インド映画

2019年06月20日

『パドマーワト 女神の誕生』はヒンドゥー保守反動映画なのか、という問題(前編)

(注:記事の性質上、映画のネタバレを含みます。未見でネタバレを望まない方は、ここでお引き返しください)

全国で公開中の歴史大作映画『パドマーワト 女神の誕生』(サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督)。
その美学とヒロイズムに貫かれた圧倒的な世界観については、以前このブログでも書いた通りだ。
「史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)」



「究極の映像美」という明確な売りがある映画とはいえ、その絢爛な舞台はヴェルサイユ宮殿ではなくラージャスターンのチットールガル城砦だ。
日本では、ほとんどの人が、「何それ?どこ?」という状況なわけで、日本の映画ファンが「インドの歴史大作」というなじみのないジャンルのこの作品をどう受け入れるのか興味があったので、映画を見た方がTwitterでつぶやく感想をたまにチェックしていた。
予想通り、「ディーピカーが神々しいほど美しかった!」とか「ランヴィールの狂いっぷりがすごかった!」とか「めくるめく映像美の酔いしれた!」といった、美や演技に関するものがほとんどだったのだが(『北斗の拳』を連想したアホーは私くらいだったようだ)、そのなかにいくつか気になるものがあった。

曰く、「冒頭に『サティ(夫に死なれた未亡人の焼身自殺)を推奨するものではない』とか言っておきながら、思いっきり殉死を美化してるのはいかがなものか」とか、「インドとパキスタン、ヒンドゥーとイスラームの対立が激化しているこのご時世に、アラーウッディーンを肉をむさぼりハーレムに女をはべらせるステレオタイプな悪役スルターンとして描くのはよろしくない」とか「バジュランギおじさんの爪の垢を煎じて飲ませるべき」といったもの。
「原作が古典なんだからしょうがないじゃん」とも思ったのだが、こういった感想はだいたいインドに詳しい方が書いているので「いくらスーフィー(イスラームの神秘主義者)の叙事詩が原作とはいえ」とあらかじめ断っていたりして、ぐうの音も出ない。
要は、インド社会の中でマイノリティーであったり弱者であったりするムスリムや女性に対しての配慮に欠ける、ヒンドゥーナショナリズム的で保守反動的な映画だという、実にまっとうな批判なわけだ。

確かに、こうした視点は重要である。
実際にこの映画はマレーシアでは「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったというし、インドでは公開前に「ヒンドゥーの王妃とイスラームのスルターンのラブシーンがある」という噂が立ち、逆にヒンドゥー至上主義者から反対運動が起きている。
『パドマーワト』はインドでもほかの国でも、宗教的なバックグラウンドと結びつけて捉えられており、日本のファンだけ能天気にそのへんの事情に無頓着というのも、あんまりよろしくないような気がする。

この問題についての私のスタンスを明確にしておくと、「古典が原作であり、過去が舞台である以上、現代の価値観と合わない部分があるのは仕方ない」というものだ。
インドの歴史において、かつては侵略者だったムスリムが、現在はマイノリティーであるというねじれた現実がある以上、こうした議論が避けられないのは致し方ないことだ。
映画を制作するうえで、必要以上に「ポリティカル・コレクトネス」にとらわれないバンサーリー監督の姿勢は、むしろ健全であるとも感じた。

それに、このストーリーの主人公は実質、ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンで、確かにステレオタイプな暴君として描かれているかもしれないが、それでもその描かれ方は、率直に言って非常にカリスマ的で「かっこいい」ものだ。
彼は『北斗の拳』のラオウや、『スターウォーズ』のダースベイダーのような、強さと誇りを併せ持った「愛すべき悪役」として描かれている。
ストーリー上、悪役として描かなければならないという前提のもとでは、最良の描かれ方をしているのではないだろうか。
この映画のなかでは、ことさらに宗教の違いが強調されているわけではなく、国と国、王と王との戦いがテーマであり、今回はその中の敵役がイスラームだった、ということだと解釈している。

とはいえ、これはヒンドゥーもイスラームもほとんど存在しない極東の島国での感想。
インドの現在の状況を踏まえた上で、「ナショナリズム的で反動的」という批判が的を射たものなのかどうか、できる範囲で確かめてみたいと思う。
そのためには、「ムスリムやインドの女性が、この映画をどう感じたのか」「この映画によって、イスラーム嫌悪や、女性蔑視的な風潮が強まったのか」を調べるしかない。
私にできるのはネットを使って調べることくらいだが、そんなわけで、今回は、インドを中心に、こうした観点から書かれているインドのメディアのレビューを紹介したいと思います。

 まずは、インドのニュースサイトScroll.inに掲載されたこの記事から。
"View from Pakistan: ‘Padmaavat’ puts together every stereotype of Muslims in India" 
(「パキスタンからの視点:「パドマーワト」はインドにおけるムスリムのステレオタイプの寄せ集め」)

パキスタン人の記者によるこの記事の冒頭では、パキスタンの教育では、南アジア地域の歴史のなかではヒンドゥー国家こそが暴君であって、イスラームの国家が人々を解放したと教えられていることが紹介されている。
そうした教育にもかかわらず、著者は、インド映画を見ることによって、ヒンドゥーの人々もまた自分たちと同じような良心のある人間だと知ったと述べている。
歴史教育や歴史の解釈は、ところ変われば真逆にすらなりうるもので、それでも人間の本質は地域や信仰によって変わるものではない、という「バジュランギおじさん」的な真理だ。
そのうえで、著者は、『パドマーワト』が美的な面では非常に優れていると認めるにしても、政治的な部分では人種差別的、性差別的、イスラーム嫌悪的だと指摘する。
この映画のなかのイスラームの描かれ方はあまりにもステレオタイプで、自分がかつてインド映画でヒンドゥー教徒を見て「彼らも同じ良心を持った人間」と感じたのとは真逆な、残虐な描かれ方をしている。
つまり、インドのヒンドゥーコミュニティに暮らす人々が、この映画を見ることによって、ムスリムに残虐な印象を持ちかねない、と危惧しているわけだ。
(著者は、「芸術は'ポリティカリー・コレクト'であるべきか」という論点にも触れており、必ずしもそうあるべきでないとしても目に余る、という意見なのだろう。) 
具体例として、ヒンドゥーの王ラタン・シンと王妃パドマーワティとの関係が愛に満ちたものとして描かれているのに対して、スルタンであるアラーウッディーンと彼の妻との関係は暴力的に描写されている点を挙げており、また夫への殉死であるジョウハルが解放の手段として描かれているなど、女性への重大な人権侵害を美化していると指摘している。
また、パドマーワティがラタン・シンの第二夫人だったという描写が欠けているという言及もあり、この記事は、『パドマーワト』におけるヒンドゥーとイスラームの描き方がフェアではないという批判なのである。

