プロレス

2021年03月03日

続・タイガー・ジェット・シン伝説 「ヒンズー・ハリケーン」の謎をさぐる



(タイガー・ジェット・シンの半生と、その知られざる本当の人柄については、この全3回のシリーズをお読みください)




タイガー・ジェット・シン財団が行った東日本大震災への支援に対して、在トロント総領事から表彰が贈られたというニュースが大きく報じられた。

NHKの報道によると、今回の受賞を受けて、シンは「津波の被害について聞いたときは胸が張り裂ける思いでした。49年間もの時間を過ごした日本の子どもたちのために、とにかく何かしなければと思いました。近いうちにまた日本を訪れたいです」と語り、被災者支援のために、さらに20,000カナダドル(約170万円)の寄付を行うという。

「インドの狂虎」としてリング内外で暴れ回ったシンがじつは極めて紳士的な人物であり、実業家としても成功しているという事実は、プロレスファンにはよく知られている。
タイガー・ジェット・シン財団のYouTubeチャンネルでは、シンが震災直後の2011年4月に行った支援活動の様子を見ることができる。
プロレスファンとしても、日本人としても目頭が熱くなることを抑えられない映像だ。

それでも、彼はこれまで「狂気のヒール(悪役レスラー)」のイメージを頑なに守り、日本ではこうした側面を一切アピールしてこなかった。
マスコミに対して「ヒールのイメージを損なうことは書くな」と念を押していたという話も聞いたことがある。
シンは明確な引退宣言やセレモニーこそ行っていないものの、すでに76歳。
レスラーとしてはもう10年以上リングに上がっていない。
今回の受賞に対するあたたかいコメントは、ついに日本でもヒールであることから引退したという意味なのだろうか。
彼の素晴らしい人間性が広く知られることはうれしいが、やはりプロレスファンとしては一抹の寂しさも感じてしまう…。


数々の伝説に彩られた「プロレスラー、タイガー・ジェット・シン」ではなく、一人のインド系移民としてのジャグジット・シン・ハンス(シンの本名)のリアルな半生については、以前の3回にわたる特集記事で詳しく紹介した。
それでも彼のキャリアには、謎に包まれた部分がいくつも存在している。
とくに、彼のキャリア初期には、未解明なところが少なくない。

今回は、そのうち2つの謎に焦点をあてて検証してみたい。
その謎というのは、
  • シンのプロレスラーとしてのデビューは、カナダ(1965年)ではなく、シンガポールだという説があるが、どちらが正しいのか?
  • シンはデビュー当時「ヒンズー・ハリケーン」と名乗っていたという説があるが、それは本当なのか?本当だとしたら、いつ、どこで名乗っていたのか?

というものである。
ひとつずつ検証してみよう。


「シンガポールデビュー説」の真偽
「タイガー・ジェット・シン、シンガポールデビュー説」は、例えば以下のようなサイトで見ることができる。
  • シンが日本で最後に参戦していた(2009年まで)団体「ハッスル」のウェブサイトでは、シンのプロフィールはこのように紹介されている。(http://www.hustlehustle.com/free/fighters/?id=1093611933)「兵役を終えたあと、インドでグレート・ガマ流のインド・レスリングを身に付けてシンガポールでプロレス入り、その後、カナダで本格的なプロレスを身に付けて来日!! 新日本プロレスでアントニオ猪木を相手に壮絶な死闘を繰り広げた。サーベル片手に上田馬之助と共に大暴れして日本中を恐怖のドン底に叩き落とした。ハッスルのリングでも、いまだ狂乱ぶりは健在だ。」
  • 日本語版Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/タイガー・ジェット・シン)には「1964年にシンガポールでデビューし、その後カナダに渡ったという説があるが定かではない」という記載がある(2021年2月現在)。
  • ルチャ・リブレ系の情報サイトLuchawikiでは、デビューの時期・場所は「1965年 シンガポール」と紹介されている。(http://www.luchawiki.com/index.php/Tiger_Jeet_Singh
シンが参戦していた「ハッスル」(2009年に活動を休止しているのにまだサイトが存在している!)のプロフィールの情報は、本人から情報を得ている可能性も高く、それなりに信憑性があると考えて良いだろう。
だが、シンが1944年生まれであることはあらゆる情報源で一致しており、また彼が17歳で(15歳説もある)カナダのバンクーバーに渡ったということも議論の余地がないようだ。
いくら屈強なシンとはいえ、さすがに10代なかばで兵役を終えたとは考えられず、カナダ移住前にシンガポールでデビューしていた可能性はまずないと考えるのが妥当だ。
おそらくだが、これはヒールとして活躍している日本で、カナダでのベビーフェイス(善玉レスラー)時代の経歴をカモフラージュするために用意された偽の経歴ではないだろうか。
シンは、カナダでのインタビューで、「カナダのテレビでプロレスというものを初めて見た」と語っている。
だが、日本で怪奇派レスラーとして活動するには「カナダでフレッド・アトキンス(あのジャイアント馬場のプロレスの師でもある)にレスリングを学んだ」という経歴は少々インパクトが弱い。
そこで、「グレート・ガマ流のインド・レスリングを身につけてアジアのリングでデビューした」というミステリアスな来歴を日本向けに用意した可能性はありそうだ。

2番目の日本版Wikipediaの情報だが、こちらも真実であるとは考えにくい。
日本、アメリカ、メキシコのプロレスのデータを網羅したwww.wrestlingdata.comによると、シンのカナダでのデビューは1965年9月16日、トロントのメイプルリーフ・アリーナだったとされている。
対戦相手や試合時間まで記録されたこのサイトの情報は信頼度が高いと考えてよいだろう。
だとすると、1964年当時、シンはフレッド・アトキンスのもとに弟子入りする前後だったはずで、いくらなんでもデビュー前のまだ半人前のレスラーが海外遠征をしたという可能性は極めて低い。
同様に、Luchawikiの情報も、おそらくはシンが日本向けに伝えた偽の経歴と、カナダでのデビュー年が混同されたものだと考えられる。

しかしながら、プロレスの世界に「絶対」はあり得ない。
もしかしたら、このシンガポール・デビュー説が真実である可能性もなくはないのだが、それはこのあと「ヒンズー・ハリケーン」説と合わせて検証してみたい。



シンは「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームを名乗っていたのか?

シンがデビュー当時名乗っていたとされる「ヒンズー・ハリケーン」という怪しげなリングネームについては、以下のようなサイトで確認できる。

「ヒンズー・ハリケーン」の「ヒンズー」はヒンドゥー教(Hindu)のカナ表記だろうが、シン自体はヒンドゥー教徒ではなくシク教徒である。
とはいえ、ギミックのためにレスラーの国籍やプロフィールを偽ることは日常茶飯事のプロレス界では、シク教徒がインドを代表する宗教であるヒンドゥーのリングネームを名乗ったとしても不思議ではない。
だが、どうしても引っかかるのは、この「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームについての記述があるのは、日本語とスペイン語のウェブサイトだけだということである。
前述のwww.wrestlingdata.comを含めて、英語の情報にはHindu Hurricaneの記述はいっさいなく、Wikipediaでも日本語以外(英語、ポルトガル語、ポーランド語、アラビア語)ではこのリングネームに関する記載はない。
マニアックさでは日本に勝るとも劣らない英語圏のファンが把握していないということは、少なくとも、アメリカやカナダのリングでシンがこのリングネームを使ったことはなかったのではないか。

そう考えると、この「ヒンズー・ハリケーン」も、シンが怪奇派ヒールレスラーとしてのキャラクターのために作りあげた架空の存在ように思えてくる。
日本向けに創作されたプロフィールがスペイン語圏にも伝わった一方で、アメリカやカナダのマット界の一次資料へのアクセスが容易な英語圏では、根拠のない「シン=ヒンズー・ハリケーン説」は広まらなかった。
こう考えるとつじつまが合う。

だが、さらに調査を続けてゆくと、シン来日前に、日本のプロレス誌に「まだ見ぬ強豪」として「ヒンズー・ハリケーン」というレスラーが掲載されていたという情報にたどり着いた。
たとえば、このブログではワニにヘッドロックを決める(なんだそれ)タイガー・ジェット・シンらしき男に「ヒンズ・ハリケーン」のキャプションが付けられた記事が紹介されている。

「ヒンズー・ハリケーン」はやはり実在していたようなのだ。
他のウェブサイトの情報も総合すると、どうやら「ヒンズー・ハリケーン」の名前が掲載されていたのは、1969年から1970年にかけての「月刊ゴング」だったようだ。
シンの初来日は1973年であり、さすがにこの時期から日本向けに怪奇派ヒールとしてのキャラクター作りがされていたとは考えにくい。

前述のwww.wrestlingdata.comでは、1969年3月から1970年の11月までのシンの試合の記録がすっぽりと抜けている。
とすると、この時期、シンは記録の残っていない東南アジア(香港、シンガポール)かオセアニアのリングで戦っていた可能性が高い。

シンガポールはカナダ同様にインド系移民の多い国だが、パンジャーブ系よりも南インドのタミル系の移民が多く暮らしている(シンガポールのインド系住民の約半数がタミル人)。
シク教は北インドのパンジャーブ地方発祥の宗教なので、南インドにルーツを持つタミル人には馴染みがない。
賢いシンが、この地で戦うときに、いかにもパンジャーブのシク教徒らしいJeet Singhではなく、Hindu Hurricaneというリングネームを選んだとしても不思議ではない。
シンの新日本プロレスへの来日は、香港で彼のファイトを見た貿易商が猪木に推薦したことだと言われている。
「ヒンズー・ハリケーン」は、シンの東南アジア限定のリングネームだったとすれば、地理的に近い日本にのみその情報が伝わり、英語圏では全く知られていないということも説明できる。

シンが信仰するパンジャーブ地方発祥の宗教、シク教徒は、コミュニティの高い結束力を持つことで知られている。
シンは後に、やはりインド系移民の多い南アフリカのプロレス界のブッカーとして活躍することになるが、こうしたリング外での活躍の裏には、世界中に広がるシク・コミュニティのネットワークがあったはずだ。
この時期のオセアニア、シンガポール、香港(いずれもインド系移民の多い土地だ)などへの遠征も、そのネットワークを利用して行われたに違いない。

そう考えると、シンがカナダでデビューする前にシンガポールでデビューしていた可能性も、否定できないのだ。
シンが故郷のパンジャーブでクシュティ(インド式レスリング)のトレーニングをしていたことは間違いなく、北米ほどレスリングのレベルの高くないシンガポールに何かの用事で立ち寄った際に(それは、カナダに渡る道中のことだったかもしれないし、いったんカナダに渡ったあとの1964年、あるいは65年だったかもしれない)、リングに上がったということも考えられる。
シンガポールデビュー説も、デマだと一蹴することはできない何かがあるのだ。


さらに深まる謎

これで、シンの初期のキャリアに関する謎に一通りの答えらしきものを出すことができた。
そう思っていた矢先に、再び興味深い情報を入手してしまった。

この記事を仕上げるにあたって、神田の古本屋で、「これが猛虎タイガー・ジェット・シンの意外な正体!」という特集が掲載された「月刊ゴング」1976年9月号を購入したのが運の尽きだった。
そこに書かれていたのは、これまでの考察とは全く異なるシンのプロフィールだった。
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この記事が描かれた当時、タイガー・ジェット・シンは新日本プロレスに早くも7度目の来日中だった。
「アジア・リーグ戦」に出場し、8月5日には蔵前国技館でアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級タイトルに挑戦しようという、脂の乗りきった時期である。
この特集では、アメリカのWrestling Revue誌の1968年1月号に「アール・ダーネル」なる記者が書いた5ページにわたる「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事を引用する形でシンのプロフィールを紹介している。

「ダーネル記者によれば、シンは1967年11月末に突如、カナダのマットに出現した。この時、シンは25歳というから現在は34歳ということになる。
シンがいきなり登場したのはカナダのトロントのメープルリーフ・ガーデン。以来、現在までシンはホーム・リングを変えていない(このへんはインドレスラーの堅実さだ)。」

のっけからフレッド・アトキンスのもとで修行し1965年にデビューしたという「正史」とは異なる記述で始まっていて驚くが、著者はWrestling Revueの記事をさらに引用して続ける。

「かれは、インドのパンジャプ(原文ママ。以下同)の名家の出身で父はサルタンであった。かれには、父からパンジャプ地方に4000エーカーという想像もつかないような広大な土地が残されており、かれがレスリングという格闘技に必要以上に興味さえ持たなければ、かれはサルタンのプリンスとして多くの召使いにかしずかれる身分であった。
 ところが、かれは少年時代から恐ろしく強かった。十四歳の時に父のサルタンと一緒に象にのって虎狩りに行き、この貴族の息子は、槍を使って虎を仕止めるという凄いことをやってのけた。
 インドにはインド・レスリング
(軽刈田註:クシュティのことか?)という古来からの格闘技があり、これは、かれが生まれたパンジャブ地方で最も盛んに行われており、かれは少年時代からそのチャンピオンであった。
 インドには様々な種族がいるが、かれはその中で最も勇猛で戦闘の精神に富んでいるといわれるシーク族であり、彼の父のサルタンは、その族長でもある」


