インド映画

2020年04月01日

ヒンディー語映画『きっと、またあえる』はボリウッド映画の幕の内弁当だ

ヒンディー語映画『きっと、またあえる』が4月24日に公開になる。(シネマート新宿、シネマート心斎橋ほか)

新型コロナウイルス流行につき、公開延期となっていましたが、8/21(金)公開が決定しました!

先日行われた試写会でこの映画を拝見することができたので、今回は私なりに紹介&解説してみます。

映画公式Twitter:



この映画の原題である"Chhichhore"は、ヒンディー語で「軽薄な、お気楽な(人)」という意味らしい。
インド映画ファンならお気づきの通り、『きっと、またあえる』という邦題は、2009年にインドで大ヒットした『きっと、うまくいく』(日本では2013年に公開。原題"3 Idiots")、 そして2016年に公開されインド映画の世界興行収入歴代1位を記録した『ダンガル きっと、つよくなる』(日本では2018年に公開。原題"Dangal". いずれもヒンディー語)にあやかったものだ。
安易な命名と言いたくなるところだが、これにはちゃんと(?)理由がある。

この作品は、『ダンガル きっと、つよくなる』でもメガホンを取ったニテーシュ・ティワーリー監督によるもので、なおかつ『きっと、うまくいく』と同じ、インドが誇る名門工科大学IIT(をモデルにした大学)を舞台にした青春コメディ・ヒューマンドラマなのである。
ストーリー的なつながりがあるわけではないが、先行の大ヒット2作品を意識した邦題をつけたくなるのもわからないでもない。
主演は『きっと、うまくいく』と同じラージクマール・ヒラニ監督の『PK』でパキスタン人青年役を好演したスシャント・シン・ラージプート。
ヒロインに『愛するがゆえに(原題"Aashiqui2")』や『サーホー』のシュラッダー・カプール。
他にも実力派のキャストたちが、個性的なキャラクターの学生時代と40代を見事に演じ分けている。


(以下のあらすじは、クライマックスや具体的なエピソードには触れずに書いたつもりですが、映画を見るまでストーリーを知りたくないという方は、2本めの動画の下にあるレビューまで飛ばしてください。)

日本版の予告編は、楽しくてなおかつ感動的な雰囲気がとてもよく伝わってくる。





あらすじ
アルニット(通称、"アニ")は、名門ボンベイ工科大学卒業のエリートビジネスマン。
妻と別れ、今では一人息子のラーガヴと豪邸で二人きりで暮らしている。
自信家のアニと違い、受験生のラーガヴは気弱な性格で、「負け犬」と呼ばれることを極度に恐れていた。

ところが、「あるできこと」をきっかけに、ラーガヴは脳に障害を負い、昏睡状態に陥ってしまう。
アニの完璧主義的な子育てが、知らず知らずのうちにラーガヴを追い詰めていたのだ。

アニは、寝たきりになった息子に、自分が学生時代に「負け犬の集まり」と呼ばれていた寮で暮らしていた話をして元気づけようとする。
成功者であり、強い父親である自分も、かつては「負け犬」と呼ばれていたことを伝えれば、弱気な息子もきっと自分に自身が持てるはず。

挫折や弱みを息子に見せたことがなかったアニは、寮生活の思い出話を信じさせるために、一癖も二癖もある学生時代の仲間たちを久しぶりに呼び集める。

エロで頭がいっぱいのセクサ、汚い言葉遣いでは右に出るもののいないアシッド、マザコンのマミー、アル中の「へべれけ」、そしてスポーツ万能だったがすっかり「負け犬寮」暮らしが板についてしまったデレク。
かつて「負け犬」と呼ばれていた彼らは、今ではそれぞれが大企業の重要なポジションについて活躍していた。
彼らは旧友(アニ)の一大事に仕事を休んで駆けつけ、アニとともに寮での思い出をラーガヴに語りかける。

学生時代、彼らが暮らしていたボロボロの寮"H4"は、「負け犬たちの寮」と呼ばれていた。
ことあるごとに彼らを馬鹿にするエリート集団の寮"H3"を見返すために、"H4"の仲間たちは寮対抗の競技大会"GC"に勝負をかけることにした。
クリケット、バスケットボール、卓球、カバディ、バドミントン、陸上、チェス、キャロム…、スポーツからテーブルゲームまで、30もの種目が行われるこの大会に、"H4"の「負け犬たち」はそれぞれの特技を活かして挑んでゆく。
…そして、恋の思い出も。
アニは、男子が多い理系大学で「ハレー彗星級」の美女だったマヤと恋に落ちる。
アニとマヤの恋は実り、卒業後に家庭を築くことができたものの、ラーガヴが生まれたのちに、価値観の違いから別居してしまっていた。
思い出話をしてゆくうちに、卒業後、競争社会でエリートとして暮らしてきた旧友たちの気持ちに、少しづつ変化が訪れる。

そして、アニとマヤの関係にも、ぬくもりが戻り始めてゆく。
ラーガヴのために必死で思い出話を語る、かつての「負け犬たち」。
やがて父(アニ)の思い出話と、息子(ラーガヴ)の容体は、思いもしなかった展開を迎える…。




インド版の予告編は、よりコミカルさが全面に出た仕上がりになっている。



主人公アニの学生時代と現在を行き来しながら進むこのストーリーには、親子の確執と邂逅、カレッジでの青春、憧れの女性との恋愛、ライバルとの争い、そして「本当に大切なものは何か」という問いかけといった、インド映画の定番テーマがぜいたくに、かつバランスよく盛り込まれている。
登場人物は多いが、それぞれに個性が強くキャラが立っていて、まさにインド映画の幕の内弁当のような作品だ。

寮生活のエピソードは、じっさいにIITボンベイ校の卒業生であるティワーリー監督の実体験に基づいているという。
ストーリーで大きな意味を持つ寮対抗の競技大会'GC'は、実際にIITで行われている行事だそうで、登場人物たちの名前やキャラクターも、監督の実際の友人がもとになっているとのことだ。
ムンバイのような大都市の学生文化は、インドの若者たちのカルチャーの中で大きな位置を占めており、例えばこのブログでいつも紹介しているようなインドのインディーミュージシャンたちも、カレッジで行われるフェスティバルを重要な演奏の機会としている(映画『ガリーボーイ』に出てきたカレッジでのライブシーンを思い出してみてほしい)。

カーストに基づく身分差別が知られるインドだが、都市部では「学歴の差」がカーストに代わる新しい社会格差として定着するという現象が起きている。
加熱する受験戦争やエリート主義に対する異議は、『きっと、うまくいく』や『ヒンディー・ミディアム』といった映画でも取り上げられた人々の共感を呼ぶトピックで、ティワーリー監督も「学生時代に負け犬だったとしても、その後の人生で成功できる」というテーマをこの作品の中心に据えている。

試写会で配布されたプレス資料に松岡環先生が書いていたが(すばらしい文章だったので、きっと同じものがパンフレットにも載ることと思う)、父アニの学生時代だった1992年は、インドが経済開放政策を導入し、飛躍的な経済成長の幕開けとなった時代だ。
今では贅沢な暮らしをしているアニや同級生達は、卒業後、こうした経済成長の波に乗って成功を納めたのだろう。
しかし、アニの家に生まれた息子ラーガヴは、成功の象徴である恵まれた生活が日常になってしまっており、受験に失敗してこの暮らしから落ちこぼれることを極度に恐れている。
こうした「ひとまず豊かな暮らしは出来ているが、親の世代のような社会の成長はもう望めず、努力を怠ればきっと転落してしまう」という感覚は、日本の若者にも共感できるものだろう。

昨今のちょっと社会派のボリウッド作品によくある「あまり踊らない系の映画」だが、ここぞという場面でド派手なミュージカルシーンをぶち込んで大切なメッセージを伝える演出は、インド映画ファンもきっと満足できるはず。
ヒロインの登場シーンやクライマックスなどでは、いかにもインド映画らしいけれん味たっぷりの演出が楽しめる一方で、まるでヨーロッパ映画のような鮮やかだが落ち着いた色彩の映像も美しい。
垢抜けないけれどレトロでどこか愛らしい、90年代のムンバイの学生たちのファッションも見どころだ。
(シュラッダー・カプールが演じるマヤだけは、時代を考えるとオシャレすぎるような気がするが)

大人が見れば旧友に会いたくなる、小さい子を持つ親が見れば子どもに優しくなれる、受験を控えた子どもたちが見れば少し気持ちが楽になる、そんな温かい映画なので、こんなご時世ではありますが、ぜひみなさんもご覧になってみてはいかがでしょう。

ところで、ストーリーにはいっさい関係のない話だけど、ボロボロの寮という設定の'H4'が、ちょうど同じ時代にインドひとり旅をしていた私が泊まってた宿よりだいぶマシだったことに驚いた。
貧乏バックパッカーが泊まる宿ってのはエリート学生だったら顔をそむけるような環境だったんだなあ…。



6月15日追記:
コロナウイルスが一段落し、公開日が8月21日に決まったという矢先に、なんと主演のスシャント・シン・ラージプートが亡くなったというニュースが飛び込んできた。
詳細は不明だが、自ら死を選んだということらしい。
インドの報道では、「映画では自死を諌める役だったのに…」という皮肉めいたものも見かけられるが、役と役者は別のものだ。
スシャントのみならず、心のうちにどんな葛藤があろうと、役柄を全うして、我々に感動を届けてくれる俳優たちを、改めて讃えたい。
コロナのせいだけでなく、なんとも言い難い時期の公開になってしまったが、希望を与えてくれる映画の内容と、苦くて厳しい現実を両方を受け止めて、命というものについて改めて考えることとしたい。
それが、スシャントの冥福を祈ることにもなると信じて。

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2020年03月28日

『世界はリズムで満ちている』("Sarvam Thaala Mayam")は音楽映画の傑作!

