インドよもやま話

2020年07月01日

インドと寿司の話(20年前の思い出と、最近のミュージックビデオなど)


誰が決めたのかは知らないが、6月18日は国際寿司デーだったそうだ。
(と思って書き始めたら、もうとっくに過ぎてしまった…)
寿司がすっかり国際的な料理になって久しいが、今回の記事は、私の奇妙な思い出話から始めたいと思う。

あれは今からちょうど20年前の話。
卒業旅行で訪れたインドのゴアで、なんとも不思議な店を目にした。
いや、あれを店と呼んでいいのかどうかすら分からない。

ゴアは、いくつもの美しいビーチを持つインド西部の街だ。
かつてポルトガル領だったゴアは、インドでは例外的にヨーロッパっぽい雰囲気があり、そのためか、欧米人ツーリスト、とくにヒッピーやバックパッカーに人気が高い。

(ゴアのヒッピーカルチャーについては、この記事から始まる全3回にまとめてあるので興味がある方はどうぞ)

心地よい潮風が吹き、美味しい欧米料理が安く食べられ、この国ではめずらしく飲酒にも寛容なゴアは、どことなく修行のような雰囲気がただようインド貧乏旅行のなかで、珍しく楽園の空気を感じることができる街だった。
1ヶ月にわたる旅の終盤だった私は、南国の暖かい日差しの中、ヒッピーファッションやトランスのCDを扱う店を冷やかしたり、海辺で外国人ツーリストとビーチバレーをしたりして、楽園ムードを満喫していた。

その粗末な掘っ建て小屋が立っていたのは、アンジュナ・ビーチとカラングート・ビーチの間の細い道路脇のヤシの木陰だった。
トタンのような素材で作られたその小屋は、とてもレストランにもカフェにも見えず、多少旅慣れた私でも「こんな店(ひとまずそれを店と呼ぶとして)で出された食べ物は絶対に口にしたくない」と思うほどに見すぼらしかった。
だが、驚くべきことに、その小屋の壁面には、サイケデリックに曲がりくねった書体で、それまでインドでは一度も目にしたことのない料理の名前が大書きされていたのだ。

'SEAFOOD'という単語と並んで、その薄汚れた壁にド派手な原色の文字で書かれていたのは、あろうことか、'SUSHI', 'SASHIMI'という単語だった。
そこには、日本人が寿司と聞いてイメージする、新鮮さや清潔さといった要素は全くなかった。
このシュールな光景は、果たして現実なのだろうか…。

当時、日本人バックパッカー向けに、日本食っぽい料理を出す店は、インド各地に存在していた(ヴァラナシの「ガンガー富士」とか、ブッダガヤの「ポレポレ」とか)。
だが、メニューはせいぜい親子丼とかオムライスみたいなものばかりで、ご飯はパサパサのインド米、しかもオリジナルの味を知らないインド人の料理人が勝手にスパイシーな味付けにしてしまうので、食べればかえって本物の日本食が恋しくなってしまうのだった。
まともな日本食を食べるには、大金を払って、駐在員が行くような大都市の高級店に行くしかなかったのだ(行ったことがないので分からないけど)。
あの頃、生の魚料理を出す店は、インドには無かったのではないだろうか。
当時のインドに生魚を安定した冷蔵状態で輸送し、保管して調理できる環境はほとんど無かったはずだし、生魚を扱える料理人がわざわざ日本からインドに来るとも思えなかった。
(本格的な日本食の店を海外で志すなら、あの頃だったらアメリカやヨーロッパに行ったはずだ)

きっとこれは、寿司が食べたかった旅行者が、とっくに潰れた店にふざけて落書きしたに違いない。
小屋の入り口は固く閉ざされており、その寂れた雰囲気は、潰れてからずいぶんと経過しているように見えたのだ。

呆然としていると、突然、どこからともなく一人のインド人のおっさんが現れた。
なんと「店」の関係者が、客と思しき日本人を見つけてやって来たらしいのだ。
その男が、おもむろに「あんた、スシを食べに来たのか?」と聞いてきたので、私はさらに驚いた。
驚いた理由その1は、この小屋というか店は、一応、まだ営業しているらしいということ。そして、驚いた理由その2はもちろん、この小屋で、本当に寿司や刺身を提供しているということだ。

怖いもの見たさで、「ここで寿司が食べられるの?」と聞くと、そのオヤジは「今はないが、夜ならできる。夜また来い!」と力強く答えた。
それは、「日本人のあなたが満足できる寿司じゃないかもしれないけど…」みたいな謙虚さの一切感じられない、インド人特有の、根拠のない自信に満ち溢れた、堂々たる言いっぷりだった。

あまりに不意をつかれたのと、よく分からない気まずさから、お人好しな日本人の私は、つい反射的にこう言ってしまった。

「分かった。夜、また来る」

店の親父は、力を込めて「OK. 準備しておく」と答えた。

ところが、その夜、再びその店に行くことはなかった。
すっぽかしたのではない。
ゴアの強烈な日差しで熱射病になってしまったのだ。
体調は最悪で、とてもそんな不衛生な店で食事をする気にはならなかったし、そもそもベッドから起き上がることもできず、私はひたすら宿で体を休めることしかできなかった。
こうして私は、インドで寿司を食べる貴重なチャンスを逸したわけだが、正直にいうと、あの不衛生な寿司屋に行かないで済む理由ができて、どこかほっとしていた。

翌日にはすっかり元気になったものの、ゴアにはインドの他の街では見かけないような欧米風の食べ物を出す店がたくさんあり、薄情な私は、あのみすぼらしい寿司屋のことを、もうすっかり忘れてしまっていた。
ちょうど2000年のことである。

思いがけずインドで初めて寿司を食べたのは、それから10年の月日が流れた2010年のことだった。
バックパッカーからスーツケーサー(とは言わないけど)に成り上がった、もしくは成り下がった私は、出張で職場のえらい人と一緒にバンガロールのかなり高級なホテルに泊まっていたのである。
バックパッカー時代に泊まっていた宿と比べて、1泊の料金が100倍くらいするそのホテルは、私がよく知るインドとは全く別の世界だった。
見るもの全てが、かつて宿泊していた安宿とは全く異なる清潔感と高級感にあふれている。
スタッフはアイロンの効いた制服に身を包み、シーツやテーブルクロスは染みひとつない真っ白。
世界中のエグゼクティブと思しき人たちが行き交う無国籍な高級空間は、スタッフの顔立ちさえ除けば、まるでヨーロッパの大都市のホテルのようだった(行ったことないから知らないけど)。

そのホテルの朝食バイキングに、なんと、巻き寿司が並んでいたのである。
たしか、サーモン巻きとカッパ巻きだったと思う。
おそるおそるお皿にとって食べてみると、日本風のお米に酢がちゃんと効いていて、テーブルには醤油も添えられていて、正真正銘の寿司と呼んで全く差し支えのない一品だった。
(もちろん、お腹も壊さなかった)

さらに、その宿には日本風居酒屋も併設されていて、内装は外国の日本料理屋にありがちな、やたらと赤を今強調した中国風だったけれど、燗酒も出してくれたし、カツオのたたきなんかもあって(おいしかった)、なかなかに本格的な和食を出していた。
いくらIT産業が発展した国際都市のバンガロールとはいえ、インドの内陸部で寿司やカツオのたたきが食べられるなんて、と、ものすごく驚いたのを覚えている。

そして、その時、忘れかけていたゴアのあの店の記憶が蘇ってきたのだ。
清潔感と高級感にあふれる、空調の効いた大都会バンガロールの高級ホテルではなく、灼熱のゴアの掘っ建て小屋で、'SUSHI'や'SASHIMI'を出していたはずの、あの店の記憶が…。

もしあの日、あの店を訪れていたら、自分はいったいどんな料理を目にしていたのだろう。
やはり、インド人は寿司もスパイシーに仕立ててしまっていただろうか。
ご飯は日本米?インディカ米?
味やクオリティーはともかく、もしかしたら、あれはインドで最初の寿司レストランだったのかもしれない。

バンガロールで寿司を食べてからさらに10年。
その後もインドは驚異的な経済成長と国際化を続け、今ではインドのどの都市にも、寿司を出す店が出来ているようだ。
疑っているあなたは、「インドの都市名(スペース)SUSHI」と入れて、Google先生に聞いてみてほしい。

スクリーンショット 2020-06-18 21.50.23
この画像は、「Bangalore Sushi」で画像検索してみた結果だが、なぜかシャリが外側に来ている寿司が多いのが気になるものの、ひとまず「寿司」と呼んで全く問題のない料理が並んでいるのが分かるだろう。

長い思い出話に付き合っていただきありがとうございました。
ここからが本題。(前置きが長すぎる!申し訳ない)


インドでも一般化しつつある寿司だが、インド人にとって、寿司や刺身はまだまだ「生で魚を食べるという奇妙な料理」だ。
インド人は、一般的に食に関しては極めて保守的だ。
ご存知のように、人口の8割を占めるヒンドゥー教徒は牛肉食を神聖なものとして忌避しており、ムスリムは豚肉を汚れたものとして忌避している。
ヴェジタリアンも多く、かつては異なるカーストと食卓をともにしない習慣すらあったインド人は、見慣れない外国料理に好奇心を持って飛びつくようなことはなく、食べ慣れた料理こそが一番安心で、そして美味しいと思っている人がほとんどなのだ。

インドの人気作家Chetan Bhagatの小説"A Half Girlfriend"に、ビハール州の田舎育ちの主人公の大学生が、好意を寄せるデリーのお金持ちの娘のホームパーティーにうまくとけ込むことができず、戸惑う場面が出てくる
そこで登場するのが寿司だ。
ウェイターが持ってきた見慣れぬ料理が「生魚を乗せたライス」だと聞いて、主人公はびっくりするのだ。 
主人公は、翌日、似た境遇の寮の仲間たちと、傷を舐め合うかのように「寿司なんてさっぱり理解できないよ。日本の料理なんだって」と語り合うのだ。
都会的なパーティーになじめなかった彼が、金持ちのライフスタイルの理解不能さをぼやいているというわけだ。
(この小説は、後にArjun Kapoor, Shraddha Kapoor主演で映画化されたが、映画は未見なのでこのシーンがあったかどうかは分からない)
ビハール州やデリーは内陸部であり、そもそも魚を食べる週間がない。
有りあまるお金を持っているのに、わざわざゲテモノの「生魚」を食べるなんて意味が分からない、という感覚は、多くのインド人にとって、至極真っ当なものだろう。

今回は、そんなふうにインドでは高級であると同時にかなりキッチュな食べ物である「寿司」が出てくるミュージックビデオを紹介します。

まずは、チェンナイを拠点に活動しているインディーロックバンド、F16sが昨年リリースしたアルバム"WKND FRND"からシングルカットされた"Amber".
ポップなアニメーションで現代社会に生きる人々の孤独を表現したミュージックビデオの1:56に羽の生えた寿司が登場する。

リッチで華やかな生活に憧れながらもなじめない孤独感のさなかに、突如として飛んでくる謎の寿司は、"A Half Girlfriend"に出てきたのと同様に、空虚な豊かさの象徴だろう。
ちなみにF16sの活動拠点であるインド南部東岸の港町チェンナイは、貿易などに携わる日本企業が以前から多く進出している街である。
チェンナイの寿司事情を開設したJETROのこんな記事を見つけた。
内陸部よりも魚に馴染みがあるはずのチェンナイでも、やはり生魚は地元の人々にとってハードルが高いようである。



続いて紹介するのは、インド随一のセンスの良さを誇るコルカタのドリームポップデュオParekh and Singhが今年4月にリリースした"Newbury Street".
寿司は2:18に登場。

見たところ、マグロ、エビ、イカ、玉子などのなかなか本格的な寿司のようだ。
Newbury Streetはアメリカのボストンにあるお洒落な繁華街の名前。
このタイトルは、メンバーのNischay Parekhがこの通りにほど近い名門バークリー音楽大学に留学していたために付けられたものだろう。

このミュージックビデオに出てくる寿司は、これまでに見てきたような「高級なゲテモノ料理」ではなく、ポップでクールな世界観に溶け込んだ、「色鮮やかでお洒落な料理」という位置付けだ。
留学経験がある国際派であり、かつFacebookページのおすすめアーティストにウディ・アレンやマーヴィン・ゲイと並んで、アメリカ版「料理の鉄人」にも出演していた「和の鉄人」森本正治を挙げている彼らにとって、寿司は馴染みのないものではないのだろう。
(森本氏は、インドでもムンバイの5つ星ホテルTaj Mahal Palace内に、和食レストラン"Wasabi"を展開している)

多少インドのことを知っている日本人としては、Parekh and Singhのセンスももちろん分かるし、彼らと価値観を共有していない大多数のインド人(たとえ現代的な音楽のアーティストであっても)にとって、寿司が高級だが極めて悪趣味な食べ物だという感覚も理解できる。
そういえば、子どもの頃、見たことも食べたこともないエスカルゴに対して、私も同じようなイメージを持っていたのを思い出す。
今では、サイゼリヤに行けば必ず「エスカルゴのオーブン焼き」を頼むくらいエスカルゴ好きになったのだが…。

だんだん何を書いているのか分からなくなってきたが、今回はインドでの寿司の思い出と、インド人にとっての寿司、そして、インドのミュージックビデオに登場する寿司を紹介しました。

書いてたら、寿司が食べたくてたまらなくなってきた。

…寿司、食べたいなあ。
できれば回ってないやつ。

それにしても、あのゴアの寿司屋のオヤジが今頃何をやってるんだろう…。
もしあなたが、ゴアで怪しげな寿司屋を見つけたら、ぜひ食べてみて、どんな味だったか教えてください。



追伸。
そういえば、1990年代のインドで刺身を食べさせてくれた場所を1箇所だけ思い出した。
インド東部オディシャ州の海辺の小さな街、プリーにある日本人バックパッカーの溜まり場、「サンタナ・ロッジ」だ。
3食付きのこの宿では、追加料金(確か150ルピーくらい、当時のレートで500円ほどだったと思う)を払えば、大阪の飲食店での勤務経験があるオーナーが、近所の漁師から仕入れた魚の新鮮な刺身を出してくれたのだ。
日本から取り寄せた醤油とワサビもあり、日本食に飢えていた私は、もちろんこの刺身を注文した。
困ったのは、ご飯がパサパサのインド米だということと、他のおかずがインド風のカレーだということ。
食べる前から想像がついたことだが、インドの米と刺身は全く合わず、さらにインドカレーと刺身は味覚の方向性が完全に真逆で、悲劇的なまでにめちゃくちゃな組み合わせだということだ。
(念のために言うと、その刺身は鮮度もまったく味も申し分なく、単体で食べればとても美味しいものだった)

