ドキュメンタリー

2020年06月14日

6月20日(土)ポレポレ坐(ポレポレ東中野1階)にて『タゴール・ソングNIGHT』開催!!



タゴールソングNight6.20



というわけで、6月20日(土)ポレポレ東中野1階の「Space & Cafe ポレポレ坐」にて、『みんなで聴こう!!タゴールソングNIGHT タゴールからバウル、ボブ・ディラン、ラップまで ー現代ベンガル音楽の系譜ー』を開催します。

  • 『みんなで聴こう!!タゴールソングNIGHT タゴールからバウル、ボブ・ディラン、ラップまで ー現代ベンガル音楽の系譜ー』
  • 6月20日(土)17:30 オープン、18:00 スタート(終了は21:00の予定ですが途中入退場自由です)
  • 会場:ポレポレ東中野1階 「Space & Cafe ポレポレ坐」
  • 1ドリンク付き 2000円
  • ご予約はこちらから:
  • https://pole2za.com/event/2020-6-20.html
  • コロナウィルス感染拡大へ対策として、定員を通常の50%の50名とさせていただきます。ご来場時は必ずマスクをご着用くださいますよう、お願いいたします。咳や発熱、その他体調に不安のある方はご来場をお控え下さい。
  • お問い合わせ TEL:03-3227-1445 MAIL:polepoleza@co.email.ne.jp

分かりやすいイベント名にしようとしたら、めちゃくちゃ長い寿限無みたいなタイトルになってしまいました。
タゴールにつながるベンガルの精神が、現代にどのようにに生きているのか、ベンガルの歴史やポップカルチャーに触れながら、いろんな楽曲とともに紹介したいと思っています。
先日のトークでも紹介したようなタゴール・ソングの現代風カバーや、独立後のコルカタやバングラデシュのインディー音楽(映画のために作られた音楽ではなく、その時代の若者たちが自発的に作った音楽)などを流しながら、佐々木監督、大澤プロデューサーと楽しいトークをする予定です。

(先日のイベントの様子はこちら)
 

そして、映画にも出てきたベンガル地方の流浪の行者/吟遊詩人であるバウルとボブ・ディランの関係や、こちらも映画で注目を集めたベンガルのラッパーやクラブミュージックなども紹介する予定。
意外なほど洗練された現代コルカタのアーティストたちをお楽しみに!
もちろん、撮影の裏話や、映画の登場人物の話題なども佐々木監督に話してもらいたいと思っています。
ここでしか聞けないトーク、聴けない音楽は、映画を見てから来ても、見る前に来ても楽しめること間違いなし!
ぜひみなさんお越しください!!

ご予約はこちらから!



ちなみに、このイベントのポスターに使われているタゴールのイラストは、新井薬師前のベンガル料理店「大衆食堂シックダール」のピンキーさんに書いてもらったものです。
とても美味しいベンガル料理が楽しめるお店なので、こちらもぜひどうぞ!


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goshimasayama18 at 21:32|PermalinkComments(0)

2020年06月04日

祝『タゴール・ソングス』劇場公開! 6/7(日)ポレポレ東中野でトークイベントを行います



  • 軽刈田 凡平 × 佐々木 美佳 監督のトークセッション開催!(軽刈田はオンラインで参加)
  • 会場:ポレポレ東中野
  • 日時:6月7日(日)18:00〜の上映終了後(19:45頃から30分くらい)
  • 映画のチケットをご購入いただければ、そのままご参加いただけます。

パンフレットに拙文を寄稿させてもらっている、傑作ドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』。
公開直前にコロナウイルス禍で映画館が閉鎖になり、 急遽、オンライン上映の「仮設の映画館」で公開されていたこの映画、6月1日から待ちに待った劇場での公開が始まりました。


『タゴール・ソングス』は、100年前からベンガル(バングラデシュとインド東部の西ベンガル州)の人々に愛されてきた、タゴール作の「うた」がたくさん出てくる作品で、またコルカタやダッカの喧騒や、心地よい風が吹くベンガルの自然に思いっきり浸ってもらうためにも、ぜひとも劇場で見ることをおすすめします。
(私自身、最初に見たのはオンライン試写で、それでも大いに感銘を受けたので、お近くに上映館がない方は、ぜひ「仮設の映画館」でご覧ください)


そして、この素晴らしい作品にまた関わらせてもらう機会をいただきました!
6月7日(日)にポレポレ東中野での18:00〜の上映会の終了後(19:45頃)に、私、軽刈田 凡平と佐々木監督とのトークセッションを行います。
トークだけでなく、タゴールやベンガルにゆかりのある最近の楽曲たち(タゴールのいろんなカバーバージョンやヒップホップなど) の紹介なんかもしてみたいと思っています。

※時間も短いので、基本的にトーク中心で音楽をかけたりはできなさそうなのですが、その分濃いトークをお届けします!

こういう状況なので、劇場での直接のトークはまだできなくて、私は離れた場所からオンラインでの登場になりますが、30分くらいかな、短い時間だけどみなさんの前で佐々木監督とお話できるのを楽しみにしています!