虎狩りに関する記述はエキゾチックな個性を際立たせるための罪のない創作だろうが、それ以外もシク教徒を「シーク族」と表していたり、イスラームの王である「サルタン(スルターン)」という言葉が使われたりと全体的に滅茶苦茶な文章である。
ゴングの記者もそこには気づいていたようで、このあと「サルタンというのはトルコ・ペルシア(イラン)の土侯のことでインドではサルタンとはいわない」と冷静に突っ込みを入れている。
(ちなみにシンの父親は実際には軍人で、少佐まで務めた人物であることが分かっている)
シンのプロレス入りの経緯に関しても、さらに不思議な記述が続く。

「シンはインドのデリー大学で電子工学を学び、父のサルタンの命でカナダのモントリオールにあるマックギル大学(原文ママ。マギル大学と表記されることの多いMcGill Universityだろう)に留学してきたのだ。それは1963年の夏である。シンはマックギル大学で弱電の勉強をして1967年に卒業している。だが、シンはこの大学時代にレスリングをやり、プロレスリングという闘争の世界があることを知った。
 かれはモントリオールの試合場で知り合ったフレッド・アトキンスにすすめられて、試しにプロレスをやってみることになった。…」 

Wrestling Revueの記事によると、シンは、「ヒンズー・ハリケーン」というリングネームでデビューしたが、初戦ではアフリカ系アメリカ人レスラーのスウィート・ダディ・シキ(Sweet Daddy Siki)と戦って敗戦。
だが、「15キロのオモリのついた鉄のヘッドギアをつけ、10キロのオモリのついた足カセをはめて運動」し、「インドではプールの中に泥と油を入れて、その中でレスリングの練習をし」ていたというシンは、名伯楽フレッド・アトキンスのもとで、遠からぬうちに世界的レスラーになるだろう、と評価されている。

年号や大学名が明記された学歴は妙にリアリティがあるが、これはシンがインタビューで語っていた「6ドルだけをポケットに入れてインドから海を渡ってきた」という経歴とは全く異なる。
おそらくだが、これは「トロントでのベビーフェイス・レスラーとしてのシン」の創作されたプロフィールではないだろうか。
シンをプロレスラーとしてスカウトしたフランク・タニーは、今後カナダで増え続けるであろう南アジア系移民のマーケットを意識していたという。
シンを売り出してゆくにあたって、「出稼ぎ移民の息子」よりも「名家出身のエリートにして、レスリングの天才」という肩書きのほうが人気が出ると考えたとしても、不思議ではない。

ちなみにwww.wrestlingdata.comの記録によると、シンのデビューは1967年ではなく、「正史」同様に1965年。
場所こそ同じトロントのメイプルリーフ・ガーデンだが、Jeet Singhのリングネームで9月16日にStamford Murphyというオーストラリア出身のレスラーと対戦し、4分12秒で勝利したことになっている。

だが、何よりも気になるのは、この記事のタイトルにも使われている「ヒンズー・ハリケーン」である。
この記事には、「ダーネル記者によればシンはこの第一戦でヒンズー・ハリケーンを名乗ってデビューした」とはっきりと書かれている。
シンは、英語での記録にはいっさい残されていない「ヒンズー・ハリケーン」という名前を本当に使っていたのだろうか。

その答えには、以下の3つの可能性があるように思う。
  • 仮説その1:「ヒンズー・ハリケーン」はリングネームではなく、シンのキャッチコピーであり、もとの記事で代名詞的に使われていたものを、ゴングの記者が誤訳してしまった。デビュー戦の記述以外でヒンズー・ハリケーンという言葉が使われているのは「ヒンズー・ハリケーンことタイガー・ジェット・シンは、(中略)フレッド・アトキンスの手で厳しく育てられており」「カナダのマットへ……まさにその仇名ヒンズー・ハリケーン(インドの台風)のように登場したのだ」という箇所のみであり、リングネームというよりはシンの「別名」のような印象を受ける。デビュー戦のところで「名乗って」と訳された部分も、正式なリングネームではなく、「あだ名/称号」のようなものだった可能性もあるだろう。そもそも「恐怖のヒンズー・ハリケーン」という記事のタイトルも、リングネームというよりはキャッチコピーを思わせる。
  • 仮説その2:実際にシンがHindu Hurricaneというリングネームを名乗っていた。しかしこのリングネームはすぐに変えられてしまい、記録上はJeet Singh,またはTiget Jeet Singhとなっている。来日前のシンは、チャンピオンベルト獲得歴があるとはいえ、トロントのローカル・レスラーにすぎなかったため、カナダやアメリカのプロレスファンも、その経歴を詳しく追っておらず、英語圏のウェブサイトにも掲載されていない。
  • 仮説その3:アール・ダーネル記者とシンのいずれか、あるいは両方が共犯して、本来のプロフィールを隠し、新しいキャラクターを定着させるために、「ヒンズー・ハリケーン」なる架空のリングネームと、「サルタンの御曹司」というストーリーを作り上げた。
もっともありそうなのは、やはり3番目の説だ。
どこの馬の骨かもわからないインド系レスラーだったシンは、トロントでめきめきと頭角を現してきた。
地域ごとに様々なプロモーターや団体が林立していた当時、トロントは北米のマット界では辺境の地だったはずだ。
シンをいよいよ全米のマーケットで売り出すにあたり、「移民の息子」ではつまらないし、エキゾチックさを前面に出した怪奇派のヒールでは、すでにザ・シークという圧倒的な存在がいる。
そこで、北米マット界では珍しいインド系レスラーをアピールするために「金のために戦う必要などないのに、類まれな才能を持て余してリングに身を投じたサルタンの御曹司」というストーリーが考えられた可能性は否定できない。
来日後にシンが「狂気のヒール」という徹底して「演じた」ことを考えれば、彼が自身のイメージ作りに手間とアイデアを惜しまないのは明白である。

(ちなみに1976年当時、すでに日本でもシンが裕福であることは知られていたようで、この記事でも、ゴングの記者によって「タイガー・ジェット・シンがシーク族の名門の出であり、パンジャプ地方に広大な土地を持つ財産家で、現在はトロントの郊外にお城のような豪邸を構えて貴族的生活をおくっていることは周知のこと」と書かれている。)


シンの「作られたプロフィール」はこれで終わりではない。
さらに異なる説を唱えているのは、1980年代の全日本プロレスでジャンボ鶴田とタッグを組み「五輪コンビ」として活躍していた谷津嘉章である。
谷津は、このYouTube動画の中で、シンにプロレス入りのきっかけを「地元のプロレス興行にエキシビジョンとして参加していたところを、たまたま見に来ていたフレッド・アトキンスにスカウトされた」と説明されたと語っている。
これまた「正史」とは異なるエピソードで、いくらなんでもフレッド・アトキンスがインドのパンジャーブまでプロレスを見に行くことはないと思うが、日本で「狂気のヒールレスラー」として活躍するうえでは、今度は「サルタンのエリート御曹司」ではイメージが合わないため、シンがとっさに苦し紛れに作り出したプロフィールなのかもしれない。
それにしても、レスラー仲間の谷津にまで、作られた来歴を語っているというところに、シンの並外れたプロ根性を感じる。


ここまでお読みいただければ、もうお分かりだろう。
シンは、その時々に応じて、自分をもっとも魅力的に輝かせるためのプロフィールをいくつも用意しているのだ。
一流のレスラーにとって、自分を演出する能力は必要不可欠なものだ。
ある時は、武勇の誉れ高きサルタンの御曹司。
ある時は、移民の立場から身を起こした苦労人の成功者。
そしてある時は、インドでフレッド・アトキンスにスカウトされたインド・レスリングの天才にして狂気のヒール・レスラー。
初来日直後のシンが、猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件などを通して、完璧な狂気を演出していたのは、彼の才能がもっともよく活かされた例だろう。

そう考えると、カナダのテレビ番組で語っていた「たった6ドルを握りしめて海を渡ったインド系移民」という、彼の「正史」すらも、本当かどうか疑わしくなる。
「貧しい移民が叶えたカナディアン・ドリーム」としては、あまりにも出来すぎたイメージだからだ。
実際、そのインタビューで「必死に戦っても月に100ドルしか稼げない状況を見た父親にパンジャーブに連れ戻され、地元で結婚生活を送っていた時期」とされる1969年から70年にかけても、シンはアジア各地を転戦していた可能性がある。
彼は、自分をどう見せれば、もっともアピールできるかが分かっているのだ。

間違えて欲しくないのは、私は何も「シンは経歴詐称ばかりしている疑わしい人物だ」と言いたいのではない。
彼が非の打ちどころのない紳士であることは多くの関係者が語っているし、東日本大震災の被災者支援や、彼が地元で行っているドラッグ依存症撲滅のための活動からも、彼が立派な人物であることは疑う余地がない。
私はシンの完璧なまでのプロ意識を称えたいのだ。
シンはかつて、本物の狂気を感じさせる極悪ヒールとして我々を怖がらせ、楽しませたが、その裏側には、かくも巧みな自己演出があったのである。
招待していないのに新日本プロレスに参戦していた狂気のヒールも、貧しさから努力で成り上がった移民の息子も、幼くして虎狩りを成功させたスルタンのエリート御曹司も、それぞれに魅力的なストーリーだし、またいかにも昭和のプロレスらしい虚構と現実が一体となったたまらない味わいがある。

結局、シンがどのようにしてプロレスに出会ったのか、いつ、どうやってデビューして、そして「ヒンズー・ハリケーン」とは何だったのか、調べれば調べるほど、謎は深まるばかりだった。
それでも、彼のプロレスラーとしての偉大さについては、これまで以上に理解できたつもりだ。

タイガー・ジェット・シン、それにしても、魅力の尽きない男である。



その他参考サイト:
https://www.nriinternet.com/NRIwrestling/CANADA/A_Z/T/Tiger_Jeet_Singh/Bio.htm

https://www.indiatoday.in/magazine/international/story/19920630-wrestling-pro-tiger-jeet-singh-hans-carves-out-twin-careers-and-an-expanding-empire-766517-2013-01-08

https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=4854

https://sites.google.com/site/wrestlingscout/profiles-by-country/profiles/tjsingh
 

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goshimasayama18 at 20:21|PermalinkComments(0)

2020年01月21日

T.J.シン伝説 番外編(日本のリングを彩ったインド系プロレスラーたち)

前回まで、伝説のヒール(悪役)レスラー、タイガー・ジェット・シン(Tiget Jeet Singh)の半生を振り返る連載企画をお届けした。
ジェット・シンについて調べた過程で気がついたのだが、じつは日本のリングで活躍したインド人レスラーはジェット・シンだけではなく、意外にもかなり大勢いたようなのだ(「活躍した」とまで言えるのはジェット・シンだけだったかもしれないが)。
そのほとんどがジェット・シン同様にパンジャーブ出身のシク教徒だった。
その理由を挙げるとするならば、クシュティにルーツを持つパンジャーブのレスリング文化の豊かさと、戦士としての誇りを持つシク文化、そして20世紀初頭から積極的に移民として海外に進出していた彼らのもの怖じしない性格ということになるだろう。

裸一貫で海を渡り、その肉体と技術のみを頼りに生きてきた彼らの姿は、世界中の都市で目撃されている謎の占い師、ヨギ・シンとも重なって見える。
今回は、日本のリングを彩った、ほとんど人々の記憶にも残っていないインド系レスラーたちの情報をまとめてお届けします。


タイガー・ジェット・シン以前
おそらく最初に日本の地を踏んだインド人レスラーは、海外ではTiger Joginder Singhのリングネームで知られたタイガー・ジョギンダーと、「インドの英雄」ダラ・シン(Dara Singh Randhwa)だろう。

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タイガー・ジョギンダーことTiger Joginder Singh(画像出典:https://www.wikiwand.com/en/Tiger_Joginder_Singh

タイガー・ジョギンダーは、1955年に行われた「アジア選手権大会」で、キングコングとのタッグで力道山&ハロルド坂田組を破り「日本最古の王座」であるアジアタッグの初代王者に輝いたレスラーだ。
パンジャーブ出身のジョギンダーだが、この「アジア選手権大会」のシングル部門には、なぜかマレーシア代表として参加していたようで(ちなみにインド代表はダラ・シン)、レスラーの国籍ギミックは今でも珍しくないとはいえ、当時のマット界はかなりおおらか(適当ともいう)だったのだろう。
ちなみに当時のアジアタッグ王座は、タイトルマッチで移動する形式ではなく、アジア選手権大会に優勝したタッグに与えられる称号のようなものだったらしく、ジョギンダー&キングコング組は防衛戦を行わないまま、1960年に第2回アジアタッグ王座決定トーナメントで優勝したフランク・バロア&ダン・ミラー組が第2代王者として認定されている。
来日前のジョギンダーは、シンガポールや米国のマットでキャリアを築いていたようで、来日前後にはインドのリング(プロレスかクシュティかは不明)でダラ・シンらと闘っていたという記録が残っている。
1960年代以降は恵まれた体格を生かしてインドで映画俳優としても活躍した。
ちなみにタッグパートナーだったキングコングもなにかと南アジアと縁が深く、wikipediaの情報によると、彼は1937年にインドのボンベイ(現ムンバイ)でレスラーとしてデビューしたとのこと。
ハンガリー出身者がインドでデビューするとは謎すぎるキャリアだが、どうやら独立前のインドには、南アジアの伝統的なレスリングであるクシュティとは別に、植民地の支配者たちの娯楽として行われていたレスリングがあったらしい。
「キングコング」という見も蓋もないリングネームも、当時のインド映画でキングコング役を演じたことからつけられたものだそうだ。
ラホール(現パキスタン領)で行われたキングコング対ダラ・シンとの一戦には、20万人もの観衆が集まったというから、当時の南アジアのレスリング文化は相当なものだったようだ。

