インド映画

2023年03月20日

インド映画音楽いろいろ!(2023年度版)


Radikoのタイムフリーで聞ける期間も終わった頃なので、こないだのJ-WAVEの'SONAR MUSIC'のインド映画音楽特集で紹介した音楽を改め紹介しておきます。

最初に自分の立ち位置をはっきりさせておくと、私はインドのインディー音楽シーンを追いかけている人間なので、メインストリームである娯楽映画に対しては、そのエンタメとしての途方もないパワーに敬意を抱きつつも、なんつうか、ちょっとアンビバレンツな感情を抱いていた。
音楽は映画の奴隷じゃねえぞ、みたいなね。
(注:インド映画というカルチャーをディスるつもりは全くないです。「ミュージシャンが自主的に表現しているものこそが音楽」という先入観に囚われた人間の断末魔として捉えてください)

とはいえ、インディー文化を語るにはメインストリームも知っておかないといけない、と思ってチェックしてみると、映画音楽には、欧米のトレンドを躊躇なく取り入れて、見事にインディアナイズした面白くてかっこいい曲がたくさんある。
さすが巨大産業。

そもそも、誰もが表現者になれるこのご時世、メジャーな枠組みのなかで真摯な表現を追求している人もいれば、完全にインディペンデントでもマーケティング的にバズりを狙っている人もいるのはあたり前な話で、メインストリームとかインディペンデントとか分けて考えること自体が無意味なのかもしれない。
たぶん、自分は「どこで誰かどんな音を鳴らしているか」にこだわり過ぎていたのだ。
単純に音としてカッコいいものを味わうことを忘れていたのかもしれない。

というわけで、だいたい2000年以降のインド映画の音楽からピックアップしたカッコよかったり面白かったりする曲を紹介してみます。

諸般の事情でオンエアすることができなかった曲もたくさんあるので、それはまた別の機会に紹介したい(本当はサウスの曲をもっと入れたかった)。

後半が最近の曲になっています。



映画:『ガリーボーイ』("Gully Boy"/2018年/ヒンディー語)
曲名:"Mere Gully Mein"



このブログで何度も書いている通り、『ガリーボーイ』のこの曲は「映画のために作られた専門の作曲家/作詞家による曲」ではなく、映画のモデルとなったラッパーのDIVINEとNaezyのオリジナル曲。
ストリートラッパーの曲がほぼそのままの形でボリウッド映画に起用されるというのは、前列のない事件だった。

この映画バージョンでは、オリジナル音源で主人公ムラドのモデルNaezyがラップしていたパートを主役を務めたランヴィール・シン自らがラップしている。
相棒のMCシェールのパートは、モデルとなったDIVINEのラップにシッダーント・チャトゥルヴェーディがリップシンク。
アメリカで生まれたヒップホップという文化がインドの階級社会の中でどんな意味を持ち得るのか、それを大衆娯楽であるボリウッドの中で、それをどう表現できるのかという点に果敢に挑んだ意欲作だ。



映画:『カーラ 黒い砦の闘い』("Kaara"/2018年/タミル語)
曲名:"Semma Weightu"



『ガリーボーイ』と同じ年に公開されたタミル語作品で、舞台も同じムンバイのスラム街ダラヴィ。
主演はタミル映画の「スーパースター」ラジニカーントで、監督は自らもダリット(被差別階級)出身のPa. Ranjith.
彼は反カーストをテーマにしたフュージョンラップグループCasteless Collectiveの発起人でもある。
ダラヴィといえばヒップホップという共通認識があるのか、特段ヒップホップ要素のないこの作品でも、サウンドトラックはラップの曲が多く採用されていて、実際にダラヴィ出身のタミル系ラッパーがミュージカルシーンにも出演している。
タミル映画となると、同じダラヴィが舞台のラップでもボリウッド(ヒンディー語作品)と違って、映像も音楽もこんなに濃くなる。



映画:『君が気づいていなくても』"Jaane Tu Ya…Jaane Na"(2008年/ヒンディー語)
曲名:"Pappu Can't Dance" 


映画音楽特集ということで、現代インド映画音楽の最大の偉人、A.R.ラフマーンの曲を何かひとつ紹介したいと思って選曲したのがこの曲。
ラフマーンといえば、1997年に日本で大ブームを巻き起こした『ムトゥ 踊るマハラジャ』の音楽を手掛けたタミル出身の音楽家で、ミック・ジャガー、ダミアン・マーリー、ジョス・ストーン、デイヴ・スチュアート(元Eurhythmics)と結成したプロジェクトSuperheavyを覚えている人もいるだろう。

ラフマーンはインド古典音楽から西洋クラシック、クラブミュージックまで幅広い音楽的素養のある人で、映画の内容によってその作風は千変万化する。
今回はとくにインドに興味のないリスナーの方にも面白いと思ってもらえそうな曲を選んでみた。
この曲は2008年の映画に使われた曲で、お聴きいただいて分かる通り、ビッグビート的なテクノサウンドをインド映画音楽に違和感なく導入した、彼の才能と大衆性が伝わる一曲だと思う。
2008年といえば、日本ではPerfumeの『ポリリズム』がヒットした頃で、J-Popにクラブミュージックを取り入れる方法論が提示された年でもあったわけだが、同じようなことがじつはインドでも起こっていたのだ。
ローカルな音楽シーンにクラブミュージック的な高揚感を導入する様式が確立する時代だったのか。
他の地域に関しては分からんけど。

この曲が使われた"Jaane Tu Ya...Jaane Na"は、今現在(2023年3月)Netflixで『君が気づいていなくても』という邦題で日本語字幕で見られるようなので、興味がある方はチェックしてみてください。
アーミル・カーンの甥のイムラーン・カーン主演のロマンチック・コメディとのこと。



映画:"Gangubai Kathiawadi"(2022年/ヒンディー語) 曲名:"Dholida"


番組後半からは、最近の映画の曲を厳選して紹介しています。
前半で紹介したのがヒップホップとかエレクトロニック系の曲ばかりだったので、オールドスクールなインドっぽい曲を紹介しようと思って選んだのがこの曲。
欧米のダンスミュージックを取り入れなくても、インドの伝統的なパーカッションと歌だけでこんなにかっこいいグルーヴが出せるということを示したかった。
インド音楽的には、ベースが入っているところとコーラスがハーモニーになっているところが現代的なアレンジと言えるだろうか。
インドの音楽にはもともと通奏低音や和声といった概念がなく、例えば90年代頃でも、伝統的なアレンジの映画音楽にはベースが入っていなかった。

映画はNetflix制作の"Gangbai Kathiawadi".
『RRR』や『ガリーボーイ』でもヒロインを務めていたアーリヤー・バットが実在したムンバイの娼館の女ボスを演じている。
映画としては、主人公を性産業で働く女性たちの権利のために立ち上がる存在として描いているところに現代的な味付けがあると言えるか。
Netflixの言語設定を英語にすると英語字幕で見ることができる。



映画:『ダマカ テロ独占生中継』(2021年/ヒンディー語) 曲名:"Kasoor (Acoustic)"


こちらもNetflix映画の曲で、この作品(『ダマカ テロ独占中継』)は日本語字幕で見ることができる。
面白いのは、この映画が韓国映画の『テロ、ライブ』という作品のリメイクだということ。
それが、海外資本によるネット配信作品として公開されるという、新しいタイプのインド映画だと言えるだろう。
この曲はインドのインディー音楽シーンで最高のシンガーソングライターと言っても過言ではないPrateek Kuhadの既発曲で、映画のために作られた曲ではなくて既存の曲が起用されたという点でも新しい。
"Kasoor"はこのブログでも何度も紹介してきた名曲中の名曲。
映画に使用されているのはそのアコースティックバージョンだ。



映画:"Pathaan"(2023年/ヒンディー語) 曲名:"Besharam Rang"


EDM的かつラテン的という近年のボリウッドのトレンドをばっちり取り入れた曲ということで選んだのがこの曲。
ヒンディー語の歌以外のトラック部分は、欧米のヒットチャートに入っていても全く違和感のない音作りで、そういう意味では日本よりも「進んでいる」とも言える。
ヨーロッパロケのミュージカルシーンも、ディーピカー・パードゥコーンが披露するヒップホップ的な挑発的セクシーさも、今のボリウッド現代劇を象徴しているかのようだ。

音楽を手掛けているのは2000年代以降のボリウッドに洋楽的な洗練を持ち込んだ二人組Vishal-Shekhar.
メンバーのVishal Dadlaniは1994年に結成されたインダストリアル・メタルバンドPentagramでのメンバーでもあった。

映画は今年1月に公開されたシャー・ルク・カーン4年ぶりの主演作である国際スパイ・アクション"Pathaan".
(3月27日追記:2月に公開、5年ぶりと書いてしまってましたが、コメント欄でご指摘いただいて修正しました)
日本公開が待たれる作品である

今回紹介できなかった曲は、また改めて書きたいと思ってます!




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2023年03月14日

スヌープ・ドッグ! カイリー・ミノーグ! Akon! Nas! 世界的スターを起用したボリウッド映画の曲を紹介


3月13日(月)のJ-WAVE 'SONAR MUSIC'「インド映画音楽特集」でいろいろ紹介してきました!
本当はもうちょっとヒンディー語(=ボリウッド)以外の曲ももっと紹介したかったのですが、オンエアするためのいろいろな条件が合わず、ちょっと偏っちゃったかな、とも思ってます。
サウスを期待していたみなさん、ゴメンネ。
あと、ラジオ映えする曲に絞って選曲したので「なんであの曲がないんだ!」とか「なんであの映画の話がないんだ!」という方も、ゴメンナサイ。

今回は番組では紹介しきれなかったテーマでお届けします。


いまや経済成長著しいインドのエンタメのメインストリームである映画のもつ資金力はすさまじく、インド最大の制作本数を誇るヒンディー語のエンタメ映画(いわゆるボリウッド)では、ミュージカルシーンに使われる楽曲に、世界的に有名なアメリカやイギリスのシンガー/ラッパーが起用されることもある。
というわけで、今回は、あっと驚くようなアーティストが参加したボリウッドの曲を紹介!


まずは、言わずと知れたウェッサイの大物、Snoop Doggが起用された、2008年の映画"Singh is Kinng"のテーマ曲。

Snoop Dogg, RDB & Akshay Kumar "Singh is Kinng"


アクシャイ・クマール主演(彼の名前はこの曲にもクレジットされている)、カトリーナ・カイフがヒロインを務めたこの映画は、オーストラリアの裏社会で暗躍するシク教徒のマフィアのボスと、パンジャーブの田舎街に住む彼の純朴な弟との関係を軸にしたアクション・コメディということらしい。
監督は「コメディの帝王」と呼ばれているというアニース・アズミー。
映画の情報は、arukakatさんこと高倉嘉男に詳しく記載されている。


ターバン姿で知られるシク教徒は、イギリスやカナダ、アメリカへの移住者も多い。
彼らは'90年代に伝統音楽の「バングラー」とヒップホップを結びつけたスタイルを生み出し、それはやがてインドのメインストリーム・ラップの原型となった。



この曲でスヌープと共演しているのは、そうした英国産インド系ヒップホップのオリジネイターのひとつであるRDB.
楽曲制作もスヌープとRDBの共作で行われたようだ。
アッパーなビートとスヌープのレイドバックしたフロウが生むギャップが面白い。
曲はまあ、ラップとしてもバングラーとしても弱いが(そもそもバングラーではないし)、映画のラストとかに流れたらちょっと面白いかな、とは思う。

スヌープ起用の理由は今ひとつわからないが、彼のギャングスタ・ラッパーとしてのイメージがマフィアをテーマにしたこの映画とマッチしたからだろうか。
2008年といえば、インド国内のヒップホップシーンはまだ極めてアンダーグラウンドだった。
というか、この時期から活動していたラッパーはほとんどおらず、シーンと呼べるものが存在していたかどうかすら怪しい。
当然、ヒップホップ界のスーパースターであるスヌープの認知度もインドでは低かったはずで、そう考えると大金を投じて彼を起用する理由は見当たらないが、もしかしたら、海外在住のシク教徒のマーケットを見据えたものだったのかもしれない。
イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアには、合わせて200万人弱のシク教徒が在住している。