映画未見の方は、絶対に心に残る素晴らしい映画なので、ぜひこの機会にご覧ください。
パンフの文章とは別に、以前書いたレビューはこちらです。


それからパンフレットも超お得です。
監督やタゴール専門家のインタビューや寄稿だけでなく、映画を何度も反芻できる、登場人物たちの言葉(映画全編分!)も収録されているので、映画の背景をより詳しく知るためにも、映画の感動をより確かなものにするためにも最適です。
ぜひ劇場や公式サイトでお求めください。
私が書いたタゴール・ソングと現代インドのインディー音楽シーンに関する文章も、佐々木監督に「激アツ」認定をいただきました。


「もし君の呼び声に誰も答えなくとも
 ひとりで進め ひとりで進め 

 もし 誰もが口を閉ざすのなら 
 もし 皆が顔を背けて 恐れるのなら
 それでも君は心開いて 
 本当の言葉を ひとり語れ

 もし君の呼び声に誰も答えなくとも
 ひとりで進め ひとりで進め

 もし皆が引き返すのなら ああ 引き返すのなら
 もし君が険しい道を進む時 誰も振り返らないのなら
 いばらの道を 君は血にまみれた足で踏みしめて進め」
 (『タゴール・ソングス』パンフレットより)

映画に繰り返し登場するこの"Ekla Chalo Re"(『ひとりで進め』)をはじめ、劇中のタゴール・ソングの訳詞も、もちろん収録されています。

映画を見た誰もが感じるであろう、ベンガルの人々の心の豊かさ。
それは、ベンガルのひとたちが持つ、「言葉の豊かさ」でもあるんだな、と最近気がつきました。
もちろん、誰もが本を読んだり、歌を聴いたりして、自分の中の言葉の引き出しを豊かにすることはできる。
でも、タゴールの詩や歌詞をもとに、親子で議論したり、若い世代に伝えようと奮闘したりしているベンガル人たちの言葉の豊かさには到底かなわないな、とも感じてしまいます。
100年前の偉大な文学者の言葉を、ただ高尚でありがたいものとして扱うのではなく、今なお、愛し、口ずさみ、一人ひとりに寄り添ってくれる共有財産としているベンガルの人々が、なんだかうらやましいなあ、と強く感じる今日この頃です。

それではみなさん、6月7日(日)にポレポレ東中野で会いましょう!

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goshimasayama18 at 12:26|PermalinkComments(0)

2020年03月23日

『タゴール・ソングス』が描く「うた」と人間の理想的な関係

4月18日(土)からポレポレ東中野で公開される映画『タゴール・ソングス』のパンフレットで、文章を書かせてもらった。

 

この『タゴール・ソングス』、公開前からの好評につき、3月28日から、同じくポレポレ東中野のレイトショー枠で、レクチャー付きの先行上映が始まる。
私も4月1日の上映後に、「タゴールソングとインドポピュラー音楽」というテーマで、佐々木美佳監督と対談形式でトークを行うので、ぜひみなさんお越しください。

「仮設の映画館」にて上映中!(検索してみてください)
また、ついに6月1日から全国劇場での公開が決まりました!

というわけで、今回は、この大注目の映画『タゴール・ソングス』について書く。

そもそもの話になるが、タゴールという名前を聞いたことがある人でも、「タゴール・ソング」を知らないという人は多いのではないだろうか。(私もそうだった)
1861年、当時イギリス領インドの首都だったコルカタに生まれたタゴールは、数多くの詩や小説、戯曲を書き、詩集『ギタンジャリ』で、アジア人で初のノーベル賞(文学賞)を受賞した。
日本では詩人のイメージが強いタゴールだが、じつはその生涯で2,000曲を超える楽曲を作った「ソングライター」でもあった。
そのタゴールによって作った「うた」がタゴール・ソングだ。
ヒンディー語では「ラビンドラ・サンギート」、そして彼の故郷の言葉であるベンガル語では「ロビンドロ・ションギト」という。
タゴール・ソングは今でもベンガルの地で愛唱されており、タゴールの歌とともに生きる人々を綴ったドキュメンタリー映画が、この『タゴール・ソングス』なのだ。

と、さも知った風なことを書いたけれども、これらは全てこの映画を見てから覚えたこと。
正直に言うと、最初にパンフレットの原稿の話をもらった時は、困ったなあと思ったものだった。
タゴールのことは名前くらいしか知らなかったし、100年前の大文学者である彼は、いつも私が追いかけている現代のラッパーやミュージシャンとはあまりにもかけ離れた存在だからだ。
はっきり言って、何も書ける気がしない。
ところが、気乗りしないまま軽い気持ちで試写を見てみたら、私はすっかりこの映画に夢中になってしまった。
そこに「うた」と人間との理想的な関係が描かれていたからだ。

誰にでも、大切な「うた」というものがあるだろう。
励ましてくれたり、慰めてくれたり、ときに生きる指針を示してくれるような「うた」。
あるいは、それはもっと暗い、やるせない孤独や憂鬱を肯定してくれるような「うた」かもしれない。
多くの人にとって、それは思春期に出会った、自分とほぼ同時代に作られた「うた」なのではないだろうか。
「歌は世に連れ世は歌に連れ」とはよく言ったもので、世の中が変われば人の心も変わるし、時代が変われば新しい歌が必要になる。
だから、ポピュラーミュージックにはその時代や社会で歌われる理由が必ずあるし、そうやって音楽は発展してきた。

ところが、ベンガルでは、現代の音楽だけではなく、100年も前に作られた「タゴール・ソング」が、今もなお個人の魂に寄り添ってくれる「うた」であり続けているのだ。
まるで、ポピュラー・ミュージックのように。
別に懐古的な老人や、伝統主義者たちだけではない。
ストリートのラッパーや、EDMやデスメタルも聴く音楽ファン、スラム育ちの青年、今風の女子大生まで、誰もがタゴールの「うた」に寄り添われて生きている。
念のために言うと、ここで「ベンガル」と書いているのは、コルカタを含むインド領ウエストベンガル州と、ベンガル地方の東部すなわちバングラデシュの両方のこと、つまりベンガル全域のことである。