タイガー・ジョギンダーと同じく55年のアジア選手権大会シリーズで来日したダラ・シン(Dara Singh.本名Deedar Singh Randhawa)は、日本での目立ったタイトル獲得歴こそないものの、500戦無敗という伝説を持ち、レスラーとしての格はジョギンダーよりもずっと上だった。
なにしろ、あのタイガー・ジェット・シンにレスラーになることを決意させた人なのだから、当時のインドでは相当なヒーローだったのだろう。
1928年生まれのダラ・シンは、1947年にシンガポールに渡り、工場で働きながらレスリングジムに通って、レスラーとしてのキャリアをスタートさせたらしい。
1954年にはインドのレスリング(クシュティ)トーナメントRustam-e-Hindに出場し、決勝でジョギンダーを破って優勝しているが、デビュー前後の経歴は不明で、500戦無敗と言われるエピソードの真偽ははっきりしない。
ひょっとしたらこれもインドという未知の土地から来たレスラーにハクをつけるための演出だったのかもしれないが、実際にインドでかなり尊敬を集めていたレスラーことは間違いないようだ。
各種媒体によると、日本では当時の外国人レスラーには珍しい正統派のファイトスタイルで、力道山のライバルとして活躍したらしい。
ちなみに1955年の来日時には、パキスタン代表のサイド・サイプシャー(英語表記不明)なるレスラーとタッグを組んでいたようだが、このムスリムっぽい名前のレスラーについては詳しく分からずじまいだった。
darasingh
ダラ・シン(画像出典:https://wrestlingtv.in/dara-singh-tributes-pour-in-from-bollywood-wrestling-world-on-91st-birth-anniversary/
その後、ダラ・シンは1967年にも来日しているが、このときのダラ・シンと1955年のダラ・シンが同一人物であるかどうかについては諸説あり、このあたりの謎も昭和のプロレスならではの怪しい魅力に満ちている。
(別人説についてはこちらの記事に詳しい「ダラ・シンの謎」
ダラ・シンは50年代からプロレスと並行してスタントマンや俳優としても活躍しており、武勇の猿神ハヌマーン役などを務めて人気を博した。
その後、2000年からはインドの上院議員も務めているというから、ドウェイン・ジョンソン(ザ・ロック)や馳浩の大先輩のような存在と言えるかもしれない。
2018年にはWWE殿堂入りを果たすなど、その実績は世界的にも高く評価されている。
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映画『ラーマーヤナ(Ramayan)』でハヌマーンを演じたダラ・シン(画像出典:https://www.cinetalkers.com/dara-singhs-photos-were-found-in-temples-as-hanuman-people-started-worshiping-as-god/


67年の来日時にダラ・シンのタッグパートナーを務めていたのが、サーダラ・シン
ダラ・シンの実の弟である。
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サーダラ・シン(画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Randhawa_(wrestler)
彼の名前をサー・ダラ・シンと表記している記事も見かけるが、いちレスラーの彼がSirの称号を持っているはずもなく、英語表記はSardara Singh(本名Sardara Singh Randhawa)。よりインド風に書くならサルダーラ・シンということになるだろう。(それを言ったら、ジョギンダーもジョギンダルと書くべきだが)
彼も兄を追って1952年にシンガポールに渡り、海外ではファミリーネームのRandhawaというリングネームで活動していたようだ。
日本のリングでは、すでに全盛期を過ぎていたダラ・シンともども大きなインパクトを残すことはできず、たった一度の来日で終わってしまった。
60年代から兄同様に映画にも出演していたものの、俳優としても大成した兄と違い、端役ばかりだったようだ。

ところで、ジェット・シン以前に来日したインド系レスラーの経歴を見ると、シンガポールからのルートで来日したと思われる例が多いことに気がつく。
あのジェット・シンも、カナダに渡る前にシンガポールでデビューしていたという説もあり、1960年代頃までのインド系レスラーの活躍の場としてシンガポールは相当重要な地だったようだ。


1959年の日本プロレス第1回ワールドタッグリーグ戦で来日したのが、「インドの巨人」とも「パンジャブの虎」とも異名を取った198センチの巨漢レスラー、ターロック・シン(Tarlok Singh)。
真偽不明ながらインドレスリングの王者という経歴の持ち主で、実際に1953年にはパキスタンのカラチでアクラム・ペールワンの兄アスラムと戦ったという記録が残っているが、日本のリングでは活躍できず、彼もたった1回のみの来日となってしまった。
日本では印象に残らなかったターロックだが、帰国後のエピソードが強烈だ。
なんと、「象狩り」に行ったまま行方不明となってしまい、足が不自由になった状態で発見され、その後は乞食同然となって暮らしたという。
いくらなんでもこれは嘘だと思うが(象狩りというのは聞いたことがない)、来日前の演出のためのホラ話ではなく、後日談までこの怪しさ、昭和のプロレスならではである。

1971年に自費で来日(!)し、ジャイアント馬場への挑戦を表明したのが「インドの飛鳥」ことアジェット・シン(英語表記はArjit Singhで、本来はアルジットと読むべきだろう)と「インドの蛇男」ことナランジャン・シン(Naranjan Singh)。
アジェットはダラ・シンの弟という触れ込みだったようだが、これが事実なのかどうかは分からない。 
しかし馬場には一切相手にされず、結局国際プロレスのリングに上がったものの、思うように活躍できず来日はこの1回限りとなったようだ。
それにしても「インドの飛鳥」だというのにアジェット・シンの得意技はブロックバスターだったみたいだし、「インドの蛇男」に関してはもはや意味が分からない(得意技は地味なチンロック)。
見世物的なインパクトを狙ったのだろうが、あまりにも適当なネーミングは面白くももの悲しい。
この二人は来日前はイギリスやシンガポールでキャリアを積んでいたようだ。
ところで、この頃来日したインド系レスラーは、インド・ヘビー級チャンピオンなる実態不明の肩書きを名乗っていることが多かったようである。
おそらくはハクをつけるためのハッタリだと思われるが(Rustam-e-Hindというクシュティ/ペールワニの王座は存在するようだが、これも認定団体や歴代王者等が不明の謎の称号)この二人に関しては「インド洋タッグチャンピオン」というさらに正体不明な肩書きを引っ提げていた。


タイガー・ジェット・シン以後
1973年のジェット・シンの来日、そして大ブレイク以降、これまでのシンガポール経由ではなく、カナダや南アフリカから来日するインド系レスラーたちが増えた。
どうやら、カナダでキャリアを積み、南アのブッカーとしても力を持っていたジェット・シンが、自ら連れてきたレスラーが多いようなのだ。
これ以降も記憶や記録に残るほどのインド系レスラーはほぼいないのだが、成功を独り占めせず、少しでも多くの同郷のレスラーにもチャンスを与えようとするジェット・シンの器の大きさが分かるというものだ。

1975年に来日したファザール・シン(Farthel Singh)は、ジェット・シンの実弟というギミックで、「インドの狂虎」ジェット・シンに対して「インドの猛豹」というニックネームがつけられていた。
しかしリングでは良いところを見せることができず、この1回きりの来日に終わってしまった。
あまりのふがいなさに、猪木に「二度と新日のリングに上げない」とまで言われたという情報もある。
もともとはデトロイトやモントリオールを拠点としていたようで(シンのテリトリーとも近い)、売り出し方ともども、ジェット・シンの手引きによる来日と見て間違いないだろう。

1976年に初来日した「インドの若虎」(やはりジェット・シンを意識したニックネームだろう)ガマ・シン(Gama Singh)は、さえないレスラーが多いインド系には珍しく、その後も77年、79年と三度に渡って新日本プロレスに招聘されている。
リングネームの「ガマ」は、20世紀前半に活躍したパキスタン出身の伝説的な格闘家であるグレート・ガマから取ったものだろう。
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ガマ・シン(画像出典:https://prowrestling.fandom.com/wiki/Gama_Singh
彼はパンジャーブ出身ながら、カリブ海のバハマ育ちで、ジェット・シン特集の第2回目で書いた1960年以降にアフリカやカリブからカナダに渡ったインド系移民ということになる。
カナダに渡ったのちにカルガリーで多くの地元タイトルを獲得し、南アフリカでも人気を誇ったようだ。
彼が何度も招聘されるほどに活躍できたのは、ひとえに早い時期からアメリカ式のプロレスに親しんでいたからではないだろうか。
彼はWWEで大活躍しているジンダー・マハルの伯父にあたり、実の息子もガマ・シンJr.の名前でプロレスラーとして活動している。

数多くの南アジア系泡沫レスラーのなかでも、とりわけ悲劇的なのがゴーディ・シンだ。(Gurdaye Singh. 彼もまたカナ表記が微妙。インド系レスラーのリングネームは英語読みからマイナーチェンジすべし、というルールでもあるのだろうか)
76年に行われた新日本プロレスのアジアリーグ戦に、ガマ・シンらと同時に来日。
もともとはカナダのバンクーバーを拠点としていたレスラーだったようだ。
パキスタンのラホール出身という肩書きになっているが、これが事実なのか、このリーグ戦に「パキスタン代表」として参戦するためのギミックなのかは不明(ジェット・シンとガマ・シンがインド代表)。
このシリーズには、ジェット・シン、ガマ・シン、ゴーディ・シンと、3人の「シン」が参戦していたことになる。
ちなみにゴーディ・シンのタッグパートナーだったマジット・アクラ(Majid Ackra)は、南アジアに縁もゆかりもないニュージーランドの先住民マオリの血を引くレスラーで、本名は ジョン・ダ・シルバという(John Walter da Silva. ファミリーネームがポルトガル語っぽいのが少々気になる)。
マオリの戦士をパキスタン人に仕立ててしまうのだから、あいかわらず昭和のプロレスはおおらかである。
ゴーディ・シンの悲劇が始まるのは巡業後だ。
しょっぱいながらもシリーズを終え、生まれて初めて見る大金を抱えてバンクーバーに帰ると、なんとゴーディの家は火事で全焼しており、さらにその1週間後には妻が交通事故で亡くなってしまう。
10歳の一人娘はそのショックで葬儀の最中に突然笑い始め、精神病院に入院。
何もかも失ったゴーディは、遠洋漁業の漁師として再起を図ることにしたというが、その後の彼がどうなったかは、誰も分からないという。 

翌1977年に新日本プロレスに来日したのが「インドの白虎」ことタルバー・シン(Dalibar Singh. 本来ならダリバール・シンと表記すべきだが、もう何も言うまい)。
イギリスや南アフリカで活躍していたというから、やはり南アに強いジェット・シンのルートでの来日と思われる。
DalibarSingh
タルバー・シン(画像出典:https://www.youtube.com/watch?v=ysXdS6kjAc4
イギリスではTiger Dalibar Singhの名前で活躍していたらしく、どうやらパンジャーブ系のレスラーにタイガーというリングネームをつけるのは、欧米では定番のようである。
もともとはイギリスのアマレスで名を上げた選手で、少し間を置いて83年にも新日マットに上がったのち、インド系のレスラーには珍しく85年には旧UWFにも招聘されている。
今ではジェット・シンの会社で働いているという情報もあるが、真偽は不明。

タルバー・シンと同じく77年に新日に初来日したのがモハン・シン(Mohan Singh)。ニックネームは「インドの魔術師」。
クシュティの実力者でダラ・シンからインド王座を奪ったとのふれこみだったが、インドから出たことがなかったようで、日本のリングでは活躍できず、その後の経歴も不明である。

ジェット・シン以降、ここまでが新日本プロレスに来日したレスラーたちである。
誰一人としてジェット・シンに並ぶインパクトを与えたレスラーはいなかったが(リアルタイムのファンによるブログを読むと、みんな「しょっぱかった」ようだ)、凶暴なジェット・シンのもと、インド系の謎のレスラーたちが一人また一人とやって来るというコンセプト自体は悪くなく、彼らを「シン軍団」と読んでいる記事も見かける。
当時からその呼称があったかどうかは不明なので、ここから先は完全に妄想だが、次から次へと正体不明のレスラーが増殖する(シン軍団の場合は、増殖するのではなく入れ替わり立ち替わりやってくるわけだが)というアイデアは、のちに一斉を風靡した「マシン軍団」を彷彿とさせる。
ひょっとしたら、マシン軍団のアイデアや名称は、「シン軍団」から着想を得た部分もあるのかなあ、なんて思ったりもして。

