテインメントの灯が消えた。
このオンライン作品は、「今こそ、原始祈りであった『踊り』を通して表現をすべき時だ」という思いのもとに作られている。


NS「インドのロックダウンは3月25日から始まって、最初は週末だけの予定だったんですがどんどん伸びていきました。5月の初めごろに、ムンバイに住んでいるダンサーの原田優子さんから電話がかかってきたのですが、ムンバイのロックダウンは本当に外に出られないみたいで大変そうでした。
優子さんはムンバイのAshley Loboのダンスカンパニー(Danceworx)でずっとダンスを教えている方なんですが、彼女がAshleyとか国際交流基金に声をかけたり、Ashleyの弟子のプロデューサー(Shohini Dutta)を連れてきてくれたりして、このプロジェクトが始まりました。
もう一人のダンサーは、愛智伸江さん。
ダンサーの場合、ダンスできる場所がないと、本当にどうしようもない状況になってしまうと思うんですけど、それでも踊り続けるしかないんじゃないか、っていうのを二人で話し合っていたそうです。もともと二人ともバレエ留学していたり、広く活躍されている方々です」

ー収録曲について教えてください。もとからあった曲が多いのでしょうか。

NS「2曲目の"Those Days"はAshleyのアイディアですね。
彼はすごくアーティスティックな人で、私たちアーティストの個人的な部分をすごく大事にするんです。『君が人生で初めて触った楽器は何?』とか、『いちばん好きだった音楽は何?』とかそういう質問をされて、最初に触ったのはピアノで、ジャズも好きだし、クラシックも好きだし…って話をしていたら、『ドローイングのシーンに合わせて、速いテンポのジャズを作ったらどうかな』みたいなことを言われて。
私はずっとエレクトロニカとか電子音楽だったので、はじめてああいうタイプの曲を作りました。ピアノで曲を作ることになるとは思わなかったです(笑)

3曲目の"Summer Reminiscing"はブレイクビーツっぽい曲。
以前作った曲を聴かせたときに、チルアウトな雰囲気で上がりもせず下がりもせず、Zen (禅)な雰囲気の曲もいいね、っていう話になったんです。それだったらブレイクビーツの曲を作ろう、と思って、最初はBonoboをイメージして、そこから作った曲です。

4曲目の"Tensei Taal (Reincarnation)"は絶対タブラを演奏するシーンをやってくれ、と言われて作った曲です。
インドの古典楽器であるタブラをずっとやってきましたが、タブラのビートとかインドの古典音楽のビートって、輪廻のリズムと言われたりするんですよね。
どんなに最悪な状況でも、命は繰り返していくっていうことを思い浮かべて作りました。
『タール』('Taal'=インド古典音楽におけるリズムの概念)って、死と生がいっしょになっているというか、始まりと終わりが同じところに来るっていうのがインド音楽のいちばんの特徴だと思うんです。そんなイメージを持ちながら、すごく短時間で作りました。
このプロジェクトでやるんだったら、ハードなイメージで、シタール使って、タブラがメインになるシンプルな感じにしようと思って、ばーっと自分でタブラを叩いて、ほぼ一発取りで作ってます。
ちょっと電子音楽っぽいシンセとか少しだけ入れていますけど、ほとんどシタールとタブラとベルだけですね

最後の"Within the Time and Place"は、フィナーレで希望を感じさせる音がいいねっていうアイデアをもらって作りました。
最初はもう少し別のイメージで作ってたんですけど、もうちょっとオーガニックな響きがいいなあ、ということでああいう感じになりました」

ーオンライン舞台作品のための音源をリリースしたきっかけは?

NS「パートナーや周りの声を受けて、という形です。
ダンスプロジェクトにテクニカルディレクターとして関わったManuも、助言やインドの音楽シーンの人たちをつなげてくれるなど動いてくれました。彼はMidival Punditzのマネージャーでもあるんです。
自分でミックス、マスターしてリリースしたら、Rolling Stone Indiaや、新聞などのメディアから反響をいただけました」

ーこれからの活動について教えてください。
これまで、DJとしてレゲエをプレイしたり、クラブミュージックを作ったりという活動と、タブラ・プレイヤーとしての活動をしてきたわけですが、今後はそれぞれの分野で別々に活動してゆくのでしょうか?
それとも、電子音楽/ダンスミュージックとインド古典を融合したりすることもあるのでしょうか?

NS「コロナウイルス禍の状況ですが、シンガーとのデュオでのギグや、アートフェスティバルへの出演が決まっています。今作ってる曲のなかには、自分でタブラを叩いてる曲もありますよ。
ダンスミュージックのなかでタブラを使ったり、シタールとかサロードとか、タンプーラのドローン音を使ったりというのは、UKの音楽ではこれまでにわりとあるんですよね。そういった曲も、今後作ってゆくと思います。
リリースの予定としては、地元ゴアのクラブをスポンサーにして、レコード盤を出します。
次のシングルはちゃんとしたミュージックビデオも作って、YouTubeやその他プラットフォームよりリリースします!
他には、ボリウッドシンガーのプロデュースや、映画の音楽などもやってます。
あと、また別の話なのですが、日本の演歌って、インド古典のラーガの音階に沿った曲がめっちゃいっぱいあるんですよ」

ーえ!演歌ですか?僕もパンジャービーとか北インド音楽の節回しって、すごく演歌っぽいなあと思っていたんです。

NS「あれは演歌なんですよ。インドの(笑)。
ラーガ、つまりインドの古典音楽のスケール(音階)を考えると、インドから中央アジア、中国、韓国、日本といろいろな地域に流入しています。
例えば日本の声明はマントラがもとになっていますし、雅楽にもインドの音楽や舞いの影響があって、その時代から日本はかなりインド文化に影響を受けているんです。演歌というのも、いってしまえばセミ・クラシカルですよね。セミ・クラシカルである演歌の響きやスケールはインドのラーガに置き換えられるというのを、ずっと私も思っていて。
そういう意味では、ずっと好きだったレゲエもジャマイカの演歌ですからね、言ってみれば(笑)。
日本の演歌をエレクトロニカとインド古典でカバーしたプロジェクトをやろうと思っています」