先日、タミル映画『世界はリズムで満ちている』(原題"Sarvam Thaala Mayam", 英語では"Madras Beats"というタイトルがつけられている)の日本語字幕つきDVD発売記念試写会に行く機会があった。
この映画は2018年の東京国際映画祭ワールドプレミア上映されたものの、その後日本での一般公開はされていない、いわば「幻の名作」。
私も映画祭のときに見ることができず、今回が初見だったのだが、これが大変素晴らしかった!

監督はラージヴ・メーナン(Rajiv Menon. 以下、日本語表記は東京国際映画祭のときの表記で記載)。
メーナンは1995年のマニ・ラトナム監督の名作映画『ボンベイ』や日本でも撮影が行われた2020年公開予定の"SUMO"など多くの作品で撮影監督を務めている人物で、総監督としては前作からほぼ20年ぶりの3作目となる。
主演のG.V.プラカーシュ・クマール(G.V. Prakash Kumar)は、この映画の音楽監督であるA.R.ラフマーン(A.R.Rahman)の姉の息子で、映画のプレイバック・シンガーなども務める音楽畑出身(自作曲も歌う)の俳優。この映画で国内のいくつかの映画賞の主演男優賞にノミネートされるなど、高い評価を得た。
主人公の師匠役には数多くの出演作品・受賞歴を誇るベテラン俳優ネドゥムディ・ヴェーヌ(Nedumudi Venu)、ヒロイン役にアパルナー・バーラムラリ(Aparna Balamurali)。
ちなみにこの作品はタミル語映画だが、監督はタミル・ナードゥではなくケーララ州出身であり、ヴェーヌとバーラムラリもケーララ出身でマラヤーラム語映画をメインに活躍しているようだ。

…と、さも詳しそうに書いているものの、インド映画に疎い私は、ラフマーン以外は全くの初耳。
全くよく分からない状態で見たのだが、どの役者も素晴らしく、とくに演奏シーンはまったく違和感なく超絶技巧を演じていて圧巻の一言。
私同様、インド映画に疎い人も安心して見てほしい。


今回発売されるDVDの日本語字幕は、南インドの映画やカルチャーの発信拠点としても有名なインド料理店「なんどり」さんと、南インド研究者の小尾淳(おび・じゅん)さんによるもので、DVDは「なんどり」さんで購入できる。
通販でも買えるが、このお店、南インド料理も絶品で、そしてお酒の品揃えも素晴らしいので、お近くの方はぜひ直接お店を訪れることをお勧めする。
(「なんどり」さんはJR宇都宮線/高崎線の「尾久駅」から徒歩5分、都電荒川線(さくらトラム)「荒川遊園地前」「荒川車庫前」停留所から徒歩3分。)
と思っていたら、大好評につき初回入荷分はすでに売り切れとのこと!今後の入荷予定はなんどりさんからの情報をチェックしてみてください!



タミル語の予告編はこちら。
この予告編、個人的にはこの映画の魅力を全然伝えきれていないと思うのだけど、一応貼り付けておきます。


私はインド映画だけでなくインド古典音楽にも疎いので、もしついていけなかったらどうしようと少しだけ心配していたのだが、その心配は全くの無用だった。
試写会場が音響に定評のあるチュプキ・タバタだったのも幸運が重なった。
というのも、この映画の実質的な「主役」は、カルナーティック音楽で使用される両面太鼓「ムリダンガム」の大迫力かつ繊細なリズムそのものだからだ。

古典音楽というと小難しく聞こえるが(そして、実際にインド古典音楽は極めて複雑で深淵な理論に基づくものだが)、この映画を見るためにそうした知識は全く必要ない。
日頃、電子音楽やロックやヒップホップを中心に聴いている耳にも、ムリダンガムのリズムはとにかくめちゃくちゃ凄くてカッコいい。
かつて、タブラの演奏を指して「人力ドラムンベース」という表現がよく使われていたが、この映画を見れば、インド古典楽器のリズムはドラムンベース以上のダイナミズムと繊細さを持ち、そして打ち込みのリズムを上回る恐るべき音数と正確さで組み立てられていることがわかるはずだ。
音楽が好きな人だったら、必ず楽しめるし、素晴らしい音楽映画だけが与えてくれる爽快感が味わえる作品である。


【あらすじ】
主人公のピーター・ジャクソンは、ムリダンガム職人の家の一人息子の大学生。
タミル映画の大スター、「ヴィジャイ」の熱狂的なファンで、映画に入れ込むあまり、勉強にも打ち込めずに過ごしていた。
ある時、ピーターはムリダンガムの巨匠ヴェンブ・アイヤルの演奏を間近で見たことで、この楽器の素晴らしさに開眼する。
ピーターはヴェンブへの弟子入りを熱望するが、伝統音楽のカルナーティックはもともと寺院で演奏される神聖な音楽であり、低いカースト出身の彼は、ブラーミン(バラモン)中心の師匠や弟子たちに拒絶されてしまう。
やがて、そのたぐいまれなセンスと熱意をヴェンブに認めてもらい、なんとか弟子入りを許されたピーターだったが、彼の弟子入りを快く思わない先輩から嫌がらせを受けることになる。
ヴェンブはテレビのショーや映画音楽を認めない、伝統を重んじる演奏家だった。
ところが、ちょっとした行き違いからピーターはテレビの古典音楽のリアリティー・ショーに出ることになり、そこで起こしたトラブルから破門されてしまう。
音楽家としての夢を否定され、家庭にも居場所をなくしたピーターは、失意に陥るが…。




はっきり言ってストーリーはツッコミどころ満載だし(インド映画にこれを言ってもしょうがないが)、映画スターへの信仰にも似た崇拝や、恋人へのストーカーっぽい愛情表現など、インド映画にありがちな「クセの強さ」にちょっと引いてしまう人もいるかもしれない。
さらにはカースト差別というインド特有の社会問題も描かれており、多様な側面のある作品なのだが、この映画の本質をあえて一言で表すとしたら、それは「音楽や芸術の普遍性」ということになるだろう。


その話をする前に、映画のストーリーの中で匂わされるものの、明言はされない設定について、少し書いておきたい。
(この先、ストーリーの一部に触れているところがある。すでに書いた通り、この映画の実質的な主人公は音楽そのものであり、ネタバレが作品の楽しみを損なうタイプの映画ではないと思っているが、気にされる方はここでお引き返しを。)


主人公のピーター・ジャクソンというインド人らしからぬ名前や、冒頭の教会のシーンからも分かる通り、彼の一家はクリスチャンである。
両面太鼓のムリダンガム作りは、動物の皮を材料として扱う。
動物の皮革、すなわち動物の「死」と関わる彼らの生業は、「汚れた仕事」とされ、カーストの最底辺のひとつとされている。
ヒンドゥー教に基づく序列であるカーストのくびきから逃れるために、おそらくピーターの一家はキリスト教に改宗したのだろう。
主人公の名前がピーター・ジャクソンで、彼の父の名がジャクソンというのがなんだか紛らわしいが、これはタミルには伝統的に苗字という概念がなく、父親の名前が苗字のように使われているからである。
(父の名前には苗字にあたる部分がないので、ひょっとしたら父の代にチェンナイに出てきて改宗したという設定なのかもしれない)

大都市チェンナイの生活では、表向きはカースト差別はないことになっているのだろう。
病院で献血すれば手放しで喜ばれるし、屋台でも他のお客とおなじようにコーヒーを提供してくれる。(輸血の相手がカースト的概念を持つヒンドゥー教徒ではなくムスリムだったのが意味深な気がしないでもないが)
クリスチャンのコミュニティで成長してきたピーターは、これまで理不尽な差別をさほど経験せずに暮らしてきたようでもある。
だが、一歩保守的な世界に足を踏み入れると、ピーターはその差別に直面することになる。
師ヴェンブのもとでは、伝統主義にこだわる兄弟子に疎まれ、父の故郷の屋台では、ガラスではなくプラスチックのコップでチャイを出されてしまう。
いくらキリスト教に改宗したといっても、カーストの呪縛から逃れることはできないのだ。

タミルのブラーミン(バラモン)は、伝統を重んじていることで知られている。
今なお菜食主義を守り、酒も口にせず、掟に忠実に「清浄に」生きている人々も多く、映画に出てくる伝統音楽の演奏者たちも、そのような暮らしを守っている。
いっぽうで、クリスチャンにとっては、肉食(ヒンドゥー教の聖なる動物である牛肉も含めて)も罪ではないし、アルコールも嗜むことができる。
ピーターが先輩のマニに、「酔っぱらい」と見下されたり、師匠から菩提樹の実をもらったときに「これを身につけているときは酒や肉を口にするな」と言われたりするのは、こういう理由からである。
とにかく、この映画のなかで彼が会う苦難は、ほぼ全てが「低いカースト出身である」ということに基づいている。

話を本題に戻すと、彼の才能に嫉妬した元兄弟子の奸計と、カーストに対する偏見への怒りから、ピーターは大きなトラブルを起こし、破門されてしまう。
師匠からも家族からも見放された失意のピーターは、あるきっかけから、リズムは師匠からだけではなく、森羅万象から学ぶことができると気づく(このあたり、かなり強引な展開だったが、まあいい)。
旅に出たピーターは、インド北東部(メガラヤ、ナガランドあたりか)の音楽や、パンジャーブのバングラー、ラージャスタンのマンガニヤール音楽、ケーララの太鼓チェンダなど、インド各地のリズムを学んでゆく。
(とくに説明のないシーンなので、分からなくても問題はないのだが、風景や民族衣装からこうした背景を理解できれば、この映画の味わいはさらに増すことになる)
こうしてインドじゅうで学んだリズムが、クライマックスで大きな意味を持ってくる。