別にベンガルに限らなくても、インド人は(南アジア人は、と言ってもよい)伝統をとても大事にしている人々だ。
このブログでもいつも紹介しているように、インドの若手ミュージシャンは、古典音楽の楽器や歌唱法をロックに取り入れたり、伝統音楽をサンプリングしてヒップホップのトラックを作ったりもしている。
ミュージシャンに限らなくても、南アジアには信仰を大事にしている人が多いから、そういう人たちは何百年、何千年前の言葉を日々祈りのなかで唱えていたりもする。
だが、この映画を見る限り、タゴール・ソングは、そういった「俺たちの誇るルーツ」とか「信仰」とは全く違うもののように思える。
なんというか、タゴール・ソングは、もっと普遍的で、かつ個人的な「うた」なのだ。

タゴール・ソングのテーマはさまざまだ。
『カントリーロード』や『ふるさと』みたいなものもあれば、ブルーハーツの『月の爆撃機』みたいなものもある。
ゲーテの詩みたいなものもあれば、黒人霊歌みたいなものもあるし、最近のアメリカあたりの女性シンガーみたいに「女性を自立した個人として扱ってほしい」と歌うものまである。

いずれにしても、100年も前の歌が、単なる伝統としてではなく、極めてリアルなものとして、現代を生きるベンガルの人々に語りかけているのだ。
映画に出てくる人々の年齢や宗教、階層や立場が極めて多様であるということからも、タゴール・ソングが持つ普遍性が分かる。
タゴール・ソングは、コミュニティや世代の違いを超えて、ベンガルの人々にとって特別な存在なのである。
いったいタゴール・ソングの何が特別なのだろうか。

ここまで書いてこう言うのもなんだが、私はタゴール・ソングの音楽としての素晴らしさについては、じつは今でもよく分かっていない。
メロディーは決してキャッチーではなく、つかみどころがない。
それに唱歌のようにシンプルに歌われるタゴール・ソングは、インドの古典音楽ヒンドゥスターニーやカルナーティックのように、ヴォーカリストの超人的の技量を味わうものでもないようだ。
シンプルな4拍子やワルツではなく、歌詞に合わせて拍が変わったりするから、リズムも取りにくい。
要するに、言葉を超えて伝わりやすい要素が、ほとんどない音楽なのだ。

これは、きっとまず初めに伝えるべき「ことば」があり、その「ことば」を活かすための抑揚のようなものとして、メロディーが作られているからだろう。
それは、一般的なポピュラーミュージックのような、一定のリズム(グルーヴ)に沿ったメロディーではない。
タゴール・ソングの旋律は、言葉に合わせて強弱や長短のつけられた、捉えどころはなくても吹く風のように心地の良い「フロウ」(流れ)なのだ。
おそらくだが、タゴール・ソングの本当の良さを理解するには、ベンガル語を正しく理解し、その表現や響きの美しさを感じられるようになることが必要なのだろう。
大詩人タゴールが作った「うた」は、きっと何よりも「ことば」を大事にした「うた」なのだ。

日本にも昔はそういう「うた」があった。
寄席に行くと、落語の合間に俗曲とか粋曲と呼ばれる歌を三味線に合わせて歌う人が出てくることがある(柳家小菊さんとか)。
「梅は咲いたか桜はまだかいな」みたいな端歌とか、「会えば短い、会わねば長い、待てば尚更、長い夜」なんていう都々逸なんかをやってくれるのだが、こういう歌も、まず「ことば」ありきで節がつけられているから、何拍子という概念はほとんど無かったりもする。
伝統音楽に疎くても、そういう「うた」を聴いて、いいものだなあ、感じる日本人は多いはずだ。

(ところで、先ほどから、メロディーよりも「ことば」を大事にした歌という意味で、ひらがなで「うた」と書いている。余談になるが、馴染みのあるところだと、盆踊りの「炭坑節」や、わらべうたの「あんたがたどこさ」も「言葉のリズムを活かすための拍子の破調」がごく自然に取り入れられた「うた」だ。四拍子でリズムを取っていると、おかしなことになってくるので試してみてほしい。きっと日本語を理解しない人にとっては、タゴール・ソングのように捉えどころのないメロディーだと思われてしまうことだろう)

我々日本人は、いつのまにかそうした日本語の「ことば」を活かしたフロウ/メロディーを持つ音楽を追いやり、欧米式のポップミュージックを自分たちの歌として受け入れてきた。
もちろん、今日の日本語のポピュラー・ミュージックでも、優れた作詞家・作曲家が作った歌を聴いて、言葉とメロディーとの間に必然性とでも言うべき関係を感じることはあるけれども、音楽家ではなく「ことば」の人が作る、そよ風のように自然な旋律の伝統は、日本からはもう失われてしまったのかもしれない。

話をタゴール・ソングに戻そう。
こんなふうに書くと、タゴール・ソングはベンガル語を解さない我々にとって、音楽的な魅力に乏しい「うた」のように思えてしまうかもしれないが、じつはこのことは、この映画の魅力にほとんど影響を及ぼさない。