あの時の味のミスマッチを考えれば、全く異なる食文化で育ったインドの人たちが、寿司や刺身をゲテモノ扱いするのも無理がないことだと思う。


追伸その2。
ちょうどタイムリーに面白い記事を見つけたので、貼り付けておく。



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2020年06月11日

インドに共鳴する#BlackLivesMatter ダリットやカシミール、少数民族をめぐる運動


今さら言うまでもないことだが、米ミネアポリスでアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドさんが警察官の過剰な暴力によって命を落としたことに端を発する抗議運動が、世界中に広がっている。
この運動は、もはや個別の事件への抗議運動ではなく、社会構造に組み込まれた差別や格差全体に対する抗議であるとか、過激な反ファシスト活動家たちが暴力的な行動を引き起こしているとか、いや、じつは暴力行為の引き金を引いているのは彼らを装った白人至上主義団体だ、とか、さまざまな議論が行われているが、すでに詳しく報じている媒体も多いので、ここでは割愛する。

アフリカ系アメリカ人のみならず、多くの人種や国籍の人々が、SNS上で#BlackLivesMatterというハッシュタグを使い、軽視される黒人の命を大切にするよう訴えていることも周知の通りだ。
この 'Black Lives Matter'(BLM)は、2013年に黒人少年が白人自警団員に射殺された事件をきっかけに生まれスローガンで、その後も同様の事件が起こるたびに、'BLM'ムーブメントは大きなうねりを巻き起こしており、インドでも、多くの著名人がBLMへの共感を表明している。

それにともなってソーシャルメディア上で目につくようになってきたのが、#DalitLivesMatterというハッシュタグだ。
ダリット(Dalit. ダリトとも)とは、南アジアでカースト制度の最下層の抑圧された人々のこと。
動物の死体の処理や、皮革工芸、清掃、洗濯など「汚れ」を扱う仕事を生業としてきた彼らの存在は、カースト制度の枠外に位置付けられた「アウトカースト」と呼ばれたり、触れたり視界に入ったりするだけで汚れるとされて'Untouchable'(「不可触民」と訳される)と呼ばれるなど、激しい差別の対象となってきた。
インドの憲法はカースト制度もそれに基づく差別も禁じているが、今日に至るまで、苛烈なカースト差別に起因する殺人や暴力はあとを絶たない。
ソーシャルメディア上では、#DalitLivesMatterのハッシュタグとともに、実際に起きたダリット迫害事件のニュースがシェアされたり、「インドのセレブリティーはBLMに対する共感を表明するなら、自国内の差別問題にも真摯に取り組むべきだ」という痛烈な意見が述べられたり、さまざまな情報発信が行われている。

ダリットに対する差別反対と地位向上を訴えているオディシャ州出身のラッパーのSumeet Blueも、#DalitLivesMatterを使用している一人だ。
彼はソーシャルメディアを通じて、ネパールのダリットが石を投げられて殺されたことや、貧しさゆえにオンライン授業にアクセスできなかったケーララ州のダリットの少女が自ら命を絶ったことなど、厳しい現実を発信し続けている。

彼のリリックのテーマもまたダリットの地位向上であり、この"Blue Suit Man"では、「ダリット解放運動の父」アンベードカル博士をラップで讃えている。

アンベードカルはダリットとして様々な差別を受けながら、猛勉強をして大学に進み、ヴァドーダラー君主による奨学金を得てコロンビア大学に留学し、のちにインド憲法を起草して初代法務大臣も務めた人物である。
晩年、彼はヒンドゥー教こそがカースト制度の根源であるという考えから、50万人もの同朋とともに仏教に改宗し、ダリット解放とインドにおける仏教復興運動の両方で大きな役割を果たした。
彼は青いスーツを好んで着用していたことで知られ、今日では青はダリット解放運動を象徴する色となっている。(これとは別に、青は空や海のように境界がないことを表しているという説も聞いたことがある)

インド各地に目を向けると、ヒップホップとタミルの伝統音楽を融合したCasteless Collectiveや、自らの出自である皮革工芸カーストの名を冠したチャマール・ポップ(Chamar Pop)を歌う女性シンガーGinni Mahiなどが、音楽を通して反カーストやダリットの地位向上のためのメッセージを発信しつづけている。




ダリット以外のインドの人々にも、BLMムーブメントは影響を与えている。
#KashmiriLivesMatterは、長く独立運動や反政府運動が続き、それに対する苛烈な弾圧で罪のない人々の自由や命が奪われ続けているカシミールへの共感を表明するハッシュタグだ。

カシミール出身のラッパーAhmerは、自由を求める政治的/社会的な主張を発信しているレゲエアーティストのDelhi Sultanateとコラボレーションした新曲"Zor"を6月9日にリリースした。
(ただし、彼らが#KashmiriLivesMatterのハッシュタグを使用していることは確認できなかった。彼の曲を聴けば、同じテーマを扱っていることは分かるのだが)。

カシミール地方は、昨年、中央政府によって自治権を持った州から直轄領へと変更になったばかりであり、その反対運動を抑えるために、外出禁止やインターネットの遮断といった事実上の戒厳令下に置かれていた。
こうした状況のもとで、圧制に反発し、カシミール人を鼓舞する楽曲をリリースするということは、かなり勇気のいる行動だと思うが、なんとしても訴えたい現実があるのだろう。

カシミールのラッパーによる意見表明は今回が初めてではない。
同じくカシミール出身のラッパーMC Kashは、2010年に、抑圧され続けるカシミールの現状に抗議する"I Protest"をリリースしている。
この曲のタイトルは、大きな共感を呼び起こし、ハッシュタグ'#IProtest'として、インド社会を中心に広く拡散し、カシミールの住民への弾圧に反対する人々の合い言葉となった。


Delhi SultanateやMC Kashについては、以前こちらの記事で詳しく紹介している。



#DalitLivesMatterや#KashmiriLivesMatterは、BLMに比べれば、大きな盛り上がりになっているとは言えないかも知れないが、社会構造の中で抑圧された人々をめぐる運動が国境を超えてインスパイアされているということを示す象徴的な事例と言うことができるだろう。
マイノリティの権利獲得/地位向上のための運動としての歴史が長いアフリカ系アメリカ人のムーブメントは、訴求力の高い彼らの音楽とともに、様々なマイノリティ運動に活力を与えているのだ。


もうひとつ事例を紹介したい。
2017年に米ラッパーのJoyner Lucasが発表した"I'm not Racist"は、今回のBLMムーブメントとともに再び注目されている楽曲だが、白人による無理解に基づく偏見と、それに対する黒人からの言い分というこの曲の構成を、インドに置き換えて「リメイク」したラッパーがいる。
まずは、オリジナル版を見てみよう。


オディシャ州出身の日印ハーフのラッパー、Big Dealは、その東アジア人的な見た目を理由に幼少期に差別を受けた経験を持っており、そのことから、彼によく似た外見を持ち、マイノリティーとして差別の対象となっているインド北東部の人々の心情に寄り添った楽曲を発表している。
インドのメインランド(アーリア系やドラヴィダ系の人種がマジョリティであるインド主要部)の人々から「お前は本当にインド人なのか?」と蔑まれるインド北東部出身者の状況をラップした"Are You Indian"がその曲である。

さまざまな人々がリップシンクしているが、"I'm Not Racist"同様に、実際は全てのヴァースをBig Dealがラップしている。
この曲の前半では、メインランドの典型的インド人から、北東部出身者の見た目や習慣に関する偏見に基づいた差別的な非難が繰り広げられる。
後半のヴァースでは、それに対して、北東部出身者から、彼らも同じインド人であること、彼らの中にも多様性があるということ、マイノリティーとして抑圧されてきたこと、差別的な考えはインド独立前のイギリス人と同様で恥ずべきものであることなどという反論が行われる。

リリックの詳細はこちらの記事に詳しく訳してあるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
Big Dealはつい先日も、コロナウイルスの発生源とされる中国人に似た見た目の北東部出身者がコロナ呼ばわりされることに抗議する曲をリリースしており、さながら北東部の人々の心情をラップで代弁するスポークスマンのような役割を果たしている。



#DalitLivesMatterや#KashmiriLivesMatter(インドに限ったものではないが、#MuslimLivesMatterというものもある)は、#BlackLivesMatterが黒人の命だけを特別扱いするものだとして起こった#AllLivesMatter(黒人の置かれた状況を無視した話題のすり替えであり、マジョリティである白人の特権性に無自覚な表現だと批判された)とは全く異なるものだ。
インドにおけるこうしたムーブメントは、BLMのスローガンである'None of us are free, until all of us are free'をローカライズしたものだと言うことができるろう。
オリジナルのBLMをリスペクト、サポートするだけではなく、インドの社会問題にも想いを寄せるとともに、日本を含めた世界中に様々な形で存在している差別や偏見についても、改めて考えるきっかけとしたい。



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2020年05月04日

ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その2)

前回の記事では、とうとう判明した謎のインド人占い師「ヨギ・シン」の正体と思われるシク教徒のコミュニティー(カーストと言い換えても良い)'B'について書いた。
今回は、ヨギ・シンが'B'に所属しているとしたら、彼らはいったいどのように世界中に出没しているのか、そして彼らは本当に'B'の一員なのかという部分に迫ってみたい。



私が考える、「ヨギ・シン='B'説」は、このようなものだ。

20世紀中頃までにイギリス領をはじめとする世界中に渡った'B'たちは、祖国では低く見られていた生業を捨て、新しい職に就いて暮らすようになった。
最初の世代が移住してから長い年月が過ぎ去ったが、彼らは今でもインドに暮らす親族たちと深い絆で結ばれている。
インドで暮らす同胞たちのなかには、彼らの伝統である「辻占」の技術(それは多分にメンタリズムやマジックの技術を含むものだ)を受け継いだ者たちも残っていたとしても、不思議ではない。
彼らは、息子の進学や娘の結婚などのためにお金が必要になると、海外に暮らす親族のネットワークを頼って、「出稼ぎ」のために世界中の大都市に渡る。
だが、先進国では、労働ビザを持たない外国人が簡単に就くことができる仕事などない。
短い期間で大金を稼ぐには、富裕層を狙って彼らの伝統である占いを行うしか手段はなかった。
さあ、どこの国に出稼ぎに行こうか。
'B'のコミュニティーのなかで、話し合いが行われる。 
香港には、ついこないだまであの家のじいさんが行っていた。
ロンドンでは今となり村の叔父さんたちが「仕事」をしているところだ。
メルボルンには向こうの家の親父が行っていたが、「詐欺師に注意!」と報道されてしまったばかり。
よし、今まで誰も行っていない東京にしよう。
ちょうど、エンジニアをしている従兄弟の一人が、2年前から東京で暮らしているのだ。

「ヨギ・シン」たちは、こんなふうにして目的地を決めるのだろう。
占い師は、親族の住まいに身を寄せ、その街に暮らす親族に、占いに適した地域を尋ねる。
金払いの良い富裕層が集まっていること。
英語を理解する教育程度の高い人間が多いこと。
そして、見慣れない異国の人間が歩いていても、怪しまれないこと。
彼らが安心して活動するには、少なくともこういった条件が必要だ。
先住の'B'は、ちょっと迷惑だなと感じながらも、故郷から来た時代遅れの親類に、寝床を提供して、助言を与える。
伝統を大事にしている自分たちのコミュニティーでは、娘の結婚に持参金が必要なことも、この忌むべき生業から抜け出すには高い学歴が必要なことも分かっているからだ。

東京に来たヨギ・シンが、丸の内という彼らの活動にいちばん適した街にいきなり出没できたのは、きっとこんな背景があったはずだ。
必要なお金が集まったら、彼らは故郷へと帰ってゆく。
そのお金で高い教育を受けたり、よい家柄に嫁いだ彼らの子どもたちは、もう誰も「ヨギ・シン」にはならない。

もし、「仕事」の最中に正体やトリックがばれそうになったら、あるいは、警察や役人に怪しまれそうになったら、なんとかしてその場から逃げ出して、その街から立ち去ることだ。
拘束や強制送還で済めば、まだ運が良い方だ。
彼らの存在や、その秘密が知れ渡ってしまったら、もう誰も先祖代々の共有財産であるこの生業をできなくなってしまう。
それだけはなんとしても避けなければならない。

…国際フォーラムで声をかけた時の「彼」の反応は、こんな事情があることを思わせるものだった。
 

ある程度、情報も集まり、仮説も立てられた。
次はどんな調査をすべきだろうか。
私が大きく考えさせられる言葉に出会ったのは、ちょうどこんな想像を巡らせていた時だった。

それは、シク教徒たちが集まるウェブサイトに書かれていた、何気ない言葉だった。
そのサイトは、世界中のシク教徒たちがシク教の歴史や文化を話し合うために作られたものだった。
パンジャービー語やヒンディー語の文字は見当たらず、全て英語で書かれていたから、海外在住のシク教徒や、インドでも英語を自由に使える階層の(つまり、教育レベルが高い)人々が主に利用しているサイトなのだろう。

このサイトの中で、ロンドンに住む男性が書いた、'B'に対するこんなコメントを見つけてしまったのだ。
「かつて、我々シク教徒は誇り高い戦士だと思われていた。それが、'B'のコミュニティーのいんちきな占いのせいで、シク教徒といえば怪しいニセ占い師だと言われるようになってしまった。悲しいことだ。1920年代からイギリスでは同じようなことが言われているし、今ではネット上のあらゆる場所でシク教徒には近づくなと言われている。占いは彼らの伝統かもしれないけど、そのせいでシク教徒の評判が傷つけられている。彼らは150年前からなにも変わっていない。でも、カースト差別主義者だと思われたくないから、誰もこんな話はしないんだ…。(大意)」
そこには、ご丁寧に世界中に出没した「ヨギ・シン」たちのことを伝えるブログやニュースサイトのリンク(私が彼らの出没情報を得るのに使ったものと同じページだった)が貼り付けられていた。

また別のスレッドには、同じくイギリス在住のシク教徒からこんなコメントが書かれていた。
「(ヨギ・シンのような詐欺に会ったという声に対して)悲しいことに、それをしているのは自分と同じ'B'コミュニティーの出身者だよ。こんなことをする'B'は本当に少なくて、1%くらいだけだ。彼らはイギリスに住んでいるわけじゃなくて、インドからやって来るんだ。」