ーそれ、めちゃくちゃ面白そうです。
それこそ、インドの演歌みたいなバングラーは、いろいろな新しい音楽と融合していますけど、日本の演歌は誰もやっていないじゃないですか。
誰かそういうことをやらないかなあ、と思っていたので、すごく楽しみです。

NS「曲がたまったらまとめて出そうと思っていて、今は美空ひばりの曲をエレクトロニカと私のタブラとオートチューンで面白いサウンドにしてゆくというアイデアを考えてます」

まさか、かねてから提唱していた「北インド音楽=演歌説」にこんなところから共感してくれる人が現れるとは。
しかも、彼女の頭の中には、かなり具体的なサウンドのビジョンがあるようだ。
これはなんとも楽しみだ。 


ー先日boxout fm(デリーのレゲエバンドReggae Rajahsのメンバーが運営しているオンライン放送局)から配信されたミックスを聴かせてもらったんですが、テクノ、ドラムンベース、レゲエとさまざまなジャンルをプレイしていますが、それでもどこか一貫性を感じるサウンドが印象的でした。
何か音響的な部分へのこだわりがあるのでしょうか?
インドの古典音楽も音の響きをすごく大事にするジャンルですよね。

NS「うーん…。こだわりですか。
昔はダブステップとかブレイクコアみたいな、ノイジーで低音が効いたうるさい感じの音が大好きだったんですが、現在はもっとファンクショナルな音楽がやりたいなあと思うようになりました。
何というか、踊れるし、チルできる、みたいな二面性というか…レゲエもそういう音楽だと思ってるんですけど、リスニングミュージックとしても良いし、フィジカルにも聴ける音楽でもあるし、そういうものに憧れがあります。インド古典もそうだと思います。よく聴いてみるとすごく複雑なことをしていたりもするけど、理論を知らない外国人が聴いても、ノルことができるし。
そういう音の二面性みたいなものに惹かれている部分があると思います」 


音楽遍歴からコルカタでの留学生活、日本とインドでの音楽活動やバウルの話題にもおよぶ、盛り沢山のインタビューだった。
それにしても、幼少期のピアノからクラブDJを経て、タブラにたどり着いた彼女の次なる目的地が、まさか「演歌」だとは思いもしなかった。
制作中のデモ音楽を聴かせてもらったのだが、エレクトロニカ風かつインド風に再構築された演歌も、タブラやバーンスリーを使ったドラムンベース風フュージョンも、いずれもインド的な要素と電子音楽が見事に融合した、完成が非常に楽しみなサウンドだった。
DJであり、電子音楽アーティストであり、そしてタブラ奏者でもあるという稀有な個性に、期待は募るばかりだ。


Noriko Shaktiホームページ


EP "Within the Time and Place"はこちらから


Noriko Shakti YouTubeチャンネルはこちらから


Boxout FMで披露したミックスの模様はこちらから!



参考サイト:







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goshimasayama18 at 20:16|PermalinkComments(0)

2020年11月09日

ウィスパーボイスのシンセポップ、"Samurai". 歌うのはベンガルの古典音楽一家出身のエリートシンガー!



以前も書いたとおり、インドの音楽シーンをチェックしていると、日本語のタイトルがつけられた曲に出会うことがたびたびある。
 
マンガ、アニメ、ゲームといった日本のサブカルチャーの人気はインドでも高く、現地のアーティストにもファンが多いためだ。

先日も、インドのアーティストが歌う"Samurai"(侍!)というタイトルの曲を見つけて聴いてみたところ、これがまた素晴らしかった。
ウィスパーヴォイスの女性ヴォーカルが歌う80年代風のシンセポップに、当時の日本のアニメ風のミュージックビデオがばっちりハマっている。

この絵柄、この色づかい、このメカデザイン。
最近はインドでもこうした80年代的レトロフューチャーを取り入れるアーティストが目につくが(例えばDreamhour)、ここまで徹底した世界観を作り上げている例は珍しい。
しかも彼女の場合、ヴェイパーウェイヴ的に過去の作品を再編集するのではなく、楽曲もビデオも全てゼロから手がけているというのが凄い。

Sayantika曰く、サイバーパンク的ディストピア世界で活躍する女性たちは、いずれも彼女の分身で、この曲は、コロナウイルスによるロックダウンのもとで直面した創作上の困難と、そこから脱したプロセスを表現したものだという。
そのことを踏まえて見れば、単に80年代のテイストを再現しているだけではなく、明確なコンセプトとストーリーがあることがお分かりいただけるだろう。
このまったくインドらしからぬセンスの持ち主である彼女が、なんとコルカタの古典音楽一家の出身だと知って、さらに驚いた。

曾祖父と母親は古典音楽家、父はハーモニカ奏者という音楽一家に育ったSayantikaは、すでに10歳から作曲を始めていたという。
「音楽を始めるのは必然だったのよ」と語る彼女が影響を受けたのは、古典音楽ではなくThe Beatles, Coldplay, Radiohead, Gorillasといった現代の欧米のミュージシャンたちだった。

しかも、彼女の才能は音楽だけではなかったようだ。
理工系の世界的名門として知られるインド工科大学ムンバイ校(IIT Bombay)に進学し、地質学を学んだというから、彼女は相当なエリートでもあるのだ。
誰もが羨むエリートコースに進んだものの、Sayantikaは大学でのフェスティバルやムンバイの音楽シーンに刺激を受け、幼い頃から親しんだ音楽の道に進むことを決意した。
大学卒業後もムンバイに留まって音楽活動を続け、2019年にデビューEP "Yesterday
Forever"をリリース。
"Samurai"同様に80年代風のシンセサウンドを基調にしたこのアルバムは、純粋にポップミュージックとして素晴らしく、とくにメロディーセンスの高さは特筆に値する。

なかでも美しいのがこの"Extraordinary Love"だ。

さまざまな愛の形を描いたミュージックビデオが印象的なこの曲は、Sayantikaからボーイフレンドへのバースデープレゼントとして作られたものだという。
「ありふれた世界の、ありえないほどの愛。あなたの恋人でいられることは本当に特別なこと、あなたはとても特別な人だから」
というストレートなラブソングで、こんな素敵な歌でそんなこと言われる彼氏は幸せものだよな…、としみじみ。