ちなみにRDBはシク教徒のホッケー選手を主人公としたカナダ映画"Break Away"でリュダクリスとも共演している。
ラップとヒンディーポップの融合という意味では"Singh is Kinng"と同じスタイルだが、インド映画とカナダ映画でのサウンドの違いを味わってみるのも一興。

Ludacris, RDB "Shera Di Kaum"


ちなみにこの映画には現在カナダ国籍を持っている前述のアクシャイ・クマールがプロデューサーとして名を連ねており、カメオ出演もしているとのこと。
この映画は"Speedy Singh"というタイトルでヒンディー語に吹き替えられてインドでも公開された。



続いては、2009年の映画"Blue"からの曲。
起用されているのは1980年台から活躍するイギリスの人気シンガー、カイリー・ミノーグ。

Kylie Minogue, Sonu Nigam "Chiggy Wiggy"


この映画はサンジャイ・ダット主演の海洋アクションで、共演にさっきの"Singh is Kinng"にも出演していたアクシャイ・クマールも名を連ねている。
監督はアントニー・デスーザという人で、当時としてはかなりの予算をかけて作られた作品のようだが、前述のarukakatさんによると、出来はイマイチだったようだ。


音楽を担当しているのは現代のインド映画音楽界の第一人者A.R.ラフマーン。
彼のポピュラー音楽作家としての力量を存分に感じることができる出来栄えだ。
中盤以降にバングラー/ヒンディーポップ的なアレンジを入れてちゃんとインドの観客を喜ばせることを忘れないのもプロフェッショナル。

この曲におけるカイリー・ミノーグの起用理由は、おそらくカリブの海を舞台にした作品の雰囲気に合うこと、そして中産階級をターゲットにした映画としても適切な人選だからといったところだろう。
インド都市部の英語で教育を受けた人々は、いわゆる洋楽嗜好が強い。
また、'00年代初頭に再燃したカイリーの人気がちょっと落ち着いた時期で、オファーしやすかったということもあったかもしれない。


Akon(エイコン)が英語混じりのヒンディー語で歌うのは、シャー・ルク・カーン主演の2011年のSFアクション映画"Ra.One"の曲。

Akon, Vishal Dadlani, Shruti Pathak "Criminal"


arukakatさんによる映画情報はこちらからどうぞ。


この映画の楽曲を手掛けているのは、Vishal-Shekhar.
英語ヴォーカルで歌うムンバイのヘヴィロックバンドPentagramのヴォーカリストVishal Dadlaniと、映画音楽作家のShekhar Ravjianiによるコンビで、この2人は2000年以降のボリウッド作品に洋楽的センスを持ち込んで人気を博している。
'00年代に"Locked Up"や"Lonely"などいくつものヒット曲をリリースし、レディ・ガガの才能を見出したことでも知られるAkonだが、この曲にはキツめのオートチューンがかかっているし、劇中のミュージカルシーン(ミュージックビデオ)では最初にちょっと出演しただけでシャー・ルクの口パクになってしまうというし、けっこうひどい扱いをされている。



Akon "Chammak Challo"



"Ra. One"ではこの曲もAkonが歌っているが、今度は映像にもいっさい登場せず、はっきりいってほとんどAkonの無駄遣いともいえる。
でもYouTubeのコメントを見る限り、彼が流暢なヒンディー語で歌っていることに対してインドのリスナーは概して好意的に受け止めているよう出し、まあいいのか(この曲にはタミル語も混じっているようで、タイトルはパンジャービー語で「セクシー・ガール」の意味とのこと)。

この映画にAkonが起用された理由はやはり謎だが、この映画をリリースした2011年当時、彼は少しずつ「往年の人気シンガー」になりつつあり、ここでも「知名度の割に起用しやすかった」という理由はあったものと思われる。
また、この映画がかなりハリウッドを意識した作風であったことから、もしかしたら世界市場を見据えての起用だったのかもしれない。


それはともかく、"Ra.One"のサウンドトラックでは、"Stand By Me"を引用した"Dildara"が白眉だった(この曲にはAkon不参加)。
Shafqat Amanat Ali "Dildaara"


そういえばボリウッドではロイ・オービソンの"Oh, Pretty Woman"を引用した曲もあった。

Shankar Mahadevan & Ravi 'Rags' Khote "Pretty Woman"


こちらは2003年に公開された、アメリカが舞台のヒット映画"Kal Ho Naa Ho"に使用された曲。
音楽を手掛けているのは90年代のボリウッドに洋楽的センスを持ち込んだトリオShankar-Ehsaan-Loy.
ちょうどVishal-Shekharの一昔前に同じようなことをやった人たちと言えるが、Vishal-ShekharにしてもShankar-Ehsaan-Loyにしても、その気になればオールドスクール・ボリウッド的な楽曲を作ることもできるというのがやはり人気の秘密なのだろう。
もちろん、ラフマーンも然りである。
ちなみにShankar-Ehsaan-LoyのひとりLoy Mendonsaの息子Warren Mendonsaは、ピンク・フロイドのデイヴ・ギルモアみたいなスタイルのギタリストとして、映画音楽ではなくインディー音楽シーンで活躍している。

話がそれた。
洋楽を引用した曲の紹介じゃなくて、洋楽のスターが参加した曲の紹介をしていたんだった。

次はこれ。
Nasが起用された2018年のヒップホップ映画"Gully Boy"のエンディングテーマで、映画のモデルになったムンバイのラッパーたちとの共演。
Nas feat. DIVINE, Naezy, Ranveer Singh "NY se Mumbai"



劇中にこそ出演しないものの、この映画はムンバイで行われるNasのライブの前座を目指すラップバトルがクライマックスになっていて、Nasの名前は映画のエグゼクティブ・プロデューサーとしてもクレジットされている。
とはいっても、これは映画制作にはかかわっていない「名誉職」で、Nasは試写を見て感動して自らの名前をエグゼクティブ・プロデューサーとして冠することを申し出たという。
このエピソード、てっきり映画のプロモーションのために作られた話かと思っていたのだが、この曲はサントラには収録されておらず、少し遅れてリリースされているから、もしかしたら本当なのかもしれない。ビートを手掛けているのはトロントのインド系デュオXD Proとジャマイカ人のIll Wayno.
90年代のニューヨークの雰囲気と、ムンバイのガリーラップのノリを兼ね備えたいい感じのビートだと思う。

映画については、公開当時にかなり血圧高めの記事をたくさん書いたので繰り返さない。


今でも大好きな映画である。


余談となるが、ヒンディー語以外の言語の映画に海外の歌手を起用するだけの予算がないわけではなく、例えばヒンディー語映画に次ぐ制作本数を誇り、『バーフバリ』や『RRR』を生み出したテルグ語映画でも、その気になれば世界的に有名な(かつての)人気シンガーを起用することも可能だろう。
おそらくだが、ヒンディー語(ボリウッド)映画以外でこうした傾向が見られない理由は、海外在住のインド系住民や、あわよくば外国人にも売り込もうという意識の強いボリウッドと、ローカル色を重視するサウスの映画の傾向の違いなのではないかと思う。
しかし映画には詳しくないので、実際のところはよく分からない。



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2023年01月21日

『エンドロールのつづき』パン・ナリン監督インタビュー 光の根っこにあるもの

今回は、前回紹介した『エンドロールのつづき』のパン・ナリン監督のインタビューをお届けする。
インタビューという性格上、一部、作品の内容に触れているところがあるので、ネタバレ厳禁派で未見の方は鑑賞後に読むことをおすすめするが、いずれにしても、この魅力的な映画の背景にあるものが分かる貴重な内容であることは間違いない。

それではさっそく、パン・ナリン監督が描いた、「映画の光」の光源を探ってみよう。

main_endroll



この作品のなかで、映画を「光」として描いていることがとても印象的でした。そこにどのような意味を込めたのでしょうか?

「私は映像作家として成長してゆくなかで、光と時間という2つの要素が、物語を伝える上でとても大事だと気づきました。
そのときに、私の子供時代や、住んでいた村のとなり街の映画館で映写技師をしていた友人の思い出をもとに、何かできるかもしれないと考えたのです。
この『光と時間』という発想はとても大事なことだと思ったので、私は主人公の少年に、時間を意味するサマイという名前をつけました。
彼はストーリーを語るための『光』に夢中になります。
私の考えでは、光と時間こそが、映画をマジカルにするのです。
さまざまな映像技術がありますが、35ミリフィルム(1909年に定められた映画フィルムの国際規格)、サイレント、セルロイドフィルム、デジタルと時代が変わっても、そこにはいつも光と時間がありました。
伝える方法が変わって、ヴァーチャル・リアリティーや3Dや、もしかしてホログラムになったとしても、本質は常に光と時間なのです。
これは『映画を祝福する映画』です。
でもこのメインテーマを、前面に押し出すのではなく、もっとあたたかみがあって、心がこもった方法で、直接的にではなく、哲学的かつ詩的に光と時間を表現しようとしました。」



自然の緑や、チャイ売りの小屋の青、カラフルな衣装など、たくさんの色が印象に残っています。
ラストのシーンでも描いているように、優れた映画や映画監督には印象的な「色」があると思いますが、色彩の面でとくに意識したことはありますか?

「そうですね、この映画の色彩については、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』に少し似ています。
『ボレロ』は、一つの楽器から始まって、曲が進むにつれて、打楽器や管楽器が加わってクレッシェンドしてゆきます。
有機的で王道の話の進め方ですね。 
映画の序盤に出てくる色は、サマイが暮らす世界、すなわちお母さんのスパイスや、遊びに使っている色ガラスや、そして彼の周囲にある自然の緑だけでした。
そして彼は『光』(映画のことと思われる)を見つけます。その色は、彼の夢の一部となり、彼は映画に夢中になります。
物語がクライマックスに向かうにつれて、彼はギャラクシー座で多くの映画を見てゆきますが、"Jodhaa Akbar"(劇中でサマイが見る2008年公開のヒンディー語史劇映画)のような映画はとてもカラフルです。
ご存じのようにインドの映画はとてもカラフルなのです。
映画の最後に差し掛かると、そうした色は祝福へと変わります。
あらゆる色を、キューブリックやアントニオーニといった巨匠たちと調和させようとしたのです。」

 
実際に監督は幼い頃に駅でお父さんとチャイを売っていたそうですが、この映画はリアルに少年時代を描いたものと考えて良いのでしょうか? Googleで監督が働いていたというキジャディヤ・ジャンクション(Khijadiya Junction)駅を調べてみたところ、映画に出てきたチャララ(Chalala)駅にそっくりで驚きました。

「その通り。なるべくリアルに近づけました(笑)。
私の父は、実際にキジャディヤ・ジャンクション駅でチャイ屋をやっていました。今では電化された新しい広軌の鉄道が走るようになって、その駅はもう使われていません。
そこに住んでいた人たちもほとんどが別の場所に引っ越して、数軒残っている家も廃墟のようになってしまいました。
だから、私はそんなに遠くない場所で、撮影のために別のよく似た駅を見つけなければなりませんでした。
村の中心じゃなくて、野原の真ん中にぽつんと駅だけがあるような場所です。
何か所かロケーションを探してみたのですが、チャララ駅はキジャディヤ・ジャンクションと同じ路線にあって、走っている車両も、機関車以外はまったく同じような感じだったのです。
父は結局、2010年頃までチャイ屋をやっていました。
その頃は私のきょうだいの生活も安定していたので、『もうのんびりしたら?』と勧めたのですが、父は『友達もいるし、これが自分の世界で、この仕事が好きだから』と言っていました。
お金のためじゃなくて、それが父の生き方だったんです。」


映画のように、実際に野生のライオンが出てくるような場所だったのでしょうか?