ここに書かれていたのは、他ならぬシク教徒たちからの告発であり、また'B'の同胞たちからの、生業に対する弁解だった。
これらの書き込みを読む限り、おそらく私の推理は当たっていたのだろう。
間違いなく'B'こそがヨギ・シンの所属するコミュニティーだ。
それでも、私は謎が解けた喜びよりも、むしろもやもやとした落ち着かない気持ちが湧いて来るのを抑えられなかった。

大谷幸三氏の本(『インド通』)やシク教の解説書で、'B'が非差別的な立場の存在であることを、知識としては理解していた。
だが、私は放浪の占い師である彼らを、どこかロマンチックな存在として見ていたところがあった。
秘伝の占いを武器に、口八丁で世界中を渡り歩く謎多き人々。
彼らに対して、物語のなかのジプシーやサンカ(かつて日本にいたとされる漂泊民)に抱くのと同じようなイメージを持っていたのだ。
ところが、ここに書かれていたのは、仲間たちから恥ずべき存在として扱われている、時代遅れで極めて弱い立場の人々だった。
このウェブサイトで、'B'は決して激しい言葉で差別されているわけではない。
むしろ、ここで'B'を批判しているのは無教養な差別主義者ではなく、先進国に暮らしながらも、自身のルーツであるシクのコミュニティ全体の誇りをも考えている立派なシク教徒たちに違いない。
だからこそ、'B'の置かれた立場の寄る辺のなさが、とても重苦しいものとして感じられたのだ。

ある人物(おそらく'B'の一員だろう)は、このサイトの掲示板に「'B'コミュニティーがシク教の歴史のなかで果たしてきた役割をきちんと評価すべきだ。そのうえで、シク教徒はコミュニティーによる分断を乗り越えて、ひとつになるべきだ」という趣旨のスレッドを作成していた。
おそらく、シク教徒たちのなかで低い立場に置かれている'B'の扱いに対する異議申立てなのだろう。
だが、それに対する反応は、「シク教徒は全体でひとつの存在なのだから、'B'のコミュニティーだけを評価すべきという考えはおかしい」という、至極まっとうだが冷淡なものがほとんどだった。
他にも、この掲示板では、女子教育の軽視や早期の結婚といった'B'の保守性が批判的に扱われているコメントが散見された。

断っておくと、このサイト上のでは、特定のコミュニティーを見下すような意見はほとんど表出されておらず、むしろ「シク教徒全体がひとつの大きなコミュニティーなのだから、個々のカーストやコミュニティーにこだわるべきではない」という考えに基づくコメントが多く書き込まれていた。
それに、シク教徒のなかにも、'B'のことを知らなかったり、彼らがこうした占いを行なっていることを聞いたことがない人たちも多いようだった(私が受けた印象では、むしろそういう人のほうが圧倒的に大多数のようだ)。
だが、それでも「ヨギ・シン」たちがシク教徒の仲間や同じコミュニティからも、恥ずべき存在だと思われているという現実は、心に重くのしかかったままだった。

端的にいうと、私は、こうした弱い立場の彼らの正体を、興味本位で暴こうとすることに、罪悪感を感じ始めてしまったのだ。
「差別的に扱われている彼らの占いを、伝統芸能として再評価すべき」なんていう理想を掲げていたが、そもそも彼ら自身がこの考えをどう感じるのか、私はまったく想像できていなかった。
自分勝手な親切を押し付けようとしていただけなのではないか。
彼らはそんなことは望んでおらず、必要最小限だけ、静かに目立たないようにその仕事をしたかっただけなのではないだろうか。

この記事に彼らのコミュニティーの名前をはっきりと書かなかったのも、引用した文献や著者の名前を記さなかったのも、彼らのことを好奇心のままに取り上げることに疑問が湧いてきてしまったからだ。
彼らのことを書きたいという欲求と、彼らのことを書くべきでないという気持ちの葛藤に、いまだに整理がつかないでいる。
彼らが感じているであろう「痛み」を知らずに、好奇心のままに彼らの正体を暴くことは、果たして許されることなのだろうか。

国際フォーラムの中庭で遭遇したヨギ・シンの様子が思い出される。
彼が示した明確な拒絶。
彼らが路上で奇妙な占い行為をしていたのは明らかだったにもかかわらず、口が達者な占い師であるはずの彼は、言い逃れをすることもごまかすこともなく、'No'と'I don't know'だけを繰り返し、足早に立ち去った。
そして、それまで連日のように丸の内に現れていたヨギ・シンの集団は、それ以来二度と現れることはなかった…。
はるばる東京を訪れ、その生業で一稼ぎしようと思っていた矢先に、彼らに好奇心を抱いた男(私のこと)に見つかってしまった占い師たち。 
その心のうちはどのようなものだったのだろう。
自らの生業がどのように見られているかを知りつつも、その生業を続けざるを得ない彼らの気持ちは、思ったよりもずっと複雑なものなのではないだろうか。
彼らは、口八丁で生きるミステリアスな放浪の占い師などでは全くなかったのだ。
自らのコミュニティーや伝統が差別され、その生業が恥ずべきものだと知りながらも、シク教徒としての信仰に誇りを持ち、よりよい暮らしのためにやむなくその伝統にすがって生きている、弱い立場の存在…。
彼らのことを知れば知るほど、「ヨギ・シン」のイメージは私の中で変わっていった。

「彼らは何者なのか」
「彼らはどこから来たのか」
「彼らはいつ頃からいるのか」
「彼らはどんなトリックを使っているのか」
「彼らは何人くらいいるのか」

私はそんなことばかりを気にしていて、大事な疑問を忘れていたのだ。
「彼らは、なぜ占いをするのか」 
もちろん、家族のため、お金を稼ぐためだろう。
それは分かる。
しかし、そこに至るまでの経緯や逡巡、ひとりひとりのヨギ・シンが、何を思い、考えているのか。
どのように伝統が受け継がれ、どのように実践されるのか。
それを知るためには、彼らと知り合い、打ち解け、直接尋ねるしかない。
ヨギ・シンが抱える痛みを知った上で、はじめて彼らが秘めてきた伝統を書き記す資格が得られるはずだ。
いや、それだって、独りよがりな思い込みにすぎないかもしれない。
だが、それでも、彼らのことを知らずに、外側から眺めているだけでこれ以上書き続けることはできないし、それ以前にこれ以上書ける内容もない。

どんなアプローチの仕方があるのか、どれだけ時間や労力がかかるのか、皆目見当がつかないし、そもそもこのコロナウイルス流行の状況下では取り掛かりようもないのだが、この続きを書くためには、彼らと直接コンタクトを取るしかない。
ヨギ・シンに対する、ウェブや文献による調査と推理のフェーズは、今回をもってひとまずの終了とすべきだろう。
この続きは、彼らと再び出会い、関係を築いたうえで、あらためて書くということになりそうだ。
そんなことがはたしてできるのだろうか?
だが、何事も試して見なければわからない。
今は、ただその一歩が踏み出せる時が来ることを、静かに待つばかりだ。


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goshimasayama18 at 18:00|PermalinkComments(0)

2020年05月01日

ヨギ・シンの正体、そしてルーツに迫る(その1)

前回の記事で、山田真美さんの著書『インド大魔法団』『マンゴーの木』で紹介されているインドのマジシャン事情に触れつつ、世界中を流浪する謎の占い師「ヨギ・シン」を、詐欺師扱いされる存在からその伝統に値するリスペクトを受けられる存在にしたいという内容を書いた。
その気持ちに嘘偽りはない。
だが、ヨギ・シンの調査にあたって、それにも増して私の原動力になっていたのは、もっと単純な、本能的とも言える好奇心だ。
あらゆる情報がインターネット検索で分かってしまうこの時代に、こんなに不思議な存在が謎のままでいるということは、ほとんど奇跡であると言っていい。
「彼らは何者なのか」
「彼らはどこから来たのか」
「彼らはいつ頃からいるのか」
「彼らはどんなトリックを使っているのか」
「彼らは何人くらいいるのか」
ヨギ・シンにまつわる全ての謎の答えが知りたかった。

いくつかの謎については、これまでの調査でかなりのことが分かっていた。
彼らが使う「読心術」のトリックは、ちょっとした心理(メンタリズム)的な技法と、以前「ヨギ・トリック」として紹介したあるマジックの技術を使うことで、ほぼ説明することができそうである。
彼らの正体については、大谷幸三氏の著書『インド通』に登場する、シク教徒のなかでも低い身分とされる占い師カーストの人々だということで間違いないだろう。




では、その占い師のカーストは、何という名前なのだろう。
彼らはインドからどのように世界中に広まったのか。
そして、世界中で何人くらいが占い師として活動しているのだろうか。
こうした疑問の答えは、依然として謎のままだった。
私は、彼らの正体をより詳しく探るべく、ほとんど手がかりのないまま、シク教徒の占い師カーストについての調査にとりかかった。

ところで、「シク教徒のカースト」というのは、矛盾した表現だ。
シク教は、カースト制度そのものを否定しているからだ。
16世紀にヒンドゥーとイスラームの影響を受けて成立したシク教は、この2つの信仰が儀式や戒律を重視し過ぎたために形骸化していることを批判し、宗教や神の名はさまざまでも信仰の本質はひとつであるという教えを説いた。
ごく単純に言えば、ヴィシュヌもアッラーも同じ神の異名であり、信仰の前に人々の貴賎はないというのがシク教の思想である。
シク教徒の男性全員がSingh(ライオンを意味する)という名を名乗るのは、悪しき伝統であるカースト制度を否定し、出自による差別をなくすためだ。
シク教の聖地であるアムリトサルの黄金寺院では、宗教や身分にかかわらず、あらゆる人々に分け隔てなく無料で食事が振舞われているが、これもヒンドゥー教徒が自分より低いカーストの者と食事をともにしないことへの批判という意味を持っている。(黄金寺院で毎日提供される10万食もの食事の調理、給仕、後片付けなどの様子は、ドキュメンタリー映画『聖者たちの食卓〔原題"Himself He Cooks"〕』で見ることができる。)

形骸化した既存の宗教への批判から生まれたシク教だが、ほかのあらゆる宗教と同様に、時代とともに様式化してしまった部分もある。
例えば、彼らのシンボルとも言える、男性がターバンを着用する習慣もそのひとつと言えるだろう。
そして、シク教徒たちもまた、インドの他の宗教同様、この土地に深く根付いたカーストという宿痾から逃れることはできなかった。
誰とでも食卓を囲む彼らにも、血縁や地縁でつながった職業コミュニティー間の上下関係、すなわち事実上のカースト制度が存在している。
ヒンドゥー的な浄穢の概念は捨て去ることができても、家柄や職業の貴賤という感覚からは逃れられなかったのだ。
結果として、路上での占いを生業とするコミュニティーに所属する人々は、シク教徒の社会のなかでも、低い身分に位置付けられることになった。

そこまでは分かっていたのだが、シク教徒の辻占コミュニティーについての情報は、なかなか見つけることができなかった。
興味本位のブログ記事や、詐欺への注意を喚起する記事は見つけられても、彼らの正体に関する情報は、英語でも日本語でも、ネット上のどこにも書かれていないようだった。
ところが、なんとなく読み始めたシク教の概説書に、思いがけずヒントになりそうな記述を見つけることができたのだ。
それは、あるイギリス人の研究者が書いた本だった。
その本のなかの、イギリス本国に渡ったパンジャーブ系移民について書かれた部分に、こんな記述を見つけたのだ。

「…第一次世界大戦から1950年代の間にイギリスに移住したシク教徒の大部分は、(引用者注:それ以前に英国に渡っていた王族やその従者に比べて)はるかに恵まれない身分の出身だった。インドでは'B'というカーストとして知られている彼らは、他の人々からは、地位の低い路上の占い師と見なされていた。イギリスに渡った'B'の家族の多くが、現在はパキスタン領であるシアルコット地区の出身である。」
(引用者訳。この本には具体的なカースト名が書かれていたのだが、後述の理由により、彼らの集団の名前や、参考にした著書については、今は明かさないことにする)

この「低い身分の路上の占い師」である'B'という集団こそが、ヨギ・シンなのだろうか。
文章は続く。

「'B'のシク教徒の先駆者たちは、ロンドンや、ブリストル、カーディフ、グラスゴー、ポーツマス、サウサンプトン、スウォンジーなどの港町や、バーミンガム、エディンバラ、マンチェスター、ノッティンガムなどの内陸部に定住した。彼らはまず家庭訪問のセールスマンになり、やがて小売商、不動産賃貸業などに就くようになった。より最近の世代では、さらに幅広い仕事についている。'B'たちは、他のシク教徒たちが手放してしまった習慣や、他のシク教徒たちに馴染みのない習慣を保持していた。」

シク教徒のなかでもとくに保守的な集団だというから、今では違う職に就いている彼らのなかに、きっとあの占い師たちもいるのではないだろうか。
彼らのコミュニティーの名前が分かれば、あとは簡単に情報が集まるだろうと思ったが、そうはいかなかった。
'B'という単語を使ってググっても、彼らが行うという「占い」に関する情報はほとんど得られないのだ。
それでもなんとかネット上で得られた情報や、探し当てた文献から得た情報(そのなかには、前述の本の著者の方に特別に送っていただいた論文も含まれている)を総合すると、以下のようになる。

'B'に伝わる伝承によると、改宗以前の彼らはヒンドゥーのバラモンであり、神を讃える詩人だったという。
'B'の祖先はもともとスリランカに住んでおり、その地でシク教の開祖ナーナクと出会った彼らは、シク教の歴史のごく初期に、その教えに帰依した。
改宗後、シク教の拠点であるパンジャーブに移り住んだ'B'の人々は、シクの聖歌を歌うことを特別に許された宗教音楽家になった。
彼らが作った神を讃える歌は、シク教の聖典にも収められている。
インドでは、低いカーストとみなされているコミュニティーが「かつては高位カーストだった」と主張することはよくあるため、こうした伝承がどの程度真実なのかは判断が難しいが、'B'の人々は、今でも彼らこそがシク教の中心的な存在であるという誇りを持っているという。
いずれにしても、彼らはその後の時代の流れの中で、低い身分の存在になっていった。
音楽家であり、吟遊詩人だった彼らは、その土地を持たない生き方ゆえに、貧困に陥り、やがて蔑視される存在になってしまったのだろうか。
少なくとも20世紀の初め頃には、'B'は路上での占いや行商を生業としていた。
彼らの22の氏族のうち13氏族が現パキスタン領であるシアルコット地区を拠点としていたという。