ムンバイを拠点に音楽活動を続けている彼女だが、生まれ育ったベンガル地方のルーツを決して忘れてしまったわけではない。
今年6月にリリースされたこの2枚目のシングル"Aami Banglar"は、ベンガリー語による故郷の文化や自然や人々の讃歌だ。

ベンガル語のやさしい響き、伝統楽器をふんだんに使ったアレンジなど、とても現代的なシンセポップのアーティストとは思えない素朴な曲だが、それだけに彼女のメロディーの良さが際立っている。

歌詞では、
「ベンガルこそ私の魂の居場所、これは私のバウル・ソング
 モンスーンの赤土の大地の匂いがする
 もし『あなたの心が永遠に止まる場所はどこ?』と聞かれたら
 私の答えは『ベンガルよ。いつも』」

と、率直に故郷への愛情が綴られている。
他にも、海やヒマラヤ、女神ドゥルガー、大詩人タゴール、ポウシュ・メラ(バウルなどの伝統音楽家が集うタゴールゆかりの地シャンティニケトンの祭)など、ベンガルらしいモチーフがこれでもかというほど詰め込まれた曲だ。
最後にはバウルのシンガー、Shenker Dasが登場し、バウルらしい深みのある歌声を聴かせてくれている。

(「バウル」はインド領のウエストベンガルにも、ベンガル地方の東側にあたるバングラデシュにも存在している漂泊の修行者にして歌い人。社会の枠から外れた存在である彼らは、とても一言では言い表せない存在だが、このあたりの記事に多少詳しく書いています)




いくつかのウェブサイトの記事によると、彼女の音楽の重要なテーマは、「ノスタルジア」であるようだ。
80年代的シンセポップと、伝統楽器を使ったベンガル賛歌。
この2つは全く異質のもののように感じられるが、彼女にとっては、同じノスタルジアという意識でつながっているものなのだろう。
実際、ポップでモダンな"Samurai"にも、マハーラーシュトラ州(こちらはインド東部のベンガルとは遠く離れたムンバイがある西インドの地方)の楽器Sambalの音色が使われているという。

大都市コルカタで育った20代の彼女にとっては、80年代の人工的なカルチャーも、故郷ベンガルの赤土の大地も、実際の体験に基づいた記憶というよりも、イメージの上でのノスタルジアなのかもしれない。
それでも、現代を生きるベンガル女性のルーツとして、タゴールやバウルとSFアニメが共存しているというのはなんともユニークでクールだ。

この類まれなセンスの持ち主にもかかわらず、デビューEP"Yesterday Forever"のSpotifyでの再生回数はまだ1000回未満。
彼女はもっともっと評価されるべきアーティストだ。

同じくコルカタ出身で、海外のレーベルと契約しているParekh & Singhのように、今後の活躍と、インド国内にとどまらない人気を期待したい。



(インドのヴェイパーウェイヴ的懐古趣味については、この記事に書いています)




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goshimasayama18 at 17:28|PermalinkComments(0)

2020年07月07日

『バウルを探して〈完全版〉』でバングラデシュの風にどっぷり浸かる


川内有緒・文、中川彰・写真の『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)が、すごく良い。

baul(三輪舎さんのウェブサイトから画像をお借りしました)

この本は、2013年に幻冬社から出版された『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』に、バウル探しの旅に同行した中川彰さんの写真を大幅に追加したもの。
2015年には『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』と改題して幻冬社文庫にも入っているから、今回の「完全版」で、3回目の出版ということになる。
(その経緯は、川内さんが書いたこちらのnoteに詳しい。発売日に書かれたこの記事も、ぐっと来る)

私は幻冬舎文庫版を持っていて、もともとかなり好きな本だった。
単行本で買った本を気に入って、加筆された部分があるからとか、持ち運びやすいからとかといった理由で文庫化されたときにまた買うというのは、たまにある。
でも、私はコレクター的な本好きではないので、文庫で持っている本を単行本で買い直すというのは、今まで一度もしたことがなかった。
そもそも、一度文庫化された本が、全集とかでもないのに別の形で出版されるというのも、あまり聞いたことがないし。
ところが、この「完全版」、中川さんの写真目当てで買ってみたら、それだけでなく、すごく良かったのだ。

川内さんの文章は、文庫の時から変わっていない(たぶん)はずなのだが、読んだときの質感が全然違う。
なんというか、文庫版がライブ盤のCDだとしたら、今回の完全版は、ライブそのもの。
それくらい違う。

何がそんなに良いのか。
まず、本そのものの、モノとしての佇まいがすごく良い。
ページを180度開くことができて写真が見やすい「コデックス装」になっていたり、背表紙にあたる部分(コデックス装だと、ページがむき出しになっている)に打たれたドットが模様になっていたり、異常なまでにこだわりのある装丁になっている。
ただ、そういう非日常的な装丁だから良い、というのではなくて、本の内容と装丁とがぴったりと一致して、特別なものではなく、本来こうあるべきだったもののように感じられる、そういう良さがある。
この装丁を担当したのは、矢萩多聞さん。

次に、中川彰さんの写真が良い。
もともと文庫版の写真の少なさはちょっと不満だったし、文庫版のあとがきで、彼が本の出版を待たずして亡くなってしまったことを知っていたのでちょっと感傷的になっていたところはあったと思うが、それを差し引いて余りあるほどに、良い。

中川さんの写真からは、バングラデシュの人や空気の匂いが、濃厚に漂っている。
排気ガスやお香や朝靄や牛の糞の匂い、クラクションや怒鳴り声や風の音が感じられるような写真なのだ。
撮影対象を特別に見せようなんて、これっぽっちも思っていないようなのに、その表情から、風景から、色合いから、その場所にしかない空気が濃密に立ち上ってくる。
よそ者の旅人としてバングラデシュを見ているのではなく、この国で繰り返されている日常のなかに、ふっと迷い込んでしまうような、そんな写真である。