この記事に対する読者の反応がまた面白かったので、いくつかを抜粋して紹介する。
https://scroll.in/article/866261/readers-comments-was-the-portrayal-of-allaudin-khilji-in-padmaavat-islamophobic
(「読者コメント:『パドマーワト』におけるアラーウッディーンの描き方はイスラム嫌悪的だったのか?」)
  • 実際のアラーウッディーンは、野蛮というほどではないにしても、いくつもの国の侵略者であることは事実で、自らが国王になるために叔父を殺した人物である(=残酷な描かれ方もそこまで批判されるべきものではない、ということだろう)。アラーウッディーンの最初の妻は、歴史上は傲慢な人物だったが、劇中ではパドマーワティとラタン・シンを救う優しい人物として描かれている(=イスラームを好意的に描いている部分もある)。パドマーワティは指揮官の反対にも関わらず、単身デリーに乗り込んだ聡明で強い女性として描かれており、劇中の時代背景の中で名誉を守るために死を選んだからといって、それを今日の価値観で女性差別的だと考えるのは未熟である。
  • 著者の分析は正確。この映画は非常に反動的だ。
  • 著者は(名誉を守るための自死である)ジョウハルと、(夫の火葬の火に飛び込んで死ぬ)サティは全く別のものだと認識すべきだ。パドマーワティは自身が性奴隷となることを避けるために、自由意志で死を選んだ。女性蔑視的なのは著者のほうである。
  • 著者は考え不足だ。アラーウッディーンはムスリムとしてではなく、一人の常軌を逸した男として描かれていたし、映画を観に行く人はみんなそのことを理解している。パキスタン人であることが記者の視点に影響したのかもしれない。
  • これはあくまでも映画であって、歴史ではない。それに映画はジョウハルを賛美してもいない。 それは夫が戦争で殺された場合、女性が自分自身を守るためには死ぬしかなかったということを示しているだけだ。 ムスリムの描写に関しては、宗教に関係なく単に支配者として描いているだけであり、その支配者の信仰がイスラームだったということにすぎない。 アラーウッディーンは現在のインドだけでなく、現在パキスタンに属している地域も侵略していた(=現在の印パの対立に関連づけて考えるのはおかしいということだろう)。
  • (前略)いずれにせよ、私は『パドマーワト』を見に行くことはない。パドマーワティがジョウハルを恐れる描き方ならば見にいったかもしれないが。サティ廃止後150年が経った今、それこそが望ましい描かれ方だ。
  • この記事の見解は面白かったけど、映画のネタバレを含んでいるということが冒頭で触れられていなかったことを指摘したい。作品のレビューにネタバレを含むのであれば、免責事項として最初に書いてもらえると助かる。(=『パドマーワト』は最初に免責事項としてフィクションである旨やサティを美化していないことに触れているのだから、そのように見るべきだという皮肉か)
  • どうして記者は、アラーウッディーンの描写がムスリムの王としてのものであり、冷酷な一個人として描かれているのではないと考えるのだろうか?映画のどこで宗教について言及されているのか?記者の豊かな想像力のせいで、このレビューは過剰なものになっている。
  • この記事は新しい視点に気づかせてくれた。私はインドの都市部で育った53歳のヒンドゥー教徒だが、自分のまわりには多くの「反イスラム・バイアス」がある。著者は、このようにすでに偏ってしまっている社会の中で、この映画が、とくに若者によって、どのように解釈されるおそれがあるか、そして監督がどのような描写の仕方を選んでいるのかについて、優れた指摘をしている。私も、非論理的な部分では、反イスラム・バイアスを持っていた(今も持っているかもしれない)ことを認めざるを得ない。しかしパキスタンのテレビ番組を見て、そこに住む人々も我々と変わらないということを理解することができた。たとえこうした点に気づくのがインドのコミュニティの10%だとしても、今後の印パ関係をより良くし、ムスリムの性格のステレオタイプな解釈をしなくて済むようにしてくれたことについて、記者に感謝したい。

記者に同意する意見もいくつかあるが、アラーウッディーンの描写はムスリムとしてではなく一人の暴君としてのものであり、ジョウハルについても当時の歴史の文脈ので捉えるべきだという反論が目立つ。
ちなみに、名前を見る限り、ほぼ全てがヒンドゥー教徒からのコメントのようだ。


女優としての数々の受賞歴があり、サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督作品への出演歴もあるスワラ・バスカル(Swara Bhaskar)は、女性としての立場から、『パドマーワト』を批判している。
https://thewire.in/film/end-magnum-opus-i-felt-reduced-vagina
(‘At The End of Your Magnum Opus... I Felt Reduced to a Vagina – Only’ 「あなたの傑作は、結局のところ…女性器に矮小化されてしまっている…ただそれだけに」)

この批評で、バスカルは、バンサーリー監督への手紙の形式を取って、まず多くの反対運動にも関わらず、犠牲者を出さずに公開にこぎつけたこと、そして出演者のすばらしい演技に祝意をあらわしている。
そのうえで、この映画に登場する女性は、男性の「性の対象」でしかないという観点からの批判を繰り広げている。
彼女は、全ての女性には自分の人生を生きる権利があり、性的なだけの存在では決してなく、仮にレイプ被害にあったとしても人生は生きるに値することを強調している(つまり、女性が敵への服従よりも死を選ぶジョウハルの描写を批判しているわけだ)。
いくら冒頭で「サティを美化しているのではない」と宣言しても、都市部では女子学生が、農村部ではアウトカーストの女性がレイプされ、必死の抵抗にもかかわらず殺害されている現代のインドで、このような描き方をするべきではないと舌鋒鋭く主張している。
また、ジョウハルが決して遠い過去の話ではなく、印パ分離独立の際にも、女性が他宗教の男性からの性暴力から逃れるために行われており、決して大昔の歴史の一部として美化できるものではないとも述べた上で、それでも監督の表現の自由のためであれば、自分もともに戦うことを宣言して、手紙を結んでいる。


こうした批評を読むと、『パドマーワト』のムスリムや女性の描き方に対する意見の違いは、そもそもの視座が違いが理由となっていることが明らかになったと思う。
すなわち、批判的に見ている人たちは、この物語を現代の物語として見ており、アラーウッディーンの描写を残虐なムスリムのステレオタイプとして捉えている。
一方で、映画の描き方に問題がないと考えている人たちは、この物語を歴史を舞台にしたフィクションとして見ていて、アラーウッディーンの描写は宗教に関係のない暴君の典型だと捉えている。

客観的に見ると、アラーウッディーンがムスリムであったことは紛れのない歴史的な事実だが、バンサーリー監督は、この映画の中で信仰をことさらに強調する描き方をしないよう、気を配っているように思える。
強烈な悪役として描く以上、表現者としての配慮をしたのは確かだろう。
その配慮が十分であったのか、それとも、そもそもスルタンを暴君として描くこと自体、今日のインドではすべきでないのか、という問いとなると、もはや誰もが納得できる答えを出すことは不可能だ。

また、この視座の違いは、インド社会の中で弱者の地位に甘んじているムスリムや女性としての立場に基づくのか、それとも彼らの危機感の対象である、ヒンドゥーもしくは男性としての立場に基づくのか、という違いでもある。

マイノリティーからの「自分たちが脅かされるのではないか」という異議申し立てに対して、マジョリティーの側が「心配には及ばない」と答えているという図式である。
とはいえ、マイノリティー側は、直接的な影響ではなく、ムスリムや女性により抑圧的な「風潮」が静かに強まることに対して危惧を抱いているのだろうし、そういった風潮がこの映画のせいで強まったのかどうかということについては、これまた測りようがない。
(マイノリティーの危惧にはそれだけの理由があり、映画の評価とは別の部分で根本的な対策が必要であることは言うまでもないが)