この映画は、カースト差別という社会問題をモチーフにしながら、芸術の真髄とは伝統を守ってゆくことなのか、それとも芸術は万人に開かれ時代とともに更新されてゆくべきものなのか、という問いをメインテーマとして扱っている。
クリスチャンで、なおかつアウトカーストであるピーターが伝統に基づいたカルナーティック音楽にインドじゅうで学んだリズムを取り入れてゆくクライマックスは、音楽の「普遍性」は保守的な伝統(差別的な因習を含む伝統)を上回り、それこそが芸術の本来あるべき姿である、というメッセージを伝えている。
クライマックスまでに伝統的なカルナーティック音楽のリズムの素晴らしさがたっぷりと描かれているから、多少強引なストーリー展開であっても、このメッセージは単なる伝統の軽視ではなく、じゅうぶんな説得力を持って我々に刺さってくる。

さらに言うと、この映画の序盤に出てくる映画スターへの異常なほどの崇拝や、好きになった女性や師匠へのストーカーのような愛情表現、そして、音楽に対する果てしのない求道心といった様々な要素は、宗教を超えて南アジアに共通する「究極的な存在(例えば神)に近づこうとする気持ち」のひたむきさともつながっているようにも思える。
(劇中歌の歌詞にも注目)
憧れや崇拝や愛情といった「思慕」、そして音楽や芸術の普遍性というテーマが、冒頭からラストまで、この作品には通底しているのである。


この映画の「本当の主役」であるムリダンガムという楽器については、この動画でわかりやすく説明されている。
シンプルだが無限とも言える可能性のある楽器なのだ。
 

なにやら理屈っぽいことをいろいろと書いたが、この映画のそこかしこに出てくるムリダンガムの超絶のリズムを全身で浴びれば、それだけでもう十二分にこの作品を楽しめるはず。
同じ「打楽器師弟もの」 の映画として、『セッション』(原題"Whiplash",2014年米)あたりと比較してみるのも面白いと思う。

なかなか外に出られない昨今、鬱々と過ごすことも多い毎日に、とくにオススメの作品です。
見るべし!



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2020年03月23日

『タゴール・ソングス』が描く「うた」と人間の理想的な関係

4月18日(土)からポレポレ東中野で公開される映画『タゴール・ソングス』のパンフレットで、文章を書かせてもらった。

 

この『タゴール・ソングス』、公開前からの好評につき、3月28日から、同じくポレポレ東中野のレイトショー枠で、レクチャー付きの先行上映が始まる。
私も4月1日の上映後に、「タゴールソングとインドポピュラー音楽」というテーマで、佐々木美佳監督と対談形式でトークを行うので、ぜひみなさんお越しください。

「仮設の映画館」にて上映中!(検索してみてください)
また、ついに6月1日から全国劇場での公開が決まりました!

というわけで、今回は、この大注目の映画『タゴール・ソングス』について書く。

そもそもの話になるが、タゴールという名前を聞いたことがある人でも、「タゴール・ソング」を知らないという人は多いのではないだろうか。(私もそうだった)
1861年、当時イギリス領インドの首都だったコルカタに生まれたタゴールは、数多くの詩や小説、戯曲を書き、詩集『ギタンジャリ』で、アジア人で初のノーベル賞(文学賞)を受賞した。
日本では詩人のイメージが強いタゴールだが、じつはその生涯で2,000曲を超える楽曲を作った「ソングライター」でもあった。
そのタゴールによって作った「うた」がタゴール・ソングだ。
ヒンディー語では「ラビンドラ・サンギート」、そして彼の故郷の言葉であるベンガル語では「ロビンドロ・ションギト」という。
タゴール・ソングは今でもベンガルの地で愛唱されており、タゴールの歌とともに生きる人々を綴ったドキュメンタリー映画が、この『タゴール・ソングス』なのだ。

と、さも知った風なことを書いたけれども、これらは全てこの映画を見てから覚えたこと。
正直に言うと、最初にパンフレットの原稿の話をもらった時は、困ったなあと思ったものだった。
タゴールのことは名前くらいしか知らなかったし、100年前の大文学者である彼は、いつも私が追いかけている現代のラッパーやミュージシャンとはあまりにもかけ離れた存在だからだ。
はっきり言って、何も書ける気がしない。
ところが、気乗りしないまま軽い気持ちで試写を見てみたら、私はすっかりこの映画に夢中になってしまった。
そこに「うた」と人間との理想的な関係が描かれていたからだ。

誰にでも、大切な「うた」というものがあるだろう。
励ましてくれたり、慰めてくれたり、ときに生きる指針を示してくれるような「うた」。
あるいは、それはもっと暗い、やるせない孤独や憂鬱を肯定してくれるような「うた」かもしれない。
多くの人にとって、それは思春期に出会った、自分とほぼ同時代に作られた「うた」なのではないだろうか。
「歌は世に連れ世は歌に連れ」とはよく言ったもので、世の中が変われば人の心も変わるし、時代が変われば新しい歌が必要になる。
だから、ポピュラーミュージックにはその時代や社会で歌われる理由が必ずあるし、そうやって音楽は発展してきた。

ところが、ベンガルでは、現代の音楽だけではなく、100年も前に作られた「タゴール・ソング」が、今もなお個人の魂に寄り添ってくれる「うた」であり続けているのだ。
まるで、ポピュラー・ミュージックのように。
別に懐古的な老人や、伝統主義者たちだけではない。
ストリートのラッパーや、EDMやデスメタルも聴く音楽ファン、スラム育ちの青年、今風の女子大生まで、誰もがタゴールの「うた」に寄り添われて生きている。
念のために言うと、ここで「ベンガル」と書いているのは、コルカタを含むインド領ウエストベンガル州と、ベンガル地方の東部すなわちバングラデシュの両方のこと、つまりベンガル全域のことである。

別にベンガルに限らなくても、インド人は(南アジア人は、と言ってもよい)伝統をとても大事にしている人々だ。
このブログでもいつも紹介しているように、インドの若手ミュージシャンは、古典音楽の楽器や歌唱法をロックに取り入れたり、伝統音楽をサンプリングしてヒップホップのトラックを作ったりもしている。
ミュージシャンに限らなくても、南アジアには信仰を大事にしている人が多いから、そういう人たちは何百年、何千年前の言葉を日々祈りのなかで唱えていたりもする。
だが、この映画を見る限り、タゴール・ソングは、そういった「俺たちの誇るルーツ」とか「信仰」とは全く違うもののように思える。
なんというか、タゴール・ソングは、もっと普遍的で、かつ個人的な「うた」なのだ。

タゴール・ソングのテーマはさまざまだ。
『カントリーロード』や『ふるさと』みたいなものもあれば、ブルーハーツの『月の爆撃機』みたいなものもある。
ゲーテの詩みたいなものもあれば、黒人霊歌みたいなものもあるし、最近のアメリカあたりの女性シンガーみたいに「女性を自立した個人として扱ってほしい」と歌うものまである。

いずれにしても、100年も前の歌が、単なる伝統としてではなく、極めてリアルなものとして、現代を生きるベンガルの人々に語りかけているのだ。
映画に出てくる人々の年齢や宗教、階層や立場が極めて多様であるということからも、タゴール・ソングが持つ普遍性が分かる。
タゴール・ソングは、コミュニティや世代の違いを超えて、ベンガルの人々にとって特別な存在なのである。
いったいタゴール・ソングの何が特別なのだろうか。

ここまで書いてこう言うのもなんだが、私はタゴール・ソングの音楽としての素晴らしさについては、じつは今でもよく分かっていない。
メロディーは決してキャッチーではなく、つかみどころがない。
それに唱歌のようにシンプルに歌われるタゴール・ソングは、インドの古典音楽ヒンドゥスターニーやカルナーティックのように、ヴォーカリストの超人的の技量を味わうものでもないようだ。
シンプルな4拍子やワルツではなく、歌詞に合わせて拍が変わったりするから、リズムも取りにくい。
要するに、言葉を超えて伝わりやすい要素が、ほとんどない音楽なのだ。

これは、きっとまず初めに伝えるべき「ことば」があり、その「ことば」を活かすための抑揚のようなものとして、メロディーが作られているからだろう。
それは、一般的なポピュラーミュージックのような、一定のリズム(グルーヴ)に沿ったメロディーではない。
タゴール・ソングの旋律は、言葉に合わせて強弱や長短のつけられた、捉えどころはなくても吹く風のように心地の良い「フロウ」(流れ)なのだ。
おそらくだが、タゴール・ソングの本当の良さを理解するには、ベンガル語を正しく理解し、その表現や響きの美しさを感じられるようになることが必要なのだろう。
大詩人タゴールが作った「うた」は、きっと何よりも「ことば」を大事にした「うた」なのだ。

日本にも昔はそういう「うた」があった。
寄席に行くと、落語の合間に俗曲とか粋曲と呼ばれる歌を三味線に合わせて歌う人が出てくることがある(柳家小菊さんとか)。
「梅は咲いたか桜はまだかいな」みたいな端歌とか、「会えば短い、会わねば長い、待てば尚更、長い夜」なんていう都々逸なんかをやってくれるのだが、こういう歌も、まず「ことば」ありきで節がつけられているから、何拍子という概念はほとんど無かったりもする。
伝統音楽に疎くても、そういう「うた」を聴いて、いいものだなあ、感じる日本人は多いはずだ。