これ以降、そもそも良い人材がいなかったためか、ジェット・シンが新日ナンバーワン外国人レスラーの座から陥落したためか(あるいは、新日にアメリカとのルートができ、得体の知れないインド系に頼らなくてもよくなったのかもしれないが)、インド系レスラーの来日はぱったりと止む。
81年のジェット・シン全日移籍後も、アメリカマットとの豊富なコネクションを持つ全日本プロレスにシン軍団はお呼びでなかったらしく、全日に招聘されたインド系のレスラーは85年のダシュラン・シン(ダシラン・シンとも。英語表記はDashran Singh)のみのようである。
しかしこのダシュランも、あまりにもふがいないファイトで2試合のみで帰国してしまう。

1987年には、226cmもの身長を誇るパキスタンの自称空手チャンピオン、ラジャ・ライオン(Raja Lion)がジャイアント馬場の生涯唯一の異種格闘技戦(!)のために来日する。
試合前に「馬場は小さい」という歴史に残る言葉を発し(馬場は209cm)、話題になったそうだが、このラジャ・ライオン、試合ではまるで強さを見せられず、ヨロヨロとリング上を動き回ると、全盛期を過ぎていた馬場にあっさりと敗れている
彼はこれまでのインド系レスラー/格闘家の中でも輪をかけて酷く、素人目にも格闘技経験が無いのが解るほどで、「その後カレー屋の店長をしていたのを見た」という真偽不明の噂が広まるなど、別の意味で記憶に残る人物だった大槻ケンヂがよくネタにしていた)。
これに懲りたのか、その後、インド系レスラー不在の時代が長く続く。

久しぶりにやってきたインド系レスラーは、ジャイアント・シンことダリップ・シン(本名Dalip Singh Rana)。
Giant Singh
ジャイアント・シン(画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ダリップ・シン

2001年、迷走していた時期の新日本プロレスに蝶野が呼び寄せた巨漢レスラー2人組のうちの1人で、216cmもの長身を誇る、その名の通りの「巨人」だった(もう1人はブラジル出身のジャイアント・シルバ)。
しかしながら、見た目のインパクトに反して不器用なファイトが続き、シルバとの仲間割れや一騎打ちなど、それなりに話題になりそうなことをしていたのだが、正直あまり記憶に残っていない。
当時の専門誌に「ラテン系の陽気なシルバとインド出身で真面目なシンの確執」と説得力があるんだかないんだか分からない記事が書かれていたのをうっすらと覚えているくらいの印象である。
インドで警察官、ボディビルダーとして活躍してミスターインドにも輝いたのち、レスラーを目指してアメリカに渡り、マイナーな団体をいくつか渡り歩いたのちの来日だった。
クシュティではなくボディビル出身で、プロレスが完全にエンターテイメントと化した時代に海を渡ったジャイアント・シンは、新しい時代のインド系レスラーと言って良いだろう。
ちなみに彼はパンジャーブ系ではあるものの、シク教徒ではなくヒンドゥー教徒のようである。

相方のジャイアント・シルバはその後総合格闘技に転向(ぱっとしなかったが)。
ジャイアント・シンはこのまま消えてしまうのかと思われたが、2006年にWWE入りすると、グレート・カリ(Great Khali)のリングネームで猛烈にプッシュされ、WWEヘビー級王座を獲得するなど大活躍。
これは急速な成長を続ける(そしてプロレスファンが非常に多い)インド市場を見越した抜擢だろうが、いずれにしても南アジア系では初の快挙となった。
2015年にはパンジャーブにCWE(Continental Wrestling Entertainment)なる団体(プロレス学校も兼ねているようだ)を設立し、母国のプロレス文化普及に務めている。


…と、こうしてまとめて書かなければ、よっぽどコアなファン以外からは忘れられてしまいそうなインド系レスラーたちを紹介してみた。
改めて感じるのは、ジェット・シンはインド系レスラーの中では本当に別格だったんだなあ、ということだ。
鬼気迫る狂気を完璧に表現し、リング外でも徹底して凶悪ヒールのイメージを形成する自己プロデュース能力、リングでのテクニック、チャンスを独り占めせず同郷の仲間たちにも与える器の大きさ、そしてプロレス以外でも事業を営み成功させる経営能力と、全てにおいて桁外れの才能の持ち主だったことがはっきりと分かる。

インドでのクシュティ人気の低下や、これまでのクシュティ出身者がしょっぱかったせいだと思うが、昨今ではクシュティ出身のプロレスラーが全くいなくなってしまったのは、なんだか少し寂しいような気がしないでもない。
「寝技がなく、相手の背中を地面につけたら勝ち」というクシュティのルールで育った選手では、現代的なプロレスにはもはや対応できないのだろう。


ふと気づいたのだが、このクシュティのルールで育った選手が活躍できそうな格闘技があるとしたら、それは相撲ではないだろうか。
クシュティはインドの都市部では廃れてしまったが、地方ではまだまだ盛んなようで、きっとハングリー精神の旺盛な選手がたくさんいるのではないかと思う。
シク教徒は食のタブーのない人もいるので(個人や宗派による)、ちゃんこを食べることにも抵抗は少ないだろう。
ハワイ勢、モンゴル勢に続いて、インドの力士が活躍する時代が来たら面白いなあ、なんて思っている次第である。

だんだん何を書いているか分からなくなって来たので、今回はここまで。

今回の記事を書くにあたり、プロレスライターのミック博士が書いている「ミック博士の昭和プロレス研究室(http://www.showapuroresu.com)」から非常に多くの情報をいただいた。
っていうか、懐かしい名前がたくさん出てきて、ブログを書く作業が進まないっていったらなかった。
歴史に埋もれてしまいそうなレスラーたちを記録していただいたことに改めて感謝しつつ、タイガー・ジェット・シンを巡る連載を終わります。




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goshimasayama18 at 23:18|PermalinkComments(0)

2020年01月14日

タイガー・ジェット・シン伝説その3 全てを手に入れた男

その1の記事はこちら


その2の記事はこちら


猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件、腕折り事件といったスキャンダラスな話題に満ちたアントニオ猪木とタイガー・ジェット・シンの抗争は、新日本プロレスに(もちろん、シンにも)巨万の富をもたらした。
シンはその狂気を感じさせる独特のファイトスタイルで、新日ナンバーワン外国人レスラーの座を確かなものとした。

しかし、シンと新日本プロレスとの蜜月にも終わりがやってくる。
1977年、カウボーイ・スタイルのアメリカ人レスラー、スタン・ハンセンが新日に初参戦する。
ハンセンは、必殺技の「ウエスタン・ラリアート」でブルーノ・サンマルチノの首をへし折ったというふれこみだったが、それは実は後付けで、その実態は下手なボディスラムでサンマルチノの首を負傷させてしまった不器用なレスラーに過ぎなかった。
しかし、ハンセンはシンの暴走ファイトを参考に「ブレーキの壊れたダンプカー」と称されるスタイルを確立すると、みるみるうちに人気レスラーとなり、ついにはシンから新日ナンバーワン外国人の座を奪うまでになる。
ハンセンのトレードマークであるブルロープを振り回し、観客を蹴散らしながら入場するのは、サーベルを振り回して入場するシンの影響だと言われている。
シンがザ・シークのスタイルを取り入れて日本でトップを取ったように、ハンセンはシンのスタイルを取り入れ、そのお手本を上回る人気を得たのだ。
(それでも、ハンセンはシンに対する尊敬の気持ちを持ち続けており、二人はけっして不仲ではなかった)

さらに、1981年には新日本プロレスが全日本プロレスからアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜くという事件が発生。
ブッチャーはシンと同様に反則ファイトや凶器攻撃を得意とする怪奇派の人気ヒールレスラーだ。
シンは来日前からブッチャーと面識があったが、もともとウマが合わず、さらには自分と似たキャラクターのレスラーを引き抜いた新日フロント陣への不満も募っていった。
一方、ブッチャーを引き抜かれた全日本プロレスは、報復として新日からのシン、ハンセンの引き抜きを画策する。
シンとハンセンはそれに応じて全日本プロレスへの移籍を決意、新日本と全日本の興行戦争はますます加熱してゆく。
正直に告白すると、私がタイガー・ジェット・シンを記憶しているのはこの頃からだ。
全日本プロレスでのシンは、ハンセンやブルーザー・ブロディよりも格下の扱いであり、そのヒールぶりは狂気というよりは伝統芸能、様式美の域に達していたが、それでもなおサーベルを振り回して入場する彼の姿は、子供心にインパクトを残すには十分なものだった。

ところで、地元トロントでは事業家としても知られるシンは、現役時代からレスラーとしてだけではなく、ブッカーとしても活躍していた。
とくに、100万人を超えるインド系住民が暮らしている南アフリカには多くのレスラーを派遣していたようだ。
1987年、ある悲劇が起きる。
シンは全日本プロレスに南アフリカへの選手派遣を依頼し、ジャイアント馬場は要請に応えて、当時若手有望株だったハル薗田を遠征させることにした。
新婚だった薗田のハネムーン兼ねたものにしてやろうと思っていたのだ。
ところが、南アフリカ行きの飛行機が墜落し、薗田夫妻は帰らぬ人となってしまう。
このとき、シンは狂人ヒールというキャラクターを捨て去り、スーツ姿でマスコミの前に現れて深い悔恨の意を伝え、ファンを驚かせた。
シンの本当の人柄が伝わるエピソードだが、これはあくまでも非常事態に見せた例外的な対応だ。
シンは自身のキャラクターを守ることを強く意識しており、とくにヒールとして活躍していた日本では、自分からその素顔をメディアに見せることは決してなかった。(そして、今日まで、その信念は揺らいでいない)
一方で、ベビーフェイス(善玉レスラー)として活躍していたカナダでは、事業家や慈善活動家としての一面も隠さずにメディアに語っており、こうしたキャラクターの使い分けは、シンの高いプロ意識によるものと言えるだろう。
全日本プロレスでのシンは、元横綱の輪島大士のデビュー戦の相手を務めたり、新日から復帰したブッチャーと不仲を乗り越えて「最凶悪タッグ」を結成したりするなど話題を振りまいたが、その活躍は新日のトップヒール時代とは比べるべくもなかった。
だが、シンの伝説はこのままでは終わらない。

全盛期を過ぎたかに見えたシンだが、新日本プロレスの古参ファンたちは、彼のことを忘れてはいなかった。
1990年9月30日、新日本プロレスのアントニオ猪木デビュー30周年興行。
シンは、この記念すべき試合の猪木のタッグパートナーに、ファン投票によって選ばれたのだ(対戦相手はビッグバン・ベイダー、アニマル浜口)。
日本では極悪ヒールとして活躍してきたシンだが、日本マット界の最大のカリスマである猪木のプロレス人生で最も重要なレスラーとして選ばれたことに対しては、万感の思いがあったようだ。
横浜アリーナに集まった18,000人(超満員札止め)の大観衆が見守るなか、シンは、いつものような狂乱ファイトを封印し、多少のラフさを残しながらも、猪木を立てる役割に終始する。
彼の本当の人柄が現れた日本では稀有な試合で、機会があればぜひ見てみることをお勧めする。

生まれ故郷のインドを離れ、居を構えたカナダからも遠く離れた日本で、彼は生まれ持った真面目さを捨て、いや、その真面目さゆえに、「インドの狂虎」として暴れまわり、恐れられた。
カナダに妻子を残し、本来の性格とは正反対の悪役を完璧に演じることで、彼は成功を手にした。
日本のプロレス界の絶対的ヒーローである猪木と初めて同じコーナーに立ち、割れんばかりの歓声(罵声や恐怖の叫びでなく)を浴びたシンの思いはいかばかりだっただろうか。
それにしてもこの試合、「教祖としての猪木」への観客の盛り上がりが凄まじい。
全盛期はとうに過ぎているにもかかわらず、動きや表情の一つ一つで観客を魅了してゆく猪木の格闘アーティストぶりは素晴らしく、シンからタッチされた直後にベイダーに腕折りを仕掛ける場面なんかは天才的な発想だ。(猪木がかつて、死闘の末にシンの腕を折ったとされる伝説の試合のオマージュになっており、またほぼ全ての観客がそれを理解しているのも凄い)

話をシンに戻す。
猪木30周年記念試合をきっかけに新日本プロレスに復帰したシンは、馳浩と巌流島で戦うなど、一定の話題を振りまくが、やはり全盛期ほどの活躍はできず、1992年にふたたび新日を離れることになる。