シク教徒の海外への進出は、イギリス統治時代に始まった。
19世紀に王族やその従者がイギリスに移住して以来、多くのシク教徒が、軍人や警官、あるいはプランテーションや工場の労働者として、英本国や世界中のイギリス領へと向かった。
彼らの中でもっとも多かったのが、「土地を所有する農民」カーストであるJatだった。
'B'の人々のイギリスへの移住は、おもに第一次世界大戦期から1950年代ごろに行われている。
とくに、Jatの移住が一段落いた1950年代に、なお不足していた単純労働力を補うために渡英したのが、職人カーストのRamgarhia、ダリット(「不可触民」として差別されてきた人々)のValmiki、そして'B'といった低いカーストと見なされている人々だった。
もともと流浪の民だった'B'は、海外移住に対する抵抗も少なかったようだ。
彼らの主な居住地(シアルコットなど)が、1946年の印パ分離独立によって、イスラームを国教とするパキスタン領になってしまったこともシク教徒の海外移住を後押しした。
シク教徒のほとんどが暮らしていたパンジャーブ地方は、分離独立によって印パ両国に分割され、パキスタン領に住んでいたシク教徒たちは、その多くが世俗国家であるインドや海外へと移住することを選んだのだ。
逆にインドからパキスタンに移動したムスリムたちも多く、その混乱の中で両国で数百万人にも及ぶ犠牲者が出たといわれている。
印パの分離独立にともない、これ以前に移住していた'B'の人々は、帰る故郷を失い、イギリスへの定住を選ばざるを得なくなった。
 
1950年代にイギリスに渡った'B'のなかには、占いを生業とするものがとくに多かったが、彼らの多くは渡英とともにその伝統的な職業を捨て、セールスマンや小売商となった。
彼らは、サウサンプトン、リバプール、グラスゴー、カーディフといった港町でユダヤ人やアイルランド人が経営していた商店を引き継いだり、ハイドパークなどの公園で小間物や衣類、布地などを商ったりして生計を立てた。
また、シンガポールやマレーシア、カナダ、アメリカ(とくにニューヨーク)に移住した者も多く、行商人としてフランス、イタリア、スイス、日本、ニュージーランドやインドシナなどを訪れる者もいたという。

1960年の時点で、イギリスには16,000人ほどのシク教徒がいたが、その後もイギリスのシク教徒は増え続けた。
先に移住していた男性の結婚相手として女性が移住したり、アフリカやカリブ海地域に移住していた移民が、より良い条件を求めてイギリスにやってきたりしたことも、その原因だった。
インドから血縁や地縁を利用して新たに移住する者たちも後を立たなかった。
1960年代以降、インディラ・ガーンディー首相が始めた「緑の革命」(コメや小麦の高収量品種への転換、灌漑設備の整備、化学肥料の導入などを指す)によって、彼らのパンジャーブ州の基幹産業である農業は大きく発展した。
しかし、この成功体験は、人々に「努力して働けば、その分豊かになれる」という意識をもたらし、皮肉にも海外移住の追い風になってしまったという。
今では海外移住者がインド経済に果たす役割は非常に大きくなり、世界銀行によると、2010年にはパンジャーブ州のGDPのうち、じつに10%が海外からの送金によって賄われている(インド全体でも、この年のGDPの5%が海外からの送金によるものだった)。
経済的な野心から違法な手段で海外に渡る者も多く、世界中で15,000人ものパンジャーブ人が不法滞在を理由に拘束されているという。

現在、イギリスには約100万人ものインド系住民が住んでおり、英国における最大のマイノリティーを形成しているが、そのうち45%がパンジャービー系の人々で、その3分の2がシク教徒である。
つまり、イギリスに暮らすインド系住民のうち、約30%がシク教徒なのだ。
インドにおけるシク教徒の人口の2%に満たないことを考えると、これはかなり高い割合ということになる。
その人数の多さゆえか、イギリスのシク教コミュニティーは、決して一枚岩ではなく、それぞれのカーストによって個別のグループを作る傾向があるそうだ。
例えば、彼らの祈りの場である寺院〔グルドワーラー〕もカーストによるサブグループごとに、別々に建てられている。
'B'の人たちは、とくに保守的な傾向が強いことで知られている。
'B'の男性は、他のコミュニティーと比べてターバンを着用する割合が高く、また女子教育を重視しない傾向や、早期に結婚する傾向があると言われている。
参照した文献によると、少なくとも20世紀の間は、'B'の女性は十代後半で結婚することが多く、また女性は年上の男性の前では顔を隠す習慣が守られていたとある。
彼らにとってこうした「保守性」は、特別なことではなく、シク教徒としてのあるべき形なのだと解釈されていた。


長くなったが、これまでに'B'について調べたことをまとめると、このようになる。
世界中に出没している「ヨギ・シン」が'B'の一員だとすれば(それはほぼ間違いのないことのように思える)、例えばこんな仮説が立てられるのではないだろうか。

(つづく)



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goshimasayama18 at 18:56|PermalinkComments(0)

2020年04月24日

インド魔術の神秘に迫る!山田真美さんの名著『インド大魔法団』『マンゴーの木』





今月に入ってから、2回にわたってベンガルの漂泊の歌い人「バウル」についての記事をお届けした。
バウルについて考えるたびに、どうしても頭の中をよぎってしまうのは、あの謎の占い師「ヨギ・シン」のことだ。

かつては「奇妙な歌を歌う世捨て人」として、賎民のような扱いを受けていたバウルは、タゴールとディランという二人のノーベル文学賞受賞者に影響を与え、そして彼ら自身がUNESCOの無形文化遺産に登録されたことによって、ベンガルの伝統文化の担い手という評価を確固たるものにした。
今やバウルは、オルタナティブな生き方をする行者として、ベンガルのみならず世界中からカリスマ視されるまでになった。

一方で、パンジャーブ地方から世界に飛び出し、少なくとも100年以上の歴史を持つ放浪の占い師「ヨギ・シン」たちは、仲間のシク教徒からは低い身分として見られ続け、そして世界中の都市で「詐欺師」の烙印を押されながら生きている。
(彼らについては、この下のリンクで詳しく紹介している)
なんとかして彼らを、伝統を守ってきた人々として正当に評価されるようにすることはできないだろうか。
彼らについてこれまでしつこく書いてきた理由のひとつには、僭越ながらこうした思いがあった。
いつの日か、代々木公園で行われる「ナマステ・インディア」みたいなイベントの会場で、ヨギ・シンがその伝統の技術を披露する、なんてことがあったらいいなあ、と思っていたのだ。



ところが、あろうことか、私は「ヨギ・シン」当人とのコンタクトという願ってもない機会をふいにしてしまった。
(その詳細は、上のリンクに詳しく書いてある)
千載一遇のチャンスを逃した私は、仕方なく、インターネットや文献での調査を再開することにした。

ちょうどその頃、私が「ヨギ・シン」に夢中になっているということを知っている方から、インドのマジックに関する本として、山田真美さんの著書『インド大魔法団』と『マンゴーの木』を紹介してもらった。
これまで書いてきた通り、ヨギ・シンは占い師でありながら、奇術師とも言える不思議な存在である。
インドでは「占い」と「マジック」は表裏一体のものとして存在しており、さらに言うと、インドの伝統的な占いやマジックには、予知や透視のような、超自然的な能力との境目が曖昧な部分すらあるのだ。

インドのマジックについて日本語で書かれた本は極めて少ない。
この2冊にも、きっと何かヒントがあるに違いない。
そう思って読み始めてみたところ、想像以上の面白さにすっかり夢中になってしまった。
2冊とも、一応ノンフィクションの体裁を取っているのだが、本自体がまるでインドのマジックのように摩訶不思議な内容で、このタイミングでこの本に出会ったことが運命だったのではないかとすら思えるほどに惹きこまれてしまったのだ。
インド大魔法団マンゴーの木

この本の著者の山田真美さんは、今では公益財団協会日印協会の理事や日印芸術研究所の言語センター長を務めている方である。
『インド大魔法団』が出版されたのは1997年(私が初めてインドを訪れた年だ!)。
作品の舞台は1989年から始まるのだが、この本の冒頭で、山田さんは「インドにはさして興味はなかった」と明言している。
つまり、この2冊は、今では日印関係の要職を務める山田さんが、マジックをきっかけにインドにハマるきっかけを描いたものでもあるのだ。

この物語はこんなふうに始まる。
(先ほども書いた通り、ノンフィクションなのだが、そのへんの小説よりもよほど奇妙なこの本の内容は、やはり「物語」と呼びたくなる)
山田さんは、運命とも言えるような偶然が重なり、インドの「魔法」に興味を持ってゆく。
そして、まるで何者かに導かれるように、インドの「魔法使い」を探す旅に出ることになるのだ。
そこから先は不思議な出来事の連続だ。
インドに到着早々に、よく当たるという占い師が山田さんに不思議な「予言」をする。
「この旅の中で、白い貴石を手に入れる。それを差し出す人の助言を聞きなさい」というものだ。
その後、山田さんはインド政府の協力を得て、伝統的な「魔法使い」を探すべく、インド一周の旅に出るのだが、インド文化や宗教の専門家たちからは「もはやインドには魔法使いなど存在しない」と断言されてしまう。
かつてのバウルや今日のヨギ・シンのように、インドのマジシャンたちは、近代化の波の中で、注目する価値のない伝統と見なされ、ほぼ無視されていたのだ。
1990年のインドで伝統的な手品師を探すということは、日本に外国人がやってきて「ガマの油売りが見たい」とか「バナナの叩き売りが見たい」なんて言うのと同じようなものだったのだろう。
それでも不思議なことがたくさん起きてしまうのが、インドという国だ。
(とくに、この時代のインドには、今の何倍も「不思議」が生きていたはずだ)
山田さんは次から次へと現れる占い師(手品師たちや路上の占い師たちと違い、占星術のような伝統的で理論的な占いは敬意を持って扱われている)、宝石商、旅人、大道芸人、伝統舞踊家らによって、インドの持つ底なしの不思議で魅力的な世界にはまってゆく。
仮に多少の演出を入れて書かれているとしても、それでも「運命」としか言いようのない超自然的な力が働いていると感じられることが、次々に起きるのだ。
そして、調査の鍵を握る伝説の魔法使い、「P.C.ソーカ(P.C. Sorcar) 」との出会いから、物語は驚愕の展開を見せる。
(クライマックス近く、物語の本筋とは関係のないところで、ある手品師が、ヨギ・シンの占いにも通じる心理トリックの種明かしをする場面もあって見逃せない)
そして、「白い貴石」を持った人物は現れるのか…。


こうした「人探し」や「謎解き」の面白さは、まだインターネットがない時代だからこそ成立していたとも言える。
今では、PCソーカのことも、インドの伝統的なマジックのことも、検索すればある程度のことは簡単に分かってしまう。
世界中が情報で繋がった現代世界では、謎や神秘が存在できる場所は、確実に小さくなっているのだ。
1990年代は、「魔法使い」のような存在が神秘として存在することができた最後の時代だったのかもしれない。
携帯もメールもまだまだ普及していなかった90年代のインドを思い出しながら、少し懐かしい気持ちにも浸ることができたのだった。

続編の『マンゴーの木』は、私がヨギ・シンを探しているように山田さんがこだわりつづけていた、インドの伝統的な「魔法」を探す物語だ。
そのマジックでは、「魔法使い」が地面にタネをまいて、その上に布をかぶせると、みるみるうちに本物の実をつけたマンゴーの木が現れるのだという。
物語の舞台は1997年。
山田さんは前回の旅をきっかけに、なんとインド文化交流庁の招聘研究者として、デリーで暮らし、インドの神話の研究者になっていた。
もはや前作のように、次々と現れるインドの不可思議な魅力(魔力?)に翻弄されるのではなく、研究者として積極的に謎に満ちた世界に飛び込んでゆく姿は、じつに頼もしい。
その調査範囲はインド南端のケーララ州におよび、ついに、もはや存在しないと思われていたインド伝統の「魔法使い」のありかをつきとめる…。

途中で何人ものインド人マジシャンが出てくるのだが、華やかな衣装に身を包み、ステージで洗練されたマジックを繰り広げる彼らは、欧米式の演出を好み、「マンゴーの木」のようなインドの伝統的なマジックにはほとんど目もくれない。
ロープトリックも、カップ&ボールも、そして箱の中に入れた美女に剣を刺すマジックもインド発祥だというのに、伝統的なストリートマジックに関しては、過去のものとして追いやられてしまっているのだ。
コンテストに出るようなマジシャンたちも、決してスターというわけではない。
インドではマジシャンとして生活してゆくことはまだまだ難しい。
彼らの多くが、銀行員など他の仕事をしながら、マジシャンを続けているのだ。

まして「マンゴーの木」のような伝統的なマジックを生業とするマジシャンに関しては、村から村を渡り歩く貧しい放浪の大道芸人であり、その連絡先を探すことすらままならない。
こうした扱いゆえか、伝統を受け継いで守っているマジシャン自身も、その伝統を、ほとんど価値のないものと思っているようなのである。
ある人物が発するこの言葉を読んで、胸がつまりそうになった。
「俺は長いこと、自分がやっていることなんて、所詮は誰からも注目されることのない、絶滅寸前の大道芸だと思っていたんです。だから、日本人の女の人が俺の芸を見たがっていると聞かされた時も、担がれているんじゃないかと疑ったぐらいです。(中略)生まれてこのかた、こんなふうにちゃんと俺の話を聞いてくれて、芸の一部始終を写真に収めてくれた人なんて、一人もいませんでしたから。今日は俺、貴女から勇気をもらったような気がします。うまく言えないけど、来てくれて本当にありがとう」

急速な経済成長や近代化、グローバル化のなかで、インド人のなかに自らのルーツを大切にしようという意識が芽生えてきているが(過剰な宗教ナショナリズムは、その悪いほうの一面だ)、一方で、これまで権威とは無縁に引き継がれてきた伝統は無視され、切り捨てられようとしている。
そうした風潮のなかで、伝統を守っている当の本人も、1990年代の時点で、すでにあきらめを感じていたようだ。
「マンゴーの木」が書かれてから20年を超える年月が過ぎ、その後、伝統的なマジシャンたちは、その居場所と誇りを少しでも取り戻すことはできたのだろうか。