それにしても、インドで、一本の映画に対して、メディア上でここまで健全な、成熟した議論が行われているということに、うらやましさすら覚えてしまうのは私だけではないだろう。
議論好きで理屈っぽいインド人の、最良の部分が出ている感じである。

次回、後編では、こう言ってはなんだが、さらに面白い『パドマーワト』批判と批評をお届けします。
歴史的な観点からの批判と、さらに心理学的な観点からの驚愕の映画分析!
乞うご期待!
(つづく) 


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2019年04月25日

史劇映画『パドマーワト 女神の誕生』はほぼ実写版『北斗の拳』だった!(絶賛です)

6月7日に待望の日本公開が決まったインド映画『パドマーワト 女神の誕生』(原題"Padmaavat"、ヒンディー語。配給Spacebox)の試写を、インド・イスラーム研究者の麻田豊先生と鑑賞するという素晴らしい機会をいただいた。
この作品はインド映画史上最高額の制作費をかけた超大作で、昨年インド国内で大ヒットを記録したもの。
これがまた最高だったので、今回は音楽を離れて、この映画の話題を書いてみたいと思います。

予告編はこちら

この『パドマーワト 女神の誕生』は、16世紀のラクナウ(現ウッタル・プラデーシュ州の州都)地方のスーフィー(「イスラーム神秘主義者」と訳される)詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤシーによる叙事詩を映画化したもの。
原作となった叙事詩は、13世紀から14世紀 にかけてのインド北部の史実を題材としたもので、今日でもインドで親しまれている物語だというから、さしずめ日本でいう「平家物語」とか「忠臣蔵」のようなものなのだろう。

この映画は当初インドで2017年12月に公開される予定だったが、ヒンドゥー至上主義団体からの抗議のために1ヶ月以上公開が延期され(わりとよくあることではあるが)、またマレーシアでは逆に「イスラームが悪く描かれている」という理由で上映禁止になったといういわくつきの作品だ。 
『女神の誕生』という邦題のサブタイトルや、「その"美"は、やがて伝説になる」というキャッチコピーは、バーフバリ以降急増している女性ファンを意識したものと思われるが、とことんこだわったというふれこみの映像美にも増して印象に残ったのは、愛や義や野望に忠実に生きる登場人物の苛烈で劇画的なかっこよすぎる生き様だった。


あらすじをごく簡単に説明してみる。
義を重んじるメーワール王国の王ラタン・シンは、シンガラ国(現スリランカ)出身の絶世の美女パドマーワティと恋に落ち、妃とした。
同じ頃、ハルジー朝では己の野望のためには手段を選ばない暴君アラーウッディーンが、国王である叔父を亡き者にしてスルターンの座につく。
パドマーワティの美貌の噂を聞いたアラーウッディーンは、王妃を我がものにすべくメーワール王国に攻め入るが、強固なチットール城に阻まれて退却を余儀なくされる。
だが、和睦を持ちかけると見せかけて奸計を仕掛けたアラーウッディーンは、国王ラタン・シンを捕らえ、デリーの居城に幽閉してしまう。
アラーウッディーンはラタン・シンの身柄と引き換えにパドマーワティをデリーに誘い出そうとする。
しかしパドマーワティの決意と機知、そしてアラーウッディーンの第一王妃メヘルニサーの計らいによって、ラタン・シンはデリー脱出に成功する。
だがこれでアラーウッディーンが諦めるはずもなく、ハルジー朝は秘密兵器を携えて再度のメーワールを侵攻する…。


ヒンドゥーのメーワール王国とイスラームのハルジー朝の戦いの物語ではあるのだが、物語の主眼は宗教同士の戦いではなく、劇画的なまでにキャラが立った人間群像の生き様だ。
戦いの場においてさえ信義を優先させる高潔なラージプート(インド北西部の砂漠地帯ラージャスターンの戦士)の王ラタン・シンと、より強大な権力を目指し、欲しいものは全て手に入れようとする暴虐なスルターンのアラーウッディーン。
対照的でありながらも、愚かしいまでに己の誇りのために生きる二人の王に対し、后であるパドマーワティーとメヘルニサーは、国の平和のために知恵と愛で難局に立ち向かう。
あまりにも熱く激しく、そして悲しい物語は、まるであの『北斗の拳』のような印象を受けた。

強大な力を持ち手段を選ばないアラーウッディーンは気持ちいいほどのラオウっぷりだし、美しさと優しさと強さを兼ね備え、強い男たちを虜にするパドマーワティーはユリアを彷彿とさせる。
ラタン・シンとアラーウッディーンが宮中で対峙するシーンでは、宿敵同士であるはずの二人から、王としての誇りを持った者同士の不思議な「絆」さえ感じられ、さしずめ往年の週刊少年ジャンプのごとく「強敵」と書いて「友」と読みたくなってしまった。
(『北斗の拳』をご存知ない方はごめんなさい。世紀末の暗殺拳をテーマにした武論尊原作の名作マンガがあって、今40代くらいの男性は夢中になって読んだものなのです)

インドの古典叙事詩が持つロマンと日本の少年マンガ的なヒロイズムに共通点があるというのは面白い発見だった。
普遍的な人の心を惹きつける物語の要素というものは時代や場所が変わってもあまり変わらないものなのかもしれない。

とにかく、荒唐無稽なまでのキャラクターを凄まじい迫力と美しさで演じきった俳優たちの演技が大変すばらしく、ものすごいテンションで観客を映画の世界に引き込んでゆく。
じつは、物語が転がり始めるまでの序盤は若干退屈な印象を受けていたのだが、後半の怒涛の展開、そして美しくも激しい圧巻のラストシーンを見終わってみれば、呆然とするほどの満足感にしばらく席を立てないほどだった。

アラーウッディーン役のランヴィール・シンは "Gully Boy"(こちらに詳述)の繊細な主人公役とはうってかわって、狂気に満ちたアンチヒーローを鬼気迫るほどに演じきっている(制作は『パドマーワト』のほうが先)。狂気的な野望の持ち主でありながら、夜空の下で詩を吟じたりもする姿は憎たらしいほどにかっこいい。
絶世の美女パドマーワティを演じるディーピカー・パードゥコーンは外見的な美しさはもとより、内面の美しさ、強さ、誇り高さまでも感じさせる演技で、絢爛な衣装やセットの中でもひときわ美しく輝いている。かなり保守的なものになりかねない役柄を、強い意志と機知とたくましさをもった女性として描いたのは、彼女の演技に加えてサンジャイ・リーラ・バンサーリー監督の手腕でもあるのだろう。
高潔なラージプートの王、ラタン・シンを演じたシャーヒド・カプールも義と誇りに生きる男の強さと悲しさを完璧に表現し、ランヴィールとの素晴らしい対比を見せている。