しかし、これでもまだ終わらないのが、シンの凄いところだ。

これ以降、シンはFMW、NOW、IWAジャパンといった、いわゆるインディー団体への来日を繰り返し、まだまだ健在であることをアピールしてゆく。
これらの団体では、もちろんシンはトップ外国人レスラーであり、サーベルを手に存分に暴れまわってその力を誇示した。
ちなみに、「日本のプロレス報道のクオリティ・ペーパー」である東京スポーツは、この頃からシンのリングネームの表記を、より本来の発音に近い「タイガー・ジット・シン」と記載するようになった。
本人の意向もあったようだが、一般のファンや他のマスコミには浸透せず、私もそんなことはまったく知らなかった。
ちょうどこの時期、私はプロレスから遠ざかっていたので、たまに東スポ紙上で「ジット・シン」がインディー団体に上がっているという記事を見るたびに、超大物レスラーであるシンとマイナーな団体とが結びつかず、「これは本物のシンなのか、それともシンによく似たパロディ・レスラーなのか」と悩んだものだった。

さらに時は流れる。
2005年、タイガー・ジェット・シンの姿は、まだ日本のリングの上にあった。
「ハッスル」というかなりエンターテインメント色の強いプロレス興行ではあったが、60歳のシンの鍛え上げられた肉体はリアルだった。
トレーニングではベンチプレスを軽々と持ち上げ、全盛期と同様にサーベルを振り回し、観客を恐怖に陥れながら入場すると、リングでは凶器攻撃でオリンピック柔道銀メダリストの小川直也を徹底的に痛めつけた。
この光景は、このシリーズを書くにあたってかなり参考にした"Tiger!"というドキュメンタリー番組(2005年、カナダ制作)の一場面である。
あくまで画面からの印象だが、このときのシンのコンディションは、体重が増加し思うように動けなかった全日時代よりもむしろ良かったのではないかと思えるくらいだ。
このドキュメンタリーのなかで、シンは自らの言葉で半生を語っている。
試合での年齢を感じさせない狂乱のファイトとは対象的に、広大な敷地の豪邸で穏やかにインタビューに答える様子は、成功者としての貫禄にあふれ、人々に慕われ、尊敬されている様子が伝わってくる。

結局のところ、この男は何者なのだろうか。


シンの半生を振り返る。
彼は「すべてを手に入れた男」だ。
力、富、尊敬、家族、地位、名誉。
およそ人間が手に入れたいと願うもので、彼が手に入れられなかったものはない。
しかも、彼が手にしたもののうち、親から授かったものは、恵まれた肉体(彼の身長は191㎝)と、その誠実な人柄だけであり、それ以外の全ては、彼が努力によって手に入れたものなのだ。

「力」については言うまでもないだろう。
インドで身につけたクシュティ、フレッド・アトキンス仕込みのプロレスの技術、ザ・シークから学んだ暴走ファイト、そして、60歳を過ぎてなおリングで大暴れできるほどにストイックに鍛え上げられた肉体。
自身をどう見せるかというプロデュース能力を含めて、こうした全てが彼にリングでの成功をもたらした。
そこには、自分のキャラクターとスタイルへの強烈なプライドもあった。
稀代の悪役として新日本プロレスで暴れ回っていた頃、新日ストロング・スタイルの創始者であり、「神様」とも称されたカール・ゴッチは、シンのスタイルを快く思っていなかったそうだ。
だが、シンはゴッチと一触即発の状況になっても、一歩も引かなかったという。
自身が新日立て直しの最大の立役者であるという自負が、そうさせたのだろう。
一方で、シンはいわゆる「ストロング・スタイル」の日本のプロレスのスタイルに強い思い入れを持っていたようで、地元のメディアに対して「現在のWWE的なプロレスはフェイク。自分が日本でしていたのは本物の戦いだった」という趣旨のことを語っている。
シンの強烈なハングリー精神とプライドは、より「リアル」を重んじる日本のリングだからこそら華開いたのだ。

「富」については、彼の現在の暮らしぶりを見れば何の説明もいらないはずだ。
リムジンで移動し、誕生日をクルーザーで祝う彼は、成功におぼれ身を持ち崩す者も多いレスラーの中では、極めて堅実に成功している例と言えるだろう。
シンは、カナダでは日本で稼いだ金をもとに事業に成功した実業家としても知られている。
彼はホテル、不動産、土地開発を手がける経営者でもあり、今では800エーカーの敷地に立つ豪邸に住んでいる。

「尊敬」に関しては、これまで述べてきた通りだ。
日本でのシンは、ヒールとしての悪名から転じて、やがて誰からも愛される存在となった。
カナダのメディアは、「日本ではシンは神のように扱われている。妊婦がシンのもとにやってきて、彼のように強い子どもが生まれるように、お腹をさわってほしいとお願いしに来ることもある」と驚きをもって伝えている。
うれしいことに、シン自身も地元メディアに日本のファンへの感謝を常に語っており、最も印象的な試合として、アメリカでも有名なアンドレ・ザ・ジャイアントやザ・シークとの対戦ではなく、猪木戦や輪島戦を挙げている。
地元カナダでも彼は名士として知られているが、やはり日本での知名度と存在感は格別であり、シンもその事実を誇らしく思ってくれているようだ。

彼の「家族」について見てみると、今では幸せに孫たちに囲まれて暮らしているものの、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
シン夫妻には3人の息子がいる。
妻は結婚早々に故郷のパンジャーブを離れてカナダに引っ越すことになり、巡業で家を空けがちな夫がいない寂しさに耐えなければならなかった。
当時は英語も満足に話すことができず、孤独感のなかで子供たちを育てざるを得なかったという。
インターネットのない時代に、いつ命にかかわるケガをするか分からない仕事をしている夫を、慣れない異国の地で待って暮らすのはさぞ心細かったことだろう。
だが、子供たちは立派に育った。
長男のGurjitはTiger Ali SinghのリングネームでWWEなどで活躍し、タイガー・ジェット・シンJr.の名前で来日して親子タッグも組んだこともある(彼のリングネームは、自身のヒーローである父とモハメド・アリの名前を合体したものだ。彼は今ではケガを理由にプロレスを引退して、父の名を冠した財団の仕事をしている)
他の息子たちも、ホテルを経営するなど、さまざまな分野で活躍しているようだ。

日本ではなく、カナダにおける「名誉」や「尊敬」については、少し説明が必要だろう。
シンは、プロレスや事業で稼いだお金を、決して自分や家族のためだけには使わなかった。
彼は、「タイガー・ジェット・シン財団」を作り、ドラッグ対策、健康増進、奨学金などの形で社会貢献をしてきた。
2010年には、そうした活動を称えて、彼が暮らしているオンタリオ州ミルトンの公立学校に、Tiger Jeet Singh Public Schoolの名前がつけられることになった。
カナダで初めてシク教徒の名前がつけられた学校であり、そしておそらく世界初のプロレスラーの名前を冠した学校でもある。
命名にあたって、「暴力的なプロレスラーの名前を学校につけるのはいかがなものか?」という意見もあったようだが、彼が地域をより良いものにしたロールモデルであるという理由で、シンの名前が採用されることになったという。
2012年には、こうした活動を称えられ、財団の仕事をしている息子のGurjitとともに、英国王室からダイヤモンド・ジュビリー勲章を授与された。
日本人としては、2011年の東日本大震災に対して、彼の財団が日本支援のためのキャンペーンをしてくれたことも忘れずに覚えておくべきだろう。

1971年に、インドからたった6ドルを握りしめて海を渡ってきた少年が、ここまでの成功を収めるとは、いったい誰が想像しただろうか。
だが、彼の絶え間ない努力と誠実さを考えれば、彼が手にした成功は全く不思議ではないのだ。
今後、もし「尊敬する人は誰か?」と聞かれたら、私は即座に「タイガー・ジェット・シン」と答えることにしたい。


さて、その後のシンは、明確な引退宣言をしないまま、セミリタイア状態が続いている。
どうやら2009年にハッスルのリングに上がったのが、現役レスラーとしての最後の姿になったようだ。
いくら頑健な肉体を誇るシンとはいえ、もう75歳であり、これからリングの上で戦うことはないだろう。
引退試合は難しいかもしれないが、せめて引退セレモニーくらいはしてほしいというのがせめてもの願いである。
シンがプロレスのリングを離れて10年以上が経過した。
かつてシンが活躍した新日本プロレスは、当時の猪木体制から完全に決別しており、また全日本プロレスもシンが来日した馬場時代とは全く別の体制となっている。
現在の日本のプロレス界でシンの功績が振り返られることはほとんどない。
だが、シンの居場所がオールドファンの心の中だけというのはあまりにも寂しい。
そして、現役を退いた今だからこそ、シンに、日本のファンに向けてありのままの人生を語ってもらえないだろうか。
彼はヒールとしてのキャラクターを貫きたいのかもしれないが、ぜひシン自身の言葉で、彼の哲学を、努力を、大切にしているものを聞いてみたい。
彼の人生から我々が学べることは、あまりにも多いのだから。



参考サイト:


カナダでやはりインド系の映像プロデューサーLalita Krishaが作成したドキュメンタリー"Tiger!"では、日本では決して見せないシンの素顔を見ることができる。







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goshimasayama18 at 19:37|PermalinkComments(0)

2020年01月11日

タイガー・ジェット・シン伝説その2 猛虎襲来!来日、そして最凶のヒールへ

(前回の記事はこちら)


プロレスラーとしてのキャリアをあきらめ、故郷のパンジャーブで農家として新婚生活を始めたシンに、トロントの古巣メイプルリーフ・レスリングから再び声がかかった。
もう一度、リングに上がってほしいというのだ。
それには、こんな背景があった。

シンがリングを去った後、北米では、「アラビアの怪人」ことザ・シークがリングを荒らしまくっていた。
シークはアラビア人というギミック(じつはレバノン系アメリカ人)で火炎殺法をあやつる怪奇派レスラー。
従来のプロレスのセオリーを無視した暴走ファイトで一世を風靡し、そのすさまじい人気は国境を越えてカナダにも及んだ。
そのシークがトロントにやってくることになったのだ。
メイプルリーフ・レスリングのフランク・タネイは、アクの強いシークに対抗できるレスラーとして、シンのカムバックを画策した。
 
プロレスラーの夢を捨てていなかったシンはこのオファーを受け、新婚の妻を連れて再びカナダへと渡る。
果たして、1971年のトロントで、シーク対シンはドル箱マッチとなった。
彼らの金網マッチに人々は熱狂し、それまで良くて3,500人の観客しか入らなかったメイプルリーフ・ガーデンには、20,000人もの観客が押し寄せるようになった。

ちなみに、「ザ・シーク」というリングネームは、カタカナで書くとシンが信仰する「シク教(Sikh, Sikhism。 シーク教と表記することもある)」とよく似ているが、アルファベットで書くと'The Sheikh'であり、アラビア語で「部族の長老、首長」を意味する「シャイフ」という言葉の英語表記である。
それにしても、この時代のカナダで、アラビア人対インド人の試合がメインというのもすごい話だ。
シンはシークとの戦いで株を上げ、大いに稼いでキャデラックを乗り回すまでになった。
地元トロントでシンがヒール(悪役)からベビーフェイス(善玉)にターンしたのもこの頃だろう。
それには、ザ・シークという最強の悪役がいたということだけでなく、おそらくカナダ社会の変化が関係している。

20世紀前半、パンジャーブ系を中心とした多くの南アジア系移民が、アジア極東地域から太平洋を渡ってカナダ西岸の街バンクーバーに移り住んだ。
シンの家族が当初バンクーバーを目指したのも、この街にすでにパンジャーブ系コミュニティーの基盤があったことが理由だろう。
1960年代以降になると、南アジア系住民の第二波がカナダに到達する。
今度は東部に位置するカナダ最大の都市トロントに、アフリカやカリブ諸国に移住していたインド系住民たちがやってきたのだ。

多民族国家であるアメリカやカナダのプロレスは、ベビーフェイスとヒールの戦いであると同時に、各コミュニティーの代表の戦いでもある。
1960〜70年代のWWWF(現WWE。ニューヨークを拠点としている)でブルーノ・サンマルチノが絶対的なスターだったのは、ニューヨークのイタリア系移民の多さと無関係ではない。
インド人をはじめとする南アジア系住民が増えてきたトロントには、インド系のシンが外国人ヒールではなく、ベビーフェイスとして活躍する素地が出来ていたのだろう。
(その後もトロントの南アジア系社会は成長を続け、郊外を含めると、今ではトロントにはバンクーバーを上回る約100万人の南アジア系住民が暮らしている)

しかしシンは、北米マット界の辺境であるトロントでの成功では飽き足らなかった。
カナダのローカルスターに過ぎなかった彼は、さらなる成功を夢見て世界を転戦する。
オーストラリア、シンガポール、ブラジル、香港などのリングに立ち、そして1973年5月、ついに運命の国、日本へとやってくる。

シンの来日には、新日本プロレスと近しいある貿易商が関わっていたようだ。
香港でシンのファイトを見た彼は、新日の関係者にシンの写真を見せた。
ターバン姿でナイフをくわえ、目をひんむいたシンの写真を見たアントニオ猪木は、この世界的には無名なレスラーを招聘しようと決断する。
当時、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに主要な外国人レスラーの招聘ルートを抑えられていた新日本プロレスは、インパクトのある外国人レスラーがなんとしても必要だったのだ。