今回紹介した2冊の本で山田さんがインドの伝統に向けるまなざしには、とても深い共感を覚えた。
共感しすぎて、読んでいて「私もいつかヨギ・シンについてこんな本が書きたい」という気持ちが湧いてくるのを抑えられなかったほどだ。
それよりも何よりも、単純にめちゃくちゃ面白い2冊だった。
「インドのマジック」という分野は、私もヨギ・シンに興味を持つまで全く意識したことがなかったが、まさかここまでの深さと面白さのある世界だったとは、想像すらしていなかった。
本当にインドの魅力は底なし沼だな…と感じさせられたこの2冊、まだまだ当面外出自粛が続きそうな毎日ですが、何か面白い本を探している方に、オススメです!
ヨギ・シンの話を面白いと感じてくれた人なら、最高に楽しめるはずです。



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2020年04月05日

ベンガルの漂泊の歌い人、バウルとボブ・ディラン


映画『タゴール・ソングス』を見て以来、すっかりベンガルにはまっている。
改めて説明すると、「ベンガル」とはインド東部のウエスト・ベンガル州とバングラデシュを合わせた、ベンガル語が話されている地域のことである。
ベンガルmap

(画像出典:映画『タゴール・ソングス』公式サイトhttp://tagore-songs.com

ベンガルの音楽文化を語るうえで、避けて通れないのが「バウル(Baul)」だ。
バウルは、インド領ウエストベンガルにもバングラデシュにも存在する漂泊の「歌い人」である。
バウルはUNESCOによって世界文化遺産にも認定されているが、彼らを的確に定義するのは難しい。
「吟遊詩人」「神秘的詩人」「芸術的修行者」などと言われることもあるようだが、研究者によっても、また個々のバウルによってもその解釈は異なるようだ。
バウルの特徴として、概ね共通認識となっている点を挙げるとすれば、こんなところだろうか。
  • バウルは、俗世を捨てた放浪の行者である。
  • バウルは宗教やカーストにとらわれない存在である。バウルになる前、ヒンドゥーを信仰していた者もムスリムだった者もいる。バウルの思想は、特定の宗教を拠り所にしていない。また、上位のカーストでも、最下位のカーストでも、バウルになってしまえば関係ない。男のバウルだけではなく、女のバウル(バウリニ)もいる。
  • バウルは世襲ではない。バウルの家に生まれたからといって子がバウルになるのではないし、バウルの家に生まれなくてもバウルになれる。
  • バウルは師匠のもとで修行する。弟子入りや出家に似た儀式を経て、バウルとなる。
  • バウルはマドゥコリと呼ばれる托鉢で生活する。
  • バウルは「歌い人」として認識されることが多いが、その修行は歌だけに限らない。ヨーガのような精神的な修行も求められる(むしろ、精神的な修練がバウルの本質だとする見方も多い)。
  • 最近は、俗世を捨てず週末だけバウルの修行をする者や、修行はあまりせずにバウルの歌を歌う者もいる。彼らをバウルと考えて良いかどうかは意見が分かれる。
バウルは何百年も前からベンガルに存在していた生き方だ。
ベンガル語の「バウル」という言葉は、もともと「狂気」という意味を持っているという。
世俗の生活や世間の常識から自由になり、一心に己の信仰(特定の宗教に寄らない彼らの生き方を信仰と呼ぶのは少し違和感があるが)を追求して生きる人々が、バウルなのである。
バウルは彼らの間に伝わる伝統的な歌も歌うし、自作の歌も歌う。
彼らの歌には深い意味が込められているが、その歌詞の意味は、バウル以外には容易には分からないような比喩的な表現がされているという。


バウルについて日本や欧米で紹介するときに、必ずと言っていいほど言及されるフレーズがある。
それは「バウルはボブ・ディランにも影響を与えた」というものだ。
確かに孤高の歌い人のイメージを持つボブ・ディランとバウルのイメージは重なるが、もしこの話が本当だとしたら、ディランは、いったいどこでこのベンガルの修行者と出会ったのだろうか。
ディランの音楽には、ビートルズやストーンズのようにインドの楽器を導入した曲があるわけではないし、彼がインドから思想的な影響を受けているという話も聞いたことがない。
はたして、ディランはいつ、どこでバウルに出会い、どのような影響を受けたのだろうか。


調べてみると、話は1967年のコルカタにさかのぼるようだ。
当時コルカタのカーリーガート付近に住んでいたあるバウルのもとに、コルカタきっての高級ホテルであるオベロイ・グランドの使者がやってきた。
どうしても彼の歌を聴きたいという客が宿泊しているのだという。
このバウルの名前はプルナ・ダシュ・バウル(Purna Das Baul)。
父も妻も弟も息子もバウルという、生粋のバウル文化の中で生きてきた男だ。
オベロイ・グランドで彼を待っていたのは、アルバート・グロスマン(Albert Grossman)というアメリカ人だった。
当時、ジャニス・ジョプリンやボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーらのマネージャーを務めていた人物だ。
プルナがバウルの歌を披露すると、グロスマンはすっかり夢中になり、彼にアメリカをツアーしないかと持ちかけてきた。

この頃のアメリカでは、激化するベトナム戦争への反発から、若者達の間でカウンターカルチャーとしてヒッピームーブメントが巻き起こっていた。
彼らは過度な物質主義に偏った西洋文明への反発から、東洋、とくにインドの文化に接近していった。
シタール奏者のラヴィ・シャンカルがビートルズ(とくにジョージ・ハリスン)に多大な影響を与え、有名なウッドストック・フェスティバルに出演したのもこの頃だ。
精神的な要素を重視するインド文化は、その是非はともかく、マリファナやLSDで新しい意識を覚醒させようというヒッピー文化との親和性も高かった。
俗世を捨てた行者であり、歌い人であるバウルが受け入れられる土壌が、確かに当時のアメリカにはあったのだ。


プルナ・ダシュ・バウルはグロスマンの提案を承諾し、弟のラクスマン・ダシュ・バウルを含むバウルの楽団を結成して、アメリカ各地で公演を行うことになった。
ボブ・ディランがバウルに初めて出会ったのは、どうやらこの時のようだ。
バウルの楽団は、当時ディランがニューヨークに所有していたビッグ・ピンクと呼ばれる住居兼スタジオでも演奏を行った。
その様子はディランとともにプレイしていたザ・バンドのガース・ハドソン(Garth Hudson)によってプロデュースされ、"Bengali Bauls at Big Pink"というタイトルで音源化されている。

ディランは確かにバウルに感銘を受けたのだろう。
プルナとラクスマンの兄弟は、ディランが67年末に発表したアルバム"John Wesley Harding"のジャケットにも登場している。
BobDylanJohnWesleyHarding
(ディランの左右にいるのがバウルの兄弟)

とはいえ、その後のディランの音楽にバウル音楽の要素が見られるわけではない。
ディランがバウルの何に影響されているのかと言えば、それは彼らの生き方や、音楽や詩に向き合う姿勢ということになるだろう。
プルナ・ダシュ・バウルに、ディランはこう語ったという。
「俺たちはどちらもルーツの音楽を歌っている。俺たちの目的は同じなんだ。俺たちは人々のために歌ってる。音楽を通して物語や愛を伝えているんだ。君がベンガルのバウルなら、俺はアメリカのバウルさ」

新しいサウンドを模索していたビートルズやサイケデリック・ロックのバンドたちが、インド古典楽器の瞑想的な響きを導入したのに対して、歌詞(ことば)を伝えることを重視したディランが、詩人であり行者でもあるバウルに惹かれたというのは興味深い。
西洋文化に代わるものとして、インドのメインストリーム的な伝統文化への接近を試みた当時の多くの人々とは異なり、ディランはベンガルの「伝統的アウトサイダー」に共感したのだ。
こうして始まった彼らの親交は途切れることなく続き、1990年にはプルナの息子の結婚式のために、ディランはプライベートでコルカタを訪れたという。

ここでもう一度時計の針を1967年に戻したい。
そもそもの話になるが、アルバート・グロスマンは、いったいどこでバウルのことを知ったのだろうか。
当時のアメリカでバウルが広く知られていたとも思えないし、流浪の歌い人であるバウルがグロスマンの行動半径にいたとも考えにくい。
おそらくだが、グロスマンは親交のあったビート詩人のアレン・ギンズバーグを通してバウルのことを知ったのではないだろうか。
ギンズバーグは、ヒップームーブメントから20年ほどさかのぼる1940年代末にニューヨークで勃興したビート文学(ビートジェネレーション、ビートニク)を代表する作家の一人だ。
ビート文学の作家たちは、自由な精神性、ドラッグの使用、東洋思想への傾倒などを特徴としており、ヒッピーたちにも大きな影響を与えた。
50年代にインドを訪れたことがあるギンズバーグは、コルカタに長く滞在してベンガルの詩人たちとの交友を深めたという。
ギンズバーグはそこでバウルの文化にも触れたようで、とくに2000曲ものバウル・ソングを作ったと言われる19世紀の伝説的なバウル、ラロン・シャーに大きな影響を受けたと言われている。
グロスマンがギンズバーグから、この街に暮らすプルナ・ダシュ・バウルについて聞いていたとしても、不思議ではない。

ところで、バウルの歌は、ベンガルが誇る大文学者タゴールにも多大な影響を与えていることが知られている。
というよりも、かつてはベンガルでも「奇妙な歌を歌う世捨て人」となかば蔑まれていたバウルは、タゴールが評価したことによって、その文化的価値が認められるようになったという。
 

タゴールが再評価し、ベンガルの詩人たちに受け継がれたバウルの文化が、ギンズバーグを介してボブ・ディランにまで繋がっているということになる。
アジア人で最初のノーベル賞受賞者タゴールと、シンガーソングライターとして初のノーベル賞受賞者であるボブ・ディランの両方にインスピレーションを与えたバウルの存在は、我々が考えるよりもずっと大きいのかもしれない。


ところで、ベンガル文化がニューヨークのカウンターカルチャーに及ぼした文化的な影響は、バウルからディランへの一方向だけのものではなかった。
ディランもまた、ベンガル、とくにコルカタの文化に大きな影響を与えているのだ。
2013年にリリースされた世界中のミュージシャンによるボブ・ディランのトリビュートアルバム"From Another World"では、プルナ・ダシュ・バウルは彼の代表曲のひとつ"Mr. Tambourine Man"を披露している。

歌詞もベンガル語に訳されており、言われなければオリジナルのバウル・ソングかと思ってしまうような出来栄えだ。

ベンガルにおけるディランの影響は彼のみにとどまらない。
コルカタのシンガーソングライターKabir Sumanはディランの代表曲"Blowin' in the Wind"(『風に吹かれて』)をベンガル語でカバーしている。


また別のシンガーによる『風に吹かれて』のカバーもある。

もはや完全にオリジナルなメロディーラインになってしまっているが、ディランがバウルの音楽性ではなく精神に影響されたように、この曲もディランが曲を通して伝えようとしたメッセージをカバーしているということなのだろう。

長きにわたりイギリスによるインド統治の中心地だったコルカタは、インドではかなり早くから英語のロックが受容されていた街だ。
とりわけディランは多くのミュージシャンたちに影響を与え、とくに詩人としてこの地で高く評価されているという。



ベンガルは、インド独立運動の中心地となった社会運動への意識の高い土地でもある。
そもそもこの地方がインドとバングラデシュの二つの国に分割されたのも、独立運動の勢いを削ぐために、イギリスがヒンドゥーとムスリムの居住地を分けて統治したことが原因だ。
ウエストベンガルは、インドのひとつの州となったのちも社会運動が活発で、長きにわたって共産党が州政権の座についていたことでも知られている。
1960年代のアメリカでプロテスト・フォークを代表する存在でもあったボブ・ディランが、こうした背景を持つこの地で高く評価されるのは当然と言えるだろう。

コルカタにはディランを讃えるこんなポエトリー・リーディングの音源まで存在している。


自らを「アメリカのバウル」と称したボブ・ディランと、そんなディランを詩人として讃えるコルカタの人たち。
そこには、何百年も前からアウトサイダーとして生きてきたバウルの文化と、20世紀のアメリカのカウンターカルチャーの旗手の心が重なって生まれた、美しい交流があったのだ。




参考サイト:
https://www.livemint.com/Leisure/qjaPL5lDYAtYJUrqeLdEkL/Bob-Dylan-and-the-Bauls.html

https://www.thequint.com/lifestyle/art-and-culture/tagore-bob-dylan-allen-ginsberg-connection-with-bauls-of-bengal

https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta


https://scroll.in/reel/957580/documentary-if-not-for-you-finds-that-bob-dylan-is-like-a-local-resident-of-calcutta

https://www.thehindu.com/entertainment/music/a-documentary-tracks-kolkatas-long-lasting-love-affair-with-bob-dylan/article31110327.ece

参考文献:
村瀬 智『風狂のうたびと バウルの文化人類学的研究』東海大学出版部 2017年
川内 有緒『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧騒に紛れ込んだ彷徨の記録』幻冬舎文庫 2015年


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goshimasayama18 at 14:25|PermalinkComments(3)

2020年02月16日

探偵は一人だけではなかった! 「ヨギ・シン」をめぐる謎の情報を追う


これまで何度もこのブログで特集してきた、謎のインド人占い師「ヨギ・シン」。
100年ほど前から世界中で遭遇が報告されているこの不思議な占い師に、私はかねてから異常なほどの関心を寄せてきた。





そして昨年11月、ついには東京で実際に彼と接近遭遇することに成功したのだが(その経緯は過去の記事を参照していただきたい)、彼らの正体は依然として謎のままであり、私は継続して彼らに関する情報を探し求めている。

英語を使って占いを行うヨギ・シンは、おもに英語圏や英語が通じる国際都市に出没している。
だから、私はいつもは海外のウェブサイトやブログで「彼」の情報を収集しているのだが、その日にかぎって、私は日本語での検索を試みることにした。
昨年11月に私が遭遇した際の「ある顛末」以降、日本国内でのヨギ・シン遭遇報告はぱぅたりと途絶えていた。
あれから数ヶ月が経過し、再び日本のどこかに彼が出現したという情報があるかもしれないと思ったからだ。

ところが、そこで私は、全く予想していなかった驚くべき文章を発見してしまった。
mixiの『詐欺師のメッカ タイにようこそ』というコミュニティーに投稿された『インド人街頭占い師の秘密』という投稿がそれである。
(オリジナルはこちらから読める https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6066795&id=72080907
2012年10月31日に投稿されたこの文章は、おそらく日本で最初に書かれたヨギ・シンについての考察だろう。
一体誰が書いたのかは不明だが、そこに書かれていたのは、まさに驚愕の内容だった。 
この文章は、こんなふうに始まる。