己のプライドに生きる男たちと同様に、いやそれ以上に強烈な印象を残すのが誇り高き王宮の女性たちだ。
美しく、賢く、強い意志を持った女性たちが、悲劇的なストーリーの中で見せる気高さは何にもまして際立っており、「ラージプートの男たちが強いのは、強い母がいるからですね」という台詞がとくに印象に残った。
また詩人や宦官の奴隷、王に忠誠を誓う戦士といった脇役たちもそれぞれキャラが立っていて、ストーリーに花を添えている。

「究極の映像美」というふれこみに違わず、もちろん映像も素晴らしい。
20年前に訪れたラージャスターンでは、乾燥した大地に映える極彩色の民族衣装が印象的だったので、映像美と聞いてめくるめく色の洪水を想像していたのだが、予想に反してこの映画の基調となるのはセピア色を基調とした深みのある映像。
広大な砂漠や壮麗な王宮、絢爛な衣装を落ち着いた色調で描いた映像は、この壮大な歴史ドラマにふさわしい重厚さを演出している。

以下、映画を見るときにぜひ注目して欲しい部分。
(ほとんどが麻田先生の受け売りですが…)

・制作途中に数々の抗議や脅迫を受けた映画というだけのこともあって、冒頭に長々とした免責事項の説明がある。曰く、「この映画の地名、言語、文化、思想、伝統、衣装…等はフィクションであり、いかなる信仰や文化も軽んじる意図はない。サティ(インドの法律で禁止されている寡婦の殉死の習慣)を推奨するものではない。動物が出てくるシーンにはCGが使われ、実際の動物は大切に扱われた」云々。ちなみに制作中には前述の反対の声もあったというものの、映画が公開になると評価はほぼ賛辞ばかりになったらしい。

・映画の中で詩人として言及されるアミール・フスローは13世紀〜14世紀にかけて活躍したスーフィーの詩人、音楽家で、カッワーリーの創始者、タブラの発明者でもあり、北インドの古典音楽であるヒンドゥスターニー音楽の基礎を築いた人物である。

・アラーウッディーンが叔父から贈られた従者カフールは、字幕では「贈りもの」としか書かれていないが、実際は当時のイスラーム王宮に多数いた宦官の奴隷という設定である。その後のアラーウッディーンへの同性愛を思わせる場面は、こうした設定が背景となっている。

・戦闘シーンではメーワール王国の太陽の旗とハルジー朝の三日月の旗が対照的だが、実際にメーワールの紋章は太陽とラージプート戦士の顔を象ったもので、三日月はイスラームの象徴である。

・この映画にも『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で見られたような、ムスリムがヒンドゥーに対してヒンドゥー式のあいさつ(お礼)の仕草(両手を合わせる)をし、それに対してヒンドゥーがイスラーム式に「神のご加護を」と言う場面がある。女たちによるこのシーンは、男たちの戦いを描いた映画のなかで非常に印象的なものになっている。

・パドマーワティだけが、鼻の中央にもピアスをしていたが、何か意味があるのだろうか。王妃という地位を表すもの?

・サブタイトルに「女神の誕生」とあり「パドマーワティが女神のように崇拝されている」との説明があるが、物語の中でも現実世界でも、神々の一人として崇拝されているわけではない。パドマーワティの人気はあくまで伝説上の人物としての尊敬であり、信仰とは別のものだ。

・映画の中で「尊厳殉死」という漢字があてられている「ジョーハル」は、戦争に敗北した際に、女性たちが略奪や奴隷化を防ぐために集団で焼身自殺するというラージャスターンでかつて見られた風習である(井戸に飛び込んだりすることもある)。冒頭の免責事項にあるサティは、寡婦が夫の火葬の際に、夫の亡骸とともに焼身自殺する風習で、法律で禁止されているものの近年まで行われていたとされる。

・映画では悪役として描かれているハルジー朝だが、この「デリー諸王朝時代」はヒンドゥーとイスラームの習慣や文化が融合し、多様な文化が発展した時代でもある。この時代を多様性や寛容の象徴として'Delhi Sultanate'というアーティスト名にしたのが、デリーのスカバンドSka VengersのフロントマンTaru Dalmiaだ。彼は昨今の宗教的ナショナリズムに反対し、BFR Soundsystem名義で社会的な活動にも取り組んでいる。
「Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス」

・サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督は音楽の才能にも恵まれており、この映画を彩る音楽も監督の手によるもの。インド古典音楽のエモーションとハリウッド的な壮大さが融合した楽曲が多く、作品をより魅力的なものにしている。とくに、物語の舞台となった北インド独特の力強いコブシの効いた古典ヴォーカル風の楽曲は必聴。

と、一度見た限りの印象(と麻田先生から教わった知識)ではあるが、ぜひこうした枝葉の部分にも注目して楽しんでいただきたい。


さすがに話題の大作というだけあって、昨年日本で英語字幕での自主上映が行われた時点でかなり詳しい紹介しを書いている方もたくさんいて、中でも充実しているのはポポッポーさんのブログ。
『ポポッポーのお気楽インド映画 【Padmaavat】』
史実や伝説との関係、上映反対運動のことまで詳しく書かれているのでぜひご一読を。


音楽ブログなので最後に音楽の話題を。
ラージャスターンの気高き戦士、ラージプートの誇りは現代にも受け継がれていて、ジョードプルのラッパーデュオ、J19 Squadは、以前このブログで行ったインタビューで、彼らのギャングスタ的なイメージについて、
「ラージャスターニーはとても慎ましくて親切だけど、もし誰かが楯突こうっていうんなら、痛い目に合わせることになるぜ。ラージプートの戦士のようにね」
と答えている。
 彼らの地元である砂漠の中のブルーシティ、ジョードプルの誇りをラップする"Mharo Jodhpur".
城に食べ物に美しい女性たち。地元の誇りがたくさん出てくる中、ラージプート・スタイルの口髭をぴんとはね上げた男たちも登場する。
これが問題のラージャスターニー・ギャングスタ・ヒップホップ。現代的なギャングスタにもラージプートのプライドが受け継がれているのだ。

地元のシンガーRapperiya Baalamと共演した"Raja"は、色鮮やかなターバンや民族衣装、ラクダに馬とラージャスターニーの誇りがいっぱい。

ラージャスターンのヒップホップについては何度か記事にしているので、ご興味があればこちらもお読みください。
「インドいち美しい砂漠の街のギャングスタラップ J19 Squad」
「忘れた頃にJ19 Squadから返事が来た(その1)」
「魅惑のラージャスターニー・ヒップホップの世界」

本日はここまで!
麻田先生、このたびは本当にありがとうございました!


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2018年08月01日

インド映画音楽 リミックス&カバーの世界!