川内さんの文章もそうだ。
「バングラデシュに存在する、謎の吟遊詩人を探しに行く」という、これ以上ないほど非日常的なテーマなのに、川内さんの文章は、なんというか、日常と地続きなのである。
かつて憧れだった職場を退職し、さて、これからの人生をどうするか、というタイミングでのバウル探し。
それなのに、全く肩の力が入っていない(ように読める)。
日本での日常から、日本とは全く違うバングラデシュの奥へ、奥へと入ってゆくのだが、操縦のうまいパイロットがふわっとなめらかに離着陸するように、普段着のまま異世界に入ってゆくような感覚がある。
好奇心のアンテナは思いっきり伸ばしながらも、変な力が入っていないから、気がついたら、自分のまわりを吹いている風が、バングラデシュの風になっているような錯覚を覚えてしまう。

そう、理由はよく分からないが、この本、風にあたりながら読みたい本である。
川っぺりのベンチかなんかで読むのもいいし、ベランダに椅子を出して読むのも、なんなら窓を開けてみるだけでもいいと思う。
本の手触りを味わうように、風の感触を味わいながら読むと、たぶんこの本の良さはもっと増すはずだ。

それにしても、この装丁の力と、中川さんの写真の力はすごい。
もちろん、主役は川内さんの文章なのだが、文庫版で読んだはずの文章が、初めて読んだように、いや、初めて読んだ時以上にみずみずしく感じられる。
…という趣旨のことをTwitterでつぶやいたら、川内さんご本人から、「映画が大画面だとより楽しめるように、本の形によっても、読み心地は変わるのだろうと思います」というご返信をいただいた。
言いたかったのはまさにこういうこと!
『バウルを探して〈完全版〉』を読みながら、歴史のある佇まいの映画館の大スクリーンで、最高の音響と最高の座り心地の椅子で、大好きな映画を鑑賞してるみたいな、ぜいたくな時間を楽しんでいる。

ベンガルってどこ?とか、バウルってなに?という人も含めて、「体験としての読書」にどっぷり浸かりたい人全員に、全力でおすすめしたい。



(便宜上、この記事のカテゴリが「インド本」になっていますが、「バングラデシュ本」です。読むともれなく無性にバングラデシュに行きたくなるという副作用付きです。)






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goshimasayama18 at 20:56|PermalinkComments(0)

2020年06月07日

6/7(日)『タゴール・ソングス』オンライントークご報告!

というわけで、先ほどポレポレ東中野さんで『タゴール・ソングス』佐々木監督とのトークイベントを行ってきました。
このご時世なので私、軽刈田はオンラインで画面上に登場してお話させてもらいました。
(まさか自分の人生で、映画館のスクリーンに映されることがあるとは思わなかった…)

トークのなかで紹介した曲の動画をご案内します。
まずは、タゴール・ソングのさまざまなカバーバージョンから。

最初に紹介するのは、ムンバイの4人組ポップロックバンド、Sanamが演奏する"Tumi Robe Nirobe".
この曲は、『タゴール・ソングス』の中では『あなたが居る』という翻訳で歌われている曲ですが、インドの極甘イケメン風バンドが演奏するとこんなふうになります。

SanamはYouTubeにアップした動画がきっかけで人気を得たという現代的なバンドですが、オリジナル曲だけでなく、懐メロのカバーにも積極的に取り組んでいます。
インド人の懐メロといえば、それは当然、往年の名作映画を彩った劇中歌。
そうした名曲を現代風にアップデートした彼らのカバーバージョンは、YouTubeで大人気となり、中には1億回を超える再生回数のものもあります。
そんな彼らは、映画音楽だけでなく、こうしてタゴール・ソングもカバーしているのです。
このことからも、大文学者タゴールが作った曲が、インドのエンターテインメントの王道である映画の名曲と同じように親しまれているということがよく分かります。
この"Tumi Robe Nirobe"は4,000万回を超える再生回数を叩き出して、まるで現代のヒットソングのよう。
彼らは他にも"Boro Asha Kore Easechi"や"Noy Noy Modhur Khela"といったタゴール・ソングをカバーしています。
興味のある方はYouTubeで検索してみてください。


続いて紹介したのは、バンガロールのフュージョンロックバンドSwarathmaが、ベンガルの放浪詩人「バウル」と共演した"Ekla Cholo Re".

「バウル」とは、ベンガル地方(インドの西ベンガル州およびバングラデシュ)に何百年も前から存在している行者とも詩人とも言える人たちのことです。
ヒンドゥーやイスラームの信仰を超えた存在である彼らは、タゴールにも大きな影響を与えていると言われていますが、ここでは逆にそのバウルがタゴール作の歌"Ekla Chalo Re"(映画の中でも何度も登場している『ひとりで進め』)を歌っています。
歌っているのはLakhan Das Baul.
映画にも同名のバウルが登場しますが、このLakhanは映画に出てきたのとは別の人物です。

ここまで紹介した2組は、ベンガルではなく、それぞれインド西部のムンバイと南部のバンガロールのバンド(Lakhan Das Baulはベンガルのバウルですが)、つまり、ベンガル語を母語としない人たちです。
映画では、タゴールがベンガルの人々にいかに身近に愛されているかが綴られていましたが、ベンガル以外の人々にとっても、タゴールは深く敬愛されているのでしょう。
アカペラ・グループのPenn Masalaが、インドの各言語を代表する名曲をメドレーにした動画があるのですが、その動画でも、ほとんどの言語の曲が映画音楽だったのに対して、ベンガル語からはタゴール・ソング(この"Ekla Chalo Re")が選ばれていました。

(グジャラーティー、ヒンディーに続いてベンガル語で歌われる2曲めが"Ekla Chalo Re".一瞬ですが)