ところで、シク教徒の男性には、教義によって身につけることになっている「5つのK」がある(今日では日常的にこの全てを守っているシク教徒は少ないが)。
Kesh(髪を伸ばし切らないこと)、Khanga(小さな木製の櫛)、Kara(右腕にはめる鉄の腕輪)、Kachera(ゆったりした短パンのような下着)、そして、自身と正義を守るための短剣、Kirpan(キルパーン)だ。
シンが写真でくわえていたのは、このキルパーンだった。
アントニオ猪木は、この写真を見て、ナイフをサーベルに変えることを提案する。
レスラーとしての成功を夢見ていたシンは、シク教徒のシンボルとの決別を意味するこの提案を快諾。
日本では、伝統を保持するインド系コミュニティの代表としてではなく、狂気の外国人レスラーとして暴れまわることを、当初から決意していたのだろう。
入場時に振り回し、試合では凶器として使用する、シンのトレードマークとも言えるあのサーベルはこうして誕生した。

1973年5月3日、タイガー・ジェット・シン、初来日。
その2ヶ月前には、のちにWWEでTiger Ali Singhとして活躍する長男Gurjitが生まれたばかりだった。
幼い我が子と妻をカナダに残して極東の地を踏んだシンの心情はいかばかりだっただろうか。 
手違いで早く日本に着いてしまったシンは、新日本プロレスに翌日の川崎大会に招待された。
客席から見るだけだったはずのシンだが、何を思ったか山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合に乱入すると、小鉄をめった打ちにしてしまう。
突然現れたターバン姿のガイジンレスラーの凶行は、強烈なインパクトを残した。
ここからのプロレス史的なシンの活躍については、すでにさまざまな形で書かれているので、簡単に紹介するに留めよう。
シンは新日本のリングで、水を得た魚のように暴れ回り、あっという間に人気悪役レスラーとなった。
凶器攻撃、試合展開を度外視した暴走ファイト、そして、シンそのものから滲み出る本物の狂気を感じさせる怪しさは、観客の目を釘付けにした。
シンが日本で見せた無軌道なファイトスタイルは、間違いなくカナダで肌を合わせたザ・シークから学んだものだ。(ちなみにシンもシーク譲りの火炎殺法を使っている)
 
そして、同年11月、あの、あまりにも有名な猪木夫妻伊勢丹前襲撃事件が起こる。
「リアル」なものとして警察も出動する騒ぎになったこの騒動は、今日ではプロレス的なストーリーライン上の出来事されているが、この時代に、リングも会場も飛び出して、家族をも巻き込んだ後年のWWE的演出の原点とも言えるアングルを仕掛けた発想は、天才的だった。
この騒動に、当事者であり新日本プロレスの経営者でもあった猪木が深く関わっていたことは間違いないだろう。
このたった3年後には、天才猪木は逆の方向に振り切れ、後の総合格闘技の原点とも言えるモハメド・アリとの異種格闘技戦を行う。
アントニオ猪木もまた、狂気とも言える才覚の人だった。

その後、猪木とシンとの遺恨マッチは新日本プロレスに多くのファンを呼び込むことになる。
猪木、シン、そして観客の興奮と熱狂は1974年6月26日の大阪府立体育館で頂点に達し、伝説となっている猪木によるシンの「腕折り事件」を迎える。
この一連の猪木-シンの抗争は、当時全日本プロレスに大きく水を開けられていた新日本プロレスに莫大な利益をもたらした。
来日時に週給3,000ドルだったシンの報酬は、最終的には週給8,000ドルにまで上がったという。

シンの日本での成功にはいくつかの理由がある。
ひとつには、ポケットの中にたった6ドルを握りしめてカナダに渡ったシンの、強烈なハングリー精神が挙げられる。
日本はアメリカ、メキシコと並ぶプロレス大国であり、当時はファンたちがプロレスを"リアルなもの"として熱狂していた時代である。
生まれたばかりの子と妻をカナダに残して来日したシンは、なんとしてもここ日本で強烈な爪痕を残したいと感じていたはずだ。
この想いが、前述の理由から有力な外国人レスラーが招聘できなかった新日本プロレスの思惑と合致した。
シンにとって幸運だったのは、そこにアントニオ猪木というもう一人の「狂気」を宿した天才がいたということだ。
シンの狂気を感じさせる暴走ファイトと、感情をむき出しにしてそれを受け止める猪木との化学反応は、相乗効果となって観客たちを興奮の坩堝へと誘った。

TJシン2


猪木、そして新日本プロレスは、シンの演出の面でも完璧だった。
シク教徒のシンボルだった短剣をよりインパクトの強いサーベルに持ち替えさせ、「伊勢丹前襲撃事件」、さらには「招待していないのに勝手に参戦している」という斬新なアングルを用意して、シンの「狂気のヒール」というイメージを確固たるものにしていった。

とはいえ、シンは単なるキワモノのヒールではなかった。
彼の狂乱のファイトのベースにはフレッド・アトキンスに鍛えられた確かなプロレス技術があり、猪木もその実力には一目置いていたという。
緩急のあるファイトが、単なる怪奇派にとどまらない試合の流れを作り出していたのだ。

また、今ではファンに広く知られているが、素顔のシンは実に誠実で紳士的な男だった。
ミスター高橋の著書によると、1973年の5月3日に初来日したシンは、スーツ姿で空港に現れ、名刺を差し出して高橋を驚かせた。
そんな挨拶をした外国人レスラーは他に誰もいなかったからだ。
スポンサーに招待されたバーベキューで、火力が強まり汗ばんでも、シンは「社長、ジャケットを脱いでもよろしいでしょうか」とわざわざ断りを入れるほど、気配りのできる人物だった。
猪木によるシンの「腕折り」はプロレス的なストーリーの中でのこと(実際に骨折したわけではない)だったのだが、律儀なシンはその後しばらく腕に包帯を巻いて過ごし、そのために腕がかぶれてしまっても、包帯を巻き続けていたという。
シンのあまりにも誠実な性格は、やはり誇り高きシク教徒の軍人だった父、そして伝統的なインド女性だった母親からの影響によるものだろう。
彼の「狂気」「暴走」は、こうした「生真面目さ」に裏打ちされたものだったのだ。
バス移動中のサービスエリアでファンに声をかけられたシンが、ヒールのキャラクターを崩さないために襲いかかるふりをしたところ、そのファンに足があたってファンが転んでしまったことがあったという。
出発したバスの中で、シンはファンのことをいつまでも心配していたそうだ。

プロレスがリアルで、それゆえの熱狂を生み出していた70年代日本で、シンはついに稀代のヒールとして開花した。
「インドの狂虎 」の伝説はまだまだ終わらない。

(つづきはこちら)


参考文献:
ミスター高橋「悪役レスラーのやさしい素顔」ほか



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2020年01月08日

タイガー・ジェット・シン伝説その1 パンジャーブの虎、カナダに渡る。そして虎たちの系譜


ジャグジート・シン・ハンス(Jagjeet Singh Hans)という名前を聞いて、ピンとくる人はほとんどいないだろう。
だが、ある世代の日本人にとって、彼はもっともよく知られているインド人であり、そしてもっとも恐れられたインド人でもあるはずだ。
彼のもうひとつの名前は、タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh)。
インドの狂虎。
稀代の悪役レスラー。
彼のリングネームは、本来であれば「ジート・シン」とカナ表記すべきなのだろうが、それを「ジェット・シン」としたことで、彼の狂乱のファイトの勢いが伝わってくるような響きになった。
誰かは知らないが、彼の名前を最初に訳した人に敬意を表したい。

新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃事件や、試合での流血ファイト、凶器攻撃など、リング内外での彼の暴れっぷりについては、プロレスファンによく知られている。
また、もう少し熱心なファンなら、素顔の彼がじつは非常に紳士的な人物だと聞いたことがある人も多いはずだ。
彼が現在暮らしているカナダには、その名前が冠された小学校があるという話も、ファンの間では有名である。
しかし、プロレス不毛の地であるインド出身の彼が、なぜ、どうやってプロレスラーになったのか。
本来は紳士であるはずの彼は、どうして稀代の悪役レスラーとなったのか。
そして、カナダでは地元の名士だという彼の本当の素顔はどのようなものなのか。
この「日本で最もよく知られているインド人」について、我々が知らないことはあまりにも多い。
今回から数回に分けて、タイガー・ジェット・シンの半生を振り返り、そのインド人としてのルーツを探る企画をお届けします。

Punjab_in_India
(インド・パンジャーブ州の位置。https://ja.wikipedia.org/wiki/パンジャーブ州_(インド)より)


1944年4月3日、ジャグジート・シン・ハンスは、パンジャーブ地方のシク教徒の家庭に生まれた。
「シク教」は、15世紀にパンジャーブで生まれた宗教で、男性の信徒がターバンを巻くことでよく知られている。
シク教徒は、インド全体の人口の2パーセントほどに過ぎないマイノリティだが、早くから海外に出た人たちが多かったため、インド人といえばターバンというイメージが世界中で定着してしまった。
ジャグジートの出生地は、現在のインド領パンジャーブ州の中央に位置する、ルディヤーナー郡のスジャプルという村だ。
「現在のインド領」とことわったのは、彼が生まれた当時、インドという国家はまだ存在しておらず、南アジア一帯がイギリスの支配下だったからだ。
1947年、彼が3歳のときに、インドとパキスタンはイギリスからの独立を果たし、故郷のパンジャーブ地方は2つの国に分断されることになった。
この印パ分離独立にともない、パンジャーブ一帯は大混乱となった。
イスラーム国家となったパキスタンを脱出してインド領内を目指すヒンドゥー教徒・シク教徒と、インドからパキスタンを目指すイスラーム教徒がパニック状態となり、混乱のなかで起きた暴力行為による犠牲者数は、数百万人に上るとも言われている。
この悲劇がシンの一家にどのような影響を与えたかは、分からない。
いずれにしても分離独立にともなうパンジャーブの混乱は、この地域に暮らす人々の海外移住に拍車をかけることになった。

シンの父は軍人、母は伝統的な専業主婦だった。
シク教徒は古来、勇猛な戦士として知られており、今日でも軍隊に所属する者が多い。
ジャグジート少年も、誇り高き軍人の息子として、厳しく育てられたはずだ。
彼の紳士的な性格や、後年慈善事業に積極的に取り組む姿勢は、こうした家庭環境からの影響が大きいのだろう。
少年時代のジャグジートは、アカーラー(Akhara)と呼ばれる道場で、インド式レスリングのクシュティとカバディを習っていたという。
この頃、クシュティの英雄だったダラ・シン(後述)の試合を見たことが、後の彼の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
(余談だが、カール・ゴッチによって日本のプロレス界に取り入れられた棍棒を使ったトレーニング方法の「コシティ」は、インド〜西アジア発祥のトレーニングで、その語源はクシュティに由来する)

ジャグジートが17歳のときに、彼の一家はバンクーバーに移住することになる(15歳説もある)。
20世紀初頭から、カナダ西岸ブリティッシュ・コロンビア州の州都バンクーバーには、太平洋を渡った多くのシク教徒が工場労働者として移住していた。
彼らもそうした流れに乗って、より豊かな生活を求めて移民となったのだろう。
カナダに渡るジャグジートのポケットにはたったの6ドルしか無かったというから、まさに裸一貫での移住である。

バンクーバーに渡ったジャグジート少年は、英語が分からなかったので、早々に学校からドロップアウトし、学校に行くふりをして近所のジムに通うようになった。
インドでアカーラー(道場)に通っていた彼にとって、学校よりもジムのほうが馴染みやすかったのかもしれない。
トレーニングに打ち込んだ彼の体は、みるみる強く、大きくなってゆく。
この頃、テレビで初めてプロレスを見た彼は、「これなら自分にもできるはずだ」と思い立ち、レスラーになるため、カナダ東部のオンタリオ湖畔の街、トロントへと移り住むことを決意する。
彼の地元のバンクーバーは、のちにジン・キニスキーによってAll Starという団体が設立されるまで、プロレス不毛の地だったのだ。
東部のトロントには、小さいながらもプロレス団体がすでに存在していた。
念願は叶い、移住先のトロントで、ジャグジートはプロモーターのフランク・タネイ(Frank Tanney)によってプロレスラーとなることを認められた。
「ターバンを巻いたレスラー」という個性をタネイに評価されてのことだった。
徐々に多文化社会となってゆくカナダで、人種的多様性に着目したのは先見の明と言って良いだろう。

ジャグジートは、フレッド・アトキンス(Fred Atkins)のもとで厳しいトレーニングを積み、そのファイトスタイルの激しさから、Tiger Jeet Singhのリングネームを授かる。
アトキンスはジャイアント馬場の修行時代のコーチとしても知られる名レスラーで、彼もまたニュージーランド出身の移民だった。
 