(ところで、先ほどから、メロディーよりも「ことば」を大事にした歌という意味で、ひらがなで「うた」と書いている。余談になるが、馴染みのあるところだと、盆踊りの「炭坑節」や、わらべうたの「あんたがたどこさ」も「言葉のリズムを活かすための拍子の破調」がごく自然に取り入れられた「うた」だ。四拍子でリズムを取っていると、おかしなことになってくるので試してみてほしい。きっと日本語を理解しない人にとっては、タゴール・ソングのように捉えどころのないメロディーだと思われてしまうことだろう)

我々日本人は、いつのまにかそうした日本語の「ことば」を活かしたフロウ/メロディーを持つ音楽を追いやり、欧米式のポップミュージックを自分たちの歌として受け入れてきた。
もちろん、今日の日本語のポピュラー・ミュージックでも、優れた作詞家・作曲家が作った歌を聴いて、言葉とメロディーとの間に必然性とでも言うべき関係を感じることはあるけれども、音楽家ではなく「ことば」の人が作る、そよ風のように自然な旋律の伝統は、日本からはもう失われてしまったのかもしれない。

話をタゴール・ソングに戻そう。
こんなふうに書くと、タゴール・ソングはベンガル語を解さない我々にとって、音楽的な魅力に乏しい「うた」のように思えてしまうかもしれないが、じつはこのことは、この映画の魅力にほとんど影響を及ぼさない。

歌を作る人は、自分の作品がいつまでも人々の心に影響を与えるものであってほしいと願うことだろう。
そして、歌を聴く人もまた、歌に自分の心にぴったりとはまる「ことば」を求めているはずだ。
そんな音楽と人間の理想的な関係が、100年前の「うた」と現代を生きる人々の間に存在している。
この奇跡のような事実を扱っているというだけで、この映画の面白さはもう半分以上決まったようなものである。
この面白さの前では、メロディーの「つかみどころの無さ」なんて、ほとんどどうでもいい要素なのだ。
『タゴール・ソングス』に出てくる人たちは、プロの音楽家も一般人も、それぞれがタゴールとの間に特別な関係を築いている。
その誰もが愛おしくて、また彼らの心のうちを、少しずつ効果的に我々に届けてくれる構成もすばらしい。
彼らがときに誇らしげに、ときに「ことば」と向き合うように歌うタゴール・ソングは、その歌い手の表情や佇まいを含めて、例えようもなく魅力的である。

もう一つ付け加えると、ベンガル人たちと「ことば」の距離の近さがまた素敵なのだ。
(「ことば」というのは、「詩」と言いかえても良いのだけど、詩というと日本ではあまりにも非日常的な存在になってしまうなので、ひらがなで「ことば」と書くことにした)
女子大生が会話の中で唐突に「私も詩人よ」と言い出したりしても、誰にも変に思われたりせず、自然と「無理するなって。君の詩、読んだことないけど」なんて返される。
そんなベンガル人たちと「ことば」との距離感は、とても好ましいもののように思える。
我々は、過去の人々が(もちろん、現在の人々も)心をこめて紡いだ「ことば」を、あまりにも自分から遠ざけてはいないだろうか

この映画を見れば、100年も前の「うた」や「ことば」とともに生きることができるベンガルの人々が、きっとうらやましく思えるはずだ。
それに、100年前の「うた」や「ことば」を糧に生きている彼らが、なんだかとてもかっこよくも見える。
さて、そうした「うた」も「ことば」も持たない我々は、どうやって生きてゆこうか。
映画『タゴール・ソングス』は、遠いベンガルの人々を見ていたはずなのに、そんなことを思わされたりもする作品である。




4月1日のトークでは、「タゴールソングとポピュラー音楽」というテーマで佐々木監督とお話しします。
どんなことを話そうか、どんな音源を紹介しようか、いろいろありすぎて、今から大いに迷っています。
タゴールを知っている人も知らない人も、南アジア(この映画でいうとインドやバングラデシュ)か音楽か詩か映画か人間か社会のいずれかに興味がある人であれば、楽しんでもらえるものになるのではないかと思います。
ポレポレ東中野で、20:50から上映開始、上映後にトークです。
そして、他の日のラインナップも、とても面白そうなテーマのものが揃っています。

遅い時間になりますが、ぜひお越しください!



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2020年02月22日

祝『ガリーボーイ』フィルムフェア賞13冠達成!! そして『WALKING MAN』とのシンクロニシティーを考える




日本でDVDが発売されたばかりの『ガリーボーイ』が、ヒンディー語映画界最高の賞であり、ボリウッドのアカデミー賞とも呼ばれているフィルムフェア賞(Filmfare Awards)で主要部門の総ナメにして、13冠を達成した。

その内訳は以下の通り。
  • 作品賞
  • 監督賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)
  • 主演男優賞 ランヴィール・シン(Ranveer Singh)
  • 主演女優賞 アーリヤー・バット(Alia Bhatt) 
  • 助演男優賞 シッダーント・チャトゥルヴェーディ(Soddhant Chaturvedi)
  • 助演女優賞 アムリター・スバーシュ(Amruta Subhash)
  • 最優秀脚本賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)、リーマー・カーグティー(Reema Kagti)
  • 最優秀ダイアローグ賞 ヴィジャイ・マウリヤ(Vijay Maurya)
  • 最優秀音楽監督賞 ゾーヤー・アクタル(Zoya Akhtar)、アンクル・テワリ(Ankur Tewari)
  • 最優秀作詞家賞 "Apna Time Aayega" ディヴァイン(Divine)、アンクル・テワリ(Ankur Tewari)
  • 最優秀美術賞 スザンヌ・カプラン・マーワンジー Suzanne Caplan Merwanji
  • 最優秀撮影賞 ジェイ・オーザ(Jay Oza)
  • 最優秀バックグラウンド・スコア賞 カーシュ・カーレイ(Karsh Kale)
今年のフィルムフェア賞は、まさに『ガリーボーイ』のためにあったと言って良いだろう。
ここまでの高い評価を得た『ガリーボーイ』だが、じつは興行成績に関しては2019年に公開されたヒンディー語映画のうち、8位に甘んじている。
『ガリーボーイ』はインド国内で14億ルピー、世界で24億ルピーと、十分にヒット作品と呼べるだけの数字を叩き出しているが、興行成績1位の"War"(国内32億ルピー、世界48億ルピー)と比べると、その売り上げは
半分程度でしかない。(出典はBollywood Hungama "Bollywood Top Grossers Worldwide"
これは、大都市ムンバイのストリートヒップホップという斬新なテーマが、必ずしもすべての層に受け入れられたわけではないということを意味している。

それにもかかわらず、『ガリーボーイ』がここまで圧倒的な評価を得られたのは、スラム生まれのラップという新しくて熱いカルチャーをボリウッドに導入して素晴らしい作品に仕上げた制作陣の手腕、そしてそれに見事に応えた役者たちの熱演によるものだ。
この革新的な映画のストーリーは、じつは、親子の葛藤、夢と現実の相克、身分違いの恋、サクセスストーリーといった、ボリウッドの王道とも言えるモチーフで構成されている。
だが、そうしたクラシックな要素と、新しいカルチャー、新しいヒーロー像、新しい女性像がとてもバランスよく配置されており、王道でありながらも革新的な、奇跡のような作品となったのだ。
今後ボリウッドの歴史に永く名を残すことになるであろう『ガリーボーイ』を称えるのと同時に、もう一本紹介したい映画がある。

同じく2019年に公開された国産ヒップホップ映画『WALKING MAN』である。
(この映画のDVDは4月24日発売予定)
この『WALKING MAN』と『ガリーボーイ』には、シンクロニシティーとも言える共通点が数多くあり、同じ時代に極東アジアと南アジアで作られた、よく似た質感を持つヒップホップ映画について、きちんと何か書き残しておくべきではないかと思っているのだ。
WALKINGMAN

『ガリーボーイ』は、実在のラッパーNaezyとDivineをモデルに制作された映画であり、ニューヨークのラッパー、Nasがエグゼクティブプロデューサーとして名を連ねている。
一方の『WALKING MAN』はラッパーANARCHYの初監督作品だ。
ANARCHYは京都市向島の市営団地に生まれ、彫師の父との父子家庭で育ち、喧嘩に明け暮れる少年時代を過ごした。
15歳でラッパーとしての活動を開始。暴走族の総長を務めたり、少年院で1年を過ごすなど波乱に満ちた青春を過ごしたのち、2006年に25歳でファーストアルバム"Rob The World"を発表する。
自身の生い立ちや経験をベースにした力強いラップで話題と支持を集め、私、軽刈田も、インドの音楽シーンにはまる前、彼の音楽を聴いて強い衝撃を受けたものだった。

この2本の映画の共通点を探すとしたら、ストーリー以前に、実際のラッパーが作品に深く携わっているということがまず挙げられるだろう。
(『ガリーボーイ』のNasは、制作に関わったわけではなく、実際には完成した映画を見てエグゼクティブ・プロデューサーに名乗り出たということらしいが、名を連ねることを許可したということは、この映画のリアルさを認めたということだと理解して良いだろう)
つまり、この2作品は「本物が作った(あるいは本物がモチーフになった)映画」なのだ。 