歌を作る人は、自分の作品がいつまでも人々の心に影響を与えるものであってほしいと願うことだろう。
そして、歌を聴く人もまた、歌に自分の心にぴったりとはまる「ことば」を求めているはずだ。
そんな音楽と人間の理想的な関係が、100年前の「うた」と現代を生きる人々の間に存在している。
この奇跡のような事実を扱っているというだけで、この映画の面白さはもう半分以上決まったようなものである。
この面白さの前では、メロディーの「つかみどころの無さ」なんて、ほとんどどうでもいい要素なのだ。
『タゴール・ソングス』に出てくる人たちは、プロの音楽家も一般人も、それぞれがタゴールとの間に特別な関係を築いている。
その誰もが愛おしくて、また彼らの心のうちを、少しずつ効果的に我々に届けてくれる構成もすばらしい。
彼らがときに誇らしげに、ときに「ことば」と向き合うように歌うタゴール・ソングは、その歌い手の表情や佇まいを含めて、例えようもなく魅力的である。

もう一つ付け加えると、ベンガル人たちと「ことば」の距離の近さがまた素敵なのだ。
(「ことば」というのは、「詩」と言いかえても良いのだけど、詩というと日本ではあまりにも非日常的な存在になってしまうなので、ひらがなで「ことば」と書くことにした)
女子大生が会話の中で唐突に「私も詩人よ」と言い出したりしても、誰にも変に思われたりせず、自然と「無理するなって。君の詩、読んだことないけど」なんて返される。
そんなベンガル人たちと「ことば」との距離感は、とても好ましいもののように思える。
我々は、過去の人々が(もちろん、現在の人々も)心をこめて紡いだ「ことば」を、あまりにも自分から遠ざけてはいないだろうか

この映画を見れば、100年も前の「うた」や「ことば」とともに生きることができるベンガルの人々が、きっとうらやましく思えるはずだ。
それに、100年前の「うた」や「ことば」を糧に生きている彼らが、なんだかとてもかっこよくも見える。
さて、そうした「うた」も「ことば」も持たない我々は、どうやって生きてゆこうか。
映画『タゴール・ソングス』は、遠いベンガルの人々を見ていたはずなのに、そんなことを思わされたりもする作品である。




4月1日のトークでは、「タゴールソングとポピュラー音楽」というテーマで佐々木監督とお話しします。
どんなことを話そうか、どんな音源を紹介しようか、いろいろありすぎて、今から大いに迷っています。
タゴールを知っている人も知らない人も、南アジア(この映画でいうとインドやバングラデシュ)か音楽か詩か映画か人間か社会のいずれかに興味がある人であれば、楽しんでもらえるものになるのではないかと思います。
ポレポレ東中野で、20:50から上映開始、上映後にトークです。
そして、他の日のラインナップも、とても面白そうなテーマのものが揃っています。

遅い時間になりますが、ぜひお越しください!



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2020年03月02日

インディアン・カウボーイ!インド人カントリー歌手Bobby Cashのビリヤニ・ウエスタン!


「インディアン・カウボーイ」という言葉を聞いて、どんな人物を思い浮かべるだろうか?
おそらく、ほとんどの人が、頭に羽飾りをつけたアメリカ先住民のカウボーイを想像するのではないかと思う。
ひょっとしたら、1970年代のB級マカロニ・ウエスタンにそんな映画があったかもしれない。
ところが、今回紹介するインディアン・カウボーイの「インディアン」はアメリカ先住民ではない。
このインディアン・カウボーイは正真正銘のインド人。
なんと、インド生まれのカントリー歌手がいるのである。

この一度聞いたら忘れられない異名を持つ男の名前は、ボビー・キャッシュ。
百聞は一見に如かず。
さっそく彼の音楽を聴いてもらおう。



どうだろう。
私はカントリーというジャンルには全く詳しくないが、それでもこのサウンドを聞けば、彼が決してイロモノではない、本格派のカントリー・ミュージシャンであることが分かる。
それに彼のファッションがまた堂に入っている。
テンガロンハットにウエスタン風のシャツ。
あまりインドには売っていなさそうなデザインの衣装は、本場で仕入れたのか、それともインドで仕立てて作ってもらったのだろうか。

この突然変異的なアーティストは、いったいどのように誕生したのだろう。
ボビー・キャッシュことBal Kishoreは、1961年、ヒマラヤをのぞむウッタラカンド州の街、クレメントタウンに生まれた(インドの片田舎にこんな英語の名前の街があったということにも驚いた)。
Kishore一家には、カントリーの本場テネシー州のナッシュビルに移住した叔母がいて、幼い頃から毎月彼らに最新のカントリーのヒット曲を送ってくれていたという。
幼いBalは、叔母が送ってくれる音楽に夢中になった。
やがて、彼らは叔父が作ってくれたギターで姉妹や従兄弟たちと演奏を始めるようになる。
彼の従兄弟は、小さい頃にインドを訪れたビートルズが、ヨガの聖地リシケシュに行くために彼らの住んでいた街を通り過ぎたことをきっかけに、ロックに目覚めたのだそうだ。
彼らがこのかなり早い時代に欧米の音楽に夢中になった理由のひとつに、ナッシュビルの叔母の存在に加えて、Balの曽祖父の代に彼らがクリスチャンに改宗していたということが挙げられるだろう。
やがてBalは、父が彼をBabuと呼んでいたことから、名をBobbyと改め、キショール(Kishore)というファミリーネームを英語風にCashに変えて、英語風にBobby Cashという名前での音楽活動を始める。
みるみるうちにギターの腕を上げたボビーだったが、クレメント・タウンにはプロのミュージシャンとして活躍する場などない。
彼は音楽教室を開いたり、インド軍を相手に演奏したりして活動していた。
カントリーを一緒に演奏する仲間がいなかったことが、プラスに作用することもあった。
彼は、ベースラインをギターで再現する独特のプレイスタイルを編み出したのだ。