改めまして、軽刈田凡平です。
このブログでは、インドの娯楽の一大産業である映画音楽とは関係なく、自分たちの表現したいことを自分たちのやり方で表現している、ロックやヒップホップなどのアーティストを紹介しています。
ご存知のようにインドの映画についてはかなり日本にも紹介されるようになったのだけど、コンテンポラリーな音楽シーンに関してはまだまだ情報が限られているので、広いインドの全てをカバーできるわけではないけれども、これぞと感じたものを書かせてもらっています。
(最近コアな内容が続いたので、改めての所信表明)

さて、今回は、そんなインドの音楽シーンのメインストリームである映画音楽に対してのインディーズのミュージシャンからのアプローチ!というテーマでお届けします。
(それなりに資本が入ってそうなものが多いので、ここで取り上げるミュージシャンたちが厳密な意味でインディーズと言えるかどうかは不明だけど、今回はひとまず非映画音楽=インディーズという乱暴なくくりで進めますのでよろしく)

このブログの記念すべき第1回目で紹介したデリーのトラップ/ダンスミュージックのアーティストSu Realは、その後Amazon Primeのインド版による懐かしのボリウッドソングのリミックス大会、その名も「The Remix」という番組に出演し、歌手のRashmeet Kaurとのコンビで見事優勝!
その番組内でのSu Realのパフォーマンスの様子はこちら。

リミックスっていうか、カバーだわな。

こっちが原曲。
どうやら1999年に公開されたボリウッド映画の挿入歌らしいが、なんでリミックスのほうはみんなコックさんみたいな格好をしていたのか、ちょっと謎。


こちらはまた別の出場者がリミックスした98年ごろのボリウッドのヒット曲、"O O Jaane Jaana".


原曲はこちら。
当時この曲をムンバイで聴いて、ギターのフレーズが入っててずいぶん洒落た曲だなあ、と思ったものだけど、いま聴くとやっぱり猛烈に垢抜けないね…。


この番組、他にもDivineらとの共演でも有名なトラックメーカーのNucleya等、大物が参加していたようで、現代的なダンスミュージックに生まれ変わった懐かしの映画音楽に審査員も観客も盛り上がっていた模様。

この優勝を受けてRolling Stone India誌がSu Realに行ったインタビューによると、映画音楽が支配的なインドの音楽シーンに批判的なインディーミュージシャンが多い中で(後述)、彼は「ボリウッドはいつだってトラップやダンスホールといった新しい音楽を取り入れてきた」と肯定的な意見を持っている模様。
まあ、受賞インタビュー的な状況で否定的なことも言えないとは思うんだけど(一応、最近のあまりにも形式化したボリウッドのヒットソングにはちょっと苦言を呈している)。

いずれにしても、映画こそが娯楽そして音楽のメインストリームであるインドでは、誰もが知ってる名曲や、懐メロ的なものは全て映画音楽。
ポピュラーな曲をカバーしようと思ったら、おのずと映画音楽の一択となるのは当然なのだ。
調べてみると、他にも現代的な方法で懐かしの映画音楽をカバーしている人たちというのはたくさんいるので、ちょっと紹介してみます。

アカペラグループのPenn Masalaも、40年代から最近のものまでのボリウッドの名曲をメドレー形式でカバーしているこんな動画を作っている。

時代ごとの特徴をつかんだ衣装の変化も楽しい!
元ネタはグループ名を含めてアメリカのアカペラグループPentatonixのEvolution of Musicだろうが、インドの(ヒンディー語の)ポップミュージックの進化を辿るとなると、すべてボリウッド映画で間に合ってしまう(っていうか、それ以外ではできない)っていうのがインドの音楽シーンの歴史。

また別のアカペラグループ、Voctronicaは、タミル映画の音楽からスタートして、今ではインド、いや世界を代表するミュージシャンの一人になったA.R.Rahmanの音楽を同様のメドレーでカバーしている。


もし何かお気に入りのインド映画があったら、Youtubeで「映画や曲のタイトル(スペース)cover」 で検索してみてみるといい。
人気のある映画の曲なら、セミプロ風からアマチュアまで、いろいろなバージョンが聞けるはず。

また洋楽のカバーもなかなか面白くて、数ある洋楽曲の中で、なぜかインド人がやたらとカバーしている曲というのがある。
私の知る限りだと、以前このブログでも取り上げた"Despacito"や、少し古いところではGuns and RosesのSweet Child of Mine.



これらの曲になにかインド人の琴線に触れるものがあるんだろうか。
確かにガンズのほうは、こうやって聴くとどれもインドっぽいアレンジがかなりはまっている。

話を映画音楽に戻します。
これまでインドのインディーズミュージシャンのことをいろいろ調べてきて感じたことだが、彼らの映画音楽に対する反応は、一様に無関心というか、映画産業と距離を取るようなものだった。
その背後には、映画音楽は、音楽そのものとして純粋な表現ではなく、あくまで映画のために作られた商業主義の音楽であって、ミュージシャンの独立性、自主性を損なうものである、という考え方があるように思う。
ラッパーのBrodha VがSNSで映画音楽中心のインドの音楽シーンに対する抗議を訴えていたことは記憶に新しい。

ちょうど、80年代頃までの日本のロックミュージシャンから見た「歌謡界」のような、戦い甲斐のある巨大な仮想敵のような存在として、映画産業がある。
もはや何が主流でカウンターか分からない日本の混沌としたミュージックシーンから見ると、こうしたシンプルな構図はなんかちょっとうらやましくも感じてしまう。

とはいえ、Su Realが言うように、インドの映画音楽もいろいろな音楽を取りいれてどんどん進化しているし、映画産業から声がかかるラッパーやインディーミュージシャンも増えていて、今後双方の垣根はますます低くなってゆくのではないだろうか。
5年度、10年後のインドの音楽シーンはどうなっているのだろう。
今後の映画音楽とインディーミュージックのパワーバランスにも要注目!


ではまた!


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goshimasayama18 at 22:59|PermalinkComments(0)

2018年05月07日

ここまで熱狂するか!インドのプロレス団体Ring Ka King!

今まで、このブログではインドと音楽をテーマにいろいろなことを書いてきたわけだが、アタクシの幼少期から学生時代にかけて、音楽以外で大きな影響を受けてきたものといえば、それはプロレス。

「超獣」「不沈艦」「黒い呪術師」「皇帝戦士」「人間魚雷」「殺人医師」。
…大仰な異名のガイジンレスラーが暴れまわっていたあの頃、リングはまさに戦いのワンダーランドだった(遠い目)。

インドとプロレスといえば、まず思い出すのはもちろん「インドの狂える虎」タイガー・ジェット・シン。
新宿伊勢丹前猪木夫妻襲撃事件、ザ・ファンクスとの流血マッチ等、数々の伝説を残し、ブッチャー、シークと並んで昭和の3大ヒールと称されることはみなさんご存知だろう(ご存知でなくても別にいいけど)。
今でも新宿伊勢丹と聞くと、オシャレでハイソなイメージよりも、シンの襲撃事件を思い出してしまう40代以上の男性は多いと聞く。

まあとにかく、インドとプロレスを結びつけるものはタイガー・ジェット・シンくらいしか無かったアタクシは、長らくインドとプロレスを脳の別々の場所に記憶して生きてきた。

ところが数年前、この2つの記憶に新たな接点が生じる出来事があった。
それは、「スラムドッグ$ミリオネア」の原作者でもあるインド人作家、ヴィカス・スワループの「6人の容疑者」という小説を読んでいたときのこと。
登場人物の一人で、無教養でお人好しのアメリカ人観光客「ラリー・ペイジ」が、インド人女性との結婚詐欺に引っかかったときに、いきなりこんなことを言い出したのだ。
「俺は泣き虫じゃない。最後に泣いたのはずっと昔、1998年のことだ。WWEの有名な“ヘル・イン・ア・セル”の試合で、マンカインド(またの名をミック・フォーリー)がジ・アンダーテイカーに負けたときだ。あのときは胸がしめつけられたみたいに苦しくて、母さんの膝に抱きついて思いっきり泣いた。」