「(笑)そこはインドライオンの最後の生息地であるギル国立公園(野生生物保護区。Gir National Park)の中で、ライオンだけじゃなくてヒョウもチーターも住んでいて、映画に出てきた鳥もリスもいます。
撮影中に3、4回くらい、ライオンが駅にやってくることがありました。
それも1匹じゃなくて、10匹くらい来るんです。
駅長が言うには、電車が出ていくと人もほとんどいなくなるし、線路の上には草が生えていないから虫がいなくて、彼らのお気に入りの場所なんだそうです。
線路の上にいる野生のライオンを見るとは思わなかったですね(笑)」


映写技師のファザルのキャラクターについて教えてください。監督が子どもの頃に、実際に彼のような人がいたのでしょうか?

「私の人生にもファザルがいました。
彼の名前はモハメドと言います。預言者モハメドみたいに(笑)。
彼と出会ったのは、本当に映画と同じような感じでした。弁当を交換する代わりに、タダで映画を見せてくれたんです。
映画の中に出てくるいくつかのセリフは、実際に彼が言っていたものです。
彼はいつも『未来はストーリーを伝える人のものだ』と言っていました。
『世界を見てみろ。政治家は嘘をついて俺たちに投票させる。テレビの広告屋は俺たちに商品を買わせる』とね。
そういう商品を買って、持っていたりすると、『そんなものはクソだよ』なんて言っていました。
彼は『政治家や金持ちや広告屋みたいな嘘つきが人生をメチャクチャにして、手に負えないものにしてしまう』と言っていましたが、広い視点で見れば、これは今でも真実ですよね。
彼は14歳からずっと、朝の9時から夜中の1時まで、映写室で過ごしていたんです。
そこは彼のオアシスでした。
そこで働いて、楽しんで、スピリチュアルな時間も楽しい時間も過ごしていました。
彼がそこで持っていなかったのは、おいしい食べ物だけでした。料理上手だった母の料理があれば、彼は大満足でしたよ。
私たちはそんなふうに友達になったんです。」


サマイが通うギャラクシー座のオーナーが「近頃うちでやるような映画じゃ、大金を稼ぐのはとても無理だ」というセリフがありましたが、ギャラクシー座は古い映画を上映する、いわゆる名画座のような場所という設定なのでしょうか?

「新作を上映する映画館でした。
でも、当時のインドでは、6ヶ月前の映画をずっと上映しているなんてこともありました。インドでは、ロングラン上映のことを、25週続くとシルバージュビリー、50週続くとゴールデンジュビリー、75週続くとプラチナムジュビリーと呼ぶんです(笑)。そんなふうに、ずっと上映され続けている映画もありました。
朝方や日曜日には、それ以外の旧作が上映されることもありましたね。
映画に登場するギャラクシー座は、本当に私が初めて映画を見た場所なんです。
もう取り壊されてしまったと思い込んでいたのですが、撮影場所を探していたときに、まだ建物が残っていることを知りました。映画館としては25年前に役割を終えて、今ではサトウキビの倉庫として使われていました。
サトウキビをどかしてみると、木の座席も、座席番号も残ったままだったので、そこで撮影することにしました。
ここ以上にふさわしい場所はないですから。」



映写機が溶かされて、あるものになるシーンがありますね。
これはグローバリゼーションを表しているのでしょうか?
(実際は、映画の内容に沿って具体的に質問したが、未見の方もいると思うので、ここでは伏せる)

「ええ。グローバリゼーションと同時に、過剰消費に至る物質主義の欲望を表しています。
世界中でのあらゆる人たちが必要とされる以上のものを作り出している一方で、リサイクルをしよう、というジレンマもあります。素材を再び活かすことは、地球環境のためにも良いことですから。
インドではリサイクルはとても大きなビジネスになっています。新聞、プラスチック、金属などあらゆるものがリサイクルされていて、フィルムや映写機もそこから逃れることはできません。
銀塩フィルムの時代には、フィルムから銀がリサイクルされていました。
技術が変わって銀塩が使われなくなってからは、バングルやブレスレットが作られるようになったんです。


フィルムが姿を変えるシーンは象徴的なシーンかと思ったのですが、実際にフィルムからバングルが作られていたのですね。

「ええ。2012年ごろまで、実際にフィルムからバングルが作られていました。
知っての通り、インドでは年間2,000本くらいの映画が制作されます。ヒット作ともなれば3,000ものスクリーンで上映されるので、3,000本のフィルムが作られるというわけです。
でもムンバイみたいな不動産価格が高い街では、(保管にも費用がかかるので)誰もそれを保存しません。
リサイクルがとても盛んなので、1、2本のネガを残して、上映が終わったらフィルムはスクラップ業者に売られてしまいます。2013年ごろからデジタル化されてゆくわけですが。
映画に出てきたバングル工場は本物の工場で、実際に2012年ごろまで材料としてフィルムが使われていました。
もちろん、映画の中では詩的なメタファーとして扱ったのですが」


インドの映画は日本でもますます人気になってきていますが、最近のエンターテインメント映画ではナショナリズム的な傾向が強まっているという印象を受けることがあります。一方で、この映画では、むしろ映画を通して世代や信仰や文化を超えて人々が繋がれることが描かれていると感じました。
最近のインドの映画界について、どのようにお考えですか?

「今のインドの映画界は、映画監督でありストーリーテラーである私にとって、とても悲しい状況だと思っています。
あらゆる制作会社が、お金を稼ぐことばかりを考えています。
この国の政治的な空気が右翼的になり、右翼的な政府や政策が人気になると、政治家だけでなく、映画制作者がそれを取り上げるのです。
彼らは、愛国的な映画やプロパガンダ映画など、極めて右翼的な映画を作ることがあります。とくに、ここ2、3年はとても多くなっています。
悲しいことに、インドのような国では、エンターテインメントが現実社会に紛れ込んでしまっていて、そういった映画を現実だと思ってしまう人もいます。
西洋やアメリカとはまったく違うんです。
教育を受けた人であれば、映画を見て分析して『オーケー。これは架空の物語だね』と理解できます。
ドナルド・トランプであろうと、誰であろうと。
ところがインドでは、映画の中で起きたことを現実だと思いかねない人がとても多いんです。
これは本当に危険なことです。
ほとんどの映画制作者は責任を取ろうとしません。
ストーリーテラーであれば、それが真実であろうとエンターテイメントであろうと、なんらかの責任を取るべきです。
悲しいことに、こうした映画は成功していて、多くの興行収入をもたらしています。
それで、多くの制作会社がそういった映画を作るようになっています。
私は『悪魔は金儲けがうまい(devil makes good money)』ということを知っています。
つまり、彼らは、人々がヒンドゥー教に関するもの(ヒンドゥー至上主義/原理主義のことだろう)とか、インドがいかに偉大な国かとか、イギリスや他の圧制者といかに戦ったかとか、そういった映画が見たいだろうと計算しているわけです。
こういったテーマが常に取り上げられています。
個人的には、こうした現状はまったくいいとは思えませんね。」


パン・ナリン監督
2023年1月17日 松竹(株)会議室にて


最後の質問は、少しデリケートな話題かと思いつつも率直に聞いてみたのだが、映画作家としての戒めを躊躇なく語ってくれた。
この矜持は、幼い日の監督がギャラクシー座でファザルことモハメドから聞いた言葉から繋がっているように感じられて、パン・ナリン監督が成長したサマイに重なって見えた。

監督の話を聞いて驚いたのは、寓話的な表現に思えていたシーンや設定のかなりの部分が、監督の実体験に基づいているということ。
芸術を「個人的な体験を他者の感情を喚起する普遍的な表現に昇華すること」だと定義するならば、この映画はまさに一流の芸術作品だ。
パン・ナリン監督は、映画の本質を「光と時間」というレベルにまで解体し、自身の経験と組み合わせてこの素晴らしい作品を作り上げた。
『エンドロールのつづき』は、決して小難しい芸術映画でも、映画マニアだけが共感できる作品でもなく、誰もが感動できる傑作である。
映画というものが続く限り存在する「光と時間」への愛情に満ちたこの物語は、ものすごいスピードで世の中が変わってゆく今だからこそ、深く胸に沁みる。



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2023年01月14日

「光としての映画」への感動の讃歌 『エンドロールのつづき』



1月20日に公開になるインド映画『エンドロールのつづき』。
この映画の試写を見せてもらう機会があったのだが、これが本当に素晴らしかった。



これまで一度でも「映画っていいな」と思ったことがある人だったら、絶対に観たほうがいい。
上映前のざわめき、照明が落ちる時の胸の高鳴り、あっという間に感じられる上映時間が過ぎて、再び明かりがついた時の充足感。
映画にはじめて夢中になったときの感覚が蘇って、思わず熱いものが込み上げてきた。
「現代版『ニューシネマパラダイス』」という評判は、まったく誇張ではない。

この映画は、パン・ナリン監督の少年時代を描いた自伝的作品ということになっている。
主人公は、インドの田舎町(っていうか村)に暮らす少年サマイ。
カーストの最上位であるバラモンの家柄だが、サマイの父が騙されて一家は没落。
親子は小さな駅でチャイ売りをして生計を立てている。

ある日、家族と街に出たサマイは、ギャラクシー座という映画館で映画を見る。
固い座席に割れた音響のさびれた映画館だったが、映写機からスクリーンへと伸びる光の束のなかで、サマイは魔法のような時間を体験した。
このときから、彼は映画に夢中になる。
貧しさと厳格な家柄ゆえ、ふたたび映画館に行くことは許されなくても、映画への憧れは止まらない。
劇場の映写技師ファザルと親しくなった彼は、料理自慢の母がサマイのために作る弁当と引き換えに、映写室から映画を見せてもらうようになる。

サマイの映画への思いはどんどん大きくなってゆき、その後もいろいろなことが起きるのだが、ネタバレがいやな方もいると思うのでここでは割愛する。
単純にストーリーだけを見ても起伏に富んだ素晴らしい作品である。
だが、サマイ少年の思いをよそに、田舎町の映画館も、時代の流れと無縁ではいられなかった。
彼に夢を見させてくれた「フィルムと映写機」の時代の終わりが、静かに迫っていた…。

…というのが、『エンドロールの続き』の、まあ見る前に知っていておいて問題のない範囲のあらすじだ。

この映画の魅力は多岐にわたっているのだが、まず言えるのは、全てのシーンの映像が絵葉書になるレベルで美しいということ。
草原の淡い緑、主人公親子が働く駅のチャイ売り小屋や空の青、色鮮やかな衣装、そして映写機から伸びる啓示のような光。
仮に字幕なしで見たとしても(ちなみに手がかりなしのグジャラート語だ)、構図と色彩の美しさだけで十分に楽しめたはずだ。
予告編でもその素晴らしさは伝わると思うが、その柔らかな美しさは、スクリーンでは何倍にも映えて見える。


主人公サマイを演じているのは、3,000人の子どもの中からオーディションで選ばれたというバヴィン・ラバリ君。
バヴィン君は、サマイ同様にグジャラートの田舎で暮らしていた男の子なのだが、この彼の演技がすばらしい。
ラバリ君はこの映画の撮影まで、映画館に行ったことがなかった(!)とのこと。
松岡環さんの解説によると、劇中で上映されているのは90年代から00年代に撮られたヒンディー語映画だそうで、見たことのない作品ばかりだったが、彼の目の輝きを通して、初めて映画に夢中になった時の興奮がリアルに伝わってくる。


パン・ナリン監督は、この映画のなかで一貫して「映画とは光である」というメッセージを伝えている。
もちろん映画は映写機からの光に間違いないのだが、文字通りの意味だけではない。
暗闇の中で遠い場所の物語を見せてくれる映画は、サマイ君だけでなく、誰にとっても希望であり、夢であり、また人と人、文化と文化をつなぐ存在でもある。

パン・ナリン監督のスタイルは、サマイ少年が心躍らせたボリウッド・エンタメ的なものではなく、どちらかというと洋画的なセンスを感じさせるものだ。
インドは現在でも映画が娯楽の王道を担っているという奇跡のような国だが、この国で映画に夢中になる少年を、監督はいかにもインド的な方法では撮らない。