実在のラッパーをモチーフにした映画と言えば、ヒップホップの本場アメリカではN.W.A.の軌跡を描いた『ストレイト・アウタ・コンプトン』と、エミネムの半生をもとに本人が主演した『8マイル』がまず挙げられるが、『ガリーボーイ』と『WALKING MAN』には、この2作品とは大きく異なる共通点がある。
それは、『〜コンプトン』と『8マイル』の主人公たちが物語の最初からすでにラッパーだったのに対して、『ガリーボーイ』『WALKING MAN』の主人公は、映画の冒頭では都市の下流に生きる単なる若者であり、ストーリーの中でヒップホップに出会い、ラップに目覚めてゆくということである。
『ガリーボーイ』のムラドは、Nasに憧れつつも、自分がラッパーになろうとは考えておらず、地元にヒップホップシーンがあることも知らなかったという設定だし、『WALKING MAN』のアトムに至っては、ヒップホップファンですらない。

つまり、アメリカの2作品が「ラッパーたちのサクセスストーリー」であるのに対して、日印の2本は、「声を上げる手段を持たない若者が、ヒップホップと出会い、ラッパーになるまで」を描いた映画なのだ。
『ガリーボーイ』も『WALKING MAN』も、日印のシーンを代表するラッパーが関わっていながらも、ヒップホップファンのみを対象にした映画ではなく、ラッパーとしての第一歩にフォーカスすることで、ヒップホップの精神を、万人に向けて分かりやすく提示した作品なのである。
アメリカと日印のヒップホップの定着度の違いと言ってしまえばそれまでだが、コアなファン層以外もターゲットとしたことで、より作品のテーマが結晶化され、理解しやすくなっているとも言えるだろう。
そのテーマとは何か。

『WALKING MAN』の舞台は、川崎の工業地帯だ。
貧しい母子家庭で妹と暮らしながら廃品回収業で生計を立てる寡黙な青年アトム(野村周平)は、母の急病をきっかけに、母の収入は絶たれ、治療費が必要なのに公的なサービスも受けられないという八方塞がりの窮地に陥る。
この最悪の状態から、アトムはラップとの出会いによって、自分のコトバと自信を手にして変わってゆく、というのが『WALKING MAN』のあらすじである。

一方で、『ガリーボーイ』の主人公ムラドは、ムンバイのスラム街ダラヴィに暮らしている。
カレッジの音楽祭に出演していたラッパーとの出会いから、自身もラッパーとなったムラドは、怪我をした父に代わって裕福な家庭の運転手として働くことになる。
ムラドはそこで圧倒的な貧富の差を目のあたりにして、ラッパーとしての表現を深化させてゆく。

親の怪我や病気による窮状、そこからのヒップホップによる「救い」といったストーリーもよく似ているが、ここで注目したいのは、この2作品の主人公のキャラクターである。
ヒップホップ映画の主人公であれば、ふつうはささくれ立った「怒れる若者」タイプか、もしくはファンキーでポジティブなキャラクターを設定しそうなものだが、この2作品の主人公は、いずれも内省的で、生まれ持ったスター性などまるでない性格づけがされている。
『ガリーボーイ』のムラドは、仲間が自動車泥棒をする場面で怖気付いたり、自分のリリックをラップしてみろと言われて緊張してしまうような性格だし、『WALKING MAN』のアトムは、「吃音」という大きなハンデを持ち、自分の感情を素直に出すことすらできないという設定だ。
こうした主人公たちの「不器用さ」は、ヒップホップの本質のひとつである「抑圧された、声なき者たちの声」という部分を象徴したものと理解することができるだろう。
(マーケティング的に見れば、こうした主人公の性格づけは、バッドボーイ的なヒップホップファン以外にも共感を得やすくするための設定とも取ることもできるし、『ガリーボーイ』に関しては、ムラドのモデルになったNaezyも実際にシャイで内向的な青年のようである) 
彼らが内向的で、社会からの疎外感を感じているからこそ、自分の言葉で自身を堂々とレペゼンするヒップホップが彼らの救いとして大きな意味を持ち、また彼らがラッパーとしての一歩を踏み出すことが、人間的な成長として描けるのだ。

ムラドとアトムの成長を描く手段として、ラップバトルが使われているのも印象的だ。
フリースタイルに臨んだ2人が、どう挫折し、どう乗り越えるか、という展開は、『8マイル』の影響はあるにしても、あまりにも似通っている。
彼らがラップバトルで勝利するために戦うべきは、じつは対戦相手ではなく、自分自身の中にある。
自分の弱点を認め、その上で自分自身を誇り、自分の言葉で表現することが、結果的にオーディエンスの心を動かすという展開は、ヒップホップの意義を見事に表したものである。

他にも、家族との葛藤(ムラドは父との、アトムは妹との確執がある)、主人公に協力する兄貴的な人物の存在(ムラドにはMCシェール、アトムには山本)など、この2つの映画の共通点はまだまだある。

制作された国や時期を考えれば、この2つの作品が影響を与え合う可能性はまったく無いにもかかわらず、これだけの一致があるということは、はたして偶然なのだろうか。
従来のタフでワイルド、言葉巧みで男性的なラッパー像からは大きく異なるムラドとアトムというキャラクターは、いったい何を表しているのだろうか。
私は、ここにこそヒップホップというアートの本質と、その今日的な意味が描かれているのではないかと思う。
ヒップホップ、すなわち、ラップ、B-ボーイング(ブレイクダンス)、DJ(ヒューマンビートボックスのような広義のビートメイキングを含む)、グラフィティアートは、スキルとセンスさえあれば、体一つでいくらでもクールネスを体現できるアートフォームであり、ハンデを魅力に変えることができる魔法なのだ。
内省的なムラドとアトムは、自信すら持てないほどに抑圧された若者の象徴だ。
ヒップホップはそうした者たちにこそ大きな意味を持ち、また彼らこそが最良の表現者になれる。
こうした、いわば、「希望としてのヒップホップ」を描いたのが、『ガリーボーイ』であり『WALKING MAN』なのである。
その希望の普遍性を表すためには、主人公は従来のラッパー像とは異なる「弱い」人間である必要があったし、家族との葛藤を抱えた「居場所のない」若者である必要があったのだ。

この作品の核は階級差別に対する闘いです。インドだけに限りません。私達は抑圧を無くし、人が自分を表現できる能力を磨き、自分に自信を持って、夢を追いかけることができる世界にしていかなければならないと思います」
これは、『ガリーボーイ』のゾーヤー・アクタル監督の言葉だ。 
ムラドとアトムのハードな環境の背景には、世界中で広がる一方の格差社会があるということも、もちろんこのシンクロニシティの理由のひとつである。
今更かもしれないが、この2作品のシンクロニシティに触れて、ヒップホップはもはやアメリカの黒人文化という段階を完全に脱したということを実感した。
ヒップホップは、その故郷アメリカを遠く離れ、日本でもインドでも、単なるパーティーミュージックでも外国文化への憧れでもなく、抑圧された者たちの言葉を乗せた、リアルでローカルな文化となったのだ。
この「ローカル化」は、逆説的に、ヒップホップのグローバル化でもあり、その日本とインドにおける2019年のマイルストーンとしてこの2本の映画を位置付けることもできるだろう。

共通点だけでなく、この2作品の異なる点にも注目してみたい。
それは家族やコミュニティーとの「繋がり」の描かれ方だ。
『ガリーボーイ』では、家族やコミュニティーは、自由を縛る保守的な価値観とつながったものとして描かれ、「絆」がすなわち主人公を苦しめるくびきとして描かれている。
一方で、『WALKING MAN』のアトムは、吃音というハンデを持ち、また誰からの援助も得られない極貧の母子家庭に暮らしているという設定だ。
つまり、逆に「絆の不在」「疎外感」が彼を苦しめているのである。
絆による不自由と、絆の不在による疎外感。
この2作品が乗り越えるべき壁として描いたテーマは、そのままインドと日本の社会を象徴しているように思えるのだが、いかがだろうか。

それから個人的に衝撃だったのが、ムンバイのスラムに暮らすムラドがスマホを持ち、大学に通う学生だったのに対して、川崎のアトムは(おそらくは)大学に通うことなく場末の廃品回収業者で働いており、スマホを持つことを「目標」としているということだ。
ダラヴィはムンバイのスラムのなかでは比較的「恵まれた」環境のようだし(あくまでもより劣悪なスラムとの比較の話だが)、住む場所すらなく路上で暮らす人々や、電気や水道すらない農村部の人々と比べれば、インド社会の最底辺とは言えないということには留意すべきだが、それでも、ムンバイのスラムの「あたりまえ」が日本の若者の憧れとして描かれているという事実はショックだった。
日本が落ちぶれたのか、インドが成長著しいのか、おそらくはその両方なのだろうが、この言いようもない衝撃を、ヒップホップ映画からの「お前の足元のリアルをきちんと見ろ!」というメッセージとして受け取った次第である。

最後に、もう一つ気になった点である、「吃音とラップの親和性」についても触れておきたい。
すでに書いた通り、『WALKING MAN』のアトムは吃音者という設定だが、実際に日本には達磨という吃音のラッパーがいるし、インドにもTienasという吃音者ラッパーがいる。
映画のなかで、アトムが通行者を数えるカウンターでリズムを刻みながら、吃ることなく言葉を発する場面が出てくるが、実際にこうした吃音の克服法があるのだろうか。
あまり興味本位で考えるべきではないかもしれないが、「吃音」という「声を持てぬもの」を象徴するようなハンデを抱えたラッパーが日印それぞれに存在しているということも(他の国にもいるのかもしれない)、また意味深い共通点であるように感じられる。

基本的にはインドのカルチャーを紹介するというスタンスで書いているブログなので、『WALKING MAN』のことは公開時には紹介しなかったのだが、『ガリーボーイ』と合わせて見ることで、現代社会とヒップホップの現在地をより的確に感じることができる、粗削りだが良い作品である。
ヒップホップや音楽に心を動かされたことがある、すべての人にお勧めしたい2本だ。


もう十分に長くなったが、最後の最後に、似たテーマを扱った、ムンバイと日本のヒップホップの曲を並べて紹介したい。

まずは、『ガリーボーイ』の中から、大都市ムンバイの格差をテーマにした"Doori"、そして日本からは『WALKING MAN』の監督を務めたANARCHYの"Fate".