彼の生き方もまた、本場のカントリー歌手のようなところがある。
家族想いで律儀な男なのだろう。
ボビーは、1995年に父親が亡くなるまで、故郷のクレメントタウンで過ごしていた。
父の死後、ミュージシャンとしてのキャリアを本格的に追求すべく、彼は初めて首都デリーに出てくる。

だが、首都とはいえ、当時のデリーにも、やはりカントリー音楽の需要などなかった。
私が初めてインドを訪れたのは1997年のことだったが、デリーのカセットテープ屋(当時のインドでは、主要な音楽メディアはCDではなくカセットだった)のオヤジでもロックというジャンルを理解していなかったのを覚えている。
世界的にとっくに流行の過ぎ去った時代遅れのカントリーミュージックとなれば、知らないのはなおさらのことだろう。
仕方なく彼は、ヒンディー語のポップスのアルバムを発表する。

当時台頭してきていた、'Indi-Pop'と呼ばれる非映画音楽のポップミュージックを志したものだったが、ボビーはやはり、カントリー音楽への情熱を捨てきることはできなかった。

数枚のアルバムを発表した彼は、デリーの5つ星ホテル、オベロイで演奏するなどして、なんとかミュージシャンとしての活動を続けていた。
だが、そんな彼にも転機が訪れる。
オーストラリア人の映像プロデューサーが、オベロイで演奏している彼を見て、地元のカントリー音楽フェスに招待し、その様子を撮影することにしたのだ。
2003年1月、ボビーがオーストラリアのニューサウスウェールズで行われたTamworth Country Music Festivalに出演したのは、41歳になってからのことだった。

果たして、本格的カントリーミュージックを演奏するインド人のニュースは、またたく間に話題となった。
この時の様子は、地元のテレビ局によって"The Indian Cowboy...One in a Billion"というドキュメンタリー番組として放送されている。


ボビーの幸運は続く。
彼の演奏を聴いたオーストラリアの裕福な農家が、アルバム制作の話を持ちかけたのだ。
こうして、彼は2004年に、オーストラリアのレーベルから、最初のカントリーアルバム、"Cowboy at Heart"をリリースする。
"Cowboy at Heart"、なんともいいタイトルではないか。
アメリカから遠く離れたインドに生まれ、西部のカウボーイとして生きているわけではないけれど、カントリーミュージックを愛する俺の心はカウボーイなのさ。
そんなボビーの心意気が伝わってくるようなタイトルのこのアルバムは、オーストラリアのカントリー音楽チャートに入っただけでなく、本場アメリカでも高く評価され、ナッシュビルのカントリーミュージック協会のベスト海外アーティストにもノミネートされた。
受賞こそ逃したものの、ブロードウェイでのパフォーマンスはスタンディングオベーションで称えられたという。

その後、彼は家族と故郷クレメントタウンで暮らしながらも、カントリーミュージシャンとしてはオーストラリアを拠点に活動し、何枚かのアルバムを発表している。

それにしても、世界的にメインストリームであるEDMやヒップホップのミュージシャンがインドにもいるのは分かるけど、カントリーのような、アメリカの伝統芸能とも言えるジャンルにも優れたインド人ミュージシャンがいるということには驚かされる。
ボビー・キャッシュの音楽を初めて聴いたときのアメリカ人やオーストラリア人の驚きは、きっとチャダやジェロの演歌を聴いた時の日本人と同じようなものだっただろう。
カントリーはなんとなく保守的な人たちが聴く音楽という印象を持っていたが、

彼がヒンディー語で発表した楽曲のなかには聴くべきものが少ないが、なかにはタブラとカントリースタイルのギターが融合したこんな楽曲もある。
この歌はどうやらヒンディー語のゴスペルのようだ。

カントリー調の歌声にタブラを合わせた驚くべき音楽性は、マカロニ・ウエスタンならぬビリヤニ・ウエスタン!

彼のことを扱ったドキュメンタリー番組のタイトル"Indian Cowboy...One in a Billion"同様、インディアン・カウボーイはインド広しと言えども、10億に一人の存在だろう。
インターネットの普及でさまざまな音楽に触れる機会が爆発的に増えてきたインドで、これからも、びっくりするようなジャンル(例えば、タンゴとかケルト音楽とか)で素晴らしい才能が出てくることが、ひょっとしたら、あるのかもしれない。

最後に、ボビー・キャッシュが演奏するエルビス・プレスリーの名曲をお届けして、今回の記事を終わりにしたい。



追記:
ちなみに彼のことを教えてくれたのは、以前このブログでもインタビューをお届けした、ムンバイ在住のPerfumeファンのインド人、Stephenです。ありがとう!


それからコルカタには、こんな本格的なブルース・バンドがいます。
いやはやインドは広い!



さらに追記:この原稿を書いた後に思いついた「ビリヤニ・ウエスタン」という呼び方が気に入ったので、タイトルと本文をちょっと変えてみました。

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2018年06月03日

Ska Vengersの中心人物、Taru Dalmiaのレゲエ・レジスタンス

前回の記事で、デリーのスカ・バンドSka Vengersを紹介した。
彼らがレゲエやスカを単なるゴキゲンな音楽としてではなく、抑圧や専制に対する闘争の手段として捉え、 ヒンドゥー・ナショナリズムやインド社会の不正義と戦う姿勢を示していることは記事の通りだ。

Ska Vnegersの中心人物、Delhi SultanateことTaru Dalmiaは、バンド以外でもBFR(Bass Foundation Roots) Sound Systemという名義でジャマイカン・ミュージックを通した自由への抑圧に対する抗議行動を行っている。
アル・ジャジーラが製作した"India's Reggae Resistance: Defending Dissent Under Modi" はそんな彼の活動を追いかけたドキュメンタリーだ。