インドの大地の香りと欧米的な様式を混ぜ合わせて傑作を作り上げた監督の手法は、いつもこのブログで取り上げている、自身のルーツとロックやヒップホップを組み合わせてユニークな音楽を作っているインドのミュージシャンたちを想起させる。
映画にしろ音楽にしろ、ひとつの表現様式が国境を越えて、その土地の文化と融合し、新しい価値を持った芸術作品が生まれる。
グローバル化によって失われゆく伝統もあるが、それは必ずしも、ローカルがグローバルに溶けていってしまうことだけを意味しない。
そこに新しく生まれる文化もあるのだ。
この作品は、フィルムと映写機に象徴される一つの時代の終焉を描いたものだが、見終わった後に強く印象に残るのは、寂しさよりもむしろ希望である。
この映画は、映写機からフィルムを通して放たれる光に対する、レクイエムというよりも讃歌なのだ。

映写機の光が照らす道のりの先にあるのは、タイトルの通り『エンドロールつづき』。
それはすなわちサマイ少年の現在の姿であるナリン監督自身であり、映画の素晴らしさ知っている観客の我々である。
"The Last Film Show"という原題を『エンドロールのつづき』と翻訳したセンスは文学賞ものだ。


最後に、日本人にはちょっと分かりにくい部分の解説をしたい。
サマイ少年が仲良くなる映写技師のファザルはムスリムという設定である。
家庭という責任さえなければスーフィズム(行によって神との合一を目指す「イスラーム神秘主義」)の行者になりたいという、叶わない夢を持った青年だ。
信仰や世代や立場が違っても、映画という光を通して通じ合い、友情を育むことができる。
昨今のインド映画では、ナショナリズム(国家主義というよりも、ヒンドゥー・ナショナリズム)が強すぎて興醒めしてしまうことも多いのだが、この作品に込められたあたたかく静かなメッセージには胸に沁みた。

これもまた、映画が光である理由の一つである。
映画に感動したことがある、全ての人に見てほしい作品だ。



余談です。
個人的にはこの海外版の予告編のほうがグッと来る。
ストーリーをほぼ追った作りになっているので、ネタバレ厳禁派の人にはお勧めしないが、この作品の魅力がより感じられる動画になっているので、気にしない人(もしくは鑑賞後に反芻したい人)は是非。


そしてなんと、この映画を作ったパン・ナリン監督にインタビューをさせてもらえることになった!
次回はその模様をお届けしたい。
乞うご期待!



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goshimasayama18 at 16:25|PermalinkComments(0)

2022年09月22日

早すぎたロックンロールのパイオニア ターバン姿の「インドのエルヴィス」 Iqbal Singh Sethi


インドの ポップミュージック史をひもといてゆくと、まるでオーパーツのような、その時代には存在しなかったはずの「早すぎる音楽」と出会うことがある。
欧米の流行をあまりにも早く導入したがゆえに、あとになって振り返ったときに「なぜこの時代にこんな音楽が?」と思ってしまうような曲のことだ。
ヒップホップ(風の音楽)で言えば、1992年のBaba Sehgalによるスマッシュヒット"Thanda Thanda Pani"や、1994年のタミル語映画"Khadalan"の劇中歌"Pettai Rap"がそれにあたる。
日本でいうと、吉幾三による『俺ら東京さ行ぐだ』(1984年)である。
最新の音楽を取り入れてみたものの、その珍奇さばかりを誇張したために、なんだかコミックソングみたいになってしまっているのも、これらの楽曲の共通点だ。

今回紹介するIqbal Singh Sethiの"Beautiful Baby of Broadway"も、インドのポピュラー音楽史のなかで、そんなオーパーツ的な輝きを放っている曲である。



最近では、サルマン・カーンの主演映画"Tubelight"(2017)でも使用されたこの曲は、もともと1960年のボリウッド映画、"Ek Phool Char Kante"(「ひとつの花、四つの棘」の意味)の挿入歌だった。

しかし、強烈な印象を残すターバン姿のロックンロール・シンガー、Iqbal Singh Sethiは、この1曲のみを残して、オーパーツを生み出した超古代文明のように、インドの音楽シーンから忽然と姿を消してしまう。
(今回、なんでかオーパーツとか超古代文明とか、やたらと「学研ムー」的な表現が多くなってしまっている。よくわからない人は適宜ググりつつ読んでください。わからないままでも何の問題もないですが)

ターバンとロックンロールというコミカルな組み合わせに反して、彼のエルヴィス・スタイルの歌唱、そしてツイストっぷりはかなり本格的だ。
当時インドには、ロックバンドなどまったく存在しなかったにもかかわらず、である。
早すぎたロックンロールを完璧に歌いこなし、踊りこなす彼は、いったい何者だったのだろうか?

「インドのエルヴィス」こと、Iqbal Singh Sethiは、1934年の元日に、現在はパキスタン領であるパンジャーブ地方の街、ラーワルピンディーで生まれた。
プネーの学校を卒業後、若くして海軍に士官。
1953年には、インド海軍の軍艦乗組員として、英ポーツマスで行われたエリザベス女王の戴冠記念観艦式に参加した。
その時に出会ったというイギリス人のガールフレンドから、スイングに合わせて踊る「ジャイヴ」というダンスを教わると、踊り好きのパンジャービーの血のせいか、めきめきと上達。
イギリス滞在中に、ロックンロール・ダンスコンテスト(そういうものが当時あったらしい)で優勝するまでになったという。

帰国後に同郷の女性と結婚。
だが、イギリスでロックンロールに出会ってしまった彼が、一般的なインド人のよう(そのまま落ち着くことはなかった。
ボンベイ(現ムンバイ)のSalome Roy Kapur(現代のボリウッド俳優Aditya Roy Kapurの母)のもとで本格的に歌と踊りを習うと(これはおそらくインドの伝統的スタイルのものだろう)、海軍勤務のかたわら、芸能活動を開始する。
やがて彼は「シク教徒のエルヴィス」として、デリーやカルカッタのナイトクラブやレストランからも呼ばれ、もてはやされるようになったという。
こうした経歴をふまえると、上述の映画のワンシーンは、案外リアルなものだったのかもしれない。
インドでは真新しかった彼の歌とダンスは、海の向こうからやってきた刺激的な音楽に夢中になった上流階級の若者たちに、ばっちりはまったのだろう。


1960年には、ついに"Beautiful Baby of Broadway"で銀幕デビュー。
しかし、スターダムにのし上がったのも束の間、海軍当局から無断で映画に出演したことを問題視され、映画界を去るか、軍法会議かという究極の選択を迫られてしまう。
歌やダンスや映画を崇拝(worship)の対象と呼ぶほどに愛していたが、彼はそれにも増して軍人として国に尽くすことを義務だと感じていた。
Iqbalは、殺到する映画のオファーを断り、軍人として生きることを選んだのだ。

こうして「インドのエルヴィス」の短すぎるキャリアは、あっけなく幕を閉じた。
晩年のインタビューで、彼は「後悔はしていない。海軍は私に多くのものを与えてくれた。1953年のエリザベス女王の戴冠式に出席し、機関士としての訓練を受け、勲章も授与されたんだ」と語っている。

彼の人生のモットーは、「幸せであれ、楽しめ、決して振り返るな。空を見上げていたら転ぶこともあるが、足元を見ていれば前に進むことができる」。
常にポジティブでありつづけたIqbal Singh Sethiは、2021年11月27日、88歳でその生涯を終えた。

歌と踊りが得意で、パーティーライフを愛しつつも、実直な軍人として生きた彼は、パンジャーブ生まれのシク教徒の典型のような人物だったのかもしれない。
(一般的にパンジャーブ人は歌好き、踊り好き、パーティー好きと思われるふしがあり、またシク教徒の男性は戦士であるという教義を持つため、軍隊勤務者が多い)
ヒップホップ同様に、ロックンロールをインドに持ち込んだのもパンジャービーだったと思うと、それもまた感慨深い。


ちなみに、"Beautiful Baby of Broadway"は、当初"Bombshell Baby of Bombay"というタイトルだったそうだが、Bombshell(「爆弾」という意味とは別に「セクシーで魅力的な女性」という俗語でもある)という言葉が問題視されたのか、当局の許可が降りずに改題されたそうだ。

改めて考えてみると、この曲に関しては、インドのインディーミュージック史の「オーパーツ」と解釈するよりも、当時インドのみならず世界中で娯楽の王道だった、ミュージカル映画の潮流に位置付けて考えるほうが妥当なのかもしれない。
日本でも、ロックンロール(ロカビリー)は、1958年の美空ひばり主演のミュージカル時代劇『花笠若衆』でも取り上げられるなど、いわゆる「反骨精神を含んだ若者の音楽」的な解釈とは異なる扱われ方をしていた時代があった。
(趣旨から外れるのでここでは取り上げないが、美空ひばりの「ロカビリー剣法」という曲はなかなかイカすので、興味がある方はYouTubeで検索してみてください)

もうひとつ余談になるが、"Ek Phool Char Kante"には、同じくパンジャーブ出身のムスリムの歌手、Mohammed Rafiによる"O Meri Baby Doll"なるロックンロールナンバーも取り入れられている。


Mohammed Rafiは、Iqbalとは異なり、その後もプレイバックシンガーとしての活動を続けたものの、1980年に55歳の若さで生涯を終えた。
古き良きボリウッドの伝説的歌手として称される彼は、そのキャリアのなかで他にもロックンロールを歌っており、とくに"Gumnaam"(1965)で歌われた"Jaan Pehchan Ho"は、2001年のアメリカ映画『ゴーストワールド』(これもまた名作!)で取り上げられるなど、その後もたびたび注目されている。


(直接動画が貼り付けられなかったので、このリンクからどうぞ)

インドの原始インディー音楽とは異なる、王道エンタメ映画のなかでのロックンロールというのも、今後リサーチしてみたいテーマのひとつではある。


(参考サイト)
https://homegrown.co.in/article/805962/indias-elvis-presley-the-incredible-life-of-iqbal-singh-sethi

https://www.hindustantimes.com/chandigarh/a-sikh-rock-n-roller-from-60s-who-earned-sobriquet-indian-elvis/story-ByBe9NFOyZONECqBlc0OQL.html

https://upperstall.com/features/an-indian-elvis-in-bollywood/






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goshimasayama18 at 22:50|PermalinkComments(0)

2021年10月15日

『ジャッリカットゥ 牛の怒り』について、もう1回だけ書いておきたい

10月10日(日)、水戸映画祭にて、山田タポシさんの司会のもと、安宅直子さんと『ジャッリカットゥ 牛の怒り』のトークセッションをしてきた。
以前も紹介した通り、この映画はインドの山あいのクリスチャン集落を舞台に、屠られようとしていた牛が暴走し、村の男たちをパニックに駆り立ててゆくというもの。(いろんな意味ですごい映画なのだが、ストーリー的にはただそれだけだ)



私はインド映画には相当疎いのだけど、映画をはじめとするインド事情にめちゃくちゃお詳しい安宅さん、タポシさんといっしょだったので、大船に乗った気持ちで「牛の迫力がすごかった」レベルのしょうもない感想を話させてもらった。
会場の水戸芸術館ACM劇場は音響がすばらしく、爆走する牛と終始絶叫している男どもの凄まじいパワーに圧倒されてしまって、それ以上の感想がほとんど出てこなかったのだ。

当日の安宅さんの説明にもあったとおり、インド映画には(他の国の映画と同様に) 娯楽映画と芸術映画があり、『ジャッリカットゥ』は芸術映画に分類される。
(ただし、この作品が単に高尚なだけの映画ではなく、狂気とも言えるエネルギーとサービス精神にあふれた映画であるということは強めに主張しておきたい)

『ジャッリカットゥ』はインド南部のケーララ州で作成された同州の言語マラヤーラム語の映画だ。
インド国内では比較的話者数の少ない言語(3,500万人くらい)であるうえに、マーケットの小さい芸術映画なので、日本で公開されるインド映画の中では低予算で作られた作品ということになるようだ。