続いてはリアルにダラヴィ出身で、『ガリーボーイ』にもカメオ出演していたMC Altafの"Code Mumbai 17"(17はダラヴィのピンコード)と、横浜代表Ozrosaurusの"AREA AREA".
オジロの地元レペゼンソングなら横浜の市外局番を冠した"Rolling 045"なんだけど、この2曲はビートの感じが似ていて自分がDJだったら繋げてみたい。



地元レペゼンソングでもう1組。
『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなったDivineのデビュー曲"Yeh Mera Bombay"(これが俺のボンベイ)。ムンバイの下町を仲間と練り歩きながら、ヒップホップなんて関係なさそうなオッサンとオバハンも巻き込むミュージックビデオに地元愛を感じる。
日本からは当然、SHINGO★西成の"大阪UP"でしょう。



最後にオールドスクールなビートでB-Boysをテーマにした楽曲。
インドからはMumbai's Finestの"Beast Mode". これはダンス、グラフィティ・アート、ビート・ボクシング、BMX、スケボーなどの要素を含むムンバイのBeast Mode Crewのテーマ曲のようだ。
となると日本からは
Rhymesterのクラシック"B-Boyイズム"で迎え撃つことになるでしょう。
ちなみにB-Boyという言葉は、日本だと「ヒップホップ好き」という意味で使われるけど、本来はブレイクダンサーという意味。踊れないのに海外でうっかり言わないよう注意。



それでは今日はこのへんで!

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goshimasayama18 at 17:09|PermalinkComments(0)

2019年11月04日

帰ってきたガリーボーイ歌詞翻訳!"Train Song" by麻田豊、餡子、Natsume

『ガリーボーイ』リリック翻訳シリーズの番外編、いわばアンコールも(たぶん)今回でラスト!
麻田先生、餡子さん、Natsumeさん、本当にお疲れ様でした!
打ち上げどこかでやりましょう(業務連絡)。

最後に紹介するのは、"Train Song".
今回もラップではなく、『ガリーボーイ』のサウンドトラックのなかでは珍しい普通に歌われている曲なのだけど、この曲が素晴らしい名曲!
私も大いに気に入っています。

歌は英語とヒンディー語のパートに分かれていて、英語部分を歌っているのはタブラプレイヤー/エレクトロニカ・アーティストとしても知られるインド系イギリス人のKarsh Kale、ヒンディー語部分は南インド出身で、さまざまな言語の映画音楽の歌手としても知られるRaghu Dixit.
英語部分の作詞はKarsh Kaleを中心にしたメンバーで行われているようで、ヒンディー語部分の作詞は、前回紹介した"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)でも作詞を手がけたジャーヴェード・アフタル。
ゾーヤー・アフタル監督の父親であり、ボリウッドの脚本家/作詞家、ウルドゥー詩人として伝説的な人物である彼が、ここでも活躍している。
作曲はデリーを中心に活動を続けるエレクトロニカ・デュオのMidival PunditzとKarsh Kaleの共作。
Midival PunditzとKarshはいずれも2000年前後から活動するベテランで、いわばインド系クラブミュージックのパイオニアだ。
ヒップホップにこだわった映画のなかで、ここだけジャンルも国籍も超えた(そして、しっかりアフタル・ファミリーの大御所ジャーヴェードも入った)大物のコラボレーションを持って来るあたり、非常に面白いバランス感覚だと言える。


TrainSong1

TrainSong2

TrainSong3

餡子さんのコメント:
ヒンディー語パートと英語パートに分かれている歌で、ヒンディー語パートはムラドのこれまでの話と、今回の成功を讃える内容になっています。
英語の部分は歌だけ聞くとハテナ?ですが、エンディングの場面で駅でサフィーナと会うときに流れるのでその情景を表してるのだと思います。

Natsumeさんの考察で「心臓」は体の左側にあるから「左側の出口」というのは心臓とリンクしているのでは、という解釈をしました。
今回の歌詞の翻訳のためカラーチー在住の麻田先生の知人の方にもご協力いただきました!

格差社会への憤りや、自分自身を誇る血圧高めのラップが多い『ガリーボーイ』のサウンドトラックのなかで、この曲の開放感は独特の輝きを放っている。
詩的なメタファーに満ちた歌詞も印象的で、ヒンディー語部分はじつにヒンディー語的な、英語部分は非常に英語的な歌い回しになっており、それがごく自然に融合しているのも面白い。
英語、ヒンディー語それぞれのフォークっぽいメロディーラインに続いて、スケールの大きいコーラスに続く展開は、何度聴いても心地よい爽快感がある。

この"Train Song"は、短い曲ながら、大御所ウルドゥー詩人、在外インド系ミュージシャン、国内クラブミュージックのパイオニア、映画音楽界の人気シンガーという様々な才能が有機的に絡み合いながらそれぞれの良さを活かしあっている、まさに現代のインドの音楽シーンを象徴する名曲と言ってよいだろう。

"Train Song"にはヒップホップ的な要素は皆無だが、この曲の背景には、ヒップホップに憧れるスラムの青年がラッパーになって留学帰りのプロデューサーと出会い、自分の言葉(ヒンディー/ウルドゥー語)でNasのオープニング・アクトを目指すというこの映画のストーリーと地続きの、グローバル化しながらも独自性を失わず、むしろその輝きを増してゆく現代インドの音楽シーンの面白さが詰まっているのだ。

この曲に絡めて『ガリーボーイ』のもう一つのテーマを紹介するとすれば、それは「調和と融合」ということになるかもしれない。
この「調和と融合」は、ヒップホップに代表される、実際のインドのインディーミュージックシーンを理解する上でも重要なキーワードだ。
スラム出身の青年のリリックと、富裕層出身でアメリカの名門大学で音楽を学んだビートメーカーのトラックの融合。
アメリカから来たラップと、インドの伝統的なリズムやポエトリーの融合。
ムスリムのラッパーとヒンドゥーのラッパー(MCシェールのモデルとなったDivineはクリスチャンだが)のコラボレーション。
映画のなかで起きるこういった出来事は、全て実際の音楽シーンでも実現していることだ。
そもそも、宗教の垣根を越えた詩人や音楽家の庇護や共演は、インドでは何百年も前の王朝時代からあたり前のように行われていた。

現実世界ではコミュニティの分断と対立のニュースばかりが報じられるなか、インドの音楽シーンのこうした美徳は、ますますその価値を増しているようにも思える。

『ガリーボーイ』で提示されたような、さまざまな魅力に満ちた実際のインドの音楽シーンについて、これからもこのブログで積極的に紹介してゆきたいと思います!



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2019年11月02日

帰ってきた『ガリーボーイ』歌詞翻訳!"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)by 麻田豊、餡子、Natsume


先日まで集中連載していた、インド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』のラップのリリック翻訳シリーズ。

大好評にお応えして、このプロジェクトを進めている餡子さん、麻田先生、Natsumeさんによるチームから新たに届いた翻訳を紹介します!
今回紹介する楽曲は、"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)。

ところで、今回は記事のタイトルが「ラップ翻訳」ではなく、「歌詞翻訳」となっていることに注目。
そう、今回紹介する曲はラップではない。
この"Ek Hee Raasta"(たった一本の道)は、イギリス生まれのインド系プロデューサー、Rishi Richが作ったトラックに乗せて、主演のランヴィール・シンが、ゾーヤー・アフタル監督の父でもあるジャーヴェード・アフタルによる詩を朗読したもので、そういう意味では「歌詞」と呼ぶのも厳密には違うかもしれない。
(あえて言えば、ポエトリー・リーディングやSlamと呼ばれるジャンルに近いか。なお、監督らのAkhtarという苗字については、映画のパンフレットをはじめ「アクタル」と記載されているものが多いが、今回は翻訳に携わった麻田先生にならって「アフタル」に統一する)


EkHeeRaasta



餡子さんによるコメント:
このリリックのシーンは、ムラドが電車に揺られている中周りにぼんやりと死んだ目をしたサラリーマンたちが映されて、「レールの上に載せられた人生」で「たった一本の道」を歩むしかない…という状況があらわされてますね。

この曲の作詞をしたジャーヴェード・アフタルは、ウルドゥー語詩人であると同時にヒンディー語映画の作詞家・脚本家としても長く活躍し、インド政府からパドマー・シュリー、パドマー・ブーシャンという2つの称号を受勲している伝説的な人物だ。
(北インドで広く話されるヒンディー語と、パキスタンの公用語で北インドのムスリムにも話者が多いウルドゥー語は、文字が異なり、語彙にも違いがあるが、言語的には非常に近く、会話においては相互の意思疎通が可能なことが多い)
無理やり日本に例えれば、倉本聰と谷川俊太郎と阿久悠を、足して割らずに数倍にしたくらいの人物ということになるかもしれない。
ちなみにジャーヴェードの父も映画音楽の作詞でも活躍した詩人で、さらに祖父も詩人である。

ゾーヤー監督は、母が女優/脚本家のハニー・イラーニー(ただしゾーヤーが6歳のときに両親は別居し、やがて離婚。ジャーヴェードは女優のシャバーナー・アーズミーと再婚した)、弟がこの映画でも共同製作を努めたファルハーン・アフタルという生粋のボリウッド一家の出身で、映画製作を「ファミリー・ビジネス」と呼んではばからない。
これまで紹介してきたように、『ガリーボーイ』は、インド社会の中で抑圧されてきたスラムの若者が、アメリカの黒人文化であるヒップホップに影響を受け、ストリートラップ(ガリーラップ)によって成長・成功してゆく作品であるが、アフタル・ファミリーそして監督の父ジャーヴェード・アフタルという補助線を引くとまた違う背景が見えてくる。
すなわち、伝統的なヒンディー/ウルドゥーの詩からヒップホップという新しいポエトリー文化への連続性である。
(ウルドゥー語学文学の研究者である麻田先生は早くからこの指摘をしていたが、さすがの視点!)
 