同じ"Ekla Cholo Re"をコルカタのロックバンドOporinotoが壮大なアレンジでカバーしているのがこちら。

同じ『ひとりで歩け』でもアレンジ次第でいろんな印象になるということが分かります。
タゴール・ソングは、このように様々な現代的なアレンジがされている一方で、正統派の歌い方というものがはっきりと確立されている音楽でもあります。
映画の中で、オミテーシュさんとプリタさんの師弟が歌っているのが正統派のタゴール・ソングです。
ベンガルには、新しいアレンジが施されたタゴール・ソングは邪道と考え、正統派の歌のみを愛してやまないリスナーもたくさんいます。
このへんは、歌舞伎や落語のような日本の古典芸能にも近い感覚かもしれません。

ところで、これを言ってはおしまいなんですが、ベンガル語が全くわからない我々にとって、ここまで紹介してきたカバーバージョンは、あまり魅力的に響かなかったのではないでしょうか。
それはなぜかと言うと、「歌詞がわからないから」ということに尽きると思います。
そもそもロックのアレンジと、4拍子ではなく、とらえどころのないタゴール・ソングのメロディーの相性があんまりよくないということもあるのですが、その最大の原因は、タゴール・ソングのなによりの魅力である歌詞が伝わってこない事でしょう。
何が歌われているか分からないと、タゴール・ソングの良さは、ほとんど伝わらないのではないでしょうか。
仮に、タゴール・ソングのCDを買ってきて、歌詞の対訳を読みながら聴いたとしても、歌われているのがどの部分の歌詞なのかが分からないと、やっぱり良さはあまり伝わらないはずです。
その点、歌にあわせて字幕を出すことのできる「映画」という表現方法は、我々のようにベンガル語が分からない人々にタゴール・ソングを紹介するのにはぴったりです。
歌を聴きながら歌詞を読むことで、たとえば「ひとりで歩け」という歌詞が、メロディーによって、寂しげに聞こえたり、奮い立たせるように聞こえたりすることが分かります。
そういう意味でも、映画という形でタゴール・ソングを紹介してくれた佐々木監督の発想は素晴らしかったと言えるでしょう。

これはタゴール・ソングではありませんが、"Ekla Cholo Re"というタイトルを借用したラップの曲。
映画の中にもバングラデシュのラッパーが出てきましたが、南アジアではここ最近ヒップホップの人気が非常に高まっており、どこの街にもラッパーがいて、その街のリアルな様子をラップしています。
これはUndergrount AuthorityというコルカタのラップメタルバンドのヴォーカリストであるEPRというラッパーのソロ作品で、厳しい生活を余儀なくされ、死を選ぶしか道のない農村の人々の辛さを訴えた曲です。


こちらもタゴールとは直接関係ありませんが、Purna Das Baulというバウルがボブ・ディランをカバーした楽曲で、"Mr. Tambourine Man".

 このPurna Das Baulはディランと親交があり、彼の音楽にも大きな影響を与えた人物です。
バウルはタゴールとボブ・ディランという二人のノーベル文学賞受賞者に影響を与えているということになるのです。



と、まあこんな感じでポップミュージックの視点から、タゴール・ソングとベンガルの音楽をほんの少し紹介させてもらいました。
本日は、30分という限られた時間のなかで、トークのみでのご案内でしたが、実際にみなさんを前に佐々木監督とトークしながらミュージックビデオをごらんいただくイベントの開催が決まりました!

6月20日(土)ポレポレ東中野1階の「space & cafe ポレポレ坐」にて、夕方〜夜にかけて開催予定です。
正式に決まり次第、改めてご案内します!

というわけで、本日はお越しいただいた方も、お読みいただいた方も、ありがとうございましたー!



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goshimasayama18 at 23:25|PermalinkComments(0)

2020年04月10日

バウルとインドのポピュラーミュージック

前回の記事では、ベンガルの漂泊の歌い人であるバウルがボブ・ディランに影響を与えたと言われる説の真相を紹介した。


かつては「歌う賎民」のように扱われていたバウルは、タゴールによる再評価やディランへの影響、そして2008年にUNESCOの無形文化遺産に登録されたことにより、ベンガルの伝統文化の担い手として脚光を浴びるようになった。
それに加えて、物質的な社会に背を向けて生きるバウルは、南アジアでも資本主義的な価値観が加速してゆくにつれて、そうした風潮に違和感を感じる人々から、ある種の憧れの対象として見られるようになっていった。

一方で、バウルたちを取り巻く環境も、大きく変わっている。
従来、バウルは「マドゥコリ」と呼ばれる村の家々を回る托鉢によって生活していたが、物価の高騰や人々の価値観の変化によって、こうした伝統的な方法で暮らしてゆくことが困難になってきたのだ。
このような様々な背景から、バウルたちの生き方もまた多様化してゆくことになる。

本来は俗世を捨てて修行と歌と托鉢に生きるべきバウルだが、現在では、出家せずに、ウィークデーは働き、週末のみ師匠のもとに通う「在家」のバウルも増えつつあるという。
なかには、かつてのようなマドゥコリではなく、音楽愛好家の富裕層や観光客を相手に演奏したり、コンサートで歌ったりして収入を得るバウルも現れている。
また、修行生活を送ることなくバウル・ソングを歌う、非バウルのシンガーも出てきているようだ。

そうした者たちについて、「本物のバウルではない」とか「バウルではなくて単なる歌手だ」という意見もあるようだが、このようなバウルの「ポピュラー化」もまた、変わりゆく時代のなかで、今なおバウルという存在が魅力的でありつづけている証拠と見ることができるだろう。


さて、これまで何度もこのブログで紹介してきた通り、インドは、欧米からやってきたポピュラー・ミュージックとローカルの伝統音楽との融合が盛んに行われている国だ。
ロックに古典声楽の歌い回しを取り入れたり、ヒップホップのトラックに伝統的なリズムを引用したり、プログレッシブ・メタルに古典音楽の変拍子を導入したりしているアーティストが数多く存在しているのだ。




バウルの音楽は、本来は商業的で大衆的なポップミュージックとは対極にあるものだが、前述のようなバウルの再評価にともなって、バウル音楽もまたロックやヒップホップとの融合が試みられている。
考えてみれば、既存の価値観にとらわれず、アウトサイダーとして音楽に生きるというバウルの思想は、もともとロックのようなジャンルとの親和性が高いとも言える。
自国の文化に誇りを持つインドやバングラデシュのミュージシャンが、欧米のロックスターに憧れるのと同じようにバウルに憧れを抱くとしても、なんら不自然なことではないのだ。