低予算で作られたパニック映画といえば、アメリカで粗製濫造され、もはやひとつの文化にもなっているサメ映画が有名だ。


サメ映画界では、予算が少ないと、お金がかかるCGやアニマトロニクスがあまり使えないので、サメがテーマなのにサメがほとんど出てこないという笑い話がある。

唐突にこの話を思い出した私は、ふと『ジャッリカットゥ』の中で牛に登場するシーンはどれくらいあるのか、調べてみたくなった。
2回ほど鑑賞した印象では、全体の3分の2が牛の爆走シーンで、残り3分の1くらいが人間ドラマかな、と思っていた。
『ジャッリカットゥ』はインド映画にしては短い91分の作品である。
牛が爆走するシーンでも、牛ではなく群衆を映しているカットもあるわけだから、牛が映っているのは爆走シーンの半分、だいたい30分くらいかな、と予想していた。
ところが、いざ調べてみたら全然違った。


映画の中で、生きている牛のごく一部でもスクリーンに映っているシーンは、なんと合計でたったの5分半ほどしかなかったのである。
(生きている牛限定。牛肉は除く)
つまり、この映画の主役とも言える牛が登場するシーンは、映画全体のたったの6%ほどしかないのだ。

カット数で言うと、牛が登場するシーンはだいたい70カットくらい。
そのほとんどが、1秒から2秒のごく細かいカットである。
牛を追う、あるいは牛に追われるシーンでは、短いカットがテンポよく畳み掛けられ、じつは牛は一瞬しか映っていなくても、狂気に駆られた男たちの迫真の演技によって、そこにはいない牛の存在が感じられるのだ。

つまり、この映画は「牛がほとんど出てこないのに、強烈に牛の存在を感じさせる」という点でも、勢い任せのようでいて、すごく緻密に作られているのである。

しかも、この映画の魅力は切り替えの激しい暴走シーンだけではない。
怒号飛び交う短いカットと、森や月や落日を映した静かで長いカットの対比は、まるで自然/神の悠久の時間と、欲に囚われた人間社会の時間を表しているかのようで、緊張と緩和の独特なリズムを生み出している。

…とかなんとか、批評家気取りのたわごとは置いておくとして。

おそらくはこの『ジャッリカットゥ』も、撮影にあたって、その予算ゆえに、牛の登場シーンをふんだんには使えないという制約があったことだろう。

そこを独特なカット割りで工夫しつつ、強烈なリズム感や緊張感をも演出し、この超個性的な作品を、B級などではまったくない、文学的ですらある芸術映画に仕立て上げるとは、リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督、ただものではない。
時間があったら、様々な動物系パニック映画を見ながら(ゾンビ映画でもいいかもしれない)、人間を襲うキャラクターたちが映画の中でどれだけの時間登場しているのか、調べて比べてみるのも面白いかもしれない。(俺はやらないけど)


ふと調べてみたら、この手の映画の元祖にして本家とも言える『ジョーズ』 も、「サメはほとんど出てこない」らしい。



何が言いたいのかというと、インド映画は沼に例えられるマニアックなジャンルで、しかと海ほどの広さと深さのある世界ではあるけれど、たまにはこうしてインドという枠を取っ払って見てみるのもいいんじゃないか、ということだ。
とくに『ジャッリカットゥ』みたいな芸術映画はそういう見方をしてもいいタイプの作品だろう。
そういえば、水戸映画祭のバックステージでも、生活音がリズムを刻む演出が北野武の『座頭市』っぽかったという話をタポシさんとしたんだった。


とにかく、この『ジャッリカットゥ』、未見の方は、インド映画というジャンルに関係なく見てみてほしい。
DVD化や配信を待たず、映画館で見れば、なおさら狂気の世界に浸ることができる。



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2021年07月16日

今見るべき映画『ジャッリカットゥ 牛の怒り』はケーララの村の「シン・ゴジラ」!



神は宇宙の全てを創造した。

それらを緩やかに並べ、それぞれに固有のリズムを与えた。
それは、ひとたび崩れると世界そのものを崩壊させる連鎖を生む原動力になる。
光から闇へ
静寂から混沌へ
人間から獣へ
平和から戦争へ
創世記から黙示録へ
それぞれの距離。
この作品は、世界が行っている狂ったレースのアレゴリーである。
世界はそのようにあっては決してならない。
(後略)
リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ(Lijo Jose Pellissery)

(『ジャッリカットゥ 牛の怒り』パンフレットより) 
 



『ジャッリカットゥ 牛の怒り』がいよいよ公開となった。
私、軽刈田もこの映画を見ましたが、いやあ、スゴかった。
見事にやられました。
この映画は、インド映画とか、パニック映画とか、そういうジャンルに関係なく、間違いなく、今、見るべき映画だ。

海外の映画評では「徒歩版『マッドマックス 怒りのデスロード』」とか「牛版『アンストッパブル』」とか言われているようだし、日本の映画情報サイトでも「怒り狂う暴走牛 VS 1,000人の村人たち!タピオカ畑も被害に」なんて紹介されているので、半笑いでツッコミながら見るB級作品かと思っていたのだが、その予想はいい意味で裏切られた。

この『ジャッリカットゥ 牛の怒り』(インド映画にしては短い91分!)は、終始緊張感の途切れない優れたエンターテインメントであると同時に、森の匂いや男たちの体臭まで伝わって来そうな濃密な映像美と映像リズムが楽しめ、そして現代社会と人間の本質を描いた、素晴らしい芸術的作品でもあった。

この映画は、インド映画を含めて、これまで見たどの映画とも似ていない。
とにかく見てくれ。
話はそれからだ。

物語のあらすじを簡単に言うと、こんな感じである。

舞台は南インド、ケーララ州の山奥の農村。
キリスト教徒たちが暮らすこの村で、食材として屠られようとしていた水牛が暴走し、村はパニックとなる。
村人たちは、牛を捕まえようとするうちに様々な欲望が剥き出しとなり、村人vs牛という構図は、徐々に狂気を帯びてくる。

単純に、ほんとうにもう単純に、ただそれだけ。
主人公のアントニをはじめ、登場する村人たちには、さまざまな個人的事情や背景を持っているが、彼らはあくまでもこの映画の構成要素のひとつに過ぎない。
私は海外の映画を見ていると、登場人物の誰が誰だか分からなくなってしまうことがよくあるのだが(じっさい、この映画でも回想シーンのあたりでそうなった)、そういうことは、この映画を見る上で、ほとんど支障にはならない。
ペッリシェーリ監督曰く、この映画の主役は、「屠殺場を脱出して逃げる水牛」と「軽く浮かれた、不思議なほど静かな村」だそうで、インド映画にありがちな、主人公を中心にケレン味たっぷりにストーリーを描くという構図は全く存在していないからだ。
狂気を帯びてゆく人々や、パニックを尻目に自分の欲望だけを追求しようとする人々を、ひとつひとつの事象として見ておけば、いちいち顔や名前を覚えなくても、とりあえずはオーケー。
監督が描きたいのは、個人のストーリーではなく、群衆やコミュニティ、そして人間の存在そのものなのだろう。

もう一つ特筆すべき点は、この映画は、インドの中でもクリスチャンが多い山深い集落という、かなり特殊な環境を舞台としているにもかかわらず、その文化的背景を全く知らなくても、ほとんど問題なく楽しめる普遍性を持っているということだ。
突如出現した荒ぶる存在に対する狂騒(恐怖心、功名心、高揚感、正常化バイアスなど)は、とっぴな設定でありながら、文化的差異にほとんど関係なく共感できるのが面白い。

海外メディアでは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『アンストッパブル』と並んで『ジョーズ』が引き合いに出されていたけれど、私が受けた印象を、他の映画を使って例えるなら、「村の『シン・ゴジラ』」。

『シン・ゴジラ』では、突然現れた怪獣に対して、日本政府が会議に終始して右往左往する様子が描かれていたが、『ジャッリカットゥ』の村の警察も「手続きがないと牛を撃つことはできない」とか、そんなことばかり言って全く役に立たない。 
村人たちは、未知の怪獣に対して秘密兵器を用意するように、かつて村を追放した荒くれ者を呼び戻したり、追い詰めた牛を生け捕りにする作戦を講じたりするのだが(このシーンのカメラワークが最高!)、このあたりの面白さは非常に怪獣映画的だ。

牛を追い続けるうちに正気を失ってゆく村人たちは、監督の言葉を借りれば「偽りの皮を脱ぎ、思いがけずその下にある動物性を露わにする」。
人間と獣との境目が失われてゆく中で、村人たちの狂気を超越した存在である牛は、いったい何を表しているのだろうか。
(邦題に『牛の怒り』とあるが、そもそも牛は怒っていたのか?)

ゴジラは原子力の象徴だったが(『シン・ゴジラ』では3.11によって起きた原発事故のメタファーとして描かれていた)、『ジャッリカットゥ』の牛も、何かを暗示しているのは間違いないだろう。

あくまで個人的な印象を語らせてもらえば、突然暴れだした牛は、人間が文明の力で飼い慣らし、自由に搾取できる対象と考えていた自然の象徴だと思う。
その自然が、突然、人間に牙を向いたとき、我々は知恵と力を結集して立ち向かおうとするが、その過程で「人間vs自然」という構図は、人間同士の争いへと変わってゆく。
『ジャッリカットゥ』における牛=自然を、人間が制圧したと思い込んでいたウイルスとして捉えると、この映画はコロナウイルスが猛威を振るい、オリンピックやワクチン接種をめぐって人々が対立する現代社会を見事に描き切っている。

『ジャッリカットゥ 牛の怒り』がインドで公開されたのはパンデミック前の2019年だし、原作となった小説が出版されたのは2018年だから、もちろんこれは単なる偶然なのだが、この映画が人間の本質を描き切っているがゆえに、予言めいた偶然が生まれたのだろう。

音楽ブログなので音楽についても触れると、この映画は音楽も独特だ。
人間の声で自然の音や不穏なリズムを表現した音像は、インドネシアのケチャのようでもあり、ハカのようでもあり、映画同様に、インドのいかなる音楽にも似ていない。(ちょっと『アキラ』の芸能山城組を思い出した) 

監督曰く「観客が自らの内に息づく獣的な欲求のざわめきに気を向けてもらうため、この作品のサウンドは居心地を悪くするために作られている」とのこと。
ぜひ音楽にも注目して見てほしい。


最後に、『ジャッリカットゥ 牛の怒り』に関連した音楽をいくつか紹介したい。
まずは、舞台となったケーララの魅力をふんだんに詰め込んだ、同州コチ出身のロックバンドThaikkudam Bridgeの"One".


クリスチャンやイスラーム教徒も多く、多様性にあふれたケーララの人々、自然、文化の豊かさが伝わってくる作品だ。
ケーララは古くから教育に力を入れ、識字率が高い文化的な土地として知られており、こうした風土は『ジャッリカットゥ』の高い芸術性と無関係ではない。


彼らの"Inside My Head"のミュージックビデオも『ジャッリカットゥ』を想起させるような、密林の中での不条理劇。


ジャングルを徘徊する男、彼を追う男、蛇に噛まれた男、その男の同行者を描いたこの作品は、何を表現しているのかよく分からないが、どこか芸術性を感じるという点ではケーララっぽいと言えるのかもしれない。


続いて紹介するのは、ケーララ州の州都ティルヴァナンタプラム出身のスラッシュメタルバンドChaosの"All Against All".
こちらも『ジャッリカットゥ』の世界観との不思議なシンクロニシティを感じさせる映像だ。
 

『ジャッリカットゥ』同様に、山あいの村で人々が争い合うこのミュージックビデオは、肌の色などによって人々が分断され、対立し、争い合うことの無益さを描いたものとのこと。
社会的・観念的な大きなテーマを、ローカルな舞台に落とし込んで表現するというのはケーララならではのセンスなのだろうか。


ちなみに「ジャッリカットゥ」とは、本来はケーララ州のお隣、タミルナードゥ州の祭礼ポンガルで行われている牛追いの競技のこと。
以前、この記事で紹介したタミルのヒップホップ・デュオHiphop Tamizhaは、タミル文化としてのジャッリカットゥを描いた短編映画風のミュージック・ビデオを発表している。
今回の記事で紹介したケーララのリアリズム的な映像センスと、いかにもタミル的なアクの強い表現(これはこれでクセになる!)との対比も楽しめる映像作品となっているので、興味のある方はぜひこちらの記事もどうぞ。 



『ジャッリカットゥ 牛の怒り』は渋谷イメージフォーラムなどで7月17日から公開されています。
見るべし!