モディ政権後、ヒンドゥー原理主義が力を持ち言論の自由が脅かされつつあるインドで、Taruは音楽を通した闘争を始めるべく、クラウドファンディングで集めた資金でサウンドシステムを作り上げることにした。抗議活動の場で自由を求めるレゲエ・サウンドを鳴らすために。

サウンドシステムとは、ジャマイカで生まれた移動式の巨大なスピーカーとDJブースのこと。
クラブのような音楽を楽しむための場所がなかった時代に、音楽にあわせてラップや語りや歌を乗せるスタイルで、人々を踊らせ、音楽によるひとときの自由を提供するための手段として生まれた(やがて海を渡ってヒップホップやレイヴ・カルチャー誕生の揺籃ともなったのは、また別のお話)。

Taruにとってジャマイカン・ミュージックは自由のための闘争の手段。
「レゲエの本質に戻ってみると、サウンドシステムに行き着く。サウンドシステムは単なる積み重ねたスピーカーじゃない。音楽や自由を自分たちの手に取り戻し、ストリートに届ける手段なんだ」
彼の広い庭に巨大なスピーカーが組み上がる。
まったく歴史的、文化的背景の違うインドで、ジャマイカと同じようにレゲエを闘争の手段にしようとしている彼こそ、ヒンドゥー原理主義者ならぬレゲエ原理主義者なんじゃないか、という気がしないでもないが、彼はいたって真剣だ。

最初の活動の場は、デリーの名門大学JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)。
言論の自由を求める活動の中心地であり、Taruの出身大学でもある。
「同志よ!ジャイ・ビーム!ラール・サラーム!ジャマイカの奴隷農園の革命の歌を演奏する!」
ジャイ・ビームはインド憲法の起草者で、最下層の被差別階級出身の活動家、ビームラーオ・アンベードカルを讃える言葉。
カーストに基づく差別からの脱却のため、被差別階級の人々と集団で仏教に改宗した彼を讃えるこのフレーズは、改宗仏教徒など、旧弊な社会秩序に異を唱える人々の合言葉だ。
ラール・サラーム(赤色万歳)は、共産主義のシンボルカラーを讃える反資本主義者たちの合言葉。
Taruの言葉に活動家たちから歓声が上がるが、音楽をかけても人々は踊らない。
彼の思想には共鳴しても、レゲエなんて聴いたことがない彼らは、初めて耳にするリズムにどうして良いか分からずじっと座っているばかりだ。

すっかり盛り上がりに欠けたまま、やがて大学当局者に音を止めるように言われ、しぶしぶDJを止めるTaru.
すると当局の介入によって演奏を止められたことに抗議して、学生たちから自由を求めるコール&レスポンスが始まる。
皮肉なことに、音楽が止められたことで、抗議運動は初めて盛り上がりを見せたのだった。
やはりインドでレゲエを使った社会運動は無理があるのか。

それでもTaruはあきらめない。
次なる活動の場は幾多の大学を抱える街、プネーのFTII (Film and Television Institute of India)。
抗議行動をオーガナイズする学生組織とのミーティングで、Taruはこんなことを言われる。
「初めてレゲエを聞いたけど、僕たちの文化の中では共感を得にくいんじゃないかな。なんというか、エリートの音楽っていう感じがする。英語だし、ラップだから」
「欧米から来た音楽だからって、みんなエリートの音楽ってわけじゃない。ブロークンな英語で歌われている音楽なんだ」
Taruは反論するが、こう言われてしまう。
「僕たち活動家が理解できないっていうのに、どうやって一般の人々がそれを理解できるんだい?」
Taruの理想と現実の乖離を率直に指摘する言葉だ。

地元の人々に受け入れられるために、彼らの言語であるヒンディーやマラーティーをレゲエのリズムに乗せることにした。
レゲエをインドでの社会運動において意味あるものとするために、彼らの工夫は続く。
地元の社会派ラッパー、Swadesiにも声をかけた。
ジャマイカの大衆のための音楽が、少しずつインドの大衆のためのものに変わってゆく…。

憲法記念日。プネーで行われる野外コンサートの当日。
主宰者側はカシミール問題(パキスタンとの間の、ヒンドゥーとイスラムの宗教問題を含んだ領土問題)のようなデリケートな話題を持ち出し、当局に集会を潰されることを心配していた。
言論の自由を求める集まりであるにもかかわらず、だ。
「世界最大の民主主義国」インドの自由は微妙なバランスの上に成り立っている。

集まった人々に、Taruはこう語りかける。
「独立したはずのインドでも、最近じゃこんな雰囲気だ。でも、いつの日か正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると言えるようになろう。俺たちは団結している。もし体制側のスパイがいたとしたっていい。一緒に踊ろう」
Taruがプレイするジャマイカのリズムに、地元の活動家たちがスローガンの言葉を乗せて行く。
地元の言語を使ったラップや、苦労した選曲の甲斐あってか、デリーのときとは違って観客も大いに盛り上がっている。

最後の曲の前に、Taruは「俺たちが求めるものは?」と観客に問いかけた。
即座に「自由(Azadi)!」との答えが返ってくる。
RSS(ヒンドゥー至上主義組織)からの、モディ政権からの、ヒンドゥーナショナリズムからの、企業のルールからの自由。コール&レスポンスは熱気を帯びてくる。
最後の曲は60年代のジャマイカン・ナンバー、Toots & Maytalsの"54 46 Was My Number".
警察の横暴を批判するスカ・ソングだ。