ジャグジート改めタイガー・ジェット・シンは、1965年にデビューする。
21歳のときのことだった
シンは、きびしい練習の成果からめきめき頭角を現し、その年の暮れには、タッグマッチでメインイベントを任されるまでに成長した。
パートナーは日系人レスラーのプロフェッサー・ヒロ。
この頃から、 日本となにか縁があったのだろうか。
ちなみに、日本のファンには、「シンは地元カナダではベビーフェイス(正統派)のレスラー」と知られているが、この頃のシンは、まだ荒っぽいファイトを繰り広げるヒール(悪役)だった。
やがて彼は地元のメイプルリーフ・レスリングのUS王座につき、団体のメインコンテンダーとして活躍するようになる。
しかしトロントのレスリングマーケットは小さく、大入りでも3,500人程度しか入らない。
週にたった100ドルを稼ぐために、必死で戦う毎日が続いた。
豊かになるために訪れたカナダで、体を張った厳しい日々が続く。 
彼のレスリング人生の根底にあるのは、インド時代からこの時期までに培われたハングリー精神だろう。 
だが、苦労するジャグジートを見かねた父は、彼をインドに連れ戻してしまう。
さすがのシンも、軍人の父親には頭が上がらなかった。

1970年(1967年8月という説もある)、パンジャーブに戻った彼は、一般的なインド人と同様に、お見合いをして、地元のスポーツ選手だった女性と結婚する。
花嫁は、夫がしているという「レスリング」がどんなものだか知らなかったという。
シンの妻は、はじめは太った大男かと思って彼を怖がっていたが、会ってみると思いのほか紳士的な男性だったと語っている。
生まれ故郷のパンジャーブで、シンの新婚生活が始まった。
ここで彼のレスラーとしてのキャリアが終わってしまえば、タイガー・ジェット・シンはトロントの一部のファンにしか記憶されない存在になっていたはずだ。

ところで、「タイガー」と異名をつけられたインド系のレスラーは彼が最初ではない。
「虎」はインド人レスラーの典型的なイメージだったのだろう。
1930年代から60年代に世界中を転戦して活躍したDaula Singhは、Tiger Daulaのリングネームを名乗り、真偽のほどは不明だが、インディア・チャンピオンなる肩書きを引っさげていたようだ。
また、1919年生まれのJoginder Singhも、Tiger Joginder Singhというリングネームを使っていた。
彼の活躍の場は、シンガポール、米国を経て日本にも及び、1955年には「タイガー・ジョギンダー」の名で力道山・ハロルド坂田組を破って日本最古のベルトであるアジアタッグの初代チャンピオンにも輝いている(パートナーはキングコング)。
Tiger Joginder Singhを1954年にインドで破ったのが、Dara Singh(ダラ・シン)。
500戦無敗という伝説を誇り、少年時代のジャグジートにレスラーになるきっかけを与えた人物だ。
彼は力道山時代に来日した数少ないクリーンなファイトをする外国人としても知られ、1968年には母国インドであのルー・テーズを破って、世界チャンピオンにも輝いている(調べたが、この王座がどこの団体が認定したものかは分からなかった)。

この「シン」たちは、いずれもパンジャーブ出身のシク教徒のレスラーだ。
今もパンジャーブにはシク教徒が多く、世界中のシク教徒の6割以上がこの地に暮らしている。
「シン」はシク教徒の男性全員が名乗る名前で、「ライオン」を意味している。
つまり、タイガー・ジェット・シンという名前には、虎とライオンが入っているのだ。

パンジャーブ出身の格闘家の歴史は古い。
さらに時代を遡ると、1878年生まれのグレート・ガマ(Great Gama)という格闘家がいる。
本名(Ghulam Mohammad Baksh Butt)を見る限り、彼はシクではなくムスリムのようだが、彼もまた、英領時代のパンジャーブ地方の生まれである。
彼はイギリスや英領時代のインドで数多くの強豪と戦い、52年に渡るキャリアで、5,000試合無敗という伝説も残っている英雄だ。
グレート・ガマはペールワニ(Pehlwani)と呼ばれるインド式レスリングの絶対王者だった。
昭和のプロレスに興味がある人であれば、ペールワニという言葉を聞いて、アントニオ猪木と異種格闘技戦を行ったパキスタンの格闘家、アクラム・ペールワンを思い出す人も多いだろう。
グレート・ガマは、このアクラム・ペールワンの叔父にあたる。 
猪木ファンの間では、「ペールワン」とは最強の男にのみ許される称号だという説が有名だが、実際は、「ペールワニのレスラー」という程度の意味である。
ちなみにかのブルース・リーはグレート・ガマのトレーニング方法を参考にしていたというから、グレート・ガマがいなかったらインドで今も大人気のブルース・リーは存在しなかったかもしれない。
ペールワニおそるべしである。 
とにかく、「パンジャーブから世界的(プロ)レスラーになる」という道筋は、20世紀のごく初期から作られていたのだ。

彼らの共通点は、クシュティ、ペールワニの経験者であるということ。
調べてみると、どうやらクシュティとペールワニは同じ競技を指しているようだ。
ペールワニ(Pehlwani)はイスラーム式(ペルシア語由来)の呼び方であるため、ムスリムであるガマやアクラムは、クシュティではなくこの呼称を使っているのだろう。
ヒンドゥー教徒(インドの人口の8割を占める)にとってのクシュティには、ラーマ神に忠誠を誓う戦士として知られる猿神ハヌマーンへの帰依という要素が加わることがあるようだ。
また、ボリウッド映画のタイトルにもなった「ダンガル(Dangal)」という言葉も、同様の「南アジア式レスリング」を指している。

いずれにしても、パンジャーブはインド式のレスリングが盛んな土地柄だったのだろう。
そのなかから、グレート・ガマやダラ・シンのような英雄が誕生し、後続の若者たちも、富と成功を目指してレスラーを夢見るようになった。
おそらく、パンジャーブから次々とプロレスラーが誕生した理由は、こんなところではないだろうか。
日本からも、相撲出身の力道山や豊登、柔道出身の木村政彦や坂口征二など、ドメスティックな格闘技出身のプロレスラーが多く誕生した時代である。
もちろん、インドと日本だけではない。
本場アメリカのプロレスは、世界中の力自慢の移民たちがしのぎを削る場だった。
「鉄人」ルー・テーズはハンガリー系だし、「神様」カール・ゴッチはベルギー出身、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノはイタリア出身、「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスはメキシコ出身で、「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントはフランス出身だ。
インターネットも衛星放送も無かった時代、プロレスは、体一つで一攫千金を夢見る世界中の腕自慢や荒くれ者が集まる、まさに戦いのワンダーランドだったのだ。

気になるのは、クシュティ(ペールワニ)が、純粋に勝ち負けを競うスポーツとしての格闘技なのか、プロレスのようにエンターテインメント(興行)としての要素もあるものなのか、ということだ。
調べて見たのところ、インドには全国クシュティ協会のような組織があるわけではなく、クシュティは基本的には道場や村落単位で行われているようだ。
'Rustam-e-Hind'という「インド・チャンピオン」の称号もあるそうだが、どんな大会が開かれ、どんな団体が認定しているのかについては全く情報がなかった。
YouTubeで検索して見ても、地方の屋外会場で行われている動画ばかりがヒットする。
その試合はむしろ非常に地味で、エンターテインメントからはほど遠く、純粋に強さを競うものであるように見える。
近年ではクシュティの競技人口も大きく減っているようで、今後、ミステリアスな「クシュティ出身の強豪」という触れ込みのプロレスラーが登場することは、もう無いのかもしれない。

話をタイガー・ジェット・シンに戻す。
家庭を持ったシンが、故郷パンジャーブで平穏な暮らしをすることを、レスリングの神は許さなかった。
トロントのメイプルリーフ・レスリングから、シンに再び声がかかったのだ。
シンがいない間に北米全土で大人気となったヒールレスラー、ザ・シークに対抗できる人材として、ターバン姿でラフファイトを繰り広げていた彼に、白羽の矢が立った。
ダラ・シンのように強くなりたい。
プロレスで富と成功を手に入れたい。
シンは、新婚の妻を連れ、カナダに戻ることを決意する。

シンのプロレスラーとしての旅は始まったばかりだ。
そして、その伝説は、まだ始まってすらいない。

(続きはこちらから)


【参考サイト・参考映像】
https://www.bramptonguardian.com/news-story/6003647-the-tiger-with-a-heart-of-gold

https://web.archive.org/web/20090505075751/http://www.sceneandheard.ca/article.php?id=1080&morgue=1

ドキュメンタリー番組"Tiger!"
など



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2018年08月05日

インドのプロレス事情 続報!

前回紹介したインドのプロレス団体、RKK
2012年の旗揚げ戦の模様を見てみると、アメリカのWWEをモデルにしたショーアップされたエンターテインメント・プロレスでインド人たちを大いに熱狂させていた。

その後、RKKはどうなったのか?
そして他にもインド独自のプロレス団体はあるのか? 
今回はそのへんを探ってみました。 

まずはRKKについて。
すでに紹介した通り、 スコット・スタイナー(元新日本プロレス、WWE等)、チャボ・ゲレロ(元WWE)、アメリカン・アドニス(元WWEのザ・マスターピース)、マット・モーガン(元WWE)、Dr.ニコラス(元WWEのユージーン)といった超豪華なメンバーにインド人レスラーを加えた顔ぶれでの賑々しい旗揚げ戦の後もエンタメ路線のプロレスを続け、なんと賭博問題で大相撲を解雇された元大相撲の最重量力士、山本山を登場させたりもしていたらしい。
ただしどうやら山本山はレスラーとして試合をするのはイヤだったらしく、この登場はレスラーとしてのものではなく、WWE的連続ドラマのゲストという扱いだった模様。

気になって山本山のことも調べてみたら、廃業後、どんな紆余曲折があったのかは知らないが、インドのリアリティーショー番組、"Big Boss"に出演して折り紙を教えたり(!)していたようだ。
そもそもそこからして意味がわからないが、インド人、よく山本山を見つけてきたなあ。

さて、その後、そのRKKはどうなったんじゃい、と思ってしらべてみたら、なんとびっくり、2017年にRKKは活動を終了していた。
あんなに派手にやっていたのに、やはりインドでは時期尚早だったんだろうか。
RKKの仕掛け人はアメリカのプロレス界で海千山千のジェフ・ジャレットだったが、お金をずいぶんかけていただけに、撤退の決断も早かったのかもしれない。
少し前までYoutubeで見られた動画もほとんど消されてしまったようだ。
山本山の入場シーンなんかも見られたのに、紹介できずに残念だ。

ではインドではプロレスの灯は消えてしまったのか?
いや、そんなことはない。
このサイト(www.wrestling.org.in)や英語版ヤフー知恵袋とも言えるQuoraによると、いままでに存在していたいくつもの団体のほとんどが活動を休止し、死屍累々たる状況のようだが、どうやら現在でも活動している団体が少なくとも2つはあるようだ。

それが、これから紹介するWrestle SquareとCWEだ。
Wrestle Squareの試合の様子はこちら。

これはBaliyan Akki とZorroというレスラーたちの試合。

うーん、けっこうグダグダ。
ちなみにこの試合に出ているBaliyan Akki (バリアン・アッキ)という選手は、現在日本のプロレス団体であるDDT傘下の「ガンバレプロレス」という団体に参戦している模様。
日本のデスメタルバンドがインドツアーをしたり、インドのレスラーが日本で活躍したりと、ジャンルを問わずインディーシーンのグローバル化はどんどん進んでいるというわけだ。

もう一方のCWEという団体は、かつてWWEに参戦しヘビー級王座にも輝いたグレート・カリことダリップ・シンが旗揚げした団体のようだ。
ダリップ・シンは、身長216cmのいわゆる巨人レスラー。
日本のプロレスファンには、むしろチーム2000時代の蝶野がブラジル出身のジャイアント・シルバとともに連れてきたジャイアント・シンとしてのほうが有名かもしれない。
この団体の試合の模様がこちら。

試合は2:00頃から始まるが、こちらも小さな会場ながらもなかなかの熱戦を見せている。
ここで強調したいのは、たとえ小さな会場であろうと、技術が稚拙であろうとも、「俺たちはプロレスがやりたいんじゃー!」という、彼らの学生プロレスにも似た情熱だ。
以前、コンゴのプロレスが日本のプロレスファンの間で局地的に話題になったことがあったが、おそらくは世界中に、こうした「プロレスがやりたい!」「あわよくば大スターになりたい!」という情熱だけに支えられた小さな団体があるのだろう。

しかしながら、そもそもインドにこうしたプロレス団体があることすら、地元のファンに知られていないようで、前述のQuoraに寄せられた、「どうしてインドで誰もプロレス団体を立ち上げないのか」という質問に対して、回答者は、「インドのプロレスファンは、結局のところほとんどが"WWEファン"で、本当の意味での"プロレス"のファンはかなり少ない、だからインドでのプロレス団体の成功については非常に懐疑的」と答えている。

ではインド人はプロレスで成功できないのかというと、そんなことはなくて、以前も書いたように、ジンダー・マハル、シン・ブラザーズといったインド系レスラーは今もWWEで活躍している。
またガンバレ・プロレスに参戦中のバリアン・アッキは、HEAT-UPユニバーサル選手権という超マイナーな王座ではあるが、日本でタイトルマッチを戦うまでになった。

つまり、インド国内でプロレスラーとしての活躍の場が整っていないがゆえに、テクノロジーや企業経営や医療などの面で起きている「頭脳流出」と同様に、プロレスラーの「肉体流出」が起こっているというわけだ。
自国での活躍が望めない以上、才能あるレスラーは、世界最大のプロレス大国にして英語が通じるアメリカ(WWE)を目指すのは当然のことと言える。

なんだか今回の記事はインドのプロレスの先行きに非常に暗澹たる予感を残すものになってしまったけど、レスラーを持ち上げるのもクビにするのも早いWWEのこと、ダリップ・シンのようにインドに戻ってくる選手が増えれば、インド国内のマット界も盛り上がってくるかもしれない。
世界的に、有能なプロレスラーというのは有力なプロレス団体の数に比べて供給過剰な状況が続いているので、以前紹介したインドのサッカーリーグのように、世界中の名レスラーたちがインドに集まってくる日が来ないと誰が言えるだろうか。

最近めっきりプロレスから離れていたワタクシですが、インドのマット界についてはまたときどき注目してみたいな、と思います。

ところで、先日読者の方からメッセージをいただき、取り上げて欲しいアーティストのリクエストをいただいたので、 次回かその次あたりで、そのリクエストいただいたバンドを紹介できればなあと考えています。
ほいじゃ、また。 


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「軽刈田 凡平(かるかった ぼんべい)のアッチャーインディア 読んだり聞いたり考えたり」

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2018年05月07日

ここまで熱狂するか!インドのプロレス団体Ring Ka King!