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2021年02月13日

Netflix『ザ・ホワイトタイガー/The White Tiger』は21世紀インドの『罪と罰』!


※今回の記事は『ザ・ホワイトタイガー』のネタバレ的な内容を含みます。この映画は冒頭でクライマックスが暗示され、そこに至るまでの過程を楽しむタイプの作品ですが(かつ最も肝心な部分には触れないように書いたつもりですが)気になる方はここでお引き返しください。

Netflix制作の映画『ザ・ホワイトタイガー/The White Tiger』を見た。
原作は、マドラス(現チェンナイ)出身の作家兼ジャーナリストのAravind Adigaによる同名の小説。
一時期、インド系の作家が英語で書いた小説を読むことにはまっていたのだが、原作の小説はその頃に読んだ中でもとくに鮮烈な印象を受けた一冊だった。
Adigaはこのデビュー作で2008年のブッカー賞を受賞している。

ちなみに日本でも2009年に文藝春秋から『グローバリズム出づる処の殺人者より』というタイトルで邦訳が出版されている。
この奇妙な邦題は、この作品のテーマを端的に表したキャッチコピーとしてはなかなかよくできていると思うのだが、あまりにも唐突な印象だからか、あまり評判がよろしくないようだ。

原作の小説は、「主人公がベンガルール(旧称バンガロール)を訪問した当時の中国首相・温家宝に宛てて書いた書簡」という一風変わった形式になっており、映画でも、原作の印象的な文章が、主人公のモノローグとしてそのまま活かされている。
(ちなみに実際に温家宝がベンガルールを訪問したのは2005年だが、映画版では2010年という設定に変更されている)
「『世界最大の民主主義国』でありながらも機会の平等には程遠いインドの成り上がり起業家から、共産党一党体制のもと躍進を遂げた中国首相への親書」というユニークな設定によって、この作品は現代社会への皮肉と洞察にあふれたものになっている。

監督は、これまでも社会派の作品で数多くの映画賞を受賞しているイラン系アメリカ人のラミン・バーラニ(Ramin Bahrani)。
主演はこの作品で初めての大役に抜擢された26歳のアダーシュ・ゴーラヴ(Adarsh Gourav)。
主人公が奉公人として仕える夫婦役を『ストゥリー 女に呪われた町/Stree』『クイーン 旅立つわたしのハネムーン/Queen』のラージクマール・ラオ(Rajkumar Rao)と、最近はハリウッド作品での活躍も目立つプリヤンカー・チョープラ・ジョナス(Priyanka Chopra Jonas)が演じている。
インド人作家のブッカー賞受賞小説を、アメリカ資本のNetflixがイラン系の監督を起用して製作したこの映画そのものが、作品のテーマである「グローバリゼーション」を体現しているとも言えるだろう。

物語のあらすじは、田舎(原作ではビハール州ガヤー地区であることが言及される)の貧しい家庭に生まれた若者バルラム(Balram)が、中央政界ともパイプを持つ地主の息子アショク(Ashok)の愛車ミツビシ・パジェロ(原作ではホンダ・シティ)の運転手となり、最終的にはベンガルールで起業家として成功を手に入れるまでの数奇な運命を描いたもの。

こう書くとシンプルなサクセス・ストーリーのようだが、登場人物の背景がなかなか複雑で、それがこの作品に不思議なリアリティーと緊張感を与えている。
主人公のバルラムは、一世代に一頭しか現れない天才「ホワイトタイガー」と称されるほどの明晰な頭脳を持ちながらも、貧しさゆえにチャンスを手に入れることができず、富める者に仕える仕事しか選べない境遇の若者だ。
バルラムのキャラクターは「貧乏だけどまっすぐな努力家」といった単純なものではなく、自身に染みこんだ奴隷根性に葛藤し、一族の中で絶対的な発言力を持つ祖母に人生を決められてしまう不条理に抵抗するという、知性ゆえの屈折を感じさせるものだ。
バルラムが仕える地主一家の息子アショクと妻のピンキーは、アメリカ帰りの先進的な考えの持ち主で、とくにピンキーは、女性や使用人を見下すインドの階級制度に反発し、夫の家族にも物怖じせずに意見する新しいタイプのインド女性として描かれている(保守的でムスリム嫌いのヒンドゥー教徒一家の中で、彼女だけがクリスチャンだ)。

バルラムは、故郷のラクスマンガル(Laxmangarh)では階級制度の染み付いた村落社会と家族のくびきに苦しめられ、奉公先一家の暮らす地方都市ダンバード(Dhanbad)では封建的な主従関係への服従を強いられる。
理解のあるアショク夫妻と引っ越した大都会デリーで、バルラムはようやく幸福に暮らせるかに思えるのだが、そうならないところにこの物語のリアリズムがある。

先進的なアショクは、保守的な彼の家族とは違い、決して使用人を暴力的に支配するわけではなく、バルラムにも気さくに接してくれる。
だが、バルラムとアショクの間には主人と使用人という決して越えられない一線がある。
アショクはバルラムに対して「友人のように接してくれ」と言う一方で、ありあまる富を自らの一族の安寧のためにだけ使い、使用人のバルラムにはごくわずかな金額しか分け与えない。
これは、先進国の富める人々が、人道的な価値観を主張し、途上国の人々に同情を示しつつも、彼らを安い労働力として使い、自分と同等のチャンスを与えようとしないことによく似た構図である。
アショク夫妻が引っ越すデリー(原作ではグルガオン)の高層マンションの豪華な部屋と、バルラムら使用人が暮らす地下の居住スペースの強烈な格差が印象的だ。
彼らの内面に目を向ければ、搾取する側には無自覚な冷酷さがあり、搾取される側には変わらない現実へのあきらめがある。

旧弊な農村社会であるラクスマンガル、貧富や階級の差が主従関係となる地方都市社会のダンバード、そしてポストモダン的な大都市のデリーと物語の舞台が変わっても、自らの立場を決して変えることができないということに、バルラム否応なしに気づかされる。
やがて彼は、この圧倒的な格差を乗り越えるためには、自分の中の意識を変えるだけではなく、倫理すら無視せざるを得ないという結論に達してゆく。
なぜなら、彼を支配する連中は、自分の身を守るためならば、倫理を曲げることも、使用人を使い捨てることも厭わないのだから。
物語の導入部で、バルラムがじつは指名手配されていることが明かされるのだが、その原因となった彼の行動こそが、この物語のクライマックスだ。

ここから物語は、さながら21世紀のインド版『罪と罰』と言えるような展開を見せるのだが、しかしバルラムには「罪」の意識はほとんどなく、また「罰」を受けることもない。
(すっかり彼の心から離れてしまった故郷の家族が悲惨な末路を迎えたことが示唆され、それが「罰」と言えなくもないのだが、原作では、彼が自身の「行為」を全く後悔していないことが明記されている)

結局のところ、この物語で「罪」の意識を感じざるを得ないのは、構造的に富める側にいる我々なのだ。
「俺がお前らと同じようにチャンスを手に入れるにはこうするしかなかった。それをお前は裁けるのか」
という問いが、少なくとも自分にとってのこの作品の後味の大部分を占めている。
とはいえ、この作品は決して重苦しい作品ではなく、現代社会の不条理を鮮やかに描き出したある種の爽快感を放っていて、この社会性と娯楽性の絶妙なバランスは、原作同様に高く評価されるべきだろう。
バルラムは、自らが罪と罰に苦悩するのではなく、その根源を見る者自身の問題として投げかける。
インドのラスコーリニコフは、なんともしぶとい。


バルラムは最終的に、グローバリゼーションの波に乗って発展著しいベンガルールで起業し、わずか数年の間に莫大な富を築く。
映画では詳述されていないが、彼が始めた事業は、コールセンターで働く人々の通勤車両のアウトソーシングである。
「コールセンター」は'00年代のインドの小説によく見られた舞台背景だ(Chetan Bhagatの"One Night @ Call Center"〔未邦訳〕, Vikas Swarup/ヴィカス・スワループの"Six Suspects"『6人の容疑者』など)。
この頃、欧米企業の本国向け電話対応窓口として、賃金が安く英語が話せる人材が豊富なインドに多くのコールセンターが開設された。
アメリカなどの本国の時間に合わせるために深夜勤務になるのが難点だが(そのために通勤の送迎が必要になる)、欧米企業にとっては安価に電話窓口を設けることができ、インド人にとっては英語力だけでそれなりに良い収入を得ることができる。
こうした需要と供給が一致して、コールセンターはインドの一大産業となった。
だが、コールセンターの仕事は、インド人であるというアイデンティティを無くして働くことを意味する。
コールセンターで働くインド人たちは、顧客にインド人であることを悟らせず、あたかも同じ国内のサービス員だと思わせるために、アメリカ風英語の研修を受け、'Happy Thanksgiving Day'のような季節の挨拶を覚え、名前まで英語風に変えさせられて(例えばVikramならVictor、NanditaならNancyのように)働くことになる。
ときにこちらがインド人であることに気づいた相手から差別的な言葉を受けることもあるし、インドより豊かなアメリカに暮らしているはずの顧客からの、あまりにも無知で非常識なクレームの対応をさせられることもある。
欧米的な豊かさへの憧れと、インド人としてのナショナリズムが交錯する場として、コールセンターはうってつけの舞台設定なのだ。

インド随一の国際都市ベンガルールで、ようやく自由と富を手に入れたバルラムが始めた事業が、こうしたグローバルな産業構造の象徴的な存在であるコールセンターに関わるものだったというのはなかなかに興味深いと思うのだが、考えすぎだろうか。

 
さらに蛇足になるが、以前から、インドの物語を「落語っぽい」と感じていたことについても少し書いておきたい。
奉公人と主人の関係、階級社会、長屋暮らし、貧富や学問の差といった要素がドラマにもおかしさにも通じるという点で、インドの物語には落語と共通する要素がそこかしこに散見される。
この作品でも「インターネットを知っているか?」というアショクに、バルラムが知ったかぶりして「村で何匹か飼ってます。今すぐ市場で買ってきましょうか」と答えるところなどはほとんど滑稽噺の世界だし、そもそも人間の業を描いた物語全体が、「鼠穴」のような重厚な噺のようでもある。
要は、インド社会に日本の江戸時代的な要素が残っているから落語っぽさが感じられるわけだが、その観点から見ると、この作品は「落語的」なインドから、グローバルなインドへの脱却を描いた作品としても見ることができる。
ものすごくどうでもいい分析だけど。


最後に、一応音楽ブログなので、音楽についても触れておきたい。
この作品のために書かれた主題歌"Jungle Mantra"を手掛けているのは、あの『ガリーボーイ』のMCシェールのモデルににもなったムンバイの叩き上げラッパーDIVINEだ。

この曲では、アメリカの人気ラッパーVince Staples(インドでもエクスペリメンタルなラッパーのTre Essが影響を受けたアーティストとして名前挙げていた)との共演が実現している。
タイトル通りマントラを思わせるコーラスが印象的な曲で、世界配信される作品だけあって「インドっぽいラップでよろしく」という発注でもあったのだろうか。
ムンバイのストリートから成り上がり、Nasのレーベルと契約するまでになったDIVINEのサクセスストーリーは、まさにこの映画にぴったりの起用だ。
今度は世界配信される作品の主題歌での世界的ラッパーとの共演が実現したわけで、DIVINEはこの楽曲で主人公バルラムと同じような成功を手にしたと言えるだろう
ちなみに最近の作品を聴く限りでは、DIVINEも単なる華やかな成功だけでなく、内面の様々な葛藤を抱えている様子が見て取れる。




"Jungle Mantra"のビートメーカーはムンバイのKaran Kanchan.
彼は日本にも存在しないJ-Trapというジャンルを勝手に作ってしまうほどのジャパニーズ・カルチャー好きで、そのユニークなサウンドに以前から注目していたのだが、最近ではDIVINEやNaezyといった旧知のムンバイ勢のみならず、Seedhe MautらデリーのAzadi Records一派、R&BシンガーのRamya Pothuri、Mass Appeal IndiaのAarvuttiらに多彩なビートを提供し、インドのトップビートメーカーの一人に成長した。
Netflixがアメリカのビートメーカーに発注することもできただろうが、彼もまた大抜擢の起用と言える。