WWEは、ご存知の方も多いと思うが、世界最大の規模を誇るアメリカのプロレス団体。ストーリーやキャラクター重視の「スポーツ・エンターテインメント(ショーとしてのプロレス)」を掲げ、世界中で人気を博している。

著者のスワループは外交官で、大阪のインド領事館の総領事を務めたこともあるエリート中のエリートだ。
そんな彼の著作に、アメリカ市民の中では無教養な庶民の娯楽とされるアメリカン・プロレスについてのずいぶん具体的な記述が出てきたので、非常に驚いたものだった。
確かに「マヌケなアメリカの貧乏白人」の独白としては良くできたセリフだが、このやたらと具体的な記述のニュアンスをインドの読者は理解できるのだろうか?スワループはWWEマニアなのか?
大いに違和感を感じたのを覚えている。

とはいえそんなことはまた忘れたまま月日は流れ、つい数ヶ月前にこのブログでも取り上げた、インド北東部トリプラ州出身のラッパー、Borkung Hrangkawl(BK)のスポークンワードを聴いたとき、またしてもびっくりした。

この中で確かにBKはこう言っている。


“Don't mind me saying this but is this is some kinda freak show. Its' like we are Rey Mysterio and you're the Big Show.”


このラップはインドの主要地域(メインランド)に差別され続ける北東部諸州の状況を訴えるためのものだ。
ここで取り上げられているレイ・ミステリオは90年代から00年代にかけてWWEで活躍したメキシコ系の小柄なレスラーで、体格的には軽量級ながらも、華麗な跳び技を活かしてヘビー級のチャンピオンベルトを巻いたこともある人気選手だ。
一方のビッグ・ショーも同時期にWWEで活躍した213cm、200kgの巨漢レスラー。
このラインは「人口も少なく権力も弱いトリプラ州の俺たちがインドの主要地域にモノ申すのはまるでレイ・ミステリオvsビッグ・ショーの試合みたいだ」という文脈ということになる。

これは「規模は小さくても見くびるな。お前を倒す力はある」という意味なのか、それとも「筋書きのあるWWEの試合ならともかく、現実の社会では弱者が強者に勝つことはできない。それなのにこんな残酷ショーを続けるのか」という意味なのか。
いずれにしてもとても印象的なリリックだ。


とは言うものの、果たしてこのラップの主なリスナーであるインドの人たちは、こうしたWWEのレスラーのキャラクターまで理解して、リリックの意味を咀嚼することができるのだろうか。
分かる人にだけ分かればいい、ということだとしても、それなりの割合で「分かる人」がいなければこんな表現はしないだろうし、そもそもBK本人が相当なWWEファンでなければこんな表現は思いつかないはずだ。
BKもまた、WWEマニアなのか?

これまた驚きと違和感を感じたものだった。

そしてその驚きと違和感は、徐々に疑問に変わっていった。
「ひょっとすると、インド人はプロレスが大好きなのではないだろうか?」

そう考えてみると、確かにいろいろと思い当たるふしがある。
インドの男性俳優ってみんな無駄にマッチョだし、少し前まではほとんどの娯楽映画に必ずアクションシーンが入っていた。
キャラの立ったマッチョマンがリング上で戦いとドラマを繰り広げるアメリカン・スタイルのプロレスを、インド人が好きにならないはずがない。

問題は、そのWWEをインド人がどれくらい見ることができるかということだが、インドでも中流階級へのケーブルテレビの普及は凄まじいというし、今やWWEはインターネットで視聴することも可能だ。

インドでプロレス熱が高まっているとしても不思議ではない。

さらに、最近のWWEでは「ジンダー・マハル」や「グレート・カリ」といったインド系レスラーが活躍していると聞く。
世界中をマーケットとするWWEでこれだけインド人レスラーがプッシュされているということは、それだけインドの市場(もしくは在米インド系移民。アメリカのプロレスはイタリア系、メキシコ系などの移民社会を代表するレスラーが活躍してきた歴史を持つ)が意識されているということだ。


これはもしかしたらインドにもプロレス団体があるのかもしれない。
例えばメキシコという国は、先住民の伝説をもとに幾多のマスクマンを生み出し、独創的なプロレス「ルチャ・リブレ」を生み出したが、インドも独自のアクの強い文化には事欠かない。
インド人が本気でプロレスを始めたら、すごいことになるのではないか。
そう思って探してみたら、驚くべき団体を発見!

マハーラーシュトラ州、プネーを本拠地とする団体、その名もRing Ka King!

完全なWWEスタイルのエンタメ・プロレスで、とにかく観客の熱狂が凄い!


このRing Ka King(「リングの王」という意味のようだ)は、元プロレスラーにして、アメリカで2番手のプロレス団体「TNA(現Impact Wrestling)」の創設者としても知られるジェフ・ジャレットが設立した団体らしい。
WWEに代表されるアメリカン・スタイルのプロレスを完全に踏襲して披露している。

この動画は2012年の団体立ち上げ時のもの。
選手はインドのレスラーに加えて、WWEやTNAでかつて一線級の人気を博していた錚々たるレスラーが名を連ねており、ジェフの力の入れようが伺える。
アタクシも新日でも活躍していたスコット・スタイナーが入場してきたときはちょっと興奮してしまった。

セクシーな女性達のボリウッド・ダンスから始まり、国民的スポーツであるクリケットのスター選手が出てくるオープニングは、WWE的エンタメ・プロレスの見事なインドへの翻案。


実況が英語ではなくヒンディー語なのは、アメリカでプロレスが「無教養な層の大衆娯楽」であるという位置付けをインドでも獲得しようとしているものと考えられる。

試合(23:48から!)を見ると、まだまだインド人レスラーはレスリングが下手だし、試合自体も非常に大味で、下手なアメリカン・プロレスといった内容だが、観客は大いに盛り上がっている。
 

仕掛け人のジェフ・ジャレットは、GFW(Global Force Wrestling)という団体も創設し、数年前に新日本プロレスとも提携してリングにも上がっていたので(その後、この団体は消滅した模様)最近のプロレスファンでもご存知の方がいるかもしれない。
WWEの独占状況が続くアメリカのプロレス界に対抗して、ジェフがインドや日本といった魅力ある市場を開拓しようとしているようにも見える。
(一方で、業界トップのWWEは成長する中国市場を見越して中国人レスラー王彬(ワン・ビン)を獲得している)
 

この熱狂ぶりと潜在的な市場規模(人口)から考えたら、インドはアメリカ、日本、メキシコに次ぐ第4のレスリング大国になるポテンシャルも十分にあるのではないかと思う。

インドの文化的多様性を考えると、例えばコルカタのリクシャー引きとか、ヒンドゥー原理主義者とか、イスラムのテロリストとかいろんな面白いレスラーが出てきても良さそうなものだけど、出てくるレスラーはせいぜいパンジャーブ出身とかアピールする程度。
さすがに政治や差別や宗教が関わる問題はタブーなのだろう。
WWEでは湾岸戦争のときに悪役レスラーとしてフセインのそっくりさんが出てきていたけど、インドのプロレスでパキスタン系レスラーが悪役として出てきたらやだな。