インド人街頭占い師は、世界中にいます。
大都市で現地人を相手にしたり、有名観光地で観光客を相手にしたりしていますが、最も多いのが、バンコク(特にカオサンロード)、インドのデリー、ニューデリー。
ほかにも香港、シンガポール、バリ、クアラルンプール、上海、NY、サンフランシスコ等アメリカ各地、、トロント、シドニー、メルボルン、ロンドン、パリ、ブリュッセル、ウィーン等、英語が通じるところならどこにでもいるのですが、なぜかみんな同じような格好をして同じ名前を名乗り、同じようなことをやります。

この時点で、この文章を書いた人が、ヨギ・シンについて、かなり詳しく把握しているということが分かるだろう。
ヨギ・シンの出没地点についても的確だし、上海、ブリュッセル、ウィーンについては、むしろ私のほうが聞いたことがなかった。

そして、この後に続く箇条書きの内容が、また驚くべきものだった。


1.外見
ターバンをしている人が多いけれど、スーツ姿のターバン無しや、シャツとズボン姿の若い人もいます。若くてもTシャツではなく、わりときちんとした服装です。

2.「You have a lucky face!」
と、声をかけてきます。
You are lucky lady!とか、lucky manとか、言い方はいろいろありますが、「ラッキー」が入るのが特徴。

3.「自分はヨギ・シンだ」と名乗ります。ヨガ行者のシンさんということです。
なぜかみんな同じ名前です。

4.「占いをしてあげる」と言って、その前にまず、自分の特殊能力を証明しようとします。その方法は、好きな数字、好きな花、好きな色を当てて見せることです。これはまず第一段階。
この当てものが成功して客が十分驚いたら、終了して占いに進むこともありますが、次の段階があることが多いです。

5.第二段階として、年齢、誕生日、母親の名前、配偶者の名前、恋人の名前、兄弟の数、願い事(wish)等を当ててみせます。

6.第三段階として、敵の名前、嫌いな人の名前等を当ててみせます。

7.やっと占いに入ります。
「7月にいいことがある」「80何歳まで生きる」「90何歳まで生きる」というのが定番のようです。
性格判断としては、「あなたは考えすぎる」と、「はっきりものを言い過ぎるのが欠点だ」が定番です。

8.脅しをかけることもあります。
「ライバルがあなたに呪いをかけている」「堕胎した子供が憑いている」などと言って、「二週間日連続であなたのために祈って呪いをはらってやるからお金を」と、大金を要求します。あくまで一部の人ですが。

9.寄付を要求
貧しい子供たちの写真を見せ、「この子たちのために寄付を」と、具体的な金額を提示します。貧乏人用、中流用、金持ち用の三種類の寄付額が書かれたボードを示し、「自分のクラスの額を払え」と言うのですが、貧乏人用でさえかなり高いです。

10.たいていの人は、「高すぎる」「持ち合わせがない」と言って、払いません。
すると、「そこにATMがあるから、おろしなさい」と、ATMまで同行されそうになります。
11.結局客は要求の何分の一かを払い、占い師はしぶしぶ受け取りますが、別れ際にパワーストーンを一個くれます。寄付金が多い人には、一個といわずネックレスでくれることもあります。

なんということだろう。
外見、名前、占いの方法、ここに書かれているほぼ全ての内容が、私がこれまで調べたものと一致している。
いったいこの人物は、どうやってヨギ・シンのことを知り、ここまでの情報を調べたのだろうか。

6番めに書かれた「敵の名前や嫌いな人物の名前を当てる」という部分については、私がこれまでに聞いたことがないものだったが、それはすなわち、この人物のほうが私よりもヨギ・シンについて詳しいということでもある。
このひょっとしたら、この投稿がされた2012年ごろのヨギ・シンは、こういった話法を使う者が多かったのかもしれない。
他にも、お金の要求方法や、パワーストーンをくれるということなど、必ずしも一般化できない内容も含まれているが、それだけこれを書いた人物が多くの情報を調べ上げているということだ。

9番目にかかれた「貧乏人、中流、金持ち」と3段階の料金を提示するというやり方は、ヨギ・シンに関しては聞いたことがなかったが、かつて私がヴァラナシで遭遇した怪しげなヒンドゥーの行者に頼みもしない祈祷をされたときと全く同じやり口である。
誰に対しても同じ価格ではなく、経済状況に応じて違う金額を払わせるという考え方はいかにもインド的な発想で、同じ方法を「ヨギ・シン」が使ったいたとしてもまったく不思議ではない。

それにしても、今から7年以上前に、ここまで詳しくヨギ・シンのことを調べあげたこの人物は、いったい何者なのだろうか?
ヨギ・シンについて、それぞれの街での遭遇報告や、「どうやら世界中にいるらしい」といったことまで記載しているウェブサイトは見たことがあったが、ここまで詳細に情報をまとめあげているものは見たことがなかった。

しかも、この人物がしているのは、「情報の収集」だけではなかった。
このあとに続くヨギ・シンのトリックについての考察がまたすごい。

●どうやって当てるのか?
好きな数字、好きな花、好きな色は、全世界的にもっとも平凡な答えというのがあります。それは、
1から5の間で好きな数字=3
1から10の間で好きな数字=7
好きな色=BLUE
好きな花=ROSE

です。
あらかじめこの答えを1枚の紙に書いておいて、丸めて客に握らせてから質問をします。客が平凡な人で、紙に書いてある通りの答えを言ったら、握っている紙を広げさせます。これでトリックの必要もなく超能力者のふりができます。 
日本人の場合、好きな花は、ローズとチェリーブラッサムが同じくらいの人気です。だから占い師は、日本人と見ると、「好きな花を二つ言え」と要求し、紙には「R、C」(Rose, Cherryblossomの略)と書いておきます。

●予想外の答えだったら?
3 /7/BLUE/ ROSEの代わりに、例えば、4/9/RED/PANSY と客が答えたらどうするのか?
占い師は客の答えを、いちいち紙にメモしていきます。答え合わせの時に必要だからというのが建前ですが、目的は別にあります。答えを2回書いて、2枚のメモを作るのです。そのうち一枚を丸めて、客の手の中の紙と、こっそりすりかえます。

すり替えのやり方は、
①自分が写っている集合写真等を出して来て、「この中でわしはどれかわかるか?」などと言って客の注意を引き付け、隙を見てすり替えます。

②「丸めた紙を額に当てて、目を閉じて呪文を唱えろ」と要求します。
客がやろうとすると、「そうじゃなくて、こうするんだ」と、紙を取り、自分で手本を見せますが、このときにすり替えています。
③「手相を見てやろう」と言って、紙を握っている手を開けさせ、「この線がどうのこうの」と、指でさわってりして、この時にすり替えます。あまりに露骨なので、この方法はあまり使われないようです。

答えを2回書く代わりに、感圧紙を使う人もいます。感圧紙とは、ノーカーボン紙ともいい、普通の白い紙にしか見えないのに、重ねるとカーボン紙の役割をします。
でもこの場合、字が全く一緒になってしまうので、もし比較されると、バレてしまいます。
●すり替えなしで当てる
誕生日、母親の名前、家族構成、初恋の人の名前等、難しいことも上の紙のすり替えで当てられますが、本人に書かせて当てることもでき、この場合すり替えは不要です。
やり方はいろいろ考えられますが、また感圧紙を使ってみましょう。

1と2は普通の紙、3と4は感圧紙です。重ねて、メモ帳等に仕込み、生年月日、好きな動物、母親の名前を書いてもらいます。
客に紙(1)を取って丸め、握っていてもらいます。
4枚目に写っている内容をこっそり見れば、当てられます。

もっと便利なマジックグッズを使う人もいます。たとえば、このクリップボードにはさんだ紙に書いてもらったら、内容が全部、離れた所のディスプレーに映ります。
https://www.youtube.com/watch?v=O3_GKVmlD_Y

最新バージョンは、自分のアイフォンにも映せるようです。

マジックグッズでなくても、電子ペンを使えば、同じことができます。ペンの形状がちょっと変わっているのが難ですが。
https://www.youtube.com/watch?v=qHD5z9KcKUQ

●すり替え無し、紙にも書かないのに当てられたら?
カオサンロードは、トリックの余地無く母親の名前を当てる占い師がいることで有名です。インドの観光地のホテル周辺でもそういうことがあるようです。
当てられるのは、観光客で、付近のホテルやゲストハウスに泊っている人です。
推測すると、どうも、占い師に情報を流しているホテルやゲストハウスがあるようです。
なぜなら外国人が宿泊する場合、フロントはパスポートの提示を要求し、コピーをとったりスキャンしたりします。
パスポートには本人の名前、写真、生年月日等が印刷されているし、あと、「緊急連絡先」という欄があります。in case of accident notifyとか、emergency contactとか、どこの国のパスポートにもあって、自分で書き込むようになっています。
ここに母親の名前を英語で書いていたら、そして占い師に母親の名前をいきなり当てられたら、自分のパスポートのコピーが占い師に渡っている可能性を考慮してよいかもしれません。

●連れと別々にされ、トリックの余地なく当てられたら?
たとえば夫婦が占い師の二人連れに会い、別々に、占い師一人ずつと相対することになった場合。
連れが何を話しているのかわからないほど離れた場所に誘導されたら、そこにトリックがあります。一人からもう一人の個人情報を聞き出し、その情報を二人の占い師が通信機器を使って共有し、読心術ができるふりをしている可能性があります。

●占い師ヨギ・シンの正体は?
本人たちに聞くと、「○○アシュラムに属している」とか「○○テンプルに属している」とか言いますが、真偽は不明です。
シーク教徒のしるしであるターバンを巻いているのに、ヒンズー教的な話をしたり、ヨガ行者だといいながらもヨガの知識が乏しい人もいるからです。
何か大きな組織があって、マニュアルがあるのか、それともそんなものは無くて、口コミで手法が広がった個人営業者集団なのか?
誰か知ってたら教えて下さい。

●本物のサイキックはいるのか?
インド人占い師はトリックを使う詐欺師と、ネットではさんざんな評判ですが、中には、占いがすごく当たっていて感銘を受け、電話番号を教えてもらって時々相談しているという人もいます。
中には本物の占い師もいるのかもしれません。

あまりの詳細な分析に、驚きが止まらない。
好きな数字なら3、好きな花ならRose、という部分については、思い当たることがあった。
少し前に読んだ「インド大魔法団」(山田真美著、清流社、1997年。この本、めちゃくちゃ面白いのでいずれ詳しく紹介します)という本の中で、インドのマジシャンがこんなことを言っていたのだ。

「ひとつ単純な手品を例にとってお話ししましょう。まず一枚の紙切れを用意して、そこに誰にも見られないように〈薔薇、3〉と書いてください。そしてそれを机の上に伏せて置きます。次に、目の前の人にふたつの質問をするんです。ひとつめは〈あなたの好きな赤い花は何ですか〉。ふたつめは〈一から五までの間の数字を言ってください〉。すると興味深いことに、大多数の回答者は迷わず〈薔薇〉、〈三〉と答えてきます。こうなったら魔術師の思うつぼ。〈あなたの答えは初めからわかっていました。何を隠そう、私には予知能力があるのです〉。そう言って、おもむろに紙を表向きにしてやりましょう。びっくり仰天されること請け合いですよ」

「ただし、この手品には重要なポイントがあるのです。第一に、相手に考える時間を与えないということです。〈好きな赤い花は?さあ、すぐに答えて?〉という具合に、早口で急かすように問いかけるのがコツです。赤い花といえば大半の人が瞬間に薔薇を思い浮かべる、その反射神経だけを利用した手品なのですから。(中略)
二番目に大切なのは言葉の使い方、つまりレトリックの問題で、〈一から五までのあいだの数字〉という風に、〈あいだの〉というところを強調して質問するのがコツです。すると、質問された人は無意識的に、一から五までの数字のちょうど真ん中にある数字、すなわち三を選ばされてしまうのです」


これは、mixiに投稿した人物が書いているのと全く同じ手法である。
『インド大魔法団』によると、物理的なトリック無しに相手の心のうちを読む方法は、インドのマジシャンたちの間では、素人にタネを明かしても問題がないほどに知られているようであり、同じ技法をヨギ・シンが使っていたとしても、全く不思議ではない。

まずは最大公約数的な答えを紙に書いておき、そのうえで、万が一相手が予想外の回答をしたときには、「すり替え」のテクニックを使って予言を的中させるというのは、じつに合理的なやり方だ。
「すり替え」のトリックは、以前私が調べた「ヨギ・トリック」の技法を使えば可能である。
(ちなみに、mixiの投稿にあったような、答え合わせのときに必要だからと言ってヨギ・シンが答えをあからさまにメモするという話は、私が知る限りでは聞いたことがない)

さらに、母親の名前をあてるトリックについての考察も筋が通っている。
「ヨギ・シンに母親の名前を当てられた」という報告は多くあり、そのなかには、自分が母親の名前を伝えていないのに的中されたというものもあったのだが、ホテルやゲストハウスから情報を得ていると考えればこれも説明がつく。
ヨギ・シンが、自らの予知能力にリアリティーを持たせるために、複数のテクニックを組み合わせているとしたら、彼らは怪しげな詐欺師に見えて、実はかなり熟練したパフォーマーだということになる。

「シーク教徒のしるしであるターバンを巻いているのに、ヒンズー教的な話をしたり、ヨガ行者だといいながらもヨガの知識が乏しい人もいる」という指摘に関しては、留意すべき部分があるだろう。
インドのローカル文化においては信仰を超えて宗教的文化が共有されていることもあるし、「ヨギ」という言葉は、ヨガ行者だけでなく、より広い意味での行者や聖者を指すこともある。
つまり、この部分だけで彼が「シク教徒」や「ヨギ」であるということがフェイクだとは言えないのである。
インドの人々が、危険から身を守るため以外の理由で(例えば、特定の宗教が暴力的に弾圧されているような状況以外で)他の信仰を騙ることは考えにくいように思う。
私の考えでは、彼らは紛れもなくパンジャーブにルーツを持つシク教徒だろう。

彼らが「本物かどうか」という問いは、「何をもって本物とするか」ということも含めて、ナンセンスであるように思える。
プロレスラーが格闘家であるのと同時にパフォーマーであるのと同じように、ヨギ・シンも占い師であると同時に手品師でもあり、見方によっては聖人でもあり詐欺師でもあると考えるのが、私にはしっくりとくる。