主題歌以外に、劇中で使われている音楽もなかなか興味深い。
原作では、アショクが車の中で聴く音楽として、StingとEnyaのCDが登場する。
いかにもインテリのインド人が聴きそうな趣味ながら、ちょっと古臭いなあ思っていたら、映画版ではGorillazに変えられていた。
海外帰りの現代的なセンスのインド人の趣味として考えると、なかなかいいところを突いているように思う。
またピンキーの誕生日パーティーの帰り道、車の中でへべれけになりながら盛り上がるときにかかっているのは、Punjabi MCの"Mundian To Bach Ke"のJay-Zによるリミックスで、いかにもこういう場面で彼らが聴きそうな選曲だなあ、とまた唸らされた。
他にも、インド系カナダ人シンガーのRaghavなど、なかなかツボを押さえた音楽が効果的に使われているので、ぜひそのあたりも注目してほしい。
予告編で流れるQueenの"I Want To Break Free"は、本編では使われていないが、この作品のテーマを見事に表した楽曲ではある。


最後に蛇足の蛇足。
Wikipediaの情報によると、主演のアダーシュは小さい頃から古典音楽に親しみ、俳優としてのキャリアを本格的に始める前には、SteepskyやOak Islandというプログレッシヴメタルバンドでヴォーカリストを努めていたこともあるらしい。
Oak Island · 03 Half A Clock

一時期はバンドとともにアメリカ進出を考えるほど本格的に音楽のキャリアを追求していたそうで、今後、俳優だけでなくシンガーとして活躍する姿も見られるかもしれない。

長くなりましたが今回はこの辺で。



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2021年02月09日

インド・ヒップホップ夜明け前(その3)Mafia Mundeerの物語・後編

(シリーズ第1回)


(シリーズ第2回)


デリーの地でヒップホップ・ユニットMafia Mundeerとして活動を始めたYo Yo Honey Singh, Badshah, Raftaar, Ikka, Lil Goluの5人。
彼らの活動形態は、Mafia Mundeerの名義でユニットとして活動するのではなく、メンバー同士がときに共演しながら、ソロとして個々の名義で楽曲をリリースするというものだった。

当時のMafia Mundeerで中心的な役割を担っていたのは、イギリスへの音楽留学経験を持ち、野心にあふれていたYo Yo Honey Singhだったと考えて間違いないだろう。

2010年を過ぎた頃から、Honey Singhがまずスターダムへの階段を登り始める。
流行に目ざといボリウッドが、最新の映画音楽として国産のヒップホップに目をつけたのだ。
時代の空気と彼の強烈な上昇志向が見事に噛み合い、彼は立て続けに人気映画の楽曲を手掛けて急速に知名度を上げてゆく。

2012年、ディーピカー・パードゥコーン主演の映画"Cocktail"に"Angreji Beat"を提供。
2013年には、アクシャイ・クマール主演の"Boss"に"Party All Night"を、そして日本でも公開されたシャー・ルク・カーン主演の"Chennai Express"に、タミルのスーパースター、ラジニカーント(映画には出演していない)に捧げた"Lungi Dance"を提供した。
アメリカや日本のヒップホップを基準に聴くと、どの曲も絶妙にダサく感じられるかもしれないが、インドの一般大衆が考える都会の退廃的なナイトライフのイメージに、Honey Singhがぴったりハマったのだろう。
アメリカ的なヒップホップを追求するのではなく、在外パンジャーブ人のバングラー・ビートやデシ・ヒップホップを国内向けに翻案した彼の音楽は、インド的ラップの大衆化に大きな役割を果たした。

ヒップホップにありがちな、リリックが女性への暴力を肯定的に描いているという批判もあったが(とくに、デリーの女子大生がフリースタイルラップでHoney Singhを痛烈に批判した"Open Letter To Honey Singh"は大きな話題となった)、彼の快進撃は止まらなかった。

前述の3作品はいずれもヒンディー語映画(いわゆるボリウッド作品)だが、よりローカルなパンジャービー語映画では、2012年に"Mizra"への出演を果たし、2013年の"Tu Mera 22 Main Tera 22"では主役の一人に抜擢されるなど、Honey Singhは銀幕にも進出する。
 

映画音楽のみならず、ソロ作品やプロデュースでもHoney Singhはヒットを連発した。
2011年にソロ作"Brown Rang"をヒットさせると、2012年にはパンジャービー系イギリス人シンガーJaz Dhamiやパンジャービー系カナダ人のJazzy Bとのコラボレーションをリリースして成功を収めた。
だが、良いことばかりは続かない。

急速な成功による他のメンバーとの格差が、彼と仲間との間に亀裂を生じさせてしまったのだ。
Honey SinghがMafia Mundeerの中心的存在であり、最も早く、最も大きな成功を手にしたことは疑うべくも無いのだが、彼の成功は、実際は彼の力だけによるものではなかった。

実は、この時期のHoney Singhのヒット曲"Brown Rang"はBadshahによって、"Dope Shope"は、Raftaarによって書かれたものだったのだ。
しかし、Honey Singhは、これらの楽曲の本来のソングライターに適切なクレジットを与えなかった。
"Brown Rang"を書いたBadshahは、どうせ大して売れないだろうと考えていたが、予想に反して曲は大ヒット。
クレジットを要求したBadshahをHoney Singhがはねつけたことで、彼らの関係は修復できないほどに悪化してしまった。
また、Raftaarに対しては、彼がレコーディングした曲にHoney Singhがヴォーカルをオーバーダビングして自分の曲にしてしまったという。

こうしたトラブルから、まずRaftaarが、次にBadshahがMafia Mundeerを脱退する。
Honey SinghはMafia Mundeerの新しいメンバーとして、AlfaazとJ-Starを加入させるが、以降、Mafia Mundeerというユニット名を聞くことはめっきり少なくなった。
それでも傍若無人にポピュラー音楽シーンの最前線を突っ走っていたHoney Singhは、2014年に突然シーンから姿を消してしまう。 
後に分かったことだが、彼はこのとき、重度のアルコール依存症と双極性障害に悩まされていたのだ。
リハビリのためのシーンからの離脱は18カ月にも及んだ。

Honey Singhが不在の間に、今度はBadshahがソロアーティストとしての成功をつかむ。
2015年の"DJ Waley Babu"が人気を博し、さらにボリウッドにも進出を果たす。
映画"Humpty Sharma Ki Dulhan"で使用された"Saturday Saturday"や、大ヒットした"Kapoor & Sons"でフィーチャーされた"Kar Gayi Chull"が高く評価され、新しいスターとしての地位を不動のものにしたのだ。
Honey Singhは、自分が不在の間に成功を収めたかつての仲間を素直に祝福することができなかった。
リハビリからの復帰作となる主演映画"Zorawar"の記者会見で、彼は「ロールスロイスを運転したことはあるか?ロールスロイスはタタの'ナノ'とは違う」と、自身を超高級車のロールスロイスに、Badshahを「世界一安い車」と言われたインド製の車に例えてこき下ろしてしまう。
ソーシャルメディア上でもお互いに激しい批判を繰り広げた彼らは、2012年以降、いまだに口も聞いていないと言われている。

そのHoney Singhの復帰第一作の映画"Zorawar"の挿入歌"Superman".
この時期、BadshahもHoney SinghもEDMバングラーとでも呼べるようなスタイルを標榜していた。

Honey SinghとBadshahに少し遅れて、Raftaarも人気を獲得してゆく。
彼は2013年にリリースした"WTF Mixtape"でよりヒップホップ的な方法論を提示し、コアなファンの支持を集めることに成功。
さらには、90年代から活躍するイギリスのバングラーユニットRDBのManj Musikとの共演など、独自路線を歩んでゆく。

"WTF Mixtape"からの"FU - (For You)".Manj Musikをフィーチャーして2014年に発表された"Swag Mera Desi"のリリックには、Honey Singhを批判したラインが含まれているとも言われている。
だが、Honey Singhは、Raftaarの成功も快く思わなかったようだ。
かつて自らがMafia Mundeerに誘ったRaftaarのことを「そんなやつは知らない」「一度しか会ったことがない」と切り捨ててしまう。
しかしRaftaarは抗争の加熱を望んでいなかったようで、多少の皮肉を込めつつも、Honey Singhを憎んでいるわけでは無いことを表明している。

「おそらく彼は急な成功でエゴが強くなりすぎて、自分がどこから来たのか、誰も彼を信じていなかった時に誰がそばにいたのかを忘れてしまったのだろう」
「俺に取ってMafia Mundeerはすごく思い出深いし、今でも彼をブラザーだと思っているよ」 
「俺は他人の成功で不安になったりはしないね。音楽は愛やブラザーフッドやポジティヴィティの普遍的な源なんだ。憎しみや嫉妬の余地なんて無いんだよ」

RaftaarとHoney Singhの再共演はいまだに実現していないが、今ではお互いに激しく罵り合う状況ではなくなったようだ。


時期は不明だが、IkkaもおそらくはRaftaarやBadshahの脱退と近い時期に、Mafia Mundeerを離脱したようだ。
その後のIkkaは、いくつかの映画音楽などにも参加し、高いスキルを示していたものの、Honey SinghやBadshah、Raftaarほどにはセールス面での高い評価を得てはいなかった。
ところが、2019年にアメリカのラッパーNasのレーベル'Mass Appeal'のインド版として立ち上げられたMass Appeal Indiaの所属アーティストとして起用されると、レーベルメイトとなったムンバイのストリートラップの帝王DIVINEとの共演(前回の記事で紹介)や、旧友Raftaarとの久しぶりのコラボレーションなどで、本格派ラッパーとしての実力を見せつけた。
2020年にはMass Appeal Indiaからファーストアルバム"I"をリリースし、その評価を確実なものにしつつある。

その後の彼らの活躍についても触れておこう。
Honey Singhはバングラーラップとラテンポップを融合したような音楽性で大衆的な人気を維持し、今では「インドの音楽シーンで最も稼ぐ男」とまで言われている。
現時点での最新曲"Saiyaan Ji"は最近Honey Singhとの共演の多い女性シンガーNeha Kakkarをフィーチャーした現代的バングラーポップ。
この曲のリリックにもLil Goluの名前がクレジットされている。

BadshahもHoney Singh同様に、EDM/ラテン的なバングラーラップのスタイルで活動していたが、最近ではより本格的(つまり、アメリカ的)なヒップホップが徐々にインドにも根付いてきたことを意識してか、本来のヒップホップ的なビートの曲に取り組んだり、逆によりインド的な要素の強い曲をリリースしたりしている。

このミュージックビデオはデリーの近郊都市グルグラム(旧称グルガオン)出身のラッパーFotty Sevenが2020年にリリースした"Boht Tej"にゲスト参加したときのもの。
ビートにはなんと日本の『荒城の月』のメロディーが取り入れられている。

女性シンガーPayal Devと共演したこの"Genda Phool"はベンガル語の民謡を大胆にアレンジしたもので、スリランカ人女優ジャクリーン・フェルナンデスを起用したミュージックビデオは2020年3月にリリースされて以来、すでに7億回以上YouTubeで再生されている(2020年に世界で4番目に視聴されたミュージックビデオでもある)。
これまでの「酒・パーティー・女」的な世界観から離れて、ヒンドゥーの祭礼ドゥルガー・プージャー(とくにインド東部ベンガル地方で祝われる)をモチーフにしているのも興味深い。

「かつて両親に楽をさせるために、魂を売ってコマーシャルな曲をラップしたこともある。でも今ではそういう曲とは関連づけられたくないんだ」
こう語るRaftaarは、商業的な路線からは距離を置いて活動しているようだ。
コマーシャルなシーンの出身であることから、Emiway Bantaiらストリート系のラッパーからのディスも受けたが、デリーのベテランラッパーKR$NAと共演したり、自身のマラヤーリーとしてのルーツを扱ったアルバム"Mr. Nair"(Nairは彼の本名)をリリースしたりするなど、堅実な活動を続けている。
現時点での最新の楽曲"Black Sheep".
最近では仲間のラッパーたちと運営するKalamkaarレーベルがフランスの大手ディストリビューターと契約を結んだというニュースもあり、さらなる活躍が期待できそうだ。