まずは、バンガロールを拠点に活動するフュージョン・ロックバンドSwarathmaとLakhan Das Baulとの共演を紹介する。
(一部訂正しました。バウルにお詳しい方からコメント欄にてご指摘いただき、このLakhan Das Baulは映画『タゴール・ソングス』に出演していた人物とは別人とのこと。Bong Khepaさん、ありがとうございました!)
曲は、有名なタゴール・ソングの"Ekla Chalo Re"(ひとりで進め)。

前回の記事で、タゴールがバウルからの影響を受けているということに触れたが、今では逆にバウルがタゴールの作った歌を歌うことも珍しくないようだ。
演奏しているSwarathmaがベンガルではなく南部のバンガロール出身のフュージョン・バンド。
インド音楽で「フュージョン」といった場合、それは伝統音楽と西洋の音楽との融合を意味している。
ヒンドゥスターニーやカルナーティックといったかつての宮廷音楽や寺院音楽を取り入れるフュージョン・バンドが多い中、このSwarathmaはインド各地のフォークソング(土着の民謡)とブルースやレゲエとの融合に取り組んでいる異色のバンドである。
その高い音楽性から、Rolling Stone India等の音楽メディアでも頻繁に取り上げられている注目のグループだ。


続いては、1998年に結成されたコルカタのハードロックバンドFossilsが、ディランに影響を与えたバウルとして有名なPurna Das Baulと共演した"Je Jon Premer Bhaab Jane Na"を紹介する。
 
Purna Das Baulの歌声は2:50あたりから。
このPurna Das Baul, アルバート・グロスマンに見出されたことをきっかけに、ディランだけではなく、ボブ・マーリー、ミック・ジャガー、ティナ・ターナー、マヘリア・ジャクソン、ジョーン・バエズらとも共演したことがあるようで「最も国際的なバウル・スター」と呼んでもさしつかえないだろう。
(参考サイト:https://www.getbengal.com/details/purna-das-baul-the-man-who-took-bengals-baul-songs-to-the-global-stage


こちらもコルカタ出身のBolepur Bluezは、「本物」のバウルをヴォーカリストに迎えた「バウル・ロック・フュージョン・バンド」で、オーディション番組'India's Got Talent'でも高い評価を得たという。
初代ヴォーカリストはKartick Das Baul、のちに2代目ヴォーカルとしてRaju Das Baulという人物が加入したようで、「ロックバンドで歌うバウル」が何人もいるということに驚かされる。
この"Hridh Majare Rakhbo"は、ここまで紹介したなかではいちばんヘヴィでロック色の強い仕上がりになっている。



バウル音楽と西洋音楽との融合は、ロックに限らない。
コルカタ出身のラッパーFeyagoは自らのルーツをたどるため、シャンティニケタン(タゴールが大学を作った街として知られる)を訪ね、バウルとのコラボレーションを行なっている。
この取り組みはインドのウェブメディア、'101 India'が制作した"Hip Hop Homeland"というプログラムのウエストベンガル編として行われた企画で、かなり面白いコラボレーションになっている。

「かつてこの街で、チャンドラ・ボースは詩(ポエトリー)を抵抗の手段に使ったんだ。音楽で言えば、ヒップホップさ」とFeyagoはコルカタの歴史とヒップホップの共通点を指摘する。

「苦しみや悩みからの慰めを音楽の中に見出す」というテーマを古いバウル・ソングとヒップホップに見出したFeyagoは、シャンティニケタンのメラ(祭礼)で出会ったTarak Das Baulに、楽曲のコンセプトを語りかける。
「俺たち若者は、自分たちの母語も、バウル音楽も忘れてしまっている。だから新しい世代のビートと、伝統的なバウルのフォークミュージックを融合してみたいんだ」
そうして完成したのが、この'Baul Folk Hip Hop'だ。

ラップのリリックにボブ・ディランが出てくるところも実にベンガル的。
Tarak Das Baulも新しいリズムのうえで、のびのびと歌を披露している。
ちなみに、バウルには'Das Baul'(ダシュ・バウル)という名を持つものが多いが、Dasは「(神の)しもべ」を意味する言葉で、この名を持つバウルが必ずしも親戚関係にあるというわけではない。
カーストとも既存の宗教とも距離を置く彼らは、バウルになるとともにもともと持っていた姓(インドの姓名は、たいていが宗教やカーストと結びついている)を捨て、新しい名を名乗るのだ。
Das Baulはバウルたちが好んでつける名前のひとつである。


今回紹介したような新しいタイプのバウル・ソングを「伝統から外れたもの」として退けることもできるが、変わりゆく時代の中で、バウルの持つ魅力や受け入れられ方が多様化しているからこそ生まれた音楽として、ポジティブに捉えたほうが面白い。
こうした新しい取り組みがあってこそ、本来のバウルの伝統もその価値をいっそう増すはずだ。

それにしても、何百年も前からこのさすらいの歌い人たちを受け入れ、今ではその生き方にロックミュージシャンやラッパーまでも憧れているという、このベンガル文化の懐の広さはいったい何なのだろう。
コルカタやバングラデシュは、ながく貧困や難民のイメージを持たれてきた土地でもある。
だが、彼らが持つ伝統やことばの豊饒さを考えるとき、彼らと我々のいったいどちらが本当に豊かと言えるのか、だんだん分からなくなってくる。
しかも、ベンガルの場合、宮廷や富裕層ではなく、宗教もカーストも超越した放浪のアウトサイダーたちが、豊かな歌とことばの文化を受け継いでいるというところに、底知れぬ奥深さを感じてしまう。

ここのところベンガル料理が注目され始めているようだけど(とても美味しい!)、ベンガルの豊かさは料理のみにあらず。
バウルたちやタゴールが培ってきたベンガルの歌とことばの文化から、いまの我々が得られるものは、あまりにも大きいように感じている。