それにしても、最後にさらりと書かれている「電話番号を教えてもらって時々相談している人もいる」という情報には驚いた。
私はヨギ・シンは尻尾をつかまれないためにも連絡先の交換などはしないと思っていたからだ。
じつはこれについては、さらに驚くべき情報を見つけてしまったので後述する。

これを書いた人物は、いったいどうやってこれだけの情報を集め、仮説を組み立てたのだろうか。
情報集めはインターネットを駆使してできるとしても、ここに書かれているかなり詳細な仮説については、一朝一夕に考えられるものではない。
マジックグッズにかなり詳しいことを考えると、この人物もマジシャンなのだろうか。
あらゆる状況を想定してトリックを推理しているところを見ると、この人物も相当な熱意を持ってヨギ・シンの謎に取り組んでいるということが分かる。
(個人的には、通信機器やハイテク機器を使ったものに関しては、あまり可能性がないのではないかと感じているが)
今から7年以上前の書き込みではあるが、この人物がいったいどうやって情報を集めたのか、その後ヨギ・シンの正体に迫るより詳しい情報をつかむことができたのか、機会があればぜひ伺ってみたい。


今回、ヨギ・シンに関する日本語の情報を収集するにあたり、もう1件面白い書き込みを見つけた。
2014年1月22日に、「Yahoo!知恵袋」へのこんな投稿である。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13119851783

この筋書き通りでした。このドケチな私が500ドル(5万円くらい)払いました。
今日遅めのランチをとりに会社を出たときに、インド人が私を見てハッと立ち止まり、You are Lucky と話しかけてきました。結構綺麗な身なりをしていたので、疑うこともなく話を聞きました。
名前はヨギシンでした。彼は、インド訛りの英語で
○「あなたは会社で非常に疲れているのだろう、おそらく自分の出した結果ほど評価されていないのでイライラしている。(その通り)」
○「幸せそうに振舞っているが、心は幸せではない(まぁ当てはまる)」
○「あなたは自分の会社を興すであろうし、それがもう少しで花開く(ネットショップ準備中)」
○「あなたは人に何か言われて何かするよりも、自分で引っ張っていきたいタイプ。(まぁ)」と聞いてもいないことをベラベラと勝手にしゃべり始めて、それが以外に合っていたので、私が驚いていると、まだ話したいことがあると、近くのコーヒーショップで話をすることになりました。

好きな花、番号、母親の名前、主人の名前を当てたら、報酬として金をよこせと。
金持ち500ドル、中流300ドル、貧乏人100ドルでした。

手帳みたいなのをもってて、そこに神様の写真と、恵まれない子供の写真が入っており、
そこにお金をいれろと言ってきました。

ここでピン!と昔シドニーでもヨギシンに会った事を思い出し、シドニーにも行った事あるんじゃないかとしつこく聞くと、オーストラリア、イギリス、カナダと英語圏の滞在を認めていました。

手持ちのお金がないといったら、私も丁度ATMに行く用事があったので、ATMまで一緒についてきました。
断らずになぜか私もお金を渡してしまいました。

10年前にシドニーで全く同じことがあり、思い起こせばその時も100ドル払いました。
今回はシンガポールで、ヨギシンと遭遇。疑うことなく、500ドルを渡してしまいました。

さらに、私がお金をもっていると思ったのか、どんどん要求が増えてきました。

○ 黒魔術にかかっているので、それを取り払ってやる
○ 明日ランチを一緒にしないか、そして携帯電話をひとつかってくれ
○ ディナーをおごってくれ
○ 今晩、会わないか

ここらへんから、ちょっと怪しいなと思いつつも、金返せとは言えず話だけ聞いて
you are so lucky to get the money from the most stingy person like me. 私みたいなドケチからお金をもらえてラッキーだね。と伝え、ヨギシンは別れ際に赤い石をくれました。やっぱ騙されたのかな。私疲れてたんだわきっと・・・

補足
さっき電話がかかってきて、ものすごいパワーの黒魔術にかかっているそうです。
至急取り払う必要があると言っていました。

なぜか「暮らしと生活ガイド>ショッピング>100円ショップ」のカテゴリーに書き込みされたこの投稿(もはや質問ですらないが)は、ネタだと思われたのか、まともな回答はひとつもついていないが、ヨギ・シンのことを知っている人が読めば、これが実際の体験談であるということが分かるだろう。
冒頭の「この筋書き通りでした」が何を指すのかは不明だが、前述のmixiの投稿のことを指しているのかもしれない。
それにしても驚かされるのは、この文章を書いた人物が、シドニーとシンガポールで2回ヨギ・シンに会っているということ、そして、ヨギ・シンから頻繁に連絡が来て、食事に誘われたり、口説かれたり(?)しているということだ。
またしても秘密主義だと思っていたヨギ・シンの印象が覆される情報だ。
これも、500ドルも支払ったという「太客」だからだろうか。


ヨギ・シンの出没情報と、遭遇報告(もちろん過去のものでも大歓迎)については、今後も募集し続けるので、ぜひコメントかメッセージを寄せてください! 
また、今回紹介したmixiやYahoo!知恵袋の投稿をした方をご存知でしたら、ご連絡いただけたらうれしいです。

ヨギ・シンについては、その後も地道に調査を進めています。
また何か書けるとよいのだけど。

ひとまず今回は、これまで!


(続き。ついに明らかになるヨギ・シンのルーツに迫ります)


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goshimasayama18 at 20:35|PermalinkComments(0)

2020年02月03日

2月29日(土)狛江プルワリさんにて「ヨギ・シン」とインド音楽(ただし古典でも映画音楽でもないロックやヒップホップやダンスミュージック)の夜 開催!



4年に一度の2月29日(土)、狛江の「印度料理プルワリ」さんにて、またまたイベントを行います!
企画名は"Indian Night".
今後、プルワリさんではこの名前でインド関連の様々なイベントをやってゆく予定だそうで、私もちょくちょく協力させてもらうことになると思います!
皆さんお楽しみに。


【Indian Night】
2月29日(土)印度料理プルワリ (狛江駅からすぐ)
https://phoolwari.co.jp/
18:30open 19:00start
1,500円(軽めのビュッフェつき、1ドリンク別)
 
phoolwari
(プルワリさんのサイトから。当日はここまでがっつりでなく気軽につまめる軽食スタイルだと思いますが…)


今回のテーマは、ずばり「ヨギ・シン」と「ノレるインドのインディー・ミュージック」!

前半は、このブログでも何度も特集している、世界中に出没する謎のインド人占い師集団「ヨギ・シン」についてたっぷりお届けします!

ヨギ・シンの「発見」からまさかの「来日」「遭遇」、さらにその正体の考察まで、話すので、「ヨギ・シンって何?」という人も大丈夫。
さらに、今回は、まだブログには書いていない彼らが使う「トリック」の秘密、そして100年近くにわたって世界中に出没している彼らのルーツ(と思われる情報)についても紹介。
未公開写真など、ここでしか聞けない、見られない情報も用意してます。
ヨギ・シンの謎と不思議を、あますことなく紹介します!
ヨギ・シンのファン(いるのか?)はもちろん、単純に不思議で面白い話が聞きたい人も満足できること間違いなし!

後半は、食事も落ち着いてきたところで、インドのロック、ヒップホップ、ダンスミュージックなどのミュージックビデオを流してトークします。
今回はお店のマダムからのリクエストで、「ストレスが発散できそうな、ノリのいい、盛り上がりそうな曲」を中心にかける予定!

映画音楽や古典音楽ではない、インドの音楽好きの若者たちが作ってる等身大のかっこいい音楽を紹介しまくります。
いかにもインドっぽい曲から、言われなければイギリスあたりのアーティストと間違えそうなもの、とにかく激しいやつ等、いろいろ取り揃えてお届けします!
飲みたい方は好きなように飲んで盛り上がってください!
(私も何か飲みながらやるつもり)

会場のプルワリさんは、デリー出身のシェフZakirさんが腕を振るう北インド料理のお店!
マトンもベジ料理もかなり美味しいです。
アットホームな雰囲気の気さくなお店です!

Phoolwari2

2月29日(土)
18:30open 19:00start
1,500円(軽めのビュッフェつき、1ドリンク別)

お越しいただける方は、ブログのメッセージからでも、TwitterのDMでも、Facebook経由でメッセンジャーでも、それぞれにコメントを残してくれてもOKです!
みなさんにお会いできるのを楽しみにしています!
当日は楽しみましょう!!



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goshimasayama18 at 21:26|PermalinkComments(2)

2019年12月31日

2019年を振り返る

早いもので、あっという間に2020年がやって来る。
昭和生まれで、ノストラダムスの大予言に怯えながら幼少期を過ごした自分としては、一応無事に2020年まで生きてこられたってことがまずびっくりなわけだが、さらに驚くのは、この1年で私の「アッチャー・インディア」を読んでくれる人がずいぶん増えたってことだ。

インドのロックやヒップホップという極めてニッチかつマイナーなテーマのブログを開設した当初は、自分しか価値の分からない宝物を掘り出しては磨いて並べているような気分になったものだった。
隣のインド映画の鉱山には大勢の採掘人が集まり、買い付けのお客さんたちで賑わっているのを横目に、「ヒンドゥーのエミネム」とか「アンチカーストのデスメタル」なんていう掘り出し物を陳列しては、ヒマにまかせて並べた品にはたきをかけたりチャイを飲んだりしていたはずなのに、気がついたらこの1年でずいぶんお客さんが来てくれるようになっていた。
(お読みくださっているみなさん、ありがとうございます)

そりゃもちろん、もはや日本でも完全に人気の定着したインド映画と比べたら、インドのインディー音楽は認知度も人気も遠く及ばないが、それでもかつてのように1日の訪問者数が1ケタなんてことは無くなったし、普通の日で数十人、多い日には数百人の方がこのブログを読んでくださるようになった。
1日で千人近い人が読んでくれたこともある。
この1年は多くの出会いに恵まれた年でもあって、インド研究者の方々、インドの各方面で活躍されている方々、さらには映画、音楽、出版、芸能などの世界で活躍している方々とお会いする機会もあり、じつは普通の勤め人のおっさんである私は大いに刺激をいただいた。
あらためてみなさんに感謝する次第です。

また、1月の映画『あまねき旋律』の上映後トークショーをはじめ、8月のマサラワーラー鹿島さんとの"Indian Rock Night"、 10月のサラーム海上さんとHirokoさんとの"Gully Boy -Indian HipHop Night-"、11月の狛江プルワリさんでのイベントと、ブログの画面を飛び出して、みなさんに直接お話しする機会を何度もいただけたのもありがたかった。

あんまりお礼ばかり書いていると遺書みたいな感じになってくるのでこのへんでやめておくが、とにかく私の2019年は本当にいい1年だった。
じつは今年は厄年、しかも本厄ってやつだったのだけど、そんなことは一切感じなくて、もう良いことしかなかった。
最後にもう1回、改めてみなさんに感謝申し上げます。


インドの音楽シーンでの今年いちばんの話題は何かと考えてみると、それはやはりNaezyとDivineをモデルにしたインド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』の公開だろう。
それまで、ごく一部のファンしか聴いていなかったインドのストリートヒップホップが、ボリウッドのトップスターであるランヴィール・シンの主演で映画化されるという異常事態は、インドのインディーミュージック史上最大の出来事と言ってもよいかもしれない。
2月の本国での公開以降、インドのヒップホップシーンは空前の盛り上がりを見せた。
映画の内容も素晴らしく、早々に開催された日本での自主上映で鑑賞した私は、見終わった後しばらく立ち上がれないほどの衝撃を受けた。
そしてまさかインドでの公開と同じ年のうちに、ここ日本でも公式上映されるとは思わなかった。
『ガリーボーイ』については何度も書いているが、とくに気合を入れて書いたのはこのあたり。

最初に見たときの感想


日本での公開が正式に決定した時期に書いたもの


麻田先生、餡子さん、Natsumeさんのリリック翻訳プロジェクトも掲載させてもらった




インドの音楽シーンを見渡すと、『ガリーボーイ』効果もあって、今年はヒップホップシーンがとくに元気だった印象。
ヒップホップについてはずいぶん書いた。
正直にいうと、これまで欧米や日本のヒップホップの熱心なリスナーでは無かったのだが、インドのシーンを通して、このカルチャーの魅力にあらためて気づくことができたのは自分にとって大きかった。

まずは、これまでのインドのヒップホップの歴史を自分なりにまとめたもの。
インドのヒップホップシーンの変化は本当に早く、Divineらによって巻き起こった「ガリーラップ」のムーブメントすらもはや過去に感じるほどだ。 


映画『ガリーボーイ』ではムンバイ最大のスラム、ダラヴィが舞台となっているが、こちらはデリーのシーンを引っ張るAzadi Recordsの紹介。
積極的な活動は現在も相変わらずだが、ここでも紹介している鬼才トラックメーカーのSez on the Beatはすでにレーベルを離れている模様。


インド本国のヒップホップブームは海外のインド系ミュージシャンにも飛び火し、これはアメリカで活動しているプロデューサーによる作品。
音楽的にも、「ガリーラップ以降」の世界的な潮流との同期を感じさせる内容だ。


こちらはイギリス在住のパーカッショニスト/ジャズミュージシャンがインドのヒップホップ界隈のミュージシャンと作ったアルバム。
ヒップホップアルバムというよりは、ジャズとインド音楽の融合といった色合いが強いが、大傑作!