今まで、このブログではインドと音楽をテーマにいろいろなことを書いてきたわけだが、アタクシの幼少期から学生時代にかけて、音楽以外で大きな影響を受けてきたものといえば、それはプロレス。

「超獣」「不沈艦」「黒い呪術師」「皇帝戦士」「人間魚雷」「殺人医師」。
…大仰な異名のガイジンレスラーが暴れまわっていたあの頃、リングはまさに戦いのワンダーランドだった(遠い目)。

インドとプロレスといえば、まず思い出すのはもちろん「インドの狂える虎」タイガー・ジェット・シン。
新宿伊勢丹前猪木夫妻襲撃事件、ザ・ファンクスとの流血マッチ等、数々の伝説を残し、ブッチャー、シークと並んで昭和の3大ヒールと称されることはみなさんご存知だろう(ご存知でなくても別にいいけど)。
今でも新宿伊勢丹と聞くと、オシャレでハイソなイメージよりも、シンの襲撃事件を思い出してしまう40代以上の男性は多いと聞く。

まあとにかく、インドとプロレスを結びつけるものはタイガー・ジェット・シンくらいしか無かったアタクシは、長らくインドとプロレスを脳の別々の場所に記憶して生きてきた。

ところが数年前、この2つの記憶に新たな接点が生じる出来事があった。
それは、「スラムドッグ$ミリオネア」の原作者でもあるインド人作家、ヴィカス・スワループの「6人の容疑者」という小説を読んでいたときのこと。
登場人物の一人で、無教養でお人好しのアメリカ人観光客「ラリー・ペイジ」が、インド人女性との結婚詐欺に引っかかったときに、いきなりこんなことを言い出したのだ。
「俺は泣き虫じゃない。最後に泣いたのはずっと昔、1998年のことだ。WWEの有名な“ヘル・イン・ア・セル”の試合で、マンカインド(またの名をミック・フォーリー)がジ・アンダーテイカーに負けたときだ。あのときは胸がしめつけられたみたいに苦しくて、母さんの膝に抱きついて思いっきり泣いた。」

WWEは、ご存知の方も多いと思うが、世界最大の規模を誇るアメリカのプロレス団体。ストーリーやキャラクター重視の「スポーツ・エンターテインメント(ショーとしてのプロレス)」を掲げ、世界中で人気を博している。

著者のスワループは外交官で、大阪のインド領事館の総領事を務めたこともあるエリート中のエリートだ。
そんな彼の著作に、アメリカ市民の中では無教養な庶民の娯楽とされるアメリカン・プロレスについてのずいぶん具体的な記述が出てきたので、非常に驚いたものだった。
確かに「マヌケなアメリカの貧乏白人」の独白としては良くできたセリフだが、このやたらと具体的な記述のニュアンスをインドの読者は理解できるのだろうか?スワループはWWEマニアなのか?
大いに違和感を感じたのを覚えている。

とはいえそんなことはまた忘れたまま月日は流れ、つい数ヶ月前にこのブログでも取り上げた、インド北東部トリプラ州出身のラッパー、Borkung Hrangkawl(BK)のスポークンワードを聴いたとき、またしてもびっくりした。

この中で確かにBKはこう言っている。


“Don't mind me saying this but is this is some kinda freak show. Its' like we are Rey Mysterio and you're the Big Show.”


このラップはインドの主要地域(メインランド)に差別され続ける北東部諸州の状況を訴えるためのものだ。
ここで取り上げられているレイ・ミステリオは90年代から00年代にかけてWWEで活躍したメキシコ系の小柄なレスラーで、体格的には軽量級ながらも、華麗な跳び技を活かしてヘビー級のチャンピオンベルトを巻いたこともある人気選手だ。
一方のビッグ・ショーも同時期にWWEで活躍した213cm、200kgの巨漢レスラー。
このラインは「人口も少なく権力も弱いトリプラ州の俺たちがインドの主要地域にモノ申すのはまるでレイ・ミステリオvsビッグ・ショーの試合みたいだ」という文脈ということになる。

これは「規模は小さくても見くびるな。お前を倒す力はある」という意味なのか、それとも「筋書きのあるWWEの試合ならともかく、現実の社会では弱者が強者に勝つことはできない。それなのにこんな残酷ショーを続けるのか」という意味なのか。
いずれにしてもとても印象的なリリックだ。


とは言うものの、果たしてこのラップの主なリスナーであるインドの人たちは、こうしたWWEのレスラーのキャラクターまで理解して、リリックの意味を咀嚼することができるのだろうか。
分かる人にだけ分かればいい、ということだとしても、それなりの割合で「分かる人」がいなければこんな表現はしないだろうし、そもそもBK本人が相当なWWEファンでなければこんな表現は思いつかないはずだ。
BKもまた、WWEマニアなのか?

これまた驚きと違和感を感じたものだった。

そしてその驚きと違和感は、徐々に疑問に変わっていった。
「ひょっとすると、インド人はプロレスが大好きなのではないだろうか?」

そう考えてみると、確かにいろいろと思い当たるふしがある。
インドの男性俳優ってみんな無駄にマッチョだし、少し前まではほとんどの娯楽映画に必ずアクションシーンが入っていた。
キャラの立ったマッチョマンがリング上で戦いとドラマを繰り広げるアメリカン・スタイルのプロレスを、インド人が好きにならないはずがない。

問題は、そのWWEをインド人がどれくらい見ることができるかということだが、インドでも中流階級へのケーブルテレビの普及は凄まじいというし、今やWWEはインターネットで視聴することも可能だ。

インドでプロレス熱が高まっているとしても不思議ではない。

さらに、最近のWWEでは「ジンダー・マハル」や「グレート・カリ」といったインド系レスラーが活躍していると聞く。
世界中をマーケットとするWWEでこれだけインド人レスラーがプッシュされているということは、それだけインドの市場(もしくは在米インド系移民。アメリカのプロレスはイタリア系、メキシコ系などの移民社会を代表するレスラーが活躍してきた歴史を持つ)が意識されているということだ。


これはもしかしたらインドにもプロレス団体があるのかもしれない。
例えばメキシコという国は、先住民の伝説をもとに幾多のマスクマンを生み出し、独創的なプロレス「ルチャ・リブレ」を生み出したが、インドも独自のアクの強い文化には事欠かない。
インド人が本気でプロレスを始めたら、すごいことになるのではないか。
そう思って探してみたら、驚くべき団体を発見!

マハーラーシュトラ州、プネーを本拠地とする団体、その名もRing Ka King!

完全なWWEスタイルのエンタメ・プロレスで、とにかく観客の熱狂が凄い!


このRing Ka King(「リングの王」という意味のようだ)は、元プロレスラーにして、アメリカで2番手のプロレス団体「TNA(現Impact Wrestling)」の創設者としても知られるジェフ・ジャレットが設立した団体らしい。
WWEに代表されるアメリカン・スタイルのプロレスを完全に踏襲して披露している。

この動画は2012年の団体立ち上げ時のもの。
選手はインドのレスラーに加えて、WWEやTNAでかつて一線級の人気を博していた錚々たるレスラーが名を連ねており、ジェフの力の入れようが伺える。
アタクシも新日でも活躍していたスコット・スタイナーが入場してきたときはちょっと興奮してしまった。

セクシーな女性達のボリウッド・ダンスから始まり、国民的スポーツであるクリケットのスター選手が出てくるオープニングは、WWE的エンタメ・プロレスの見事なインドへの翻案。


実況が英語ではなくヒンディー語なのは、アメリカでプロレスが「無教養な層の大衆娯楽」であるという位置付けをインドでも獲得しようとしているものと考えられる。

試合(23:48から!)を見ると、まだまだインド人レスラーはレスリングが下手だし、試合自体も非常に大味で、下手なアメリカン・プロレスといった内容だが、観客は大いに盛り上がっている。
 

仕掛け人のジェフ・ジャレットは、GFW(Global Force Wrestling)という団体も創設し、数年前に新日本プロレスとも提携してリングにも上がっていたので(その後、この団体は消滅した模様)最近のプロレスファンでもご存知の方がいるかもしれない。
WWEの独占状況が続くアメリカのプロレス界に対抗して、ジェフがインドや日本といった魅力ある市場を開拓しようとしているようにも見える。
(一方で、業界トップのWWEは成長する中国市場を見越して中国人レスラー王彬(ワン・ビン)を獲得している)
 

この熱狂ぶりと潜在的な市場規模(人口)から考えたら、インドはアメリカ、日本、メキシコに次ぐ第4のレスリング大国になるポテンシャルも十分にあるのではないかと思う。

インドの文化的多様性を考えると、例えばコルカタのリクシャー引きとか、ヒンドゥー原理主義者とか、イスラムのテロリストとかいろんな面白いレスラーが出てきても良さそうなものだけど、出てくるレスラーはせいぜいパンジャーブ出身とかアピールする程度。
さすがに政治や差別や宗教が関わる問題はタブーなのだろう。
WWEでは湾岸戦争のときに悪役レスラーとしてフセインのそっくりさんが出てきていたけど、インドのプロレスでパキスタン系レスラーが悪役として出てきたらやだな。


このRKKはインド西部マハーラーシュトラ州(ムンバイと同じ州)の大学都市プネーを拠点にしている団体だが、なにしろ国土が広く言語や文化も多様なインドのこと、いずれインドも、かつてのアメリカのように各地にプロレス団体が乱立するようなことになるのかもしれない。 


…今日もついつい熱くなってしまったけど、本や音楽をきっかけにインドのプロレス界を覗いてみたという話でした。
最後にもうひとつだけ。
小説の中にプロレスが出てきた話といえば、インドとはまったく関係のないけど、インドネシアの小説「虹の少年たち」を読んでいたら、こんな文章に出くわして驚いたことがある。
びっくり度合いで言ったら、こっちのほうが衝撃は大きかったな。

ようやく、僕の後ろにスペースができ、身動きが取れるようになった。僕はこの一瞬を逃さず、残っているすべての力を振り絞ってサムソンの股間のところに一直線にキックを繰り出した。それはまるで、一九七六年に日本のプロレスラーであるアントニオ猪木がモハメド・アリと対戦した時に見せたあの必殺のキックのようだった。

なんの前振りもなく、猪木の「アリ・キック」が比喩として使われている!
インドネシア人は「あの必殺のキック」と言われて、「ああ、あれのことね」と分かるのだろうか。
この小説の中で、唐突にプロレスに関する記述が出てきたのはこの1箇所だけ。
あの「世紀の凡戦」と言われた一戦を、インドネシアの人たちはどのように捉えたのだろうか。

だんだん何を話しているのか分からなくなってきたけど、RKKとインドプロレス事情、音楽じゃないけど面白そうなので、今後も注目してゆきたいと思います。


それからT.J.シンや、馬場の生涯唯一の異種格闘技戦の相手ラジャ・ライオン、グレート・カリ(ジャイアント・シン)、ジンダー・マハルといったインド系レスラーたちについても、いつかは掘り下げて取り上げてみたいと思います。


それではまた!


ムダにマッチョなインド人俳優
渋谷でやってた「インド映画祭」で飾られてた、ムダにマッチョなインド人俳優たちの写真。


goshimasayama18 at 00:12|PermalinkComments(0)