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2020年04月05日

ベンガルの漂泊の歌い人、バウルとボブ・ディラン


映画『タゴール・ソングス』を見て以来、すっかりベンガルにはまっている。
改めて説明すると、「ベンガル」とはインド東部のウエスト・ベンガル州とバングラデシュを合わせた、ベンガル語が話されている地域のことである。
ベンガルmap

(画像出典:映画『タゴール・ソングス』公式サイトhttp://tagore-songs.com

ベンガルの音楽文化を語るうえで、避けて通れないのが「バウル(Baul)」だ。
バウルは、インド領ウエストベンガルにもバングラデシュにも存在する漂泊の「歌い人」である。
バウルはUNESCOによって世界文化遺産にも認定されているが、彼らを的確に定義するのは難しい。
「吟遊詩人」「神秘的詩人」「芸術的修行者」などと言われることもあるようだが、研究者によっても、また個々のバウルによってもその解釈は異なるようだ。
バウルの特徴として、概ね共通認識となっている点を挙げるとすれば、こんなところだろうか。
  • バウルは、俗世を捨てた放浪の行者である。
  • バウルは宗教やカーストにとらわれない存在である。バウルになる前、ヒンドゥーを信仰していた者もムスリムだった者もいる。バウルの思想は、特定の宗教を拠り所にしていない。また、上位のカーストでも、最下位のカーストでも、バウルになってしまえば関係ない。男のバウルだけではなく、女のバウル(バウリニ)もいる。
  • バウルは世襲ではない。バウルの家に生まれたからといって子がバウルになるのではないし、バウルの家に生まれなくてもバウルになれる。
  • バウルは師匠のもとで修行する。弟子入りや出家に似た儀式を経て、バウルとなる。
  • バウルはマドゥコリと呼ばれる托鉢で生活する。
  • バウルは「歌い人」として認識されることが多いが、その修行は歌だけに限らない。ヨーガのような精神的な修行も求められる(むしろ、精神的な修練がバウルの本質だとする見方も多い)。
  • 最近は、俗世を捨てず週末だけバウルの修行をする者や、修行はあまりせずにバウルの歌を歌う者もいる。彼らをバウルと考えて良いかどうかは意見が分かれる。
バウルは何百年も前からベンガルに存在していた生き方だ。
ベンガル語の「バウル」という言葉は、もともと「狂気」という意味を持っているという。
世俗の生活や世間の常識から自由になり、一心に己の信仰(特定の宗教に寄らない彼らの生き方を信仰と呼ぶのは少し違和感があるが)を追求して生きる人々が、バウルなのである。
バウルは彼らの間に伝わる伝統的な歌も歌うし、自作の歌も歌う。
彼らの歌には深い意味が込められているが、その歌詞の意味は、バウル以外には容易には分からないような比喩的な表現がされているという。


バウルについて日本や欧米で紹介するときに、必ずと言っていいほど言及されるフレーズがある。
それは「バウルはボブ・ディランにも影響を与えた」というものだ。
確かに孤高の歌い人のイメージを持つボブ・ディランとバウルのイメージは重なるが、もしこの話が本当だとしたら、ディランは、いったいどこでこのベンガルの修行者と出会ったのだろうか。
ディランの音楽には、ビートルズやストーンズのようにインドの楽器を導入した曲があるわけではないし、彼がインドから思想的な影響を受けているという話も聞いたことがない。
はたして、ディランはいつ、どこでバウルに出会い、どのような影響を受けたのだろうか。


調べてみると、話は1967年のコルカタにさかのぼるようだ。
当時コルカタのカーリーガート付近に住んでいたあるバウルのもとに、コルカタきっての高級ホテルであるオベロイ・グランドの使者がやってきた。
どうしても彼の歌を聴きたいという客が宿泊しているのだという。
このバウルの名前はプルナ・ダシュ・バウル(Purna Das Baul)。
父も妻も弟も息子もバウルという、生粋のバウル文化の中で生きてきた男だ。
オベロイ・グランドで彼を待っていたのは、アルバート・グロスマン(Albert Grossman)というアメリカ人だった。
当時、ジャニス・ジョプリンやボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーらのマネージャーを務めていた人物だ。
プルナがバウルの歌を披露すると、グロスマンはすっかり夢中になり、彼にアメリカをツアーしないかと持ちかけてきた。

この頃のアメリカでは、激化するベトナム戦争への反発から、若者達の間でカウンターカルチャーとしてヒッピームーブメントが巻き起こっていた。
彼らは過度な物質主義に偏った西洋文明への反発から、東洋、とくにインドの文化に接近していった。
シタール奏者のラヴィ・シャンカルがビートルズ(とくにジョージ・ハリスン)に多大な影響を与え、有名なウッドストック・フェスティバルに出演したのもこの頃だ。
精神的な要素を重視するインド文化は、その是非はともかく、マリファナやLSDで新しい意識を覚醒させようというヒッピー文化との親和性も高かった。
俗世を捨てた行者であり、歌い人であるバウルが受け入れられる土壌が、確かに当時のアメリカにはあったのだ。


プルナ・ダシュ・バウルはグロスマンの提案を承諾し、弟のラクスマン・ダシュ・バウルを含むバウルの楽団を結成して、アメリカ各地で公演を行うことになった。
ボブ・ディランがバウルに初めて出会ったのは、どうやらこの時のようだ。
バウルの楽団は、当時ディランがニューヨークに所有していたビッグ・ピンクと呼ばれる住居兼スタジオでも演奏を行った。
その様子はディランとともにプレイしていたザ・バンドのガース・ハドソン(Garth Hudson)によってプロデュースされ、"Bengali Bauls at Big Pink"というタイトルで音源化されている。

ディランは確かにバウルに感銘を受けたのだろう。
プルナとラクスマンの兄弟は、ディランが67年末に発表したアルバム"John Wesley Harding"のジャケットにも登場している。
BobDylanJohnWesleyHarding
(ディランの左右にいるのがバウルの兄弟)