地元言語のシーンとは別に、英語のヒップホップはかなり洗練されたサウンドを聴かせるアーティストが多い。
インドの音楽シーンにおける日本のカルチャーの影響についてはずっと注目して来たが、この生地で紹介しているHanumankindの"Kamehameha"には驚かされた。



日本文化の影響を感じさせる曲といえば、このSanjeeta Bhattacharyaの"Natsukashii"はいい曲だった。
彼女はボストンのバークリー音楽院出身。
国内の才能も育って来ているとは言え、彼女のような留学組や帰国子女、NRI(海外在住インド人)のインドの音楽シーンにおける存在感は、やはり大きい。



日本との関わりで言うと、じつは彼らは日本の音楽に影響を受けたわけではないようなのだが、なぜか現地で「Jポップ」として紹介されている北東部ミゾラム州のバンド、Avora Recordsも印象深かった。
「インドのJポップバンド」という肩書きが面白かったのか、彼らのことを紹介した記事はこのブログ始まって以来の瞬間最大風速(1日あたり閲覧数)を記録した。
 


インドのミュージシャンの来日公演が相次いだのも印象的だった。
今年はケーララのスラッシュメタルバンドのAmorphiaや、ムンバイの女性ドリーミーポップデュオGouri and Akshaのように、アーティスト本人のネットワークを活かして来日した例や、高松で行われたアカペラの大会に来日したAditi Rameshを擁するVoctronicaなどが日本のステージに立った。
コアなファンを持つ音楽に関しては、もはや国籍や国境はほとんど意味を失ったと言えるだろう。(それでも、さまざまな面で「インドらしさ」が溢れるミュージシャンが多いこともまたインドのシーンの魅力なのだが) 

来日といえば、ヨギ・シン!
かねてから個人的に注目していた謎の占い師集団、ヨギ・シンが11月に丸の内で活動していることが確認され、連日捜索に出かけた顛末は熱を込めて書かせてもらった。
その正体をつきとめるには至らなかったが、今回の来日、そしてその後の調査で、彼らのことはかなり分かってきた。
とくに、前回の記事で書いた通り、その「占い」のトリックに肉薄できたことは大きな収穫だった。
これからもヨギ・シンについては書いてゆきます。




音楽以外の話題では、こんなインド文化論みたいなものも書いてみた。
インド人のこうした「文化的貪欲さ」みたいなものからは、学ぶところが大きいと個人的に感じている。



音楽以外では、今年は映画について書いたものも多かった。
『ガリーボーイ』 以外では、『パドマーワト』『バジュランギおじさん』『ヒンディー・ミディアム』『カーラ』なんかについて書いている。
本音を言うと、昨今のインド映画ブームに乗っかってレビューを書いたら読者数が増えるかもしれない、という下心も多少あって、映画に関してはほぼ知識ゼロにも関わらずダメモトで挑戦してみたのだけど、作品の力なのか、見れば何かしら語りたいことが出てくるもので、調子に乗ってずいぶん書いてしまった。
うれしいことに、音楽をテーマにした『シークレット・スーパースター』ではパンフレットに寄稿する機会までいただいた。
映画に関しては私なんかより詳しい人がゴマンといるし、今後もあくまでメインは音楽でやってゆくつもりだが、またインド映画を見たら何か書きたくなっちゃうんだろうなあ。


今年紹介したミュージシャンのなかで、個人的にもっとも印象に残っているのはプネーのバンドEasy Wanderlingsだ。
彼らのような洗練された音楽性のドリームポップ/フォークロックバンドはインド国内にも何組かいるが、海外のレーベルと契約しているParekh and Singh(コルカタ)や、海外公演の経験もあるWhen Chai Met Toast(ケーララ)と違って、Easy Wanderlingsはまだ知る人ぞ知る存在。
だが、優れた楽曲センスはもちろん、演奏力やハーモニーなどを含めて、彼らの音楽の心地よさは一級品で、もし自分がカフェを経営するなら、彼らの曲をずっと流しておきたいくらいだ。
彼らについては、4月にインタビューを含めた記事を掲載し、12月には素晴らしい新曲とアニメーションのミュージックビデオを取り上げた。
音楽性はもちろん、詩的かつ哲学的な歌詞のセンスも素晴らしい彼らに、ぜひ注目してほしい。





まあそんなこんなで、今年も1年間ありがとうございました。
これ以外の記事も一応がんばって書いてみたつもりです。
過去の記事が探しにくいのがこのブログの欠点なのですが、もし良かったらいろいろと読んでいただけたらうれしいです。

というわけで、2020年もよろしくお願いします!



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goshimasayama18 at 06:18|PermalinkComments(0)

2019年12月30日

知られざる魔術大国インド ヨギ・シンの秘術にせまる(その2)

前回の記事(その1)はこちらから


インドが知られざるマジック大国であることを発見した私は、ヨギ・シンの手がかりを求めて、インドの伝統的な奇術やマジシャンについて調べ始めた。
どんなジャンルにも専門書はあるもので、Lee Siegelという作家/宗教研究者が書いた"Net of Magic : wonders and deceptions in India"という本(1991年、Chicago University Press)は、デリーのShadipurという地区で暮らすマジシャン・カーストの様子がいきいきと描かれていて、大変面白かった。
この本によると、マジシャンになれるのはマジシャン・カースト内に生まれた人間に限られており、たとえ彼らが孤児を迎えて育てたとしても、孤児はあくまでも助手の役割しかすることができないという。

インドのマジックは、単純なショーというより、「神の奇跡」を模して演じられる。
興味深いことに、ときにはマジシャンが「占い」を行うこともあるようだ。

マジックショーは神の名を唱えることから始まる。
彼らのショーの中で、例えばオモチャの鳥が本物の鳥になったり、死んだ人が生き返るというマジックが披露されるとき、それは神による奇跡だという演出がなされる。
また、この本には息子が親の決めた結婚に従わないという相談に対して、マジシャンが魔法の実(ここではライム)を渡して、心変わりをさせるまじないを教えたりする場面も描かれていた。
インドでは、マジシャン、占い師、超能力者の境界は、きわめて曖昧なのだ。

この虚実が一体となった世界は何かに似ていると思ったのだが、考えてみたらそれはプロレスだった。
プロレスは、身もふたもない言い方をしてしまえば、屈強な男たちが、闘いを「演じる」興行なわけだが、その強靭に鍛え上げられた肉体から繰り出す技の基礎には、競技名からも分かるとおり、レスリングの技術が存在している。
シュート(リアルファイト)の技術のあるアスリートが、「パフォーマンスとしての戦い」をするというわけだ。
さらには、個々のプロレスラーのキャラクターについても、虚実が複雑に絡み合っている。
例えば、インド系の伝説的プロレスラー、タイガー・ジェット・シンは、地元カナダでは小学校にその名が冠せられるほどの名士でありながら、リング上ではヒール(悪役)として非道の限りを尽くすというキャラクターを演じている(タイガー・ジェット・シンについては、近々何か書くつもり)。
全てをリアルとして手に汗握ることも、虚構と割り切ってショーとして楽しむこともできるのだが、完全に虚構とは言い切れない何かがそこにはある。
この構造はインドのマジックと全く同じだ。

虚実といえば、マジシャンたちは自身の信仰に関係なく宗教を演出に取り入れているようで、例えばムスリムのマジシャンが、ヒンドゥーの神話や神の名をパフォーマンスで口にすることもあるという。
ヒンドゥーのなかにもムスリムのなかにもマジシャンは存在しており、彼らはときに同じ伝統を共有している。
ということは、シク教徒の占い師ヨギ・シンも、マジックとトリックと超能力が渾然一体となった、インドの大地の魔術文化のなかにいると言ってよいだろう。

マジックについての調査を続けるうちに、ヨギ・シンが行なうようなマジック(相手の心を読む)は、ひとつのカテゴリーとして確立しているということが分かってきた。
「カードマジック」とか「ステージマジック」のようないちジャンルとして、相手の心を読むことを主眼としたマジックの専門家が、世界中大勢いるのだ。
このジャンルについて調べてゆけば、きっと彼に近づくことができる。 
そう確信して調査を続けることにした。

ここで少し言い訳をさせてもらうが、ここから先、いよいよヨギ・シンが行う秘術の核心に触れることになる。
ところが、彼らが行う占い(というかマジック)の、いわゆるタネについて、どう書いたものか、未だに結論が出せずにいるだ。
ヨギ・シンと世界中のマジシャンたちの共通財産でもあるそのトリックを、軽々しく公開すべきでないだろう。
だが、それを書かなければ、ヨギ・シンの本質について書くことはできない。
なんとももどかしいジレンマだが、書ける範囲で書くことにすることをご容赦いただきたい。


人の心を読むことをテーマとしたマジックについて調べ始めて間もなく、ヨギ・シンが使う手法によく似た技法を見つけることができた。
それはこんな演出のマジックだ。

マジシャンは、お客さんの中から一人を選び、好きな数字(数字以外、例えば親や恋人の名前でも、持っているお金の合計金額でも何でもいい)を頭の中でイメージしてもらう。
次に、マジシャンはお客さんの心を読むふりをしてメモ用紙に何事かを書きつけると、書いた面がお客に見えないように自分の側に向けて、メモを体の前で保持する。
続いて、お客さんに、その想像した言葉を大きな声で口にしてもらう。
そこで隠していたメモ用紙を開示すると、なんとそこには、たった今お客さんが言った内容がそっくりそのまま書かれている。
(マジシャンが紙に何かを書いたのは、お客さんが答えを言う前だったのに!)

このマジックとヨギ・シンの「占い」の違いは、ヨギ・シンの場合、最初に書いた紙を自分が持つのではなく相手の手の中に握らせるという部分だ。
だが、それ以外はほぼ全く同じであり、ヨギ・シンもこのマジックを応用しているはずだと考えて良いだろう。
このマジックのルーツが分かれば、彼らがどうやってこの技法を自分たちのものにしたのか、その歴史が分かるかもしれない。

だが、それは調べるまでもないことだった。
なぜなら、このマジックの名前そのものが、この技のルーツを、何よりも雄弁に語っていたからだ。
「ヨギ・トリック」。
本当はこの名前ではないのだが、タネ明かしやネタばらしを避けるために、ここではそう呼ぶことにする。
(読んでくださっているみなさんには申し訳ないが、やはりここでヨギ・シンやマジシャンたちのメシの種を奪ってしまうことはできない。以降、この技術の本当の名前やトリックの核心には触れないが、極力ヨギ・シンの謎に迫れるように書いてみる)
このマジックには、欧米で生まれたのではなく、インドの占い師やグルたちによって作られたことが一目で分かるような名前がつけられていた。
しかも、この技法について解説したウェブサイトには、この「ヨギ・トリック」は「もともと読心術や降霊術等に使われていた」という記述まであった。
間違いない。
この「ヨギ・トリック」も、インドのマジシャンや占い師によって編み出され、やがて世界中に流出した技術のうちのひとつなのだ。

マジシャンのJames L. Clarkが執筆した"Mind Magic and Mentalism for Dummies"という本によると「ヨギ・トリック」の起源は、歴史の中で失われてしまっているものの、1898年にWilliam Robinsonなる人物が"Spirit Slate and Kindred Phenomena"という著書でそのトリックを紹介した頃には、この技はすでにマジシャンたちに知れ渡っていたという。

このWilliam Robinsonという男が、ヨギ・シンたちの技術を欧米のマジシャンに広めた「犯人」の一人なのだろうか。
そう思ってこの男について調べて見たところ、彼もまた一筋縄ではいかない人物だった。

William Robinsonは、20世紀初めのイギリスで人気を博したアメリカ人のマジシャンだった。
彼は、Ching Ling Fooという中国人マジシャンから着想を得て、自らも東洋人のギミックを使うことを思い立つと、中国風のメイクを施し、髪を辮髪に結い上げてChung Ling Sooというキャラクターを演じて大人気となった。
フーディーニがキャリアの初期にインド人マジシャンを装ったように、彼もまた東洋のミステリアスなイメージを演出に取り入れたのだ。
彼の中国人ギミックは、舞台上では決して英語を話さず、取材の際も通訳をつけて対応するというほどの徹底ぶりだった。
彼の生涯は、その死に様まで記憶に残るものとなった。
1918年3月23日、彼はショーの最中に銃弾を受け止めるマジックに失敗して命を落としたのだ。
死後に身元を調べて、彼がじつは白人だったことを知った人々は大いに驚いたというから、彼もまた虚実皮膜の人物だったのである。
19世紀の早い段階から、パンジャーブ地方のマハラジャをはじめとするシク教徒たちはイギリスに移り住んでいたようだから、ひょっとしたら彼は「ヨギ・トリック」をインド人のマジシャンか占い師から学んだのかもしれない。

いずれにしても、この「ヨギ・トリック」について調べるうちに、そのタネについては大まかに理解することができた。
だが、それでも疑問は残る。
このトリックでは、占い師(手品師)自身が手にしているメモに、相手が思った言葉を書きつけることはできても、トリックをかける相手自身が握っているメモに書くことはどうしても不可能なのだ。
さらに、1993年にバンコクで高野秀行氏が遭遇したヨギ・シンは、高野氏の小指の付け根あたりに、「好きな数字」を青色で浮かび上がらせるという技まで披露したという。
また、デリーでヨギ・シンらしきターバン姿の占い師に遭遇したという人からは、自分が言葉で伝える前に、母親の名前や兄弟の数を的中させられたという報告もあった。
どうやらヨギ・シンは、私が調べた「ヨギ・トリック」だけではなく、複数の技法を組み合わせて、「占い」をしているらしい。
その中に本物の超常現象が含まれている可能性も、完全に否定することはできない。 

世界中のマジシャンたちが、古くから「ヨギ・トリック」を自らのショーに取り入れて、観客を驚かせ、喝采を浴びている一方で、本家のヨギ・シンたちは、今日も旅先の異国の街で、あくまでも占いを装い、詐欺師と呼ばれながら生業を続けている。
現代のマジシャンたちは、「ヨギ・トリック」のタネを知っていても、いまだにそのルーツとなった集団が世界中を旅して、「占い師」として生き続けていることをほとんど知らないだろう。
ヨギ・シンと会い、その不思議な技に驚かされた(そしてお金を巻き上げられた)人も、彼らが歴史ある流浪の占い師集団であることも、そのテクニックが今ではマジック界で広く取り入れられていることも知らないだろう。

ヨギ・シンの「魔術」を暴くことが野暮で無粋とは知りつつも、ここまで深く彼らのことを知っている人間は自分の他にはいないかもしれないという思い上がりから、この記事を書いた。
彼らは100年以上に渡る不思議な伝統を保持して生きる集団でありながら、これまであまりにも大切にされてこなかった。
インドでは100年以上にわたる伝統を守り続ける集団は珍しくもないと思うが、それにしても、技術を搾取され、今も不安定な身分で世界中を渡り歩いて暮らす彼らには、そろそろ正当な評価が与えられても良いのではないだろうか。
100年以上にわたってグローバリゼーションの波間に揺られてきたヨギ・シンたち。
果たして100年後も、世界中の街角で彼らに出会うことができるのだろうか。


ヨギ・シンについての、マジックの分野からの記事はひとまずこれでおしまい。
彼らには、これからもまた別の角度から迫ってみたいと思います。
そして、100年後と言わず、今すぐにでも彼らに再会したい。
強くそう願っています。


(続き。ヨギ・シンの謎に深く迫っていた謎の人物について)



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