ゾーヤー・アフタル監督は、主人公ムラードのモデルとなったNaezyのラップを初めて聴いたときの印象として、「これまでインドでこんなふうにリアルな表現をする音楽を聴いたことがなかった」という趣旨の発言をしていたが、これは映像作家としてだけではなく、詩に造詣が深いアフタル・ファミリーの一員としての感想でもあったはずだ。
この『ガリーボーイ』では、"Doori Poem"(へだたり/詩)でもジャーヴェード・アフタルが作詞を担当し、"Doori"ではなんとラッパーのDivineとリリックの共作までしている。

さらに言えば、Naezyはラッパーであることを、父に「非イスラーム的である」と咎められ、一時期活動を休止していたが、今では「ラップはイスラーム文化の伝統的な"詩"と同じようなものである」という理解が得られ、活動を再開している。
インドは今でも若者が恋人に詩を送るような、ポエトリー文化の盛んな国。
インドのヒップホップカルチャーには、おそらくだがこうした詩作文化の伝統も、大きく影響しているのではないだろうか。

それにしても、国家から叙勲されるような大詩人がヒップホップ映画に参加し、ラッパーと共作すらしてしまうボリウッドの懐の深さには恐れ入るしかない。
そういえば、映画のテーマとなっている親子の確執や身分違いの恋、現実と夢との相克といった題材も、決して目新しいものではなく、インド映画の伝統とも言えるものである。
『ガリーボーイ』はヒップホップというインドにおける新しい文化を扱った映画でありながら、アフタル・ファミリーというボリウッドの伝統を担ってきた一家の、正統な系譜に連なる作品でもあるのだ。



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2019年10月27日

『ガリーボーイ』リリック翻訳プロジェクト(by麻田豊、餡子、Natsume)全紹介!

インド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』の主要楽曲翻訳プロジェクト、全8曲(+番外編2曲を追加!)をまとめてお届けします。
映画を観る前にも観た後にも、より映画を深く味わうためにぜひ読んでみてください!
全曲熱のこもった解説付き!
(個人的には、「2回目を観る前」に読むのがオススメです)


1.イントロダクション


2.Sher Aaye Sher(獅子が来た獅子が)


3."Doori Poem"(へだたり/詩)、"Doori"(へだたり)


4."Mere Gully Mein"(俺の路地では)


5."Kab Se Kab Tak"(いつからいつまで)


6."Azadi"(自由)


7."Asli Hip Hop"(リアルなヒップホップ)


8."Apna Time Aayega"(俺の時代がやって来る)




★番外編 ラップ以外の歌詞翻訳
1. "Ek Hee Raasta"(たった1本の道)


2. "Train Song"(トレイン・ソング)




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2019年10月26日

『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Apna Time Aayega"(俺の時代がやって来る)by麻田豊、餡子、Natsume


麻田豊、餡子、Natsumeの3名によるインド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』のリリック翻訳シリーズ、いよいよ最終回となる今回は、もちろんこの曲、"Apna Time Aayega"(俺の時代がやって来る)を紹介!

リリックを書いたのはMCシェールのモデルとなったDivineと、この映画のミュージック・スーパーバイザーを務めたAnkur Tewari.
トラックは"Azadi"と同じDub Sharmaが手がけている。
ラップはもちろん主演のランヴィール・シン。
映画のクライマックスで披露される、この映画を象徴する楽曲"Apna Time Aayega"(そこに至るまでの伏線がまたいい!)、それではさっそく聴いてみてください。
(ミュージックビデオはクライマックスシーンそのままではなく、映画のいろんなシーンの寄せ集めなので、未見の方も安心してどうぞ)


ApnaTimeAayega1

ApnaTimeAayega2

ApnaTimeAayega3

餡子さんコメント:
リリックにムラドの想いが込められています。翻訳中かっこよすぎて泣けました。ぜひオーディオと合わせて読んでみてください!
Apna Time Aayegaのタイトルは、ガリーボーイメイキング動画ではApna Time Aagaya(俺の時代がやって来た)に文字られ、ガリーボーイ以降ローカルヒップホップに脚光が浴びたことを示しています。

Apna Time Aayega歌詞解説
・「己の灰の中から生まれ変われ」
確か自主上映会の時の英語字幕はここにPhoenixと書かれていました。不死鳥が一度燃え尽きて灰になって死んだあと、再び灰の中から蘇ることを示唆していると思われます。
・「俺のような才覚が回るヤツには出会えない」
ここで使われるShaana शाणाはムンバイスラングでSmartという意味。
・「おまえは裸で生まれてきた いったい何を持って逝くんだ?」
の部分は、直訳すると「お前は裸でやって来て、何も持たずに去っていく」なのですが、これは中国語のことわざでも同じ意味の「生不帶來死不帶去」という言葉があり、定型句のようです。
・「何も持たずに」
ここのGhanta घंटाはもともと時間という意味ですが、これもスラングでゼロ=無を表すそうです。

読んでもらえば分かる通り、ここにはもうスラムの暮らしも心の痛みも出てこない。
ラッパーになることによって、誇りと自信を手にしたムラードの力強い宣言だ。
2月の自主上映で初めて『ガリーボーイ』を見た時、この曲のシーンでは目の奥から熱いものがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。
その後何度この映画を見ても、冷静に分析的に見てみようと思っても、やっぱりこの曲のシーンでは胸が熱くなる。

内気で自信を持てなかったムラードが、ラップに出会ったことで成長し、堂々たるパフォーマンスを見せる。
この曲に関しては、リリックを読んだりミュージックビデオを見るだけではなく、映画のストーリーと合わせて読んで聴くことで、初めて完成する楽曲と言えるだろう。
ヒップホップでは、楽曲単体としてのクオリティーだけでなく、「誰が語るか」も重要な要素である(オジロサウルスのMACCHOの言葉を借りるなら「どの口が何言うかが肝心」)。
この曲はムラードの生き様と重ね合わせて聴くべきなのだ。

ちなみに、以前"Mere Gully Mein"(俺の路地では)のリリック翻訳紹介のときに書いたDivineがカメオ出演する場面が、この曲のライブシーンの直前にある。
ムラードからステージのMCへの台詞という形を借りた、監督や主演のランヴィールから、ガリーラップのシーンを切り開いてきた実在のラッパーたちへのメッセージを、ぜひ見逃さないようにしてほしい。

この曲のタイトル"Apna Time Aayega"(俺の時代が来ている)というフレーズは『ガリーボーイ』公開後一躍脚光を浴び、Tシャツのデザインなどにもたくさん使われている。
(画像はAmazon Indiaで'Apna Time Aayega T-shirt'で検索してみた結果)
スクリーンショット 2019-10-26 23.31.23
これも何度も書いてきたことだが、この映画によってインドのアンダーグラウンドなヒップホップシーンは一躍注目を浴び、この"Apna Time Aayega"は、ムラードだけでなく、実際のガリーのラッパーたちにとっても象徴的な言葉となった。
映画の冒頭で'Original Gully Boys'として紹介されるNaezyとDivineをはじめとする彼らが、今後どんな活躍を見せてくれるのか。
彼らのこれらからの活動こそが、映画『ガリーボーイ』の続編だと言えるのかもしれない。
(本物の映画の続編が計画されているという報道もあったので、もちろんそっちにも期待している)


というわけで、『ガリーボーイ』の主要な楽曲8曲を、麻田豊と餡子の翻訳、Natsumeの協力でお届けしました。
年のことを書くと怒られそうだが、麻田先生は今年で71歳と聞いている。
研究者として数多くのウルドゥー文学に触れてきたであろう麻田先生も、このヒップホップという「詩とリズム」の新しいカルチャーに大いに惹きつけられており、最近は日本やアメリカのヒップホップに関する書籍を何冊も読んでいるとのこと。
インド映画のコアなファンで、これまでに数百本は見てきているという餡子さんも、やはりこの『ガリーボーイ』に特別なものを感じて、リリックの翻訳まで始めてしまった。
我々の仲間の一人で、海外の南アジア社会の音楽を研究してきた社会学者の栗田知宏さん(『ガリーボーイ』のパンフレットで解説を執筆)は、インドでの劇場公開初日に見るために、DivineのホームタウンであるJBナガルの映画館にまで足を伸ばしている(しかも初回の上映!)。

これだけ人を動かす『ガリーボーイ』という映画、そしてこの時代のインドのヒップホップシーンの熱さが、後の時代にどのような評価を残すのか、今から楽しみだ。

次回からは平常運転に戻りますが(でもまた『ガリーボーイ』のことも書くかもしれない)、これからももちろんインドのヒップホップシーンの話題もお届けしてゆきます!
それでは!