Ikkaの現時点での最新のリリースは、フィーメイル・ラッパーRashmeet Kaurの楽曲にDeep Kalsiとともにゲスト参加したこの楽曲(全員パンジャービーのシンガー/ラッパー)
レゲエっぽいビートに乗せたバングラーポップのR&B風の解釈は、インドのポピュラー音楽のまた新しい可能性を期待させてくれる。


正直にいうと、Mafia Mundeerの元メンバーたち、とくにHoney SinghやBadshahに対しては、その商業的すぎる音楽性から、私もあまりいい印象を持ってなかった。
バングラー・ラップは垢抜けない音楽だと感じていたのだ。
だが、インドの音楽シーンを知ってゆくうちに、パンジャービーにとってのバングラーは、アメリカの黒人にとってのソウル・ミュージックのようなものであり、その現代的解釈は、商業主義の追求というよりも、ごく自然なものであると考えるようになった。
自らのルーツを意識しつつも、新しい音楽をためらわずに導入し、露悪的なまでに自由でワイルドに活動したという点で、彼らはまさしくパーティーミュージックとしてのヒップホップのインド的解釈を成し遂げたと言ってよいだろう。

本格的な成功とほぼ同時に解散してしまったことで、今ではMafia Mundeerという名前を聞くことも少なくなってしまったが、4人の個性的な人気ラッパーの母体となったこのユニットは、インドの現代ポピュラーミュージックを語るうえで、決して無視できない存在なのだ。

ちなみにMafia Mundeerのもう一人のオリジナルメンバーであるLil Goluは、Honey Singhと楽曲を共作したりしている一方、IkkaをまじえてRaftaarとの再会を果たした様子。
Ikkaの"I"にも参加しており、元メンバー同士の抗争からは距離を置いて、全員と良好な関係を築きつつ活動を継続しているようだ。

いつの日か、彼らが再び何者でもなかったころの絆を取り戻して、その成功に至るストーリーをボリウッド映画にでもしてくれたらよいのに、と思っている。
その夢が実現するのはまだまだ先になりそうだが、それまでに彼らがどんな音楽を聴かせてくれるのか、激変するインドのヒップホップシーンでのパイオニアたちの活動に、これからも注目したい。




(参考サイト)
https://www.shoutlo.com/articles/top-facts-about-mafia-mundeer

http://www.desihiphop.com/mafia-mundeer-underground-raftaar-yo-yo-honey-singh-badshah-lil-golu-ikka/451958

https://www.hindustantimes.com/chandigarh/punjab-is-not-on-the-cards-anymore/story-Wqt6M1lpsARdwVk3TaSSCM.html

https://www.hindustantimes.com/music/honey-singh-might-call-him-a-nano-but-raftaar-still-thinks-he-is-his-bro/story-IKDAVHj7O14CAziUC8KLBK.html

https://www.hindustantimes.com/music/honey-singh-if-my-music-is-rolls-royce-badshah-is-nano/story-lWlU4baLG2poyzpOTZfDqK.html

https://timesofindia.indiatimes.com/city/kolkata/honey-badshah-and-i-still-love-each-other-raftaar/articleshow/58679645.cms

https://www.republicworld.com/entertainment-news/music/read-more-about-raftaars-first-rap-group-black-wall-street-desis.html



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2021年01月19日

タミルのラッパーのミュージックビデオがほぼインド映画だった話 Hiphop Tamizhaとタミルの牛追い祭り



昨年11月に開催したオンライン・イベント「STRAIGHT OUTTA INDIA 南・西編」で、ぜひとも取り上げたかったものの、諸般の事情で見送った曲がある。
今回は、その非常に面白い曲を、時期的にぴったりでもあるので、改めて紹介することにしたい。

ちなみに前述の諸般の事情というのは、
  • これ、一応ヒップホップだけど、ほとんどラップ出てこなくね?
  • 曲が長すぎる!ミュージックビデオが12分もあるうえに、ストーリー仕立てになっているのでダイジェストのしようがない。
  • っていうか、音楽っていうよりもほぼ短編映画じゃね?それに後半はひたすらインタビュー映像だし。
というものである。

そのけったいな曲とは、インド南部タミルナードゥ州を代表するヒップホップデュオ、Hiphop Tamizha(「タミルのヒップホップ」という意味)の"Takkaru Takkaru".
タミルナードゥ州の「牛追い祭り」ジャリカットゥ(Jallikattu. 日本語では「ジャリカット」という表記も目にする)をテーマにした曲だ。
tamilnadu
(タミルナードゥ州の位置。画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Tamil_Nadu

「ジャリカットゥ」は1月14日から行われるタミル人の祭礼ポンガル(Pongal)の中で行われるもので、男たちが疾走する牛の背中のこぶにしがみついて動きを止め、角につけられた金貨を争奪するというなんともワイルドな競技。
「競技」と書いたが、このジャリカットゥはスポーツとも見なされていて、タミルナードゥ州にはなんとJallikattu Premier Leagueというプロリーグまであるという。
…という基礎知識を踏まえた上で、さっそくミュージックビデオを見てみよう。
(字幕をオンにすると英語字幕が見られます)
…いかがでしょう。
さっきも書いた通り、これミュージックビデオっていうより、完全にインド映画だよね。
それも、ベタベタなタミル映画。
まず登場するのは分かりやすい悪役。
インド南部の人たちのアイデンティティを破壊するために、彼らが大切にしている牛を売り捌くことをたくらんでいる。(この時点で、もうどうしようもなくインド!)
インドは乳製品大国だが、トラクターの普及でかつて農耕に使われていた雄牛は用済みなはず。
その雄牛を売り捌けば、彼らは俺たち企業による人工授精に頼らざるを得なくなる…。
という、あくどいんだかなんだかよくわからない計画を悪人どもが企てている。
しかし、タミルナードゥだけはうまく行きそうもない。
彼らはジャリカットゥのためだけに、牛を我が子同様に育てているのだ。

そこに連れてこられる村の顔役の息子。
彼は悪人どもに言いくるめられているようだ。
この村が牛を売れば、他の村の連中も追随するはずだ。

場面変わって村の広場。
ルンギー(腰巻き)姿の男たち。
このへんからもうタミルらしさがぷんぷん。
牛の購入を持ちかけてきた悪人どもに、村の顔役は激怒する。
「家族同様の牛は売らん!今すぐ立ち去れ!」
マシンガンのようにたたみかけるタミル語の響きが心地よい。

ここでやっと始まるイントロ、ここまで2:47!長すぎる!
そして待ってました!タミル映画でおなじみの、スローモーションを駆使したアクロバティックな乱闘シーン!
やっと曲が始まったと思ったら、ラップじゃなくて映画音楽風のコーラス!

乱闘が終わり、大切に育てた牛を愛でるシーン、祝福するシーン、ジャリカットゥの勝者を讃えるシーンが続く…。
…これ、もう完全にヒップホップのミュージックビデオであることを放棄してるよね。

自分が見ているのがミュージックビデオだか映画だか分からなくなった5:05頃から、ようやくラップが始まるのだが、悪者にリンチされながら村の男がラップしているのは、こんな内容だ。

「牛は俺たちの子ども同様 どうして傷付けることができようか
 俺たちのスポーツや俺たちの牛を根絶やしにして
 外国企業どもが儲けようとしている
 善良なタミル人たちよ、目を覚ませ
 アイデンティティを失うことは 自分自身を失うこと
 そうなったら自分の国に住んでいても難民と同じさ
 これは牛だけの問題じゃない 国の問題なんだ
 牛を失ってしまえば 俺たちは貧しくなる一方だ」

(ラップパートはわりとすぐ終わる)

村の男たちの奮闘でなんとか悪徳企業一味を追い返すことに成功。
だが、奴らは次なる悪事を企んでいた。
「牛の目にレモンをしぼり、唐辛子を吹きかけて、牛に酒を飲ませましょう。その様子を撮影して、(彼らが牛を虐待していると)公開するのです」
「フッフッフ…」

お前らは昭和の特撮モノの悪の組織か!とツッコミたくなるような、遠回りでマヌケな計画だが、ここから唐突に始まるタミルのジャリカットゥ関係者たちのインタビューを聞けば、この荒唐無稽なミュージックビデオが作られた背景が分かるはずだ。

ジャリカットゥはインドのなかでもタミル人だけの伝統である。
そして、その競技の性質上、牛たちを傷つけてしまうことも起こりうる。
牛や動物の命を愛することにかけては、インドのヒンドゥー教徒たちはみな真剣だ。
タミルの人々が牛をに愛情を注いで誇りを持って育てているにもかかわらず、他の地域の人々や動物愛護団体は、ジャリカットゥを動物虐待だと考えているのだ。
彼らの反対運動のために、最高裁判所によるジャリカットゥの禁止命令が出されたことさえある。
その後、タミルの人々の激しい抗議行動によって再び行えるようになったものの「友であり兄弟であり神である」という牛を手荒に扱うこの伝統は、とくに北インドの人々には理解されにくく、今でも再び禁止しようという動きがあるという。

ジャリカットゥが一時禁止されたことによって、実際にタミルナードゥ州の畜産業の構造や食生活が変化し、結果的にグローバル企業が利益を得る結果になっているという見方もあるようで、この議論は地方の伝統とマジョリティーの価値観の対立にとどまらない複雑な問題を孕んでいる。

(そのあたりの経緯は、こちらのhappy-vegan-lifeさんのブログに詳しい)


話が音楽から大幅にそれてしまったが、タミルナードゥ州などインド南部の人々は、インドで支配的な立場を占めている北インドに対する反発心が強い。
ムンバイやデリーのヒップホップアーティストたちが、ボリウッドなどのメインストリームの商業文化に対して距離を置きたがる傾向があるのに対して、タミルの場合は、ヒップホップでも大衆映画的な表現を躊躇わないのが面白いところだが、おそらく、メジャーとかインディーとかいう前に、「これが俺たちのスタイル」という意識があるのだろう。
(タミルでもさらにマイノリティーの立場に置かれた被差別階層の人々だと、また別の表現方法を取ることもあって、それはそれでとても興味深いので、いずれ紹介したいと思います)

この曲を演奏しているHiphop Tamizhaは、Adhitiya "Adhi" VenkatapathyとJeeva Rの二人組。
2005年結成という、インドではかなり早い時期から活動しているヒップホップ・ユニットだ。
2011年に"Club lu Mabbu le"のヒットで注目され、2012年には初のタミル語ヒップホップアルバムとなる"Hip Hop Tamizhan"をリリースした。

少し時代が古いせいもあるが、ミュージックビデオもちょっと垢抜けないタミルっぽさいっぱい!
この曲は、同郷タミルの社会派フィーメイル・ラッパーSofia Ashrafに「女性への敬意を欠く」と批判されたいわくつきのものだ。


彼らは音楽的影響として、Michael JacksonやJay Z, タミル語の詩などを挙げており、欧米のポップミュージックと地元文化が並列で語られるところはインドならでは。

最近の楽曲ではぐっと落ち着いたビートを取り入れていて、ムンバイやデリーでも見られるヒップホップのトレンドがタミルにも及んでいることを感じさせられる。
この曲は2020年4月にリリースされた曲で、タイトルからしてコロナウイルスによるロックダウンをテーマにしたものだろう。


1月9日にリリースされた最新のミュージックビデオは、美しい映像で地元の街や人々を映している。

"Takkaru Takkaru"しかり、Hiphop Tamizhaという名前の通り、タミルナードゥをレペゼンしようという意識が強いのだろう。

最後に、ジャリカットゥ・プレミア・リーグの模様をちょっとだけ紹介します。
こりゃすげえや…。
スペインの闘牛や牛追い祭りを遥かに上回る迫力。
大勢とはいえ、Tシャツ、短パンで丸腰で猛牛に立ち向かうなんてとてもじゃないけど考えたくないね。
牛たちと、タミルの男たちの無事を祈ります。




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goshimasayama18 at 18:43|PermalinkComments(0)