このRKKはインド西部マハーラーシュトラ州(ムンバイと同じ州)の大学都市プネーを拠点にしている団体だが、なにしろ国土が広く言語や文化も多様なインドのこと、いずれインドも、かつてのアメリカのように各地にプロレス団体が乱立するようなことになるのかもしれない。 


…今日もついつい熱くなってしまったけど、本や音楽をきっかけにインドのプロレス界を覗いてみたという話でした。
最後にもうひとつだけ。
小説の中にプロレスが出てきた話といえば、インドとはまったく関係のないけど、インドネシアの小説「虹の少年たち」を読んでいたら、こんな文章に出くわして驚いたことがある。
びっくり度合いで言ったら、こっちのほうが衝撃は大きかったな。

ようやく、僕の後ろにスペースができ、身動きが取れるようになった。僕はこの一瞬を逃さず、残っているすべての力を振り絞ってサムソンの股間のところに一直線にキックを繰り出した。それはまるで、一九七六年に日本のプロレスラーであるアントニオ猪木がモハメド・アリと対戦した時に見せたあの必殺のキックのようだった。

なんの前振りもなく、猪木の「アリ・キック」が比喩として使われている!
インドネシア人は「あの必殺のキック」と言われて、「ああ、あれのことね」と分かるのだろうか。
この小説の中で、唐突にプロレスに関する記述が出てきたのはこの1箇所だけ。
あの「世紀の凡戦」と言われた一戦を、インドネシアの人たちはどのように捉えたのだろうか。

だんだん何を話しているのか分からなくなってきたけど、RKKとインドプロレス事情、音楽じゃないけど面白そうなので、今後も注目してゆきたいと思います。


それからT.J.シンや、馬場の生涯唯一の異種格闘技戦の相手ラジャ・ライオン、グレート・カリ(ジャイアント・シン)、ジンダー・マハルといったインド系レスラーたちについても、いつかは掘り下げて取り上げてみたいと思います。


それではまた!


ムダにマッチョなインド人俳優
渋谷でやってた「インド映画祭」で飾られてた、ムダにマッチョなインド人俳優たちの写真。


goshimasayama18 at 00:12|PermalinkComments(0)

2018年04月05日

ケララのスラッシュメタルバンドChaosが映画音楽に進出!

前回書いたジョードプルのギャングスタラップ集団、J19 Squadにインタビューを申し込んだ件、コンタクトはできて返事は来たのだけど、具体的なアポイントには至らなくて、ひとまず「ミュージックビデオにあるようなギャングスタライフはリアルなのか、フィクションなのか」といったような質問事項を送って返事を待っているところです。
果たして進展はあるのでしょうか。
ということで今回はまた別の話題。

「哲学は神学の婢(はしため)」と言えば中世ヨーロッパの学問の序列を表した言葉だが、同じようにインドのエンターテインメントの世界を表現するとしたら、「音楽は映画の婢」ということになるだろうか。

Brodha VがFacebook上で、音楽よりも映画ばかりが注目される状況を痛烈に批判していた通り、インドの音楽シーンは、「映画音楽=メジャー」「非映画音楽=インディー」と言ってほぼさしつかえない構図になっている。
この状況下では、映画とは無関係に、ほんとうに自分の表現したいものを追求している作家性の強いミュージシャンは、いくら質が高い作品を作ってもなかなか注目されないわけで、アーティストたちが怒るのも無理のないことだろう。

ただ、だからこそというか、そうしたアーティストたちは、SoundcloudやBandcampといったサイトを通じて積極的に音楽を発信しており、またライブの場も大都市では増えてきているようで、急速に面白いシーンが形成されているのは今まで見てきた通り。

一方で、映画の側から、活気づいている音楽シーンにアプローチする例も見られ、いまやムンバイの大スターと言えるDIVINEの半生をもとにした映画が作られたり、Brodha Vにも映画の曲が発注されたりしている。

こうした傾向は、とくに人気が著しいヒップホップだけかと思っていたらそうでもないようで、映画音楽からは最も遠そうなヘヴィーメタルシーンにも映画業界が触手を伸ばしているようだ。

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つい先日、インド最南端のケララ州のスラッシュメタルバンドChaosが、Facebookでマラヤラム語(彼らの地元ケララ州の公用語)映画のための音楽を作ったぜ!と言っていたのでさっそくその曲とビデオを見てみた。
Chaos "Vinodha Jeevitham" .

いつもは英語で歌っている(っていうかがなっているっていうか)バンドだが、今回は映画に合わせてマラヤラム語の歌詞で、作詞も外部の人が手がけたようだ。
映画の曲ということで、メタルに合わせて大勢でダンスしたりしていたらどうしようと思っていたが、幸か不幸かそういうことにはなっておらず、ちょっと安心したというか残念というか、なんとも複雑な気持ちにちょっとだけなった。
この映画は犯罪映画かホラー映画のようで、不穏な感じの映像には確かに彼らの音楽が合っているように感じる。
調べてみるとS DurgaというのはSexy Durgaという意味のようだが(ドゥルガーはヒンドゥー教の戦いの女神で、この映画のヒロインの名前でもある)、Sexyという単語を使わないのは保守的な市民感情に配慮してのことだろうか。
インドでもメタルやヒップホップの歌詞では、かなり過激な表現もされているが、あくまで大衆向けのエンターテインメントである映画では、このレベルの配慮が必要ということなのかもしれない。

この映画からもう1曲。Olicholaakasham.
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Chaosは「Rolling Stone Indiaが選ぶ2017年度ベストビデオ」の10位に選ばれた "All Against All"という曲が印象に残っているバンドで、泥の中で荒くれた男たちが取っ組み合う映像に「いかにもなメタルだなあ」という感想を持ったものだけれども、歌詞やなんかを調べてみると、社会の分断や抗争といった真面目なテーマを扱っているバンドだということが分かった。

これがいつもの英語で社会を歌う(っていうかガナる)Chaos. 

生まれた場所や肌の色を理由として、国の中に差別や断絶が生まれ、全てが対立する。
というのがこの曲の歌詞の趣旨。
こうした硬派で激しい表現をするバンドに映画業界が着目したというのはなかなか面白いように思う。

余談だけど、インド映画を紹介する際によく使われる「ボリウッド」という言葉は、ハリウッドのHの代わりに映画製作の中心地ムンバイの旧名ボンベイのBを頭文字につけたことから来ていて、一般的にはヒンディー語の映画を指している。
首都デリーを含む地域で話され、インドで最も話者が多いヒンディー語映画は製作本数も多いためにボリウッドという言葉が有名になっているけれども、南インドのタミル語映画は「コリウッド」、東インドのベンガル語映画は「トリウッド」、マラヤラム語映画は「モリウッド」と、それぞれの州の都市名をもじって呼ばれることもあるようだ。あんまり聞いたことないけどね。

インドの映画と音楽をめぐる関係はまだまだ面白くなりそうなので、また気になるトピックがあったら紹介します!

goshimasayama18 at 00:21|PermalinkComments(0)