彼の言葉に、サウンドに、集まった人々は心のままに踊り始める。
このシーンは圧巻だ。
インド人は総じて踊りが得意だが、スカのリズムに合わせて魂を解放して踊る彼らは、とても初めてジャマイカの音楽を聴いたようには見えない。
まるで生まれた時からスカやレゲエを聴いて育ったジャマイカンたちのように見える。
音楽が、レゲエミュージックが、束の間であっても変革を求めるインドの人々に精神の自由をもたらした瞬間だ。

この映像は、インドにおけるレベルミュージック(反抗の音楽)としてのレゲエのスタート地点であり、現時点での到達地点の記録でもある。 

名門大学出身で大きな庭のある家に住んでいる彼が、ジャマイカのゲットーで生まれた音楽を、全く文化の異なるインドで大衆革命の手段としようとすることに、いささかのドン・キホーテ的な滑稽さを感じるのも事実だ。
今後、レゲエがインドでのこうした活動の中で大きな意味を持つかと考えると、正直に言うとかなり難しいんじゃないかと思う。(この映像を見る限りだと、もっとインドの大衆の理解がしやすい音楽や伝達方法があるように感じる)

でもレゲエやパンクやヒップホップに夢中になったことがある人だったら、音楽とは単なる心地よいサウンドではなく、人々の意識や社会構造に大きく働きかけるものであることを知っているはず。
そして、サウンドそのものよりも、そうしたスピリットの部分にこそ、音楽の本質があることを分かっているはずだ。
音楽好きとしては、音楽の力を信じて愚直に活動を続ける彼に、なんというかこう、ぐっとくるのを禁じ得ない。
ヒップホップに比べると、まだまだインドではマイナーな感があるレゲエミュージックシーンだが、今後こうした社会的な意味のあるジャンルとして根づいてゆくのかどうか、これからもTaruの活動に注目してゆきたい。

goshimasayama18 at 17:59|PermalinkComments(2)

2018年04月21日

本物がここにある。スラム街のヒップホップシーン ダンス編

これまで、Brodha VDIVINEBig DealJ19 Squadといったインドのヒップホップアーティストを紹介してきた。
インドのヒップホップシーンはここ数年爆発的に拡大・多様化していて、ストリート寄りのスタイルの彼らとは別に、Yo Yo Honey SinghやBadshahのように、ボリウッド的メインストリームで活躍するラッパーもいるし(Youtubeの再生回数は彼らの方がずっと多い)、BK(Borkung Hrangkhawl)UNBのようなインド北東部における差別問題を訴える社会派のラッパーもいる。
インドの古典のリズムとの融合も行われていて、各地に各言語のシーンがある

以前も書いたように、インドのヒップホップって、アメリカの黒人文化に憧れて寄せていくのではなく、自分たちの側にヒップホップをぐいっと引き寄せて、完全に自分たちのものしてしまっているような雰囲気がある。
いわゆる「ストリート」の描き方も、アメリカのゲットーを模したフィクショナルな場所としてではなく、オバチャンがローカルフードを売り、好奇心旺盛な子ども達が駆け回り、洗濯物が干してあるインドの「路地」。
インドのラッパーたちは、スタイルやファッションとしてのヒップホップではなく、自分たちが本当に語るべき言葉を自分たちのリズムに乗せて発信するという、ヒップホップカルチャーの本質を直感的に理解しているかのようだ。
なぜそれができているのかというと、ひとつには彼らが英語を解することが挙げられるだろう。
インドは、英語を公用語とする国では世界で最大の人口を誇る(実際に流暢に英語を話すのは1億〜3億人くらいと言われている)。
英語を解する彼らが米国のヒップホップに接したときに、ファッションやサウンドよりも、まずそこで語られている内容に耳が向けられたとしても不思議ではない。
そしてもうひとつ、インドには彼らが声を上げるべき社会的問題が山積しているということ。
貧富の差、差別、コミュニティーの対立、暴力、汚職。挙げていけばきりがない。
インドの若者たちがヒップホップに触れたとき、アメリカのゲットーの黒人たちのように、自分たちが語るべき言葉を自分たちのリズムに乗せて、ラップという形で表現しようと思うのは至極当然のことと言えるだろう。

でも、インドにヒップホップが急速に根付いた理由はきっとそれだけではない、というのが今回の内容。

さて、ここまで、「ヒップホップ」という言葉を、音楽ジャンルの「ラップ」とほぼ同義のものとしてこの文章を書いてきた。
でも「ヒップホップ」という言葉の本来の定義では、ヒップホップはMC(ラップ)、ブレイクダンス、DJ、グラフィティーの4つの要素を合わせた概念だという。
今回はその中のダンスのお話。
インドに行ったことがある人ならご存知の通り、インド人はみんなダンスが大好き。
各地方の古典舞踊をやっている人たちもたくさんいるけど、あのマイケル・ジャクソンのミュージックビデオにも影響を与えたと言われるインド映画のダンスのような、モダンなスタイルのダンスも大人気で、道ばたの子ども達がラジカセから流れる映画音楽に合わせて上手に踊っているのを見たことがある人も多いんじゃないだろうか。
(ちなみに、いやいや逆にインドの映画がマイケル・ジャクソンのミュージックビデオに影響を受けたんだよ、という説もある)