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goshimasayama18 at 23:56|PermalinkComments(0)

2019年10月25日

『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Asli Hip Hop"(リアルなヒップホップ)by麻田豊、餡子、Natsume


いよいよ大詰めを迎えてまいりました、麻田先生、餡子さん、Natsumeさんによる『ガリーボーイ』リリック翻訳。
今回紹介するのは"Asli Hip Hop"(リアルなヒップホップ)。
ラッパーとして成長したムラードが、ヒューマン・ビートボックスに載せて、ガリー育ちの魂を聴かせてくれる曲だ。
 
AsliHipHop

餡子さんのコメント:
このラップの中でも母親への愛が語られていて、インドらしさを感じます。テンポがスローだからか、正しい文法でリリックが書かれていて比較的訳しやすいです。

ラップはもちろんランヴィール本人。リリックは若干20歳のラッパーSpitfireが書いている。
ビートボックスは、ラッパー、ダンサー、グラフィティアーティストを含むムンバイのクルーBombay LokalのD-CypherとBeat Raw.
インドのストリート(ガリー)ヒップホップシーンでは、ターンテーブルやレコード盤が必要なDJの代わりにビートボクシングが非常に盛んで、ダラヴィでは放課後にビートボクシング教室まで開かれているという。
リアルな雰囲気のアドリブを入れているのは実際のムンバイのシーンのMCたちだ。

リリックは解説する必要がないくらい明確で力強い。
餡子さんの指摘通り「母親への愛と感謝」が入っているのもいかにもインド的だ。
「ヒップホップこそが俺の宗教/どんなカーストにも属さない」という部分もとてもインドっぽいフレーズだ。
ムラードはムスリムとしての信仰も大事にしているが、その信仰は彼に安らぎを与えるだけではなく、彼を縛りつける不自由さとも結びついている。
見下され、抑圧される原因となっているカーストについては言わずもがなだ。
ムラードにとって、いや、実際のムンバイのスラムの若者達にとって、ヒップホップは、既存の宗教やコミュニティとは関係なく、自分を誇り、仲間とつながることができる手段なのだ。
今やヒップホップはアメリカの黒人文化という枠組みを大きく超え、こういった現象は世界中の都市で起きている。
『ガリーボーイ』はインドにおける都市の若者文化のグローバル化と、ヒップホップのローカル化を同時に感じることができる作品でもある。

既に何度も書いてきたことだが、"Asli Hip Hop"が「リアルな(asli)」ヒップホップと強調しているのは、インドにはメインストリームのパーティー音楽として「リアルでないヒップホップ」が既に高い人気を得ていたからだ。
『ガリーボーイ』の中で「リアルなヒップホップ」の対極にあるパーティーラップとして使われているのが、この"Goriye".
 
意図に反して、これはこれで結構かっこよく仕上がっている。
もっとEDM系のダサいバングラ系ラップはいくらでもあるように思うが、そこは日本人とインド人の感じ方の違いかもしれない。

次回はこのリリック翻訳シリーズのいよいよ(ひとまずの)最終回!
もちろん、『ガリーボーイ』を象徴する曲、"Apna Time Aayega"(俺の時代がやって来る)です!
乞うご期待!


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goshimasayama18 at 23:39|PermalinkComments(0)

2019年10月24日

『ガリーボーイ』ラップ翻訳"Azadi"(自由)by麻田豊、餡子、Natsume

麻田豊、餡子、Natsume(敬称略)による『ガリーボーイ』リリック翻訳第5弾!
前回紹介した恋に悩むラブソングの"Kab Se Kab Tak"からうって変わって、今回はこの映画の中でも、とくに政治的・社会的なトラック"Azadi"を紹介!


Azadi1-2


Azadi2

Azadi3-2


Azadi4

餡子さんからのコメント:
アーザーディー!の掛け声がアツイ!ぜひリミックス原曲の力強いデモを聞いてください。
まるでPublic Enemyを思わせるような政治的アジテーションのこの曲は、リリックもトラックも、そしてラップもDivineとDub Sharmaによるもの。
Divineは何度も紹介している通り『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルとなったムンバイのラッパーで、Dub Sharmaはインド北部チャンディーガルのエレクトロニックミュージック・アーティスト/ラッパーだ。

この強烈な政治的ナンバーは、実は映画のストーリーの中で不可欠な使われ方をしているわけではない。
むしろ、どちらかというとBGM的な扱いだ。
(一応、格差による不条理とそれに抗う姿勢が示される場面ではあるが)

であるならば、他の曲と同じようなスラムをレペゼンするラップでも、いっそのことインストゥルメンタルでも良いはずだ。
それでもあえてこの曲を採用したのは、ゾーヤー・アクタル監督が、この映画を通して、ヒップホップがストリートをレペゼンするだけではなく、政治や社会の構造的な問題にも鋭く物申すジャンルであることを伝えたかったからだろう。

ラップというよりもシュプレヒコールのようなコーラスは、じつはもともと実際のデモで使われたものがもの。
デリーの名門大学JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)で行われた学生運動のリーダー、Kanhaiya Kumarによるコール&レスポンスがこの曲の原型だ。


凄まじい熱気!

この動画のタイトルに、"Lal-Salaam Song"とあるが、この'Lal-Salaam'は、「赤色万歳!」を意味する、共産主義にシンパシーを持つものの合言葉。
この言葉は、以前紹介したデリーを拠点に活動するスカバンド"Ska Vengers"の中心人物Delhi Sultanate aka Taru Dalmiaも、自身のサウンドシステムでのパフォーマンスで使用している。

彼が'Lal Salaam'といっしょに、反カースト/平等主義の合言葉'Jai Bhim'を叫んでいることにも注目。
この言葉は、最下層の被差別階級から身を起こし、インドの初代法務大臣にまで登りつめたビームラーオ・アンベードカルを称える言葉で、彼はカーストの軛から逃れるために、同じ身分の50万人もの同志たちとヒンドゥーから仏教へと集団改修したことでも知られている。
リンクした記事で紹介した動画でも、DJブースから、ヒンドゥー・ナショナリズムや企業のルールからの自由を求めて、"A-za-di"のコール&レスポンスをするTaruの姿を見ることができる。
彼もまた、政治や社会構造の矛盾に鋭く批判を突きつけるアーティストなのだ。

先ほど紹介したJNUでのKanhaiya Kumarによるアジテーションは、Dub Sharmaによってリミックスされてダンストラックとなっており、このバージョンが『ガリーボーイ』で使われたラップの原曲となっている。

反ヒンドゥーナショナリズム、反差別、反暴力などあらゆるデモの様子が収められたこのミュージックビデオもインドの民衆のエネルギーが伝わってくる。
("Azadi"の原曲の調査は餡子さんによるもの。"India91"に登場するラッパーの全員解明もそうだが、餡子さんの調査力、凄すぎ!)

ちなみに'Azadi'という単語は、今インドでもっとも勢いのあるデリーのアンダーグラウンド・ヒップホップレーベルの名称にも使われている。


『ガリーボーイ』のなかでは、他にも"Jingostan"が、かなり政治的な楽曲だ。
'Jingostan'は、自国の利益のためなら他国に対して武力も辞さない強圧的な姿勢を表す'jingoism'に、国を表す'stan'をつけた造語で、続けて叫ばれる'Zindabad'は「万歳!」のようなかけ声だ。
つまり、この曲は覇権主義的な国家を皮肉った内容なのである。

この曲も、'Jingostan Zindabad'の掛け声がまるでデモか集会のような雰囲気を醸し出しており、いわゆるヒップホップ的(現代アメリカ黒人文化的)というよりは、かなりインド的な雰囲気が感じられる。
そして、この曲も決してストーリーの中で不可欠な位置付けで使われているわけではないのだ。

BGM的な部分にこうした政治的な楽曲が選ばれているという事実から、ゾーヤー監督がこの映画を通して伝えようとしたもう一つのメッセージを感じることができる。
つまり「ヒップホップは、インドの伝統とも言える社会運動・政治運動とも極めて親和性が高いもので、こうした部分にもインドのヒップホップの個性と存在意義がある」というわけである。

これまでに、このブログではインドのヒップホップのルーツとして、「アフリカ系アメリカ人によるオリジナル・ヒップホップ」に加えて、「古典音楽などの独自のリズム。とくに口で複雑なリズムを表現するBolやKonnakkol」を挙げていたが、ひょっとしたら3つめのルーツとして「デモ更新のアジテーション演説」を挙げても良いのかもしれない。
確かに、多くの人々の心を掴む演説をするには、リズム感やキャッチーな言葉のセンスが欠かせないはずで、そこにはラップと相通じる部分があるはずだ。

『ガリーボーイ』そのものは、社会格差や差別の問題を扱いながらも、ラッパーの青年のサクセスストーリーという、斬新だが親しみやすいテーマの映画に仕上がっている。
同じくダラヴィを舞台にしたタミル映画『カーラ』(こちらもヒップホップがサウンドトラックに使われている)のように、スラムを潰そうとする悪徳政治家などが出てくるわけではない。
だが、その根底には、ゾーヤー・アクタル監督の、いびつな社会構造への強烈な異議申し立てがあるのではないだろうか。
そして、こうした問題意識があるからこそ、ガリーのラッパーたちと共鳴し合い、ボリウッドの歴史に残るであろう作品が作れたのではないかとも感じる。

今回もついつい長くなってしまいました。
"Azadi"のリリックの翻訳を読んでこんなことを考えた次第です。
このリリック紹介もいよいよ大詰め、次回はインドにリアルなヒップホップを届ける決意表明とも言える"Asli HipHop"です!



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