2018年03月17日

Brodha Vから映画偏重の音楽シーンへのプロテスト

少し前の話題になるが、バンガロールを拠点に活躍するラッパー、Brodha VがFacebookにこんなコメントを載せていた。

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「インドの音楽TVチャンネルは最悪だ! 彼らは曲の名前と映画のタイトル、レコードレーベルの名前を挙げても、絶対に作曲者や歌手の名前を挙げるなんてしやしねえ!
ついでに言うと、この国の役者連中は映画の中で踊ったり歌ったりしてえんだったら、歌も踊りもちゃんと稽古しろってんだ!おめぇら、口パクしたり、ズブの素人みたいにセットのあっちからこっちまで歩いたりしてるんじゃねえよ!このギョーカイの奴らと来たら、歌い手や作曲家や音楽ってもんへのリスペクトってもんに欠けてるんだよ!連中は映画を売ることにしか興味がねえんだ!
こんな音楽シーンのメインストリームとは別々にやらせてもらいたいもんだね!歌手も作曲家もシャー・ルク・カーンだのサルマン・カーンだのっていう映画スターほどビッグじゃないのってインドくらいなもんだぜ! ほんのちょっとの敬意とファンを得るために、ろくに歌えない役者連中じゃなくて誰が本当に歌ってるのかってのを調べなきゃいけないっていうのもインドだけ!」


最近寄席通いが続いてるもんで、つい落語っぽい口調になってしまったが、Brodha Vの旦那はまあこういうことを言っているわけだ。
良し悪しは別にして、インドのエンターテインメント産業が映画を中心に発展してきて、音楽はその添え物(挿入歌)としてずっと扱われてきたというのは事実。
いくら素晴らしい作品を作っても、音楽単体として作られたものは紹介される機会が少なく、映画のために作られた楽曲ばかりが注目される現状は確かに音楽にとっては不健全な状況だ。
エンターテインメントのフォーマットそのものが「映画とその音楽」という構造で出来上がっていることに対して、新興ミュージシャンから不満が出るのは当然と言えるだろう。

インターネットの発達で、主流メディアに乗らなくても作品をアーティストが発表できるようになり、またリスナーも映画音楽以外の音楽に触れる機会ができ、趣味が多様化したことで、インドのインディーズミュージックシーンは爆発的に発展してきている。
しかしながら、まだまだ映画中心のメインストリームはインディーズミュージシャンから見て戦い甲斐のある仮想敵なのだろう。
なんとなく、80年代あたりの日本のロックミュージシャンの「俺たちはテレビになんか出ねえよ」みたいな、いわゆる芸能界とは一線を引いたスタンスに近いものを感じないでもない。

5年、10年経った時にこのBrodha Vの発言を見返してみて「あの頃からあんまり変わってないね」と思うのか、「そんな時代もあったんだねえ」 と思うのか。
後者になる可能性が高いように思うが、さて、どうなるでしょう。 


goshimasayama18 at 14:54|PermalinkComments(0)

2018年01月20日

「バーフバリ」の何に驚いたかっていうと…


なにかと話題になっているバーフバリ2部作の完結編「王の凱旋」。

上映館もだいぶ少なくなってきたようではあるけど、まずは前編の「伝説誕生」で「おおっ!」と思った話をひとつ。

 

この映画、そもそも日本ではマイナーなテルグー語映画だっていうこととか、ハリウッドばりのVFXとか戦闘シーンとか、長すぎる回想シーンとか、気になるポイントはたくさんあって、いろいろ書きたいところなんだけど、個人的にいちばんびっくりしたのは主人公シヴドゥがヒロインのアヴァンティカに一目惚れしてアプローチをかけるこのシーン。

 

川べりに横になり、戦いで傷ついた手を清流の水にひたす女戦士アヴァンティカ。その傷を癒すかのように美しい小魚たちが寄ってくる。そこにシヴドゥが水の中をにやにやしながら泳いでやって来る。シヴドゥは魚たちに混じって、ペンでアヴァンティカの手に美しい模様を描く。アヴァンティカは自分の手に水中で模様を描かれたことをまったく気づかない。

その夜、アヴァンティカは自らが属する軍のアジトで王妃救出作戦に立候補。しかし、彼女の手の美しい模様を見たリーダーは、そんな色気づいてる奴には任せられんとこれを却下する。

ここで初めて模様に気がついたアヴァンティカ。誰だ、こんな余計なことした奴は。やった奴、ぶっ殺す。翌日、アヴァンティカは木の上から件の川に向かって弓矢を構えて不届き者が現れるのを待つ。すると、またしても彼女の背後に全く気づかれずに回り込んだシヴドゥは、竹筒からきれいな色の小さなヘビを出して彼女の腕につたわせる。ヘビは腕から弓をつたって矢にからみつき、首をもたげてアヴァンティカをじっと見つめる。ヘビに気を取られるアヴァンティカ。その隙にシヴドゥはまたしても気づかれぬように彼女の肩に美しい模様を描くのだった…。

我に返ったアヴァンティカは振り返るが、そこにはもうシヴドゥはいない。肩の模様に気がついたアヴァンティカは、描いたものに対する怒りを新たにするのだった…。

 

…何ですかこれ?どうゆうことですか?ちょっと分からなかったんですけど。

手とか肩に絵描かれて気づかないなんてことあるかよ。

水の中で描けるインクはどんな素材なのか。あとあのかわいいヘビ、いつの間に言うこと聞くように仕込んだんだ。

…といった無粋な突っ込みは止めにしよう。

 

だってこれ、神話的表現ってやつなんでしょう。

大昔から伝わる神話だから、こういうありえないようなエピソードも入っているんでしょう。

 

と思ってたら、違った。

この「バーフバリ」は「インドに昔から伝わる伝説の映画化」ではなくて、神話風の世界を舞台にした、言ってみれば「新作の神話」。

つまり、この場面も昔話みたいなやつの映像化ってわけじゃなくて、現代の監督やスタッフが考えて撮ったシーンだった…。

「果敢な女戦士に気づかれないように愛の表現を伝える一枚上手の主人公と、それに反発するヒロイン」っていうシーンを表したいんだったら、いろんな方法があると思う。

でも、これだけ最新のVFXを駆使した映像を撮る洗練されたスタッフたちが、これがベストって考えて、撮ったってことでしょう。

これはいったいどういうことなのか。

 この映画、当然ながら、決してキワモノ的人気を博したわけではなくて、正真正銘のインドの大ヒット映画。

南インド映画にしては珍しく北インドを含めたインド全域でヒットしたって話だし、海外でも非常に良好な興行成績だったと聞く。

ということは、ITやら医者やらで活躍している在外インテリインド人たちも含めて、あらゆる地域、階層のインド人にとって、このシーン違和感なく受け入れられたということ。


きっとインド文化の中で生まれ育たないと分からない、DNAレベルでの詩的かつ神話的な何かが、このシーンにはあるような気がする。

どれだけIT産業が発展しても、どれだけ在外インド人たちが国際的に活躍しても、遺伝子に組み込まれた神話的なセンス。

次回は、そんな神話感がどうしようもなく迸っている音楽の話を書こうと思います。

それでは!



goshimasayama18 at 23:55|PermalinkComments(0)