今回は、イギリスの大手メディア「ガーディアン」が、あの「スラムドッグ$ミリオネア」の舞台にもなったムンバイ最大のスラム街、ダラヴィで撮影したヒップホップのドキュメンタリー映像を紹介します。
タイトルは、Slumdogならぬ"Slumgods of Mumbai".
これがもうホンモノで、実に見応えがある。
まるでヒップホップ黎明期のニューヨークのゲットーのようだ(よく知らないけど)。



スラム街の中で誰に見せるともなくダンスする少年達。
束の間の楽しみなのか、やるせない境遇を踊ることで忘れたいのか。
ダラヴィに暮らす少年ヴィクラムに、母親はしっかり勉強して立派な職に就くよう語りかける。
教育こそが立派な未来を切り拓くのだと。
自分たちはきちんとした教育を受けることができなかったから、両親は息子の教育に全てを捧げて暮らしている。

だがヴィクラムには母親に内緒で出かける場所があった。
B BOY AKKUことAKASHの教える無料のダンス教室だ。
彼はここで同世代の少年たちとブレイクダンスを習うことが喜びだった。
でもヴィクラムは教育熱心な母親にダンス教室に通っていることを伝えることができない。
両親が必死に働いたお金を自分の教育のためにつぎ込んでくれていることを知っているからだ。

で、このダンス教室の様子が素晴らしいんだよ。
子ども達が自分の内側から湧き上がってくる衝動が、そのままダンスという形で吹き出しているかのようだ。
人生/生活、即ダンス。
踊る子どもたちの顔は喜びにあふれている。
でも、ヴィクラムは親に怒られないように、レッスンの途中で家路につかなければならない。
それを残念そうに見つめるAKKU.

誰もが金のために必死で働くダラヴィで、AKKUは、ダンスを通して子ども達に、生きてゆくうえで何よりも大切な、人としての「誇り」を教えようとしていた。
大勢の人たちの前で踊り、喝采を浴びることで、スラムの子ども達が自分に誇りを持つことができる。

だが、周囲の大人たちは適齢期のAKKUに結婚することを勧めていた。
結婚して夫婦の分の稼ぎを得てこそ、責任感のある人間になれると。
しかし二人分の稼ぎを得るには、ダンス教室を続けることは難しい。
AKKUは自分のダンス教室を通して、子ども達に誇りを感じてもらうこと、ヒップホップカルチャーの一翼を担うことこそが自分の役割だと感じていた。
自分がダンス教室をやめてしまえば、誰が子どもたちに誇りを教えるのか。
ヒップホップは彼自身の誇りでもあり、彼もまた葛藤の中にいる…。

AKKUは、ヴィクラムの両親の理解を得るべく、彼が内緒でダンス教室に来ていることを伝えに行くのだった。
だが、両親の理解はなかなか得られない。
ダンスよりも勉強こそがヴィクラムをよりよい未来に導くはずだと。
自分のダンス教室は無料だ、金のためにやっているわけではないと反論するAKKU.
さまざまな葛藤をかかえたまま、AKKUのヴィクラムへのダンスレッスンが続いていく。

そして迎えたある夜、薄暗い照明のダンス教室の中、ヴィクラムの両親も招待されたスラムのB BOYたちのダンス大会が始まった。
次々にダンスを披露する少年たち。
家では見せたことがないほど活き活きと踊るヴィクラムの姿に、両親もやがて満面の笑顔を見せる。
そう、我が子が一生懸命に打ち込む姿を喜ばない親はいない。
そして、コンテストの結果は…。

この物語のラストで、AKKUはヴィクラムに、あるプレゼントを渡す…。
いつも両親に「ミルクを買いに行く」と嘘をついてダンス教室に来ていたヴィクラムに、勉強して成功を収めるということとはまた別の、希望と誇りが託される場面だ。

このドキュメンタリーを見れば、音楽やダンスが抑圧された人々にとってどんな意味を持つことができるかを改めて感じることができる。
世界中の多くの場所と同様に、ここダラヴィでも、音楽やダンスが、日々の辛さを忘れ、喜びを感じさせてくれるという以上のものになっていることが分かる。
そして音楽やダンスがもたらす希望は、言葉や文化を異にする我々にも、普遍的な魅力を持って迫ってくる。

人はパンのみにて生きるにあらず。
貧しくとも、人はお金のためだけに生きているわけではない。
これはダンスやスラムについてではなく、人間の尊厳についてのドキュメンタリーだ。
ヒップホップは、ただの音楽やダンスではなく、本来はそうした人間の尊厳を取り戻すための営為なのだということに改めて気付かされる。
もちろんヒップホップを発明したのはアメリカの黒人たちだけど、ヒップホップというフォーマットは国籍や文化に関係なく、あらゆる抑圧された人たちが(抑圧されていない人でさえも!)共有できる文化遺産であるということを改めて感じた。

ダラヴィの生活は夢が簡単に叶う環境ではないだろう。
AKKUが今もダンス教室に通っているのか、彼らのうち何人が今もダンスを続けているのか、煌びやかなムンバイのクラブシーンで活躍できるようになったB BOYはいるのか、それは分からない。
でもこのドキュメンタリーからは、きっと何か感じるものがあるはず。

たったの13分で英語字幕もあるので是非みんな見てみて! 


追記: Youtubeで確認したところ、AKKUは今でもダンスを、ダンス教室を続けているようだ。
昨年行われたTEDxでのAKKUのプレゼンテーションを見たら、最後にダンス教室の生徒たちも出ていたけど、ヴィクラムの姿は確認できなかった。
成長して見分けがつかなくなってしまっただけなのか、ダンスをやめてしまったのか、たまたまここにいなかっただけなのか… 


goshimasayama18 at 00:15|PermalinkComments(0)