とはいえ、その後のディランの音楽にバウル音楽の要素が見られるわけではない。
ディランがバウルの何に影響されているのかと言えば、それは彼らの生き方や、音楽や詩に向き合う姿勢ということになるだろう。
プルナ・ダシュ・バウルに、ディランはこう語ったという。
「俺たちはどちらもルーツの音楽を歌っている。俺たちの目的は同じなんだ。俺たちは人々のために歌ってる。音楽を通して物語や愛を伝えているんだ。君がベンガルのバウルなら、俺はアメリカのバウルさ」

新しいサウンドを模索していたビートルズやサイケデリック・ロックのバンドたちが、インド古典楽器の瞑想的な響きを導入したのに対して、歌詞(ことば)を伝えることを重視したディランが、詩人であり行者でもあるバウルに惹かれたというのは興味深い。
西洋文化に代わるものとして、インドのメインストリーム的な伝統文化への接近を試みた当時の多くの人々とは異なり、ディランはベンガルの「伝統的アウトサイダー」に共感したのだ。
こうして始まった彼らの親交は途切れることなく続き、1990年にはプルナの息子の結婚式のために、ディランはプライベートでコルカタを訪れたという。

ここでもう一度時計の針を1967年に戻したい。
そもそもの話になるが、アルバート・グロスマンは、いったいどこでバウルのことを知ったのだろうか。
当時のアメリカでバウルが広く知られていたとも思えないし、流浪の歌い人であるバウルがグロスマンの行動半径にいたとも考えにくい。
おそらくだが、グロスマンは親交のあったビート詩人のアレン・ギンズバーグを通してバウルのことを知ったのではないだろうか。
ギンズバーグは、ヒップームーブメントから20年ほどさかのぼる1940年代末にニューヨークで勃興したビート文学(ビートジェネレーション、ビートニク)を代表する作家の一人だ。
ビート文学の作家たちは、自由な精神性、ドラッグの使用、東洋思想への傾倒などを特徴としており、ヒッピーたちにも大きな影響を与えた。
50年代にインドを訪れたことがあるギンズバーグは、コルカタに長く滞在してベンガルの詩人たちとの交友を深めたという。
ギンズバーグはそこでバウルの文化にも触れたようで、とくに2000曲ものバウル・ソングを作ったと言われる19世紀の伝説的なバウル、ラロン・シャーに大きな影響を受けたと言われている。
グロスマンがギンズバーグから、この街に暮らすプルナ・ダシュ・バウルについて聞いていたとしても、不思議ではない。

ところで、バウルの歌は、ベンガルが誇る大文学者タゴールにも多大な影響を与えていることが知られている。
というよりも、かつてはベンガルでも「奇妙な歌を歌う世捨て人」となかば蔑まれていたバウルは、タゴールが評価したことによって、その文化的価値が認められるようになったという。
 

タゴールが再評価し、ベンガルの詩人たちに受け継がれたバウルの文化が、ギンズバーグを介してボブ・ディランにまで繋がっているということになる。
アジア人で最初のノーベル賞受賞者タゴールと、シンガーソングライターとして初のノーベル賞受賞者であるボブ・ディランの両方にインスピレーションを与えたバウルの存在は、我々が考えるよりもずっと大きいのかもしれない。


ところで、ベンガル文化がニューヨークのカウンターカルチャーに及ぼした文化的な影響は、バウルからディランへの一方向だけのものではなかった。
ディランもまた、ベンガル、とくにコルカタの文化に大きな影響を与えているのだ。
2013年にリリースされた世界中のミュージシャンによるボブ・ディランのトリビュートアルバム"From Another World"では、プルナ・ダシュ・バウルは彼の代表曲のひとつ"Mr. Tambourine Man"を披露している。

歌詞もベンガル語に訳されており、言われなければオリジナルのバウル・ソングかと思ってしまうような出来栄えだ。

ベンガルにおけるディランの影響は彼のみにとどまらない。
コルカタのシンガーソングライターKabir Sumanはディランの代表曲"Blowin' in the Wind"(『風に吹かれて』)をベンガル語でカバーしている。


また別のシンガーによる『風に吹かれて』のカバーもある。

もはや完全にオリジナルなメロディーラインになってしまっているが、ディランがバウルの音楽性ではなく精神に影響されたように、この曲もディランが曲を通して伝えようとしたメッセージをカバーしているということなのだろう。

長きにわたりイギリスによるインド統治の中心地だったコルカタは、インドではかなり早くから英語のロックが受容されていた街だ。
とりわけディランは多くのミュージシャンたちに影響を与え、とくに詩人としてこの地で高く評価されているという。



ベンガルは、インド独立運動の中心地となった社会運動への意識の高い土地でもある。
そもそもこの地方がインドとバングラデシュの二つの国に分割されたのも、独立運動の勢いを削ぐために、イギリスがヒンドゥーとムスリムの居住地を分けて統治したことが原因だ。
ウエストベンガルは、インドのひとつの州となったのちも社会運動が活発で、長きにわたって共産党が州政権の座についていたことでも知られている。
1960年代のアメリカでプロテスト・フォークを代表する存在でもあったボブ・ディランが、こうした背景を持つこの地で高く評価されるのは当然と言えるだろう。

コルカタにはディランを讃えるこんなポエトリー・リーディングの音源まで存在している。


自らを「アメリカのバウル」と称したボブ・ディランと、そんなディランを詩人として讃えるコルカタの人たち。
そこには、何百年も前からアウトサイダーとして生きてきたバウルの文化と、20世紀のアメリカのカウンターカルチャーの旗手の心が重なって生まれた、美しい交流があったのだ。




参考サイト:
https://www.livemint.com/Leisure/qjaPL5lDYAtYJUrqeLdEkL/Bob-Dylan-and-the-Bauls.html

https://www.thequint.com/lifestyle/art-and-culture/tagore-bob-dylan-allen-ginsberg-connection-with-bauls-of-bengal

https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta


https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta

https://www.thehindu.com/entertainment/music/a-documentary-tracks-kolkatas-long-lasting-love-affair-with-bob-dylan/article31110327.ece

参考文献:
村瀬 智『風狂のうたびと バウルの文化人類学的研究』東海大学出版部 2017年
川内 有緒『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』幻冬舎文庫 2015年


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goshimasayama18 at 14:25|PermalinkComments(3)